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珍島大橋の下は鳴梁海峡という狭い海峡に大量の海水が一揆に流れ込み、海が鳴くような音がすることから、この地名がついた。この潮流の流れを利用し韓国の「李舜臣将軍」が日本の海軍を打ち破り、この海峡はまるで地獄図のようであった。この時、多くの日本兵士が亡くなりその死体が古郡面の内洞里の入り江に流れついた。今は埋め立てられ、田んぼになった遠めには堤防の向こうに海が広がっている。ここは倭軍に徳をほどこしたと言われる「倭徳山」先日4月28日に珍島大橋の下で亡くなった日本兵士の霊を弔うため日本からの訪問客が訪れた。「鳴梁大捷交戦追悼法要」おごそかな雰囲気で・・合掌し、読径をあげた。
April 30, 2008
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最近はオーバーヒートぎみ・・忙しい日本の三重県からの観光客李舜臣将軍の研究をされていて韓国旅行は20回ほど・・あちこち行かれたあと・・珍島に流れ??付かれた!!午後4時40分以降に、時間が空くのでそれまで一人で見学をして下さいませ~とお願いし、観光課で待ち合わせてご一緒した。珍島大橋から鳴梁海峡を説明しカンガンスウレの跡地を指差す。次は珍島大橋の下で亡くなった韓国人兵士の墓・・丁酉再乱殉節の墓そして倭徳山へご案内!!!看板を韓国語で読んだあと加藤さんが・・(ヒッ!!!加藤清正と同じ加藤だあ~ と・・まったく関係ないこと、思ったりして)「アッ」と声を上げる「瀧口さん、この草の名前知ってますか?」(知りません~)「これね~仏草ですよ!ほら葉が蓮の葉のようで・・」アップで撮ってみた!まあよくいう雑草ですが・・場所が・・場所だけに・・二人して、しんみりと、風に揺れる仏草を見ておりました・・
April 4, 2008
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先週の日曜日ブラ~~ッと海割れ海岸に行ってみた。海岸道りは整備中・・・(5月のイベントに向けて大変だ~~ そうか・・ 観光開発の担当職員はそろそろ異動だな! 異動前に最後の仕事かあ~)なんて思いつつ・・(アレッ日本人ぽい人だ~ と思ったんで・・)「日本のどちらからですか?」と日本語で話しかけたら「わたしは韓国人です」と日本語で返ってきた。そして「でもわたし日本人と一緒ですよ~」これはよく体験することだけど・・日本に長期滞在している韓国人はなぜかしら日本人ぽくなるのですよね~~やっぱりそこの文化に浸るとそこの人間になるのでしょうね~~だから当然私も・・・韓国人ぽい日本人(アレ?まてよ)私の国籍は韓国になったから日本人ぽい韓国人になるのかな~~ところで訪問客は東京、目白大学の社会学部地域社会学科の教授と同大学の外国語学部アジア語学科の教授でした。珍島観光の目的は高麗時代の遺跡地、龍蔵山城の見学!そして倭徳山にも行き李おじいさんとお話もされたそうで・・とっても感動されてました。私の知らないところで、こうして訪問されてる方も居られるのですね~~注:倭徳山に関しては、このブログの左をクリック
February 20, 2008
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今年も来島水軍の関係で愛媛から団体客の訪問あり・・・珍島郡庁側は郡守が不在のため、副郡守が代理で面会した。朝鮮時代から高麗時代、そして百済までその会話は歴史をさかのぼり・・・「日本と韓国の関係は非常に古くからあったのです!」歴史に見識の深い愛媛大学の教授は(何やら難しいこと言いそうなので)「先生これ以上言わないでくださ~い! もう大変で~す」と日本語を知らない副郡守の横で言ってしまった(すいません!自分の勉強不足を棚に上げ~~)次の日は来島水軍が眠る倭徳山への参拝・・・あいにくの雨模様だったけど・・わざわざ、日本から持参した日本酒とおつまみは・・・400年前に水死した若者達へと捧げられる。学生や来島の住民のほとんどは傘もささず、雨にうたれながら「南無阿弥陀仏・・・」とお経をあげる。続いて「舟歌」が披露される。朗々と歌うその歌声が周囲に響く・・・私は瞬間、ハッとした。「霊が聞いている!」迷信とか言う人もいるかも知れないが・・先祖を敬う、その心はあの世に通じるのだと思う・・皆で団体写真を写す!次の日、静かな倭徳山にて~~
August 17, 2007
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この墓は朝鮮宣祖30年(1597)丁酉再乱(慶長の役)鳴梁大捷の闘いの時ウルトルモク(珍島大橋の下を流れる海峡)で戦死した日本水軍の死体を埋葬したと伝えられている墓である。死体を見つけた内洞里の住民は、敵軍でありながらも、死んだ霊魂に温情を施し手厚く葬いその後、倭人に徳を施したの意味で倭徳山と呼ばれるようになった。この場所は鳴梁大捷での教訓を私たちに伝えている。倭徳山の現況 位置:全南珍島郡古郡面内山里山162番地墓の数:約100基 珍島郡守昨年の今頃訪問された広島修道大学の教授が再び珍島を訪れた。今回は珍島4回目の訪問である。ここは当時何の案内表示板もなかったが「朝鮮出兵で犠牲!異国に眠る日本水軍兵士」16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮侵略に出兵して命を落とした来島村上氏など日本水軍兵士のものとされる墓が、韓国珍島に残っており、今治市民でつくる来島保存顕彰会が8月中旬、珍島を訪問することになった。400年もの間、墓を残してくれた珍島の人々に感謝の気持ちを伝えたい。ー愛媛新聞ーと報道され、8月15日に日本からの参拝客を迎える準備として建てたものである。菜の花が満開の中、静かに手を合わせる学生の姿は同年代に見える息子の姿と重なる。ここで命を落とした日本水軍のほとんどが10代後半だったというから、胸が痛い。参拝の後のスケジュールは特別ないというのでさあ気分を変えて珍島観光をしよう~~高麗時代の城跡と伝えられている南桃石城!単雲橋と双雲橋!
May 3, 2007
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年末の30日と31日は土日の休み!2007年の1月1日は新正(正月)休み!なので1月2日から仕事初めです。家ではなかなかコンピュータの前に座る時間もないので・・ほとんど役所でブログの書き込みもするのですが・・休み中にメールが届いてました。題して「二つの金賞を祝う会」の報告!私のブログを見て下さっている人はご存知ですが昨年(2006年)8月15日に日本の広島から貴重な訪問客がありました。今から約400年前!珍島大橋の下で亡くなった来島水軍の末裔が珍島に訪れ慰霊祭を行ったのです。一行の中には広島修道大学の学生もいました。その内容を記録したドキュメンタリービデオがNHK全国大学放送コンテストで優勝し、さらに文部科学大臣賞まで受賞したことが記されていました。http://www.shudo-u.ac.jp/kikaku/main/061222/index.htmまだ直接ビデオは見ていませんが日本と韓国の関係を扱う内容が、関心を引いたことは韓国に住む元日本人として意義深いと感じてます。さあ~~~2007年も頑張るぞ~~~
January 3, 2007
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11月3日珍島邑の郷土文化会館、小会議場にて珍島学会「第6回国際学術会議」が開催された。珍島は韓国半島の西南端に位置し、韓国で3番目に大きい島で土地が肥え、農耕文化がいち早く定着したところである。また全国でもっとも多い流刑者(島流し)が送られ、海洋文化と流刑文化が混ざり合った島でもある。このような関係から珍島文化の特性は、珍島を世界的な民俗の宝庫につくり上げた。そして2001年に珍島を研究する研究者が集り、珍島の発展に寄与しようと「珍島学会」が結成された。現在、ソウル大学の文化人類学科「全京秀教授」が会長を勤め会員は約90名で、珍島に関連した内容を主題に研究発表を行っている。今回は「珍島文化の力動性」という主題で1)珍島流刑文化の一考察:珍島郡学芸研究者(金美京)2)村の書堂:琉球大学(伊藤亜人教授)3)珍島 村の信仰:全南大学(羅京秀教授)4)400年の時を越えて珍島倭徳山が語るもの: 広島修道大学(日隈健壬教授)の発表が行われた。そしてわざわざ慶長の役に、珍島大橋の下で無くなった来島村上水軍の末裔来島保存顕彰会から2名が参席された。倭徳山の説明案内この墓は朝鮮宣祖30年(1597)丁酉再乱(慶長の役)鳴梁大捷の闘いの時ウルトルモク(珍島大橋の下を流れる海峡)で戦死した日本水軍の死体が流れ付いた場所である。死体を見つけたここ内洞里の住民は、敵軍でありながらも、死んだ霊魂に温情を施し手厚く葬った。その後、倭人に徳を施したの意味で倭徳山と呼ばれるようになった。この場所は鳴梁大捷での、また別の教訓を私たちに伝えている。倭徳山の現況 位置:全南珍島郡古郡面内山里山162番地墓の数:約100基 珍島郡守
November 7, 2006
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http://news.media.daum.net/editorial/column/200608/17/chosun/v13722312.htmlhttp://tvnews.media.daum.net/part/societytv/200608/16/imbc/v13699510.htmlhttp://tvnews.media.daum.net/part/societytv/200608/15/ytni/v13697170.htmlhttp://news.media.daum.net/society/affair/200608/15/hankooki/v13697069.html韓国のマスコミに紹介された内容!!!その中から朝鮮日報に紹介されたコラムを翻訳してみた。「倭徳山と日本水軍」全南珍島の古郡面、内洞里には倭徳山という野山がある。ここには1597年9月16日に鳴梁海戦で亡くなった日本水軍の墓が100基ほど残っているという事実が最近明らかにされた。この内容を発掘した郷土史学者の朴柱彦(61)さんによると、潮にながされて来た倭軍の死体をこの村の住民が埋めてくれ、山の名前は倭徳山といい倭軍に徳を施したの意味であるという。去る8月15日には、ここに埋められた日本水軍の子孫20名が珍島に訪れ、倭徳山に参拝し内洞里の住民に感謝の思いを伝えた。ここに眠る日本水軍はそのほとんどが20代であり、参拝団を連れてきた村瀬牧男さんによると鳴梁海戦の先発隊に配置された日本水軍は来島水軍であったという。彼らは本来、日本の内陸、瀬戸内海を掌握していた海賊集団であり、当時瀬戸内海を通過する全ての商船はこの水軍に無条件10%の通行料を支払った。この水軍は東北アジアを往来し略奪行為を行った倭寇の本拠地であり、来島という島がその基地であった。愛媛県の今治市に属している来島は、小さな島であるが天恵の要塞であり、珍島のウルトルモクのように、来島と陸地の間は時速11ノット(20km)の急潮流が流れているため、外部の船が容易く攻撃することが出来ない、難攻不落の陣地であった。ここに来島の本拠地である海城が構築され今もその遺蹟が残っている。その大将は当時36歳であった来島通総、弓矢に打たれ無残な死をとげた。それより5年前には唐項浦で通総の実兄が李舜臣将軍から殺されている。通総は兄の敵討ちの戦に出たが、鳴梁海峡の泡と消えた。倭徳山の倭軍の墓前に置かれた来島通総の肖像画を見ながら歴史の無情を感じざるをえなかった。<チョーヨンホンのサロン>*いきなり記事がでて世間を騒がしている「倭徳山事件」私が最初に触れたのは昨年の5月であった。当時の私は正直言うと半信半疑・・・だって朴さんが一人で騒いでいたから~~~周囲は冷ややかなまなざしで同調しない雰囲気だった。昨日は総務課の対外協力係長に呼ばれた。(最近日本語の勉強をしていて時間の余裕があると日本語会話をする)実はこの方、以前は観光課の芸術係長だった。倭徳山事件の内訳を知っているかも・・・「あれホンマですか?」係長はあきれ返った表情で、私の顔をマジマジ見る。「倭徳山の日本人の墓は、珍島の文化院長はもちろん歴史を深く知る人物は誰でも知ってるよ。あれは間違いない日本人の墓だ」「なんで黙っていたんですか?私も知らなかったですよ」「言ったからとて、何になるの?言う必要を感じなかったから言わなかっただけ・・」とケロッとした顔で言われた。はあ~~~なんなの これ
August 18, 2006
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今から408年前に亡くなった来島水軍の霊を弔う儀式・・・国家指定無形文化財、第72号に指定されているシックムクッは神霊や祖先の霊と心を通わせる独特な儀式である。「洗う宗教的儀式」とでも表現すればいいのか?このシッキムクッの儀式は珍島郡・義新面・斜川里に位置する「ピキネ民俗伝授館」で行われた。ピキネとは珍島の方言で斜川里の地名である。現代的な建物の中に入ったのは、私も始めて・・・なかなか広く、民俗音楽の音色に周囲の住民も集り最後には珍島の貴星里に位置する国立南道国楽院の職員も見学に来ていた。本来のシッキムクッは一晩中行われる儀式であるが、土曜民俗公演の舞台で、ほんの一部分披露してくれるのは19の過程の中で、2つの過程を行うのが大部分である。「コプリ」と「キルタクム」だが今回は「ヨンドンマリ」と「イスルトルギ」もして下さった。(有難い!)「コプリ」この世で成せなかった思いや願いを象徴する紐に結び目を作っておき、一つ一つ解きながら恨みを晴らす内容。コ(苦)結び目、プリ(解く)カメラの状態が悪いのと、私の技術が悪いのとで・・「ヨンドンマリ」と「イスルトルギ」ゴザを広げ死者の着ていた服を広げ、ぐるぐる巻き7箇所を結んで立てる。ゴザ人形を3つの器に入れてある(ヨモギ水・香水・清浄水)で上から下にほうきに水を付け人形を洗う。 「キルタクム」道清めの儀式で、この世の恨みを解き、極楽往生できると信じ、木綿の長い布を霊を入れた箱で行き来する。写真はございません。(写りが悪くて~~)シッキムクッの独特な音色は珍島にきて最初聞いた時、ユックリテンポに感情がついていかなかった。白装束で舞台にシズシズ登場すると20分後には熟睡してしまう私だった。あ~~韓国は四物ノリのような激しいリズムだけじゃないんだな・・・優雅な宮廷音楽とも違う、こんな世界もあるのだな~~珍島での生活は15年になる。最近はようやくアゼン(カヤグムより大きい楽器)の音色に魂が揺らぐような感覚を感じ、その味が解るようになってきた。シッキムクッの音楽に眠気が起きないのがその証拠かな?少しずつ珍島人になりつつある、私である。
August 17, 2006
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倭徳山に先祖を埋めてくれた人情に感動!http://blog.naver.com/kjb0307/110007200204「8月15日に倭徳山にて慰霊祭を行う」とある。注)細かい内容はブログの右側「日本の水軍兵士が眠る」をクリック超忙しいが・・これもパルチャ(八字=私の運命)欲を言えば10歳若返りたい思いだが(気だけは10代)体力のない分は気力で勝負!日本からのお客様、準備万端でお迎えしたい。
August 6, 2006
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全羅南道の海南郡と珍島郡の間に架かるのが珍島大橋である。1984年10月18日に開通し珍島は陸続きになった。そして2005年12月15日には第2珍島大橋が開通した。写真の右が古い橋で、左が新しい大橋である。夕方には夜景が美しい・・・この海峡は東洋一といわれる潮流が流れまるで海が鳴くような音がすることから鳴梁海峡と呼ばれている。美しい観光名所になっている珍島大橋だが今から約400年前、この場所で激しい戦があった。豊臣秀吉による朝鮮出兵!慶長の役である。時は1597年9月16日早朝!日本水軍は兵船133隻(一説には300隻とも・・)対する朝鮮水軍は13隻であった。海戦が始まった頃、潮流は東から西に向かい朝鮮水軍にとっては逆流となっていた。李舜臣将軍は海峡の中流に船を連ねて碇を下ろし、船が流されるのを防ぎ、日本水軍を攻撃した。日本の兵船は鳴梁海峡は狭く、潮は満ち、水は益々急になり、日本水軍は上流より潮に乗りまさに山を圧するがごとく襲来した。ところが戦闘が続くさなか、潮流が西から東へと変わり攻守所を変えた朝鮮軍は潮流に乗り逆襲した。「豊臣秀吉の朝鮮侵略 北島万次著」李舜臣将軍が書き残した「乱中日記」には鳴梁海戦の闘いで日本水軍「馬多時」を撃った!と記録されている。珍島大橋を案内するときは過去の歴史を語るのだが、ここで韓国人から「馬多時」という日本人武将のことを質問されると返答に困った。馬多時なんて名前は見たことも聞いたこともない!だが最近偶然にも「来島通総=馬多時」の一行を日本の本から見つけ、珍島郡庁での勤務10年目にして胸の中のモヤモヤが解決した。来島通総とは瀬戸内海に武威を誇った村上水軍・村上(来島)通康の三男である。しかし、なぜ来島通総が馬多時になったのか新たな疑問が生じるのではあるが・・・・・・日本の水軍兵士が眠る倭徳山の合同墓地珍島の古郡面、内洞里から馬山里に抜ける用水路を超えると荒れ果てた小高い丘のような場所がある。昨年、ここが珍島大橋の下で亡くなった日本人水軍兵士の合同墓地であることが珍島の歴史家により明らかにされた。現在は干拓事業のため当時の面影は残ってないが、400年前は海水が内陸まで入りくんでいた。日本人兵士の死体は五山里まで流れてきたのだ。漁民は海で死体を発見すると、そのまま過ぎることはない。必ず収拾し安らかに埋葬してやるのが礼法である。海に浮く死体を見つけ、それを放置するとその死体が船の後を付いてくる!ということわざを今も信じている。「倭徳山」といわれるこの場所は今は誰も訪ねる者がない。菜の花が淋しく揺れるだけだ。今にして400年前の歴史が紐解かれ、ここに眠る魂の恨みが少しでも解かれることを祈るだけである。
June 22, 2006
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