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夜の帳が下り、副長室には総司の甘い喘ぎと水音が響いていた。「あ、ああ・・」「いいのか?」歳三は総司の股間に顔を埋めながら、上目遣いに彼を見つめると、彼は快感に打ち震え、喘いだ。「土方さん・・もう・・」「どうした、総司? 俺に何をして欲しいんだ?」「それは・・」「言わないとやらないぞ?」意地悪そうに口端を少し上げ、切れ長の黒い瞳を吊りあげて恋人を見た。情事の時に、いつも歳三は総司を焦らし、何をして欲しいと言ってくれるまで何もしない。「土方さんのものを、わたしの中に挿れてください・・」歳三は夜着の裾を捲り、綻びきった総司の蕾へと自分の怒張をゆっくり挿れた。「ああ~!」歳三が中に入って来て、総司は海老反りになって喘いだ。「挿れただけでそんなに感じるなんて・・嫌らしい身体だな。」「意地悪・・」「動くぞ。」歳三がゆっくりと腰を動かすと、総司はぐっと声を堪えた。いつ副長室に人が来るかもしれない時に、声を上げる訳にはいかない。そんな総司の気持ちを知ってか知らずか、歳三の動きは徐々に激しくなる。総司の華奢な身体が、歳三の激しい突きによってゆらゆらと揺れる。「んん・・ふぅ・・」快感の渦が激しく沸き上がり、いつの間にか総司は自ら腰を振っていた。「お前の中、締まってるぞ・・」「土方さん・・」頬を赤く染め、総司は熱で潤んだ瞳で歳三を見つめると、彼はますます激しく腰を振った。「中に出すぞ、総司。」「出してください、土方さん!」歳三は一層腰を激しく振り、総司の内部に欲望を迸らせた。「大丈夫か?」「はい・・」肩で息をしながら、総司は歳三の胸に頭を預けた。汗で張りついた彼の黒髪をそっと撫でると、歳三は外の雨音を聞いた。「わたし達が初めて結ばれた時も、雨が降ってましたね。」「ああ。」「土方さん、わたし達は、いつまでこうしていられるのでしょうね?」総司の笑みに、歳三は胸が張り裂けそうな気がした。彼は自分の命がもう長くないことを知っている。それを歳三に悟らせまいと、総司は笑っているのだ。「何、笑ってやがる・・」「千尋君、わたしと契約を交わした時、今の土方さんみたいに辛そうな顔をしていました。あの時はまだ小さくて解らなかったけど、わたしがこの病に倒れる事を、あの子は知ってたんですね・・」あの時―まだ幼い自分を見つめていた千尋の蒼い瞳に、憂いの光が帯びていたことを総司は今になって思い出した。 一方千尋は、雨音に耳を澄ましながら“あの日”の事を思い出していた。自分はあの時、ピアノを自分の部屋で弾いていた。その時、兄が部屋に入って来た。“お兄様、どうなさったの?”そう言って兄の方へと振り向くと、彼は昏い瞳で自分を見つめると、手首を掴んで寝室へと引き摺りこんだ。“やめて、お兄様!”必死に抵抗したが、兄は自分の頬を殴った。―大人しくしていろ、ルクレツィア!ドレスを短剣で引き裂き、兄は自分を容赦なく貫いた。全てが終わった後、千尋は兄に対して恐怖を抱いた。―ルクレツィア、今夜からお前を抱くからな。そう言った兄の瞳は、欲望に滾っていた。何故兄はあんな事をしたのか、今でも解らない。(兄様・・何故あの時わたくしを・・)千尋は眠れずに何度も寝返りを打った後、縁側へと出て行った。 そこには、血のような紅い月が浮かんでいた。一方、長州藩邸では桂小五郎が自室で物思いに耽っていた。彼の脳裡に浮かぶのは、自分の手を離した時に見つめた千尋の、深く澄んだ蒼い瞳だった。にほんブログ村
2011年07月30日
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「もう大丈夫ですよ、桂さん。」「千尋、君は大丈夫なのか?」桂はそう言うと、全身返り血に塗れた千尋を心配そうに見上げた。「大丈夫です、これは全て返り血ですから。立てますか?」「ああ・・」桂の肩に腕を回して千尋が彼とともに寺から出ようとした時、外から鳴子の音が聞こえた。「桂さん、これでお別れです。お気をつけて。」「千尋、待て!」自分の手を握って離そうとしない桂のそれを、千尋はするりと解いて外へと向かった。「土方さん、本当にこんなところに千尋君が居るのでしょうか?」「ああ。俺の勘がそう言ってるんだ。」歳三はそう言って、廃寺の中へと入っていった。「千尋、居ないのか?」行灯で闇の中を照らして歩きながら、歳三は千尋の姿を探した。「副長、わたしはここです。」闇の中で金の髪が靡き、千尋が歳三の前に現れた。「千尋、無事だったか!」歳三がそう言って彼に近寄ると、彼は全身に返り血を浴びていた。「お前、これは・・」「賊を奥の方で討ちとりました。副長、沖田さんは?」「総司なら大丈夫だ。それよりも屯所から戻ったらさっさと風呂に入れ。」「解りました。」千尋が歳三とともに廃寺から出て来ると、彼らを待っていた隊士達が千尋の方を一斉に見た。彼の結い上げた髪はばらばらに崩れ、美しい着物はところどころ破けている上に返り血がついていた。「行くぞ、千尋。」「はい。」廃寺を歳三とともに後にする千尋の背中を、桂は物陰から見えなくなるまで見送っていた。「千尋君、無事だったんですね!」 屯所に戻ると、総司がそう叫んで千尋に抱きついた。「総司、部屋で休んでいろと言っただろうが。」「だって、心配だったんですもん。でも千尋君の無事が解ったので、副長室に戻りますね。」総司はそう言うと、くるりと歳三達に背を向けて廊下を歩いていった。「全くあいつは仕方のねぇ奴だな。」「心配をおかけして申し訳ありません。」「謝らなくてもいい。さっさと風呂に入ってこい。」「はい・・」千尋は湯船に浸かり、ゆっくりと目を閉じた。脳裡に浮かぶのは、自分を抱き締めてくれた総司の笑顔だった。歳三に総司の命を助けるという契約を交わしたが、彼の命がもう長くはないことを、千尋は知っていた。この時代で、あの病を克服した者は1人も居ない。自分に出来るのは、総司と歳三が互いに過ごせる時間を作れるようにする事だけだ。(何をしているんだろう、わたしは・・)2人を決して幸せになど出来る筈がないのに、千尋は彼らと契約を交わしてしまった。自分に出来ることは、何もないのに。「ん・・土方さん・・」副長室では、歳三が総司を抱き締めながら、彼と互いの唇を貪り合っていた。「少し、痩せたな。ちゃんと飯は食っているのか?」「食べてますよ。それよりも土方さん、溜まってるんですか?」「藪から棒に何言いやがる。俺がお前を乱暴に犯すとでも?」役者絵から抜き出てきたような歳三の美しい眦が吊りあがるさまを見て、総司は弾けるような笑みを浮かべた。「冗談ですよ。」「ったく、お前ってやつは・・」歳三はクスクスと笑いながら、総司の首筋を強く吸った。「・・さないで・・」「何か言ったか?」「いえ・・」“離さないで、わたしが死ぬ迄。”にほんブログ村
2011年07月30日
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千尋が監禁された部屋は、窓が無く換気の悪い所で、暑さで徐々に彼の体力は消耗していった。(兄様、助けて・・)今この世にいない兄に、無意識に千尋は彼に助けを求めた。 意識が朦朧としながらも、千尋はゆっくりと目を開け、今自分が置かれている状況を把握しようとした。 一方、千尋が拉致された事を知った桂は、心当たりのある廃寺へと向かった。この寺には何度か仲間と密会する時に来ている。もしかしたら千尋はここに監禁されているのかもしれない・・桂はそう思い、寺の部屋の戸をひとつひとつ開けて中に千尋が居ないか調べた。(ここには居ないか・・残りは、奥の部屋だな。)桂は行灯を手に、奥の部屋へとゆっくりと進んだ。だがその時、闇の中から人影が現れ、男が彼に体当たりをしてきた。「何者だ!」桂が鯉口を切ると、男は欲望に滾った目で彼を睨みつけた。「長州派維新志士筆頭、桂小五郎殿とお見受けする。」「貴様、何者だ? 千尋は・・あの子は何処に居る?」「それは今から死ぬ貴様には関係のない事だ!」男はそう叫ぶと、刀を抜いて桂に突進した。 激しい剣戟の音が扉越しに聞こえてきて、千尋はゆっくりと起き上がった。「千尋は何処だ!」(桂・・さん?)扉越しに聞こえてきた男の声は、桂のものだった。「千尋、これからどうするつもりだ?」「いつの間に来たのですか?」千尋がそう言って黒服の男を睨み付けると、彼はそっと千尋の手を握った。「今お前が決断しなければ、あの男は死ぬ。彼を亡くす事で、歴史の流れは大きく変わってしまう。それでもいいのか?」「それは・・」「お前は、また兄の時のように、心に闇を抱えながら生きてゆくのか?」「わたくしに、どうしろと言うのです?」「それは、自分で考えろ。」黒服の男は、そう言うと闇の中へと消えた。 桂は男と刃を交えながら、彼を睨みつけた。「あの千尋とかいう奴は、壬生狼の間者だ! そんな奴をお前は何故助ける!」「それは、わたしが彼を好きだからだ! 愛する者を助けることの何が悪い!」「甘い男だな。もしあいつがお前を裏切ったらということを、一度も考えなかったのか?」「それは・・」男の問いに、桂が一瞬怯んだ。その隙を、男は逃がさなかった。 部屋から脱出した千尋が廊下を走ると、血だまりの中に桂が倒れていた。「桂さん!」桂は千尋の呼びかけにも応えず、目を硬く閉じたままだった。「そんな・・」咄嗟に手首の脈を確かめると、微かに脈があった。(早く、助けないと・・)桂の腹から流れ出る血を止めようと、千尋は着物の袖を破り、それをきつく巻いて止血した。「しっかりしてください、桂さん!」「千尋・・良かった、無事で・・」桂はそう言うと、そっと千尋の頬を撫でた。「死なないでください、桂さん! あなたはまだ死んではいけない!」千尋は涙を流しながら、桂の手を握った。「無駄だ!」桂を斬った男は違うもう1人の男が、そう言って千尋に襲い掛かった。「止めろ、離せ!」千尋は帯に挟んでいた護身用の懐剣を抜くと、男の首筋にその刃をめり込ませた。「畜生・・」千尋が刃で男の首筋を切り裂くと、真紅の血がそこから迸り、男は息絶えた。「桂さん、もう大丈夫ですよ・・」千尋は桂の方へと駆け寄ると、そっと彼の唇を塞いだ。桂の止まっていた心臓が、再び動き始めた。「千尋・・?」桂が目を開けると、そこには千尋が笑顔を浮かべながら自分を見ていた。photo by NEO HIMEISM様にほんブログ村
2011年07月30日
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下の記事について、続きがあります。再起動したら、メールもWordも開けて、ブログにログインも出来ました。ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした。
2011年07月29日
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―ねぇ、ルクレツィア様のことだけれど・・―ああ、あれね・・ 自分の部屋に控えていた侍女達が、扉越しに何かを話していた。―まさか、ルクレツィア様があのようなお身体だったなんて・・―奥様は大層お嘆きになられて。それよりも若様は・・何度忘れようとしても、完全に消すことのできない、侍女達の会話。自分の身体についての、忌まわしい事実。―ルクレツィア様が、まさか・・ガタンと大きな音がして、千尋ははっと目を覚ました。「目が覚めたようだな?」 頭上から低い、嘲るような声が聞こえて彼が辺りを見渡すと、そこには自分を拉致した男がじっと自分を見つめていた。「あなた方は一体何者です? ここは何処なのです?」「ここは廃寺だ。お前は、桂小五郎の愛人なのか?」男の問いに、千尋は静かに首を横に振った。「わたくしは桂小五郎という男など知りません。先ほどお座敷でお会いしたばかりですし。ましてや愛人など・・」千尋の咄嗟の嘘を、男は見抜けなかったようだった。「そうか。ではあの面妖な格好をした男とは面識があるのか?」「さぁ・・向こうはあるみたいですけれど。直接お聞きしたら宜しいのでは?」「そうしたいところだが、取り逃がした。だからお前に聞こうと思ってな。」「名乗らぬ者に礼を尽くす程、わたくしは出来た人間ではありませんよ。」千尋がそう言って男にそっぽを向くと、彼は舌打ちした。「まぁよい・・お前が突然居なくなっただけであやつらは慌てふためくことだろうよ。」男はさっと戸を開けて部屋の外に出ると、それを乱暴に閉めた。 蝋燭すらない部屋は、瞬く間に闇に包まれた。「なに、千尋が居なくなっただと?」「はい。祇園界隈で不逞浪士と思しき連中に拉致されたようです。」そう歳三に報告する山崎の表情は曇っていた。「畜生、俺の読みが甘かったか。あいつが監禁されているのは人目につかねぇところだ。廃寺や廃屋を徹底的に探せ!」「解りました。」山崎と入れ違いに、総司が副長室へと入って来た。「どうしたんですか、何かあったんですか?」「千尋が不逞浪士達に拉致されたらしい。今山崎に監禁先の捜索を命じたところだ。」「そんな・・」総司は驚愕の余り、蒼褪めて床へと倒れ込んだ。「総司、大丈夫か?」「ええ。土方さん、千尋君を早く助けてあげてください! あの子はきっと、寂しくて怖い思いをしている筈です!」総司は自分が病魔に侵されているというのに、何処かで監禁されているかもしれない千尋の事を心配している。そんな彼の優しさに思わず頬が弛みそうになりながらも、彼は余りにも他人に優し過ぎるのではないかと歳三は少し危惧していた。「総司、必ず千尋を見つけ出すから、お前は部屋で休んでいろ。」「いいえ。土方さん、一晩だけでいいですから、ここで寝かせてください。」「・・解った。」総司のまっすぐな目で見つめられて頼まれ事をされると、歳三は断れなかった。昔からそうだった。幼い頃から、総司は何も変わってなどいない。 だが彼が病魔に侵されていることと、その進行を抑えきれるものではないということが、恋人達の時間を残酷なものへと変えていくのだった。つづくにほんブログ村
2011年07月26日
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桂は、じっと目の前に座っている千尋を見つめた。彼と初めて会ったのは、宮川町界隈の茶屋だった。異国との混血とすぐに解る黄金色の髪と蒼い瞳に、薔薇色の頬。まるで、美人画からそのまま抜け出てきたような美少年だった。その彼と、こうして敵同士として再会を果たすことになるとは。「もう一度聞こう。何故君はわたし達を手助けしながら、壬生狼の元に居るのだ?」「理由は、ありません。ただわたくしは、ある方達と契約を交わしました。」「その者達は、誰だ?」「それは、教えることはできません。たとえあなたでも。」千尋はそう言うと、桂を蒼い瞳で見つめた。「・・君はいつも、わたしの問いには答えてくれないんだね。」桂は寂しそうに笑いながら、千尋を抱き締めた。「もう置屋に戻らなくてはいけません。桂さん、落ち着いたら文をください。」「ああ、解ったよ。」千尋は桂から離れると、部屋から出て行った。その背中を、桂は愛おしそうに見つめた。(千尋・・)宮川町で彼ががらの悪い男達に絡まれているところを桂が救い、彼は礼を言って自分に微笑んだ。その笑顔は、まるで西洋の天使のように穢れのないものだった。桂はその瞬間、千尋に恋に落ちた。だが千尋は、桂が自分を想っていることを知りながら、わざと冷たくした。桂はそんな事で千尋への想いを諦める筈がなく、彼らの恋という名の狩りは延々と続いていくのだった。(どうしたらわたしは、お前の心を掴むことができるんだ?)「随分と着飾っているな?」夜の帳が下りた花見小路を千尋が歩いていると、頭上から声がした。彼が屋根の上を見上げると、そこにはあの黒服の男が立っていた。「仕事です。それよりもあなたは、一体何をしに京へ?」「それは教えないよ。それよりもお前は、男を惹きつけてやまないようだね。さっきの男は、お前の事を想っているようだ。」「見ていたのですか・・」桂との密会を男に見られていると知り、千尋は頬を羞恥で赤く染めた。「お前は、あの男の事をどう思っているのだ?」「それはあなたには関係のない事です。」千尋はそう言って男を睨んだが、男はそれを鼻で笑い、屋根から飛び降りて千尋の肩を抱いた。「お前は罪な奴だ、ルクレツィア。」「その名は捨てました。あなたはこれから、どうなさるおつもりなのですか? いつまでもこちらに居ては、色々と煩く言う方もおられるでしょうに。」「わたしはお前が彼らをどのように操るのかを見物したいだけだ。」男がそう言って千尋の耳元でそう囁いた時、近くの路地からばらばらと数人の浪士達が出てきた。「日本を占領せんとする異人め、天誅を下してやる!」すっと、長身の侍が男に向かって突進してきたが、彼は咄嗟に杖で応戦し、なんなく侍の攻撃をかわした。「千尋、逃げなさい。」「ですが・・」「あの男はお前に惚れている。それは間違いないよ。」激しい剣戟の中でも、男は汗ひとつ掻かずに涼しい顔をしながら千尋にそう言うと、笑った。千尋は彼に頭を下げると、来た道を戻った。「女が逃げたぞ、追え!」浪士達が自分を追って来る気配がしたが、高めの草履を履いた足では、走る事は出来なかった。それでも千尋は、彼らとの距離を少しでも広めようとして、必死に走った。だが、後頭部を何かで殴られ、彼は気を失った。「人に見られないように、さっさと運べ。」「ああ。」長身の侍がさっと地面に倒れている千尋の身体を抱き上げると、仲間とともに闇の中へと消えていった。千尋が倒れていた地面には、珊瑚の簪が光っていた。「これは・・」数刻後、出逢い茶屋を出た桂は、その簪を拾い上げ、千尋に何かが起こったのだと悟った。にほんブログ村
2011年07月25日
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「小説家になろう」にて掲載していた「Ti Amo」第1章を、こちらに移しました。鬼と人間の混血として生まれ、男でありながら貴族の姫君として育てられた柚葉(ゆずは)と、陰陽師・土御門有人(つちみかどありひと)との、純愛物語です。
2011年07月25日
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「これはこれは、女御様。ご無沙汰しておりました。」蜜匡はそう言うと御簾の向こう側に居る藤壺の女御に向かって跪いた。柚聖も慌てて彼と同じようにした。「そちらの方は? 初めて見るお顔だこと。」「こちらは陰陽生の土御門柚聖と申す者。柚聖君、女御様にご挨拶を。」「は、は、初めまして! 女御様にはご機嫌麗しく・・」「まぁまぁ、そんなに緊張なさらないで。柚聖とやら、今年幾つになったの?」「15になりました。」「そう・・だったら何もかしこまることはないわね。同い年なんですもの。」御簾の向こうでそう言いながら笑う女御の声は、人の心を癒す力を持っているようだった。「あの、体調が優れないと伺ってこちらに参りましたが・・」「あら、ただ風邪をひいただけだっていうのに、わたくしの女房達が大袈裟に騒ぎたてたのね。あなた方は御忙しいのに、お呼びしてごめんなさいね。」「い、いいえ!」「あなた方のやるべき事は、ここにはないから、陰陽寮へお戻りなさい。あなた方の手を煩わせた女房達にはわたくしからきつく叱っておくから。」藤壺の女御はそう言うと再びあの朗らかな笑い声を上げた。「恐れながら女御様、申し上げます。」 彼女に何もなくて良かったと、柚聖が安心していた時に、突然彼の隣に座っていた蜜匡が口を開いた。「なぁに、蜜匡様?」「少し内密なお話になりますので、御簾の近くに寄ってはくださいませぬか?」「ええ、いいわよ。」蜜匡はゆっくりと立ち上がると、御簾越しに女御と何か話をしていた。(一体何をお話しされているんだろう?)不安そうな顔で蜜匡の横顔を見た柚聖の肩を、有爾がそっと叩いた。「どうしたの?」「う~ん、何だか女御様と蜜匡様がお話しされているんだけれど・・」「お二人は従兄妹同士だから仲がいいんだよ。女御様と蜜匡様は実のご兄妹のように幼いころからお育ちになられたから、蜜匡様を藤壺に呼び出しては話し相手をさせているんだってさ。」「へぇ、そうなの・・」 宮中で長く暮らしている有爾から女御と蜜匡の関係を聞いて柚聖がそう相槌を打った時、女御と話を終えた蜜匡が柚聖を見た。「女御様が君とお話ししたいそうだ。御簾越しではなく、お部屋の中で。」「え?」 突然の事で女御と何を話せばいいのかわからない柚聖は、困惑した表情を浮かべながら蜜匡とともに御簾を捲って部屋の中へと入った。「あなたが、柚聖さんね。」上座には、唐紅の衣を纏った少女がそう言ってにっこりと柚聖に微笑んだ。「あ、あの・・わたしと何をお話しに・・」「ちょっとこちらに来て下さらない?」「は、はぁ・・」女御の言われるがままに、柚聖は彼女の前へとやって来た。 すると、女御はおもむろに柚聖が被っている烏帽子を取り、結っていた彼の髪を解き始めた。「あの、一体何を?」「まぁ、綺麗な御髪だこと。これなら大丈夫ね。霞、わたくしが持っている物で一番いい衣を持って来なさい。」女御の傍に控えていた年嵩の女房が衣擦れの音を立てながら部屋から下がった。「あのね、わたくし先ほど蜜匡様から頼まれたのよ。あなたを美しい女人に変身させてくださるようにって。だから、少しわたくしと付き合って下さらない事?」(え・・今、なんて・・)「あの、それは・・」「お願い。」女御の頼みを断ることもできず、柚聖は溜息を吐きながら静かに頷いた。(一体蜜匡様は何をお考えなのだろう?)柚聖はちらりと御簾の向こう―廊下に控えている蜜匡を見た。柚聖の視線に気づいたのか、蜜匡はにっこりと彼に笑いかけた。(蜜匡様・・) 何を思って彼が自分を女人に変身させようなどと女御に頼んだのか、柚聖は全くわからなかった。にほんブログ村
2011年07月25日
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柚聖(ゆずまさ)は溜息を吐きながら、今夜の疲れを取る為に風呂に入った。 直衣を脱いで、夜着に着替えた彼は、湯殿の前で白絹の衣に着替えると、ゆっくりと湯船に浸かった。「はぁ~、極楽極楽。」まだ若いのに年寄じみたことを言う柚聖に、式神達は溜息を吐いていた。「柚聖ちゃん、またあんな事言ってるわよ。」「まだ若いのにねぇ・・」「っていうか、あの年で初恋とか色々と青春しちゃってもいいと思わない? 女っ気がないってのがさぁ、致命的よねぇ。」千里はそう言うと、相方の江梨花を見た。「まぁね・・顔もいいし、歌も漢詩もできるし、楽器も弾けるけど・・何かが足りないのよねぇ。」「そうね・・」彼女達の会話などお構いなしに、柚聖は湯船の中で鼻歌を歌っていた。「あ~、気持ち良かった!」 全身から湯気を立ち上らせながら、柚聖はそう言って濡れた髪を乾かす為に頭を思い切り振った。「柚聖ちゃん、犬じゃないんだからやめて頂戴よ! 床が濡れちゃうでしょ!」「あ、ごめんなさい・・」柚聖はそう言って江梨花に謝ると、濡れた髪を拭き始めた。「ねぇ、今夜行った宴って、何処で開かれてたの?」「安倍様の所だけど、それがどうかした?」「え~! 安倍って、アノ安倍!?」江梨花と千里は柚聖を見つめながらそう言うと悲鳴を上げた。「よかったじゃない、柚聖ちゃん! 安倍家といえば、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの貴族よ! 玉の輿も夢じゃないわ!」「玉の輿って・・僕男だから。それに、何だか向こうの旦那様が変な事言ってたよ。女子と付き合った事はあるのかどうかとか・・」「まぁ~、それは柚聖ちゃんがそういった経験があるのかどうかを聞いてきたのよ、きっと! 何せ安倍家の嫁になるんですものね。」「だから、僕は男だって・・」柚聖の言葉を全く聞かずに、式神達は勝手に盛り上がっていた。 翌朝、柚聖は二日酔いに苦しみながら、大内裏に参内した。「大丈夫、柚聖?」「ちょっと気分悪いけど、もう治まってきたから。」「そう・・」有爾(まさちか)と柚聖は、仕事道具を持ちながら後宮へと向かっていた。 今朝藤壺の女御の気分が急に優れなくなり、その原因を探って欲しいという依頼があったので、陰陽頭と陰陽博士が物忌みで自宅に居る為、新米陰陽師の2人が藤壺へと出向くことになったのだった。「丈夫なお身体をお持ちな女御様が突然体調を崩しただなんて変だよねぇ?」「そうだね。だから陰陽寮に頼んで来たんじゃないの? 呪詛の可能性もあるけど、もしかしてご懐妊されていたりして。」「ご懐妊ねぇ・・主上は藤壺の女御様をことのほかご寵愛なさっているようだから、時期的にそうなられてもおかしくは・・」「そこの2人、仕事中の私語は慎みなさい。」突然2人の背後から凛とした声がして、彼らが振り向くと、そこには蜜匡が立っていた。「み、蜜匡様・・何故ここに?」「何故って、わたしも藤壺の女御様からご依頼を受けて来たのさ。それに陰陽頭様がご不在の間、新米の君達に任せるのは少し不安だから、先輩であるわたしが何かと手助けしようと思ってね。」「そ、そうなんですか・・」柚聖はそう言って笑みを浮かべたが、それはどことなしか引きつったものだった。「昨夜は楽しかったね。」 藤壺に有爾の後に続いて柚聖が入ろうとしたその時、彼の耳元で蜜匡がそう囁くと、柚聖に微笑んだ。「え、ええ・・」「今度は君の家に伺いたいな。」「え~と、あのぉ・・」 蜜匡の言葉にどう答えたらいいのかわからずに柚聖がまごついていると、御簾の向こうから鈴を転がしたかのような可愛らしい声がした。「あら、蜜匡様、お久しぶりだこと。」にほんブログ村
2011年07月25日
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「やぁ、来てくれたんだね。」安倍家の管弦の宴に出席した柚聖の姿を見るなり、蜜匡はそう言って破顔した。「賑やかですね・・」安倍邸には、一族の者と思しき女達や男達が宴を楽しんでいた。池には、舟遊びをしながら酒を飲んでいる男達がいた。「まぁね。一族の集まりのようなものさ。さぁ、わたしと一緒に来てくれ。君をわたしの家族に紹介するよ。」「は?」柚聖は蜜匡の言葉に耳を疑ったが、彼はにこにこと笑いながら有無を言わさず彼の手をひき、邸の主が居る寝殿へと向かった。「父上。」「おお蜜匡、そやつが・・」「はい、土御門柚聖君です。」寝殿で酒を猪口で飲みながら、長い口髭を指先で弄んでいる老人が、ちらりと柚聖を見た。「初めまして、土御門柚聖です。」「金髪蒼眼の陰陽生が居ると皆噂していたが、間近で実物を見ると息子が惚れてしまうのも無理もない。」老人はそう言うと、扇子で柚聖にもっと近くに寄るようにとそれを上下に振った。「そなた、もう約束している女子はいるのか?」「は?」一瞬、老人の質問が解らず、柚聖は困惑した表情を浮かべた。「どうなのだ、居るのか、居ないのか?」「居ませんが、それが何か?」「そうか。では大丈夫だな。」何が大丈夫なんだろうか。「それよりも少し儂と付き合ってくれないか?」「え、ええ・・」宴の席で酒を断るのは良くないと思い、柚聖は老人と酒を酌み交わした。「イケるくちだな、そなた。」「え、ええ・・」柚聖はそう言うと老人に愛想笑いを浮かべると、ゆっくりと立ち上がろうとしたが、少し足がふらついてしまった。「父上、余り柚聖君をいじめないでやってくださいね。」「解っているよ、蜜匡。」蜜匡は柚聖の身体を支えると、老人の元から去った。「今夜は管弦の宴だから、何か弾こうか? 柚聖君は何か楽器は?」「そうですね・・和琴だったら。」宮廷で働くのだから楽器のひとつも奏でられなくてはと、叔父から和琴や横笛、琵琶などを一通り叩き込まれた柚聖は、和琴の名手と呼ばれたほどの亡き父・有人ほどの腕前はないが、人前に出ても恥ずかしくない位のものは持っている。「そうか。じゃぁわたしの部屋に行こうか?」「え?」蜜匡の態度に戸惑いながらも、柚聖は彼の部屋へと入った。「じゃぁ、お借りしますね。」蜜匡の和琴を借りて柚聖が演奏しようとすると、いつの間にか彼は柚聖の背後に回っていた。「あ、あのどうして後ろにいらっしゃるんですか?」「いやぁ、君が酔っているから指先がもしおぼつかなくなったら助けてあげようと思って。それに君の後ろなら、音が聞こえるだろう?」背後に回った蜜匡は柚聖の手を握りながらそう言って笑った。「はぁ・・」この状況はとても不味いものだと思うのだが・・柚聖は蜜匡との距離が近い事に戸惑いながらも、和琴を弾き始めた。「では、僕はこれで失礼致します。」柚聖は蜜匡に頭を下げて、安倍邸を出た。「ただいま~」「お帰りぃ、柚聖ちゃん。どうだったの?」「どうって・・別に何も。」「そう、つまんないわねぇ。もっといいこと想像してたのにぃ。」江梨花は舌打ちすると、柚聖に道を開けた。「いいことって、何?」「教えないわよ、それは。早くお風呂入っちゃいなさい。」にほんブログ村
2011年07月24日
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「こっちだよ。」 有爾(まさちか)に案内され、柚聖(ゆずまさ)は今日から自分の職場となる陰陽寮の中へと足を踏み入れた。幼い頃、よくここに来ては叔父を困らせていたが、成人した今となってはここが神聖な場所に見えてきた。「どうしたの?」「いやぁ~、何でこんな所で子どもの頃遊んだりしたんだろうって。」「確かに、昔はここで隠れ鬼とかして君の叔父様に叱られたよね。」「そうそう。叔父様は優しい人だったから余り大声で怒鳴らなかったけど、お祖父様の方が怖かったかなぁ。」暫く有爾と昔話に花を咲かせていた柚聖は、背後から執拗な視線を感じて振り向いた。だが、そこには誰も居なかった。「どうしたの?」「ううん・・」柚聖は首を傾げながら、有爾の方へと向き直った。「有爾さぁ、最近大人びてない?」「そうかなぁ? 多分柚聖がまだあの頃のままだからそう見えるんだと思うよ?」与えられた仕事をしながら、有爾はそう言って柚聖を見た。「毒舌だねぇ、有爾って。」「まぁね。多分母上譲りなのかなぁ。」苦笑する有爾の横顔を見ながら、柚聖はふと彼と自分の関係を話そうとしたが、止めた。「仕事が早いな、2人とも。」突然背後から声がして2人が振り向くと、そこには天文博士の安倍蜜匡が立っていた。「蜜匡様、おはようございます。」「おはよう、有爾。そちらは?」蜜匡の視線が、有爾から隣に座っている柚聖へと移った。「紹介します、わたしの親友で、土御門柚聖です。」「土御門柚聖です。」柚聖がそう言って蜜匡に頭を下げると、彼はじっと柚聖を見ていた。「あの、僕の顔に何か?」「いや・・君の美しさに見惚れてね。」蜜匡の指先が、烏帽子からはみ出ている柚聖の前髪を梳いた。「そ、そうですか?」柚聖は後ずさり、蜜匡から少し距離を取った。「今夜、我が家で管弦の宴がある。君に是非来て貰いたいな。」「そ、それはありがとうございます。」柚聖は蜜匡に礼を言うと、彼はにっこりと柚聖に微笑み、自分の仕事場へと戻っていった。「どうしたの柚聖? 何か変だよ?」「いやぁ・・あの人、何処かで会ったような気がして・・」柚聖は震える手で筆を握りながら仕事を再開しようとするが、上手く書けない。蜜匡が何処かで自分を見ているような気がしてならなかったからだ。「え~、上司に誘われちゃったのぉ?」帰宅して陰陽寮であったことを江梨花達に話すと、彼女達は急にいろめき立った。「いや・・あのさぁ・・ただ来て欲しいって言われただけだから。お姉さん達が想像しているような意味は全くないから。」「何言ってるのよ柚聖ちゃん、数多の陰陽生の中で、家に来て欲しいって言われたのはあんただけでしょう? 普通脈ありって考えるわよぉ~!」「ねぇ~!」千里と江梨花は、勝手にそう言いながら盛り上がっていた。式神は個性など存在しないと叔父から聞かされて育ったのだが、この2人を見てみると例外的なものもありかも・・と思ってしまう柚聖だった。「梓之介さん、質問があるんですけど・・お姉さん達って個性あり過ぎなんですけど、あれって普通なんですか?」「ああ・・2人については失敗したから、ああなったのさ。」梓之介はそう言って苦笑した。「で、宴には行くのかい?」「まぁ・・上司の誘いは断れませんし。」その夜、柚聖は溜息を吐きながら安倍邸へと向かったのだった。にほんブログ村
2011年07月24日
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親代わりだった叔父・頼人を亡くしてから10年もの歳月が過ぎようとしていた。柚聖(ゆずまさ)は元服を済ませ成人を迎えた後、宮中へと上がることになった。「素敵ねぇ、柚聖ちゃん。」土御門家の分家・吉保家の息子である梓之介(あずさのすけ)の式神・千里(ちさと)は、そう言って直衣姿の柚聖を見た。「そうかなぁ・・こんな格好よりも水干の方がいいんだけど。」「駄目よぉ、宮中に居る時は直衣を着ないといけないのよ。それにまだ髪結ってないでしょ? あたし達が結ってあげるから、其処に座って。」「はぁい。」柚聖はぶすっとした表情を浮かべながら、鏡の前に腰を下ろした。「それにしても、10年前はあんなにヤンチャだった柚聖ちゃんがこうも化けるとはねぇ、あたし達未だに信じられないわぁ。」柚聖の長い金髪を梳きながら、千里はそう言って溜息を吐いた。「そうねぇ、もし頼人様が生きてらしたら、柚聖ちゃんの今の姿を見て涙を流すかも。」千里と共に居る梓之介の式神・江梨花(えりか)が千里の顔を見た。「何だか、僕って家族運がないな・・両親とは生まれてすぐに死別したし、親代わりだった叔父様も病死して・・僕、独りになるのかなぁ?」柚聖がそう呟くと、江梨花はそっと彼の肩を叩いた。「そんな事ないわよ。柚聖ちゃんにはまだ家族が居るじゃないの?」「そうよ。有爾(ありちか)様とはあれ以来全然連絡取ってないの?」柚聖の脳裡に、幼い頃遊んだ黒髪の少年の姿が浮かんだ。有爾とは、あの日以来全然会っていない。今彼がどうしているのかさえも、柚聖は知らない。「うん・・でも向こうはきっと、僕の事を忘れているよ・・だって僕は・・」涙が、真新しい直衣の上に落ちた。「大丈夫よ。有爾様が柚聖ちゃんのことを、忘れる筈が無いじゃない。だってあなた達は、血を分けた兄弟なんだもの。」 式神に励まされ、柚聖は自宅を後にして宮中へと参内した。「おい、あれは・・」「確か土御門家の・・」遠くに居ても、金髪蒼眼という容姿は目立ち、殿上人達は柚聖の姿を見るなりひそひそと何やら囁き合っている。(居心地が悪いな・・死んだ母さんも、あんな視線に晒されながら毎日を過ごしたんだろうか?)帝の寵妃として宮中に上がり、女房達の注目と嫉妬を浴びながら暮らしていた母・柚葉の気持ちが、柚聖はこの時初めて解ったような気がした。「柚聖、柚聖じゃないか?」突然背後から声がしたので柚聖がゆっくりと振り向くと、そこには真紅の瞳を輝かせながら自分を見つめる有爾の姿があった。「有爾、有爾なの?」「そうだよ。」柚聖は自分の前に立つ有爾を見た。10年振りに再会した彼は、自分よりも背が伸びて朱色の直衣を着ている姿は、未だそれに慣れぬ自分よりも似合っているし、何よりも昔の彼にはなかった高貴な雰囲気を纏っている。柚聖はそんな彼を前にして、“兄様”と呼ぶのを躊躇った。有爾はまだ自分が血を分けた双子の弟であることを知らない。「久しぶり・・元気にしてた?」「うん。それよりもこれから何処行くの?」「陰陽寮。有爾は?」「わたしも同じだ。一緒に行こう。」有爾はそう言って、柚聖に手を差し出した。「うん・・」柚聖はそっと有爾の手を握った。「柚聖・・俺から有爾を奪うつもり?」 仲良く連れ立って陰陽寮へと向かう2人の姿を、廊下の角から雅爾(まさちか)は恨めしそうに見ていた。にほんブログ村
2011年07月24日
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熱は下がったが、柚聖はまだ安静が必要な状態だった。「柚聖、何か欲しいものはないか?」頼人はそう言って、柚聖の金髪を優しく梳いた。「気持ち悪いから、水浴びしたい・・」「それは駄目だ、やっと熱が下がったから・・身体を拭いてやる。」「じゃぁ、お願い・・」頼人は、柚聖の夜着を脱がせると、ゆっくりと彼の華奢な身体を冷たい水で拭き始めた。「気持ちいいか?」「うん。」柚聖はそう言いながら頼人に微笑んだ。「背中を拭くから、髪を上げろ。」「わかった。」腰まである金髪を柚聖が上げると、頼人は彼の右肩を驚愕の表情を浮かべながら見た。 そこには、真紅の龍の刺青があった。「どうしたの、叔父様?」「お前の右肩に龍の刺青があるが・・あの洞窟で何があった?」「何って・・」頼人の言葉を聞いた柚聖は、洞窟の中で起きたことを思い出した。「確か・・変な男に押し倒されて・・そいつの血を無理矢理飲まされた。」「男? どんな男だ?」「腰まである長い黒髪で、切れ長の黒い瞳の男の人。鼻が少し高くて、唇が薄かった。とっても綺麗な人だったよ。名前は思い出せないけど・・」「そうか・・」(この刺青・・もしやあいつが、柚聖を?)頼人の脳裡に、あの男の顔が浮かんだ。自分が少年の頃、あの男は部屋に夜這いしてきて無理矢理抱こうとしたが、その時は兄が追い払ってくれた。(あいつが、柚聖を・・)信じたくはないが、甥の右肩に刻まれた龍が全てを物語っている。「叔父様、どうしたの?」「なんでもない。それよりもまだ本調子じゃないんだから、余り無理をするなよ。」「はい・・」柚聖はそう言ってゆっくりと目を閉じた。「柚聖様の容態はどうですか?」柚聖の部屋を頼人が出ると、梓之介が彼に声を掛けてきた。「もう大丈夫だ。それよりもあいつの右肩に紅い龍の刺青があった。」「龍の刺青・・もしかして、“彼”が柚聖様を?」「ありえるな。昔わたしを襲った男と同一人物だ。あの時兄上が撃退してくれたが、もし兄上に助けられていなかったらわたしは白狐の嫁となっていただろうよ。」「じゃぁ柚聖様の右肩にある刺青は・・」「白狐の花嫁候補である証だ。あれは契約印で、一度刻まれたら消えることはない。わたしがしっかりしていなかったから、柚聖があんな事に・・」頼人はそう言って頭を抱えた。「ご自分をお責めにならないでください。いつかあの刺青が消える日が来る事を願いましょう。」梓之介は必死に頼人を慰めたが、頼人は自責の念に駆られる余り心労で倒れてしまい、床に臥せってしまった。「梓之介、叔父様良くなるかなぁ?」吉保家に来てから数ヶ月の歳月が経っても床に臥せっている頼人を御簾越しに見ながら、柚聖はそう言って梓之介を見た。「大丈夫です。叔父様はきっと良くなられますよ。」梓之介はそっと柚聖の右肩を叩いた。だが頼人の容態は悪化する一方だった。「叔父様、僕を置いていかないで・・」自分の枕元で涙を流している甥の頬を優しく撫でながら、頼人は彼に微笑んだ。「大丈夫、大丈夫だから泣くな・・柚聖。」それが、頼人の最期の言葉だった。彼は夜明けとともに息を引き取った。「叔父様、どうして・・」蒼い瞳を涙で曇らせながら、柚聖は叔父が荼毘に付されている様子を静かに見ていた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「ん・・」水滴が頬に落ちて柚聖が目を開けると、そこは暗い洞窟の中だった。(どうして僕はここにいるんだろう? さっきまで叔父様と寝ていたのに・・)「起きたか?」 突如暗闇の中で声がして辺りを見渡すと、そこには艶やかな黒髪を風になびかせた長身の男が柚聖に微笑んでいた。「あなた、誰?」「わたしは蜜匡(みつまさ)。そなたをわたしの花嫁候補として連れてきた。」「花嫁候補? 言っとくけど僕、男だよ?」柚聖は男の言葉がいまいち理解できず、首を傾げた。「男でも女でも関係ない。美しいものは大歓迎だ。それに・・」男は突然柚聖の前に膝をつくと、彼の金髪を一房摘むとそれを優しく梳いた。「そなたの美しさを、独占したい。」「あの、家に帰りたいんですけど。」「それは出来ぬ。」男は切れ長の瞳で柚聖を愛おしそうに見ながら言った。「そなたはいずれわたしの妻となる。あのような人間どものような元で暮らしていては、そなたの美しさが穢れてしまう。」「叔父様のことを悪く言わないで。叔父様は僕の事を実の息子のように育ててくれたんだ! あなたが何をしたいのかが全然解らないけれど、叔父様のことを悪く言うのだけはやめて!」「わかった、約束しよう。その代わりに、そなたはわたしに貞操を捧げよ。」「貞操?」柚聖は男の言葉の意味が解らなかったが、今とてつもなく不利な状況にいることだけは理解できた。「あの・・」「怖がらなくともよい。痛くはしない。」男の大きく逞しい手が、柚聖の夜着の隙間から入った。「ちょっと、待って・・」柚聖は身を捩り、男の手から逃れようとしたが、華奢な彼の身体はたちまち男によって自由を奪われてしまった。「僕に何する気?」「怖がらずとも良い。最初は痛いと思うが、慣れてきたらわたしと会いたくて堪らなくなるだろう。」男の手が夜着の裾を捲り上げ、柚聖の白い足が露わになる。「ちょっと、やめて!」抵抗しようとしても、か弱い子どもの力では、大の男には敵わなかった。 一方吉保邸では、柚聖の捜索隊が寝殿に集まった。「皆の者、一刻も早く柚聖様を魔物からお救いするのだ!」「ははっ!」捜索隊が邸を出た後、嘉章と頼人は吉保家の結界修復にあたった。「わたしがついていながら、侵入者に気づかなかったなんて・・一体わたしは・・」「余り自分を責めるではない。それよりも今は防御に徹せねば。」「ええ・・」頼人は祭文を唱え、嘉章とともに魔物によって破壊された結界を修復し始めた。(柚聖、無事で居てくれ!) 柚聖は低く呻きながら、寝返りを打った。起き上がろうとしたが、男の妖力に圧倒されて力が入らない。「そなたはもうわたしのもの。わたしを必要とするときは、わたしの名を呼べ。」男は柚聖に微笑むと、祭文を唱えて自分の指を噛み、その血を口移しで彼に与えた。男に唇を塞がれ、息が出来ずに柚聖は暴れたが、彼の血を吐き出せずに結局飲んでしまった。「また会おうぞ、柚聖。」男は柚聖をそっと地面に横たえると、洞窟から出た。「柚聖様、ご無事ですか!?」「誰か薬師をこれへ!」吉保家の捜索隊が洞窟の中で見たものは、下半身が血塗れになり、気を失った柚聖の姿だった。 数日間、柚聖は高熱にうなされて命の危機に瀕したが、一命を取り留めた。「柚聖、起きたか?」「叔父様・・」「大丈夫だ、わたしがいる。」にほんブログ村
2011年07月24日
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柚聖は頼人と梓之介とともに、土御門家の分家・吉保家へと向かった。「お帰りなさいませ、梓之介様。」彼らが寝殿に入ると、使用人達が一斉に彼らを出迎えた。「父上は?」「寝殿にてお待ちしております、どうぞこちらへ。」「わかった。」頼人は梓之介とともに使用人の後に続いた。「叔父様・・」柚聖は初めて訪れた分家に漂う険悪な空気を感じ取り、恐怖のあまり頼人の手を握った。「大丈夫だ、柚聖。」頼人は甥を励ますかのように、彼の手を強く握り返した。「大殿様、頼人様と柚聖様がお着きになりました。」「そうか、通せ。」頼人と柚聖は吉保家当主・嘉章と対面した。「頼人殿、本日はこちらまでご足労いただき、かたじけない。」嘉章はそう言って2人に頭を下げた。「早速本題に入らせていただくが、何やらこちらで柚聖のことでよからぬ噂が広まってるとか。」頼人がちらりと嘉章を見ると、彼は気まずそうに俯いた。「あの鬼姫の乱以降、主上から柚聖様に目を光らせておけと命じられておりまして・・」「主上に?」頼人の眦が少し上がり、扇を開いた。「ええ。7年前、柚聖の兄君・有爾(まさちか)が主上によって奪われてしまったことはご存知でしょう?」嘉章の言葉に、柚聖は耳を疑った。「叔父様、有爾が僕の弟だって本当?」「柚聖・・」頼人は驚愕の表情を浮かべている甥を見た。「ねぇ、本当なの?」「ああ。」柚聖は叔父が嘘を吐いているのではないかと思ったが、彼の瞳は曇っていない。「だから女御様は、有爾と遊ぶなとおっしゃられたんだね?」「それは違う。女御様は・・」頼人は有爾の事を話そうとした時、騒がしい足音が聞こえたかと思うと、数人の男達が部屋に入って来た。「お前達、控えよ!」嘉章が男達に向かって怒鳴ったが、彼らはそれを無視して柚聖の手を掴んで外に連れて行こうとした。「鬼の子め、ここで成敗してくれる!」「穢れし魔物の子め!」柚聖は男達の殴打や罵詈雑言に耐えながらも、叔父に助けを求めた。「何をする、お前達! 柚聖から離れろ!」頼人は男達から柚聖を救い出した。「大丈夫か?」「うん・・」 その夜、柚聖は昼間感じた恐怖に震えながら、頼人と同じ部屋で寝た。「あの人達、僕の事が嫌いだったの?」「お前の事を誤解しているんだろう。奴らのことは気にするな。」頼人はそう言って柚聖の髪を梳いた。「何だか僕、疲れちゃった。」「ゆっくりお休み。」暫くすると柚聖は頼人の腕の中ですやすやと寝息を立て始めた。頼人はそんな彼の寝顔を見た後、ゆっくりと眠りに就いた。 魔除けの結界が反応し、2人がいる部屋に火花が散っているが、頼人はそれに気づきもせずに眠り続けている。「そなたの宝を、貰い受けるぞ。」頼人が抱いている柚聖の身体を抱きあげると、男は部屋から出て行った。 翌朝、頼人が目を覚ますと、柚聖の姿がなかった。「頼人様、どうかなさったのですか?」「柚聖が・・魔物に攫われた!」にほんブログ村
2011年07月24日
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「おお有爾(まさちか)、良かったこと。」有爾の熱が下がり、彼の意識が戻ったことに一番喜んだのは、儷子(れいこ)だった。「母様・・」「何でも欲しいものをおっしゃい、有爾。ここの者達に言って持ってくるから。」いつもは冷酷な女帝として知られ、恐れられている儷子であったが、有爾の前では我が子を溺愛する母親の顔になっていた。「柚聖(ゆずまさ)は何処? 僕、柚聖と遊びたい。」「あの子とはもう遊んではなりませんよ。あの子の所為でお前は苦しんだのですから。」それまで自分に笑みを浮かべていた儷子が鬼のような形相をしてそう自分に言い聞かせるように言った。「どうして母様? どうして柚聖と遊んではいけないの?」「どうしてもです。あなたはいずれはこの日の本の国を治める身。柚聖の事は忘れて、勉学に励みなさい。」「はい、母様・・」儷子の言葉に、有爾は渋々と頷いた。初めて母に、恐怖を抱きながら。 一方、土御門邸には、1人の客人が来ていた。客人の名は梓之介(あずさのすけ)といい、土御門家の分家・吉保家(きちほけ)の三男坊である。「お久しぶりでございます、頼人様。」そう言って梓之介に頭を下げた。「久しいな、梓之介。お前が本家に顔を出すなど、何年振りだろうな?」「7年振りでございます。」艶やかな黒髪を揺らしながら梓之介はゆっくりと顔を上げ、藍色の瞳で頼人を見つめた。「7年か。そろそろ兄上達の命日だな。」頼人は顔を扇であおいだ。「頼人様、柚聖様はどうされておりますか?」「あいつは元気だ。宮中に来てはいけないというのに、たまに言いつけを破って陰陽寮に遊びに来ていて困っている。」「そうですか。実は、最近分家の者達の間で妙な噂が飛び交っているのです。」「妙な噂?」「はい・・柚聖様のことで。」梓之介は立ち上がり、そっと頼人の方へと近寄った。「どんな噂だ?」「何でも、麗景殿女御様が溺愛してやまぬ親王様が高熱で苦しんでいた時、宮中の外れにある池から突然青龍が現れ、その直後親王様の意識が戻られたとか。その青龍に、柚聖様が乗っていて、分家の者達が“柚聖様は化け物の子だ”と。」「全く、つまらない事を言う者がいるものだな。」頼人は溜息を吐きながら、梓之介を見た。「ええ、本当に。父達はそんな噂は信じておりませんので、ご安心を。」「そうか。つまらない噂話をわたしに聞かせてくれたこと以外に、他に何か用があるのだろう?」頼人の言葉を聞いた梓之介の瞳がきらりと光った。「実は、父上が柚聖様を連れて来いと申されまして。」「そうか。お前の父上が何を企んでいるのかはわからぬが、柚聖とともに会いに行くとしよう。」「ありがとうございます。」梓之介はそう言って頼人に深々と頭を下げた。「叔父様、ただいま!」長い金髪を揺らしながら、柚聖が寝殿へと入って来た。「久しいですね、柚聖様。」梓之介は柚聖にそう言って微笑んだ。「久しぶりだね、梓之介。」柚聖は梓之介の胸に飛び込みながら、彼に向かって屈託のない笑みを浮かべた。「柚聖、急いで支度をしなさい。分家へ行くぞ。」「はい、叔父様。」柚聖が勢いよく寝殿から出て行く後ろ姿を、頼人は愛おしそうに見つめた。「分家で何も起こらねば良いが・・」「ええ、そうですね。」梓之介はそう言って深い溜息を吐いた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「柚聖(ゆずまさ)様は、先ほどお休みになられました。」そう言って梓葉(あずは)は、主の部屋へと入った。「そうか。さっきは見苦しいところを見せてしまったな。」頼人は仕事の手を止めて梓葉を見た。「いいえ。それよりも頼人様、さきほど柚聖様から頼人様がお泣きになっているところを見たかとお聞きになりました。」「柚聖がそんな事を聞いたのか。わたしはいつも人前では感情を表さないから、柚聖も驚いたことだろう。」頼人はそう言って苦笑した。「頼人様、柚葉様のこと、まだ柚聖様には・・」「話さない。あの子はまだ幼い、残酷な真実を受け止めるには時間が必要だ。」「そうですか。では、これで失礼致します。」梓葉は去り際に何か言いたそうだったが、何も言わずに部屋から出て行った。「義姉上、わたしはあの子に真実を告げるべきでしょうか? 柚聖と仲良くしている有爾(まさちか)様が血を分けた兄弟であることを。」一人になった頼人は、壁に立て掛けていた義姉の形見の筝を爪弾き始めた。筝を奏でるたびに、柚葉の優しい笑顔が浮かんでは消えてゆく。もし、柚葉が今も生きていたら、兄は死なずにいただろうか?柚聖と有爾は、兄弟として暮らしていただろうか?そんな事を考えても仕方がないことくらい、わかっている。だが時々考えてしまうのだ、柚葉と兄が生きていたらと。「義姉上、柚聖は良い子に育っております。ですがわたし一人の力では、あの子は育てられません。あなたの助けがなければ、わたしは・・」そう頼人が言葉を切った時、廊下で衣擦れの音がした。「柚聖か?」頼人が廊下に出た時、柚聖の小さな背中が遠ざかるのが見えた。「青龍、柚聖を頼む。」“御意”青龍は頼人の邸を飛び出し、柚聖の捜索を開始した。 一方頼人に拒絶されたと思い込んだ柚聖は、有爾と共に来た池の畔で項垂れていた。(叔父様は、僕の事が嫌いになったんだ。僕の所為で女御様に嫌われてしまったから。やっぱり僕は、鬼の子なのかなぁ?)涙を必死に小さな手で拭いながら、柚聖はじっと池の水面を見ていた。「見つけたぞ。」突然背後から声がしたかと思うと、柚聖の傍に老人が立っていた。「お爺さん、誰?」「貴様ごときに名乗る者ではないわ。さぁ小僧、儂にその紅玉を寄越せ!」老人はそう叫ぶと、柚聖が首に提げている紅玉を奪おうとした。「嫌だ!」老人の手を払い除けた柚聖は、冷たい水の中へと沈んでいった。「愚かな小僧だ。」老人は笑いながらそう呟くと、池を後にした。(僕、死ぬのかな?)冷たい水の中で激しくもがいていた柚聖は、死の恐怖と戦っていた。彼の脳裏に、叔父の言葉が浮かんだ。“わたし一人の力では、あの子は育てられません。”(叔父様は僕が死んでも悲しまない。)柚聖が死を静かに受け入れようとした時、胸に提げていた紅玉が突如温かい光を発した。『死んでは駄目、柚聖。』誰かが自分に触れる気配がした。懐かしい誰かの手。それが誰なのか、柚聖は思い出せなかった。彼がゆっくりと自分の背後にいる“誰か”を見ようとした時、青龍が彼を背中に乗せ、勢いよく水面から上がった。“柚聖様、帰りましょう。”柚聖を背中に乗せた青龍は、頼人邸へと戻って行った。その光景を、1人の公達が見ていた。「あれは、確か頼人殿の・・」同じ頃、麗景殿で高熱に苦しんでいた有爾の意識が戻った。にほんブログ村
2011年07月24日
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「叔父様をいじめるな!」頼人を罵倒していた儷子に怒りを感じた柚聖は、そう叫びながら彼女の前に飛び出した。「黙れ、鬼の子が!有爾が熱で苦しんでおるのは、お前の所為じゃ!」美しい顔を怒りで醜く歪め、儷子は手に持っていた檜扇を柚聖の顔めがけて振り下ろした。柚聖が目を瞑った後、乾いた音と共に血飛沫が柚聖の白い頬を濡らした。柚聖が恐る恐る目を開けると、頼人が彼の代わりに儷子の攻撃を受け、地面に蹲っていた。「叔父様!」柚聖は真っ青な顔をして頼人の方へと駆け寄った。「女御様、わたしの甥があなた様に対し失礼な物言いをしてしまいました。これは叔父であるわたくしの監督不行き届きゆえです。どうか甥に代わり、わたくしを存分にお打ちくださいませ。」右頬から血を流しながら、頼人はそう言って儷子に跪いた。2人の周りに居た陰陽師達は何事かと様子を窺っている。「女御様、ここはお許しになってはいかがでしょう?幼い子ども相手に目くじらをお立てになるのは・・」儷子の女房である蓮音(はすね)がそっと主の耳元に囁いた。「今日のところは許してやろうぞ。じゃが頼人、そなたの甥が今度妾に向かって生意気な口を利いたらその場でお前らの首を刎ねてくれようぞ。」不快そうに鼻を鳴らしながら、儷子はそう言って御簾の中へと消えた。「ごめんなさい、叔父様。俺の所為で叔父様が・・」「良いのだ、柚聖。お前はわたしのことを庇ってくれようとしてくれたのだな。」頼人は今にも泣き出しそうな柚聖の肩を優しく叩いた。(兄上、義姉上、この子は立派に成長しておりますよ・・)「叔父様、どうしたの?傷が痛むの?」柚聖にそう言われて、頼人は初めて涙が頬を濡らしていることに気づいた。「いや・・お前が立派に育ってくれて、わたしは嬉しいのだ。今夜のお前の姿を兄上達が見たら、きっとお前の事を誇りに思うだろうと・・」袖口で涙を拭いながら、頼人は甥に向かって微笑んだ。「もう、有爾に会えなくなるのかな・・女御様に嫌われちゃったから・・」柚聖は肩を落としてそう呟くと、今まで堪えていた涙を流した。「有爾様のお身体が良くなられたら、我が家に遊びに来ることもあろう。だから気を落とすな。」頼人は咄嗟に嘘を吐いて甥を慰めた。「わたしは加持祈祷に戻らねばならん。お前は1人で帰れるな?」「はい。お仕事の最中に邪魔をして申し訳ありませんでした。」「何を言う。あの時そなたがいなければわたしは酷い目に遭っていただろう。今日はもうお休み。」頼人は柚聖の頭を撫でると、梅壷へと戻って行った。(叔父様はどうして俺の前で泣いたんだろう?いつもは人前では弱い所を決してお見せしない人なのに・・)物ごころついてから、柚聖は頼人が人前で感情を露わにした姿を見たことがなかった。いつも冷静沈着で、どんなに嫌な事を言われても毅然とした態度を取っていた叔父が、初めて自分の前で涙を流した。(叔父様は、俺に亡くなった母さんの姿を見ていたんだろうか?)叔父の涙の理由を、柚聖はあれこれと考えながら帰路に着いた。「柚聖様、無事でよろしゅうございました。」部屋に戻ると、梓葉がほっとした表情を浮かべて柚聖に微笑んだ。「ただいま。梓葉、突然家を飛び出して心配かけてごめん。」「いいえ、柚聖様がご無事で何よりでした。」「ねぇ、梓葉は叔父様が泣いているところを見たことある?」「さぁ・・存じませんわ。」そう言って気まずそうな表情を浮かべた梓葉は、部屋から出て行った。(梓葉は、何かを隠してる・・俺に知られたくないことでもあるのかな?)色々と考えているうちに、柚聖はやがて眠りに就いた。にほんブログ村
2011年07月24日
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梅壷で高熱を出した有爾の加持祈祷が行われ、陰陽師や僧達が集まっていた。「もっと護摩を焚け!魔物を宮中から追い払うのじゃ!」なかなか熱が下がらない有爾を抱きながら、半ば狂乱気味に儷子が陰陽師達に怒鳴った。「もっと焚け!有爾様の身体から魔物を追い払え!」護摩壇の炎は、昼のように梅壷を照らした。その頃土御門邸で、柚聖は不思議な夢を見ていた。黒犬が自分の前に、現れて何かを伝える様に何度も吠えている夢だ。一体何を伝えようとしているのか、黒犬に身を乗り出そうとした時、柚聖は目を覚ました。「柚聖様、起きてしまわれたのですか。」叔父の式神(しき)である梓葉(あずは)が衣擦れの音を立てながら柚聖の方へと歩いてきた。「梓葉、叔父様は?」「頼人様なら、梅壷へ行かれましたよ。」「梅壷?こんな夜更けに?」「ええ、有爾様が高熱を出されたようで・・」その言葉を聞いた柚聖は着替えもせずにやしきを飛び出し、梅壷へと向かった。(待ってろよ、有爾!助けてやるからな!)「まだ有爾の熱が下がらぬぞ、お前らは一体何をしておるのだ!」陰陽師の祝詞や僧達の読経が響く中、儷子の声が一段と梅壷に響き渡った。「女御様、わたくしどもは手を尽くし、有爾様のご回復を願っております。今暫くのご辛抱を・・」「ええい、黙れ!すぐに有爾の熱を下げるのじゃ!下げぬとお前達を護摩壇に放り込んでやる!」そう叫んだ儷子の形相はまるで鬼のようだった。「お鎮まり下さいませ、女御様。」加持祈祷している僧や陰陽師達が女御の剣幕に圧倒されている中、1人の陰陽師が女御の前に進み出た。「お前は、土御門の者か?」女御はじろりと陰陽師の顔を見た。「お初にお目にかかります、女御様。土御門頼人と申します。」陰陽師―頼人はそう言って女御に頭を下げた。「土御門といえば、そなたの兄上は以前後宮で面倒を起こしたな?今回のことも、お前の仕業ではないのかえ?」「おっしゃっている意味がわかりませぬ。」儷子の言葉を受けた頼人は怒りを顔には出さずに平然とした口調で言った。「そなたの甥御が有爾に災いを運んで来たのではないかと聞いておるのじゃ。」「滅相もございません、女御様。柚聖にとって有爾様は唯一無二の友人でございます。その友人に災いを運ぶなど、いたしておりません。」「それはどうかの。そなたの兄上は、かつてあの鬼姫とともに後宮に災いを運んで来たではないか?あの鬼姫の子であるそなたの甥御が、同じ事をするかもしれぬとは考えたことはないのかえ?」儷子がそう畳み掛ける様に頼人に言うと、彼は無言で護摩壇の所へと戻って行った。「何も言わぬということは、認めるのかえ?」自分より身分の低い頼人に無視され、有爾の急病に苛立っていた儷子は、怒りの矛先を頼人に向けようとしていた。「わたくしと柚聖は有爾様のことには何も関係ありませぬ。」毅然とした態度で頼人がそう言うと、儷子は納得がゆかぬという表情を浮かべて彼を睨んだ。「もし有爾がこのまま良くならずに死んだら、お前の所為じゃ!悪しき鬼の子を後宮に入れた忌まわしい陰陽師め!」頼人は儷子に罵詈雑言を浴びせられたが、黙って耐えていた。「叔父様をいじめるな!」加持祈祷を再開しようとした時、背後から甥の声がして頼人が振り向くと、彼は憤怒の表情を浮かべて儷子を睨みつけていた。「黙れ、鬼の子が!有爾が熱で苦しんでおるのは、お前の所為じゃ!」 周りの女房達の制止を振り切り、自ら御簾を捲り上げて部屋から出た儷子は、持っていた檜扇で柚聖を叩こうとしてそれを振り上げた。乾いた音と共に唖然とする柚聖の前で、血飛沫が飛んだ。にほんブログ村
2011年07月24日
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「な、なに・・」突然茂みから物音がしたので、有爾は怯えた表情を浮かべて茂みの方を見た。やがて茂みから、一匹の大きな黒犬が現れた。有爾は黒犬の姿を見た途端、恐怖のあまり気絶しそうになった。人を呼ぼうと口を開いたが、何故か声が出ない。“怯えるでない。”有爾にゆっくりと近づいた黒犬は尻尾を振りながら、彼の方へと距離を少しずつ縮めていった。何故か有爾は、黒犬の声が聞こえたような気がした。「あなたは、誰?どうして僕に会いに来たの?」“そなたに伝えたいことがあって来たのだよ。”黒犬はじっと真紅の双眸で有爾を見つめた。「伝えたいこと?」“そなたは己の父や母の事を知っておるのか?”「うん、知ってるよ。僕の父様はこの日の本の国をお治めてしている偉い方で、母様は賢くて美しい方だよ。」“そなたの養い親のことではない、そなたをこの世に産み出した実の親のことを聞いておるのだ?”「実の親?僕は帝の子ではないの?」“それはいずれわかることだ。そなたはいつか、魂の片割れと恋に落ちるであろう。”「魂の片割れって誰のことなの?」黒犬が前足を有爾の掌にそっと置こうとした時、彼らがいた漆黒の空間が松明の光によって突然昼のように明るくなった。「物の怪だ、物の怪が有爾様を襲っているぞ!」「射て!」衛士が放った矢が黒犬の近くを掠めた。“また会おう。”黒犬は有爾の前から素早く消え去った。「ねぇ、何処へ行くの!?」有爾はそう叫びながら黒犬の姿を探したが、そこには漆黒の闇だけが広がっていた。「有爾、無事であったか!」衛士の声を聞いた儷子が数人の女房を従えて、闇の中で何かを探している有爾に声を掛けた。「母様、あの犬は何処へ行ってしまったの?さっきまで僕と一緒にいたのに、急にいなくなってしまったの。」「おお、良かった。魔物に喰われずにすんで。こちらへ来なさい、有爾。」御簾の中から儷子は息子を呼んだが、彼は儷子の声には答えずに、まだ何かを探している。「母様、あの犬は何処に・・」「有爾様、女御様の元へ参りましょう。お身体を冷やしてはなりません。」有爾の様子を見ていた衛士がそう言って彼の手を掴むと、彼はゆっくりと地面に崩れ落ちる様に倒れた。「有爾様、どうなされたのです!?」衛士がそう叫びながら有爾の身体を抱きあげ、御簾の中で心配そうに様子を窺っている女御の元へと走った。「どうかしたのか?」「いいえ、急にお倒れになられて・・」「そうか、あとは妾が有爾の面倒を見る。」衛士の手から息子を受け取った儷子は、彼の身体が熱いことに気づいた。「酷い熱じゃ、誰か薬師と陰陽師を呼んで参れ!」女房達が慌てて部屋から走り去るのを見送り、儷子は有爾の身体を揺さ振った。「有爾、母上じゃ、聞こえるかえ?」儷子が何度呼びかけても有爾は何も答えなかった。「あの魔物の所為じゃ・・あの鬼の子が有爾に災いを運んで来たのじゃ・・」儷子の脳裏に、あの鬼姫と瓜二つの容姿を持った少年の姿が浮かんだ。「許さぬ・・有爾を殺したら妾が呪ってやるぞ、鬼の子め!」にほんブログ村
2011年07月24日
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「柚聖、こんな時間まで一体何をしていたんだ?」 柚聖が暗い表情を浮かべながら帰宅すると、遅くまで仕事をしていた頼人がそう言って彼を睨んだ。「ごめんなさい叔父様・・有爾と遊んでいて遅くなりました。」「また有爾様と遊んでいたのか。女御様は大層お怒りになっていたことだろう。」「はい、梅壷には二度と近寄るなと言われました。叔父様、俺が鬼の子だというのは、本当なのでしょうか?」甥の言葉を受けた頼人は、仕事をする手を止めて彼の方を見た。「誰から聞いたのだ、それを?」「東宮様に言われました、“鬼の子”と・・」(柚聖にはいずれ真実を話さなければならないと思ったが・・)「柚聖、こちらへ来なさい。」覚悟を決めた頼人は、柚聖を手招きした。柚聖は叔父と向かい合わせに茵の上に座った。「お前に話をしておきたいことがある。私の兄とお前の母君のことだ。」頼人はそう言って、今は亡き義姉・柚葉に生き写しの甥を見た。「お前の母君である柚葉様は、昔宮中で権勢を誇った貴族の娘であることは知っているな?」「はい、叔父様。それがどうかしたのですか?」「その貴族の名は山野裏為人と言って、北の方との間には1人の息子と娘がいた。柚葉様は為人殿と北の方様との本当の御子ではない。」「え・・」自分の母親と、時折話に出てくる山野裏為人と言う貴族とは血の繋がらない親子だという事を初めて知り、柚聖は驚きの余り絶句した。「柚葉様は、赤子の時に山野裏家の裏門に捨てられていたらしい。実の両親も判らず、貴族の姫君として育ち、お前の父であるわたしの兄と出逢ったのだ。」「じゃあ、俺は本当に鬼の子なのですか、叔父様!?もしかして母さんは・・」「柚葉様の出生については、詳しいことは知らぬ。だが山野裏様と血の繋がらない親子であったにせよ、親子は親子だ。」頼人はそう言うと、ゆっくりと茵から立ち上がって御簾を捲った。空には真紅の月が浮かんでいた。「美しい月だとは思わぬか、柚聖?」「はい、叔父様・・でもあの月の色はまるで血の色のようで、恐ろしいです。」柚聖はそう言って真紅の月を見た。「確かにあの月の色は血の色に見える。だが柚葉様はまるで紅玉のようだとおっしゃっていた。」頼人は懐にしまっていたある物を取り出した。それは、黒い紐の先に結び付けられた紅玉の首飾りだった。「これは・・」「柚葉様が最期にわたしにお前と共に託したものだ。赤子の時に柚葉様がそれを持っていたらしい。」「母さんの・・形見・・」柚聖は叔父の手から、首飾りを受け取った。「これ、俺が持っていてもいいんですか?」「勿論だ。大事にしなさい。」「ありがとう、叔父様。」「これを肌身離さず持っていなさい、決して失くしてはいけないよ。」(義姉上、あなたがこの子とともに託した紅玉をやっと渡しました。どうか兄上と共にこの子を見守ってやってください・・)頼人ははしゃぐ柚聖に微笑みながら、再度真紅の月を見上げた。「ほう、あの紅玉があんなところにあるとは・・お方様に早速お知らせしなければなるまいな・・」土御門邸から少し離れた所で、一人の老人がそう呟くとたちまち彼は姿を消した。その頃梅壷では、有爾が眠れずに部屋から出て真紅の月を眺めていた。「あの月、僕の瞳の色と同じだ・・」有爾がそう呟いた途端、近くの茂みから物音がした。にほんブログ村
2011年07月24日
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「誰かと思ったら、いつもお高くとまっている東宮様じゃないか?何だ、俺達が来たから小便でもちびったのか?」先ほどまで隠れていた人影が雅爾(まさちか)だと知るや、柚聖は不快そうに鼻を鳴らしながら雅爾を見た。「何だよ、さっきは怖がっていた癖に!」「う、煩いなっ!お前こそこんな所でこそこそ隠れて何してたんだよ!またあの恐いお母様に叱られでもしたのか?」「黙れ、鬼の子!」雅爾の言葉を聞いた柚聖の顔が怒りで赤くなるのを、有(まさ)爾(ちか)は見た。「黙るのはお前の方だ!」柚聖は雅爾の頬を平手で打つと、有爾の手を握って桐壷から出て行った。「どうしたの、柚聖?一体何を怒ってるの?」突然押し黙った柚聖に声を掛けるが、彼は黙ったままだった。「ねぇ、柚聖ったら!」柚聖は有爾の手を痛いほど握り締め、彼をある場所へと連れて行った。そこは、御所から少し離れた池だった。「ここは・・」「気に入った?俺がいつもひとりになって考える時に来る所なんだ。」「そう・・」池は太陽の光を受け、美しく透明に輝いている。「ねぇ、さっきはどうして雅爾を叩いたの?」有爾は柚聖の隣に腰を下ろしながら言った。「俺、父さんと母さんがいないんだ。俺が生まれてすぐに死んじゃったんだ。叔父様は流行病で死んだって言ってるけど・・多分、俺の父さんと母さんは鬼姫の乱に関わっているんじゃないかって・・」柚聖は自分の髪を一房掴むと、そう言って溜息を吐いた。「俺、みんなとは違う髪や瞳をしているだろ?俺の死んだ母さんも、俺と同じ金髪蒼眼だったんだって。鬼姫って恐れられてたけど、とても優しくて、賢かったって・・」柚聖は堪え切れずに、涙を流した。「どうしたの?何処か痛いの?」「うん・・ちょっと、ここがね・・」柚聖は胸を押さえながら俯いた。「俺の母さんは、人と鬼との間に生まれた混血だったんだ。俺は母さんの事は全然知らない。どんな人だったのか、俺の事をとても愛してくれたのか、わからない・・でも、あいつが俺を鬼の子って言った時は許せなかった・・」「柚聖は鬼の子じゃないよ。」有爾はそう言って、柚聖の手を優しく握った。「だって柚聖は綺麗だもん。鬼の子なんかじゃないよ、柚聖は天女様の子だ。」「本当に・・そう思ってくれる?」「うん!」「ありがとう、有爾。そんな事言ってくれるの、お前だけだよ。」柚聖は涙を袖口で拭い、ゆっくりと立ち上がった。「帰ろう、みんな心配してるよ。」柚聖と有爾が梅壷へと戻ると、そこには憤怒の表情を浮かべた儷子が待っていた。「2人とも、今まで何処に行っておったのだ?」「ごめんなさい母上、柚聖と少し遊んで遅くなりました。」「有爾、土御門の子とは遊ぶなといつも言うておるであろう?何故母の言いつけに従えぬのだ?」「申し訳、ありません・・」か細い声で儷子に謝罪した有爾は、柚聖の手を離して彼女の元へと向かった。「柚聖、有爾をここまで送ってくれて感謝する。じゃが、もう二度と梅壷へは近寄るでないぞ。」「はい、女御様・・」柚聖は有爾の方をちらりと見た後、梅壷を去って行った。「有爾、鬼の子と関わると碌なことにならぬぞ。」儷子はそう言って我が子の頭を優しく撫でた。(柚聖は鬼の子じゃないよ、母様・・)心の中で、有爾はそう反論したいと思いながらも、口には出せなかった。にほんブログ村
2011年07月24日
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「あああ、どうしましょう、また有爾様が土御門の子と遊んだと女御様に知れたら・・」「わたくしたちの首が飛んでしまうわ!」「ええ・・」 先ほど自分達の声を無視して御簾を勢いよく上げて部屋から出て行った皇子のことをひそひそと囁き交わしている女房達の顔は、恐怖で強張っていた。 なぜならば、彼女達が仕える主である梅壷女御・儷子(れいこ)は、冷酷な性格で、自分に不利益をもたらすものは容赦なく切り捨てる恐ろしい女だからだ。何よりも彼女は血は繋がっていないが、我が子である有爾のことを目に入れても痛くないほど溺愛しており、その有爾に何かあったらすなわちそれは自分達の責任となってしまうので、女房達は有爾が怪我をしないようにいつも見張っていた。「妾がどうしたというのじゃ?」氷のような声で、それまでひそひそ話をしていた女房達は一斉に振り返った。そこには卵型の顔に切れ長の瞳をした、凛とした美しさを持った女性が立っていた。彼女こそ後宮の支配者であり、有爾の義母でもある梅壷女御・儷子である。「い、いえ何も・・」「わたくしたちはただ、お天気の話を・・そうよねぇ?」「ええ、そうなんですのよ、女御様。最近暑い日が続くものですから、どうしましょうと話していたところなんですの。」「有爾は?あの子はどこにおる?」必死に胡麻化そうとした女房達の話を無視して、儷子は愛しい我が子の姿を探し始めた。「それが、そのう・・有爾様は先ほど、お出かけになられて・・」「出かけただと?何処へじゃ?まさかあの餓鬼とではあるまいな?」「それが、そのまさかでございます。」女房達は、主人が目の前で憤怒(ふんぬ)の表情を浮かべ、彼女が自分達に雷を落とす前にそそくさと去っていった。(あの餓鬼(がき)め・・有爾に怪我でもさせたら八つ裂きにしてくれるわ・・)後宮の女帝・儷子は眉間に皺を寄せながら深い溜息を吐いた。その頃柚聖と有爾は、「鬼姫の乱」の後廃墟と化した桐壷で遊んでいた。乱の時に後宮の中で最も犠牲者が多く、被害が大きかった桐壷には虐殺の犠牲となった者達の魂が今も彷徨い、夜な夜な助けを求めているという噂が立っていたが、2人はそれを知ることもなく無邪気に廃墟の中で元気よく遊んでいた。「有爾、明日も遊べる?」「お母様が許して下されば、遊べると思うよ。もう帰っちゃうの?」有爾はそう言って寂しそうな表情を浮かべながら柚聖を見た。「うん・・日が暮れる前に陰陽寮に帰って来なさいって、おじ様がおっしゃってるから。途中まで一緒に帰ろう。」柚聖が有爾の手を引いて桐壷から去ろうとした時、誰もいない建物の中から物音が聞こえた。「なんだろ、さっきの・・」「ちょっと見てみようよ。」好奇心旺盛な少年達は、恐る恐る建物の中へと入って行った。昔は雅やかな雰囲気があった室内は、今はその面影もなく荒れ果てていて、破れた几帳や屏風の影から何かが出てきそうな気配がした。「誰もいないよ・・?」「もう帰ろうか。」「うん・・」少年達が背を向けようとした時、突然暗闇の中から小さな手が伸びてきて、柚聖の水干の袖を掴んだ。柚聖は悲鳴を上げ、小さな手を振りほどいた。ゴツンという鈍い音がして、泣き声とともに破れた屏風の影から若草色の水干を着た少年が出てきた。「痛いじゃないか、何すんだよ!」 そう言ってキッと有爾を睨みつけたのは、次期帝となる東宮(皇太子)・雅爾(まさちか)だった。にほんブログ村
2011年07月24日
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西暦1073年初夏。 7年前の「鬼姫の乱」により甚大な被害を受けた御所と後宮は、その後の復旧作業により乱の前の、豪華絢爛かつ雅な雰囲気漂う佇まいを取り戻していた。だが建物が元の姿に戻っても、人の心はそう簡単に元には戻れなかった。「鬼姫の乱」により後宮で虐殺を目の当たりにした桐壷女御・爵子(きりつぼのにょうごたかこ)は、乱の後精神に異常をきたすようになり、自分の喉を懐剣で突いて自害した。「鬼姫の乱」の首謀者であった柚葉姫を深く愛していた帝・尊仁(たかひと)は、柚葉の死後一時的に精神に異常をきたしたが、その後次第に回復していった。柚葉姫の実家・山野裏家は、娘の行為によって失墜し、一家離散した。彼女の夫であった土御門有人の家族は、宮中で白い目で見られながらも陰陽寮に留まっていた。「暑いなぁ・・」その陰陽寮の中庭で、土御門頼人はそう呟きながら空を仰いだ。かつて、“陰陽寮の華”とまで謳われた紅顔の美少年の面影は消え失せ、その顔は青年らしい精悍な顔立ちとなっていた。「鬼姫の乱」の後、頼人は今は亡き兄夫婦の遺児を育てる為、陰陽寮に残り、若干22歳という若さで陰陽博士(おんみょうのはかせ)となった。兄・有人と比べると見鬼の才はやや劣るが、実力は陰陽寮の誰よりも抜きん出ていた。「おい見ろよ、土御門頼人様だぜ。」「土御門って・・あの乱の・・」「てっきり陰陽寮を辞めたのかと思ったのに・・」「綺麗な顔に似合わず図太い神経の持ち主だな・・」廊下を歩いていると、ヒソヒソと悪意を囁き交わす声が聞こえたが、頼人はそれらに気を留めることなく、自分の部屋へと入った。「おじ様っ!」部屋に入った途端、白い水干を着た金髪蒼眼の童が頼人に抱きついてきた。「柚聖(ゆずまさ)、ここには来てはいけないと言っただろう?」甥の頭を軽く撫でながら、頼人はそう言って溜息を吐いた。「だって、家では誰も遊んでくれないだもの。ここにいれば、有爾(まさちか)様や親王様に会えるでしょう?だから来たの。」同じ母親の腹から生まれながら、柚聖は頼人の元で、彼の兄・有爾は帝の元で別々に育てられた。まだ幼い柚聖は、“有爾様”が実の兄弟であることを知らないが、彼と親王とはとても仲が良い。「有爾様や親王様といつも会えるという訳ではないんだよ。ここはお前の遊び場じゃないんだからね。」「はぁ~い。」頬を膨らませながら、柚聖はそう言って部屋を飛び出して行った。「やれやれ、世話が焼けるな・・」頼人は苦笑しながら書物に視線を戻した。走り去っていく柚聖の背中を見送った時、脳裏に7年前の出来事が浮かんだ。あの時、自分は大切なものを失った。だが、あの子が居るから今日まで生きてこられたのだ。(兄上、義姉上、あの子はすくすくと成長しておりますよ・・どうかわたし達を見守っていてください・・)頼人が陰陽寮で感慨に耽っている頃、柚聖は有爾が居る梅壷へとやって来た。「有爾、遊ぼ~!」大声で友の名を呼ぶと、御簾から1人の子どもが飛び出してきた。「柚聖、来てくれたんだっ!」真紅の瞳を嬉しそうに煌めかせ、左右にそれぞれ結いあげた艶やかな漆黒の髪をなびかせながら、柚聖の双子の兄・有爾は一直線に彼の元へと走って来た。「有爾様、いけませんっ!」「女御様に叱られますっ!」「早くお戻りになって下さいませっ!」御簾越しに聞こえる女房達の声を無視して、有爾は柚聖とともに後宮を後にした。「あああ、何てこと・・こんなことが女御様に知れたら・・」「妾に知れたらどうすると言うのじゃ?」氷のような冷やかな声がして、女房達はゆっくりと振り向いた。そこには彼女達が恐れている主人がこめかみに青筋を立てながら立っていた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「・・返せ、その子を返せ!」憎しみを宿した真紅の双眸で柚葉は義弟を睨みつけ、白銀(しろがね)の刃を彼に向けた。「この子に危害を加えるつもりはありません、義姉上。だから剣を納めてください。」「嘘だっ!お前達人間は俺の大切なものを全て奪った!家族や愛する人の命を奪い、その子の命までも奪うつもりかっ!?」憤怒の表情を浮かべて叫ぶ柚葉の顔には、鬼のようだった。「何故だ・・何故俺から全てを奪おうとする・・俺が鬼だからか!?許さぬ、許さぬぞ、人間どもめっ!」柚葉は唸り声と共に刃を頼人に向かって振り下ろした。自分は死ぬのだと思っていた頼人は、反射的に目を瞑った。だが、何の苦痛も感じない。恐る恐る頼人が目を開けると、そこには我が子を抱き、微笑んでいる柚葉の姿があった。先ほどまでの恐ろしい形相が嘘のように、柚葉は優しい表情を浮かべながら我が子に笑みを向けていた。 狂気を孕み、不気味に闇を照らしていた狂気の色はいつの間にか消え失せ、あの美しく澄んだ蒼に戻っていた。「柚聖(ゆずまさ)。」愛おしく我が子の名を呼ぶその姿は、鬼ではなく天女のように美しかった。柚葉の腕の中で、赤子は嬉しそうにきゃっきゃっと笑っていた。正気に戻った義姉は、愛おしそうにわが子を見つめていた。(良かった・・義姉上は正気に戻ってくれた・・) 柚葉が正気を戻したことにほっと胸を撫で下ろした頼人が、彼女の方に一歩踏み出したとき、背後の茂みに潜んでいた僧兵の姿を見て、彼は声を上げようとした―「義姉上~!」頼人が柚葉に駆け寄るのと、僧兵が長刀で柚葉の胸を刺し貫くのとはほぼ同時だった。胸から血飛沫を上げ、柚葉は硬い地面にゆっくりと倒れていった。「頼人、一体何が・・」「しっかりしてください、義姉上!」地面に倒れる寸前、陶由に抱き留められた柚葉の上半身は、真紅に染まっていた。「柚・・聖・・は・・あの子は・・何処?」柚葉の手が我が子を求めて宙を彷徨う。彼女の赤子は長刀の刃を胸に受け、地面に転がっていた。赤子は辛うじて息をしていた。「あの子は大丈夫です、義姉上(あねうえ)。お願いですから、死なないでください!」頼人は泣きじゃくりながら、柚葉の手を握った。「頼人さん、わたくしとあの人の代わりに・・あの子達を・・頼みます・・」そう言って柚葉が頼人の手に握らせたのは、生まれてから肌身離さず持っていた両親の形見である紅玉だった。「義姉上、わたしがこの命に代えましてもこの子を守ります!だから・・」意識が段々遠のいてゆく。自分が何処にいるのか、どんな状態なのか、判らなくなってきた。だが目の前には愛する人達が立っている。自分をこの世に産み出してくれた両親、自分の事を誰よりも理解してくれた明るく優しかった妹、そして誰よりも自分の事を心から愛して、慈しんでくれた人が目の前に居た。“柚葉さん。”有人が両腕を広げて柚葉を迎えた。「・・これからは、ずっと一緒です・・有人様・・」“あなたとはもう離れたりはしない、絶対に。”柚葉の魂はゆっくりと空へと昇っていった。「義姉上・・そんな・・」宝石のような蒼い瞳を、柚葉は頼人の前で二度と開くことはなかった。「逝っ(い)てしまわれたのか・・」陶由の言葉を聞いた頼人は、今まで堪えてきた悲しみを一気に吐き出した。獣の鳴声にも似た彼の声は、空に木霊(こだま)し、やがて消えていった。 その傍らで、母を失った赤子は紅玉を握り締めながら無邪気に笑っていた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「柚葉さん、どうしてこんなところに・・」頼人はそう言って柚葉を見上げた。だが柚葉は狂気を孕んだ瞳で彼を睨むだけで、何も答えようとしない。彼女は頼人の頸動脈(けいどうみゃく)めがけて刃を振り下ろした。だがその直前、衛士(えじ)が放った一本の矢が柚葉の背に当たった。柚葉は地面に刺さった太刀を抜き、衛士に向かって行った。「頼人、大丈夫か!?」「ああ、なんとか・・」2人が後宮の奥へと進むにつれ、暴走した柚葉によって切り刻まれ、屠(ほふ)られた人間の残骸が広がっていた。「酷い・・」再びこみ上がって来る吐き気を堪えながら、2人は桐壷の中へと入った。そこも人の気配がなく、聞こえてくるのは2人が歩くたびに血がビシャリと立てる水音と、死骸の肉を漁(あさ)る漆黒の鴉の不気味な鳴き声だった。「誰か、いませんか!」頼人は試しに叫んでみたが、当然返事はない。「ここも、全滅か・・」陶由が溜息を吐いて親友の肩を叩き、桐壷から立ち去ろうとした時、奥の方でくぐもった呻き声が聞こえた。「聞こえたか?」「ああ、行くぞ。」呻き声が聞こえた方角は、今や皇子の養母となった桐壷女御・爵子の部屋だった。彼女は、皇子を抱いて奥の方で恐怖に震えていた。「女御様、ご無事であらせられましたか。一体何が起きたのです?」「可哀想な柚葉・・愛しい人を目の前で殺されて・・あの子は狂ってしまった・・」爵子はそう言って袖口で涙を拭った。「兄は、兄は何処に居るのですか!?」嫌な予感がした。「あの茂みで・・あの子は・・」爵子は檜扇で茂みを指しながら啜り泣いた。頼人が茂みに向かうと、そこには男女の遺体が地面に転がっていた。女の方は、あの藤原家の姫君で、苦悶の表情を浮かべながら何も映らない瞳で宙を睨みつけている。そして男の方は、腕にしっかりと泣きじゃくる赤子を抱き締めながら、息絶えていた。男の遺体を見て、頼人は愕然とした。「そんな・・」兄の遺体に近付くと、彼が抱いている赤子が泣き止み、じっと頼人を蒼い瞳で見つめた。その瞳は、初めて柚葉と会った時に彼女の双眸に宿っていた澄んだ蒼と似ていた。(まさか、この子は・・)頼人は赤子と兄の亡骸を交互に見た。(兄上、あなたは最期までこの子を守ろうとしたんですね・・母上が、昔兄上を守ろうとしたように・・)母は自分が幼い頃死んでしまったので、一体何が起こったのかは知らないままだった。陰陽寮に入る前、兄は自分が父に殺されかけ、母が命を呈して兄の命を救ったことを自分に話してくれた。かつて母が兄の命を守ってくれたように、兄は我が子の命を己の命と引き換えに守った。(兄上、この子はわたしが守ります・・たとえ命を代えてでも・・)そっと赤子を抱きあげた頼人は、優しい笑みを赤子に向けた。赤子は嬉しそうに蒼い瞳をきらきらと光らせながら頼人を見た。ゆっくりと立ち上がろうとした時、冷たいものが首筋に当てられるのを感じた。「・・返せ。」 肩越しに振り向くと、そこには真紅の瞳をぎらつかせ、刃を自分に向けている柚葉が立っていた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「どうして・・どうして・・」胸から血を流し、倒れている有人の身体を抱き抱えながら、柚葉は彼を見た。“わたしは、あなたに会いに生きたかった・・子ども達と共に、生きたかった・・たとえあなたが妖でも鬼でも共に生きたかった・・”脳内に直接、有人の声が聞こえた。「有人様・・わたくしもあなたと共に生きたかった・・わたくしは鬼としてではなく、人として生きたかったのです・・」柚葉の両目から真紅の涙が流れ、有人の頬を濡らした。「わたしは・・あなたと生きたかったのに・・」そう言って、柚葉は有人の胸に顔を埋めた。「愚かな男だ。鬼を愛したがゆえに己の命を失うとは・・人間というのは、本当に愚かな生き物だ・・」寧久は口元に笑みを浮かべると、太刀の切っ先を柚葉へと向けた。「ここで愛する者と朽ち果てるがいい!」寧久が刃を柚葉に振りおろそうとした時、ゆっくり柚葉が顔を上げた。彼の蒼い瞳は、真紅に染まっていた。柚葉は寧久の太刀を折り、彼の腸を素手で引き千切った。「おのれ・・」寧久は大量に吐血しながら地面に倒れ、陸に上げられた魚のように痙攣し、動かなくなった。「やっと本性を現してくれたわね、鬼姫!」寧久に刺された彩加が、闇の中から襲い掛かって来た。柚葉は真紅の双眸で彩加を睨みつけ、唸り声を上げて彼女の首を掴み、縊(くび)り殺した。彩加は蛙が押し潰されたような声を出し、息絶えた。柚葉は口端を歪め、ふふっと笑った。「待っていてください、有人様・・」柚葉は滑るように暗い闇の中を歩いて行った。真紅の瞳を狂気で煌めかせながら、黒い瘴気の中を柚葉が進んでゆくと、背後から何かが飛んできた。「鬼だ、鬼が出たぞ!」「射て、逃がすな!」いつの間にか集まった衛士達が恐怖で顔を引き攣らせながら柚葉に向かって矢を放っていた。柚葉はそれらを唸り声を上げて落とし、寧久から奪った太刀で次々と衛士達に襲い掛かって行った。「黒い瘴気が、どんどん力を増しているな。」陰陽頭・矢代里海はそう言って宮中を見た。「一体あの中で何が起きているんでしょうか?」「さぁな・・」「少し見てきます。」槇浦陶由(まきのうらすえよし)はそう言って友人の土御門頼人とともに宮中へと向かった。そこは陰陽寮から見るよりも、暗く重い瘴気の靄が御所中に漂っていた。人の気配は、全くない。(女御様達は一体どうなさったんだろう?何処におられるのだろう?)「陶由、なんか様子が変じゃないか?」「ああ、確かに・・」2人が後宮へと進んでいると、突然断末魔の叫び声が聞こえた。「何だ!?」「行ってみよう。」悲鳴がした麗景殿へと2人が向かうと、そこには血の海が広がっていた。「麗景殿女御様は一体何処に・・」頼人がそう言いながら歩いていると、何かにぶつかった。それは、黒焦げとなった女の死体だった。頼人が吐き気を堪えて地面に蹲っていると、奥の茂みで何かが光った。茂みから太刀を持った柚葉が血に飢えた獣のように真紅の双眸をぎらつかせながら自分を見下ろしていた。「柚葉・・さん・・?」柚葉のただならぬ様子に、頼人は恐怖に震えた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「紅玉を儂に寄越せ!」自分に唾を飛ばしながら、老鬼はそう言って柚葉の首筋に刃を突き立てた。「誰がお前なんかに紅玉を渡すものか!」柚葉は我が子を守るために老鬼の股間を蹴り、彼から懐剣を奪った。「貴様は何者だ!何故俺の命を狙う!?」老鬼に刃を突き立てながら、柚葉は彼にそう怒鳴った。「お前は鬼族の血統を汚した。御前様は大層お怒りじゃ。じきにお前をその子ともども殺すであろう。」甲高い声を上げて老鬼は柚葉が持っていた懐剣を足で弾き飛ばし、黒い靄の中へと去って行った。「逃がすか!」漆黒の闇と黒い靄の中で柚葉は走りながら老鬼の姿を探したが、彼はどこにもいなかった。(逃げられたか・・)舌打ちして部屋に戻ろうとした柚葉は、誰かに腕を掴まれた。「やっと見つけた!」黒い靄の中から現れた1人の女がそう言ってニッと口端を歪めて笑った。よく見るとその女は自分と敵対していた藤原家の姫・彩加だった。「やっと見つけたわ・・有人様をわたくしから奪った薄汚い泥棒猫!有人様はわたくしのものだったのに・・有人様は何処にいらっしゃるの!?」そう言って自分を睨む彩加の瞳は真紅に染まっていた。「有人は近江に俺が産んだ子とともにいる。」「お前の・・子ですって!?」彩加の顔が憤怒で醜く歪んだ。「許せない・・有人様を誑かして子どもを作ったなんて・・許せないわ、柚葉!」女とも思えぬ凄まじい力で彩加は柚葉を地面に押し倒し、彼の首を絞め始めた。「お前はここで死んでもらうわ!お前さえいなければ有人様はわたくしを見てくださるもの!お前は邪魔なのよぉ!」柚葉は彩加の瞳に宿る狂気の色が一層輝きを増していることに気付いた。彩加はいつもどうやって権力を得られるか、自分が欲しいものをどうやって他人から奪える方法しか考えなかった女だ。そんな彼女を魔物が放っておくわけがない。(哀れな女だ・・有人が自分をいつか愛してくれると思い込み、邪魔な者には牙を剥いて何の罪もない遥を殺して・・それでいてまだ闇に呑まれていることに気づかないなんて・・)柚葉はそう思いながらフッと笑った。「何が可笑しい!?自分が今死にかけようとしているのに、笑っているなんて呑気なものね!お前はいつもそう、いつもわたくしを馬鹿にしたような目で見ていた!わたくしより美しく、わたくしより頭が良く、わたくしより周囲の者に注目されて・・わたくしはお前がいつも憎くて憎くて堪らなかった!だからあいつと手を結んだ!」「あいつ?一体誰の事だ?」「決まっているでしょう、わたくしと同じお前が憎くて堪らないお前の親族。わたくしはお前を殺すためにやつと手を結んで・・」その時、凄まじい悲鳴を上げて彩加が柚葉から離れた。「わたしのことは話すなと言っただろう、このバカ女。」氷のような冷たい声がして、1人の鬼が闇の中から姿を現した。濃紺の直衣を纏ったその鬼は、腰に帯びていた太刀で彩加の胸を突き刺した。彩加は声も出さずに地面に倒れた。「お前は・・」「初めまして、柚葉。僕は寧久。君の亡くなった父親の弟の息子、つまり君の従兄さ。君の存在は我が一族にとって邪魔なんだ。だからここで死んでくれない?」天女のような優しい微笑みを浮かべたその鬼は、太刀を持ってゆっくりと柚葉に近づいた。「俺が一体何をしたっていうんだ!?」「それは今から死ぬ者が知らなくていいことさ!」鬼はそう叫んで柚葉に太刀を振りかざした。その時、有人が自分の名を呼んだような気がした。「柚葉さん・・」柚葉の前には、鬼の太刀を受け、瀕死の重傷を負った有人が柚葉に微笑んでいた。「有人様・・どうして・・?」「わたしは・・あなたのことを・・」有人はそう言って柚葉の腕の中で意識を失った。柚葉の絶叫が、闇夜に木霊(こだま)した。にほんブログ村
2011年07月24日
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「それにしても、あなたは随分変わったわね。宮中に上がってきたばかりの頃から少し大人びているなと思っていたけれど、今はその美しさに磨きがかかっているようだわ。」爵子は目を細めながらそう言って柚葉に微笑んだ。「女御様にお褒めいただき、嬉しい限りでございます。」「そういう他人行儀な言い方はやめて頂戴。あなたのことは実の妹だと思っているのよ。遥があんなことになってしまったのは、とても残念だけれど・・」「女御様・・」2人の間に、重苦しい空気が少し流れた。柚葉の最愛の妹・遥が―全く血が繋がっていなかったが、柚葉は妹だと思っていた―無残な死を遂げたあの事件は、今も柚葉の心に暗い影を落としている。遥を殺した犯人が誰なのかは、柚葉は判っていた。しかし、その犯人が遥を殺したという確たる証拠がなく、泣き寝入りするしかなかった。いつか妹の仇を取ってやろうと思いながら東国で暮らしていた頃のことを思い出した。「ねぇ柚葉、あなたの奏でる筝が聴きたいわ。」爵子の声を聞き、柚葉は我に返った。「今ではみんなが殺気だってしまって、風流を楽しむということを忘れてしまっているけれど・・あなたが奏でた筝の音は、いつまでも忘れることはできなかったわ。」「女御様の頼みとあらば、いつでも。」柚葉はそう言って愛用の筝―有人があの火事で焼失した母の形見の筝の代わりに贈ってくれたもの―を取り出し、爪を付けて久しぶりに筝を弾き始めた。昔は美しい牡丹の花が咲き誇る中庭が、かつての面影を失っても、柚葉が奏でる筝の音だけは、昔と変わっていなかった。「お前が奏でる筝の音は、とても心地よいわね・・まるで極楽に居るようだわ。」爵子は目を閉じてそう言って微笑んだ。「お褒めいただき、ありがとうございます。」演奏を終えた柚葉は女御に頭を下げた。「あなたが麗景殿から忽然と姿を消して1年半が経って、麗景殿女御様が亡くなられて、彩加が桐壷へ移って、わたしが国母となり・・色々あったわ・・」「麗景殿女御様が、亡くなられた?」「ええ・・突然の病であっけなく・・原因はわからないのだけれど、誰かに呪詛をかけられたっていう噂が一時期広まったわ。」「そうですか・・」千人もの女達が帝の寵愛を奪い合う後宮では、呪詛で誰かが殺されるという事件は自分が宮中に上がった頃から大なり小なりあったが、弘徽殿女御の次に権力を握った麗景殿女御が亡くなるとは思ってもいなかった。「これはここだけの話なんだけど・・彩加があなたの命を狙っているわ。どうやらあなたが帝の妃となったことが気に入らないらしいみたい。くれぐれも彼女に気をつけてね。」「わざわざ伝えていただいて、ありがとうございます。」爵子の部屋を出て、帝に用意された部屋に有爾を抱いて入った柚葉は、背後に鋭い視線を感じて振り返ったが、そこには誰もいなかった。京に入ってから感じる陰の気と瘴気の出所はどうやら後宮の何処かにあるらしく、後宮全体に黒い瘴気が辺りに満ちているのを肌に感じた。嫉妬や憎悪、権謀術数が渦巻く女達の戦場である後宮は、入ったら一生出てくることができない憎悪の檻のようだと柚葉は思いながら、有爾を胸に抱いて眠りに就いた。―見つけたぞ、あいつだ・・―宮中に戻ってきたとは・・―どうやって殺そうか・・瘴気の中から数人がヒソヒソと囁きを交わしている。その姿は黒い靄がかかっていて見えない。 だが有爾(まさちか)は靄の向こうにある“何か”を感じて、火がついたかのように激しく泣き始めた。「どうしたんだ、有爾?」柚葉は突然泣き始めた我が子をあやし始めたが、有爾は泣きやむどころか、ますます激しく泣くばかりだった。「一体どうしたんだ、有爾?」溜息を吐きながら柚葉が有爾をあやしていると、靄の中から人影が突然躍り出てきた。「紅玉を渡せぇ~!」目を血走らせ、柚葉の首筋に刃を押しあてたのは、かつて自分の命を狙った老鬼だった。にほんブログ村
2011年07月24日
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帝と柚葉を乗せた牛車は、京へと入っていった。京に入って柚葉がまず初めに感じたのは、凄まじい陰の気と、瘴気だった。(一体何があったんだ・・俺の居ない間に、何が・・)所々に魔物の気配が感じられ、誰かに見られているような感覚がする。柚葉に抱かれている有爾もその気配を感じ取ったらしく、一向に泣きやまない。柚葉は胸から提げている紅玉を取り出し、それを有爾に見せた。彼は紅玉を見た途端安心し、すやすやと柚葉の腕の中で寝息を立て始めた。「その紅玉・・そなたのものか?」帝が紅玉を食い入るように見ながら言った。「今は亡き両親の形見です。この紅玉が魔物を追い払ってくれるような気がして、肌身離さずつけております。」柚葉は提げていた紅玉を慌てて衣の中にしまった。帝は立ち上がり、柚葉の腕に抱かれている有爾の寝顔を見た。「あの男に良く似た眉に口元・・有人は今頃そなたを恋しがって泣いておろうな。乳飲み子を抱えてあの男がどうやって生きてゆくのか見てみたいものじゃ。」帝の言葉に、柚葉の胸はグサリと太い棘が刺さったように痛んだ。あの時ああしなければ、今頃有人と子どもは助かっていなかった。自分が下した決断は正しいのだと思わなければ、この先生きてゆくことなどできなかった。「余の妃となるのなら、その赤子を余の子と思って育てようぞ。そなたはその子が帝となるまで余の傍におるのじゃ。」「有人様は・・有人様と残した赤子はどうなるのです?わたくしは主上の妃となりましたが、わたくしは有人様の妻です。わたくしは有人様と一緒に暮らし・・」帝は苛立ったように柚葉の頬を強く張った。柚葉の唇は切れ、彼は床に蹲った。「二度とあの男の名を余の前で口にするでない!そなたは余のもの。」(有人様・・会いたい・・)柚葉は俯いて、涙を流した。2人を乗せた牛車は、ゆっくりと御所へと入った。御所には、町中よりも強い陰の気と瘴気が漂っている。 桐壷女御は狂気に侵されていないだろうかと柚葉が心配していた時、牛車が停まり、帝がそこから降りた。柚葉は足元に気をつけながらゆっくりと牛車から降りた。貴族の姫として宮中に上がって以来、ここには二度と戻りたくないと思っていた場所に、戻ってきてしまった・・。 出来ることなら力を使って夫と子どもが待つ近江に帰りたいが、2人の命が盾に取られている以上、勝手な行動はできない。「爵子(たかこ)にはお前が来ることを文で知らせておる。お前も彼女に会いたかろう。」帝とともに後宮に入り、桐壷へと向かうと、そこには狂気に侵されていない桐壷女御・爵子が帝と柚葉を笑顔で出迎えてくれた。「柚葉、久しぶりね。お前とまた会えるなんて、嬉しいわ。」「わたくしもでございます、女御様。」そう言って柚葉が顔を上げると、爵子が後光を纏っているように見えた。(気の所為か?)目を擦り、もう一度彼女を見てみると、光は消えていた。「どうかしたの?」「いいえ、何でもございません。それよりも女御様、親王様はお元気でいらっしゃいますか?」「ええ。あなたも子どもを産んだのね。」爵子はそう言って柚葉の腕に抱かれている有爾を見た。「女御様、少しお話したいことがございますが、よろしいでしょうか?」「ええ、構わないわよ。主上、彼女と2人きりにして貰いますでしょうか?」「わかった。」帝は部下を引き連れて清涼殿へと戻っていった。「人払いはしたわ。話したいことってなに?」「実は・・」柚葉は桐壷女御にこれまでのことを話した。「そう・・わたくしが何とかいたしましょう。柚葉、わたくし前から聞きたいことがあるのよ。」「何でございましょう?」「あなたはこの宮中が嫌い?あなたにとってここはあまりいい思い出がない場所だから・・」「正直言ってわかりません。ですが、再びここに戻って来ても全く嬉しくありません。わたしの心は近江にいる夫と子どもの元にありますから。」にほんブログ村
2011年07月24日
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「わたくしはもう京に戻るつもりはございません。ですから主上、わたくしのことなど忘れて、宮中で親王様とともに暮らしてくださいませ。」柚葉はそう言って帝に掴まれていた手を振りほどき、寺を出た。「柚葉、待て!」邸まで走っていると、帝が追ってきた。柚葉は帝には構わず、邸の中へと逃げ込んだ。「どうしました、柚葉さん?何か問題でも・・」双子をあやしていた有人がそう言って肩で息をしている柚葉を見て怪訝そうな表情を浮かべた。「主上が・・わたしが生きていることを知ってしまいました・・」「それは本当ですか!?」柚葉は静かに頷いた。「主上はわたしを追ってすぐそばまできています。もうこれ以上ここにはいられません。」「そうですね・・すぐに支度をしてこの邸を出なければ・・」「そうはさせぬぞ。」2人の背後から声がして、それと同時に柚葉の首筋に冷たいものがあてられた。「柚葉、そなたは余とともに京に戻り、余の妃となるのだ。」帝はそう言って柚葉に微笑んだ。「主上、わたくしはもう京に戻ることはできません・・」「何故だ?何故余の想いを受け取ってくれぬのだ!余はそなたと初めて会った時から好いておったのだぞ・・それなのにお前は余の元を去り、この陰陽師と通じておったとは!許せぬ!」帝は配下に目配せした。配下の1人がゆっくりと有人に近づいた。「有人様、逃げて!」双子を抱えた有人は逃げようとしたが、帝の配下が有人の腕に抱かれていた双子の赤子を見た。「黒髪の赤子を余の元へ。残りの赤子とその男は殺しても構わぬ。」「主上、おやめください!それだけはどうか・・」柚葉は有人と子ども達の元へ行こうとしたが、帝が太刀を彼の首筋に押し当てた。「動くでないぞ、柚葉。少しでも動いたらあの者達を殺す。」「何故・・何故こんなことを・・」柚葉は涙を流しながら帝を見た。「あの者達の命を助けたかったら、京に戻り余の妃となるのだ。そなたは余だけのもの。誰にも渡さぬ!」(帝の様子がおかしい・・何かに取り憑かれているようだ・・)「さぁ柚葉、選ぶのだ。余の妃となるか、否か。」今ここで嫌だと答えれば、帝は躊躇いもなく有人達を殺すだろう。こんなところで彼らを失いたくない。「わかりました。あなた様の妃になります、主上。」「それでよいのだ、柚葉。その言葉をそなたの口から聞きたかった。」自分を見た帝の目は、真紅に輝いていた。その真紅の瞳には見覚えがあった。魔物に取り憑かれ、正気を失った者の目だ。帝までも魔物に取り憑かれてしまったのか。彼の身に一体何が起きたのだろうか。「柚葉さん・・」有人が悲痛な表情を浮かべながら自分を見つめていた。「有人様、待っていてください・・わたしがあなたの元に戻る日まで、待っていてください・・」こうするしか、自分達の命は助かる方法はないのだ。「もうここには用はない。余とともに参ろう。」帝はそう言って太刀をしまい、柚葉の腕を掴んで歩き出した。「主上、一体何をお考えなのですか?」「それはそなたが知らなくてよいことだ。それよりも柚葉、余の妃となってくれて嬉しいぞ。爵子もそなたに会いたがっておる。」「桐壷女御様が?」自分にも亡くなった妹の遥にも良くしてくれた桐壷女御・爵子の目も、真紅に染まっていないだろうかと、柚葉は気掛かりだった。自分の腕に抱いていた黒髪の赤子―有爾(まさちか)がぐずり始めた。 有人達と離れている間、自分がこの子を守らなければ―柚葉はそう思いながら、近江を出て、帝に連れられ宮中へと戻っていった。にほんブログ村
2011年07月24日
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柚葉が近江(おうみ)に来て数ヵ月後の夜、彼はその身に宿していた2人の赤子をこの世に産み出した。陣痛が長引き、出血が激しかった難産であったが、柚葉は朦朧(もうろう)とした意識の中で我が子を見た。金髪蒼眼の男児と、黒髪紅眼の男児は、ニッコリと自分に向かって笑いかけた。“母様、やっと会えた。”“これからはずっと一緒だよ。”「柚葉さん、もう身体の方は大丈夫ですか?」「はい、なんとか・・」双子の出産から数週間が経ち、柚葉はなんとか起き上がれるまでに回復した。「まだ無理をなさらない方がよろしいですよ。身体がまだ本調子ではないのですから。」「じっと寝ていると、暇で仕方がなくて。少し身体を動かした方がいいと思って・・」そう言って柚葉は起き上がり、夜着を脱ぎ捨てて水干に着替えた。「今から寺の仕事に行ってきます。すぐに戻りますから、子ども達をよろしく。」「わかりました。何度も言いますが、あまり無理は・・」「わかっています。」柚葉は有人に微笑み、邸を出て行った。 近江で暮らし始めて、これまで京で貴族の姫君として送った生活よりも、寺で稚児をしている今の生活の方が柚葉は気に入っていた。宮中に上がり、帝の寵愛を受けていたが、それは決して嬉しいものではなかったし、宮中では悲しい出来事や嫌な事がありすぎて思い出したくないほどだった。 今の生活は女達の嫉妬や帝からのしつこい求愛を受けることもなく、宮中にいた頃がまるで嵐のただ中に浮かぶ舟ならば、稚児としての生活は穏やかな波風に浮かぶ舟のようなものだ。それに有人と2人の子どもという生涯の宝を柚葉は手に入れた。ここには誰も、柚葉を知る者はいない。自分はもう死んだことになっている。あれほど自分にしつこく求愛してきた帝も、諦めていることだろう。それに彼にはかつての寵姫・弘徽殿女御が命と引き換えにこの世に産んだ親王がいる。男であり鬼でもある自分のことなど忘れて、宮中で穏やかな暮らしを送っていることだろう。寺へと入ると、何やら使用人達が忙しく働いていた。いつも食事時の厨は戦場のようだが、今日は何だか殺気じみている。「一体どうしたんですか?」「あんた、身体はもう大丈夫なの?」「ええ。」女は溜息を吐きながら周りの者に指示を出していた。「主上が突然この寺にいらっしゃったんだよ。なんでも琵琶湖付近で鷹狩りをしていて、あまりに夢中になっていたものだから京に帰るのを忘れてしまったんだとさ。一夜の宿としてこの寺に身をお寄せになることになったんだよ。」 どうせ帝は宮中で美姫と戯れているのだろうと思いこんでいた柚葉にとって、女の言葉はまさしく青天の霹靂であった。「主上は今どちらに?」「僧達と稚児達と一緒に、宴を楽しんでおられるよ。」「そうですか・・ではわたしはこれで。」 柚葉がそう言って厨を出ようとした時、衣擦れの音がして、1人の公達が柚葉の前に立ちふさがった。「柚葉・・柚葉ではないか!」その公達こそ、宮中で自分に熱い想いを寄せていた帝その人であった。「人違いでございます。わたくしはこの寺の稚児、翠蘭。主上とは今宵初めてお目にかかっただけでございます。」柚葉はそう言って顔を伏せた。「何を言う。その美しい金髪と宝石のような美しい蒼い瞳・・余がそなたの美しい顔を忘れるはずがないであろうが。そなたは柚葉、余の心を掴んで離さぬ美しき天女じゃ。」帝は柚葉に駆け寄ると、彼の手を掴んだ。「何をなさいます、お放しくださいませ。」「嫌じゃ。余と共に京に帰ると言えば放してやる。」「嫌でございます、わたくしはもう京には帰れません。」「ならばこの手を一層放すことはできぬ。」にほんブログ村
2011年07月24日
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空に浮かぶ真紅の月を眺めながら、柚葉は素肌に夜着(よぎ)を羽織ったまま高欄(こうらん)に寄りかかっていた。「そんな恰好で外にいると風邪をひきますよ。」有人はそう言って背後から柚葉を抱き締めた。「月が綺麗だったので・・」「紅い月は何度も見ましたが、あれほど紅いやつは見たのが初めてだな・・」有人は月を見上げながらふと母が亡くなった時のことが脳裏に浮かんだ。母は紅い月が空に浮かんだ夜、この世を去った。8歳だった自分と、まだ乳飲み子であった弟を置いて。以来、有人は紅い月が大嫌いになった。月の色が、母の血の色と似ているから。 だが今夜は不思議なことに、紅い月が嫌いにはならなかった。寧ろ、美しいとさえ、思っていた。「有人様?」ふと我に返ると、自分の腕に抱かれている柚葉が怪訝そうな顔で自分を見ていた。「・・すいません、昔のことを、思い出してしまって・・」「昔のこと?」「母が、亡くなったときのことを・・わたしがまだ幼かった時に、母は紅い月の夜に死んでしまいましたから・・」「お母様が?」 今まで有人の口から家族のこと―特に母親のことを聞いたことがなかった柚葉は、突然母親のことを語り出した有人の顔をじっと見つめた。「お母様は・・どのようにして、お亡くなりになったんですか?」「母は、父に斬り殺されました・・わたしを庇って。」重苦しい沈黙が、2人の間を包んだ。「わたしは産まれた時から鬼や妖(あやかし)が見えて、式神を使って遊んでいたそうです。邸の者や父や親戚達は、そんなわたしのことを“狐憑きの忌み子”と呼んでいたそうです。特に父は、母が妖狐と浮気してわたしを産んだのではないかと、変な勘繰りをして、何かあると、母を責め立てていました。けれども母は、父の辛い仕打ちに耐えながらも、わたしのことを愛してくれました。けれども・・」14年前の忌まわしい出来事を、何度忘れようと努めていても、出来なかった。あの夜の記憶は、鮮明に覚えているからだ。「8歳の時、わたしは近所の子どもと喧嘩をしました。その時、力が暴走して・・その夜、父はわたしを呼び出し、わたしに激しい折檻を加えました。お前の中に潜んでいる魔物はこうしなければ退治できないといいながら・・そして狂った父は、わたしを斬り殺そうとしました。」目を瞑ると、生温かい液体が頬と服を濡らした。 目を開けると、そこには自分の代わりに父の刃を受け、口から血を出し、倒れている母の姿があった。「わたしはあの時死んでいればよかった・・そうすれば、母はまだ生きて・・」有人は急に吐き気を覚えて、口元を覆った。柚葉はそっと彼の肩を抱いた。「大丈夫です、有人様。有人様が立派な陰陽師になられたことを、お母様もきっとお喜びになっておられます。ですから、ご自分をお責めにならないでください・・」「あれからわたしは愛する人と出逢う度に、その人を失うのが怖くて恋愛をするのを止めた。母のように愛する人を失う辛さをもう二度と味わいたくなかった・・だからわたしは・・」有人の逞しい背中が少し震えた。泣いているのだろうか。目の前で母親を斬り殺された幼い有人も、泣き叫んだに違いない。「有人様、もういいのです。もう苦しまなくてもいいのです。」この人はずっと、苦しんできた。幼い頃の、悪夢のような記憶に。 あんな悲しい体験をしないために、わざと人との付き合いを断ち、自分から人を遠ざけた。 自分と同じだ。 貴族の姫君として暮らしていた頃、常に人を遠ざけて厄介事を避けようとしていた自分に。「有人様・・」「柚葉さん、ありがとうございました。これでもう、苦しみがなくなる・・」有人はそう言って柚葉に微笑んだ。「あなたに、渡したいものがあるんです。」彼は荷物の中から絹の布に包まれた筝を取り出し、柚葉に渡した。それはあの日、有人から贈られたものだった。柚葉は琴爪を付け、紅い月光を浴びながら、筝を奏でた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「髪を、切られたのですね。」そう言って有人は結上げた柚葉の髪を一房摘まんだ。「ええ・・東国から出る際、長い髪は邪魔だろうと思って・・有人様が短い髪がお嫌なら、伸ばしますけれど・・」「髪を伸ばし、宮中で美しい衣を纏った姫君としてのあなたも美しかったが、髪を切り、水干を纏ったあなたの方がもっと美しいです。」有人は照れ臭そうに笑いながら、柚葉を抱き締めた。「あなたが流行病で死んだと宮中で聞いた時は、身が引き裂かれるような思いでした・・ですが、あなたが生きていると知り、喜びに全身が震えました。」「有人様・・」「わたしはもうこれ以上、大切な人を失いたくない・・わたしの傍に一生居てくださいますか?」突然の求婚の言葉に、柚葉は嬉しくて気を失いそうになった。「はい・・」有人は恥ずかしそうに俯き、その時彼は初めて柚葉の下腹の膨らみに気づいた。「柚葉さん、もしや・・」柚葉は有人の言葉を聞き、静かに頷いた。「そうですか・・あの時の・・寺の者には?」「秘密にしております・・ただでさえ、ここではこの容姿で物珍しがられてますから。」「そうですか・・身体の方は、大丈夫ですか?」「ええ・・」それ以上、柚葉は何を話していいのかわからず、言葉が継げなかった。「有人様、今宵はどこでお休みを・・」「門主様が離れの邸を貸してくださるというので、そちらに・・柚葉さんも、よければ一緒に・・」柚葉は頬を赤く染めながら、有人の手を握った。寺から少し離れたところに、離れの邸はあった。元の持ち主はどこかの貴族らしいが、没落して廃屋となりかけていたところを、門主である覚鶯(かくおう)が豪農達とともに数年前から修繕し、旅人の宿として提供するようになったという。門を抜けると、牡丹の花が咲き乱れた庭が2人を迎え、その向こうには寝殿造りの邸が見えた。有人と柚葉は邸の中へと入った。内装は往時を偲ばせるほどの豪華さで、几帳や屏風などには美しい鳳凰や龍などの絵が描かれており、昔ここに住んでいた人物がどんなに豊かな生活を送っていたかが窺えた。「柚葉さん・・」有人は柚葉の唇を塞ぎ、御帳台へと押し倒した。「有人様・・」あまりにも性急な有人の行動に、柚葉はビクリと身を震わせた。「すいません、もし嫌だったら・・」「いいえ。わたしを愛して下さい。今までよりも、ずっと。」柚葉の唇を激しく貪った有人のそれは、やがて柚葉の全身を徐々に愛でていった。京で幾度となく有人と愛し合ったが、今宵のような喜びは得られなかった。思えば、灑実に拉致されて東国の鄙びた村で有人と半年もの間離れ離れで暮らしていたのだから、無理はない。“父様、やっと会えた。”“父様、僕達の声が聞こえるかなぁ?”有人に愛されている間も、柚葉の脳内には我が子達の声が響いていた。これから有人とこの子達が、自分の命よりも大切なものとなる。それは今まで何不自由なく暮らし、優しい兄妹に囲まれながらも漆黒の闇のような深い孤独に包まれていた柚葉にとって、初めてのことだった。「柚葉さん?」 我に返ると、有人が心配そうな顔で柚葉を見つめていた。その時初めて、自分の頬が涙で濡れていることに柚葉は気づいた。「・・今宵はあなたの所為で涙を流してばかりです・・」「それほどわたしに会えて嬉しかったのですね・・わたしもあなたと同じ気持ちです。もう2度と、あなたを離しません。」有人と柚葉はこの瞬間、身も心も結ばれた。 空には柚葉の両親が自害し、貴族の姫君として生を歩み始めた夜に浮かんだものと同じ、真紅の月が浮かんでいた。にほんブログ村
2011年07月24日
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柚葉は今日も忙しく寺で働いていた。そんな姿を遠目に見ながら、数人の僧達は彼の美しさに見惚れていた。「おい、あれは・・」「確か、東国から来たという・・」「今まであんな雪のような白い肌は見たことがない・・」「それに、あの瞳・・」 金髪蒼眼の容姿は、どこへ行っても目立つと思っていたが、宮中でも好奇心剥き出しの貴族に何人か会ったが、この寺に居る僧達よりもあからさまではなかった。京から離れた寺では、東国からやってきた自分のような者は余程珍しいのか、僧や他の稚児達は無遠慮にジロジロと柚葉の顔を毎日好奇心剥き出しにして見る。別に危害を加えられないので余り気にしていないのだが、中には自分に何かとつっかかってくる連中がいる。「おい、新入り、ちょっと付き合えよ。」朝の水汲みを終えた柚葉は、背後から声を掛けられて振り向いた。 そこにいたのは数人の取り巻きを引き連れた豪農の息子でこの寺の稚児、妙王丸(みょうおうまる)だ。妙王丸はいままでこの寺で幅を利かせていたが、柚葉が来てからは寺の参拝客や僧達、この寺 付近の住民達が皆柚葉のことばかり気にかけるので柚葉に対して嫉妬と敵意を微塵(みじん)も隠そうともしなかった。「何の御用でしょうか?」「少しは俺達と遊ぼうぜ。下働きなんかして面白くないだろ、翠蘭(すいらん)?」「・・せっかくのお誘いですが、お断りいたします。」慇懃無礼(いんぎんぶれい)に柚葉はそう言うと、妙王丸の傍を通り過ぎた。寺の生活に漸く馴染み始めたばかりで、あまり厄介事を起こしたくはない。「京から陰陽師が来るんだってさ。何でも恋人の喪に服しにここに来るんだって。」「へえ、こんな寺に来るなんて・・京には山ほど寺があるっていうのに。」「変わり者だよなぁ、その陰陽師。」妙王丸達の会話を聞きながら、柚葉は有人の顔を脳裏に浮かべた。彼がここに来る。 近江で兄と再会した時、有人と世話になった乳母以外には自分は死んだと伝えてくれと彼に頼み、この寺の住所を書いた紙を数日後兄に対する深い感謝をつづった文の文末に書いて送った。こんな辺境の地から送った文が京まで届くのは数日かかると思ったが、2日も経たない内に有人がやってくるとは思いもしなかった。有人にもうすぐ会えると改めて感じた柚葉は、仕事をしながら有人の到着を今か今かと待っていた。1日の仕事を終えた柚葉は床に入ろうと厨を出て宿坊へと向かおうとしたとき、馬の嘶きが聞こえた。空耳かと思って宿坊に入ろうとした柚葉を、誰かが後ろから抱き締めた。「柚葉さん・・会いたかった・・」耳元で自分に甘く囁く声は、紛れもなく有人のものだった。「有・・人・・様・・」柚葉はゆっくりと後ろを振り向くと、そこには愛しい人の笑顔があった。「やっと・・会えましたね・・」有人は柚葉の顎を優しく掴むと、そっとそれを上に向け、唇を重ねた。温かくて優しい体温に包まれ、柚葉は思わず涙を流した。「どうして、泣いていらっしゃるのですか?やっと会えたというのに・・」有人はそう言って柚葉の涙を手の甲で優しく拭った。「嬉しくて・・あなたとやっと会えて・・」「可愛い人だ。」有人は柚葉に微笑んで再び唇を重ねてきた。柚葉はそれに応えて、2人は互いの唇を貪り合った。そんな恋人達を、優しく月が照らした。にほんブログ村
2011年07月24日
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「陰陽寮を辞めるって・・本当ですか、兄上?」麗景殿を出た有人が陰陽寮へと向かうと、弟が駆け寄ってきて心配そうな顔で有人を見た。「本当だ。わたしはもう、ここにいる意味はない。」「でも・・」頼人は何か言いたそうだったが、彼は黙って有人の背中を見送った。「・・そうか、陰陽寮を辞めるのか。これからどうするつもりだ?」そう言って里海は部下を見た。「ええ・・愛しい人の喪に服したいので、しばらく京を離れようと思います。」「柚葉様のことは、残念だった。宮中からあの方が消えてから、後宮はもとより宮中では目先の利益しか考えぬ連中が蔓延ってしまった・・それも時代の流れと言えば仕方がないな・・」「真正直な人間が生きていくのには、辛い時代になりつつありませんでしたから・・」有人はそう呟いて扇を閉じた。 その頃、京から少し離れた寺で、水干姿の柚葉は厨(くりゃ)で独楽(こま)鼠(ねずみ)のように働いていた。「こちらのお膳、あっちにお願いね。」「はい!」柚葉は額の汗を拭いながら、女の手から膳を受け取った。 近江を出た柚葉は一緒に来ていた公達と数日前この寺に入り、公達は柚葉を稚児として寺に入れてくれるようお願いし、寺の門主である覚鶯(かくおう)が柚葉の後見人となった。公達がてっきり一緒に寺に居てくれるものだと思っていたが、彼は家族の元へと帰っていった。 柚葉が世話になっている寺は、都にある清水寺や醍醐寺のような大規模な寺ではなく、山寺に少し毛が生えた程度のものなので、下働きの数が少なく、厨の仕事を稚児がしなければならないほど、この寺の人手不足は深刻だった。 この寺では新入りの稚児は厨(くりゃ)仕事や清掃などのきつい仕事が当てられ、夜明け前に起きて夜更け近くに寝るという生活が柚葉を待っていた。いままで都の貴族の姫君として何不自由ない生活を送り、日がな筝を奏でては四季を愛でていた優雅な日々と寺の生活とでは天と地との違いがある。だが過ぎ去った日々のことを思い出してはそれに縋るつもりは、柚葉にはなかった。 姫君として生きていた時は何もかもが恵まれていたが、決して外には出られず、虜囚のような生活を送っていた。 宮中での生活は邸での生活より少し自由があったが、女達の欲望が渦巻く伏魔殿などには決して戻りたくないし、1日中身体を動かして過去の思い出に浸る暇などない今の生活の方が、柚葉にとっては楽しい。やっと名家の姫君という偽りの肩書きと性別という足枷が外れた柚葉は、今日も額の汗を拭いながら厨仕事に精を出した。力仕事で痛んだ腰を擦りながら、柚葉は自分の寝床へと倒れ込んだ。 宮中や邸にいた時は少し不眠症に悩まされ、時折熟睡しても悪夢にうなされる日々を送っていたのに、今ではそれがない。やはり何も考える暇がない程忙しいと、悪夢を見ることもなくなるんだろうかと思いながら、柚葉はゆっくりと目を閉じた。“母様、父様はいつ来るの?”“早く父様に会いたいよ。”胎内に宿っている二つの命が、外に出たいというように内側から柚葉の腹を強く蹴った。(もうすぐ会えるよ・・会えるから、少し待っていてくれ。)柚葉は愛おしそうに下腹を撫でた。「もうすぐ、会える・・」京を出て馬を走らせていた有人は、そう呟いて遠くに見える寺を見つめた。あそこに、愛しい人がいる。有人は柚葉の笑顔を思い描いて、馬の横腹を蹴った。にほんブログ村
2011年07月24日
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「柚葉が、死んだですって?」彩加はそう言って、自分に仕えている女房を見た。「はい・・なんでも、東国の村で流行病に罹(かか)って亡くなられたとか・・」「そう・・さがっていいわ。」女房が下がっていくのを確かめた彩加は、口元に歪んだ笑みを浮かべた。「やったわ・・遂に、あの女が死んだわ・・」 自分と同時期に入内するなり、たちまち帝の御心を奪い、後宮中の嫉妬と憎悪を全身に集めた美しい右大臣家の姫。あの絹糸のような美しい金髪も、夏の青空のような透き通った蒼い瞳も、雪のように白い肌も二度と見られなくなると思うと彩加は急に柚葉の死が嬉しくなった。柚葉が死ねば、やがて後宮は自分の天下となる。 その日まで、親王様のお世話をして、桐壷女御様に気に入らなければ―偽りの勝利を手にした彩加はそう思いながら、軽く衣擦れの音を立てて桐壷女御の元へと向かった。「彩加、柚葉のことはもう聞いていて?」桐壷女御(きりつぼのにょうご)・爵子(たかこ)はそう言って次期帝となる親王をあやしながら彩加を見た。「ええ。さっき女房から聞きましたの・・東国の、それも小さな村で誰にも看取られずに死んでいったなんて、何だか柚葉様が可哀想で・・」「あなたは確か、柚葉と同時期に入内して、共に弘徽殿女御様にお仕えしていたのよね。友が急に姿を消して亡くなるなんて、あなたにとっては辛いことよね・・」美人だが世間知らずで人がいい爵子はまんまと彩加の嘘泣きに騙され、彼女を慰めるかのように優しく彼女の肩に触れた。「ええ、女御様・・」彩加は爵子の肩に顔を埋めながら、邪悪な笑みを浮かべた。「彩加からの知らせはまだか?」 その頃麗景殿では、主の絢子が自分の忠実な僕である彩加からの連絡がないことに苛立っていた。「いえ・・ですが、彩加様は最近桐壷女御様にお仕えしているとお聞きしましたが・・」「桐壷女御様に?それはまことか?」「はい・・最近では、ご自分で親王様のお世話をなさるほどでして・・」(彩加め、わらわを裏切りよったな・・)絢子は飼い犬に手を噛まれた悔しさと怒りで、美しい檜(ひ)扇(おうぎ)を華奢(きゃしゃ)な掌で握り潰した。「柚葉は死んだから、あとはあの彩加を始末すればよい。主が凋落(ちょうらく)すると知ってころころと心を替える女子など、後宮には不要じゃ。」「女御様・・もしや・・」「その、“もしや”じゃ。柚葉が死んで有頂天になっておる彩加よ、偽りの勝利をとくと味わうがいい・・真の勝者は、このわらわじゃ!」絢子は美しい顔を醜く歪ませ、高笑いをした。「女御様、土御門様がお見えにございます。」「あの陰陽師がわらわに何の用じゃ?」「それが何もおっしゃらないのです。ただ、女御様にお会いしたいと。」「許嫁が死んだことをわらわの前で泣きながらその思い出に浸るつもりか・・まぁ、それはそれで見ていて面白い。」絢子はそう言って女御に有人を部屋へ入れるように手で合図した。「失礼いたします、女御様。」御簾越しに有人は絢子に向かって頭を下げた。「久しいの、有人。柚葉のことは残念じゃったのぉ。わらわもあの者が大層気に入っておった。今日はわらわと柚葉の思い出を語らいたいがために来たのであろう?」絢子は一端言葉を切り、有人の反応を待った。だが有人が発した言葉は、彼女が予想していたものとは違っていた。「女御様、わたくしは陰陽寮(おんみょうりょう)を辞めたいと思います。」「陰陽寮を、辞めるだと?何故そんなことを陰陽頭ではなく、わらわにそんなことを言うのじゃ?」「さぁ・・せめて少しお世話になりました女御様にはご挨拶をと思いまして。」有人はそう言って頭を下げ、部屋を出て行った。(解せぬな・・まぁ、あの忌々しい陰陽師が宮中にいなくなると思えばせいせいするわ。) 絢子もまた、偽りの勝利を手にして悦に入っていた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「もうすぐですよ。」伊豆の漁村を出て半年の歳月が経ち、柚葉と公達は近江国に着いた。「長かったですね、ここまで・・」「ええ・・」柚葉はそう言って、少し膨らんだ下腹を優しく撫でた。そこには有人との愛の結晶が宿っている。もうすぐ、彼に会える。「柚葉様?」隣にいた公達が、怪訝そうな顔をして柚葉を見た。「何でもありません。参りましょうか。」美しい金髪をなびかせ、柚葉は馬首を巡らせ、一路京へと向かった。「もう、夏か・・」頼篤はそう言いながら溜息を吐いた。最愛の妹・柚葉が麗景殿で謎の失踪を遂げてからもう半年になる。 未だ柚葉の消息は掴めず、両親は柚葉の生存を半ば諦めていた。いや、2人は柚葉の死を望んでいた。柚葉は彼らにとっては一族の厄介者だったから。だが頼篤だけは、柚葉の生存を信じていた。一時は柚葉に対して強く執着して、彼女に酷い事をした。その事を頼篤は激しく後悔している。もう2度と自分の元に柚葉が戻ってこなくても、柚葉には自分がした事を謝りたいと彼は思っていた。(柚葉・・お前は今、どこにいるんだ?)「頼篤、どうした?浮かない顔だな。」隣で馬を走らせている友人がそう言って頼篤の顔を覗き込んだ。「いや・・妹のことを思い出してな・・」「柚葉様のことを、まだ諦めていないんだな、お前。」「ああ、父上や母上はもう諦めているけれど、わたしは諦められな・・」頼篤が言葉を継ごうとしたとき、美しい金色の髪が彼の前を横切った。金色の髪。あの美しい髪を持っている者は、頼篤は1人しか知らなかった。「済まない、先に行っている。」(柚葉、生きていたのか・・) 頼篤より遥か先を行く黒馬に乗っている水干姿の少年の背格好は、明らかに柚葉に似ていた。他人の空似かもしれないー頼篤がそう思いながらも黒馬を追っていると、突然馬上の少年が後ろを振り向いた。「兄上・・」柚葉は、思いもよらぬ場所で兄と再会したことに驚いていた。「柚葉、生きていたのか・・」頼篤はそう言って馬から降りて柚葉の元へと駆け寄った。「少し、話さないか?時間は取らせぬ。」 柚葉は頼篤の言葉に静かに頷き、2人は琵琶湖が少し見渡せるところへと馬を停めて並んで歩いた。「兄上、勝手に姿を消してしまって申し訳ありません・・」「何を言う、こうしてお前が生きていることを知っただけでもわたしは天にも昇る気持ちなのだ。」頼篤は柚葉を抱き締めながら言った。「兄上、みんなには・・有人様と綏那以外には、わたしは死んだことにしてください。」「何を・・何を言っている?」「勝手なことを言っていることは重々に承知しております、兄上。ですがもう疲れたのです、姫として生きることに・・男でありながら性を偽り続ける人生に・・お願いです、わたしのことを見逃して下さいませ。」「柚葉・・」やっと柚葉に会えたのに、失ってしまうのかと思うと、頼篤の胸は張り裂けんばかりに痛んだ。出来ることなら、柚葉の手を離したくなかった。だが、頼篤はそっと、柚葉の手を離した。「・・行くがいい、柚葉。」「ありがとうございます、兄上・・」柚葉は涙を堪えながら、最愛の兄に背を向けて歩き出した。「愛していた、柚葉・・この世の誰よりも・・狂おしいほどに・・」 次第に小さくなっていく華奢な柚葉の背中を見送りながら、頼篤はそう呟いて嗚咽を漏らした。 黄昏に染まった湖面は、まるで頼篤の心が血を流しているかのようだった。にほんブログ村
2011年07月24日
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柚葉は京から遠く離れた東国の寂(さび)れた村長の邸で、新しい命の処置について悩んでいた。男である自分が、まさか子を宿すなんて思いもしなかったので、妊娠は想定外の出来事だった。だが、今自分が宿している腹の子の父親は、間違いなく愛しい人―有人なのだ。愛しい人の子―たとえそれが血に飢えた化け物であっても、柚葉は産みたいと思っていた。 だが、胎内にいる双子の声を聞いてしまった時、もしこの子達がこの世に生を享けたら人間達を虐殺してしまうのではないかと恐れていた。産むか、殺すか。そのどちらかの選択肢をまだ、柚葉は選べないでいた。「どうされたのですか?」 ふと顔を上げると、東下りしたものの、京に帰れないと宴で嘆いていた公達が自分を心配そうに見つめていた。「あなたは確か、あの時の・・」「京に帰りたいのですね・・わたしもどうしてあんな馬鹿な事を思いついてこうしてこんな所に来てしまったのだろうと、後悔しています。」公達はそう言って月を仰ぎ見て溜息を吐いた。そしてじっと柚葉を見つめて、彼の耳元で囁いた。「一緒に京へ帰りませんか?」「京へ・・あなたとともに?」柚葉はじっと公達を見た。この男を完全に信用していいのだろうか。彼と会話を交わしたのは数える程度で、互いに顔を見ることもなかった。(俺は、こいつを信じていいのか?もしかしたら、あの女が・・)村長の妾が嫉妬のあまり自分を殺そうとしたことを思い出した。あの時彼女は京へ連れて行くと嘘を吐き、人気のない山中で柚葉を夜盗の餌食にしようとしたのだ。京に戻りたいのはやまやまだが、碌に顔を合わさず、会話もしていない相手に自分の命を託すことはできない。“大丈夫だよ、母様。そいつは信用できるよ。”脳内に腹の子の声が直接響いた。“こいつ母様のこと好きだもの、母様を殺したりなんかしないよ。一緒に京に帰って父様に会わしてよ。” 目の前にいる男のことを完全に信用していいのかどうかはまだわからないが、ここから抜け出して京まで彼と行くことを、柚葉は決めた。ここにいてはちっとも気が休まらないし、あの妾は柚葉を殺すことをまだ諦めてはいない。「連れて行ってくださいませ、わたくしを京へ。」「わかりました。では今着ている衣を脱いで、これにお着替え下さい。」そう言って公達が差し出したのは、浅葱色の水干だった。「女物よりも男物の方が多少動きやすいし、あなたは名家の姫君として顔が知られているので男装すればバレないでしょう。」「ありがとうございます・・」 柚葉は公達から水干を受け取ってそれに着替えようとしたが、初めて男物の衣を着るので着方がわからなかったので、公達に着替えを手伝ってもらった。なんとか姫君から少年の姿へと変身したが、腰まである金髪は流したままだ。柚葉は懐剣に手を伸ばし、躊躇(ためらい)なく波打つ金髪を切った。腰まであった金髪が背中までの長さとなり、柚葉はそれを一纏めに元結(もとゆい)で括った。「さぁ、急ぎましょう。夜明けがもうすぐ近い。」公達と柚葉は村長の邸から馬に乗り、村を後にした。目指すは家族や恋人が待つ京である。(待っていて下さい有人様・・必ずあなたの元へ辿り着いてみせます・・)柚葉はそう思いながら、軽くなった髪に触れた。髪を切った瞬間、今まで抱いていたしがらみから自由になったような気がした。“姫”としての自分はもう死に、これからは普通の少年として生きるのだ。たとえ、腹に子を宿していても。公達と柚葉が乗った馬は、朝靄の中蹄の音を響かせながら消えていった。 その頃有人は帰りの牛車の中で深い溜息を吐いていた。原因は言うまでもなく、あの若君である。(あいつは一体、何を考えているんだ・・)有人は眉間を揉みながら、更に深い溜息を吐いた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「仲良くしたいですと?それは無理なお話ですな。昨夜のあなたの態度を見る限りね。」有人は国葦を睨みつけながら言った。「おや、わたしは昨夜あなたに礼を尽くしたと思っておりましたが・・」「仕事がありますのでこれで失礼を。」有人はもうそれ以上国葦の顔が見たくなくて、彼に背を向けて歩き始めた。「君の兄上は気難しい御方のようだね。君とは何かと話が合うのに。」国葦は溜息を吐きながら頼人を見た。「すいません・・兄上はどうやら国葦様のことがあんまり気に入らないようでして・・」頼人はそう言って済まなそうに俯いた。「君が謝ることはないんだよ。これはわたしと有人殿との問題だからね。」「はい・・」肩を落としながら職場へと向かう頼人の背中を見送りながら、聡経は呆れたように国葦を見た。「お前さぁ・・ここにはもう出入りしない方がいいんじゃないか?有人様とは絶対に仲良くなれないぞ。」「そうかな?わたしは彼と仲良くなれると信じているんだが。」(何も言わない方がいいな・・どうせ言ったって聞きやしないし・・)呑気すぎる親友を、聡経は冷めた目で見ていた。いつも親友の尻拭いをしてきたが、もううんざりだ。(俺はもう限界だ、国葦・・だからもうこれ以上面倒起こさないでくれよ。)聡経は溜息をつきながら、職場へと向かった。頼人と聡経が職場へと戻ると、そこには有人がしかめっ面で仕事をしていた。(兄上があんな状態の時は近づかない方がいいな・・)頼人は気まずそうに自分の持ち場へと戻っていった。「有人様、先ほどは友人が失礼を・・」「失礼?ああ、わたしはもう気にしてないから、君が気に病むことじゃないぞ。」「ですが・・」「わたしのことなど気にせず、仕事に戻りなさい。」そう言った有人の目は氷のように冷たかった。「お前の兄貴、相当怒ってるぞ・・」聡経は隣に座っている頼人に話しかけた。「放っておけばいいよ。兄上は機嫌が悪いといつもああだから。」「俺なんか責任感じちゃうんだよ・・あいつは失礼なこと言ってもすぐにそれを忘れるからさ、たぶんあいつ絶対有人様と仲良くなれると思ってるんだよね。」「それは、無理かも・・」そう言って頼人はしかめっ面の兄をチラリと見た。これからひと波乱起きそうな予感がした。有人はなるべくあの傲慢な男の顔を脳内から締め出して仕事をしていたが、時折昨夜のことを思い出してしまい、そのたびにイライラする始末だった。(あの男、今度会ったらタダじゃおかない・・向こうはわたしと友人になりたいと思っているようだが、あんな奴と友人になるなんて真っ平だ・・)宮中で権勢を振るう大臣の息子と、陰陽道(おんみょうどう)の大家(たいか)である若君―地位と権力を生まれながらにして持っているこの2人は、出逢ってから数日も経たぬうちに相容れぬ仲になってしまった。その原因は昨夜の国葦の発言にあるのだが、当の本人は忘れてしまったので、これからこの2人が仲良くなることはないだろう。仕事が終わった有人は、桐壷女御に招待され、桐壷で開かれる宴に出席した。桐壷では弘徽殿女御が命と引き換えにこの世に産み出した親王の無病息災の祈祷に何度か行っていたため、桐壷の者達とは顔見知りになっていた。「有人様、いらしてくださったのね!」 有人の姿を見つけるなり、彩加が興奮して彼の方へと駆け寄ってきた。彼女はほんの少し前まで麗景殿女御に仕えていたが、主人が帝の寵愛を得ないとわかると主人を桐壷女御に乗り換えたのだ。いつも自分の損得中心に世界を回っている彩加にとって、そんなことなど当たり前のことだった。「彩加殿、久しぶりです・・」彩加の熱烈な歓迎を受けて若干引き気味の有人を無視して、彩加は彼の手を掴んだ。「兄を紹介しますわ。兄様、どこにいらっしゃるの?」「わたしはここだよ、彩加。」月明かりが傲慢で鼻もちならない美しい青年貴族の顔を仄かに照らした。頼人の不安は、的中したのである。にほんブログ村
2011年07月24日
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「傲慢な方ですね、あなたという方は。柚葉様と出逢ったのは自分だから彼女を妻にするのが当然だというお考えの持ち主だとは、正直思ってもみませんでしたよ。」重苦しい沈黙が部屋を包む中、最初に口火を切ったのは有人の方だった。「あなたのお父上と柚葉様の父君は犬猿の仲でいらっしゃる筈。柚葉様との結婚をお父上が簡単に許す筈がないでしょう?」「そのことについてはご心配ありませんよ。父も承諾してくださいました。但し、有人殿が諦めたらわたしと柚葉様との結婚を認めるという条件付きでね。」(父子共々、策士だな・・わたしがここで柚葉さんを諦めると言わなければ、わたしを宮中から追い出すのも厭わないというのか・・)有人はこの澄ました顔をしている公達の横顔に唾を吐いてやりたいと思ったが、それをしたら相手の思うつぼだと考え、ぐっと怒りを抑えた。「そこまで柚葉様のことをお好きならば、彼女のところに通ったらいかがです?」「何故わたしがそんな厚かましい真似をしなければならないのです?仮にも許嫁がおられる方のところへ通うなどと・・わたしは柚葉様のお姿を垣間見るだけでも満足ですのに。」(ふん、白々しいことを。柚葉さんに文を送ったことをわたしが知らないとでも思ったのか?)「それにしても、柚葉様の消息がまだ掴まれておられないとかで・・愛する人が今何処に居るのかさえわからないだなんて・・心中をお察しいたしますよ。」「それはありがとうございます。」いい加減にしろと怒鳴りたい気持ちを抑え、有人はそう言って国葦に微笑んだ。「それにしても有人殿の陰陽師としての才能は都一だとお聞きいたしましたが、愛する人の消息となると腕が鈍るようですね。」国葦は最後に遠回しに嫌味を言って、父に挨拶をして寝殿を出て行った。「何なのです、あの態度は?無礼にもほどがありますよ。名家の若君であることを鼻にかけて・・傲慢かつ嫌味な男ですね。」「言うな、お前は。」康人はそう言って呆れたように有人を見た。「言いたいことは言いますよ。わたしはあの男は好きません。完全にわたし達のことを見下しているようなあの態度にあの言動・・まるで虎の威を借りて威張る狐のようではありませんか。」初めて会った時からいけ好かない奴だと思っていたが、今回のことで有人は国葦に親近感や好感を抱くどころか、彼に対する敵愾心の方が以前にも増して強くなっていった。父親があんな傲慢な男なのだから、息子も彼の性格を受け継いでいるに違いないと思った有人の予想は完全に当たった。柚葉のことは、心から愛している。もし自分と柚葉の命どちらかを差し出せと言われたら、迷わずに有人は自分の命を差し出すことも厭わないくらい、彼女のことを愛している。だが国葦は柚葉とただ単に有人よりも先に出逢ったから、彼女を自分の妻にするのは当然だという傲慢な考えで柚葉と結婚したいらしい。まるで、幼い子どものようではないかー有人はそう思いながら自分の部屋で休んだ。翌朝、有人が出仕すると、弟が同僚の陰陽生と話していた。ちらりとその陰陽生の横顔を盗み見ると、彼は国葦といつも一緒にいる陰陽生に似ていた。「あ、兄上。」弟はそう言って有人に顔を向けた。と同時にその陰陽生も有人の顔を見て、一瞬気まずそうな表情を浮かべた。「確か君は、藤原の若君様といつも一緒にいる・・」「槇浦聡経(まきのさとつね)です、有人様。昨夜はわたしの親友が失礼なことを言ったそうで・・」「君が謝ることはない。謝るべきなのは、君の親友だ。まぁ、あの若君様が謝るとは思っていないがね。」有人はそう言って笑ったが、目は笑っていなかった。「おやおや、こんなところで会うとは、奇遇ですね。」神経を逆撫でするような声がして有人達が振り向くと、国葦が彼らの方へと優雅に歩いて行くところだった。「そうですね。わたしはあなたに決して会いたくないと思っていたのに。昨夜のことをあなたの所為で思い出してしまって胸糞悪くなってしまいました。」「胸糞悪いなんて、下品なことをおっしゃる。わたしはあなたとは仲良くしたいと思っておりますのに。」有人と国葦との間に、静かな火花が散った。にほんブログ村
2011年07月24日
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(俺が・・有人様の子を・・)柚葉はそっと下腹を撫でた。ここに、自分と有人との子が宿っている。 本来男である筈の自分が、人非ざる存在である故に、子を宿したという事実に、柚葉はまだ実感できないでいた。これからどうすればよいのか・・。子を産むべきか、それとも子を産まざるべきか・・柚葉は眉間を揉みながら苦悩していた。(どうすればいいんだ・・俺は、どうすれば・・)脇息に頭を凭れ、溜息を吐く柚葉の姿を、あの公達が見つめていた。その頃、都の土御門邸では、有人が和琴を弾きながら柚葉のことを想っていた。柚葉が姿を消してからひと月余り、柚葉の消息は未だわからない。(柚葉さん、あなたは今どこで何をしているのですか?元気であればいいのですが・・)物思いに耽りながら和琴を弾いていると、家人が部屋に入ってきた。「有人様、お客様が。」「客だと?こんな夜更けにか?」「それが・・藤原家の若君様で・・」「藤原の若君様だと?」有人の脳裏に、あの遊び人の公達の姿が浮かんだ。「若君様がわたしに何の用だ?しかもこんな夜更けに?」「それは・・御本人様に聞いていただけたらよろしいかと?」家人はそう言って急に口ごもってしまった。「若君様はこちらにいらっしゃるのか?」「はい・・お館様が寝殿へお通ししておりまして・・」有人は溜息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。藤原家の若君は苦手だが、だからと言って宮中の実力者の息子と会わないわけにはいかない。「すぐそちらへ行くと父上に伝えよ。」「はい・・」家人は慌てて廊下へと下がった。寝殿へ有人が入ると、そこには若君に媚を売る父と、彼の歓待を満面の笑みを浮かべながら受ける若君こと藤原国葦の姿があった。「父上、遅くなりました。」「構わぬ、こちらへ来い。」有人は父の隣に腰を下ろした。「こんな夜更けに何かご用ですか、国葦殿?」慇懃無礼な口調で有人はそう言って国葦を見た。「ただ、貴殿とお話がしたかったので、伺ったまでです。」「そうですか・・あなたにとって、相手の都合は関係ないというわけですね。」国葦の非常識な行動に遠回しに非難した有人の言葉は、本人には届かないらしく、彼は眉ひとつ動かさなかった。それどころか、父から受け取った盃の酒を一気に飲み干していた。(甘やかされた名家の若君と噂されていたが、このような男だとは・・藤原家も苦労するな・・)有人は溜息を吐きながら、空に浮かぶ月を眺めた。「お話とは、どんなものでしょうか?」「実は、大変言いづらいことなのですが・・柚葉姫様との縁談を、白紙に戻してはいただけないでしょうか?」有人は国葦が何を言ったのかが、一瞬解らなかった。「それは・・どういう意味でしょうか?」「言葉通りです。」国葦はそう言って優雅に扇を開いて、それを顔の前で扇いだ。「それはできない相談ですね。柚葉様とわたしとの縁談は両家の承諾済みで、わたしは何度も柚葉様の元に通っておりますけど、それでもこの縁談を白紙に戻せとおっしゃるのですか?」挑むように国葦を睨むと、彼も瞳の奥に怒りを宿らせながらきっと自分を睨みかえしてきた。「わたしが最初に柚葉姫様を見染めたのです。ですから彼女はわたしのものになるのが当然かと。」 なんという傲慢な男だ―有人はそう思いながら、国葦から決して目を逸らそうとはしなかった。にほんブログ村
2011年07月24日
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京から遠く離れた漁村にある村長の邸に与えられた部屋で、柚葉は今日も筝を奏でていた。郷愁の音色が今日も物悲しく漁村に響いた。「ほらまた聞こえるよ・・」「鬼姫様の弾く筝が・・」「あれを聞いていると命を奪われてしまうよ・・」村人たちはそう言い合いながら今日も仕事をしていた。やがて村にはある噂が流れるようになった。都から来た鬼姫が弾く筝を聞くと、誰かが死ぬという噂が。実際、村長の邸で家人が謎の死を遂げ、その遺体が邸の裏門から運ばれた事が何度かあった。 だが彼らの死因は過労と栄養失調がほとんどで、決して柚葉が彼らを殺したわけではなかったが、悪い噂はいつの間にか村中に広まり、村長の邸には誰も寄り付かなくなってしまった。「全く、あの鬼姫が来てからというものの、わしはまるで村の疫病神扱いだ。早く鬼姫に都に戻ってもらわねばな・・」「戻ってもらうと言われましても、ここから京は遠いですわ。でもあの姫様をこれ以上ここに置いておくわけにはいかないし・・」伽耶はそう言って唸った。都から来た鬼姫は、田舎育ちの自分にはない洗練された美しさがあった。その美しさに伽耶は嫉妬していた。いつか村長の心が鬼姫に移るのではないかと伽耶は不安に駆られていた。(人知れない山里にでも捨ててしまおうかしら・・)「いい考えが浮かびましたわ、あなた。」伽耶は村長にしなだれかかり、彼の耳元で何かを囁いた。その夜。「あら、まだ起きていたのね。」なかなか眠れずにいた柚葉は月を見ながら筝を爪弾こうとしたとき、部屋に村長の妾が入ってきた。「あなたは・・」「初めまして、鬼姫様。伽耶と申します。」柚葉に対する敵意と嫉妬を剥き出しにして、伽耶はそう言って柚葉に微笑んだ。「京が恋しいのでしょう?だったらわたしが京へ帰してさしあげましょうか?」こんな夜遅くに、しかも若い女1人が自分を京まで連れて行けるのだろうかー柚葉はそう思いながら夜の山道を歩いた。漆黒の闇の先を、伽耶が持つ篝火が仄かに照らす。「少しここで待っていて頂戴な。」伽耶はそう言って闇の中へと消えた。柚葉はしばらく彼女を待ったが、彼女は戻ってこない。(一体彼女はどこへ・・)柚葉は笠衣を被り直しながら、伽耶の姿を探した。すると向こうから、炎が見えた。伽耶が戻って来たのだろうか?柚葉が暗闇の中を目を凝らして見ていると、炎の数が前よりも増えているような気がした。そしてその炎は、徐々に自分の元に近づいてくる。炎から逃げようとしたとき、それが柚葉の顔を照らした。「これが噂の鬼姫か?」篝火を持っていたのは、伽耶ではなく、夜盗たちだった。夜盗たちを見た瞬間、柚葉はやっと伽耶に騙されたことに気づいた。「綺麗な顔をしているな、これなら味も良さそうだ。」舌なめずりしながら、頭と思しき男はいやらしい目つきで柚葉を見た。「来るな!」柚葉は懐剣を抜き、頭に突きつけた。「そんなおもちゃで俺に敵うわけがなかろう!」頭はそう言って柚葉の手から懐剣を弾き飛ばし、その身体を押し倒した。“殺せ、殺してしまえ!”鬼としての自分が本能に呼びかける。その声を制止する術は、柚葉にはなかった。気がつくと、柚葉は全身返り血を浴びていた。辺りには臓腑を引き裂かれた夜盗たちの死体が転がっていた。(俺は・・はじめて人を殺した・・俺は、本能に逆らえなかった・・)柚葉は呆然として、その場に蹲った。その時、微かに心音が聞こえた。(どこから・・?)気の所為かと思いながら、ゆっくり立ち上がろうとした時、また心音が聞こえた。“母様、ここだよ。”“僕たち、ここにいるよ。”今度は声が聞こえた。柚葉は下腹を見た。(まさか、そんな・・そんなことが、ある筈が・・)脳裏に、有人と愛し合った夜のことが浮かんだ。男同士で愛し合って子を宿すなんてありえない。(俺が子を宿すなんて・・そんなこと、あるわけがない・・あるわけが・・)予期せぬ出来事に動揺していると、誰かが柚葉の肩を叩いた。「やはり子を宿していたか。それにしても派手に殺したもんだねぇ~」夢の中に出てきた老婆がそう言って柚葉を見て笑った。「お前は一体何者だ!?」柚葉はそう言って老婆を睨んだ。「自己紹介が遅れたね。あたしは葆(ほう)。どうやらお前の腹に宿っているのは強力な霊力を持つ双子のようだね。人間どもに狩られないように気をつけな。」けたけたと笑いながら老婆はあっという間に闇の中に消えていった。「いったい何なんだ、あの婆・・」老婆の消えていった方向を見ながら、柚葉はそう呟いて下腹を撫でた。するとふたつの鼓動が下腹から鳴った。“母様、やっと僕達に気づいてくれた。”“早く外に出たいなぁ。”無邪気な双子の声が、柚葉の脳に直接響いてくる。“母様、僕達を守ってくれるよね?”“守ってくれるさ。だって母様は鬼族の長の血をひいているし、父様は都一の陰陽師なんだもの。人間たちなんか簡単に2人でやっつけちゃうよ。”“やっつけるなんてつまんないよ。人間たちは皆殺しにしちゃおうよ。”“そうだよ、皆殺しにしてしまえばいいんだ。”(俺はこの子達を産まない方がいいのかもしれない・・) 人間を皆殺しにすることを、まるで遊びのように無邪気に言う双子の声を聞いて、柚葉はこの子達をどうすればいいのかわからなかった。にほんブログ村
2011年07月24日
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弘徽殿(こきでん)の火事から数ヶ月後、弘徽殿女御・總子(さとこ)は、元気な男児を出産した。「親王(しんのう)様でございますよ、女御様!」「そうか・・それはよかった・・」東宮誕生の喜びに浮き立つ女房達の声を聞きながら、總子は静かに息を引き取った。「女御様、しっかりなされませ、女御様!」「弘徽殿女御が死んだか・・これで主上はわたくしのものとなるな。」そう言って麗景殿女御(れいけいでんのにょうご)・絢子(あやこ)はほくそ笑んだ。「女御様、親王様はどうされますか?」「それは後で考える。今は死んだ弘徽殿女御の代わりを誰が務めるかだ。まぁ、悲しみに沈んだ主上をお慰めするのはわたくしの役目だが。」(弘徽殿女御がいなくなった・・これで後宮は妾の天下じゃ!)「總子が・・死んだか・・」帝―尊仁はそう言って産まれたばかりの我が子を抱いた。「主上、親王様はいかがいたしましょうか?弘徽殿女御様の乳母様はもう年老いておられますし、新たに探すのも・・」「桐壷に、若い乳母(めのと)がいただろう?その者に親王を任せる。」「では・・桐(きり)壷(つぼの)女御(にょうご)様に、親王様を・・」「ああ。麗景殿ではこの子は歓迎されぬ身。爵子ならばこの子を我が子のように可愛がってくれることだろう。」「では、そのようにいたします。」こうして産まれたばかりの親王は、桐壷女御・爵子(たかこ)の元で育てられることとなった。「可愛い子だこと。そうは思わなくて、遥?」そう言って爵子は女房達の中に遥の姿を探した。「女御様、遥はもう・・」「ああ、そうだったわね・・いつもの癖で、つい・・。」爵子は溜息を吐いて俯いた。「・・まだ信じられないわ、あんなに明るくて優しかった子が、もういないだなんて。」脳裏に、いつも自分達を楽しませてくれた遥の姿が浮かんだ。もう二度ととあの笑顔が見られないなんて、信じられない。だが、それが現実なのだ。遥は何者かの手によって惨たらしくその命を奪われた。「あの子がいないなんて、寂しいわね・・」「女御様・・」爵子は涙を拭い、親王をあやし始めた。「柚葉は、今どこにいるのかしらね・・無事だといいけれど・・」そう言って彼女は御簾の外を見つめた。空から静かに雪が降ってきた。「親王様が桐壷女御様に・・それはまことか?」「はい。」(妾があの女に代わり、親王をお育てしようと思ったのに・・桐壷女御に先を越されてしまった!おのれ・・どうすれば・・)總子の代わりに後宮の全権を握ろうと企んでいた絢子だったが、その企みは帝の考えによって潰されてしまった。(主上、何故わたくしに親王様を託してくださらないのですか!?何故、よりにもよって桐壷女御なんかに・・許さぬ!)「彩加、何処におる、彩加!?」「ここにおりますわ、女御様。」彩加はそう言って絢子の前に座った。「桐壷から親王様を攫(さら)って来い。女御は殺しても構わぬ!」「本気ですか、女御様?」「ああ・・親王様は、このわたくしがお育てする!」狂気の瞳を光らせながら、絢子は口端を上げて笑った。(桐壷女御などに、親王様を渡してなるものか!親王様はわたくしがお育てし、わたくしが国母(こくも)となるのだ!)かつて總子が抱いていた野望は、彼女亡き後、絢子へとそのまま引き継がれた。(この子はどんな大人に育つのかしら・・今から楽しみだわ・・)自分の腕の中で眠る親王を抱きながら、爵子は彼に微笑んだ。絢子の憎悪が自分達に迫るとは、知る由もなく。にほんブログ村
2011年07月24日
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柚葉は筝の前に優雅に座ったが、なかなか筝を弾く気にはなれなかった。郷愁の想いばかりが募り、宴で楽しい曲などを弾く気には全然なれなかった。「どうした、早う弾いてみせろ。」すっかり酔いが回ってしまった村長は、そう言って柚葉を睨んだ。「申し訳ございません、今は楽しい曲を弾く気分ではありません。」柚葉はそう言って村長に頭を下げた。「何だと!?田舎者だと思って馬鹿にしておるのか!」村長は柚葉にそう怒鳴って立ち上がると、柚葉の横面を張った。横面を張られた柚葉は、悲鳴を上げて床に蹲った。「何をなさるんですか、村長殿!」叡久は柚葉を抱き起こしながら、村長を睨んだ。「折角宴に招いてやっているのに、生意気な態度を取るからだ。早く弾かぬか!」俯き、屈辱に震える柚葉に、村長はその華奢な身体を扇で打ち始めた。(この男を今すぐ殺せば、どんなに気が済むか・・)都の名門貴族の“姫”として育った自分がこんな田舎者に馬鹿にされるとは。“殺してしまえばいいではないか。”もう1人の自分がそう言って柚葉の奥底に眠っている鬼の本能に呼びかける。だが、今はそんなことをしたくはない。「わかりました。」柚葉は顔をあげ、きっと村長を睨んだ。「宴に招いていただいたのも何かの御縁ですわ。」柚葉はそう言って筝の前に座り、それを爪弾いた。美しい音色に、叡久をはじめ、宴の客達は酔いしれた。しかし、村長だけは、始終不機嫌な表情を浮かべていた。筝を弾き終わった柚葉は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて村長を見た。「村長様のご希望に添えませんでしたが、ご満足いただけましたでしょうか?」その言葉を聞いた村長は憤怒の表情を浮かべて立ち上がり、部屋を出て行った。「全くなんだあの態度は、人を馬鹿にしおって!」「どうなさいました、お前様?」寝所に入った村長を、出迎えていた若い側室が迎えた。「どうもこうもないよ。都から来た姫君が宴の席で辛気臭い音色を筝で奏でて、満足していただけたでしょうか?と言って人を小馬鹿にした笑みをわしに浮かべおった!都の名門貴族の出だからと偉そうにして・・鬼姫の癖に!」「鬼姫?弘徽殿を炎上させたあの鬼姫がこの邸にいらっしゃるんですの、あなた?」若い側室―伽耶(かや)は、何かを企んだかのような笑みを浮かべた。「ああ、そうだが・・何だ、興味でもあるのか?」「いいえ。ただ、是非会ってみたいですわ、その鬼姫とやらに。」伽耶はそう言って笑った。宴が終わり、柚葉は村長に与えられた部屋で休んでいた。(いつになったら京へ戻れるのだろう・・)溜息を吐きながら、柚葉は筝を爪弾いた。同じ頃叡久は、外に出て潮風に当たりながら歩いていた。宴で一緒だった友人達は部屋で休んでしまった。(これからどうしようか・・)東下りと洒落こんでこんなところまで来たものの、旅費が尽きてしまい、京にはどうやって帰ろうかと悩んでいた。溜息を吐き、笛袋から横笛を取り出し、吹き始めた。その時、宴に出ていた姫君が奏でる筝の音色が聞こえた。その音色は宴で聞いたものと同じ、物悲しい音色だった。(あの姫様も、わたしと同じ気持ちなのだろうな・・)事情は知らないが、あの姫も自分と同じ、京を想っているのだろう。筝の音に合わせて、叡久は笛を吹いた。郷愁の音色が混ざり合い、それは潮風に乗って京に届いた。(今、筝の音が聞こえたような・・)京の土御門邸では、有人が柚葉が奏でる筝の音を聞き、御帳台から飛び起きたところだった。(気のせいか・・)再び目を閉じようと思ったが眠れず、有人は和琴を取り出し、爪弾き始めた。何処かにいる柚葉に届くように。にほんブログ村
2011年07月24日
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柚葉が行方不明となって数か月が経った。有人は式神を使って柚葉の行方を捜しているが、めぼしい手がかりはなかった。柚葉は一体どこへ消えてしまったのか、誰にもわからなかった。(誰かが柚葉さんを攫って彼女を殺したのではないか?弘徽殿女御様や柚葉さんの父君を恨んでいる者や敵対している者の仕業かもしれない・・)柚葉の父、為人は宮中で権勢を振るい、貿易業も生業にしているので何かと敵が多い。だが為人を恨んでいても、彼らの多くは為人が恐くて何も言えない。そういった者達が為人の娘である柚葉を攫って殺すなどということはする筈がない。だとすると、為人を最も憎み、彼を破滅させようとしている者の仕業に違いない。だとすると、犯人は1人しかいない。藤原種嵩。為人と反目し、犬猿の仲である左大臣。彼ならば、人を雇って柚葉を攫い、殺すことなど簡単にできよう。 そういえば彼が雇っている陰陽師―灑実が数か月前から行方不明となり、未だ消息がわからないという噂が宮中で広まっていた。数か月前といえば、柚葉が突然姿を消した時期と重なる。(彼だ、彼に違いない・・)柚葉失踪の真相を確かめる為に、有人は種嵩の元へと向かった。「灑実が行方不明だと?それは確かなのか?」「はい、お館様。何でも、柚葉様も麗景殿のご自室からお姿を消したとかで、為人が慌てふためいております。」種嵩に長年仕えてきた男がそう言って主を見た。「そうか・・早く灑実の消息を掴め。柚葉が骸となって見つかる前に。」「かしこまりました。」男は種嵩に頭を下げ、部屋を出て行った。(困ったことになった・・灑実の奴、一体どこへ行った・・)「お館様、有人様がお館様にお会いしたいと申しております。」「有人殿が?」柚葉の許嫁である有人が、自分に何の用だろうか。「通せ。」「かしこまりました。」部屋を出て行く家人と入れ違いに、有人が険しい表情を浮かべて部屋に入ってきた。「有人殿、わしに話とは何かな?」「柚葉さんをどこへやった?」有人はそう言って種嵩の胸倉を掴んだ。「何のことだ、わしは何も知らん!」「とぼけるのは止せ!灑実に柚葉を攫い、殺すように命じたのだろう、違うか!?」「離さぬか、無礼者!」種嵩は有人を突き飛ばした。彼は茹で蛸のように顔を真っ赤にさせ、血走った眼で有人を睨んだ。「わしが貴様の許嫁を攫って殺すよう、灑実に命じただと?寝言も休み休み言ったらどうだ!?わしは確かに腹黒い男だが、そんな畜生にも劣る真似はせんわ!」「・・失礼いたします。」(種嵩は柚葉さんの失踪には関わってはいない・・だとしたら誰が?誰が柚葉さんを麗景殿から攫ったのだ?)やっと立てた仮説が立証できなかった有人は、牛車の中でまた柚葉を攫った犯人を考え始めたが、弘徽殿女御以外、誰も思い浮かばない。だが妊娠中の弘徽殿女御が、悪事に手を染めるとは考えられない。彼女はかつて柚葉を目の敵にしていたが、今は帝の御子を宿して柚葉への憎しみは消えてしまったようだ。(一体どうすればいいんだ・・どうすれば・・)柚葉を捜したいが、彼女を攫った犯人がわからない以上、手の打ちようがない。有人の中に、次第に焦りが広がっていった。にほんブログ村
2011年07月24日
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「貴様・・何を・・」 鮮血が噴き出す首から血を押さえながら、灑実は懐剣を握り締め、口元に笑みを浮かべる柚葉を見た。柚葉はもう一度懐剣を灑実めがけて振り下ろした。振り下ろす度に、柚葉は灑実への憎しみをこめた。何度も、何度も。砂浜に血が混じり、波がそれをさらっていった。柚葉は真紅の瞳で冷たくなった灑実を見下ろした。「ふふふ・・」口元を歪め、柚葉は笑い始めた。狂気の笑い声は、潮風に運ばれ、村中に響いた。「なんだ、あの笑い声は?」「不吉じゃな・・」「浜の近くに廃屋があっただろう?どうやらあそこには鬼が棲んどるらしいぞ・・」「怖いねぇ・・」村人たちはそう言い合いながら、浜辺の方を見た。浜辺では柚葉が灑実の身体を着ていた衣にくるみ、海へと流していた。(こいつなんて、魚の餌になってしまうのがお似合いだ。)潮の流れが灑実の遺体を沖の方へと流してゆくのを見ながら、柚葉はほくそ笑み、小屋の中へと入った。今夜は村長が催す宴が開かれる。遅れないようにしなければ。その夜、村長の邸で華やかな宴が開かれ、村長や隣村の有力者、そして都から来た貴族数人が来ていた。「今夜の宴には都から遥々この村に来た姫君が来られるそうだ。」村長は盃の中の酒を飲み干しながら言った。「姫君、ですか?」都から来た1人の公達(きんだち)がそう言って村長を見た。「ええ。浜辺に小屋があるでしょう?あそこには都から来た陰陽師が攫って来た姫君と住んでるらしいんですよ。その姫君とやらは宮中に災いを招き寄せる鬼姫だというのが村人たちの噂でしてね・・」村長がそう言って笑った時、御簾が乱暴に上げられ、家人に連れられて金髪蒼眼の姫君が部屋に入ってきた。「姫様を、お連れいたしました。」「そうか・・もう下がってよいぞ。」村長は気まずそうに家人を追い払い、姫君と目を合わせないようにしていた。「本日は宴にお招きいただき、ありがとうございます。」姫君はそう言って村長に頭を下げて笑ったが、蒼い瞳は冷たく、射るように彼を見ており、笑っていなかった。「紹介しよう。こちらが高司叡久(たかつかさのさとひさ)殿だ。叡久殿、こちらが山野裏為人の姫君様、柚葉様でございます。」「為人様の・・姫君様・・?」公達はそう言って姫君を見た。宮中で権勢をふるっている男の娘が何故、こんなひなびた漁村にいるのだろうー公達はそう思いながら姫君の顔を見た。「わたくしの顔に、何かついておりますか?」姫君の美しさに目を奪われていると、冷たく射るような蒼い瞳で姫君が自分を見ていた。「いいえ・・あなたがあまりにも美しいので・・」「そうですか・・」姫君はふっと笑って、公達の傍を通り過ぎた。「そなたは都では筝の名手として名高いとか・・神々をも涙するその音色を是非聞きたいものだ。」村長は家人達に目配せし、筝を部屋に運ばせた。「お招きしていただいた感謝の証として、拙いわたくしの音色をお聞かせいたしましょう。」 柚葉は衣擦れの音を優雅に響かせながら可憐な花弁が地に舞い落ちるように筝の前に腰を下ろした。にほんブログ村
2011年07月24日
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「しばらく外に出ていろ。お前の顔など見たくもない。」灑実に殴られた頬を擦りながら、柚葉は静かに小屋を出て行った。小屋を出ると、そこはどこかの漁村の近くのようだった。周りを見渡すと女達が獲れた魚を捌いている。しばらく歩いていると、村の広場のようなものが見えてきた。そこでは数人の子ども達が遊んでいた。「にいにい、待ってよ~!」「ここまでおいで~!」楽しそうにふざけ合う幼い兄弟を見ながら、柚葉は昔のことを思い出していた。(俺があいつらの年だった頃、俺もこうして兄上と遊んでいたな・・)まだ自分の出生のことについて何も知らず、無邪気に兄や妹と遊んでいた幸せな頃。だが、時はもう戻らない。柚葉は広場を後にして、海へと向かった。寄せては打つ波が、柚葉の衣と髪を濡らしたが、柚葉はそんなことは気にしなかった。(あの向こうには、京があるんだろうか?) たとえ無理だとしても泳いで京へと帰りたいーそう思いながら柚葉は海の中へ歩を進めようとした。だが、海の中に入ろうとしたとき、誰かに手を掴まれて浜に引き戻された。「こんなところで一体何をしているのですか?」明らかに都人だと思われる男が、そう言って柚葉を見つめていた。「海を、見ていたのです。」柚葉はそう言って男の手を振り払い、彼に背を向けて歩き始めた。男の視線が、小屋に入るまで纏わりついた。「あの男と一体何を話していた?」小屋に入ると、灑実がそう言って柚葉を睨んだ。「何も。」「生意気な口を利くのは慎んだ方がよいぞ。」灑実は柳眉を上げながら、柚葉の髪を乱暴に掴んだ。「お前の命は今、このわたしが握っている。お前を生かすも殺すもわたし次第。それを肝に銘じておけ。それと、今夜は村長が盛大な宴を開いてくれるそうだから、これを着ろ。」灑実は柚葉に向かって美しい衣を投げつけながら言った。「向こうには筝もあるようだから、ひとつ貰って退屈しのぎにここで弾くがいい。」灑実は何も言わず俯いている柚葉を満足そうに見ながら、小屋を出た。(どうして・・俺がこんな目に・・)灑実に京ではない遠い所に連れ去られ、いつ京に戻れるのかがわからない。何も悪いことはしていないのに、何故自分がこんな目に遭うのだろう。あの男が、灑実が憎い。あの男さえ、いなくなれば・・“あの男を喰ってしまえ。そうすればお前は自由になれるぞ。”頭の中から声が聞こえた。“お前は鬼、しかも鬼族の次期統領の血をひく高貴な鬼だ。あんな人間如きに虐げられることはない。”(人を喰らうなんて・・そんなこと、出来ない・・)“何を躊躇(ちゅうちょ)している?父と母を奪った人間どもが憎いのであろう?憎くて堪らない人間どもを傷つけてやりたいとは思わぬのか?”「俺はそんなこと・・考えたくもない・・そんなこと・・」“人を喰らうことでしか生きてゆけぬのだ、お前は。”もう1人の自分の声が頭の中で響く。血の海の中で息絶えている遥の姿が脳裏に浮かんだ。“お前は憎い相手に最愛の者を奪われた。今こそ復讐の時だ!”人間たちを殺さなくては。父と母を奪い、最愛の者を奪った憎い人間たちを、殺さなくては。俯いていた顔を、柚葉はゆっくりと上げた。いつも美しい蒼い光を放つその瞳は、狂気を孕(はら)んだ真紅に染まっていた。「皆殺しにしてやる・・俺の最愛の者を奪った人間たちを・・」小屋を出ると、柚葉は灑実を探した。彼は浜にいた。柚葉はそっと彼の背後に忍び寄り、持っていた懐剣で彼の喉笛を横一文字に切った。にほんブログ村
2011年07月24日
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柚葉は小舟に乗り、ゆっくりと運河を下っていった。橋の向こう側を見ると市場が開かれ、活気溢れた声が響く。 御所とは全く趣が違う尖塔(せんとう)や煉瓦(れんが)造りの建物がこの街の風情を出している。漕(こ)ぎ手が歌う歌は、魂を揺さぶった。「もうすぐ着きますよ。」そう言って漕ぎ手は自分に微笑んだ。宝石を散りばめた美しい衣を纏(まと)った柚葉は、ありがとうと言って漕ぎ手に微笑んだ。その首には、美しい紅玉の十字型の首飾りが下がっていた―(今のは・・)波の音で、柚葉は夢から覚めた。ゆっくりと起き上がって周りを見渡すと、小さい窓のようなものから海が見えた。 ここは麗景殿に与えられた自分の部屋でもなければ、洛中にある山野裏家にある自分の部屋でもない。一体自分は何処にいるのだろうか・・そう思っていると、誰かが小屋の中に入ってくる気配がして振り向いた。「どうやら気がつかれたようだな、柚葉殿。」「お前は・・」「やっと2人きりになれた・・」そう言って田淵ヶ浦灑実は口端を歪ませて笑った。「俺に何をする気だ!?」「それはお前次第だな。わたしを楽しませてくれるのなら、優しくしてやろう。」灑実はそっと柚葉の頬に触れようとした。だが彼の手が頬に触れる前に、柚葉が彼に唾を吐いた。「おのれ・・」怒りを露わにした灑実は、柚葉の美しい顔に向かって拳を振り上げた。鈍い音が、小屋に低く響いた。その頃麗景殿にある柚葉の部屋では、有人が床に突然蹲って苦しみ始めた。「兄上、どうなされたのですか、兄上!?」頼人は慌てふためきながら、兄の肩を揺すった。「大・・丈・・夫・・だ・・」頼人に微笑みながら、有人は意識を失った。「兄上、兄上!」脳裏に、京とは違う街の風景が浮かんできた。海に繋がっている運河の中を渡る1つの小舟。運河にかかる橋には、活気溢れる市場が開かれている。天にも届きそうになる尖塔を持つ建物が、威厳を持って聳(そび)え立っている。その建物から発せられる鐘の音を聞き、小舟に乗っていた1人の少女が、ゆっくりと振り向くー「柚・・葉・・さん・・?」「兄上、気がつかれたのですね!」ゆっくりと目を開けると、そこには涙を浮かべた弟の姿があった。「わたしは・・一体・・ここは・・」「陰陽寮ですよ、兄上。さっき麗景殿でお倒れになったので、陰陽頭様がわざわざ兄上をここにお運びになって・・」「そうか・・それよりも柚葉さんを・・彼女を探さなければ・・」起き上がろうとすると、激しい目眩が有人を襲った。「疲れが溜まっているんですよ、兄上。あまり無理なさらないでください。」「ああ、わかった・・」再び横になった有人は、夢で見た映像のことを思い出した。あれは一体、何の意味を持つのだろうか?あの少女は、柚葉に似ていた。彼女は一体何者なのだろうか?考えれば考えるほど、目眩が酷くなってゆく。有人はゆっくり目を閉じた。にほんブログ村
2011年07月24日
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「何故それをわたしに聞くのですか?」有人はそう言って灑実を睨んだ。「そんなに怖い顔をしないでくれ。ただわたしは柚葉様のお顔を見たいだけなのだ。」「その手はどうした?」生々しい火傷の痕が残る右手を見ながら、有人は灑実を見た。「事故でな・・それよりも、柚葉様の居場所は知っているのだろう?」「知っていたとしても、お前に教えるつもりはない。」有人は灑実に背を向けて、麗景殿へと戻った。 そこには頼人と何故か陰陽頭(おんみょうのかみ)の矢代里海(やしろのさとうみ)が彼の帰りを待っていた。「兄上、弘徽殿の様子はどうでしたか?」「酷いものだった・・女御様はあの火事で顔を酷く火傷して・・灑実殿は、あの火事は麗景殿の上空に集まっていた黒雲の所為だと言っていた。」「確か火事がある前に、黒雲が麗景殿を覆ってましたよね?それが何か?」「更に灑実殿は、あの火事が柚葉さんが引き起こしたものだと言った!」有人は陰陽頭の前で怒りを隠そうともせずに、柱を拳で殴りながら言った。「全く、あいつは藤原家の火事に遭って頭がおかしくなってしまったのではないか?柚葉さんが女御様憎さに弘徽殿を火事にするわけがなかろう!」「兄上、落ち着いて下さい。」頼人はそう言って兄を宥め、里海を見た。「陰陽頭様、陰陽頭様は今回の火事の原因が柚葉様の怨念によるものと思われますか?」「頼人、お前までそんなことを!」「わたしは、もっと別のものが原因だと考えておる。」いきり立つ有人を諌めながら、里海はゆっくりと口を開いた。「別のもの、と言いますと?」「最近灑実の様子がおかしい。もしかしたらあの火事は、あいつが起こしたものかもしれん。」里海の言葉に、2人は耳を疑った。「そんな、まさか・・灑実様は弘徽殿(こきでんの)女御(にょうご)様のことを日頃から快く思っていないという噂は聞いたことがありますが・・灑実様がそんなことをする筈は・・」「人の心とはわからぬもの。現に柚葉殿の兄君は、お前の兄上と柚葉殿との縁談が持ち上がったとき以来、人が変ってしまったかのように豹変してしまったではないか。鬼は結局、人の心に落ち着くのであろうな。」里海はそう言って御簾の向こうを見た。その中では、相変わらず眠り続けている柚葉がいた。その傍らには、火鶯が心配そうに我が子を見つめている。“柚葉、お前の傍にいてやれなくて済まぬ・・あの時、早まって自害しなければ・・”我が子の手を握ろうとしたとき、凄まじい殺気を感じた。「そなたが紅玉の主か・・わたしの右腕に醜い傷を残したのは!」闇の中から、男が現れた。“そなた、何者・・”間髪入れずに男は火鶯に呪をかけた。男は柚葉の首にかかっていた紅玉を紐ごと投げ捨てた。柚葉を覆っていた膜がその刹那なくなり、彼の身体は灑実の腕に抱かれていた。“柚葉をどうするつもりだ!?”「それはお前には関係のないことよ!」男はそう言って突風を起こし、闇の中へと消え去っていった。「これでお前はわたしのもの・・」灑実は柚葉の髪を愛おしそうに梳くと、口端を歪めて笑った。「何だ、今の風は!?」有人達は邪悪なものの気配を感じた。「誰か来てぇ、姫様がっ!」綏那の取り乱した声を聞いた有人達は、御簾の中へと入った。そこには、倒れた几帳と、床に転がった紅玉があるだけだった。「まさか、そんな・・」有人は恐ろしい事態が脳裏を過ぎり、床に蹲(うずくま)った。にほんブログ村
2011年07月24日
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