いにしへの渓谷(3)

いにしへの渓谷


 「あなた!来てくださったのですね?!私の他にもまだ、たくさん谷の者がおります。どうか助けてやってください。」
「分かっている。しかしまずはお前を助ける。お前を失いたくないのだ。」
そう言って葉花を拘束している縄を切った。彼女はすぐさま子供達の方へと走り寄り、縄をほどいている。守谷も女達の縄を切っていた。自由になった女達は礼もほどほどに、森へと逃げていった。葉花の手伝いをして、子供は、あの浅倉の節だけになった。節の縄に守谷が手をかけると向こうの方から人影が歩いてくるのが見えた。守谷は思わず節の縄をほどこうとしている葉花を抱き上げ、森へと駆け込んだ。縄で自由の利かない幼子を残したまま・・・。
「お願いです。あの子を助けてあげて。助けられないのであれば私が身代わりになってきます。」
「待て。お前は俺の大切な妻だ。お前には生き残って欲しい。俺が行くから、お前は隠れていろ。」
涙目になって守谷を見上げる葉花を置いて守谷は節の元へと歩いて行った。
「おい、子供!なんで全員いなくなっているんだ?みんなどこへ行った?」
男は手に剣を握りしめたまま節に尋ねた。節は答えなかった。みんなの居場所を聞いている・・・。節にも大切なものがあった。しかしそれらは今、危険な目に遭っていない。失うものは何もないのだ。六歳ながらにして、その子供は悟った。命の終わり・・・。
「何も言わないのなら殺すしかないな。」
男は冷たい笑みを浮かべながら剣を振り上げた。節の目にはもう、何も映らない。
 守谷が節の元へ駆け戻ると節は血だらけになって倒れていた。節の周りには誰もいない。
「遅かったか。」
自分の言葉に守谷はふと疑問に思った。本当に遅かったのだろうか?あの時助けていれば・・。そんな事を考えながら節を見つめていた。
「節!節!!」
浅倉が叫びながら駆け寄り、節の体を抱き起こしている。
「逃げた谷の者に聞いて急いで来たんだが・・・。」
岡崎はそう言いながら守谷に歩み寄った。守谷が一人で入り込んで犠牲者が一人だけというのは運が良かったと言うべきだったのではないか?岡崎は複雑な思いで節を抱く浅倉の姿を見つめていた。
「守谷!お前・・・。この場にいたんだろう?どうして助けなかった?」
愛する我が子の血に染まった手で浅倉は守谷の腕を強く掴んだ。
「葉花が捕らえられていてそっちを助けていた。そして他の者を助けて、この節ちゃんだけが残った。縄をほどこうとしていたら、男が来て・・・。それで葉花を連れて逃げてしまった。私は、節ちゃんを助けなかった・・。」
守谷の口から発せられる言葉は、静かに浅倉の胸に刻まれていく。浅倉が守谷と同じ状況にいたら、果たしてみんなの命を守ろうとしただろうか?と岡崎は思いながら二人を見つめていた。少なくとも自分は自分の大切なものを守ろうとしてしまうだろう・・・。
「お前は、俺の節を殺したんだ!俺はもうこの世にいてもしょうがない。節の所へ行く。今度こそ俺は節を守る!!俺はお前を許さない・・。お前の家を呪ってやる。狂喜乱舞して人を殺して、その体滅びるまで犠牲者の血を浴びながら生きていけばいい。」
浅倉はもう岡崎の知る浅倉ではなかった。守谷を憎む目は血走っていて、浅倉の表情には誰もが背筋を凍らせた。その場にいる誰もが動けず、ただ呆然と浅倉の自害を見届けるしかなかった。浅倉と節の体を太陽の薄い光が照らし出した。森は静かに朝を迎えようとしている。

 その後、守谷は自分の行動を悔いて暮らしていた。岡崎はいつでもそんな守谷と共に生活した。守谷が死ぬときも岡崎は側にいたのだった。
「岡崎・・私はあの時、許されぬ事をしてしまった。浅倉の思いを受け止めて今日まで生きてきたつもりだ。しかし浅倉は私の家系を呪うと言っていた。これから私の子孫に呪われた者が生まれてくるだろう。いつのことだか分からない。だが私は夢で見た。目は瑠璃色で・・・何かの拍子で見境泣く人を傷つけてしまう。その呪いの力は徐々に強くなり、五回目に呪いが発動したとき、誰も手が出せなくなる。死ぬまで人を殺めてしまうのだ。そんな夢を見てから私は密かにこの経を作っておいた。だがこの経も五回目の呪いには効果はないだろう。ただの夢ならいいのだが・・私はどうも夢だけとは思えないのだよ。頼む・・最期の私の我が侭だ。岡崎、私の子孫を守ってはくれないだろうか?」
病床に伏していながらも守谷の目に力強く光るものが岡崎には見えた。
「分かった。約束しよう。」
岡崎が守谷の手から経を取ると、守谷は力無く微笑んでゆっくりと目を閉じたのだった。

 呪いとは本当にあるのだろうか?守谷の夢は現実に起こるのだろうか?と誰もが不審に思ったが、この話は守谷、岡崎の両家で代々語り継がれてきた。岡崎は半信半疑で代々伝えられたという話を聞きながらこの家で育ってきたのだ。寒さを感じながらも岡崎は縁側で一人、冬とも春とも言えない外の景色を眺めている。
「守谷ですけど、岡崎の旦那様はいらっしゃいますか?」
玄関で声がすると岡崎は我に返り、立ち上がった。今日、守谷の所に子供が生まれるかもしれないとは聞いていた。
「お生まれになったんですか?おめでとうございます。」
そう言いながら岡崎は玄関に顔を出した。守谷の使いの者が玄関に立っている。
「あ、はい・・そうなんですが・・。」
なぜか落ち着いていない男の顔は汗で濡れている。岡崎はそんな男の姿を見て笑った。
「そんなに急いで来なくても良かったのに。まだ汗をかくには早い季節でしょう。」
穏和に笑う岡崎を見ながら男はハンカチを額であてがう。だがハンカチを持つ手が目に見えて震えていた。
「目が・・瑠璃色の目をした子供です。守谷の家でお生まれになりました。」
岡崎は自分の耳に届いた言葉を理解するのに少々の時間が必要であった。
「なん・・だって?瑠璃色だと?」
「とにかく、来てください。」
呆然と立ちつくす岡崎を置いて男は車へと走っていった。その男を見て岡崎も急いで後を追う。
「では、うちの紫苑が?」
車に乗り込んだ岡崎は男に尋ねた。その質問は安易なものであった。誰もがその答えを知っているからだ。
「だと思います。」
想像した通りの答えが戻ってくると、岡崎は身震いを感じずにはいられなかった。遂に三家の歴史が動き出す。車は走り出し、岡崎の頭には紫苑があった。今年の冬に生まれた娘。紫苑が守谷の子孫を守るなんて・・。紫苑が生まれたときから歴史は動き出していたのだろうか?車窓から見える桜の木には少し色づいたつぼみがあった。もうすぐ春が来る・・・。





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