シアトルからこんにちは

シアトルからこんにちは

2002年10月後半の日記



10月 31日 木曜日 のち

「人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」ヨハネ3章2節
今日は私の誕生日なんだけどふっと霊的な誕生日について考えた。

私がイエスを受け入れたとき、心の中は、砂漠のように乾ききっていた。

大学入試で、希望校に入れず、投げやりになって、どうでも良かった。

いまふりかえってみるとあれは神の摂理だったのだなと思う。

あのころ別に勉強したかったわけではないので、おそらく希望校に入っても勉強せず遊んでばかりいたかもしれない。

自分が嫌いで、惨めだったとき、何年も奉仕していたお友達からバイリンガル伝道所で通訳を代わってくれと頼まれた。クリスチャンでもないのに、興味半分ではじめた。

いろんなアメリカ人や日本人の牧師と知り合い、いつの間にか私は聖書に興味を持つようになり、自分が罪人であると知った。

錦帯橋のふもとで洗礼を受けた。

あれから29年。

主は一日欠かさずとも共にいてくださった。

1976年アメリカに来てみたら、ピッツバーグの町は大崩壊されて、町には失業者があふれて主人は仕事を見つけることが出来なかったとき。

仕方ないので姑としゅうとと一緒に暮らして、姑さんを怒らせて
家からロックアウトされて泣いたとき。

子供が出来なくて、主に子供を授けてくださいとワンワン泣いて頼んだとき。

やっと妊娠して、7ヶ月半くらいで主人に「こんなに大きいものがどうやって出てくるの?こわいよ。代わって産んでよ。」とダダをこねたとき。

次女が生まれる前の日まで働いて、出産中も「この子が生まれたらどうやって生活をたてていこうか?」考えていたとき。

娘がうつ病になって自殺するんじゃないかと心配で眠れなかったとき。

エアロビックスのインストラクターだった若くて美しい大親友が癌で亡くなったとき。

この他にも色々なことがあった。

主は毎日一緒にいてくださった。

先日主人が「貴方は変わった。」と言ってくれた。すごく嬉しかった。

主は私を新しく作り変えてくださったからだ。

きつかった私を、やさしい人に変えてくださった。

競争意識の強かった私を他の人と競争するのではなく、信仰を貫くレースに励む者に変えてくださった。

どんなに子供を愛しても、子供は自分で主を受け入れなければ神の子にはなれないと気付いたとき、主に全てを委ねた。

そしたら平安が与えられた。




私の誕生日のお祝いに家族全員でボーリングに行く予定です。
(ボーリングなんて何十年ぶりかな?)

やさしい夫と親切な娘2人、素晴らしい婿とかわいい孫とです。

47歳になりました。

「幸せです。」

神様
命を与えてくださってありがとう。

素晴らしい主が貴方の心に平安を与えてくださいますように。





10月 30日 水曜日 のち
Words of affirmation
ここ数ヶ月おばあちゃんのグループで、ヘンリークラウド、ジョンタウンセンド著書「Boundaries」 という本を一緒に勉強している。

いつ「イエス」といい、いつ「ノー」と言うかを見極め、自分の人生のコントロールを得なさい。という趣旨のこの本は、人生のいろんな段階で何度となく読んできた。

夕べまた、新しい発見をした。

何故私達が、NOと言いたいのに言えないかというと、もしNOというと、誰にも見捨てられ、孤独になるのが怖いからだ。

孤独になるくらいなら、依存症でも、なんでもいいから関わりをもっていたいという不健康なboundariesをつくる。

たとえば、夫から感情的な支えをもらえない妻は子供に没頭する。子供達が空の巣で出ていくと、もぬけの殻のようになる。

あるいは、妻から感情的な支えを受けない夫は仕事に没頭する。家では受け入れられない感情的な支えを仕事達成感によってまぎらすからだ。

無条件で愛してくださる神様の愛に自信があれば、人からの孤独など恐れる必要がない。

ところが、不健康なboundariesをみて育った私達は、見捨てられる怖さに、心の中ではNOと思いながらもイエス(はい)と答え、それが消化されず、心にわだかまりとして残っている。

私の主人が子供達に没頭したのは私の感情的な支えが足りなかったのだと夕べ気付いた。心の中で支えていると思っていたのにそれがコミュニケートされていなかった...

なんだかすごくショックだった。

男の人って結構繊細なんだな...

去年親友が亡くなっとき、「彼女は、私が苦しんだり悲しんだりしているとき、「It’s time to pray.」といっていつも私の手をとって、にっこり笑って祈ってくれたんです。」と言うと、
BSFのリーダーの方が
「彼女があなたにしてくれたように今度はあなたがする番ですよ。」
と言った

そのとき「ええ??」と驚いた。まさか...

私はいつまでも受け取る側でいたかったのに、与える側になる時期が来たのか?

だれかのHPで、何年クリスチャンであるかと信仰の深さは関係ないと書いてあったが、全くその通りだ。

いつまでも乳飲み子でいたかった。

主が示してくださったことだから、方法も与えてくださるだろう。

それを信じて、いこう。


『あなたのビジョンは神の思い』・・・ハーベストタイム
あなたの未来に対する思いは、すでに私(神)の思いの内にあります。
だからこそ、私の思いをあなたのうちに入れたいのです。
私からくる思いを自分のうちに入れるのを恐れてはいけません。
そこからくる希望で満たされなさい。
私からきた思いを祈りの中で、賛美の中で、私に告白しなさい。
そうすれば私がそれを実現させましょう。
あなたがそのようにして前進し続けていくなら、主の定められた時に、必ずその言葉の実現を見るでしょう。
すでにあなたを待っている現実が未来にはあるのです。
それは私の目にはすでに完成させられているのです。
その完成された現実があるからこそ、あなたは希望で心が満たされるのです。
祈りと賛美をもって前進しなさい。
あなたの内にある私の希望を口にだして告白しなさい。
それをあなたの実現にするまで、あなたは進んでいきなさい
                          ジャック・ヘイフォード 米 牧師







10月 29日 火曜日 のち
歌のプレゼント
I have a little turtle.
His name is Tiny Tim.

I put him in a bath tub to see if he could swim.

He drank up all the water and ate up all the soap.

Now he is sick in bed.

With the bubbles in his throat.



今日は孫に一生懸命ジェスチャーくわえてこの歌を歌ってあげた。

最後のbubbles in his throatのところで、手の甲を喉にあてるところが孫のお気に入り。

「Do it again !」と何度も言う。

幼い頃ならった歌って大切だと思う。

私の大好きなジャズアーテイストの松居慶子がミス・ユニバースの審査員をしたとき、「幼い頃歌っていた歌を聞かせてください。」といったら、先進国出身のコンテスタントはなかなか歌えなかったけど、開発途上国の国出身の女性達は目を輝かせて歌ったという話を聞いたことがある。

むかし、カセットテープもCDも何にもなかったころは、お母さんがうたを歌ってあげてたのだろう。最近アイrンスタインシリーズで脳の発達に効果あるといってモーツアルトの曲を流すのがはやっている。

モーツアルトは私の最も大好きな作曲家だが、お母さんの心こもった歌声にはかなわない。

子供の頃うたってもらった歌は魂の底に残るような気がする。

そういえば以前養老院に訪ねていったとき、ほとんど記憶のなくなったおじいさんやおばあさんが、私達が聖歌を歌い始めたとたんパーと顔が明るくなって、「Great is thy faithfulness!」と大声で歌い始めてびっくりしたのを覚えている。

孫にもっと聖歌を教えよう。

一生懸命孫に歌を歌って聞かせていたらこちらまで気分が晴れてきた。

神様きょうもありがとう







10月 28日 月曜日 のち
私の生活にかけていたもの
毎週日曜日の夕食に娘達が家に集まるのだが今夜は次女が仕事に出かけなければならないので、朝ご飯を共にした。

普段は主人と2人きりなので、家が静かだが人がご飯を食べにこられると、騒音レベルがグーと高まり、家がパーッと明るくなる。

朝食後、みんなでCrainiumというゲームをした。
このゲームは他のいろいろなゲームが混ざった感じで、絵を書くのが得意な人、物知りの人、ジェスチャーを推測するのが得意な人といろいろな才能が発揮できておもしろい。

主人と婿がチームをつくって、娘と私がもう1つのチームだった。
ゲームが始まると結構競争意識が出てきて面白い。
最初は私達のチームがリードをとっていたのに、最後に負けた。

こうして一緒にゲームができるのは幸せだなとふっと思った。

最近私は深刻になりすぎたような気がする。

これからはもっと遊びとユーモアを生活に加えよう。

孫に「おばあちゃんは僕の遊び仲間」と思ってくれるくらい面白いおばあちゃんになろう。

そもそもいじわるばあさんなんて遊び方を知らないばあさんのことだろう。

色々な歌やゲームを覚えて、楽しいばあさんになるぞ。








10月 27日 日曜日 のち
「For better or For Best 」 Understand Your man ----- by Gary Smalley
せっかく主人と二人でPoulsboというノルウエーのデザインがとても素敵な町に出かけたのに、つまらないことで口論してしまいました。

http://www.cityofpoulsbo.com/index.html

空の巣になってからどうもコミュニケーションがうまくいかない...

帰宅後、悲しくなって、何年も前に買った本を出して読み始めました。

タイトルは「For Better or For Best--- Understand
Your Mate」です。

http://search.barnesandnoble.com/bookSearch/isbnInquiry.asp?sourceid=00398880816087339888&ISBN=031021467X&bfdate=10-27-2002+01:05:58&bfinfo=031021467X

著者のゲリースモーリーが言うには、下水道の修理屋になるライセンスを取るのに4年もかかるのに、結婚するには何のトレーニングをも要さない。なんと皮肉なことか。

4年の大学を卒業しても1人の人と大切な関係を保つ術を学ばんでいない。
ということは結婚しても相手の感情的なニーズ精神的なニーズにこたえる術を何にも知らない。
どのように夫(妻)に話し掛けるべきなのかという基本的なことさえ知らない人が多い。

女性にロマンスが必要なように、男性には賞賛が必要である。

なぜ夫にとって妻がこれほど大切な存在であるのか?

聖書をみると、


創世記 / 2章 18節
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」


マタイによる福音書 / 22章 36節
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


とある。


第一章はここまでです。

すごく罪悪感を感じてます。

神様、今日私が言った言葉を主人の記憶から消してください。
よろしくお願いします。あんなこといわなきゃ良かった...

これからは肯定的で励ます言葉のみが口から出てきますように...





10月 26日 土曜日 のち
劣等感からの解放
自分の全てを知ったら、キットこの人は自分のことを嫌いになるだろう。というおそれがあるとき、対人恐怖になる。

サマリヤの女性は、社会的にも倫理的にも劣等感を持っていた。だからこの女性は、誰もこない暑い真昼間に水を汲みに来た。

するとそこにはイエスが座っておられた。


ヨハネによる福音書 / 4章 6節

そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。



ユダヤ人はサマリヤ人を見下し、交流しなかった。特に女性とは口をきかなかった。

自分に何の価値もないと思い込んでいた女性にイエスは「水を下さい。あなたには人に上げるものがあるのですよ。貴方は尊い」とおっしゃった。

喉の渇きを満たせる水の話ではなく、生ける水の話をしていると気付いたサマリヤの女性は、


ヨハネによる福音書 / 4章 15節
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」



そのときイエスは「夫を連れてきなさい」といった。



ヨハネによる福音書 / 4章 17節
女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」



イエスは彼女に夫が居ないことを知っていながら彼女に話し掛けたのだった。彼女が正直に答えたので、生ける水の場所を教えた。

罪の告白をしたとき、女性は初めて劣等感から解放された。
すると彼女の目はイエスに向かった。
「貴方は預言者ですか?」という質問に対して、
イエスはサマリヤの女性にははっきり仰った。



ヨハネによる福音書 / 4章 26節
イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」



自分の罪の告白を済ませた女性は、目をイエスに向け「貴方は預言者です。」といった。サマリヤの女は、町じゅうに行って、イエスのことを広めた。



ヨハネによる福音書 / 4章 28節
女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。



本当の勇気は私達が劣等感から解放されてはじめて生まれる。
サマリヤの女性は、罪の告白をしたあと、人を恐れなくなった。以前は人がすくない暑い真昼間に水をくみに来ていたサマリヤの女性は自分から進んで、町じゅうに行ってイエスのことを広めた。

なんという変貌振りなのだろう!サマリヤの女性はもう誰になんと言われようが、気にしなくなった。対人恐怖は吹っ飛んでいった。

イエスに出会うとき私達は内から変えられる。
シャイだった人が大胆になり、自己中心だった人が献身的になる。

先日もそれを目の当たりに見て、私は涙を流した。

主のなさることは素晴らしい。







10月 25日 金曜日 のち
親が子供を愛せないとき
子供を祝福する

マタイによる福音書 / 19章 13節 ~15節

そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」
そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。


正直言って、私は子供が苦手だ。
自分自身母との関係で長年悩んだし、全ての親が子供を愛しているとは思えない。自分の子供のことでもずいぶん悩んだ。

最近やっと、娘達をそのまま受け入れられるようになったような気がする。

無条件に人を愛することは神様にしか出来ない。

すべての親がすべての子供を愛することは不可能だと思う。

生まれた状況や子供の性格などで、なかなか子供を愛せない親がたくさんいる。相性が悪い場合もある。

例えば、親は容姿の醜い子、頭の悪い子なので、恥ずかしいと思うっているかもしれない。

あるいは逆に美しくて頭がよいため親よりずっと注目をあび、ひそかに親は嫉妬を感じていることもある。

また、女の子が欲しかったのに男の子だったので残念だと思っているかもしれない。あるいは子供がハイパー・アクテイブで恥ずかしい思いを何度もさせられて、その子が嫌いになることもある。

子供が出来たおかげで、経済的に苦しくなって、子供に対して、嫌悪感を持っているかもしれない。

あるいは子供が、夫の家族になついていて、自分の家族にあまりなついてないので嫉妬心を持っているかもしれない。

わたしたち母親が、このような感情をもって自分の子供を愛せないと思うとき、その気持ちを正直に神様に告白しよう。

これは子供の問題ではなく親の問題なのだから...
無条件に人を愛することは神様にしか出来ない。

嫌悪心、嫉妬心、怒りをすべて告白し、主の無制限な愛と取り替えてもらおう。

無条件に人を愛することは神様にしか出来ない。

そして言葉、行為で、神の無条件な愛を表そう。

これは意志の問題だ。

主に従おう。

主は私達の忠誠さを祝福してくださり、家族の雰囲気がコロット変わって、家庭に愛が育っていく。


ここまで書いて、妻が夫を愛せないときもあると気付いた。

大恋愛で結婚した末、冷たくなる夫婦関係も多く見てきた。

無条件に人を愛するということは不可能だ。

主が貴方の心に愛を植付けてくださり、その泉からどんどん豊かな愛が湧き出てきますように。

ハレルヤ





10月 24日 木曜日 のち
人の本当の価値を見抜いたイエス
ヨハネによる福音書 / 4章 13節 ~16節
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」


ユダヤ人はサマリヤの女性を蔑視していたのにもかかわらずイエスは、彼女の魂の価値をみきわめた。

5人の夫ではない男と一緒に住んでいた不道徳な女性を1人の人間として、尊敬し、話しかけた。

人が見る自分と神が見る自分は全然違う。
人は現在自分を見、神は私達の可能性を見る。

私は心の中で、ある人を裁いていたが、表面では、親切なふりをしていた。きのう、勘違いをしていたことがわかった。
その人が悪くなかった。

もし、私が彼女を心の中で裁いていたことが相手に伝わっていたなら、もう怒って口も利いてもらえなかったかもしれない。
あーあ。なんて早とちりなんだろう?

神様ごめんなさい。

心の中で裁いていました。
許してください。

これから人に会うとき、ただその人の表面的な行為をみるのではなく、可能性をみることが出来ますように。

アーメン






10月 23日 水曜日 のち
お友達の病気お見舞いに行ってきました
金曜日リトリートに行く前、おばあちゃんのグループの1人が、癌で入院している.という連絡があったのでみんなでお見舞いに行った。

ローラという50代後半の女性は、全米をモーターバイクでご主人と走り回る勇ましい女性だ。10年前、ご主人が失職したとき、「トラックの運ちゃんになる。」と決めて、実際トラックの運転手になった。

毎週末ご主人は、彼女がどこに居るのか聞いて、会いに行ったそうだ。数年後、ご主人の仕事が決まったのでトラックの運転手をやめた。

ローラさんは「色々な旅を体験してきたが、今回の癌はわたしにとって人生最大の旅だ。」とおっしゃっていた。

医者はすい臓ガンだと思って、開腹してみたら、肝臓まで転移していたので、手術せず、閉じた。
傷をみせてもらった。60センチくらいの傷は胸の下から、下腹まであって、ホッチキスのようなものでとめてあった。これを開腹手術というんだと、あらためて事の大きさを感じだ。

これから化学療法、ラジエーション療法が始まる。

ガンで苦しむ人がなんて多いのだろう?

聞いた話では癌は人によって違うので、治療も、個人的に考えなくてはならない。1人の人にはうまくあっている治療も、ほかの人にはあっていない。そこがむずかしいところだそうだ。

ローラさんは2週間前お母さんのお葬式をすませ、そのとき、墓に書く文字、メモリアルサービスに書く言葉、賛美歌などをきめたそうだ。

ついでに自分の葬式も計画しておくと、半分笑顔で言っていた。

わたしはというと去年同い年の親友が癌で亡くなって、自分の死について考えるようになった。人はいつ死ぬかわからない。

子供達に残せるものは3つだけ。

信仰・希望と愛

そうだ手紙を書いておこう。

もし自分に何かがあったときに読んでもらう手紙だ。

イエス様をどのようにして受け入れたか、神様がどれだけ、彼女達を愛されていて、救いたいと思っておられること。

最後に、天国で会えるように望んでいること。

「天国で待っている。」と書こう。



神様、どうかローラさんの痛みをやわらげてください。
そして、貴方だけが与えることのできる平安を与えてください。
これによって、家族がもっと愛し合いますように。

神の栄光が現れますように





10月 22日 火曜日 のち
全てを神に捧げたアブラハム
事がうまくいっているとき、神様が祝福してくださっているのは自分が正しく生きているからだという錯覚に陥ることがある。実際には困難に出会うとき、間違った道を歩んでいるとは限らない。

主に従って生きるのは、容易なことではない...


アブラハムは主に従って愛する息子イサクをいけにえに捧げる決意をした。


創世記 / 22章 16節 ~18節
御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」



神様が私達に要求されるものの中で、最も捧げる決心に苦しむのが子供だと思う。

お金を神様に捧げることも、自分のなれた環境を離れて主の導く場所に引っ越すことも、自分がやったことが悪かったと人に謝ることも、疲れているとき祈ったり、聖書を勉強したりすることもたいへんだけど、愛する1人息子を主に捧げるほど辛くはないだろう。

アブラハムは主に言われたとおり、イサクを捧げるつもりだった。
主はその信仰ぶりを正義と見なし、星の数ほどの子孫をあたえられる。とおっしゃった。

私達人間は、近視なので、自分の世代しか見えないが、全知全能の神は何世代をも同時に見ることができる。主の祝福は私達が死んだ後も子孫に与えられると書いてある。

お友達の祖父母は敬虔なる信者だったが、子供達はクリスチャンにならなかった。ところが孫達はキリストを受け入れた。

誰がキリストを受け入れて誰が受け入れないかは私達にはわからない。だから全ての人のために祈る。

もしたとえ子供がキリストを受け入れなくても孫が受け入れるかもしれない。

私達が主に従うとき、主は必ず祝福してくださる。主は約束を守るかただから...

主に感謝



1. 10/24 07:29 アーメン。とても励まされました。ありがとうございます。by Vivi





10月 21日 月曜日 のち
ただいま帰ってきました。
ワシントン州の沿岸にあるGraylandという小さな町に海を見に行ってきました。今晩娘夫婦が夕食を食べに来て、今、彼らがかえって一段落したところです。

いつもは15人から20人くらい参加するのですがちょうどタイミングが悪かったせいか、今回参加されたのは7人でした。
夜おそくまでゲームしたり、ビーチを散歩したり、みんなで食事を作ったりしてとても楽しかったです。

おばあちゃんのメンバーの方のお友達のサマーハウス(というと聞こえがいいのですが実はモービルホーム)に一人11ドルで泊まりました。(安いでしょ。)

おばあちゃんのグループの旅行はいつも、誰かが寄付してくれるのですごく安いです。来年はアリゾナ州に家を持っている人のところに1週間行く予定です。

私は瀬戸内海で育ったせいか、海が大好き。特に冬の海が好きです。誰もいない海で大きな波が押し寄せてくる音をきくと、いやなことも悲しいことも全て流され新しく生まれ変わっていくような気がします。



悲しみから喜びへ

ルツ記から
ナオミはご主人を亡くし、10年後息子2人を亡くしました。


ルツ記 / 1章 3節
夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。
息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、
マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。



かなしみにくれたナオミは、「主が自分を見捨てられた。」と思いました。


ルツ記 / 1章 20節
ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。
出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」


ナオミは、最初、嫁2人を連れてベツレヘムへ連れて行こうとしましたが、途中で、気持ちを変え、嫁たちに、自分の里に帰るようにと言いました。一人の嫁オーパは里に戻りましたが、嫁のルツは、「あなたの神は私の神だ。」といい、姑についていきました。


ルツ記 / 1章 16節
ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き/お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民/あなたの神はわたしの神。


主は、忠誠心のあるルツを祝福され、モアブの地で、ルツはボアズと結婚し、息子を授かります。そしてナオミはこの孫を養い育てます。


ルツ記 / 4章 13節
ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。
女たちはナオミに言った。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。
その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」
ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。



だんだん年を取ってくるとどうも悲観的な話を良く聞くようになります。最近、癌になった人の話し、子供が反抗期で悩んでいる話、離婚の話等悲しい話を良く聞くようになりました。
長生きすることイコール悲しいことを多く体験することなのかしら?と思うほどです。

主人をなくし、10年後息子を2人亡くしたナオミは悲しみに暮れ、主に見放され一人ぽっち担ってしまったと思いました。ところがおどろいたことに嫁のルツは死ぬまでそばにいると約束してくれました。

働き者のルツはやがてモアブの地でボアズと出会い、結婚し、子供をさずかりました。そしてナオミおばあちゃんは、嫁の子供(血のつながっていない孫)を養い育てました。

一度は生きる気力もなくなっていたナオミに主は、またもやミッションを与えてくださったのです。

いつどんなに悲しみが喜びに変わるかわかりません。

最も悲しかったことが最も喜びのことに変わったことを経験したことが何度かあります。

主はいつも私達のそばに居て下さいます。

そして、生きてる限り、いつ何がどうなるかわかりません

だから希望を捨てずに信じましょう

今日絶望的でも明日奇跡が起こるかもしれないのだから。

全知全能の神は私達を愛しておられるのだから。

主に栄光






10月 19日 土曜日
ちょっと海を見に行ってきます。
こちらの金土日と海を見に行ってきます。
日本時間では月曜日に戻ってきます。

主が皆様の上に豊かな祝福を与えてくださいますよう祈っています。

それではまた...
1. 10/19 09:21 いいですね!とても とても とても海を見るのが好きです。行ってらっしゃーい!/キャベツ
2. 10/19 16:07 いってらっしゃい! 楽しく良い時を過ごされますように/shino





10月 18日 金曜日 のち
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ヨハネによる福音書 / 3章 3節
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」


ファリサイ派に属する、ニコデモという人はユダヤ人で、地位の高い教養のある金持ちだった。

ある夜、イエスのもとに来て言った。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

質問ともコメントも区別がつかないような事を聞いた。

ニコデモは一体イエスが預言者であるかどうか知りたかったのだが、人目を恐れて、夜イエスに聞きに来た。

このニコデモは律法を学ぶために一生を費やした博識のある人なのに、イエスの言っている意味が全然わからなかった。

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
というイエスの答えに対して、ニコデモは

「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

と、ちんぷんかんぷんなことを言った。イエスは、肉体的な誕生の話ではなく、霊的な誕生の話をしていたのだ。



「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。


聖霊が私達を満たすとき私達の心は、全く新しいものに生まれ変わる。これほどの奇跡があるだろうか?

太平洋戦争中ヤコブ・シュエーザーは日本で捕虜としてつかまり、地獄のような刑務所で、聖書を読み、救われた。

敗戦後、アメリカに帰ってシアトルパシフィックカレッジで勉強し、日本に宣教師として戻った。

淵田軍人は、パールハーバーを攻撃したパイロットだったが、ヤコブシュエーザーからトラクトを受け取り、主を受け入れる。

http://www.page.sannet.ne.jp/jmbm/Evangeli/XX-01.html

憎しみが愛に変わった。

神の愛は政治的、歴史的な壁を超越する。

なんと素晴らしい主なのだろう。

私の周りにまだ主の愛を知らず、憎しみや怒りであがいている人が多くいる。

どうか主の深い愛のメッセージを伝えられますように。

聖霊様の豊かな祝福がありますように。

アーメン








10月 17日 木曜日 のち
「私のところに来なさい」
今朝子守りしていた時、孫に「ガガのおひざに座らない?」というと、「僕はbig boyだからガガのひざにはすわらず、自分の席に座る。」といった。

悲しいな…

私がひざに抱っこしたいのは、孫が望んでいることではなく、私が望んでいることなんだとフット思った。

と同時に神様が私に「私のところに来なさい」とおっしゃるのは神様を喜ばせることなのだ。それなのに、「いいえ。結構。自分のことは自分で出来ますから。」と片意地張っている。(可愛くないね...)

どんなに神様を悲しませていることか...

午後、長女が、「お友達のKさんのところに3人目の赤ちゃんがうまれたから、そのお祝いに、夕食を作ってもっていってあげたいんだけど手伝ってくれる?」というので、一緒にキッチンで、料理に励んだ。

Kさんのご主人は七面鳥を食べたいとおっしゃったらしいけど、12パウンドの七面鳥を焼くのに少なくとも2時間半はかかる。時間がないので、今回はチキンにした。いわゆるcomfort foodがよいというので、チキンをやいて、後はマッシュポテト、コーン、スタッフィングと作った。

娘は、今日仕事でいやなことがあったらしくきげんが悪い。それでも、料理ができあがって、車にのせて、孫をカーシートにいれた頃にはすっかりきげんがよくなった。

「一緒に行こうか?」というと、「こなくていいよ。」という。

2人で料理したことをKさんに知られたくないのかもしれない。

大人になった娘との関係に戸惑うことがある。なるべく彼女の独立精神を損なわないように、しかも、感情的なサポートと、安心感を与えたい。

長女はむずかしい。なにせ、全て始めてのことばかり。

失敗だらけだった気がする...ごめんね。。

でも神様は私の祈りをご存知だ。

「どうか彼女が自分の意志で、神の正しい道を歩みますように。」

と車が去っていくのを見送りながら、再び祈った。





10月 16日 水曜日 のち
ヨハネ
BSFの宿題を少しずつやっていく。

ヨハネの福音書3章1から36節だ。

きよきよさんのHPを読んだり、日本語と英語の聖書を両方読んだりしながら質問に答えていく。

やっと最後の質問にたどり着いた。

「どのようにしてヨハネは、嫉妬、ねたみ、自分に対する憐れみを拒否しましたか?彼が使った3つの方法を書きなさい。」とだ。
ヨハネはおそらく聖書の中で最も謙虚な人だったろうと思う。

ヨハネの強みは自分に対して明確な自己意識、責任をもっていたことだ。

ヨハネは自分が持っているもの全てが天から与えられたものであると確信していた。だから、何も誇るものはないと信じていた。


ヨハネによる福音書 / 3章 27節
ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。



次に、ヨハネは自分がメシアではないと自覚していた。


ヨハネによる福音書 / 3章 28節
わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。


しかもヨハネは自分の役割をはっきり知っていた。



ヨハネによる福音書 / 3章 30節
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」





ヨハネの答えはなんて素晴らしいのだろう。
全て私達の持っているものは天から与えられている。だから誇るものは一つもない。
ヨハネは自分がだれであるか、自分の持っている物がどこから来たかを把握し、しかも自分の役割をも明確に知っていた。



ヨハネによる福音書 / 3章 30節
あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」



年を取るにつれて自分が一体誰であるのか少しずつわかってくる。
昔私はいろんな人にあこがれた。私の姉はよく吉永小百合と桜田順子に似ているといわれたほど、美人だった。今でも有名な女優さんに似ている。美人というだけでなく、料理は上手で、よく親の言うことを聞く人だ。

私はいつも大きな声でわらい、母に「そんな笑い方をしたらお嫁の貰い手がありませんよ。」と怒られた。幼心に、私はプロポーズしてくれる人が一人でもいたらさっさと結婚しようと思ったのを覚えている。(笑)主人がプロポーズしてくれたとき、直ぐ「Yes!
」と答えたのも、そのせいかもしれない...(情けない話...)

いうまでもなく、かなりself-esteemが低かった。

今やっと、自分を受け入れられるようになった気がする。自分の短所、長所、変な癖、全て神様が下さったものだと思う。
あんまり頭も良くないし、運動神経も鈍いけど、それ以上、内なる美しいものを尊いと思えるようになった。

自分が自分であることに感謝できるようになった。

これも主の無条件な愛のおかげだと思う。

ヨハネも主の無条件な愛の中にいたので、他の人の成功を嫉妬することもなく、満足したのだろう。


けさ、おばあちゃんのグループのお友達から電話があった。

「貴方は最初おばあちゃんのグループに来た頃よりずいぶん成長したね。」と言ってくれた。ちょうど落ち込んでいたので、彼女の暖かい励ましに心が潤った。

二歩前に進んで三歩後ろに下がっているような気がしていたけど、
もしかしたら、少しは成長しているのかもしれない。

神に感謝

1. 10/17 06:11 すばらしいですね 員子さんの歩み いつも恵まれます感謝/キャベツ





10月 15日 火曜日 のち
人間関係って難しい
今日昔のお友達から、厳しいイーメイルをいただいた。

私が彼女を見下しているとか、悪口を言ったとか、いろいろ書いて、最後に、「神様と対話を持って欲しい。」と書いてきた。

いろいろ振り返ってみて、決して悪口を言ったこともなければ、見下したこともない。かえっていつも尊敬していたのにと思う。彼女は離婚して子供さん2人を立派に育てた人だ。

うまれてはじめてこのような手紙をもらって、正直言って戸惑っている。

言い訳したい気持ちがあるけど、先日遠山じゅごんさんのエッセイに「私は言い訳しない。」をよんで共鳴したばかりだ。
これ以上話したら泥まみれになりそうなので、無視することにした。

つくづく人間関係って難しいと思う。
私が無神経すぎるのかもしれない。

彼女が数ヶ月前に私がしたことで彼女はすごく傷ついた。

私はただ役員としての責任を果たしたつもりだったけど、個人的な攻撃と受け止められたらしい。

こんなときイエス様はどうするのだろう?

「わたしたちの友情が両通行だと思っていたのに一方通行だった。」とまで書かれている。

私は鈍いから人の気持ちが読み取れないのかもしれない。

コミュニケーションのクラスでも取ろうかな?

今日はなんだかがっくりした日でした。

こんな私のためにも主は十字架にかかってくれたと思うと感謝です。


ここまで書いた後、http://www.febcjp.com/index.html の、70歳の女性からのレターを読んで慰められた。

「私は、良い人間になろう、少なくともそう努力しようと思っていました。そしてそれは結局、他人から良い人だと思われたいという浅ましいまでの欲望でした。しかし人間は自分の努力によって変わるのではなく、主イエスの恵みによって、そしてそれを感謝することによって、私自身を主が変えてくださるのだということを受け入れることができました。これからはありのままの自分をイエス様に見ていただこうと思います。きっとイエス様が導いてくださると信じます。

「キリストにはかえられません いかに美しいものも このお方で心の 満たされている今は」(讃美歌21 522番)
娘の通う施設の今月の歌です。 今の私の心境です。」


たしかにお友達に嫌われたのは悲しいけど、今夜は主に満たされ、全てを委ねよう。


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