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彼女のブログ より。その若さでよく気づいた。目標を達成するために必要な情報を手に入れる=つまり、人に会ったり様々な勉強をすることだが、意外に「念ずるだけ」の人が多い。「これはイイ!」という情報や知識や考えを得たら、次は新しい行動だ。が、行動チャレンジの大半は失敗→落ち込む→3日坊主でやめる→大半の行動はやめる→でも諦めきれないものがある→また行動→また失敗→落ち込む→でもやっぱOOは諦めきれない→また行動・・・の繰り返しで、どうしても諦めきれない天職が見つかる。そこに至るまで、人によっては1週間や半年で見つかることもあるが、普通は数年、人によっては何十年もかかる。
「やずや」現社長 の夫で創業者は31歳で脱サラして10回位失敗した13年目の44歳の時に見つかった。アゴで10億稼いだ「 あなたも名講師になれる 」が売れている竹田先生は22歳で就職後13年目の転職4社目の時、ある講師の素晴らしいセミナーを聞いた35歳で見つけ、44歳で独立。今また、これを書きながらDVDの音声を聴いている ラーメン一風堂の河原さんはその講演 の中で、「サラリーマン大失敗」して仕方なく26歳で独立してバーを始め、32歳でラーメン店を出し、その後居酒屋・たこ焼き・浄水機・パソコン教室・焼き肉屋などをやってきた19年目の44歳の時、天職はラーメン屋だと気づいた。「・・おかしいでしょう。それまで僕はラーメン屋もやってたんですよ。でも、他に何かあるんじゃないかと思ってあれこれ手を出した。OOでOOに逢った。天からOOOOOが降ってきた。僕の天職はラーメン屋だけど、OOOOOなんです!」・・ この講演シーン は何度見ても感動する。
そして私も7社の転職繰り返して1億の借金もかぶり、返済のために仕方なく独立した8社目の時、独立起業・小企業で人生逆転を目指す弱者を応援する講演家・作家・コンサルが自分の天職だと気づいた。36歳で独立した8年後の44歳の時だ。44歳。それは親父の享年でもある。
そう。何度目かのウツになった42歳の2000年2月以来、当時の本業だった広告代理業に挫折し、やり甲斐も見いだせず、ツマランFCに手を出して失敗し、その他、月刊「フクオカ起業家新聞」も1回で廃刊し、講演業も最初の数回はうまくいったが「ハローワーク起業講座」で大失敗。ますますウツになり、金もどんどんなくなり、追い込まれて新聞配達をやるも3ヶ月で挫折。
内観に行ったり新興宗教に奇跡を求めて善隣教・生長の家・天理教・金光教・阿含宗・幸福の科学・真光・GLAに足を運び、一発逆転を一瞬だけ考えてネットワークビジネスの説明会にも顔を出し、果てはオウム真理教の人にも2回会った。
しかし、何も奇跡は起きず、でも何かないかと、自称超能力者の面談を受け、「心の共育セミナー」とか「まな板の会」とかも囓ったが、最初から偏見も持っていたのが悪かったのか、やはり奇跡は起きない。
何かの本で「教会でひざまずいて神に願ったら奇跡が起きて運命が好転した」と読んだので、私も天神教会に行き、あえて誰もいなくなった教会にひざまずき、「神様!助けて下さい!」と頭も垂れた。が、一時期通った大名キリスト教会の日曜礼拝の時も、わずかの献金もしない俺にキリストが微笑むはずもない。
一体全体、俺はどうしたらいいんだと絶望して仕事もせず、毎日、公園や図書館で溜息をつきながら人生本を読んだり、過去の日経流通新聞を読み漁って「これだ!」というビジネスチャンがないかと探すが、どれもピンと来ない。
そして間もなく2002年を迎える2001年の年末、俺は何度目かの「人生経営・夢目標計画」を書き上げ、その約20の夢の中の、毎年書きはするが何度も挫折していた「OのOO」に絞り、かつ、その翌年の2002年。俺がもっとも尊敬する人達が目覚めた「44歳」に俺もなると気づき、その2002年11/12には俺にも天啓が来るのだと、でも、そんなことはあるはずないというもう一人の自分と闘いながら、4年越しの「OのOO」に再度取り組んだ。
4回途中で挫折はしていたが、その試みは無駄ではなかったかもと気づき、でも「OのOO」なんて夢物語だ。俺には無理さ。いや、できる。その葛藤の中で作業を進めていった。
数ヶ月後にポテンヒットは出たものの、それだけでは食えない。今後、どうしようかと悩み、金も底をつきかけ、またもウツになって川上クリニックや赤坂の心療内科に通って抗うつ剤を服用したが、薬なんかはまさにその場の気休めで、根本的な解決にはならないともわかっていた。
そして迎えた2002年11/12。天啓が降りてくると願った44歳の誕生日。その前後に小さな奇跡は起こった。興奮した。が、「OのOO」は実現したが、それをどう生きる糧に変えたらいいか、はっきりとは見えない。
新しい年を迎えた2003年の2/13。山口県の宇部で、西京総研から3万円の講演仕事をもらった。福岡からの往復だと何も残らないに等しい。でも有り難い。でも半ばヤケクソになり、3ヶ月間伸ばし放題のヒゲ面+当時の寝間着にしていたオレンジパーカー姿と運動靴で会場に向かい、かつ、その直前には85時間連続無睡眠で1週間に体重も7キロ減り、半ば意識朦朧の状態で演題に立った。それまではトチルと恐いのでレジメを毎回用意していたが、今日は講演料も安いし、好き勝手にしゃべらせてもらおう。
参加者は俺の風体を見て怪訝な表情。ふん。知るか。テメエラもどうせタダで来てるんだろう。文句言うなという感じで話を始めた。数分後、いつもと違う自分に気づいた。言葉がほとばしって止まらない。何で俺はこんなにスラスラと言葉が出るのだろう。不思議そうに自分を見ているもう一人の俺がいた。アッという間に持ち時間が終わると、参加者が次々に名刺交換に来てくれた。そう。講演は大成功だった。
翌日も下関で講演。昨日は「経営系」の話しだったから、今日は「人生系」の話しでもしてみるかと、これもレジメなし、準備無しで始めた。やはり調子がイイ。気分が乗って、思わず途中で冗談回し蹴りも出た。この日も終わって、名刺交換に長蛇の列が並んだ。
まあ、今思えばその講演レベルも大したことはなく、あとで主催者には「何であんな下品なヤツを講師に選んだ?!」、事例に出した会社にも「おたくは何であんな講師とつき合ってるの?」とクレームがあった。でも主催者の平原さんは「まったく気にしなくてイイ。今のままで行け!」と激励してくれ、俺も信じられない上出来だと思った。 下へつづく