奔るジャッドンたのうえ、追っかけ帳

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「真・パレアナの研究」8-15



 「他人は思い通り動かない」のが当たり前ですから、こういった人は結局いらいらして過ごすことになります。「他人」の中には、当然自分の子供も孫も含まれるのですよ。

 「リカちゃん、傘を持っていくのよ」といったふだんお母さん方が何気なく使っている言葉の中にも、実はこのミスパレーと同じ規則や義務を押しつけが潜んでいることにほとんどの人々は気づきません。

会社の社長さん方だって結構そう言う方おられます。特に成功者に多いのですが自分は苦労して成功した、といった自負や信念、手法で、自分の家族、社員、第3者をご当人が気づかなくとも縛っているといったことは結構よく見かけます。また自分の物尺をそういった高名な成功者に求めてフォローする人々も多いわけですから、ご自分では、役立ち、人助けと思っていらっしゃる。

 こうした社長の「私と社員一人一人が一丸となってなって成功した」といった講演など聞くと、これが事実であればこの会社は不幸だなぁ、と思ってしまいます。もちろん「正しいことだったら社員や他の人にも伝えてあげたっていいではないか」といったお考えがあってのことでしょうが、実はそのことが恐いのです。正しいこと(正義)は価値観であり、また反対概念として「誤り(正しくないこと)」があるわけです。

おおよそ、世の争いは正義を主張することから始まっていることを知っておく必要があります。また価値観の一元化が組織体を強くすることは事実ですが、それがまた硬直化を招き、崩壊が早くなるのもまた事実です。いろんな価値観を持つものを組織の中で、どう組み合わせ、創造的な働きをなすか、ということからみれば、価値感の一元化は組織の硬直化になるからです。またこうした一元的な価値観では、人それぞれの価値観が多様化している現代では受け入れられないことになります。これは余談。

 ここで大切なことは、「あっあの人がそうなんだ」という発見ではなくて、「あっ、私のあのことがそうなんだ」と気づくことなのです。他人は、変えられが、自分は変えられますからね。そうすると、相手の問題は相手が自分で気づくよりしょうがない。他人はその気づき誘発してあげることしかできない。 変な義務感にとらわれて、あの人をなおしてあげよう、なんてこと考えないほうがいいようですね。
さて、本文です。

 「義務、義務、義務」、パレー叔母さんの連発する「義務」と言う言葉にパレアナは少々うんざりしてきたようです。「それを喜ぶにはどうしたらいいんでしょうー義務ということをです?」この質問に叔母さんは、さすがに自分の口癖に(実は心の習慣)気づいたようで、赤くなります。

 普通であれば、ここで「あら、少し言い過ぎたみたいね」とでもいうところですが、彼女は「しっこくいうものじゃありません」とか言って怒って階下に下りて行ってしまいました。子どもから自分に都合の悪い質問を受けて、説明がつかなくなったら、怒ってごまかすお母さんっているでしょう。自分ではわかっているんですね。何かおかしい、何か自分をつくろっているって。その気持ちを素直に出せたらいいのでしょうが、それができない。

 なぜかと言うと彼女にとっては、この義務感がいわば心の支えみたいなものになっていて、これを失ったり、否定することは夜道を無防備で歩くような、そんな不安があるからです。言葉には、このように心理的に依存するのに使われる一面があるのです。「規則ですよ」と言っておけば、言う方も言われた方もわかったような気持ちになり、何となく納得してしまう、ってこともよくあります。


「真・パレアナの研究」-9

 さてここで前々前号でしたか、保留した「規則は是が非か」の問のことです。
 日向と日陰、自由と規制、暑いと冷たい、上と下、喜びと悲しみ、左と右、表と裏、陰と陽、強と弱、大と小、長いと短い、等々世のすべて、こうした相対する概念で成り立っています。これは、たとえば「日向」の概念は「日陰」という概念の存在の上に成り立つし、逆に日陰は日向の存在がなければ、ありえない、ということです。

 ですから、これらの片一方を取り上げて、良いとか悪いとか、善だとか悪だとか、好きだとか嫌いだということもまた、存在しないということになります。
 よく「長所だけを見てつきあいましょう」とか「長所を伸ばしましょう」といったことを言われますが、これは実はおかしいんです。「長所を見る」ということは短所もみてどちらが「長」でどちらが「短」かを分別しなければなりませんから、結局短所をもみるということになりましょう。それに長短の概念とかの判定は人によって異なる。また長所と短所は同じものの表裏ですから、長所を伸ばすことは、短所も伸びること。短所を小さくすることは、長所も小さくなってしまう。

 だってそうでしょう。ここに1枚の紙があるとします。裏と表がありますよね。表が裏は不要、と考え、裏を削っていったとします。憎い裏がなくなったとたん、表の存在もなくなってしまいます。
見る立場、立場、用いるケース、ケースによって長所にも、短所にもなるわけですから、元々長所、短所など存在しない、これ幻想に過ぎないといってよいのです。難しくなるので詳細な説明は省きますが、そのとき、ときの立場、観点で相対的に長短に見えるだけです。

 たとえばバスケットの選手にとっては、身長が高いことは有利にでますが、競馬の選手には不利になる。また3センチの紐と5センチのとでは5センチが長いですが、ここに10センチの紐と比べたら、5センチの紐は短になってしまう。このようにまた相対的なものでもあるわけです。

 結局、長短の比較の概念は、競争の世界や差別の概念の範疇に属するものであると、私は考えます。ですから長所とつき合え、と言う言葉の裏には、自分にとって、都合のよいものとそうでないものをふるいにかける、そんな絵が見えてしまうのです。また「いいところだけみなさい」とか、「長所とだけ伸ばしなさい」、なんて現実には出来ないことをお説教されて、沢山の方が逆に悩んでおられる事実をみてもおります。

 ですから「そんなことなど意識せず(ふるいにかけず)におつきあいする」、「あばたももえくぼ、えくぼもあばた、みんな含めて好きになる」のが本来と思うのです。
こう考えると、「規則」もまた必然(必要)だというふうに少しは理解できるのではないでしょうか。


「真・パレアナの研究」-10

 よくセミナーなどで「日当たりと日陰とどちらが好きですか」とお尋ねしてみるんです。すると「私は日陰」「いや、ぼくは日向が」とか、それぞれお答があります。その中でまれに「私はそのとき、時によって日向が好きな場合と、日陰が好きな場合とあります」と答えられる方がいらっしゃいます。

 その通りなのですね。寒いときは日向、暑いときは日陰を選択しているのが普通の私たちです。つまり、私たちは意識的にであろうが、無意識にであろうが自分に取って都合のよい状況を自在に分別する、ということを日常的に行い生きています。これが本来なのです。(快適に)生きるということはこの対立する両者の選択の組み合わせなのですね。逆に言うと、どちらかに片寄った場合、私たちはバランスを失い、快適さを損なってしまうことが多いのです。  

 緊張が続けば肩こりが起きます。そういうときはリラックスを選び、緊張をほぐします。長い夏休みの期間中などリラックスばかりしていたのでは、心身ともにだらけて、身体がおかしくなることがあります。その場合は、適当に緊張を付してやります。こうしたことを瞬時に分別している。
 その際の物差し(基準)がリズム、バランス、ハーモニーだと思うのです。

 ここでのリズムは静動の組み合わせ、バランスは分別の組み合わせ、ハーモニーとはこのバランスとリズムの調和および他者(事物を含む)との関わりといった理解でいいと思います。私は、快適に生きるためにはこの三つの物差しが不可欠だと思っています。

 車にたとえで言いますと、ブレーキが強すぎたり、たびたびかかったんでは楽しい運転できませんが、かといってブレーキが不要ということにはなりません。信号機だってそうです。安全のために設けられることは理解できていてもわずらわしい時、ってありますよね。それで無視するとパトカーが待っている。規則もそんなものと理解すればいいのではないか、と思います。

 アクセルとブレーキを上手に操作してバランスとリズムをとり、ハンドルで周辺の情報、規則(ルール)との調和を計りながら快適なドライブを楽しむ。 そんな中に、自然に人生の喜びや幸せが湧き出てくるのではないでしょうか。歯を食いしばって難しい顔をして喜びや幸せを探しまわっている私たちに、パレアナはそんなことを教えて呉れているような気がするんです。


真・パレアナの研究-11

八章へ話を進めてみましょう。パレアナのことをパレー叔母さんはしきりに「奇妙な子ねぇ!」と いいます。実感だろうと思います。人は自分の持っている常識の枠からはみ出した者に対して、あいつは変わっている、と言った言い方をします。しかし、自分の持っている常識だけでは、普遍性がないというか心許ないので、一般には世間の常識からはずれている、と言う言い方をします。ここで常識とは、これまでの経営から蓄積された規則・ルールといってよいでしょう。パレーおばさんは、この常識で、パレアナを見ている、評価している。

 パレアナは、まだ見ぬ者に対してパレアナは評価ではなく、関心をもったのです。ナンシーがスノー夫人が風変わりな人であることを説明すればするほど、パレアナは興味を抱いてしまうのです。私たちならそんな話を聞けば聞くほど憶測や偏見、予断といったものを加えて、いっそうその人物を悪い風にとってしまうところですが、パレアナは違うんですね。彼女の場合率直な興味というか、好奇心を感じ、それでとても会いたくなったんです。素直な心の動きにすぎません。ですから会うのに無理とか我慢とかではなく、会うのが楽しみで心が弾み上がってしまったのです。

以前にもふれましたが、喜び探しといったことで無理や強がり、数を競ったりしていたのでは、心からの喜びではなく、いわば「論理の喜び」になり、自分の心に偽りをすることになります。好奇心、興味であれば、それが実現することで胸がわくわくするのはパレアナならずとも自然なことでしょう。だから自然に「お目にかかりたいのですの」といったおしゃまな言葉か出てくるわけです。お目にかかりたい気持ちでワクワクしていたのですからね。言葉に偽りがありません。

しかし、スノー夫人にしてみれば自分がみんなに疎まれていることは自分自身がいちばんわかっているわけですから、この挨拶自体びっくりです。今まで義務や義理でいやいやながら訪ねてくる人はあっても、「お目にかかりたい」なんて人はいなかったわけですからね。文庫の66ページのパレアナとスノー夫人のやりとりは思わず笑ってしまいます。両人とも大真面目で話していることがなぜかとてもおもしろいのです。きっと私たちの体験の中に似たような人がいたり、否、その天の邪鬼ぶりが自分にそっくりだったりしたことがあるからでしょうね。 

 このやりとりの中で、スノー夫人は自分では気づいていませんがいつのまにか少しずつ変わっていくのです。いわばパレアナは喜び探しの名人、それに対してスノー夫人は、日常生活の中から不平と小言三昧のタネを探す名人で、しかも年期が入っています。それがどうしてなのでしょう。理屈や説得の勝負ならこうならなかったはずです。

 ここは「人間は本来明るいことが本質である」ということが前提にあると考えたら理解しやすいのではないでしょうか。おおよそ人間の存在そのものが本来それだけで明るいこと、楽しいこと、素晴らしいことだと思うんです。

 ですから、物事は、本質へ溶けていくことになります。氷や雪は、掘っておくと水にになり、その水もまた空気の中にとけ込んでしまう。ですから溶けたのはスノー夫人の心の方。それにしても著者のエレナポータ、この夫人に意味深の名前を付けましたね。「雪」ですよ。こりゃ終いには溶ける。これが「アインアン」では困る。(^_^)

「真・パレアナの研究」-12

 この間パレアナはスノー夫人だけに関わっていたわけではありません。何しろ何にでも誰にでも関心を持つパレアナですから、著者のエレナポーターも忙しく2つの話を同時に進行しています。(実はこのこと自体に大きな意味があるのですか、ここではふれません)

 スノー夫人へのお使いの途中で「ある男の人」に出会いました。例によってにこにこ笑いながら彼女は挨拶をし、話しかけますが、この男の人は怪訝そうなそぶりを見せるだけで応じてくれません。「私が挨拶しているのに、なんという人だろう」とはパレアナは考えもしません。自分の声が聞こえなかったからだと思い、次に見かけたときはもっと大きな声で話しかけてみました。

 文庫本の74から76ペーージの以下のやりとりに、私たちが忘れていた重要なことが含まれていると思うんです。お天気のことで話しかけるパレアナにこの男はとうとう怒り出します。「(前略) ぼくは天気よりほかに考えることがいっぱいあるんだ。太陽が照ろうが照るまいが、そんなことにはかまっておられん」 子供でなくても、しっこさを怒られたのですからたじたじとになって逃げだすか、口をつぐんでしまいますよね。ところが、パレアナは「そうだと思ったんです。ですから教えてあげたんですわ」と逆ににこにこ顔です。

ラインを引いた教えての意味が説教と諭すとか、注意するといった意味にとったらパレアナらしくなくなります。ここは客観的に事実を伝えるというか、たとえば、背中に付いていた糸くずが付いているのをそっと教える、といった感じです。

 私たちは何かに没頭したり、とらわれたり、考え込んだり、悲しんだりしているとき、他のことを忘れてしまったり、他のことが見えなくなる場合しばしばあります。そんなとき、ふっと肩を叩かれたりして、はっと我に返る、それは気づきの兆しでもあるわけです。

 大きな視野からみれば、その「他のこと」の方が大きく、重要で普遍性があるのは当然のことです。人の悩みや苦しみは本人に取っては一大事であったとしても、グローバルな面からみれば、残酷なようですが細事にすぎません。主流ではなく支流に過ぎないのです。こういったことは誰だって当事者でなく客観的に考えれる時にはわかっているわけです。

 ところが、こと自分のことになるともういけません。些細なことが地球を動かす大事件に思われるぐらいわからなくなります。また、日常性のことの方に普遍性があるのに、人はとかく特殊性に関心を向ける傾向にあります。今あるもの、今持っているものに対する関心より、ないものを欲しがり、あこがれ、求めようとします。そのことにより人類は文明を進めて来たわけですし、人が進歩発展してきた原動力となったわけですから、それを悪いとは決して思いません。それどころか、これからも必要不可欠なことだと思っています。しかし、そのことだけに夢中になりすぎ、急ぎ足で駆け抜けてきたために、私たちは、日常性の中にある沢山の宝を置き去りにしたり、今をおろそかにしたり、見過ごしてきたことも否定できません。

 観光ツアーで名所だけを駆け足で見て、その土地の肝心なものは見落とししている。また、それがその土地の全容だと思い込んだり、といった経験は誰しもあるのではないでしょうか。

 陰だけをみて、日をみない。いやな側面をみて、別の側面をみようとしない。 どちらが主流か、ということを考えることは、言い換えれば客観的にものを見る、判断するということになります。 少し長くなりますので、この続きは11で。


真・パレアナの研究-13

 「おじさん、難しい顔をして狭い世界に閉じ込もって考え込んでいらっしゃるけど、気をつけてみてみたら(日常の中には)太陽が照っていたり、そこら中にいろいろな楽しいこと、嬉しいこともありますよ。客観的にみてどちらの世界が広くて主流なのでしょう」って言っているのですね。これがお説教であれば「この生意気なうるさい小娘め、大人に説教などしやがって」とただでさえ気むずかしい人ですから、怒りだすはずです。でもパレアナがいっていることから、「事実」だけの指摘(評価していない)で恣意性がないということを、彼は無意識に感じるわけですね。

 この人ジョン・ペンデルトン氏はある出来事があって以来、そのことにとらわれて心を閉ざしてしまい誰とも口をきかず考え込んでいる人なのです。

 その永い年数の間にも太陽は輝いていたり沈んでいたりしていたわけですが、そういうことに気を配することもなかった。この場でのパレアナとのやりとりでの気づきが発端となって彼の氷のような心は少しずつ解けてくるわけですが、それは物語が進んでからの話になります。

 ただその伏線としてこの章は大切なことを私たちに示しているのです。  一つには、彼の心のかたくなさの要因を調べ、それ除去するということで、彼の心が氷解したということではない、という点。つまり坂本竜馬のせりふを借りますと「人は義では動きもうさん」ということでしょうか。それでは何で、ということになりますが、竜馬は「利で動く」と言い放っています。すごいですね。「いや人は情で動く」と考える人もいるでしょう。私は義も含めてくんでどれか一つという考えはしていません。人それぞれ、場によって変わることもあると思っています。それは利であろうと義であろうと情であろうと要因に過ぎません。

メカニック的(脳のしくみ)から見ればいずれが要因であろうと「人は自らの意志(脳の反応によって)で動いている」ことには間違いがないからです。

「自分は他人の意志で動いているのではない。だから今の状況は自分の脳の反応により、自らが選択した結果だ」ということに気づくことが重要なことである、ということです。嘆きや愚痴というのは、自分の脳の反応の結果を他に責任転嫁するところに発生するのではないでしょうか。

 もう一点は、パレアナは相手の反応に、評価や憶測を加えていないことです。こちらが挨拶をする。相手がそれを無視し、反応しない。そう言う場合、私たちの心は微妙に動くはずです。「私が挨拶しているのになんであの人は挨拶を返してくれないのだろう」。ここまではいいのです。次に「嫌われているのではなかろうか」とか「なんと礼儀知らずの人だろう」、「生意気なやつだ」、といっように相手の心の中をのぞき込みどんどん憶測を広げ、それに自分の脳を反応させるわけです。そしてその結果「あいつのおかげで不愉快だ。もう自分から挨拶などしないぞ」といった結論までつけてしまいます。

 「こらっ、ちびめ。(中略)、そんなことにかまっておられん」(74ページ5-7行)と大の男からどなられたバレアナの反応はどうだったのでしょうか。「パレアナはすっかりきげんをよくして」、とあります。普通でしたら「パレアナはすっかりしょげて」といったことになるのではないでしょうか。 それがきげんをよくして、とはいったいなぜなのでしょう。自分がそうではないかと思っていたことが当たったので、つまり自分の気づきの通りだったので、パレアナは嬉しくなったのです。「ピンポーン」というわけです。

 相手の言葉の内容や語調に反応したのではなく、自分の心に反応したからなのですね。知らない人から「この馬鹿」と言われればだれしも腹を立てますが、恋人同士にとっては「この馬鹿」は、君は可愛いよと同じに反応するんですね。もっとも鼻から声がでていて語調が違うからわかるということもありますが。

 この本の著者、エレナポータは「スー姉さん」という本も書いています(同じ出版社から文庫ででています)。彼女が私たちに何をメッセージしたかったのか、この「スー姉さん」では、いっそう明らかにされています。
 今日はここまで。12号では、著者エレナ・ポーターが、私たちに何を伝えたかったのか、もう一度考えてみることにします。


「真・パレアナの研究」-14

著者エレナ・ポーターが、私たちに何を伝えたかったのか。それは一言でいえば「日常性の中に素晴らしいものがある」ということです。カールブッセの「山のあなたの空遠く」やメーテルリンクの「青い鳥」のチルチルとミチルと共通するモチーフだと思います。でも、この2冊の本は、少なくとも私にはどうしたら喜びや幸せを日常性からみつけることができるのか、といった疑問には答えてくれてせんでした。エレナポータは80余年後のの私たちにパレアナという少女に託してこのこと教えてくれているのです。

 私だって、人並に、ハレの日にはフランス料理のフルコースを楽しみたい。著名人を追っかけビッグとの出会いを喜びとする。せっせとお金を貯め年に一度は遠くへ旅行に行き、グルメや名所に感動したい。そんなことを夢見ながら日々(今思えばむなしく)過ごしてきたんです。それはそれなりに悪いことではなかったと思います。しかし、今は毎朝の味噌汁と妻の手作りの料理に笑みをこぼし、気のおけない仲間との集まりで談笑する。毎日の仕事を旅になぞらえ、ささやかな発見に喜びを感じる。こんな素晴らしいことはありません。

なにしろ毎日がハレの日なのです。だって一日に砂金のようにちっちゃな喜び、嬉しいこと、楽しいこといっぱい散っているのですから。これを喜々としてして広い集めるのに忙しい。今までも砂金ならそこら中にあったに違いないのですが、遠くを見つめてばかりいたので気づかなかった。かりに気づいていたとしても当時の私にしたら、そんなちっぽけな砂金みたいなもの目じゃなかった。求めていたのは大きな幸せの金塊だったのですからね。

 私にこんな喜びを教えてくれたのは富豪家の伝記でもなく、著名な「成功方法」の著者でもなかった。遠回りしましたが、私の青い鳥は田舎の小さな町の小さな本屋の古びた本棚にあったちっちや女の子パレアナだったんです。

 今回は私ごとに入り込みすぎてしまいました。
 それでは、本に戻して、また スノー夫人の話の続きです。 スノー夫人は、ああ言えばこう言って人を困らせます。でも彼女はパレアナの次の言葉に詰まってしまいます。「もし何か望むとしたらなんですか?」

 もしあなたが 「もし何か望むとしたらなんですか?」と問われたらなんと答えますか。スノー夫人はここで大きな気づきをします。「いつでもそこにないものばかり欲しがる癖がついてしまったので、さて今なにを欲しいのかと言うことをはっきり、すぐ言うとなるとどうしても言えないのでした。つまり自分が本当に欲しているものを考えたことすらないから、いったい自分が何を欲しいのか、実際のところわからなかくなったわけですね。

 これまで誰か人が提示するものにノウといいさえすればよかったのですから、自分が本当に欲しいものを考えたことがなかったわけです。いうなればいつも人の差し出すものを否定しておけばよかった。自分の考えはなくて(ないからこそ)、人のいうことに反対したり、不平不満をいうっていう例は私たちの周囲にいっぱいあります。
 ここまではわかります。しかし、大切なことは、今あるものに喜んだり、感謝しているか、という問になると、残念ながら大半の方がノーといわざるをえないことに気づかれるのではないでしょうか。

 さらにスノー夫人は、隣の女の子の音楽の練習の音が気になって気が狂いそうだったことを、パレアナに不満たらたら訴えます。それに対して彼女は「おばさん、そんなことぜいたくですよ。私の知り合いのホワイトなんか寝返りすら打てなかったのですから」なんて諭したりしません。

 「わかりますわ。たまりませんものね」と受けておいて、次に「寝返りができることって、嬉しいことだ」、「音が聞こえるってこと嬉しいことだ」といったことをホワイトさんを例に取り、話するわけです。

 私たちは、近くのこと、今の状態、今持っているものに気づかない。そして時としてはそれを認めず否定し、遠くのこと、先のこと、持ってないものに関心を寄せ、欲しがるものだ。これは何もスノー夫人だけのことではない、といった受け取り方をしたらいかがでしょう。そうすれば、なるほど意識して見てみれば日常の中に多くの喜びがいっぱいある、自分も自分の周囲も幸せだらけだ、ということを発見ができるチャンスが増えることは間違いありません。

 お気づきでしょうか。そう感じたときの状態が「幸せ」ってことなのです。逆にいえば、ないものを欲しがり続けている限り、どこかに未達成感からくる不満がただようわけですから、充足感も幸せ感も永遠にはかないことになる。 
 重要なことは、実は不平不満の多くは現実からの逃避であること。また人の考えや行動に引っ張り回されている自分は、自己確立が出来ていない、他人依存の甘えの体質である、ということに気づくことだと思います。つまりこのスノー夫人というのは、実は今の自分のことなんだ、と言った理解でこの本を読み進めると、いっそうおもしろいのではないでしょうか。

 読書はこのように、自分で、自分自身に置き換えてみることで、自分を見直してみる、いわゆる「気づき」の機会になります。ここでいう「気づき」はいうまでもなく情感(フィーリング)の分野に属するものです。
 ところが、多くの人は、自分の考え、あるいは持っている知識と比較したり、置き換えたりしてしまうのですね。この作業は明らかに論理(ロジック)なんです。これを言葉として「気づき」といっているに過ぎない。で、自分の背丈、自分の器の中に過去蓄積された知識、過去の経験といったものしか受け入れないことになるわけです。

 「それはどうも違う」とか「それは○○先生と同じだ」「それを○△発想でいうとこうなる」といったセリフは、どう考えても論理思考であってフィーリング的反応ではないのです。極端な例でいうと、講演をきいて終わってから「素晴らしい講演でした」と挨拶する人は、論理の方。講演の途中感動のあまり「うぉー」と叫んで頭をかきむしる人がいたら、情感の人、といってよいと思います。

 感動というのは、旧知のことでは発生し得ず、過去に経験していないものに反応して起きるものです。また、瞬間的で、いわゆる熱しやすく醒めやすい性質を持っています。だからここでいう「気づき」というのは、調べた結果、気づきました(発見)の気づきではないことに留意して戴きたいわけです。そして、まずは、事物のありのままを驚き、悲しみ、慈しむといった意味での気づきが欲しいと思うのです。

 どうも最近、この感激性というか、気づく心が、乏しくなっているように思えてしようがありません。だからどこか遠いところへ行って、それも団体さんで、珍しいものを見たり異質の体験をしたり、しかもみんなで一緒に感動し合う、気づき合うするといった風潮というのは、私には何か不気味な感じすらしてしまうのです。そもそも他の人が感動したことを追いかけて自分も感動するといったものが、感動といえるかどうかすらあやしいものです。

 それはともかく、身近の日常の生活の中には「おっ!、あら!、わっ!、おやっ?、びっくり!、まあ!」といった気づきがいっぱいあるのです。また、そういった些細なことに、気づき、感動する心も、みんなもっているのです。 



「真・パレアナの研究」ー15

 なのに、「どうして?」ということですが、理由は3つあると考えています。 一つは、現象をロジックで受け留める習性が付いてしまっている、という点です。落ち葉が落ちるのを見て、物悲しい気持ちになったら、それをそのまま受容し、そんなことで涙する自分をいとおしく思えば、それだけで素晴らしい幸せではないのでしょうかね。それを「落ち葉も、リンゴが落ちてきたと同様に万有引力の法則が働いて落下している」とか「落ち葉がたまると掃除がたいへんだなぁ」といったようにすぐロジックや評価を入れて受けてしまう。そんなことはあとからゆっくり考えればいいのです。まずは心が感じるものを受け入れるほんのちょっとの心の余裕が欲しいと思います。

 第2は、自分の心ではなく、他の人の心に反応したり、依存する傾向です。 他の人の感動、気づきに反応する習慣が講じてくると、自己発見と自分の心の内面的な動きに関心が乏しくなってきます。そして他の人の反応を通してのみの自分の反応を続けていると、やがて自分の反応(感じ)に自信がなくなってしまます。人の顔を見てから、言動を決める人がその典型的な例です。もっと自分の心が感じたことを大切に慈しむことだと思います。

 第3に、感動は、どこか遠くにある、大きな塊だ、といった前に述べたチルチルミチルの青い鳥探しの傾向が強いのでは、ということです。

 なんども繰り返して述べていますが、この本はパレアナのありふれた日常生活を通して、「日常の何気ない風景や生活の中に、いっぱい素晴らしいことがあるんです。それを些細なこととして、あなたが見過ごしているだけですよ。ほら、よぉーく見てごらんなさい」、と著者のエレナボーターは私たちの生き方の極意にも思えるすごいメッセージをしているのです。

 幸せな人は、「ある」ことに喜び、そして「ない」ことにも喜ぶ人で、不幸な人は「ない」ことを嘆き、「ある」ことに嘆く人である。これがこの章での私の学びです。

 「気づき」は感性に属するものですから、これを「気づきとは○○である」と論理で説明出来るものではありませんし、論理で理解したとしてもそれは「(感性レベルの)気づき」ではないということになります。で、クローバーの話で、ご一緒に考えてみたいと思います。

 人々はクローバーの4つ葉を見つけて喜びます。そして3つ葉をみても振り向きもしません。3つ葉の方が本来のクローバーであり、4つ葉の方がその変形であるにも関わらず、です。なぜなのでしょう。4つ葉の方が滅多にない、見つからない、珍しいからなのですね。このように人は当たり前のものより(日常性、普遍性)のものは、見のがし、滅多にないもの(特殊性)を求める傾向にあります。当然じゃないか、と言われる方もおられるでしょう。私はこう思うのです。

あなたが、クローバーというものは3つの葉で構成されていると言った程度の知識はもっていたとしますね。それでたまたま野を歩いていてクローバーの群生している場所にぶっかった。「すごいなー、こんなにいっぱい!」と感動する人もいます。しかし中にはその存在には気づいても何も思わず通り過ぎていく人もいます。また「なんじゃ、こりゃ」と気づいても関心なくと通り過ぎていく人もいるでしょう。まったく気づかないで通り過ぎていく人だって少なくないでしょう。気づきや関心は人それぞれで、それでいいし、その「それぞれであること」が大切であるし、また素晴らしいことだと思うのです。

 さて、むかしむかし、その中のふたりの人(陽木さんと、暗井さん)が、たまたま同時に、ちょっと変わったクローバーを見つけたとします。普通は3つ葉であるはずなのにこれは4つ葉なのです。「えっ珍しい、これ!」 ふたりたは明らかに感動しているのです。しかし、この後は微妙に違います。暗井さんは、4つ葉の「4」という数字に不吉を感じます。「4=死」というわけですね。彼がもし「4=死」ということを知らない幼児だったとしたら「不吉」といった受け取り方は絶対に出来ないはずです。ここのところがとても大事なところだと思います。一方、陽木さんは、瞬時に「こんな珍しいもの発見出来て、私、ツイている」と思ったとします。この「ツイいる」という受け取り方(受容)は暗井さんのケースと根本的に異なるようです。

さてさて、問題はこの後です。この事件(大げさですが)は、当然二人の口から、他の人々に「情報」として伝えられます。暗井さんは「俺、不吉なものを見つけてしまったぞ」と。陽木さんは「私、珍しいものみっけた。キットいいことあるにちがいないわ」。
 さて、さて、さて人々は、どちらを選択し、後世に残したのでしょうか。またそれはなぜなのでしょうか。まず、ほとんどの方が「陽木さん」でしょうね。

その理由も「人は明るいことを欲するから」といったことで最大公約できるのではないでしょうか。そのとおりであることは今も多くの人々が「4つ葉のクローバー縁起がよい」と思っていることと、「4つ葉のクローバー縁起は不吉である」と言う人がほとんどいない、ということで証明されています。

 ところが、この話の陽木さんは、存在していたと思うのですが、日本人ではないのです。また暗井さんが、陽木さんと同時に4つ葉を発見したということはありえない話なのです。つまり、昔外国のどこか(東洋ではない)の陽木さんがいて、4つ葉を発見。以来「4つ葉、これをつ見つけると良いことがある」という話が、パッケージされた形の知識として日本に伝わった、ということです。だから、日本人の嫌う4つ葉の「4」は無視されたのではないでしょうか。

 最高の感動は第一発見者にあり、ということであれば、それは少なからず、知識に寄って薄められた感動といえるような木がします。それが講じてくると「輸入された感動のパッケージ、他の人から与えられた「感動」に気づかず、感動しているうちは、まだいいとおもうのですが、感動を与えられないと、感動しないと言ったことになる恐れもあります。そういった風潮が最近は、とみに覆いのでは、と言うことを言いたいわけです。

話を元に戻して、人は陽気さんのように、4つばを「ラッキー」なものとして求めているのでしょうか。もうおわかりでしょう。3唾では心が動かされない、感動し奈低。気づきで着ない。つまらない、おもしろくない。退屈する殻です。強い言い方をすれば「日常性に対する不感症」が、遠くのもの、極端なものに感動を求めている、といったことであるなら、それは傾向として決して喜ばしいことではない、ということではないでしょうか。まして自分だけ4つ葉を手にいれて、自分だけが「ラッキー」と思いたいということであれば、「他の人との競争関係を生じさせ、決して日常性の平和にすら、波風をたててしまうことにも成りかねません。     


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