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七詩さんComments
八月にはいっても天候はすぐれぬ。熱帯夜にはならぬから、寝苦しさに悩まされぬのはよいが、強い日差しや高温を必要とする作物を育てている農家や、海岸での 「海の家」 を経営しているような方々にとっては、いささか頭の痛い夏となりそうだ。
冷夏といえば、今から16年前にもあったことで、その年には米が著しい不作となり、タイ米や米国のカリフォルニア米などが大量に輸入される騒ぎとなった (参照)
。タイ米は日本の米と種類が違ってねばりがないため、世間ではあまり人気がなかったようだが、わが家のような貧乏家庭にとっては、ただ安いというだけでありがたかったものである。
さて、夏といえば花火である。こちらでも先週末に恒例の花火大会があった。子供が小さかったときは、自転車の後ろに乗せて連れて行ったものだが、もはやそのような元気もない。というわけで、テレビ中継で我慢したのだが、テレビの画面でドンとなると、それから10数秒ほどおくれて同じドンという音が窓の外から聞こえてくる。ドドドン、パラパラパラという連発花火がテレビ画面であがると、同じドドドン、パラパラパラという音が、やはり少しおくれて窓外から聞こえてくる。
先日、アポロが月に残してきた、着陸船の土台らしき姿を写した月面の画像が公表された。それでも、まだアポロは月に行っていないとか、あの映像は偽造だとか言い張る人も一部にはいるようだが、今回の花火大会に関しては、画面からの音と寸分たがわぬ同じ音が10秒遅れで外から聞こえてきたので、これが偽装や合成でないことは十分に明らかである。
ところで花火というものは洋の東西を問わず、おめでたいときに打ち上げられるものらしい。花火の場面を写した映画にもいろいろあるだろうが、有名なのは半世紀も前にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが撮った 「灰とダイヤモンド」
の一場面であろう。
ときは、1945年5月、すでにポーランドはソビエトの手によってナチスの占領から解放されていたのだが、ナチと入れ替わるようにして進軍してきたソビエト軍による実質的な占領下で、共産党による支配が着々と強化され、それに対し、大戦中にロンドンに避難していた亡命政府を支持するグループによって、共産党支持派へのテロが頻発していた時期である。
原作であるアンジェイエフスキという人の 小説
とは少し違うのだが(ただし、映画の脚本には原作者も参加している)、映画での主人公であるマーチェクという青年は、自分の息子が反革命グループのメンバーとして逮捕されたという報を聞いて警察署へ向かうシュツーカという党地区委員長の先回りをし、後ろから足早に近づいてくる男に対して、振り向きざまにピストルを数発発射する。
撃たれた男はよろめきながらマーチェク( youtube
で久しぶりに見たのだが、この俳優はなんだか若い頃の加藤茶に似ている)のほうへ歩み寄り、そのまま彼によりかかる。よりかかられたマーチェクは、思わず両手を出して彼を抱きとめてしまう。そこへちょうど、連合国に対するドイツの全面降伏を祝った祝勝花火が打ち上げられるという場面である。ただし、向こうの花火は日本と違って、空で丸く破裂はしない。地上から火花が宙へ打ち上げられ、そのまま柳の枝のようにゆっくりとたれ落ちてくる。
さて、ずいぶんと昔のことだが、この映画について、30年以上前に亡くなった評論家の花田清輝はこんなことを書いている。
本来、わたしは、ワイダの熱っぽく描いているような青春に特有のナルシズムに対しては、きっぱりと対立しなければならないと、とうの昔からおもいこんでいるのである。にもかかわらず、わたしは、事、志に反して、昨年度の 『キネマ旬報』 のベスト・テンの第一位に、つい、うっかり、ワイダの監督した 『地下水道』 をえらんでしまったのだ。...
政治は、燃え上がり、燃え朽ち、すでにひとにぎりの灰と化しさっているにもかかわらず、なお、自分を一個のダイヤモンドと思い込まないではいられないような人間の手にかかると、すこぶるメロドラマチックな様相をおびてくる。しかし、現実の政治は、革命や抵抗の場合であってもひどく散文的なものではなかろうか。
上に引用した文からもわかるとおり、花田という人は、深刻ぶった顔つきやナルシズム、センチメンタリズムが大嫌いだった人である。花田もいうとおり、たしかに 「現実の政治は、革命や抵抗の場合であってもひどく散文的なもの」 であろう。にもかかわらず、ついつい同じワイダのワルシャワ蜂起を描いた 『地下水道』 を第一位に選んでしまったというのは、そういう花田の奥底にあった心情というものが、思わずぽろりと出てしまったということなのかもしれない。
花田といえば、吉本との論争でも有名である。どちらの肩を持つかは、とりあえず人それぞれである。花田の肩を持つ人の中には、同郷のよしみで中野正剛率いる東方会と関係のあった花田を、吉本が 「転向ファシスト」 と呼んだことを問題視する人もいるようだが、花田だって戦中世代である吉本をファシスト呼ばわりしたのだから、それはお互い様というものだ。
ただ、すでに 「前衛党」 神話や、世界を 「社会主義」 圏と資本主義圏による東西対立として捉える認識から抜け出ていた吉本のほうが、いまだそのような認識を軸としていた花田よりも、一日の長があったということは言えるだろう。もっとも、頭のいい花田であるから、ひょっとするとそういう認識も、本人としてはただの戦略のつもりだったのかもしれない。
たとえば、 「わたしは、スターリン批判を、スターリン流の一国社会主義に終止符を打ち、ソ連における世界戦争に対する抵抗態勢を、世界革命に対する推進態勢にきりかえるためにおこなわれたものとして受け取った」 などという花田の言葉は、どうみても、当時の党の路線とはまったくちがう、当時はまだ悪魔扱いされていたトロツキストの言葉である。
また、 「前近代的なものを否定的媒介にして近代的なものをこえる」
という彼の有名なテーゼも、読みようによっては、「後進国」 における二段階革命論を否定した、トロツキーの永続革命論の密輸入のように読めないこともない。
しかし、スターリン批判後に党を批判して、党から除名された若者らが主導する全学連を公然と支援した吉本と、どこか歯切れの悪かった花田との姿勢の差が、その後の二人の人気を分けたということは言えるだろう。60年代に吉本が多くの学生らに読まれ、「教祖」 とまで呼ばれるようになったのは、なによりもそういう吉本のどことも妥協せぬ姿勢が支持されたからであり、論争でどっちが勝ったとか負けたとかいうこととは、たぶんあまり関係ない。
花田という人が頭のいい人であったことは言うまでもない。ただ、その頭の良さのために、彼にはしばしば、自分だけ大所高所に立ったがごとき、机上の戦略を語りたがるという癖があったようだ。なにかといえば、「前近代的なものを否定的媒介にして近代的なものをこえる」 とか、「大衆的芸術を否定的媒介にした芸術の総合化」 といったスローガンをぶち上げたがるのもそうだろう。
戦中世代である吉本をもっとも怒らせたのは、 「戦争中、戦争の革命へ転化する決定的瞬間を、心ひそかに持ち続けてきたわたしは、あまりにも早過ぎた平和の到来に、すっかり、暗澹たる気持ちにならないわけにはいかなかった」 という、「戦後文学大批判」 の中での言葉だろうが、花田にすればこれもただのイロニーに過ぎなかったのかもしれない。
しかし、沖縄の壊滅から特攻隊の召集、二発の原爆投下からソビエトの参戦にまで至り、日ごとに膨大な死者が出ていた当時の状況を考えてみれば、これはやはり無責任な放言といわざるを得まい。同世代に多くの死者をもつ吉本が怒ったのは、当然すぎるほど当然な話である。
党に対して面従腹背の気味もあった花田が、60年安保闘争を全力で戦った当時の全学連を指導した共産主義者同盟の解体をまるで待っていたかのように、構造改革派(小泉の構造改革とは全然関係ない)と呼ばれた、社会主義革命を主張する当時の共産党内の左派グループとともに集団で除名されたのには、なにやら 「策士、策におぼれる」 とか 「巧兎死して走狗煮らる」 といった感がしないわけでもない。
つまるところ、頭の良すぎた花田に欠けていたのは、良くも悪くも鈍牛のようにしつこい吉本の粘り強さということになるだろう。福岡生まれの花田はいかにも九州人らしい旗振りが好きないっぽうで、典型的な都会的モダニストでもあったが、天草生まれの船大工だったという祖父をもつ吉本のほうは、東京生まれでありながら、いくつになってもどこか田舎臭さの抜けない人でもある。