益子焼陶芸人エイジ♪◆職業的陶芸生活◆

益子のMD工房に遊ぶ


荷物を積んだ我々は車3台で益子に向かっていた。僕は車の免許も取得したばかりで、益子には車を運転して行った事は無かった。
~栃木県で生まれ育った人は、幼稚園でも小学校でも中学でも高校でも、頻繁に「益子」に訪れて「湯呑みに絵付け」などしていたが~

益子町大沢のMD工房は小高い岡の頂上にあった、そこからはいつでも「日光連山」が望めたが、冬の空気が澄みきった日などは「富士山」まで見えた。
道から入ると、左側に母屋兼工房、右側に窯場になっていて、正面は雑木林の斜面だ。
清々しい空気が夕闇の木々の間を擦り抜け、1日の大半を工業地帯の一角にある校舎で過していた僕たちを人間らしい初々しい気分に浸してくれていった。

工房内はまだ、一人で作業するだけのスペースしか無かったが、先生の作品が整然と棚に収まり、足元に壷や花瓶が置きざらしに成っていた。
荷物を降ろした後、お茶を頂いた。ハーブティーだった。焼き上がりたてのカップになみなみと注がれ、一口啜ると未だ来ぬ、暖かい春の香がした。

もう、僕はそれだけで本当に幸せだった。

その年の春の陶器市にもう一度出かけていった。
工房は農家の古屋を立て直して(今で云う古民家再生だ)、斜面の所に地下室付で立て直される工事をしていた。その為、先生は少し離れた場所に工房付で借り住いをしていた。

塚本製陶所(現㈱つかもと)の下にあったその仮工房でビアマグでラガービールを頂いた。ゴールデンウイークともあって、春の空は少し離れた陶器市会場の喧燥を写していた。
それから、「笠間のひまつり」に出かけていった。茨城県笠間市は益子町から車で30分くらいで、益子焼の大元の焼き物産地だ。江戸末期に大塚啓三郎という人が、笠間で覚え、益子に持ち込んだと云う。
「ひまつり」は規模はけして大きくなかったが、益子とは違った面白さがあった。会場中央のステージでジャズが演奏され、その手前のオブジェのような物の中で高さ十数メートルの壷は焼かれているという。
笠間の面白さにもすっかり「やられた」一夜だった。

そうこうして、僕はサラリーマンデザイナー(正確には工員)をしながら、土曜日などに先生の工房を尋ね、菊揉みの練習をさせてもらっていた。
辛く単調な日常生活を週末に忘れる日々だった。




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