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スティーブン・スピルバーグ

映画

スティーブン・スピルバーグ

プロフィール
1947年12月18日、オハイオ州シンシナティ生まれ。両親はユダヤ系、父はコンピューター開発の電気技師、母はコンサート・ピアニストだったが後に離婚。孤独な少年期を過ごす中、映画作りにとりつかれる。12歳でアマチュア・フィルムを初製作。翌年、短編映画がコンテストで優勝する。16歳の時にはすでに140分の超大作を撮りあげ、ついにはユニバーサル・スタジオにもぐりこみ、テレビ監督となってしまう。71年「激突!」などのテレビ・ムービーが評判を呼び、27歳にして「続・激突!/カージャック」で悲願の映画監督デビュー。その際、キャリアのない新人の資質を疑問視する声も聞こえたが、思えばこの大抜擢が、その後のアメリカ映画産業にとっての新たな出発点ともなったのである。ピークは早くも翌年にやってくる。わずか8万5千ドルの制作費で作られた、巨大のサメと人間の死闘を描いた「JAWS/ジョーズ」の登場である。多少オーバーな言い回しだが、”寿命を縮めるほどのスリラー”と評されたこの映画の大ヒットで、スピルバーグは「明快なアイデアこそが観客の心をつかむ」という確信を得るのである。そしてこの成功が異性人との交友的な出会いという。自ら”最も撮りたかった映画”語る77年の「未知との遭遇」の製作へと繋がる。その後も81年の「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」、82年には「E.T.」と興行成績を塗り替える大ヒット作品を連発。一部の評論家たちからは、”お子様ランチ”と酷評されたが、観客は極上のお子様ランチに大いに満足したのだ。だが85年、黒人女性の自立を描いた初のシリアス映画「カラーパープル」がアカデミー賞に黙殺された事をきっかけに、スピルバーグに転機が訪れる。まさにピーターパンが必死に大人になろうとするかのように彼のあがきが始まる。以後の映画は自身のジレンマを象徴する形となり低迷期とまでは言わないまでも不評となる。その間、最大の独立会社アンブリンを設立したこともあり、これからはジョージ・ルーカス同様に監督ではなく、プロデューサーとして活動していくのでは??という声まで囁かれたが、彼はあくまで映画監督であることをこだわり続けた。そして、そのジレンマ93年の「ジュラシック・パーク」と、ついにオスカーを受賞した「シンドラーのリスト」と、娯楽作品とシリアス作品の両極端を同時に監督することで解消。以後も97年「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」、「アミスタッド」を同時に撮り、再び98年に「プライベート・ライアン」でオスカー受賞の成功へと繋がるが、今度は”賞狙い”のレッテルが貼られることになる。だがそうした批判でもスピルバーグが映画を撮り続ける事で解消されるに違いない。スティーブン・スピルバーグ語録「僕は古い映画をたくさん観て、愛して、分析した。そこから得たものはテクニックを盗むことではなく、シナリオやアイデアがいかに大切かということである。他のことは単なるかざりでしかない」。

作品(平均49.3点) 製作年度  
激突! 1971年【米】 監督(TV)
JAWS/ジョーズ 1975年【米】 監督
未知との遭遇 1977年【米】 監督
1941 1979年【米】 監督
レイダース/失われたアーク《聖櫃》 1981年【米】 監督
E.T. 1982年【米】 監督
トワイライトゾーン/超次元の体験 1983年【米】 監督
インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説 1984年【米】 監督
カラーパープル 1985年【米】 監督
世にも不思議なアメージング・ストーリー 1986年【米】 監督
太陽の帝国 1987年【米】 監督
インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 1989年【米】 監督
オールウェイズ 1989年【米】 監督
フック 1991年【米】 監督
シンドラーのリスト 1993年【米】 監督
ジュラシック・パーク 1993年【米】 監督
ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク 1997年【米】 監督
アミスタッド 1997年【米】 監督
プライベート・ライアン 1998年【米】 監督
A.I. 2001年【米】 監督
キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン 2002年【米】 監督
マイノリティ・リポート 2002年【米】 監督
ターミナル 2003年【米】 監督
ミュンヘン 2005年【米】 監督
宇宙戦争 2005年【米】 監督
インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国 2008年【米】 監督







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