全52件 (52件中 1-50件目)

風呂場から上がった千尋は、浴衣に袖を通した。その時、脱衣所に一が入って来た。「君が千尋君か?」「ええ、そうですが。斎藤先生、わたくしに何かご用ですか?」「別に。風呂に入りに来ただけだ。」「わたくしはこれで失礼致します。」千尋が一に頭を下げて脱衣所から出て行こうとすると、一は千尋の肩を掴んだ。「先程の配膳といい、所作といい、全てにおいて隙がない。どこかの武家の出のようだ。」「有難うございます。では。」千尋は一に微笑むと、脱衣所から出て行った。(あの男、油断ならない。)先程自分を見た一の目は、獰猛(どうもう)な光を湛えていた。あの男には気をつけなくては―千尋はそう思いながら、自分の部屋へと向かった。「あ、戻って来た・・」「何かいけない事でもあるのですか?」千尋はそう言ってジロリと同室の少年を睨み付けると、彼は慌てて目を伏せた。「あなた、お名前は?」「え・・わたし、ですか?」「他に誰が居るというのです?」何故かこの少年を見ていると苛々して、千尋はつい厳しい口調になってしまう。「筝之介(そうのすけ)、と申します。年は十五になります。」「そうですか、わたくしと同じ年ですね。」千尋は溜息を吐いて背後に立っている少年を見た。「後ろに立たれると気が散ります。」「あ、すいません・・」「そんなに人に気を遣い過ぎなくても良いのですよ。気遣いのない方も相手を苛立たせますが、気の遣い過ぎも相手を苛立たせてしまいますよ。わたくしはあなたに関心はありませんから、あなたの勝手にしたらいいことです。」冷淡な千尋の言葉に、少年―筝之介は微かに唇を噛み締めた。だがそんな彼の様子に千尋は意も介さず、床に就いた。 夜の帳が下りた洛中は、昼間の喧騒で賑わいとは打って変わって人っ子一人おらず、静寂と闇に包まれていた。稀に動くものがあっても、それは犬猫だけだ。その闇の中をしゃなり、しゃなりと歩く男の足音がやけに響いた。「約束の場所に時間通りやって来たな。」「おいらは約束を守る男だからね。で、あの簪は例の美人さんに渡したぜ。次の手は?」男はそう言って相手の顔を見た。「お前が簪を渡した少年の名を探れ。あやつは我らに仇なす存在かもしれぬ。」「承知。約束の金子も貰ったし、役者稼業の副業としちゃぁ美味しい仕事だからね。そいじゃぁ、また会いやしょう。」男はそう言って相手の肩を叩くと、元来た道へと戻った。「役者風情が・・」侍は苦々しい声でそう呟くと、闇の中へと姿を消した。 総司は激しく咳き込む度に、身を屈めた。池田屋で血を吐いた時から、この忌々しい咳と胸の苦しさは消えてくれない。(まだわたしは戦えるのに・・どうして・・)「眠れないのですか?」不意に襖がすぅと開き、千尋が滑るように部屋の中へと入って来た。「千尋君・・わたしは、いつまで生きられますか?」「それはわたくしには解りません。それよりも副長の事で少しお話が。」「土方さんの・・事で?」「ええ。」「実は、副長はわたくしと契約し、ある願いをわたくしにしました。」「願いって、どんな・・」「それは・・」千尋が歳三との契約の事を話そうとして口を開こうとした時、部屋に突然一匹の狼が入って来た。「沖田様、大丈夫です。この狼はわたくしと親しいのです。」「親しい?」千尋が獰猛な狼と戯れているのを、総司は唖然とした様子で見つめていた。「土方さんは、あなたと何を契約したんですか?」「今は話せません。きっと副長はあなたに知られたくない事ですから。」千尋は意味深長な言葉を総司に投げつけると、彼の部屋から出て行った。つづくにほんブログ村
2011年05月30日
コメント(0)

「あの男は始末した。」「そうですか。」男の言葉を聞いても、女官は眉ひとつ動かさなかった。「平然としているな。仮にも恋人同士だった男の死を知っても何とも思わないのか?」「ええ。所詮あの男はあなた様の駒にしか過ぎませんでした。」女官はそう言って、男の腕の中で眠るルドルフを見た。「準備は出来ております。どうぞお部屋へ。」「解っている。」男は口端を歪めて笑うと、ルドルフを抱えたまま浴室へと向かった。 浴槽には真紅の薔薇が敷き詰められ、男はゆっくりとルドルフの服を脱がして全裸にすると、彼を浴槽に沈めた。(息が苦しい・・)ルドルフが水面から顔を上げて激しく咳き込むと、そこには墓地で会ったあの男が妖しげな笑みを浮かべていた。「お目覚めか、ルドルフ皇太子。」「お前は・・それにここは何処だ?」「失礼致します、旦那様。」不意に浴室の扉が開き、燭台を持った若いメイドが入って来た。「お前は・・」メイドの顔を見たルドルフが驚愕の表情を浮かべると、彼女は浴槽の淵に腰を下ろした。「漸く覚醒(めざ)めの時が来ましたね。」「覚醒めの時だと? お前は何を・・」ルドルフの問いにメイドは答えず、彼女はルドルフの頬にキスをした。「儀式はすぐに終わりますから。」メイドはそう言うと、ワンピースの襟元を緩めた。「何をしている。」ルドルフはメイドから顔を背けようとしたが、どうしても彼女の露わになった首筋へと目がいってしまう。彼の中で封じられていた本能が、静かに蠢き始めていた。 イートンの学生寮の一室で、カエサルはある人物からの手紙を読んでいた。「ふふ、これで・・」カエサルはそう言って口端を歪めた。その時、窓硝子が割れて何かが転がった音がした。(何だ?)カエサルは対して気に留めずに手紙を机の上に放ったままベッドに入って眠りに就いた。「さぁ、わたくしの血をお飲み下さい。」「やめろ、僕に近づくな!」ルドルフは自分に近づいてくるメイドを押し退けようとしたが、彼女はルドルフを抱き締めた。その時、ルドルフはメイドの首筋に牙を突き立てていた。(僕は、何を・・)「ねぇ、何か焦げくさくない?」「そうだね・・」ユリウス達が異変に気づいたのは、夜明け前の事だった。「火事だ~、カエサルの部屋から火が出てるぞ!」ユリウス達が学生寮を飛び出して中庭へと向かうと、カエサルの部屋が炎で緋に染まっていた。「カエサルは? カエサルは何処に居るんです!?」「ここには居ない。もしかしたら・・」カエサルは炎を消そうと必死に毛布で自分の身体を叩いていたが、炎の勢いは収まるどころかますます激しさを増す一方だった。やがてそれはカエサルのガウンに燃え移り、彼は苦悶と断末魔の悲鳴を上げた。 外ではユリウス達が必死に消火にあたっていたが、最早手遅れの状態だった。「安全な所に避難しよう!」「でも、カエサルが・・」ユリウスが避難しているのを渋っていると、割れた窓から黒焦げの腕がにゅっと突き出て来た。「ひぃ!」ユリウスは悲鳴を上げ、寮生達とともに安全な場所へと避難した。 数時間後、火の勢いは収まったが、何故かカエサルの部屋だけが燃え、彼の遺体が部屋の中で発見された。にほんブログ村
2011年05月28日
コメント(0)

“ユリウス様,最期にいい思い出をありがとう。わたくしはこれで心おきなく神様の元へ逝けます。あなたへの想いは叶わなかったけれど、どうぞルドルフ様とお幸せに。 愛をこめて、ミレーヌ”「お嬢様は亡くなられる前、わたくしにこの手紙とブローチをユリウス様にお渡しするようにとおっしゃいました。」「そうですか・・有難うございます。」ミレーヌからの最初で最後のラブレターを読みながら、ユリウスはそう言って涙を流した。(彼女は・・ミレーヌ様は気づいていたんだ・・僕がルドルフ様に想いを寄せている事を・・)あの劇場で見た、彼女が浮かべた寂しげな笑顔の意味が、ユリウスは漸く解った。「では、わたくしはこれで。」マリアは頭を下げると、学生寮から出て行った。(ミレーヌさん、あなたの事は忘れません。)ユリウスは、ミレーヌの形見をそっと握り締めた。 一方ウィーンでは、ルドルフがミレーヌの墓を訪れていた。ロンドンで会った時は元気そうだったのに、彼女が肺結核に罹って居た事を、ルドルフは訃報が届いた時に初めて知ったのだった。(ミレーヌ、君は最期までユリウスと僕を心配させない為に病気の事を気づかせなかったんだね・・)ミレーヌの墓に花を手向けながら、ルドルフは彼女の優しい笑顔を思い出していた。「皇太子様。」背後から声がしてルドルフが振り向くと、そこにはアレクシスが立っていた。隣には、あの女官が立っていた。「お前達、どうしてここが解った?」「ミレーヌ様とは、生前親しくしておりました。」女官はそう言うと、ミレーヌの墓の前に花を手向け、胸の前で十字を切った。「では、わたくし達はこれで。」女官はルドルフに頭を下げると、墓地から立ち去った。「アレクシス、あいつとあの女は一体どういう関係だ? 恋人同士か?」「いいえ。彼女は気が合うもので。」「そうか・・それよりもアレクシス、“薬”の原料はなんだ? 鉄錆に似た味・・あれは葡萄ではないことは確かだ。」「ルドルフ様、あなたは賢い方だ。一度疑問を持ち始めたらそれが解るまで追及する。オーストリアの次期皇帝の貫録をお持ちでいらっしゃる。」「御託はもういい。“薬”の原料を教えろ。」ルドルフは苛立った様子でアレクシスに銃口を向けた。「では教えましょう、皇太子様。あなたが毎日飲んでいる“薬”の原料は・・」アレクシスがルドルフに真実を告げようとした時、後ろの茂みが揺れて1人の男が2人の前に現れた。腰までの長さがある水色の髪を揺らし、紫紺の瞳でルドルフを見つめた。「漸く会えた、ルドルフ皇太子。」「貴様、何者だ?」ルドルフは突然現れた謎の男に銃口を向けた。「わたしは闇の使い。あなたが覚醒(めざ)める時を今か今かと待ち侘びておりました。」男は目を細めながらルドルフを見つめると、恭しく彼の前に跪いた。「お前は一体何者だ? 闇の使いとは一体何なんだ?」怪訝そうにルドルフが男を見つめると、彼はさっと立ち上がると、ルドルフの顎を持ちあげて彼の唇を塞いだ。ルドルフは必死に抵抗したが、男はビクともしなかった。“怖がらないで”頭の中で、男の声が響いた。悲鳴を上げる間もなく、ルドルフは闇へと堕ちていった。「これでルドルフ皇太子はわたしのもの。今までご苦労様でした、アレクシス。」「何を言っている、わたしにはまだ役目が・・」怒りで顔を赤く染め、男に詰め寄ったアレクシスは、次の瞬間口から血を吐いて地面に倒れた。「な・・ぜ・・」「言ったでしょう、ルドルフ皇太子はわたしのものだと。」男は気絶したルドルフを抱きながら、墓地を後にした。「お帰りなさいませ、旦那様。」帰宅した男を玄関ホールで出迎えたのは、あの女官だった。にほんブログ村
2011年05月28日
コメント(0)

ユリウスは緊張と戦いながら、ジュリエットを演じ切った。劇が終わった後のカーテンコールで、彼は喝采を浴びた。「ユリウス、今日の君は最高だったよ!」「有難う。」ユリウスが顔を上げ、ロイヤルボックスに居るルドルフを見た。ルドルフはユリウスの視線に気づいたようで、笑顔をユリウスに浮かべた。1ヶ月振りに会った彼の瞳は、美しく輝いていた。 劇が終わり、ユリウスはジュリエットの衣装を身に付けたままルドルフの姿を探したが、彼は何処にも居なかった。(ウィーンに帰られたのかな?)忙しいスケジュールの合間を縫って、ルドルフが自分の劇を観に来てくれただけでも嬉しいというのに、誰にも邪魔されずに彼と2人きりの時間を過ごしたいとユリウスはつい欲張ってしまった。(駄目だな、欲張っちゃ。ルドルフ様が劇を観に来てたことだけでも、嬉しいと思わなきゃ・・)ユリウスが元来た道を戻ろうとした時、不意に彼は誰かに背後から抱きつかれた。「やっと捕まえた、僕のジュリエット。」「ル、ルドルフ様・・」ユリウスが振り向くと、そこには悪戯っぽい笑みを浮かべながら自分に抱きついているルドルフが立っていた。「驚かさないでください、ルドルフ様。心臓が止まるかと思ったじゃないですか!」「怒るな、折角の美人が台無しだぞ?」ルドルフはそう言ってユリウスの頬にキスした。「こんな場所でキスしないでください!」「何だ、頬じゃなくて唇にして欲しかったのか?」ユリウスをからかうかのようにルドルフは口端を上げて笑い、彼を見た。「そ、それは・・」「皇太子様、こちらにおられましたか。」凛とした声がしたかと思うと、1人の女性が彼らの前に現れた。ユリウスは彼女が皇太子付の女官であることに気づいた。「ユリウス様もいらしてましたか。あなたのジュリエット、素敵でしたよ。」女官はユリウスに微笑みながらそう言ったが、何故かユリウスは彼女と目を合わせたくはなかった。邪眼というのだろうか、彼女の蒼い瞳を見るだけでもユリウスは何故か落ち着かなくなってしまうのだ。「あ、ありがとうございます。」「素敵な指輪ですね。」女官の視線がユリウスの左手薬指に嵌められているサファイアの指輪に注がれた。「僕がユリウスに贈ったんだ。」「まぁ、皇太子様がユリウス様に・・」女官は驚きながらも、少し忌々しげな目でユリウスを見た。その蒼い瞳は、憎しみの光を湛えていた。「ユリウスさん、ユリウスさんなの?」ユリウスは背後から聞こえる声で振り向くと、そこにはミレーヌが笑顔で彼を見つめていた。「ミレーヌ様、お久しぶりです。」「あなたのジュリエット、最高だったわ。良い思い出を有難う。」ミレーヌはそう言ってユリウスの手を握った。「ミレーヌ様、またお会いいたしましょう。」「ええ・・」ミレーヌの顔色が悪いことに、ユリウスもルドルフも気づかなかった。 数ヵ月後、ロンドンに初雪が降った日の夜、ミレーヌは両親に看取られて静かに天国へと旅立った。「ミレーヌ様・・」ミレーヌの訃報をルドルフからの手紙で知ったユリウスは、涙を流した。「ユリウス、君にお客さんだよ。」「僕に?」ユリウスが部屋から出て談話室に入ると、そこにはミレーヌ付のメイド・マリアが立っていた。「ミレーヌお嬢様から、あなたに渡して欲しいと言われまして。」マリアがそう言ってユリウスに手渡したものは、生前ミレーヌが愛用していたカメオのブローチだった。(ミレーヌ様・・)ブローチが入っていた箱の中には、ミレーヌが書いた手紙が入っていた。にほんブログ村
2011年05月27日
コメント(0)

マシュー襲撃事件は、犯人のリースの逮捕によって終結した。リースはイートン校から除籍され、その存在と記憶は教師と生徒達から消えつつあった。「ユリウス、今いい?」リースが除籍されてから数日後の夜の事、ユリウスが部屋で自習をしているとノックの音とともにマシューが部屋に入ってきた。「どうしたんだい、マシュー?」「実はね、今度の劇のことなんだけど、君も出て貰えないかな?」「え?」突然の事でユリウスは鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をしながらマシューを見た。「実はね、監督がジュリエットを2人の役者に演らせたら面白いんじゃないかって言いだしてね・・何故か君に白羽の矢が立っちゃったんだ。」「へぇ、そうなんだ・・でも素人の僕が出てもいいのかなぁ?」ユリウスは一度も芝居などした事がなかったので、マシューの申し出を断ろうと思い、次の言葉を継ごうと口を開いた。 その時、カエサルが滑るように部屋に入って来た。「やぁユリウス、劇の事は聞いたようだね?」カエサルはそう言って形の良い唇を歪めながら、挑戦的な視線をユリウスに送った。「ああ。マシュー、残念だけど・・」「今回の劇は、ルドルフ様をご招待しているから、最高の演出にしないとね。誰かさんの演技が下手くそだと、ルドルフ様がお怒りになられるかもしれないな。」カエサルの挑発には乗らなかったものの、ユリウスは彼の言葉で出演を決めた。「マシュー、監督には喜んで出演させていただきますと伝えてくれ。」「そう。ありがとう、ユリウス。」マシューはヘーゼルの瞳を輝かせながら、部屋から出て行った。カエサルは憎しみの籠った視線をユリウスに向けると、マシューの後を追いかけた。 その日からユリウスはマシュー指導の下発声練習や劇の稽古を受け、公演前日のリハーサルでは完全にジュリエットになりきっていた。「明日は僕と一緒に頑張ろうね、ユリウス。」「うん。」ユリウスがリハーサルを終えて学生寮へと戻っている頃、ルドルフはロンドン市内のホテルで夜を過ごしていた。今回の旅には、アレクシスとあの金髪の女官も同行していた。「皇太子様、お加減はどうですか?」「大丈夫だ。明日は久しぶりにユリウスに会えるなんて嬉しいな。」ルドルフはそう言うと、口元に笑みを浮かべた。「ではわたくし達はこれで失礼を。」アレクシスが女官とともにルドルフの部屋を辞すると、ルドルフは溜息を吐いた。最近アレクシスから“薬”を貰ってから高熱に苦しむこともなくなり、全身の倦怠感も消えた。口内に広がる鉄錆の味には未だ慣れないが、飲まないよりはマシだ。ルドルフはユリウスの女装姿がどんなものなのだろうかと想像しながら、眠りに就いた。 翌日、ロンドン市内の劇場でユリウスとマシューが主演する「ロミオとジュリエット」が幕を開けようとしていた。「うわぁ、凄い人・・」舞台袖から観客席を覗いたユリウスは、緊張で死にそうになった。「大丈夫、君は今からジュリエットだ。」マシューはユリウスの緊張を解くかのように、そっと彼の手を握った。それだけで、ユリウスの心は少し楽になった。 一方観客席では、ロイヤルボックスへと向かうルドルフに1人の令嬢が声をかけてきたところだった。「お久しぶりです、皇太子様。」「あなたは、ミレーヌ嬢ではありませんか? 長期療養中とお聞きいたしましたが・・」「ええ。ですが最期の時を迎えるその時まで、人生を楽しみたいのです。」ミレーヌはそう言うと、ルドルフに向かって弱々しく微笑んだ。一瞬ルドルフは、ミレーヌの全身が透けて見えたが、錯覚だと大して気を留めなかった。 やがて舞台は、華々しく幕を開けた。にほんブログ村
2011年05月27日
コメント(0)

「何をした?」「皇太子様の中に潜む魔物を追いだしたのです。もう心配ありません。」枢機卿はそう言うと、ルドルフの額から手を離した。「有難うございます。」心の中では枢機卿を激しく罵りながらも、ルドルフは彼に笑顔を浮かべながら感謝の言葉を述べた。「ルドルフ、熱はもう下がったのか?」「はい父上。“お薬”のお蔭で治りました。」ルドルフの言葉を聞いたフランツと枢機卿達は一斉に眉をしかめたが、彼らは何も言わずに執務室から出て行った。「アレクシスをわたしの部屋に。彼に聞きたい事がある。」フランツがそう侍従に命じると、彼は皇帝の元から足早に去っていった。(あいつがルドルフに与えた“薬”というのは、もしかして・・)「陛下、どうなされましたか?」「いや、何でもありません。では参りましょうか。」フランツの脳裡に一瞬おぞましい光景が浮かんだが、彼はそれをすぐに打ち消した。 皇帝の命を受け侍従がアレクシスの姿を探している中、当の本人はウィーンの貧民街にある病院に居た。正体を隠す為医師に変装した彼は、今日も皇太子の“薬”を取りに病院に入るなり、地下へと続く階段を降り始めた。「“薬”は、間もなく出来ます。」地下室の扉を開けると、そこは消毒薬のつんとした臭いが漂っていた。 その中心に、白いドレスを纏いナース帽に結い上げた金髪を収めた看護師は、ルドルフに口移しで“薬”を与えたあの女官だった。彼らの前には、磔にされた少女が苦しそうに呻きながら、手首に嵌められた針金から逃れようともがいていた。だが彼女の願いもむなしく、針金は彼女の手首を更に縛め、そこからは血が流れていた。「無駄な抵抗はおよしなさい。あなたは今から、神の御許へと旅立つのですよ。」女官は慈愛に満ちた目で少女を見つめると、背中に隠し持っていた短剣で彼女の喉元と手首を切り裂いた。そこから滴り落ちる血を、女官はワインボトルで一滴残さず受けとめると、栓を閉じた。「美しい“薬”が出来ましたね。新鮮な内にこれを皇太子様の元へ。」「解っている。」「お気をつけて。」女官はそう言ってアレクシスの前に跪くと、恭しくワインボトルを彼に差し出した。「ここを出るときは誰にも見られないようにしろ。」「解っております。」アレクシスが地下室から出ていくのを見送った女官は、背後で絶命している少女の遺体を見つめた。「あなたに神のご加護を。」女官は胸の前で十字を切り、口端を歪めて笑った。「失礼しやす。」黒いフードで顔を覆った男が地下室に入って来た。「これをいつもの場所に片付けなさい。」女官は男に金貨の袋を渡すと、彼は少女の遺体を手早く降ろすと地下室から足早に出て行った。 女官は溜息を吐きながら、ナース帽を脱いで地下室から出て行き、貧民街から出た所で黒貂のコートをドレスの上から羽織ると、家路へと急いだ。「ルドルフ様、失礼致します。“お薬”の時間です。」アレクシスはそう言ってグラスの中に例の液体を注いだ。「アレクシス、この薬は何で出来ているんだ?」「我が領地の葡萄畑で獲れた上質の葡萄から出来たものです。」「そうか。ちょっと鉄錆みたいな味がするが、悪くはないな。」ルドルフはグラスの中で揺れる液体を見つめると、それを一気に飲み干した。“薬”を飲んだ途端、ルドルフは猛烈な睡魔に襲われた。「ベッドへ。」「かしこまりました。」アレクシスはルドルフを抱き上げると、寝室へと彼を運んだ。「皇太子様のご様子は?」「“薬”が効いておられるようだ。それよりも今夜、あの場所で。」「はい・・」にほんブログ村
2011年05月26日
コメント(0)

事件から数日後、ユリウスは被害者・マシューを見舞いに彼の部屋へと向かった。「マシュー、顔の傷はどう?」「大丈夫、ただのかすり傷だけで済んだよ。この調子だと舞台に立てそうで良かった。」マシューはそう言って笑った。「そう。ねぇマシュー、君を襲った奴の事が誰か知ってる? 部屋の床にダイヤのネックレスが落ちてたんだけど。」「ああ、多分リースだと思うよ。あのネックレスは恋人からのプレゼントで、あいつがいつも肌身離さずつけていたから憶えてるよ。」「やっぱり、リースが・・でもどうして君を? リースとは面識が全くないんだろ?」「さぁ、解らないな。でもあいつ、僕の事を何故か憎んでた。」マシューはそう言うと、鬱陶しそうに前髪を掻きあげた。「憎む? 君を?」「うん。リースは何かと僕につかかってきて、いつも僕を憎んでいるようにしか思えなかったんだ。原因は解らないけれど・・」「そう。でもマシュー、大した怪我じゃなくて良かった。」ユリウスがマシューの手を握ると、彼は天使のように微笑んだ。「ユリウス、ユーリから聞いたんだけれど、最近落ち込んでいるって?」「うん。ルドルフ様が体調を崩されていることを昨日初めて知って・・授業を受けている時もルドルフ様の事が気になって仕方なかったよ。」「君はルドルフ様の事が好きなんだね。」「そうかなぁ? ルドルフ様は我が儘だし、強引だし・・まぁ多少可愛いところもあるけどね。」ユリウスの言葉を聞いたマシューが突然噴き出した。「どうしたの?」「別に。君はルドルフ様の事がとても好きなんだなぁと思って。」(マシュー、何で変な事言ったんだろう?)自分の部屋に戻ったユリウスは、未だにルドルフへの恋心に気づいていなかった。 一方ウィーンでは、峠を越えたルドルフは徐々に回復し、ベッドから出られるようになった。「皇太子様、あの少年からお手紙が届いておりますよ。」「ユリウスから?」アレクシスからユリウスの手紙を受け取ったルドルフがそれを読み始めた時、ドアが誰かにノックされた。「入れ。」「失礼致します。ルドルフ様、ヴァチカンの使節団がお見えになりました。」(来たか・・)「アレクシス・・」「解っております。」アレクシスはそう言うと、寝室から出て行った。誰も居なくなった寝室で、ルドルフは漸くユリウスからの手紙を読み始めた。内容はとりとめのないものだったが、ユリウスがちゃんと自分との約束を守ってくれた事が嬉しくて、つい口元が緩んだ。手紙の返事を書く為に、ルドルフはゆっくりと寝室から出て執務室の椅子に腰を下ろし、便箋の上に羽根ペンで流麗な文字を書き始めた。“ユリウス、手紙を有難う。約束を守ってくれるなんて嬉しいな。あ、僕がこんな事を書くからっていい気になるなよ? 別に、お前の為に書いたんじゃないからな! ちゃんとクリスマス休暇には帰ってくるんだぞ! 帰ってこないと承知しないからな! 追伸:指輪は失くしてないだろうな?”「これでよし、と・・」ルドルフはペン立てに羽根ペンを置くと、ユリウスへの手紙を読み直してそれを封筒に入れた。「ルドルフ、居るのか?」ドアの向こうから、ルドルフの父・皇帝フランツ=ヨーゼフの声が聞こえた。「はい、父上。」カチャリとドアが開き、フランツとともに数人のヴァチカンの枢機卿達が執務室に入って来た。「あなたが、ルドルフ皇太子様ですね?」「ああ、そうだが・・僕に何か用か?」 枢機卿の1人がつかつかとルドルフの方へと近づくと、彼の前に十字架を突き付け、何かを叫んだ。にほんブログ村
2011年05月26日
コメント(0)

「昼餉の支度が出来ました。」「そうか、じゃぁ運んでくれ。」「わかりました。」千尋はそう言うと、隊士達の膳を厨房から一つずつ大部屋へと運んで行った。「昼餉でございます。」「か、かたじけない・・」優雅な所作で隊士達の前に膳を置いていく千尋の美しさに、誰もが溜息を吐いて恍惚とした表情を浮かべていた。「いただきます。」千尋は胸の前で両手を合わせてそう言うと、箸を持って昼餉を食べ始めた。ただ食事をしているだけなのに、茶を飲む些細な動きでも、皆彼の優雅な所作に惚れぼれとしていた。 そんな中、一(はじめ)だけが千尋を険しい表情を浮かべながら見ていた。突然新選組にやって来た、女子と見紛うような美しい少年・千尋。だがその美しさが少し魔性じみていることに、一は気づき始めていた。(こいつは、何かある・・)入隊試験の時、一目会っただけで一は千尋が何かを隠していると直感で解った。隙を見せぬ完璧さと、美しさを持つ彼に、一はその裏を掻いてやろうと企んでいた。「副長、お話があります。」「何だ?」不機嫌そうな表情を浮かべながら歳三が一に振り向くと、一は深刻そうな表情を浮かべていた。「どうした?」「新入隊士のことで・・」「そうか、詳しく聞かせて貰おう。」歳三はそう言って副長室の襖を開け、一とともに部屋の中へと入った。「あいつ・・千尋には何か禍々しいものが感じられます。」「禍々しいもの?」「ええ・・例えば、西洋には上手く人に化ける悪魔という魔物が居るとか。」「千尋がそうだと言いてぇのか? まぁ、美しいものには棘有りって言うからな。」歳三は口に煙管をくわえながら、そう言って笑った。(副長、あの少年に用心した方が良いですよ・・手遅れになる前に。)呑気な歳三を前にして、一はそう心の中で呟いた。「あ、雨・・」洛中を歩いていると、また雨に遭ったので、千尋は溜息を吐きながら商店の軒下で雨宿りをした。傘を持ってくれば良かったと彼は後悔した。「あんたが新選組に入隊したっていう千尋っていう奴かい?」背後から声がしたので千尋が振り向くと、そこには町人風の男が立っていた。「あなたは何者です? こちらの者ではないようですが。」千尋はそう言って男をじろりと睨むと、彼は鼻を鳴らした。「何者も何も、お武家さんに名を名乗る程のもんじゃねぇよ。まぁ、帝のおわす京を見てぇと思って江戸から来ただけさ。」「そうですか。それで、何故あなたはわたくしを知っているのです?」「巷で噂になっているぜ、あんたの事。鬼の集団に場違いな奴が入ってきたってな。」「それをわたくしに伝えに来たのですか? 変なお方ですね。」「あんた、怒ってばかりじゃ美人が台無しだぜ?」男は眉間に皺を寄せて自分を睨む千尋の髪に、銀の房飾りがついた珊瑚の簪を挿すと、雨の中を走り出した。(変な男ですね・・)その時はまだ、千尋はこの男を気にかけることはせず、髪に簪を挿したまま雨の中を走り、屯所へと戻った。「千尋さん、ずぶ濡れじゃないか! 風呂沸いてるから、早く入って身体を温めないと風邪ひくぞ!」「かたじけない。では、お言葉に甘えさせていただきます。」雨に濡れた着物と袴を脱いだ千尋は、ゆっくりと湯船に浸かった。「千尋、話が・・」風呂場の戸が乱暴に開かれ、あの少年が中に入って来た。「あ、ごめん・・」「後で宜しいですか?」少年が風呂場を出ようとした時、千尋が首に提げているペンダントを見た。「それは?」「親の形見です。もう行ってください。」千尋の瞳が、暗赤色に輝いたような気がしたが、少年は風呂場から足早に出て行った。にほんブログ村
2011年05月26日
コメント(0)

千尋が新選組に入隊してから、一週間が過ぎようとしていた。 あの巡察の夜以来、下世話な噂を立てる者は居なくなったが、それは総司をはじめとする幹部連中の目が届いている範囲内でのことで、陰では千尋と歳三の事について色々と話しているのを、何度か千尋は聞いていた。千尋と歳三が念友だとか、その所為で総司が歳三への嫉妬故に千尋を一番隊に入れて自分の配下としてこき使おうとしているなど、事実無根の話ばかりだった。そんな話ばかりして何が面白いのか、千尋には全く解らないので、放っておくことにした。「千尋君、今いいかね?」「はい、構いませんが。」着物の繕い物をしていた千尋に、新選組局長・近藤勇が声をかけて来たので、千尋は作業を中断し、姿勢を正して近藤を見た。 近藤勇は多摩の百姓として生まれ、天然理心流宗家四代目として試衛館の当主で江戸に妻子を残して総司、歳三とともに上洛した。池田屋事変以前の新選組がどうなっていたのか千尋は知らないが、今のような大所帯ではなかったらしい。新選組の頭が自分に何の用なのか―千尋が訝しげな視線を近藤に送ると、彼は笑顔を浮かべて千尋の前に座った。「君の噂は聞いているよ。何でも入隊試験の時、あのトシを気迫で負かしたというじゃないか。」「いえ・・あの時は必死だったので、つい。わたくしは副長の腕には到底及びません。」「謙遜するな、千尋君。君のような腕のある若者が入ってきてくれて嬉しいよ。これからも宜しく頼む。」「はい・・」岩のような厳つい顔に屈託のない笑顔を浮かべながら、近藤は千尋を励ますかのように彼の肩を何度も叩くと、満足そうに出て行った。(元気な方だ・・)初めて新選組局長に会った千尋は、彼が纏う強力な陽の気に圧倒された。ただひたすらに、夢を追いそれを実現させている近藤の瞳が少年のように輝いているのを、千尋は少し羨ましく思っていた。 昔、自分も彼と同じような瞳をしていた。だがそれはもう過去となり、今ではもうあの輝きは戻ることはない。 両親を殺した仇を討つ為に、魔物となり神に背を向けたあの夜から、安寧とした日々を送ることなど出来なかった。首に提げた紅玉のペンダントとともに、千尋は放浪の旅を繰り返した。はじめは千尋に会った者達は皆親切にしてくれてはいたが、疫病や干ばつ、事故などが続くと決まって悪者にされるのは余所者であり、その度に千尋は各地を転々とした。 一番新しい記憶は、魔物として処刑されそうになったことだった。産業や工業、科学が発達しつつある時代の中に於いても、未だに神や悪魔、魔女の存在を信じている連中が暮らす村で、千尋は異端者と告発されそうになり、寸での所で逃げ出した。神に背いた以上、安寧とした生活を送ることは出来ないのが、魔物の宿命だ。(わたくしはもう、この世に未練などない。)繕い物を再開した千尋が物思いに耽っていると、手元が狂い、針が指に突き刺さった。「痛っ!」指先からじわりと滲みでる血を見ながら、千尋はそれを咄嗟に吸った。魔物でも人間でも、流れる血の色は同じなのだ。「大丈夫?」千尋がゆっくりと顔を上げると、そこには昨夜話しかけてきた少年が立っていた。「大丈夫です。心配要りません。」「そう・・ならいいけど・・」少年は何か言いたそうな顔をしたが、部屋から出て行った。千尋は彼が何故話しかけてくるのか、解らなかった。今は余り目立たず、短い間だけでも安寧とした生活を送らなければ。針箱を元の場所に仕舞い、千尋は昼餉の支度をしに台所へと向かった。「お、千尋じゃん。」「こんにちは、藤堂先生。」「“先生”なんて堅苦しい呼び方、やめてくれよ! “さん”付けでいいよ!」藤堂平助はそう言って屈託のない笑みを浮かべると、千尋の華奢な肩を叩いた。「藤堂さん、わたくしは何を・・」「ああ、飯が炊けたから、そこのお椀に均等に入れといてくれ。」「はい。」襷(たすき)がけをした千尋は、ゆっくりと竈(かまど)から炊き立てのご飯を杓文字で掬い始めた。にほんブログ村
2011年05月25日
コメント(0)

ルドルフからの返事がないことにユリウスが不審を抱き始めたのは、カエサル達とイギリスへと戻った一週間後の事だった。(どうしたんだろう・・)ホーフブルクを出た時、ルドルフは熱を出していなかっただろうか、それとも―ユリウスがそう思った時、突然自分の机を蹴る音で彼は我に返った。顔を上げると、そこにはカエサルの取り巻きの1人がユリウスを睨みつけていた。「何か用?」「お前平民の癖に、ウィーン宮廷の口入れで入ったんだってな?」(まただ・・)貴族の子弟が主に通うイートン校の中で、一介の孤児で平民であるユリウスの存在を好ましく思わない者達が多かった。その所為で何度陰湿な嫌がらせを受けたか解らない。なので、こういった遣り取りはもう慣れっこだった。「そうだけど、それがどうしたの? 僕が生意気だとでも言いたいの?」ユリウスがそう言って取り巻きを睨み付けると、彼は一瞬怯んだが、怒りで顔を歪ませながら彼を睨み返すと、こう言った。「お前の大好きなルドルフ様が生死の境を彷徨っているというのに、お前は何も知らないんだな?」「どういうこと?」「そんな事、自分で確かめろよ。じゃぁな。」勝ち誇った表情を浮かべながら、取り巻きは教室から出て行った。「これでいいんだよな、カエサル?」「良くやったね。」カエサルはそう言うと、取り巻きに金を渡した。彼はちらりと教室の扉を少し開けて中を覗き、項垂れているユリウスを見てほくそ笑むと、廊下を歩き始めた。「どうしたの、ユリウス?」「なんでもないよ。」食堂で昼食が喉を通らず、残してしまっているユリウスを心配そうに彼と同室のユーリが声を掛けた。「ちょっと食欲なくて。ごめん、部屋で休んでくる。」ユーリに断ってユリウスが学生寮へと向かい部屋に入ると、廊下から耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。(何?)「全員、廊下に出ろ!」監督生・ジュリアンの怒声にユリウスはベッドから飛び起きて部屋から出た。「どうしたんですか? それにさっきの悲鳴は一体・・」「さっき何者かがマシューの部屋に侵入し、顔を斬りつけられた。」ジュリアンはそう言うと、溜息を吐いた。顔を斬りつけられたマシューは、“ヘーゼルの天使”と学内で謳われる程、女かと見紛うような美貌の持ち主で、今度の劇で主役に抜擢されたばかりであった。イートン校に入学して以来、マシューはユリウスを平民である事を馬鹿にしていじめたりする貴族連中とは違い、身分に分け隔てなく友人として対等に接してくれた。その彼がそんな災難に遭うだなんて、ユリウスは信じられなかった。「犯人は? 見つかったんですか?」「いや・・だがマシューの部屋の床にこんなものが転がっていた。」そう言ってジュリアンがポケットの中からあるものを取り出した。それは、鳥を象ったダイヤモンドのネックレスだった。良く見ると、マシューと揉み合った弾みなのか、プラチナの細い鎖が千切れていた。「これは・・」「ユリウス、このネックレスの持ち主を知っているのか?」「ええ・・」晴れていた空は徐々に曇り始め、やがてぽつぽつと雨粒が地面を濡らし始め、その勢いは激しくなり、少年が纏っていた外套は水を吸って重くなった。彼は肩で息をするほどに体力を消耗させながら、下宿があるフラットの部屋へと入った。「大丈夫・・誰にもばれていない。」そう言って外套のフードを下ろした少年は、荒い息を吐きながら鬱陶しそうに外套を脱ぎ棄て、鬱陶しそうに前髪を掻き上げるとベッドに倒れ込んだ。 ふといつもお守り代わりに付けているネックレスを触ろうとすると、それを失くしたことに初めて気づき、彼は恐怖で顔を蒼褪めた。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

ピアノの優雅な音色が聞こえ、千尋がそっと目を開けると、そこには今は亡き兄の姿があった。―やっと起きたんだね、ルクレツィア。(兄様、どうしてここに?)兄はあの日よりもっと前に死んだ筈なのに、どうしてここでピアノを弾いているのだろう。千尋がソファから立ち上がってゆっくりと彼の元へと行こうとした時、兄がピアノの演奏を止めてそっと千尋の手に触れた。―いつかまた、会えるといいね。兄の手は、氷のように冷たかった。(待って、兄様!)兄を追おうとすると、突然突風が吹き、千尋は彼を見失った。(兄様!)千尋は目を開けると、そこは新選組の屯所内にある大部屋の中だった。(また、あの夢か・・)もう兄の事を忘れたと思ったのに、久しぶりに彼の夢を見てしまった。昔の事を思い出してはいけないと思いながらも、夢まで管理することが出来ない。もう一度寝ようと思い、寝返りを打とうとした千尋だったが、周りのいびきと目が冴えてなかなか眠れなかったので、大部屋から出た。「綺麗な月・・」縁側へと出て空を仰ぐと、そこには紅い月が浮かんでいた。 あの日―家族を全て失った夜も、空には紅い月が浮かんでいた。(父様、母様!)一体何が起こったのかも分からずに、千尋はただひらすら両親の名を呼び、彼らの姿を探しながら夜道を走っていた。足元を照らす洋燈の火が徐々に小さくなってゆくのを見て、千尋は早く両親の姿を見つけなければと暗い森の中をひたすら走っていた。息を切らしながら彼が漸く両親が居る邸へと辿り着いた頃には、そこは紅い炎に包まれていた。(そんな・・どうして・・)瀟洒な邸は炎によって崩れ落ち、瓦礫が燃える音しか聞こえてこなかった。一夜にして家族と家を失くし、千尋は途方に暮れていた。空を見上げると、そこには血のような紅い月が浮かんでいた。(父様、母様・・)燃え盛る邸の前へと千尋が近づこうとした時、何かが月光を浴びてきらりと光っているのに気づいた。身を屈めて光るものを見つけて拾い上げると、それは、今は亡き兄が自分の誕生日にプレゼントしてくれた紅玉(ルビー)のペンダントだった。―復讐したいか? お前の全てを奪った連中に。不意に闇の中から声が聞こえて千尋が振り向くと、そこには漆黒の服に長身を包んだ青年が立っていた。(復讐したいわ。)その後は何があったのか、全く憶えていない。あれから何年もの歳月が過ぎてゆき、いつしか自分の本名を知る者は周りから居なくなった。それと同時に、千尋は自分が何者であるのかさえ分からなくなった。果たして自分は人間なのか、それとも魔物なのか。(一体わたくしはいつまで・・)首に提げたペンダントを握り締めながら、千尋は深い溜息を吐いた。その時、背後で廊下の床板が軋む音がしたので、彼がゆっくりと振り向くと、そこにはあの雨の夜に見かけた少年が立っていた。「あなたは、あの時の・・」じっと自分を見つめる少年の脇を、千尋は無言で通り過ぎた。大部屋に戻って布団の中に入り目を閉じると、夢にはあの夜の事も、兄も出て来なかった。同じ頃、洛中にある陰間茶屋では、1人の少年が中年男に抱かれていた。「今日、壬生狼に珍しい新入りが入ってきたそうだ。」「へぇ、そうどすか?」煙管から煙を吐き出しながら、少年は気だるそうに男を見た。「新入りってどんな子どす?」「さぁ、何でも黄金色の髪と蒼い瞳をした奴だったとか。」少年の瞳が、好奇心で輝いた。「へぇ・・黄金色の髪をした子・・」写真素材(c)NOIONにほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

―どうしたの? 総司は、幼い頃の事をまた思い出していた。 母と姉達と初めて離ればなれで暮らし始め、毎日心細い思いで下働きに励んだ総司だったが、近藤周助の妻、ふでからの肉体的・精神的暴力には耐えられず、ある日多摩川沿いへと出て泣いていた時、あの少女に出会ったのだ。―いつか再びお逢い致しましょう・・そう言って自分に背を向け、去っていた少女と、先ほど話をしていた千尋と顔が瓜二つだった。彼が一体何者なのか、何故新選組に入隊してきたのかを探るのに、まだ時間はある。慎重に動かなければ。総司がそう思った時、彼は激しく咳き込み、前かがみになった。咄嗟に口元を覆った両手には鮮紅の血が付いていた。(まだ・・死にたくない!)今まで辛い思いに耐え、剣の道をひたすら突き進んできて、これからだという時に、病魔ごときにやられて堪るか。総司は井戸の水で手にこびりついた血を落とすと、顔を上げて屯所内へと入っていった。その姿を、一が静かに見ていた。「総司、来たか。」「失礼します、土方さん。」副長室の襖を開けた総司が中に入ると、歳三は少し不機嫌そうな顔をしていた。「どうしたんですか? まだ新入りに負かされた事が悔しいんですか?」「煩い。それよりも千尋、とか言ったあの新入り、お前に任せるぞ。」「解りました。部下にもそのように伝えておきます。」では失礼します、と副長室から出た総司に、歳三はひらひらと手を振っただけだった。「あいつ・・何か妖しいな・・」副長室の襖が閉められた後、歳三は机に顔を伏せながら、そう呟いて険しい表情を浮かべた。 その夜、総司率いる一番隊は市中巡察の任についていた。その中には謎の新入隊士・千尋の姿もあり、一番隊の者達はあの“鬼の副長”を負かせたのが彼なのかと、彼の顔をジロジロと見た。「なぁ、あいつかよ?」「ああ、あいつだよ。あの土方副長を本気で殺そうとしたって奴は・・」「大人しい顔をしていておっかねぇなぁ・・」ひそひそと自分の事を言い合う隊士達の声を背後で聞きながら、千尋はくるりと彼らの方へと振り向いた。「わたくしの顔に、何かついておりますか?」「え、あの・・」「いや、何も・・」「そうですか。余り緊張感が全く感じられませんので、少し心配しておりました。」辛辣な一言を彼らに向けると、彼らは一瞬怒りで顔が攣(つ)ったが、総司が千尋の声で彼らの方を見たので慌てて顔を伏せた。「何かありましたか?」「いいえ。少し煩い小蠅(こばえ)がおりましたから、追い払っただけです。そうですよね?」満面の笑みを浮かべながら、先ほど自分の噂話をしていた連中を見ると、彼らは無言で頷いた。「今年の夏は暑いから、夜になっても小蠅が飛んでいるんでしょうね。厄介だなぁ。」総司はそう言って千尋の言葉を聞いて笑ったが、その目は冷たい光を湛えていた。「ええ、本当に・・厄介ですね。」総司に相槌を打った千尋は、じろりと背後に立つ男達を睨み付けると、さっさと彼らを引き離すかのように再び歩き始めた。「おっかねぇ~」「華の貌(かんばせ)をしているが、夜叉の性をしてやがるな、あいつは。」「全くだ。」にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

「お、出て来たぞ!」 隊士達は道場であの“鬼の副長”を負かした美貌の新入隊士の姿を一目見ようと、慌てて道場の窓から離れて近くの茂みへと移った。「おい、押すなよ!」「お前だって!」隊士達が茂みの中で揉み合いをしていた時、道場の中から件の新入隊士が出てきた。 腰まである金色の髪を背中で纏め、風になびかせながら井戸の方へと歩いてゆく姿だけでも、まるで天から舞い降りてきた天女のように美しい。「そこいらの女より、ずっといいぜ・・」「あいつ、本当に男かよ?」「もしかして実は男の振りをした女?」隊士達がひそひそと話していると、彼らは誰かが背後にぬぅっと立つ気配がした。「てめぇら、そこで何してる?」「ひ、土方副長・・」一斉に背後を振りむくと、そこには鬼のような形相をした歳三が立っていた。「朝餉の時間はとうに過ぎてるぞ、早く支度をしねぇか!」「は、はいぃ~!」歳三に怒鳴られ、隊士たちは蜘蛛の子散らすようにその場から逃げていった。「ったく、あいつらたるんでやがる・・」こうして歳三の怒りは、不幸にも稽古で隊士達に向けられたのであった。「土方さん、隊士達に八つ当たりするのは止めてくださいよ。いざという時、彼らが役に立たなくなったらどう責任を取るつもりなんですか?」「うるせぇよ、総司。俺はまだあいつに負けた事を認めたくねぇんだ。」井戸の傍で道場でかいた汗を乱暴に流しながら、歳三はそう言って総司を見た。「土方さんがあんなに必死になるところ、初めて見ましたよ。あの子はうちで初めて鬼の副長を倒した桃太郎ってことになりますね。」総司は楽しそうにそう言うと、歳三を見た。「お前、何だか楽しそうじゃねぇか?」「別にぃ、わたしはただ事実を言っているだけですよ。」総司はくすくすと笑いながら、井戸から去っていった。「元気になったようだな・・」歳三はそう言うと、溜息を吐いて恋人の背中を見送った。 一方、新入隊士として新選組に迎えられた千尋は、自分が暮らす部屋に通された。「千尋です、宜しくお願い致します。」千尋がそう言って部屋に居た隊士達に頭を下げると、彼らはほうっと溜息を吐きながら彼を見た。「じゃぁ後は自由にしていいよ。」そう言って案内役の藤堂が部屋から出た途端、隊士達が千尋の方へと駆け寄ってきた。「お前、国はどこだ?」「さぁ、覚えておりません。」「副長を負かすだなんて、お前何処の道場に居たんだ!?」「道場には通っておりません。全て自己流です。」隊士達の問いに淡々と答える千尋だったが、隊士達は彼の答えに必死に耳を傾けていた。(少し厄介な事になりましたね・・)新選組に入隊したのは、総司と歳三の間にある“何か”を探る為だったが、彼らの反応を見ると、何か厄介事に巻き込まれそうな予感がした。 新選組は男ばかりが暮らし、女を買う金がない者達は男色に走っているという現象が起きていた。むさくるしい男達の中に突然現れた美しい千尋は、まさに“掃き溜めに鶴”だった。「千尋君、居ますか?」千尋が部屋の隅で座っていると、総司が部屋の襖から顔を覗かせて彼に手招きした。「お話とはなんでしょうか?」「あなたは一体、何者なんですか?」総司はそう千尋に問うと、彼を見た。「わたくしは何者であるが、それすら自分自身でも解りません。」千尋はそう言って、じっと自分の両手を見た。「生きているのか、死んでいるのかさえ解らない・・」一瞬総司は、彼が寂しげな表情を浮かべているのを見た。「お話はそれだけですか?」「ええ。」総司は千尋の背中を見送りながら、一度彼と会ったことがあるという気がしてならなかった。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

「総司、そいつ誰だよ?」朝餉を食べに総司達が少年とともに大部屋に入ると、原田左之助がそう言って少年を見た。「千尋と申します。今日からこちらでお世話になりますので、宜しくお願い致します。」少年は正座したまま、そう挨拶して原田達に頭を下げた。「土方さん、こいつ入隊させる気かよ? 周りが放っとかないと思うけど?」左之助の隣に居た藤堂平助がそう言って笑うと、歳三はじろりと彼らを睨んだ。「お前の入隊を許すには、それなりの試験をさせる。」「解っております。」少年―千尋はそう言って歳三を見た。その時、彼の瞳があの日のように暗赤色に輝いていることに歳三は気づいた。(こいつ、一体何しに来やがった?)千尋の狙いを考えながら、歳三は朝餉を食べ終えると道場へと向かった。「おい、一体何が始まるんだ?」「あんな華奢な身体で木刀なんて握れるのかね?」「それにしてもすげぇ別嬪だな・・」道場の外には、突然の少年の登場に好奇心を剥き出しにしながら中の様子を見ようと窓の方へと殺到していた。中には、総司と斎藤、原田や藤堂、そして土方と近藤が正座していた。「宜しくお願いします。」「俺がこいつの相手をする。」歳三がそう言って壁に掛けてある木刀を掴もうとした時、千尋が口を開いた。「試験は真剣で、お願い致します。」彼の言葉に、総司達はざわめいた。真剣での勝負―即ちそれは敗北したら死を意味する。少女と見紛うような容貌と、華奢な身体をした千尋には剣術の心得があるとは思えない。「本気か?」「はい。」「いい心意気だ。」歳三はそう言うと、腰に差していた刀の鯉口を切ると、その刃を千尋に向けた。「お手柔らかにお願い致します。」「総司、こいつにお前の刀を。」「解りました。」総司はそう言って立ち上がると、千尋に刀を渡した。「ありがとうございます。」千尋は総司に微笑むと、歳三に笑みを浮かべた。「始め!」沖田の合図により、歳三は千尋へと突進したが、難なく彼は歳三の攻撃をかわすと、歳三に向けて鋭い突きを放った。(くそ!)華奢な容姿と女と見紛うような容貌に合わず、千尋は正確に歳三の急所を狙ってくる。「土方さん、おされてるな・・」「あいつ、外見に寄らず強いな・・」「一体何者なんだ?」死闘の中で歳三は肩で息をするほど体力を消耗しているというのに、千尋は一度も息を乱していない。それどころか、口元には余裕の笑みさえ浮かべている。「もうおしまいですか?」「うるせぇ!」壁際にまで追い込まれ、顔の前で刃を交えながら歳三が吼えると、千尋は声を出して笑った。「あなたに出来ることはふたつ・・ここでわたくしを殺すか、わたくしに殺されるか。」千尋の瞳が再び暗赤色に輝いた。「ふざけたこと抜かすな!」歳三と千尋が刃を互いの喉元に突き付けたのは、ほぼ同時のことだった。「そこまで!」「千尋、採用だ!」「ありがとうございます。」千尋は満面の笑みを浮かべながら、総司に刀を返した。「これからも宜しくお願い致しますね。」歳三の傍で千尋が彼の耳元でそう囁くと、彼は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべた。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

「ん・・」総司が目を開けると、隣には歳三が眠っていた。自分を心配して付き添っている内に眠ってしまったのだろうか。(昔熱を出した時、いつも付き添ってくれたな・・)多摩にいた頃の事を、最近よく思い出す。近藤や歳三との出逢い、歳三と恋仲になるまでの事が、昨日の事のように思い出してしまう。過去を振り返っても、あの頃にはもう戻れないというのに。「土方さん、起きて下さいよ。」総司がそう言って歳三の肩を揺すると、彼は低く呻いて目を開けた。「総司、身体の調子は大丈夫なのか?」「ええ、もうすっかり元気になりました。やっぱり風邪を治すには寝るのが一番ですね!」「ったく、心配掛けやがって。朝餉食ったら道場に来いよ。」「はい、解りました。」歳三は総司の部屋を出ると、溜息を吐いた。本人は風邪だと言っているが、池田屋の時に昏倒した総司を診察した医者は、彼が労咳だと歳三に告げた。 転地療養が一番の治療法だと彼は言っていたが、屯所を出て療養しろと言って素直に総司が従わないだろうと歳三は思っていた。子どもの時分からの長い付き合いの中で、総司が他人から押し付けられることを一番嫌う性分であることを彼は知っていたからだ。それに彼は剣客として剣を振るうことでしか生きられない。総司は己の病の事を知っているが、歳三達に隠して最期まで剣客として生きようとするだろう。剣客として生きて欲しいという想いと、病を治して欲しいという想いが歳三の中でせめぎ合っていた。「副長、おはようございます。」歳三が朝食を取る為大部屋に向かっていると、三番隊組長の斎藤一が声をかけてきた。「おはよう。」「総司はどうですか?」「もう大丈夫だ。朝稽古にも出れそうな程ぴんぴんしてるぜ。池田屋でぶっ倒れてたってのに、全く人騒がせな奴だぜ。」そう言った歳三の顔には、満面の笑顔が浮かんでいた。「それは良かったです。彼は新選組にはなくてはならない存在ですからね。」一は歳三の言葉に相槌を打った。「ああ、そうだな。」「土方さん、先に行っちゃうなんてずるいですよ!」背後から声がしたかと思うと、総司が二人の後を追ってきた。「すまねぇな、総司。まだ寝てるのかと思ったぜ。」「早く朝餉食べましょう!」「わかったよ。総司、余りべたべたするな。誤解されるだろうが!」「いいでしょう、別に。」自分にしなだれかかる総司に憎まれ口を叩きながらも、歳三は嬉しそうな顔をしていた。それを傍で見ていた一は、何処か寂しそうな顔をしていた。彼は密かに総司を想っていたが、その想いに総司は全く気付かなかった。総司は歳三の隣を歩き、彼に笑顔を浮かべている。その笑顔が自分に向けられることがない事を解っていても、一は総司の事を想い続けるのを止められなかった。だが歳三と総司との間には誰にも入る隙間がないことくらい、一は解っていた。自分の想いが、報われぬことも。「たのもう!」朝稽古を終えた総司達が井戸で身体を濡れた手拭いで拭いていると、門の方から少年の声が聞こえた。「こんな朝早くに道場破りですか?」「さぁな。総司、お前に任せたぜ。」「はいはい。」総司は渋々と門の方へと向かうと、そこには一人の少年が立っていた。「君は・・」「お久しぶりです。」背中で一纏めにした少年はそう言うと、蒼い瞳で総司を見た。「どうしてここに?」「それは申し上げられません。」少年は歌うように総司の質問に答えると、口端を歪めて笑った。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

青年は漆黒のフロックコートに長身を包み、漆黒のシルクハットを目深にかぶっていた。「今は千尋と、呼んだ方が良いか? わたしはお前の本名の方が好きだが・・」「どちらでも構いません。それよりもどうしてここが解ったのです?」青年を見た千尋の顔が、少し恐怖に引き攣っていた。「忘れたか、千尋。お前とわたしは切っても切れぬ縁だ。忘れたのか、あの日の事を。」男はそう言ってじっと深い森のような翠の瞳で千尋を覗きこもうとしたので、千尋は慌てて彼から目を逸らした。「お前はあの二人をどうするつもりなんだ?」「何が言いたいのです?」「二重契約は厳禁だというのに、お前は二人の魂を手に入れるつもりなのか?」「わたくしは彼らの願いを叶えているだけです。ただ、あの二人には何かを感じるのです。」「何かを?」男がそう言って千尋を見ると、夜風で千尋の長い髪が靡いていた。「ええ。あの二人には深い絆以外の何かがある。それよりもあなたは、どうしてここにいるのです?」千尋は男を見ながら言うと、彼は口端を歪めて笑った。「お前を探しに来たと言っただろう? さぁ、帰ろう。」男は優雅に手を千尋に差し伸べた。だが、その手を千尋は握ろうとはしなかった。「わたくしはこれで失礼致します。」千尋が男に背を向けると、彼はそっと千尋の髪を優しく梳いた。「それだけでは物足りないな。」男はそう言ってコートのポケットからレースがついたリボンを取り出すと、それを千尋の髪に結んだ。「良く似合う。そういえば昔、お前もそんなリボンを付けていたな。」「もう過ぎたことの話は止しましょう。もう二度と戻らぬ時間ですから。」冷淡な口調で千尋が男に言うと、彼は少し溜息を吐いた。「お前はいつもつれないな。」「ではわたくしはこれで。」千尋はそう言って男に背を向けると、静かに歩き出した。「・・全く、昔も今も可愛げがないな、ルクレツィア。」男は次第に小さくなって消えてゆく千尋の姿を見つめながら、そう呟くと煙のように掻き消えた。 ぽつり、ぽつりと、空から滴が落ちて来るのを感じて、千尋はそっと目を閉じて立ち止まった。(雨・・)そういえばあの日も、雨が降っていたなと千尋は少し思い出していた。遠い昔の出来事が、まるで昨日の事のように時折思い出してしまう。あの頃には優しい両親や使用人に囲まれ、何不自由ない幸せな生活を送っていた。美しい花や宝石、ドレスに囲まれた日々は突如、終わりを告げるとも知らずに、そんな生活を毎日満喫していた。だがその幸せはもうない。千尋はゆっくりと目を開け、そっと首に提げているペンダントを取り出した。これだけが、過去の幸せな思い出に浸れる唯一の遺品(かたみ)だ。(わたくしの傍には神はいない・・代わりに居るのは・・)千尋がペンダントを握り締めた時、近くで雨音に混じって数人の人間の怒号と剣戟の音が聞こえてきた。千尋がゆっくりと音のする方へと歩き出すと、そこには数人の男達が刃を交えており、その中の一人は路傍に蹲り息絶えていた。だが残りの者達は、互いの命を賭けて刀を握り締め、敵と刃を交えていた。千尋はそんな彼らを、遠巻きに見ていた。死ぬと分かっていても、決して敵には背中を向けたりはしない男達に、彼は誰かの面影を重ねていた。千尋がそっとペンダントを見つめていると、肉が断たれる音と断末魔の叫びが聞こえたかと思うと、血飛沫が千尋の頬に飛んだ。「あ・・」間の抜けた声が聞こえて千尋が顔を上げると、まだ元服を迎えていない前髪姿の少年が自分を見つめていることに気づいた。千尋は彼に口端を歪めて笑うと、その場から静かに立ち去った。雨足はやがて強くなり、遠くで雷鳴が轟き始めていた。千尋は雨に打たれながら、くすくすと笑い始めた。哀しい時や嬉しい時以外でも、笑えるのだなと彼は思った。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

あれはまだ、総司が九歳にもならぬ頃だった。その頃はまだ、宗次郎と呼ばれていた。 父を生まれてすぐに亡くし、母と二人の姉と暮らしていた総司は、初めて実家と家族から離れ、江戸市谷の試衛館で暮らすことになった。慣れぬ環境と下働きに、総司は何度も実家に帰りたいと思ったが、ここで帰れば心良く自分を送りだしてくれた姉達に迷惑がかかるかもしれないと総司は幼いながらに涙を堪えていた。「宗次郎、あんた畳を腐らせる気かい!」試衛館の道場主・近藤周助の妻、ふではそう言って総司を叱りつけた。「す、すいません!」「“申し訳ありませんでした”とお言い! 全くあたしゃぁこんな痩せっぽちのチビ、一体何の役に立つのかねぇとうちの人に反対したんだよ! こんな雑用も出来ないなら里に帰りな!」総司の円らな茶色かがった黒い瞳から、じんわりと涙が浮かんできた。「何ぼけっと突っ立ってんだい! 役立たずの穀潰しめ!」ふではついと総司に一歩近づくと、彼の横っ面を思い切り張った。総司は堪らず裏口から外へと飛び出して行った。「姉上・・母上ぇ・・」多摩の河原で母と姉恋しさに、総司は小さな身体を震わせながら泣いた。「どうしたの?」不意に声が聞こえ、総司が顔を上げると、そこには黄金色の髪をなびかせた少女が立っていた。「まぁ、こんなに顔が赤く腫れて・・誰かに打たれたのですね。」そっと少女の白魚のような手が総司の小さな頬を優しく撫でた。「お家はどちら? わたくしが送ってさしあげましょう。」「うちなんてない。あんな女が居る所なんか、帰りたくない。」総司はそう言って少女を見ると、彼女は優しい目で自分を見つめていた。「わたくしは千尋。あなたの願いを一つだけ叶えてさしあげましょう。」「本当に?」あの頃の自分は、少女の言葉に何の疑いもなくそれを鵜呑みしていた。「あなたの願いは?」「強くなりたい。誰よりも強く。」一瞬少女が口端を歪め、暗赤色の双眸で自分を見つめている錯覚に捉われた。「目を、閉じて。」言われるがままに総司が目を閉じると、少女の柔らかな唇が自分の唇を塞ぐ感覚がした。目を開けると、少女の髪が突風で靡き、うねっていた。「これでわたくしとあなたの契約は成立致しました。あなたの願いはわたくしが叶えてさしあげます。いつか再びお逢い致しましょう。」少女はそう言うと、総司に背を向けて河原を立ち去っていった。 あれから総司は天然理心流の塾頭として剣術の腕を上げ、今や新選組一番隊組長として名を馳せるまでに成長した。それは総司の努力の結果から生まれたものであったが、彼の脳裡にはあの謎の少女の姿が時々浮かんで来ては消えてゆくのだった。「総司・・」誰かにのしかかられている重苦しい感覚がして総司が目を開けると、そこには歳三の姿があった。「土方さん、どうしたんですか?」「いや、お前の見舞いにな。身体の調子はどうだ?」「いいですよ。」「そうか。池田屋でお前がぶっ倒れた時はもうお前が死ぬかと思ったぜ。」「もう、まだわたし若いのにそう簡単に死ぬわけないじゃないですか。冗談にしてもきつすぎますよ。」「すまねぇな。」総司が笑っていると、歳三もつられて笑った。「お前の笑っている顔は、いつ見てもいいな。」「土方さんだって笑えばいいのに。いつも顰(しか)めっ面じゃぁ、みんな怖がりますって。」「簡単な事じゃねぇんだよ。」“鬼の副長”と呼ばれ隊内で恐れられている歳三が唯一安らげる時は総司の傍に居られる時だけだった。あの千尋とかいう少女が本当に自分の願いを叶えてくれるのか、歳三は少し疑心暗鬼になった。 夜の帳が下りた京の街を、千尋は髪を靡かせながら歩いていた。「こんな所に居たのか、千尋。探したぞ。」 野太い男の声に千尋がゆっくりと振り向くと、そこには精悍な顔立ちをした青年が立っていた。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

「それは初対面のあなたにはお教えできません。ですが・・」武家娘はそう言うと、じっと蒼い瞳で歳三を見た。「あなたは恋人が不治の病に罹っていることを知っているのでしょう?」武家娘の言葉に、歳三の顔が強張った。彼の反応を見た武家娘は、まるで歳三の心を見透かすかのように蒼い瞳で彼を見つめた。「あなたにとって彼は実の弟のようなもの。彼が幼き頃から寝食をともにし、常に寄り添って生きて来た。けれどももうその時は終わろうとしている・・」「てめぇは池田屋で総司に何か言ったのか?」「いいえ、何も。」武家娘はそう言ってくすりと笑った。暖簾から僅かに射し込んだ夏の陽光を弾いて彼女の瞳が宝石のようにきらりと輝いた。だがその輝きは、何処か禍々しかった。「てめぇは総司とどんな関係だ?」「彼とはある契約を交わしました。わたくしは彼を守る為にここに居るのです。」武家娘はさっと立ち上がると、歳三の肩にそっと触れた。「あなたは本当に、彼の事を心の底から愛していらっしゃるのですね。」「だから何だって言うんだ? 俺は総司を・・あいつを救いてぇんだ。どんな手を使ってでも!」歳三は今まで堪えていた想いを吐き出すと、机にその苛立ちをぶつけた。周囲の客達は何事かと歳三達の方を見た。「暫く歩きましょうか。」冷たい光を湛えつつ、武家娘はそう言って歳三の手を取って茶店から出て行った。「もう、ここには人目はありませんね。」茶店から少し離れた河原へと歳三を連れて行った武家娘は、そう言うなり簪と櫛を結った髪から抜き、乱暴に頭を振った。はらはらと黄金色の髪が風に乗って広がり、夕陽に照らされたそれはまるで上質の絹糸のような美しい輝きを放った。「彼を助けたいのなら、方法が一つだけあります。」武家娘はそう言うと、そっと歳三に近づいた。「それは、何だ?」「わたくしと契約を交わすことです。本来ならば二重契約は厳禁ですが、状況が状況ですので。」彼女は白魚のような手で歳三の頬を優しく撫ぜたかと思うと、彼の唇を塞いだ。突然の事に歳三は戸惑いながらも、武家娘を押し退けようとはしなかった。「てめぇ、一体何した?」「これでわたくしとあなたの契約は交わされました。」武家娘はそう言って歳三から離れた。「総司はお前と何を契約した?」「それはお教えできません、守秘義務がありますので。それよりもあなたの願いは?」「総司を・・あいつの命を救ってくれ。もしあいつの命が救えなかった時は・・俺の命を奪え。」「本当に、そんな事を願ってもいいのですか?」そう言ってゆっくりと俯いていた顔を上げた武家娘の蒼い瞳は、暗赤色に妖しく煌めいていた。「あいつが居なきゃ、俺は生きていけねぇ。ずっと昔から傍に居たんだ。あいつが居ない世界なんて考えられねぇ。」「本当に、彼を愛していらっしゃるのですね・・」半ば歳三に呆れたかのような笑みを口端に浮かべながら、武家娘は彼に背を向けて歩き出した。「お前、名は?」「千尋と申します。」武家娘―千尋は自己紹介すると、河原を後にした。(総司、お前はあんな得体の知れない奴と何を願掛けしたんだ?)屯所に戻った歳三は、布団の中で眠る総司を見つめながら千尋の言葉を思い出していた。“わたくしは彼を守る為にここに居るのです。”一体総司はあの得体の知れない者と何故契約し、何を願ったのか。あいつが何を考えているにせよ、総司の病さえ治ってくれればいいと、歳三は思った。「ん・・土方さん・・」恋人の名を夢の中で呟く総司の唇を、歳三は思わず塞いだ。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

「総司、しっかりしろ!」歳三は畳の上に倒れている総司を見つけると、彼の身体を揺さ振った。「土方・・さん・・?」総司は低く呻き、薄茶の瞳で恋人を見つめた。「大丈夫か?」「はい・・けれどちょっと身体がだるいくらいで。もう大丈夫です。」総司がそう言って立ち上がろうとすると、歳三がそれを制するかのように彼を抱き締めた。「休んでいろ、総司。」歳三は総司の手を濡らす血が、彼のものだということに気づいた。(まさか・・)一瞬彼の脳裡に、あの恐ろしい病の名が浮かんだ。「土方さん・・?」(総司がそんなこと・・嘘に決まってる。)「土方さん、どうしたんですか?」「いや、何でもねぇよ。おい、誰か戸板を!」「は、はい!」(総司があんな病気に罹るなんてことはねぇ・・こいつは、まだ若い・・)恋人の身が病魔に侵されているのではないのかという一抹の不安を感じながらも、歳三はそっと総司の黒髪を梳いた。 新選組が池田屋で長州の過激派浪士達と死闘を繰り広げた“池田屋事件”から数日が経ち、歳三は副長室で仕事をしていた。「土方君、入りますよ?」「山南さんか。」襖が開き、一人の男性が入って来た。背は土方と同じ位で、女性と見紛う程の美しい顔をしている彼は、試衛館の食客で北辰一刀流の遣い手でもある新選組副長・山南敬助(やまなみけいすけ)である。「沖田君の具合はどうです? 池田屋で突然倒れたとか・・」「ただの風邪だとさ。数日位寝たら治るとか言ってやがる。」土方はそう言って溜息を吐いた。「沖田君は少々無茶をし過ぎるところがありますからね。それよりも池田屋の件で長州がどう動くかですね。」「ああ、そうだな。」「土方副長、今宜しいでしょうか?」「入れ。」「失礼致します。」緊張で震えながら、一人の平隊士が副長室の襖を開け、中に入ってきた。「あ、あの・・これを副長にと・・」平隊士がそう言って土方に渡したのは、文だった。「恋文か。」然程興味がなさそうに歳三が平隊士から文を受け取ってそれを読み始めると、彼の眦が上がった。「この文をお前に渡したのは誰だ!?」「黄金色の髪をした女子です。この文を副長に渡してくれと、それだけ・・」平隊士の言葉を最後まで聞かずに、歳三は副長室を飛び出し、そのまま屯所から外へと出て行った。“三条大橋にてお待ちしております”彼が握り締めた文には、そう流麗な文字で書かれてあった。「くそ、もういねぇか・・」肩で息をしながら、歳三は三条大橋の前で“黄金色の髪をした女子”の姿を探したが、そのような者は何処にも居なかった。 池田屋で総司の居場所を指で指したあの女は、総司の事を知っている。あの者の正体と総司の繋がりを知らなければ後悔する―歳三は屯所に戻ろうと三条大橋を後にし、洛中を歩き始めた時。「わたくしを、お探しですか?」シャラリと簪が揺れる音がしたかと思うと、一人の武家娘が歳三の前に現れた。「お前は・・あの時の・・」「ここでは人目があります。どうぞ、あちらへ。」すっと白魚のような手が指し示したのは、一軒の茶屋だった。「てめえは一体何者だ?」奥の席へと店員に案内され、そこに腰を下ろすなり、歳三はそう言って武家娘を睨みつけた。だが彼女はそんな歳三をまるでからかうかのように口端を歪めて笑った。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

1864(元治元)年6月、京。祇園祭で賑わう洛中は、人で溢れかえっており、道を歩くこともままならない状態だった。そんな中、浅葱色の羽織をはためかせた男達がとある旅籠の中へと入っていった。「御用改めである、主人はおるか!?」腹の底から響く大声でそう言ったのは、新選組局長・近藤勇であった。「お二階のお客様、御用改めでございます!」主人がそう叫んだ時、近藤が彼を押し退け階段を勢いよく上がっていった。「新選組!」「御用改めである、神妙に致せ。」勢いよく開かれた襖には、会合に集まっていた長州の過激派浪士達が剣呑とした光を湛えながら宿敵を睨みつけていた。「幕府の犬がぁ!」浪士の一人が刀の鯉口を切り、近藤へと襲い掛かった。だが近藤の右隣に居た青年が、浪士の刃が近藤に届く前に彼を斬って捨てた。大量の血しぶきが、青年の花の顔に飛び散り、緋に染まった。だが青年はその事に動揺することなく、氷のような瞳で敵を睨んだ。「逃げる者には容赦なく斬れ!」「おうっ!」部屋の中は闇に包まれ、部屋に入って来た蛍が放つ微かな光だけが闇を照らしていた。激しい剣戟の音が旅籠中に響く中、新選組一番隊組長・沖田総司は阿修羅の如く敵を斬っていた。身体が羽根のように軽く、振るった刀が血で濡れているというのに、全く重みが感じられない。総司が荒い息を吐きながら、愛刀を落とさぬように握り直していた時、何かが視線の隅で動いた。(猫か・・?)蠢く影を闇の中に見たが、錯覚だと思い総司は目を擦り、敵の喉元に向かって突きを入れようとした。だが彼は突如血の塊が喉元からこみ上げて来たかと思うと、激しく咳き込んでそれを吐いた。口元を覆った掌は、赤い血で汚れていた。(そんな・・どうして・・)己の身が病に侵されていることを知った総司は、愕然としながらも何とか戦おうと、萎えた気持ちを奮い立たせていた。闇の中から足音が聞こえたのは、その時だった。何かが背中に触れたと思い、総司が振り向くと、そこには長い金髪を波打たせながら、一人の少年がじっと彼を見ていた。「何者だ!」少年の全身からこの世の者ではない妖気を感じた総司は、彼に向かって刀を振るったが、彼の姿は急に煙のように掻き消えた。「大丈夫、わたしがお守りしますから。」そっと少年の手が総司の首に回され、彼は総司の耳元でそう甘く囁くと、宝石のような蒼い瞳で総司を見つめた。「君は、一体何者だ?」「わたしの魂は、あなたと共にある。」謎めいた言葉を残し、少年は闇の中へと消えていった。「待て!」総司が少年を追おうとした時、彼は再び喀血し昏倒した。 新選組副長・土方歳三が部下とともに池田屋へと向かった時、壮絶な戦闘は終わりを告げようとしていた。歳三はまだ息のある浪士達を捕縛し、負傷者を戸板に載せて外へと運んだ。「総司、何処に居る!?」二階へと階段で駆けあがりながら、歳三は恋人の名を叫んだ。「何処だ、居たら返事しろ、総司!」総司の声がしないことに、歳三は最悪の事態が頭の中を過った。総司は一流の剣客だ、こんな所で斃れやしないだろう。だが、もしも・・「あの方を、探していらっしゃるのですか?」床が微かに軋む音とともに、金髪を波打たせながら蒼い瞳で歳三を見つめている少年が立っていた。「あの方は、あちらにいらっしゃいます。」「済まねぇな。」歳三は少年に気を留めることなく、彼が指した部屋へと向かった。今は彼の事よりも、恋人の安否の方が歳三は気になった。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(2)

「皇太子様のご容態は?」「峠は越えました。」黒髪の侍従が靴音を響かせながらルドルフの寝室へと向かうと、刺繍をしながら何かを話していた皇太子付きの女官達が慌てて姿勢を正した。「そうか。君達はもう下がりなさい。わたしはこれから皇太子様と大事なお話がある。」彼はそう言って皇太子の寝室をノックした。「ルドルフ様、失礼致します。」「入れ。」寝室のドアを開けて黒髪の侍従が中に入ると、寝台の上で上半身を起こしたルドルフが、蒼い瞳で彼を見つめていた。「いかがですか、お加減は? 峠は越えたようですが。」「ああ。お前がくれた“薬”が役に立ったようだ。」ルドルフはそう言うと自嘲的な笑みを口元に浮かべた。「そうですか。原料が良かったからでしょうね。それよりもルドルフ様、あなたにお話ししたいことがあります。」「話したいこと?」ルドルフの美しい眦が少しつり上がった。「近々ヴァチカンの使節団がこちらに来られます。」「そうか・・少し厄介な事になるな。」ルドルフはそう言うと、溜息を吐いた。 神聖ローマ帝国の御世から、ハプスブルク家はローマ=カトリックとともにあり、その関係は若干変化しているものの、親密な事には変わりない。ルドルフとアフロディーテが魔物として生を享けた事は、彼らを出産したエリザベート、今は亡き皇太后ゾフィー、出産に立ち会った医師と女官達、そして皇帝フランツ=カール=ヨーゼフと、今ルドルフの前に居る黒髪の侍従―アレクシスだけだ。カトリック国の皇子が魔物だったとヴァチカンに知られたら、大事になるのは解っていた。「アレクシス、上手くやれ。」「解りました。では失礼致します。ああ、ちゃんと“お薬”をお飲みになってくださいね?」「早く行け。」ルドルフは鬱陶しそうにアレクシスを手で追い払うと、彼はくすくすと笑いながら寝室から出て行った。彼と入れ違いに、漆黒のグレート・デンが寝室に入ってきた。「マクシミリアン、これから厄介な事になりそうだ。」ルドルフは愛犬の耳を撫でると、溜息を吐いた。「ルドルフ様、失礼致します。」皇太子付の女官が“薬”を載せた盆を持って寝室に入って来ると、それをサイドテーブルに置いた。「下がれ。」ルドルフがそう言って女官を見ると、彼女は微動だにせずじっとルドルフを見つめていた。「どうした、下がれと言ったのが聞こえないのか?」「ええ、聞こえましたが、わたくしが居なくなってお薬を捨てるのではないかと思いまして。」「僕がそんな事をする訳ないだろう。」ルドルフはさっさと“薬”を飲んでしまおうとワイングラスを掴もうとした時、それを女官が先に掴んで中の液体を飲んだ。「お前、何を・・」「黙って。」女官は妖しげな笑みを浮かべると、ルドルフの華奢な腰を引きよせて彼の唇を塞いだ。「うぅっ」“薬”をゆっくりと嚥下したルドルフは、息苦しさから呻くと、女官を突き飛ばした。だが彼女は動じることもなく、ヘーゼルの瞳に挑戦的な光を湛えながら、ルドルフを見つめた。「では、また参ります。」女官が寝室から出て行くと、ルドルフはシーツに顔を埋めた。目を閉じて思い浮かべるのは、イギリスに居る恋人の顔だった。(ユリウス・・会いたい・・) 夜になり、いつも添い寝をしてくれるユリウスが居らず、ルドルフは心細い思いで眠りに就いた。にほんブログ村
2011年05月24日
コメント(0)

料亭の一室に青年達と香欖が入ると、そこには軍服に身を包んだ50代半ばの男が上座に座っていた。「うちに何か用ですやろうか?」「君が、香欖さんだね?」「へぇ、そうどすけど・・」男は香欖をじっと見ると、彼の手を握った。「実は、君に頼みたいことがあってね。少しの間だけでいいから、話を聞いて貰えないだろうか?」香欖は男を見ると、彼は香欖に笑みを返した。「君に、これを渡したいと思ってね。」男がそう言って香欖に懐剣を差し出した。そこには鴾和家の家紋が彫られていた。「これは、母上の・・じゃぁあなたは・・」「10年前、わたしは君達に一生詫びても許されぬ事をした。あれから君達の消息を探していたが、漸く君を見つけてこれを渡せた。」「おおきに。ではうちはこれで。」香欖は男に深々とお辞儀をすると、部屋から出て行った。「あれで良かったのですか、浅野様?」「もう良い。わたしはあの懐剣を元の持ち主に渡せたのだから。」男は溜息を吐くと、軍服の内ポケットから一枚の新聞記事の切り抜きを取り出した。そこには疫病を広めた罪を被せられた鴾和家の者が処刑されたという内容が書かれていた。「わたしはこの10年間、罪を背負って生きてきた。あの頃わたしは何の疑いも持たずに上の命令にただ従うだけの操り人形にしか過ぎなかった・・だがあの時、わたしは初めて自分がとてつもない罪を犯したと知ったのだ。」「准将・・」男は目を伏せると、次の言葉を継いだ。「何の罪もない一族の未来を、生活を、そして命をわたしはこの手で奪ってしまった。一族の末裔である香欖さんに懐剣を渡した時、漸くわたしは罪の枷を外せたのだよ。」男は溜息を吐くと、茶を飲んだ。「君達はもう行きなさい。暫くひとりにしてくれないか。」「はい、では我々はこれで。」青年達は料亭を出て、花街の路地を歩き始めた。「花街に折角来たのだから、今夜はパーっと飲みにでも行かないか?」「駄目だ。全くお前は遊ぶ事しか考えないんだな。」「そういうお前はまじめ過ぎて困る。もう30に近くなるというのに、浮ついた話ひとつもないんだからな。」「放っておけ。」青年達が歩きながら話していると、路地の向こうからレースの日傘を差して歩いて来る令嬢とぶつかってしまった。「すいません、大丈夫ですか?」「ええ、大丈夫です。」そう言って顔を上げた令嬢は、蒼い瞳で青年達を見た。「羅姫お嬢様、参りましょう。」「解ったわ。では御機嫌よう。」令嬢はふっと青年達に笑みを浮かべると、執事らしき男とともに彼らの元から優雅に去っていった。 香欖と再会を果たした夜、羅姫は宿泊先のホテルで休んでいると、山瀬が部屋に入って来た。「どうしたの、山瀬?」「急なお誘いなのですが、陸軍主催のパーティーへの招待状が先程届きました。」「そう。今夜はゆっくりしたかったのに・・でもドレスや宝石は用意していたから、良かったわ。」「では支度をお手伝い致します。」「ありがとう。それにしても軍が主催するパーティーだから、男ばかりが集まっていると思うわね。」「ええ。結婚適齢期の男女の出逢いの場を作ろうとなさっているのでしょうね。」山瀬の言葉に、羅姫は深い溜息を吐くと、全身が映る鏡で乱れた前髪を整えると、ドレスの裾を摘んで部屋から出て行った。「お嬢様、忘れ物です。」山瀬が慌てて羅姫の後を追い、彼女の手首にダイヤのブレスレットを嵌めた。「ありがとう、山瀬。」にほんブログ村
2011年05月23日
コメント(0)

「ルドルフ様、失礼致します。」「入れ。」ユリウス達がイギリスへと発ったその日の夜、ルドルフの寝室に紅い液体を入れたグラスを載せた盆を持った女官が滑るように入って来た。「さがれ。」「では、わたくしはこれで。」寝室の扉が静かに閉まるのと同時に、ルドルフはグラスに入った液体を一気に飲み干した。 口中に広がる鉄錆の味には、未だに慣れない。本当はこんなものを飲みたくはなかったが、飲まないと大変な事になると侍医に脅され、仕方なくルドルフはこの液体を飲んでいた。こんなもので自分が抱える病が完治するという見込みは全くないと、ルドルフは悟っていた。いや、正確に言えば病ではないかもしれない。ルドルフとアフロディーテは、人間ではないのだから。双子として生まれた彼らは、王家に決して産まれてはいけない魔物として生を享けた。一時期、彼らの周囲には奇妙な出来事ばかりが起こり、その所為で女官達が怖がってルドルフ達には近寄らなくなった事もあった。だがあの液体を飲むことによって奇妙な事が全く起きなくなり、人間と何ら変わらない生活をルドルフとアフロディーテは送っている。しかし、いつ暴発するかもしれぬ魔物の血と力を、ルドルフは密かに恐れていた。空に浮かぶ紅い月を窓の外から眺めながら、ルドルフは溜息を吐いた。その時、突然胸が苦しくなって彼は床に蹲った。荒い息を何度か吐きながら、ルドルフが必死に呼吸を整えていると、寝室の扉が荒々しくノックされた。「ルドルフ様、どうされました!」「何でもない・・放っておけ。」「わかりました。」そのまま侍従が立ち去るかと思ったルドルフだったが、扉が開き靴音を鳴らしながら長身の男が寝室に入ってきた。「放っておけと言っただろう・・」「そうは参りません。立てますか?」黒髪の男はそう言ってルドルフの手を握ろうとしたが、彼は邪険にその手を払い除けた。「余計な事をするな!」ルドルフが男を睨みつけようとした時、彼は激しく咳き込んで身体を折り曲げた。「誰か、誰か来てくれ!」(ユリウス・・)意識を失う前、ルドルフは最愛の人の名を呼んだ。 イギリスに着いたユリウスは、寮でルドルフに宛てた手紙を書いていた。“ルドルフ様、先ほどイギリスに着きました。ホーフブルクを出てからイギリスのイートン校の学生寮に着くまで、長い間船に揺られてしまってここが船上なのか、地上なのか解らないほどでした。夏が終わり、ウィーンに戻るまでまた離ればなれになりますが、ルドルフ様と約束なさった通り毎日手紙を書きますので、ルドルフ様もお返事をちゃんとお書きになってくださいね。 では、愛を込めて ユリウス”ユリウスは何度も手紙を見直すと、それを封筒に入れた。(ルドルフ様、喜んでくださるかな?)ユリウスはルドルフからプレゼントされた指輪を箱から取り出すと、それを左手薬指に嵌めた。「熱はまだ下がりませんか?」「ええ。かなり危険な状態です。」侍医はそう言うと、高熱でうなされているルドルフを見た。「ユリウス・・ユリウス・・」「ルドルフ様、大丈夫ですよ。」高熱でうなされ、ルドルフはうわ言のようにユリウスの名を呼び続けた。そんな彼を、黒髪の侍従は心配そうに見つめていた。にほんブログ村
2011年05月22日
コメント(0)

駅舎を出た羅姫と山瀬は、香欖(からん)が住んでいるという花街へと向かった。「ここが、花街ね。」羅姫はそう言って馬車から降り、香欖が住む街を見渡した。 この街の何処かに、長い間探していた双子の弟が住んでいる―そう思うだけで羅姫は胸が熱くなった。「お嬢様、こちらです。」山瀬は御者に代金を払うと、路地を歩き始めた。どうやら香欖が住む置屋は、花街の入口から少し奥まったところにあるらしく、人一人すれ違う隙間もないほど狭い通路を何度か通り、羅姫と山瀬は漸く香欖が住んでいる置屋「にしだ」の前に立った。「ここに、香欖が居るのね。」羅姫がそう言って戸を開けようとすると、山瀬がそれを制した。「わたくしが参りましょう。」山瀬はそう言うなり、戸を叩いた。「へえ、どちらはんどすか?」戸が開き、中かから女将らしき女性が出てきた。「突然お伺いして申し訳ありません。わたくしは瀧丘家の執事の山瀬と申します。」「瀧丘家て・・子爵様がうちに何のご用どすか?」「実は、そちらにいらっしゃる舞妓さんの事でお話しを・・」「おかあさん、どないしはりました?」部屋の奥から少女の声が聞こえたかと思うと、黒髪を割れしのぶに結った花柄の小紋を着た舞妓が、玄関へとやって来た。「香欖ちゃん、丁度ええところに来たわ。こちらのお方があんたに会いたいて言うてはるんや。」「こちらの方が?」舞妓はそう言って、山瀬を見た。彼女の瞳が紅いことに気づいた彼は、この舞妓が香欖だと判った。「あなたが、香欖さんですか?」「へぇ、そうどすけど・・」「香欖!」羅姫はドレスの裾を翻すと、そう叫んで舞妓に抱きついた。「やっと会えた!」「姉・・上・・?」香欖の顔が一瞬強張ったかと思うと、次の瞬間彼は満面の笑みを浮かべた。「本当に、姉上なの!?」「ええそうよ、香欖。漸く会えたわね。」「姉上、会いたかった・・」「わたしもよ、香欖!」両親を亡くし、生き別れてから10年もの歳月が流れた今、双子の姉弟は漸く再会を果たした。「いやぁ、びっくりしはりました。まさか子爵家のお嬢様が香欖ちゃんのお姉さんやったやなんて。良かったなぁ、香欖ちゃん。」女将はそう言って香欖に微笑んだ。「へぇ、おかあさん。」「女将、香欖様の事をどうぞ宜しくお願い致しますね。」「へぇ。」山瀬と羅姫に、女将は頭を下げた。「姉上、またいらしてくださいね。」「解ったわ。時間があれば必ず伺うわ。それまで身体に気をつけなさい。」「うん。」再会を果たした羅姫と香欖は熱い抱擁を交わすと、「にしだ」を後にした。 数分後、そこへ軍服姿の2人の青年がやって来た。「こんにちは。こちらに香欖さんていう舞妓さんはいらっしゃいますか?」「へぇ、うちに何か用どすか?」「ちょっと顔を貸していただけませんか? 少しあなたとお話があります。」「おかあさん、行ってきます。」香欖はそう言って女将に頭を下げると部屋へと向かい、花籠を持って玄関へと戻った。「では行きましょうか。」青年に連れられた所は、香欖がよくお座敷で行く料亭の一室だった。「連れて参りました。」「そうか、入れ。」「失礼致します。」にほんブログ村
2011年05月22日
コメント(2)

南イタリアで過ごした夏の休暇が終わり、ユリウス、アフロディーテ、カエサル達はイギリスへと戻ることになった。「ユリウス、手紙頂戴ね。」「わかったよ、クララ。元気で。」ユリウスがイギリスへと発つ前夜、クララにそう言って笑顔を浮かべた彼は、そのままルドルフの部屋へと向かった。「ルドルフ様、今よろしいですか?」「入れ。」「失礼致します。」ユリウスがルドルフの部屋に入ると、彼は読んでいた本を閉じた。「明日、イギリスに戻るそうだな?」「はい。次に会うのはクリスマス休暇になります。」「カエサルは? あれから何も言って来ないか?」「ええ。」ユリウスの脳裡に、カエサルから投げつけられた残酷な言葉が浮かんだ。「あいつには気をつけろよ。お前を嫌っているからな。そうだ、お前に渡したいものがあった。」「わたしに・・ですか?」「呼ぶ手間が省けてよかった。」ルドルフはそう言うと引き出しの中から正方形の箱を取り出すと、それをユリウスに手渡した。「それは、何ですか?」「開けてみろ。」ルドルフに言われるがままにリボンを解いて箱の蓋を開けたユリウスは、その中に入っているものを見て目を丸くした。「あの、これは・・」その中には、ルドルフの瞳と同じ色をしたサファイアの指輪が入っていた。「僕からのプレゼントだ。まぁ婚約指輪の代わりにでも受け取ってくれ。」「そんな・・こんな高価なもの、いただけません!」「お前は、僕の好意を無下にするのか!?」ユリウスに拒絶されたと思い込んだルドルフの美しい眦が上がった。「いえ、そんなつもりで言った訳ではありません。こんな高価なものを頂いたら、失くした時に困るので。」「ふん、そんな事か。鎖を通して首に提げればいいだけだ。手を出せ。」「は、はい・・」ルドルフの前にユリウスが手を出すと、彼はユリウスの左手薬指に指輪を嵌めた。「手紙は毎日書けよ。一日でも書かなかったら絶交だからな。」「はい・・」我が儘なルドルフの要求に、ユリウスは渋々と頷きながら苦笑した。「もう行っていいぞ。」「お休みなさいませ。」ユリウスがルドルフの額にキスすると、彼は照れ臭そうな笑みを浮かべながらユリウスを部屋から追い出した。 翌朝、ユリウスとカエサル、アフロディーテはホーフブルクを出発し、馬車でウィーン西駅へと向かった。「ユリウス、兄様とまた離ればなれになるわね。寂しい?」駅へと向かう馬車の中で、アフロディーテは突然ユリウスにそう聞いて口端を歪めて笑った。「ええ・・」「そうよねぇ、お前とルドルフ兄様は恋人同士だものね。また兄様、毎日手紙を書けだのとか言ってこなかった?」「言っておりました・・」「お前と会って、兄様は変わったわ。前は人嫌いだったんだもの。」「ルドルフ様が、ですか?」「ええ。ゾフィーお祖母様が生きてらした頃には、何かと自分の殻に閉じ籠ってばかりで、いつも怖い顔をしてばかりだったわね。でも今では笑顔を見せるようになって・・ジゼルお姉様もびっくりしてらしたわ。“あんなルドルフの表情、一度も見た事がないって。”」アフロディーテの言葉を聞き、自分と出逢う前のルドルフがどんな思いを抱えながらホーフブルクで暮らしてきたのかが、想像できた。ユリウス達を乗せた馬車はウィーン西駅に着いた。「これから、色々と忙しくなるわね。」「ええ。」カエサルはそう言うと、じろりとユリウスを睨みつけた。ユリウスも負けじと、カエサルを睨み返した。2人の間に、静かに火花が散った。にほんブログ村
2011年05月21日
コメント(2)

「意地など張っていないわよ。あの人はわたしがこの家に来た時からわたしの事が嫌いなのよ。もう居なくなるかと思えばせいせいするわ。」羅姫はそう言って涼太を見た。「涼太、こんな所に居たの。」冬香が部屋に入ってくると、涼太は溜息を吐いた。「母様も羅姫姉様を説得してくれよ。どうしても出ないって・・」「出たくないって羅姫が言っているのに、無理に出席させるなんて・・ねぇ?」冬香はそう言いながら羅姫を見ると、彼女は静かに頷いた。「涼太、お前が何を言おうともわたしは式には出ないわ。お父様にわざわざあの人がわたしに式に出ないよう、お願いしたみたいだし。」「そんな・・」「時間がないのでしょう?」「さぁ涼太、行きましょう。」冬香に促され、涼太は溜息を吐きながら部屋から出て行った。「お嬢様、失礼致します。」山瀬が部屋に入ると、羅姫が気だるそうに本から顔を上げて彼を見た。「あの人達は行ったの?」「ええ。それよりも香欖(こうらん)様の消息が判りました。」山瀬の言葉に、羅姫は微かに蒼い瞳を輝かせた。「そう、解ったわ。」羅姫と山瀬は旅支度をし、駅へと向かった。 一方、羅姫を除く瀧丘家の者達は、遥と陽輔の挙式と披露宴に出席していた。今日の主役である遥は、白無垢を纏い、幸せそうな笑顔を浮かべていた。―羅姫様がご出席なさらないなんて、おかしいわね。―いくら血が繋がらないとはいえ、遥様と羅姫様は姉妹ですのに・・―遥様と晃之介様達は、矢張り義理の娘よりも実の娘の方を優先させたのね。―羅姫様、お可哀想に・・口さがない連中が披露宴の間ひそひそと意地の悪い囁きを交わすのを聞きながら、冬香と晃之介夫妻は黙ってそれに耐えた。「何で父様達が悪くないのに、あれこれ言われなきゃいけないんだ。そもそも遥姉様の所為なのに。」涼太はそう言って高砂席に座っていた遥に詰め寄った。「そんな事知らないわよ! あの子が勝手に来ないだけだもの。」遥は溜息を吐きながらいきり立つ涼太を睨んだ。「遥姉様は羅姫姉様の事が嫌いなんだろう? だから父様に頼んで式には出ないようにと父様から羅姫姉様からお願いしたって、羅姫姉様が言っていたよ。」「あ、あれはあの子がわたしに無礼な事を言ったから、その腹いせよ!」遥がそう叫ぶと、涼太はそれを鼻で笑った。「全く、何時まで経っても精神的に幼児のままなんだ、遥姉様は。今朝の豪華客船の事故について、新婚旅行先がひとつ潰れたとか言いだすその無神経さにはあきれるよ。陽輔さん、こんな姉とやっていくのは大変ですよ。」涼太はそう姉に向かって吐き捨てるように言うと、さっさと自分の席へと戻った。「遥さん、気にしない方が良い。それにしても羅姫さんは酷い人だ、涼太君に変な事を吹き込んで君を陥れようとするだなんて。」陽輔は溜息を吐きながら遥を見ると、彼女は泣いていた。「陽輔さん、今回の事でお父様達はわたしを責めるのよ。あの子がわたしを陥れようとしているのよ。わたしを信じてくださるのはあなただけよ。」遥はそう言うと、夫となった陽輔に満面の笑みを浮かべた。 同じ頃、汽車に乗った山瀬と羅姫は、香欖が住むという花街がある都市へと向かっていた。「あの子が舞妓になっている? それは本当なの?」「ええ。まだ舞妓としてお披露目されてから数ヶ月しか経ちませんが、大変売れっ子のようで。」「あの子が舞妓にねぇ。人生どうなるのかわかったものではないわね。」(香欖、やっと会える。わたしの弟・・わたしの本当の家族!)山瀬と羅姫の客室を一つ挟んだ客室の中には、軍服姿の2人の青年が座っていた。「もうすぐ着くな。」「ああ。」汽車がプラットホームへと滑り込み、羅姫と山瀬が汽車から降りようとした時、途中で1人の青年とぶつかった。「あら、ごめんなさい。」「いえ、こちらこそ。」これが、運命の出逢いであることは、まだこの時羅姫と青年は互いに知らなかった。にほんブログ村
2011年05月21日
コメント(0)

「ちょっと、何笑ってるのよ!」「別に。ただ、この事故について新婚旅行が駄目になったなどと言う事をほざくお姉様の神経が解らなくて、つい。」辛辣な羅姫の言葉に、遥は怒りで顔を赤く染めた。「止しなさい、羅姫。何も遥は悪気があって言ったわけじゃないんだから。」晃之介がそう言って羅姫を制した。「陽輔様も大変ね。お姉様のような方とこれから暮らすことになるのですから。」羅姫がコーヒーを飲もうとした時、遥が椅子から立ち上がって彼女の頬を張った。「煩いわね、羅姫! あんた少しは黙っていなさいよ!」「煩いのはお姉様の方ではなくて?」羅姫は飲んでいたコーヒーをそのまま遥にぶちまけると、彼女は悲鳴を上げた。「じゃぁ、行ってきます。」羅姫は涼しい顔で泣き喚く遥の脇を通り過ぎると、ダイニングから出て行った。「お嬢様、遥お嬢様にあのような事をなさってよろしいのですか?」「別にいいわよ。数ヵ月後には居なくなる方だもの。それよりも山瀬、哲爾の事は調べたの?」「ええ。あの夜会から社交場には滅多に姿を見せませんが、どうやらあの小菊とかいう娼妓と駆け落ちしていました。当然ですが、相田家とは絶縁なさったようです。」「そう。あいつとは結婚するつもりはなかったから、良かったわ。心配なのはすずさんね。」羅姫は溜息を吐くと、厩へと向かった。 愛馬に跨り彼女が相田家に向かうと、相田家の執事・大里が彼女を出迎えた。「羅姫さま、ようこそお越しくださいました。」「すずさんにお会いしたいのだけれど。」「生憎ですが、すずお嬢様はどなたにもお会いにはなれません。」「哲爾様の事で、落ち込んでいらっしゃるのね?」羅姫がそう大里に尋ねると、彼は静かに頷いた。「そう。ではまた参りますと、早く元気になってくださいとすずさんにお伝えくださいな。」羅姫はそう言って再び愛馬に跨り、相田家を後にした。「お嬢様、すず様は?」「今はお会いしたくないと、あちらの執事が言っていたわ。無理もないでしょう。暫くそっとしておこうかと。」「そうですね。それよりもお嬢様、遥お嬢様のお式の事で、旦那様が羅姫お嬢様をお呼びです。至急書斎に来られるようにと。」「解ったわ。」羅姫が書斎に行くと、そこには険しい表情を浮かべた晃之介が立っていた。「お話とは何でしょうか、お父様?」「羅姫、そこに座れ。」「はい。」晃之介に言われるがままに、ソファに座った。「遥の結婚式だが、お前は出席しなくていい。」「今朝の事が原因ですか?」「遥たっての希望なんだ。お前には済まないが・・」「解りました。今は結婚式の準備がお忙しいようですし、お式が済んだからここから出て行くので顔を合わせなくて済みますわね。」「羅姫、お前と遥は幼い頃から仲が悪かったな。血が繋がっていないとはいえ、お前達は姉妹なのだから・・」「仲良くは出来ませんわ、お父様。カンパーニャ号の事故で亡くなられた方の事よりも、新婚旅行の事を心配するような無神経な女を、わたくしは金輪際姉とは呼びません。では失礼。」羅姫はソファからさっと立ち上がると、書斎から出て行った。「羅姫、何処へ行っていたの?」遥の部屋から出てきた冬香がそう言って羅姫を見た。「すずさんの所へ。お母様、わたくしはあの人のお式には出ませんから。その方が向こうも安心なさるでしょうし。」「羅姫、そんな事を言わないで。まだ時間があるし・・」「もういいんです。」羅姫はそう言うと、冬香に背を向けて自室へと入った。 数ヵ月後、遥と陽輔の挙式当日に、涼太が羅姫の部屋を訪ねた。「姉様、本当にお式は出ないつもりなの?」「ええ。」「どうして意地を張るのさ? 遥姉様は・・」にほんブログ村
2011年05月21日
コメント(0)

「え・・」突然水中から伸びて来た無数の手に、璃音は恐怖で目を見開いた。―やっと見つけたわ・・―さぁ、一緒に行きましょう。―怖がらなくていいのよ・・水中から人魚達が顔を出し、璃音に向かって手招きした。「いや・・来ないで・・」璃音は必死に人魚達から逃れようと、梯子からボートへと飛び移った。ふと彼女が先程まで居た一等船室のデッキを見ると、客船には紅蓮の炎が噴き出し、まだ避難していない人々が逃げ惑っていた。―いい気味だわ・・―わたし達を蔑ろにした罰よ・・―せいぜい苦しむがいいわ・・ 人魚達が逃げ惑う人々を嘲笑いながら、歌うような声でそう言うと、彼女達は一斉に璃音を見た。―もう人間達と一緒に居る必要はないでしょう?「来ないでよ!」恐怖に駆られた璃音がそう叫んだ時、海面が大きく揺らいだ。「お嬢様!」フィリップが海中へと落ちようとした璃音の手を咄嗟に掴んだが、間に合わず、彼女は暗い海面へと落ちた。「お嬢様~!」フィリップの叫びは、虚しく夜の海にこだました。(息が出来ない・・苦しい・・)煌びやかなドレスが水を吸ってどんどん重くなってゆく。このまま自分は海の藻屑と化してしまうのだろうか・・そう思いながら璃音は意識を失った。―あなたを、死なせはしない。不意に誰かの声が聞こえたかと思うと、璃音は誰かに抱き締められてゆっくりと水面へと上がってゆくのを感じた。 海底の王国では、銀髪の人魚が落胆した表情を浮かべながら王の元へと向かった。「どうであった?」「姫様をここにお連れすることは出来ませんでした。あと少しというところで、あの人間に攫われました。」「そうか・・」貝で出来た玉座に座っている人魚の国王は、そう言って溜息を吐いた。「どうしますか?」「何もせんでいい。」「わかりました。」銀髪の人魚は国王の言葉に頷くと、仲間の人魚達の方へと泳いで行った。「ん・・」「大丈夫?」璃音がゆっくりと目を開けると、そこには黒い羽根を広げた黒髪の少女がじっと自分を見下ろしていた。「あなた、誰?」「今は知らなくてもいいことよ。」少女はそう言うと、璃音の前から去っていった。「待って!」璃音が慌てて彼女を追おうとした時、遠くからランプの灯りが見えた。「お嬢様、ご無事ですか!?」「ええ・・他の皆さんは?」執事は璃音の問いには答えず、彼女と共に小舟へと乗り込んだ。そこにはマドンナとダヴィドが乗っていた。「他の皆さんは、どうなさったの?」「他の乗客達は向こうに見える客船に救助されました。」「そう、良かった・・」豪華客船カンパーニャ号の謎の火事と沈没によって、三等船室の乗客300名全員が死亡した。助かったのは貴族などの富裕層だけで、新聞はこの事故を階級差別が如実に語るものだと報じた。その事故は、海を隔てた羅姫達が住む国でも報じられた。「カンパーニャ号が炎上沈没ですって。新婚旅行で行く予定でしたのに・・」遥はそう言って朝刊を畳むと渋面を作った。隣でそれを見ていた羅姫は思わず苦笑すると、遥は彼女を睨みつけた。にほんブログ村
2011年05月20日
コメント(0)

豪華客船・カンパーニャ号にて行われたヴェルデ劇場の次期公演リハーサルは、終盤に差し掛かろうとしていた。璃音は舞台上で美しく踊り、その指先までもが一流の職人によって精微に作られた芸術品のように美しかった。―まぁ、何て美しい踊りなのかしら?―新しいプリマの誕生ですわね。―そうですわね、奥様。―前の方は残念ですけれど・・扇子の陰でヒソヒソと囁き合うご婦人方の声を、レネーは唇を噛み締めながら聞いていた。彼女は、舞台上で踊っている璃音を睨みつけた。本来なら、自分があそこでプリマとして踊っていたのに。(認めないわ、あの子がプリマなんて!)レネーは仄暗い灯りの中を、誰にも気づかれぬことなく静かに舞台裏の方へと歩き始めた。 一方海の底では、人魚たちが集まって会議を開いていた。「いよいよ動き出す時が来たわね。」「そうね。」「今こそ、あの子を救い出す時よ・・」銀髪の人魚がそう言って、瞳を暗赤色に輝かせた。 璃音は背後から微かな靴音が聞こえた事に気づかなかった。クライマックスを迎えようとした時、彼女が大きく跳躍すると、舞台袖から口端を歪めて笑うレネーの姿がちらりと見えた。その時、舞台上に設置されていたシャンデリアが凄まじい勢いで彼女の上へと落ちそうになった。「危ない!」シャンデリアが粉々に砕け散る音と、観客達の悲鳴がラウンジにこだました。「リネちゃん!」「せ、先生・・」璃音が目を開けて辺りを見渡すと、そこにはシャンデリアの直撃を受けて顔面を血塗れにして絶命しているレネーの姿があった。「見ない方がいいわ。さぁ、ここを離れるわよ。」「はい・・」マドンナに連れられ、璃音は大混乱のラウンジを後にした。「これは一体どういうことだ?」「わかりません旦那様。それよりも今はアンジェリーナ様を・・」フィリップがそう言った時、船全体が大きく揺れた。「きゃぁぁ!」化粧室でチュチュから煌びやかなドレスへと着替えた璃音は、揺れを感じて咄嗟に鏡から離れた。「大丈夫?」「ええ。それよりも先生、さっきの揺れは一体・・」「お嬢様、マドンナ様、早く一等船室のデッキへ!」化粧室のドアが勢いよく開かれ、フィリップが息を切らしながら中へと入って来た。「デッキに? どうして?」「ええ。この船は沈没するそうです。」「沈没!? 一体どうして!?」豪華客船が沈没するという突然の事態に璃音は混乱しながらも、フィリップとマドンナとともに一等船室のデッキへと急いだ。「おい、ここから出してくれ!」「あたしらを見殺しにする気かい!」「ちょっと、聞いてるの!?」一等船室のデッキが貴族達をはじめとする富裕層で溢れ返っている頃、三等船室では労働階級や移民達が自分達を船室に閉じ込めている船員達に向かって怒鳴り散らしていたが、彼らは三等船室の乗客達を救助しようとしなかった。「一体何があったんだ?」一等船室のデッキでは、璃音が暗い海を見ながら状況が解らずに居た。「お嬢様、マドンナ様、次の救助ボードでここから離れましょう。」「ええ・・」ショールを身体に巻きつけながら、マドンナの後に続いて璃音はゆっくりと梯子を降り始めた。「お嬢様、こちらへ!」璃音がボートへと乗ろうとした時、突然水中から何人かの手が伸びて来た。にほんブログ村
2011年05月19日
コメント(0)

久しぶりに会った親族の女性―カドリーヌが重々しく口を開いた。「実は、息子の事で・・」「息子というのは、いつもトランプ賭博や競馬やらで借金をするあの碌でなしのことか? もう追い出したのではなかったのか?」カドリーヌの口から息子の事を聞いた途端、ダヴィドはあからさまに不快な表情を浮かべた。「またあの人の尻拭いをお祖父様にさせるおつもりですの?」璃音は溜息を吐きながら、そう言って紅茶を飲んだ。「そんな事は言ってないでしょう?」「でもお祖父様は嫌そうな顔をしていらっしゃるわ。ということは母親のあなたが息子の借金を尻拭いしてくれと、お願いにしに来たに違いありませんわ!」「な・・」「カドリーヌ、もうお前も、お前の息子の借金の肩代わりもせんし、わたしの遺産は全てアンジェリーナに譲るつもりだ。金食い虫のお前達にはもう話すことはない。」「そんな・・どうか、お願いします!」「フィリップ、カドリーヌの食事は用意しなくていいぞ。」「だそうよ、フィリップ。お客様を丁重にお送りして頂戴。」「かしこまりました。ではカドリーヌ様・・」「ちょっと、離してちょうだい、まだ話が・・」 銀縁眼鏡を光らせながら、執事はカドリーヌの腕を掴んで半ば彼女を引き摺りだすかのようにしてダイニングから出て行った。「やっと静かに食事ができますわね、お祖父様?」「ああ、全くだ。」ダヴィドはそう言って葡萄酒を飲んだ。「離してって言ってるでしょうが!」「旦那様とお嬢様のご命令は絶対ですので。」 一方、ダイニングルームからルクレツィア伯爵家の執事・フィリップに追い出されたカドリーヌは、きぃきぃと喚きながらフィリップを睨みつけた。「わたくしはまだ話があるのよ!」「カドリーヌ様、申し訳ありませんがあなた様の顔はもう見たくないと旦那様がおっしゃいましたので。」フィリップが彼女を玄関ホールから追い出すと、まだ彼女は煩く喚きながら彼に罵詈雑言を浴びせていた。「全く、困った方だ・・」フィリップは溜息を吐くと、燕尾服の裾をはためかせながら邸の中へと戻って行った。 それからというものの、カドリーヌはルクレツィア伯爵家に顔を出すことはなく、璃音は公演のリハーサルと本番に向けて毎日練習に励んだ。やがてリハーサル当日となる週末がやって来た。「アンジェリーナ、今夜は頑張れよ。」「はい、お祖父様。」璃音の誕生パーティーを兼ねた公演のリハーサルが行われる豪華客船カンパーニャ号には、ダヴィドをはじめとする貴族達や資産家などの上流階級に属する人々が乗っていた。「リネ、これからリハーサルだけれど、緊張せずにしっかりね。」一等船室の化粧室に入って来たマドンナは、衣装に着替えた璃音にそう言って彼女の肩を叩いた。「ええ、先生。」璃音はマドンナに一礼すると、化粧室から出て行った。 一等船室のラウンジには、ヴェルデ劇場の次期公演のプリマを務める璃音の姿を見ようと貴族達が今か今かと首を伸ばして待っていた。急にラウンジの照明が落ち、貴族達がざわめくと、舞台上の照明が一斉に点灯し、煌びやかなチュチュを纏った璃音が姿を現した。彼女はひらりひらりと蝶のように優雅に舞ったかと思うと、ライオンのように荒々しく激しい舞を舞ったりと、舞台上で様々な動物を踊りで表現した。「やはりアンジェリーナがプリマに選ばれたのは、実力だな。」「ええ。自らの才能に奢るばかりで何の努力もしない娘とは大違いですね。」フィリップはそう言ってちらりと観客席で悔しそうに唇を噛み締めているレネーを見た。(悔しい・・プリマはわたしが演じる筈なのに! 決してあの娘がプリマだなんて認めないわ!)ぎりぎりと彼女が唇を噛み締めていると、そこから血が滲み出た。レネーの心に、黒い闇が迫っていた。にほんブログ村
2011年05月18日
コメント(2)

「みんなに報告したい事があるの。今度行われる公演のことよ。」レッスンが終わり、璃音達はマドンナの前に集まって彼女の言葉に一言一句耳を傾けていた。「マダム、プリマは誰が?」レネーがそう言って期待に満ちた目でマドンナを見つめた。“絶対にわたしがプリマよ!”これまでマドンナは公演の旅にプリマをレネーに決めてきたので、彼女は今回もそうに違いないと思っていた。だが―「プリマは、璃音ちゃんに演じて貰うことになったわ。」マドンナの言葉に、少女達の間からどよめきが起こった。―どうして・・―当然の結果じゃない? リネさんは遅くまで練習してたし・・―それに朝一番に来て、レッスン室の掃除もしてたしね。―ちゃんと挨拶もしてくださるわよね・・誰かさんとは違って。「静かに!」マドンナは手をパンパンと打ったので、少女達は静かになった。「わたしは璃音ちゃんがレッスン室の掃除をしてくれたり、誰にも礼儀正しいと理由だけで彼女をプリマに決めた訳ではないわ。」「では、どうして彼女をプリマに?」レネーの取り巻きの1人がそう言ってマドンナを見ると、彼女は淀みない言葉を続けた。「彼女をプリマに選んだのは、彼女の技術とそれに比例する努力が素晴らしいからよ。プロのダンサーは今の地位に固執して胡坐を決して掻いたりしてはいけない。あなた達に常々言っているわたしの忠告を、彼女は実行したのよ。」師の言葉に、誰も―レネーでさえも反論しなかった。「誰も異論はないようね?」マドンナはそう言って璃音を見た。「璃音ちゃん、やってくれるわよね?」「はい!」今までの努力が報われた末で与えられた機会に、璃音は瞳を輝かせながらそう叫んだ。「アンジェリーナお嬢様が次期公演のプリマに選ばれたようです。」「あいつがプリマにか・・公演はいつだ?」「来月の中旬です。ですが、今回はお嬢様の誕生祝いを兼ねて船上パーティーでのリハーサルをするとか。」「良い余興になるだろうな。アンジェリーナの踊りは素晴らしい。若い事は素晴らしいな・・夢の為に生きられるのだからな。」「ええ、そうですね・・わたくし達はいつ、それを忘れてしまったのでしょうね?」執事はそう言うと、窓の外に広がる空を見上げた。「璃音ちゃん、体調管理には気を付けて、しっかりね。決して無理はしない事。」「はい、解りました! 失礼します!」璃音はマドンナに頭を下げると、レッスン室から出て行った。更衣室に入り着替えを済ませると、璃音は宝物を詰まったトランクをしっかりと握り締めながら家路に着いた。「ただいま帰りました、お祖父様。」「プリマに決まったそうだな、おめでとう。」「あら、ご存知でしたの?」ダヴィドは照れ臭そうに笑いながら、璃音の肩を叩いた。「頑張れよ。」「はい。」「旦那様、アンジェリーナ様、晩餐の用意が整いました。」璃音とダヴィドがダイニングルームへと入ると、そこには滅多に会わない親戚の女性が座っていた。「あらアンジェリーナ、お久しぶりね。」「あら伯母様、暫くですわね。今日もお金の無心をお祖父様に?」「そんな事でこちらに伺うつもりはないわよ。もう借金は完済しましたしね。」「あら、それはおめでとうございます。で、用件は何かおありですの?」璃音がそう言うと、親戚の女性は咳払いしてダヴィドを見た。「実は、アンジェリーナの縁談の事なのですが・・」「またお前の娘が何かやらかしたのか?」ダヴィドは険しい表情を浮かべながらそう言うと、女性は目を伏せてぽつりぽつりと事情を話し始めた。にほんブログ村
2011年05月16日
コメント(0)

(あれは・・)静歌は水面から顔を上げてこちらを見ている人魚を見つめた。―あなたは・・人魚の口が開き、言葉を紡いだ。―あの2人は、あなたの娘をあなたから奪おうとしている。人魚はそう言うと、海中から姿を消した。(璃音が・・お父様達に奪われる。あの子が産まれた時と同じように・・)静歌の脳裡には、15年前の事を思い出した。禁断の恋の末に産まれた娘を、父は取りあげようとした。それが嫌で実家を飛び出し、辺境の村にある教会に入り、司祭に娘を預けた。あれから15年もの歳月が流れ、娘がルクレツィア伯爵家の令嬢として美しく成長していることを知った静歌は、一目だけでもいいから娘に会わせてくれと父に懇願したが、返ってきたのは氷のように冷たい言葉だった。「お前には母親の資格はない。璃音は責任を持ってわたし達が育てる。」「そんな、お父様!」父は有無を言わず、この狭いプールの中に静歌を閉じ込めた。人魚の故郷である海へと逃げられないように鉄柵で排水口を囲んで。(いつになったら、わたしは娘に会えるの?)―もうそんな所で悲しむのは止めて。不意に、外から声がして静歌は海を見た。そこには、数十匹の人魚が彼女を見ていた。―あなたは、ひとりではないわ。―そうよ、ひとりでは無理だけど、力を合わせれば大丈夫よ。―大丈夫よ。仲間達の言葉に、静歌は涙した。(そうよ、わたしはひとりじゃない。みんなで・・)―みんなで悪い奴をやっつけてしまいましょう。銀髪の美しい人魚が、そう言って口端を歪めて笑った。(そうね・・悪い奴は殺さないといけないわね・・)静歌の真紅の双眸がぎらりと不気味な光を放った。海では、それに呼応するかのように波がうねり始めていた。 翌朝、璃音は伯爵邸を出てバレエのレッスンへと向かった。ダヴィドや家庭教師達からのスパルタ的な教育指導にはことごとく反抗しつつも、貴族の令嬢としての嗜みと教養を身につけた璃音だったが、唯一幼い頃から続けているバレエだけが、彼女の心の拠り所だった。大切なトゥーシューズとレッスン用のチュチュが入ったトランクを握り締めながら、璃音はヴェルデ劇場へと入っていった。「おはようございます。」「あら、璃音ちゃん。」璃音が劇場の裏口へと入り、バレエのレッスンが行われている部屋へと入ると、彼女に1人の女性が声を掛けた。彼女の名はマドンナ、ヴェルデ劇場の女支配人であり、かつては国一番のプリマドンナと謳われた女性である。マドンナは璃音の事を本名で呼んでくれる唯一の女性であり、璃音にとっては頼もしい教師である。「今日はレッスンの後にあなたに話があるのよ。いいかしら?」「ええ、構いません。」「そう。じゃぁみんなと一緒にレッスンなさい。」璃音はマドンナに頭を下げると、更衣室へと入っていった。ドレスからチュチュへと着替え、トゥーシューズを履くと彼女はルクレツィア伯爵家令嬢としてはなく、バレリーナの璃音として立っていた。着替えを終えた彼女がレッスン室へと入ると、そこには数人の少女達が準備体操をしていた。彼女らはマドンナの弟子達で、いずれはヴェルデ劇場を支えるバレリーナ達の卵だ。「あら御機嫌よう、リネさん。」少女の中の1人、中央に立っている亜麻色の髪の少女が璃音に気づいて挨拶した。「御機嫌よう、レネーさん。」「あなたも良く頑張るわね。今度の演目でプリマに選ばれるのはわたしとあなた、どちらかしらね?」少女―レネーはそう言って笑うと、取り巻き達の輪の中へと戻って行った。にほんブログ村
2011年05月15日
コメント(0)

(お祖父様は勝手よ! いつもご自分の決めたいようになさるんだから!)「お嬢様、開けてください!」外からドンドンとドアが叩かれる音がしたが、璃音はそれを無視して天蓋を閉めて頭からシーツを被った。数分後、外が急に静かになったかと思うと、ドアが開けられて執事が入ってきた。「何よ、入って来ないでよ!」「申し訳ございません。それよりもお嬢様、旦那様の事はお許しになっていただけないでしょうか?」「どうしてよ? わたしお祖父様が大嫌い! 勝手に名前を変えたり、学校に入れようとしたり! どうしてお祖父様はわたしを・・」「お嬢様が大切だからですよ。」鳶色の瞳をした執事は、そう言って璃音を見た。「あなたはルクレツィア伯爵家唯一人の後継者。ですから旦那様は、お嬢様を守りたいのです。」「守る? お祖父様がわたしを何から守ろうと言うの?」「それは・・」執事は急に口を噤むと、溜息を吐いた。「お嬢様、後で甘いお菓子を持って参ります。」「え、ちょっと・・」「では、失礼致します。」執事はそう言うなり、さっさと部屋から出て行った。(何か変だわ。お祖父様は、わたしに何か隠している・・)璃音はそう思いながらも、着替えをせぬまま眠りに就いた。 彼女の部屋を出た執事は、邸の地下へと向かった。そこには、ダヴィドが立っていた。彼の視線の先には、海水が入った巨大なプールに注がれていた。いや、正確に言えばプールの中を泳いでいる何かを、彼は見ていた。「旦那様、こちらにいらっしゃいましたか。」「お前か。」執事の声に我に返ったダヴィドは、そう言ってプールから視線を外した。「またあれを御覧になっていらっしゃったのですか?」ちらりと執事が忌々しそうな目でプールの中に泳いでいるものを見た。彼の視線に気づいたのか、それは泡を立てながら底へと姿を消した。「忌々しい人魚の王が、アンジェリーナを寄越せと言ってきたのだ。」「人魚の王が・・ですか。では、今週末の船上パーティーは中止にいたしましょうか? それとも、ここで開きましょうか?」「いや、船上パーティーは予定通り開く。わたしが人魚ごときに怯える老人に見えるか?」「いいえ。旦那様はかつて海軍で英雄と謳われたお方。人魚の一匹や二匹、血祭りにあげられましょう。」「アンジェリーナ・・璃音にはくれぐれもこの事は・・」「判っております。」ダヴィドはつかつかとプールの前に行くと、上着のポケットから何かを取り出すと、それをプールの中へと放り投げた。バシャンという水音がしてそれが動く気配がしたので、ダヴィドと執事は地下から離れた。鱗を光らせながら、一匹の人魚は髪をゆらゆらと揺らしながらダヴィドが放り投げたものを拾った。それは、あの司祭に娘を預けた時に彼に託したペンダントだった。「璃音・・」人魚は愛娘の名を呼ぶと、涙を流した。「可愛いわたしの璃音・・待っててね。」人魚―璃音の実母・静歌はそう言って口端を歪めて笑った。ふとプールの排水口から外を見ると、そこには一面の海が広がっていた。早くあそこへ行きたいのに、ここにいる者達は彼女が外へ出る事を許してくれない。こんな狭い水槽の中ではなく、広い海で泳ぎたいと静歌はそう思いながらも涙を流した。彼女の上半身には赤黒い痣が痛々しく残っていた。(誰か、ここから出して・・)その時、外でバシャリと何かが跳ねる音が聞こえた。(何?)外を覗くと、一匹の人魚が水面から顔を覗かせ、静歌をじっと見ていた。にほんブログ村
2011年05月15日
コメント(0)

アベルは昼食後、ミサを行った。「アベル様だわ・・」「何とお美しい・・」 アベルが聖堂内へと入ると、そこには貴族の令嬢達が数人、うっとりとした目で彼を見つめていた。彼女達は年若い司祭の登場に色めき立ち、一様に笑顔を浮かべていた。(全く、迷惑な方々だ。)アベルは内心きゃぁきゃぁと騒ぐ令嬢達に舌打ちしながら、それを顔には出さずに滞りなくミサを行った。ミサが終盤に差し掛かった時、彼は背後から強い視線を感じ、一度そちらの方を振り向くと、そこには1人の令嬢が立っていた。水色のドレスに同系色の帽子を目深に被った彼女の真紅の双眸に、アベルは見覚えがあった。(まさか・・璃音!?)「どうしましたか?」「いえ、何でもありません・・」アベルが再度令嬢の方へと向くと、そこには彼女の姿がもうなかった。(璃音、わたしに会いに・・)「ねぇ璃音さん、今時間おありかしら?」「え?」突然邸に訪ねてきた友人に連れられ、璃音は教皇庁内にある聖堂へと入った。「ミサにいらっしゃるなんて、お珍しいわね。」「あら、いいじゃないの。」この友人は特に信心深くなく、余り教会には足を運ばない方だった。その彼女が突然ミサに行くというので、璃音は少し不審に思った。何か違う狙いが彼女にはあると。璃音が溜息を吐いていると、聖堂内の扉が開き数人の司祭が入って来た。「アンジェリーナ様、ご覧になって。」友人が璃音の腕を叩くので彼女が俯いていた顔を上げると、そこには黒髪の司祭が立っていた。(アベル・・お義父様・・?)一瞬見間違いではないのかと思ったが、璃音は再度黒髪の司祭の顔を見ると、彼は紛れもなく10年前に生き別れた養父のアベルだった。「あら、知っている方なの?」「い、いいえ・・」友人がそう言ったので、慌てて璃音は彼女の言葉を否定し、首を横に振った。「それにしても素敵な方よねぇ、アベル様。何でもダブリスの名門貴族のご出身だとか・・」「え・・」「あら、ご存知ないの? 複雑な事情で修道院附属の孤児院に預けられたと聞いたわよ。」養父は一度もそんな事を話してはくれなかった。彼さえも、自分が名門貴族の出身であることを最近知ったのかもしれない。「あれが、彼のお母様よ。」友人が指す方向には、喪服姿の女性はハンカチで目元を何度も拭いながらアベルを見ていた。(あれが、お義父様のお母様・・)女性はじっとアベルの方をミサの間見ていたが、アベルの方は一度も女性を見もしなかった。(お義父様、やっと会えた・・)じっとアベルを見ていると、彼がゆっくりと自分の方へと振り向き、目が合った。「アンジェリーナ様、もう行きましょう。」「ええ・・」まさかこんな所でアベルと再会できるだなんて・・璃音は嬉しさに胸を弾ませながら、聖堂を後にした。「お祖父様、ただいま帰りました。」「アンジェリーナ、誕生パーティーの事で話がある。パーティーには、お前の婚約者も招待するつもりだ。」「婚約者ですって?」祖父の言葉を聞いた途端、璃音の美しい眦が上がった。「ああ。それとパーティーが終わったらお前は寄宿学校に入って貰う。」「嫌ですわ、お祖父様!」祖父の話を聞かず、璃音は自分の部屋へと引き籠った。にほんブログ村
2011年05月14日
コメント(0)

正午を告げる鐘が鳴り、アベルは部屋を出て食堂へと向かった。「こんにちは、アベル様。」「こんにちは。」アベルがカソックの裾を翻しながら廊下を歩いていると、司祭達が頭を下げた。彼が所属する組織―教皇庁で勤め始めてからもう10年になる。あの修道院が今どうなっているのかは解らないが、妙な連中の溜まり場になっていると風の噂に聞いている。 璃音と別れた後、アベルは修道院の者達を別れを告げ、この教皇庁で働き始めた。元々優秀で何度か教皇庁行きの話が出たくらいだったので、向こうはアベルを歓迎し、彼は若くして枢機卿となった。その時初めて、本部よりもダブリスの王宮で働いた方が自分には合うとアベルには感じたのだ。 教皇庁には様々な部署があり、トップである教皇をはじめとするアベル達聖職者から、下働きの者に至るまで、膨大な人数が働いていて、それと比例して人間関係はダブリス宮廷のそれと比較しても教皇庁の方が複雑で濃厚であった。神の子と言われる聖職者ではあったが、彼らは所詮人間の子なのだ。 金や女性問題などに関する醜聞が絶えず、絶対的に権力を振るっていた時代の威光はもはやその輝きは失せ、今は腐敗に塗れていた。 アベルはそんな中でもただひらすら信仰を守っているのだが、そんな彼に声を掛ける者も少なくはない。「おや、アベル様ではありませんか?」食堂へと入ろうとしたアベルの肩に馴れ馴れしく触れて来た司祭の顔を見て、アベルはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。「レオン様、こんにちは。」さっと司祭の手を乱暴に払うと、アベルはさっさと彼に背を向けて食堂へと入った。「おやおや、つれないことで・・」その司祭は、そう言ってくすくすと笑った。 教皇庁から少し離れた小さな町で、1人の少女が黒髪を靡かせながら家の中へと入っていった。「ただいま!」「璃娜(りな)、お母様が寝ているから静かにしなさい。」「ごめんなさい・・」父の匡惟に注意され、少女はしゅんとした。母のユーリは3人目の子を宿し、来週末にも産まれる予定だ。だからなのか、最近は床に臥せりがちとなっており、少女や父親が母親の代わりに家事をしていた。「お母様は大丈夫なの?」「大丈夫だよ。お医者様は順調だって言ってるし。これから暑くなるから体調管理には気をつけるようにと言っていたから、お前も風邪をひかないように気をつけなさい。」「わかったわ。お庭でハーブを摘んでくる!」少女は長い黒髪をなびかせると、リビングを出て庭の方へと走っていった。「匡惟、璃娜が帰ってきたのか?」寝室のドアが開き、臨月の腹を揺すりながらユーリがソファに座った。「大丈夫ですか、ユーリ様?」「少しお腹が張って苦しくて・・」ユーリが溜息を吐いてソファから立ち上がろうとした時、何かが弾ける音がした。「産婆を呼んできます。」匡惟はそう言って家を飛び出し、近所に住む産婆の家へと向かった。「お母様、産まれるの?」「ええ。璃娜、わたしは大丈夫だからね。」ユーリは陣痛に耐えながらも、娘に笑顔を浮かべた。 その後、ユーリは元気な女児を出産した。「可愛い・・」「璃娜、あなたは今日からお姉様になるのよ。」「うん!」蒼い瞳を輝かせながら、少女は産まれたばかりの妹を嬉しそうに見ていた。 かつてダブリス王国皇太子として絢爛豪華な宮廷で暮らしていたユーリは、愛する夫と子ども達に囲まれ、静かな暮らしを送っていた。にほんブログ村
2011年05月13日
コメント(0)

璃音が養父・アベルと引き離され、ルクレツィア伯爵家の令嬢として本家で育てられたのは、10年前の事だった。最初はアベル恋しさに度々邸を抜け出して使用人達に迷惑を掛けたことがあったが、今ではもうそんな気持ちすら起こらない。どんなに夜道を駆けても、決してアベルの元へと辿り着かないと解ったからだ。 ここに来てから―ルクレツィア伯爵家当主・ダヴィドの元へと引き取られてから、璃音の生活は180度変わった。ダヴィドは養父が名付けてくれた美しい名を変えるように言われた時、璃音は必死に抵抗した。「嫌よ、名前を変えるなんて嫌!」「わたしに逆らうな! この家に来た以上、わたしの決めることに口を挟むな!黙って従うのだ!」「でも・・」「くどい!」そう叫んだダヴィドは、冷たい目で孫娘を見下ろした。その瞳の中には、孫娘に対する愛情など一欠けらもなかった。璃音は無理矢理祖父によって“アンジェリーナ”と名を変えられ、貴族の令嬢としての嗜みを伯爵家の家庭教師達に徹底的に叩き込まれ、休む事も眠る事も許されぬ生活を送った。昼間は静かに家庭教師達のスパルタ的な教育指導に耐えつつも、夜は密かにアベルを想いながら璃音は涙を流した。(アベルお父様、会いたい・・)すぐに迎えに来ると言ったのに、何故アベルはいつまで経っても迎えに来てくれないのか、璃音はいつもそう思いながら夢の中でアベルを呼んでいた。だが夢にはアベルは現れず、いつも現れるのは黒髪の少女だった。“お父様と無理矢理引き離されて哀しいのね。”少女はそう言うと、璃音の身体をぎゅっと優しく抱き締めていつも彼女の耳元でこう囁いて消えるのだ。“わたしなら、あなたのお父様を見つけ出して会わせてあげる。”目が覚めると夢の事は殆ど覚えていないのだが、少女の姿や耳元でささやかれた言葉はいつも覚えていた。その事だけは、決して忘れてはならないものだと璃音は思ったからだ。彼女が一体何者なのか璃音は知りたかったが、それを知る術は皆無だった。いつしか彼女は幼い頃に見た夢を忘れ、ただいたずらに時が過ぎてゆくのを待つしかなかった。「アンジェリーナ、今度の週末の事だが・・」「なに、お祖父様? ごめんなさい、考え事をしていて聞いていなかったわ。」朝食の席でそう言って璃音が祖父を見ると、彼は溜息を吐いた。「お前の誕生パーティーを盛大に開こうと思う。お前も社交界にデビューして以来、様々な集まりに顔を出しているようだが、それでは足りん。」「お祖父様、招待客の方は決まっているの?」「ああ。お前の養父も招待している。これから準備で忙しくなるぞ。」「ええ!」先程まで沈んでいた様子の璃音の顔が、パァッと明るくなった。「旦那様、アンジェリーナ様の事ですが・・」「あれには学校の事はまだ話していない。パーティーが終わった後に話すつもりだ。」朝食後、書斎に戻ったダヴィドは、そう言って机の上に置かれた書類に目を通した。それは璃音が編入予定の全寮制の女子校の入学願書だった。ダヴィドは璃音の教育に関してはルクレツィア伯爵家の家庭教師に任せていたが、彼らだけでは物足りないものがあった。璃音はまだ社会経験も少ない上に、同年代の少女達と付き合ったことがない。よりよい人間関係を築く為には、家に閉じ籠っているよりも、学校で様々な者達と交流を深めた方が良いと考えた末での決断だった。「アベル様には招待状を送りました。出席するとの返事がありました。」「そうか。今まで離ればなれに暮らしていたからな、アンジェリーナもアベルの顔を見て喜ぶことだろう。」(今週末のパーティーが楽しみだわ! 漸くアベルお父様に会えるんだもの!)璃音はアベルから渡されたロザリオにキスしながら、針箱を取り出し、昨夜の集まりでやりかけていた刺繍の続きをした。「お嬢様、今宜しいでしょうか?」ドアの向こうから、メイドの声が聞こえた。「いいわよ、入って。」「失礼致します。」にほんブログ村
2011年05月12日
コメント(2)

元宮伯爵邸で倒れた小菊がゆっくりと病室のベッドの上で目を開けると、その傍らには哲爾(てつじ)が彼女の手を握っていた。「哲爾様・・赤ちゃんは・・?」「大丈夫だ。」「そうですか。」小菊はそう言って安堵の表情を浮かべると、再び目を閉じて眠った。「今夜は楽しかったわ。来てくださってありがとう。」「ええ。お休みなさい、爾子様。」「おやすみなさい、羅姫さん。」爾子と元宮伯爵に玄関ホールで見送られ、羅姫と山瀬は馬車に乗った。「疲れたわね。明日学校が休みで良かったわ。」馬車に乗り込み座席に腰を下ろした時、羅姫はそう言って溜息を吐いた。「踊り過ぎて足が少し痛いわ。」「お邸に戻られたらすぐにマッサージをいたします。」「いいわよそんな事しなくても。お風呂の中でマッサージするから。」「はい・・」羅姫の言葉に、山瀬は何処か残念そうな顔をした。「山瀬、女学生達に囲まれて鼻の下が少し伸びていたわね。」「いえ、そんな事は・・」「嘘よ。でも爾子様はあなたの事お好きみたいね。」羅姫はそう言って笑った。「お帰りなさいませ、羅姫お嬢様。」山瀬と羅姫が瀧丘邸へと帰宅すると、執事の山岡が彼らを出迎えた。「遅い時間に待っていてくれてありがとう、山岡。わたしはもう休むから、あなたは下がってもいいわよ。」「はい、羅姫お嬢様。」初老の執事は、そう言って羅姫に頭を下げて自室へと向かった。「じゃぁお休み。」「良い夢を、羅姫お嬢様。」山瀬は階段を上ってゆく羅姫の背中をいつまでも見送った。「・・つまらないわ。」ぼそりと呟いたその声は、意外にも狭い部屋に反響した。その部屋に集まった女性達は一斉に針を動かす手を止めて、じっと1人の令嬢を見つめていた。「あら、何がつまらないんですの?」「いいえ、ただの独り言ですわ。」そう言って令嬢は先程の失言を取り繕うと、女性達は再び針と口を動かし始めた。彼女達の話題は、誰と誰が結婚したか、離婚したか・・という、他人の噂話だった。社交界にデビューしてこういう集まりに何度か出た令嬢だったが、いつも女性達が繰り返すゴシップを聞く度にうんざりしてしまう。「アンジェリーナ様は、誰か想いを寄せられているお方はいらっしゃらないの?」女性達の話を聞くまいと刺繍に没頭していた令嬢は突然話を振られ、慌てて顔を上げた。「いえ、まだ居ませんわ。それにまだ結婚なんて考えられませんし・・」「あら、そんな事をおっしゃっては駄目よ。ねぇ、皆さん?」「そうよ。」「あっという間に年を取ってしまうわよ。」女性達の集まりが終わり、邸から出てきた令嬢は溜息を吐いて肩を落として馬車へと乗り込んだ。「疲れたわ・・」令嬢はそう言うと、首に提げていたロザリオを取り出した。(アベルお父様、お会いしたいわ・・)ロザリオを握り締めながら、彼女の脳裡には自分を実の娘のように育ててくれた養父・アベルの笑顔が浮かんでいた。「お帰りなさいませ、アンジェリーナ様。」「ただいま。」使用人達に素っ気ない口調で挨拶を返すと、令嬢は自室に入り再度溜息を吐いた。ここには自分を本当の名で呼んでくれる者はいない。呼んでくれるのは、遠く離れて暮らす養父―自分に“璃音”という美しい名をつけてくれた、彼だけだった。にほんブログ村
2011年05月11日
コメント(0)

「なんで女郎屋の女衒が、花街をうろついてはるんどす?」「最近の輩は縄張りを平気で無視して商売やるさかい、かなんわぁ。」女将はそう言って嘆息すると、香欖(からん)を見た。「香欖ちゃん、あいつらには気を付けや。絶対に捕まったらあかんで。」「へえ、おかあさん。」「お風呂沸いてるから入りよし。今なら誰も居てへんさかいな。」「おおきに。」香欖は自室に入り、だらりの帯を緩めて浴衣に着替えると、花簪を抜いた。温かい湯の中に浸かると、全身の疲れが一気に取れた。「香欖ちゃん、湯加減はどうえ?」「ええ塩梅どす、おかあさん。」「そうか。」戸の向こうから女将の優しい言葉を掛けると、風呂場から遠ざかった。 風呂に入る時だけが、香欖にとって唯一心が安らげる時だった。男でありながら舞妓となり、花街で生きていくことを決めたその日から、正体を暴かれてはならないと思い、常に気を張っていた。芸事の稽古も人一倍やり、お座敷での客あしらいは先輩芸妓達から学ぶとともに、花街でのしきたりを守ってきた。いつか姉と再会できる日を夢見て、香欖は暫しの休息を味わっていた。 元宮伯爵邸の使用人部屋に、1人の少女が鏡の前で立っていた。彼女の手には、爾子のドレスがあった。「ふふ、これでわたしもお嬢様・・」少女は口端を歪めて笑いながら、爾子のドレスに袖を通してくるりと鏡の前で一周した。彼女は元宮伯爵邸で奉公している女中で、爾子のように女学校への進学を希望していたが、家庭の事情で女中奉公を余儀なくされた。それ故に彼女は、自分と同い年でありながら経済的に恵まれている爾子お嬢様に対して憎しみを持っていた。“お嬢様ごっこ”に飽きた彼女は、爾子のドレスを脱ぐと、それを羅紗鋏で切り裂いた。「憎い・・あの女が、憎い。」少女の全身から、黒い瘴気が立ち上った。「山瀬さん、今度はわたくしと踊ってくださいな。」「ずるいわ爾子様、わたくしが山瀬と踊るのよ。」「いいえ、わたくしとよ。」大広間では、羅姫と踊り終えた山瀬が爾子とその友人達に囲まれて困惑していた。「モテる男はつらいわねぇ、山瀬。」「からかわないでください、お嬢様。それよりも哲爾様をお探しにならなくても良いのですか?」「良いんじゃないの? 哲爾様にはあの娼妓がお似合いよ。」羅姫はそう言って扇子を閉じた。 一方哲爾は、娼妓・小菊とともに伯爵家の中庭で夜風に当たって涼んでいた。「哲爾様、あの金髪の方は、もしかして哲爾様の・・」「あいつとは結婚する気はないし、向こうもその気じゃないから、心配するな。お前を身請けする金は充分貯まったし、何年かかるかわからないが、2人で暮らせる家も用意してある。お前は何も心配するな。」「ですが、哲爾様・・」「俺はお前を愛しているんだ、小菊。俺を信じて欲しい。」「哲爾様・・」小菊は憂いを帯びた栗色の瞳で哲爾を認めた時、すずが2人の間に割り込んできた。「お兄様、まだこんな方とお付き合いなさっていたのね!」すずはそう言って美しい眦を吊りあげると、小菊を突き飛ばした。咄嗟の事でよけきれなかった彼女は、地面に尻餅をついてしまった。「すず、小菊に何てことを!」「お兄様、この女との結婚は反対だとおっしゃっているのに・・わたくしとお父様達を裏切るおつもりなの!?」「お前には関係ないだろう!」哲爾がそう声を荒げた時、小菊が突然下腹を押さえて苦しそうに呻いた。「小菊、どうした!?」「赤ちゃんが・・」薄紅のドレスが、徐々に赤黒い血に染まってゆくのを見て、哲爾は堪らず彼女の身体を抱き上げて元宮伯爵邸から飛び出していった。にほんブログ村
2011年05月11日
コメント(0)

「どうかしたのかね、羅姫(らひ)さん?」「何でもありませんわ、小父様。ただ口うるさいこの連中を黙らせただけですわ。」羅姫はそう言って元宮伯爵ににっこりと微笑んだ。「伯爵、そちらの無礼なお嬢さんはどなたですの?」「どうしてこんな女をこのような場に入れるのです! すぐに摘みだしてくださいな!」「そうですわ!」女達が再び喚き始めると、元宮伯爵はじろりと彼女達を睨んでこう言った。「君達を夜会に招いた覚えはないんだが。」伯爵の言葉を聞いた彼女達は一斉に黙り、顔をさぁっと蒼褪めた。「どうやら彼女達は警備の目を掻い潜って大広間に入ってきたようですね。どちらのお家の者か知れませんが。」山瀬は冷たい紫紺の瞳で彼女達を睨むと、彼女達はひぃと悲鳴を上げた。「不法侵入の上に羅姫お嬢様に対する侮辱罪・・警察をお呼びしても良いですね? このまま穏便に済ませるとこういった輩はつけあがるばかりですから。」「折角の楽しい夜会を台無しにしたくはないが、そうする他あるまい。」「だ、そうです。警察が来るまであなた方には別室で待機して貰いますよ。」山瀬の言葉を聞いた彼女達の顔には、焦燥と諦めの表情が浮かんでいた。「ここから逃げ出すなんてこと、思わないでくださいね? あなた方のお名前と身分は知っておりますので。」元宮伯爵家の使用人達に半ば引き摺られるようにして、女性達は大広間から連れ出された。「不愉快な思いをさせて済まないね、羅姫さん。」「いいえ、小父様。これで彼女達はもう二度と社交場には姿を現わせないでしょう。行くわよ、山瀬。」「はい、お嬢様。」羅姫と山瀬がすずの元へと戻ると、彼女は憧憬の眼差しを羅姫に送っていた。「ありがとう、羅姫様・・」「礼を言われるような事を、した覚えはなくてよ。当然の事をした迄よ。」羅姫が長椅子に腰を下ろすと、それまでの一部始終を見ていた客達から拍手が起こった。「折角の夜会ですので、踊りましょうか。」「ええ。」山瀬の手を取り羅姫は踊りの輪へと加わった。 一方花街では、今宵も香欖(からん)がお座敷で美しい舞を披露していた。「香欖の舞はいつ見ても良いな。彼女の心根の清さが現れている。」「増岡様、おおきに。何や香欖を褒められるとうちも自分の事のように嬉しおす。」女将は客に酌をしながらそう言って微笑んだ。「あの子が衿替えの時期を迎える時が楽しみだな。」「ますますのご贔屓を、お頼申します。香欖にも宜しくと伝えておきますさかいに。」女将は深々と客に頭を下げると、彼は美味そうに酒を飲んだ。「ほな、うちはこれで失礼します。」香欖がそう言って客に向かって頭を下げて次のお座敷へと向かっていると、向こうから芸妓の爾代(ちかよ)が歩いて来るのが見えたので、香欖は彼女に会釈した。「香欖ちゃん、お気張りやす。」「へぇ、おおきに。」おこぼをからころと鳴らしながら、香欖は再び歩き始めた。 彼が神社の近くを通りかかった時、突然数人の男が彼の前に現れた。「何どす? うちに何か用どすやろか?」「お前が、『菊定』の香欖か。」いかつい顔をした男がそう言って、すいっと香欖の前に立った。「ちょっと顔貸して貰おうか?」「うちは忙しおす。用があるんやったら屋形のおかあさんを通しておくれやす。」香欖は男達を無視して歩き出すと、足早にその場を離れた。「おかあさん、さっき変な男に絡まれたんやけど・・」「変な男て、どんな男やったん?」「へぇ、何や岩みたいな厳つい顔しはった方どす。」香欖の言葉を聞いた女将は唸ると、溜息を吐いた。「そいつは女郎屋の女衒や。捕まらんで良かったな。」にほんブログ村
2011年05月10日
コメント(0)

哲爾が女性の手を引っ張って大広間へと出て行くのを、羅姫と山瀬は止めもせずに彼らを見送った。「あれが、君の許婚かね?」「ええ。ですが、この縁談は破談になりそうですわね。何せ彼には素敵な方がいらっしゃるようですから。」羅姫がそう言って口端を歪めた時、すずがドレスの裾を摘みながら彼女の方へと駆け寄ってきた。 今夜の彼女は女学校で見かける時のお下げではなく、髪を少し結い上げて後ろに垂らした髪型をしており、毛先は自然にカールしていた。「羅姫様、爾子様、今晩は。」「すずさん、今晩は。今夜のあなたはとても素敵よ。そのドレスも良く似合っているわ。」羅姫はすずが纏っている薔薇の刺繍が施されたクリーム色のドレスを褒めると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。「ありがとう、そんな事を羅姫様に言っていただけると嬉しいわ。お兄様がどちらにいらしたかご存知ないかしら? 先程から姿が見えないのだけれど・・」「さぁ、知らないわ。そうよね、爾子さん?」「え、ええ・・」羅姫が爾子に“余計な事を喋るな”という視線を送ると、彼女はそう言葉を濁してすずの問いに答えた。「そう・・」「ねぇすずさん、あちらで色々とお話ししないこと? このまま突っ立ってお喋りしていては他の方の邪魔になるでしょうし。」「そうね。」「ではお父様、失礼致しますわ。」羅姫と爾子、すずは元宮伯爵から離れると、空いている長椅子に腰を下ろした。「羅姫様と爾子様にお会い出来て良かったわ・・こんな所、まだ慣れていないから・・」すずはそう言うと、溜息を吐いた。「こういった場所は慣れるしかないわ。それに他人の噂話をしない事に尽きるわね。」羅姫がそう言って扇子で扇いだ時、楽団がワルツを奏で始め、隅で談笑していた男女が踊りの輪に加わり始めた。「わたくし、お父様と踊ってくるわ。お父様のお誕生日だから。では失礼。」爾子はさっと長椅子から立ち上がると、父親の方へと歩いて行った。「わたしは踊りが下手だから、ここで待っています。」「折角来たのに、勿体ないわ。」「いいんです、本当は踊りたいけれどわたしみたいな新興華族、誰も相手にはなさらないでしょうし・・」すずはそう言って何かを恥じるように俯いた。どうしたのだろうと羅姫が辺りを見渡すと、そこには隅の方でひそひそと話している3人の女性達の姿があった。 彼女達の視線がすずに注がれているので、余り好ましくない話をしているのだと羅姫は察した。「すずさん、ちょっと失礼するわ。」羅姫は笑顔の仮面を被ると、女性達の方へと歩いていった。「あら、どうしてあんな所に成り上がり者が混じっているのかしら?」「全く、不愉快だわ。」「あの家の息子が連れていた女を見た? 見た目は大人しそうだけれど、商売女の臭いがしたわ。元宮様はなんだってあんな方達を招いたのかしら、神経を疑うわ。」女性達がすずの陰口を叩いていると、突然彼女達の頭上からシャンパンの雨が降って来た。「あら、ごめんなさい。手元が狂ってしまって・・」彼女達が悲鳴を上げながら自分にシャンパンを浴びせた犯人を見ると、そこにはシャンパンのボトルを抱えた羅姫がにっこりと微笑んでいた。「素敵なドレスが台無しにはなったけれど、少し頭が冷えたでしょう?」羅姫がそう言うと、彼女達は怒りに頬を赤らめた。「何をなさるの、失礼な!」「あなたもあの女の仲間でしょう? 品がないこと!」女性達が口々に喚き立てると、羅姫は不快そうに鼻を鳴らした。「高価なドレスや宝石を纏っていても、あなた方にはその価値が解らないようね? まぁ、己の愚かさも解らないでしょうから、無理もないけれど。」 鈴を転がすような笑い声を羅姫が上げていると、騒ぎを聞きつけた元宮伯爵と山瀬が彼女達の方へとやって来た。にほんブログ村
2011年05月10日
コメント(0)

あれよあれよという間に、元宮伯爵家の夜会が開かれる週末がやって来た。「山瀬、本当に出ていいの?」「ええ。せっかくご招待いただいたのですから。」「そう。」四頭立ての馬車の座席に向かい合わせに座っている羅姫は、胸元を大きく開いたミッドナイトブルーのドレスを纏い、首元には涙型のダイヤモンドの6連のネックレスをつけている。「わたし、おかしくないかしら?」「いいえ、ちっとも。今宵のあなたはまるで地上から舞い降りた女神のようですよ。」「あら、お世辞が上手いのね。夜会ではあの子と踊るつもりなの?」「ええ・・ですが、予定は未定と申しますので。」「そう、楽しみだわ。」羅姫が扇を開いて口元を覆い隠しながらくすくすと笑うと、馬車の速度が徐々に落ちていった。「どうやら着いたようね。」「ええ。」元宮伯爵邸の車停めには、夜会に招待された華族達の馬車で混雑していた。やっと羅姫達が伯爵家の侍従によって邸の中へと通されたのは、到着して数分後の事だった。―まぁ、羅姫様よ・・―お美しい事・・―遥様が少し可哀想ね。夜会が開かれている大広間へと羅姫達が向かっていると、既に大広間で談笑していたご婦人達がちらちらと羅姫を見ながらひそひそと囁きを交わしていた。「羅姫さん、山瀬様、来てくださったのね!」華やかなレースをふんだんに使った薔薇色のドレスを纏った元宮伯爵家令嬢・爾子(ちかこ)はそう言って羅姫と山瀬の方へと駆け寄った。「今夜は招待してくださってありがとう。盛況ね。」「ええ。今日はお父様のお誕生日だから、そのお祝いを兼ねて来てくださっているのよ。佐々岡さんはいらっしゃらないようだけど。」爾子はちらりと大広間を見渡しながら瑠璃子の姿を探したが、彼女は何処にも居なかった。「まぁ、あの方がいらっしゃらなくても場は盛り上がるもの。山瀬様、羅姫さん、お父様に紹介するから、あちらの方へ行きましょう。」爾子は山瀬の腕を取ると、羅姫とともに父親の元へと向かった。羅姫はちらりと窓から外を見ると、バルコニーには長い黒髪を垂らした女が立っていた。「あの方、どなた?」「あの方って?」「ほら、バルコニーにいらっしゃる・・」羅姫が指差した時、女はバルコニーにはいなかった。「お父様、ご紹介するわ。瀧丘羅姫さんと、羅姫さんの執事の、山瀬様よ。」「君が羅姫さんか。」元宮伯爵はそう言って羅姫を見た。「娘から話は聞いているよ。大変優秀な女学生さんだと。それに美人だから、引く手数多なんじゃないのかね?」「いえいえ、そんな事はありませんわ。お誕生日、おめでとうございます。」「ありがとう、君に祝えて貰えて嬉しいよ。」元宮伯爵は破顔しながら、ワインを飲んだ。「元宮伯爵、お誕生日おめでとうございます。」突然羅姫の背後で声がしたので彼女が振り向くと、そこには哲爾が立っていた。漆黒の燕尾服に長身を包み、獰猛な光を湛えながら彼は羅姫と山瀬を見た。「これは奇遇ですね、相田さん。てっきりあなたは今夜も何処かの娼妓と戯れているのかと思いましたよ。ねぇ、お嬢様?」「ええ。まさかこんな場所にそんな女を連れて来ているのではないでしょうね?」羅姫が小馬鹿にしたようにそう哲爾へと言葉を切った時、彼の元に1人の女性がドレスの裾を摘みながら駆けて来た。愛くるしい小動物のような円らな栗色の瞳をし、艶やかな黒髪を結いあげた女性は、羅姫が自分に向ける冷たい視線に気づくと、慌てて目を伏せた。「相田さん、そちらの方は?」「あなた方がお噂していた娼妓ですよ。小菊、行こうか。」哲爾は女性の返答を待たず、彼女の腕を掴むと大広間から出て行った。Image by clefにほんブログ村
2011年05月09日
コメント(0)

「ねぇ、あの方どなたなの?」 一時間目の授業終了の鐘が鳴ったのと同時に、数人の女学生達が羅姫の方へと駆け寄ってきた。「山瀬はうちの執事よ。」「山瀬様は、ご結婚されているの?」「いいえ、独身よ。彼は生涯結婚しない独身主義者だから。」淡々と級友達に話す羅姫に対し、彼女達は落胆するどころか何処か浮足立った様子だった。どうやら羅姫の態度を恋敵が1人減ったと思い込んだようだ。恋愛話やファッションに花を咲かせている彼女達から見れば、山瀬は魅力的な男性に映ったに違いない。だが彼の正体は鬼族だ。彼女達は山瀬が“人の生き血を喰らう魔物”だと知ったら、一斉に背を向けることだろう。 鬼族はその神通力や妖力によって、人間達と共存して助け合ってきた反面、化け物、魔物と畏れられ狩られた歴史があり、未だ鬼族に対する差別や偏見が根強く残っている。現に、鬼族の末裔であることで羅姫は尋常小学校時代に謂れのない差別を受けて何度か悔し涙を流したことか。だがその度に負けてなるものかと気を奮い立たせ、勉学や武術に励み、華族の令嬢としての立ち居振る舞いや教養などを身に付けた。「羅姫さん、少し宜しくて?」羅姫が我に返ると、先程の女学生達が彼女を見ていた。「何かしら?」「今度、うちで夜会があるのだけれど、お宅の執事さん・・山瀬様をお連れして来て下さいな。」「山瀬は使用人としての分を弁えていらっしゃるから、夜会に行きたいと思うかどうか解らないけれど、話してみるわ。」「まぁ、ありがとう。良いお返事を期待しているわ。」ぱぁっと目を輝かせながら、女学生達は始業の鐘とともにそれぞれの席へと戻っていった。「羅姫様はすごいわね。英語もフランス語もお出来になられるだなんて。」昼休み、すずは弁当を机の上に広げながら尊敬の眼差しを羅姫に向けた。「毎晩遅くまで予習や復習をしているから、たまたま予習したところが授業で出ただけよ。」「そうなの・・それよりも羅姫様、お昼御飯はいただかないの?」「ああ、それは・・」「失礼致します、羅姫お嬢様。」教室の扉が開き、バスケットを抱えた山瀬が入ってきた。「済まないわね、山瀬。」「いいえ。お嬢様、放課後のご予定は何かございますか?」「ないわ。もう下がっていいわよ。」「では、失礼を・・」山瀬がそう言って教室から出ようとした時、彼を遠巻きに見ていた1人の女学生が駆け寄ってきた。「あの、今度うちの夜会に来て下さいませんか?」「夜会、ですか?」山瀬が紫紺の瞳を細めながら女学生を見ると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。「ええ、今週末にうちであるのですけれど、もしお嫌でなければ・・」山瀬は一瞬困惑したかのような顔を浮かべたが、少し口端を歪めて女学生に笑うと、こう答えた。「是非、主とともに出席いたします。」「ありがとうございます!」彼女は嬉しそうな顔をして友人達を見ると、彼女達も嬉しそうに女学生を見ていた。「本当に夜会に出席する気なの、山瀬?」 放課後、羅姫は山瀬とともに馬を並んで走らせながら彼に昼間の事を聞くと、彼は静かに頷いた。「お誘いを断る訳にはいきませんでしょう。もしかしてお嬢様、焼きもちを焼かれたのですか?」「そ、そんな訳ないでしょう! 先に行ってるわよ!」羅姫は頬を赤らめると、馬に鞭をくれて山瀬を追いぬいていった。「全く、素直じゃないお方だ。」山瀬は溜息を吐きながらも、羅姫を追い掛けた。にほんブログ村
2011年05月08日
コメント(0)

「どちら様? いきなり挨拶されてもわたくし、知らない方とはお話ししたくないの。」 羅姫は馬上で冷たく少年を見下ろしながら言うと、彼は頬を紅潮させると彼女に手紙を渡した。「あの、これを・・」少年の手から手紙を受け取った羅姫は、中身を見ずにそれを彼の前で封筒ごと引き裂いた。「ああ~!」パラパラと時間をかけて書いた恋文を一瞬にして紙屑とされた少年の顔が、たちまち蒼褪めた。「わたくし、あなたのような礼儀を知らぬ輩に恋文を貰っても嬉しくないわ。それでは失礼。」呆然と地面に座り込む少年を正門前に放っておき、羅姫は女学校の中へと入った。「あらあら、振られてしまったのね。」「お可哀想に。」くすくすとその一部始終を見ていた女学生達が笑いながら正門の中へと入っていき、少年は堪え切れずにそこから立ち去って行った。「羅姫様、おはようございます。」教室に入ると、すずがさっと羅姫の元へと駆けより、頭を下げた。「おはよう、すずさん。昨夜は楽しかったわね。」「ええ。あ、羅姫様、お鞄お持ち致しますわね!」羅姫が机の上に鞄を置こうとすると、それをすずが持とうとした。「すずさん、あなたはわたくしの下女ではないわ、お友達よ。お友達なら、他人の鞄持ちをする必要はなくてよ。」「あ、すいません・・」羅姫の不興を買ったことが余程気落ちしたのか、すずはそう言ってしゅんと肩を竦めた。「あらあら、羅姫様は相変わらず冷たいお方ね。さっきだって正門前で恋文を貰った癖に、中身を読みもしないで破り捨てたものね。」瑠璃子が厭味ったらしく羅姫に言いながら、彼女の前に立った。「あら、わたくしは自分の名を名乗らない方を相手にしたくないだけよ。まぁ、あなたのような男なら誰でもほいほいと付いて行くような方よりはいいけれどね。」羅姫の言葉に、瑠璃子の頬が朱に染まった。「まぁ、それはあんまりではありませんこと? いつわたくしがそのようなふしだらな真似をなさったというの?」「あらあら、とぼけていても無駄よ? 昨日女学校を出る時に変な男とお話しされていたじゃないの。確か髪はぐしゃぐしゃで、無精ひげを生やした方だったわね。顔はちらと見たけれど・・ああ、あれはあなたのお兄様だったわね!」羅姫がそう瑠璃子に言い放つと、教室に居た女学生の視線が彼女に集まった。瑠璃子の家は裕福な資産家で、父親は高級官僚だったが、借金まみれで家に寄る時は金の無心しかしない兄が居る事を、彼女は黙っていたのだった。それを級友の前で暴露され、瑠璃子は居た堪れなくなって教室から飛び出した。「あの、何か不味くありませんか、羅姫様?」「事実なのだもの、隠したって仕方がないでしょう。それよりも一時間目は裁縫ね。」「ええ。宿題は持って来たわ。」すずはそう言って風呂敷の中から裁縫の宿題を取り出した。「そう・・」羅姫は裁縫の宿題を取り出そうと鞄の中を探ったが、何処にもない。(確かに鞄に入れたのに・・)もしかしたら家に置き忘れてしまったのかもしれない。「ああ、またお嬢様宿題を忘れておしまいになっておられる。」 瀧丘邸にある羅姫の部屋を掃除していた山瀬は、机の上に畳まれた裁縫の宿題を見つけると、溜息を吐いた。懐中時計で時間を確かめると、まだ一時間目には間に合う。山瀬はさっと裁縫の宿題を風呂敷に包むと、瀧丘邸から出て行った。(全く、世話が焼ける・・)女学校の正門前に山瀬は立つと、女学校の中へと入った。「羅姫お嬢様、お忘れ物ですよ。」羅姫が溜息を吐きながら一時間目が始まるのを待っていると、山瀬が彼の前に立った。「ありがとう、山瀬。もう行っていいわよ。」「ではわたくしはこれで。」用事を済ませた山瀬に、級友達は黄色い声を上げた。(下らない・・)にほんブログ村
2011年05月08日
コメント(0)

「ようこそ、哲爾さん、すずさん。お会い出来て嬉しいわ。」羅姫と山瀬、哲爾とすずが瀧丘邸のダイニングに入ると、冬香が温かく相田兄妹を出迎えた。「お母様、ただいま帰りました。」「羅姫、もう哲爾さんとはお会いしたの?」「ええ、先ほど。山瀬から聞きましたのよ、哲爾様は社交界の問題児だとか。」羅姫はそう言って好戦的な視線を哲爾に送ると、彼は口端を歪めて笑った。「確かに俺は一ヶ所に留まるのが嫌いな男でね。親父がどうしても会ってみろというから来てやっただけさ。」「まぁ、無礼な方ね。」明らかに礼を欠いた哲爾の発言に、既にテーブルに着いていた遥は眉を顰めた。「お兄様、そんな事おっしゃらないでくださいな。羅姫様に失礼じゃありませんか。」「わたくしはちっとも構いませんよ。別にわたくしもお会いしたくありませんでしたし。」羅姫はそう冷淡に哲爾に言い放つと、自分のテーブルへと腰を下ろした。 こうして羅姫と哲爾のお見合いを兼ねた夕食は、険悪な雰囲気で始まった。夕食の最中、誰一人も言葉を発せずに、ナイフとフォークが鳴る音だけがダイニングに響いた。「冬香、今帰ったよ。」ダイニングの扉が開き、晃之介が入って来た。「お帰りなさい、あなた。先にお夕食を頂いておりますわ。」冬香は晃之介の登場でほっとしたような顔を浮かべながら、彼を見た。「羅姫、哲爾君はどうだ?」「別に何も。初対面なので余りよく存じ上げませんし。」羅姫はそう言ってグラスに入った水を飲んだ。「羅姫様、今日は助けてくださってありがとう。」すずが空気を変えようと、羅姫を見て礼を言った後彼女に微笑んだ。「ああ、体育の時間のこと? わたくしは弱い者いじめが一番嫌いなの。佐々岡さんは父親がお大臣だが何だか存知ないけれど、いやに親の笠を着て威張っていたから、気に喰わなかったので少々痛めつけてやろうと思っただけよ。」歯に衣着せぬ羅姫の言葉を、すずは瞳を輝かせながら聞いていた。「まぁ羅姫、また学校で暴れてきたの? あなたの所為でわたくしの縁談が壊れたらどうするつもりなの?」羅姫の話を隣で聞いていた遥が美しい眦を上げながら彼女に抗議したが、羅姫はそれを無視してすずと楽しく話しだした。「羅姫様、休日は何をなさるの?」「大抵乗馬か薙刀や剣術の稽古、後は読書かしら。すずさんは?」「わたしは刺繍が好きで、暇さえあれば一日中やっているわ。何だかわたし達、気が合いそう。」「そうね。」少女達が笑い合っていると、晃之介が突然咳払いした。「羅姫、哲爾君と少しは話したらどうなんだ? 折角我が家の招待に応じてくれたのに、失礼だろう。」「何を話せとおっしゃるの、お父様? わたくし花街や艶街のことはちっとも知らないし、春画も見た事がないのでどう哲爾様と話せば良いのか解らないわ。まぁ、わたくしと話すよりも艶街の遊郭でお酒をお飲みになられた方が楽しいでしょうね。」「羅姫!」余りにも無礼な娘の物言いに、普段温厚な晃之介が声を荒げた時、哲爾が突然狂ったように笑い始めた。「これは失礼。そちらのお嬢さんが余りにも正直にさらっと毒をお吐きになられたので、つい・・」哲爾はそう言うと、羅姫を見た。「あの男、気に入らないわ。」夕食後、自室に入った羅姫は化粧台の椅子に腰を下ろすと、そう言って溜息を吐いた。「あの男の事はもうお忘れになってください。」山瀬は羅姫の髪を優しくブラシで梳きながら、鏡越しに主を見た。「すずさんは良い方だけれど、わたしは彼女とは義理の姉妹にはなりたくないわ。すずさんがどう思っているのかは知らないけれど。」「羅姫様、素敵な方だったわ・・」一方相田邸の自室では、すずが瞳を煌めかせながら羅姫の事を想っていた。 翌朝羅姫が馬で登校中、女学校の前に1人の学生服姿の少年が立っていた。「羅姫さん、おはようございます!」少年は羅姫の姿を見つけると、そう叫んで彼女の前に飛び出した。にほんブログ村
2011年05月07日
コメント(0)

羅姫と山瀬は、町はずれの森へとやって来た。「それで、話って何?」「手紙を、読んでいただきましたか?」「ええ、誰も居ない教室で読んだわ。まさかお前が鬼族の生き残りだとは・・瀧丘家に居る目的は何?」羅姫はそう言って山瀬を見ると、彼は少し寂しげな笑みを浮かべた。「お嬢様のご両親・・一族郎党の仇を討ちたかったのです。その為にはまず、敵の情報を得たかった。だから瀧丘子爵家の執事として働きだした。そして・・あなたと会えた。」山瀬はそっと羅姫の頬を擦りながら彼女を愛おしそうに見つめた。「ずっと探していたの、わたし達を・・わたしと香欖(からん)を?」「ええ。香欖様の消息は依然とわかりませんが、いつか必ず探しだします。それよりも羅姫お嬢様、縁談をお受けするのですか?」「断るわよ。わたしは誰とも結婚しないわ。それに相手はあの社交界の問題児なんでしょう?」「相田男爵家の跡取りでありながら、芸者遊びや廓で女郎と戯れる放蕩振りに男爵様は頭を抱えておられるご様子。何故そんな者を羅姫お嬢様の縁談相手などに・・」山瀬はそう言って溜息を吐いた。「山瀬、わたしの事をどう想っているの? 鴾和家の血を唯一ひく姫としてではなく・・」「香様・・あなたのお父君は、いずれあなた様とわたしを夫婦にさせるおつもりでした。わたしはあなた様と初めてお会いした時から、あなた様をお慕いしておりました。」「山瀬・・」両親が自分達のお披露目として一族に顔見せしたパーティーの時、じっと自分を見つめている少年が居たが、あの時の少年が山瀬だったのか。「羅姫お嬢様、他の誰のものともならぬ・・誰の妻ともならぬというのなら、わたくしのものになっていただけませんか?」山瀬はそう言うなり、羅姫を抱き締めた。「山瀬・・」広い背中に伝わってくる、山瀬の自分への深い想い。「ずっとお慕いしておりました・・」「山瀬、お前の気持ちはよく解ったわ。ずっとわたしを想ってきたのね。でも、今はお前とは・・」「何年でも待ちます。あなたの心が変わるその日迄、わたしはあなたにお仕え致しましょう。」羅姫が山瀬から離れると、彼の哀愁を帯びた紫紺の瞳が自分を見つめていた。「もう戻りましょう。旦那様と奥様がお待ちです。」「ええ。」羅姫と山瀬は馬に乗って瀧丘邸へと帰宅すると、邸の前には一台の黒塗りのリムジンが丁度停まるところだった。「自動車なんて、初めて見たわ。」羅姫は馬上からリムジンを興味深げに見ていると、車の中から山高帽を被った学生服姿の青年と、緑の袴を穿いた女学生が出てきた。「あら、すずさん。」「まぁ、羅姫様!」女学生は、今朝自分のクラスに転入してきたばかりの相田すずだった。「どうしてあなたがこちらに? それにそちらの方は?」「ああ、紹介しますわ。兄の、哲爾(てつじ)です。お兄様、こちらの方は瀧丘羅姫様。」「初めまして、瀧丘羅姫と申します。」羅姫が馬から降りて青年に頭を下げると、彼はじっと羅姫を見つめた。その瞳はまるで、野生の狼のような獰猛な光を湛えていた。青年は羅姫を見つめたかと思うと、彼女の髪を一房手に取るとそれに口付けた。「宜しく。行くぞ、すず。」青年はさっと羅姫から離れると、邸の中へと入った。「待って、お兄様!」慌ててすずが青年の後を追って邸の中へと入っていき、羅姫は漸くそこで言葉を発した。「一体何なの、あの男。」「社交界の問題児は、変わり者でもあるようですね。羅姫様、わたくし達もそろそろ中へ入りましょう。」山瀬はそう言って羅姫の手をそっと握った。羅姫は躊躇いつつも、その手を握り返した。にほんブログ村
2011年05月06日
コメント(2)

(山瀬がわたしに手紙なんて・・一体何を書いたんだろう?) 封筒から便箋を羅姫が取り出そうとした時、担任の教師が教室に入って来たので、彼女は封筒を慌てて鞄の中へと戻した。「皆さん、おはようございます。今日は皆さんと共に学ぶ仲間が増えました。」教師がそう言った時、教室の中に1人の少女が入って来た。花柄の着物に緑の袴姿の少女はおどおどと、教壇から同級生達を見ていた。「相田すずさんです。すずさん、自己紹介なさい。」「相田すずです・・宜しくお願いします。」少女が自己紹介して頭を下げた後、同級生達が意地の悪い囁きを交わしているのが、羅姫の耳に入った。「何、あの方・・」「変な方ね。」「それにお着物も余り・・」どうやら、新参者の少女は彼女達には歓迎されていないようだ。「席は瀧丘さんの隣です。」「ど、どうぞ宜しく・・」羅姫の隣の席へと腰を下ろした少女は、そう言って俯いた。「宜しくね、すずさん。」羅姫はすずに向かって微笑むと、彼女は仄かに頬を赤く染めた。 体育の時間となり、羅姫達は校庭で薙刀の授業をしていた。「面一本、佐々岡さん!」練習試合で転入生に手荒い歓迎をした佐々岡瑠璃子は、意地の悪い笑みを浮かべながらすずを見た。「先生、次はわたしが。」「あら瀧丘さん、練習相手は互いにペアーを組んでやれと先生がおっしゃったでしょう? 相田さんの練習相手はわたくしなのよ。」「同じ人ばかりと試合をしてもつまらないわ、そう思いませんこと、先生?」羅姫は瑠璃子の言葉を無視して教師にそう言うと、彼女は一瞬戸惑ったが、「そうね。瀧丘さんの言う通り、同じ相手と試合するよりも、違う人と試合する方がいいわね。」と羅姫の意見に賛成した。「では、宜しくお願いしますね、佐々岡さん。手加減は致しませんからね。」そう言って自分に頭を下げた羅姫を、瑠璃子は恐怖の表情を浮かべていた。「構え!」羅姫と瑠璃子は互いに一礼した後、薙刀を模した竹刀を構えた。「始め!」教師の号令から間髪入れずに、羅姫が竹刀を中段に構え直し、瑠璃子の胴を強かに打った。「胴一本、瀧丘さん!」瑠璃子の時はやる気のない拍手が送られたが、羅姫が彼女から一本取るとわぁっと歓声が女学生達の中から上がった。瑠璃子は胴を一本取られただけだというのに、肩で息をするくらい体力を消耗していた。だが対する羅姫は、息一つ乱しておらず、悠然と次の攻撃へと構えていた。「もう終わりかしら?」瑠璃子に向けられた羅姫の声は、嘲りが含まれていた。「まだまだ!」唇をかみしめ、瑠璃子は竹刀を握り直し羅姫に突進した。だが彼女の攻撃はするりするりと羅姫にかわされてゆき、握っている竹刀が重く感じられた。「面!」気が付くと、羅姫が瑠璃子の頭に竹刀を振り下ろそうとしていた。「そこまで! 互いに礼!」「ありがとうございました。」羅姫は瑠璃子に頭を下げて彼女に背を向けてすずの方へと近づいた。「あ、あの・・」「あなたの仇は討ってあげたわよ。」困惑するすずを前に、羅姫は彼女の耳元にそう囁くと校舎の中へと入っていった。 放課後、羅姫が馬に乗り校門を出ると、そこには山瀬が黒馬に跨って彼女を待っていた。「珍しいわね、お前が馬に乗ってわたしを出迎えてくれるなんて。」「羅姫お嬢様に、お話がございます。」「いいわ・・ここでは人目があるから、静かな場所に移りましょう。」山瀬を見つめる女学生達の熱視線を感じながら、羅姫はそう言うと手綱を操り、颯爽と駆けだした。にほんブログ村
2011年05月06日
コメント(0)

数日間の休暇を終えた瀧丘子爵家は別荘を後にし、本邸に戻りいつも通りの生活を送った。「おはようございます、羅姫お嬢様。」「ん・・」羅姫が寝台の中でまどろんでいると、執事の山瀬が寝室に入ってきてカーテンを開けた。「本日は羅姫お嬢様の縁談相手がお見えになられるので、お早いお帰りをと奥様が。」「またなの。わたしは結婚しないと言っているのに。」羅姫が溜息を吐きながら、山瀬が髪を梳いてくれている姿を鏡越しに見ていた。「遥お嬢様のご縁談が決まり、次は羅姫お嬢様をと奥様はお考えになられているのでしょう。暫く奥様が口を酸っぱくさせて羅姫お嬢様に結婚の催促をなさいますが、黙って耐えてください。」「そうするわ。」羅姫はさっと椅子から立ち上がると、山瀬がクローゼットの中から着物と袴を取り出した。着物は加賀友禅の振袖で、袴は海老茶染めだった。羅姫は夜着から振袖へと袖を通し、袴の紐を締めると寝台の端に腰掛けた。「失礼致します。」山瀬は羅姫の両足にブーツを履かせ、丁寧に靴紐を締めた。「朝食の後にすぐ出るから、馬の用意をお願いね。」「かしこまりました。」寝室から出た羅姫は、ダイニングへと降りていった。「おはようございます、お父様、お母様。」「おはよう、羅姫。今日からまた学校だね。」晃之介はそう言って新聞から顔を上げ、羅姫を見た。「ええ。遥お義姉様はまだお部屋なの?」「遥ならさっき学校に行きましたよ。最近あの子塞ぎこんでいて、何が気に入らないのかしら?」冬香は溜息を吐くと、紅茶を飲んだ。「では行って参ります。」朝食を食べ終えた羅姫は両親に頭を下げてダイニングから出て行くと、入れ違いに涼太がダイニングへと入ってくるところだった。「姉様、もう行くの?」「ええ。」玄関ホールから外に出ると、山瀬が馬を牽いて待っていた。「お嬢様、行ってらっしゃいませ。」「行ってくるわ。」羅姫はさっと馬に乗ると、手綱を握って正門から邸の外へと出て行った。「山瀬、姉様は?」「先ほど学校へと行かれました。」「ちぇ、一緒に行こうと思ったのにな。一人で登校なんて、つまんないや。」涼太は舌打ちし、少し拗ねた。「ねぇ山瀬、羅姫姉様のお相手ってどんな方かな?」「さぁ・・社交界の問題児だということは存じておりますが。」山瀬の瞳が、険しい光を宿した。「御機嫌よう、羅姫様。」「御機嫌よう。」羅姫が女学校の門をくぐると、数人の女学生達から挨拶をされたので、羅姫は挨拶を返すと厩舎へと向かった。「また放課後に会いましょうね。」羅姫はそう言って愛馬のたてがみを撫でて教室へと入ると、先ほど自分に挨拶してきた女学生達が近づいて来た。「羅姫様、聞きましたわよ。」「あの哲爾様とお会いになられるのですって?」「一度だけ会う事になったのよ。それがどうかして?」羅姫がそう言って自分の席に着くと、彼女達は怪訝そうな表情を浮かべた。「羅姫様、哲爾様は羅姫様との縁談に乗り気だと聞きましてよ?」「へぇ、そうなの。知らなかったわ。」淡々とした口調で羅姫が教科書やノートが入った鞄を開けると、封筒のようなものが見えた。(いつの間に、こんなものが・・) 羅姫はそっと鞄の中から封筒を取り出すと、そこには“お嬢様へ”と山瀬の字で書かれていた。にほんブログ村
2011年05月05日
コメント(2)

「今度店出しさせていただく事になった香欖どす、宜しゅうお頼申します。」舞妓となって初めて出るお座敷の席で、香欖(からん)はそう言って客に挨拶した。「香欖ちゃん、仕込みの時も可愛くなったと思ったけれど、店出しして舞妓になってから益々可愛くなってきたね。」「おおきに。」香欖は客に微笑むと、彼の猪口に酒を注いだ。「失礼致します。」部屋の襖が開き、料亭の女将が入って来た。「香欖ちゃん、今日はおめでとうさんどす。これからお気張りよし。」「へぇ、おおきにおねえはん。」女将は三味線が入った袋を女中から受け取り、襖の前に座り、三味線を袋から出すと音合わせをし始めた。「香欖ちゃん、準備出来ましたえ。」「へぇ。ほな、失礼します。」香欖は客達に向かって頭を下げると、襖の前に跪くと、ゆっくりと女将が弾く三味線の音に合わせて静かに舞い始めた。 舞を舞いながら、香欖は仕込みとして生活を始めた日々を思い出していた。あの時はまだ花街の掟やしきたりといったものが理解できず、戸惑う事ばかりが多かった。それ故に失敗を繰り返し、先輩舞妓や芸妓達、置屋の女将から叱責を受けたりしたし、先輩達からは陰湿ないじめを受けたりした。だがどんなに辛い事があっても、香欖は決して裸足でこの街から逃げ出したりはしなかった。自分が決めた人生の選択を放棄して尻尾を巻いて逃げ出すことなど、最も人間としてはいけない事だからだ。逃げ出したいと思った時、いつも脳裡に浮かんだのは、壮絶な両親の最期の姿だった。 命が尽きるその瞬間まで、敵に立ち向かい決して背中を見せることはなかった両親の姿は、幼いながらも香欖の目蓋の裏に焼きついて離れなかった。 ―父上や母上に恥じない立派な生き方をしよう―燃え盛る邸を高台の上から見ながら、香欖は姉と共に心から誓ったのだ。人に恥じぬ生き方を、人に恨まれるよりも感謝される生き方をしようと彼は仕込みとして生き始めた時、常にそう自分に誓ってきた。だからこそ、舞妓としての今の自分が居る。(父上、母上、あの泣き虫なわたしがここまで立派に成長いたしましたよ。)何度も涙を堪えながら、香欖は舞を舞い終えた。「ええ舞やったわ、香欖ちゃん。」「おおきに。」これまで仕込みの時に何度か客の前で舞った事はあるが、舞妓として舞う事に対して緊張し、大丈夫だっただろうかと二軒目のお座敷へと向かう最中で香欖は何度も思っていた。 石畳の路地におこぼの音を響かせ、花簪を揺らしながら香欖が男衆(おとこし)とともに二軒目のお座敷がある茶屋へと向かっていると、突然路地裏から下駄の音が響いたので思わず香欖は背後を振り向いた。するとそこには黒い外套と学生服を纏い、山高帽を被った男がじっと香欖を見つめていた。榛がかった黒い瞳は、何処か野生の狼を思わせるかのような獰猛(どうもう)な光を湛えていた。「香欖はん、行きますえ。」「へぇ。」はっと我に返った香欖は、男衆とともに二軒目のお座敷へと向かった。おこぼの音が次第に遠ざかり、外套の男は次第に小さくなってゆく香欖の背を見送ると、口笛を吹いて彼に背を向け、歩き出した。「哲爾(てつじ)様、こんな所にいらしていたのですか。」男の前に、黒いフロックコートを纏い、銀縁の眼鏡を掛けた男が呆れ顔を浮かべながら彼を見た。「なんだ、お前か。」にほんブログ村
2011年05月04日
コメント(0)

「只今戻りました。」 遠乗りから戻り、瀧丘家の別荘の居間に入った羅姫(らひ)がそう言うと、養父母と義理の姉弟の他に、見知らぬ青年がソファに座っていた。「お父様、そちらの方はどなたです?」「羅姫、紹介するよ。遥の許婚の、梨本陽輔(なしもとようすけ)さんだ。梨本さん、下の娘の羅姫だ。」「初めまして、梨本陽輔です。」そう言ってソファから立ち上がった長身の青年は、女と見紛う程の美貌の持ち主で、隣に立っている羅姫の輝くような美貌さえも霞んでしまうほどだ。「瀧丘羅姫ですわ。遥お義姉様は幸せ者ね、このような美しい方とご結婚されるのだもの。」羅姫はそう言ってソファに座っている義姉を見やると、彼女は何故か苦虫を噛み潰したような顔をしていた。「どうなさったの、お義姉様?」「気分が優れませんので、部屋で休ませていただきます。」遥はソファから立ち上がると、居間から出て行った。「御免なさいね、梨本さん。あの子ったら、どうしたのかしら。」冬香は溜息を吐きながら、紅茶を飲んだ。「さぁ。それよりも梨本さんの留学話を聞きたいな。」涼太は瞳を輝かせながら、そう言って陽輔を見た。「そういえば梨本さんは、学生時代に英国へ留学していたのですってね。是非ともお聞きしたいわ。」「いえ、お話しするような経験は余りありませんが・・」謙遜しながらも、陽輔は照れ臭そうな顔をしていた。 夕食の時間となり、羅姫達はダイニングで陽輔の留学話に耳を傾けていた。「初めて舞踏会でワルツを踊った時、女性に技を掛けてしまって、後で友人にこっぴどく叱られてしまいました。」「まぁ、そんな事がおありになったの?」冬香は葡萄酒を飲んでいる所為なのか、いつもより陽気だった。「それにしてもお義姉様はお部屋に籠ったまま出てきませんわね。わたくしが呼んできますわ。」羅姫はそう言ってダイニングから出て遥の部屋の前をノックした。だが、中から返事が返って来ない。「お義姉様、どうなさったの?」「部屋に入ってこないで。あなたは梨本様のご機嫌をお母様と取りなさいよ!」ドアの向こうから返って来た義姉の声は、今まで聞いたことがない冷たく鋭いものだった。そっとしておいた方がいいかもしれない―羅姫は何も言わずにそっとダイニングへと戻った。「梨本様、わざわざいらしてくださったのに姉は急に体調を崩してしまって申し訳ないです。」羅姫がそう言って陽輔に向かって頭を下げると、彼は笑った。「いいえ、誰にだって機嫌が悪くなる時があります。今日はあなたにお会いできて良かった。」「ええ、わたくしも。」羅姫の言葉に陽輔は微かに口端を上げて笑うと、玄関ホールから出て行った。「またのお越しを、お待ちしておりますわ。」「ええ、ではまた近い内に。」陽輔を乗せた馬車が別荘の門を出て見えなくなるまで、羅姫は頭を下げてそれを見送っていた。その光景を、二階の窓から遥は見ていた。(梨本様はもう、わたしよりもあの子に会う為にここにやって来る・・)遥は溜息を吐いて窓から離れ、ベッドの端に腰掛けた。10年前羅姫と義理の姉妹となってから、両親や弟の目は常に羅姫に向けられ、周囲の者も羅姫の美しさや聡明さに惹かれていった。だが遥を誰も見てくれる者が居ない。(あの子がわたしの前に現れてから、わたしはいつもあの子の陰に怯えなければならないなんて・・わたしは瀧丘子爵家の正統な令嬢なのに・・)血が繋がらない、滅びた一族の聡明な姫にいつか自分の地位を脅かされるのではないのかと、遥はそう思いながらやがて眠りに就いた。にほんブログ村
2011年05月04日
コメント(0)

香欖(からん)が両親と死に別れ、双子の姉・羅姫(らひ)と引き離され、この花街に引き取られてから10年の歳月が過ぎようとしていた。厳しい芸事や作法の稽古や、先輩達の陰湿ないじめにも耐え忍んだ彼は、明日で15―成人の年を迎えようとしていた。「明日はいよいよ店出しの日やなぁ、香欖ちゃん。今までようきばってくれたねぇ。」女将はそう言って、香欖の部屋にある衣紋掛けに掛けられた黒紋付の振り袖を眺めながら目を細めた。「へぇ。これもおかあさんのお蔭どす、おおきに。」香欖は10年間自分を実の子どものように愛情深く育ててくれた女将に感謝の言葉を述べると、彼女に向かって頭を下げた。「まだあんたの姉さんは見つからへんけど、あんたの事を聞いたらきっと喜ぶと思うわ。」「はい・・」10年前、香欖は目の前で両親と家を失い、姉とも生き別れた。その姉の消息は、未だに分かっていない。だがいつの日か、姉とともに暮らせる日を夢見て、香欖は稽古に打ち込んできた。「明日は忙しいさかい、ゆっくりお休み。」「はい、おかあさん。」襖が静かに閉められた後、香欖はふぅと溜息を吐いた。母譲りの艶やかな黒髪は、明日の晴れの日の為に割れしのぶに結っている。(いよいよ明日か・・)高まる気持ちを抑えながら、香欖は眠りに就いた。 翌朝、香欖は置屋の女将によって化粧を施され、男衆(おとこし)によって黒紋付の振袖とだらりの帯を身に付けた。「よう似合ってるわ。」「おおきに。」鏡台に映る己の姿に驚きながらも、香欖は舞妓としての新しい人生を歩み始めた。 同じ頃、新緑の季節を迎えた帝都近郊の避暑地では、藤色のドレスに身を包んだ1人の令嬢が、颯爽と馬で駆けている。緑の木々から時折射し込む陽光によって、彼女の金髪は美しく輝き、宝石のような蒼い瞳も一層輝きを増していた。ドレスの裾が邪魔になる為、馬に横乗りしながら疾走する彼女の姿は何処か凛としていて、道行く人々は彼女が通る度にその美しさに溜息を吐いていた。目的地の前で彼女が速度を落とそうとした時、道端で数人の少年が1人の少女に絡んでいるところを目撃し、速度を落とさずに彼らの方へと向かった。「そこで何をしているの?」突然自分達にぶつかりそうな勢いで目の前に白馬に乗った令嬢が現れ、先ほどまで同級生を苛めていた少年達は驚きの余り地面に尻餅をついてしまった。「何をしているのかと聞いているのです、答えなさい。」「べ、別に俺達は何も・・」「嘘おっしゃい。わたしはお前達がこの子をいじめるのを見たのですよ。」「そんな事は・・」少年達が尚も言い募ろうとすると、令嬢は持っていた鞭で彼の頬を打った。「痛ぇ、何すんだよ!」憤怒の表情を浮かべる少年に対し、令嬢は氷のような声で彼にこう言った。「己の痛みが解らぬ者に、人に痛みを与える資格などどこにもありませんよ。もっと痛い目に遭いたくなかったら、ここから消えなさい!」怒りの炎を宿した蒼い瞳で睨まれ、少年達は一目散に逃げていった。「大丈夫?」馬から降りた令嬢は、両膝の間に顔を埋めて泣いている少女に声を掛けた。「大丈夫です。助けてくださってありがとうございます。あの・・お名前は?」「わたし? わたしは羅姫というのよ。」令嬢―羅姫はそう言って、少女に微笑んだ。「また機会があればお会いしましょう。」羅姫はひらりと馬に飛び乗ると、風となって消えていった。「素敵・・」徐々に小さくなってゆく羅姫の背中を、少女は潤んだ瞳でいつまでも見つめていた。にほんブログ村
2011年05月03日
コメント(4)
全52件 (52件中 1-50件目)
![]()
![]()
![]()