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2004年09月01日
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テーマ: 戦争反対(1190)
 「民族主義」は紛争の火種であるというテーゼについて考えてみたい。
 近代において、少なくとも紛争のほとんどは民族間の優位性の争いと民族の抑圧からの解放が原因であったことは歴史が示している。第二次世界大戦でヒトラーがゲルマン民族至上を掲げ特にユダヤ民族を迫害したこと、多民族国家を標榜するアメリカにおいてさえ、黒人差別という民族問題を核にして南北戦争が起こっている。現在のイラク戦争においても、一部イスラム民族のアメリカ(民族?)への敵愾心が引き金になっていることは言うまでもない。このほか、アフリカ国内の部族間抗争や中国の少数民族迫害など小競り合いまで含めれば枚挙にいとまがない。

 さて、漠然と見えてくる紛争の火種「民族主義」であるが、そもそも「民族主義」とは何なのか。この定義と解釈には諸説あるので一概には言い切れないが、民族主義=国民主義、国家主義、ナショナリズムという用語で置き換えられることが多い。つまり、特定の民族によって構成された国家の主張ということになる。ただし、これは現時点での世界が民族単位=国家単位に近い状態にあるからであって、民族独立を求めている集団が世界にはまだ多数あることから、民族単位>国家単位であることは間違いない。
 では、民族単位とは何か。一般的には、生物学的(身体的)、宗教的、文化的な同一性を持った集団単位ということになる。
 これに対して国家単位とは、上記の民族単位に加えて、経済的、領地的、絶対支配的、イデオロギー的同一性で集まった単位と言える。少し実例をあげてみれば、イスラエルはユダヤ民族国家とされるが、ユダヤ教という宗教的同一性で構成されている。出身地や身体的差違は不問である。南アフリカは白人、黒人が混在する国家であり、身体的、宗教的つながりは希薄である。この場合は、経済的もしくは領地的同一性で維持されているとみるべきだろう。中国では大多数の漢民族という身体的、文化的同一性集団がメインだが、チベットなどの少数民族も多数含んでいる。彼ら少数民族は経済的にも領地的にも迫害されており、同一性は認められない。この場合は強制的なイデオロギー的同一性を保持しているものと理解できる。旧ソ連も同様であった。アフリカのソマリアなどの内部紛争国家の場合はどうか。国家としての体裁を整えていないという側面もあろうが、複数の部族を武力による施政者が支配するという絶対支配的同一性と言えなくもないだろう。
 このように、共産国家や独裁国家において民族単位を超越しているケースもあるが、そうした国家は内部紛争、独立運動という課題を抱えている。従って、民族主義=国家主義では説明しきれないことが多いので、ここでは、民族単位での主張を民族主義としてとらえていくこととしたい。

 私が小学生低学年の頃思ったのは、民族の壁を越えれば世界は平和になる。民族の争いがなくなれば戦争もなくなる。戦争は絶対にしてはいけない、という事だった。戦争は人の命を奪う行為であり絶対悪である。人間に共通する倫理観「殺さない。盗まない。嘘をつかない。」から見れば至極当然のことである。日本の平和主義者の基本的な核でもあろう。
 親友とはいとも簡単に上記の倫理観を達成できる。この輪が広がっていけば世界中平和になるのだ。単純にはそう思える。しかし、現実には喧嘩する相手もいるし、敵対する派閥などというものも出てくる。誰にでも愛想のいい奴は一見平和的にも見えるが、「八方美人」「ノンポリシー」などと陰口を叩かれることある。次第にこの命題が実現できないものであることが分かってくる。その障壁となる物は何なのか。

 そのためには、民族(主義)の成り立ちから紐解いていかねばならないだろう。


 さて、原始時代の人類から考えてみることにしよう。人間の共同体の最も小さな単位は夫婦である。夫婦は子孫(子ども)を残すために共に契約を結ぶ。例えば、食料採集は父親、授乳は母親などと共に生存していくための役割を分担し、主張を抑え、意見を共有する。
 この次の段階として集落という共同体単位が形成される。一人ではできない狩猟を複数の人間で共同したり、製作した土器類を共同で使用したりする。こうすることによって効率が良くなり、より生存の可能性が高まるからである。
 つまり、原始社会の段階では「生存」するという基本的権利を行使するために、複数の人間が互いの権利と義務を契約し合うことによって共同体を形成する。そこにはその共同体独自のルールが存在する。
 この状態を学問的に見ると、ホッブスの「自然法」と「自然権」で言い表されるだろう。各人は生きようとする自己保存権のために自身が欲する手段を行使する権利が自然権であり、その理念が自然法である。そして、第二の自然法として「平和のために、自己防衛のために必要ならば、この権利を放棄すべき」として平和のための契約を結び、第三の自然法として「結ばれた契約を履行しなければならない」と契約の履行が平和に不可欠としている。
 つまり、原始社会においては互いの契約を履行し合うことによって平和が保たれていると言えるのである。

 この平和は日本の歴史上において言えば、縄文時代までのこととなる。一般的には、後続する弥生時代の社会から紛争の歴史が始まり、武器で傷ついた人骨が出土するようになることで証明されている。縄文時代は人口も少なく、集落間の交流が少なかったから紛争がなかったのではということも考えられるが、実はそんなことはなく、縄文時代においては、例えば青森県産出の黒曜石が中部地方まで交易されていたり、北陸地方製作の石器が関東や九州まで移動していた事実を考えると、見知らぬ集落間での物物交換的な交流や人的交流が多分にあったことは想定できるのだ。それでも縄文時代には明確な紛争の跡がない。

 弥生時代の紛争の要因として、一説には、稲作技術の伝播による貯蓄性富(剰余生産物)の不公平分配によるものとか、鉄製武器の発展(付加価値)による過激性の取得とも言われるが、多分、両者の要素が認められるであろう。稲作の技術は均等・均質に伝播したとは考えにくく、集落単位間での差違が生じたことが想像される。もしくは、稲作を行う土地の性質によっても収穫の差違が出てくるだろう。このことにより、富を有する共同体とそうでない共同体の差が生じ、その結果、土地争いや共同体的優位性からの支配関係が生まれたと見ることが出来る。さらに、この集落単位での優位性の存在は、より強い生存権の補償を求めて集落単位の契約的結合を生むこととなる。例えば、弥生時代に認められる高地性集落は、明らかに防御的集落であり、生産性という面では機能し得ない。つまり、武力的能力に長けている共同体と、生産性に長けている共同体が契約的結合することにより、より大きく強力な共同体を形成していくのである。少なくとも、卑弥呼の時代においては現在の市町村単位レベルでの「共同体」というものが存在しているものと思われる。ご存じの通り、卑弥呼のような「シャーマン」を精神的拠り所として、相互が社会的契約を結び合った集団であり、歴史学的には「クニ」という表現で著される原初的国家の成立である。ただし、この「クニ」の段階においては、「クニ」という共同体間で身体的、宗教的、文化的な差異は顕著ではなく、むしろ経済的、領地的、シャーマンという支配者崇拝的(シャーマンは占い師なので宗教ではない)な結合の差異によって形成されていると言える。従って、共同体間の優位性については経済的、領地的なものに集約される。この経済的、領地的な部分における優位性への反発から来る侵害は、今でこそ「財産権」レベルに相当するが、当時としては食っていけるかという「生存権」にあたる重要な事象であった。ホッブスの「自然法」にも出てくるが、相互の契約が結ばれていない者同志にとっては、自らの自然権(生存権)を守るためには戦争もやむを得ないということになるのだ。ここに紛争の発生の要因がある。そして、面白いことに武力での解決がつかない場合には、より上位の共同体に従属することで優位性を保とうとする動きが出てくる。志賀島の金印「倭王」にあるように、献貢することによって、より強い共同体の庇護下で自らの生存権を維持するのだ。現在で言えば、国家間の条約のようなものである。


 古墳時代以降になると、「クニ」同志の契約による主従関係がはっきりしてくる。古墳時代には大和政権と地方豪族の関係である。直接生存権に関わるほどの紛争原因を持たぬが、事前に互いに契約を結ぶことで生存権の補償をしあう関係である。奈良・平安時代であれば朝廷(貴族)と地方豪族の関係、中世になると朝廷(貴族)、有力武将という関係、江戸時代は朝廷(貴族)、幕府、藩領主というやや複雑な関係となる。これらは、確かに相互に契約を結んでいるが、そこに在する人民の従属はあくまでの各個の支配者であって、日本全体で一つの共同体を形成している状態ではない。しかも、それぞれの共同体には弥生時代と同様に身体的、宗教的、文化的な差違は顕著ではない。もちろん、薩摩藩や、長州藩など自藩の優位性を説く動きもあったが、世界的な視点で見れば同族のレベルである。このことを裏付けるとすれば、これらの共同体間における移籍が可能であったということである。つまり、昨日までは薩摩藩の人間であったが、今日からは長州藩に属するということが可能であり、見た目上は全く区別がつかないということである。要は異なった共同体に単身紛れ込んでも生存権の危機には至らないレベルということである。

(その2 明日に続く) 





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最終更新日  2004年09月01日 11時59分34秒
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