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ドイツという国は、独語ではドイツュラント(Deutschland)、英語ではジャーマニー(Germany)、仏語ではアルマーニュ(Allemagne)と全く別の国の様に呼ばれる国ですが、どの様な経緯でそうなったのでしょうか?1993年発行の手塚富雄著「増補 ドイツ文学案内」の序説に次のような説明がされている。「ドイツ国」とか「ドイツ語」等における「ドイツ(Deutsch)」と言う言葉ないし意識が発生したのは8世紀末で、「ドイツ語」で書かれたドイツ文学が興った時期でもあった。有名なカール大帝が中西部ヨーロッパの主導権を取り、ローマ法王から西ローマ帝国の帝冠を受けたことから、「ドイツ(Deutsch)」と言う意識がゲルマン族に生まれたと言われている。それまでは地中海に育ったラテン文明の勢力下にあったヨーロッパ地域に、そのような意識が、他に対して自分と言う自覚を押し出して来たのである。ドイツという言葉は、語源的には「民族の」という意味だと言われている。よその人達では無くて、自分の民族を指したのである。即ち、在来の世界に対してゲルマン族の意識独立が行われたのである。それに対して「ゲルマン(Germanisch)」と言う言葉はどうかというと、本来の意味は今も十分には解明されていないが、兎に角これはローマ帝国の人達が、外部からこの民族に対して与えた名称であった。しかし、そこには統一的な姿も意識もなく、フランク族、ゴート族、ブルグント族等々と、多くの種族に分かれていたのである。ローマ大帝国の版図が広がるに連れ、古来の信仰や思想では到底一般大衆を押さえることが出来なくなり、キリスト教を国教とするに至る。又4世紀の末頃からゲルマン民族の大移動と言うものがあって、それが数世紀続いて、嘗てのローマ帝国の領域は、実質的にゲルマン民族の生命力で満たされる様になった。そして8世紀、カール大帝のローマ帝国皇帝の即位を契機に、フランスを中心とするラテン文明に対抗して、西欧文化圏に入り込んだのである。ただ、ドイツは、ローマ帝国の後継者であるという意識が強すぎたため、諸王侯は世界統一の理想もしくは夢想に走りすぎて、しばしば外征に従事し、内政の上で足元を固める点では、ラテン文明圏に対して遅れを取ってしまった。これは後々までドイツが背負った宿命の一つとなってしまった。現在ドイツ人は自分をドイツ人と呼び、イギリス人等は今もそれをGermanと言っているのは、内からと外からの掴み方を受け継いでいるのである。又、ドイツ的に対比させてゲルマン的と言う時には、カール大帝以前、キリスト教との融合以前の状態に根ざしている民族的性格を指すものと考えて間違いはない。
2002.12.05
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暗闇にあてられた一条の光線に浮かぶ人物像はその過ごして人生をも浮き立たせるような切迫感、エッチングの風景画での一条の線による太陽光線の存在感、そのような圧倒的な魅力を400年に亘って与え続けているレンブラントは薄幸の画家でした。1877年に刊行されたフランスの画家・作家であるフロマンタン氏は「オランダ・ベルギー絵画紀行-昔日の巨匠たち」の中でこう述べています。 「レオナルド・ダ・ヴィンチとレンブラントは、ものの理想的本質を視覚化しようとする欲求故に苦心惨憺したという訳だが、確かに当たっていなくもない。事実、レオナルドは、芸術発展の初期段階で出現した明暗法の先駆的代表者である。その後時が経ち、フランドルでリューベンス(彼は暗さよりも明るさの方を使うのだが)が登場し、レンブラントの芸術が明暗法の決定的、絶対的表現を確立したのである。」しかし、プロテスタントの共和国で貴族的偏見と階級差が無いことになっているオランダでも、芸術家レンブラントの特別な才能ををもってしても、人間としての出自の低さ故に、社会の薄闇に留められ、やがて呑み込まれてしまうのです。「レンブラントは天才だった。名声も勝ち得た。デビューしてしばらくの間は、多くの画家達がレンブラントに異常な程心酔して、その模倣者となった。にもかかわらず、アムステルダムにおいてさえ、上流社会はレンブラントを自分たちの一員として迎えようとはしなかった。扉をほんの少し開くことはあったかも知れない。しかし、レンブラントの手になる肖像画は、彼を上流社会向きの画家として推薦するようなものではなかったし、彼の人品骨柄にしても同様である。肖像画は、上流社会好みの、眼に快く、自然で、すっきりしていることにはほど遠いものだったので、彼はこの社会層に認められ、高く評価されるに至らなかったのだ。≪夜警≫に描かれたコック隊長はは、この絵の不満を埋め合わせるため、後年、改めてファン・デル・ヘルストに肖像を注文したのだった。」訳本は1992年岩波文庫として高橋裕子女史の翻訳・解説で発刊されています。解説の中で著者の「レンブラントの夜警は失敗作」と言う見解に対して次のように解釈・記載しています。「では≪夜警≫は失敗作であろうか? 難点の指摘はいちいちもっともであるが、≪夜警≫自体を失敗作と評することは異論も多いと思う。しかし、この絵の特異さが“本物の情景を本物でない光で照らすこと、言い換えれば事実に幻影の理想性を与えること”と言う狙いに発しているというフロマンタンの分析が、この作品についての、更にレンブラントの芸術的個性についての、示唆に富む主張であることは確かである。」
2002.12.01
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イラクへの国連査察団による大量破壊兵器解明査察が行われる現状、北朝鮮拉致問題が膠着する現状がメディアで報じられていますが、独裁体制が如何に創られ、維持され、国際社会の中で利用され、黙認されて来たのかを知る時に、何とか戦争以外に解決策は無いのかと考えざるを得ません。この新書は、イラクについての現状・歴史的背景を冷静に纏めた書籍と思われます。発行が2002年8月なので、国連安保理決議以降については記述されていないのですが、熱狂ジャーナリズム報道になっていない所も逆に魅力かもしれません。イラクとアメリカ-酒井 啓子岩波新書796 2002年8月発行フセイン体制が終わりかと思ったことが過去二回あった。湾岸戦争と大統領娘婿が亡命した時がそれだが、二度とも生き延びた。2001年9月の同時多発テロ事件で、深手を負ったアメリカが、ビン・ラーデンから次にはサダム・フセインに向いて行くだろうことは、容易に想像がついた。果たしてこれが「三度目の正直」となるのか、「二度あることは三度ある」ことになるのか現時点では分からない。だが、フセインの創り上げたものが「イスラム」と言う我々にとって「他者」の世界に独特なものでは決して無くて、冷戦構造や独裁国家や国によるこの管理と言った、我々の慣れ親しんだ「西欧文化のなれの果て」から出現したものだ。「フセイン的なるもの」の持つ危険は、「彼等」の問題でなく、常に「我々の社会」に内包された問題として考えて行くべきでは無いだろうか?中東はアメリカの国際外交にとって最重要地域で、米国石油メジャーの権益が確保されている最大の産油国サウジアラビアを守ることが至上命題であった。イラン革命以前では、イスラエルとシャー時代のイランと言う強力な「代理人」の存在に安心し、米ソ二極構造の中で解釈し処理出来たのである。イラクについては、アメリカは1970年代迄「親ソ」と敵陣営に追いやって来たにも拘わらず、「反米イラン」封じ込めの為に、イラクを「親米」の枠組に取り込み、その枠内に取り込み対処し軍事大国化させてしまった。軍人では無いサダム・フセインは、親族支配・政敵の放逐によって独裁体制を確立後、こうした「二極対立」を日常生活のあまねく場所に密告制度と共に蔓延させ、社会の対立を操作することで、絶対的な支配を継続させて来たと言えよう。この「二極対立構図」が如何に易々と世界に浸透するかは「9.11事件」以後、即座に「文明の衝突」と言う単純な図式に基づく世界認識が蔓延してきたことを見ても良く分かる。アメリカはカウボーイ型の「正義か悪か」の選択を突きつけるが、フセインのやってきたことも又同じ「二極対立」構図をそのまま鏡に映したものに過ぎない。又、フセイン政権に自力で抗する能力を持たない微少な反体制派達は、フセインとアメリカと言う「二つの力」が対立し合う二極構造を利用することでしか、自らの目的を実現することは出来ないと考え方も、「イラク対アメリカ」の対立図式の中で、呼び覚まされているとも言えよう。しかし、問題は、こうした意識構造から如何に抜け出すかと言うことで、フセイン個人の存在にあるのでは無い、寧ろ大きな「恐怖を生む二極対立」でしか自己表現していく方法から抜け出し、フセイン自身を生み出した「フセイン的なるもの」を如何に乗り越えることこそが、将来の最大の課題だろう。石油資源と言う魔物を保持するイラクは、アラブ諸国の協力(一時的にせよ)もあって国連査察団の解明努力もあって改善して行くように思われますし、又期待します。だが一方、北朝鮮はどうなるのでしょうか? ブッシュ政権の悪の枢軸発言で、ある程度の内情が国際的に明らかにされつつありますが、国際社会が守るべき天然資源も無い現状で極東の問題として片づけられてしまいそうな懸念は拭い去れません。友好国とされる安保常任理事国である中国、ロシアも静観の構えを崩していないのです。
2002.11.28
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評論家、加藤周一の「ヨーロッパとは何か」の一節には次のようなことが書かれていました。何分書かれたのが40年前なので、時代の流れを感ぜらるを得ないが未だ正鵠を得ている所も多いと思ったのです。“私はヨーロッパの境界をを感じ、境界の内側にヨーロッパと言う一種の統一ある実体を感じる。同じ統一、アジアには無い。この厖大な地域、太平洋の岸からアラビア海の岸まで、共通の言語、共通の宗教、共通の文化的遺産の支配したことは無い。アジアは一つでは無い。しかしヨーロッパは、一つであると感じるだろう。至る所に教会がある。又カテドラルがある。そして少なくともその僧院やカテドラルの作られた時代から今日まで、10世紀から20世紀迄のヨーロッパの歴史の持続を感じない訳にはゆかないだろう。”戦後15年を経過していたが、戦前日本軍部を中心とした「アジアは一つ(八紘一宇)」を完全に否定することで、日本の民主主義の確立を意図したものと考えるのです。近年のヨーロッパ内の民族紛争を見るとヨーロッパは一つとは考えにくいのです。“しかし旅行者にとって、一番大切なことは、日本を忘れることであろう。事毎にくにを想い出して、或いは味噌汁をを思い、或いは憂国の大使を燃やしていては、他の国のことは碌に分からぬ。ここには計画に基づいた見事な建設がある、と気のついた瞬間に、それに引き代え日本では・・・と考える流儀では、計画に基づいた建設そのものの中に、どんな問題が含まれているのか、考えてみる暇もあるまい。人生に最も必要な精神的能力は、記憶より忘却である。旅行者の特権は、国を忘れると言うことだ。国を出て国に帰る旅行者の、その国との絆はあまりにも強く、安んじてそれを忘れ、時間と能力を見聞の拡大に捧げることが出来る。ところが、亡命者は、国元に固執する他は無い。その言葉、その食物、その衣服や祭日を異郷に固執して譲らないのが、普通である。故郷へ帰ることは原則として無いからであり、故郷との絆は既に断ち切られてしまっているからだろう。私は中央アジアで亡命のギリシャ人達が一堂に会し、ギリシャ語の歌に聞き入っているのを、見たことがある。歌に聴き入る人々の眼は、異様に輝き、あたかもその歌を忘れまいと努めているかのようであった。しかし旅行者には、忘れまいと努める必要が無い。我々はいつも故郷と共に生きている。”1960年代の小田実「何でも見てやろう」から始まった、偏見・固定感の無い貧乏海外旅行には、彼の考え方に共鳴した所が大きかったと思われます。が、時代は変遷を重ね自由な国際結婚での自由な居住地の選択可能と現代から見ると国外生活者には亡命者の悲壮感はありません。但し、現代でもブラジルからの出稼ぎ労働者がブラジル村などを形成しているのを考えると彼の評論が間違っているとは思えないのです。
2002.11.21
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フランツ・カフカ(Franz Kafka)は、オーストリア・ハンガリー帝国に属していたプラハにユダヤ系ドイツ人として1883年に生まれ,生涯のほとんどをこの町で過ごしました。 労働災害保険協会に末端の官吏として勤務するかたわら,「判決」「変身」「城」「審判」などの作品を残し、1924年貧困の内に結核で1924年亡くなったのです。死後20年程は殆ど忘れられた存在だったのですが、第二次世界大戦後フランスを中心とした実存主義哲学の台頭と共に脚光をあび、「非現実的」で「不可思議」な「不条理」を扱った「実存主義」の先駆として一躍注目を浴びることになりました。日本では昭和30年代に紹介されました。彼はプラハに住んでいてもチェコ人で無く、ドイツ系であり、そうであってもドイツ人で無くユダヤ人である、と言う二重の否定の精神構造を条件とする「異邦人」であったのです。彼の迷路を彷徨うような出口のない謎に満ちた文学空間は、理由を明らかにせず、主人公が彷徨う軌跡を克明に記述するだけなので、読者も途方に暮れて困惑させられるのです。「変身」は短編で、奇妙な書き出しから始まります。「その朝、何か重苦しい夢から目覚めると、グレゴール・ザムザはベッドで毒虫に変身している自分を発見したのです」その後、数日間その状態にもがき苦しむのですが、事態の好転は無く、変身した姿を家族にも見られて家族の絆も失ってしまい、妹のみが哀れみをかけるのですがどうしようも出来ません。挙げ句の果ては父親の投げつけたリンゴによって傷つきそれが元で、カラカラになって死んでしまうのです。結びは、又何事も起こらなかった様に淡々とした日常生活を描写することで終わります。「冬が去って春が来た。ザムザが死んだその日、父母と娘は電車に乗って郊外に出掛けます。・・・ 両親は気がついた。娘がいつの間にか、匂うばかりにふっくらとしている。しかるべき相手を捜してあげる日は近いのだと。電車が停まる。若い娘はのびのびと体をそらして大きくのびをした。」「城」「審判」など他の小説が、迷路に閉じこめられた世界に埋没する状況に較べて、この「変身」では最後のエピソードで“自己にとって救いがたい疎外状況”が、他人にとって些細なことなのであり、観点を変えれば疎外状況を深刻にならず受け入れ、“シジフォスの神話”的世界を黙々と生活することも出来そうだと言っているのでしょうか?カフカの呪縛に掛かってしまったかも知れません!
2002.11.18
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発行されたのが1994年なので時宜を得ていない感があるのですが、近頃のどうしても戦争したい政策を採り続けるアメリカと対比しつつ読みました後、パクス・アメリカ-ナが復活した経緯・現状を以下のように考えました。クリントン政権の前期、ポスト冷戦下で「唯一の超大国」となったアメリカではありましたが、米国企業の海外膨張志向にも拘わらず、内なる「社会と経済」の低迷から衰退の時を迎えていると言われていました。国家財政の赤字、貿易収支の赤字がアメリカを苦しめていたのです。 しかしながら、経済構造を重工業製造業中心から金融業を中心と資金運用に切り替えることによって、政権後期に国家財政の黒字化を成し遂げ見事に復活を達成したのです。国際貿易赤字を苦にせず、その結果が米国国債の買い付け・米国国内投資の形で残れば、実害無しと考えることに変えたのです。つまり、日本・西欧に敗れた従来型の経済競争では競わないと仕組みを変えてしまったのです。そうすることで、1980年代に言われた「日本に出来て何故米国に出来ない」等と言う反省はしなくて良いことになりました。クリントン政権後期は経済の繁栄を「唯一の超大国」が唯一謳歌したのです。経済が好調になると、比例して政治的にも強いアメリカを誇示するようになりました。中近東紛争も当事国をアメリカに呼んで調停させるパクス・アメリカーナが復活したのです。多国間の協調によるクリントンの「変革の政治」は不要な存在となり、「古き良き」アメリカのピューリタニズムの伝統、自助努力の中間層の民衆(WASPと呼ばれる白人至上主義階層"White Anglo-Saxxon Protestant"の頭文字を取ったもの)が「強いアメリカ」のリーダーシップを掲げる共和党ブッシュ政権を選択することとなりました。「戦争とは別の手段を以てする政治の延長」との認識で、内政の支持を糾合する為に、共通の敵を外に見つけ、対外強硬策に民衆の内なるナショナリズムをかき立てるのです。長年の敵であった共産主義者はソ連崩壊で役割が殆ど完了となりました。クリントン政権が親中国政策を採っていたこと、及び現在の中国がそれに取って代わる程の実力が無いと判断したのです。しかし、ロシアを巻き込んだ中国包囲網を画策していたのですが・・突然情勢は変化しました。イスラム原理主義による米国政治経済の象徴への多発テロが起きたのです。敵にも値しない陣営から宣戦布告でありました。幸か不幸か、絶好の共通の敵が出現です。仕組みを変えたパクス・アメリカーナが、国際社会の認知を受けながら復活したのです。政治経済、環境問題でもアメリカ国内事情で決定され、国際的な協調は多少考慮すれば良いことになって来ました。この復活が、混沌と紛争を作る彼岸に「非西欧世界」をおき、秩序と平和を作る此岸に「西欧世界」を置き続け、彼岸から繰り出される「脅威」に対して軍事力で対応する限り、早くも解体に向かいつつあると思いますし、そう考えたいのです。
2002.11.17
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変人と言われながら、ホメロスの叙事詩を真実の話と信じてトロヤの遺跡を発掘し、西欧の古代研究学会を仰天させたハインリッヒ・シュリーマンが、その偉業を成し遂げる6年前に、清国、日本、アメリカ、メキシコの世界一週旅行をしていますが、彼の処女作であるこの本は横浜からサンフランシスコへの航海中50日間に執筆されたものの様です。シュリーマンは1822年。北ドイツで牧師の子として生まれ、9才で母を失い、学校教育も満足に受けることが出来ず、14才から売店の小僧として働き始め、19才でアメリカ行きの帆船に乗り込んだが難破して、オランダに漂着し最初の挫折を味わいます。しかしめげること無く、アムステルダムで糊口を凌ぐかたわら、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語をマスターして行きました。彼には、類い希なる語学力、商才、持続する情熱が備わっていたのです。24才でアムステルダムでインディゴ(藍色染料)の商談確立し、その後ペテルスブルクでの商館開設、アメリカのゴールドラッシュに乗じた銀行設立など、国際的な大商人となって巨万の富を築いてしまうのです。1863年、41才で経済活動を打ち切って、年来の夢であるトロヤの遺跡発掘の夢実現に舵を切り換えるです。1865年から、1年を掛けて世界漫遊の旅を志し、インド、香港、清国、アメリカ、メキシコ、ハバナを経てパリに1866年落ち着き、改めて考古学を勉強し、1868年に博士号を取得したのです。トロヤの遺跡発掘に成功したのは1871年のことでした。その後1876年ミケナイ、1884年ティリマチス遺跡を次々と発掘、彼も1880年ギリシャに居を構え晩年の10年間を過ごしました。遺跡発掘の経緯については「古代の情熱」の著作となって世に知られていますが、処女作「現代のシナと日本」については、殆ど知られていない様ですがパリ国立図書館に長い間静かに眠っていたのですか仕方のないことかも知れません。本書を読んでみると、彼の視点は清国については厳しいのですが、日本については暖かいのです。阿片戦争後の世情紊乱した清国と、開国直後で混乱はしていますが独立心の垣間見える日本との違いを鋭く感じ取った結果なのでしょう。通例の日本紹介は、欧米至上主義の観点からの著作が多い中、本書は欧米文化への反省も入れているのです。「椅子やテーブル、長椅子・ベッドとして美しいゴザを用いることに慣れ親しんだら、同じくらい快適に生活出来る」「器用に箸を使って、フォーク、ナイフ、スプーンでは真似の出来ない程優雅に食事する」「日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本となるだろう」「玩具の仕上げは完璧、ニュルンベルクやパリの製造業者はとても太刀打ち出来ない」勿論、混乱の幕藩体制が種々のスパイ活動にて維持されていることに苦言を呈してはいるのですが、失われてしまった嘗ての美しい日本の日常生活描写を的確に指摘しています。江戸情景も、70%を占める大名屋敷界隈では道幅が20~40mと紹介されていますし、東海道も11mの幅で念入りに管理された世界でも屈指の街道と紹介していますし、従来ウサギ小屋と狭い未舗装道路が江戸時代の日本と思っている日本国民にとっても史料的価値の高いものと判断出来ました。
2002.11.16
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1996年丸善ライブラリー「ニューヨークの日本人」の中で著者黒部氏の発言です。著者は上智大学博士課程修了後、国連本部に採用されたので、日本での官庁・企業文化に染まらずに17年間活動して来たので、従来に無い視点からの指摘に納得出来る所が多かったと思っています。レジメンにRegimenと言う英語を宛てていますが、組織化、統制という意味で使っているのでRegimentのことだろうと思いますが、それは些細なことと読み進みます。「思うに、日本は未だにこの「レジメン」社会なのである。伝統を何世代後の子孫に迄強要するのは、どんな物であろうか? 特に教育で、若い人を無理矢理に、日本のレジメンの鋳型に押し込め、全員を金太郎飴の様に、どこから切っても同じような中身になるようにするワンパターンは終焉を告げている。」「私たちは、全て自分の育った環境の中で学んだ“常識”なり、“良識”なりを尺度にして他の物に接し、その物差しで見ようとする。これはごく当たり前の行動パターンで悪いことでは無いのだが、その“物差し”が異文化交流などで培われ沢山あった方が、より一層、その人生を面白くエンジョイ出来るのでは無いかと言う気がするのです。」此の本発行から6年経ちました。良否は分かりませんが、最近の日本では、若者の茶髪も増え、文科省もゆとり教育を提唱するなど多様性を育む土壌が形成されつつあると思っています。楽天広場での海外生活者の日記を散見すると自分の意志で異文化社会に入っての体験談・自己主張が多く、それが加速されつつあると感じています。しかしながら、伝統ビジネス社会ではレジメン伝統を崩さず、日本では黒髪・ダークスーツでの業務遂行は変わらないのです。これは米国東部のビジネス社会でも面々として続いていると思われます。すると、公務と私生活の乖離を自認して、多様性を私生活に求めることに帰結するだけなのか?と多少疑問符をつけながら本を閉じました。
2002.11.14
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「星の王子さま」のレコードをご存じでしょうか?出演者は五人、絶世の美男子俳優ジェラール・フィリップが作者サン・テグペリ役、名子役ジョルジュ・プージュリーが星の王子さま役で録音は1954年です。日本での発売は1965年秋でした。1954年のフランスACCディスク大賞を受賞した程ですから、その後CD化されての発売にもなっている思いますが確認しておりません。 レコードは日本コロンビア発売OL-215-Fですが、CD化されての発売はされていないようです。インターネットで調べて米国系CDNOWサイトで見つけて、国際郵便で手に入れました。しかし、フランスから直輸入盤でテキストが付いていません。私はレコード付きの仏文テキストがあるので困りませんが・・ 発売はUniversal Jeunesse @1999でした。フランス語での会話で、逐一訳も付いておりませんが、音楽的な響きがあるので魅力があったのでしょうか? 1965年時点で何故売れるのか話題になりました。“私はサハラ砂漠での飛行機事故に遭遇するまで、真に語り合える人もなく6年もの間、孤独で生きて来ました。エンジンに何か故障が起こり、整備工も通行人も無いので、たった一人で難しい修理を行おうと準備を始めようとしていました。・・”という語り口で始まり、星の王子さまが突然作者の前に姿を現し、わずか数日の心の交流をするのです。王子は小さな星でバラの花と暮らしていたのですが、我が儘な態度にいたたまれず逃げ出して、本当の暮らし方を見つけに種々の星を渡り歩き、地球に着いた所でした。サハラ砂漠に住むキツネに「大事なことは眼には見えない」と言われ、我が儘な様に見える本当は自分を好いてくれるバラの花を守り暮らすことが大切だと悟るのです。故郷の星に帰るには体の重さが邪魔となるので、砂漠に住む毒蛇に噛ませて魂だけとなり帰って行くのです。“もう既に6年が経った。もしアフリカに旅行し、私が不時着した辺りに着いたら、そこで少しの間じっとお待ち下さい。金髪の少年が微笑しながら現れ、聞いても何も答えなかったら彼なのです。優しくしてあげて下さい、そして彼が帰って来たと便りを私に出して欲しいのです・・”作者サン・テグジュペリは第二次世界大戦にて飛行中行方不明となりました。ジェラール・フィリップは映画俳優として「パルムの僧院」等で、人気の的となり、又舞台俳優として「ル・シッド」の当たり役を演ずる存在感のある人でしたが、1959年突然に世を去ってしまいました。ジョルジュ・プージュリーは名画「禁じられた遊び」でミシェル少年を演じた名子役ですが、彼も若くして死ぬこととなりました。実力のある人々が夭折する運命を予告する様な、そんな意味合いを保持したレコードだったのかと思われてなりません!
2002.11.11
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