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2006年11月14日
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テーマ: ニュース(100334)
カテゴリ: 教育時事
教育者のトップが…恐喝いじめ隠しの校長首つり(ZAKZAK)

 金銭をたかるいじめがあった福岡県内の小学校校長が12日午後、自宅近くの山林で首をつって自殺した。校長は前日、「市教委に(たかりを)金銭トラブルと報告したのは怠慢だった」と陳謝したばかりだった。いじめに未履修、タウンミーティングやらせ問題と大揺れの教育界。生徒たちに命の大切さや社会ルールを教えるべき現場のトップはなぜ、次々と自らの命を絶つのか。(以下略)


 次々に噴出するいじめ、いじめによる自殺、学校側の不手際、さらには高校での社会科履修不足問題の発覚。そして、最近は校長クラスの自殺が相次いでいる。校長クラスの自殺は今に始まったことではないが、こうした管理職、公職の自殺者が多発する時代の背景には、マスコミと批判主義的一般人の盛り上がりが必ずある。確かに、何らかの問題が発生し反省や謝罪に奔走しなければならない立場の人々であり、言い訳や慢心が許されるものではないだろう。しかし、何かあれば完膚無き善人のごとく吊し上げに走るマスコミや一部批判好きの一般人の行為は、まさに集団言論暴力そのものであり「いじめ」そのものと言っても良い。逃げ道や言い逃れの閉ざされた管理職、公職者を叩くことはさぞかし爽快で楽しいことであろうが、それが子供達のいじめと本質的になんら変わりがないということを自覚できていないことに、毎度のことだが不快感を感じるのだ。

 さて、今回は奢ったマスコミや一部のヒステリックな人々のことはさておいて(全然さておいてないかも知れないが・・・)、いじめについて考えてみたい。かつて教育問題の調査に関わったことがある身として、思う所を述べてみたい。
 いじめという行為は明らかに「悪」である。しかし、いじめられる側が「善」であるという決めつけには繋がらない。そもそも、いじめという行為の多くが悪と善という構図の中で発生しているわけではなく、個々の関係の中での力関係に過ぎないからだ。いうまでもないが、いじめの定義はあってないようなもので、ボーダーラインの解釈もしかり、それが個人の価値観や感情の中で判断されるものだからだ。いじめという用語が一人歩きしている現在、犯罪としてのいじめと力関係によるいじめをしっかりと見極めていかねばならないだろう。
 さて、力関係という観点で見れば、人間という生き物である以上、強者と弱者という関係は必然的に発生する。それによる物理的、精神的被害を未然に防ぎ、万人が公平に過ごすためには、人間だけが有する「理性」と「知性」に依らなければならない。自己が強者であることを理解し弱者を思いやる気持ち、弱者であることを理解し強者のプライドを侵さないこと。しかし、複雑な人間の心の中にあって、完璧な人間関係を維持することは大人であっても大変難しいわけで、ましてや子供達にそれを求めることは酷である。従って、子供達に正しい道を導いてやるのが親であり教師であるのだが、その親や教師とても完全な人格を持ち合わせているわけではない。そもそも、いじめの由因でもある心の力関係を当事者以外の人間が完全に解決できるはずもないのだ。一時的に被害現象が治まったとしても当人同士の心の禍根は消えていないことが多い。
 そこでだ。いじめの原因と解決を学校や教員に、そして教育委員会に押しつけた所でどうになる。もちろん、危機管理能力の高い教員がいじめを未然に防ぐこともできるだろう。しかし、全ての教員にその資質があるはずもなく、また、いじめと称される全ての事象に目を配ることができるはずもない。はなから出来もしない学校や教育委員会に期待するのが間違っている。いじめに加担する教員がいることすら驚くほどのことではない。歳を取った大人であろうが、単なる一人の人間だ。

 結局のところ、いじめの根絶を学校や社会組織として実行しなければならないのだとすれば、それは強制的な法拘束以外ないだろう。近年定着しつつあるセクハラ、パワハラといったものと同様に、いじめの厳密な定義を設け、それに対する社会的制裁を子供であろうと無慈悲に適用することである。いじめというものが精神的被害であった場合には、自己申告制でありかつ心の被害度は第三者には図りかねるので、血みどろの裁判沙汰も多発するだろう。また、それを悪用した犯罪行為も想定できる。
 果たしてそれが好ましいのかどうか。言うまでもないことだが、それが冷酷で恐怖の社会への第一歩であることは想像できるだろう。だが現在、学校や教育委員会そして政府にまでその責任を押しつけ、他人に問題解決を押しつけている風潮は、まさにそれに向けての布石とも思えるのだ。いじめの悩みをしたためた投書が文部科学大臣に直接送られたり、いじめホットラインに電話が殺到するのは、子供達が潜在的な問題を多く抱えているという現れではあろうが、自己解決に向けてのプロセスではなく、第三者の責任に押しつけたり、もしくは第三者に話を聞いて貰ってヨシとするのは、いささか方向が違うような気がする。しかし、それが増えつつあるのはマスコミをはじめとするいじめの責任追及姿勢と学校現場の弱腰に原因があるだろう。

 だとすれば、どうしたらよいのか。一義的にはいじめという力関係は、当事者の自己解決に依るのが一番であり、とすれば、出来るだけ早い時期からの「理性」「知性」教育、いわば道徳教育が重要となるだろう。もちろん、当事者間での解決が困難場合に仲裁や救済を円滑に出来る学校、教員の資質や体制作りも大事だろう。だが、先にも書いてきたとおり全てのいじめという力関係問題を当事者間、学校等の第三者で解決に導くことは不可能であろう。かといって、放置するわけにもいかない。
 そこで私は逃亡しかないのではないかと思っている。私らの世代はいじめから逃げるなと良く言われたものだが、解決できないいじめは逃げるしかないのではないかと思っている。いわゆる脱走兵、敵前逃亡である。言い方は悪いが、いじめから逃げることのタブー化を排除し、そうした転校、転籍といったものへの柔軟な配慮と体制作りが最も有効ではないかと思うのだ。確かに歳いった世代から見ると、弱虫や負け犬に見えるが、人間の力関係は決して善悪ではなく、生まれ持った人間性の組み合わせによる偶然の産物なのである。決して合わない組み合わせを無理に続ける必要はない。自己の持つ個性を生かせる、または適合する学校や職場体制づくりの柔軟性とそれに対する世間の認識を高めていくことが大事であろう。


 いずれにしても、子供達に言いたい。マスコミの馬鹿な風潮に乗せられてはいけない。いじめは第三者の誰のせいでもない。責任を押しつけるものではない。まずは「理性」と「知性」という文明人がもつ能力を駆使して自分たちで解決するべきものだということを忘れてはいけない。どうしても駄目なら、逃げて別の道を行こう。それも悪くない。





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最終更新日  2006年11月14日 22時59分00秒
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