ある意味プロローグ。

2004年7月11日(日曜日) 20時頃。

目を覚ましたら妙な気だるさを感じた。
重たい頭が自宅のベッドとは全く違う場所で重力に抗うことを許されずズレ落ち垂れていた。
靄が掛かった視界の中に祖父がいた。

いつから祖父はそこに座っていたのだろう?
祖父はいつもよりも優しく微笑みながら、しかし少し怒りと憤りの感情を出し
「国立第二病院の救急救命センターだ…今日は11日。お婆ちゃんと香港園(料理店)に行く約束した日だ…最悪だ」と言った。

すぐに自分はODか服薬自殺未遂をしてココに運ばれたのだと理解した、死ぬ準備は整えてあったからだ。
次に考えた事は彼女の事。
生きているのか?
もしくは…
それ以上の事は考える事も出来なかった。
それくらい僕の頭の中の世界は混乱とODの副作用で回っていた。
吐き気が酷かった。

僕が目を覚ますと聞くとすぐに母親がベッドに来た。
視界には相変わらず靄がかかっていたけれど母親の姿は確認できた。
話をしていた看護士か医者だかも解らない人から離れ
殆ど5メートルも無い距離を走って近づいて来た。
母の目は真っ赤に腫れ上がっていた。
母はティッシュで自分のナミダと僕のナミダを拭いた。
母は泣いていた。
そして
僕も泣いていた。
そして僕はその時何も考えず
一言だけ

「ごめんなさい」

と母親に言った。
それは心の奥から自然に発せられた偽りのない言葉だった。

母親は「生まれ変わったの、大丈夫、これからは一緒に生きるの」

とナミダで声が震えたままでそう言った。

僕はすぐに

「手帳に彼女の電話番号があるから現在の状況を聞いて欲しい」

と伝えた。
母は「また明日来るから」と泣きやまないまま祖父と弟と帰って行った。

その晩、僕は幻覚を見た。

睡眠ガスが病室内に撒かれて。
時計の文字盤は28時まであった。
誰かに腕を押さえられて恐ろしかった。
ずっとドコかしらで生命維持装置の異常音が鳴り響くフロアー。
せわしなく駆け回る看護士たち。
僕はこの時胃洗浄により喉を潰され、それに加え「肺炎」を併発したらしくて声が出なかった。
ナースコールで看護士を呼んでもなかなかどうして誰も来てくれなかった。
僕は只、一杯のコップの温くなった水を舐めるように飲んでいた。

~~~~~~~~~~


2004年7月12日(月曜日)

一睡も出来ないまま幻覚を見続けていた。

朝昼晩。
朝昼晩。

2週間くらいの日々が過ぎたのだと思っていた。
そして何度目かの朝が来た。
看護士がバルーンカテーテルから取られた尿を取る為。
そして採血の為に僕のもとへ来た。
朝昼晩を繰り返す僕は何人かの看護士を見た。
僕の尿を取り捨てる看護士も何人も見た。

採血をされている時に僕は肺炎でしゃがれた声で「今日は何日で曜日ですか?」と聞いた。

看護士さんは「7月12日です」と言った。

愕然とした。
朝昼晩の繰り返しは幻覚だったのだとその時やっと分かった。

左腕に採血用の注射針を打たれた。
痛みは感じない。
只、意識がない間に何度も採血したのだろう。
左腕はジャンキーのようになっていた。

右腕には点滴。
尿道にはカテーテール。
身動きはとれない。
しかし朝ご飯は出された。
食べられるわけがない。
気分は最悪だ。

只、時間が過ぎるのを待った。
点滴が流れきるのを待った。
家族が来てくれるのを祈った。

~~~~~

昼ご飯が出る前に尿道のカテーテルを取ると看護士に告げられた。
僕は看護士の女性が行なう性器から管を抜く作業を一部始終見ていた。
それは機械的に行なわれた。
痛みは無かった、羞恥心も無かった。
自分の目に映る全てがブラウン管の向こうの出来事のように思えた。
カテーテルを抜かれても右手首の点滴は固定されたままなのでトイレになど行けない。
し尿瓶に小便をした。

カーテン一枚で遮られた大部屋。
何人の人間が苦しんでいるのだろう?

左隣の人は女性で僕と同じく自殺未遂をしたらしかった。
付き添いの男性は御主人なのだろう、一日中横に座っていた。
何回か目が合い、僕はお辞儀をした。

左隣は重症患者のようだった。
全身火傷だろうか?
包帯を取り替える時に異臭が鼻を突き僕も看護士も吐き気を催したようだった。

~~~~~

家族は昼過ぎに来た。
救急救命センターは患者の回転率を高める為、絶えずベッドを1つ開けておかねばイケない故。
僕はボロボロのカラダのまま強制的に退院させられた。

家族は急な退院で慌てふためき着替えを持ってきてはくれなかった。
仕方ないので病院の浴衣で自宅を目指し帰宅する事に相成った。
しかしその前に…
汚い話だけれどもオムツにした汚物を処理する必要性があった。
朦朧とした意識の中でトイレに歩いて向かった。
起き上がるのは担ぎ込まれてから初めてだった。
しかし派手な立ちくらみもなく平気に歩いてトイレまでの2つのドアを通り抜け歩けた。
トイレまで看護士が付いてくるのは救急救命では当たり前だが…
僕が(精神科)と書かれたプレートをベッドに貼られているから更に念には念を入れられたのだろう。
トイレのドア近くまで看護士の女性は付き添いできた。

トイレではその気になれば浴衣の帯で首を吊れた。
ものの五分もあれば脳細胞は酸素を失い僕は肉槐になっていた。
しかしそこまで頭は回らなかった。
ただ自分の身体にへばり付いた汚物を取り除くのに背一杯だった。
看護士に着いて来てもらったが自分でオムツを取り替えた。

そんな事をしている間も彼女の状態が心配だった。


2004年7月12日(月曜日)

看護士から薬を渡された。
腸に付着した服薬の際に使用した薬を便と一緒に取り出す薬だと教えられた。

東京医療センターからはタクシーで帰った。
僕は浴衣姿でスリッパを履いていた。
祖父と母に連れられてタクシーに乗り込んだ。
家まではワンメーターで付く距離だったが物凄く長く感じた。
しかし何故かそれが心地よかった。
ベッドから開放されたからだろうか?
一生このままタクシーから降りたくはないとさえ思った。
僕は家に帰るのが怖かった。
今までの生活は送れないのだと思った。
これから僕に向けられるであろう家族からの視線。
それだけが怖かった。

~~~~~~

いつも通りに駒沢通りは込んでいた。
パワーウィンドーのガラス一枚向こうが現実とは思えなかった。
歩く人や車が前から後ろに流れていた。

タクシーの中でもこれからの人生よりも何よりもやはり彼女の安否が気になった。
家に帰ったらすぐ大学の友人と公園でテープに録音した音楽を聞こうと思った。

~~~~~~

タクシーから降り料金を払うその時、僕たちが乗っていたタクシーはすぐに次の客を見つけていた。
そして運転手は

「新しいお客さんを見つけられました、料金はいいですよ」

と言った。
僕の浴衣姿に同情の念を抱いたのだろうか?
しかし粋な運転手だと思った。

僕はタクシーから降りると母よりも祖父よりも先に歩き始めた。
後ろから付いてくる2人に気を配るくらい余裕があった。
しかし頭は依然重たいままだった。
母が持っている成人用オムツの大きな袋を背後に隠すのが見えた。

家に着くと祖父が「お前が応援していたハクシンクンさんが当選したぞ」と言った。
そう言えば7月11日は選挙だった。
でも記憶は7月7日から曖昧だった。

僕は玄関にスリッパを綺麗に揃えて並べるとすぐに風呂に入った。
カラダに付いた汚物が耐えられない異臭を放っていたからだ。

~~~~~

風呂に入った後、すぐに寝た。
眠る前に冷たい水を一気に飲んだら全て吐き出してしまった。
肺炎で喉がビックリしたのだろう。
ぬるい水を少しずつ飲む事にした。

~~~~~

眠りから覚めてもまだ頭は重かった。
自宅が異空間として思えた。
ベッドから起きると夕飯の時間だった。
御粥を無理矢理に食べさせられて看護士から貰った薬を飲んだ。

その後リビングでテレビを見た。
『HEY!HEY!HEY!』にリップスライムが出ていた。

少しすると祖父と母と弟が僕のもとへやってきた。
僕は自然に正座の姿勢なった。
が、母に正座を止めるように促され止めた。

家族会議が始まった。
僕は全く怒られなかった。
3日間救急救命に入院していた事を教えられた。
母は泣いていた。
祖父は優しく、弟は腫れ物に触るように僕を警戒していた。

テレビでは『東京湾景』の初回が意味もなく流れていた。



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