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いにしへの渓谷(5)
いにしへの渓谷
「さくら、スーパーで買い物してきてくれる?!」
そう言って母親はさくらの部屋の扉を勢いよく開けた。太陽はとっくに真上に昇っている。
「ちょっともういい加減起きなさい!10時過ぎてるのよ?!早く着替えて買い物に行って来て!」
金切り声を上げた後、溜息をつきながら机に財布を起き、母親は部屋を出ていった。
昨日は守谷のことを考えながら、いつの間にか寝てしまったらしい。のろのろと布団をどかし、さくらは大きなあくびを一つ付いた。のそのそと辺りにある服を着て、髪を形だけ結んで外へと出て空を見上げると青い空に真っ白な雲がのんびりと浮かんでいる。
買う物を買って何となく歩いている道。この先にはいつもの神社がある。それはいつもなら、気付かずに通り過ぎていくような一画だが、今のさくらにはそれができない。そこには守谷がいる。そう思うとさくらは今更ながら自分の姿を恥ずかしく思うのだった。
「まぁ、会わなきゃいいんだし・・。」
そう自分に言い聞かせて歩き出す。だが神社の前に来るとさくらの足は自然と寺へと続く階段を上っていた。視線は守谷の姿を探している。林のように木々が生い茂っている奥に寺があり、その隣には母屋らしき家屋がある。さくらが身を乗り出して木々の間から見える建物を見ていると、後ろからさくらの肩を叩く手があった。
「何か用ですか?志野瀬さくらさん?」
「!!」
叩かれる感触と同時にその声が聞こえたとき、さくらは凍り付いた。さくらは口を動かそうとするが驚きで声がついてきていない。
「ごめん・・。何も用は無いんだけど・・・。」
やっと出てきたさくらの言葉に瑠璃色の目の青年は冷たい笑顔で応えた。
「用が無い?それじゃあ、ただの覗き?」
「覗きって・・。私はただ・・・。」
さくらは自分の顔が急速に熱くなるのを感じていた。守谷にそんな顔を見られるのが嫌でさっと背を向けてさくらは走り出した。
「ごめん!ちょっとからかっただけだよ。だから待ってくれよ。」
走るさくらの腕を掴みながら守谷は不安げな顔をしながら言った。さくらが立ち止まって守谷の顔を見上げると守谷は腕を掴んでいる手を離した。
「お詫びにジュースでもおごるよ。」
そう言って守谷は階段を降りていく。さくらも続いた。
「さっきは本当にごめんなさい。」
手渡されたジュースを見つめながらさくらは言った。
「いいって。」
さくらが守谷を見ると守谷はぎこちなく微笑んで見せた。そのぎこちなさが、今のさくらを安心させる。
「俺、ちょっとわけあってここに住んでいなかったんだ。ここで生まれたんだけど、すぐに引っ越したりして、今年やっとここに戻って来れた。だから、今この近所を探検していたんだよ。」
「こんな町、どこへ行ったってすぐに帰って来れちゃうよ。」
「俺にとってはこの町でも探検なんだぜ?2回くらい迷って守谷神社はどっちですか?なんて知らない人に聞くはめになった。」
守谷が自宅の場所を聞いている姿がさくらには可笑しく思えて、さくらは声を上げて笑った。守谷もさくらにつられて笑っている。
「志野瀬ってこの近所?」
「うん。ここから見えると思うんだけどな・・。ほら、この道沿いに白い家が見えるでしょ?あの家がうち。」
「そうなのか。意外と近いな。」
「何か困ったときは言ってね!近所だし、友達なんだから。」
守谷は少し俯いた。きっとまた、さくらの言葉に動揺しているのだろう。そう思うとさくらは心が和むのだった。
「志野瀬はいつもそんな事言って男を嬉しがらせるのか?」
それが守谷の精一杯の反撃だった。だが、その反撃は空しくさくらに打ち返されるのであった。
「ってことは、守谷君は嬉しかったんだね!それなら素直に嬉しいって言えばいいのに。」
「ばか!そんな事言えるか。」
「あと、私のこと名字じゃなくて『さくら』って呼んでよね?!」
「呼べるわけ・・ないだろ?!」
「呼べないならいいもん。その代わり、私は春生って呼ぶからね!私、春生っていう名前気に入っちゃったんだ。」
そう言って春生を見ると、春生は顔を赤らめながらジュースを乱暴に飲み干し、立ち上がった。
「勝手にしろ!」
さくらは微笑んで春生を見上げていた。春生はもう居られなくなるほど恥ずかしいのだ。春生の行動の意味が手に取るように分かるのでさくらは嬉しかった。
「また明日ね!」
春生はさくらを振り返らず、階段を上りながら手だけを挙げてさくらの言葉に返事をした。その返事を受け取るとさくらは春生に背を向けて道へと出た。すると突然、神社から突風が吹き抜けて、木々の葉が大きく揺れ動いた。得体の知れない強い風がさくらを襲い、さくらはその場に座り込んでしまった。
「志野瀬!」
遠くで春生の声が聞こえたと同時に座り込んださくらの前に人影が浮かび出した。春生だろうか?だが春生はさくらの背後にいるはず・・・。
「春生の友達?春生に女の友達っていたんだなぁ。」
さくらが顔を上げると春生やさくらと同じくらいの歳の男が笑いながら立っている。男はさくらの腕を引いて立たせた。さくらは男の笑みが作り物のようで、冷たい感じがして背中の辺りで寒気を感じていた。
「あの、ありがとうございました。」
礼を言って足早にその場を立ち去ろうとするさくらの腕をその男は力強く掴んだ。
「待って。せっかく会えたんだからさ。」
「痛いっ!離してください。」
さくらは力尽くで男の手をふりほどこうとしたが男の力には適わなかった。
「やめろ。」
さくらの背後で春生の低い声が聞こえた。さくらが振り向くと春生が立っている。しかし男をにらみつける目は鋭く、春生の目はいつもより赤い。
「そんなになるまでお前はこいつを助けたいのか?これで三回目だぞ?あと二回か・・。こいつは使えそうだな。」
不気味な笑みをさくらに向けて、男はさくらの腕を乱暴に放した。さくらは勢い余って道端に倒れた。
「この野郎!流風!!」
春生は明らかに我を忘れているようであった。いつもさくらの目に映る素朴な春生ではない。春生は拳を振り上げてその男に降ろす。その拳を軽く交わして男は笑っている。
「発動したようだな。おい、お前はまだ死んでもらっちゃ困る。早く逃げた方がいいぞ。」
男はさくらにそう言った。しかし、さくらは恐怖と驚きから動けないでいた。そんなさくらを見て男は微笑み、風と共に消えたのだった。
男が消えた空間をただ見つめているさくらに春生の影が近づく。
「春生、とにかくありがと。・・・春生??」
春生の影に気付いたさくらが春生に視線を移すとそこには深紅の目をした春生が立っていた。しかし、もっとさくらを驚かせたのはさくらに向かって振り下ろされる拳であった。さくらは動けなかった。
さくらが目を見開いて春生を見ていると、突然春生の深紅の目が瑠璃色に戻り、春生の動きがと止まった。春生の体は力無くその場に倒れたのだった。
「春生?どうしたの?春生!」
「春生は大丈夫。今は気を失っているだけだから。」
そう言って階段を降りてきた少女は春生に向かって何か経のようなものを唱えている。
「あの・・春生はどうしちゃったんですか?あなたは?」
「私は岡崎紫苑。春生は理由があってこんな事になってしまう時があるの。それを抑えるのが私の役目。つまり、私は春生の守護者ってことになるのね。でも良かったわ、間に合って。嫌な突風を感じたから外に出たみたらあんな状況で。」
「どうしてこんな事になっちゃったの?あの人は消えてしまったみたいだし・・・。」
「流風はここまで来るようになったのね。これで三回目だわ。いよいよ危険になってきたってことね。もしかして、あなたのことで春生はこうなったの?」
「はい。そのリュウフウという人に腕を掴まれてしまって。そうしたら春生が・・。」
さくらは混乱していた。いつの間にかさくらの頬を涙が伝っている。
「あなたも落ち着いた方がいいわね。少し休んで行って。」
さくらが頷いて立ち上がろうとすると、体に力が入らなかった。さくらの体も思考と共に麻痺してしまっているようだった。その様子を見ていた紫苑がさくらの首に石のような玉がついた首飾りをかけた。すると不思議とさくらの体は軽くなり、足に力が入るようになった。さくらが不思議な顔をして石を見ていると紫苑が春生の体を起こしながら言う。
「それは、人間の中枢に作用して精神的・身体的な傷を癒してくれる不思議な力をもっているものなの。さ、家に戻りましょ。春生を運びたいの。手伝ってくれる?」
さくらはのろのろと立ち上がって頷き、春生の体を紫苑と持ちながら階段を上った。
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