証を求めない愛
佐藤春夫の『星』では、この三人が数奇な運命に導かれて出会い共に暮らすようになるまでの経過の方に重きが置かれており、こんな簡単にはもとよりまとめられないのだが、僕の興味を引いたのは三人が共に暮らし始めてから起こった悲劇のほうである。
詳細なストーリーを書いてしまうともしも読もうとされる人が困られるので書かないが、少し書くと、やがて益春が妊娠し、夫は心変わりして益春を愛するようになる。
「それにしても夫の愛が－あれほど深かった夫の愛が、いつからどうして益春の方へうつって行ったろう」
「五娘は憂さを紛らそうとして機にのぞんで、しかし長く織る手をやめて、その代わりに筬のように休みのない思いで心に悪い布を織っている」
「五娘は陳三を見ない夜にはその恋しさを多く思うのに、陳三を見る時にはつい胸一ぱいに閉じ籠もっている怨言の方を先に言う。その尽きない怨言のまだ終わらないうちに夜が明ける」
なぜ恋しさの方をいわなかったのだろう、と後悔するがまたの夜は同じことが繰り返される。夫は五娘の言葉を聞きながら染み出るような益春の優しさを思う。
五娘はいまなおいくらかでもまだ夫が自分を思っていてくれる心があるかどうかを試してみないではいられなくなった。
「証（あかし）を求めないではいられない愛は苦しい」
そして悲劇は起こる…
「私は神仙を望まない。人間の幸福が欲しい」といっていた陳三に…
人生をシンプルにするにはどうすればいいかを考える時この佐藤春夫の『星』は多々考える材料を提供してくれるように思う。
「五娘は憂さを紛らそうとして機にのぞんで、しかし長く織る手をやめて、その代わりに筬のように休みのない思いで心に悪い布を織っている」
人は自分で意味づけした世界に生きている。誰もが同じ客観的な世界に生きているわけではなくて、自分が見ているようにこの世界が見える、あるいは、さらに積極的にいうならばこの自分がこの世界を創っているといっていいくらいである。
向こうからやってきた人がすれ違いざまに目をそらしたとする。その人は私のことを知らないのではなくて、それどころかひそかに好意を寄せる人だとする。私のことが嫌いなので目をそらしたと思う人もあれば、目にごみが入ったからそのことに気を取られて気がつかなかったと思う人もあれば、さらには、私に好意を持っているので恥ずかしいから目をそらしたと考える人もいる。いずれの見方をするかは人によってさまざまである。
「休みのない思いで心に悪い布を織っている」五福のような人は自分が愛されていないことの証拠をいとも簡単に見つけてしまう。
「五娘は陳三を見ない夜にはその恋しさを多く思うのに、陳三を見る時にはつい胸一ぱいに閉じ籠もっている怨言の方を先に言う。その尽きない怨言のまだ終わらないうちに夜が明ける」
こんなふうに怨言をいうことがどんな結末をもたらすか知らないケースである。はたしてこんなふうなことをいい続けたらこの人は私のことを好きになってくれるのだろうか、それとも嫌いになるだろうか。かなり自明のことだと思うのが冷静さを欠いている人にはこんなことも見えなくなってしまっている。仮にこのようなやり方で相手の心が自分になびいたかのように見えてもその人は決して心からあなたを好きになることはないだろう。ただただ恐れからそのように見えるようにふるまっているだけである。そんなふうに愛されても意味はないように思うのだが。
好きになってほしければ好きになってもらえるようにふるまう。これはシンプルな真理だと思う。変化球ではなくストレートの直球を投げるのみ。ただし相手がこちらの気持ちにこたえてくれるかというとそれはまったく次元の違う話であって、私はあなたを愛することができても、あなたに私への愛を強要することはできない。
「夫は五娘の言葉を聞きながら染み出るような益春の優しさを思う」
ライバルのいる恋愛はむずかしい。しかし私があなたを愛するだけであって、その二人の愛を私は問題にすることができるだけである。あなたがかりに他の誰を愛していても、私はその愛を問題にすることはできない。どちらの愛を選ぶかは私には決められない。
ある夜明け陳三は五娘を訪ねる。ところがそこに彼女はいない。枕元に一通の手紙があった。陳三は震える手でその手紙を開いた。陳三は驚いて外に出て庭の井戸に行く。身を投げると書置きがあった井戸のところへと。石畳の上には靴が片一方。井戸を覗き込むともう一方の靴が水の中に浮かんでいた。
陳三は井戸の中をもう一度覗き見る。「五娘！」と叫ぶ。
「星影を映した深い水が彼をおびき入れる。よろめいて彼は堕ちた－突きのめされるように、また狼狽して足を踏み外したように」
井戸に近い穀倉から鋭い叫び声があがった。穀倉からよろめき出てきた人影があった。幽鬼のように蒼ざめた五福だった。
ATGという言葉がある。Attention Getting Behaviorのことで注目を引く行動という意味である。五福の行為はその最たるものである。もとより誰もここまで極端なことをすることはないが、質的には同じことをしてまわりにいる人の注目、関心を自分を向けようとすることがある。
どうすればいいのか？ 「私の話を少し聞いてもらえない？」といえばいい。「私のこと好きになってもらえません？」といえばいい。もちろん、そんなふうにいったところで相手が聞き入れてくれるかはわからない。しかし、どんなことをしても人の心を無理に自分の方に向けることなどできないのである。
© Rakuten Group, Inc.
