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シュティフターの魅力福井大学准教授 磯崎 康太郎故郷ボヘミアの自然を描写「穏やかな法則」ドイツ文学の有名な作品と言えば、多くが悲劇的結末をたどる。例えば、ヘッセの『車輪の下』、カフカの『変身』、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』がそうである。破局にまで到達する人間の衝動や世界の不条理は、時代を超えた永遠のものとして読み継がれているわけだが、名の通ったドイツ文学の作家のなかで、アーダルト・シュティフターほどハッピーエンドを迎える人間関係を書いた作家は珍しい。この作品は、南ボヘミア地方の、現在ではチェコのホルニー・プラナーという小村の出身で、十九世紀のオーストリアで活動した。完成した長編小説が二転、短編小説が約三十点、その他若干エッセイが残されている。彼がこだわり抜いた記述の一つとして、故郷ボヘミアの森の自然描写が挙げられる。動植物の様態、四季の移り変わり、時には猛威を振るう自然の力、それらに囲まれた人間の暮らし向きや成長が、多くの作品のテーマになっている。 地味でささやかなものに注目 ストーリーの起伏に乏しく、描写が過多になる傾向(彼は風景画家でもあった)は、同時代の批評家たちから非難を浴びたが、彼はみずからの作風を「穏やかな法則」であると宣言した。世間で大きいとみなされている事柄(例……嵐、自身、激しい感情)はじつは小さく、地味でささやかな現象(例……風のそよぎ、穀物の成長、質素倹約)こそがじつは大きいものであるため、地震は後者に目を向けたいのだ、と。そうして完成された長編小説『晩夏』を、ニーチェは繰り返し読まれるべきドイツの散文の宝と称した。私がシュティフターと出会ったのは、三十年近くも昔のことになる。東京で大学生活を送っていた私は、短編小説『水晶』を読んだとき、星空を見上げることさえ忘れかけていた自分の姿に気づいた。福島の自然環境のなかで育った私にとって、それはゆっくりと切り裂かれるような鈍い痛みだった。シュティフターは十三歳で南ボヘミア地方の故郷を離れてから、ふたたび故郷に住むことはなかった。つまり彼は、多くの作品の舞台であるボヘミアの森を、離れた土地で、例えば、足掛け二十二年住んだウィーンで描いていたことになる。回想のなかで自然に向き合っていたというわけだ。 幸福とは疎遠だった生涯 また、もうひとつの興味を惹かれたのは、作家自身の障害は幸福とは疎遠だったことである。結婚生活は満ち足りたものではなく、望んでいた嫡子に恵まれず、かわいがっていた養子はドナウ川にて水死体で発見された。健康状態の悪化に伴い、彼の最後は自殺も疑われる死に方だった。当たり前のことだが、もとより満ち足りた人間は、人が幸せになる話など特に書く必要がない。田舎に浸透してくる都会の問題、幸せな人間関係の中に秘められた不幸、こうした問題は作中に暗示されつつも多くは語られない空白として残されている。空白の意味を探る研究は、現在なお続けられているし、そこに読者自らの経験を投影してみるのも楽しい試みであろう。 いそざき・こうたろう 1973年神奈川県生まれ。福井大学准教授。専門は近現代ドイツ文学。著書に『アーダルベルト・シュティフターにおける学びと教育形態』(松籟社、2021年)ほか多数。 【文化】公明新聞2023.10.27
November 22, 2024
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海と人のアーカイブ 瀬戸内海で暮らしてきた人々の文化遺産を収集し、未来に伝える瀬戸内海歴史民俗資料館(香川県高松市)が11月3日に開館50周年を迎える。その活動や展望について、館長の松岡明子さん、前館長で現在は専門職員の田井静明さんに聞いた。 古来、人と物が交流する海の道として栄えた瀬戸内海。豊かな自然と結びついた生活の中で、人々は特色ある文化を育んできた。瀬戸内海歴史民俗資料館は、その文化を伝える資料を収集・保管するとともに総合的な研究を行い、成果を展示・公開する、いわば〝海と人のアーカイブ〟。1973年(昭和48年(11月3日に設立され、瀬戸内海をテーマとする広域資料館として沿岸の11府県を対象に調査研究と展示を行っている。松岡さんによると、収蔵する民俗資料は約3万点。そのうち、「瀬戸内海および周辺地域の船図および船大工用具」「西日本の瀬尾威運搬具コレクション」など3件、合計5966点の資料が国の重要有形文化財に指定されているという。田井さんも、「高度経済成長期までの歴史や風土、暮らし方をたどることができる最後の証しかもしれません」と語る貴重な品々である。資料館は、7㍍の高低差を生かした大小10の正方形の展示室が中庭を囲む回廊式の構造。石積みの外壁には建設工事で掘り出されたこの地の石を使っている。日本建築学会賞に選ばれるなど、香川県における戦後モダニズム建築の代表として高く評価されており、建築に関心を持つ若い人の来館も増えている。開館50周年の今年は、地質学や漁業、環境など五つの視点から瀬戸内海を見る連続セミナーなど、多彩な記念事業を行っている。アーティストと一緒に漁網を編むことを通して民俗資料と向き合うプロジェクト「そらあみ」も、その一つ。網に使う糸を染めるところから始め、延べ約560人が参加。昔ながらの道具で網を編んだ。民俗資料館は実際に使われていた物。見るだけでは伝わりにくい。「かつて漁師さんたちが網小屋で話を交わしながら網を広げていたように、人のつながり、古い民具とのつながりを呼び戻そう取り組みました」と語る松岡さんも、今回、道具をつって初めて発見することがあったという。事業に参加するアーティストたちには、古い民具のかたちやたたずまいの向こうにある人の存在、失われたものを感じ取る力、想像する力を感じるそうだ。「新しい分野の人たちと一緒に考えることで与えられるヒントも少なくありません。50周年を機に取り組んでいる試みから得ているものは、とても大きいと感じています」 瀬戸内海歴史民俗資料館(香川県高松市)開館50年の歩みと未来 「地域の資料館や博物館は、その地域の文化にとって最後の砦であり、セーフティーネット(安全網)だと思うのです」こう話す田井さんは、同時代性を意識した資料館活動の重要性も強調する。多様性が重視される一方で大量生産の時代である現代は、「一つの資料で地域を代表しているとは言い切れない時代。地域社会が多様な人で成り立っていることが伝えづらくなっているのではないでしょうか」とし、収集や調査研究では、そこに住み暮らした人の〝思い〟が必要だと言う。「その人はなぜ、その道具を使ったのか。どう使ったのか。なぜ残ったのか。そんな『ヒント』や『コト』の情報に立ち返る必要があるのではないでしょうか。地域の魅力を発信するときは『モノ』と共に、どのような〝物語〟を収集しておくかが重要だと思います」開館から50周年を迎える11月3日には記念のシンポジウムを開く。田井さんは、「若い世代の皆さんや、ほかの地域から移住した方を含めて、資料館から新しい議論や人とのつながりを生まれることを期待しています」と。民俗資料の見方や活用には、まだ多くの可能性があると行く松岡さん。「幅広い人に響く多方向の試みを続けることで地域に関心を持ち、そのまま未来を考える新しい視点を持つ人が増えれば、素量官として大きな意味を持つ活動になります。今後も、大切で、面白いテーマだという発信を続けていきます」と語る。 【文化Culture】聖教023.10.26
November 20, 2024
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健康食品や医薬品など幅広く利用寒天の歴史元小田原短期大学教授 中村 弘行始まりは江戸期の京都人々の創意や苦難に満ちる中国への輸出、薩摩藩の密造も寒天は江戸時代、京都で発明された。伝承では、明暦年間(1655—1657)に伏見の美濃屋左衛門が発明したとなっている。しかし、実際はそれ以前に作られていた。その根拠は金閣寺住職の日記『隔冥記』である。寛永年間(1624—1643)の日記に「氷心太をいただいた」と記されている。最初の名称は氷心太。寒天という名称は、のちに隠元禅師によってつけられた。約1世紀の後、摂津(大阪府北部など)に寒天が伝わり18の村で寒天製造が行われた。製品は中国輸出用の細寒天である(細寒天は燕の巣の代用品として珍重された)。その約30年後、薩摩藩でも寒天が作られた。なぜ南国薩摩で寒天? それが薩摩藩のねらいだった。密造である。寒天製造には大量の水と氷点下の気温が必要だが、適地が薩摩にあった。水・寒さ・薪の三条件がそろった高城郷(宮崎県都城市)である。京都山科から指導者を招き寒天を作り、幕府の目を盗んで中国で密輸出した。同じ頃、信州の行商人・小林粂左衛門が関西で寒天製造の習得し、郷里で仲間たちと寒天製造を始めた。信州の気候は寒天製造に合っていた。海が近いため原料搬入が課題だったが、富士川の舟運を活用し、みるみる成長した。現在、長野県の寒天生産量は全国1位である。天城山(静岡県)にある寒天橋。石川さゆりの「天城越え」にうたわれている。この橋の名はこの地で寒天が作られていたことの証である。橋の近くに作られた寒天工場は明治新政府の殖産興業の一環だった。地域密着型の地場産業として人気だったが、新政府の金融政策に乗じて銀行業へと鞍替えしたため、三転製造は中止となった。わずか7年のいのちだった。大正時代、樺太でも寒天製造が行われた。樺太南部の遠淵湖に伊谷草という観点原料が大量に繁茂していた。色が黒いという欠点を克服して製造特許を取得したのは東京深川の材木商・杉浦六弥だった。杉浦は特許を盾に伊谷草採取と寒天製造を独占し、遠淵湖を漁場とする地元漁民と激しき対立した。この問題を解決したのは医師の香曽我部穎良であった。香曽我部は杉浦の特許の権利消滅を突き止め、漁民は寒天製造権・販売権を獲得した。時代が大正から昭和に変わる頃、岐阜でも寒天製造が始まった。当時日本をおおっていた大不況という問題を解決する秘策として農家副業に寒天が選ばれた。官民一体となって背水の陣の取り組みは徐々に成果を上げ、昭和6年には県下に25の寒天工場を数えるまでになった。岐阜寒天は、細寒天に限って言えば、現在全国シェアの8割を誇る。現在、食品としてだけではなく細菌培地、歯科印象材、化粧品、医薬品、介護食、食品サンプルなどとして日常的に使われている寒天であるが、その歴史は人々の創意と葛藤と苦難に満ちている。詳しくは拙著『寒天』(法政大学出版局)をお読みいただきたい。 【文化】公明新聞2023.10.20
November 14, 2024
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自然を支える共生埼玉大学名誉教授 末光 隆史環境で逃げだすことも〇自然界には互いに助け合う共生関係がよく見られます。あるとき、「共生とは利他的行動なのでしょうか」という質問を受けました。共生関係の互いに助け合う姿が、利他的行動と受け止められているようです。でも、生物はそもそも生き残るために活動しているもの。それは利己的行動にほかなりません。では、利他的に見える行動が生まれたのは、どうしてなのでしょう。そんな疑問を解決したいと、共著『「利他」の生物学』(中公新書)を出しました。本書では、さまざまな生き物たちの共生関係をひもとき、利己的行動利他的行動について考えます。興味のある方は一読いただければと思います。きれいな海に生息するサンゴ。そこには褐虫藻が共生しています。褐虫藻は光合成によってブドウ糖を作りサンゴに供給します。一方のサンゴは、褐虫藻に必要な栄養塩やアンモニア、二酸化炭素などを褐虫藻に供給しています。また、サンゴの中にいると、褐虫藻が外敵からの捕食を防げ、強烈な紫外線からも守られます。まさにウィンウィンの共生関係にあるのですが、水温が上がると褐虫藻はサンゴから逃げ出してしまいます。サンゴの白骨化です。共生関係といっても弱いつながりなのです。 細胞内に取り込み利用〇一番多く、身近な共生関係は何だと思いますか。それは私たちの細胞内にあるミトコンドリア。酸素を消費してエネルギーをつくり出す大切な機関です。以前は、リソソームやゴルジタイなどと同じく、細胞内で作られた一つの期間だと考えられていました。しかし、独自のDNAの存在が確認され、他の細胞内機関とは異なることが分かったのです。現在では、原始的な嫌気性細胞に、酸素を利用できる好気性細菌が取り込まれた、細胞内共生であると考えられています。最初の生物が出現した頃には、地球の大気には酸素はありませんでした。この時代の主流派嫌気性細菌です。しかし、光合成を行うシナノバクテリアが出現し、急激に酸素濃度が高まっていったのです。嫌気性細菌は酸素大気中では生きていくことができません。そこで、酸素を利用できる好気性細菌が出現。他の最近は、好気性細菌を取り込んで、酸素大気中でも生き延びられるようになったのです。これがミトコンドリアです。さらに、シアノバクテリアが取り込まれ、植物の葉緑体へと変化しました。人間の感覚からすると、細胞内に取り込んだものが共生関係にあるというのは、不思議な感じがするかもしれません。しかし、単細胞生物にとって、共生し利用するためには、自分の体内に取り込むのが手っ取り早いわけです。 利己から利他的に変化互いの得になる関係が残る 寄生状態も進化の過程〇共生関係を見ていくと、最初は利己的な目的から始まったとしても、進化の過程で助け合うように変化するケースが多いことに気付きます。一方的に利用されている利己的な関係というのは、いわゆる規制にあたります。そうなると、もう一方は害を受けないように、どこかで対抗策をとります。だから、最初は一方的でも、最終的にはウィンウィンの関係になったものが生き残りやすいのです。面白い共生の例として、ミドリゾウリムシと共生クロレラがあります。ミドリゾウリムシは捕食するだけでなく、葉緑体をもっていて光合成します。子の葉緑体が共生関係にある共生クロレラ(さまざまな種類の単細胞緑藻類)です。共生クロレラは、エサを消化する食泡由来の生体膜に包まれており、糖類を放出しない共生クロレラは、消化されてしまいます。つまり、ミドリゾウリムシの役に立つかどうかで、共生できるかどうか決まるのです。また、アブラムシの体内には、ブフネラと呼ばれる細菌が共生しています。アブラムシは植物の液を吸って生活していますが、夜にはアブラムシに必要なアミノ酸がわずかしか含まれていないため、不足しているアミノ酸をブフネラに生産してもらっているのです。その一方で、アブラムシは、ブフネラに必要なアミノ酸を提供しています。このブフネラ、元々は大腸菌のような病原菌で、一方的な規制関係だったものが、共生関係に移行したのではないかと考えられています。そうなると、今は一方的な規制関係であっても、将来は変化するかもしれません。例えばピロリ菌。日本にいる種類は、胃がんを誘発する悪玉菌のイメージしかありませんが、海外のピロリ菌は、胃酸の逆流抑制、肥満防止、子どもの喘息やアレルギーの発症を抑えるなどの働きもあるそうです。今はただの病原菌にすぎないピロリ菌も、病気を引き起こさないタイプに変化して、人間と共生関係になるかもしれないのです。=談 すえみつ・たかし 1948年、大阪府生まれ。埼玉大学教授を経て、現在名誉教授。著書に『動物の事典』『生物の事典』(いずれも朝倉書店)がある。 【文化Culture】聖教師023.10.19
November 13, 2024
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やまと絵の伝統と革新東京国立博物館 絵画・彫刻室長 土屋 貴裕この秋、東京国立博物館では、日本美術の王道的テーマでもある「やまと絵」について大規模な展覧会を開催している。そもそも、やまと絵が具体的にどのような絵画なのか、よく知られていないのが現状だと思う。やまと絵とは、平安時代のはじめ頃、日本的な風景や風俗を描くために生まれた絵画のことである。それまでの日本における絵画は、中国絵画に基づく唐絵をそのまま模倣したものだった。それが仮名の発達や和歌の交流とともに、異国ではなく日本の中に美を見いだそうという動きが起こる。こうして生まれたのがやまと絵だった。四季の移ろい、月ごとの行事、花鳥・山水やさまざまな物語など、あらゆるテーマが描かれてきた。平安時代以降もやまと絵は描かれ続けるが、その内容は若干変化していく。それは鎌倉時代後期以降、中国から水墨画などの技法がもたらされ、これが漢画と呼ばれる新しい異国の絵画となると、やまと絵もそのスタイルを少し変化させたためである。こうして中国に由来する唐絵や漢画といった外来美術の理念や技法との交渉を繰り返しながら、独自の発展を遂げてきたのがやまと絵である。 日本の美に流行取入れ千年 最高傑作が華やかに集う 一方で、やまと絵が時代ごとに変貌を遂げたのは、外来美術の影響だけではない。それぞれの時代の文化をけん引する個性的な人物の強烈な美意識、そして隣接分野の造形感覚や最先端の流行がやまと絵というと、どうしてもおとなしくて地味、という印象を持たれる方も多いと思うが、実はこうした美術をめぐる最新の動向をどん欲に、かつしなやかに取り組むことで、やまと絵はこの千年を生き抜いてきたのである。このような「伝統と革新」の意識に支えられた美術的な造形の営みこそが、やまと絵の最も重要な核心であることは、これまで見過ごされてきた点である。今回の展覧会は、平安時代に誕生し、鎌倉時代に新たな美意識を加え、さらに南北朝・室町時代に成熟した輝きを見せた古代、中世やまと絵の全容を、総件数訳二四〇件の作品からご紹介するものである。屏風、絵巻、肖像画といったやまと絵の中心的作品のみならず、美しい書の作品や漆工品も会場には並ぶ。東京国立博物館では三〇年ぶりのやまと絵店となる。展示作品はどれも一級の作品で、一点でも展覧会の目玉になる作品ばかり。今回は全国の御所蔵者のご協力ももと、大変豪華な展覧会を実現することが叶った。そして重要なのが、これらマスターピースをまとめて見るということである。もちろん一点一点の作品は大変優れたものばかりだが、これをまとめて見ることで、やまと絵の歴史、ひいては日本文化の歴史が点ではなく選、そして面で見えてくるはずである。絵巻の傑作である「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻」「伴大納言絵巻」「鳥獣戯画」の四大絵巻、法華経を美しく飾った「久能寺経」「平家納経」「慈光寺経」の三大装飾経など、ここでしか見ることのできない作品群に出合ってほしい。(つちや・たかひろ) 【文化】公明新聞2023.10.18
November 12, 2024
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現代を問う三木清の「人生ノート」戦後最大のベストセラー「人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。」この仏教哲学的命題は、三木清著『人生論ノート』の一節である。三木は、20世紀の日本を代表する哲学者の一人だ。市民哲学者の先駆ともいわれる。三木の残した言葉は、現代の多くの場面で私たちに哲学の重要性を突き付けてくる。三木清は1897(明治30)年、現在の兵庫県たつの市に生まれる。旧制龍野中学から旧制一高、京都帝大に進んだ三木は、京都学派の祖でもある同大学教授・西田幾多郎のもとで哲学を志す。後年三木は、一高時代に西田の主著『善の研究』に出会ったことが「私の人生の出発点となった」と述べている。三木は1922(大正11)年に岩波書店の創業者・岩波茂雄の支援を得てドイツとフランスに留学しリッケルやハイデガーらに師事。パスカルの研究にも取り組んだ。25(同14)年に帰国した三木は翌年、『パスカルに於ける人間の研究』を発表し注目される。余談だが、幹人岩波書店の関係は深く、留学先のドイツのレクラム文庫を手本に27(昭和2)年、三木が日本で初めて文庫本様式を考案し誕生したのが岩波文庫。今も文庫本巻末にある岩波茂雄による「読書子に寄す」の草稿も三木が起こしたものだ。 人間存在そのものに価値利他の心で自他共の幸福 一方で、マルキシズムにかかわったとして治安維持法により検挙され、大学教員を辞した三木は市井の研究者、文筆家として活動する。そして『歴史哲学』『アリストテレス』『哲学入門』『構想力の論理 第一』『人生論ノート』『技術哲学』『読書と人生』はじめ膨大な著作を次々と世に問うた。しかし、治安維持法案の知り合いを助けたことから45(同20)年に投獄され同年9月、豊多摩刑務所で亡くなった。享年48。なお、三木の死で敗戦日本がいまだ思想犯を数多く収監していたことに驚いたGHQが慌てて彼らを釈放させたのは有名な話だ。また『人生論ノート』は戦後もベストセラーとして、当時の若年層は、盛んだった読書などを通じ、同書を熟読し、盛んに議論を交わしたといわれる。『人生論ノート』で三木は、戦時下の滅私奉公の世相の中、人間には幸福追求の権利があると述べ、「成功と幸福を、不成功と不幸を同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。」「幸福が存在に関わるのに反して、成功は課程に関わっている。」と、人間存在そのものが幸福であり、価値があるとした。最近の極右論者が唱えるような、生産性が人間の価値を決めるという全体主義的人間観を、三木は明確に否定している。さらに『人生論ノート』で「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって、生きていることは希望をもつことである。」「断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しないものは真の希望をもつこともできぬ。」と謳った。そして、「鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」と、利他の心で自他共の幸福を目指すことが真実の幸福だと断言している。(K・U) 【文化】公明新聞2023.10.13
November 9, 2024
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生き物って面白い稲垣 栄洋(静岡大学教授)植物と動物の違いはどこにあるのでしょうか——。多くの人は、植物と動物なんで一目見ればわかるよ、と思うかもしれません。でも、その明確な違いをどのように説明しますか。動くか動かないでしょうか、それとも、光合成をするかしないか。この説明もただいいのですが、実は境目を突き詰めていくと非常にあいまいな部分も多いのです。多くの人は植物は動かないと考えているかもしれません。しかし、オジギソウは、はっぱを触ると、葉っぱが動いて閉じます。また、アサガオなどのつる植物は、ぐるぐると旋回しながら巻き付くものを探し出します。一方の動物にしても、イソギンチャクやサンゴは、動くといっても触手を出すぐらい。環境が悪いとイソギンチャクは移動しますが、サンゴの場合は動いて移動することはありません。 植物と動物の違いは? サクラの本数は何本?身近な疑問から不思議さ感じる それでは、光合成をするしないというのはどうでしょうか。確かに、葉緑体をもっていて光合成をするのは、植物の大きな特徴です。中学校の理科でも、葉緑体があるのが植物細胞だと習ったはずです。また、理科の授業では、植物細胞んは細胞壁があるとも習ったかもしれません。植物は光合成をしやすいように進化してきました。植物には葉緑体があり、光合成によって栄養を採るために動く必要がありません。また、光合成をするためには、大きな体がいいため、それを支えられるように細胞の周りを細胞壁という堅い壁で覆ったのです。しかし、葉緑体をもっているのは植物だけではありません。ウミウシの仲間には、葉緑体をもって光合成を行っているものがいます。このウミウシ、生まれた時には葉緑体を持っていないのですが、エサとなる藻類に含まれていた葉緑体を、消化することなく細胞に取り込んで、葉緑体に光合成をさせて栄養を得ています。実は、動物と植物の違いというのは、明確な線引きはできません。それは、富士山の裾野はどこまで広がっているのかを考えるようなもの。地面はつながっており、明確な境目はないのです。 春に皆さんが花見をするソメイヨシノは何本あるでしょうか。そんなもの、実際に数えてみればわかるよ、と思うかもしれません。でも、ソメイヨシノは接ぎ木で増やされるクローンで、どの肝遺伝子は全く同じ。だから同じ時期に、同じような花が一斉に咲きます。動物の場合は、オスとメスが生殖して子孫を残します。しかし、植物の場合は花粉を受粉して種子をつくる種子繁殖だけではありません。ソメイヨシノのように接ぎ木で増やすことも可能ですし、ヨモギのように地下茎を伸ばしていく植物もあります。地下でつながっていれば1個体ですが、地下茎が切れれば2個体です。また、ヒガンバナは3倍体で種子を作ることはできません。そのため、肥大した球根のリン片が分かれて増える栄養繁殖を行います。このように遺伝子情報が同じクローンは、1本なのでしょうか、2本なのでしょうか。樹木にしても、老木が倒れたときに、根本から芽生えてくるのは、同じ遺伝子をもった個体です。単細胞生物は、ただ分裂を繰り返していくらでも増えていきます。このような無性生殖の場合は、遺伝子情報は全く変わりませんが、子孫を残し増やすことができます。そもそも、生きているというのはどういうことでしょうか。命ってなんなのでしょうか。現象的にみると、生き物がやっていることは、単なる化学反応でしかありません。でも、生きているかどうかには、明確な違いがあるはずです。ただ、その違いを説明するのは難しい。生物学では、生物を①外界と膜で仕切られている②自分の複製をつくって増殖をする③代謝をしてエネルギーを生産する、と定義しています。でも、実際には例外も多く、その境目は実にあいまいです。生物学は覚えることも多く、暗記科目だと思っている人が多いかもしれません。しかし、実は非常に身近な学問で、生き物や命の不思議さを感じられるものです。そんな生き物の不思議さを感じてもらいたいと思い、近著『植物に死はあるのか』(SB新書)を出しました。少しでも生物学に興味を持ってもらえたらと思っています。=談 いながき・ひでひろ 1968年、静岡県生まれ。静岡大学大学院教授。植物学者。農水省、県の研究所勤務などを経て現職。著書に『植物はなぜ動かないのか』『雑草はなぜそこに生えているのか』『はずれ者が進化をつくる』など多数。 【文化・社会】聖教新聞2023.10.12
November 8, 2024
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生誕150年・小林一三川崎市市民ミュージアム学芸員 鈴木 勇一郎デパートや歌劇団まで幅広く小林一三は、現在の阪急電鉄を作り上げた人物である。今から150年前の1873(明治6)年に山梨県韮崎の裕福な商家に生まれた小林は、東京に出て慶應義塾で学び、卒業後は三井銀行に入社した。1906(明治39)年に退職し大阪に移住し、梅田から箕面や宝塚への路線を計画していた箕面有馬電気軌道(箕有)の設立を引き受け、開業にこぎつけた。この電鉄会社が、後に阪急電鉄へと発展していくようになったのである。さて小林は、鉄道だけでなく、郊外住宅地の開発、宝塚新温泉やターミナルデパートの開業、宝塚歌劇の創始に至るまで、さまざまなビジネスを展開した人物として知られている。当時、東京や大阪といった大都市では、都心部にビジネスセンターが出現し、郊外へと市街地が広がり始めていた。人口が増え、都市が拡大する郊外に住んで都心部に通うという生活スタイルは、20世紀を通じたトレンドになっていくが、小林はこうした流れを巧みにつかみ、郊外を中心とする目指すべき都市ビジネスのモデルを確立したのである。しかし、当初からこのようなモデルを〝〟として完成させていたわけではない。小林は後に。大阪梅田から箕面や宝塚に向かう箕有の路線を、沿線に何もない田舎電車だったと改装しているが、実際には、古くからの町場や箕面の滝といった名所が数多く点在していた。実は、通勤通学需要が未成熟な初期のころの電鉄は、名所を当てにした行楽輸送に重きを置いていた。初期の箕有でもこうした古いタイプの需要に依処していた。 鉄道沿線に宅地開発 小林は、こうした雰囲気を意識的に郊外住宅地に居住する新たな中間層に適合した、健全で衛生的な空間に作り替えていった。宝塚歌劇は1914(大正3)年に新温泉の余興として始めたものだが、花柳界を想わせる和楽器の使用を禁じるなど、健全なイメージ作りに努めた。さらに西宮線や神戸線を建設し阪急電鉄へと脱皮していく過程で、沿線に住宅地を開発し、関西学院などの学校を誘致したりして、阪急電鉄の「山の手」イメージと結合した「阪神間モダニズム」を形づくっていったのである。こうした小林の一連の新基軸は、彼が慶應義塾再学中に文学に熱中し、小説を執筆するなど、文化に対する造詣が深かったことも無縁ではないだろう。初期の宝塚歌劇では、自ら脚本も手掛けている。美術にも詳しく、彼の集めたコレクションをもとに、後に逸翁美術館が開館している。いずれにせよ小林は、こうした試行錯誤を重ねつつ20世紀型都市ビジネスを確立し、目指すべき方向性を確立した。小林の確立した手法は、その直後の影響を受けた東急の五島慶太だけでなく、全国の電鉄会社の経営の在り方に、大きな影響を与えていった。現在、地方だけでなく都市部も人口が減少し、20世紀とは状況が大きく様変わりしている。21世紀に入り20年以上たつが、私たちはめざすべき新たな都市モデルをまだ確立できないでいる。小林なら、こうした状況にどのような手法で取り組むのか、興味深いところだ。(すずき・ゆういちろう) 【文化】公明党2023.10.6
November 4, 2024
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「海のプール」の魅力ライター 清水 浩史海なのにプールというのは、いったいなにか。私が「海のプール」と呼んでいるのは、海辺にある海水プールを指す。海の近くにあるプールではなく、まさに海岸の波打ち際にあるものだ。海辺の岩場を掘ったり、浅瀬を最小限のコンクリートで囲ったりして作られている。潮の満ち引きによって海水が自然に循環するため、天然プールといえる。ただし海のプールは、全国に20カ所しか残されていない「希少種」だ。険しい海岸で子供が安全に泳げる場所がない、学校にプールがないといった理由で作られたものが多い。石川県輪島市にある鴨ヶ浦塩水プールは、有形文化財にも登録されている。1935年から準備されたもので、学校にプールが造られるまでは競泳プールの役割も果たした。海岸の岩場を掘ったプールは死には、コース番号を示すプレートも残されている。また沖縄県の南大東島には、75年に作られた海軍棒プールがある。海は深い海と険しい崖に囲まれているため、岩礁を掘った海岸棒プールは安心して泳げる貴重な場所として、島の名所になっている。そして東京と八丈島の乙千代ヶ浜には、70年代に作られたとみられる海のプールがある。潮だまりを僅かなコンクリートで囲った、美しいプールだ。全国にある海のプールをめぐってみると、人の手を僅かに加えて作られたものが、長く使われていることに気づく。それは自然の地形を生かした素朴な構造であるおかげだ。一般的に人工的な構造物であればあるほど、維持管理の手間とコストが生じる。海のプールは一度作ってしまえば、あとは自然任せ。干満差を栄養しているため、プールの維持に水道代も水質管理も必要ない。また海のプールは海よりも安全で海況に左右されにくいため、季節や天候を問わず、泳げる機会は多い。急に深くなることもないので、子供や泳ぎが苦手な人でも親しみやすい。海のプールは公共の場所であり、誰もが自由に楽しむことができる。ただ海のプールは海岸の開発や埋め立てなどにより、多くは姿を消していった。その一方で、陸上に人工的なプールが多く作られるようになった。六十年代ごろから公営プールが全国的に整備され、70年代以降は学校プールも多く建設された。しかし海のプールに取って代わった陸上の人工プールは、今や危機に瀕している。学校プールや屋外の公営プールは、老朽化や維持管理コストなどを背景に消えていくのは、やりきれない気持ちになる。それと同時に、維持管理の手間やコストがかからない海のプールの利点が改めて浮かび上がる。海のプールには、独自の美しさがあることも見逃せない。水色のプールと、取り囲む青い海。そのコントラストは美しい。プールは地形に合わせて作られているため、経常はみな個性的だ。時おりプールの縁を飛び越えて流れ込む波も、心を躍らせる。海からプールに魚が入り込むため、鮮やかな水中観察も楽しめる。自然が織りなす変化は、やはり人工的なプールでは味わえない。今も残されている海のプールは、海とプールの妙を合わせ持つ貴重な存在だ。(しみず・ひろし) 【文化】公明新聞2023.10.1
November 1, 2024
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昭和歌謡の誕生と魅力出版ジャーナリスト 塩澤 実信米国のジャズやポップスが底流広辞苑で「歌謡曲」の項目を引くと、「ラジオ・テレビ・レコード・映画などを通じて流布されている大衆的気歌曲。日本放送協会で昭和初めの新奏局などの意、また西洋歌曲(チート)の役として使われ、1933年より70年代まで、主にわが国で西洋の流行曲のリズム・形式と日本伝統的旋律・情感を合わせ持って作曲された流行歌の意で用いられた」と解説されている。ラジオ・レコード・テレビ・映画は、昭和の時の流れと足並みを揃えているから、今日から見て七十年を超えることになる。六十余年にわたった昭和は、明治維新の開幕と同時に、滔々と流入してきた西欧文化が、ほぼ行き渡った時代であった。ドレミの音階で歌われる西欧の七音音階が、小学校の唱歌に採用されていて、小学校教育からゆき渡っていった。太平洋戦争に敗れ、連合国の統治に入った1945年以降は、帝国主義から民主主義へと一変した。世相の変貌をドラマチックに見せつけたのは、ポップス・ジャズを、異の一番にもたらした戦勝局の、米国文化だった。強烈なジャズ音楽のリズムが、「ファ」と「シ」の音を欠いた、七四抜き音階に逼塞していた日本の若者を覚醒させ、極東の島嶼国はポピュラー音楽から開けていったと考えても、過言ではない。以降、ポピュラー音楽の流行が、若者文化を先導していった。 世相風俗が巧みに織り込まれる この流れは、現代へ通じていて、時代の変化変遷は、まずポップスに表示するやに見える。由来「歌は世につれ、世は歌につれ」の慣用句があるが、確かに「流行歌」「歌謡曲」には世相風俗、時代の傾向、潮流が明確に表現されているようである。ただし、流行歌が意味するように、世相風俗は、汲み取っても、その底を流れる思想・心理・哲学に名で言及することは困難ようだ。それ故、流行歌というと一概に、軽佻浮薄視される傾向もある。かつて私は、「日本レコード大賞」の審査員を委託されたが、使い走りの時期を過ごしたことがあった。その間の何とも言いようのない照れ臭さのあったことを忘れない。その理由は、「日本レコード大賞」の名称がまだ世間に行き渡っておらず、歌謡曲の分野で、クラシックの領域まで犯しているのがやや気がかりだったからだった。しかし、その懸念はほどなく、杞憂となった。流行歌、歌謡曲には時代世相が巧みに織り込まれていて、ラジオ・テレビ・映画でエフェクトに用いると、たちまち当時が蘇ってきた。今は、過去を遡る時、当時流行した歌が背後に流す効果音として使われる。例えば、敗戦直後を再現しようとして、笠置シヅ子が舞台を狭しとエネルギッシュに踊って歌うブギウギが流れれば、混乱の時代が容易に蘇ってくる。が、同時に時代の陳腐さも映し出される。最近では、昭和歌謡を聞き直そうと手を伸ばされる方も大勢いらっしゃるようだが、皆さん感じておられることは、懐かしさに加え、若き当時の思い出は溢れ出し、気恥ずかしさで胸が一杯になったことでしょう……。これもまた、歌謡曲が持つ不思議な魅力である。(しおざわ・みのぶ) 【文化】公明新聞2023.9.22
October 29, 2024
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太田道灌とゆかりの地歴史作家 河合 敦荒川に山吹の里伝説 今も愛される名将JR日暮里駅(東京・荒川区)前に、山吹の花を両手に持った娘の銅像がある。これは同地ゆかりの武将・太田道灌(一四三二~八六)の「山吹の里伝説」にちなんで制作されたもので、荒川区に寄贈されて二〇一八年に設置された(「山吹の花一枝像」)。太田道灌がある日、鷹狩りをしていて急な雨にあい、立ち寄った民家の娘に「蓑を貸して欲しい」と頼んだ。ところが、その娘は何も言わず、山吹の一枝を差し出した。立腹して立ち去った同館だったが、のちに、山吹には「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」と古歌があり、娘は「実の」と「蓑」をかけ、「家が貧しく、お貸しする〝蓑がない〟」と伝えようとしていたことを知る。無学を恥じた道灌は以後、歌道に励むようになったという。これは江戸時代の『常山紀談』に載る逸話だが、かつては教科書に掲載されていたので、ご存じの方も多いだろう。この山吹の里が荒川区内(諸説あり)にあったので、「山吹の花一枝像」が置かれたというわけだ。なお、この像の数メートル先には馬に乗った道灌像があり、こちらの方が古い(一九八九年設置)。太田道灌(資長)は、室町時代に扇谷上杉氏の家宰をつとめた武士である。当主を補佐して家臣をまとめるのが家宰職で、政務を代行することもあった。室町時代、関東地方は幕府の出先機関「鎌倉府」が支配していた。鎌倉府のトップを鎌倉公方、それを補佐して政務を担う職を関東管領と呼んだ。ところが、同館の時代には、鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂し、関東管領を継ぐ上杉下山内家と扇谷家が分立、互いに入り乱れて抗争を繰り返していた。同館は築城術に秀で、河越城や岩付城(異説あり)を造り、築城した江戸城を拠点としたが、京都から高名な歌人である僧の万里集九など多数の知識人を招いて詩文を学び、詩歌会などをたびたび催した。まさに関東第一級の文化人だったわけだが、同時に名将でもあった。文明八年(一四七六)、長尾景治が反乱を起こした。関東管領・上杉顕定の家宰だった父の死後、同じ家宰を継げなかったのを不満に思い、主君・顕定に対して挙兵したのだ。関東は騒乱状態になった。この時道灌は顕定を助けて溝呂木城、小沢城、練馬城など次々と景春方の城を落とし、本軍を敗走させ、景春の拠点・鉢形城を夜襲で奪取。四年近くかけて反乱を終息させたのである。かくして道灌の声望は大いに上がり、急激に勢力が膨張した。これに恐れをなしたのが、道灌の主君の上杉定正であった。あるとき道灌を自分の糠谷館に招き、入浴中に暗殺させたのである。刺客の曽我兵庫助に斬り付けられたとき、「当家(扇谷家)滅亡!」と叫んだと伝えられる。五十五歳であった。なお、扇谷上杉氏はその後、道灌が造った河越城をめぐる争いで、当主の上杉朝定が討ち死にしたことで滅亡した。そんな河越城があった川越市の市役所前にも道灌像がある。江戸城があった近くの東京国際フォーラムにも、江戸城を向いて道灌像が立っている。これ以外にも都内や首都圏には道灌の像や碑が多くあるので、興味があれば巡ってみるのもよいだろう。(かわい・あつし) 【文化】公明新聞2023.9.20
October 28, 2024
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なぜ焼きそばはソース味?「焼きそば探訪録」ブログ管理人 塩崎 省吾パロディー料理の一種焼きそばの食べ歩きブログ「焼きそば名店探訪」を運営していなす。これは、消えていく各地の焼きそば店について、記録だけでも残したいと始めたもの。日本全国だけでなく海外までも足を延ばし、〝焼いた麵料理〟を食べ歩いてきました。その中で気になったのが、焼きそばは、いつ、どこで、どのように生まれたのか。また、各地にある〝ご当地焼きそば〟はどのように生まれたのか、などなど。そうして疑問を調べていくと、これまで定説と思われていた約側の期限が違っていることが分かりました。そんな焼きそばの面白さを紹介したく、近著『ソース焼きそばの謎』を出しました。結論としては、焼きそばが発祥したのは大正初期。浅草のお好み焼き屋でパロディー料理の一つとして生まれました。当時のお好み役というのは、現代とは異なり、小麦粉を水で溶いて焼いただけの料理。それをソースで味をつけて香ばしく焼き上げる。いわゆる〝一銭洋食〟〝こども洋食〟でした。近代食文化研究会の『お好み焼きの物語』では、当時のお好み焼き屋の様子を詳しく紹介しています。そもそも、ソース焼きそばとお好み焼きには共通点が多い。鉄板での調理、ソースでの味付け、付け合わせの青のりと紅ショウガなどです。 スパイスが洋食っぽいお好み焼きが屋台で売られるようになる前段階、江戸時代に「文字焼き」というものがありました。水溶き小麦粉で鉄板の上で文字を書いて、焼き上げるというもの。具も入っておらず、子どもの駄菓子の一種だったのです。明治30年代になると、文字焼きの衰退によって、屋台ではお好み焼きが売られるようになっていきます。大正初期のお好み焼き屋のメニューには、「肉天」「えび天」「いか天」などが並んでいます。いわゆる天ぷらではなく、パロディー料理。肉やエビ、イカなどが、どんどん焼きなどの具になっているもの。同じように、カツレツ、しゅうまい、かに玉、おしる粉などの料理も。オリジナル料理と全く似てないのですが、これがパロディー料理として人気を博していました。洋食や中華、和食など、人気料理の名前を借り、あくまでしゃれっ気を楽しむ子ども向けの駄菓子だったのです。ここで生まれたのがソース焼きそば。中華料理の「炒麺」のパロディーです。炒麺は。麵を焼いて餡をかけるタイプの焼きそば。それを同じように麺を焼いて、洋食のシンボルだったウスターソースをかけて、香ばしく焼き上げたわけです。焼きそばのおいしさの決め手は、ソース焼けた香ばしさ。ソースを使うことで、一気に洋食っぽくなり、子どもでも食べられる値段で提供したものです。ソースにはスパイスが含まれ、焦げた時の香ばしい香りが、食欲を刺激します。スパイスの香りというのは、それまでの日本料理にはなかったもの。それが加熱され、香りを増して提唱されるのです。それは非常に新鮮な体験だったことでしょう。 お好み焼き屋とは切り離せない ソース後かけタイプもお好み焼きの一種として生まれた「ソース焼きそば」は大人気となり、全国に広がっていくことになります。戦後の闇市で提供され、GHQによる小麦の援助とともに、より広がりました。上京してきた地方出身者が地元に持ち帰ったり、屋台を運営していた露天商たちが全国に広げたりして、昭和30年代には焼きそばは全国に普及していったのです。全国の焼きそばを食べ歩いていると、不思議な焼きそばを目にします。その一つが、ソースのあとかけタイプの焼きそば。軽く塩やガーリックで味付けされた白い焼きそばに、自分でソースをかけて食べるのです。戦後の物資不足の時代、安価なソースには人工甘味料が使われ、加熱すると苦くなってしまったのです。そこで、風味を損なわないように、ソースの後替えが始まったと考えられます。ただ、現代では、伝統を守り先代の味を残すために、いまだに残っているのです。焼きそばは、安価に誰でも作れる、究極のストリートフード。バーベキューの締めとして、縁日の屋台、学校の文化祭など、野外で食べるのに適した料理です。近年、都内の高級志向の焼きそば店がメディアに取り上げられる機会が増えています。しかし、北関東や東海などで提供されている基本的な焼きそばにも、独特の面白さがあります。そんな焼きそばについても、見直してもらう機会になればと思っています。 =談 しおざき・しょうご 1970年、静岡県生まれ。ブログ「焼きそば名店探訪録」管理人。国内外1000件以上の約側を食べ歩く。本業はITエンジニア。著書に『ソース焼きそばの謎』(ハヤカワ新書)、電子書籍『焼きそばの歴史(上・下)』がある。 【社会・文化】聖教新聞2023.9.14
October 25, 2024
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世界遺産シルクロード展東京富士美術館 学芸部長 平野 賢一日中平和友好条約45周年本年は日中平和友好条約から45周年、東京富士美術館の開館40周年に当たります。この記念の意義を込めて「世界遺産 大シルクロード展」を開催します。東洋と西洋を結ぶシルクロードは、古代から重要な交流、通商ルートであり、多様な民族が興亡した文化融合の地でもありました。本展は中国の洛陽、西安、蘭州、敦煌、新疆地域などの各地の主要な博物館、研究機関の所属する文物の中から、シルクロードの名宝を紹介します。日本と縁が深い唐時代を中心に中国の名品を紹介するとともに、世界遺産に登録された遺跡の遺品を展示します。シルクロードの研究は19世紀後半より始まり、約140年の歴史がありますが、日本では特に半世紀程前にNHKで放映されたテレビ番組の印象が深く、砂漠のかなたや最果ての地に多くの人が憧れを抱くようになりました。学術的にも、奈良の正倉院に伝わる宝物の故地として、ペルシアや中央アジア、ひいてはギリシア・ローマに期限する文化が注目され、交流の歴史が研究されてきました。近年では発掘調査や学術研究がこれまでにない勢いで進められ、新しい発見が続いています。 東西の文化交流の道から一級文物を含む名宝が来日 シルクロードは「長安—天山回廊、カザフスタン、キルギスの3カ国共同で世界文化遺産に申請され、2014年に登録されました。そのうち中国では五つの省・自治区にある22の遺跡が含まれています。シルクロードに関連する中国国内の世界遺産としては、ほかに敦煌の莫高窟(1987年文化遺産登録)、大同の雲崗石窟(2001年文化遺産登録)、また新彊の天山(2013年自然遺産登録)などがあります。東京富士美術館は2019年から足掛け5年をかけて現地調査を重ねて準備してまいりました。本展は中国側の全面的な協力の下、9勝2自治区の広範囲にわたる27カ所の博物館、研究機関から金銀器、青銅器、陶磁器、ガラス、染織、壁画、絵画、模写絵、経典、仏像、歴史資料など中国一級文物200点を展覧いたします。世界遺産認定後、中国国外で初めて行われる大規模なシルクロード展となります。展覧会の構成は3章からなります。第1章「民族往来の舞台—胡人の活動とオアシスの遺宝」では、西方や北方の香り高い遺宝の数々のほか、シルクロードの金貨銀貨、砂漠の正倉院と称されるアスターな古墓群、近年注目されているもう一つのシルクロード、青海地域の出土文物などを紹介します。第2章「東西文明の融合—響きあう漢と胡の輝き」では、《車馬儀仗隊》《六花形脚付杯》など漢時代から唐時代の名品を中心に紹介します。第3章「仏教東漸のはるかな旅—眠りから覚めた経典と祈りの造形」では、投稿で偶然発見された鳩摩羅什訳の《妙法蓮華経》などの貴重な経典や、さらには新彊、中元の各地で収蔵されている仏教技術の優品を紹介します。シルクロードを通じて日本と中国が長い文化交流の歴史を持っていることを、本店であらためて感じていただけたら幸いです。(ひらの・けんいち) 【文化】公明新聞2023.9.13
October 24, 2024
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郷土かるたで学ぶ地域の歴史と文化大東文化大学教授 宮瀧 交二昭和初期から各地で数多く誕生皆様はお正月に〝かるた〟遊びをしていますか? 今日は私たちが暮らす地域の歴史や文化を楽しく遊びながら学ぶことができる「郷土かるた」についてお話します。まずは〝かるた〟の歴史をたどってみましょう。ご存じのようにその語源はポルトガル語のcarta(もちろん英語ではcard)です。広義には南蛮貿易によってポルトガルなどの異国からもたらされたトランプなどのゲームカードも〝かるた〟になりますが、日本では一般に「百人一首」や「いろはかるた」のような「読み札」と「取り札」からなるものを指します。これに類する遊びとしては、蛤の貝殻を左貝と右貝の二つに分け、それぞれの内側に和歌の上の句・下の句や絵画を描いて、他の蛤の貝殻を見つけ出すという「貝合わせ」遊びが、すでに平安時代から貴族の間で人気を集めていました。こうした遊びが南蛮渡来のゲームカードと結びついて、江戸時代初期には、現在の「百人一首」のような〝歌かるた〟、注いて「石の上にも三年」(どんなに困難なことでも、じっと我慢して努力すれば、いつかは必ず報われる)というたとえや諺などを記した〝たとえかるた〟の「読み札」の冒頭に、いろは四十七文字を一つずつ用いた「いろはかるた」も、江戸時代の終わりまでには誕生したようです。さて、このような〝たとえかるた〟とりわけ「いろはかるた」をはじめとする各種の〝かるた〟は、明治政府が欧米にならって導入した学校教育の現場や庶民の家庭などでも、一種の教育玩具として、ますます普及していったようです。そして、地域の歴史や文化を遊びながら学ぶことが出来る〝かるた〟として昭和期に作られたのが「郷土かるた」です。 『上毛』は今も県民に高い人気 「郷土かるた」は、都道府県、あるいは市区町村を単位として作られていて、その総計は二千種類を超えているようです。そのような中、「郷土かるた」の代表とも言うべき長い歴史と県民からの高い人気を誇っているのが、昭和二二(一九四七)年に群馬県で誕生した『上毛かるた』ではないでしょうか。群馬県内の小学校では早くから授業に導入され、よく、昭和二三年から毎年「上毛かるた競技県大会」も開催されています。今年二月には前橋市のぐんま武道館で第七四回大会が盛大に開催されたようです。「浅間のいたずら鬼の押し出し」以下、五十音に「読み札」が作られていて、登場する群馬県ゆかりの歴史上の人物には、高校の歴史教科書等でもおなじみの内村鑑三、関孝和、田山花袋、新島襄、新田義貞らがいますが、その一方で、船津伝次平(農業技術指導者)、呑龍上人(浄土宗の高僧)、塩原太助(豪商)といった人物は、全国的な知名度は決して高くはありませんが、『上毛かるた』に取り上げられていた故に、群馬県民の間では高い認知度を誇っているようです。どうかお近くに群馬県出身の方がおられましたら、この『上毛かるた』についてたずねてみて下さい。きっと話が止まらなくなること間違いなしです。ちなみに私が暮らす埼玉県にも、昭和五七(一九八二)年に誕生した「さいたま郷土かるた」をはじめ、六十種類前後の「郷土かるた」がありますが、群馬県のようには普及しておらず残念です。また、西日本地域にも「郷土かるた」はありますが、その種類は少なく、「郷土かるた」は〝東高西低〟のようです。(みやたき・こうじ) 【文化】公明新聞2023.9.3
October 14, 2024
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ことわざで知るロシアジャーナリスト 小林和男さん暮らしや考えに深く関係文学や音楽をはじめとする業績に魅了されてロシア語を学ぼうと入った大学の最初の授業。教授を務める佐藤勇先生からロシア文字の短文が並ぶプリントが配られた。すべてロシアの〝ことわざ〟だという。ロシア文字を読むのもおぼつかなかったが、先生は「声を出して覚えるように」とおっしゃる。懸命に覚えた。この時に覚えたことわざが、放送局の記者になり、念願かなって赴任したロシアで偉大な力を発揮した。現大統領のプーチン氏をはじめとする政府の要人、バレエのプリセッカヤら芸術・文化の関係者、市井の人々まで、数えきれないほどロシアの人々とあってきたが、誰もがこのことわざをよく口にするのだ。ならばと、学生時代に覚えたことわざを私も使ってみた。とたんに相手の表情が緩む。仲の良い友人に接するような態度になるのだ。言葉にして数秒。そこに人生の機微が詰まっている。佐藤先生はロシア人のメンタリティーを深く理解しておられたのだろう。2022年、ウクライナ侵攻が始まった。ロシアの人々はどんなことわざを口にしているのだろう。モスクワの友人に尋ねると、多くの人が「頭じゃロシアはわからない」といっているという。19世紀末のロシア帝国の外交官で詩人だったフョードル・チュッチェフが作った4行詩「頭じゃロシアはわからない/並みの尺度じゃ測れない/その身の丈は特別で/信じることができるだけ」の冒頭だ。「一人の言葉だけではことわざにならない」という。歳月を重ねて暮らしや考えに深くかかわっていることわざから考えれば、「頭じゃわからない」ロシアがいくらか身近になるのではないか。以前から思いを実現しようと去年の夏に書き始め、今年7月に上梓したのが、『頭じゃロシアはわからない 諺で知るロシア』(大修館書店)だ。ロシアの人たちが親しむことわざを、できるだけ多く紹介した。例えば「歌あれば事はうまくいく」「語らいは道中を短くし、歌は仕事を短くする」「物語は作り事。歌は真実」は、いかにも〝歌の国〟ロシアらしい。ロシアは〝弁舌の国〟だ。だれが話しても起承転結があり、文章になっている。詩人プーシキンの作品を子どものころから暗唱するのが国語教育の基本だ。対話の時も、目線を大切にすることが身についている。文書に目を落として読み上げるなど言語道断。失礼だけで収まらず、軽く見られてしまう。集会などでマイクの前に立つ時も、メモをポケットから取り出して棒読みするようなことはない。ゴルバチョフ氏もそうだった。私が取材するときは常に膝詰めで丁々発止。「心から話し合いたい」という気持ちが伝わってきた。ニューヨークでインタビューした時のことも印象深い。カメラスタッフが映像の効果を考えて氏と私の座席をセットしてくれていたのだが、その距離が遠いと感じたのだろう。部屋に入ってきた氏は夫人のライサさんに「手を貸して」と言い、自ら椅子を動かして距離を近づけ始めたのだ。本書で紹介したのは全て私自身が体験したこと、感じたことだ。「目は遠くを見るが、知恵はもっと先を見る」という、ロシアの大地のようなスケールを感じさせることわざがあるが、本書が世界の未来を考える何かの手がかりになれば望外の喜びである。=談 こばやし・かずお 長野県生まれ。NHK入局後、モスクワとウィーンに14年にわたり駐在、特派員・支局長を務める。NHK解説主幹などを歴任。モスクワジャーナリスト同盟賞など。民間外交推進協会専門委員。『エルミタージュの緞帳』『1プードの塩』など著書多数。 【文化Culture】聖教新聞2023.8.31
October 12, 2024
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東欧の小国の悲劇を生き生きと描出東京外国語大学名誉教授 西永 良成読者を解放 7月に逝去したチェコ出身の作家ミラン・グンデラの「笑い」チェコの功名な批評家フヴァチークが、「グンデラは自らの作品の主題を選ぶ必要はなかった。時代が彼の作品の主題を選んでくれたのだ」と述べているように、彼は1948年のチェコの共産主義革命から、68年の「プラハの春」とソ連によるその弾圧、それに続く非人間的な、「市場課」の時期、そして89年の「ビロード革命」まで、東欧の小国の悲劇を『冗談』『生は彼方に』『笑いと忘却の書』『存在の耐えられない軽さ』『無知』などの小説を生き生きと描出し、20世紀の壮大かつ過酷な社会実験というべき、共産主義的実存の記念碑的な作品群を残した。グンデラはこのようなチェコ現代史の悲劇を描いた作品によって歴史に残る作品になるに違いないが、忘れてはならないのは彼の本領はもともと喜劇にあったことだろう。このことは『おかしな愛』「別れのワルツ」「不滅」「無意味の祝祭」のような喜劇的な作品の系列を読むことで容易に納得できる。 喜劇的なものが残酷に無意味さ容赦なく暴露 「悲劇的なものは人間の偉大さという幻想を差し出すことによって私たちに慰めをもたらす。喜劇的なものはそれよりも残酷であって、容赦なくあらゆるものの無意味さを暴露する……喜劇的なものの真の天才とは最も人を笑わせるものたちのことではなく、喜劇的なものの未知の地帯を明らかにするものたちのことだ。〈歴史〉は常にひたすらまじめな領域だとみなされてきた。ところが〈歴史〉には未知の喜劇的なところがあるのであり、これは(受け入れるのが困難な)性に喜劇的なことがあるのと同じである」と言っているが、グンデラが「喜劇的なものの未知の地帯」を最初に取り上げたのは『可笑しな愛』であり、彼はここで例外なしに滑稽な性の形態を描いて見せた。これ以外にも『緩やかさ』や『無知』でも、『チャタレー夫人』の愛読者ならきっと憤慨するに違いないような非叙情的な性の情景を描き続けていた。喜劇的なものが残酷にあらゆるものの無意味さを容赦なく暴露するという点で、グランデらの考えをもっとよく示しているのは最後の小説『無意味の祝祭』である。彼は時に神聖視される歴史や性愛を含むあらゆるものを笑いのめすこの小説の登場人物のひとりに、「ねえ、きみ、無意味とは人生の本質なんだよ。それはいたるところで、つねにわれわれもつきまとっている。……しかし大切なのは、それを認めることだけでなく、それを、つまり無意味を愛さなければならないということだよ」とまで言わせる。このようにグンデラら読者に慰めや励ましを与える作家ではなく、笑いによって読者を解放する作家だった。それは「あるがままの人生は敗北である、ひとが人生と呼ぶ避けがたい敗北に直面して、私たちのこのされる唯一のことは、人生を理解しようと努めることだけだ」ということをよくよく見極めた認識だった。(にしなが・よしなり) 【文化】公明新聞2023.8.25
October 8, 2024
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世界から注目される豊岡の取り組み中貝宗治(豊岡アートアクション理事長)一流が来る創造の場に皆さんは、フランスのカンヌやアヴィニヨンをご存じでしょうか。カンヌは世界三大映画祭の一つカンヌ国際映画祭が開催され、アヴィニヨンは世界で最も成功した演劇祭の一つが開催される町、小さな地方都市ながら、世界中の多くの人が知っている「小さな世界都市」なのです。兵庫・豊岡も、何かに突き抜けた魅力を持つ「小さな世界都市」を目指しています。それを伝えたく、近著『なぜ豊岡は世界に注目されるのか』(集英社新書)を出しました。一番の取り組みは、演劇の町づくり。演劇の町づくりというと、皆が演技気を上演し、それを見て楽しむ、というメッセージを持つかもしれません。でも、それでは、自分は関係ないと思う人も多く出てしまいます。個人の好き嫌いではなく、演劇を町づくりに生かしていこうという取り組みなのです。実際、9月に行われる豊岡演劇祭には、昨年には約1万8000人の来場者がありました。城崎国際アートセンターは、宿泊しながら部隊を作り上げる「アーティスト・イン・レジデンス」として、一流のア-ティスとが世界中からやって来ます。これを観光につなげ、町を元気にしていくのです。また、子どもたちはコミュニケーション能力を高めるため、学校で演劇を学び、最近は、認知症の人とのコミュニケーションに演劇を生かせないかという取り組みも進められています。 演劇によって町を活性化小さな世界都市をアピール 地方に残る日本らしさこれまで豊岡は、コウノトリ野生復帰で注目されてきました。また、農薬に頼らない「コウノトリを育む農法」を普及。安全・安心な農作物として人気を集めています。さらに、城崎温泉は日本の伝統的な風景が残されている温泉街として、海外の人たちからの観光人気が高くっています。出石にしても、江戸時代の城下町のような情緒が残っています。海外の人たちが観光に来たら、まず東京、大阪、京都などに行くことでしょう。でも、その次となると、都市部ではなく、日本らしさが残っている地方になるはず。豊岡はその候補地になるわけです。豊岡では、コウノトリ、インバウンド、演劇に加え、ジェンダーギャップの解消を加えた4本の矢を考えています。人口減少を考えると、問題なのは若者がいなくなっていること。高校を卒業し、都会の大学へと進学した和漢のが、就職時には地元に戻ってこないのです。特に女性の減少が問題です。現在は、市内103の企業がジェンダーギャップを、どう解消するかに取り組んでいます。その中から、初めて女性管理職が誕生したり、社長自らが1カ月の育児休暇を取ったりするケースも。まだ、ゆっくりですが、変わり始めています。 多様性を生かせる社会コウノトリが空を舞い、伝統的なものにひかれて海外から多くの人が集まり、豊岡を素敵な場所だと言ってくれる。また、演劇が世界と結びついて、豊岡が創造の場になる。町の人々も、演劇的なワークショップがコミュニケーションのために役立つ。さらに、ジェンダーギャップがかなり解消され、男性でも女性でも、障がいがあってもなくても、お年寄りでも若くても、それぞれに居場所があり、ちゃんと社会的役割を果たしている。そんな多様性が生かされている町になったら、本当に素敵だと思います。そこに向かう取り組みが、少子化、人口減少という危機を克服することにもつながるのではないでしょうか。ローカルの魅力は、大都市のように「大きい・高い・速い」ではありません。大切なのは、何かに突き抜けようとする意識を持つこと。突き抜けられそうなものを見つけ、磨いていく。それが町の魅力になり、町を変えていくことになるのだと思います。=談 【文化Culture】聖教新聞2023.8.24
October 8, 2024
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豊かな想像力で育まれやがて芽吹く種子アニメ研究家 氷川 竜介 —宮崎 駿監 督作品-君たちはどう生きるか宮崎駿監督ならではのイマジネーションの奔流。卓越した描写力によって空想世界にグイグイと引きずりこまれるアニメーションの映画だ。「死別した母に再会したい」「新しい母親になじめない」など現実と齟齬を生じた少年が、「ここではないどこか」に旅立ち、何か違うルールを持つ世界で現実を再検討できる経験を積んで帰還する。つまり、神話から連綿と紡がれてきた物語の王道が援用されている。ただし、目の前に現れる事象には、遊園地のようなガイドや安全装置が付いてこない。観客は自分の内面にあるものだけで判断し、受け入れたり拒絶したりしながら、意志の力で先へ進む必要がある。振り落とされる人も少なくないだろう。筆者は言外に示されたイメージの総体から、脳内が刷新された気分がわき上がりつつ、劇場を出た。そんな体験性の強い、稀有な映画とも感じた。場面の写真の一枚すらなく(執筆時点)、具体的な解説が皆無だったのも、体験の純度を高めるためだろう。最終的に問われるのは「君たちはどう語るか」だから、「うまい宣伝手法ですね」などと言ったとたん、映画の側から冷ややかな視線が飛んでくる。迂闊な語り方をすると底の浅さが露呈する、そんな怖さも備えているのだ。これは、「あれは何だったのか」と引っかかったところを反芻し、自分の変化や成長に即して再吟味できる点で「残る映画」だとも思った。アニメが「コンテンツ」と呼ばれ始めて以後、マネーメイキング目当ての「消費物」の性質を帯びた作品が無数に繁殖した。この映画に登場するインコの群れもそう見えたりするが、ただしそんな下世話な反骨心だけで、この映画は作れない。むしろ宮崎駿監督が「物語」に対して、それまでよりも誠実に向き合っている点に心を動かされた。実は、題名に引用された吉野源三郎の小説以外に、本作に影響を与えた小説はもうひとつある。『失われたものたちの本』(ジョン・コネリー著、東京創元社)という児童文学で、監督の推薦文にも帯に添えられている。同署は、母と死別した少年が新しい母とその子になじめず、姿を消したい血縁の遺物から「物語の世界」へ旅立つという内容だ。構造的に関係があるわけだが、もっと注目すべきは、亡き母が「物語とは何か」を主人公の少年に語る序盤部分である。人の想像力に根を下ろし、その人を変えるものが物語であり、決して固定されたものではないと、そんな趣旨が語られている。映画『君たちはどう生きるのか』に詰めこまれた諸要素も、観客の深奥深くに忍び込み、やがて芽吹く「想像の種子」だと考えられる。だとすると題名は、「君たちはその趣旨を育てられるか?」という問いかけではないか。映画の中で傷つき汚れた少年の心は浄化され、拒絶していた他者を「お母さん」「友だち」と呼べるように変わる。「さて、君たちは?」と考えれば、これも一つの種子であろう。こうした問いかけと答えを、多くの人と末永く語り合えるという点で、本作は、「今だからこそ必要とされる物語」になったのではないだろうか。 ひかわ・りゅうすけ 1958年生まれ。東京工業大学卒。著書に『日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析』(KADOKAWA)など。 【文化】公明新聞2023.8.23
October 7, 2024
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「羅生門」教科書で触れる文学日本近代文学館事務局 宮川 朔芥川の代表作として定番教材に教科書で多くの方に目に触れてきた芥川龍之介「羅生門」には、いくつもの草稿類が存在することをご存じだろうか。日本近代文学館の展示では、近代文学の専門家を編集委員としてお招きし、最新の研究動向を交え構成している。夏季企画展では、「教科書のなかの文学/教室のそとの文学」と題したシリーズで、高校教科書の定番教材となっている芥川龍之介「羅生門」、中島敦「山月記」、森鴎外「舞姫」、夏目漱石「こころ」の四作品を順番に取り上げている。今年度は二〇一七年度に続き「羅生門」をテーマに開催中だ。芥川の研究者である庄司達也先生を編集委員としてお迎えし、現役の高校生から以前教科書でこの作品に触れた方まで、一つの作品をじっくり見直す時間を共有できる展示となった。全体は二部構成となっており、第二部は紅野健介先生の編集の下、「羅生門」搭乗以前の小説の歴史を振り返る展示となっている。誕生の背景にはいくつもの苦労山梨県立文学館所蔵の「羅生門」関連ノートなどの資料からは、見事な文章と筋の展開で読書に鮮烈な印象を残すこの短編が、一気呵成に書き上げられたものではなく、一定の準備段階を経て完成したことがわかる。のちに「下人」とされる主要な登場人物の名前を、「交野」という大阪の摂津あたりの地名を関していくつも試すなど、さまざまに試行錯誤を重ねてきた小説なのだ。雑誌に発表後、作品に対する批評はわずかで、友人たちからも積極的に評価されることはなかったが、芥川は第一短編集の表題を『羅生門』とし、単行本収録時には都度手を入れて、表現を見直し続けた。そして生まれたのが、現在私たちが親しんでいる「下人の行方は、誰も知らない。」という末尾の一文だった。芥川龍之介という広く東西の芸術文化に通じ、それらを珠玉の短編軍に消化していった「天才」の代名詞である人物との見方があるが、代表作「羅生門」の誕生の背景には、いくつもの苦労があったことが窺える。芥川は「羅生門」と同時期に書いた「鼻」を敬愛する夏目漱石に激賞され、作家として幸福なスタートを切ることになるが、彼が「羅生門」にかけた時間を知ると、この作品が現代の私たちにとって大切な表現を選び取るための青春の時間を持った。一人の人間であることに思いを馳せることができる。作家を身近に感じていただくことができれば、教科書のなかの文学に、教室の外で親しんでいただくための準備は、すでに整っているかもしれない。(みやかわ・さく) 【文化】公明新聞2023.8.20
October 2, 2024
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ドライブインの現在ノンフィクションライター 橋本 倫史 復興の道路網とともに拡大 高速道路の整備などで減少1950年に横浜で撮影されたドライブインの写真を確認すると、売店を意味する「PX」の文字が掲げられ、アメ車を乗り付けてハンバーガーをほおばるアメリカ人の姿が映し出されている。マクドナルト日本1号店のオープンは1971年だから、当時はハンバーガーになじみのある日本人はほとんどいなかったはずだ。当時のドライブインには、アメリカの輝きが宿っていた。進駐軍とともに日本に普及したドライブインは、道路網が整備されるにつれ、全国各地に拡大してゆく。戦後の復興が進み、生活が落ち着くにつれ、バス旅行が人気を博した。そこで、行楽地や景勝地のそばにドライブインが開店する。あるいは、モータリゼーションの進展とともにトラックが物流の主役となっていくにつれて、幹線道路沿いにドライブインが軒をつられるようになった。だが、高速道路の整備が進んだ上に、コンビニやファミレスが普及したことで、ドライブインは数を減らしてゆく。ドライブの途中に立ち寄るとすれば、高速道路沿いならサービスエリアになるし、一般道路沿いなら道の駅に立ち寄る人の方が現在は多いだろう。こうしてドライブインは少しずつ「レトロ」な存在となったのだ。 一軒一軒に戦後と土地の歴史時代が一巡りし新規の出店も 今の感覚からすると、「どうしてそこに?」と首を傾げたくなるような立地の店舗もあるけれど、そこには必ず理由があり、土地の歴史が刻まれている。一軒一軒のドライブインに、戦後日本の歩みが刻まれているのだと、取材を通じて感じた。終戦から78年を迎えた今、戦争体験の継承に焦点を当てられている。戦争の記憶が遠い昔になりつつある今、戦後という時代も遠のきつつある。昭和57年生まれの私にとって、「戦後」という言葉はどこか観念的な響きを帯びていたけれど、ドライブインに刻まれたひとつひとつの記憶を辿っていくことで、戦後という時代を立体的に生き生きしたものとして感じられるようになった。コロナ禍になる前は、惜しまれつつも閉店したドライブインの跡地を利用した町おこし企画やアートプロジェクトも2軒ほど見かけた。いずれの場合も、地域に愛されたお店の記憶を未来に引き継ぎたいと立ち上げられた企画だった。ドライブインの記憶はどう引き継がれてゆくのか。神奈川県平塚市にある「ペッパーズ・ドライブイン」には、店主のこだわりのアメリカンな空間が広がり、オールディーズが流れる「レトロ」な空間だ。だが、オールディーズをリアルタイムで聞いたことのない若い世代でも、来店すると「懐かしい」と感想を漏らすのだそうだ。ここ最近は、新規出店するドライブインもある。時代が一巡したことで、ドライブインはかえって新しい存在となり、脚光を浴びつつあるのかもしれない。 はしもと・ともふみ 1982年生まれ。リトルマガジン『HB』などを手がける。新著に『ドライブイン探訪』(筑摩書房)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(木の雑誌社)など。新聞や雑誌等で連載も多数。 【文化】公明党2023.8.18
September 30, 2024
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ドローンの可能性榎本幸太郎(国際ドローン協会代表理事)手軽に空撮が楽しめる皆さんはドローンを知っていますか。最近では、スポーツの試合やコンサートなどの空撮だけでなく、被災地などへの物資の運搬、橋梁やダムなどのインフラの点検などにも利用されるようになってきました。多くの人は〝ラジコンの進化版〟だと思っているかもしれません。実は〝空の産業革命〟ともいうべき潜在力を秘めていると考えています。そんな、ドローンの面白さや可能性を伝えたく、近著『ドローンの超入門』(青春新書)を出しました。どこで飛ばせるかなど、初心者向けの注意点も載せてあります。最近のドローンは非常に高性能で、重さが100㌘未満のトイドローンでさえ高画質カメラが搭載され、自律・自動飛行が可能で、リターンホーム機能(自動的にスタート地点に戻ってくる機能)もあり、初心者でも簡単に空撮などが楽しめるようになっています。近著の中でも、トイドローンで空撮した動画(https://youtu.be/kgdmf69_Zj8)を紹介しています。見てもらえれば、トイドローンでもここまでの映像がとれるんだと思います。ただ、100㌘以上のドローンは航空機となり、航空法で飛ばし方などが細かく規定されています。100グラム未満であっても、人と接触すれば相手にけがをさせてしまいます。ヒトの多い場所で飛ばすのは危険ですし、周囲の建物や車などにぶつからないように気を配らなければなりません。また、自治体や公園などの管理者が禁止している場合もありの出注意が必要です。 簡単に入門でき 奥深い面白さが 期待が高まる農業分野ドローンが期待できるのは、空撮だけではありません。昨年、利根川のヨシ焼に初めてドローンを使いました。ドローンに搭載した赤外線カメラで監視するとともに、スピーカーで避難を呼びかけたのです。上空からアナウンスをすることで、こちらが燃えているので逆方向に逃げてくださいとか、こちらには近付かないようになどを知らせました。また、赤外線カメラで燃え残っている場所をチェックし、延焼を防ぐこともできました。このように、ドローンで安全レベルを上げることができるのです。地震などの災害時、災害無線などで避難を呼びかけますが、実は地形の影響で聞こえない場所が多くあります。そこで、ドローンをゆっくり飛ばして避難を呼びかければ、そんな心配はなくなります。子どもたちの登下校時の見守りや、施設の巡回警備にも役立ちます。多くのカメラを設置するより、メリットがあるかもしれません。また、一番期待が高まっているのは農業分野。就農人口が減り、高齢化が進む中、人での代わりにドローンの活用が期待されているのです。例えば、農薬や肥料の散布。手作業でまくのは大変です。でも、ドローンであればゆっくり飛びながら、満遍なくまくことができます。また、特殊なカメラと連動させれば、作物の育成状況に合わせて肥料の量を変えることも可能です。田んぼや畑ごとに収穫量を均一化でき、使用する肥料の無駄をなくすこともできるのです。 生活必需品への潜在力昨年、法改正によって、ドローンの「ユジン地帯での補助者なし目視外飛行」が認められようになりました。もちろん、だれでも自由に飛ばせるわけではありません。第一種期待認証を受けた機体を、一等無人航空機操縦士の資格を取得した人だけが、飛ばすことができます。これによって、どう変わっていくのか、国土交通省の説明によると——。スタジアムなどでのスポーツ中継、映像撮影のための空撮が可能になります(これまでは競技をしている人の上空を飛ばすのは可能でした)。市街地や山間部、離島などへの医薬品や食料品、生活必需品の長距離輸送が可能になります(ドローンを見ながら飛ばす目視飛行でなくても可能になったため)。現在、一等の取得者は全国で150人程度という狭き門。学科も実技も非常に難しいのですが、先月、障がいのある一人の高校生が合格しました。実は、この資格、彼女のような障がい者にとってのバリアーをなくすことが可能だと思っています。遠隔操作が可能になるため、自宅のコントローラーを使って、遠隔地のドローンを操作することができるのです。今後、ドローンは、農業・物流・点検・空撮・警備・測量・災害調査など、いろいろな分野で利用されていくでしょう。まさに生活必需品になる潜在力を秘めていると思うのです=談 えのもと・こうたろう 1973年生まれ。一般社団法人国際ドローン協会代表理事。一等無人機操縦士。10歳から無線飛行機の操縦をはじめ、40年にわたり無人航空機を操縦してきた、日本におけるドローン操縦の第一人者。近著に『飛ばせる・撮れる・楽しめる ドローン超入門』があ。 【文化Culture】聖教新聞2023.8.17
September 28, 2024
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文芸家は戦争をどう詠んだか歌人 酒井 修一「歌」は利害を超えて人に寄り添う心の産物日露戦争回線から三か月がたった一九〇四年五月、森鷗外は陸軍軍医部長として遼東半島に上陸する。 白きおくり黄なる迎へて髪長き宿世をわぶる民いたましき『うた日記』 森 鷗外 ここは董家屯という町。白人のロシア軍が撤退し、入れ替わりで「黄なる」日本軍が入ってくる。現地の中国人(「髪長き」は満州族の辮髪だろう)は嫌でもこれを迎えなければならない。何の宿縁か、次から次へとひどい目に遭い続けるのだ。日本軍にとても、凄惨な戦いは目の前に迫ってくる。しかし、鷗外はこの町で、高らかな進軍の歌ではなく、現地の人々に深い同情を寄せるような短歌を詠んだ。軍医部長といえば、少将待遇の高官だ。一方で戦意高揚に努めながら、他方でこんな作品も残したのである。軍人である前に一人の人間として、世界と向き合っていたのだ。 涙拭ひて逆襲し来る敵兵は長き広西学生軍なりき「アララギ」一九三九・八渡辺 直己 時代は下って二中戦争のさなか。漢口(今の武漢の一部)で日本軍に挑んでくる敵兵を見やる。すると、その髪型から。彼らが広西の少数民族の出であることがわかる。漢民族の正規兵ではなく義勇軍の兵士なのだった。この歌では、初句「涙拭ひて」に作者の気持ちが込められている。先の鷗外とも通う同情があるが、相手は戦闘員であり、敵兵である。激戦地でこのような同情の心を持つのは(作者にとって自然なことだったかもしれないが)危険なことだ。さらに、単価として発表するには相当の勇気が必要だったろう。一九三九年といえば、日本の国粋主義が著しく先鋭化した時代である。この歌を詠んだ渡辺はもとより、検閲で引っかかるかもしれないこの歌を「アララギ」に掲載した編集者、特に渡辺の師であった土屋文明の決断がここに見られる。文明自身も、 ただの野も列車止まれば人間あり人間あれば必ず食ふものを売る『韮(かい)青集(せいしゅう)』 と、通常の暮らしを営む人間の普遍性を詠った。敵兵は敵国の元首とは違う。国の違い、立場の違いで敵味方に分かれた無名の市民なのである。ここヒューマニズムの入る場所があり、歌が生まれる由縁があったのだ。 習近平、ウラジミール・プーチンありありと雲のごとく顔変はりたり「かりん」二〇二二・六米川千嘉子 こちらは、一年ほど前の歌。ロシアによるウクライナの侵略が高まっている今の作品である。習近平もプーチンも、すさまじい抗争を繰り返して、今の地位まで上り詰めた。彼らの若い頃の写真、また元首になったばかりの映像などは、テレビまでしばしば見る機会がある。彼らの「顔」は、長期政権を担い続けることで、以前よりもずっとふてぶてしくて険しいものとなった。この変化を米川は、「ありありと雲のごとくに」と表現した。権力者が時を経て変貌するありさまは、小説や映画の格好のテーマである。米川は、リアルタイムでこれを観察し、なにごとかを感知し、「雲のごとくに」の一首を得た。日露戦争の歌。第二次大戦へとつながる日中戦争の歌。これら戦争の歌を通じて私たちの知ることは、文芸家の心は、利害を超えて人間に寄り添うものであるということ。その心の産物としての歌が失われる時がもし来たら、その時にこそこの世界から「人間」がいなくなる時ではないかと思う。(さかい・しゅういち) 【文化】公明新聞2023.8.6
September 27, 2024
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ヒトの老後が長いのはなぜか?東京大学定量生命科学研究所所長 小林 武彦全ての生物に共通でない「老い」僭越ながら、「生物学的」見地からシニアの方を励ます本を書かせていただきました。お年を召して仕事も一段落し、気力・体力が少し下がったなと「老い」を感じられておられる方もおられるでしょう。そもそもなぜ「老い」があるのでしょうか。生物学で何かわからないことがあると、その進化について考えます。なぜなら生物は進化によって作られたので、その大元を辿れば何かわかるのではないかという発想です。進化とは「変化と選択」が繰り返すプログラムのようなものです。変化は多様性を作り、選択はその環境に適応したものが生き残り、他は死ぬことです。言い換えれば、死は進化の原動力であり、死ぬものがけが進化できて現在も地球上に存在しているのです。詳しくは前作『生物はなぜ死ぬのか』(講談社現代新書)をご覧くださると幸いです。それでは「老い」はどうでしょうか。実は老いは死と違いすべての生物に共通ではありません。たとえば、チンパンジーはヒトとゲノム(遺伝子情報)が99%同じですが、野生ではヒトのように老いた個体はありません。その理由を考える前に少し老いの定義について説明させてください。ヒト以外の動物は「最近、近くのものが見えにくいんだよなー」など老いを信仰できないので、便宜上メスの閉経を老いの目安とします。閉経前、つまり子供が産める間は老いていないとみなします。ヒトの女性の場合は50歳ごろに閉経を迎えます。実際にはこの年齢で老いを感じている方はそれほど多くはないと思いますが、他の動物と比べるためにここでは閉経を基準にさせていただきます。 文明発展にシニアの必要性 興味深いことに野生のチンパンジーは閉経後すぐに死んでしまいます。つまり生涯子供を産むことができ、老いないのです。さらに他の動物を見てみると、なんとヒト以外の陸上の哺乳動物はチンパンジーのように老いずに閉経後速やかに死んでしまうことが分かりました。つまり老いるのはヒトだけです。チンパンジーの寿命は大体40-50年で閉経までの期間はヒトとあまり変わりません。これにヒトの場合約30-40年の「老後」が加わり、その分寿命が長くなっているわけです。そこで本題です。ではなぜヒトにだけに長い老後ができたのでしょうか。一番の近縁種であるチンパンジーと分岐した後に、老後ができたことになります。いくつかの説がありますが私の考えとしては、人の共同体が大きくなり文明が発展するにつれ、知識や経験豊富でしかも集団のまとめ役となる「シニア(年長者)」の必要性が高まったからだと思っています。つまりシニアには集団内での重要な役割があり、積極的に「シニア」のいる集団が選択されて寿命が延びたのです。さて現在はどうでしょうか。せっかくのシニアの活躍で得た長い老後が、有意義に使われているでしょうか? 将来老いる人、また現在すでに老いを感じられている人にはぜひ読んでいただきたい本である。(こばやし・たけひこ) 【文化】公明新聞2023.8.4
September 26, 2024
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注目されるクルーズ船大阪公立大学客員教授 池田 良穂ヨーロッパが先頭走る日本の造船は世界でもトップレベルにあります。しかし、比較的安い船、例えば、中・小型の貨物船やタンカーなどに関しては、かんこく。中国に追い抜かれてしまいました。今や造船の生産量(トン数の合計トン数)は、中国、韓国。日本の順です。ただ、売上高に関しては、横並びの状態。つまり、日本は量は少ないけれども単価の高い船をつくっているということになります。ヨーロッパとの比較をしてみると、日本は、50年前にヨーロッパの造船所の生産量を抜きました。現在、ヨーロッパの生産量は日本の5分の1程度。しかし、売上高は日本よりも単価の高い〝超高級船〟を造っているのです。代表的なものが1隻100億円もする巨大クルーズ客船です。世界最大の「ワンダー・オブ・ザ・シーズ」など有名な豪華客船を造っているのは、ほとんどすべてがヨーロッパの造船所なのです。そうして日本で造らないのでしょうか。貨物船と客船では、求められる性能が異なります。貨物船であれば、エンジンなどの振動や音が大きくても問題ないでしょう。しかし、クルーズ客船の場合は、余計な振動や音は厳禁。エンジンやスクリューなどから発生する振動を抑えるには、高い技術とノウハウが必要です。また、航海機器の性能も違います。安全性を高めるために、電子機器の性能も高くなければいけません。確かに日本の船舶は技術力も高くて戦ら威勢があり、高度なエコ性能を有しています。しかし、客船についてはヨーロッパに負けているのです。そんなクルーズ船や最新の船舶にも使われている技術を紹介し、船舶の面白さについて知ってもらおうと『最新図解 船の科学』(講談社ブルーバックス)を出しました。造船について多くの若者にも興味を持ってもらえたら幸いです。 最新技術が詰まっている音や振動を抑え、安全性高める 産業をつくったアメリカ日本では話題になりにくいクルーズ船ですが、世界的にはレジャーの一つとして注目されています。現行のクルーズ旅行は、長くても1週間程度、短いものだと3日程度のものもあります。しかも、格安の客室なら1泊1万円台も。それでも、船内の設備は使い放題、食事つきですから、通常のパック旅行より得かもしれません。このようなクルーズ旅行は1960年代にはじまりました。当時は旅客を飛行機にとられ、〝客船暗黒の時代〟と呼ばれるほど。そんな時に起死回生のアイデアとしてアメリカの船会社が考えたのが、今はやりのクルーズ客船だったのです。移動のための客船ではなく、旅自体をレジャーとして楽しむ——そんな考えからカリブ海クルーズ船が生まれました。マイアミを出発してカリブ海を周旋して帰ってくるという航程です。暇と金を持て余したような富裕層をターゲットにするのではなく、大衆がターゲット。つまり、年収300万円程度でも参加できるよう、1泊1万円程度に設定。なおかつ現役で働いている人たちがバカンスで利用できるように、1週間以内の期間にしました。これが大ヒット。さらに航空業界の規制緩和によって、各地からLCC(格安航空会社)を使ってマイアミに飛び、そこからクルーズ船に乗って、1週間後にまたLCCで、地元に帰るというパック旅行が大人気となりました。LCC側としても、地方から連れて行った便を使って帰りの客を乗せていけるため無駄がなくなり、Win-Win(ウィンウィン)の関係というわけです。料金を下げるために重要なのが、船を大きくすることでした。船長や運航要因の給料は変わらないため、載せられる乗客が多ければ、それだけコストを下げることが可能なのです。たとえば400人乗りで運行するより4000人乗りの船を運行した方が、コストは10分の1で済むわけです。しかも、食材なども大量に一括購入でき、安く仕入れられます。当時、3席から始めたカーニバルクールズは、会社がどんどん大きくなり、現在ではグループ全体で110隻ものクルーズ船を所有するほど。ライバルのロイヤル・カビリアンの使用戦は、当初は2万㌧だったものが、6000人乗り23万トンの大型クルーズ船を6隻も使うほどの人気になっています。こうした最新技術を詰め込んだ大型クルーズ船がヨーロッパで造られているのです。日本でも近年、JR九州が運航している「ななつ星」のように、移動手段としてではなく、移動そのものを楽しむ旅が増えてきています。海に囲まれた日本でも、旅そのものを楽しむクルーズ文化が根付き、自前の大型区r-図船が就航することを願っています。=談 いけだ・よしほ 1950年、北海道生まれ。大阪府立大学名誉教授。大阪公立大学客員教授。日本クルーズ&フェリー学会事務局長。専門は船舶工学、海洋工学、クルーズ船等。工学博士。『船の科学』『クルーズビジネス』『海運と港湾』など、船に関する著書多数。 【文化Culture】聖教新聞2023.8.3
September 25, 2024
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日本の野鳥事情日本野鳥の会自然保護室長 田尻 浩伸 耕作放棄と外来種が悪影響地球上には約1万種の鳥類が生息しており、大きさも色や形も多様で、市街地から高山帯、湖沼に海洋、そして極域など、地球上で鳥類が生息していない場所はないくらいに様々な環境に進出しています。日本国内では650種ほどが記録されていて、その中にはスズメやツバメのように身近な環境で今のところ普通に見られる種が一方で、シマフクロウやヤンバルクイナのように絶滅が心配されている種もいます。これからも多様な野鳥が生息し続けるにはどんな課題があるのでしょうか。生物多様性という言葉を聞かれたことがあると思いますが、今も多くの種や地域個体群の絶滅が心配されたり、実際に絶滅したりしていて、生物多様性は劣化が進んでいます。その原因は大きく四つ指摘されており、開発や乱獲(第1の危機)、人による働きかけの低下(第2の危機)、外来生物や化学物質(第3の危機)、気候変動など地球環境の変化(第4の危機)となっています。この原稿は、伊豆諸島の一つで野鳥が多く生息していることからバードアイランドとも呼ばれる三宅島で書いているのですが、三宅村の鳥に指定されているアカコッコを例にして考えてみたいと思います。 生物多様性守る取り組みを アカコッコは伊豆諸島とトカラ列島にだけ生息する日本に固有のツグミの仲間で、オレンジ色のお腹と黒い頭、目の周りと嘴の黄色が特徴です。環境省のレッドリストでは絶滅危惧IB類となっており、減少した原因として2000年の噴火による森林の減少に加え、外来種の減少に加え、外来種の捕食者の影響(第3の危機)と耕作放棄地の増加(第2危機)が大きいと考えられています。ネズミ類による農業被害対策として1970年代、80年代の2回、イタチが島内に放されたのですが、イタチはネズミの他にアカコッコなどの鳥類も捕食します。2009年以降連続して島民の皆さんと行っているアカコッコの個体数調査の結果、イタチ封獣前と比べて生息密度が4分の1ほどまで減少していました。人の暮らしも野鳥のどちらも大切なものであり、農業被害対策と野鳥への影響の排除をどう両立させていくかを考える必要があります。耕作放棄地は2000年の噴火以降に増加傾向にあるようです。アカコッコは開けた地面で昆虫やミミズ類などを探しており、アシタバ(明日葉)畑のように地表が露出した環境を好みます。ところが、最近では耕作されなくなり、地面がつる植物に覆われたアシタバ畑も見られるようになりました。私たちは宮木島で党内外の方と一緒に環境管理する活動を試みていますが、より多くの方に取り組んでもらえる仕組みを考えているところです。背物多様性の危機が迫っているのは、豊かな自然環境が残された場所に限りません。私たちに身近なスズメやツバメさえ、数が減っていることが指摘されています。地球規模生物多様性概況第5版によると、生物多様性の劣化を止め、回復されていくためにはいわゆる自然保護に加え、気候変動、外来種や化学物質汚染等への対応、持続可能な生産や消費のような行動変容、社会品用が必要とされています。これを実現するには、国民はもちろん、社会の舵取りを行う行政関係者や政策決定者の積極的関与が必要不可欠です。ぜひ、一緒に取り組み、私たち人類がこれからも存続していけるように生物多様性の回復を達成しましょう。(たじり・ひろのぶ) 【文化】公明新聞2023.7.28
September 20, 2024
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江戸のアイデアヒット商品檜山 良昭(作家)約270年続いた江戸時代。その太平の世で、多くの商人が「知恵」と「情熱」と「招魂」を生かし、流行や人商品を生み出してきた。近著『江戸の発明 現代の常識』(東京新聞)がある檜山良昭さんに話を聞いてみた。 酒、醬油を小分けに販売貨幣経済が発達した江戸時代。商人たちは、あの手この手を駆使して、商品を売っていた。江戸商人というと、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などが有名だが、無名ながら流行品をつくり出した小商人を紹介したく、『江戸のヒット仕掛人』『江戸の発明 現代の常識』を出した。その中には、現代も行われている商いの手法に通じているものも多い。例えば、東京で最も古い酒屋として知られる豊島屋。大量仕入れ安売り、小分け売りの元祖だ。当時の酒屋や醤油屋は、樽で仕入れて、1斗、2斗という「斗売り」だった。1合や2合などの少量の酒を飲みたい客は居酒屋へ行けと嫌っていたのだ。いちいち小分けをしていたら、手間ばかりかかってもうけが少ないと思っていたのかもしれない。そういえば、昭和の時代でも、酒や醤油は小瓶ではなく、一升瓶で売っていたように記憶している。しかし豊島屋は、使う側、客の気持ちに立っているところが、すごいところ。ちなみに豊島屋は、ひな祭りの時に1日だけ白酒を販売している。消費者心理をあおる「限定販売」の手法を最初に行ったのだ。小分けといえば、文化年間(1804年~18年)になると、野菜や魚の切り売りが登場する。激しい販売競争の中で、調理の手間がはぶけるようにと、八百屋や魚屋で始まったものだ。「近年は山芋、牛蒡その他の青物類は鍋に入れて、煮るばかりにして洗い売りしている」「魚屋や魚売りも、どのようにこしらえましょうかと聞いて、刺身や切り身にしてくれ、尾や頭もていねいにこしらえて洗ってくれる」と。当時、すでに調理したおかずを売る「煮売り屋」(いわゆる総菜屋)が誕生しており、これに負けじと小分け販売は江戸中に広まった。 総菜屋や100均ショップ消費者心理を突く売り 現代にもつながる商売となると、「十三文屋」がある。現代の百円均一ショップの先駆けだ。小間物類を露天に並べ、値段を38文に定めて売る。香具師と呼ばれる大道商人が、売れ残り品や倒産品を安く仕入れて、専門店よりも安く売っていた。その後、19文、12文で売る店が登場した。価格破壊競争になるところも現代と似ている。 本家超えたカリントウ江戸時代に作られ、現代にも残っている和菓子に「大福餅」がある。明和8年(1771年)、貧しい未亡人の「おたよ」が饅頭屋を始める。最初は、饅頭の形をおかめ顔のようにこしらえ、中に小豆の塩餡を入れ、「お多福餅」として売り出す。しかし、これが全く売れなかったので、塩餡の代わりに砂糖餡を入れてはどうかと考え、「腹ぶと餅」として売り、大ヒットした。さらに「大福餅」と変更して現代まで続く和菓子になっている。カリントウも江戸時代に生まれた。だれも見向きもしないカリンの実を、何とか利用できないかと考え、カリンの実を細切りにして黒砂糖で煮込んだ干し菓子を考案した。元々「花欄糖」と書き、「カリントウ、深川名物、カリントウ」との売り声で行商し、子どもたちのおやつとして大人気になった。この人気にあやかり、最盛期には200人以上の花欄糖売りがいたという。ただ、その後、小麦粉に水と黒砂糖を加え練り込み、油で揚げた菓子が作られる。見た目が花欄糖に似ていたことから、「花林糖」として売り出した。これが本家花欄糖よりもおいしかったため、本家を圧倒して大ヒット。それで、カリントウといえば、小麦粉製を指すようになったのだ。ネーミングやキャッチコピー、宣伝方法など、現代に通じる商い方法が数多く生まれた江戸時代。このころから、日本人が乗りやすいパターンは変わらない。そこには、何とかしてヒット商品、流行を生み出そうとる、商人の執念や狡猾さを感じる。ただ、流行が生まれなければ、経済は活性化しない。質素倹約を重視する時代には、ヒット商品も生まれないのだ。さまざまな商品が生まれることこそ、庶民が元気な証なのかもしれない。 ひやま・よしあき 1943年、茨城県生まれ。79年『スターリン暗殺計画』で作家デビュー、同作品で第32回日本推理作家協会賞を受賞。その後、『大逆転! 戦艦{大和」激闘す』等の大逆転シリーズが一大ブームを巻き起こした。ノンフィクション作品も多数。近著に『江戸のヒット仕掛人』(東京新聞)がある。 【文化Culture】聖教新聞2023.7.27
September 19, 2024
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生誕100年 山下清展 百年目の大回想SONPO美術館主任学芸員 武笠 由以子 自由を求めた放浪の先へ放浪の天才画家、山下清は、日本各地の光景を貼絵で表したことで知られています。現在、東京・新宿にあるSONPO美術館で開催している「生誕100年 山下清展 百年目の大回想」は、代表的な貼絵に加えて、ペン画や油彩、そして絵付をした陶磁器といった幅広い作品をご紹介し、山下清の創作活動の変遷を辿るものです。さらに当時、身に付けていた浴衣やリュックサックなどの身の回りの品、旅行中の思い出やエピソードを書いた日記を通じて、山下清の本来の人物像に迫ります。ここで山下清についてご紹介しましょう。1922(大正11)年に東京・浅草に生まれた清は、吃音と発達障害のため周囲になじむことが難しく、12歳の時に養護施設「八幡学園」に入園します。ここで、ちぎった色紙を台紙に貼る「ちぎり絵」に触れた清は、次第に画才を開花させ、様々な工夫を凝らした独自の「貼絵」の世界を開拓した清は、18歳のときに学園を抜け出し、自由気ままな放浪の旅を始めます。家々を訪ねて食べ物を乞い、駅の待合室で眠る放浪生活は時に厳しい一方で、清の冒険心を満足させるものでした。旅先で絵を描かなかった清は、時折自宅や学園に戻ると、驚異的な記憶力を頼りに、道中の風景を克明に思い出し、貼絵にしました。こうして、放浪から戻っては貼絵を制作し、再び旅に出るという生活が10年以上にわたって続きました。大きな転機が訪れたのは、31歳のときでした。放浪中の画家として新聞記事に取り上げられたことで、一躍注目を集めたのです。画業に専念すると決意した清は、高度な技術をもって緻密な貼り絵を制作しつつ、ピン画など新しい政策手法をはじめ、日本全国で開催された個展は大きな評判を呼びました。さて、本展は5章構成で山下清の初期から晩年までの作品をご紹介します。第1章「山下清の誕生—昆虫そして絵との出会い」では少年時代の最初の貼絵を、つづく第2章「学園生活と放浪の旅立ち」では、学園の日常生活や、日本各地の舞所旧跡などを主な題材とした作品を展示します。この時期の代表作である《長岡の花火》(1950年)は、小さくちぎった色紙や「こより」による緻密な描写と、繊細な色彩表現を顕著に示しています。第3章「画家・山下清のはじまり—多彩な芸術への試み」では、放浪をやめて方着手したペン画や油彩をご紹介します。第4章「ヨーロッパにて—清が見た風景」で取り上げるのは、初の海外旅行で訪れたパリやロンドンの街並みを題材にした貼絵やペン画です。この時期の貼絵は、鮮やかな色彩と遠近法を用いた堅固な画面構成を特徴とします。第5章「円熟期の制作活動」では、絵付けをした陶磁器や、遺作である「東海道五十三次」のペン画をご覧いただきます。この展覧会を通じて、1971(昭和46)年に49歳の若さで逝去するまで、芸術家であり続けた山下清の世界をご堪能いただければ幸いです。(むかさ・ゆいこ) 【文化】公明新聞2023.7.26
September 18, 2024
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生きることの原点に還る詩人・評論家 鈴木 比佐雄『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』大関博美著本書『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』(コールサック社)を執筆した大関博美氏にとって、ソ連抑留者であった父は子供のころから大きな謎であった。その謎を聞いてみたいと願っていたところ、六十二歳で亡くなってしまった。父の背負っていた極限状況の一端でも認識し、父の重荷を娘として理解したいという秘めていた課題を直接聞く機会を、大関氏は失ってしまった。しかしその代わりに、まだ存命中の父母の世代のソ連抑留者・満州ひきがげしゃたちに取材を試みその人物像と接してその著書を読むことによって、最もアジア・太平洋戦争で傷ついた世代の思いに肉薄し、その証言を後世に残すことを構想した。そのことに位置図にまい進しようとする純粋さ、熱い志を私は感じ取った。 亡父の背負ったものに肉薄 大関博美氏は一九五九年に千葉県袖ケ浦市に生まれ、今は隣接する市原市に暮らす現役の看護師であり、俳句結社『春燈』に所属する俳人だ。序章「父の語りえぬソ連(シベリア)抑留体験」はほんの成立過程を率直に語っていて、その中で紹介されている次の三句は、大関氏が父という存在者の内面に次第に肉薄していく道筋を指示しているかのようだ。「シベリアの父を語らぬ防寒服/抑留兵の子である私鳳仙花/三尺寝父の背の傷ただ黙す」。 表現行為が自他救済と癒しに 第一章「日清・日露戦争からアジア・太平洋戦争の歴史を踏まえて」では、アジア・太平洋戦争の前に、日本が遅れた帝国主義国家になった日清・日露戦争とは何であったのか、そのことが結果としてアジア・太平洋戦争を引き起こしてしまったのであり、その発端となった一八九四年の日清戦争から歴史を問うている。第二章「ソ連(シベリア)抑留者の体験談」では、山田治男、中島裕の二人から大関氏は直接取材をして、ソ連との戦闘、降伏後の経緯、シベリアの収容所での出来事、抑留者の尊厳などを記し、また日本兵を強制労働させるソ連の国際法違反を伝えている。第三章「ソ連(シベリア)抑留俳句を読む」では、小田保、石丸信義、黒谷星音、庄子真青海、高木一郎、長谷川宇一、川島炬士、鎌田翠山の八名の経歴や俳句を、第四章「戦後七十年を経てのソ連(シベリア)抑留俳句」では、名護の件塩尻市に暮らす百瀬石涛子に取材し、そのシベリア抑留体験の証言や句集『俘虜語り』を、第五章「満蒙引き上げの俳句を読む」では、井筒紀久枝『大陸の花嫁』と天川悦子句文集『遠きふるさと』を紹介している。大関氏は、読み取ってきた「抑留詠(戦争詠)」・引揚げ詠・震災詠など、特殊な境涯」である極限状況の俳句を創作し読解し共有することは、「ストレス緩衝効果や独特の環境の中で承認されることにより、安心感や仲間との信頼関係を回復する、失われた命への鎮魂による自他救済などの働きがあった」とその効用を結論づけている。大関氏が看護師で他者を癒すことを職業としていることもあり、俳句・散文などの表現行為が、存在の危機を感ずる人々にとって生きることの原点に立ち返る有力な方法であることを再認識したのであろう。(すずき・ひさお) 【文化】公明新聞2023.7.21
September 14, 2024
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人気が高まる宇宙ベンチャー「地球の引力を脱して、無重力の世界へ」——。こう聞くと、まるでSFの旅行パンレットのように思うかもしれません。でも、官から民へと移行が進む中、こんな世界が目の前に来ています。そんな宇宙ベンチャーの現状について、『宇宙ベンチャーの時代』を著した小松伸多佳さんに聞きました。 スパースXの成功で加速8つの分野に大小数百社 官から民へ小松 伸多佳(ベンチャーキャピタリスト)リスクを分担する仕組み月の土地が1万円以下に売りに出され、3Dプリンタでロケットが製造され、宇宙ホテルの試験機が軌道上を回り、民間ベンチャーが月への貨物輸送を受注し、衛星の監視データから誰も知らなかい情報を得た投資ファンドが金融市場で大儲けをする——これらは、近未来の出来事ではありません。すでに昨年までに実現した内容です。これまで政府主導で進められてきた宇宙開発が、今や民間主導になりつつあります。そこで登場してきたのが宇宙ベンチャー企業です。〝宇宙とベンチャー、どんなかんけいがあるの?〟と思うかもしれません。ただ、ベンチャーという視点で宇宙開発を見ると、より鮮やかに全体像が描けるのではないかと、近著『宇宙ベンチャーの時代』を出しました。これまで宇宙開発というと、莫大な資金力と高度な技術力が必要で、アメリカのNASAや日本のJAXXなどの政府機関が主導して進めてきました。しかし、民間のスペースX者が、2012年に国際宇宙ステーションに物資を輸送、2020年には民間で初めて宇宙飛行士の輸送に成功し、宇宙ベンチャーが一気に注目されるようになったのです。宇宙開発に民間ベンチャー企業でも参加できるんだと。以来、大小さまざまな宇宙ベンチャーが生まれています。本書で取り上げただけでも100社以上。実際にはどれだけあるのかわからないほどです。本では八つの分野に分類。①ロケット打ち上げ②民間宇宙飛行③通信技術④リモートセンシング(光学衛星による地上の撮影)⑤民間宇宙ステーション⑥軌道上サービス⑦宇宙資源開発⑧安全保障ビジネス、です。ロケット打ち上げビジネスについて少し紹介しましょう。人や物を宇宙に運ぶためにはロケットが必要です。でも、これが難しい。例えば、小型ロケットベンチャーのアストラ社は、果敢に打ち上げを試みていますが、成功より失敗が多い状況です。それでも、アメリカの投資会社はもちろん、人工衛星企業などのロケットの荷主にしても、一定のリスクを分散して受け入れているのです。この辺りは日本とは異なる、ベンチャーを生み出しやすいアメリカならではの文化かもしれません。 セオリーをひっくり返す〝月や火星に行くことが、何の役に立つの?〟と思われるかもしれません。でも、そこに至るまでの宇宙開発は私たちの生活に非常に役立っています。例えば、現在は全てのスマホに搭載されているGPS機能。今どこにいるのか、行先までの道順などを教えてくれます。これは人工衛星があってこそ。また、宇宙からの映像撮影技術も、グーグル・アースのように身近な地図を見るだけではありません。人工衛星で北朝鮮の軍事施設を見れば軍事目的になりますし、中東などの石油の備蓄基地を見ると、その陰から備蓄量がわかり、金融先物取引の重要なデータになります。パソコンが出始めた頃、「何に使うの?」と聞かれました。当時のパソコンは住所録程度にしか使えなかったのです。ところが時代が進み、現代ではどうでしょうか。小型パソコンともいうべきスマホを一人1台は持ち、様々な情報がネットから手に入ります。同じように、宇宙ロケットについても、今は主に人工衛星の打ち上げ、有人飛行としてはようやく一部富裕層が宇宙旅行できるようになった段階です。しかし、将来は多くの一般客がロケットを使って全世界を日帰り旅行できる時代が訪れるでしょう。そんな端緒が、ロシアのウクライナ侵攻の際に見られました。ロシア軍は従来のセオリー通り、首都きーうの放送局のアンテナを破壊。さまざまな情報がウクライナ国民に行き渡らないようにしたのです。これに対して、いーろン・マスク氏は通信網「スターリング」をウクライナに開放したのです。スターリングは、地上の通信ケーブルの代わりに大量の小型人工衛星を使い、一定の地域にインターネット通信を展開するというもの。何も情報が得られなくなっていたウクライナ国民にとって、非常に大きな支援でした。つまり、宇宙開発が進んだおかげで、従来の戦争とは全く異なる展開になったわけです。一見、夢物語と思えるようなことも、既存の技術や、新しい技術開発によって、全く異なる未来が待っているのです。そんな宇宙ベンチャーが注目されています。 【文化culture】聖教新聞2023.7.20
September 12, 2024
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『虫めづる日本の人々』展サントリー美術館 学芸員 宮田 悠衣身近な小さい生き物に目と耳を傾け、楽しむ文化古来、日本美術にとって、虫は重要なモチーフであった。特に、『源氏物語』には鈴虫や蛍が度々登場し、登場人物の心情を表す重要な役割を果たしている。例えば、《野々宮蒔絵硯箱》(サントリー美術館蔵)には、合計で3匹の鈴虫があしらわれているのだが、これは本作が題材としている『源氏物語』『賢木』において、庭で鳴く鈴虫に六条御息所の心情が託されているためである。「賢木」において六条御息所は娘の斎宮とともに伊勢へと下向しようとするが、光源氏が六条御息所を翻意させようと訪ねてくる。やはり離れがたく思ってしまう六条御息所の心は乱れ、「おほかたの秋の別れも悲しきに鳴くねな添へそ野辺の松虫」(『源氏物語』での松虫は今の鈴虫)という和歌を詠んでいる。こうした物語の点景として重要な役割を果たしてきた虫たちは、江戸時代においても愛でられていたようである。虫の音を楽しむ文化は宮中ではぐくまれたのち、庶民にも広がった。歌川広重《東都名所 道灌山虫聞之図》(太田記念美術館)には、捕まえた虫を母親に自慢する子供の姿や、茣蓙を敷いて月とともに楽しむ男たちの姿が描かれている。また、昇斎一景《東京名所三十六戯撰 根岸の里》(東京都江戸東京博物館蔵)には、蛍を追って大人も子供もはしゃぐ様子が描かれており、ユーモラスである。江戸時代は虫を見つめる視点が進化し、精微な博物図譜が多数制作された。写生のためにやむなく殺してしまった虫を手厚く弔うことを望んだ虫好きの大名・増山雪斎による《虫豸帖》(東京国立博物館蔵)や、トンボ、チョウ、ヘビ、カエルなど合計30匹以上の虫が登場する喜多川歌麿『画本虫撰』(千葉市美術館蔵)など、現代の博物館にも引けを取らない作品が登場する。今や人気絵師となった伊藤若冲も、その生涯において繰り返し草虫図を描いている。その中でも晩年の作品である重要文化財《菜蟲譜》(佐野市立吉澤記念美術館蔵)は、精微な虫の描写と、巻末に登場する蝦蟇のように晩年の若冲が生み出したまるでキャラクターのような虫たちが共存する、魅力的な作品である。なお、虫とは、現代の昆虫とは異なり、身近にいる、蠢く小さな生き物は全て虫とされていたようである。そのため、本展ではヘビやカエルを題材とする作品も展示している。虫と人との距離が今よりももっと近い、豊潤な江戸の虫美術の世界を是非ご堪能いただければと思う。(みやた・ゆい) 【文化】公明新聞2023.7.19
September 11, 2024
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今日の若者の生きづらさ筑波大学人文社会系教授 土井 隆義 安心できる居場所を求めて多様な人が励ましと支援を 東京・新宿の歌舞伎町に、10代を中心として若者が路上に集まる場所がある。新宿東宝ビル脇の通称「トー横」と呼ばれる一角である。東京だけではない。大阪・ミナミの「グリ下」や名古屋・栄の「ドン横」など、都市部を中心に近年は日本各地に同じような場所が生まれている。かつての暴走族のような非行集団を知っている大人たちは、社会に対して不満をため込んだ若者が徒党を組み、仲間同士で大騒ぎしている姿を想像するかもしれない。しかし現実は違う。彼等の多くは鉄道や飛行機を利用し、他県などの遠くから一人でやって来る。その中には地元にはない新たな出会いや刺激を求める興味本位のものもいる。しかし多くは、むしろ助けを求めるかのように安心できる居場所を探してやって来る。地元から彼らを押し出しているのは、強制的に囲い込まれた檻から解放されたいという従前の非行少年がよく抱えていた願望ではない。反対に、どこか安心できる居場所に包摂されたいという願望の方が強い。端的に言えば、彼等を突き動かしているのは不満でではなく不満である。事実、彼らの中にはリストカットやオーバードーズといった自傷行為の経験者が多い。地元で経験しているだけでなく、やっと辿り着いた路上でもそうした行為が散見される。彼らにとっては、それこそが不安を紛らわせて生きていくための営みなのである。彼らは、かつての不良のようにやんちゃな非行を繰り返しているわけではない。おとなしく静かに自らの生きづらさを抱え込んでいる。そのため、地域や学校など地元の大人たちの目には留まりにくい。しかし、近年の統計によれば、刑法犯で補導された未成年者が少年人口比で約0.2%であるのに対し、自傷行為の経験かがある高校生は生徒人口比で約10%である。両者の間には50倍もの落差が横たわっている。経済格差が拡大する中で人間関係の格差化も進んだ結果、昨今の若者はできるだけ安全内場所を確保しようと交友関係を限定する傾向を強めている。その方が安定した承認を周囲から得られやすいからである。しかしその狭小な世界の中では、いかに仲間から受け入れてもらうかという承認競争も生まれやすく、多くの若者はそこから外されたらもう生きる場所がないという切羽詰まった思いを抱えている。分断化された世界を生きている彼らは、自分の安心できる居場所がもはや地元にはないと悟ったとき、「トー横」のような居場所を探し探し出してやって来る。しかし、そこでは代替の居場所と仲間を求めながらも、悪意のある大人から被害に遭ってしまう事件も多発している。人間関係の内閉化は、実は対人関係のリテラシー不足も招いているからである。このような事情を鑑みれば、彼らの身の安全を確保するために必要なことは、地元という檻へ閉じ込めて大人たちが安心することではない。逆に、彼らの活動範囲を広げさせ、居場所の多様性を確保していく方が大切である。多様な相手との関係の中で対人リテラシーを培っていくこともできる。若者を一方的に抱え込んだり囲い込んだり、また一方的に禁止したり制限したりと、大人たちは目先の安心安全の追求のために奔走すべきではない。むしろ自らのその不安を押さえつつ、人間関係を幅広く多様で豊かなものにし、対人リテラシーを高められるよう積極的に励ましてサポートしていくべきである。それこそが今採るべき本来の対策だろう。 どい・たかよし 1960年、山口県生まれ。社会学者。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程中退。著書に『「宿命」を生きる若者たち 格差と幸福をつなぐもの』(岩波書店)、『友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル』(筑摩書房)など。 【文化】公明新聞2023.7.12
September 2, 2024
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「急行」列車のノスタルジー鉄道写真家 南 正時全盛期は全国で180種走る2016年にJRから姿消す戦後日本の高度成長期支え「急行列車」。すでに日本鉄路(JR)から姿を消した懐かしい列車になってしまった。JRで最後まで残った定期急行列車は、青森―札幌間を結んでいた「はまなす」で、2016年3月に北海道新幹線の開業に伴い廃止され、ここに国鉄からJRに至る急行列車はすべて廃止された。絶滅した急行列車の数々の軌跡を繰り返しながら、その存在を改めて検証してみたい。長距離を走る急行列車の多くは客車を機関車が牽引する列車だった。その代表的な列車が昭和30年代、東海道・山陽本線を走破して東京と九州を結んだ急行「高千穂」「雲仙」などであった。まだ電化されていなかった岡山以西や九州内は蒸気機関車などが先頭に立っていた時代もあった。その時代の急行列車は国鉄における最上級列車で、特別な急行列車が「特別急行列車」すなわち特急だった。特急はまだまだ運転本数が少なく特急列車も高額なところから急行が多く利用され、1970年代の急行全盛時代は180の急行列車が全国津々浦々を駆け抜けていた。私がこれまで印象に残る上野発の夜行列車で上野―青森間の「津軽」「八甲田」である。この二つの列車は昭和30年から40年代には東北からの季節労働者、金の卵といわれた集団就職者たちに利用されていた列車で、特に盆や正月の帰省時には「せめて急行を奮発して故郷に帰りたい」という気持ちから「出世列車」とも言われていた。私も駆け出しのころにはこの列車にお世話になり東北や北海道の蒸気機関車の撮影に出かけたものだ。この列車の思い出は尽きないが、「撮り鉄」的に言えば、この列車は東北本線の黒磯と上野間はEF58形電気機関車が牽引した。特にD51よりも古い1940年生のEF57形は前面にデッキが突き出たいかつい外観の機関車で、鉄道ファンの注目の的だった。これらの急行が冬には客車に雪を付けて上野に到着する姿は特に外観が深かった。急行列車は、戦後の日本の鉄塔と高度成長期を支えてきたが、旧国鉄末期に進められた増収目的の特急への格上げや、新幹線の開業による在来線合理化などで相次いで姿を消した。そして、明治期から続いてきたその歴史は平成の時代に途絶え、いまや「急行」の名称は一部の私鉄の通勤電車などに残るだけとなったしまった。(みなみ・まさとき) 【文化】公明新聞2023.7.7
August 28, 2024
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からだの錯覚が生む きもちわるさ名古屋市立大学准教授 小鷹 研理 薬指が長く伸びる皆さんは錯覚と聞くと、そのようなものをイメージしますか。静止画面なのに明らかに動いているようにしか見えない2次元パターンや、時間とともに勝手に消失と出現を繰り返す小さな点、等々。インターネット上で動画像の共有が常態化して現代にあって、視覚の錯覚に接していて驚いた経験の錯覚に接して驚いた経験の一度や二度は、誰しもあるでしょう。近著『からだの錯覚』(講談社ブルーバックス)で扱っている錯覚は、そうした、皆さんが慣れ親しんでいる錯覚とはかなり経路が異なります。書籍の中でも紹介している2人で行う錯覚の例を一つ上げましょう。手続きは、いたって簡単です。まずは、机の上で自分の薬指と相手の指を向かい合わせに一直線上に並べます。この状態で、互いの指の先端付近を、あいているもう一方の手の人差し指と中指で同時にぐりぐりと触ります。目を閉じて、このぐりぐりをしばらく続けていくと、50~70%くらいの人は、自分の薬指と相手の指がつながり、薬指の長さが中指を追い越したと感じるようになります。薬指がクーデターに成功したのです。どうしてこのようなことが起きるのでしょうか。 伸びたり、変形したり…自分を見失わせる感覚のズレ それぞれの感じ方自分の体が文字通り自分のものと感じられているとき、複数の感覚がまるでオーケストラのように協働して、調和的なメロディーを奏でています。例えば、自分の左手をまじまじと見て、確かにこれが自分の体と感じられるのは、内側から感じられる手の位置感覚と、見た目の手の位置が整合して知るためです。仮に、この二つの感覚にずれが生じれば、目の前の手は、まるで協和音のように〝よそよそしく〟なり、不気味なものに映るでしょう。自分で自分に触れるときも、複数の部位にまたがる資格・触覚・位置感覚が時間的・空間的に重なることで、初めて「じぶんにふれた」という確かな感覚が生まれます。実は、先の「薬指クーデター」を含むからだの錯覚の多くは、こうした認知特性にうまく取り入ることで、身体の外にある空間を、身体という名のオーケストラの舞台へと招き入れようとするものを整理できるのです。からだの錯覚の場合、同じ手続きでも人によって感じ方がまるで異なることがあります。例えば、実際には離れている両手が接合しているように錯覚する「セルフタッチ感覚」を背面で行うと、典型的には左右いずれかに腕や指が伸びる感覚を得ますが、どちらの手指が変形するかは人それぞれです。それどころか、人によっては肩甲骨が柔らかくなったり、上半身がつぶれたりするような感覚を持つ人もいます。 破戒への防御反応からだの錯覚を体感する際に付帯する独特な感覚の一つに「きもちわるさ」が挙げられます。これは、乗り物酔いで想像されるような生理的な不調ではなく、どちらかというと「こわい」「やばい」という言葉から想起される恐怖の体感に近いものです。実のところ、この「きもちわるさ」は、錯覚が自分の奥深くに届いている聴講でもあります。というのも、このとき無意識が感受している恐れは、今の自分のレイアウトが破壊されてしまうことに対する防衛反応と考えられるからです。逆に言えば、現実の自分のシステムが構造的に不調な状態にある時、「きもちわるさ」は、現状を改善するきっかけを与えるものでもあります。実際、からだの錯覚を医療に応用しようとする試みは各所で進められています。こうした効用は、近年話題となっているメタバース(仮想空間)の設計にも大いなる示唆を与えてくれるでしょう。というのも、仮に「きもちよさ」で満たされたメタバースに誰もが競って入り浸るようになれば、現実は急速に荒廃し、人々は幻想の中に閉じ込められてしまうからです。メタバースに求められるのは、現実を切断することではなく、むしろ現実に対して鋭利な処方箋を提示し続けることにあります。「きもちわるさ」は、そのようなメタバースの設計にとって、なくてはならない基調音といえるでしょう。筆者としては、本書が、そのような「きもちわるさ」に親しむ入門書として、より多くの読者の目に触れることを願っています。 こだか・けんり 1979年生まれ。名古屋市立大学芸術工学研究科准教授。工学博士。「からだの感覚」を通じてミニマルセルフを探求する小鷹研究室「注文の多いからだの錯覚の研究室」(講談社)がある。https://lab.kenrikodaka.com 【文化Culture】聖教新聞2023.7.6
August 28, 2024
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「田沼武能 人間賛歌」展東京都写真美術館 学芸員 関次 和子 ヒューマニズムを追い求めて70年戦後日本を代表する写真家としての大きな業績を残し、昨年6月に93歳で逝去した田沼武能。東京都写真美術館では、田沼の70年を超える作家活動の軌跡を、代表作と未発表最新作で振り返る写真展「田沼武能 人間賛歌」を30日まで開催している。田沼武能は1929年、東京・浅草で写真館を営む家に生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)卒業後は、『週刊サンニューズ』を出版するサン出版社に入社、写真家・木村伊兵衛と出会い、彼の助手となった。言葉では決して写真のことを教えない木村であったが、休日の浅草や銀座のスナップ撮影に付きあうことで、田沼は写真を撮る際の被写体との距離や接し方など、その後の写真かとしての必要な多くのことを学んだ。初期の代表作「戦後の子どもたち」は、この時代に撮影されたシリーズである。1951年には『芸術新潮』の嘱託写真家となり、出版メディアの勃興を迎えるこの時期、田沼は人物からドキュメンタリー、スポーツなど、ありとあらゆるジャンルの撮影をこなす売れっ子写真家として多忙な日々が続いた。仕事に忙殺される中、独自のテーマを見いだすことを模索し始めた田沼に、ある転機が訪れた。1966年に初めて訪れたプロ―ニュの森(パリ)で、一心に遊ぶ子どもたちに心を奪われた田沼は、気がつくと、その様子を夢中になってカメラで撮っていた。この経験から子どもの写真をライフワークすることを決意。1974年からは黒柳徹子・ユニセフ親善大使の各国訪問に慈悲で同行取材を行い、新型コロナの感染拡大で海外渡航が制限される前の2019年まで、35年間続いた。これらの取材では、地域社会の状況に強く左右された社会の縮図として写し出される子どもたちの姿をとおして、その国の現実を浮かび上がらせてきたのである。一方で田沼は、1964年の春から、現代文明に蝕まれていく武蔵野を惜しみ、その面影を求めて四季や風土を撮るシリーズを開始した。自然とはあまり縁のない東京の下町に育った田沼にとって、雑木林や野鳥の遊ぶ池、寺社など素朴な武蔵野の姿は、心の中に描いてきた心象風景としての『ふるさと』のイメージそのものだった。古くは江戸の台所として人々の生活を支えた自然豊かなこの地は、戦後の高度経済成長の陰で急速に姿を変えようとしていた。武蔵野羽田沼の心をとらえ続け、あらゆる季節に、広範囲にわたる撮影が生涯続けられたのである。本展では、「ふるさと武蔵野」から未発表の最新作も紹介する。田沼の写真かとしての活動を支えてきたものは、「人間」へのあくなき興味と、同時代に生きる人間がおりなすさまざまなドラマを写真で表現し、伝える喜びにほかならなかった。戦争や災害など人々の暮らしに暗い影を落とす時代にあっても、田沼は生涯人間の営みを追い求めて、表現し続けてきた。その理由を次のように語った。「社会の事情や文化、風土が異なっても人間は生きることへの希望を決して忘れることはない。だからこそ人間はすばらしいのだ」(せきじ・かずこ) 【文化】公明新聞2023.7.5
August 27, 2024
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少数民族・ムラブリを追って言語学者 伊藤 雄馬歌うような美しい言語に魅了ムラブリとよばれる狩猟民族の言語を研究して15年ほどになる。ムラブリはタイとラオスの中で最も小さいグループだ。ムラは「人」、ブリは「森」。彼等は東南アジア大陸部の森を遊動しながら生きてきたが、開発により森を追われた。現在でも森に暮らすのはラオスに住む20人程度のグループのみで、タイ側のムラブリは政策により定住している。そんなマイナーな人々に、ぼくはどのように出会ったのか?それは「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組だ。「一目惚れ」だった。歌うような美しいムラブリ語を話せるようになりたい。それだけの理由で研究を決めた。学術的な理由ではないためよく笑われる。直観的に決めたムラブリ研究だったが、一緒にいて違和感が少なく助かった。日常生活は日本人と大きく異なり、裸足で森を歩き、薪を拾って焚火で飯を炊く。けれどムラブリのまなざしや立ち振る舞いは、どこか古き良き日本をぼくに思わせる。とはいえ、彼らの言語や感性は不思議だ。ムラブリ語は「存在」と「所有」を同じ「プ」という動詞で表す。「私に米がある』と「私は米を持っている」はムラブリ語では同じだ。日本語の「の」に相当する言葉もあるが、「私の父」と言えても「私の米」は言わない。日本人のぼくとは異なる所有感が感じられる。暮らしぶりも不思議で、ラオスのムラブリはラオ人から米をもらうのだが、物々交換ではなく、ただもらう。ラオ人もただ渡すだけだ。そこに商取引の匂いはない。 日本社会とは異なるモノの所有観や感性 もらったお米はみんなと分けて食べる。もらってきた人が多く食べることはない。「米がある」ということが大事で「誰のものか」は気にならないのだろう。タイで定住するムラブリは所有の概念を覚えつつある。料理を作ってムラブリにおすそ分けすると、いつもお皿をキレイに洗って返してくれる。初めは感心していたが、その姿がどうも神経質に見えたので、理由を尋ねた。「お皿を洗わずに返したらタイ人にひどく怒られた」のだという。それがトラウマなのだ。所有の概念があるぼくにとって、借りたら綺麗にして返すのは常識だ。しかし所有の感覚がなければ、洗うどころか返すことすら思いつかないだろう。定住によってムラブリはタイ国民となり、福利厚生やインフラも整いつつある。出生率や寿命は伸び人口も増加しているが、近隣民族との関係や借金の問題も生じ、一時期は自殺者が増えた。何が幸福かは簡単ではない。ムラブリの所有観を頭だけで理解しようとすると混乱する。「そうだからそう」とまず「真に受ける」ことにした。すると感覚が馴染んでくる。いつの頃からぼくはムラブリの所有観に慣れていった。ムラブリの所有観に親しむとリュック一つ分の荷物で生きられるようになった。必要なものを持ち運ぶのではなく、その場にあるもので生きるのが理想だ。海外へもリュック一つで行く。これもムラブリ研究の「効用」だと主張しているのだけれど、あまり理解されない。ムラブリの所有観で眺める日本社会はとても不思議だ。多くの人がお金や物を所有できないことに悩んでいる。この原稿を書いているカフェを見渡せばたくさんの物がある。それはぼくの物ではない。けれどたくさんの物に囲まれてぼくは豊かな気持ちになる。これだけの物を生み出す人々に、地球に、うっかり安心してしまうのだ。それは軽率かもしれないが、この安心感は確かに「存在する」。こんなふうにムラブリを「真に受ける」のも悪くないと思うのだが、皆さんもどうだろうか。(いとう・ゆうま) 【文化】公明新聞2023.7.2
August 22, 2024
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植物の持つ〝悩み〟甲南大学特別客員大学 田中 修 紫外線で活性酸素が発生▼抗酸化物質作り体を守る 「植物たちのいのちは、私たち人間に比べると、取るに足らぬ小さなものに思われがちです。しかし、植物たちも同じ生き物です。だから、私たちと同じしくみで生き、同じ悩みを持ち、その悩みを克服するために日々頑張っているのです」と語ることがあります。すると、「私たち人間と植物との〝同じ悩み〟とは何ですか」と聞かれます。〝同じ悩み〟はいろいろありますが、その一つを紹介します。植物たちは、太陽の強い日差しが降りそそぐ中で、大量の紫外線にさらされて暮らしています。そのような中で、植物たちは、日焼けもせずに、すくすく成長し、美しくきれいな花を咲かせ、過日やタネ(子孫)をつくります。一方、私たち人間は、紫外線が有害であり、シミやシワ、白内障の原因になり、もっとひどい場合には、皮膚ガンをひきおこすことを知っています。そのため、帽子をかぶったり、日傘をさしたり、サングラスをかけたりして、紫外線を避けます。紫外線は、身体に当たると、「活性酸素」という物質を発生させるのです。この物質は、植物たちにもきわめて有害です。ということは、植物たちは、自然の中で、紫外線にあたりながら生きていくために、身体の中で発生する「活性酸素」を消去する術を身につけていなければなりません。そこで、植物たちは、「抗酸化物質」とよばれる物質をつくりだすのです。抗酸化物質の代表は、ビタミンCとビタミンEです。また、アントンシアニン、カテキンやタンニンなどのポリフェノールや、カロテン、リコベン、クリキトキサンチンなどのカテノイドとよばれる物質も抗酸化物質です。私たち人間では、紫外線が当たるだけでなく、激しい呼吸やストレスでも活性酸素が身体の中で発生します。活性酸素は、「老化を急速に進める」とか「生活習慣病、老化、ガンの引き金になる』などといわれ、私たちの老化を促し、多くの病気の原因となる、きわめて有毒な物質なのです。ですから、私たちと植物たちは、活性酸素という物質に対して、〝同じ悩み〟をもって生きているのです。 大切さを認識し摂取する人間 私たちは、ビタミンCやビタミンE、ポリフェノーやルカロテノイドなどの抗酸化物質が植物たちの身体に含まれていることをよく認識しており、食べ物としてそれらを摂取することの大切さ理解しています。そのため、私たちは、「どのような野菜や果物が、抗酸化物質を多くもっているか」を知っており、それらの野菜や果物を積極的に食べます。しかし、「なぜ、それらの野菜や果物が抗酸化物質をつくっているのか」という発想は、ともすれば忘れがちです。植物たちは、自分の身体を活性酸素から守るために、これらの物質をつくって身につけているのです。植物たちがつくってくれる抗酸化物質が、私たち人間の健康を支えるのに役立つのです。このことから、「私たちと植物たちが、同じしくみで生き、〝同じ悩み〟をもっている」ということがよく分かります。 【文化】公明新聞2023.6.30
August 21, 2024
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日本文学の源流を描く「小説 小野小町 百夜」の著者 高樹 のぶ子さん 作家・高樹のぶ子さんが先頃、新著『小説 小野小町 百夜』(日経BP/日本経済新聞出版)を上梓した。前作『小説 伊勢物語 業平』に続いて、平安時代の歌人に題材を採った第2作。六歌仙の一人、小野小町の少女時代から晩年までを描いた。 絶え忍び赦し歌を輝かせる〈小野小町は平安前期の歌人。紫式部や清少納言ら平安中期の女性文学者に先んじて、和歌という文芸の礎を築いた。歌の際も用紙も並外れて勝れていたとされ、伝説も多く残るが、出自や生涯は明らかではなく、生没年も分かっていない。高樹さんは、小町の実査苦と信じられる「古今和歌集」の18首を中心に構成。10歳の少女時代から晩年まで、物語を織り上げた〉 前作『業平』の在原業平を書いた時と同じく、今回も、小野の実作として残る歌をよりどころに、彼女の生涯をたどりました。文体も、それらの歌が地の文を読むだけで理解でき、同時に、平安という時代のみやびさを伝えられるように、前作で練り上げた平安雅文を用いています。「平安」と「女性」というテーマは非常に相性が良く、同性ということもあってか、いつの間にか小町の中に自分が入り込んでしまうこともありました。客観的でいようとしながらも、「私は小町よ」というような感じになって(笑い)。「ちょっと待て」と自分を抑えることもありました。小町の人生を貫いているのは、〝耐えて、忍んで、赦す〟こと。優雅に見える人生ですが、平安という時代の不自由さの中で、思うに任せぬことがたくさんあってことでしょう。『百夜』では母との別れや良岑宗貞(僧正遍昭)とのかなわなかった恋などを描きましたが、彼女は耐え、忍び、赦します。その中で鍛えられたのが歌の力でした。歌を志しとして歌を詠み続け、歌から力を得、歌の力を輝かせて、1100年後の今も人の心に響き、生き続ける作品を残したのです。 平安歌人の感性と生命力「古今和歌集」の歌をよりどころに 時代に先駆けたトップランナー人生にはままならぬことが多いもの。小町はそれを「宿世」として受け容れます。乗り越えるには力が必要ですが、彼女にとっての力とは、耐え、忍び、赦すこと。その人生を歌という目標が支えました。耐えて、忍んで、赦すなんて、古くさくて、コンサバティブ(保守的)で、つまらない生き方に感じるかもしれません。ただ、「受け入れる」「赦す」といっても、諦めることとは違います。諦めず、何かを創っていこうとする人だけが、乗り越える力を得られるように思います。現代の社会をみると、低劣な欲望や不平不満、いびつな自己意識や権利意識にとらわれているケースが少なくありません。そんな時代を生きる私たちが小町の人生から学べることは多いのではと思うのです。少し前には「親ガチャ」などという言い方がありましたが、現代にも宿世を感じることはあるでしょう。そういう時、大きな目的や目標に生きることが、宿世を乗り越える力を沸かせるはずです。「わが子を一人前に育てる」とでもいい。今日、明日の目先の欲望のためでなく、高い志に生きることが大切ではないでしょうか。今回のタイトル『百話』は、長い時間という意味でもあります。1100年前から続く平安文化に命を注ぎ、力を与えたのは小町をはじめとする女性達でした。良質な感性でリードした小町は、まさに〝平安女性のトップランナー〟と言えるでしょう。 日本人の美意識「あわれ」を定着「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」という小町の歌がありますが、日本人は満開の桜を美しいと感じるとともに、はらはらと散る桜にも味わいを覚えます。移ろいに関心を持つ。これが「あわれ」です。満月は、いつか欠ける。花は散り、命には最期の時が来る。でも、月は再び円く満ち、花は芽吹く。命はどこかで再生する。まんかいの花、満月に「あわれ」を感じるのが、四季の中で生きる日本人の美意識であり、日本の美のかたちです。この感覚は「万葉集」の大伴家持が持っていましたが、「こういうもの」と定義し、定着させたのが小町でした。「源氏物語」には「あわれ」という言葉が繰り返し使われているそうですが、紫式部の頃には皆が受容し、定着していたということでしょう。小町の感性は、日本の文学や文化という大河の最初の一滴だといえると思います。前作の「業平」は、古典作品への新しいアプローチとして、本年度から高校の教科書に取り上げられています。現代語訳ではなく、翻案として再構築し、作り替えた作品を読むことで古典を鑑賞する。つまり、そこに人間がいたことを味わうのです。今回の『百夜』も〝味わう古典〟の一つになることを願っています。文体については、今回も「読みやすい」という感想をいただいています。読みやすさも一つの〝文芸〟だと思っていますので、これはうれしいこと。日本人の整理に適った五・七の組み合わせを基調として使っています。ルビも五・七を意識して振っていますので、リズムを刻むように読んでいただいているかもしれません。音楽的なものとして、越えにして味わっていただけるとうれしい。小町の物語を通して、言葉の力、文芸の力を感じていただけると幸いです。 たかぎ・のぶこ 山口県生まれ。1980年に『その細木道』でデビュー。84年『光抱く夜よ』で芥川賞。99年『透光の樹』で谷崎潤一郎賞、2010年『トモスイ』で川端康成文学賞。『小説 伊勢物語 業平』で20年に泉鏡花文学賞、21年に毎日芸術賞。日本芸術院会員、文化功労者。 【文化Culture】聖教新聞2023.6.29
August 20, 2024
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人生とは、死とは没後100年 有島武郎が投げかけるもの先日、長野県軽井沢町の公民館をメーン会場に、有島武郎研究会の第73回全国大会が開かれ、講演や研究発表などがなされた。今年は有島の没後100年ということもあり、彼が活動の拠点とし終焉の地でもあった軽井沢での開催となった。同大会では、有島の小説『迷路』をめぐる研究発表がなされ、北海道大学の中村三春教授が「有島武郎と子どもの現代芸術」と題し、講演を行った。さらに、有島の晩年の思想について3人の研究者から有島の著作を基に論点が提示され、活発に議論が交わされた。没後100年を経てもなお、多くの研究者によって活発に研究されている有島武郎とは、どのような人だったのだろうか。有島武郎は西南戦争の翌年の1878(明治11)年に、旧鹿児島島津家の支族に仕えた家の出で大蔵省に勤める有島武の長男として東京に生まれた。母は旧南部藩江戸留守居役の娘、画家の有島生馬と小説家の里見弴は実弟。公明党草創期から衆院議員を8期務めた有島重武氏は甥にあたる。 留学を期に本格的な執筆活動個性伸ばす愛の「本能的生活」 文明開化の時代に適応できる「和魂洋才」を身に着けることを企画した両親の遺構で、幼くして英会話などの個人教授を受ける一方、武術の稽古や論語の素読などをスパルタ式に施された。この時期通っていた欧米風教育を行う学校でのエピソードが、童話『一房の葡萄』に描かれている。その後、学習院中等科を卒業した有島は、両親の影響を逃れるように札幌農学校へ進んだ。友人と定山渓への心中行などの末、有島はキリスト教に入信。同学校卒業後、入営を経てアメリカ留学した。留学時代、トルストイの日露戦争への反戦メッセージに刺激を受け、ロシア文学やマルクス主義、ホイットマン、イプセンにも触れた。それが帰国後の執筆活動に入る端緒となった。小説だけでなく『惜しみなく愛は奪ふ』など優れた評論を多く残す有島の社会観や精神世界に、留学期が大きく影響を与えているとする研究者は多い。有島は帰国後、母校で教鞭を執るとともに、民衆は戦争を望んでいないとして植民地への野望を露わにする日本政府を批判。雑誌『白樺』の創刊に参加し、作家として活動を本格化させる。その後、雑誌記者としての衝撃的な心中迄の数十年間に『或る女』『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『小さき者へ』をはじめ、現代も読み継がれる名作を次々と発表した。ちなみに『小さき者へ』で呼びかけられている母を失った3人の幼い息子のうち、長男は黒澤明の『羅生門』をはじめ数々の名作に出演。映画黄金期を飾る名優の森雅之だ。明治維新後の日本の自我探求の一つの完成とも呼ばれる『惜しみなく愛は奪ふ』で有島は、『大自然の意志』の現れである『本能的生活』(※この「本能」は、一般的な意味での「本能」ではなく、「愛」を指す)が真に個性を伸ばすことのできる理想的な生活であるとする。また『生まれ出づる悩み』で有島は、「人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。』とし、死への緊張感がなくなったり、死へ近づく冒険を躊躇したりすると死は即座に訪れると述べる。人生や死についての哲学的な問題を、有島は現代の私たちに投げかけているよう。(K・U) 【文化】公明新聞2023.6.23
August 17, 2024
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変わりゆくバングラデシュ森田 雅章四半世紀の発展と暮らし撮るかつてはアジアの最貧国に数えられたバングラデシュだが、近年、目覚ましい経済成長を続けている。同国を四半世紀にわたって撮影してきた写真家・森田雅章氏は、先月、東京都内で写真館「変わりゆく『バングラデシュ』」を開催。同国の発展の様子やそこに暮らす人々の姿を紹介した。森田氏が写真とともにバングラデシュへの思いを語った。 ストレス、衝撃……そして羨望へ誇りと愛国心あふれる青年も 最初にバングラデシュを訪れたのは1997年9月です。当時、首都ダッカでは、混合油で走るベビータクシー(小型三輪車)が吐き出す真っ黒な排煙がスモッグとなって視界をさえぎり、喉に強い刺激を感じました。さらに町なかをトラックやベビータクシー、リキシャ(力車)が、われ先にと走り回り、いたるところでクラクションが鳴り響いていました。すべてが私にはストレスでした。衝撃的だったのは、高校生ぐらいの女の子が、道に落ちている牛ふんを素手で集めているのを目にしたことです。土の代わりに牛ふんを塗って家の壁にするといいます。この国で写真を撮るには、自分を一度壊さなければ難しい。それほどの衝撃でした。しかし、その覚悟はまだなかったのか、「この国が変わらなければ僕はここに来ない。国が変化するには、最低10年はかかるだろうから、僕が来るとしたら、その10年を超えてから」といって、帰国したことを思いだします。◇10年以上が過ぎ、訪れた2008年。バングラデシュからスモッグは消えていました。車のCNG(圧縮天然ガス)化で真っ黒な排煙はなくなってしまいました。また、私がメインで撮影するスラムは半分程度に減り、テントのような住居は小屋に変わっていました。19年までに計9回、訪れました。たちはその都度、様子を一変させていました。下水道が設置され、トイレも水洗に変わり、年のインフラも整備されました。以前はなかったインスタント食品が店に並ぶようになっていました。1997年当時は裸足が当たり前でしたが、今、サンダルを履かない人はいません。0年前は1日1食だった人たちも、現在は1日3食をとれているようでした。かつては戸籍や出生の記録がないために年端もいかない女の子が結婚し、若年出産が問題化しましたが、子どもたちの通う学校が増え、子どもの登録や住民管理が進むなか、そうした問題も解決されつつあるようです。識字率は10%を割るとまでいわれましたが、今、18歳以下の子供でも字の読めない子はまずいません。バングラデシュの成長の背景には、放精産業を中心とした経済成長があります。町の至る所に縫製工場が立ち、交代制で24時間操業します。それまで夜間の外出が禁止されていた女性を夜の街で見かけるようになったのもそのためでしょう。そして、バングラデシュは今、建設ラッシュを迎えています。高層ビルの建設が進み、遊園地やショッピングモールも併設されました。そこにはジーンズ姿の女性や若い男女が買い物を楽しむ姿も見られ、隔世の感さえあります。一方、「アウトカースト(不可触民)」と呼ばれる、汲み取り業など、現在も職業差別を受けながら暮らす人々がいます。しかし、そうした差別も国の発展・成長の中で薄まりつつあるのが現状です。出生によってつける仕事に制約のあったバングラデシュでしたが、人々の自由度は上がっています。◇「ここバングラデシュは最高の国だ」今も貧しさの残る村で、20代の青年に「自分の国をどう思うか」と聞くと、彼はそう答えました。自らの国に誇りを持ち、愛国心にあふれる姿をうらやましく感じました。生活レベルが向上したとはいえ、日本からすれば、まだ不自由だし、不便なところも多いはずです。平均的なバングラデシュ人と日本人では、できることに依然大きな開きがあるでしょう。日本人の方がはるかにより良い未来を望める位置にいる。それなのに日本ではどこか諦めている人が多いのを感じます。バングラデシュを見続けてきた私はそう感じています。 もりた・まさあき 1958年、愛知県生まれ。日本写真家協会会員。日本写真家ユニオン会員。東京を中心に個展を開催。81年、視点展グランプリ受賞。2007年から5年連続で仏・公募展「サロン・ドトン『スモーキーマウンテンレポートin Philippines「あのときの子どもたちは」』がある。 【文化】公明新聞2023.6.20
August 16, 2024
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ダ・ヴィンチが愛した食文化歴史料理研究家 遠藤 雅司美食と派手さが主流のなか、素材を生かした料理を好んだ14~16世紀にかけ、ヨーロッパ各地で古代ギリシア・ローマの文化を復興しようという運動が起こった。いわゆるルネサンスである。このルネサンスの成熟期を代表する芸術家の一人がレオナルド・ダ・ヴィンチである。『モナ・リザ』『最後の晩餐』といった絵画が有名で、それ以外にも彫刻、建築、科学といった多分野で才能を発揮した人物だ。ところで、レオナルドの職の考え方も記録が残っている。当時、美食と派手なビジュアルを追求する貴族の考え方とは一線を画していた。レオナルドが書き残したノート『アトランティコ手稿』にこんな記述がある。 健康でいたければ、以下を心がけること。食欲なしに食べはじめるべからず。食事の準備が整っていないときも同様である。よく噛んで食べること。これは口に入れたものがよく煮えていようと、食材の原型を留めていようと徹底すべし。(レオナルド・ダ・ヴィンチ『アトランティコ手稿』) 実は、レオナルドの健康観は、人文主義者のプラーティナの影響を強く受けていた。プラーティナの料理書『真の喜びと健康について』は、素材の味を生かしたシンプルなもので、中世料理とは決定的に異なっていた。富や権力の象徴として多用されていた香辛料が最小限に控えられたのだ。プラーティナは香辛料を薬の代用品と捉え、薬の効果を期待するなら少量で十分だとした。これ以降、イタリアを中心に香辛料の使用は抑制方向に向かう。プラーティナによって、食に対する「節度」の概念が持ち込まれたといってもよいだろう。レオナルドの好物の一つに、貴族にいち早く受け入れられた野菜スープ「ミネストラ」がある。1504年5月29日のレオナルドのメモや1518年の『アランデル手稿』には「ミネストラ」という単語が残されている。ミネストラは、いち早くイタリアで定着した野菜料理で、野菜ヤマメや肉汁などを使った濃厚なスープのことだ。ちなみに私たちがよく耳にするミネストローネは「大きいミネストラ」という意味である。レオナルドと同時代に生き、ローマ教皇に仕えた宮廷料理人・バルトロメオ・スカッピ(1500~1577)の著した料理書『オペラ(料理研究家バルトロメオ・スカッピの著作集)』には、ヴェネツィア風かぶ、りんご、アスパラガス・肉汁、家畜とホップ、豆、アーモンドミルク入り、鶏汁、そば粉や大麦など様々なミネストラのレシピが掲載されている。このミネストラの再現料理を試みるとしよう。料理の食材には、レオナルドの時代にイタリアに流通し始めたインゲン豆を使いたい。インゲン豆は、大航海時代に新大陸からやって来た食材でレオナルドの「家計簿」にも購入の記録が残っている。ソラ豆に似ていたために、すぐに受け入れられたそうだ。農民たりの食卓に欠かせなかったタマネギやにんじん、キャベツ、長ネギも入れてみよう。さらに、イタリア料理の代名詞パスタを加えるのも望ましい。パスタの起源は古く、古代ローマ時代以前にすでにその原型は存在していた。そのパスタの中でも米粒状のリゾーニを用いるとスープに合うだろう。農民の常食だったミネストラ。塩やあえて当時の高級品となるコショウや香辛料を使わずに野菜の味だけで味わおう。野菜の滋味が感じられるヘルシーなスープ。レオナルドが身近に感じられることだろう。(えんどう・まさし) 【文化】公明新聞2023.6.18
August 14, 2024
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橋本関雪 生誕140周年一般財団法人 福田美術振興財団 学芸員 阿部 亜紀京都の3館で大回顧展 壮大な芸術世界を堪能京都画壇を代表する日本画家・橋本関雪(一八八三~一九四五)の生誕一四〇周年を記念して現在、白抄村荘 橋本関雪記念館、福田美術館、嵯峨嵐山文華館の三館で、京都では初めてとなる大回顧展を開催している。橋本関雪は、神戸の坂本村(現・神戸市中央区楠本町)で、明石藩の儒者だった父・海閑と、画や歌に造詣が深かった母・フジのもとに生まれた。一二歳の時に四条派の画家・片岡公嚝に入門すると、同年の第四回内国勧業博覧会で席上揮毫を行うほど早熟な才能を示した。その後も絵の研鑽を積み、二〇歳の時には竹内栖鳳の竹丈会に入塾している。その後、関雪は文部省美術展覧会(文展)をきっかけに大きな評価を得る。第三回文展で杜甫の詩に着想を得た《失意》、第四回文展で白楽天の詩に取材した《琵琶行》、第六回文展では『太平記』で後醍醐帝が都落ちする緊迫の場面を描いた《後醍醐帝》など、中国や日本の物語世界を見事に表現しきった絵画を出品し、いずれも褒状を得た。そして一九一三年、関雪は初めて中国に渡る。以降、中国へ数十回足を運んだといい、《梅渓仙隠図》や《松渓試泉図》のように南画的色彩の画に傾倒し始める。さらには欧州旅行の経験や旺盛な蒐集意欲も自らの力に変え、関雪は前進を続けた。結果、第七回文展の《南国》、第九回文展の《猟》が最高賞の二等を受賞。第一二回文展に出品した《木蘭》では、審査なしで出品可能な「永久無鑑査」となり、翌年に改組された第一回帝国美術院展覧会(帝展)では審査員を務めることになった。この時期に、京都画壇においての地位は確固たるものになったといえよう。しかし関雪は現状に満足することなく、第二回帝展には五幅一対の《木蘭詩》を審査員として出品し、新たな境地を追っている。そして、第一四回帝展で後に代表作となる《玄猿》を出品し、移行、動物画へと傾倒した。戦時中、晩年の関雪には他の画家と同様、戦争画の制作が求められた。その只中、関雪は若い画家に戦争画を描かせまいと、自ら進んで取り組むこともあったという。一九四一年に「橋本関雪聖戦記念画展」に出品され、その度、八二年ぶりの公開となった《俊翼》も、飛翔する戦闘機を寓意した戦争画である。今回の生誕140年記念展では、これまでに紹介した傑作の数々はもちろん、和漢の故事に材を取った歴史画から、詩書画一致を目指した山水画や風景、猿や斬る根などの精緻な毛書きの動物画、生彩にあふれた花鳥画、鮮麗な美人画など、三館を通して合計一五〇点の作品を紹介している。福田美術館では、全国から結集した関雪の代表作の数々や初公開の作品を展示。掛軸の多くは三〇センチの近距離で楽しむことができる。また、嵯峨嵐山文華館では、一八歳の時に描いた作品、菊池契月や西山翆山+章との各合作なども展示している。一つのジャンルにとどまらず。縦横に筆を揮って傑作を世に送った関雪の芸術を、この機会に是非ご覧いただきたい。 (あべ・あき) 【文化】公明新聞2023.6.14
August 10, 2024
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日本アニメの転換点氷川竜介(アニメ・特撮研究家)多くの制作者に影響を与えた「ヤマト」日本のアニメは面白い。世界中で評判だ——と、よくいわれます。日本の人気アニメ作品の特徴とは、いったい何なのでしょうか。そんな疑問を解消したく、近著『日本アニメの革新』(角川新書)を出しました。時代ごとに転換点となった作品を紹介しましょう。一つ目の転換点は「宇宙戦艦ヤマト」と「機動戦士ガンダム」です。アニメは子ども向けと捉えられていたものが、青年向けへと舵を切ることになったのです。ヤマトのあらすじは、3枚の絵で紹介できます。➀赤く焼けただれて滅亡に瀕した地球②干上がった海底にたたずむ赤錆びた戦艦大和③地下都市で宇宙戦艦に改造されかけたヤマトの船尾。古代進や沖田艦長といった主要キャラクターはもちろんのこと、ヤマトの全貌さえ示されなくても説明できてしまうのです。つまり、この作品の主役はキャラクターではなく、ヤマトが旅していく14万8000光年という空間。つまり作品世界なのです。観客に想像させて楽しませる。作り手側は深く考えなかったかもしれませんが、観客たちはそう受け止め、見た後で勝手に世界観を広げ始めたのがヤマトだったのです。その応用編とも言えるのが、「機動戦士ガンダム」です。大和が空間を描いたのだとしたら、ガンダムは時間を描いていると言えるでしょう。放送終了後40年以上経ってもなお、多くの人のガンダムについて掘り下げて楽しめるだけの要素があるのです。こうなると、視聴対象は小学生には難しい。青少年が対象になるというものもうなずけるところです。 なぜ海外でも人気なのか世界観を広げてくれる作品が多い 細部を緻密に描き、リアルな現実感次に取り上げるのはジブリ作品。ジブリは、女性ファンを拡大したことで有名ですが実は、そのすごさは〝信じさせる力〟にあります。例えば、後にスタジオジブリの「アルプスの少女ハイジ」。ハイジがおじいさんの家に連れてこられる場面で、活発なハイジは黙って座っていません。部屋の中を勝手に探索し、棚を開けたり、食器を発見します。2階に上がるハシゴもハイジの目線で見つけます。観客はハイジの目線で同じように見ていくのです。日常の何げない光景にこだわり、細かい部分を再現し、世界に潜む一つ一つの因果・つながりを描いている。それがジブリアニメに受け継がれているのです。SFアニメの「AKIRA」「攻殻機動隊」は、さらにリアルさと緻密さを追求し、海外でも高い評価を受けています。例えば、ビルが倒壊する場面を思い浮かべてみてください。バラバラに崩れた壁が地面に落ちていく。これでは昔のアニメと一緒。破片が落ちていくだけではなく、まずガラスにひびが入り、砕け散って地面に落下。壁にしても、全部いっぺんに崩れるのではなく、一部が崩れて鉄筋がむき出しになる。さらに、地面に落下して後は土煙が上がり、何も見えなくなる。つまり、壊れるという記号を避け、実際の描写に近づけた。それによって、さまざまな感情や、行動への納得性をかき立てているわけです。 実写よりも美しいキラキラした映像世界に投入させるためにリアルさを追求するなら、アニメではなく実写にすればいいのに、とよくいわれます。しかし、絵に描くことで何でも表現できるのがアニメ。そこには役者や美術セットなど物理的な制約がありません。つまり、実写映画でやることを、日本ではアニメという手法で低コストで実現し、そこに実写の誓約を超えた実感を込めているわけです。21世紀に入ると、技術的な見せ方だけでなく、デジタルの効果を利用して、個人に近い世界観を伝える作品も登場します。ここで取り上げるのは新海誠監督です。「君の名は」「天気の子」「すずめの戸締り」の3部作は、これまで述べてきたような細部を個人の視線に近づけて描くことで、作品の世界観に投入させてくれます。さらに特筆したいのは、光と色の鮮やかさ。そのキラキラした映像は、実は私たちが生きている世界観も、こんなにきれいなのかもしれない、と思わせてくれるほど。新海監督が表現したいのは、古来、日本人が受け継いできた世界観でもある。それを見せることで、悲惨な災害も、過去と同じように乗り越えることができるんじゃないかと思わせてくれるのです。海外の人がアニメを見て癒されるというのは、日本だ平和というだけではなく、そんな世界の見方にあるのかもしれません。=談 【文化Culture】聖教新聞2023.6.8
August 6, 2024
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童画家 武井武雄の生涯神奈川近代文学館展示課 半田 典子子どもの心に芸術性豊かな作品届ける武井武雄(1894~1983)は、童画家、木版画家、造本家として大正から昭和にかけて活躍した。1970年代初期までに「キンダーブック」を手にした方がある方なら、おそらく一度畑恵の作品を目にしているに違いない。武井は、東京芸術学校(現・東京藝術大学)の西洋画科で学んだ。卒業したての画家志望の青年の絵がすぐ売れるはずもなく、生活のために子ども向けの挿絵の仕事にとりかかった。まもなく北原白秋の使命を受け、その童謡集の挿絵や装幀を担当するなど、各社から声がかかるようになるが、画家としての道が狭められていくような不安もあった。しかし仕事を積み重ねていくうちに、子どもたちに向けた絵画作品について、その重要性に気付き美術の一分野として自主性をもって存在すべきことを考えるようになる。そして自ら「童画」と名づけ、対象でも暮らし0の時代潮流のもとで開花した児童文化の中に一つの地位を確立させた。また。絵を描くだけでなく、詩・童謡・物語も自身で創作、子どもの心に芸術性の高い豊かな作品を届けようと、理想を追求し続けた。また、武井は生まれた子供が最初に触れる玩具の存在の大きさに着目する。日本各地に伝わる郷土玩具を蒐集、生活の近代化につれて消えゆくその歴史をのこそうと、35年に『日本郷土玩具』をまとめ上げた。そうした歴史を踏まえた上で、自ら玩具をデザインし「イルフトイズ」の名称を冠した。「イルフ」は「古い」の逆、つまり新しい、の意で、新時代にふさわしい玩具の創作を目指そう、という方向性を示している。そうして生み出された玩具たちはモダンな美しさをもち、子どもたちの心に華やぎをもたらすものであった。しかし、こうした武井の積極的な取り組みは、戦時下に入ると思うようにならなくなった。物質不足と報道規制で自由な出版活動はできず、また38年から翌年にかけては、結核などで母と2人の子どもを亡くす。さらに東京大空襲によって自宅と作品、蒐集した郷土玩具すべてが戦火の中に焼失した。武井は深い失意の中で敗戦を生地の長野・岡谷でむかえる。戦後の武井の活動はめざましい。「キンダーブック」などの絵雑誌に毎号のように作品を描くとともに、木版画、造本も最晩年まで間断なく取り組んでいる。武井が描く「童画」の世界は、不思議な魅力に満ちている。現実から遠く離れた、いずことも知れない場所に、見たことのない花が咲き乱れ鳥たちが舞い、擬人化された動物たちが異世界へとみる人々を誘う。こうした「童画」を、武井は、造本家として半世紀余り取り組んだ「武井武雄刊本作品」という画文集にも取り入れた。それらの作品には、画一化された社会と離れ、自由に心を遊ばせる楽しさを子どもたちはもちろん、大人であっても感じるに違いない。(はんだ・のりこ) 【文化】公明新聞2023.6.4
August 3, 2024
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人間の二面性と芸術めぐる悲劇長与善郎『青銅の基督』100年 理想主義と青春の感動がむき出しになる輝きと迫力20世紀初め、ロシアの文豪トルストイなどの影響を受け、理想主義を掲げて人間肯定の芸術を目指した白樺派と呼ばれた人々がいた。長与善郎はその中の一人だ。長与善郎は、肥前大村藩の藩医であった医学界の名門・長与家の末子として1888(明治21)年に東京で生まれた。父・専斎は、明治期に日本の医学教育や衛星制度の確立に尽力した人物だ。上流階級の子弟として育った彼は、学習院高等科から東大に進むが中退。その間、白樺派の中核であった武者小路実篤の処女作品集『荒野』を読み感銘し、1911(同44)年に白樺派に参加、雑誌「白樺」同人として活動を始めた。長与が『青銅の基督』を発表したのは23(大正12年)。実篤の「新しき村」を見るために前年、長崎県を訪れた彼は、江戸時代、長崎奉行が萩原裕佐という鋳物師に命じ切支丹弾圧のための踏み絵用の聖像を造らせたところ、その出来栄えの見事さに切支丹と疑われた裕佐も処刑されてしまったという話を聞き、『感動すべき数奇な悲劇的運命に創作の感興をそそられた』(岩波文庫1950年改版後記)。17年に書いた戯曲『項羽と劉邦』で世に認められていたものの、理想主義の主張が強いわりに作品の構成が未熟とされ、白樺派ではさほど評価が高くなかった彼は、文芸誌に「目下執筆中の『青銅の基督』は。おそらく余の小説中の白眉」になると予告した。意気込みの程が伝わってくる。物語の時代は作品冒頭によれば、「切支丹を槍玉にあげて、およそ残虐の限りを尽くした家光が死んで家綱が四代将軍となっていたころ」で、舞台は長崎。主人公で、いつかは芸術的な対策をものにしたいとの野心を持つ南蛮鋳物師の萩原裕佐と俗悪な絵師の富井孫四郎、裕佐が求婚し失恋したモニカの裕佐の馴染みの遊女・君香、殉教の長老ルビノと退転し弾圧する側に回ったフェレラ。主な登場人物は対比される。作品中の言葉遣いの多くは標準語で「君」や「僕」などの呼称には江戸時代や長崎という時代性・地域性は皆無。長与は、地域性などを出すことは「真剣な悲劇的史実に対する不謹慎な冒涜的態度として不愉快」(同後記)であり「それで自分はわざとその反対な正面的書き方をした」(同)と述べている。作品中、隠れキリシタンの身さへの襲撃の場面で、参加者を助けようと「おれはこの仲間の頭だ!」と事実とは異なるたんかを切った裕佐は、その直後、切支丹捕縛の指揮を執っていたフェレラがルビノの赦しの言葉にショックを受け昏倒したため、とりあえず難を逃れ家に帰る途中、星空に大きな十字架を認め天啓を受けたように感じる。「オオ、今こそ、おれはあの聖像—ピエタを造ろう! ああ、もうおれには造れる! ありがたい!」長与は当時34歳。潔癖性と肉欲が同居する主人公が、計算高いながらもいわゆる判官びいき的な弱い者への肩入れを行うその高揚感によって高い芸術性に至る青春の感動と悲劇性が本作の主題だろう。それをオブラートに包まずむき出しに示したその若さの輝きは、本人が後年、不体裁、拙劣と述懐した後世の青臭さも含め、100年経ってもその迫力ときらめきを失わない。(H・M) 【文化】公明新聞2023.6.2
August 1, 2024
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注目されるエコ住宅住宅デザイン研究所所長 金堀 一郎 自分だけの快適さ追求するのはエゴ日本が工業化の道をたどり、機能やコストを重要視し新建材を使用する中、1970年代のヨーロッパの住宅を見て、カルチャーショックを覚えました。自然素材で家を造り、手入れをしながら長く住んでいた。暮らしにしても、主婦が織ったタペストリーを壁に飾ったり、窓辺には花やカーテンで個性を演出しているのです。そこには住んでいる人が暮らしを楽しんでいる姿がありました。当時は旅行者も少なく、日本から来た建築家だと話すと、喜んで家の中を見せてくれました。それぞれ、こだわりがあるから、自分の家を見せたいんです。しかも、これは奥さんが作ったもの。これは有名な職人の作品等々、一生懸命に説明してくれるのです。住宅の価値は機能性とコストだけでなく、もっと別の、暮らしやすさ休む人に優しいなどの価値もあるのだと気づかされた経験でした。エコ住宅というのは、人と地球にやさしい家のことです。ほどほどの不便さを受け入れながら、豊かに暮らしていける家を指します。近代化の中で人間は、便利さを求めてきました。それは、いかに早く、快適にするかというもの。その結果、プラスティックを多用する生活になり、人の健康と地球環境に大きな負担をかけることになったのです。急に、プラスティックを排除した生活するのは難しいかもしれません。でも、できるだけ自然素材、無垢の木材などを使用して暮らしていくことはできるはずです。エコロジーには「生態学」という意味があります。自分だけでなく、周囲の環境、宇宙にまで視点を広げ、好ましい環境をつくっていくのが、エコなのです。「エコの反対語はエゴ」と言われるように、自分だけの快適さを追求するのはエゴです。それを一人一人が考えて、実践していくのがエコ生活なのです。 地球にも優しい家ほどほどの不便さは受け入れる 国産材循環させる持続可能な仕組み2001年、エコモデル住宅として、広島市安佐南区の我が家を30坪増築した時に、有名な工務店の社長たちを招待しました。すると社長たちは座り込んで動こうとしないのです。自分たちが造っている家とは違う。心地いいと。完全空調で、高気密・高断熱の住宅の心地よさもあると思います。でも、それとは違う、エコ住宅の心地よさは、体感しなければ分かりません。15年くらい前から、自宅の裏山のツリーハウスを造っていますが、これも、皆さんに、木の良さを体感してもらいたいからです。近年、自然建材を取り入れる取り組みとして、「DIY型リフォーム」に取り組んでいます。高度経済成長期に建てられた都市部の住宅は空き家となり、中山間地では古民家などの空き家も増えています。これらをリノベーション、リフォームする際に、椋木をはじめとする自然素材を用いようというもの。普及・指導するための人材を育成する「DIYフォームアドバイザー」資格制度を創設。各地で『木の学校』を開催し、体験学習やワークショップを行います。マンションにしても、戸建て住宅にしても、いずれは建建て直すかリフォームすることになります。その時に、手軽だからとビニールクロスなどのプラスティック素材を使うのでは、素材自体が環境に負荷をかけ、解体時にも大きな負荷がかかる廃棄物になります。したがって、使用する木材は近い国産の方がいいのです。そんな「持続可能な木のまちづくり」を目指して、島根・邑南町の製材所と協力して、古楊木材パーツ作りを開始しました。例えば、10平方㍍程度の小さな小屋を造るには——。工場でパネル化したものを、現場で組み立てるだけの〝お手軽商品〟もありますが、けっこう高価。しかし、パネルではなく、木材のパーツを作れば、もっと安価にできるのです。このパーツはツリーハウスにも利用できるので、木の学校で造り方を学び、木の良さを体感して、そこから自分でDIYリフォームに挑戦しているといいでしょう。その経験は、自分の家を木で建てる際の参考にもなるはずです。 =談 かなほり・いちろう 1947年、広島県生まれ。元安田女子大学教授、住宅デザイン研究所所長。工学博士、一級建築士、早くからエコロジー住宅を提唱し、研究・設計を行う。08年に竣工した「ペンシルビル」がエコ建築として注目を集める。著書に、『DIYリフォームアドバイザー資格認定講座公式キャスト』『「いい家」はこうつくる』など多数。 【文化Culture】聖教新聞2023.6.1
August 1, 2024
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歴史大きく書き換えた発見岩宿遺跡みどり市岩宿博物館元館長 考古学者 小菅 将夫日本列島にいつから人類が住み始めたのかは、考古学者や歴史に関心がない人でも興味ある話題であろう。現在では、世界史でいう後期旧石器時代、約4万年前からというのが一般的である。この後期旧石器時代の段階に人がいたことが初めて証明されたのが群馬県みどり市に所在する岩宿遺跡である。岩宿遺跡の発見や発掘の前は、その時代に対応する年代の地層である関東ローム層は火山灰が堆積したもので、その当時は火山がさかんに噴火しており、動植物も認められないため、人類は住むことができなかったというのが常識であった。太平洋戦争が終わった1945年、志願兵であった相澤忠洋は、桐生市に復員すると、行商の傍ら以前から興味があった考古学に本格的に取り組むことができるようになった。そして46年秋、相澤は、大間々扇状地内にある岩宿の独立丘陵を横切る切通の道で、関東ローム層からと考えられる数点の黒曜石製の石片を発見する。疑問に思った相澤はその後何度もその切通に通い、ついに49年7月、関東ローム層中から誰が見ても人口品と分かる黒曜石製の槍先形尖頭器を発見した。この相澤の発見にもとづいて同年9月11日、明治大学考古学研究室の杉原壮介や芹澤長介、相沢など6人によって岩宿遺跡の発掘調査が実施された。そしてこの日の夕刻、杉原によって関東ローム層中のかなり深い部分から石斧が発見され、調査隊の全員がローム層中に人類の痕跡があることを確認したのである。その後、51年には東京都茂呂遺跡が、翌52年には長野県茶臼山遺跡が発掘調査されると、全国から同様な遺跡は続々と発見されるようになった。こうして日本列島に旧石器時代があることに懐疑的であった研究者も、その存在を認めるようになっていった。岩宿遺跡の発見と発掘によって日本列島に旧石器時代から人類が生活していたことが証明されたが、この事案は、それまでの常識が覆され、日本の研究は大きく書き換えられるとともに、これまでの倍以上の長さをもつことが分かったのである。60年代末の高度成長下の土木工事の増加もあり、全国で多数の遺跡が発掘・調査されるようになった。2010年には日本旧石器学会による全国調査によって1万カ所以上の遺跡が存在することが分かったが、日本の遺跡の密度は世界でもトップといえるであろう。この時代の遺跡では石器が主な出土品であるが、その研究によって日本列島内の時期や地域による変化も解明されている。さらにもっとも古い時期には100人以上もの人々が同時に生活した円形のムラがあったこと、刃先を磨いた磨製の石斧が多数発見されるなど、日本列島の独自性も明らかになっている。沖縄県内では多数の人骨も発見されており、その系統が検討されている。相澤が発見した岩宿遺跡にはじまる日本列島の旧石器時代の研究は、2000年に発見した「前期旧石器時代捏造事件」によって大きな痛手を被ったが、これまでの研究によってその独自性が解明され「岩宿時代」と呼ぶ場合もあるなど、70年以上の時を経て着実に発展している。 【文化】公明新聞2023.5.26
July 28, 2024
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現代に生かす「狂歌」の精神—大田南畝没後200年—法政大学教授 小林 ふみ子知を探求する温かいまなざし世の常・人の常、権威鋭く突く大田南畝といってもピンとこなくとも、蜀山人といえば。ある年代以上の方、また落語好きの御仁はご存知かもしれない。江戸に生きた幕臣にして、狂歌の名人、戯作者や絵師、詩人・歌人ら文芸界の交友の中心で活躍した人物である。今年はその没後二〇〇年で、ちょうど今、六月二十五日まで、東京スカイツリーにほど近い、たばこと塩の博物館で記念展が開かれている。この時代の江戸を代表する知識人らしく博覧強記の記録魔だが、この人を輝かせたのは何より、ことばを自在に操る才能である。五七五七七の音律で「歌語」(和歌用語)の制約なしに自由に詠める狂歌の形式は、まさに彼に最適の活動の場だった。今の季節ならば、 かりがねをへしもしぇずさくらがり潮干がりとてかりつくしけり 雁が北へと帰らぬうちに桜狩り、潮干狩りと遊びつくしたせいで、年末のツケの支払いもまだなのにまたも借金を重ねてしまった、と。「かり」の音の反復も小気味よい。江戸に狂歌ブームをまき起こした『万載狂歌集』の続編『徳和歌後万載集』所載の一首である。さらに万年の自選名和歌集『蜀山百首』から。京都から江戸へ下り、隅田河畔で都鳥を見て涙した、『伊勢物語』の在原業平を詠んで、 すみだ川今は吾妻の都鳥業平などは在五中将 今の都は江戸、在五中将こと業平こそ在郷の田舎者だと時を越えて笑い飛ばす。諺「果報は寝て待て」も、 ねてまてどくらせどさらに何事もなきこそ人の果報なりけれ 待てど暮らせど何事もない日常こそが幸せだ、という。パロディも得意だ。短い桜の季節を惜しむ『古今和歌集』藤原興風「いたずらにすぐす月日はおもほえで花みてくらす春ぞすくなき」もひっくり返して、 いたづらにすぐる月日も面白し花見てばかりくらされぬ世は 花見どころではない毎日がおもしろいのだ、と。また、 いつはりのなき世なりせば本なれの西瓜の皮に穴はあけまじ これも『古今集』歌もじり。本歌は「偽りのなき世なりせばいかばかりの人の言の葉うれしからまし」、嘘のない世だったらどれほどあなたの言葉がうれしいことでしょうという恋の歎き。これを転じて、世に嘘偽りがあるからこそ根元近くで大きく育った元成りの西瓜は皮に穴をあけて味を証明しないと売れないのだ、と。故事、古歌や諺を巧みに用いて世の常、人の常を鋭く突く。古典の権威も笑い飛ばす。しかもその眼差しは温かく、太平の御代への肯定感に満ちている。それを可能にしたのは、和漢の典籍を縦横に読みこなして得た知識、知への敬意だった。多くの愛書仲間とともに膨大な蔵書を築き、それらの記述から多くの随筆や叢書を編んだ。文献の記述を対照しながらその確実性を検証する実証的思考が生まれつつあった時代を体現する。知と戯れる狂歌を大流行に導き、書物文化を昂揚させた南畝から学びたいのは、飽くことなき知への探求心と批判的思考である。 (こばやし・ふみこ) 【文化】公明新聞2023.5.19
July 24, 2024
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落語に学ぶ老い方稲田 和浩(大衆芸能脚本家)皆に好かれるご隠居さん現代では、分からないこと、困ったことがあれば、手軽にネットで検索することができます。しかし、ここまでネットが普及する前には、もっと身近にいて人生経験豊かな人のみ権を参考にしていました。落語で描かれている「ご隠居さん」と「八五郎(八っつぁん)」「熊五郎(熊さん)」のような関係です。この二人、何かというとご隠居さんを訪ねてきます。生活で困ったことを解決するために相談しに来ることもあれば、とくに用事もなくあそびにくることも。二人に対してご隠居さんは、茶や菓子を振る舞い、時には酒を飲ませたりしながら、相談に応じたり、無駄話をしたりするわけです。例えば、「子ぼめ」では、酒をご馳走になりにきた八五郎に、人の誉め方、世辞の言い方を。「松竹梅」では婚礼の席での祝儀の付け方を教えることに。隠居は謡の師匠ではないけれども、こうした余経も一般常識の一つとして身に付けていたのです。同じような噺に長屋の男が婚礼の仲人に頼まれる「高砂や」がありますが、いずれも教わったことを真似て失敗するパターンです。このように、街中では何かと頼りにされる御隠居さんですが、ちょっと田舎の方に隠居すると、途端に寂しい生活になってしまいます。「茶の湯」では、蔵前の米問屋の主人が根岸の里に隠居します。今でこそにぎわった場所ですが、当時の根岸は、田んぼと畑ばかりの寂しい場所。そこで、ご隠居さんは、退屈を紛らわそうと茶の湯を始めることにしたのですが、商売ばかりやってきたため、趣味のことに関してはとんと疎く、よく分かりません。しかし自分は知らないとは言えず、とんでもない茶の湯に。一方、訪ねてきた方も、違うことが分かっていても、ご隠居さんに恥をかかせてはいけないと、我慢して付き合うのです。中には「小言幸兵衛」のように、のべつ幕無しに小言を繰り返す困りものもいますが、それでも笑いが起きる程度。本当の嫌われ者は落語には出てきません。ただ、皆に好かれる御隠居さんの姿は、いつまでの社会とつながっていたいという、当時の人々の切なる思いがあるように思います。 大切にしたいつながり生涯現役で社会の役に セカンドキャリアで偉業現実では、隠居できる町人は、そうそういなかったようです。ご隠居さんというと、大抵は、若い頃に働いてためたお金で生活していたり、自子からの支援があったり。でも、そんな生活ができるのはほんの一握り。多くの人は、生涯現役で頑張っていました。歴史上の人物を見てみると、60,70歳まで生きた長生きの人物でも、皆、生涯現役を貫いています。しかも、ギリギリまで働いて病気をしてつらいから仕方なく隠居する、というケースが多かったようです。老後を充実したものにするため、隠居後のセカンドキャリアで実績を残した人もいます。その代表格は伊能忠敬。日本地図を作ったことで知られていますが、日本全国の測量を始めたのが55歳でした。17歳で伊能家に婿入りし当主になった忠敬は、傾きかけていた造り酒屋を立て直し、50歳で隠居するまで名主を勤め上げます。そして隠居してから測量の勉強をし直し、偉業を成し遂げることになるのです。「東海道五十三次」の浮世絵で知られる歌川広重もまた、セカンドキャリアで絵師として名をなしました。貧乏道心だった広重は34歳で隠居し、そこから本格的に絵の道に進みます。殿さまの友で旅した東海道の絵は、当時の旅行ブームの追い風もあって評判になり、絵師として人気を博したのです。いずれもなくなる直前まで仕事をしたと考えると、セカンドキャリアを積んで迄生涯現役を貫いたと言えるのかもしれません。根岸の隠居じゃないですが、いくら健康だったとしても、孤立して人が離れてしまうと、寂しくて元気がなくなります。長生きしようという意欲さえなくなってしまうのです。人生50年、庶民はそれほど長生きできなかった時代です。それでも長生きしたいと思い、生きている限り社会の役に立ちたいと思っていたのではないでしょうか。ご隠居さんのところに若い衆がやって来て、さまざまな相談に乗る。それが社会に役立っているわけです。そんなコミュニティーのあり方が、理想的な老い方なのかもしれません。=談 【文化Culture】聖教新聞2023.5.18
July 23, 2024
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広島と近代文学早稲田大学名誉教授 中島 国彦子規、漱石、鷗外らの足跡日本近代文学の歴史の上で忘れられない地方の都市がいくつかある。広島もそのうちの一つである。広島市立図書館のホームページには、「広島ゆかりの文学者」として30名ほどの名前が記されているが、原爆文学の書き手たち、原民喜・峠三吉・大田洋子ら以外にも、幼児期を広島で送った中原中也もいたりして驚く。が、明治・大正期では、まず正岡子規のなが目を引く。正岡子規が新聞「日本」の従軍記者として日清戦争の現場を訪れたのは有名だが、1895(明治23)年3月6日に広島に到着、21日にやっと従軍が許可され4月10日に宇品を出発するまで、ひと月近く広島を中心に過ごしたことは忘れられない。日清戦争の時から、広島の港である宇品は、戦争の現場にもっとも近い地名として記憶されるようになる。子規は同じ年の5月、従軍の帰りの船中で喀血、須磨で療養した後、松山の中学に赴任していた夏目漱石を訪ね、しばらく同居する。その際、須磨から広島へ出て友人と交遊、宇品から船に乗り、松山の三津浜に上陸している。山陽本線が整備される前、広島は西日本の交通の重要な中継地でもあったのである。 人と人をつないだ街 この年の4月、松山に赴任する夏目漱石も、まず広島の停留所に降り立ち、宇品から三津浜まで船で渡っている。子規が従軍のために宇品を出発した前の日のことである。すれ違いだったわけだ。松山から熊本に移る時も、1896(明治29)年4月10日、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」の句を残して、高浜虚子と三津浜から乗船、その晩は一緒に宮島の宿に一泊して別れ、九州に向かった。最近、その宿が「岩惣」であることが確認された。漱石は満韓の旅から帰る途中、1909(明治42)年10月14日、朝方汽車で下関を発ち、午後広島に途中下車して数時間の広島見物をし、市内で手広く西洋雑貨店を開いていた井原市次郎を訪ねた。若き日に一緒に房総旅行をした旧友である。富沢佐一『漱石と広島』(2019年)は、そうした事実を掘り起こしている。宇品から八幡丸に乗り、第二軍の軍医部長として日露戦争に従事した森鷗外のことは、よく知られている。東京で心配している妻・志げに広島から出した手紙の短歌、「わが跡をふみもとめても来んという遠妻あるを誰とかは寝ん」もおもしろい。従軍記者となった小説家・田山花袋と広島で初めて会ったのも、文学史の一コマである。漱石と鷗外の名は、やはり落とせない。漱石の後押しで小説家としてのデビューをはたしたのが、広島生まれの鈴木三重吉だ。若き日のデビュー作「千鳥」は、広島湾の能美島(江田島市)を舞台にし、「山彦」には広島の北方の山間にある安芸太田の風景が描かれている。いずれも三重吉自身の滞在体験をもとにするが、そこに展開する架空の物語は甘美で、広島の海と山の美しさを描き、忘れられない。人と人をつなぎ、広島の街は文学の中で息づいている。 なかじま・くにひこ 1946年、東京生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了、博士(文学)。日本近代文学館理事長。著書に『近代文学に見る感受性』(筑摩書房)、『森鷗外 学芸の散歩者』(岩波新書)など多数。 【文化】公明新聞2023.5.17
July 23, 2024
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食事によって築かれる人生の土台料理研究家 土井善晴さんに聞く㊦ 自然が作るおいしさ——前回の㊤(12日付)では、一汁一菜というタイトルについて伺いました。ご飯と味噌汁は食べ飽きない、という話は印象的でした、 食べ飽きるものと、そうでないものがあるのは、自然と人工の違いです。人口を優先するのは西洋的な考えによるものです。「脳が喜ぶ快楽的なおいしさ」と「細胞の一つが喜ぶおいしさ」をどう捉えるかという違いがありますね。肉の脂身やマグロのトロが、食べると反射的に「おいしい!」となるのは、舌先と直結した脳が喜ぶ「快楽的なおいしさ」です。「細胞の一つが喜ぶおいしさ」というのは、食べた後に「身体がきれいになったような気がする」ということがあるでしょう。落ち着いて静かにしていないと気が付かないことかもしれません。快楽的なおいしさというのは、カーニバル(お祭り)で食べるものです。静かにしていないといけないのは、野菜の風味、毎日食べる味噌や漬物といった自然が作る穏やかなおいしさです。これは心地よさとして身体が受け止めているのです。前者はあえていえば晴れの食べ物で、後者は毎日の料理の中にあるものです。お店で食べるラーメンや焼き肉は、前者になるでしょう。たまに食べて楽しむものと、毎日食べて心身を整える食べ物を意識して区別してください。快楽的な食べ物って、受け身でいられますから、楽ちんなんですね。後者の食べ物は、静かにしていなければ聞こえてこない川のせせらぎや、鳥のさえずりのような音に例えられますね。静かにしていないと聞こえてこないおいしさが、感性を磨いてくれるのです。 「ええかげん」——小さな変化に気付いて、感性を磨く。料理には、そうした力も備わっていたんですね。 私は大阪生まれですが、大阪の言葉には、今でも知恵がたくさんあると感じています。大阪の言葉に限りませんが、土地の言葉は、その土地とつながった、地に足が着いた言葉なんですね。子どもの頃は、「ええかげんにしなさい」言うて、よう大人に叱られました。「ええかげん」とは、昨日と今日は違うやろということです。「アホの一つ覚え」言うて、同じことばかりをしていたらいけません。ちゃんと自分で考えて、どこまでが良くて、どこからが悪いかを、状況に応じて自分で判断できなあかんと言うてるわけです。昨日と今日は違います。この世は、ものともの、人と人、ものと人、自然と人、全て関係の間で変化するのです。いつもいろんなことを感じたり、思ったりするでしょう。それが情緒です。自分で直観的にどうするかを感じなさい。いくら考えても分かることじゃないし、教えられることじゃない。「ドントシンク、フィール!(考えるな、感じろ!)」って、ブルース・リーが言うてたやつです。料理もそうですね。自分を信じて料理できたらいい。レシピというのは他人の感性に依存するということですから、それこそ「ええかげん」にしたらいいのです。レシピ通りの調味料を計量するだけでは、なんにも楽しくないでしょう。クリエーション(創造)である料理がただの計量作業になってしまう。それではもったいない。大阪の言葉には「知らんけど」というものがあります。何でも分かっているのかなと思いきや、最後に、「知らんけど」って言うのです。それが正しいか考えて答えを出しなさいよ、っていう意味です。無責任に聞こえますけど、相手の考えを尊重するということです。今よく聞く「自己責任」とは違います。自分で信じたことが間違ってたら、自分で責任をとればいいだけのことなんです。そんなんあたり前のことでしょう。自己責任は人に対していう言葉じゃない。「自己責任」という人がいちばん無責任な人じゃないでしょうか。 それぞれの家の台所は、地球とつながっている。 「進化」と「深化」は違う私たちは、新しいことをやらんとあかん、誰もやってないことをやりなさいと、「進化」しろとずっと言われてきたんです。和食には「何もしないことを最善とする」という考えが根本にあります。それが素材を生かすこと。今あるもの(旬)を食べることです。だから、和食は工夫しないことが大事なんですね。それが和食の真価です。そこに「道」があることが分かるでしょう。では、「深海棲艦とは何か?西洋の自然観から生まれた人間の存在価値です。和食における、人間存在の創造は「深化」です。西洋の人間存在の創造である「進化」とは、まるっきり違うのです。でも、日本の私たちは半分西洋人のつもりですから、話がややこしい。「進化」には、そう生きるべきという宗教や哲学が土台にあります。その土台なしに「進化」しようとするから薄っぺらいのです。ちょっと難しくなりました。私たち日本人が得意なことは「深化」です。ある時、高校で講演をしたら、生徒から「家庭料理のない家もあるんだから、そんな話をしないでください」と言われたことがあります。1人暮らしでも自分で作って自分で食べることが大事だと言ってきましたので、彼にも自分で作って食べなさいと言いました。料理とは人間を人間たらしめる行為だからです。人間は料理することで人間になりました。料理は文化です。文化とは、人間が自らの命を守る術なのです。 自然と人間の間に——著書では、地球と人間の間に料理があると書かれています。自然や地球は、日常と離れた大きなもののように感じますが、料理とはどのように関係するのでしょうか。 料理しようと思えば、自然を思う。自然を思えば自然を大切にしようと思うでしょう。翻って、食べる家で族をみれば、家族を思って料理するでしょう。すなわち、料理する人は、地球(自然)と人間の間にあるのです。それぞれの家の台所は、地球とつながっていることが分かるでしょう。今、世界の大問題は環境危機でしょう。このままでは30年先には、人間の力で自然を制御できる限界を超えてしまうといいます。自分のことならどうでもいいと考えますが、子どもたちや、まだ生まれてこない孫を思うと、ちゃんと考えないといけません。全ての命は、次の世代のためにあるのです。私たちに何ができるか。それは料理することだと考えています。味噌汁の中になんでも入れて食べ切ることです。みんながそうすれば、家庭におけるフードロスはすぐにでも解決します。ちゃんと知ることですね。玄奘から目を背けないでほしい。ちゃんと地球に参加しろということです。 「もの喜び」する——著書では「料理をなめてはいけない」というタイトルの章もありました。 そうなんです。料理をなめたらあかんのですよ。「食べるだけの人」は自分勝手でしょう。おなかがすけば機嫌が悪くなるし、酒を飲めば酔っぱらう。身体と精神は平衡するのです。食べるだけの人の多くは、男の人でした。「人間が何を食べてきたか」という書物は何冊もあるでしょう。それって、男の権力の歴史なんです。一方、「人間はどんな思いで料理をしてきたか」ということを、きちんと考えた学術書は、世界中どこを探してもありません。料理する人の思想をみんなが持つべきです。一汁一菜でいいですから、全ての人が料理できるようになると、料理する人の気持ちが分るでしょう。そうすれば何かが変わるかもしれません。料理して食べるという暮らしに幸せがあるのです。いつも変わらないところに無限の気づきがあるのです。具だくさんの味噌汁の話をしましたが、一わんの中に無限の自由があります。有限の無限です。有限の世界の中に、毎日違うものができてきてくる。それを見つけるのです。水から発見するところに喜びがあります。小さな発見の積み重ねが、大発見、大発明にもつながるのです。小さな気付きをする人を関西では「もの喜びする人」といいます。お料理をしても、自分で食材の違いに気付いて変更できる人、お料理を食べても自分で気づいて喜べる人です。そんな人は自らうれしくなって、笑顔になって、周りの人を幸せにできる人なのです。 【switchスイッチ 共育のまなざし】聖教新聞2023.5.13
July 19, 2024
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