列伝 野坂参三(再訂)





慶応義塾大学に通う学生だった野坂は労働団体に加入し、1919年に渡英、ロシア革命よりも早い時期に日本共産黨という新しい秘密結社の党員となった。



1929年3月の「第一回野坂予審訊問調書」によると以下の通り。

「商業学校当時は人道主義的並びに国家主義的思想を持ちましたが、商業学校卒業前頃より当時の社会情勢の影響により 自由主義 的思想を持つに至り、その後慶應義塾大学卒業の頃 友愛会 に入会するに及び社会主義的思想を持つに至りましたが、大学卒業当時は『サンジカリズム』的思想を抱くにいたり、外国留学出発後漸次共産主義的思想を帯び英国に行ってから当地における共産主義的思想の影響を受け当地の共産主義者と交友し現在に至りました」。



学生でありながら敢えて「友愛会」というキリスト教系労働団体に加入した動機は謎である。並行して「修養団」にも加入している。


野坂の妻は女子大の英語の授業で「共産党宣言」を読み、また、慶応義塾後輩の野呂栄太郎は小泉信三教授(1916年欧州より帰国)の自宅に匿われて卒業論文を書き上げたと伝えられるように、この時期、日本の共産党員は自由主義者たちの手厚い指導によって育成されたといえる。



共産党は分身、合法政党である「無産党」を操縦し、「シナから手を引け」という反戦運動を展開したが、国内での弾圧が激しくなって、戦時下には、中国・延安の毛沢東らの下に食客となった。



GHQは民主化の先兵として左翼を利用するため、刑務所にいた政治犯を無条件で赦免した。共産党は占領軍の後押しを受けて再建された。

野坂(岡野進)は、凱旋帰国し日比谷公園で大衆の期待と支持を得て政治的スターとなった。このとき占領軍の意向を尊重することに触れて、「いまは奴隷のことばを語れ」と指導した。



中国の内戦は蒋介石敗退、米ソ対立が激しくなり、朝鮮戦争を前にモスクワの指令に忠実な国際派と、徳田球一委員長らの国内情勢を重視する所感派が対立し、所感派は火炎瓶闘争に走った。野坂は有力幹部として責任を問われる立場に立った。



党の分裂はやがて話し合いによって収拾され、早くから「愛される共産党」を提唱していた野坂が委員長となり、書記長の要職を対立していた国際派側の若い指導者・宮本顕治が占めた。

このとき「4つの赤旗」という原則が確認されたが、これは野坂が定式化したという。(1980年代の党機関紙は野坂支持者からの寄稿を掲載していた。)



この後、ソ連・中国との論争が激化し、毛沢東からは「宮本修正主義」と呼ばれる。中共との論争は、革命は銃口から生まれるのか、そうではないのか、というものだった。

この時期、議会中心、領土返還要求堅持など、他国の党に従わない「自主独立路線」が定着し、野坂はただの飾りと見られ、象徴天皇、と揶揄されるほど宮本執行部に対してイエス・マンに徹した。

まるで昭和天皇のように「可愛いおじいちゃん」を演じていたようだ。



しかし、顔の右半分と左半分の表情が大きく異なり、見る眼があれば、大きな嘘を抱えていることは推察できた。一部の支持者もこれに気付きながら、次善の策として敢えて投票していた。



公明党は共産党を攻撃し、野坂議長は「暁に祈る」ですよ、と竹入義勝委員長が演説したものの、裁判で公明党は負けた。

暁に祈る、とはシベリア抑留のとき同胞の捕虜を虐待した日本人が居たという事件を指している。

後に、モスクワでスターリンに媚び、同志を裏切ったことが明らかになったが、そういう意味で「暁に祈る」とは重なる。

(ちなみに、竹入は後に創価学会・公明党から転向・放逐されている。)



野坂が再び注目されるようになったのは、社会主義の復元力という宮本予言が外れ、ロシア革命によって社会主義は科学になった、という謳い文句が水泡に帰して、ロシア革命以前から共産党員だった経歴をもつことが再出発の土台として光を浴びたからだ。



白内障の手術を受けて「徹子の部屋」に登場したり、NHK番組で論説委員と対談した。

一方、宮本は、ソ連崩壊によって古いはなしが出てくるから、年寄りだからと言って引退してはいられない、現役として判断を下す、と、みずからの引退論を退けた。



この予言は当った。野坂はスターリン時代からのソ連共産党政治局の秘密代理人だった。

KGBからの亡命者は、こんな秘密を知らなかった。彼らは政府機関の一員に過ぎず、党の秘密には触れられなかったからだ。

政府側KGBには、政府をコントロールしている党の側から、他国の共産党に対する工作の権限を与えられなかったのだ。

(ちなみに、元KGBの証言をネタにして日本共産党はKGBのスパイだ、と宣伝する試みは全て失敗した。)



宮本・不破執行部は事実を確認したうえで、名誉議長を解職し、党内の動揺が収まるのを見て、夫婦ともに除名した。

副委員長だった袴田里実の除名を上回る最高幹部の除名となった。



これは世界最高齢、ギネス記録級の除名でもあった。



当時はスターリン体制下のことだから、、と、党外マスコミから同情論も出た。

さて、野坂のコメントは、、

「事実だから仕方が無い」のたったひとことだけ。

100歳老人とはいえ、いまなら、説明責任を追及されるところだ。



早く死んでおれば党本部が建立した「革命戦士之碑」という墓に葬られるはずだった。


                              以上



(文中敬称略ご容赦願います)

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