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七詩さんComments
神功皇后陵を初調査
宮内庁は15日、日本考古学協会など考古学、歴史学の計16の研究団体に、奈良市の神功皇后陵(五社神古墳)への立ち入り調査を許可し、22日に調査が実施されると発表した。
これまでも補修工事などの際に見学が認められることはあったが、学会側の要望に基づく陵墓の立ち入り調査は初めて。
宮内庁や協会によると、陵に入るのは各団体の代表16人。墳丘の外観を目視で観察するのが中心。立ち入りは墳丘第一段目の平らな場所までで、発掘は認められていない。
宮内庁が過去に作成した図面を検証するほか、埴輪の確認などで詳しい築造時期を明らかにするのが目標で、4月上旬に奈良市でシンポジウムを開き、調査結果を公開する。来年度以降も、京都市の明治天皇陵(伏見城跡)など全国の陵墓調査を申請する方針だ。
神功皇后は第14代仲哀天皇の妻。陵は古墳時代のものとされ、全長約270メートルの前方後円墳。〔共同〕
この神様の言葉を、そんな馬鹿なといって信用しなかった天皇は、バチが当たって死んでしまい、驚いた皇后はお腹の中に子供がいたにもかかわらず、乱暴にも海を渡って新羅や百済と戦い、これを従えたとのことである。
このときのお腹の中の子供がのちの応神天皇であり、その息子が仁徳天皇、さらにそのまた息子が履中と反正という兄弟天皇ということになっている。
いっぽう、中国の歴史書である 「宋書」 の倭国伝には、 「倭の五王」 と総称されている、讃・珍・済・興・武 という五世紀にいたらしい五人の王様の話がある。
この中国の史書と記紀の記述との関係は、昔からいろいろと論じられていて、たとえば歴史学者の藤間生大などは、讃は履中天皇、珍は反正天皇、それから済は允恭天皇で、興は安康天皇、武は雄略天皇としている (岩波新書 「倭の五王」)。
しかし、ほかにも讃は仁徳天皇だとか、いやいや応神天皇だとかいう説もあるし、古田武彦のように、そもそも 「倭の五王」 と天皇家とは無関係だなどという説まであったりもする。
ようするに、どの説も決め手がないわけである。これは互いにあちこちに矛盾がある文献資料の解釈だけで議論しようとすると、必ずぶつかる壁のようなものである。そもそも、どの資料もむちゃくちゃ古いものであるから、完全な信憑性など求めるのが、どだい無理というものなのである。
であるから、そういった資料だけに頼って論じることには、どうしても 「机上の空論・砂上の楼閣」 といった感じがつきまとう。というわけで、ここはどうしても、やはり考古学的な資料による裏付けというものが必要だろう。
とすれば、今回の宮内庁の決定はいちおう歓迎すべきものではある。しかし、ただ墳丘の一番下の部分の見学を許すだけで、発掘は認めないというのはいかにも不充分である。それに、やっぱり調査の本命は、なんといっても大阪にある、仁徳天皇陵や応神天皇陵などに指定されている巨大古墳群だろう。
それにしても、こういった 「陵墓」 の発掘調査は、いったいいつになれば許可されるのだろうか。全国の古代史研究者や古代史ファンの皆さんは、きっと首を長くしてその日を待ち望んでいるはずである。
別に発掘調査の結果として、これまでの伝承だとかになにか間違いが見つかったからと言って、いまさら誰かが恥をかくというわけでもあるまいに、と思うのだが、やっぱりまだまだ反対する人もいるのだろうね。
参考HP: 天皇陵 (宮内庁)
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