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日本歌曲の名曲として名高い「荒城の月」は滝廉太郎が22才にて、土井晩翠の詩に作曲したもので、1901年中学唱歌に載せられました。原曲はロ短調、テンポ指定はアンダンテ(Andante)、8分音符主体のゆっくりとした感傷的な曲ですが、悲壮感は無く一般学生にも唄いやすい曲となっています。現在我々が通常耳にする「荒城の月」は、日本歌曲の父とされる山田耕筰が1922年頃、ピアノ伴奏を付けて調性をニ短調、テンポをレント・ドロローソ・エ・カンタービレ(Lento doroloso e cantabile)に落として、8分音符から4分音符に変更したもので悲壮感漂う曲になっているものです。瀧廉太郎-海老沢敏著(岩波新書)この「荒城の月」は冒頭にレント・ドロローソ・エ・カンタービレ(痛ましくも悲しみ歌うようにゆっくりと)とのいささか情緒過大な演奏指示があり、しかもニ短調をとって、先ず弱拍で始まられる4小節の前奏が、ピアノ伴奏で弾かれる。その後歌唱旋律が表現豊かに奏され、付点つきリズムで葬送の悲しみだと告げる様に響かせ、ピアニシモでトリルを加えて、歌唱に受け渡して行く。テンポの遅さとニ短調と言う調性の選択は、原曲の持つ爽やかさ、晴朗な迄の哀しさを遙かに超え出ている。この瀧=山田の「荒城の月」での瀧の役割は原旋律の提供者に過ぎない、ここに山田耕筰独自の世界が創り上げられている。瀧廉太郎の原曲は唱歌であり、少年少女が声を揃えて斉唱で歌うものであり、それは過去のもの、再びとは立ち戻って来ないものに対する感傷体験であったろう。山田の「荒城の月」が無伴奏で、しかも多声で歌われる様になって、強烈な嘆きや悲しみの感情が向かい合う対象に変容したのだ。インターネットで「荒城の月」唱歌原曲をダウンロードし、聴いて見ますと感傷的であっても、それ程の悲壮感はありませんし、山田耕筰が削除してしまったある音符のシャープ記号も違和感無く聴くことが出来ました。山田耕筰は「ただ原作には何か西洋臭さを抜けきらぬ点があまりにも際だって見えるので先輩に対して非礼とは思いましたが旋律に一ヶ所筆を加えました」と言っているのですが、謙譲の美も何処へやら、自分の作風が最善と押しつける様で功罪半ばする所かも知れません。上記の新書本に依りますと1922年発表当時からシャープ記号不要論はあった様です。
2004.12.19
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先日本屋に行きましたら、陳舜臣の文庫本が目に付きましたので買って来ました。僅か180ページ程の小冊でしたのであっと言う間に読了となりました。陳舜臣氏には珍しく、面白くない駄作と思いましたら、NHKテレビ講座「人間大学」(1994年)用の原稿をベースに発刊した様です。分かり易く解説したつもりなのでしょうが、主人公への熱意が全く感じられないので、読んでいて迫力が無いのです。小説「十八史略」等ストーリーテラーとして著作が彼の本領ですので、その方面での活躍を期待する他ありません。あとがきには次の様に書かれています。「秦は殆ど始皇帝一代で滅びたので、子孫による弁解も粉飾も無い。寧ろ後代の人による、悪意の粉飾があるので注意しなければならない。しかし、史書に残された記録による限り、私達はあまり彼に同情を持つことが出来ない。」その中に万里の長城と秦始皇帝との関係が書かれ、多少興味も惹きましたてので、抜粋します。秦始皇帝と言えば、反射的に万里の長城と言う言葉が浮かんで来ます。その為、万里の長城は始皇帝が造ったのだと思われがちですが、実はそうでは無く、戦国時代、各国がそれぞれ城壁を築いていたのです。天下を統一した後、始皇帝が繋ぎ合わせたり、更に北方に築いたりしたのです。東は遼東から西は甘粛省に至るまで、「史記」では「万余里」と表現しています。引き続き、秦の始皇帝-文春文庫(陳舜臣 著)では次の様に記述されています。現在、北京の観光名所になっている八達嶺は明の時代の長城です。その長城は内も外も煉瓦で固められた立派なもので、高さが8m以上、底辺で6.5m、上部で5.7mと言うのが基準で、大体120mおきに兵隊の駐屯する場所があります。そして、約10km毎に烽火台が造られています。始皇帝の時代の長城は煉瓦では無く、大抵は、板二枚の中に水を混ぜた土を入れ、練り固めて乾燥させた後板を取ると言う「版築」です。或いは、日干しレンガを積み重ねたと言うこともありますし、又、補強の為に柳の枝とか葦を束ねて使うこともありました。
2004.09.13
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この本は1908年に「Representative Men of Japan」と英文で出版されたもので日本語版は発行されなかった様です。13年後の1921年改訂版が出された時の感想が次の様に載せられています。「日本を世界に向かって紹介し、日本人を西欧人に対して弁護するには、如何しても欧文を以てしなければなりません、私は一生の事業の一として此事を為し得た事を感謝します、私の貴ぶ者は二つのJであります。其一はJesus(イエス)であります。其他の者はJapan(日本)であります、本書は第二のJに対して私の義務の幾分かを尽くした者であります。」西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の五人が紹介されているのですが、特に西郷編は原本が1895年の日清戦争直後であることもあって、国粋主義的色彩が極めて強く、後年の非戦主義とは明らかに隔絶しています。日露戦争後改訂が加えられ、「青年期に抱いていた我が国に対する愛着は全く醒めものの、我が国民の多くの美点に目を閉ざしていることは出来ません。」としたのですが、教育勅語で不敬事件を起こし退職を余儀なくされたクリスチャン内村鑑三にして、国粋愛国的色彩は消えることなく、時代の限界に制約されてしまうのです。況わんや凡人である私達は「不易と流行」(芭蕉の言葉)と言うか「法と道」(藤樹の言葉)と言うのか、マスコミ報道の裏にある変わらないものをしっかりと見定める必要があります。そう言う中で、比較的に抵抗無く読めるのは中江藤樹編です。聖人孔子は優れた進歩人であった。その孔子を、退歩的な同国人が自己流に解釈して、世の目に映ずる姿に作り変えて言ったのです。しかし王陽明は、孔子の内にあった進歩性を展開させ、人々に希望を吹き込んだのです。この王陽明は、我が藤樹をして、その聖人を新しい眼で見ることを助けました。藤樹が、人為の「法(ノモス)」と外在的な「真理(ロゴス)」とを明確に分けていたことは、次の有名な文章に示されています。道と法とは別である。一方を他方と見なすことが多いが、それは誤っている。法は時により変わる。我が国に移されれば尚更である。しかし道は、永遠の初めから生じたものである。人間の出現する前に、宇宙は道を持っていた。人が消滅し、天地がたとえ無に帰しても、それは残り続ける。しかし法は、時代の必要に適う様に作られたもので、時と所が変わり、聖人の法も世に合わなくなると、道の元を損なってしまう。
2004.09.02
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五島の空き家にあった義母の厖大な本棚から拝借して来ました。更級日記(上下)-講談社学術文庫(訳注 関根慶子)発行年を見ますと1989年となっていますので、義父の死後4年経った頃です。1994年に我が家に来て1995年に90才で亡くなったのですが、その頃は80才半ばを越えた義母が離島で一人生活をし、所謂「姥捨て状態」となって無聊に苦しんでしていた時でした。私達夫婦も夏に10日間程訪問するだけでさぞ寂しかったことだろうと思います。耳が遠くなって好きな音楽も聴きにくくなってしまい、読書が唯一の楽しみとなっていたのでした。作者菅原孝標女(ふじわらのたかすえのむすめ)は1008年生まれ、将に紫式部が中宮彰子に、清少納言が中宮定子に宮仕えしている最中だった時代です。父である孝標は、天神様で知られる菅原道真の五世の嫡孫で学問の家柄に生まれたのでしたが、比較的凡庸で消極的な好人物に過ぎなかった様です。「更級日記」は、作者が父の任官地上総の国にあった12~3才の頃から夫と死別した1~2年後まで、約40年間を夫の死後回想しながら書いたもので半自叙伝となっています。日記の後半に記載されている「姥捨(をばすて)」の境涯にありますので、「をばすて日記」となっていても不思議では無いのですが、亡夫の任地信濃の郡名「さらしな」を呼び出して「さらしな日記」とした所は作者の感性の高さを示しているのでしょう。孝標女は30才を過ぎてから宮仕えをすることになったのですが、清少納言・紫式部の様に抜群の才質を見込まれて取り立てられたことでは無く、伝手から薦められての僅か二才位の幼女への宮仕えで、主人にも恵まなかった様です。物語の姫君を夢想することはあっても、家庭生活に忠実な質実型の彼女は、華やかで競争社会とも思える、宮仕えに心楽しませることは無かったのです。平凡な家庭生活で、宮仕えを思い出して袖ぬるる荒磯浪と知りながらともにかづきをせしぞ恋しき-涙に袖が濡れる様な辛い宮仕えだと知りながらも、ご一緒に苦労した日のことが恋しくてなりません。夫の死後、段々と訪問する人も途絶えがちになった時月もいでて闇にくれたる姥捨になにとて今宵たづね来つらむ-月も出ない真っ暗な姥捨山の様に、夫と死別して悲しみに暮れている私の所に、どうしてこんなに暗い晩、尋ねて来てくれたのでしょう才気煥発な所も無く、何か物静かに読むことが出来る秀作です。それから140年後、「更級日記」は藤原定家に依って再認識され、女流日記中で最短編となっているにも拘わらず、定家の古典愛護への功績によって秀作として現代にも伝えられているのは本当に嬉しいことです。
2004.09.01
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南原繁没後30年となったそうです。平和主義に基づくナショナリズムの定着を目指した旗手を知る人は今では少なくなりました。南原繁(1889-1974)氏は、戦後最初の東大総長に就任、「民族の復活と新生」を悲願として活動を展開、中でも1949年の敗戦後の平和条約締結に際して全面講和を唱え、吉田茂首相から「曲学阿世の徒」と罵倒されたことは良く知られています。憲法問題:第9条の戦争放棄条項には、「自衛の戦力を保持すべきだ」と疑念を呈し、現憲法は将来のある時期、日本国民によって書き換えられるべきだと主張。国際問題:国際平和の為には世界の二極化を回避することが良いとした。その為、日米安保条約に反対し、サンフランシスコ条約では全面講和を主張。又、自衛の戦力は「国際共同の武力」に組み込まれるべきだと説いた。教育問題:戦前の押しつけ「皇民」育成と教育統制に反対した。将来の日本の為には、普遍的な自立的な人格形成と教育自由化の必要性を説き、「教育基本法」制定に協力した。人間の尊厳と平和主義の尊重に日本国民の誇りを寄せるナショナリズムの定着を悲願とした南原繁氏、その門下からは丸山真男氏も育ったのですが、彼も逝去してしまいましたので、その主張を受け継ぐ人材が見えなくなりました。日米安保体制堅持から自衛隊を戦力とし、パックス・アメリカーナへの軍事加担を目指そうとする近頃の動きは、彼の意図する方向とは全く逆の方向であることは間違いありません。岩波新書版「南原繁」が書棚にあった筈なので読み返して見ようかと探しましたが、残念ながら行方不明となってしまいました。そこで、インターネットで検索した所、彼が平和問題推進の為1965年ラッセル平和財団に参加する際の声明が次の様に掲載されていましたので、紹介させて頂きます。バートランド・ラッセル博士は、元々数理哲学者であるけれども、第一次世界大戦の時から、徹底した平和主義・非戦論者であった。第二次大戦後は、アインシュタイン博士と共に、壊滅的な核戦争の防止のために起ち上り、世界の科学者や指導者の注意を喚起すると同時に、自ら挺身して、時に示威運動にも加わり、為に拘留されたことがあるのも、我々の知る所である。ラッセル博士は、大衆運動とは別に、寧ろこれに対して思想的根拠を提供し、平和の問題について更に研究を促進するとともに、政府の声明やマスコミの報道からの独立した真実の情報を蒐集し提供する任務を重要と考えるに至った様である。平和運動につき、教会の間にありがちな反対、少なくとも消極的態度に対する博士の激しい非難は傾聴されて良い。カントの表現をもってすれば「戦争あるべからず」というのは、むしろ宗教以前、人が人である以上、すべての人間に妥当する道徳の至上命令である。更に戦争は、一人個々の人間性と人格に対する犯罪であるばかりでなく、人類に対する犯罪、人類の共同存在を否定する犯罪である。世界の諸国民は、戦争においても、又平和をもたらす上においても、一つに固く結合しなければならない。此処に、これまでの個人の良心的反戦反抗の他に、人類的連帯性において、さまざまの組織や運動が企てられる理由がある。
2004.06.17
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聖蹟記念館は都立桜ヶ丘公園内にあります。開館は午前10時から午後4時迄、多摩市所有の文化財となっていて誰でも入場無料です。昨日行って見ました所、明治維新の功労者、西郷隆盛、木戸孝允、勝海舟の書が展示されていましたので逐一見させて頂きましたが、西郷の書が、達筆ではあるとは思えませんが、内容といい屈託のない筆使いといい秀逸でした。書は人格を表すと言いますが、将にスケールの大きさが感じられます。一戦貪生非懼死(一度戦えば生を貪るも、死を懼るるに非ず)名分大義莫間然(名分と大義と、間然とするところ無し)幾回挫計寒奸膽(幾回か計を挫くも、奸胆を寒からしむ)成敗不論高節堅(成敗を論ぜず、高節堅し)武邨吉(たけむらのきち)戦があれば生きて克とうとするが、死を怖れてのことではありません戦う名分とか大義については、異議を唱えることはありません何度も計画は挫折しましたが、奸計を為す人達の肝を冷やせました戦いの勝敗は論ずることでありませんし、高い志は堅固なものですとでも解釈するのでしょうか、読んでいて私心が感じられず爽やかな気分となります。維新の立て役者でありながら、明治政府に参加せず鹿児島に帰ってしまう私心の無さ。度重なる懇請で参画して日本初の陸軍大将となり、征韓論を展開するも敗れて再度鹿児島に下野し、学校教育に専念。政府への不満分子に担がれて西南戦争を起こして敗れ割腹死しますが、国賊として糾弾。その後欽定憲法発布の特赦により、賊名が除かれ名誉回復。維新の時、恩恵を受けた旧庄内藩の人々は、私心の無い西郷から学んだ様々な教えを編集し「南洲翁遺訓」という書物を発刊したのです。含蓄の深い遺訓は今読んでもそのまま通用するものが多いと思われます。-人の上に立つものは常に己を慎んで品行を正しくし、贅沢を止め勤検節約に務めて職責に努力し、人々の模範にならなければならない。周りの者が働きぶりを見て、「気の毒だな」と思うようでないと、人は従っては来ない。(第4条)-事を行う場合、正道を踏んで至誠を推し進めこと。決して策謀や不正を用いてはならない。一時的には成功しても、その報いは必ず来て、全体が駄目になる。正しい道というのは一見遠回りに見えるが、成功の早道なのだ。(第7条)-文明開発は社会の為であるが、そこには「道」がなければならない。必要の根本を見極めなければ、開発の為の開発に追い廻される。外国の真似をし、贅沢な風潮を生じれば人心も軽薄に流れ、結局は日本が滅んでしまう。(第10条)
2004.04.22
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菊池寛も到底敵わないと舌を巻いた、芥川龍之介は短編の名手。理知的な配慮による名文が見事に成功しているのは、1927年に自殺する直前迄、書き貯められたこの小編かも知れません。社会の因習と、それに囚われた人々の愚かさを、一頭高い位置から、辛辣に且つ愉快に綴っているこの箴言集は芥川文学の代表作だと思っています。修身道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者は又道徳に愛撫されるだろう。道徳の損害を受けるものは常に強弱の中間者である。道徳は常に古着である。一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。我々の悲劇は年少のため、或いは訓練の足りないため、未だ良心を捉え得ぬ前に、破廉恥漢の非難を受けることである。我々の喜劇は年少のため、或いは訓練の足りないため、破廉恥漢の非難を受けた後に、やっと良心を捉えることである。良心とは厳粛なる趣味である。良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造ったことは無い。やはり、国家による押しつけの道徳教育訓練では良心は醸成出来ない様で、人間と人間とが心に通い合いでお互いに造り上げて行くものだと思います。天才の項も示唆に富んだ箴言になっていて、折に触れ読み直す価値があると思い再読しました。天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代は又この千里の一歩であることに盲目である。同時代はその為に天才を殺した。後代はその為に天才の前に香を焚いている。天才芥川は自分の限界と自殺しなければならなかった宿命を予感していたのでしょうか?
2004.03.16
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読書はインターネットと違い、時間を掛けて読みますので内容をしっかり把握出来る長所があります。楽天日記に書き込んだ書評はおよそ40点程、本日の一冊(Kijiさん)と言う「テーマ」に寄稿させて頂きました。 その中で現代の社会情勢を記載した新書版が圧倒的に多かった様で、やはり時代背景を反映してか、速読して社会情勢を批評すると言う安易な態度に私も毒されている様な気がします。残念ながら、良く知られている名著について、自分なりの解釈をするという日記はとりわけ少なかったと思います。書棚を見ますと「チボー家の人々」等、埃だらけで鎮座ましましているのですが・・新書版紹介を掲載順に並べますと次の通りとなります。中でも岩波新書が多いようです。ニューヨークの日本人-丸善ライブラリーアメリカ 黄昏の帝国-岩波新書イラクとアメリカ-岩波新書Globalization-岩波新書21世紀研究会編「イスラームの世界地図」-文春新書アフガニスタン(戦乱の現代史)-岩波新書写真版 東京大空襲の記録-新潮社多文化世界-岩波新書2020年からの警鐘-日経ビジネス人文庫メディア・コントロール-集英社新書新聞は生き残れるか-岩波新書ルポ解雇(この国で今起きていること)-岩波新書気になった文学作品に付いては、次の10点程となります。シュリーマン「現代のシナと日本」-講談社学術文庫カフカ「変身」手塚富雄「ドイツ文学案内」吉川英治「三国志」ボードレール「パリの憂鬱」和辻哲郎「古寺巡礼」イザヤ・ペンダサン「日本人とユダヤ人」「大学」宇野哲人訳注-講談社学術文庫徒然草の今風解釈ボードレール“信天翁”-上田敏訳「海潮音」聖書の常識-講談社文庫旅紀行としては少なく、次の三点です。加藤周一「ヨーロッパとは何か」饗庭孝男「幻想の都市」-講談社学術文庫辻邦生「美しい夏の行方」芸術関連に付いては、下記の通りです。フロマンタン「オランダ・ベルギー絵画旅行」-岩波文庫バッハの思い出-講談社学術文庫絵のある人生-岩波新書漆芸-日本が捨てた宝物-光文社新書東山魁夷「山雲涛声」-講談社学術文庫科学関連は僅か二点です。高木貞治「近世数学史談」森毅「魔術から数学へ」-講談社学術文庫その他のジャンルとして、次の四点があります。城山三郎「石坂泰三の世界」-文芸春秋社ゾルゲ獄中手記-岩波現代文庫本田宗一郎の育てられ方-講談社文庫九鬼周造随筆集-岩波文庫
2004.03.02
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景気回復が宣言されたとの政府発表があって、マスコミでも4半期ではありますが年率7%の経済成長があったと報道されましたが、世間一般には一向に回復感の無い状態が続いています。失業率は高いままで都会には失職したホームレスが溢れ、新卒者の就職も史上最低を更新しています。国民年金も官僚に将来展望も無く無駄使いされて、残高が減少の一途となり破綻状態となりました。この様にどんどん、希望を抱いて世の中を生きていくことが難しくなっています。この様な世情の中、倫理感覚も薄れてしまい、信頼すべき警察、病院、学校の不祥事が日常的となりました。警察内での公金横領があったと思えば、警察官が誘拐犯となる始末ですし、病院での手術ミス隠蔽は後を絶ちません。治安の乱れも酷く、空き巣に留まらず、強盗事件も多発、詐欺も「オレオレ詐欺」と巧妙化し、世間には不安だらけです。消費者金融の30%利息が法律上認められ現実には100%以上の利息が課せられていますし、本来ボランティアであるべき介護もビジネスチャンスと捉えて金儲けの機会にする等、拝金主義の横行も最悪の状態になっている様に思われます。弱いもの虐めも極まれりの状況ですが、糾弾すべきマスメディアのテレビ業界も広告料収入維持の為、視聴率アップを図るとして芸能人の巣窟になり果て、挙げ句の果てはアナウンサー迄芸能人気取りに汲々としています。何か地道な生き方を忘れてしまった日本はどうなっていくのでしょうか、50年を経て尚色あせない言葉がありましたので紹介致します。人生について-「1978年初版、2003年10版」(小林秀雄著)20編程の評論が収められていますが、冒頭の「私の人生観」の末尾に次の様に書いています。思想が混乱して、誰も彼も迷っていると言われます。そう言う時には、又、人間らしからぬ行為が合理的な実践力と見えたり、簡単すぎる観念が、信念を語る様に思われたりする。けれども、ジャーナリズムを過信しますまい。ジャーナリズムは、現実の文化に巧まれた一種の戯画である。思想のモデルを、決して外に求めまいと誓った人。平和と言う空漠な観念の為に働くのでは無く、働くことが平和なのであり、働く工夫から生きた平和の思想が生まれるのだと確信した人。そう言う風に働いて見て、自分の精通している道こそ最も困難な道だと悟った人。そう言う人は隠れてはいるが到る処にいるに違いない。これは戦後の混乱期で未だテレビ時代前の1949年での講演記録「私の人生観」で語られている小林秀雄の言葉ですが、そのまま現状への打開の言葉として聴ける感じがする様です。50年以上何の進歩もしていないと分かるのが驚きでもあり、空恐ろしくもあります。
2004.02.25
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近頃、書店の文学コーナーで九鬼周造の書籍紹介が多い様な気がしますが、自分の思いを反映させたもので、死後既に60年以上経っているのですから、全く気のせいかも知れません。灰色の抽象の世に住まんには、濃きに過ぎたる煩悩の色ふるさとの「粋」に似る香を春の夜の、ルネが姿に嗅ぐ心かなふるさとの新紫の節恋し、かの歌沢の師匠も恋し等と哲学者でありながら、詩や短歌を数多く残し、文人哲学者と呼ばれた九鬼周造(1888 - 1941)、哲学とは異質と思われる、日本独特の「粋(いき)の構造」の著者として良く知られていて、日本哲学界の巨人西田幾多郎氏や、九鬼氏の後輩三木清氏よりも文学的傾向が強く読みやすいとされています。気になって自宅にある筈の単行書籍を探して見ましたが、何処にも見当たりません。漸く、岩波文庫1冊が見つかりましたので、紹介致します。九鬼周造随筆集-岩波文庫敬愛していた岡倉天心の思い出と母への慕情とが幼い日の回想の内に美しく綴られた「岡倉覚三の思い出」「根岸」など、24編の随筆が収められています。その中の「書斎漫筆」に、周造なりの思いが書かれていました。ヒルティの「眠られぬ夜のために」も当時可成り愛読した。ニーチェの「ツァラトゥストラ」も深い感激を持って耽読したが、どうもぴったりと心に嵌らない所があった。その内に、全面的に共感出来るものなどは探してもありはしないと言うことに気づいて来た。そう言うものは自分で書くより他に仕方無いと言う様に思った。それならばそんなものが自分に書けるであろうか。それも到底難しいと言うことが今の自分には分かって来た。我々は自分の心を深く掘り下げて行かなければならない。又益々広い視界を獲得して行かなければならない。我々の心には深きへの憧憬と広きへの念願がある。その憧憬とその念願とが自分という人間にあって可成り高い度に達せられているのでなければ、たとい自分が真剣になって書くものにも、自分ながら満足は出来るものでは無い。近頃私はどうしてかよく随筆を頼まれるが、出来るだけ断る様にしている。私には自分である程度まで満足の出来る様な随筆を書くことはなかなか容易でなく、寧ろそのことは極めて困難であるからである。私自身を顧みて見ますと、徒然日記を公開していますが、書き放しのことが多くなり、その場限りの思いが強く突き詰めることも少ないので、反省させられます。此の1年半に書き貯めた日記で、書評も結構ありますので整理して見ようかなと思っています。
2004.02.21
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「山雲涛声」は奥飛騨路天生峠の霧「山雲」、能登西海岸輪島近くにうち寄せる波「涛声」を主題にした唐招提寺御影堂障壁画の画題で、完成は1975年6月です。先々週のテレビ東京で東山画伯「白い馬連作」の放映がありましたので、この「山雲涛声」を思い出し、その経緯を記しました東山画伯執筆の本を購入して来て読んでみました。平凡な風景を生命自体の輝きを宿すものと見たのは、実は戦争の為に絵を描くことはおろか、生きる望みを失ったその瞬間でありました。私は、その時の心が最も純粋であったと後に気が付いたのです。近頃平和呆けした日本では考えられない戦争の悲惨さを体験した画家の東山魁夷氏は唐招提寺の障壁画完成記念講演で述べています。企業社会が発展し経済第一に何の疑念も持たず、生きる哲学も無く、欲望の赴くままに他人を騙して迄も金に執着する拝金主義の現状に対する警告でもある様に思われます。日本の美を求めて-講談社学術文庫(東山魁夷 著)「山雲涛声」の画題は、この障壁画の着手の初めに、鑑真和上の伝記を読み、唐招提寺の性格を研究しました時、自然に浮かんで来たものです。人は意志する所に行為がある、と言われます。しかし、自己を無にする場合に初めて自分の外から発する真実の声が聞こえるのです。私はずっと以前から、自分は生きているのでは無く、生かされていると感じると言う考えの下に、今日まで自分の道を辿って来た様な気がします。私は宗教心が薄いものですから、私が何によって生かされ、何によって歩かされているかは分かりません。しかしそう感ずることによって、地上に存在する全てのものと自己が同じ運命に繋がる、同じ根を持つ同根の存在であると感じたのです。山の雲は雲自身の意志によって流れるのでは無く、又、波も波自身の意志によってその音を立てているので無い。それは宇宙の根本的なものの動きにより、生命の根源からの導きによっているのでは無いでしょうか?1976年12月発行の僅か100ページ程の小さな本ですが、職業著作家では無い率直な表現が新鮮に感じられました。掘り下げ方がもう少しあったらと思いますが、何故絵を描くのかが良く理解出来る珍しい書籍の一つかも知れません。
2004.02.02
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働く人の権利が益々狭められようとしている様で、労働基準法改正案に解雇ルールの新設が2004年通常国会での上程が予定されています。解雇ルールの条文(第18条の2)は「使用者は、この法律又は他の法律の規定によりその使用する労働者の解雇に関する権利が制限されている場合を除き、労働者を解雇することが出来る。但し、その解雇が、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」となっています。解雇ルールと共に、有期雇用(期限付き雇用)の拡大も含んでいて、通常の仕事では3年(現行1年)、高度に専門的な仕事では5年(現行3年)までの契約を可能にするものの様です。一見するとリストラの名目での不当解雇が制限され、近頃多くなっている派遣社員が保護される様に思われるのですが、返って使用者に自由に解雇権を行使出来ると言うアナウンス効果を招くとして糾弾するのが下記の書籍でした。ルポ解雇(この国で今起きていること)-岩波新書(島本 慈子著)「解雇に正当な理由が無ければならないと言うルールを作ったとすれば、有期雇用を無制限に拡大することは出来ない。解雇に理由が要る解雇制限法を持つ国は、原則として有期雇用を認めていない。解雇を規制しても、それなら有期でやりましょう、と言うことで普通の労働者も全て有期でなったら、これは歯止めが無くなってしまう」と矛盾を指摘しています。日本では、とりわけ労働裁判が少ない。年間の労働裁判の件数はドイツ60万件、イギリス10万件、フランス20万件に対して3000件と極端に少ない。日本では労働裁判所は無く、一般民事裁判として係争されるのですが、EUの国は、労働問題を専門に扱う裁判所(イギリスは雇用審判所、ドイツは労働裁判所、フランスは労働審判所)があり、彼我の差はあまりにも大きい。日本の労働者は「ほぼ無権利状態」と言っても過言では無い。その無権利状態を解消すべく、「労働審判制度(地裁で職業裁判官の他、労使双方の専門家が審理に加わり、3回程度の審理で結審、審判の決定に不服であれば、裁判で争う)」が提案されていますが厚生労働省の労働検討会では賛否が対立して、未だ明確になっていません。2004年の法案提出を目指し、ぎりぎりの攻防が続いています。ルポ解雇ですから、不当解雇の実態、職場での虐め差別が克明に報告されていますので驚く程の迫力があります。労働者側の観点だけからの報告ですから、全てを鵜呑みには出来ませんが、使用者に較べて極めて弱い立場にある労働者が一片の解雇通知で人生を狂わされてしまう姿は、読んで行く内に憤慨せざるを得ませんでした。此処10年以上続くリストラの実態が、一部ではありますが明らかにされていると思います。会社からの相当な虐めが予測されるこの書籍、著者の島本女史は2001年6月に会社を退職し、フリーとなった様です。しかしながら、正月早々気分が暗くなってしまいました。
2004.01.05
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昨夜はクリスマス・イブでしたので本棚から何という気は無く、「聖書の常識」を取り出し寝床にて読みました。旧約から新約まで幅広く解説されているのですが、イブと言うこともあり新約およびイエスの所を読んでみました。イエスの生年月日は西暦紀元1年12月25日では無いらしく、布教拡大を目的として、他宗教信仰の信者獲得の為に設定されていて、勢力争いは熾烈の様子でした。最も信用の置ける新約の福音書の記述から見ても6年程前だとのことです。この本は再読の筈なのですが、記憶から抜け出ていたようです。聖書の常識-講談社文庫(山本七平 著)イエスの誕生の年について、マタイ福音書には「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった時・・」と記述されています。ヘロデの統治期間は紀元前37年から前4年迄で、現在では紀元前6年というのが定説である。ルカ福音書には「この地方で羊飼い達が野宿をしながら羊の群の番をしていた」とイエス誕生の夜のことを記述しています。現在でもこの辺りは12月から2月までの3ヶ月、霜が下り雪が降る寒さで家畜を野に出す様なことはしない。紀元150年頃、アレクサンドリアのクレメンスはイエスの生誕は6月頃と推定しており、おそらく正しいであろう。イエスが、紀元1年の12月25日に生まれたと明記してある文書の最も古いものは紀元354年の文書である。それには「キリスト後の第1年、カエサルとパウルスの執政官任期中、主イエス・キリストが12月25日金曜日、新月の第15日に生まれた」と記されている。文書的にはクリスマスの確立はこの頃で、イエスの生年月日と無関係である。ローマ時代、キリスト教と覇権を争ったミトラス教では太陽神を祝う祭日が12月25日であり、古代ローマでは農業神を祝う祭典が12月17日から1週間続いたと言われている。この祭日をキリスト教化して「義の太陽」イエス・キリストの誕生を祝う日にしたのが、クリスマスの紀元と言われている。1991年に逝去された山本七平氏がイザヤ・ペンダサンのペンネームで「日本人とユダヤ人」を発表したのは今から30年以上前の1971年のことでした。「日本人とユダヤ人」の読書評についてはこちらをご覧下さい!
2003.12.25
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近頃、日常生活で汁椀に漆器の利用が見直されているようです。軽い木工製品に漆を施した椀は、軽くて持ちやすいだけなく温かな汁が冷えにくくて良いこと、又使用後の洗いも拭う程で綺麗に出来ることが便利と思われているようです。漆器は元来中国からもたらされた文化でしょうが、日本でも発達し蒔絵などの独自文化を極めて、その美しさから嘗て日本を漆の国「japan」と呼び、欧米式国名の由来となった程なのですが、職人と言われる人達の激減から一時は日常生活から姿を消してしまいました。先日、本屋でふと見つけた新書版を読んで見ました。漆芸-日本が捨てた宝物-光文社新書(更谷 富造著)漆は日常で使う食器等の「漆器」と、蒔絵等の華やかな「漆芸品」に区別されるが、僕が歩いて来た漆の世界は後者の方だ。18年の間ヨーロッパとアメリカで、海外に存在する漆芸品を修復しながら暮らし、欧米では今も立派に宝物として扱われることを知ったのだ。日本の伝統工芸である漆芸品が、何故大量に海外に存在しているかは、大きな出来事が三回あったことによります。最初は16世紀後半の安土桃山時代、渡来した宣教師が蒔絵を施した漆芸品に魅せられ、祭壇用具を漆で作らせ、且つヨーロッパに送ったことで人気を博し、沢山の漆芸品が輸出された。次は明治維新の頃、「文明開化」の波は伝統工芸を見放し、印籠・根付け等が見向きもされないまま日本から欧米へと流れた。最後は太平洋戦後の占領統治時代、アメリカ軍が二足三文で根こそぎ持って行ったのです。日本人はこれまで、失ったものの重さを知らずに来た。守るべき漆芸文化を捨てた為に、自信と創作意欲を失い、保守的になりすぎ将来の販売戦略を持たなくなった。「過去のもの」と思っていた漆芸文化を「宝物」と認識して欲しい。海外の「宝物」の修復に携わった漆芸家のサクセスストーリ自己開示なのですが、国際的な活躍で成功した人にありがちな自己弁護、他人批判、自国批判が気になって仕方がありません。しっかりと慎ましやかに日本で技術を磨いて、仕事に勤しんでいる人達は、それで十分国際的に通じる資格を有していると思うからです。-「人間国宝」は、芸術性や独創性に関係なく一つの技術に秀でているだけで、作品に魅力が無い。-「日展作家」は国際的に見れば井の中の蛙だ。彼等の作品には、残念ながら海外の美術館が欲しがるレベルのものは殆ど無い。又、暮らしている町に対しても文句たらたらなのです。-「美瑛町」は打っても響かない太鼓の様で、日本文化等どうでも良いのだろう。此処の人間にとっては都落ちの人間なのだ。現在50才代後半で、野心満々であることが伝わって来ます。自分の思い通りにならないことが不満でならず、成功して他人批判に終始する「成金成功者」の例に洩れないようで品格が問題の様に思いますが、どうでしょうか?
2003.12.22
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イラク侵攻を圧倒的な空軍力で制し、フセイン政権を倒した米英軍は軍事統治が破綻してゲリラ戦に持ち込まれ、毎日の様に死者が出て泥沼化して、ベトナム戦争と同じ様な状態になりつつあります。ベトナムでは南ベトナムを支援し北ベトナムのホーチミン政権を倒す為300万人を殺戮しましたが、アメリカ軍も6万人の死者を出して、政権打倒に失敗し遂に撤退となりました。今回はフセイン政権の圧政に苦しむ国民の解放を掲げて侵攻したのですが、占領統治政策が欠如して、石油利権を確保すれば、後はイラク国民が解放を歓迎して占領統治に協力する筈との安易に解釈したのが誤算でした。「民主主義の基盤が無かった日本でも、占領統治で民主国家が誕生した。イラクでも上手く行く筈だ。」と言うのがブッシュ大統領の口癖の様ですが、日本人が聞いても侮蔑されたと思いますしそこには大国の奢りしか感じられず、イラク国民にも敬意を払わぬ態度に反感を持たれるのは当然でしょう!米英軍統治から、国連主体のイラク国民に敬意を払い、意向を尊重した統治に転換することが解決の糸口の様に思います。空の帝王の“アホウドリ”を歌ったボードレ-ルの詩が上田敏訳の海潮音に次の様に載せられています。空の帝王も地上に降りると思う様には行かないのです!信天翁(おきのたゆう)波路遙けき徒然(つれづれ)の慰草(なぐさめぐさ)と船人(ふなびと)は、八重の潮路の海鳥の沖の太夫(たゆう)を生擒(いけど)りぬ、楫(かじ)の枕のよき友よ心閑(のど)けき飛鳥(ひちょう)かな、奥津(おきつ)潮騒すべりゆく舷(ふなばた)近くむれ集う。天飛ぶ鳥も、降りては、やつれ醜き瘠姿(やせすがた)、昨日の羽根のたかぶりも、今はた鈍(おぞ)に痛はしく、煙管(きせる)に嘴(はし)をつつかれて、心無しには嘲られ、しどろの足を摸(ま)ねされて、飛行(ひぎょう)の空に憧がるる。雲居の君のこのさまよ、世の歌人に似たらずや、暴風雨(あらし)を笑い、風凌ぎ猟男(さつお)の弓をあざみしも、地(つち)の下界にやらわれて、勢子(せこ)の叫に煩えば、太しき双の羽根さえも起居(たちい)妨ぐ足まとい。圧倒的な軍事力を誇るアメリカも、ハイテク兵器を駆使する総力戦には強いのですが極地ゲリラ戦となると他国と拮抗して仕舞います。ブッシュ大統領、米軍幹部から派遣され占領統治に参加するアメリカ軍兵士も戦争と占領の大義に疑問を持ち厭戦気分に苛まれていると思います。アメリカは面子に拘らず、一刻も早い国連への復興移行することで辞退収拾しなければ、この戦争は終わりません。小泉政権も無分別にアメリカ追従することは、国際的な大義がありませんし、長年中東で培った国益を台無しにしてしまいます。元々、それ程の哲学がある政治家ではありませんことは確かでしたが、今は自分の思い付くままに行動しているだけとなりました。
2003.11.25
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近頃の種々の情報がインターネット、テレビ等で氾濫していますが、私にはその場限りのどうでも良いようなニュースが大半の様な気がします。インターネットは能動的で自分で選択して見ることが出来るのですが、受動的なテレビ放送では何の意味もない芸能タレントの馬鹿ふざけ番組が多く、視聴者に笑いや雑学を提供はするのですが、真面目に「考えさせてくれる」番組は減ってしまい希有となって来ている様です。一昨日の日記に新聞とテレビの関連を書きましたので、気になって本屋に行って関連のありそうな2003年4月発刊の岩波新書を購入して読んでみました。著者は朝日新聞で政治部員、論説委員に長年携わっていた人ですが読み進む内に、信頼できる情報提供の雄としての位置を占めている新聞が購読者数を減らして存亡の危機を迎えていると知り驚いてしまいました。どの家庭でも配達される新聞を購読すると思ったのですが、若い世代を中心に新聞離れが進み、無読者層が増えていると言うことです。新聞は生き残れるか-岩波新書(中馬清福 著)新聞普及率というのがある。日刊紙を月決めで購読している世帯が総世帯の内にどの位あるか、その比率のことだ。1984年この普及率は97%だった。日本が世界に冠たる新聞王国であったことは良く知られていたが、それにしても大変な数字である。ところが、中央調査社のマスメディア・リサーチ(MMR)によると、1991年まで何とか97%で推移していた普及率は、1992年から低下し始め1999年には94.6%になった。特に若者がひどく、例えば世帯主が24才以下の世帯の普及率は、1984年90.4%あったものが1999年には53.4%迄急落した。15年間で37ポイントの下落だが、内33ポイントは最新10年間で落ちているから、新聞離れに加速がついている。世帯主が25才から29才の世帯も、普及率は毎年低下し1999年には25%が新聞をとっていない。このまま進めば2004年には、30~34才世帯が75%、35~39才世帯が87%に落ちると推測される。30才迄の関心事項の順位は、事件、音楽、流行、おしゃれ・ファッション、スポーツ、旅行・レジャー、環境、飲食店、芸能・タレント、就職・アルバイト、と続き、経済は12位、政治は16位だ。1位の事件を除き、日本の一般紙が積極的で無かったテーマである。新聞が若者に敬遠される筈だ。こうした若者の反乱に大いに悩まざるを得ない。あとがきで次の様に結んでいます。インターネット系にしろ、テレビ番組にしろ、確かに情報は乱舞していますが、知的な情報となると、専門的分野は兎も角、一般的には満足出来る段階とは言えません。印刷媒体か電子媒体か、それはどちらでも良い。人々に「考えさせる喜び」を与える媒体づくりを急がないと、この国の知的状況は厄介なことになるのではないでしょうか。どうも記者・編集者を経験している割に文章に迫力が無く魅力に欠けている様に思われ読みにくいのです。即刻読ませる新聞記事とじっくり読ませる書籍文では、文章表現が違うのでしょうか?結局は読者ニーズに合わせた紙面作りを提唱している様ですが、それにしても全てのニーズに応えられる筈も無く、混迷に困り果てている現状に愚痴を述べている本なのかと消化不良を感じる読後感が残りました。こんなことを日記に書く私自身もトレンディーな流行に乗り遅れている愚痴を言っているだけかも知れないと自戒に念も出て来て仕方ありません。
2003.11.14
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めっきりと寒くなり秋が深くなりましたので、自宅近くの桜並木、ケヤキ並木、花水木並木、プラタナス並木等は落葉の季節で、殆ど裸木同然となり、その下の道には枯葉が散乱しています。落ち葉を踏みながら歩きますとかさかさと音を立てて心地よい散歩をすることが出来ますが、ある種の葉には油分が残っていますので滑りやすく、走ったりすると転ぶ危険もありますので注意も必要です。日記テーマは言うまでも無く、上田敏が明治38年(1905年)に「海潮音」で紹介したフランス象徴派の詩人ポール・ヴェルレーヌの“秋の歌”の訳詩の題です。詩人ポール・ヴェルレーヌは、その音楽性に富んだ作品で知られているが、この訳詩は日本語の詩がオリジナルと言っても良い程に推敲されている。「落葉(らくよう)」 上田敏訳詩秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し。鐘のおとに胸ふたぎ色かへて涙ぐむ過ぎし日のおもいでや。げにわれはうらぶれてここかしこさだめなくとび散らふ落葉かな。訳者注として、「仏蘭西の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコン・ドゥ・リイルに彫塑の形を具へ、ヴェルレーヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。」と記載する。"Chanson d’automne" Paul Verlaine (1844 - 1896)Les sanglots longs, des violons de l’automneblessent mon couer, d’une langueur monotoneTout suffocant, bleme quand sonne l’heurJe me souvien, les jours ancientet je pleureJe m’en vais, au vents mauvais qu’importe de ca de la, pareille a la feuilles mortes原文のフランス語が無く記憶を頼りに書きましたので、原文は正確ではありません!! しかし、韻のふみ方は見事です。今日は冷たい雨の天気、もの悲しさが募りますが、こんな時は韻を美しく踏むヴェルレーヌの詩はぴったりです。そこでもう一つ。巷に雨の降る如く、我が心に涙降るIl pleut dans mon coeur comm’il pleure sur la ville
2003.11.11
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JALの雑誌「Agora」11月号の連載記事「われら地球人(Cosmopolitans)」にメキシコシティ郊外ティオティワカンの近くにある国際トウモロコシ・小麦改良センタ所長である岩永勝氏52才の活躍ぶりが紹介されていました。「昨年7月、公募によって第6代所長に就任しました。アジア人として初の所長であり、国際的な農業研究機関の中でも初めてです。」研究者出身の岩永だが、国際研究機関の長として求められるのは、研究実績では無く、強い指導力と経営手腕である。英語が公用語の国際研究機関では欧米人が中心で、他地域の人間がトップとなる例は少ない。岩永はこれまで、ペルー、コロンビア、イタリア、ナイジェリアの研究センタで家族を伴って、渡り歩いて来た。「発展途上国では農業が上手く行かないと、貧しさから反政府的な動きが出てきて、社会は平和にならない。食糧問題の解決は人々を飢えから救い、世界平和に繋がるのです。」国際トウモロコシ・小麦改良センタは世界でもトップレベルで、嘗て小麦の収穫量が三倍になる新種を発表し、南アジア・中南米の食糧危機を解決したことで「緑の革命」と呼ばれ、開発者ボーラグ博士は1970年ノーベル平和賞を受賞しています。彼は「奇跡の小麦は元々日本にあった品種を改良したものです。日本には狭い耕地で効率よく作物を育てる研究と経験があります。だから、日本の農業は食糧問題を抱える国々への大きなヒントとなります。岩永が所長として多くの難しい問題を解決する指導力に期待しています。」と語っています。「技術や研究に優れ、世界的に評価を受ける日本人は大勢います。しかし、国際組織のトップとして指導力を発揮できる人は未だ未だ少ない。これが今、日本人に最も欠けているもので、組織のリーダになれる人材が多くなって貰いたい。」と述懐しつつ、次のように普段の努力を怠らない。「私の様に、大学院時代から英語を使って生活、研究してきた場合でも、英語を母国語とする人に較べて、仕事効率が20~30%劣ります。それを補い、更に人の上に立つには、彼等より50%は多く努力しなければならない。これは国際分野で生きる日本人に、不可欠なことではないでしょうか?」岩永勝氏は1951年長崎の炭鉱町に生まれ、炭鉱閉山を目の当たりにし農業しか再生の道は無いと思い、大阪府立大、京都大大学院に進み、アメリカ・ウィスコンシン大で植物遺伝学の博士号を取得、ペルー、コロンビアで研究員として務め、2000年農水省国際農林水産研究センタにて勤務、2002年に国際トウモロコシ・小麦改良センタの所長に就任した経歴の人です。因みに、国際トウモロコシ・小麦改良センタ(CIMMYT:シミット)は1966年創設された、独立した国際研究機関。その使命は、痩せた土地や乾燥に強い穀物を作り上げ、発展途上国の食糧問題の解決に寄与することにあります。主な出資機関は、アメリカ政府、世界銀行、日本政府などが主な出資している世界最大の農業研究機関です。この前の文化の日に文化勲章を授与された緒方貞子女史を含めて、多くの方々が国際組織のリーダとして活躍しています。何れの方達も立派な方々だと思うのですが、日本国からの多大な国連分担金、海外援助(ODA)での巨額な資金提供がその発端となっているような気がします。そうは言っても、1970年までは海外に行くことも自由で無かった時代でしたし、実践的な英語教育もなかったので個人としての制約があっても仕方がありません。 しかし今後は、NGO、NPOを通じて日本国内的な組織だけでなく、他国のネットに乗っても国際的に連帯し飛躍できる人材が望まれているだと思いますが、今時点では飛躍し過ぎでしょうか。
2003.11.05
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マサチューセッツ工科大学教授のノーム・チョムスキーは1928年生まれで、ベトナム戦争以来米国の対外政策を厳しく批判し、マスコミを徹底的に嫌う孤高の人です。彼の部屋には1960年代反核・反戦運動の旗手として主体的な役割を示し、アインシュタイン、湯川秀樹等を賛同させ運動に引き込んだイギリスのバートランド・ラッセル卿の写真が飾られているようですが、ラッセル卿はアメリカのマスコミに徹底的に嫌われていた人物で、チョムスキー氏の反骨精神は凄まじい様です。元々言語学学究の徒で世界的な碩学らしいのですが、米国現代歴史への幻想を破り、知識人・マスコミに仮借無い批判を続けています。初版は1991年、改訂を1997年、2002年にしたこの書籍はそれ程の大作ではありません。未だ読み掛けで読了していませんが、凄まじい書き方に驚きました。メディア・コントロール-集英社新書(2003年4月発行)民主主義の一つの概念は「自分達の問題を自分達で考え、その決定に影響を及ぼせる手段を持ち、情報へのアクセスが開かれて環境にある社会」である。そしてもう一つの概念は「一般の人々を問題に関わらせず、情報アクセスは一部の特別な人達の間だけに厳重に管理する社会」である。実のところ、優勢なのは後者の方だと理解しておくべきだろう。テレビはメッセージを繰り返す。人生の唯一の価値は、もっと物を所有し、裕福な中流家庭の様な生活をして、社会調和やアメリカニズムの様な価値観を持てることだ。人生にはそれしか無い。メディアは企業の占有物であり、何れも同じような見解を持っている。二大政党と言っても財界という党の二つの派閥に過ぎないのである。国民の大半は投票に足を運ばない。わざわざ行くほどの意味があるとも思えないからだ。彼等は社会の動きから取り残され、上手いこと関心を反らされている。少なくとも、それが支配者の狙いなのだ。アメリカも捨てた物でありません、こんな論調が生きているのですからネオコンからの脱却が遠からず出来る様な気がします。一方、劇場民主主義と言われている日本の現状を見ると、メディアの影響力・役割の大きさは未だ論議の対象になっていないのは残念です。地道に真実を掘り起こすよりは話題性のあるニュースを提供し続けるマスコミ、大衆に迎合しつつ芸能人・タレントの職業救済番組しか編成しないテレビ局、を考えると彼の指摘したことが正鵠だと思えます。自分達の住む社会が「真実何であるのか」を問い直す必要がありそうです。
2003.10.13
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絵画の本と言いますと、描き方入門書であったり、名画解説書であったり、なかなか気軽に読める本は少ないのです。ムードのある淡い色彩の水彩画で知られている安野光雅氏の新刊が9月に発売となりました。口語体で書かれ、平易な文章の随想文の様ですので何の苦もなくすらすらと読めますので2時間程で読了となりました。「私は子供の頃から絵を見るのが好きでした。絵でさえあれば、何でも良かったのです。今の様な絵本は無く、駄菓子屋で売っている絵草紙のようなものしかありませんでした。」という書き出しから始まり、良い絵がどの様に生まれ、画家達はどう生きたのか、プロとアマの違い、油絵と水彩画、写実と抽象、そして美術的価値と価格などにも触れつつ絵の豊かな世界へと案内してくれます。又自らのスケッチ体験を元に、これから絵を描いて見ようとする人への具体的手ほどきもして呉れています。章別には次の様になっています。1. 絵を見る2. 絵を描く3. 絵に生きる4. 絵を素直に5. 抽象画を見る眼6. 絵を始める人に7. 絵のある人生最後に「私は軽々に“絵描きになれ”と人に勧めることは出来ません。でも、それで生活しようと思わないですむなら、大賛成です。絵を描くことは人生を充実させるのですから・・。今頃になって“絵と一緒に生きていて良かったな”と思っています。」と締めくくっています。あまりに平易に読めましたので、何故かと思いつつ「あとがき」を読みますと、どうも口述筆記を基にして本が出来た様に述懐しています。「初め、口述をとられました。正直に言えば、老練な刑事に囲まれ、タバコを勧めたり、子供や女のことを聞いて見たりして後、“全部吐いたら楽になるよ”と言う、良くある手口に乗って、其処まで言わなくとも良かったか、と思う自白調書を取られたようなものです。思うにこの刑事の1人は珍しく絵を深く愛する人でした。“自白は恥多きもの”なのに、それを軽減して頂き、無罪放免に漕ぎ着けられたのは、この人達のお陰です。」話し言葉は散漫になりがちですが、考えることが少なく、理解出来ると言う利点があります。この本もそうした書籍の一つかも知れません。安野光雅氏は工業高校卒業で徳山市で小学校教員、師範学校卒業後東京三鷹市で小学校教員、それから画家に転身した人なので、所謂オーソドックスな美大卒業の画家には無いアマチュア画家に通じる庶民性が感じられました。
2003.09.27
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低迷を続けてきた東京株式市場も日経ダウが一万円の大台を回復し、少し明るい兆しが見え始めました。日本再生、構造改革を叫んで登場した小泉政権発足時は1万5千円あったのですから、株式持ち合いのもたれ合い方式による日本企業業績が低迷し不良債権が増えるのも当然のことでした。これで企業に開発意欲が戻り、設備投資が増えれば回復基調に入ると期待しています。しかし、株価回復の原動力は海外投資家の日本株割安感による買い付けのようで安定的な回復ではありません。中高年のリストラ、若年層の就職難は相も変わらずの状態で、「働きたくとも働けない」という状況が続いていますので、不安定な状態からの脱却は果たしていません。何とか労働力市場を改善する日本企業の再生が望まれるのですが、従来方式によらない活性化を図る必要があります。それには事例研究ではありませんが、将来のあるべき姿に向かって、現在どの様な行動を取るべきか決定することに肝要だと思われます。先週、本屋で偶然購入した書籍には、全面的に賛成する訳ではありませんし、日経新聞も問題の根幹を捉えていないのではと危惧しますが、多少のヒントがあるようですので紹介することに致します。2020年からの警鐘-日経ビジネス人文庫資本が国境を易々と越え、「工場」に代わって「知識」が経済の主役となり、富を生む地球規模の経済競争は、市場の変化も激しく、勝者と敗者の交代も速い。多くの日本企業は、2003年初頭になっても新しい資本主義の流れに乗り切れず、焦燥感を強めている。グローバルな知識社会の到来に気付いているが、工業化時代の成功体験を捨て去ることが出来ず、先送りしている。経済活動から国境という壁が消えれば、競合する大手企業同士は市場での棲み分けが出来なくなる。限られた「世界大手」の座を巡る椅子取りゲームが始まった。合併には企業文化の違いによる軋轢など、大きなリスクが伴う。かといって傍観していれば、椅子は他社に取られてしまう。日本企業も当然「国内大手」に安住は出来ず、合併や企業統合が活発になって来たが、世界市場から見れば小規模のものが多く、生き残りへの道筋は鮮明には描かれていない。知識社会の到来も、物作りの覇者であった日本企業を窮地に追い込んでいる。米国企業は家電製品等の市場で日本に駆逐されたが、情報技術(IT)やバイオテクノロジー等の先端分野で先頭に立った。日本企業はソフト化で米企業に追いつけず、物作りの分野では韓国、「世界の工場」にのし上がった中国、東南アジア諸国に追い上げられて抜き去られ様としている。日本企業の生き残る道は、製品・サービスの付加価値や独自性を高め、他社の追随を許さないことにある。消費者は価格だけで商品を選んでいる訳では無い。独自技術で新しい製品を生みだし、特許で防衛する。企業は知識社会で競争して行く基本は、工学と経営学を融合した技術経営(MOT)を有効にして、足下に眠る宝の山を発掘することが、飛躍への出発点となる。 しかし、日本の主役を占めていた労働集約産業での大量の労働力を全て吸収出来るのでしょうか?選抜される労働力の階層化が進み、貧富の差が広がる様な気がしてなりません。労働吸収力容量の大きい、環境ビジネス等の地球規模で対応出来る大きな業界の創成が必要な気がします。公害先進国と言われた日本は、公害対策・環境対策ビジネスは先頭を走る責任もあると思っています。
2003.09.01
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近年、サミット会議でも、世界貿易機構(WTO)会議でもグローバル化反対のデモが過激になって来て、厳重な警戒体制の下で開催せざるを得なくなってきました。欧米の世界支配に反対すると言うのが、デモの趣旨になっている様ですが、デモの主催者は欧米の人達なのです。グローバル化の実験を自国内で実施しますので、その強者論理システム(弱肉強食)の問題点がよく分かるのだと思います。強国に住む市民と言っても、マジョリティはシステムによって動かされる被害者なのですから。現在世界に流布しているグローバル化の問題点について下記の書籍で次の様に解説しています。普通、新書版ですと3時間程で読了してしまうのですが、この本は力作なのか、1週間経っても読み切っておりません!多文化世界-岩波新書(青木 保著)色々な歴史の曲折がありますが、殆どの非西欧世界は、ヨーロッパの直接の植民地になるか否かは別にしても、西欧化の影響を非常に強く受けました。日本に端的に見られる様に、多かれ少なかれ自分たちの国の発展のモデルとして「西欧化」を捉え、そのモデルを目指して自分たちの世界を構築する、或いは社会を展開すると言う形で国や社会を創り出そうとしました。1990年代から一般的によく言われる様になったグローバル化の動きは、非西欧社会にとっては、こうした変化の延長上に捉えるべきでしょう。ある意味ではグローバル化は、欧・米的な価値や尺度で世界を見つめよう、経済であろうが、政治・技術・文化、何であろうが、欧・米的な価値基準で統一しようとする動きです。それを欧・米の強力な国や産業が世界に押しつけると言う側面もありますが、同時に世界の他の国や社会は、それを受容することによって逆に積極的にそのシステムを利用し、自分たちの発展を図っているのです。世界を同じシステムにしようとするグローバル化の流れの中で明らかになって来たことは、「文化の多様性」の認識でした。グローバル化による一元化・画一化によって生ずる、人間と社会の個性の喪失、創造性の抑圧、個人の埋没を防がなくてはなりません。政治的・経済的・宗教的な全体主義が世界を覆い、私達の生きる社会を乾燥した無機質なものにしてしまうことがあってはならないと考えます。1960年代にも、近代人の疎外が叫ばれ「マルクス主義か実存主義か」等の論争があり、その時代には没主体性を懸念した実存主義が破れたのですが、マルクス主義の崩壊と共に、実存主義が復権しつつあるのでしょうか。個人が社会が特性を発揮し、生き生きと存在を謳歌するには、やはり「文化の多様性」を尊重する必要があるようです。
2003.07.23
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書店を覗き歩きしていましたら、文庫本コーナーで偶然に見つけました。初版は1987年で、2002年に6刷発行の本でした。編者であり著者である早乙女勝元氏は岩波新書版「東京大空襲」のベストセラーを出したことで知られていますし、ご存じの方も多いと思います。唯、この本では記載文よりも掲載された写真が圧倒的に事実を知らせていると思いますので、その写真家のことを「あとがき解説」で松浦総三氏が紹介して興味深いので転載いたします。石川光陽氏は警視庁のカメラマンで上司の命令で東京空襲や戦災の写真を撮った人である。戦中は報道管制は厳重を極め、戦災地をカメラを持って歩いただけで逮捕された。そんな中で職務で撮った石川さんの写真は極めて貴重であった。この写真は、戦後占領軍の知る所となりGHQは提出命令を出した。石川さんはこの命令を拒否した剛直の士である。この写真の迫力は、第二次世界大戦の中でも類を見ないものである。これらの写真が、戦争の悲惨さを、戦争を知らない世代に知らせる大きな武器となり、空襲・戦災記録運動に大変役立ったことは言うまでもない。東京大空襲は、大型爆撃機による無差別の都市爆撃であり、皆殺し作戦である。その1回目はナチスによるゲルニカ爆撃であり、その後日本軍による重慶爆撃、連合軍によるハンブルク爆撃、米軍による東京空襲、広島・長崎原爆投下と続きました。大戦後になっても、朝鮮戦争ナパーム弾攻撃、ベトナム戦争枯れ葉作戦とエスカレートして行くばかりです。私は、原爆投下、東京空襲の様なことが2度と起こってはならないと思い、その為には皇軍に虐殺された南京市民と、連帯の手を握りたいと考えている。(1987年6月)一昨年の同時多発テロ事件に続く、アフガン戦争、今回のイラク戦争でも劣化ウラン弾、バンカーバスター、デイジーカッター等の殺戮兵器などが使用されました。それでもアフガンでもイラクでも終息しているとも思われず、ゲリラ攻撃が活発化している状況の様で、第二のベトナム化が心配されます。米政府の報道管制が徹底しているのか今の所被害状況が明らかになっていませんが、ベトナム戦争の悲惨さが戦後暫く経って明らかになったと同様に、後遺症も含めて将来公開されることがあるだろうと思っています。この本から数点スキャンしてアップしようと思いましたが、あまりに悲惨なので止めることにしました。
2003.07.09
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7月2日の各新聞で「無限」社長本田博俊と監査役広川則男の2名が10億円脱税容疑での逮捕されたこと報じています。本田博俊氏はカリスマ社長本田宗一郎氏の長男で日本からの世界自動車レース参戦に貢献したことで知られている様です。本田宗一郎は最初技術馬鹿に近い形で会社を創業しますが、その後盟友藤沢武夫を経営陣に得て、世界に冠たる会社に育て上げたのですが、両氏とも子供をホンダに入社させる事をしないと言う方針で一致していたことはよく知られていました。結局は本田博俊氏はホンダとの関係が深い形でビジネスを進めて来ましたので、“親の心子知らず”と気になって上記の本をパラパラとめくって見ました。本田宗一郎の育てられ方-講談社文庫(上之郷利昭氏著):1992年あとがきで、著者は次の様に記載しています。創業社長の場合、息子や孫に後を託したいと思うのは人情である。そう言う例は読者も良くご存じであろう。ところが、本田宗一郎はそうした未練を断ち切って、血の繋がった人達に譲ること無く、恬淡として身を引き、「辞めた以上は経営には一切口を出さない」と言う姿勢を守り続けた。宗一郎は長男の博俊に「お前は何になるのか」等と一度も聞いたことは無かったと言われている。博俊が日大理工学部から芸術学部へと自分の道を模索している時、「早く自分の道を決めて掴まえろ!」と、アドバイスを与えたと言うが、ホンダに入れとは言わなかった。博俊も、困っている時、父親に向かって、「ホンダに入れてくれ」とは言っていない。自分の作った企業を他人の手に渡す-立派なことだと他人は喝采を送る。しかし、いざ自分のこととなると、そう簡単に他人の手に委ねることが出来るか否か、自分の胸に手を当てて考えて見るといい。そう考えると本田宗一郎という人物の偉大さが、改めて分かって来るのではあるまいか。それは宗一郎の父親の生き方、又育てられ方による所が大きい、「宗一郎語録」によると「ウチの親父の偉さが分かったのは、親父が死んだ時でした。親父は人に迷惑を掛けると言うことを最大の恥辱であると思っていたからね。だから、私にとってそれがものすごい親父の遺産で、素晴らしさが分かった。金を持っていたからって、しょうがないじゃないの」と述懐しています。本田宗一郎氏は自分の生き方を全うし、長男博俊氏の育て方にも方針を貫いた様ですし、博俊氏もそれに対応して自分の生き方を見つけだしたのだろうと思います。しかし、宗一郎氏が活躍出来たのは盟友藤沢氏の女房役として陰の努力があってこそ実現出来たと言うことを自分の息子に遺産として残すのを失念したのでは懸念しています。結局は宗一郎氏の意を曲解し博俊氏に便宜を図るホンダ経営陣、盟友を作らず会社経営をして来た博俊氏の不運が今回の事件を生んだのでは無いかと推断します。結局二代目と言うのは色眼鏡で見られますので、自分の生き方が自分で決められない境遇になるのでは無いかと思わざるを得ません。
2003.07.04
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あとがきは6月14日ロードショーの映画「スパイ・ゾルゲ」の篠田正浩監督が次の様に書いています。敗戦後、「アカ」と畏怖した共産主義が軍国主義と戦った正義の思想として復権し、尾崎秀美はその犠牲者としてヒーローとなった。昭和天皇は既に人間宣言の詔書を発表し、私は戦前の昭和をどの様に再認識して良いかと言う深刻な命題に向き合うこととなった。ゾルゲ事件の資料や研究書も出版され、私は貪る様に読み耽った。ゾルゲはドイツ人の父とロシア人の母という重層する民族環境がスケールの大きな人間性を育んできたと考えられ、単一民族と信じている日本人の単純思考の陥穽を打破するには、この獄中手記、ゾルゲ事件の尋問調書、尾崎秀美の上申書の検討が欠かせないと思った。ゾルゲは「第一次世界大戦が彼の全生涯に深刻な影響を与えた。1千万人の死者と2億人の負傷者を出した惨状から民衆を救済出来るのはレーニンが作ったソビエトだけが希望だと信じた人達がモスクワを目指したのだ。」と言っています。しかし、彼等の信じた理想の国ソビエトが半世紀の時を経て自らの思想で崩壊するとは考えられなかった。モスクワではスターリンの大粛正が始まり、彼の理想郷も変質していたので、レーニン派だったゾルゲがモスクワに生還したとしても処刑は免れ無かったに違いない。ゾルゲは獄中手記の初めの方で次の様にスパイとして注意事項を記述しています。「スパイ」は、合法的な仕事を持つことは、絶対に必要である。日本および支那においては、大きな商人になるのが一番良い方法であると思う。その理由は、情報活動をする様な利口な人間は、最初から商人になる様なことが無い。それで大体、商人はあまり利口では無く、主として馬鹿な人間が多いから、官憲から注目されたり「スパイ」たることが発覚することが困難である。又商人はその商売を通じて種々な情報を入手し得、大商人であれば各階級の人とも自由に交際出来るからである。本当の利口な「スパイ」は、軍や政治上の秘密や機密書類を手に入れると言うことのみに努めるものでなく、広い意味での各種の情報ならびに断片的な情報でも拾い集めて、それを自分で判断するのである。ゾルゲのハンブルク大学での政治学博士号を保持する学究の徒である自負が商人を卑下する形で出ていると感じました。彼は「源氏物語」「万葉集」「平家物語」は言うに及ばず「日本書紀」等1000冊の蔵書を所有して日本研究に没頭したのです。結果ラフカディオ・ハーン同様の洞察力を持っていたようです。又一方、近頃問題になっている北朝鮮の工作員活動も、政治亡命した“よど号グループ”の協力を得ながら、その様なマニュアルに従って日本で行われているかと思うと震撼を感じざるを得ませんでした。全体の読後感は後日また書きたいと思っています。
2003.06.15
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ピアノ演奏家アシュケナージが有名なので、アシュケナージというのはユダヤ系の単なる個人名だと思っていました。古代パレスチナの地を追われたユダヤ民族は放浪の末、ドイツのライン河流域に定着した東方ユダヤ人と、スペインに定着した西方ユダヤ人と大きく二つのグループに分かれました。東方ユダヤ人グループを通称アシュケナージと呼ぶのだそうで、ユダヤ・エリートとして世界各地で活躍しているようです。ユダヤ・エリート(アシュケーナージ)-中公新書(鈴木輝二著)今日、世界の経済界や法曹界、自然科学や社会科学の分野の有力な学者などには、ユダヤ系出身者が多い。彼等の活躍は、ノーベル賞の受賞等を通じても一般的に知られている。近年、キリスト教への改宗者や無宗教のユダヤ系市民も増えたが、欧米の社会では、金融や法曹、医者、学者などの職業はユダヤ系市民の天職とさえ思われているところがある。中世以来、欧州の様々な国の文化に同化することを余儀なくされ、個人の能力を頼りに生きてきたユダヤ人の姿は、日本人の生活感覚の対局であろうし、外国を固定した国家イメージで眺めがちな日本人には、視角に入って来ない局面である。彼等は、現代イスラエルは19世紀型の民族主義国家とは異なる国家であって欲しいと願っています。イスラエルとアメリカのユダヤ的理性が、どうして半世紀に亘り、暴力的紛争を認め続け、差別に耐え生き抜いてきたユダヤ民族の歴史が活かされていないのである。これはイスラエルという国家を持った現代ユダヤ人社会と社会を構成するイスラエル人の意識の変化がもたらした結果であろう。建国で愛国主義が芽生え、人工国家イスラエルを死守すると言う、従来のユダヤ的教養とはかけ離れた保守主義や、力で対抗する思想が生まれたのでは無いか。アシュケナージの活躍を中世から、近代・現代ヨーロッパに至るまで、哲学、文学、自然科学、社会科学での広く深く貢献していることを紹介しております。彼等の存在無しには現代は成立していないのではと言う思いを深くします。又、迫害を逃れてアメリカも、彼等にとっては常にバラ色の世界であった訳では無かったようですが、アメリカ社会には、社会変革の担い手たる人材を必要とするダイナミズムがあったようです。その中で、アメリカ経済を牽引するFRB議長の話がありましたので紹介したいと思います。バーンズはハプスブルク帝国のガリツィア生まれのアシュケナージで、1934年コロンビア大学で経済学博士号を得、1957年教授となっている。アイゼンハワー、ニクソン、フォード、カーターなど歴代大統領の経済顧問を務め、1970年から1978年まで連邦準備制度理事会(FRB)議長として米国経済とドルの守護神となった。彼の指導を受けたのが現FRB議長であるグリーンスパン。彼はジュリアード音楽院を卒業し、クラリネットとサックスのプロを目指した音楽家でした。一転して経済学を学び、コロンビア大学でバーンズの指導を受ける。FRB議長には1987年に就任し、将に師であるバーンズの後継者となる。アメリカ経済がバブルで興奮する最中でも、手綱を引き締める冷静さを持っていた。それでも、解決の糸口の見えないパレスチナ問題に、分析だけでなく解決に向けてもう少し切り込んで呉れたらと思いながら本を閉じました。多少残念ではありました。
2003.06.12
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現代の貴族である官僚は昇格・昇進に執着し、国民不在の行動しか取っていない様に思えます。キャリア官僚というエリート意識が強く、それ以外はものの数では無いのです。従って省益あって国益は眼中に無い様なのです。平家物語の時代からそれは変わらないようです。巻第一に次の様な神社のお告げの和歌がありました。さくら花賀茂の河風うらむなよ、散るをば得こそ、とどめざりけれ(桜花よ、賀茂の河風を恨んでくれるな、花の散るのを止めることは出来ないのだ)藤大納言成親(なりちか)が、執念的に左大将の後任を望み、平家の為に叶えられないことを読んだ歌です。貴族達は官職の昇格・昇進について異常なまでに執着し、これが叶えられない時は、怨恨に転化してしまうのです。彼等にとっては御所のみが世の中で、貴族というエリートなので、武家・庶民等は眼中にありません。平家の横暴を恨んだ成親は鹿ヶ谷の陰謀事件の首謀者となり反平家の急先鋒となりました。現代の官僚もエリート貴族だと思っていることは間違いありません。北朝鮮正常化交渉で暗躍した外務省某アジア太平洋局長(現審議官)等はその典型でしょう。拉致問題を棚上げにして正常化交渉を進めて功績を挙げ、将来昇格の礎と目論みました。安倍官房副長官の反対もあって、リストアップされた拉致被害者の現状だけが明らかになりました。その後、生存5人の帰国の際も直ぐ戻すという了解を彼がしましたので、帰国させないとの国策が採られると「了解違反」との北朝鮮との反発を受け正常化交渉は頓挫してしまいました。審議官になっても、朝日新聞に掲載された田原氏との対談を読むと、過去の行動について反省する所はありません。反省は減点となり昇格には邪魔なのです。当初決めた政策・方針を変更しても、その時々に対応した最善策を採るという政策は採れません。何故ならば、反省という減点評価を伴うフィードバック機能は働き様が無いのです。国土交通省のダム計画、高速道路計画も一端決定してしまうと、情勢の変化があっても一瀉千里、当初計画を押し通そうとするのは、こんな官僚機構を長年維持して来たからだろうと思います。硬直化した官僚機構は政権交代時に局長程度まで変えさせる大臣の権限を持たせて政権意向を実行させる必要があります。地方行政では、石原都政が知事意向を議会・都庁内に浸透させ矢継ぎ早に新政策を推進しています。彼の常なる高圧的態度は問題ですが・・神奈川県の松沢県政も中田横浜市政と相俟って、従来の公務員機構を変えつつ県民のその時々の要望を取り入れる政策を推進して欲しいと思います。東京・神奈川が変化すれば、日本全体が変わります。官僚も視点を国民に移す機会も多くなると確信します。
2003.05.29
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日本人とユダヤ人は勤勉さと特異性から似ていると言われていました。1980年サンフランシスコの市内観光を家族でしている時にユダヤ人の叔母さんに話しかけられ、日本人とユダヤ人は優秀なのだから頑張りなさいと言われたことを奇妙に覚えています。山本七平氏がイザヤ・ペンダサンのペンネームで発表したのは今から30年以上前の1971年のことでした。家の中に見あたりませんので古本屋で入っている全集ものを購入し再読して見ました。その頃のベストセラーを読む時流感は無く冷静に読みましたが、現今日本の少年犯罪の多発、治安の悪さ・危険性等は予測していませんので30年の隔たりは大きいものと感じざるを得ませんでした。しかしながら、西欧諸国に混じってのサミット会議参加しての日本の存在感の薄さを考えると未だ真実を鋭く抉っていると思われる所も多かったのです。今度のエビアン・サミットでの小泉首相は、イラク・北朝鮮問題で独自の存在感を出せることが出来るか注視したいと思います。ペンダサンは次の様に日本人に注意するのでした。駐日イスラエル大使館が未だ公使館だった頃、日本人に親しまれた書記官がつくづくと言った。「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思いこんでいる。」日本人にとって安全なのは当たり前で、城壁都市と言うものが無かった。あの戦国時代ですら武田信玄は城を建てず「人は石垣/人は城/情けは味方/仇は敵」と言っていられた。ユーラシア大陸の都市は水を守る殻でもあった。水を確保するのは城壁を作るのと同じくらい重要であった。更に伝染病、特にペストを防ぐ為の下水道も絶対に必要であった。日本では、周囲は海という巨大な天然の浄化槽があり、流れの速い短い川は天然の清掃装置であった。全ては「水に流せ」ば良かったのです。どこの国でも現実の背後に「たてまえ」があり、「現実」とに誤差がある。従って現実が同じでも「たてまえ」の方向は逆で、「現実」を「たてまえ」に近づけて行けば、日本と全く正反対になる場合があっても不思議では無い。例えば、自然保護と言っても、ドイツ人なら「自然に整形手術」を加える行き方であり、日本人なら「静かな山懐に抱かれる」という、人間が自然に保護される行き方であって、同じ考え方だと思ってはならないのである。互いに交われば相互理解が出来ると単純に考える日本人が余りに多い。お互いに肩を触れ合い話す機会は益々多くなり、日常的なことなる。だが、それが相互理解に通ずる等と絶対に安直に考えてはならない。もしそうなら、ユダヤ人はもう二千年も、西欧人と肩を触れ合って生きているのである。
2003.05.24
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鈴木貫太郎氏は1945年連合国のポツダム宣言を受託決定した内閣総理大臣です。その孫である鈴木哲太郎氏が文藝春秋1988年8月の巻頭随筆で「祖父・鈴木貫太郎」の思い出を次の様に綴っています。私は戦争終結の意志について祖父を信じていたけれど、ポツダム宣言と言う絶好の機会にそれを黙殺したり、同宣言に関して「天皇の統治権は連合国最高司令官に従属する」との語句に不必要に-と私には思われた-拘ったりするのを見て、この信頼が動揺した時があったのも事実である。若かった私には、軍部専制体制下における首相の難しさなど分かる筈がなかったのだ。戦争終結の時機と言うのは、結局は原子爆弾とソ連の参戦とを待たねばならなかった。非常に大きなショックと実質的な打撃とを受けた軍部は有効な反対を組織することが出来なくなり、聖断による終戦が可能となったのである。1945年8月13日朝、祖父は老子の中の次の文句を指して私に言った。「敢に勇なれば死し、不敢に勇なれば活く」それに続けて「祖父の心が良く分かる」と日記に書いているのだが、今となっては自分でも明らかで無い。この語句を当時のコンテキストに於いて考えれば、「今以て戦争継続を勇ましく主張する者がいるが、そうなれば徒に人を殺し、日本民族に死をもたらすだけであり、戦争終結に勇敢であって初めて活路が開ける」という意味が常識的であろう。だが、果たしてそう言う意味だったのか、当時は気づかなかった深い意味を秘めていたのでは無いかと、後年の私には思われたことである。第二次世界大戦下の日本は軍部独裁で、先の「横浜事件」でも分かる通り治安維持法で自由意見は徹底的に弾圧されました。国会議員も体制翼賛会で封じ込められて、自由意見は抑圧されたのですがしぶとく生き延びて戦後復興に寄与した人間がいたことに感謝せざるを得ません。北朝鮮は3カ国会談で核兵器保有宣言と言う、体制維持の為の最悪の選択を取りました。軍部独裁下では当然と思ったのでしょうが・・ 今回のイラク、近い将来の北朝鮮では抑圧どころか反体制意見は全て抹殺されてしまっているでしょうから、体制崩壊後の復興は前途程遠しと思わざるを得ません!
2003.04.26
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ブッシュ大統領が何回か「十字軍」と言う発言をして、その都度撤回している様ですので調べてみることにしました。十字軍(Crusades)は聖地奪回のため、170余年間に8回の大遠征を行った。十字軍の大目的(聖地の奪回、教皇権威の絶対化)は達成されなかったが、長期・大量の人と物の移動は貨幣経済を促進し、南欧港市を成長させ、閉ざされた中世世界観を拡大したと言うのが定説の様です。イスラムの世界地図-文春新書(21世紀研究会編)では次の様に記載しています。イスラムのセルジューク朝はビザンツ帝国の領土にも進出したので、ビザンツ帝国はローマ教皇に援軍を要請した。1096年第1回十字軍はエルサレムに到着すると、イスラム教徒とユダヤ教徒を多く殺害し、200年に亘るエルサレム王国を建国した(1099~1291)。40年後サラディン率いるイスラム軍の反撃が開始され、第2回十字軍が派遣されたが、1187年ジハード(聖戦)に屈することとなった。サラディンはエルサレムに入城し聖地解放を行うが、キリスト教徒の生命安全を約束した。第3回十字軍(1189~1192)は獅子王と有名なイギリスのリチャード王が先頭に立ったが、「聖地巡礼」を保証することでサラディンとの休戦協定を結んだ。それ以降は聖地奪回と言う目的は消えて、領地拡大と略奪が十字軍の目的となってしまう。第4回十字軍(1202~1204)は、キリスト教国ハンガリーを襲撃、さらにはビザンツ帝国を攻め落としてラテン帝国(1204~1261)を建国してしまう。第5回(1216)は、エジプトのカイロ攻略に失敗して敗走しますが、第6回(1219~1221)では逆にイスラム軍がフリードリッヒ二世にエルサレムを譲り渡してしまうのです。第7回(1248~1254)では、フランス王ルイ9世がイスラム世界の一大センターであったエジプト攻撃を掛けるのだが、降伏して身代金を払ってフランスに帰国する。最後の第8回(1270)は再度ルイ9世によるものとなるが、途中病没で終結となる。170年に亘り戦争を続けるヨーロッパの執念深さには驚かされます。その他ヨーロッパ域内でも100年を越えて闘いを続けている例は多く、淡泊な日本人感覚は追いていけません。今回の米国のイラク攻撃は民主主義の十字軍が派遣されたと言う感覚もあるようですが、100年を越えて泥沼状態が続くことの無い様に望むばかりです。
2003.04.21
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一見、何の関係も無さそうな事柄が結びつく三題話の様ですが、「ラピス・ラズリ」又は「瑠璃」と言う貴石で見事に結びつくらしいのです。アフガニスタン(戦乱の現代史)-岩波新書(渡辺光一氏著)によりますと次の様に記載しています。ツタンカーメンは紀元前14世紀頃、古代エジプト王ファラオとして9年間君臨しましたが、僅か18才という短命で亡くなりました。王家の谷で見つかったツタンカーメンの墓から発掘された「黄金のマスク」は、装飾芸術と芸術性の高さを示しています。その眼にはラピス・ラズリがはめ込まれていたのです。その後900年を経て紀元前5世紀に、インドの大地に仏陀が生まれ数百年掛けて体系的に整えられた仏教思想がアフガニスタン、スリランカに広がって行きました。その後、大乗仏教とモデルチェンジされた仏教は、玄奘三蔵の努力もあり中国に広がり、紀元後6世紀に日本に伝えられました。その東方浄土を治める薬師如来は正式には「薬師瑠璃光如来」と呼ばれます。瑠璃と呼ばれたのはラピス・ラズリであり、貴重な宝物としてだけでは無く薬効を持つものとして珍重されたのです。この石が採れる場所は世界でただ1個所、アフガニスタンの北東部にある奥深い山岳地帯に限られているようです。そのラピスラズリ又は瑠璃の石は広く東西に繋がる交易路によって古くから運搬されていたのです。有名な「シルクロード」より2800年も前から長期間重要な石の交易路として存在していたのですが、紀元前2世紀に、より大規模な交易路「絹の道」が優勢になった様です。ですから古代は「文明の十字路」と呼ばれたアフガニスタンは近代・現代では「戦乱の十字路」と変貌してしまっていたのです。昨年国際テロ対策の一環から米国によるアルカイダ掃討作戦でタリバン政権が崩壊し、カルザイ政権が誕生し民主的な国家建設が進められています。しかし、各部族間の意向の対立が表面化してしまい不安定化して、最近も米軍による空爆が行われた様です。イラクへの武力行使の影に隠れてあまり話題にならない様ですが、安定した国家が確立されることを祈って止みません。
2003.04.13
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昨日、米英軍によってバグダッドが制圧されました。祖国を他国に蹂躙されたイラク国民を思うと、独裁者からの解放が達成されたと、素直に両手を挙げて喜ぶ気にはなれません。此処2週間はNHKのBSニュースを見ていました。米国各局、アルジャジーラ等の世界各局ニュースを対等に放送しているからでした。今回の報道合戦程、放送の中立性が疑問視されたことが無いようです。歴史に学ぶ必要がありますので、一冊の本を題材にしたいと思います。中国では紀元前8世紀からおよそ550年間の春秋戦国時代の長い戦乱の時代があります。前半350年を春秋時代、後半の200年を戦国時代と区分けする様です。最後は専横で知られる秦の始皇帝に天下統一によって終わりを告げるのですが、万世に至ると豪語しましたが僅か三世で滅びてしまいました。「乱世の生きる中国人の知恵」-諸橋徹次(講談社学術文庫)で著者は次の様に述べています。中国の人々は、度重なる戦乱にも良く生き延びました。春秋時代には、「春秋に義戦無し」とは言いながら、未だ少しは尊王とか徳義とかを口にしていました。所が、戦国時代になると、もうその形勢は全くありません。戦国の攻争が激しくなりますと、ここに戦国に処する道として二つの流れが世に行われました。一つは、戦争に勝つ方法を研究して天下を捉えようと言う兵家の主張であり、他の一つは、各国の均衡を保たせようとする合従連衡の主張です。兵家の主張をしたのが孫子・呉起で、合従連衡の主張をした者としては、蘇秦・張儀があります。しかしこれらは本を務めずして末をのみを収める、兵家・縦横家の知恵では、遂にこの乱国をどうすることも出来なかったのです。こうした戦国の時代にも、せめてもの一つの良い知恵はありました。それは自己防衛の必要からでしょうが、各国の人々とも、皆人材登用に心を用いたと言うことです。昨日のバグダッド制圧によるフセイン政権の崩壊のニュースを聞いて、歴史が教訓も無く繰り返されていると感じられてなりません。アメリカは孫子に習い、兵家の意見を採り入れて天下統一を目指していますし、その他の国々は合従・連衡に汲々として国家と個人の意向の違いがあからさまになりました。
2003.04.10
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大義の無いイラク侵攻が終わりを告げつつあります。国際政治は非情で策略に満ちていて、ドイツのシュレーダー首相も米英支持を表明したとの報道がありました。10年以上も経済封鎖をされたイラク国民に、戦争による悲惨な結果が訪れない様に祈るばかりです。8世紀晩唐の詩人で、「詩聖」と呼ばれた杜甫は戦争の悲惨さを庶民の側から歌っている詩が多いのです。“国破れて山河在り・・”で始まる「春望」はよく知られています。国破れて山河在り城春にして草木深し時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ別れを恨んでは鳥にも心を驚かす烽火三月に連なり家書万金(ばんきん)に抵(あた)る白頭掻けば更に短く渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんとす。又、「絶句」と呼ばれる次の様な詩があります。江碧(みどり)にして鳥いよいよ白く山青くして花燃えんと欲す。今春、看(みすみす)又過ぐ何れの日か 是帰年ならん“長江も山も今を盛りの春を迎えている。それをじっと見つめる我が目前を、今年も又無駄の様に過ぎて行く。何時、かねての望みである故郷に帰る日が来るのであろうか?”杜甫は洛陽に近い由緒ある名家に生まれました。それを誇りとして家名を上げようとした彼は14才にしてひとかどの詩人と認められる様になりました。その後、20年程何回か国家試験を受けるのですが、何れも落選し、仕官による家名の維持に失敗してしまいます。仕方なく書生生活を10年に渡って、せざるを得なくなるのです。しかし、有名な「安禄山の乱」に巻き込まれ反乱軍の捕虜となり、長安で監禁されてしまうのです。乱平定後、新皇帝の下で漸く仕官の望みが叶うのですが僅か1年で左遷の憂き目に遭遇してしまいます。運悪く、飢饉が到来して左遷された俸給では暮らすことが出来ず、職を捨て各地を転々として彷徨い10年間を悲しみの限りを嘗め尽くします。報われること無く、59才で湖南の舟上で病没したと言われています。
2003.04.07
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諸葛孔明と言えば正義の君子劉備を助け、悪漢曹操を手玉に取る軍略家として知られています。14世紀中国で民間伝承話を小説に纏めた「三国志演義」、昭和時代の吉川英治「三国志」、陳舜臣「諸葛孔明」等多くの小説で挙止振る舞いが詳細に記述されています。しかし、彼の実体は吉川氏は“大いなる平凡人”、陳氏は“殺戮線を憎む仁愛の人”と述べている様に、人民が平和に暮らせる様に国家経営を目指した政治家だった様です。岩波新書「諸葛孔明」立間祥介著では次の様に纏めています。三国鼎立時代を経て晋の時代に編纂された正史「三国志」は晋の陳寿の手になるものですが、「諸葛亮伝」に付した論賛の中で次の様に諸葛孔明のことを評しています。諸葛亮は丞相になると、人民を愛し、自ら範を垂れ、不要不急の官職を削り、その時々に必要な政策を採用し、公開公正な政治を行った。・・・かくして人民は皆彼を敬愛した。厳正な法治主義を強いたが、それを恨む者は無かった。配慮が公正で賞罰が明確であったからである。将に政治の本質を心得た天才であり、古の名宰相である管仲・蕭何に匹敵すると言えよう。と、最高の評価を下しながら、最後に一言、しかし、毎年の様に出撃しながら、ついに成功を収めることが出来なかったのは、臨機応変の戦略戦術面が得手では無かったからではなかろうか。と付け加えている。にも拘わらず、憑かれた様に北伏を考えた彼の苦しい胸の内は、別の書に記された「孔明は慎重な人物である。その孔明が度々蜀の軍勢を動かしたのは、国が小さく、人民も少ないと言う現状では、長く存続することは不可能と知っていたからである。」と言う言葉に良く表れていると言えよう。封建戦国時代に主権在民に近い政治姿勢を貫いた彼の様な政治家が出て来ましたのは、古代の堯舜の理想が奇跡的に彼を輩出させたのでしょうか?自分の言葉で語ることが無く、党利党略のみで国家経営を論ずる日本の政治家を見ると残念な気がします。
2003.04.05
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今回の米国によるイラク攻撃は“孫子の兵法”を参考にしていると言うことで、再確認しようと岩波文庫「孫子」を探したが書棚に見あたらない。薄い本なので紛れたか、他人に貸したのかは明らかではありません。そこで、「史記」列伝から孫子・呉起(第5)を読んでみました。訳者は小川環樹でノーベル賞物理学者湯川秀樹の兄弟です。孫子は春秋時代の人で、その名は孫武と言い兵法の誉れ高く、仕えた呉の国を春秋時代の覇権を握らせた。孫武が死んだ後、百年して孫ビンと言う者が輩出した。彼は兄弟子の謀略に会って、両足切断・顔に刺青と言う量刑に科せられたが、斉の国に仕えて兄弟子の国である魏の国を破り兄弟子を自殺させたと言うことである。彼の名が天下に知られ、彼の兵法の書が後世に伝えられた。呉起は、衛の人であるが魯の国に仕えたが、妻が敵国の人であった為殺してしまい敵国に通じないことを証明し、魯の国の勝利をもたらした。その後讒言にあった為、他国に出て、魏、楚に仕えそれぞれに武功を立てました。その都度その国々の人達に憎まれ、最後は惨殺されてしまったのです。結言で司馬遷は次の如く纏めます。世間で軍学について引用する場合、「孫子」13編の書物を論じない者は無いし、呉起の書物も、世の中に持つ者は多い。ただ、孫子も刑罰の憂き目に会う時の処置を予め立てることは出来なかった。呉起は山河の形勢は徳ある政治に及ばないと、魏の武侯に説いたが、彼のやったことは残酷で人情に欠けた為、身を滅ぼしたのであった。悲しいことではある。日本の漢学の碩学である諸橋轍次氏も「これら本を努めずして末のみを収める、兵家・縦横家の知恵では、乱国をどうすることも出来なかったのです」と断じています。どうも政治の世界も、経済の世界もハウ・ツー物だけが流布する現在は違った解決法が必要の様です。
2003.03.26
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アメリカのイラク攻撃も、本日時点では圧倒的なハイテクと物量攻撃で峠が見え、フセイン政権の崩壊も間近い。そこで昨年11月28日の日記をもう一度読み直して見て、岩波新書要約を再度引用することにしました。不幸にして著者の言う「三度目の正直」で、国連合意の無いままイラク攻撃が実施されてしまいました。他の常任理事国もアメリカの圧倒的な軍事力に楯突くことが出来ず、実質的にイラクを見放すことになりましたので、フセインの殺害又は自殺で戦争が終結することになります。解放後のイラクがアメリカの意図する「民主イラク」に生まれるか否かが問題です。民族・宗教の対立のモザイク状態にあるイラクを、対立の少ないデモクラシー国家に転換するのは容易ではありません。「第二次世界大戦後の日本・ドイツでは、独裁者を倒して議会と民主主義を根付かせた」と言うのがブッシュ大統領の筋書きの様ですが、サクセスストーリは展開が難しいと言うのが定説ですし、社会背景が大分異なるのです。イラクとアメリカ-酒井 啓子岩波新書796 2002年8月発行フセイン体制が終わりかと思ったことが過去二回あった。湾岸戦争と大統領娘婿が亡命した時がそれだが、二度とも生き延びた。2001年9月の同時多発テロ事件で、深手を負ったアメリカが、ビン・ラーデンから次にはサダム・フセインに向いて行くだろうことは、容易に想像がついた。果たしてこれが「三度目の正直」となるのか、「二度あることは三度ある」ことになるのか現時点では分からない。だが、フセインの創り上げたものが「イスラム」と言う我々にとって「他者」の世界に独特なものでは決して無くて、冷戦構造や独裁国家や国によるこの管理と言った、我々の慣れ親しんだ「西欧文化のなれの果て」から出現したものだ。「フセイン的なるもの」の持つ危険は、「彼等」の問題でなく、常に「我々の社会」に内包された問題として考えて行くべきでは無いだろうか?中東はアメリカの国際外交にとって最重要地域で、米国石油メジャーの権益が確保されている最大の産油国サウジアラビアを守ることが至上命題であった。イラン革命以前では、イスラエルとシャー時代のイランと言う強力な「代理人」の存在に安心し、米ソ二極構造の中で解釈し処理出来たのである。イラクについては、アメリカは1970年代迄「親ソ」と敵陣営に追いやって来たにも拘わらず、「反米イラン」封じ込めの為に、イラクを「親米」の枠組に取り込み、その枠内に取り込み対処し軍事大国化させてしまった。軍人では無いサダム・フセインは、親族支配・政敵の放逐によって独裁体制を確立後、こうした「二極対立」を日常生活のあまねく場所に密告制度と共に蔓延させ、社会の対立を操作することで、絶対的な支配を継続させて来たと言えよう。この「二極対立構図」が如何に易々と世界に浸透するかは「9.11事件」以後、即座に「文明の衝突」と言う単純な図式に基づく世界認識が蔓延してきたことを見ても良く分かる。アメリカはカウボーイ型の「正義か悪か」の選択を突きつけるが、フセインのやってきたことも又同じ「二極対立」構図をそのまま鏡に映したものに過ぎない。又、フセイン政権に自力で抗する能力を持たない微少な反体制派達は、フセインとアメリカと言う「二つの力」が対立し合う二極構造を利用することでしか、自らの目的を実現することは出来ないと考え方も、「イラク対アメリカ」の対立図式の中で、呼び覚まされているとも言えよう。しかし、問題は、こうした意識構造から如何に抜け出すかと言うことで、フセイン個人の存在にあるのでは無い、寧ろ大きな「恐怖を生む二極対立」でしか自己表現していく方法から抜け出し、フセイン自身を生み出した「フセイン的なるもの」を如何に乗り越えることこそが、将来の最大の課題だろう。熱くなって一国主義に陥ったアメリカを国際協調路線に引き戻し、国連の枠組みの中でアラブ世界の意向を最大限に取り入れて国際社会の納得出来る戦後復興が構築されるのを祈って止みません。アメリカは軍事力では圧倒的ですが、経済的には1960年代の6%の人口が世界の60%生産を行っている優位性は既に持っておらず、他の先進諸国との協調が不可欠となっていることを冷静に見つめて欲しいと思っています。
2003.03.23
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存在感のある人間が、今求められている。大不況の前で、揃って足踏みしているのでは無く、広い野原へ連れ出してくれる大きな人にあって見たい。この様に「石坂泰三の世界」(城山三郎著 文芸春秋社)のあとがきで述べているのは1994年晩秋のことです。この本は文春文庫として1998年6月に「もう、君には頼まない」として刊行されています。それから10年経ちますが、経済不況情勢は変わらず指導者不在も何の変化も見受けられません。近頃の奥田経団連会長の経済不況脱却に対する政府への要請による自己責任の転嫁も苦々しい限りです。若者への夢を提供して来たソニーも出井会長の「今年は消費者が購入して呉れる年です」も難局打開の意気込みま感じられません日本の政・財・官界では、好景気の時に同質化が進み、仲良しクラブ的な付き合いばかりが増え、拳骨を突き出す人が稀になった。石坂泰三は、禅僧から聞いたと言う「無事是貴人」なる言葉を好んだ。「何事も無いのが最上の人生」と言う訳である。だが、そうは言いながら、この男、頼まれれば、激しい労働争議に明け暮れる会社の社長に就任したし、成否が危ぶまれた日本で最初の万国博覧会会長を80才目前の身で引き受けている。その何れもが、他に引き受け手のいない役職であった。無事を望むどころか、求められれば天下の難事に身を進んで賭けているのです。その男が、誰よりも信頼したのが、土光敏夫であった。石坂の強い押しが無ければ、土光経団連会長は実現しなかったと言われている。但し、石坂と土光の人柄は可成り違う。土光は単純明快、大いなる分かりやすさが魅力で、俗を排し聖に近い生き方「社会は豊かに、個人は質素に」となる。一方、石坂は俗を容れ、聖に囚われぬ、大いなる分かりにくさが魅力。そうした二人だが、何より気骨という一点で共通し、深く信じ合う仲であった。石坂の気骨と言うか硬骨漢ぶりは、並大抵なものでは無かった。現職の大蔵大臣、現役の日銀総裁に対しても啖呵を切った。「自由経済の下では、設備投資をどうするかは経営者が考えれば良いことで政府が決める問題では無い。日銀総裁は金融政策に取り組み、公定歩合をどうするか考えれば良い。寧ろコンピュータを総裁にすれば良い。」事実、コンピュータ君に劣る日銀総裁が幾人か現れ、権力者の顔色を伺うあまり、適切な政策を取るのを誤り、日本経済に災いをもたらした。コンピュータ君の方が良かったとは、国民の実感であった。竹中金融大臣の株価連動投資信託の推奨、奥田経団連会長の政府による土地買上発言等をみていると国民への視点を全く無視しているの思うのは僻みでしょうか?
2003.03.12
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21世紀研究会編の「イスラームの世界地図」が文春新書として発刊されたのは今から1年前の平成14年1月です。緒言で次の様に述べています。東洋と西洋の間には、中洋と言うべき広大な地域が広がっている。東洋とも西洋とも違うこの領域は、イスラームの世界である。610年にイスラームが誕生して以来、イスラーム諸国はヨーロッパと1400年にも亘る衝突を繰り返して来た。それは民族の衝突であり、宗教の衝突であった。モーゼもイエスも自分たちの預言者とし、ムハンマドを最後の預言者とするイスラーム教をヨーロッパ人は奇妙な新興宗教と見ていた。もしかしたら私達日本人は、西欧諸国によって造られた否定的なイスラーム像の影響を受けているのでは無いか。第1章のイスラームの論理と心理では次の様に言うのです。主権在民と言う言葉はイスラーム世界には無い。主権はアッラーに在り、法もアッラーの教えであるコーランに照らして制定され、判断されるからだ。彼等の世界では、如何にアッラーの教えを忠実に実行出来るかと言うことが、何より重要なのだ。時代の変遷による様々な問題に国際的な解釈が必要になって来ると、当然ながらコーランには規定されていないことが多い。その為、こうしたことについては、各国の評議会で決定されることになっている。ただし、エジプトの様に積極的に国際社会と関わりを持って行こうとする国もあれば、出来るだけ異教の国との接触を避けると言う国もあるなど、対応は様々である。それでもイスラーム諸国の大統領、首相の権限は大きく、国家の方針は一人の首長に殆ど決められてしまう。一度大統領に就任してしまうと、どうしても独裁的な長期政権になりがちなのだ。イスラーム過激派が反政府テロ等に訴えるのも、議会だけではどうにもならない、特に発言の機会のない貧困層の現実を見ない等と批判している訳で、視点を変えて見れば、原理主義と呼ばれる運動は、実は民主化を求めての闘いだとも言えるのである。この本に当然のこととして結言は無いのですが、イスラーム過激派によるアメリカ同時多発テロ事件で始まった21世紀は、世界各地で、民族、宗教紛争が頻発する世紀となるのではないか、と危惧されています。私達日本人が先進国として尊敬して来た西欧諸国のフィルターを掛けてイスラーム世界を見るのでは無く、直接に自分達の眼で直視することが必要だと主張しているのです。
2003.03.04
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ゲーテがワイマール公国の宰相に赴任する前の疾風怒濤時代(1771 - 1775)には感受性の鋭い詩が多く生み出されています。シューベルト歌曲で有名な「魔王」、モーツアルト歌曲「すみれ」等が代表作ですが、感受性をもっと大切にしようと唄った詩があります。憂愁の喜び乾いてはいけません、乾いてはいけません私の恋の涙はとこしえであって欲しい!半ば乾いた涙の眼には周りの世界が 何とわびしく死んだように見えることでしょう!乾いてはいけません、乾いてはいけません破れた私の恋の涙はいつまでも!Wonne der WehmutTrocknet nicht, trocknet nicht,Traenen der ewigen Liebe!Ach, nur dem halbgetrocneten AugeWie oede, wie tot die Welt ihm erscheint!Trocknet nicht, trocknet nicht,Traenen ungluecklicher Liebe! あまり日常生活に慣れ過ぎてしまい、自分の生活のみに囚われると、他人に対する思いやりも無くなり自己防衛だけが生活目標になってしまいます。そんな生活が危機に晒されて来ると、じっと黙して自分を語らず「会社が政府が何もして呉れない」と全て悲観的になります。昨日、建国記念日のどこかの集会で小泉首相が「悲観的見方からは何も生まれない」と述べているようですが、彼にとっては構造改革も官僚の抵抗それに与する自民党抵抗勢力の圧力で「笛吹けど踊らず」と言う心境なのでしょう。しかし、1960年米国大統領ケネディの就任演説で述べた「国家が何をして呉れるかを問うのでは無く、自分が国家に何をしてやれるのかを問え!」と言う格調の高さを指導者にも期待し、私達も再度、再々度、自分たちがこの経済不況を乗り切るには何をするべきなのか問い続けなければいけません。考えて見ると、イラク攻撃もパックスアメリカーナに反対する国家エゴから軍事好国フランスが反対しているに過ぎません。イラクでの石油権益のフランス分は保証すると米国が言えば、フランスは攻撃に即賛成するのです!多分ドイツのみが悲惨な戦時体制からの反省による攻撃反対で、他のロシアも中国も自国内に多数いるイスラム教徒を押さえ込み、石油権益で得を出来ないか策謀しているに過ぎません!北朝鮮問題も含めて、国際政治は乾きすぎていると思えてなりません、国民間の乾いていない思いやりが是非とも必要な時期に来たと思っています。
2003.02.12
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雑誌Agoraの2003年2月号に次の様に掲載されています。イタリアでは同一組織体に少なくとも5年以上の勤続経験を持つ公務員・民間従業員は、最大11ヶ月迄の無給休暇を取ることが出来るということです。「安息の年」は古代イスラエルの慣習に由来する言葉で、7年毎に耕作を休み、地に安息を与える年のことを言います。正式には「自己育成休暇」と呼ばれ、働く人々の産休や介護、学業をサポートする目的で2000年3月に制定された様です。但し、取得には個人の資質向上を目的とすること、又企業活動の著しい妨げになってはならない等の条件があるので、申請しても直ちに受理されるとは限らないらしい。それ以前から、大学、役所や一部の企業ではそんな休暇を使っての学業サポートはされて来たのですが、一部の恵まれた人だけでなく、大勢の人にメリットを広げるべく新しい法令に実を結んだ様です。従来自己育成に時間もお金も掛けられない会社従業員でも、無給とは言え、レベルアップの機会がが得られるように、長期休暇を取る権利が法律で認められたことは意義深い。そうは言っても、公布から3年が経過したものの、この休暇を利用している民間会社従業員は少ないのが実情らしい。ともあれこの法令がイタリアの国民一人一人に職業人としてだけでなく、一個人として豊かに生きる環境作りを目指している。学ぶことは人間性が豊かになると言うこと、始まりは常にあり、終わるものでは無いと言うことを、我々も気づく頃ではある。日本ではここ10年以上、経済不況からリストラの嵐が働く人の向上意欲を奪い、会社にしがみつく姿勢しか助長して来ませんでしたのは残念です。個人の資質向上には助成金制度もありますが、一部の大企業にいる恵まれた人しか使っていないように思います。日本でも、この様な「自己育成休暇」制度を法制化して、国民が精神的に豊かな生活をし、次のチャンスを生かせる様にして行かなければ、この精神的不況は抜け出せないので無いかと思っています。
2003.02.04
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17世紀ヨーロッパの最大の頭脳、物理学者で数学者はイギリスの造幣局長官として、イギリス貨幣制度を安定させ且つアイルランド収奪に寄与する所が大きかったと言われています。アイルランド人であったスウィフトはその収奪ぶりを批判するのを目的として、ニュートンを「巨人ガリバー」に見立てて諷刺せざるを得なかった様なのです。それ程収奪は組織的に行われたので、スウィフトは弾圧を恐れ諷刺小説という形でしか対抗出来なかったのです。現在では両国間に協定が成立し沈静化していますが、1949年のアイルランド独立後も、様々な対立や暴動の続く、所謂アイルランド問題の発端を作ったと言う説さえあるのです。ニュートンは1643年に月足らずの未熟児として生まれましたが、父は誕生前に死亡しており、母親はその後再婚してしまい養育費を送って来るだけの孤児となりました。少年期から「村の小魔術師」として奇妙な玩具を手作りし、青年期からは錬金術への傾倒が始まり、秘密裏に一生続くことになりました。幸いにしてケンブリッジ大学に進学することが出来たのですが、貧乏だったので、寮費の免除と引き換えに雑役をし、その間にデカルトやパスカルを学んだようです。20代半ばで教授に推薦されるほど、頭脳明晰だった様ですが40代半ばに大学行政に手腕を発揮し、名誉革命後は政界入りを策すのですが果たすことが出来ませんでした。結局、造幣局長官になって莫大な財産を蓄え、王立協会会長としてイギリス知的階級に君臨したのです。彼の著書「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」は、フランス・パリサロンの貴婦人達にとって聖書となり、啓蒙主義者を鼓舞する「新秩序原理を展望させる」革命の聖書でもありました。アメリカ独立戦争を、又フランス革命の原動力になったと言われているのです。ニュートンは、一生を「女嫌い」で通し、晩年には深紅の家具の部屋で暮らしたと言われ、それは何者かに向けられた怒りの色でありました。表で概念の実体を神の栄光と共に明らかにしつつ、陰の部分に深いデーモンの深淵がある、深紅の怒りに包まれた凄まじい老人であった様です。出典は「魔術から数学へ」森毅-講談社学術文庫です。
2003.01.12
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2003年1月4日朝日新聞の1面に「大学の力(転機の教育)」シリーズの第三回として「産学連携」が掲載されました。大学発の研究成果を事業化を通じて産業の発展に繋げ、競争力回復を目指す「産学連携」が、ここに来て急速に発展の兆しが見えて来た。「産」は不況で大学の技術開発能力を期待し。「学」は国立大法人化を控え、社会との接点強化に生き残りをかけている。つまり、危機感がバネとなって急接近した。ただ、産業との壁を完全に崩すのは、ベンチャー先進国の米国でも慎重だ。MITは学外での教員のコンサルタント活動は“一週間に一日迄”とルールがある。教育研究活動を疎かにしない為だ。MIT技術移転機関のウィルソン所長は「研究成果をどう使われるかを皆が考えることは大事だが、それが学問の自由の放棄に繋がってはならない。」と言うのです。しかし、主要企業の経営者は人材養成機関としての即戦力を育て得ない大学に不満を感じ、産学連携に関心は高いが、技術移転ノウハウ・環境整備の不足から具体的な成果に結びついていないと考えている様なのです。そうした不満意見の中で阪急百貨店社長の椙岡氏が「集団の時代から個の時代へと確実に変化している。より高い専門教育よりも個の時代の生き方のベースになる所を充実して欲しい」と述べていますが果たしてそうでしょうか?戦後教育は戦前の集団教育の反省から個の教育を目指して始められました。しかし、文部省(現在の文科省)の指導により、日本型の経済成長に沿うべく徐々に集団教育に変質させられたのです。現在の経営者はその経緯を体験している筈で、その推進の応援者でもありました。従って、不満を述べる経営者が、その学生時代に創造力豊かな即戦力として育てられたとはとても思えません。物量の無い時代に育った彼等は何とか勉強・努力して、何とか会社に就職して物を得ようとしたに過ぎません。既存の経営形態を持続する為に彼等なりの希望を述べているのですが、飽食の現代にあっては現在の学生には通じないのです。功利主義に基づいたマスメディア主体の物質文明では、彼等の「生き甲斐とは何か?」の問いに対する回答になり得ません。親の世代が懸命に働いても人生に得る所が少ないと見えるのです。全ての人が技術を好きな訳でなく、全てが商売を好きでは無いのですが、嫌々ながらその分野で活動しなければ生活していけないと見えるのです。やはり、適材適所に人が配置され、何か“Project X”が成し遂げる組織に貢献出来そうだと判断出来れば、彼等は生き甲斐を感じ苦しいことも厭わなくなる筈で、創造力は必然的に生まれます。技術担当、経理担当、営業担当は各々その得意分野で能力を伸ばし、プロジェクトに貢献出来る人材が確保されれば日本は安泰です。そこで今は廃れてしまった儒教の精神を再認識することも必要でしょう。先ず“隗より始めよ”で、経営者自ら功利主義を離れた「自分を知る構造改革」が必要だと思うのです。講談社学術文庫「大学」-宇野哲人全訳注の序文に曰く「天が人を生む以上は、きっとこの人に仁義礼智を生まれついて与えたはずである。しかしながら、人の気質は、人々によって異なり、誰でも聖人君子の如く清き気質を受けて生まれたのでは無く、或いは濁った気質の人もある。そこで人々が皆、その本然として備わっている仁義礼智の徳を知ってこれを全うすると言う訳にはいかない。本然の性に四徳の備わっていることも知らず、これを失う人も少なくない。万民本然の性を知らずしてこれを失うに当たりて、一度聡明叡智にして、良く自分の本性を明きらめ尽くす者が、その間に出づれば、天は必ずこの人に命じてもって天下の万民の君となりてこれを治め、師となりてこれを教育せしめて、もって万民をして各々その本性の善に立ち帰らしむるのである。」
2003.01.07
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食人鬼ハンニバル・レクター博士の映画が2003年2月にロードショーされることになっています。「羊たちの沈黙」「ハンニバル」に続いてのアンソニー・ホプキンス演ずるレクター博士の第3作ですが、別のスタフ・キャストで1988年「刑事グラハム/凍りついた殺意」の言う邦題で1回公開されていますが・・昨日、その「レッド・ドラゴン」の文庫本を読了しました。著者トーマス・ハリスの作品では「レッド・ドラゴン」は1981年出版で一番古いのですが、映画化された前二作品での鬼気迫るレクター博士の残虐・冷徹な性格が分かっているので、脇役であるこの作品では反って効果的に全編を支配している様に思います。“噛み付き魔”後には“竜”とマスコミに呼ばれた犯人は博士に崇拝の手紙を送りつけますし、捜査を担当する捜査官も犯人像に迫るために博士に助言を求めるのです。評論家の滝口氏は「口蓋裂に生まれた犯人は、母に捨てられ、厳格な祖母に虐げられ育てられた。そのことにより心の内に膨らむ悪と、一方盲人女性への愛の葛藤に苦しみながら、“赤い竜”に変身していく様子は将に「現代のフランケンシュタイン」である。」と評しています。名優ホプキンスと名女優ジョディー・フォスターでアカデミー賞を多数獲得した「羊たちの沈黙」があまりに突出していますが、食人鬼を脇役に退かせたことにより「レッド・ドラゴン」が所謂名画の二番煎じで無く、楽しめそうなことが期待出来そうです。前作「ハンニバル」は新潮文庫で出版されましたが、「レッド・ドラゴン」は1989年に刊行されたものに著者の序文を追加し2002年9月にハヤカワ文庫として出版されています。桐野夏生氏が「終わり無き夜に生まれつく」と言うあとがきを書いている。三作品とそれらの時代背景を次のように述べています。1990年代人権、環境破壊、南北問題等に関する公正なる認識が高まっていた。しかし21世紀となった現在、人々は他人を理解することを止めて、個人の小さな楽しみに埋没してしまった様に見える。世界同時多発テロ以降、この世には想像し得ない世界や悪が存在することにようやく気付いたのか。はたまた壊れ行く社会に身を委ね、とりあえず個人の楽しみを優先することにしたのか。20年の長きに亘って、トマス・ハリスは食人鬼レクター博士を書いてきた。レクターが、唯の凶悪犯罪者から名精神学者へ、そして騎士道精神を発揮する当世風ルパンへと変貌しているのも、小説が社会の変化を先取りする優れたメディアであることを思えば至極当然科も知れない。最新作「ハンニバル」では、食人と性の愉楽に船出した。将に他人への興味を無くし、個人の愉悦を優先する現代の社会と良く似ているのである。今年はインターネット世界を通じて、個人的な愉悦を優先する傾向が強まり、幼児虐待・凶悪犯罪も増えました。一方北朝鮮の拉致被害が明らかになるに従い、マスコミを介してではありますが、不当なことに何とかしたいと言う気運も出て来ているとも思います。道路公団民営化問題で次世代への借金を増やさない結論が出たこともその一環でありたいと願っています。隣国韓国ではもっとその気運が急展開しています。今月の大統領選で保守派優勢との分析された途端、若者がインターネットで呼びかけ太陽政策を掲げる候補への投票をしに投票所に出掛けて逆転させました。来年には日本でもそのような気運が進展するのを願って止みません。
2002.12.31
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このアニメ映画は既にテレビで数回放映されていますので、涙を流した人も多いと思います。野坂昭如原作を1988年にスタジオジブリで製作されたものです。DVD作品は2000年発売で、本編のアニメ映画の他、野坂昭如氏のインタビューも含めて約8分間の映像特典を収録しています。パッケージには次の様な物語りのあらましが書いてあります。・・太平洋戦争末期、神戸に暮らす清太14才と節子4才の兄妹は、空襲で親も家も失ってしまう。親戚の家に身を寄せたものの、邪魔者扱いされた二人は、大人の力を借りずに、池の畔の防空壕で暮らすことを決めた。夢見たのは、自由気ままな二人だけの暮らし。しかし幼い兄妹を待っていたものは、想像以上に激しく辛い日々の始まりだった・・自由な生活は直ぐに行き詰まり、親が遺してくれたものも親戚に取られてしまい、食物が無くなってしまうのです。防空壕の中で、節子は栄養失調で亡くなってしまいます。仕方なく清太は近くの丘の上で節子の火葬をし、遺骨を佐久間ドロップの缶に入れて身につけて、防空壕を去るのです。その悲しみを象徴する様に無数の蛍が丘を飛び交うのです。その後、暫くして兄の清太も神戸駅構内で、やはり栄養失調で行き倒れで死んでしまいます。彼のポケットに残っていた遺骨を納めた佐久間ドロップは駅員によって草むらに投げ捨てられてしまうのです。このアニメは涙なしでは見られませんので、あまり見ません。映画で涙を流したいと思う方は、どうぞご覧下さい! 私自身もその当時3才で、東京大空襲の中を東京市本所区錦糸町を母親に背負われて、逃げ回って生き残ったので、尚更身につまされるのです。その母親も亡くなってから10年となりました。近頃、戦争の危機が言われていますが、悲惨な思いをするのは一般住民なので、全ての政治指導者は何としてでも戦争を避ける努力をして欲しいのです!
2002.12.30
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京都奈良への旅は昔の修学旅行の定番でした。現在では学生の要望のみに沿った遊園地、外国見学に様変わりしている様ですが、昔の先達が遺した財産を見物するのも意義あることと思います。確かに若者にとっては辛気くさい気は無きにしもあらずですが、次世代への遺産継続の契機も教育上の観点から入れて欲しいのです。それがあれば、強制では無く成人してからの自分の意志でそれを確認することが容易となると思うのです。和辻哲郎氏が1918年発行の「古寺巡礼」の中で中宮寺の如意輪観音のことを美しく描写しています。あの肌の黒いつやは実に不思議である。この像が木でありながら銅と同じような強い感じを持っているのはあのつやのせいだと思われる。又このつやが、微妙な肉付け、微細な面の凹凸を実に鋭敏に生かしている。その為に顔の表情なども細やかに柔らかに現れてくる。あの頬の優しい美しさも、その頬に指先をつけた手のふるいつきたい様な形の良さも、腕から肩への清らかな柔ら味も、あのつやを除いては考えられない。私たちはただうっとりとして眺めた。心の奥でしめやかに静かにとめども無く涙が流れると言う様な気持ちであった。ここには慈愛と悲哀との杯がなみなみとと充たされている。まことに至純な美しさで、又美しいとのみでは言い尽くせない神聖な美しさである。この像は補なり観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。しかし、この聖女は、およそ人間の、或いは神の「母」では無い。あの初々しさは、女らしい形でなければ現せない優しさがある。では何であるのか。-慈悲の権化である。人間の心奥の慈悲の願望が、その求むる所を人体の形に結晶せしめたものである。私の乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のない独特なものでは無いかと思われる。これより力強いもの、威厳のあるもの、深いもの、或いはこれより烈しい陶酔を現すもの、情熱を現すもの、-それは世界に稀ではあるまい。しかしこの純粋な愛と悲しみとの象徴は、その曇りのない純一性の故に、その徹底した柔らかさの故に、おそらく唯一のものと言って良いのではなかろうか。
2002.12.23
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近頃の日本は情熱もなく冷め切っています。精神的にもすっかり醒めており、団塊世代は小さな既得の権益を守る為に他人への心配りもせず沈黙を決め込んでいるだけ・・高速道路民営化推進委員会の答申報告も理があると思いつつも、抵抗勢力国会議員のそれを無視する活動が主流となるかも知れないと言うのに・・隣韓国の米兵暴行無罪による反米運動にも呼応することなく、報道の垂れ流しで終わりそう・・青年達を情熱に駆り立てる何かが欲しいと思うのです。シャルル・ボードレール(1821 - 1867)ボードレールの生涯は、泥沼の中から逃げ出そうとはせず、現実を直視し続けた人間の生涯でした。殆ど唯一のと言って良い詩集「悪の華」は、ほぼ20年間に作られた詩の総集です。散文詩集「パリの憂鬱」は生前には纏まった形で発行されませんでした。彼の確立した象徴派の技法、一つの彫像がもう一つの彫像を呼び起こすことが出来ると言う、非常に流動的で一種の暗喩的な描写法です。「パリの憂鬱」50編の中の第33編に“酔い給え(Enivrez-vous)”と言う散文詩がある。常に酔っていなければならない。それこそ唯一の問題である。汝の両肩を圧し砕き、汝を地面の方へ圧し屈める。怖るべき時間の重荷を感じまいとするならば、汝を酔わしめてあれ。さらば何によってか? 酒によって、詩によって、はた徳によって、そは汝の好むままに。ただに、汝を酔わしめよ。・・・≪今こそ酔うべきの時なれ! 虐げらるる奴隷となって、時間の手中に堕ちざるために、酒によって、はた徳によって、そは汝の好むがままに、酔え、絶えず汝を酔わしめてあれ!≫Il faut etre toujours ivre. Tout est la: c’est l’unique question. Pour ne pas sentir l’horrible fardeau du temps qui brise vos epaules et vous penche vers la terre, il faut vous enivrer sans treve.Mais de quoi? De vin, de poesie ou de vertu, a votre guise. Mais enivrerz-vous.・・・・≪Il est l’heure de s’enivrer! Pour n’etre pas les esclaves martyrises du temps, enivrez-vous; enivrez-vous sans cesse! De vin, de poesie ou de vertu, a votre guise.≫
2002.12.18
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麻酔を用いた手術は日本人華岡青洲が1804年、全身麻酔下での手術成功が世界で初めてとされています。(モートンのエーテルによる全身麻酔の公開実験の約40年前のことだそうです)それから遡ること1600年前、中国の三国時代に華陀(かだ)と言う名医がいて、麻酔を使った外科手術を試そうとしたそうです。真偽の程は分かりませんが、吉川英治の「三国志」に登場しています。華陀は英雄関羽が毒矢で指された結果膿んだしまった肘を麻酔無しで、骨まで削る手術を行い、「大医は国を医し、仁医は人を医す。手前には国を医する程の神異も無いので、せめて義人のお体でも癒してあげたいと、遥々これへ来たのです。金儲けに来たのではありません」と百金を受け取らず、飄然と立ち去るのです。その後、魏王曹操の頭痛がひどくなった時も天下の名医として呼ばれ、治療法について「無いこともありません。けれども非常に難しい手術を要します。御持病の病根は脳袋の内にあるので薬を召服がっても、所詮病には何の効も無いのです。ただ一つの方法は、麻肺湯(まはいとう)を飲んで、仮死せるが如く昏々と意識も知覚も無くしておいてから、脳袋を解剖き、風涎(ふうぜん)の病根を切り除くことで御座ります。さすれば十中の八,九は、根治するやも知れません」と見立てるのです。曹操は不当の見立てをしたと華陀を投獄し殺戮してしまいました。彼は生前“青嚢(せいのう)の書”として遺して医術秘伝の書は、譲り受けた人の妻が持っているのは危険と判断し焼却してしまい、為に遂に華陀の“青嚢(せいのう)の書”は世に伝わらずに了ったものだと言うことである。その後直ぐ、曹操は66年の生涯を忽然と終えたのです。歴史小説家の故海音寺潮五郎氏も「三国志」で好きな人物は華陀だと言っていました。激動の世の中でも自分の天分を信じて身を処する生き方に共感したのだろうと思います。
2002.12.17
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岩波新書「市場主義の終焉」で著者の佐和氏は“グローバリゼーションの光と影”について次の様に述べています。市場主義者なら「問題とするに値しない」と言うことを承知の上で「矛盾」を列挙すると次のようになる。1.自由放任のグローバリゼーション(グローバル資本主義)は、国家・住民相互間の不平等を拡大する。こうした不平等の拡大は国際的な緊張を高め、紛争と難民問題に悩まされることになる。2.ヘッジファンドと呼ばれる短期資本は、高金利を求め巧妙にリスクを回避しながら、グローバルに動き回り発展途上国の通貨危機を頻発させる。3.地球上の90%が工業化を遂げたので、工業製品の生産能力は過剰となり、国際的なデフレの長期化が懸念される。4.グローバリゼーション構築を是とするWTOは異なる型の資本主義の間に生じる貿易摩擦を調停する機関としては不適切である。5.グローバル資本主義は、地球環境の汚染・破壊を防除っする力学を内蔵していない。従って、保全の為には市場の力を制御する国際機関の設立が必要である。グローバリゼーションによる経済繁栄を謳歌したアメリカが、今後ともグローバル市場経済の均質化を促進させようとするだろうが、昨今見られる経済力に陰りによっては、そのガバナンスから身を引く可能性は無きにしもあらずである。その様な無秩序状態を防ぐ為には、国連に“経済安全保障理事会”を設けることが、現実味を帯びてくる。今日の日本では、市場主義の信奉者がエコノミストの圧倒的多数を占めている。今から30年前には「市場の失敗」を言い募り、20年前には日本型制度・慣行を誉めそやしてエコノミストの多数派が、今では日本型システムのアメリカ化と市場主義改革の断行を唱和する様になった。市場主義改革の推進は「必要」であるが「十分」では無い。市場主義改革の遂行による効率性を確保しつつ、副作用の緩和を目指す「第三の道」改革による、公正で「排除」の無い社会の実現を同時に目指す。これこそが「必要」にして「十分」な改革なのである。同時改革を可能にするには、平等、福祉等、そのままでは市場主義経済の妨げとなりかねない、既成の価値と制度の根源的なパラダイム・シフトを図って行くことが是非とも必要となるのです。
2002.12.16
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近頃のイラク問題と言い、北朝鮮問題と言い風雲急を告げて来ているのですが、やはり全てがアメリカ主導で問題解決が図られ様としています。国連機能をも副次的な助言に留めようとするパックス・アメリカーナがこの先も続けられることに戦争突入の危険が増大しています。又、国際連合が国際連盟の道を辿るのではと不安を感じています。1963年発行の“ドイツ文学案内”で手塚富雄氏は次のように述べています。ゲーテとシラーの協力が直接現れたものにバラード(物語詩)というジャンルがあり、両詩人は競争して次々に名作を生み出しました。数あるバラードの名作にゲーテの「魔法使いの弟子」があります。これにはデュカが曲を付けディズニーの名画“ファンタジア”の中でミッキーマウスが弟子を演じていますので、知っておられる方も多いと思います。魔法使いの弟子が、老先生のお出掛けの留守に、自分は老師のすることはよく覚えていて霊どもを呼び出すことが出来ると自慢して、呪文を唱えます。その呪文に答えて、古箒が下男のように立ち働いてせっせと水を汲んで来ます。水が盤に一杯になるのですが、弟子は箒の動きを止めて元の箒に返す呪文を忘れてしまっているのです。段々、家は水浸しになる。あせって箒をまさかりでで真っ二つにするが、箒の下男は今度は二人になって水を運ぶ。弟子は悲鳴をあげて助けを求める。そうすると、丁度帰宅した老師匠は呪文を唱えて、古箒の動きををピタリと止めるのです。ゲーテは別に正面切って教訓を与えようとしてはいないのですが、我々はこれから様々なことを考えない訳には行きません。全ての力を本当に有効に使うには、それを動かすことが出来ると同時に、その動きを止めることが出来なければならない。つまり制御作用が無い場合には、その結果は恐ろしいことになるのである。下手な政治家や指導者にはその例が多いであろう。みだりに兵力を動かして収拾のつかない大事態に立ち至らせ、泥沼にはまり込んだのは嘗ての日本軍人であった。彼等は美辞麗句を並べ、大言壮語したこの魔法使いの弟子と同じ道化者であった。
2002.12.12
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本日は2002年のノーベル賞の授与式、若い(中年?)田中耕一氏の受賞は非常に喜ばしいことだと思います。日本の学会でも注目されなかった業績をスウェーデン選考委員会がドイツ科学者を押しのけて探索して呉れたことも嬉しい限りです。画期的な発見は、やはり、20~30才代に行われる様ですので今後もこの様な選考を実施して欲しいものです。生前、地方であったが故に、認められることが無かった天才数学者のことを思いやりたいと思います。ニールス・アーベルは27才で夭折した、ノルウェーの天才数学者です。1933年共立社高等数学講座として刊行され、1995年に岩波文庫として発行された、高木貞治(1875 - 1960)著「近世数学史談」には次のように紹介されています。アーベルは1802年8月にノルウェーの首都(今のオスロ)に近いFinnoと言う所で貧しい牧師の家に生まれて、貧乏と結核とに苦しめられた短い生涯の間に、数学史上無類と言うべき華々しい業績を遺して、1829年4月に世を去った。1824年、16世紀以来問題となって5次方程式の解法を“5次の一般的な方程式を解くことは不可能”として決着させたのである。貧乏な彼は自費出版の印刷代を節約するため、論文を短縮したので説明が十分でなかったことから、その時点では時のドイツの大数学者ガウスの認める迄に至らなかった。1825年、ノルウェー政府の第一回外国留学生4人中の1人として、ドイツ・フランスに二年間在留して失意の帰国をし、その2年後、死に至るのですが、異常なる業績を遺すことになった。その間の行実の概要は次に掲げる。1825年9月コペンハーゲン、ハンブルク経由ベルリンに至る。クレルレと行を結び、数学雑誌発行に参与。1826年2月ドレスデン、ウィーンを経てイタリーに入り、スイスを経てパリに至る。パリ科学院に論文提出するも顧みられず。1827年1月再度ベルリン在留。1827年5月帰国、大学から年額200ターラーの給付を受けての窮乏生活。1828年陸軍士官学校及び大学の代理講師となる。楕円関数論発表し、ヤコービとの論争。1829年4月病を獲て逝去、享年27。1828年になってアーベルの楕円関数論はガウスに知られ賞賛されているが、遺された時間はあまりにも短かった。その論争をしたヤコービは立派な男であった。彼はアーベルの論文に接し「我の及ばざる所、賞賛するに辞無し」と感激を極めて言うている。喜ばしいことに間接にアーベルの耳に入ったのである。そしてアーベルを黙殺していたパリ科学院のルジャンドルに「斯くの如き大発見が二年前に貴科学院に報告されながら、貴下及び後同僚の注意を惹かなかったのは何と言うことでしょう」と憤慨の書簡を送りつけたのです。この二人は対蹠的であった。アーベルは北欧の貧しい新米牧師の子であったが、ヤコービはユダヤ族の銀行家の子としてポツダムに生まれた。アーベルは病弱で内気であったが、ヤコービは精力的な活動家であった。アーベルの天才は或いはガウスを凌ぐものがあったかも知れないが、才能に恵まれたヤコービは精励に於いてガウスに劣らなかったであろう。生誕百年に当たってBjornonは記念詩中の一節にこの様に記されている:Lorsqu’il s’apercut que la mort venait le chercheril la pria d’attendreIl fit des calculs, des calculs,et posa sa signature,la derniere,sous ce que personne ne savait encore,et qu’a peine l’on comprit,aujourd’hui base des recherches. 死が彼を連れに来たことを知った時、彼は待つことを乞うた。計算に計算を重ね、そして最後の署名をした。今日研究の基礎となっている誰も未だ知らなかったことの下に、 誰も了解しなかったことの下に。最初の論文で彼を認めず、アーベルに傲慢と非難された大数学者ガウスも彼の死を知った時、「実に学問界の損失です。この異常なる英才の経歴に関して手に入りましたらお知らせ下さい。」と述べるに至りました。
2002.12.10
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