PR
Calendar
Keyword Search
Free Space
Freepage List
Category
換羽が派手に展開中だが、基本的には平穏な日が続いている。
周囲の空気を読まずに産卵し抱卵しているポン・アイ夫婦や、夫の換羽も関係なく産卵しているエコも健康に問題は無さそうだ。問題は、この機を逸して、今後いつ換羽になるかだ。
その点、夫キューが換羽なのに産卵を続けようとしていたニッキは、産卵を途中でやめて換羽モードに切り替わったようだ。他もこうあって欲しいところだ。
【余談~花咲く旅路に虹の橋~】
まったく唐突に、原由子さんの『花咲く旅路』を聞きたくなった。どこかにCDがあるはずだが、ユーチューブの動画を探したら、夏川りみさんがカバーしているものがあった。夏川さんと言えば、『涙そうそう』をカバーして、作詞者の森口良子さんや作曲者のBEGINさんよりも評価を受けられた方だ。個人的な趣味としても、あの歌は夏川さんのもの以外ではなくなっているが、作詞者も作曲者も、あれほど見事にカバーしてもらえれば本望であろう。
となれば、『花咲く旅路』の カバー
も、オリジナルを超えているかもしれない。聴いてみた。・・・期待にたがわず実に見事であったが、やはりこの歌は原さんのもののような気がする。そこで原さんの オリジナルバージョン
を聴いてみた。・・・思わず涙ぐんだのは、年をとった証拠だが、通常有り得ない不思議なことであった。
やはりこの曲は、ボーカルとしての力量なら夫の桑田佳佑さんの上を行くものがあったと、個人的には信じて疑わない原さんでなければならないようだ。ようするに、横浜関内の天ぷら屋の娘で、『あの』お嬢様学校であらせられるフェリス女学院高校をご卒業後、『あの』青山学院大学に入学されてバンド活動に専念、当然の帰結のように『あの』桑田さんと結婚して、お子様にも恵まれ、いろいろあったはずだが表には出さず、公私共に一緒にご活躍中という、普通に考えれば余人では絶対に真似が出来そうもない芸当を、エヘラヘラと『あの』笑顔でこなしてしまう原坊という恐るべき人物が、自然体なのかそれを装っているのか、その境界すら分からぬ調子で唄うべき作品なのだと思う。
第一、夫がそのような妻のために作詞作曲しているのだから、さすがの夏川さんでも超えることのできない世界観であっても、これは当然なのである。何しろ、唐突に出現する「照らそうぞ」とか「道無きぞ」などと言う、およそ女性ボーカルが唄うには不向きな、古めかしく硬い歌詞部分も(普通なら「照らそうよ」「道無しの」だろうが、この『国定忠治』か貫一お宮の『金色夜叉』のセリフ回しのような男性的語尾は、原さんの歌に多用される)、夏川さんのようにさらっと自然に唄うどころか、原坊らしさとして耳に残り、これは「ぞ」でなければならない気になるのである。
それで、なぜ、昔散々聴いた原さんの『花咲く旅路』で、今の私が危うく「涙そうそう」になってしまいそうになったのか。夏川さんバージョンで聞いていた時から、歌詞に「何処へと鳥は鳴き」とか「悲しみが虹を呼ぶ」というフレーズに、そう言えば、小鳥などペット動物の飼い主の一部の「信仰」に『虹の橋』というのがあるのを連想し、一時的な感傷状態になっていたのではないかと、自己分析したのであった。
『虹の橋』、亡くなったペット動物が、虹の橋で飼い主がやって来るのを待っている、といったものだ。このメルヘンを信じるなら、私などはきっとたくさん待たせていて、賑やかに虹の橋を渡ってあの世に行けそうに思われるかもしれない。しかし、あいにく、「待つな、さっさと行け!」と号令しなくても、ウチの文鳥たちに限っては、おそらくケツをまくって飛んで行ってくれたはずなので、待たせている罪悪感も、待ってもらっている安堵感もない。
『虹の橋』という愛するペットを失った人の福音にもなるメルヘンの起源については、アメリカ先住民の言い伝えをベースにしているとする噂があるようだ。しかし、これはどうだろう。現代の思考感覚を持つ1頭飼育の愛犬家が、今現在なくした悲しみの中で考え出したと理解した方が自然のような気がする。ただ、先住民の精霊信仰とまったく無関係であるかはわからず、その点でアメリカの『スタートレックヴォイジャー』というSFテレビドラマが思い出される。
1995~2001年にかけて172話が放映されたこのドラマは、24世紀に、ヴォイジャーという宇宙艦船が地球に帰還する過程を描いた作品で、いろいろと知的な宇宙人が登場したり、タイムスリップしたり、「ホログラム」と称してレオナルド=ダヴィンチが活躍したり、思い切り哲学的なテーマを取り上げてみたり、何でもありで楽しい。当然ながら、24世紀どころか240世紀になっても、このような話が実現するとは私自身は欠片も思っていないのだが、それはともかく、そのSFドラマ中にアメリカ先住民の血を引くチャコティ副長という人物が登場し、先住民の伝統的儀式である「ヴィジョンクエスト」を行っている。この一種の瞑想状態から自然と一体化し悟りの境地を求める「ヴィジョンクエスト」自体は、実際に先住民たちが行う儀式として存在するようだ。本来は山奥など自然の中で一人になって行う自己探求の苦行のようだが、『ヴォイジャー』の中では、装置の助力を受けて自分の精神世界に入り込むことで行われ、さらにその悟りへの旅路を導く「スピリットガイド」(魂の導き手、「守護霊」と訳されることが多いようだ)が存在し、それは一人一人で違った生き物の形で現われることになっている。
「スピリットガイド」を先祖の霊などとはせずに、何かしらの生き物の形で現われるとする辺りに、先住民族の精霊信仰の要素を見出せそうだが、一方で、飼い主の一人一人にかけがえのないコンパニオンアニマル(伴侶動物)が存在するといった、現在の先進国(欧米化した国々)における人間と愛玩動物の関係を反映している話のようにも思える。これは、やはり虹の橋という現代の伝説と共通した土壌から生まれた設定なのかもしれない。
文鳥にしろ何にせよ、生きている時は飼い主である人間のコンパニオンアニマルで、亡くなってからは飼い主であった人間のスピリットガイドとなり、飼い主が亡くなるまで待っていてくれて、亡くなったら一緒に虹の橋を渡ってくれるとは、何とありがたい話なのだろうか。しかし、やはり私の場合は、私が亡くなるまでにみんなで待ってもらっては心苦しい。虹の向こうに行っといてもらって、1羽くらい気が向いたらこっちに迎えに来てくれるくらいを望んでおこうかと思う。