いつかどこかで

いつかどこかで

アメリカ、アメリカ

アメリカ、アメリカ ・・・・・ アメリカって何なんだ ?



『 ランド・オブ・プレンティ 』
2004 米・独

        監督 ヴィム・ベンダース
        出演 ミシェル・ウィリアムズ ジョン・ディール

アメリカで産まれた後、宣教師の父母と共に10年をアフリカ、イスラエルで過ごした少女ラナは、単身アメリカに帰ってくる。
父の友人である牧師の伝導所でホームレスの支援活動を手伝いながら、亡くなった母の兄であるポールを探し、母から託された手紙を
渡すことが目的だ。

叔父ポールは、アメリカをテロの脅威から守ると称し、監視カメラや盗聴器つきのバンに乗り込んで街をうろつき、様々な場所の土壌水質
検査をしたりアラブ人を尾行したりしている。
ポールが監視していたアラブ人ハッサンが ラナが働く伝道所の前で射殺され、ポールとラナはその現場で出会う。
ラナはポールの ” 仕事 ” を手伝いたいと申し出る。

ラナは身元不明のアラブ人を放っておけず奔走し、身元を付きとめる。
遺体を届けようと、ラナはポールの助けを借り、バンでハッサンの兄の住むトロナという町へ出発する。
ラナがハッサンの兄と話している間に、ポールは調査と称して近所をうろつきまわり ・・・・。


9.11 後のアメリカ、がひとつのテーマ。アメリカの ” 迷走 ” とも言えるかな。

叔父ポールが、迷彩服に身を固め、監視カメラを覗きながらレコーダーに追跡状況などを吹き込む様子を、政府の機関で働いているのか
と最初は一瞬勘違いしそうになります。
でもすぐに、何か可笑しい、と気付き、すべては彼の ” 真剣な ” 1人ゲームなのだと分かります。
ラナとの会話のなかで、ベトナム戦争で枯葉剤の影響を受け健康ではなくなったこと、そのトラウマが 9.11 で呼び覚まされたことが
分かってきます。
またラナは、育った環境のため非常に信仰に篤く、虐げられた人々を救おうと心底本気で考える、少し風変わりな女の子です。
そして9.11の日、イスラエルにあって、歓喜で湧き上がる普通の人々を見て、アメリカへ行ってみようと思い立ったことが分かってきます。

9.11事件が、NYにいて直接関わった人々ではなく、それぞれ違った場所にいたある人たちに与えたある影響。それが、
ヴェンダースはアメリカ人ではありませんから、外からの視点で、淡々と描かれています。
ポールを通して、アメリカの滑稽とさえいえる過剰反応と悲しみを、
ラナを通して、どちら側でもない大きな愛と許しを、というところでしょうか。
そして、遺体を届けたトロナというロス郊外の街は砂漠の中の殺伐とした土地で、その風景がまたある種とてもアメリカ的で印象的です。

映画や小説、様々な記事でこの ”9.11後 ” という言い方がよくされます。
日本で戦前、戦後といえば第二次世界大戦ですが、アメリカでは 9.11の前後ではそれほどはっきりと何かが変わったということで
しょうか。
要するにアメリカがそれまでに体験した戦争は、アメリカ国土や一般市民が被害を受けていないので ( 真珠湾以外? )、9.11 で初めて
一般市民が ” 死ぬ ” ことを体験して非常にショックだったというわけでしょうか。
そう考えると、アメリカの自己中もここに至れり、の感があります。


9.11 と切り離して、家族の愛と許しの物語として観ても十分心に沁みる映画でもあります。
ラナを演じる ミシェル・ウィリアムズは真摯な目が印象的でとても可愛らしいです。
低予算で僅か16日間で撮ったというこの映画、山場のないストーリーやどこか寂しい風景など、ヴェンダースらしさ満点で、お気に入りの
一本になりました。



『 ジャー・ヘッド 』  2005米

        原作 A・スウォフォード
        監督 サム・メンデス
        出演 ジェイク・ギレンホール ジェイミー・フォックス クリス・クーパー

NYタイムズが戦争文学の最高峰と絶賛しベストセラーとなった、海兵隊員の湾岸戦争回顧録の映画化。

祖父も父も “ ジャー・ヘッド ” ( ポットのようにつるりと刈り上げた頭 = 中身も空っぽ の意味で海兵隊員のこと ) の青年スウォフォード。
18歳で海兵隊に入隊した彼は、新兵訓練の虐待に耐えきり、偵察狙撃隊STAの候補に抜擢され、更に過酷な訓練を受ける。
そんな折、CBSニュースがイラクのクウェート侵攻を告げ、出撃の時がくる。
敵の姿などどこにもない砂漠に従軍し、無意味な作業を続けながらひたすら “ その時 ” を待ち続ける海兵隊員の退屈と衝動、
苦悩と狂気。
スウォフォードはたてこもるイラク将校の狙撃を命じられ前線に赴くが ・・・・。



空爆とメディアが主導するハイテク戦争と言われた湾岸戦争だが、その一方で報道されなかった兵士らの “ 退屈な戦争 ” は、生きるか
死ぬかの選択を突き付けられない分だけ、社会や人間性についての生々しい現実を浮かび上がらせる。   《 goo 映画 》 より抜粋


敵の姿はなく、銃撃戦もなく、あるのはただ灼熱の砂漠での無意味な作業と行軍と、残された民間人の死骸、燃え盛る油田と油の雨、
遠くに見える爆撃。
過酷な自然条件と退屈の中で目的を見失い、多くの兵士の中に、、殺したい、殺したい、という狂気が充満してゆく様子が描かれます。

湾岸戦争の裏側を知る意味でとても興味深く、あまりのリアルさ( 戦闘シーンではなく )に目を覆いたくなる場面も多々ありましたが、
面白かったです。

しかし例えば、

出兵前に兵舎で皆で映画 『 地獄の黙示録 』 を観て、その中で逃げ惑うベトナム人に迫る米軍の爆撃機に対して、主人公が
「 早く撃て、殺せ 」 とつぶやき、それがやがて全員の合唱となる場面があります。
それを愚かと考えるか、出兵前の兵士として当然あるべき姿と考えるかは観客に任されます。

また、砂漠で民間人の黒焦げ死体をたくさん見、油の雨と煤に塗れ消耗している主人公が、煌々と燃え盛る油田を遠景に、
上官に諭されて気を取り直すという場面があります。
「 これ( 非日常的な光景や状況 )が好きだから海兵隊に入った 」 と上司は言います。
「 一体他のどこでこんなものが見られる ? 」 と。
つまるところ彼等は志願したわけで、これが好きなんだ、と再認識せずにはいられません。

主人公はついに一人も殺すことなく戦争終結となり、アメリカに帰国して通常の生活に戻りますが、自分は永久に“ジャー・ヘッド”であり、
心はいつも砂漠にある、と結ばれます。
それが、海兵隊員としてのプライドという意味なのか、トラウマであるとの意味なのかも敢えて説明はされません。

映画は、戦争批判でもなく、擁護でもなく、ただ淡々と現実を、というスタンスで描かれている風ではあるのですが敢えて突き詰めて
どちらなのかと考えると、底にあるのはどうも後者であるように思えます。
原作者が代々の海兵隊員であり、父親はベトナムで戦い、本人も迷わず入隊した人物ですから当然かも知れません。

そういう意味でこの映画、よくあるあからさまなアメリカ賛美や戦争擁護ではありませんが、要注意 ( ? ) ではあります。
情報は情報として受け止めながら、自分なりのスタンスをしっかりと持って観なければ、と思います。

ジェイク・ギレンホールの新しい一面を観たように思います。
“ ジャー・ヘッド ” もなかなか似合っていました。



『 フルメタル・ジャケット 』 1987 米

        原作   グスタフ・ハスフォード  『 Short Timers 』  邦訳 『 被覆鋼弾 』
        監督   スタンリー・キューブリック
        出演   マシュー・モディーン   アダム・ボールドウィン   ヴィンセント・ドノフリオ

南カロライナ海兵隊新兵訓練基地。ベトナム戦争のさ中、入隊した新兵たち、ジョーカー、パイル、カウボーイら。
彼らは地獄の特訓を受け、殺人マシンへと変貌してゆく。
8ヶ月後に卒業、海兵隊員としてそれぞれベトナムへ配属される。
ジョーカーは比較的安穏なダナン基地の報道隊員となるが、1968年1月テト攻撃を契機に最前線フエ市に配属され、カウボーイと再開する。
そこで想像を絶する地獄絵が繰り広げられる ・・・・・


映画の中のどこにも “ 反戦 ” は謳われません。
『 プラトゥーン 』 のように、「 さあ、ここがポイントよ 」 的な劇的なシーンがあるわけではなく戦闘シーンはむしろ淡々としているし、
『 プライベート・ライアン 』 のように、「 戦争って虚しい 」 的な哲学的思考や会話シーンがあるわけでもありません。
登場人物たちは、ごく普通の青年たちで、戦争自体に迷いや諦めはありません。
反戦意識はもちろん、ベトナム戦争に疑問も持ちません。
ただ命じられるがままに “ 普通に ” 行動するだけです。
それをどう観るかは観る者に任され、それが逆に強烈に戦争の悲惨さと虚しさを訴えます。

その意味では先ごろ観た 『 ジャー・ヘッド 』 と同じ。
『 ジャー・ヘッド 』 の方がより観る側に任されるようで、レヴューに書いたように要注意ではありますが。



映画は実質2部に分かれた構成となっており、前半では海兵隊基地での訓練、後半ではベトナムでの戦闘が描かれます。

訓練では、個人の人間性を剥奪し、否定し、徹底的な精神教育と過酷な肉体訓練によって人間を兵器化、殺戮マシンとする過程が
描かれます。
肉体的訓練はまだしも、“ 蛆虫 ” 以下の存在と罵倒され、汚い言葉で侮辱され続けることで、絶対的服従が強要され、徹底的に
人格否定され、そこから “ 兵器 ” として生まれ変わる過程は壮絶です。

教官ハートマン軍曹を演じたリー・アーメイという人は実際に海兵隊教官であった人で、当初はテクニカル・アドバイザーとして招かれたスタッフの
一人だったのが、そこで見せた教官トークのあまりの迫力に急遽ハートマン役に抜擢されたとか。
だからこの訓練シーンのリアリティは半端じゃないです。耳を覆いたくなります。
更に日本語字幕にもキューブリック自身のチェックが入ったというエピソードもあり、この言葉の狂気に対する監督の入れ込みようが伺えます。
実際の訓練での暴言はもっと酷いという説明もあったので、なんともかんとも ・・・・・

『 ジャー・ヘッド 』 で、映画 『 地獄の黙示録 』 を見た訓練生たちが 「 殺せ、殺せ 」 と唱和するシーンのことをレヴューに書きました。
あの時はそれに寒気を覚えたものですが、『 フルメタル ~ 』 を見て、具体的にそのように訓練されることを知りました。
つまり、恒に 「 殺せ、殺せ 」 と叱咤され、 「 殺すための存在 」 であることを叩き込まれているのです。
『 愛と青春の旅立ち 』 以来、海兵隊訓練のシーンは数多く観ましたが、今まで観たものが遊びに見えるほど、とにかくこれは
半端じゃなかったです。


後半はベトナムが舞台となります。
ベトナム戦争映画の多くは舞台がジャングルで、鬱蒼と茂る木々と湿地とどこかに潜むベトコンとの戦いや、水田に囲まれた村々での
殺戮が描かれたものしか観たことがないように記憶しますが、この映画の戦闘シーンは市街地です。

戦闘シーンについては、どの映画がよりリアルだったかとか、凄惨だったかなどは語れません。
描かれるのはどれも価値観や人間性の崩壊。戦争を描いているものはどれも悲惨です。

ただ印象的だったのは、主人公がダナンからフエに送られる際に乗ったヘリの狙撃手。
歓喜の雄叫びをあげながら村の一般人を狙い撃ちします。

笑いながら、 「逃げるやつはベトコンだ! 逃げないやつは、訓練されたベトコンだ!」 と言い、
「 よく女子供が殺せるな 」 と皮肉った主人公に、
「 簡単さ、動きがのろいからな 」 とジョークで応えます。

戦争の狂気そのものです。 キューブリック、恐るべし。

キューブリックはパラノイアと狂気を描くと最高。
『 時計じかけのオレンジ 』 然り。
『 博士の異常な愛情 』 然り。
キューブリックはこの2本が好きだったけど、3本になりました。


マシュー・モディーン は素敵でした。ジャー・ヘッドにすると、哲学者か宗教者のようでした。
そういう役ではなかったですが。

ちなみに、フルメタル・ジャケットとは、弾体の鉛を銅などで覆った弾のことだそうです。
前半の訓練シーンのクライマックスで説明されます。




『 グッドナイト & グッドラック 』  2005 米

        監督 ジョージ・クルーニー
        出演 デヴィッド・ストラザー ジョージ・クルーニー ロバート・ダウニー・Jr. パトリシア・クラークン

1940~50年代、“ 放送の良心 ” として支持された実在のCBSキャスター、エド・マローの生き様。
1953年、マローとプロデューサー、フランク・フレンドリーと彼らのチームは、報道番組 『 シー・イット・ナウ 』 で公然とマッカーシーを批判し、軍、政府、
スポンサー、新聞などの弾圧非難と戦う。




と、だいたいどの紹介記事にもこのように書いてあります。
つまり、マッカーシズムに対し敢然と戦いを挑んだ男達の物語である、と。

しかし、重要なのはそこではないでしょう。
1954年、マッカーシーは失脚しチームは快哉を叫びますが、次第に時代は変わり、1955年、『 シー・イット・ナウ 』 はそれまでの火曜夜の
定時枠をクイズ番組に明け渡し、日曜の不定期放送となります。
映画のラストでは冒頭の1958年の表彰式シーンに戻り、マローの受賞スピーチで終わります。

「 TVは人を教育し啓発し心を動かす。しかしあくまで使う者の自覚次第。
    娯楽と逃避の為だけの物であれば、それはメカの詰まったただの箱 」
「 TVは人を欺き、現実を隠している。
    このままでは、歴史( 未来 ) から手痛い報復を受けるだろう 」

とマローはスピーチで、TVのあり方に警鐘を鳴らします。
映画のテーマはこちらだと思いますね。そしてそれには全く以って同感です。


とはいえ、マッカーシズム。

映画では 、「 国への忠誠 」「 愛国心 」 という言葉が何度も出てきます。
マロー自身も放送で何度も自分の忠誠心、愛国心を強調します。

つまり、マローは番組で、共産主義者と疑われた者が法的検証を受けずに “ 汚名 ” を着せられることを批判しますが、
共産主義者=非愛国者 の図式自体を否定はしません

当時のアメリカで否定することは不可能だったのでは、という問題ではなく、この映画で見る限り、彼自身の思想がそれを否定して
いないという意味です。

“ 人権 ”“ 自由 ” を謳いますが、果たしてそれが真の人権、自由であるのかどうかは、甚だ疑問です。

それ故 “ 赤狩り ” を扱った、今まで読んだいくつかの小説、観たいくつかの映画と比べてこの映画には、狩られる恐怖や緊迫感や
絶望感はありません。

1953~4年には、マッカーシズム勢力も最早全盛ではありませんから、その時代背景もあるのかも知れません。
いずれにしろマローは、思想的自由のために戦ったのではなく、報道の自由のために戦ったということでしょう。
それはそれで尊いことと思いますが、この映画を、マッカーシズムと戦った男の物語と受け止めるのは間違いではないかな、と思いました。



“ 赤狩り ” は何もアメリカだけで起ったことではありません。
レッド・パージなる反共ヒステリーは日本でも起こり、多くの人が失職しました。


国旗・国歌を拒否した人たちが、即ち非愛国者として罰を受け、失職する今の日本と似ていませんか。

かつて行われた思想の弾圧を考えるにつけ、今、教育現場で言われる ” 愛国心教育 ” に思いを馳せずにはいられません。 



映画に話を戻します。

アナクロで雑然としていながらスピーディに的確に機能する番組制作現場シーンは活気と緊張感に満ちています。
( あ、ちょっと、『 ER 』 の現場シーンに共通するものがあるかも )
『 シー・イット・ナウ 』 でのマローの、カメラに向って斜めに構え、たばこをくゆらせながらの語りは、カッコ良すぎってくらい決まっています。
きっと、実際の番組がそっくりあんなふうだったのでしょうね。
そして、モノクロ画像がそれら、時代の 「 いかにも 」 感を盛り上げます。
戦うといっても、クルーニーもストラザーも激することはなくクールで、とても素敵です。


私の感覚でいうスタイリッシュとは違いますが、カッコいい映画ではありました。
そして、マッカーシズム、レッド・パージについてもう一度考える機会を得、観て良かったです。


” Good night and good luck ! ” というのは、番組 『 SEE  IT  NOW 』 の最後のマローの決め台詞でした。





『 ボビー 』 2006 米

        監督   エミリオ・エステヴェス
        出演   アンソニー・ホプキンス   ウィリアム・H・メイシー   フレディ・ロドリゲス    シャロン・ストーン   リンジー・ローハン   イライジャ・ウッド   エミリオ・エステヴェス   
                ローレンス・フィッシュバーン   ヘザー・グレアム   マーティン・シーン   クリスチャン・スレイーター   ハリー・ベラフォンテ


1968年、“ ボビー ” の愛称で親しまれた米大統領候補ロバート・F・ケネディ上院議員が暗殺されるその日。
現場となったアンバサダー・ホテルに居合わせた人々の人生を通して描く群像ドラマ。

人種平等主義を標榜するホテルの支配人、ホテル付きの美容師であるその妻、ホテルに人生を捧げたドアマン、野球観戦のチケットを
持っているのにダブルシフトを命じられ不満を募らせる厨房の見習いとその上司、ベトナムへの徴兵を避けるために偽装結婚する
カップル、うつ病に悩む裕福な中年夫婦、酒浸りの歌手とその夫、選挙運動のスタッフ ・・・・・・。

夜になってホテルに、カリフォルニア州予備選挙に勝利したロバート・F・ケネディ上院議員が現れる。
観衆は希望に満ちた演説に酔いしれる ・・・・。


米大統領選指名争いが白熱する中、ある意味タイムリーな映画でした。
ベトナム戦争の泥沼化や人種差別問題など、1968年当時のアメリカは危機的状況にあり、この映画の舞台となった日の2ヶ月前には
キング牧師が暗殺されました。
RFKは、ケネディ一家の一員であることに加え、ベトナムからの名誉ある撤退や人種差別撤退などリベラルな主張で人気と期待を集めて
いました。

・・・・ という時代背景ではありますが、この映画はRFKを描いた歴史ドラマでも、暗殺事件そのものを描いたミステリでもありません。

様々な境遇の中でその時代を生き、RFKに希望を託した人々の一日を切り取った人間ドラマです。
ホテルでの彼らの、早朝から “ その時 ” までが、RFKの実際の遊説や演説のニュース映像を交えながら描かれます。

暗殺以外は全てフィクションだそうですがかなりリアルです。
登場人物は多すぎるほど多いのですが、その何気なさが却ってリアルなんですね。
ハリー・ベラフォンテなんて全くなくていいような役なんですが、普通の一日ってこんなものですもの。
それでいて観る側はその夜何が起るかを知っているわけで、その何気なさの中に緊張感が高まります。

また、様々な立場の人を描くことでアメリカの縮図を浮き彫りにしようとした監督の意図も成功しているように思います。

ラスト、サイモン & ガーファンクル の 『 サウンド・オブ・サイレンス 』 をバックに、ボビーの

「 暴力は無益だ、共に生きるものは皆同胞である 」

という演説の実録が流れる場面はそれなり感動的です。
観る人はみな、この人が死なずに大統領になっていたら、世界は今とは違ったものになっていたのだろうかという思いにとらわれず
にはいられません。
演説は映画のシーンとしては少し長すぎると感じましたが、製作者の思い入れから削ることができなかったのでしょう。


もちろん、本当にそうだったのだろうか、RFKは本当にこんな聖人君主な英雄だったのだろうか、という疑問はお腹の中にあります。
調べてみると政治家としてそれなりに色々あったことが分かります。
ずっと以前に見た映画   『 ホッファ 』 には、また違った面から見たボビーが描かれていて、そのせいで私は彼に全く違ったイメージを
持っていましたし。
歴史の真実がどこにあるのかは ・・・・・ なかなか難しいものですね。

それはさておき、映画としてはとても楽しめました。
脚本ももちろんですが、何しろ名優ぞろいですし。

かつてのように美しくも色っぽくもないシャロン・ストーンが、自身の悩みを持ちながら人の境遇に思いを寄せる心優しい美容師を演じていて、
とても良かったです。
落ちぶれたアル中歌手デミ・ムーアも、うらぶれた中年になってしまったクリスチャン・スレイターも良かった。



『 フライド・グリーン・トマト 』  1991米

        監督 ジョン・アヴネット
        出演 キャシー・ベイツ メアリー・スチュアート・マスター メアリー・ルイーズ・パーカー ジェシカ・ダンディ

エヴリンは中年太りの平凡で冴えない主婦。親戚を訪ねた老人ホームで、そこに暮らす老女ニニー・スレッドグットと出会う。
ニニーが語る昔話に魅せられ、エヴリンは物語の続きを聞きに頻繁にホームを訪れるようになる。

    ニニーの物語は50年前のアラバマ州。
    男の子のような少女イジーは、大好きな兄バディの事故死から、心を閉ざしていた。
    イジーと、バディの恋人だったルースは悲しみを共有し理解しあい、互いになくてはならない存在になっていく。
    やがてルースは結婚するが、夫は彼女に暴力を振るう。イジーは身重のルースを夫の元から連れ帰る。

    2人は鉄道わきに 『 ホイッスル・ストップ・カフェ 』 という名の食堂を開店。
    閉鎖的で人種的性的差別と偏見に満ちた南部の田舎町にあって、2人はそれらと毅然として戦い、店は黒人にも門戸を開く。
    名物料理はフライド・グリーン・トマト。
    男勝りで気丈なイジーと女らしく心優しいルースの人柄で、店は繁盛する。
    ある日ルースの夫が押しかけてくるが、村祭りの夜に車ごと姿を消す。
    イジーが殺人犯として裁判にかけられるが無罪となり、事件は迷宮入り。店には再び平和が戻る。

そんな物語を聞くうちに、エヴリンは生きる意味と勇気を見つけ、ニニーがホームを出る日、ある決心をする。



湖から引き上げられる車。南部の田舎街、廃線となった線路脇に建つ朽ち果てたレストランと、通るはずのない汽車の音。
イジーの兄の凄惨な鉄道事故。ルースの夫の暴力と見つからない死体。
ミステリアスな要素が殊更ミステリーとして強調されるわけではなく淡々と描かれ、それがストーリーの底に流れる緊張感となり、
引き込まれます。
偏見や差別に負けることなく毅然と生きた女性の物語ですが、それも肩肘張って主張せず、お涙頂戴風でもなく、心に
残ります。

生活にうんざりした暗い顔の太って冴えない エヴリンは、ニニーの話から生きる勇気を貰って変わってゆきますが、それを視ている
私たちも勇気を貰うようです。

自分が自分であることを曲げずに生きることは多くの困難を招きますが、それを越えたところで得られる、性差人種を超えた生涯の
友情と満足を思い、題名
『 フライド・グリーン・トマト 』 の持つ歴史 とともに、生きる意味を考えさせられます。

料理の名前そのままの映画ですが、この料理が持つ意味を エアプランツさんの記事を読むまで知りませんでした。
知らなくても十分心に沁みる映画でしたが、知ってしまうと、ああ、まだまだ理解が足りなかったなぁ、と。
まだまだ知らないこと、気付けなかったことがたくさん、たくさん。





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