遠方からの手紙

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

娯楽に年齢は関係ない New! 七詩さん

今年最初の肉まん New! FAM5220さん

逝く秋の句 AZURE702さん

PC 修理 および 新… alex99さん

先が見えない abi.abiさん

翻訳立国トラドキス… 人口500万人の国さん
真理を求めて 秀0430さん

Comments

王島将春@ 擁護するに足る背景事情があったと信じたい (つづき2) 私のコメントを読んでいる…
王島将春@ タルムードに想像を絶する女性蔑視の文言が収録された背景事情 (つづき1) 次に女性蔑視の文言につい…
王島将春@ タルムード祝福論60b 今から記事とは関係のない事を書かせて頂…
王島将春@ 聖書預言 はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
effelpist@ kilovermek.es effelpist &lt;a href=&quot; <small> <a href="http…
クロワッサン@ Re:物言えば 唇寒し 秋の空(10/08) 空ではなくて風なのでは??
夢野久作孫@ Re:玄洋社とカレーの関係(04/07) ‪本来の玄洋社は国権派ではありません。戦…

Archives

2025.11
2025.10
2025.09
2025.08
2025.07
2025.06
2025.05
2025.04
2025.03
2025.02
2008.02.16
XML
カテゴリ: 歴史その他
 昨日、こんなニュースがあった。
神功皇后陵を初調査

 宮内庁は15日、日本考古学協会など考古学、歴史学の計16の研究団体に、奈良市の神功皇后陵(五社神古墳)への立ち入り調査を許可し、22日に調査が実施されると発表した。

 これまでも補修工事などの際に見学が認められることはあったが、学会側の要望に基づく陵墓の立ち入り調査は初めて。

 宮内庁や協会によると、陵に入るのは各団体の代表16人。墳丘の外観を目視で観察するのが中心。立ち入りは墳丘第一段目の平らな場所までで、発掘は認められていない。

 宮内庁が過去に作成した図面を検証するほか、埴輪の確認などで詳しい築造時期を明らかにするのが目標で、4月上旬に奈良市でシンポジウムを開き、調査結果を公開する。来年度以降も、京都市の明治天皇陵(伏見城跡)など全国の陵墓調査を申請する方針だ。

 神功皇后は第14代仲哀天皇の妻。陵は古墳時代のものとされ、全長約270メートルの前方後円墳。〔共同〕




 この神様の言葉を、そんな馬鹿なといって信用しなかった天皇は、バチが当たって死んでしまい、驚いた皇后はお腹の中に子供がいたにもかかわらず、乱暴にも海を渡って新羅や百済と戦い、これを従えたとのことである。

 このときのお腹の中の子供がのちの応神天皇であり、その息子が仁徳天皇、さらにそのまた息子が履中と反正という兄弟天皇ということになっている。

 いっぽう、中国の歴史書である 「宋書」 の倭国伝には、 「倭の五王」 と総称されている、讃・珍・済・興・武 という五世紀にいたらしい五人の王様の話がある。

 この中国の史書と記紀の記述との関係は、昔からいろいろと論じられていて、たとえば歴史学者の藤間生大などは、讃は履中天皇、珍は反正天皇、それから済は允恭天皇で、興は安康天皇、武は雄略天皇としている (岩波新書 「倭の五王」)。

 しかし、ほかにも讃は仁徳天皇だとか、いやいや応神天皇だとかいう説もあるし、古田武彦のように、そもそも 「倭の五王」 と天皇家とは無関係だなどという説まであったりもする。

 ようするに、どの説も決め手がないわけである。これは互いにあちこちに矛盾がある文献資料の解釈だけで議論しようとすると、必ずぶつかる壁のようなものである。そもそも、どの資料もむちゃくちゃ古いものであるから、完全な信憑性など求めるのが、どだい無理というものなのである。

 であるから、そういった資料だけに頼って論じることには、どうしても 「机上の空論・砂上の楼閣」 といった感じがつきまとう。というわけで、ここはどうしても、やはり考古学的な資料による裏付けというものが必要だろう。

 とすれば、今回の宮内庁の決定はいちおう歓迎すべきものではある。しかし、ただ墳丘の一番下の部分の見学を許すだけで、発掘は認めないというのはいかにも不充分である。それに、やっぱり調査の本命は、なんといっても大阪にある、仁徳天皇陵や応神天皇陵などに指定されている巨大古墳群だろう。

 それにしても、こういった 「陵墓」 の発掘調査は、いったいいつになれば許可されるのだろうか。全国の古代史研究者や古代史ファンの皆さんは、きっと首を長くしてその日を待ち望んでいるはずである。

 別に発掘調査の結果として、これまでの伝承だとかになにか間違いが見つかったからと言って、いまさら誰かが恥をかくというわけでもあるまいに、と思うのだが、やっぱりまだまだ反対する人もいるのだろうね。

参考HP:  天皇陵  (宮内庁)






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2008.02.16 19:02:05
コメント(18) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


Re:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
シカゴ さん
かつさん、こんにちは。

「歴史(history)は物語(his story)だ」というのは流行りの相対主義的歴史観ですが、真に相対主義の立場に立つのなら「物語(his story)」が「誰の」物語なのかという観点から文献を読みとる必要があるのではないでしょうか。私の知るかぎり明確にこのような視点から文献批判を行っているのは古田武彦くらいのものです。物語だから虚構だときめつけて放り投げてしまったらわずかにしか残っていないせっかくの文献がもったいない。シュリーマンの例を挙げるまでもなく神話や物語の中には現実が反映されています。虚構の中に混じっている真実を求めるのはいささか困難なことではありますが「誰の物語か」という立脚点はその手がかりを与えるものだと古田は考えているはずです。自分の説に都合の良いものは事実、都合の悪いものは作り話とするような恣意的な解釈がまかり通っている古代史学の中では古田の研究は貴重なものだと私は思っています。

なお日本の考古学は自然科学的な手法をあまり取り入れておらず、いまだ解釈学にとどまっているのではないかと私は思っています。 (2008.02.16 23:48:39)

Re[1]:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
シカゴ・ブルース さん
蛇足です。

今は亡き(苦笑)東京教育大学では日本史学科が文学部に属していました。なるほど日本史学は文学なのかと妙に得心がいったものです。 (2008.02.17 00:08:27)

Re[1]:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
かつ7416  さん
シカゴさん
えーと、古田さんの学説については、初期のものについては、かなりいい線をついているように思います。
とくに、『盗まれた神話』での記紀神話は九州を舞台にしているとの主張は、かなり信憑性が高いように思います。
いわゆる東征伝承も、神武天皇と神功皇后と二度にわたって繰り返されていますし、そこになんらかの歴史的事実が反映しているとみることは可能でしょうね。
とりわけ、文字や言葉、記録や伝承というものに対する古代人の思想とか感覚とかを考えると、すべてを意図的な捏造とか創作みたいに決め付けるのは無理があるように思います。
これは最近の聖徳太子をめぐる議論でも感じますが、当時の記録を天皇家や有力な豪族といった権力者による恣意的な「捏造」であるかのようにいう議論には、しばしば脱神話的な近代人の感覚が無意識のうちに混入しているように思います。
どこの国でもそうでしょうが、たぶん、古代人の感覚というものは、そういうものではなかったのではないかと思いますね。
ただシュリーマンの場合もそうですが、最後はやはり考古学的な裏付けが必要でしょう。どうしても資料解釈だけでは行き詰ってしまいます。
その意味でも、宮内庁が「陵墓」に指定している多数の古墳の発掘は待たれますね。 (2008.02.17 00:30:06)

Re[2]:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
シカゴ さん
かつさん、こんにちは。

>ただシュリーマンの場合もそうですが、最後はやはり考古学的な裏付けが必要でしょう。どうしても資料解釈だけでは行き詰ってしまいます。

いや、いわずもがなだったので書きませんでしたが、考古学的な裏付けや出土物に対する自然科学的なアプローチの必要性についてくどいほど力説しているのは古田その人です。自らの足で現実の考古学的遺物に直接当たり、自然科学者の助力を仰ぎながら文献史学に力を注いでいる古田を、解釈学に傾きがちな他の文献史学者と同列に扱うのはどうでしょうか。古田の真骨頂は偽作説を覆した親鸞の「建長二年文書」(三夢記について)についての研究や改ざん説を覆した好太王碑現地調などの足が地に着いた研究にあります。古田がマルクスの「すべてを疑え」と同じ地平に立っていることは確かです。

また『天皇陵を発掘せよ』(三一書房・藤田友治との共著, 1993年)という著書もあるように古代史学の理論的裏づけとして考古学的調査の重要性を指摘しているのも古田です。

『新古代学の扉』
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html (2008.02.17 01:25:32)

Re[3]:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
かつ7416  さん
シカゴさん
古田さんの親鸞研究は承知しています。
これは、彼が古代史研究に転じる前のことですね。
学閥やイデオロギー的な派閥に捉われず、また孤立を恐れずに研究を進めてきたことなどは、尊敬に値することだと思います。
ただ、「東日流外三郡誌」問題に関しては古田さんは分が悪いように思います。
この件に関しては、古田さんの文献解釈主義的なやり方の限界というか、欠陥のようなものが出ているように思います(もっとも、この件に関してはそれほど多くのことは知りませんが)。
もちろん、文献資料の批判も重要な分野であり、非常に骨の折れる仕事であることは理解しています。
古田さんは学界では異端児であった人ですから、おそらく他の研究者や他の分野の研究者との協力を得にくいという環境にあったのではないでしょうか。
そのため、しだいに文献解釈的な方法にのめりこんで、当初のような力が失われていったような印象を持っています。
彼の「九州王朝論」については、可能性はあるかもしれません。五世紀頃に、朝廷とは別の勢力が中国に朝貢した可能性はあると思いますが、今のところそれ以上のことは言えないと思います。
(2008.02.17 06:43:59)

Re[4]:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
シカゴ さん
かつさん、こんにちは。

「東日流外三郡誌」問題。私も15年くらい前までは古田は「東日流外三郡誌」からは手を引くべきだと思っていました。批判者たちの書いたものを読んで偽書の疑いが濃いのではないかと判断したからです。しかしその後古田の論考をつぶさに検討した結果、「自分の判断が間違いだったらそれはそれでよい。しかし現在までのところ偽書であるという証拠はない。」という言と「論理のしめすところへ行こうではないか。たとえそれがいかなるところへ至ろうとも。」という決意の強さを受け入れ、彼を信頼してその研究の成果を俟つことにしました。あと何年かかるか分かりませんが……。幸い「寛政原本」が見つかり、国際日本文化研究センターによる電子顕微鏡撮影の結果、それが近世文書であることが日文研の笠谷和比古教授(京都大学)によって認められました。「東日流外三郡誌」問題はこれからが正念場だと私は思っております。
「寛政原本と古田史学」(古田武彦)
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou81/kai8101.html (2008.02.17 08:54:04)

高校生の時に  
まろ0301  さん
 高校生の時に友達とした会話を思い出しました。
 「なんで宮内庁が天皇陵の発掘を認めないか知ってるか?」
 「ほう、なんでだ?」
 「あのな、掘り出してみて、骨の鑑定をして、北方系だったら困るからと違うか」

 「騎馬民族征服説」華やかなりし頃の若僧二人の会話なのですが、私は今でもそう思っています。

 私の住んでいるところのすぐ近くに、「兵庫県考古博物館」が最近オープンしたのですが、考古学は、自然科学系の人たちとの学際的研究を意欲的に進めています。
 小学館の新シリーズなどはその成果が反映されていてかなり面白くなっています。
 ご参考までに。 (2008.02.18 23:30:09)

Re:高校生の時に(02/16)  
かつ7416  さん
まろ0301さん
戦前の「日朝同祖論」は、日本の朝鮮支配を正当化するという目的のために利用されることになってしまいましたが、大枠としては間違ってないでしょうね。
江上波夫の「騎馬民族征服説」のような劇的な形での侵入=征服があったかはともかくとして、多くの日本人のルーツが大陸にあることは疑いようのないことですし。
いまだに「陵墓」の発掘が認められないのには、やっぱり「神聖」な墓に人の手が入ることへの抵抗感が強いこともあるのでしょう。しかし、「陵墓」の中には、その指定の根拠そのものが疑わしいものもかなりありますね。そういった古墳群が強制的に学問の対象から除外されていることが、古代史研究の障害となっていることは、誰しもが認めていることでしょう。
でもやっぱり、一番の障害は「万世一系」という神話が壊れかねないということなのでしょうね。 (2008.02.19 02:37:07)

Re[1]:高校生の時に(02/16)  
シカゴ さん
かつさん、こんにちは。

>しかし、「陵墓」の中には、その指定の根拠そのものが疑わしいものもかなりありますね。そういった古墳群が強制的に学問の対象から除外されていることが、古代史研究の障害となっていることは、誰しもが認めていることでしょう。

最近の教科書では「仁徳天皇陵」などは「大山古墳(伝仁徳天皇陵)」といった記述になっています。仁徳天皇の陵墓であるかどうかはまだ分からない、ということでしょう。

古代の天皇の陵墓は『記紀』の記述を元にして江戸時代に比定されたものが多く、実際のところかなりあやしげなものが含まれていると思います。特に「神代」のものは確定しているとはとてもいえないでしょう。

陵墓の発掘をすればいろいろとはっきりすると思うのですが、おっしゃるようにはっきりしてしまうと困る事情もあるのでしょうね。 (2008.02.19 10:00:52)

Re[2]:高校生の時に(02/16)  
かつ7416  さん
シカゴさん
本文でリンクしている宮内庁のHPでは、神武天皇から昭和天皇まで、歴代の天皇陵がすべてそろっています。とくに、古代の天皇については、実在したかどうかも分からないのに、江戸後期ごろから明治にかけて記紀の記述を参考に無理やり指定したものが多いようですね。
「仁徳天皇陵」などのように大きなものだと、過去に盗掘されている可能性もなくはないですが、やはり調査してみる価値は非常に大きいでしょう。
応神天皇の血を引いて福井から入ったという継体天皇や、天智・天武の関係などにも謎が多いですね。
このへんは、はっきりさせることを望まない人もやはりいるのでしょう。
ちなみに、安徳天皇陵は下関にあるそうです。こちらはちょっと哀れさを感じさせます。 (2008.02.19 13:51:49)

タイムカプセル  
三介 さん
こんばんは。歴史ってすごく難しいんで、読んでもさっぱりわからないことが多いんですけど。興味を持つと、面白いですね。古田さんの本も難しい漢字だらけで、何の話だったか、すぐ見失います。で、御中国の文献をもっと使わないと、って言われてたのは、確かにそうやなあと思いました。でも、学者の皆さん、遠慮してて言わないことが多いみたいすね。発言している人もいますが、黙殺されるし。何処も、何時もプロパガンダ最優先ってことでしょうし、でも情勢が変わるたびに、「矛盾」「齟齬」も「蓄積」していくようで、彌縫・つぎはぎも多そうです。でも、抹殺し切らないっていう部分も多いようで、結構良いタイムカプセル国土・国民っていう気もします。 (2008.02.20 01:09:38)

Re:タイムカプセル(02/16)  
かつ7416  さん
三介さん
飛鳥奈良以前の古代史に関しては、中国の資料には同時代資料という利点があります。その点、日本の資料は伝承という不確かさがあります。
しかし、その逆に、中国の資料には当然外国の資料という制限がありますね。これが、のちのフロイスのように日本に来た人の直接資料ならば、信憑性もかなり高いでしょうが、そうとも言えないようだし。
なので、どちらも一長一短ありというところじゃないでしょうかね。
九州も近畿も、戦後の経済成長に伴う開発で、重要なところはほぼ掘りつくされたように思うので、あとなにか出てくるとしたら、宮内庁が管理する古墳ぐらいじゃないでしょうか。
「万世一系」なるがゆえに、その調査がタブーになっているわけですが、タイムカプセルも、たまには開けて中を確かめてみたほうがいいでしょう。もっとも、高松塚の壁画は開けたとたんに劣化が始まっているそうですが。
(2008.02.20 01:57:37)

たぶん 何もないはずです。  
くれど  さん
掘っても 全部 盗掘されていて なにも出てこないような気がしますが わかることもいろいろあるのでしょう。

以前 仁徳天皇稜を見にいったことがありました。堀の隣を 延々と歩いていていくと いつのまにか 入り口でしたが 当然 中はみえませんが。

大阪府は 堺周辺に古墳が あれが 全部 公開できれば いい観光地になるなー 少しは借金も減るぞとおもっています (2008.03.01 22:15:54)

Re:たぶん 何もないはずです。(02/16)  
かつ7416  さん
くれどさん
エジプトのピラミッドと同じように、でかくて非常に目立つやつは、当然誰かが過去に盗掘した可能性はあるでしょうね。
「仁徳天皇陵」は明治に一部発掘調査して、馬具や鉄剣、石棺が発見されたそうですね。始皇帝陵から出た兵馬俑とまではいかなくても、あれだけ広ければ、まだなにか残っていそうな気もします。

>以前 仁徳天皇稜を見にいったことがありました。堀の隣を 延々と歩いていていくと いつのまにか 入り口でしたが 当然 中はみえませんが。
あれだけでかいと、近寄ってもただの丘にしか見えないのではないですか。
たしかに、観光資源に活用すると府の財政にも貢献するでしょうね。 (2008.03.01 23:19:53)

TBありがとうございました。  
KUMA0504  さん
仁徳天皇陵を大山古墳と言い出したのは、つい最近で考古学者の森浩一が異議を唱えて以降ですね。実は岡山市教育委員会の出宮氏などは造山古墳が仁徳天皇陵だという説を唱えています。もちろん根拠はあります。私も可能性はあると思います。そのようないくつかの可能性を考えながら、いろいろ想像するのは、楽しいものです。
宮内庁も、天皇陵が本当の天皇陵である根拠はすでに崩れているのを知っているわけだから、いわば「名誉を守るための」学術発掘をすれば人気が高まるのに。その時はもちろん私はボランティアで発掘に行きまする (2008.03.03 18:11:13)

Re:TBありがとうございました。(02/16)  
かつ7416  さん
KUMA0504さん
>実は岡山市教育委員会の出宮氏などは造山古墳が仁徳天皇陵だという説を唱えています。

おお、それは初耳です。吉備には、全国でも有数の巨大な古墳が集中していますね。もし、それが大王に対するライバルや反乱者の墓ならば、畏れ多いとして破壊されていてもおかしくはないですね。
畿内の古墳群に匹敵する規模のものが、そのまま残されたということには、当然なんらかの理由があったのでしょうね。 (2008.03.03 19:50:35)

Re[5]:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
原田 実 さん
かつ様
はじめまして。

>幸い「寛政原本」が見つかり、国際日本文化研究センターによる電子顕微鏡撮影の結果、それが近世文書であることが日文研の笠谷和比古教授(京都大学)によって認められました。「東日流外三郡誌」問題はこれからが正念場だと私は思っております。

残念ながら「寛政原本」5点のうち、4点は表題・本文とも筆跡が「明治写本」と同じ(ということは故・和田喜八郎氏と同じ)。1点は表紙は「明治写本」と同じで本文は別筆跡。ただし内容は従来の和田家文書と関係なし。つまり無関係の古い本に和田喜八郎が表紙のみ書き込んだものです。これらはいずれも紙自体は古いものですから、顕微鏡写真で古いわしの特徴を示したこと自体に不思議はありません。
http://www8.ocn.ne.jp/~douji/kanseigenpon.htm

「寛政原本」の影印版もようやく刊行されましたので、よろしければ従来の刊行物で「明治写本」からとられた図版と見比べながら読んでみてください。

私としては正念場を迎えたというより、後始末をしているような気分です。
(2008.06.24 19:57:12)

Re[6]:宮内庁もまだまだ了見が狭いと思う(02/16)  
かつ7416  さん
原田 実さん
はじめまして。
リンク先も拝見しました。
本格的に研究されている方なのですね。恐縮いたします。

私が古田本できちんと読んだことがあるのは、30年前に出たごく初期の三部作のみです。その後については、ほとんど噂程度のことしか知りません。なので、申しわけありませんが、現時点では論評することはできません。

ただ、あちこちでいろいろ言われていることをざっと見た限りでは、やはりこの文書にはかなり問題があると思います。最大の問題は、文書の内容を裏付ける考古学的な事実がなく、また当時の日本の全体的な歴史との整合性があまりに欠けているということではないでしょうか。

そのことが、上の方のシカゴさんへのレスで述べた「文献解釈主義」という言葉の意味です。文字資料のみに頼り、その解釈によって定説とは違う古代史を構成するというのは、古田さんの初期からのやり方で、その欠陥がしだいに拡大していった結果のように思います。

あと、とにかく従来の定説とは異なる「新説」を次々発表していくということに、こだわりすぎたようにも見えますね。定説と異なる説を発表する際に必要な慎重さをしだいに忘れて落とし穴にはまったようにも思います。 (2008.06.24 23:15:57)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: