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朝から暑い予報だったので、孫とお嫁さんを誘ってドライブに出かけた。前日、テレビで増毛の果樹園でサクランボ狩りが始まったとのニュースを見て、夫が急に思い立ったのだ。しかし、孫は最近果物アレルギーでサクランボが食べられなくなったと聞き、じゃあ、増毛で海鮮丼でも食べてこようということになる。自宅を出たのは七時半、息子の家に立ち寄り孫とお嫁さんを乗せて息子の家を出たのは9時頃。道民の森を抜ける山道から浜益に出て、日本海のオロロンラインを北上。天気が良くて波も静かで、日本海がとても美しかった。途中の雄冬岬展望台で二人に絶景を見せてやろうと思ったのだが、落石などの関係で通行止め。残念だったけれど、確かにちゃんと整備しなくては危険な場所でもあるので仕方がない。海開きはまだだけど、海浜公園などではテントを張って海水浴を楽しんでいる人たちもいた。この日は海岸線でも28℃くらいあったので、海遊びには絶好の日だから仕方がないですね。結局、途中の海浜公園のトイレに立ち寄って少し休憩しただけで増毛に着いたのは11時頃。孫が海鮮丼を食べたいというので、ネット検索して「福よし」へ。11時15分頃に着いたのだが、すでに人が待っている。お店の人に聞くと30分くらい待つというので、車を駐車して周辺を少し見て歩く。お知らせブザーは夫が持ち、私達は近くの様子を見る。近くにもお寿司屋さんがあり、そこでも人が待っている様子。この日は土曜日でとても天気が良いので、増毛にドライブに来る人も多かったのだろう。土日は海鮮丼などを中心にメニューは色々あるが、平日ならとてもリーズナブるなランチメニューがある。それでも、この日の海鮮丼は、この内容で2400円。私はご飯を少なめにしてもらったのだが、それでもお腹がいっぱいになった。大満足!その後は、初めて来た孫(正確には子どもの頃に来ているはずだが、当然覚えていないという)に見せたいと思っていた「国稀酒造」へ。店構えはかつて来た時とほとんど変わっていなくて、何だか懐かしい気がした。日本酒好きの次男へのお土産にと、酒蔵限定の「生酛」を購入。次は隣の漬物屋さん「田中青果」に行き、色々試食をさせてもらって、孫も私も2種類ずつ。価格は少し高めのような気がするが、手間暇かけた美味しいものを食べたければそうなるだろう。次は、一番見せたいと思っていた「旧商家丸一本間家」へ。以前は「女中頭」という名札を付けた女性が案内してくれたような気がするが、今はスマホで音声案内を聞くことができるようになっていて、各部屋を回りながら色々と詳しく知ることができる。また、以前は開放されていなかった場所も見ることができるようになっていたような気がする。国稀酒造も本間家が始めた酒造りからのようで、かつての地図をみたら牧場などもあったりして、孫曰く「泰蔵さん(本間家初代)凄すぎる!」である。その後は、蒲鉾屋さんで揚げたての蒲鉾を買い、孫は地元の果物を使ったアイスを食べ、アップルパイを購入し、旧増毛駅に行ってみたが、以前来た時から随分変わっていた。(当然だけど…)最後はサクランボを購入するため佐藤果樹園へ。ここに行ったのは、アップルパイのリンゴが佐藤果樹園のものだったから。増毛は果樹栽培が盛んな場所で、ほかにも色々な果樹園があります。増毛を堪能した後は深川に向かい、道の駅ライスランドふかがわに立ち寄り、野菜を少し買って帰路についた。夫の運転でこのルートを回るのは、多分これが最後かななんて思いながら、これからはきっと、孫の運転でどこかに連れて行ってもらえるのかなともチョッピリ期待。途中、次男の畑に立ち寄ってアイスの差し入れとお酒や蒲鉾のお土産を渡したのだが、この日は本当に暑くて30℃越え。次男に言わせたら、「アイスで生き返ったし、少ししのぎやすくなってきたのでもう少し仕事をする」とか。(熱中症で倒れるなよ!)帰宅したのは午後6時近くになっていた。
2024年06月29日
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午前中、この日のブログをほぼ書き終わった時、何を間違ったのか全部消えてしまった。再度書く気力を失ったので、簡単に記録だけ。【5月11日】桐生のホテルで朝食後、わたらせ渓谷鉄道で通洞へ。その後、足尾銅山観光をしてから、11時過ぎのバスで日光に。通洞駅前11:07発 (足尾JR日光駅線バス)→日光駅11:58着 日光駅からJR日光線で宇都宮に付き、駅弁を買って「新幹線やまびこ」で北に向かう。仙台駅で「幹線はやぶさ」→函館北斗着。そこでまた夕食用の軽食を買い、「特急北斗」→南千歳→最寄りの駅へと列車を乗り継ぎ、自宅には午後10時過ぎに到着。この日は、足尾銅山観光で今まで知らなかったことも色々知ることができ、全体としては有意義な旅になった。
2024年05月11日
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【5月10日】前夜は4人で楽しい夕食後は、それぞれオリンピック風呂や露天風呂を楽しみ、どうということのないおしゃべりなどをして割合早く寝たような気がする。早朝からの仕事に間に合うために、前夜に旅館に作っておいてもらった「おにぎり🍙弁当」をかきこみ、孫は6時過ぎに出発した。残った私たち3人は7時から朝食をいただいたが、朝からおかずが一杯で満足満足。8時半頃の路線バスで米沢に向かい、 米沢発9:37の新幹線つばさに乗る。孫は小学校6年生まで同級生だった友達に会うために福島で下車。その友達は、東北大震災と原発事故のために北海道に避難し、三年生から孫とクラスメイトになり、中学進学の時に福島に帰ったのだ。私達はそのまま宇都宮まで行き、まだ11時頃だったので路線バスで大谷資料館へ事前にネットで調べてはいたのだが、内部は想像以上の巨大空間だった。随分以前に、大谷石の砕石跡地が陥没した事故があって、私はその時にこの場所を知ったのではないだろうか。そんなことを思い出すと、この巨大空間の地上はどんな感じなのかと心配になるほど。まあ、そんな事故があったのだから、十分な対策はされているのだろうとは思うけれど。内部は当然のことだが肌寒く、外に出る時には指先が冷え切っていた。その後、周辺の 大谷寺の大谷観音や平和観音を見てからまたバスで宇都宮へ。宇都宮といえば餃子なので、駅前でバスを降りて目についたお店で昼食。さすが餃子の宇都宮で、メニューも豊富でお手頃値段だった。(詳細は忘れたけど)それから宇都宮をJR湘南新宿ライン快速)に乗り→小山着 →(JR両毛線)→と乗り継ぎ、桐生着。駅前のビジネスホテルに泊まり、夕食はホテル近くの居酒屋へ。とてもお手頃価格でお刺身や焼き鳥は美味しかったのだが、お寿司と夫が頼んだお蕎麦はイマイチで残念。でも、この値段では仕方ないかと思うことにした。
2024年05月10日
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【5月9日】この日は、孫の住むアパートから「道の駅いいで」に立ち寄る。この道の駅には山菜や土産物などがとても豊富で、孫の勤める「田中屋の肉製品」も販売しているので、色々なお土産と牛のみそ漬けなどを購入し、自宅に発送してもらう。何せ、電車乗り継ぎの旅なので荷物を増やしたくない。そうしているうちに、田中屋のお店や「肉のガチャガチャ」などの地元テレビ局の取材に、お笑い芸人さん(名前を失念)が来ていて、私が発送手続きしている間に孫も店先に専務と並んでいた(@_@)慌てて写真を撮ろうとしたけれど、準備ができたときはガチャガチャの場所に移動しはじめていた。取材が終わるのを待ち、一言専務さんにご挨拶をしてから白川湖の水没林へ。その途中で展望台に立ち寄り、散居集落の全貌を眺める。道路を走っているだけては、あの景観はよくわからない。白川湖の水没林は、新緑の緑が美しく、足元に咲く草花も可愛らしかった。また、ちょうど藤の花が咲く季節のようで、山々には紫色のヤマフジが森林のあちこちを紫色で染めていた。その後、孫の働いている田中畜産の畜舎へ。何棟も並ぶ畜舎で、1300頭もの黒毛和牛を飼育しているという。それを五人で世話をしていると聞いて、本当にビックリ。仕事の内容をざっと聞いているだけで重労働で大変だろうと思うが、孫は「仕事は楽しいよ」と言う。世話の仕方で牛が変化するしやりがいがあるのだという。手間暇かけて育てた牛を出荷する時はどんな気持ちになるのかと聞くと、「美味しいお肉になれよ!」と送り出すという。うーん、と、複雑な気持ちにはなったけれど、考えてみれば私達は何かの命をいただかなくては生きられない存在で、その自然の摂理の中に農業・畜産・漁業があるのだから、その仕事に携わる者は精一杯動植物のお世話をして、感謝しながら命をいただくんだなと改めて思った。彼は、一日二万歩以上をこの畜舎の中で歩き回るという。身体が丈夫で自然や生き物が好きな彼にとっては、適職なのかもしれない。その後、また「道の駅いいで」に戻り、少し遅めの昼食。山形はラーメンがおいしいと聞いていたので、できれば冷やしラーメンを食べてみたいと思っていたのだけど、この日は肌寒くてやはり普通のラーメンを食べてしまった。その後、米沢に向かい上杉神社を参拝し、隣接する上杉博物館を見学。上杉鷹山のことは大まかには知ってはいたが、改めて展示を見ていて、まさに民主主義の考え方で藩運営をしていたのだと感動すら覚えた。この日は、特別展「上杉茂憲 最後の藩主と米沢士族」をしていたので、こちらも興味深く見学した。廃藩置県で東京に移住し英国留学を経て、沖縄県令になったとはビックリ。明治維新前後の劇的変化の中で生きるのは、お殿様も下々の者も本当に大変なことだっただろうと思いを馳せた。そのあとは、孫が一度泊まってみたかったという白布(はくぶ)温泉中谷別館不動閣へ。外観も施設内もかなりの歴史を感じる建物で、孫たちにとってはとても新鮮のようだが、私たち世代には懐かしさを感じるものだった。建て増ししたのだろうが三つの建物がつながっていて、私達のお部屋は渓谷館の広い部屋。窓の下は渓谷で、木々の緑とせせらぎの音と鳥のさえずりが聞こえる。お風呂は大浴場オリンピック風呂と露天風呂。プールのように長いお風呂で、ちょうど1964年東京オリンピックの時に作られたのでそう名付けたとか。しかし、プールを模したというよりは、窓を広く長く作って入浴しながら外の景観を眺めてもらうためだったそうだ。夕食は山形よねざわ郷土の味が盛りだくさん。食材やお料理について配膳をしながら丁寧に説明をしてくださったのだが、上杉鷹山のエピソードも沢山。お殿様の鷹山が今でも山形の人達に慕われ尊敬されているのだなと感動すら覚えた。もちろん、どれも美味しかったですよ。ごちそうさまでした。やっと、二日目を書いたが、今日はこれまでにいたします。
2024年05月09日
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とりあえず、旅行について書いていこうと思う。【5月8日】当地 →南千歳 (JR特急北斗8号)→函館北斗着、 函館北斗(JR新幹線はやぶさ32号)→仙台仙台(新幹線やまびこ148号)→福島→ (奥羽本線)→米沢(JR米坂線)→今泉(米坂線代行バス)→羽前椿孫は山形県飯豊町にある田中畜産で働いている。大学で畜産を学んで卒業後に就職した。一度働いているところに行ってみたかったので、下の孫も誘って出かけることにしたのだ。私は昔から電車の旅が好きだ。飛行機の方が早くて安いことが多い現在、わざわざ電車やバスを乗り継ぐのは高齢者には珍しいかも。今泉からは、二年ほど前の豪雨被害の復旧がされていなくて代替えバスだった。自宅を九時半頃に出て到着したのは午後八時近くなので、遠くに来たという実感がある。その後、飯豊町の魚井という料亭で遅めの夕食。ここの食事では山菜・アイコを初めていただいた。「これは何という山菜ですか?」と聞いたら「アイコです」との返事に思わず聞き直してしまった。イラクサの仲間のようだが、私の住む地域では聞いたことがない。その後、町内の《ホテルスロービレッジ 飯豊》で宿泊。小ぢんまりとしているがおしゃれなホテルだった。ツインルームが二部屋だったので、私は女の子の孫と同室。色々なことを話したのだが、どんなことを話したのか忘れてしまった。孫は父親である息子ともとても仲良くて、一緒にライブを聴きに行ったりもしている。「お父さんがイヤだっていう友達、多いんだよね」「どうしてイヤなのかな? 話す機会が少ないから近寄りがたいというんじゃないの?」(私自身がそうだったから)「一番多いのは、不潔だとか臭いとか言ってるかな」「でも、今は普通の家庭ならそんなに不潔な人はいないんじゃない? 私の子ども時代なら、お風呂は毎日じゃなかったし、洗濯だって今ほど頻繁にしていなかったし、トイレも汲み取りだったし、今からみたら不潔だったはずだけどね。そうか、今は清潔過ぎてちょっとした匂いにも過敏になっているのかな」「うーん、そうかもしれないけれど、やっぱり話が合わないこともあるかな」などと、他愛もないことに話が弾む。「私ね、友達には天然でピュアだって言われる。どんな子育てしたらそんな子になれるんだって言われたことある」(確かに、そんなことをサラッと言えるなんてピュアとしか表現できないかも)私から見たら、幼い頃から周囲の雰囲気を読み取るし、頑張り屋で生真面目で、素直ではあるがそれで疲れてしまうんじゃないかと思っているのだが、友達にはそう見えるようだ。天然でピュアに演じているんじゃないかと、ずっといい子を演じていた私はつい勘ぐってしまう。それでも、私とは違い、父親とも母親ともなんでも話すことができているようなので、そこは私とは全く違う。そのように子育てをしてきた息子夫婦に拍手を送りたいし、感謝せずにはいられない。
2024年05月08日
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山形で働いている孫の住む地へ、夫と私と下の孫の三人で列車の旅にでかけます。帰宅したら少しは記録に残すつもりです。
2024年05月08日
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昨日は息子のブドウ畑の手伝いに行った。天気も良く爽やかな気候で、今年の連休は道内の観光地は賑わったことだろう。少しゴールデンウィークの雰囲気でも味わおうと、今朝は夫と妹の三人で札幌の平岡梅林の梅を見に行ったのだが、今年はどうしたことか、梅の花がまばらにしか咲いていない。白梅は終わり紅梅が見頃との公園情報だったはずだが、どの梅の木も全滅じゃないのか?という感じ。いつもは紅白の梅の花で目立たないスモモの花が満開で、「今年は私の年です!」とばかりに華やかに咲いていた。帰宅してから調べたら、下記の記事を見つけた。来年に期待しましょう。平岡公園の梅林 花が咲かず 実質「1分咲き未満」が続く異常事態
2024年05月05日
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3月21日~23日の三日間、小中学生時代の友人三人に会うために、奈良~神戸に旅をしてきた。あれからもう一週間たってしまって、記憶が消えない前に書かなくちゃ。3月21日(木)千歳空港から神戸空港にスカイマークで飛び、一時少し前に到着。空港には神戸と明石に住む友人が迎えに来てくれて、そのまま奈良へ向かう。私はただ、二人の後をついていって、電車を乗り継ぎ約一時間少しで三時過ぎに奈良に着いたはず。奈良には、宇治に住む友人が来てくれていて、無事に四人が合流。そのまま宿泊先の創業1909年の奈良ホテルに向かう。事前にネットで見ていて想像通りの歴史的建造物で、まるで明治時代にタイムスリップしたような気分。昨年暮れに日程を決め、神戸の友人が一度泊まってみたかったと押さえてくれた。「少し高めだけれど…」と、四人で64000円の新館コネクティングルーム。一人の友人は、一人64000円かと勘違いして少しビビったらしいが、この価格ではなかなか取れないらしい。部屋に入ってしばし再会を喜び、お土産交換などをして、近くの地元食材を使ったお店へ。このお店「粟 ならまち店」は、宇治の友人が事前に下見までして予約してくれていた。私達がいただいたのは、「田舎どりと野菜」の鶏鍋コース。食材は奈良近辺の伝統野菜や地鶏などを使っていて、私が聞いたこともないお野菜が沢山。日本各地には、このようなその地域で守られてきた伝統野菜が色々あるのだなと再確認。孫が大学生活をしていた山形県鶴岡周辺にも、伝統野菜か色々あったっけ。私達はそれなりの年齢になっているので、結局最後の黒米を鍋に入れたおじやは、一口味見するのがやっとだった。それからホテルに戻ってからは、それぞれの近況から昔話を延々と続け、二人ずつの部屋に別れてからも、多分午前二時過ぎまで話していたのではなかろうか。私は二回も、「もう寝る! もう話さないから」なんて言って眠剤を飲んだのだが、みんな口のチャックがゆるんでいて本当に参った!(眠剤を二度飲みしてしまった)私達は小学校・中学校で同期生ではあるが、四人が一緒のクラスになったことはない。さらに、宇治と明石の友人は中学二年生の時に転校したので、一緒に卒業もしていない。彼女たちのお父さんはそれぞれ自衛官で、みんな官舎に住んでいた。私は彼女たちと時期はずれているが同級生だったり、生徒会で一緒に活動したりで、一人だけの土着民(曾祖父から数えて四代目だからそう言ってもいいだろう)である。そんなわけで、彼女たちにとっては子ども時代を過ごした地の象徴のような存在のようだ。二人はがんの手術をしていて、一人は現在も後遺症で色々と不都合があるらしい。一人は四十代でご主人を亡くし、一人で四人の子どもを育て上げ、現在は共働きの次男夫婦と同居し、平日の家事と孫育てに奮闘中。そのほかにも、色々な事情の中で孫たちを半分以上育てているような感じで、その上にご主人がそれぞれ認知症が進行中。そんな話を聞いていると、いかに私が穏やかに日々を過ごしているかと痛感した。まあ、そういう状態なので彼女たちがクラス会にも北海道にも来ることが大変なので、私が行ったわけなのだけれど。ということで、一日目はとても長かった。3月22日(金)この日はとても良い天気。ホテルで朝食後、奈良の「ぐるっとバス」を利用して、まずは春日大社へ。奈良には何度か行ったけれど、春日大社は行ったことがないような気がしたのだ。この日程で計画を立てた時には、きつと桜が見られるだろうと期待したのだが、残念ながら全く桜は咲いていなかった。それでも、色々と話をしながら散策してとても良い時間を過ごすことができた。昼食は天極堂奈良本店という葛料理のお店へ。葛づくしのお店があるとはビックリしたけれど、とても嬉しかった。本葛を使うことは少し難しいけれど、これなら自分でも似たような料理ができるなと参考にもなった。一番感動したのは、作り立ての葛餅。葛餅といえば冷たいものというイメージだったので、温かい葛餅のおいしさに感動した。自分でも作ってみようと思い、手作りセットを買ってきたけれど、まだ作ってはいない。この日は、夕方に神戸に戻り、友人が予約してくれていた三ノ宮駅近くのホテルに宿泊。ホテルに荷物を置いた後、三ノ宮の京鼎樓で夕食。一品料理をシェアしていただいたけれど、どれもとても美味しかった。夕食後はホテルに戻り、本当に久しぶりに一人でホテルでのんびり。とても贅沢な気分で寝るのは惜しかったけれど、やはり疲れていたのか午後十時頃には爆睡に入った。3月23日(土)この日は朝から雨。ゆっくりと朝の時間を過ごし、十時に三宮駅で友人と落ち合う。天気が悪いので、コーヒーとトーストセットで12時頃まで過ごす。私はコーヒーだけで良いと思ったのだが、トーストセットも似たような値段だったのでつい頼んでしまった。午後一時に息子の神戸での大学の同級生のK君のイタリアンのお店に行く。彼は、学生時代何度か我が家に泊ったこともあり、お店では息子のワインも出してくれている。そんなK君が、昨年倒れて手術してしばらくお店を開けていなかったのだが、最近ランチだけしていると聞いたので、この日に行ってみようと思ったのだ。お店は神戸元町の住宅街の一角。最初見つけられずに少しウロウロしてしまったが、無事に予約時間には到着。実のところ、彼がどんな顔だったか思い出せなかったけれど、お店に入って顔を見るなり蘇った。小ぢんまりとしたお店だったが、土曜日のせいか予約で満席だった(ドアに表示されていた)。ランチコースは、冷前菜盛り合わせ、スープ、パン、飲み物、メインは二種のお肉料理や野菜のフリッター、デザートで、ビックリしたのは冷前菜盛り合わせの豊富さ。私たちは「これでプレートランチかな?」と思ってしまった。色とりどりの野菜やチーズなどの盛り合わせで、思わず「二人分ですか?」と聞いてしまった。それを食べるのにやっとの状態の私達に、シェフの彼は「メインは少なめにしましょうか?」と聞いてくれたのでお願いしたが、結局は食べきれずお願いしてラップに包んで持ち帰りにしてもらう。若い人にはそれでいいのだろうし、お料理はワインに合うものばかりなので、ワイン好きの人には人気なのだろうと思う。混んでいたので彼とは少し会話をしただけだが、思ったより元気そうでホッとした。一緒に行った友人は看護師なので、「顔色はあまり良くないね。循環器系の病気なのだろう」と言っていた。彼が言うには、「一度は心臓が止まってしまったけれど、手術して復活しました」とのこと。体を大切にして長生きして、ずっと息子と仲良くして年老いてほしい。私達のように…。その後は神戸空港に行き、もう一人の友達も来てくれた。彼女も一緒にランチに行きたかったのだが、連日の外食などでお腹の調子が悪かったので行けなかったのだ。空港で三人でまたまたおしゃべりをしているとあっという間に時間が経ち、夕方の便で無事帰宅。今回の旅では、私の想像以上に彼女たちが再会を喜んでくれて、本当に行って良かったと思う。出会ってから60年近く経っていて、その間にはお互いの関係も近づいたり離れたりもあり、それぞれの人生にも様々なことがあった。でも、それぞれ一所懸命生きてきたんだなあとしみじみと思う。そんな時間を経て再会し、豊かな時間を過ごせることの幸いを感謝するばかりだ。次にこの四人で会えるのはいつだろう。彼女たちは「あんたが来てくれたら、来月にでもまた会えるよ」と行ってくれるし、確かにそうではあるけれどなかなかねえ…。やはり、久しぶりの再会だからこそ喜びも倍増だから、さていつ頃がいいものやら。
2024年03月24日
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旅行割のチラシが一か月ほど前に入って、それを見た夫が「温泉にでも行くか」というので申し込んでいた。道内の温泉に夫婦で泊まりに行くのはいつ以来だっただろう。行ったのは、「登別万世閣」。宿泊割引と同時に、買い物のクーポン券も一人2000円分。結構観光客も入っていたようで、夕食会場も時間指定があり賑わっていた。私はビュッフェスタイルが色々と選べて好きなのだが、難点は食べ過ぎてしまうこと。気をつけながら選んでいたのだけど、やはり食べ過ぎてしまった。温泉もいかにも温泉という感じのお湯で良かったのだが、私は何度も入ると疲れてしまうので、一度しか入れないのが残念。次の日の朝食もメニュー豊富だったが、私が気に入ったのは「漁師茶漬け」。これは「胡麻醤油で和えた鯛の切り身に、めかぶ・青さ海苔など海の香り漂う薬味を乗せ、鯛の頭や中骨を一夜干しにして焼き付け取った熱々の出汁を鉄瓶でかけて提供」というもので、美味しかった!朝食後はすぐにチェックアウトして地獄谷まで散歩。地獄谷は夫は久しぶりだという。(私は何年か前に友人と行った)私の小学校の修学旅行は、登別と洞爺湖だったと思うが、その頃の地獄谷の光景とは随分変化している。地球は動いているということを実感する。その後、登別市街に入ると「アヨロ遺跡」というのがカーナビに表示されたので、そちらに向かってみる。しかし、海岸に向かう細い道を辿ってもそれらしきものは見つけられず、アヨロ海岸という場所に出る。海岸遊びにはなかなか良い入り江なのだが、そこで出会った男性に聞くと、数年前に二人が波にさらわれて死亡する事故があってから、海水浴は禁止されたそうだ。遺跡は見つからなかったが、近くの高台に「カムイエカシチャシ跡」というのがあった。ここで毎年、アイヌの人たちの祈りをささげるお祭りがあるということも、出会った男性に聞くことが出来た。北海道には近くてもまだまだ知らないところが沢山ある。この日は、夕方次男が来たので、夕食は近くの居酒屋へ。昭和レトロなお店で、次男は気に入っている。
2023年03月23日
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多分、前のクラス会の時には「古希の年に次のクラス会をしよう」と話していたと思うのだが、コロナ禍が始まり多分二年は延期している。その間にあちらの世界に旅立った人もいるので、そろそろ計画しようということになった。ということで、第一回目の幹事会を3月14日に行う。以前は5人だったが、10年以上も前に一人が急逝し、現在は4人。今年は、美術教師でもあった担任の先生の「60年展」が開かれるので、それに合わせて6月に先生の住む小樽市で開催することにした。一応、会場となるホテルとは電話で予約したのだが、やはり下見をしようということになり、3月18日にОさんと小樽に出かける。やはり観光客が戻ってきているようで、JRも小樽も観光客で賑わっていた。ホテルでの下見と打ち合わせのあとは、運河の近くの小さなお寿司屋さんで昼食。小樽はお寿司屋さんが多いのだが、結構価格も高い。ということで、手軽に食べられるお店を探していたら、運河沿いより一本裏通りで、「ランチ 海鮮丼」の立て看板があり、値段もとてもお手頃で入る。海鮮丼は普通は醤油だけのたれがほとんどなのだが、この店では多少中華風のたれで初めての味。でもなかなか美味しかった。「まぐろ、イカ、甘えび」はご飯の上に乗っていたが、「いくら」は別の小鉢盛。あの味付けやイクラの別盛は、きっと観光客を意識してのことだろう。その後は、もう一つの目的地「小樽芸術村」へ。ここは、一度は行きたいと思っていたので、ちょうど良かった。4館あるのだが、今回は旧北海道拓殖銀行小樽支店の建物を活用した「似鳥美術館」と、旧高橋倉庫活用の「ステンドグラス美術館」だけで時間切れ。どちらもとても見ごたえがあり、似鳥昭雄さんに感謝せずにはいられない。似鳥氏は、オタモイ海岸の再開発にも力を入れてくれている。小樽出身の夫には、オタモイは懐かしい場所のようで、夫が元気なうちにまた行けるようになればいいなと思っている。小樽に行った時には、運河沿いのショッピングだけでなく、ぜひ小樽芸術村にも足を延ばしてください。
2023年03月18日
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ホテル→新神戸→東京→新函館北斗→南千歳→ローカル線に乗り換え地元駅。自宅到着は午後11時。今回の旅では、全国料支援での割引と、地域ごとにクーポン券がもらえるので、お土産はほぼクーポン券を活用。旅行代金以外はほとんどお金を使わなかった。それにしても、このような旅ができることを本当にありがたく感じる毎日だった。健康と多少のゆとりがなくては旅はできないし、色々な心配事があってもなかなか難しい。色々な人の顔を思い浮かべながら、申し訳ない気持ちに何度もなった。あらためて、自分が本当に平穏で恵まれているのだと感謝する。
2022年12月01日
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嬉野温泉→長崎駅→武雄温泉→博多→新神戸。有馬温泉泊。
2022年11月30日
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ホテル→加賀温泉駅→新大阪→博多→嬉野温泉新幹線は本当に速いと実感。
2022年11月29日
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A温泉→仙台→大宮経由で金沢→加賀温泉。宿泊は山代温泉
2022年11月28日
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私達は今年で結婚してから50年目。ということで、ちょっと贅沢な新幹線や特急を利用した日本温泉巡りツアーに参加することにした。申し込んだ時点で「キャンセル待ち」で、ダメかなと思っていたら行けることになった。ということで、この日がスタート。このご時世なので、ワクチン接種証明が必要。この日は、南千歳で特急北斗6号→函館新北斗で「新幹線はやぶさ」に乗り換えて、仙台まで。宿泊は秋保温泉。
2022年11月27日
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本当は息子たちの畑の手伝いに行く予定だったのだが、前日のワインピクニックに来てくれたお仲間たちが、この日は手伝いに来てくれることになったというので、私たちは行かないことにした。秋晴れのとても良い天気だったので、夫が「開拓の村に行こうか」というので9時の開園に合わせて出かける。「北海道開拓の村」は、最初に行ったのは亡父が元気だったころ。その後、孫たちとや友人とも行ったけれど、とにかく園内が広いので、全部を回ったことはない。それに、行った後にも移設した建物などがあると思うので、今回は見ていないエリアを回ることにした。開園直後に着いたためか、広い駐車場にも車はまばら。ここは、65歳以上は無料なので、近くに住んでいたら散歩などいつでもできそう。村内に入ると馬車が目に留まる。もう少しで発車というので、乗ることにした。お馬さんは、ドサンコとばん馬のハーフだそうで、とてもおとなしい馬だった。前回は漁村群を主に回ったので、今回は農村群を回ることにする。開拓時代の開拓小屋や、養蚕施設、初期の農家住宅、酪農初期の畜舎、炭焼き小屋、木材伐採のための飯場などなど、このような建物で生活して大地を切り開き、耕してきた先人に思いを馳せる。その後、北海中学や北大の恵迪寮、札幌師範学校の武道場など、亡父の若かりし頃の学生時代に思いを馳せた。もうこれだけで軽く二時間は超えてしまい、その後商家など中央通りを覗いて歩くともう12時。お腹もすいたので開拓の村食堂に行ったのだが、時間が時間なので結構混んでいて、かつあまり食指をそそるものもないので、開拓の村を後にした。この時間には駐車場も結構満杯だったが、中が広いのであまり人が混みあっている感じはしなかった。
2022年09月04日
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おいしい秋見つけた! 空知産ワイン飲み比べ 岩見沢09/05 05:00 北海道新聞 【岩見沢】空知管内のワインと食を味わう「そらちワインピクニック」(実行委主催)が3日、岩見沢駅東市民広場で開かれた。管内6市町の生産者がワインを出品し、来場者は地元の特産品とともに楽しんだ。 新型コロナの影響で2020年は中止、21年はオンラインでの開催とあって、今回は前売り券450枚が完売する人気ぶり。 会場では、管内13のワイナリーやブドウ生産者が希少なワインなど39種類を出品。来場者は少量ずつ味わったり、気に入ったワインを購入したりしていた。また、生産者に「ワインを作る上で心掛けていることは」と熱心に質問していた。 飲食ブースには岩見沢農業高生が作ったチーズ、岩見沢の特産キジ料理など10店が出店し、来場者はワインを飲みながら味わっていた。(三浦高志)息子たちのワイナリーも参加しているので、チケットは買っていなかったが11時半頃に会場に到着。三年ぶりの開催ということで、会場にはワインを愛する人たちやそれぞれのワイナリーやヴィンヤードの関係者で混雑していた。私達はアルコールには弱いのでワインもあまり飲めないのだが、やはり顔見知りのワイナリーの人達に挨拶をすると、ちょっとだけのテイスティング程度に味見をしてしまう。その中に、「10アールワイナリー」のブルースさんもいる。ブルースさんが空知に移住し、カスタムクラッシュワイナリーをスタートしたことが、空知でのヴィンヤードやワイナリーが急増したことにつながっている。空知ワインの父とも言える人であり、ご夫婦のお人柄も素晴らしい。本当に久しぶりにお会いできて、少しだけお話できて本当に良かった。前回の時よりは会場も広くなり、ワイナリーブースや飲食スペースも工夫されていてとても良かったと思う。私達は飲食ブースで販売していた岩見沢のパンや燻製、岩農のチーズなど、チケット代5000円分くらい買って帰宅。途中で、ひさしぶりに「おとん食堂」の岩見沢店に立ち寄り、小鳩ラーメンを食べてきた。変わらぬ昭和レトロな店内と音楽で、とても懐かしい気持ちになった。
2022年09月03日
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前に会ったのはまだ雪が残っていたので、三か月ぶりくらいだろうか。この日に行ったのは、由仁町のキッチンファームヤード由仁町には、色々なファームレストランがあり、「どこに行こうか?」と考えるのも楽しい。このお店には、別の友達に十年以上も前に連れて行ってもらったことは覚えているのだが、この日に行った友人とも行ったらしい。彼女曰く、「みらいさんに教えてもらって来たのが最初だから、一緒に来てるよ」というのだが、私はキツネにつままれたような感じで全く覚えていないのが情けない。「スープカレー食べたでしょ!」と言われても、不思議な気がするほどだ。ととう私も焼きが回ってきたかとガックリ。でも、そんなことはこのくらいの年になると誰でもあるよと慰められ、それもそうだと気を取り直す。それにしても、コロナで入店制限しているとはいえ、ズラーっと並ぶ人の列に驚く。周囲には花壇もありテーブルや椅子も配置されていたので、約30分くらい青空の下でおしゃべりして待ってから入店。食事もおいしいけれど、話の合う友達との会話は格別であった。良い一日になった。
2022年05月16日
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昨日は、友人と本当に久しぶりに「札幌芸術の森」に行き、「佐藤武展」を観た後にランチをしてきた。とても良い天気で、芸術の森を散策するだけでも気持ちが清々しくなる。この場所を選んでくれたのは友人で、私は彼女の車に乗るまでどこに行くのか知らなかった。したがって、「佐藤武」という画家についても予備知識ゼロ。 【芸術の森の開催案内】北海道千歳市に生まれ、現在札幌市と石狩市を拠点に活動する佐藤武(1947-)は、1980年代前半より、荒涼とした大地に塔や遺構を配した無人の都市風景を描いています。これらは旅行で訪れたインド西部の城塞都市ジャイプル、とりわけ同地の天文台遺構を着想源とするものです。以来、画家は、都市上空に浮遊する建造物や石棺、光線により崩れゆく塔など、さまざまなモチーフを取り入れて、白いキャンバスに静寂の都市を構築してきました。本展では、人物像や室内画を手掛けた初期作品をはじめ、作家の代名詞ともいえる、ある一瞬をとらえた都市風景や、上空を切り裂く一筋の線を中心に展開する最新作に至るまでを紹介し、これまでの画家の歩みを振り返ります。また絵画のみならず、立体作品や写真、詩をあわせて展示することで、作家の制作に通底する世界観を提示し、多彩な創作活動を続ける作家の全貌に迫ります。 佐藤武(1947~)SATO Takeshi 北海道千歳市生まれ。独学で油彩画に着手して以来、北海道における具象絵画の分野を牽引してきた。「第5回上野の森美術館絵画大賞展」特別優秀賞(1987年)、「イメージ・動―北海道の美術 ’88展」道立近代美術館賞(1988年)、「第11回青木繁記念大賞公募展」優秀賞(2002年)など、常に高い評価を得ている。また若い頃より詩作にも熱心に取り組み、近著は、第23回日本自費出版文化賞・詩歌部門賞(2020年)を受賞し、幅広い分野で才能を発揮している。佐藤武HPを見ると作品が見れますが、画家というものは見えない未来を見るものかなと思いながら、ずらっと並ぶ作品を鑑賞。その作品から感じるのは「孤独」「静寂」「生と死」などなどで、決して明るいものではない。うーん、これらの作品は作者の心模様なのか、未来への不安なのか。時代の空気を鋭敏に写し取ったものなのか…。美しく緻密でそれに感心はするけれど、感動に揺り動かされはしなかった。私の心はこのようなものを求めてはいないのだと、今これを書きながら思っている。私はもっと、色々切ないことや苦しいこと、暗然とすることはあるけれど、この地球の自然の営みの強さや美しさを感じるものを求めているのだと。そして、作品を見る時になにがしかの癒しを求めているのだろうなと。会場を出て散策する芸術の森の落ち葉の美しさや、落葉した木々から差し込む光や、広がる青空が本当に美しく感じたのは、作品との対比のせいだったかもしれない。その後は、ごちそうキッチン「畑のはる」のビュッフェで、たっぷりの食事とおしゃべりを楽しんだ。
2021年11月06日
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夫は運転が好きである。若い頃から、休日に天気になると「〇〇に行くぞー」と早朝から出かける準備をする人だった。仕事をしていた私は、休みの日は掃除や洗濯など、たまっている家事をしたかったので、一緒に行くことには積極的ではなかった。そんなことは毎日一緒に生活していたらわかるだろうと思ったし、出かけたければまずやるべきことは家事をすることだろうと、内心ムカついていた。「洗濯しなければ」とか、庭の雑草が気になるというと、「そんなもの、帰ってからでいい」とか、「草が生えていても自然なことだ」なんて言い、夫の優先順位はいつもお出かけをすることだった。その大義名分は、「休みの日くらい、子ども達に楽しい思いをさせなくちゃ」である。それを言われたら、私は何も言えない。平日は、保育園に預けっぱなしで、その上いつも「早くしなさい」の連呼で可哀そうに思っているので、「子どもたちのため」には反論できないのだ。本当は、「私は家でたまった家事をするので、お父さんが二人を連れて行ってよ」と言いたいのだが、もしもそんなことを言ったら「お母さんが一緒じゃなきゃだめだよ」の男連合の大合唱になる。そんな日々を送っていた後遺症なのか、今でも私はお出かけに積極的ではない傾向がある。そもそも私は運転をしないし、外出大好きのタイプではなく、家で本を読んだりしている方が好きなのだ。しかしそんな私も、次第に高齢になり80歳になった夫がいつまで大好きな運転ができるのかと思うようになり、夫が誘えば余程のことがない限りドライブに付き合うようにしている。ということで、先週土曜日は後志方面。主に積丹周辺。写真は島武意海岸昨日は胆振方面をドライブしてきた。写真は室蘭のイタンキ浜。最近は、夫の知人たちの葬儀にいく機会も増えた。自分の順番が近づいているのを少しずつ感じているのだろうが、はっきり言って夫の方が体力も意欲もある。夫は自分が先に逝くと決めているようだが、これだけはわかりませんよ。できれば、私が「もう運転辞めた方がいいよ」と言う前に、自分で判断してほしいと願っている。
2021年08月29日
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東北6県と新潟を、一部特急と新幹線を利用しながらの電車の旅から無事帰宅。ツアーと違い久々に頭を使う旅行で、ローカル電車からの風景や人々の様子に様々に思いを馳せながらの電車旅行は、のんびりした私には合っているだろう。夫は長時間座っていることが疲れたようだが、私は楽しかった。コロナ下での旅行は少し気が引けたけれど、とにかく無事に帰宅してホッとしている。詳しいことは秘密日記に。
2021年07月27日
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大学四年生の孫が住んでいる東北地方を、JRを乗り継いで夫と旅をしてきます。ワクチン接種も終了したので、オリンピックでコロナの感染爆発が起きる前にと計画しましたが、十分注意しながら行ってきます。
2021年07月21日
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本州では集中豪雨被害で大変な状態なのに、北海道はとても良い天気のこの日、急に友人とドライブとランチに行くことになった。行き先は、苫小牧のイコロの森。ランチはその脇にある「ガーデンカフェチセ」。「イコロ」はアイヌ語で「宝物」、「チセ」は「家」の意味。森の中の隠れ家のようなカフェであった。ランチはラザニアとサラダのセット。食事のあと、イコロの森を散策したが一つ難点が…。千歳空港の近くで、頭上を飛行機が飛ぶ。さらにこの日は、訓練なのかスクランブルなのか、戦闘機がものすごい爆音で頭上を飛ぶ。去った後は一時的に難聴になってしまったような感じがするくらいだ。あの爆音がなければ、自然満喫できる素敵な場所なのにと、ちょっと残念。その後は、少し足を延ばして支笏湖のポロピナイへ。ポロピナイは、中学・高校と学校でのキャンプをやった懐かしい場所。前回来た時は雨模様だったけれど、この日は穏やかな湖面に日の光がキラキラと輝いて本当に美しかった。まだチップをとることが出来る時期のようで、何人もの釣り人が湖岸や釣り船で釣っているようだった。今年は豊漁なのかな?
2020年07月09日
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友の誘いで、支笏湖湖畔の「翠明閣」 でリッチなランチ。あいにくの曇り空だったが、完全予約制であり、今は観光客自粛状態なので、密とは無縁の贅沢な空間と、贅沢なロケーションと贅沢なフレンチで、「三贅(?)」の至福のランチだった。彼女とのランチ&おしゃべりも本当に久しぶりである。
2020年06月15日
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26日から27日の土日、友人と久しぶりに温泉一泊の旅。登別温泉の「はなや」という小さな旅館で、美味しいものをおなか一杯食べて、源泉かけ流しの温泉(あたりまえのようですが、源泉かけ流しは最近では少ないらしい。特に大きなホテルでは)にのんびりつかり、日頃話したかったことをおなか一杯おしゃべりして過ごした。今は紅葉が美しく、立ち寄った地獄谷、オロフレ峠、倶多楽湖、支笏湖も、それぞれとても美しかった。やはり北海道は自然が一番の魅力だと思うし、雄大で手つかずの自然が都会に住む人たちや外国からの観光客の心のオアシスになるのだろうと思う。決してIRが北海道の魅力になるわけではないだろう。またこんな機会を作ろうと約束して別れたけれど、以前もそう言いながら何年越しになってしまったことだろう。とにかく、彼女が仕事が忙しい間はなかなかね…。
2019年10月27日
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今年、世界文化遺産の推薦候補として「北海道・北東北の縄文遺跡群」選ばれ、その中に「キウス周提墓群」が入っていることを知った。この場所は私の住む町とも近いので、一度行ってみたいと思っていたところ、地元の郷土資料館主催の見学ツアーがあると知り、夫と二人で参加した。北海道の各地には、縄文時代の遺跡が沢山発掘されている。私の実家も、千歳川の支流沿いにあったので、子供の頃は畑に黒曜石の矢じりや土器のかけらなどが転がっていた。祖母の話では、畑を掘り起こした時にそのようなものがいつも出てきたらしい。今では「埋蔵文化保護法」によって、そんなものが出てきたらすぐに調査発掘が始まり、畑もすぐには作れないが、昔はそんなことは当たり前すぎて、誰も気にも留めなかったのだろう。しかし、それが古代の人たちの生活の跡だということは子どもにもわかるので、土器や矢じりを見ながら「どんな人たちがここに住んでいたのだろう」と想像を巡らせていたことはある。その時に、もっとそれらのことに興味を抱いたら、考古学者になっていたかも?さて、このツアーには全道各地からの参加が45人くらいと説明役の郷土資料館の学芸員が参加。千歳市埋蔵文化センター →キウス周提墓群→美々貝塚→道の駅・千歳サーモンパーク(昼食)→ウサクマイ史跡群→千歳さけます情報館→カリンバ遺跡重要文化財漆塗り装身具展(恵庭市)というツアーであった。キウス周提墓群は、その広大さに驚いたのと同時に、その真ん中を国道が通っていて私達も何度も通っている場所なのに、単なる森だと思っていたことにビックリ。説明してもらわなくては、そこが巨大な縄文時代の共同墓地だなんて気が付くはずもない場所だ。美々貝塚も、一度見たいと思っていたけれど機会がなかった。ウサクマイ史跡群についてはまったく知らなかったし、道路の脇から入っていくのだが熊が出没しそうな場所なので、個人で行ったって足を踏み入れる勇気が出るかどうか。その場所のすぐ脇に、千歳サケマス孵化場&情報館があるので、縄文時代からこの場所には鮭が沢山捕れたのだろうし、住みやすい場所だったのだろうと想像できやすい場所だった。さけます情報館では、すべての稚魚にその放流地がわかるように耳石にバーコード(?)のようなものを付けるのだと知り、ビックリ。カリンバ遺跡の漆の装身具については、なぜその場所に突如として漆文化が花開いたのかなど、ミステリーな話ばかり。アイヌ民族はザックリ言えば古代の縄文人の末裔のようなものなのだが、漆工芸の伝統はプッツリと途絶えていて、その後は中国からの伝来の技術となっているようだ。本当に、縄文時代や擦文時代はミステリーに満ちているとあらためて実感した。参加者の多くは(当然ながら)考古学にも深い知識と関心のある人ばかりのようで、引率の学芸員さんも質問攻めにあっていて、私も聞きたいこともあったけれど入る隙もなかった。それでも、色々と発見があってとても良いツアーとなった。このようなツアーに参加したのは初めてだったのだけど、これからも機会があったら参加してみたいと思う。
2019年09月21日
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長男家族が勝毎花火大会に行くというので、私も同行させてもらった。帯広に向かい始めた時、「一般開放席で見るつもりだけど、駐車場をどこにしようかな」という。息子は「特設駐車場があるけど、駐車料+シャトルバスが結構高いから、一般駐車場で歩いていけるところがあればいいんだけど」という。そこで、帯広が実家の友人に電話をかけて聞いてみることにした。すると、ちょうどお盆でご実家にいるということで、「実家から会場まで徒歩20分くらいだけど、うちに駐車してもいいですよ」と言ってくれる。突然のことで申し訳ないけど、ここは甘えさせていただくことにして、安心して帯広に向かう。最初は一般道を走っていたのだけど、お盆のせいか、はたまた花火大会に向かうのか、結構交通量が多くて渋滞気味なので、占冠から高速道路に乗る。帯広と言えば「豚丼」なのだが、チェックしていた有名豚丼店は、暑い中なのに店の外に長蛇の列。ということでそこはスルーして、二つ目の候補のイオン店内の「十勝豚丼ひまわり」に。一時半を過ぎていたのに店内は混んでいて、30分待ち。でも、孫たちはその間に店内を見てまわったりして(私とお嫁さんは座席確保とブザー待ち)ゆっくりと待ち時間を過ごしで豚丼定食をいただく。食費関係は私が持つことにしていたので、息子は気を使ってなのか「バラ豚丼」を注文していた。でも、とても美味しかったし、量も十分あってとても満足。ついでながら、飲み物が65円と安かったので、メロンソーダとジンジャーエールを注文したのだが、これが予想よりたっぷりの量で、食後に飲み切るのが結構大変だった。(私は三分の一ほど飲み残し。)ということで満腹・満足で友人のご実家に向かい、ナビのおかげで約束の3時ちょっと過ぎに到着。きっと場所がわからないのではと気を使ってくださったのだろう、家族全員で外に出て待っていてくださった。会場への道なども詳しく教えていただいたので、迷うことなく会場へ。混雑すると聞いていたのだが、3時半に到着時点では、まだ一般開放席もゆとりがあった。本当は、一般開放B席の方が橋が邪魔にならずよく見えるらしいが、帰宅する時の混雑などを考えたら駐車している場所に近いA席が良いと思い、そちらに場所確保。待ち時間を考えて、私はイオンで文庫本を買ってきたので、それで時間をつぶす。孫や息子たちは代わる代わる売店などを覗きに行くが、すでに少し並び始め、トイレも時間が経つと並ぶだろうという。それで私は、歩いて5分程度のコンビニに飲み物・食べ物を調達に行く。すると、途中には焼き鳥、たこ焼き、フランクフルトなどの屋台も並んでいるし、コンビニ前では焼き鳥などのお店も出ている。店内に入ると行列ができているので確認すると、トイレ待ちの人たち。時間もあるし、コンビニトイレの方が使いやすいしきれいだしと思い、その列に並ぶ。結局20分近く並んだと思うけど、レジ付近にはザンギとポテトフライセットも置いてあるのでそれも買う。そんなこんなで、夕食代わりには十分な量の食べ物を両手に抱えて席に着き、その後はひたすら開会時間を待つのだが、日中は蒸し暑かったのだけどどんどん気温は下がり、開会時間頃には多分20度前後。動かないので冷気が体にしみる。夜になると冷えると予想していたので、重ね着や毛布をこたつ状態にしてその時を待つ。七時が過ぎる頃には、河川の階段状の場所はほぼ満席状態。河川敷の芝生も人でいっぱいになってきた。これだけの人数が終了後に一斉に帰ることを想像すると、大曲花火大会に行った時のことが思い出される。会場から出るだけでかなりの時間がかかり、そこからバスの場所までまた一苦労だった。さて、肝心の花火大会は本当に素晴らしかった。第69回と言うから、私の年齢と同じだ。十勝毎日新聞は100周年だそうだ。今年はその記念の年だそうで、例年以上に力が入っていたのではないだろうか。花火と音楽と光のコラボと、さらに有料席からはよく見えるであろう仕掛け花火も多分凄かったのであろう。残念ながら私たちの一般開放席は十勝大橋が部分的に邪魔をしていたのだが、それでも十分に見ごたえのある花火大会で、これはやはり「全道一」と言われるだけのことがあると思った。一時間半の花火ショーの後は一斉に観客が退場してゆくのだが、幸い私たちの座席は出入り口に近かったし、さらに大勢が移動する道路とは少し異なっていたため、人混みで苦労することなく、駐車させていただいたお宅に着くことが出来た。それでも九時半は過ぎていたので、友人にメール挨拶だけして帰路に向かう。高速道路も混むような情報だったが、駐車させてもらったおかげで人より早く高速に入ることが出来、なんとその日のうちに空知地方の息子の家に到着することが出来た。これはもう、私の強運の成せる業ではないかと思ってしまった。たまたま彼女の実家が帯広だったことを思い出し、その彼女がその時ご実家にいたためで、この日もまた、空の上で亡き父や祖母が計らってくれたんではなかろうかと思ってしまう。前日、ちゃんとみんなでお墓参りをして、おじいちゃんやひいばあちゃんを思い出していたからかも。それと、人とのつながりの有難さも感じた一日となりました。
2019年08月13日
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所要があり歌志内市へ。この町に行くのは10年ぶりくらい。どんどん人口が減って、今確認したら3,203人とか。かもい岳スキー場及びかもい岳温泉も今年閉鎖されて、道の駅も寂しいものだった。前に来たときは、沢山のお漬物が売っていたけれど、今は少しの地元野菜が売られていたくらい。そういえば、以前はここに食堂もあったけど…。今の歌志内のウリは何なのだろうか。
2019年07月24日
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北海道近代美術館で開催されている、「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」に、Tさんと一緒に行く。もう開催も終盤なのでさほど混んでいないだろうと思ったが、受付には長蛇の列でビックリ。しかし、Tさんは障がい者手帳を持っているので、その手帳を見た美術館の人が「こちらへどうぞ」と案内してくれて、私も付き添いとして列に並ばずに会場に入ることが出来た。しばらく美術館に来ていなかったので忘れていたけれど、障がい者手帳はこのような時には役に立つ。彼女は目に見える障害ではないので、きっと並んでいた人たちは「どうしてあの二人は優先的に入れるの?」と怪訝に思ったことだろう。それはともかく、今回の障壁画には本当に感動しかない。人が多かったので、ゆっくりと堪能と言うわけにはいかなかったが、東山魁夷が10年の年月をかけて構想してからスケッチを重ねて完成したそのプロセスもわかり、本当に素晴らしい展覧会であった。東山魁夷も90歳まで生きて描き続けていたんですね。日本画家って長寿のイメージがあります。
2019年07月23日
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中学時代の担任は美術の教師であった。その頃から学校の物置のような場所で彫刻を作っていて、その後高校の教師となった。私達を担任したころは美術教育にはあまり熱心ではなく、とにかく子どもたちと一緒に行動することに熱心だったと思う。そのせいか、私たちの学年やクラスは結びつきが強くて、今でもそのつながりが続いている。高校は三校を転任していたが、その美術部の教え子たちの中には美術関係の仕事をしている人も多く、今回はその教え子たちとの合同展覧会だった。この日に行くことは以前から決まっていたので、実家の隣の家のおばさんに留守番を頼んで出かけた。お煮しめとお稲荷さんを作り、前日おばさんに頼んだのだが、母には「偶然買い物で会ったので、遊びに来てと言ったので…」と説明した。おばさんに頼んだと知ったら、母は申し訳なく感じるだろうし、「私は一人でも大丈夫」と意地になるように思ったからだ。このブログで書きたいことは、そんなことではない。教育の力と、教師の影響力についてなのだが、詳細はプライベート日記に。とにかく、思春期にどんな出会いと体験をするかは、人の一生を左右することだってあるのだ。
2019年06月22日
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友人が誘ってくれて、支笏湖温泉「水の謌」でランチを楽しんだ。ここのランチビュッフェは何度か来たことがあるが、今回はちょっと贅沢に料理茶屋「天の謌」での和食会席。あいにくの小雨模様だったが、ビュッフェの方はとても賑わっていたけれど、その上の階の料理茶屋の方は少人数で寂しいくらい。でも、とても落ち着いた雰囲気でゆっくりと料理とおしゃべりを楽しむことが出来た。たまにはこのようなプチ贅沢もいいですね。
2019年06月16日
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5月30日から6月1日までの二泊三日、エアアジア・ジャパンのモニターツアーでもあるツアーに参加してきました。【一日目】エアアジア・ジャパンの受付は千歳空港の端っこ。当然、この航空会社を利用するのは初めてだった。この日は、セントレア空港から郡上八幡に行き、郡上八幡博覧館で郡上踊りのてほどきを受けた後、街並み散策。このこぢんまりした町で、7月中旬から9月上旬にかけて33夜踊り続けるって、聞いただけで疲れてくる。この町のことについては、以前「郡上一揆」という映画で知ったくらいだが、郡上踊りの盛大さは今回知った。宿泊先は下呂温泉「下呂観光ホテル」。夕食は「炙り懐石」ということで、入り口ではほだ木から好みのシイタケ一人二個を取って、飛騨牛と共に焼いていただく。飛騨牛をこんなに食べられるとは思っていなかったので、嬉しかったけれどお腹が苦しい。良いお宿でした。【二日目】私達は、この「苗木城跡」が目的の一つ。岩山の地形を利用して築かれた城で、駐車場から見たら結構遠くて高い場所のような気がしたけれど、ボランティアガイドさんの話を聞きながら登ったら、さほどでもなかった。苗木城や苗木藩についてはガイドさんの話で初めて知ったことばかりだったが、印象としては貧乏な藩のお殿様が、何とか城を守ろうとしてきたんだなということ。自分の立場を守るというよりも、藩の人々を守ろうとしていたという感じで、廃仏毀釈は徹底され藩主や藩士たちの菩提寺にあった過去帳は地中に埋められて守られたという話には、少し感動した。だから、先祖が苗木出身という人は、過去帳で調べることができるらしい。その後は、馬籠宿→妻籠宿を散策し、昼神温泉「天心」に宿泊。この宿も夕食・朝食共に盛りだくさんで、二日連続「お腹が苦しい!」。お風呂は、一階の庭園露天風呂が良かったですね。【三日目】明知鉄道乗車もこのツアーを選んだもう一つの理由。恵那駅から岩村駅の間を一両の電車でミニ鉄道の旅。岩村は、朝ドラの「半分青い」の舞台になった「ふくろう商店街」でロケに使われたそうだ。なるほど、「昭和」を感じる商店街で、主人公が育ちおじいちゃんが焼く「五平餅」を食べさせるお店「みはら」を教えてもらったので、そこで一本だけ買って食べた。感動したのは、たった一本しか買わなかったのに、たまたまが空いていたので、「ここで食べていいですか?」と聞くと、「どうぞどうぞ」と席を勧められ、何と、五平餅一本にお茶二つ、小鉢二つが出てきたこと。そんなつもりは全くなかったので、申し訳ないと思いつつ美味しくいただきました。ごちそうさまでした。その後は、大きな水車で有名だという道の駅「山岡」→パーキングエリアでトイレ休憩→セントレア空港→千歳空港、そして我が家へ。こんな旅ができることを、心から感謝します。
2019年06月01日
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前夜、テレビか新聞で「様似うにまつり」のことを知った夫が、「明日は天気が良さそうだから、行ってみないか」という。夫は最近、少し視力が衰えてきているようで、夜間や雨の日は運転したがらない。しかしその分だけ、年齢のこともあり「いつまで運転できるだろうか」とも思っている。若い頃から本当にドライブが好きな人で、子どもが小さい頃には休日にはいつもどこかに出かけていた。私は仕事をしていたこともあり、休日のお出かけは子どものためには良いとは思っていたが、自分自身はあまり付き合いたくなかったことが多い。それでも、多分道内各地はほとんど走破しているのではないかと思う。残念ながら私は、あまりあちこち連れまわされたので、記憶にない、もしくは記憶がおぼろことが多い。しかしそんな私も、今では「来年はどうなるかわからないし、行ける時には付き合おう」と思っている。というわけで、午前七時半に自宅を出発。夫の話では10時開催だから、11時頃には着きたいということだった。自宅から様似までの距離は約160キロ。さほど交通量が多い道路ではなく、かつ高速道路並みの高規格道路が厚賀まで通っているので新冠と三石の道の駅に立ち寄って会場到着は11時で予定通り。しかし、その見通しは完全に間違っていた。おめあてのウニを買うためには整理券が必要で、すでに信じられないほどの長蛇の列。一応並んではみたが、スタッフの方が「多分、もうすぐ売り切れです」とのこと。私は諦めが早い。すぐさま無駄に並ぶのはやめにして、立ち並ぶテントで地元の人が提供する食べ物を味わうことにする。とにかく並ぶのは嫌いな夫なので、その時点で買いやすかった「ツブ蕎麦」「海鮮焼きそば」をゲット。両方ともとても美味しくて、特に海鮮焼きそばにはツブ、ホッキなどの貝類がたくさん入っていてお得感満載だった。周囲を見ると、みんなウニやホッキ、牡蠣やツブなどのBBQをしている。聞いてみると、材料を買ってバーベキューの使用料200円で食べることが出来るそうだ。その食材の値段も割安だったので、ウニは無理でもそれは食べて帰ろうと思い、BBQセット売り場テントに向かう。そこでも並んではいたが、もう少しで買えるというところにウニが届いた。どうも、早く用意した目玉のウニが売れてしまったので、それに代わるウニ10個を1800円で売るらしい。「これは整理券いらないのですか?」と聞くと、「大丈夫だよ」とのことで、そのウニが高いのか安いのかわからないままに一袋購入。勿論、バーベキューセットも。夫は私がそこに並んでいる間に、「魚のフリッター」と「貝の酒蒸し」を買っていた。夫にウニが買えたというと、「おおー、良く買えたなあ」と喜び、「どうせなら、これを息子たちに持って行ってやらないか」という。エーッ、それならもう一袋買えばよかったと振り返ると、そこには私たちのようにウニを買いそびれたような人たちだろう、ズラーっと長蛇の列。ということで、フリッターや会の酒蒸し、松葉藻の味噌汁などでお腹がいっぱいになったので、12時前には会場を後にした。途中の「みついし昆布温泉」でお風呂に入り、息子の家に到着したのは午後四時。夫はその場でウニの割り方をお嫁さんに教えて味見をしてすぐに帰宅した。(息子たちはまだ仕事をしていたので)夫は、「1800円で蝦夷バフンウニが10個は安い」とのこと。さすがに長時間の運転で疲れたらしく、夫は早々にお休み。その後、孫や息子から「美味しかったよ」とメールが入り、それだけで満ち足りた気分の一日となった。春ウニ最高! 様似でまつり 4500人が旬の味を堪能05/19 17:18
2019年05月19日
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昨日は、ファンクラブから回ってきたチケットで日ハム・楽天戦観戦のために札幌ドームへ。最近はどうも冴えない試合が続いているし、対戦相手が楽天なのであまり期待せずに、それでも「今日は勝ってほしいなあ」という淡い期待も抱きつつ札幌ドームへ。最初に二点先制された時は、「今日もダメかも…」なんて思いがよぎり、夫などは、「もう少し様子見て、期待できなさそうなら早めに帰るぞ」なんて、ファンの風上にもおけないような私達であった。そんなダメファンに見せつけるように、その回には大田の二塁打から始まって4点で逆転。結果的には15対5という考えられないようなお祭り状態だった。こんな試合はそうあるものではないと思うので、この日に観戦できて本当にラッキー。それでも試合終了は10時も過ぎていて、帰宅は11時半。ヒーローインタビューで大田泰示が「わけがわからないくらい打てた」と言っていたが、私達も「こんな日ってあるんだね」とビックリ。いや、わけがわからなくなってパニックになってしまったのは、8回に登板して7点も打たれた楽天の投手だろう。なんだか気の毒になってしまって、近藤がフライで終了した時は私もホッとしてしまった。この日は札幌で桜の開花宣言。ファイターズ打線も開花したと思いたい。猛攻15点ハム開花 大田起爆剤 初の5安打 北海道新聞04/25 05:00 自身初となる1試合5安打と大暴れした大田が起爆剤となり、このところ湿り気味だった打線にようやく火が付いた。 2点を先制された直後の一回。楽天の先発福井の不安定な立ち上がりを捉えた。先頭西川が四球を選び、続く大田が右中間を破る適時二塁打で反撃ののろしを上げ、中田の同点打、渡辺が勝ち越しの二塁打を放って一挙4得点。 さらに二回2死から大田が左翼線二塁打で出塁し、王柏融の中前打で生還。五回に2点二塁打、八回にも2点適時打を放った大田は「訳が分からないぐらいヒットを打てた。これ以上は出ないです」と冗談交じりに振り返った。 終わってみれば、19安打、15得点はいずれも今季最多。ここまで調子が上がってこなかった近藤は4打数2安打、中田も6打数3安打と復調の兆しを見せた。栗山監督は「きょうは打線がつながり、すごく良かった」と喜んだ。 この日の猛攻で、前日までリーグワーストだった総得点は4位まで浮上。ただ、22試合を終えて本塁打数9は12球団ワースト、2桁安打もこの日を含めまだ3試合しかない。「きょうは良くても、あすになったらバタッと変わってしまうこともある」。栗山監督は自身を戒めるようにそう言った。(花城潤)日本ハム大田5安打「わけわかんないくらい打てた」[2019年4月25日0時18分] 日刊スポーツ
2019年04月25日
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熱海の日の出です。
2019年03月18日
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10月27日(土)朝食後、次の観光先のヒヴァに向けて出発。この日、別のバスの参加者が前夜お腹を壊してしまい、救急車で病院に搬送されたと聞く。参加者のほとんどは高齢者に入る様な人なので、通常の食事と違うだけでもお腹に負担がかかる。私たちも他人ごとではないので、注意しなくてはと肝に銘じる。幸いなことに、私たちの班はまだみんな元気でバスに乗り込む。ヒヴァまでは約450㎞で、約7時間のバス旅。砂漠地帯を通るので、良い道ばかりではなく、かつトイレ休憩できる場所もほとんどないという。途中で「青空トイレ」となるということは、事前に説明されていた。青空トイレ体験を楽しみにしている人もいたけれど、私はできることなら避けたいなあと思っていた。バス移動時間が長いので、この時にはシュンクルさんから、ウズベキスタンの歴史や政治体制や、ご自身がこの仕事に至るまでの体験などを色々と聞くことが出来た。全部を記憶してはいないし、私は乗り物の中でメモを取ると酔ってしまうので、覚えていることを書いておこう。《ウズベキスタンの政治体制》何度も侵略と破壊、復興を繰り返していたウズベキスタンだが、最後に支配されたのはロシア→ソ連。この時代に、ソ連の都合による農業政策で砂漠化が進んだり、生産物はソ連に持っていかれるのでウズベキスタン内の農業や加工技術も停滞したという。精神的支柱のモスクも破壊されたり、他の用途に利用されたりもしていたのは、遺跡の説明の時にも何度も聞いた。もちろん、ソ連の国民となったのだから、言語もロシア語を強要され、多分ウズベク語は北海道におけるアイヌ語と同じような扱いを受けたのだろう。(しかし、ウズベク人の間では本来の言葉で生活していたはずだ)独立までの経緯の説明はなかったけれど、ソ連に利用されるだけの状況にウズベキスタンの人たちが不満を持たないはずがないから、そのパワーが独立へと向かわせたのだろう。今ウズベキスタンの歴史(ウィキペディア)を読むと、独立後も色々と大変だったことがうかがえるが、バスの中ではあまりそのようなことには触れなかった。ただ、彼が強調していたのが、この時に初代の大統領となったイスラム・カリモフの政策により、周辺の同じように独立した国とは路線が違ったことで、現在も借金ゼロの国なのだということ。他の国が大国からの借金でインフラ整備や近代化を促進したのとは異なり、「スピードは遅くても自分たちの力で国を発展させよう」という信念だったという。そして、「教育と医療」が国民を守るとの信念で、現在大学までの教育費と医療費は無料なのだという。これには本当に驚き、かつ感動してしまった。そのかわり、所得税は20%くらいということだが、医療と教育がタダならと納得してしまう。参加者の一人が「老人介護問題は?」と聞くと、シュンクルさんは「親の面倒を見るのは子どもの務めですから、介護問題はないし施設もない」というような説明をした。ここで私は、ピーンと来てしまった。《ウズベキスタンの女性の立場についての私の想像》希望すれば男女を問わず大学に行けると聞いたときから、私の疑問がふくらんだ。「では、職業についても平等なのだろうか」イスラム教徒が多いというウズベキスタンで、男女が対等ではありえないだろうと思っていたからでもあるが、どこのお土産物屋さんでも売り子は圧倒的に女性が多い。アジア圏の国々(日本含む)では、ジェンダーによる女性から見たら差別に近いことが多い。「親の面倒は子の責任」というが、その介護は女性が担っているに違いない。ということは、当然子育てに関することも女性の役割だろう。それはまた、当然のように社会で働く女性の役割と連動する。少し前の日本のように(いや、現在もそうかも)、職場ではお茶くみやコピー取りなど「女子供でもできる」ような雑用をこなし、かつ男以上の働きをしなければ一人前とは認められず、男性以上の力があったら男性の嫉妬による嫌がらせなどもあり、多分男性同様の昇進は望めず、嫌気がさして仕事をやめる。そんな構図が、私には透けて見えるような気がした。しかし、そんなことを彼に問うてもしょうがないので聞くことはしなかった。ただ、彼が結婚式をあげているカップルを見た時、「今が一番幸せね。すぐに後悔するかも」とか、奥さんには歯向かえないというような言葉を聞くと、日本と同じように「家庭ではかかあ天下多いのかもしれないとも感じた。そんなところで男女はバランスをとるものなのかもしれない。↓そんな話をしている間に「青空トイレ」である。まっすぐな道路の右側が女性、左側が男性と指定され、多くの人は青空トイレにむかったが、私は「あと一時間で昼食場所」と聞いたので体験しなかった。↓昼食。チャイナハと呼ばれる軽食カフェのような場所で、ナンやスープ、メインの串焼き肉をいただく。ここでは、焼き鳥のようにその場で焼いていて、とても美味しい焼き肉(ビーフと羊肉)だった。ナンも、焼き立てでホカホカ・もっちりしていて、ウズベキスタンで食べた中では一番の美味。↓ヒヴァ観光イチャン・カラのアタ・ダルヴァザ門、カルタ・ミナルを見学し、なんとここのメドレセ(神学校)を改装したホテルに宿泊。これは事前に知らなかったので、本当に嬉しかった。狭いけれど、ここで神学生が学んでいたと思うと、私はイスラム教徒ではないけれど敬虔な気持ちになる。それに、何と言っても雰囲気は抜群である。10月28日(日)朝食後、集合時間より早く部屋を出た夫が、集合時間になっても来ない。そんなことはとても珍しいことなのでどうしたのだろうと思っていたら、この建物を出たところにある土産物屋で陶器のカップとお皿を買っていた。一軒だけ開いていたお店のご主人が、「朝いちばんだから安くする」と言ったとかで、その場にいた旅行会社の人(今回のツアーには、添乗員の他に支店長が同行していた)と一緒に交渉していたらしい。私も、ブルーの彩色の陶器がほしいと思っていたので少しの遅刻は許す。↓ バス移動Ⅰ時間40分カラカルパクスタン共和国(ウズベキスタンの中にある共和国)アヤズカラ遺跡をぐるっと一回り。砂漠というか荒野というか、そんな中に残された遺跡で、砂の急こう配を上るのは結構大変だったが、いかにも「古代の遺跡」と感じることのできる場所。この遺跡にまつわる伝説を聞いたが、要するにある王様が女性に恋をして、彼女が「こんなお城を私のために建てたなら」という求めに応じていくつもの城を作ったけれど、結局振られて絶望して死んでしまったという伝説。なんだかその王様が哀れであると同時に、女の怖さも感じた次第。↓ユルタと言われるテントでの昼食。ここもとても雰囲気があり、良かった。毎回、食事のたびにワインをいただいていたら、この数日でお酒に強くなってしまった。やはり、ワインは食事と一緒に飲むのが一番だ。↓ヒヴァに戻り、あらためて観光。ここで一番思い出に残っているのは、ジュマモスクとそこのミナレットに上ったこと。ミナレットは、本来アザーン(礼拝時刻を知らせる)のために一人が登ればいい場所なので、とても狭くて急こう配。希望者だけが登ったのだが、上に全員が上がらなくては下に降りれない狭さ。さらに上もとても狭いので、ミナレットの上でおしくらまんじゅう。うっかりしたら下に落ちそうだった。でも、とても良い思い出になった。夕食は「夏の宮殿」と言われた場所のレストランで。10月29日(月)ヒヴァから一時間弱のウルゲンチ空港から国内線でタシケント空港へ。タシケントに着いて昼食後、市内のスーパーヘ。ここが現地通貨のスムを使い切らなくては、両替できずに持ち帰ることになるので、お土産用としてはちみつ、干しブドウ、数種類のナッツ類を購入。↓ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場ここが私がこのツアーで行きたかった第一の場所。残念ながら中には入れなかったのだけど、劇場の前庭にある噴水の場所が、日本人捕虜の収容施設であったことを聞くと、当時のことを思いジーンとしてくる。参考…ナヴォイ劇場劇場の後ろ側にある碑文には「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と書かれている。当時のカリモフ首相が、「日本人は我が国の恩人なのだから、捕虜と書いてはいけない」と言ったとの話を聞くと、あらためて彼の偉さを感じてしまった。その後、近くのティムール広場をみてから、いよいよ最後の訪問地へ。↓タシケント抑留日本人墓地この場所にバスが到着した時、そこにあった野菜や果物を売るワゴンの前で、ご老人が何かを買っていた。その彼が、この日本人墓地を守ってくれていた家族の二代目だとシュンクルさんが教えてくれた。するとご老人は、「日本人ですか?」というように近づいてきた。私達はその時には説明を聞いていたので、それぞれに握手をしたり「ありがとうございます」と声をかけたりすることができた。私は前に進み出ることが出来ず、せめてと写真だけ取らせていただいた。とても物静かな穏やかな雰囲気のある方だった。そこから歩いて奥まった場所に5分程度進むと、日本人墓地がある。そこでは、作業服を着た三代目の墓守の方(先程会ったご老人の息子さん)が落ち葉を清掃していた。説明によると、当時の日本人抑留者が亡くなった時、その埋葬作業をした人が墓守を始めたそうである。職業として墓の管理をしていたのかどうかはわからないが、このような仕事が恵まれた職業ではないだろう。そこには、「戦後であるにも関わらず、ウズベキスタンという遠い国に来て亡くなった人の悲しみを悼みたい」という思いがあったはずだ。二代目の墓守であるミラキル・ファジーロフ氏に、昨年勲章を贈っている。参考…タシケントの日本人墓地墓守に旭日単光章 私自身も、そのことに何とか感謝の気持ちを伝えたくて、残っていた現地通貨全部を(と言っても一ドル程度しか残っていなかった)手渡しながら、「本当にありがとうございます」と頭を下げてきた。ソ連に抑留されて強制労働につき、望郷の思いの中亡くなられた人たちのことを思うと、本当に胸が痛む。(ウズベキスタンには2万人を超える人が抑留された)しかし、この地に眠る人たちは、現地の人に丁寧に弔われ、最近は日本人も来て手を合わせてくれるようになり、きっと安らかに眠ることが出来ているのではないだろうか。貴方たちの犠牲のおかげで、ウズベキスタンの人の心に日本人への尊敬や信頼の気持ちが育まれてきたのですと、心から感謝したい気持ちになった。参考…シベリア抑留その後、レストランで最後のディナー。同じグループの人たちともすっかり仲良しになり、最後のワインと食事を楽しむ。しかし、ここでとうとう、私たちのグループの中にもとうとうお腹の調子を悪くされた人が…。その後タシケント空港へ向かい、バスの中では現地ガイドや添乗員さんから最後のご挨拶。おかげさまで、本当に楽しく充実したツアーとなりました。幸いなことに、けが人も救急車で搬送されるような体調不良の人もおらず、さぞ添乗員のKさんは安堵したことでしょう。みなさん、本当にお疲れさまでした。そしてありがとうございました。
2018年11月06日
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ウズベキスタンツアーの続き。備忘録も必要だが、その時々に感じたことがもっと大切なのかもしれない。できるだけ簡略にバランスよく、かつ短時間で書きたいと思うけど…。10月25日(木)サマルカンドのホテルを8時に出発し、シャフリサブスへ約3時間のバス移動。バスの中で添乗員Kさんから、前夜のレギスタン広場で転倒した別のグループの人が、骨折していて帰国することになったとの報告を受けた。サマルカンドから日本への直行便はないので、乗り継ぎ→乗り継ぎで北海道に向かうことになるらしい。「もしも自分だったなら」と思うと、お気の毒で仕方がない。遺跡などには十分な街灯がないし、石造りの階段や段差、側溝があるので本当に気をつけなくてはならない。一人参加ならまだしも、同行者がいたなら大変な心配や迷惑をかけることになる。このツアーは中高年が多いので、参加者の誰しもが他人ごとではなく、十分注意しなければと肝に銘じたと思う。シャフリサブスもシルクロードのオアシスの街。建国の父・ティムールの生誕地であり、最初の観光は彼の夏の宮殿と言われる「アク・サライ宮殿跡」。屋上にプールを作り、中庭にはその水圧を利用した噴水までつくったというからビックリである。しかし、現在残っているのは巨大な門の半分くらいと宮殿跡地だったという大きな公園だけ。その公園には巨大なティムールの銅像が威容を誇っているかのようだった。ティムールの夢の跡という感じかな。ここでは3組の新婚夫婦が幸せそうに写真撮影をしていた。ウズベキスタンは若い人たちが多くて、どうも現在は結婚ラッシュの時期らしい。遺跡で結婚写真を撮ることがブームのようで、どの遺跡に行ってもウエディングドレスの花嫁が何組も見られた。残念なことに、(日本でも同様だが)民族衣装の花嫁には出会わなかった。↓ドルッティロヴァット建築群どれもティムールゆかりの建造物。コク・グンバス・モスク、グンバズィ・サイーダン廟、シャムスッディン・クラル廟です。ドルッティロヴァットとは『瞑想の家』と言う意味です。(リンクからコピー)↓ドルッサオダット建築群ドルッサオダットとは『大いなる力の座』という意味です。また、ティムールが自分のために用意したティムール廟と呼ばれる地下の墓室が残っています。砂遊びをしていた少女によって偶然発見されたそうです。ティムールは自分が死んだらこの場所に葬って貰うつもりだったようですが、大雪のため遺体をここまで運ぶことができずに、サマルカンドのグリ・アミール廟に納められました。結局、棺だけがこの地に残されています。(リンクからコピー)どの遺跡の場にも、お土産物を売っている女性たちが並んでいる。「ヤスイヨー」などと日本語を叫ぶ人もいる。しかし、ウズベキスタンの人はあまり強引ではない感じがする。目が合って声をかけられても、こちらが「ごめんね。今は買わないから」というような意味を込めた会釈をするとそれ以上無理強いはしない。でも、一度手に取って「うーん?」というような感じだと、「これはどうですか?」というように次々に差し出してくる人がほとんど。その挙句に買わなくても、残念だという表情はしても、舌打ちをするような失礼な態度はとらない。初めて中国の旅に行った時には、そんなあからさまな態度がとても不快だったことを思い出すし、中国ツアーの時の現地ガイドは、「物売りは相手にせず無視してください」とまで注意されていた。(15年以上前だから、今は違うかもしれないが)その点、全体的にウズベキスタンの人たちの控えめで親日的な態度はとても好感が持てた。このどこかで、クロスステッチ刺繍のポーチを3個購入。ウズベキスタンには伝統的な手仕事の刺繍・スザニや絨毯、陶器、お人形など色々あるけれど、スザニは少し値段が張るし、手ごろなのはポーチや陶器のお皿や小鉢、人形などだろう。参考…ウズベキスタンで女子におすすめのおみやげはこれ!昼食後は次の観光地ブハラへバス移動約4時間。移動中に、綿花の収穫作業を何度か見た。もう収穫終盤のようではあったが、綿花摘みは手作業なので家族や仲間総出で行うそうだ。私の子どもの頃の稲刈りと同じだなと思いながら、広大な綿花畑を見ることが多かった。日本でも昔は綿花栽培が盛んだったようだが、今では自給率ゼロだとか。ブハラに到着後、レストランで夕食。この日のメインはビーフストロガノフ。海外旅行に出たら、ほとんどの人が夕食はもちろんのこと、夕食でもワインやビールを飲む。私たち夫婦はあまりお酒が飲めないので、お水やせいぜいジュースが多いのだが、今回の参加者の皆さんは「ワインが美味しい」というので、私も夫と二人でグラス一杯のワインを飲んでみることにした。確かに飲みやすいワインだったが、この日は初回だったためすぐに酔いが回ってしまった。しかし、これに味をしめて、この日から食事のたびにグラス一杯のワインを注文することにした。ワインの話となれば、ついつい息子がワインを作っているという話にもなる。ワインが好きな人たちは当然興味を示してくださるので、親バカも加わり色々説明することが増えてしまった。この日から2連泊のホテルは、ちゃんとお湯も出たし不都合なことは何もなく、とても快適に休むことが出来た。10月26日(金)ブハラ観光の1日。次々とリンク先のほとんどの遺跡群を回るので、どこがどこやらわけがわからなくなる。ついそんなことをぼやいた参加者に、日本で暮らしたことのある現地ガイドのシュンクルさんは、「日本の京都や奈良と同じようなものでしょう。私も同じような神社やお寺で混乱しました」と言っていた。昼食はほうれん草を練りこんだような、緑色をした焼うどんのような「ラグマン」。美味しかったけれど、どの食事も日本で食べるものよりは油分が多いようだ。食事と言えば、最初に「飲料水は必ずミネラルウオーターを飲んでください。念のために、歯磨きも水道は使わないように」と言われていた。みんな注意していたはずだが、別のバスの人の中にはすでにお腹を壊してしまった人がいるらしい。私は胃腸は丈夫な方だが、いつも海外旅行をすると終盤には胃腸に負担がかかっているようで、不調になってしまう。だから、どの食事も申し訳ないけれど、食事内容にようっては「完食」はしないように注意し始めていた。午後からはタキ・バザールへ。ここには、「コウノトリのハサミ」を作っている工房兼店舗があり、ガイドブックで見ていたので買いたいと思っていた。想像していたより狭いお店だったが、カードが使えるというのでハサミやナイフなどを購入。ウズベキスタンではまたカードが使えない場所が多くて、あまり現金を持ち歩きたくない私たちは手持ちのお金が多くない。だから、ここでカードが使えるとわかってホッとした。参考…[コウノトリ型ハサミ]ウズベキスタンの凄腕職人に弟子入りしてみたまた、ラビハウズの周辺に並ぶお店には、木彫り彫刻の職人の店があり、ここで見た1枚の板から作る「コーランの書見台」の細工には感動した。ここもカードが使えるというのでかなり迷ったけれど、やはり金額も張るので断念。お店の中では、12歳というお弟子さんが木彫をしていた。よい職人さんになってね。(この写真の上部に並ぶのが、一枚の板から作ったコーランの書見台。 たたむと一枚の木材になる)夕食は、その近くにあるナディール・ディヴァンベギ・マドラサで民族のダンスや音楽、ファッションショーなどを見ながらいただく。壺で焼いたポトフのような料理がおいしかった。とりあえず本日はここまで。約2時間かかった。次の2日分は2時間以内にまとめたい。
2018年11月06日
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10月23日(火)千歳空港12時に集合。や14時30分出発なのにやけに集合が早いと思ったら、初の北海道からのチャーター便と言うことで、空港内で「出発式」たるものがあり、ツアーの説明や添乗員の紹介などがある。その後、理由はよくわからないがほぼ一時間遅れで飛び立った。事前の添乗員の説明では、機内にはビデオなどの設備がないと聞いていたので暇つぶしの本を持参したが、日本語のものはなかったけれど英語・ロシア語・ウズベク語対応のビデオや、音楽、ゲームなどもあった。私はずっとウズベクミュージックを聞き続けながら、今更ながらではあるがウズベキスタンのガイドブックを読んでウズベキスタンの予習にいそしむ。途中でお茶とお菓子や機内食のサービスが3度。軽い昼食を取ってからだったので、さほどお腹もすかなかったけれど、出されたものは食べる主義なので、完食ではないけれど食べてしまった。ウズベキスタンのサマルカンドへは約9時間という予定だったが、少し頑張ったのかほぼ予定通りに到着。日本との時差は4時間。今回のツアーは、ツアー会社5社と、ウズベキスタンからの語学留学性を受け入れている東川町のグループが参加。それぞれのツアーで少しずつ日程は異なるようだが、往復便は同じである。私達はトラピックス北海道の企画のツアーで、75人くらいの参加者が3班に分かれて旅をする。現地ガイドは日本語がとても堪能なシュンクルさん。日本人ツアー客から「細川たかしに似ている」と言われたようで、「細川たかしの隠し子です」なんて自己紹介をしていた。ホテル到着は現地時間で午後10時近くになり、それからホテルのレストランで夕食。こんなにちゃんとしたコース料理が出るなら、機内食を食べるんじゃなかったと後悔遅し。どれも味見程度にしか食べられなかったが、味はとても美味しかった。ホテルは近代的できれいだったけど、残念なことにシャワーがお湯にならない。せいぜい「ぬるま湯」と言えるものしかでず、この季節では「寒い!」。次の日に他の人たちに聞くと、どの部屋も同じようなものだったらしい。一度お湯を使ってしまうと、次のお湯になるまではとても時間がかかるらしい。10月24日(水)朝食はバイキング方式。パンは豊富だし、チーズ、ハム、卵、トマト、キュウリ、果物(スイカ、ぶどう、瓜orメロン)、ジュース、コーヒーなど、日本のバイキングと似たようなもの。違うのは、干しブドウやナッツ類などが数種類あり、私はヨーグルトにそれらを混ぜ、ジャムやはちみつをかけたものを毎回いただいた。これは美味しかった。朝食後はサマルカンド市内観光。グリアミール廟ウズベキスタンはイスラムの国なので、このような建物がとても多く、美しい青のタイルが特徴的。これ以後、いくつも同じような建物を見学するので、私には写真を見るだけではどこの何という建物なのか見分けがつかない。ガイドさんの話もその時は一所懸命聞いているが、残念ながら短期記憶はとても苦手になっていて、次に行ったらすぐに忘れてしまうことを繰り返していた(涙)↓レギスタン広場↓ビビハニム・モスク↓ショブバザールここに来たからには何か買わなくちゃと、広いバザールをまず一巡り。ナッツ類や干しブドウ、香辛料やナンや果物、様々な食料品から生活用品、衣類まで地元の人たちが日常的に利用していバザールのようだ。お土産にしようと、山積みの干しブドウの購入を決め、現地通貨のスムを手に交渉開始。キロ単位のようで、大粒のものから小粒のもの、紫色や黄色の干しブドウの中から選んで一キロ買ってきた。ボールのようなものですくって秤にかけ、黒いごみ袋のようなビニール袋にいれてくれたが、このビニールがとても薄くて破れそう。エコバックは持参していなかったが小さめの風呂敷くらいのハンカチがあったのでそれに包む。一キロで日本円にして500円程度だそうで、もっと買ってくれば良かったと後でちょっと後悔。現地通貨スムは、ドルからの両替しかきかない。7000スムで約1ドルと言っていた。この単位が最後までなじめず、毎回飲み物やトイレなどでスムを使うのだが、高いのか安いのかすぐに判断できなかった。ちなみに、トイレはほとんど有料で、1000スムが必要。↓昼食。プロフがメイン料理だった。美味しがったけれど、ちょっと油分が多いような気がしたことは覚えている。↓シャーヒズィンダ廟群シャーヒズィンダとは 『生ける王』 という意味で、こんな伝説があるそうです。676年に預言者ムハンマドの従兄であるクサム・イブン・アッバースが、イスラム教の布教のためにサマルカンドにやってきたそうです。翌年の677年、彼は礼拝中にゾロアスター教徒に襲われて、首を切り落とされてしまいました。ところがアッバースは何事もなかったかのように礼拝を終え、自分の首を拾って、深い井戸に潜って行きました。彼はそこで永遠の命を得て、イスラムが危機に陥ったときに助けに現れるそうです。(リンク先の説明をコピペ)もう、このあたりで何がどんな意味を持つのか頭の中が混乱してきて、それ以上考えるのはやめて、ガイドさんの話を楽しむだけに専念。↓ウルグ・ベク天文台跡建国の父ティムールの孫であるウルグ・ベクによって建てられた天文台の跡。王様でもあったけれど、学者としての業績が評価されていて、太陽暦を正確に計算したという。この天文台が発掘されて初めて、その業績が評価されたとのことで、この地には凄い人がいたんだなと感服。ガイドのシュンクルさんも、そのことがとても誇りのようであった。(当然だよね)↓紙漉き工房ここは、一見して日本の田舎のような風情の場所。水車があり、木が茂り木陰では原料の桑の木を茹でて女性が皮をむき、小屋の中では水車を利用してその原料を臼で搗き繊維を細かくし、紙漉きがされていた。正直なところ、日本の和紙を漉く技術を知っている日本人にはとても原始的というか素朴な仕事ぶりではあったし、その紙の製品を買おうかとも思わなかったけれど、日本と共通するものを感じてとても親近感は湧いてきた。↓レギスタン広場に戻り、ウズベクツーリズムの歓迎セレモニー。ウズベキスタンの音楽や踊りを楽しむ。その後、ホテルに戻り夕食後は、またまたレギスタン広場でのウズベキスタンの歴史や文化を表現したプロジェクションマッピングを見る。日中は暑かったけれど、夜はグーンと冷え込み、じっとしていたら足元から寒くなってきた。帰途、別のバスの参加者が転倒し救急車で病院に搬送されたと聞く。最初の日から怪我をしてしまっては本当にお気の毒。と、ここまで書くのに3時間。こんなことをしていたら、ツアーは終わりそうにない。次からはもっと簡略に書こう。とりあえず今日はここまで。
2018年11月05日
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10月23日~30日まで、千歳空港からウズベキスタンヘの、初の直行チャーター便によるツアーに参加してきました。複数の旅行会社でのチャーターだったようで、私たちは阪急交通社のツアーに申しこみました。これから時間があれば詳しく追加記入したいと思いますが、一言で言えば「参加して良かった!」です。トラピックス北海道では3台のバスでツアーをしたのですが、添乗員や現地ガイドがとても素晴らしくて、特に現地ガイド・シュンクルさんのウズベキスタンへの郷土愛と誇りには感動すら覚えました。シルクロードの要所としてのウズベキスタンの過酷な歴史と、それから何度でも立ち上がってきたたくましさ、ソ連からの独立後の周辺諸国とは一線を画したような自分たちの国は自分たちで守ろうという信念に基づく国造りなど、色々な面で学ぶことが多い国だと思いました。そして、様々な文化がシルクロードを通じて日本までやってきて、私達日本人はその素晴らしい部分を大らかに受け入れ、自分たちの持っていた文化と融合させながらそらに豊かな「日本文化」を形成していったということを感じさせられました。シュンクルさんは日本への留学や日本でのサラリーマンも経験していて、日本語も日本についてもひょっとすると私たち以上に知識があり、当然ですがウズベキスタンの歴史や文化についてもどんな質問でも打てば響くように教えてくれました。その言葉の一つ一つに「ウズベキスタンのことを日本の人に知って理解してほしい。そしてこれからも友好と協力関係を作る一助になりたい」という使命感があふれていました。このツアーに行きたいと思った一番の要因は、タシケントにある日本人の抑留者が建設に携わった「ナボイ劇場」の見学と、市内にある「日本人墓地」の見学が含まれていたからです。抑留者をこの墓地に埋葬した人が、その後三代にわたって墓守をしてくださっていて、本当にラッキーなことに二代目、三代目の墓守の方にお会いすることが出来ました。きれいに清掃されている日本人墓地に並ぶお墓を見た時、戦争が終わったといううのにこんな遠くに連れてこられ、この地で亡くなった人たちの悔しさや悲しみが体に突き刺さるようでした。そして、そんな人たちの悲しみを悼み続け、お墓を守り続けてくれた三代の墓守の方に、心から感謝するばかりでした。ツアー最後の見学だったので、手持ちの現地通貨をかき集めて三代目の方に手渡して感謝の気持ちを伝えるのが、私たちにできる精一杯のことでした。二度と訪れることはないでしょうが、きっとこれからもあ家族は自分の家の務めとして毎日お墓を守ってくださるのでしょう。今はやっと日本人観光客も行くようになったから、少しずつでもお布施(?)という報酬が入るようになったかもしれませんが、今までは無償の奉仕だったはずです。多分、日本の中にも同様の活動をしている人がいると思いますが、無私のこのような働きの中に本当の人としての素晴らしさと、それによる感謝の交流が真の絆となるのではないかと思いました。
2018年10月31日
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昨日は、夫と二人でバスツアーに参加。ドライブが大好きな夫も、最近は目が衰えてきたので遠出のドライブは疲れるらしい。ということで、バスツアーに参加することにした。春香山ゆり園→小樽散策→仁木町サクランボ山→余市ニッカ蒸溜所→小樽田中酒造→帰宅、の行程。春香山ゆり園は、冬期間はスキー場。子ども達がまだ小中学生の頃に春香山登山をしたことがあったが、その頃は百合園にはなっていなかったと思う。小樽は、各自で観光と昼食だったが、何しろ観光客が多い場所にバスが止まったので適当に軽く食べようかと思いながらブラブラ歩き。その時に目についたのが、巽寿司。小樽のお寿司屋さんは、何となく高いという気がしていたのだが、「小樽セット2000円」という看板が目についたので、「あちこち探すのも面倒だから、ここにしよう」と暖簾をくぐる。これが思いがけずお得感のあるセットで、おなか一杯になって満足満足。ニッカ蒸留所は何回か来たことがあるので、散策メイン。試飲はアップルワインの炭酸割とリンゴジュース。田中酒造では、サービスの甘酒が美味しかった。この日の気温は28℃まで上がったそうだ。私たちには蒸し暑い気温だが、本州の猛暑地区と比べたら10℃も低い。大変な思いをしている方たちのことを思うと申し訳ないけれど、久しぶりのレジャーの一日となった。
2018年07月22日
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昨日は、安平町の菜の花畑を夫と妹の3人で見に行った。前日にテレビで菜の花さんぽのイベントの様子が放映され、メイン会場で販売しているという「菜の花コロッケ」がおいしそうだったし、急遽行くことにしたのだ。しかし、メイン会場の場所がよくわからずウロウロしてしまい、到着は11時過ぎ頃。なのに、お目当ての菜の花コロッケは完売寸前で、列に並んでハラハラ…。結局、最後の一個を手に入れて三人で味見することになる。一緒に買った「ホエー豚まん」はとても美味しかったので、良かったとしよう。安平町で菜の花を栽培しているいることはあまり知らなかった。滝川の菜の花については結構有名だけれど、安平町もなかなかのものです。私が幼い頃には実家周辺の農家も結構栽培していて、実家でも大規模ではなかったけれど栽培していた。だから、珍しいというよりは懐かしい風景である。
2018年06月04日
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5月20日から22日の三日間は、「瀬戸内航路を航海 世界遺産とフォトジェニック8景めぐり」に参加してきた。5月20日(日) 千歳空港から関西空港まで飛び、奈良の東大寺へ。夕方、泉大津港から阪九フェリーで瀬戸内海を門司へ向かう。船室はスタンダードの二段ベット、夕食は船内のレストラン大浴場も結構広くて、とても快適。瀬戸内海をこれほど大型フェリーが運航しているとは知らなかった。5月21日(月)午前六時に門司港着。関門トンネル人道を歩いて渡り、その後下関の「赤間神宮」見学。「元乃隅稲成神社」→「角島大橋」→「門司港レトロ地区」→「宗像大社」→玄海ロイヤルホテル朝が早かったので、充実した中身の濃い一日。天気に恵まれ、どの場所でも素晴らしい景色を見ることが出来た。北海道と変わらないような湿度のない過ごしやすい天気。5月22日(火)9時過ぎにホテルを出て、九州No1道の駅といわれる「道の駅むなかた」へ。確かに、海産物やお魚類がとても安いし新鮮だった。観光客よりも地元の買い物客が多いらしい。その後「宮地嶽神社」に参拝。大急ぎではあったが、奧乃宮八社もぐるりと一回り。その後福岡空港から千歳空港→帰宅。この三日間は、信じられないようなお天気に恵まれた。実は、偶然なのだろうが、父が亡くなってからは旅行でひどい雨に当たったことがない。今回も、父が空の上で雲を掃除していてくれたのだろうと思うことにする。添乗員さんもガイドさんも運転手さんもとても感じの良い楽しい人でした。皆さんのおかげで良い旅行となりました。ありがとうございました。
2018年05月24日
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雪まつりが始まっていて、どこを歩いても外国人観光客がいっぱい。用事が終わったら雪まつり会場に足を運ぼうかと思ったけれど、寒かったし人ごみの中に出るのも億劫だったので、夕方には帰宅。夜のプロジェクションマッピングを見てみたい気もするが、体力低下状態でインフルエンザに襲われるのも怖かった。雪まつり期間中は電車も混雑しているので、マスクは必携。
2018年02月06日
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11月20日の午前中は、函館の知人のお薦めの「旧相馬邸」を見学した。ここが、予想以上に素晴らしかったし、とても感動した。このお屋敷の初代相馬哲平は、HPによると下記のように書かれている。初代・相馬哲平・・・ 文久元年(1861)、越後の国から28歳の青年は、大志を抱いて開港間もない函館に渡る。箱館戦争の混乱の中、米の騰貴を見越し、一世一代の大勝負に出て巨利を得た後、ニシン漁の投資と海陸産物の商いを行い、一代で北海道屈指の豪商に上り詰める。晩年、「郷土報恩」の志を持って、函館区公会堂を始め数々の公共事業に私財を投げ打ち、函館発展の基礎を築いた。 旧相馬邸は、明治41年(1908)に建てられた和洋折衷の歴史的建造物で、函館湾を一望できる地に、今もなお威風堂々たる佇まいを残している。北海道の歴史のある町には、このような「郷土の大恩人」と言われるような豪商や財界人がいることが多いが、函館は私にとっては少し遠い場所なので、初代相馬哲平氏については全く知らなかった。開館時間直後に行ったのだが、そこで対応してくださった女性職員の方に全体像の説明を受けた時に、私が一番驚いたのは、この建物は取り壊される寸前に現館長がその保存のために私財を投じて買い取ったということだった。道内の歴史的建造物のほとんどは、自治体や道が保存指定をしたり、地元と連携して国の指定にもちこんで保存していると思う。今、その経緯をネットで見つけたのでリンクしておく。伝統建築を守るひと 【vol1:函館市 旧相馬邸 東出伸司氏】館内は、暖房を使うと建物が傷むということでとても寒いのだが、それぞれの部屋を見学していると、初代の志や思想が伝わってくるようで感動するばかりであった。この建物は、五代目までが平成まで居住していたのだが、その後手放して北海道を離れたため、もうすぐ取り壊されるということに危機感を覚えた東出氏が、函館に購入を持ち掛けたけれど難色を示され、とうとうご自分で購入して現在に至っている。確かに、あの建物を子孫が保存していくことはとても難しいだろうし、一部は住みやすいように改築して、現在は貸し部屋や喫茶コーナーになっていて、その場所だけが暖房があり、コーヒーを自由に飲めるようになっていた。一通り見学したらとても寒くなったので、暖かい部屋とコーヒーはありがたいと話しながらコーヒーを準備していると、初老の男性が「こちらの方が見晴らしがいいし、暖かいですよ」と声をかけてくださった。私は同じような見学者かと思い、「いえいえ、こちらでいいですよ」と返事をしながらふと胸元を見ると、「館長 東出」の名札が❕なんと、この建物を買い取ったという東出さんだった。私たちがそのことに感動したという話をして、そのいきさつなどを少し詳しくお聞きすることもできた。そして思った。相馬さんもすごかったけれど、この東出さんもそれに劣らずすごい方だと。それは、血筋ではないけれど、相馬さんの志をしっかりと受け継ぐ人として、ひょっとすると相馬哲平氏の魂が呼び寄せ、この建物のとりこにさせたのではないかと思わせるエピソードだった。本当に素晴らしいものを見せていただき、素晴らしい方と出会うことができた。職員の方が、「函館市民でもあまり知らないのですよ」と言っていたことが耳に残っている。歴史的建造物が当たり前のように身近にあり、それが観光客相手の使われ方をしている日常の中では、このお屋敷も数ある建物の中の一つなのであろう。でも、どの建物にも隠れたエピソードや、そこに込められた「人の思い」がある。その、多くの人々の思いと行動が歴史を紡ぎ、現在に至っているのだということを、あらためて感じた。ぜひ、多くの人に足を運んでもらいたいと思う。
2017年11月23日
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10時半ころまでは、町内会の花壇の除草作業があり、その後の予定もなかったので伊達方面に「落ちリンゴ」を買いに行くことにした。先週の台風被害で、伊達市の果樹園では収穫間近のリンゴが沢山落ちていたのを、数日前にテレビ映像で見たからだ。我が家では毎朝、リンゴやニンジン、バナナ、豆乳、ヨーグルトなどで、果物と豆乳ベースのスムージーのようなものを飲用している。そのために使うリンゴは、多少傷んでいてもちっとも構わないので、そのためのリンゴを買うのが一番の目的。予想通り伊達周辺の果樹園や道の駅などでは、落ちリンゴが沢山売っていた。それだけでは申し訳ないので、ブドウやなし、今が旬のキノコやチビ干しシイタケなど、結局色々と購入してきた。ここまで来たら、洞爺湖のご様子をうかがわなくてはならない。木曜日だからなのか、観光客も少ない感じで道路もとてもすいていたが、絶好の秋晴れで洞爺湖もとても美しかった。そういえば、有珠山のロープーウェイにはまだ乗ったことがないことを思い出し、天気も良いし時間もあるのでと、昭和新山のところから有珠山にロープーウェイで登ることにした。昭和新山もできてから70年以上も経ち、ずいぶん上の方まで草木が生えている。私が最初にこ昭和新山に来たのは小学校の修学旅行だったが、その頃にはまだあちこちから水蒸気なのかガスなのかが白い煙を上げていて、当然下から見上げるだけで立ち入り禁止だったと思う。遅めの昼食をとってからロープーウェイに乗り、有珠山へ。山頂は寒いかと思ったのだけど風もなくて天気も良く、眼下には洞爺湖が美しく見えるのはもちろんだし、太平洋を挟んで函館や駒ケ岳、室蘭の白鳥大橋、羊蹄山や徳舜別山・ホロホロ山、恵庭岳なども見えた。少し遊歩道を下がると大きな火口原から噴煙も少しではあるが上がっていて、次の噴火に備えてエネルギーをためているようにも感じられる。実は、この日に有珠山に上ろうと思ったのは、いつまた大噴火が起きて、私たちが元気なうちに上れなくなるかもと思ったからでもある。平均して30年に一度らしいが、前回は1977年の大噴火から30年もたたずに噴火したので、もうそろそろかもとも思われる。ここに住む人たちは、常にその心配をかかえているのだなと思うと、なんだか複雑な気分。洞爺湖周辺は気候も穏やかだし風光明媚なのでいいところだけど、やはり移住するのは不安だな…。帰路は前回通りオロフレ峠から登別を通ってだったが、オロフレ展望台へは通行止めになっていた。やはり台風の影響なのだろうか。紅葉にはまだ早いけれど、ダケカンバの木々の美しさは堪能できた。ということで、帰宅は午後五時半ころ。高速道路を使わなくても、日暮れ前には帰宅することができた。
2017年09月21日
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ファンクラブから回ってきたチケットがあったので、息子夫婦と夫と四人で札幌ドームへ。前日に大谷投手が先発で快勝したので、その勢いでこの日も勝てることを願ったが、先発の上沢投手の調子が上がらぬままに4点を取られて降板。とにかく、チャンスを全部つぶしてしまうという、まったく盛り上がらない試合が進行。それでも、久々の観戦で思ったのは、「ほとんど知らない若手選手ばかり」ということ。もう今年の結果はわかりきったようなものだし、大谷選手も大リーグに行くことがほぼ決定だし、ベテラン勢は故障続きだし、若手を育てるのが大事だということは私でもわかる。最後に、横尾選手がホームランを打って何とか一矢報いたというところ。彼は「おにぎりくん」と言われているらしく、おにぎりの被り物をした人もいた。どうしておにぎり君というのか夫に聞くと、ホームランを打つと「おにぎりポーズ」をするのだとか。レアードの「寿司ポーズ」にあやかったのかな。と思い、ネットを検索すると…。日本ハム「おにぎり君」誕生ドラ6横尾(前略)横尾は大食感でおにぎりが大好物だが、キャンプ中は太ってケガをしないようにセーブしているという。そんなルーキーに対して、白井一幸内野守備走塁兼作戦コーチが、プロ初本塁打を“おにぎりポーズ”で祝福し、本人も同じポーズで返礼した。このシーンはすぐさま味方ベンチにも波及し、陽岱鋼らナインも同様の“おにぎりポーズ”で出迎えた。(後略)ふーん、そうだったんだ。来年は彼の「おにぎりポーズ」をたくさん見たいものだ。
2017年09月13日
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9月6日(水)千葉に住む小学校時代からのクラスメートから、二日前に突然の電話。ご両親とお兄さんのお墓参りのため、障害のあるお姉さんと来道しているので、この日に会いたいとのこと。幸いにこの日の夕方は都合がついたので、小・中・高校のクラスメイト五人で集まる。それぞれ交流の度合いが違うし、最近は千葉の彼女とも年賀状のやりとり程度のお付き合い。だから、本当に顔を合わせるのは10年以上ぶりの人もいた。近況報告をすると、夫婦そろって健康状態が続いている人は私くらいなものだった。それでも集まった5人は、色々あっても集まっておしゃべりができるくらいには元気でなにより。改めて自分の年齢を再確認してしまった。9月7日~9日夫婦で高山と黒部アルペンルートツアーに参加。一日目の高山だけは雨に少し降られたけれど、二日目のアルペンルートと三日目のトロッコ列車は晴れてくれた。添乗員さんも、「このツアーではこれほど天気に恵まれるのは珍しい」とのこと。アルペンルート出発は扇沢駅からだったが、ここでは名物駅員中里さんが待ち時間を楽しませてくれた。私も自分で写真や動画を撮ってきたけれど、ネットで探すとこれがあった。なんだか、寄席も楽しんだ気分。それにしても、さすが立山のスケールは大きい。黒部ダムの放水の迫力も、やっぱりすごい。天気が良かったので、しっかり虹も見ることができた。 三日目のトロッコ列車も、これ以上ないという快晴 に恵まれた。 今回の旅も、大切な日程のところでは晴れてくれた。(高山は何度も行ったので雨でもいいのだ)実は、単なる偶然だとは思うのだけれど、父が亡くなってからは大事な時には晴れることが多いのだ。妹たちも同じようで、姉妹で「お父さん、今回も頑張ってくれたね」と話したりする。父のパワーは、まだまだ健在だと私たちは勝手に思っている。
2017年09月10日
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天売島は北だから涼しいかと期待していたが、やはり暑くて寝苦しかった。寝付けないために、寝不足になったら困るので深夜眠剤を服用。目覚めたら小雨が降っていたので、ちょっとガッカリ。でも、もともとの天気予報では前日も雨が降る予定だったので、仕方ないと諦める。朝食まで少し時間があったので、宿の周辺を夫と散歩。その時は霧雨状態だったから、「このくらいなら傘なしでも大丈夫」とホッとする。やはり海の幸づくしの朝食後、ワゴン車で天売観光。残念ながら霧雨ではないがガスがかかっていて、本当なら美しいであろう海も見えない状態。(「ガスがかかる」とは北海道弁のようで、「霧やもやがかかる」という意味。)前日ウトウが刺さるように飛び込んできた巣穴はよく見える。道路脇にはウトウの雛が命運尽きた姿も何羽か…。あらためて、自然の中で生き残ることの厳しさを感じる。観光の終わりごろにやっと霧が晴れて青空と紺碧の海も姿をみせてくれる。「ガスがかかる時」とは、気温が高く地上に溜まっている水蒸気が朝方の冷え込みで霧となるわけで、太陽が昇り気温が上がると同時にサーッと消えてゆくのだ。見所の風景はあまり見えなかったけれど、前日と同じドライバー&ガイド氏は話も面白く、また知識もとても豊富で、質問にも十分以上に応えてくれて満足であった。(氏名をメモしてなくて残念)観光の後はフェリーで焼尻島へ。海はまだ霧がかかっていて、焼尻港に着くときには船員さんが三人も船首にでて注意深く入港。船首付近の場所(船内の窓)から見ていた私たちもちょっと緊張してしまった。無事に到着してからはワゴン車での焼尻観光。ここでの見所は「オンコの荘」。参考 オンコのドームの中に進入できる -焼尻島にあるオンコの荘- オンコは北海道内どこにでもある一般的な木なのだが、私はこんなオンコを見たのは初めてだ。写真は夫が写しているので私はほとんど撮らないのだが、たまたまIpadをリュックに入れていたので何枚か写してしまった。焼尻では羊が放牧されているのだが、「焼尻サフォーク」として有名なのだそうだ。高級肉なので、地元の人はほとんど口にはできないようで、主に都会の高級レストランに出荷されるようだ。値段も聞いたけれど、「私には無関係の値段だ。行くこともないだろう」と忘れてしまった。港に戻って、宿で準備してくれていたお弁当を食べ、少し時間があったので徒歩五分程度の郷土資料館(旧小納家)へ。参考 焼尻島で明治・大正時代にタイムスリップ~旧小納家(焼尻郷土館)あまり時間もなかったので、説明を聞きながらサーッと回ってきただけだが、大正時代のゴルフセットがあったのにはビックリ。どこでゴルフをしていたのかと聞くと、「小樽や函館」らしい。こんな小さな島にゴルフを楽しむ人がいたなんてと、当時の繁栄ぶりがしのばれる。ゴルフセットもあったけれど、烏帽子や直垂などの装束もあったことにも、ここの主人がどんな立場だったのかも想像できる。(どんな時にこの装束を使ったのか、タイムリミットが近くなり聞かなかった)急ぎターミナルに戻り、フェリーで留萌→深川→砂川→札幌と、高速道路を使って戻ってきた。途中で雨が降っていたが、自宅に近くなると雨も上がり、天気の神様は私達に味方してくれたようだ。もう旅行が終わったので、天気の神様には九州地方にご出動いただきたい。
2017年07月10日
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天売(てうり)島・焼尻(やぎしり)島への一泊二日ツアーに参加。札幌駅を出発し、石狩から日本海を眺めながら北上。途中で小平(おびら)の道の駅でトイレ休憩の後、羽幌町へ。羽幌(はぼろ)町にある北海道海鳥センターで主に天売島の海鳥の生態等についての説明を受ける。正直なところ、天売島が海鳥の繁殖地とは知っていたが、詳しいことについては何も知らなかった。天売島に行く前にここで予備知識を得てから行くのは必要だと思った。実は、天売島の猫が増えて「猫の飼い主募集」のニュースを以前見ていたが、今回の説明では時間がなかったのかノラ猫についての言及はなかった。時間が限られていたので質問もしなかったのだが、今ホームページを見て、ちょうど私達が行った時に「天売猫祭り」が開催されていたことを知った。海鳥センターの隣に羽幌バラ園があり、ちょうどバラの花盛り。天気も良く、よく手入れされているバラ達が咲き競っていた。その後フェリーで天売島へ。今回の楽しみは二つで、メインは「ウトウの帰巣」を見ること。その次は、天売島での海の幸満載の食事である。ウトウは日没頃に帰巣するので、まずは宿での早目の食事。期待に違わず、海の幸満載であった。巨大な鮑の蒸し焼き、ホタテの貝殻焼き、お刺身、ウニ(結構量が多かった)数の子、ナマコの酢の物、ツブ焼き、ホタテ稚貝の味噌汁など、都会で食べたなら結構な値段になるだろうと思われる。食後はいよいよメインイベント「ウトウの帰巣」見学。夕方になってから雲行きが怪しくなってきて、素人の私は「ちゃんと見れるんだろうか」と心配になったのだが、現地のマイクロバスドライバー&ガイドの人によれば、「このような日は最高なんです。ウトウは晴れている間は巣穴が天敵からわからないように帰って来ません。 日没頃に一斉に帰巣するんです」とのこと。今の季節は巣穴がイタドリの葉に隠れてしまっているのだが、歩道わきにも巣穴がボコボコ見えている。ウトウは何と40年くらいの寿命があり、その巣穴を一組のつがいがずっと使い続けるという。決して浮気はせず、相手が死んでしまったら別の相手を見つけ、海側の巣穴を使うという。とにかく、私達が立っている所は巣穴の真っただ中であり、暗くなってくるとどんどんウトウが飛び込んでくる。しかし、彼らは目がいいので(決して私達の言う「鳥目」ではない)こちらが不用意な動きをしない限りぶつかることはないらしい。時速60キロで飛んでくるので、万一当たったらとても痛いらしいからご用心、ご用心。ウトウの帰巣の映像があった。この季節はまだ春さきでイタドリが生えていないので、巣穴がどれほどあるかよくわかる。とにかく、暗くなるほどにその数が増え続け、想像以上に圧巻だった。道の脇に、何羽かの雛がノコノコと出てきた。今の時期は巣立ちの季節に入っているので、以前ほど親鳥が沢山餌を持ってこないのだそうだ。だから、お腹を空かせた雛が餌を求めて海に行こうとして出てくるのだが、まだ産毛の雛は海へはほとんどたどり着けないという。一度巣穴から出た雛を、親鳥は決して助けないというから、その命運はすぐに尽きるのだろう。生き倒れもあるし、他の海鳥たちの餌にもなる。孵化した雛が成鳥になるのは一割と聞いて、自然の厳しさに胸を打たれる。「自然淘汰」は自然環境のバランスには必要なのだろうが、目の前でヨチヨチ戸惑うように歩いている雛を見ると、なんだか切ない気持になる。ほかにも色々と驚くような生態を聞いたのだが、時間がないのでこれまでにしましょう。
2017年07月09日
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天気が良いので、札幌市の平岡梅園に行ってきた。 昨日は風が強くて気温も低かったが、今日は20度くらいまで上がり、梅園には多くの人達が花見を楽しんでいた。 この記事はiPadからの書き込みだが、パソコンからよりも写真のアップはとても楽だ。 短い内容なら、こちらの方がいいですね。
2017年05月09日
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