【西洋陶器を求めて】 0
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にほんブログ村 ニュートンが没頭した錬金術。彼が追い求めたのは「賢者の石」の製法でした。賢者の石には「不老不死」と「万物を金に変える」力があります。ニュートンは万物の根源は「水銀」と「硫黄」と考えました。そして賢者の石は「賢者の水銀」から作られるとしました。そして彼が得た答えは、賢者の水銀は「アンチモン」であること。なぜかというと、アンチモンが「星状レグルス」とわかったから。しし座の最も明るい星「レグルス」。この星は天体の「王」とされます。一方、ワインには「酒石酸アンチモン」の結晶ができます。この結晶は「星状レグルス」と呼ばれていました。ニュートンは「星状レグルス」から「賢者の石」のヒントを得ようと、ワイン造りの研究に専念します。(画像出典: Wikipedia)なにか、わけがわからなくなってきました。つまり、万物を金に変える「賢者の石」は「賢者の水銀」、すなわち「アンチモン」から得えられます。アンチモンは王の星「レグルス」の名を冠した「星状レグルス」に含まれるから、ワインの研究が重要だったのです。整理してもよく理解できませんが、今日、美味しくワインが飲めるのは、錬金術師ニュートンのおかげかもしれません。とはいえ、錬金術は失敗。無理は無理。力押しでは駄目ですね。【 ワイン 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.04.13
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にほんブログ村 ニュートンの万有引力やプリズムの発見。これらの業績の大部分は、当時のペストの流行を避けての疎開中になされました。では、彼が残りの時間を何に使ったかというと、それは「錬金術」や「オカルト」の研究でした。後年、人々はニュートンの前近代的・神秘的な研究者の側面を隠そうとし、彼の科学業績を称えた都市伝説を創作しました。猫専用の扉に付けた出入口「キャットドア」の逸話も都市伝説のひとつです。ニュートンは2匹の猫を飼っていました。猫の出入りのため、大きな猫用に大きな穴、小さな猫用に小さな穴の、2個の穴を扉に開けました。すると、大きな猫も小さな猫も大きな穴を通り、小さな穴を通る猫はいませんでした。偉人も思い込みから失敗することがある逸話として伝わりますが、ニュートンが猫を飼っていた記録はない、キャットドアは彼以前に発明されていたなど、この話は眉唾とする見解が多くあります。そもそもニュートンがこの様な失敗をするとは思えませんが、信じるか信じないかは、あなた次第です!【 キャットドア 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2024.04.11
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にほんブログ村 18世紀、フランス革命前夜の激動の時代。その時代のフランスを彼女は生きました。彼女の名は、マドモワゼル・リア・ド・ボーモン。彼女は外交官であり、フランスの女スパイでもありました。当時、フランスとロシアは敵対関係にありました。フランスはロシアとの関係改善を望みますが難攻。そこでロシアの女帝エリザヴェータを個人的に味方に付けることでした。【マドモワゼル・リア・ド・ボーモン】(画像出典: Wikipedia)美しさで知られたエリザヴェータは、フランス貴族の社交界に強い憧れを持っていました。そこでロシアに、スパイとしてボーモンが送り込まれました。ボーモンの一流の貴族夫人の身のこなしに、たちまちエリザヴェータは魅了されました。彼女はエリザヴェータのフランス語教師にまで任命されました。そしてボーモンはエリザヴェータをとりこにし、両国の友好関係を回復しました。実際、ボーモンの貴婦人としての素養は卓越していました。マリーアントワネットも彼女を気に入り、ドレスをプレゼントしたほどです。そればかりか彼女は武芸にも長け、フェンシングも一流でした。【右: マドモワゼル・リア・ド・ボーモン】(画像出典: Wikipedia)しかし、彼女には大きな秘密がありました。マドモワゼル・リア・ド・ボーモンは偽名でした。本名は、デオン・ド・ボーモン。実は男性だったのです。ボーモンは「ベルサイユのばら」のオスカルのモデルです。(オスカルは男装の女性)【 フランス リモージュ 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2023.02.22
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にほんブログ村 昨夜は、ご心配をおかけしました。現在、2種の対処薬を飲んでいます。そのうち、最近飲み始めた薬には、強い副作用があります。それは、猛烈な眠気と疲労感です。昨夜はそれらが同時に起き、ブログの御返事もままなりませんでした。すみません。アントニオ猪木さんの訃報がありました。「全身性アミロイドーシス」という難病だったとのこと。猪木さんも難病と闘われていたのですね。以前、猪木さんが「宇宙人にインプラントされた友人がいるが、 UFOによる上空に日本の防衛は大丈夫か?」と国会で質問されたことを思い出します。当時は笑い話でしたが、今ではアメリカ議会でも、UFOは議論されています。猪木さん、型破りな方でした。御冥福をお祈りします。「UFOの国会質疑」【 UFOタオル 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.10.01
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にほんブログ村 なぜ馬頭観音が好きなのか?そのコメントがありました。ただ、馬頭観音が好きというのは不正確です。私は文化財鑑賞が好きなのです。文化財を観る時、それに携わった人達の想いを偲ぶことができます。その結果、その地域の歴史や慣習、文化などを知ることになります。ただ、それだけでは十分には、問の回答になりません。説明は難しく、「そこにエベレストがあるから」と答えた、登山家 ジョージ・マロリーの気持ちもわかる気がします。マロリーの遺体は、今もエベレストにあります。滑落したマロリーの遺体を、空気の薄い高山から降ろすことはできません。エベレストには、200体以上の遺体が放置されています。雪面に露出した遺体のジャケットやブーツなどの目立つ色は、今も登山家がルートを確認するための「ランドマーク」となっています。カラフルな装備をまとった遺体が散乱する山頂付近は「虹の谷」と呼ばれています。エベレストに眠る登山家は、峠の馬頭観音に似ています。それらは、後に続く者の安全を守ります。これ以上、事故が起きないよう、哀しい体験を戒めとして。【 ノリタケ 絵皿 】 < ↓ ランキングクリックはこちらから > にほんブログ村
2022.01.21
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ネットで誹謗中傷被害が問題視されています。しかし、この誹謗中傷被害は今に始まったことではありません。歴史の中にありながら、今もまだ続く日本の誹謗中傷文化の代名詞。その忌むべき代表は、私は「忠臣蔵」だと思っています。皆さんと、日本の文化に潜む、誹謗中傷の怖さを確認しましょう。忠臣蔵の悪役、吉良家の家臣や親族に起きたことから。【斎藤清左衛門】討ち入り時、中小姓6両と下っ端の家臣だった斎藤清左衛門。入り口近くの大広間で寝ていたため、真っ先に赤穂の浪士と遭遇しました。状況も理解できないまま戦いますが、あえなく切り殺されます。写真は、愛知県西尾市吉良町の祥雲山 花岳寺にある清左衛門の墓。「仮名手本忠臣蔵」で彼は悪役に仕立て上げられ、酷い誹謗中傷被害に遭いました。その名を隠すためか、他者によるものか、墓石にあった彼の法名は削り落とされています。【鳥居理右衛門】宝蔵院流の槍術に優れた理右衛門も、討ち入りにあった時は60歳と当時では高齢。それでも吉良義周を守って戦い、浪士たちをてこずらせます。いかに槍術の達人とはいえ、多勢に無勢。完全武装の若者達に対して、防具もなく孤軍奮闘する高齢者。最後は名ばかりの一騎打ちを堀部安兵衛に挑まれます。しかし鎖帷子で武装した相手に槍は通りません。疲れ切ったところを、理右衛門は頭を真っ二つに割られて惨殺されました。忠義を尽くした彼の最期は、武装した若者達による集団リンチ死でした。西尾市吉良町の西福寺に、鳥居理右衛門の墓がありました。墓さえ造られなかった彼を憐れみ、西福寺の住職が密かに墓を建てたそうです。世間の目を逃れるため、この墓の存在は寺の記録にも残されませんでした。【吉良義周】吉良上野介の養子だった義周は、当時18歳。討ち入り時、周囲を囲まれ、背後から背中を切られます。その深い一刀で彼はあばら骨が折れ、気を失いました。ただその時、上野介が発見されたため、彼は捨て置かれ、九死に一生を得ます。しかし、彼の悲劇はその後に始まりました。重傷を負った義周は、討ち入り後に幕府により処罰されました。被害者のはずの彼の罪状は、「義父を守れなかった罪」。処罰は、流刑および幽閉。死罪に次ぐ重い処罰でした。諏訪へ流された義周は、衣服の洗濯や髪や髭を剃ることも許されませんでした。親族も誹謗中傷に遭い、1年後に実父が、そして実の祖母も亡くなりました。しかし葬儀にも参列は許されませんでした。劣悪な環境下、義周は体調を崩し、わずか3年後、21歳の若さで他界します。ところが義周は罪人ですから、遺体の検視が必要。検視役が到着するまで、2週間、彼の遺体は塩漬けで保管されました。検視までに遺体は腐敗し、立ち込める腐臭を香を焚いて防ごうとしたと伝わります。西尾市吉良町の片岡山 華蔵寺に、吉良義周の墓があります。墓石に大きく入った斜めのヒビが、彼の無念さを伝える様です。養子となったばかりに、若すぎる命を落とした義周。重傷の被害者のはずが、殺人集団から父の命を守れなかった罪人に。その罪は、まさに誹謗中傷が生み出したものでした。忠臣蔵は、吉良家の家臣達への誹謗中傷の物語。そしてその誹謗中傷は、映画やドラマで令和になっても続きます。吉良の家臣に罪はなく、君主を守ろうとした被害者にすぎません。この吉良町に住むその子孫の方々は、今なお誹謗中傷被害に耐えています。忠臣蔵ばかりが悪いとは申しません。ただ、情報を扱う「娯楽」は、その陰で涙する人がいる可能性を忘れてはなりません。特に日本人に根差した誹謗中傷の文化は、根深いものがあります。忠臣蔵の物語が如何に酷い被害者への誹謗中傷か、気づかない人も多いでしょう。情報を扱う点では、ブログも同じ。私も反省を重ねつつ、ブログを記したいと思います。【愛知県西尾市吉良町 ふるさと納税】にほんブログ村
2020.08.20
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この菊花紋の付いた扉を、ご覧になったことはあるでしょうか?寺院で稀にある、天皇家由来の菊花紋付きの扉がある門。これを勅使(ちょくし)門と呼びます。勅使とは、天皇が出す使者のこと。勅使門とは、その勅使のみが天皇の指示を伝える際に通ることを許された門。勅使門がある寺院は稀で、京都などの一部の有名寺院でしか見ることはできません。その門が、愛知県東郷町の祐福寺にあります。愛知県でも主要とは呼べない町に、勅使門があるのは意外です。この門は室町・戦国時代(1528年)に、後奈良天皇の勅願寺として造られました。後奈良天皇は、慈悲深い天皇でした。戦国の下剋上の時代を嘆き、民を思いやりました。1540年に、国内に疫病が流行りました。その際に天皇は、疾病終息を祈り「般若心経」の奥書を書いています。その中には次のようにあります。「このたびの大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている。」2017年の誕生日前の記者会見で、令和天皇(徳仁天皇)は、この書に言及しました。そして、後奈良天皇を国民に寄り添う模範のひとりとして挙げました。戦国の世に、疫病に。不運な時代を過ごした天皇だからこそ、慈悲深くもなられたのかもしれません。不幸な経験は、人をやさしくするものなのでしょう。【般若心経】
2020.08.13
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新型コロナウィルスへの対策が佳境となっています。今日はウィルス関連の話題をしましょう。サディ・カルノーは19世紀初頭のフランスの軍人であり、物理学者でした。1824年、カルノーは熱力学の歴史に残る画期的な論文を発表しました。しかしその論文の重要性は学会で認知されませんでした。間もなく1830年、フランス7月革命が勃発。カルノーも研究を中断しました。革命後にカルノーは研究を再開しましたが、1832年、彼はコレラに感染しました。そして、わずか2ヶ月後、彼は36歳で他界しました。彼の研究の記録は、コレラの2次感染を防ぐため、大半が焼却されました。そして、わずかに彼の研究ノートが残されました。彼の業績は失われかけましたが、19世紀後半に再評価されます。熱と仕事を関連付ける彼の研究成果は、コレラの流行さえも消し去れませんでした。その後、彼の名前は熱機関「カルノーサイクル」に残されました。熱力学のパラメータ「エントロピー」の記号”S”は、彼の名前サディにちなみます。彼の業績がなければ、自動車のエンジンは生まれませんでした。今日の人類の繁栄は、パンデミックへの勝利の歴史であることを忘れてはなりません。【楽天商品: 低価格な空気マグネシウム電池車】
2020.02.17
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雷雨の中で、空に凧を揚げる。雷が電気と証明した、ベンジャミン・フランクリンの有名な実験です。しかし今日では、フランクリンはこの凧揚げをしていないと言われています。それは実際に凧揚げしようとすると、様々な矛盾がわかるから。彼はこの実験の手順を、次の様に説明しています。 ・凧は杉の角材と絹布で作る ・凧の先端に針金を付け、麻ひもを垂らす ・麻ひもの下端に鍵をぶら下げる ・麻ひもに短い絹ひもを付けて絶縁し、感電を防止する ・絹ひもが濡れると感電するので、凧は部屋の窓から揚げた公開実験が当たり前の時代、彼はなぜこの実験を公開しなかったのでしょう。なぜ実験日と場所が示されず、後に告げられた実験日が4ヶ月も前だったのでしょう。その答えは、この実験が実際には再現できないことと関係があると思われます。追試験をした人は、次の様々な矛盾に気づきました。 ・当時の家の鍵は多すぎて、凧で揚げられなかった。 ・フランクリンの絵もそうだが、麻ひもに触れて感電してしまう。 ・部屋から凧を揚げると、窓枠にひもが触れるか、絹ひもが雨に濡れて感電してしまう。このフランクリンの実験は、実際にはできません。フランクリンは凧の実験を提案しました。しかし彼が実験したと主張する日は、1752年6月。実際には、1752年5月に、フランスのトマ・ダリバードが凧揚げの実験に成功しています。実験日を追及されたフランクリンは、嘘の実験日さえ間違ったのでしょう。自分が考えた実験の成果を取られてしまう。その思いが、焦った彼に嘘の実験を主張させたのでしょう。今日では、フランクリンの凧揚げの実験の絵が、教科書などで掲載されることも減りました。この絵が忘れられれば、彼の黒歴史も消えていきます。偉大なアメリカ建国の父、フランクリン。誰にでもあやまちはあるものなのです。****「楽天商品 何も考えずに楽しもう!」
2019.04.12
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松尾芭蕉が忍者という説。「キイロマン☆彡」さんから、その問いかけを戴きました。そこで、松尾芭蕉忍者説の根拠を整理してみましょう。1)芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳まで伊賀ですごした。2)芭蕉は「伊賀無足人」だった。 無足人とは、伊賀藤堂藩が、士分(武士)と認めた者。 ただし、給料はない。 伊賀無足人には、忍者もいた。3)旅の費用をどうやって得たかが不明。 繰り返した旅の通行手形も得にくかったはず。4)江戸では土木工事の監督で生計を立てたが、土木技術はどこで学んだんのか。5)楽しみにしていた松島は一泊しかせず、句も一句のみ。 伊達政宗の隠し砦の瑞巌寺を何度も見に行った。6)45歳で一日数十キロを歩く健脚。これらが忍者説の根拠です。たしかに怪しくはありますが、忍者と特定するには弱いですね。もっとも忍者なら、この程度では馬脚を現さないでしょう。皆さんは、どう思いますか?「芭蕉像」****「楽天商品 これは『名代 芭蕉』という名なのですね」
2019.03.14
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不死身のスタントマン、ボビー・リーチ。彼は樽の中に入り、ナイアガラの滝を飛び降りても生還しました。1911年のことでした。スタントマンとして名声を得たボビー。しかし、ニュージーランドで、彼の弱点が発覚しました。オークランドの歩道で、落ちていたオレンジの皮を踏んで転び、あっけなく他界したのです。転倒時に受けた傷から脚が壊疽し、発症した合併症が原因でした。1926年のことでした。油断大敵。皆さんも足元には注意しましょう。
2018.08.06
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江戸時代の浮世絵師、歌川広景をご存知でしょうか。歌川広景は、正体不明、謎に包まれた浮世絵師です。活動期間は、わずか2年8ケ月しかありません。広景は、「東海道五十三次」で有名な歌川広重の弟子と言われますが、それも定かではありません。そして、その浮世絵はユニークで、笑いを誘うものばかり。広景の浮世絵では、登場人物や動物はしばしば大騒ぎをしています。ひっくりこけたり、大笑いしたり、大暴れしたり。次の浮世絵「内藤志ん宿」でも、馬が暴れて大騒ぎ。そして、この浮世絵は歌川広重の「名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿」のパロディーでもあります。広景の浮世絵には、パロディーや”パクリ”が多いのも特徴です。その対象は、師匠の歌川広重や、有名な葛飾北斎。次の浮世絵「筋違御門うち」は、葛飾北斎の「北斎漫画 十二編 天眼鏡」のパクリ。天眼鏡を持つ男性や、それを覗く女性は、北斎の浮世絵の模写です。広景が姿を隠した理由とされるのは、次の浮世絵。コレラの流行、将軍家の跡継ぎ騒ぎの風刺とされる浮世絵「青物魚軍勢大合戦之図」。この作品で幕府の怒りを買い、広景は姿を隠したと言われます。謎の浮世絵師、歌川広景。ユニークな才能を持ったその浮世絵師の正体は、今となってはわかりません。
2018.06.25
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17世紀の科学者、ロバート・ボイル。熱力学のボイルの法則に今も名を残す彼は、近代科学の祖とされます。短期間、ガリレオ・ガリレイからも学び、科学の発展に貢献したボイル。しかし、本質的には、彼は錬金術師でした。まだ、錬金術と化学が分離できていなかった時代。彼は、当時実現できなかった24の研究テーマを、将来の科学者へリストとして残しました。「麻酔薬」、「飛行法」、「経度の測定法」など、そのリストの多くは後年実現されました。そのなかで、まだ実現していないテーマもあります。それは、「巨人化」に関するテーマです。ボイルが、なぜ巨人化を求めたのかはわかりません。ただ明らかなのは、巨人が実現せず良かったということです。
2018.01.11
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「トム・ソーヤーの冒険」の著者、マーク・トウェイン。彼は自らの死を予言しました。彼は、こう述べました。「私は彗星とともにやって来たので、来年の彗星とともに去ってゆく。 そうでなければ、生涯最大の失望になるだろう。」彼が生まれたのは、1835年11月30日。それは、ハレー彗星が太陽の最も近づく近日点の2週間後でした。そして彼が亡くなったのは、1910年4月21日。それは予言通り、ハレー彗星の近日点の翌日でした。死因は、心臓発作でした。人の死には、心の働きが大きく影響するのでしょう。死期をハレー彗星で連想したから、彼は彗星とともに他界したのでしょう。生きる気持ちが強ければ、寿命はきっと延びることでしょう。人生を楽しく思えるなら、きっと長く生きられるでしょう。次のハレー彗星の接近は、2061年の夏のこと。今から44年後のことです。「とりあえず、次のハレー彗星を見るまで私は去らない。」この目標、置いてみてはいかがでしょうか。
2017.11.05
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キログラムの定義見直しが、目前に迫っています。今まで質量は、国際キログラム原器で定義されていました。しかし原器のわずかに汚れでも質量が変化するため、不安定な定義でした。質量はプランク定数を通じた定義への変更が提案されていて、2018年に審議されます。プランク定数の命名は、ドイツの物理学者マックス・プランクの名にちなんでいます。1918年にノーベル物理学賞を受賞したプランク。物理学者としての成功の陰で、晩年の私生活は不幸でした。彼の不幸は、妻の結核での死に始まります。2男2女の子供に恵まれましたが、双子の娘たちはいずれも出産後に亡くなりました。しかし彼を本当に不幸にしたのは、2度の世界大戦でした。第一次世界大戦が始まり、愛国心が高い彼はドイツの戦争を支援する「世界文明への宣言」に署名しました。この結果、ドイツは研究者と毒ガス、大量破壊兵器を開発することになりました。その彼の行為は、結果的に彼を苦しめました。第一次世界大戦では、長男カールが西部戦線で戦死。次男のエルヴィンも、フランス軍の捕虜になりました。ナチス政権下でも、彼はドイツに残ることを選択しました。その結果、彼はさらに不幸になります。ベルリン空襲で、彼は家を失いました。そして、1945年、生き残っていた息子エルヴィンは、ヒトラー暗殺計画加担の疑いで処刑されました。2男2女の子供をすべて失い、「国賊の父」とまで呼ばれたプランク。彼は生きる希望を失い、エルヴィン処刑の2年後に他界しました。プランク定数にその名を残し、ノーベル賞も受賞した彼。戦争さえなければ、彼はただ幸福な人生をすごせたかもしれません。戦争さえなければ。しかし、戦争とはそういうものなのです。
2017.11.01
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愛知県半田市にある、新美南吉記念館に行きました。童話作家 新美南吉は、幼い頃に実母を亡くしました。そのためか、彼の作品では親子の愛がしばしば描かれます。彼の18歳での作品「ごん狐」では、兵十の誤解からごんは猟銃で撃たれます。ごんの行いは、母を亡くした兵十を思ってのことだったのに。「手袋を買いに」でも、親子ぎつねが登場します。我が子を危険にさらしてしまう愚かさもある母ですが、ふたりは深い親子愛でつながっています。またここで登場する人間は、兵十の様に誤解せず、子狐にやさしく手袋を差し出します。最晩年の作品「狐」でも、母狐と子狐の愛が語られます。そこでは、子狐を守るために、母狐は命を捨てる覚悟を告げます。南吉の生前に出版された童話集は、わずか1冊。それも南吉が他界する半年前の、遅すぎる出版でした。童話作家としての成功を目前に、自身の寿命を悟った南吉は次の様に語っています。「私は池に向かって小石を投げた。 水の波紋が大きく広がったのを見てから死にたかったのに、 それを見届けずに死ぬのがとても残念だ。」その想いは、南吉の作品「売られていった靴」にも通じると感じます。29歳の若さで他界した、南吉。しかし、1980年以降は、小学生4年生のすべての教科書に「ごんぎつね」が掲載されています。南吉の作品は大きな波紋となって、人々の心に広がり続けているのです。「新美南吉記念館:手袋を買いに」「ごんぎつね」
2017.06.17
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浮世絵師の安藤広重は、火消しでした。広重の父親は、八重洲河岸の火消し同心でした。広重も13歳で、家督を継いで火消し同心となりました。しかし翌年、不幸にも広重の両親は相次いで亡くなりました。広重はまだ、14歳でした。その翌年、広重は15歳で歌川豊広に入門します。本当は歌川豊国に入門したかったのですが、断られたためです。入門後1年で、才能ある広重は歌川広重の画名を授かりました。それでも広重は火消し同心を続けました。真面目に同心として働き続け、23年目。ようやく広重は、画業に専念することになります。息子の仲次郎に火消し同心を継がせたからです。広重は画号を一幽斎から、一立斎に変えました。画業のみで生計を立てるという決意が、画号にも表れています。そして、その翌年に描かれたのが傑作「東海道五十三次」です。広重が火消し同心を続けた理由はわかりません。ただ、広重の第2の人生の選択がなければ、傑作は生まれませんでした。一方で、火消し同心を続ければ、安定した生活は保障されたことでしょう。広重が、画業に専念して26年。61歳で広重は、多くの傑作を残して亡くなります。死因はコレラでした。人生の選択肢、そのどれが正解かは、誰にも知ることはできません。
2017.02.11
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享年、わずか53歳。若すぎる死でした。ワム!での活躍は、つい先日のことに思えます。命日が12月25日、クリスマスの日というのも皮肉です。
2016.12.26
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生物学を大きく進化させた、ミトコンドリアの細胞内への共生説。この説を唱えたのは、アメリカの女性生物学者リン・マーギュリスでした。1967年当時、生物学の常識は、突然変異と自然選択によるとする進化論、ネオ・ダーヴィニズムでした。かつては画期的だった学説も、その頃には新説を排除する足枷になっていました。彼女のミトコンドリア共生説の論文は、当時の学会には受け入れがたいものでした。彼女の論文は実に15回も掲載拒絶され、投稿先を変えて、16回目でようやく受理掲載されました。その後、彼女の画期的な共生説は真価を見出されましたが、彼女は当時のうらみを忘れませんでした。彼女は、ボストンのシンポジウムで、次の様に語りました。「ネオダーウィニズムは、知性を働かせるなら、宗教的偏見による弱小学派として忘れ去られるべきものである。」これを聴いて、列席していた学会の重鎮達が面白く思うはずもありません。恨みを晴らすという幼い行為で、彼女は学会の支援者を失いました。2011年、生物学を進化させた偉大な業績を残して、彼女は亡くなりました。しかし、彼女にノーベル賞が与えられることはありませんでした。【日記】 「たとえ うけいれられなくても - ミトコンドリア -」 ※2010年にリン・マーギュリスについて書いた私の日記。 この時はまだ彼女は存命でした。【日記】 「マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ」 ※復讐に人生の時を浪費したマリー・アントワネットの娘。 復讐から得るものはないという日記。
2016.12.06
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フーリエ変換で有名な数学者、ジョゼフ・フーリエ。彼はフランス革命の時代を生きました。フーリエを変えたのは、ナポレオンのエジプト遠征。彼は科学者として、エジプト遠征に同行しました。この時、あのロゼッタ・ストーンをフランスに持ち帰ります。フーリエはロゼッタ・ストーンを前に、ヒエログリフの解読に取り組みます。しかし、数学者の彼には、解読はできませんでした。ある時、フーリエは若者に、ロゼッタ・ストーンを見せました。その若者こそ、言語学の天才シャンポリオン。シャンポリオンはその後20年をかけて、ヒエログリフの解読に成功します。数学者でありながら、ヒエログリフ解読のきっかけを作ったフーリエ。一方で、彼自身はこのエジプト遠征で、奇妙な習慣を覚えてしまいました。エジプト遠征で、砂漠の熱気と乾燥に慣れたフーリエ。彼はフランスの寒さを嫌い、この寒さが思考と健康の妨げになると思い込みました。フランスで彼は、部屋を閉め切り、サウナの様な熱気を保ちました。さらに包帯を全身に巻き付け、高温に身を任せました。エジプトから帰国したからは、まさにミイラの様になったのです。後にフーリエは、循環器系の病で命を落とします。部屋の熱気とミイラ装束が、彼の心臓に負担をかけたためとも言われています。ミイラ装束で、寿命を縮めたフーリエ。彼の寿命を奪ったのは、ロゼッタ・ストーンを持ち帰った彼への、ミイラの呪いなのかもしれません。
2016.11.05
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昨日、6月18日は、登山家ジョージ・マロリーの誕生日でした。「なぜ、エベレストに登るのか?」と問われ、「そこにエベレストがあるから」と答えた、ジョージ・マロリー。1921年,22年と彼はエベレスト登頂を目指し、人類最高到達高度を記録しましたが、登頂はかないませんでした。1924年、彼は3度目のエベレスト登山に挑みました。しかし、6月8日の目撃情報を最後に、彼は姿を消しました。まだ、37歳の若さでした。その後、長い月日が過ぎました。そして、1999年、75年が過ぎ、彼の遺体が標高8100m付近で発見されました。彼が人類初のエベレスト登頂を果たしたかは分かりません。ただ、山頂までに十分な、酸素ボンベの容量はありませんでした。無酸素、軽装、まだ行く手に残された難所。シェルパの助けもなく、登頂の可能性はゼロに等しかったと思われます。彼の遺体は、今も標高8100mの地に埋葬されています。その場所は「虹の谷」とも呼ばれます。エベレストの高度では、酸素濃度1/3で、ヘリコプターも飛行できません。今も回収できない登山家の遺体は、200体以上。極低温でミイラ化し、亡くなった時の姿で横たわっています。登山家の遺体は、目立つ色の装備を身に付けています。色とりどりの無数の遺体は登山家の目印になり、「虹の谷」と呼ばれています。「なぜ、エベレストに登るのか?」マロリーに改めて問いかければ、何と答えることでしょうか。
2016.06.19
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レオナルド・ダ・ヴィンチは窮地にありました。原因は、彼が発見した化石にありました。15世紀、まだ生物が石になる、化石は知られていませんでした。その時代に、彼は貝の化石を、貝が長年かけて石になったと唱えたのです。ある人は言いました。それは、貝に似た石ころだと。別の人は言いました。それは星の光の力で、貝が石になったのだと。神学者が言いました。それは、神の力で作られたものだと。最後に、聖書を手に神学者が言いました。それは聖書にあるように、ノアの大洪水で海から這い上がった貝の死骸だと。この時代、聖書を持ち出されては、誰も反論できません。そういう時代でした。それでも、彼は反論しました。歩みの遅い貝が陸に這い上がれるはずがないと。この反論が教会の怒りを買い、彼は処罰されるところでした。しかし、彼のパトロンの尽力で、なんとか救い出されました。その後、ダ・ヴィンチも化石については沈黙し、化石の存在も無視されました。化石の真実が明かされるまで、その後、200年以上が過ぎることになりました。真実が認められるまでには、長い時間がかかるものなのです。
2016.05.19
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第32代アメリカ大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルト。神をも恐れぬ原爆開発を推し進めた彼ですが、非常に縁起を担ぐ人物でもありました。特に彼が忌み嫌ったのは、数字の13。13恐怖症と呼べるくらいに、何事も13になることを嫌いました。例えば晩餐会の主席者が13名の時、彼は秘書を参加させて14名に変えました。そしてもちろん、特に13日の金曜日を恐れました。「恐れなければならないのは、恐れることそのものである。」これは彼の大統領就任演説ですが、自分自身にその考えは及びませんでした。終戦近い、1945年4月、この月も13日の金曜日が近づいていました。当然、彼もこの日のイベントを避けようと考えていました。しかし”幸運にも”彼が13日の金曜日を迎えることはありませんでした。13日の前日、4月12日の木曜日に、彼は脳卒中で命を落としたのです。そして、その年の8月、本当の不幸が現実となりました。彼が開発を推進した原爆が、広島,長崎に相次いで投下されたのです。真に恐れるべきは、13日の金曜日ではなく、原爆開発を奨励した彼自身の存在でした。【過去の日記】 「極めて効率的 - 原爆の正当化 -」
2016.04.06
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1522年9月6日、世界一周を成し遂げたマゼラン艦隊のビクトリア号は、スペインに帰国しました。3年に渡る旅はマゼランの命をも奪い、270人の乗員は18名にまで減っていました。アントニオ・ピガフェッタは、この時、衝撃的な事実を知ります。彼は毎日記録を取り続けたのに、1日、日付が足らなくなっていたのです。マゼラン艦隊の失われた1日。その報告はスペイン国民にも、艦隊のミステリーとして話題になりました。もちろん、彼らが正確なクオーツ時計を持っていたなら、日付の消失は起きません。ビガフェッタが、太陽の昇り沈みを1日として数えたためのミステリーです。マゼラン艦隊の失われた1日は、今日では時差として知られています。艦隊が世界一周をしたからこそ、1日が失われたのです。正しい地図がなく、時差さえも知らず、大海原を目指す。それほど彼らの旅は、何もかもが未知だったのです。最近、私も連休は、1日ぐらい消えている気がします。きっと、知らない間に、世界一周しているに違いありません。【過去の日記】 「その道を迷い続け -フェルディナンド・マゼラン-」
2016.04.04
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ゴムの発明家チャールズ・グッドイヤーは、極貧に苦しみました。ゴムの発明に挑戦したグッドイヤーは、失敗を繰り返しました。彼が作ったゴムは夏の暑さに溶け、多量の商品が返品されました。失敗に次ぐ失敗。彼は債権者刑務所に、何度も収監されました。それでもあきらめずに挑戦し、そしてまた失敗。たった5ドルが支払えず、収監されたこともありました。体は弱り、食費もなく、6人の子供は幼少で亡くなりました。それでも、その葬式代はありませんでした。極貧生活の果てに、彼は耐熱性があるゴムを発明しました。しかし、彼を待っていたのは、特許裁判の嵐でした。一部の彼の発明は盗まれ、彼は20万ドルの借金を残して死去しました。とはいえ、彼のゴムの特許は、残された家族にやっと安定した生活をもたらしました。驚きなのは、彼の死後に設立された、グッドイヤー・タイヤ・アンド・ラバー・カンパニー。皆さんもご存知のタイヤメーカー、グッドイヤーです。この会社は、チャールズ・グッドイヤーと資本関係はありません。もちろん、家族とも関係ありません。ゴムの発明家として有名な、彼の名前を借りた会社です。発明家グッドイヤーとは関係ない会社グッドイヤー。なんともややこしく、不思議に思う話です。
2015.07.29
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フランスの科学者ルイ・パスツールは、ついに挑戦状を叩きつけられた。それは成功を誇示する、彼の性格に原因があった。ワクチンを使った病気の予防に、彼は成功していた。しかし当時、類似した研究をする科学者は少なくはなかった。炭疽菌の免疫成功を告げる彼の発表は、ライバルたちを刺激した。ライバルは50頭の羊を用意し、彼に公開実験を強要した。実はパスツールは、まだ免疫のしくみが良くわかってはいなかった。彼はワクチンに「生きた細菌」を使っていたが、成功率が低かった。悩んだ彼は、ライバルの手法をこっそりと盗用することにした。理由は分からないが、ライバルが成功していた「死んだ細胞」を使ったワクチンを公開実験に使用した。結果は大成功。ワクチンを接種した羊は全て生き残り、接種しなかった羊は死んだ。彼は公開実験という勝負に勝利した。しかし、その手法は自身のオリジナルではなく、原理も理解はできていなかった。成果を誇示する彼の性格は、彼自身を追い込んだ。しかしその結果、彼の知名度は高まり、後世までも名を残すこととなった。公開実験で「死んだ細胞」を使ったことは、彼の死後数十年も秘密とされた。名を残した科学者の業績にも、闇の部分が見え隠れする。真実に誠実であるということは、それだけ難しいことでもある。
2015.07.25
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グライダーを作り、飛行を繰り返したオットー・リリエンタール。彼は、飛行機開発のパイオニアでした。彼はグライダーを改良しつつ、飛行実験を繰り返しました。その危険な飛行実験は、2000回を超えたと言います。1893年に彼が樹立した飛行距離250メートルは、当時の最長不倒距離でした。彼の飛行実験への姿勢は、とても真摯なものでした。その姿勢は、彼の墜落死の時まで続きます。1896年8月9日、その日も彼は飛行実験を繰り返しました。しかし、4回目の飛行で失速し、15メートルの高さから落下しました。死の間際、彼の最期の言葉が残されています。「どんなことにも失敗や犠牲はある」最近続く、海外での航空機事故。この事故を彼が見たなら、どんな言葉を残すでしょうか。【過去の日記】 「空を愛した世界初の飛行機乗り サントス -空飛ぶ男 サントス・デュモン-」
2015.02.25
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千円札を手にすると、人生の皮肉を感じます。細菌学に業績を残した、偉大な学者、野口英世。英世は偉大な業績とともに、そのずぼらな性格も有名です。特に英世は、金銭に関しては問題がありました。一例には、斉藤ます子との婚約騒ぎがあります。英世は斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金をアメリカ渡航費にしてしまいます。そしてそのまま、英世は海外を転々とします。婚約金を使い込み、日本に戻ってこない英世。あやうく詐欺事件になるところ。それを救ったのは、英世のパトロンで東京歯科大学創立者の血脇守之介。血脇が、婚約持参金300円を斉藤家に返済し、婚約破棄。しかし、5年もの月日が流れていました。その他に、海外渡航でも、英世は血脇に多くの資金援助を受けています。公費を遊興や賭博で使い果たし、渡航費を失ったための援助です。偉大な業績の一方で、特に金銭にはルーズだった野口英世。その彼が、今では日本紙幣の信頼を象徴する姿になりました。人生とは、実に皮肉なものです。【過去の日記】 「おっちょこちょい - 平賀源内と野口英世 -」
2014.12.23
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まだナスカの地上絵が無名だった頃、地上絵を研究するひとりの女性がいました。その名は、マリア・ライヒェ。ひとり砂漠をさまよい、次々と地上絵を発見する彼女。住む場所もなく、砂漠で寝泊りし、口に入るものは何でも食べました。2週間に一度、彼女が町を訪れるのは、生きるための水を得るため。薄汚れた彼女は「魔女」と呼ばれ、町の子供たちに石を投げられました。やがてその甲斐があって、地上絵は世界に知られるようになりました。しかし、本当の彼女の苦難は、その時から始まりました。観光客が押しかけ、地上絵は踏み荒らされました。地上絵は、UFOの着陸場。愚にもつかない説を信じた人々は、地上絵を消そうとまでしました。人の往来の急増で、ハイウェイが地上絵を分担しました。送電線の工事によって、地上絵は喪失の危機を迎えました。彼女は著書の売り上げも、年金も、すべてを地上絵の保護に費やしました。彼女の献身がなければ、ナスカの地上絵は消え去っていたことでしょう。1998年、マリア・ライヒェは、その人生を終えました。そして、地上絵は、今もわたしたちの前にあります。愛すべき対象に、その願いが届いた時、破滅さえ招く願いに、後悔を知ることになるかもしれません。何かを強く願う時、あなたには、その願いに、すべてをかける決意があるでしょうか。
2014.11.13
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江戸時代の東大寺大仏殿の再建は、ひとりの僧の努力によって成し遂げられました。1567年の松永久秀らの争いで、大仏殿は消失しました。その後、野ざらしのままだった大仏。その姿を悲しんだのは、12歳の少年、公慶。公慶は、いつか大仏殿の再建を夢見るようになりました。公慶は、ひとり大仏の再建を目指します。しかし再建には、18億円もの資金が必要でした。江戸幕府の支援もなく、公慶は民間からの寄付金集めに奔走します。しかし、18億円を集めるには、寄付だけでは無理な話。次に、公慶は幕府の許可を得て、大名からの資金集めを始めます。全国を行脚して、公慶は資金集めを続けました。それでも、やはり資金を集めることはできませんでした。公慶は、やむなく大仏殿を大幅に小さく変更します。その結果、必要な資金は10億円になりました。その熱意に押された徳川綱吉は、ついに大仏殿再建の資金を出す決意をしました。その後、木材集めに苦しみ、公慶は鹿児島まで材木を求めます。無理に無理を重ね、公慶はなんとか大仏殿再建の目処をつけることができました。資金も集まり、材木も調達。後は、大仏殿の完成を待つだけです。しかし、運命は残酷でした。大仏殿完成まで後4年となった1709年、公慶は突然、病死してしまいます。大仏殿再建を夢見た13歳の少年は、61歳になっていましたが、再建された大仏殿を見る夢はかないませんでした。弟子たちは、せめてもと、公慶を東大寺に埋葬することを願いました。しかし、東大寺には、皇族以外の墓を作ることは許されませんでした。仕方なく、公慶は東大寺近くの五劫院に埋葬されました。五劫院には、公慶上人像があります。そして、公慶の像からは、東大寺が見えるように置かれています。生き写しに作られた公慶の像は、頬がこけ、左眼は真っ赤に充実しています。ただ、その眼はまっすぐに、大仏殿をいつまでも見つめています。【過去の日記】 「逆転の発想で - 東大寺大仏殿 -」
2014.09.02
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望遠鏡の発明者が誰か。それは、定かではありません。ただ、オランダのハンス・リッペルハイは、発明者のひとりと言われます。リッペルハイは、1608年に望遠鏡の特許申請をしました。その特許は認められませんでしたが、彼は望遠鏡の売込みを始めます。その売り込み先は、当時戦争中だった自国オランダ。オランダは、スペインに対して80年戦争、いわゆるオランダ独立戦争の最中でした。軍事において、敵軍を確認できる望遠鏡は大きな力。望遠鏡の売り込みは、大成功を収めます。リッペルハイは、オランダ独立の救世主。そう思われましたが、調子に乗った彼は、なんと敵国スペインにも望遠鏡を売り込みました。愛国心のかけらもない、彼の売り込み。さすがのスペインも、敵国からは買えないと、自国独自での望遠鏡製作を始めました。そして、瞬く間に、望遠鏡のうわさは、ヨーロッパ中に広まりました。まもなく、このうわさは、イタリアのガリレオの元に届きました。1609年、ガリレオは真似て自作した望遠鏡で、天体観測を行いました。天文学の進化は、リッペルハイに愛国心がなかったおかげで加速したのです。私利私欲に身を任せたから、戦争があったから。哀しい理由で加速する、科学や技術の進歩。哀しく、いたたまれないけど、事実です。人が理性を失うほどに、科学も技術も、進化するということは。
2014.08.27
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1923年、ノーベル物理学賞を受賞した、ロバート・ミリカン。彼は、アメリカを代表する、物理学者のひとりです。彼の電気素量の実験は、ミリカンの油的実験として有名。精度の高い測定法としても評価を受けました。しかし近年、彼の実験に、大きな疑惑が。170個の測定データから、都合の良い58個を選んでまとめたというのです。データを選別した結果、実験精度は飛躍的に向上しました。本来、恣意的なデータの選抜は許されません。ただ、測定結果は誤りではない。問題はあるけれど、ノーベル賞には値する。その様に、私も理解していました。しかし、2010年、その疑惑が晴らされました。ミリカンは、60日間の測定データに限定して整理したと論文に明記。そして、使わなかったデータは、60日間以外のデータと確認されたのです。実験精度は、実験者や測定環境で変わります。期間などの条件を明記すれば、それは恣意的なデータ操作ではありません。ノーベル賞受賞の栄光。誤解による悪評。そして、再評価。ミリカンですら、酷評を受けました。有名になれば、悪い評価も生まれます。しかし、その誤解を解けば、真の栄光が得られます。そこに、真理の光が、あるならば。
2014.04.14
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有名な鎌倉時代の歌人、藤原定家。「小倉百人一首」、「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」の撰者として知られます。彼はエッセイ風の日記「明月記」を書きました。それはネットがない頃の、ブログの様なもの。日記だから、「明月記」は後世の呼び名。彼自身は「愚記」と読んでいました。しかし、彼はその日記を、18歳から74歳まで書き続けます。実に、56年に及びます。「明月記」には、重要な情報が多くあります。その中でも意外なのは、100件を超える天体の情報。特に望遠鏡がない頃の超新星の記録は、世界で7件しかありません。そのうちの3件が「明月記」に記されています。超新星3件の記録は、世界最多。おおかみ座超新星、かに星雲、3C58超新星が記されています。その記録を支えたのは、陰陽師。天体観測は、陰陽師の重要な仕事でした。安倍晴明の息子・吉昌らが、天体の情報を定家に伝えました。今日では、藤原定家は天文観測家としても語られます。天文学の世界では、定家は歌人ではなく、科学者なのです。「明月記」は、今は定家の子孫、冷泉家に大半が保存されています。彼が「愚記」と語った日記は、科学者すら貴重と認める国宝となりました。書き続けることの大切さ。ブログを書く者に、とても励みになる事実です。[かに星雲]
2014.03.27
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古代エジプトプトレマイオス朝最後のファラオ「クレオパトラ」こと、クレオパトラ7世フィロパトル。絶世の美女で知られる彼女は、毒の効果について数多くの人体実験を繰り返しました。クレオパトラは、その最期で、エジプトコブラに自らをかませたと伝わります。クサリヘビを使った説もありましたが、彼女の毒の知識から、その説は否定されています。エジプトコブラの毒は、神経毒。安らかに、眠るような死が訪れます。それに対してクサリヘビの毒は、びらん性の筋肉毒。かまれた箇所から多量の出血をし、皮膚はただれ、組織も壊死し、激しい痛みをともないます。血とただれにまみれた、醜いこの毒を、クレオパトラが選ぶはずはありません。最期まで、美を追及したクレオパトラ。その知識は、人体実験の結果から得たものでした。美の追求は、多くの犠牲をともなうもの。美しいものには、トゲではなく、毒がありました。【アレクサンドル・カバネル「死刑囚に毒を試すクレオパトラ」1887年】
2013.10.12
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切り裂かれ、あふれ出た鮮血は止まることを知らない。大穴を穿たれ、容赦なく打ち砕かれ、激しい力に引き裂かれる。激しい衝撃と振動に翻弄されつつ、ただ血の味を感じていた・・・。と、いうわけで、昨日、おやしらずを抜歯しました。中学生の頃に右下のおやしらずを抜きつつも、左下のおやしらずは放置していましたので。ご存知の方も多いと思いますが、下側のおやしらずは、抜歯が大変です。私の下のおやしらずも横向きに生えていましたので、簡単には抜けません。横向きのおやしらずの抜歯は、外科手術ですので、口腔外科で抜歯します。抜歯の手順をご紹介しましょう。麻酔後に、まず歯の側面からドリルで削り、歯を2つに割ります。口の中で大きな歯を割るために、恐ろしい音が頭に響きます。次に歯の根元の歯肉を切開します。そして残った歯の根元部分を除去します。最後に、縫合して終了です。今回の抜歯は、思ったより簡単でした。麻酔が良く効いていたためでしょう。ただ「歯が引っかかる時はあごの骨を削る」と言われた時は、帰りたくなりましたが。思えば中学生の頃の抜歯で苦労したのは、年齢の関係から、多くの麻酔を使えなかったためでしょう。ほとんど麻酔が効かない状態で、1時間以上に渡って歯を砕かれる痛みがトラウマとなって、今まで残りのおやしらずを抜けないでいました。麻酔は偉大です。食事には不自由していますが、腫れもひどくはなく、1週間後に抜歯をすれば終わりです。痛みはありませんが、鎮痛剤は飲んでいます。*ところで、先日、ルイ14世の日記を書いた理由をご説明しましょう。ルイ14世は、すべての歯を抜いていたことで有名です。それは主治医ダガンが、歯は万病の元と主張したことにあります。12回に及ぶ手術で、ルイ14生は、健康なすべての歯を抜きました。その際に、下あごを割られ、上あごにも鼻に抜ける穴が残ったと言われます。しかもこの手術を、麻酔なしで行い、消毒は焼け火箸で歯肉を焼いたと言うことです。王様でありながら、これでは酷い拷問です。さらに抜歯により、ルイ14世は流動食しか食べられず、絶えず下痢気味だったと言われます。医学や麻酔の進歩した、現代に生まれた私たちは幸せです。17世紀の王様になることよりも。
2013.10.08
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有名な海賊キャプテン・キッドこと、ウィリアム・キッド。彼は海賊になりたくはありませんでした。キッドは、私掠船の船長でした。その私掠船とは、イギリス政府が敵国フランス船の襲撃を許可した船。私掠船は戦力不足を補うために、民間船を利用する仕組みでした。1698年、キッドはクェダ・マーチャント号を襲いました。その船はフランス船である証明書をキッドに提示しましたが、実はイギリス船でした。キッドは誤ってイギリス船を襲い、海賊行為を働いてしまいます。フランス船以外を襲えば、それは海賊です。帰国後に、キッドは裁判にかけられます。キッドは無実を主張しましたが、無実の証拠「マーチャント号のフランス船証明書」は、政府の貴族によって隠されました。その理由は、キッドの私掠船のスポンサーにありました。キッドのスポンサーは、イギリスの著名な貴族たちでした。彼らの政敵は、キッドを海賊に仕立てることで、スポンサー貴族の責任を追及しました。さらに襲われた船が、東インド会社の関連であったことも災いしました。私掠船で利益を奪われていた東インド会社が、イギリス政府に圧力を加えたのです。事実、スポンサーの貴族たちも弾劾裁判にかけられます。そして無実を示す「フランス船証明書」は、数百年後に政府の証拠品の保管庫から見つかりました。裁判の中、キッドは別の船に対する海賊行為も余罪として追求されます。しかし私掠船と海賊船は区別し難く、他の私掠船も少なからず海賊行為を働いていました。そして最終的に、キッドは過去の部下のウィリアム・ムーアの殺害でも起訴されました。それはキッドに激しく抗議した部下を、反乱を抑えるためにバケツで殴り、誤って命を奪った過失致死でした。結果的にキッドは無実の証拠を隠されて、ありふれた余罪と過失致死から絞首刑に処せられました。そして「海賊キッド」を支援した貴族たちも、政界を追われることになりました。時代の波に翻弄された、キャプテン・キッド。彼の切実な願いが、聞こえてきます。「海賊王には、なりたくなかった。」(キャプテン・キッドの処刑)
2013.10.02
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活版印刷を発明したのは、ヨハン・グーテンベルク。今では教科書にも載るグーテンベルクも、発明者と認められたのは18世紀以降でした。それは裁判記録、「ヘルマスペルガー公正証書」の発見がきっかけでした。1734年に見つかったその証書には、グーテンベルクが借金の未払いで敗訴し、印刷機材を没収された記載がありました。裁判で勝訴したのは、ヨハン・フスト。フストは1450年から、グーテンベルクに1600グルデンを利息6%で貸しました。そして1455年には、借金の取立てのための裁判を起こします。グーテンベルクとフスト。ふたりの”ヨハン”は、聖書を世界初の活版印刷する事業の共同者でした。印刷に年月を要することは、フストも知っていたことでしょう。借金の取り立ては、聖書の印刷が5年では終わらないことを知ったうえで、契約不履行を盾にしたグーテンベルクからの印刷事業の略奪。そのように、後世の人々にみなされました。それまでは、活版印刷の発明者ともみなされていたフストの名は地に落ちました。いつしかフストの名は、悪魔に魂を売った魔術師ファウストの名と混同されるほどになりました。「ヘルマスペルガー公正証書」は、グーテンベルクの借金と敗訴の証。しかしそれは、歴史の闇に消えていた彼に、発明者としての光を投げかけ、勝者へと導きました。借金で、裁判の敗訴で、さらに発明品を奪われて。この世で報われない人生を送っても、それが後世での名誉になるならば。それならば、あなたは”ふたりのヨハン”の、どちらになることを望みますか?ただひとつ、忠告しましょう。いつ何時、「フストは、やはり良い奴だった」、そんな文書が見つかるかもしれないことを。【参考】 高宮利行,「グーテンベルクの謎」,岩波書店,1998年,207P
2013.09.25
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エッフェル塔の設計責任者として知られる、アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェル。本来、彼は航空工学の専門家でした。石造りに代わる、画期的な鉄骨製のエッフェル塔。設計,製造面で画期的な鉄骨製の塔ですが、その外観は極めて醜悪とも評されました。一方で、その塔はパリ万博の象徴として、彼を一躍有名にすることになりました。その後、エッフェルはアメリカの自由の女神の骨組みも設計しました。「鉄の魔術師」と評された彼は、まさに鉄骨設計の第一人者でした。しかしそれは、彼が願った生き方とは違ったのかもしれません。さらには、パナマ事件などの政治スキャンダルにも巻き込まれ、彼は心に深い傷を受けることになりました。そのスキャンダルを機に、彼はエッフェル社から離れます。塔の設計から離れた彼は、穏やかで幸せな日々をすごしました。晩年、彼はエッフェル塔の4階にサロンを構え、本来の専門だった航空工学に再び取り組みます。エッフェル塔の下には、風洞実験棟を建て、プロペラを研究し、航空機の設計に取り組みました。今日でも、風洞には「エッフェル型」と呼ばれるものが残されています。高すぎる名声は、その人を、本来望む生き方から遠ざけます。スキャンダルに追われ、名声を失い、塔の設計から離れた彼は、やっと自由になりました。名声は、誰もを束縛するもの。自由は、捨て去る恐れを越えた先にあります。付け加えておきましょう。エッフェルが、女性の下着ストッキングの、ずり落ち防止に使われる、ガーターベルトの発案者でもあることを。
2013.09.10
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ダイナマイトの発明者、アルフレッド・ノーベル。彼にノーベル賞設立を決意させたのは、ある新聞の誤報でした。1888年3月、アルフレッド・ノーベルの兄、リュドビック・ノーベルが他界しました。しかし、それを新聞社は、アルフレッド・ノーベル自身の死と取り間違えました。明らかな誤報。そして、その新聞の見出しは、彼に深い失望を与えました。「死の商人、死す」それが、新聞の見出しでした。「このままでは、私は死んでも悪魔のようにしか語られない。」その思いから、彼は財産によるノーベル賞の設立を決意しました。自分自身の死を告げる新聞。もしノーベルがそれを読まなかったら、ノーベル賞はなかったのかもしれません。ノーベル賞の輝きの陰には、あるひとりの男の、深い悲しみと、みじめなおびえが隠されています。
2013.08.08
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古代ローマの天文学者、プトレマイオス。西暦150年頃に彼が作成した世界地図は、その後、1400年以上信じられてきました。アメリカ大陸を発見したコロンブスも、彼の地図を信じた一人でした。地図を信じたコロンブスは、西に進むアジアへの「近道」を選びました。しかし、プトレマイオスの地図には、アメリカ大陸がないばかりではありません。東西に長く伸びたその地図では、ヨーロッパとアジアの距離がとても近く描かれていました。西に進むコロンブスは、想定外の長距離の航海に戸惑います。地図が間違っているとは、気づかないまま。しかし、その想定外の航海が、彼にアメリカ大陸発見のチャンスを与えます。もちろん、コロンブスはそれが、アメリカとは思いませんでしたが。想定外の出来事は、時にあなたにチャンスを与えます。そのチャンスをつかむか、逃すか。それを決めるのは、あなたの意志の強さ次第です。【プトレマイオスの地図(15世紀複製)】
2013.07.31
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ピタゴラスの定理で有名な、古代ギリシアの哲学者、そして数学者のピタゴラス。彼は、ピタゴラス教団を創設しました。ピタゴラス教団。数学と宗教を探求した彼らは、ベジタリアンでした。輪廻転生を信じた彼らは、動物は前世では人間だったと信じたためでした。また彼らは、ソラマメを特別な存在と考え、決して食べませんでした。ピタゴラス教団は、やがて力を持ちすぎるようになります。そして市民に追放され、ピタゴラスも追手に追われました。しかし、追われるピタゴラスは、突然立ち止まりました。目の前に、ソラマメ畑があったからです。そして、ソラマメ畑に入れずに躊躇しているところを、ピタゴラスは追っ手に捕まり、虐殺されてしまいます。ピタゴラスには、ソラマメ。あなたにも、命に代えても良いほどの、こだわりがありますか?
2013.07.20
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13歳の松戸覚之助は、親戚の家のゴミ捨て場で、変わった梨の苗を見つけました。その苗を持ち帰り、育て始めたのが、明治21年、1888年のことでした。それから10年、覚之助は病気に弱いその苗を育てようと苦労します。そして、失敗の繰り返しの後に、ようやく栽培に成功します。覚之助は、23歳になっていました。その後、「新太白(しんたいはく)」と呼ばれたその梨は、美味しいと大評判になりました。そして、明治37年、1904年、その梨は「20世紀梨」と名付けられました。この話で、ゴミ捨て場を探しにいこうと思った、あなた。20世紀梨の次の「21世紀梨」を探すのなら、おやめになったほうが、よいでしょう。21世紀梨は、すでに販売されています。もし、ゴミ捨て場を探すなら、あと90年ほど長生きしましょう。そうすれば、「22世紀梨」が見つかるかもしれません。
2013.07.01
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作家、太宰治は、評論家、河盛好蔵への手紙に書きました。「人を憂えることは、人の寂しさや侘しさ、つらさに敏感なことであり、 それが優しさで、人間として一番優れていることではないか」太宰治が、伝えたかったこと。それは、優しさの本質。「憂」の字は、にんべん、つまり「人」が傍にいて、「優」の字に変わります。憂う人を、傍で人が支える。それが、優しさ。遥か先人のメッセージは、文字に乗って、私たちに届きます。それを受け止めるか、流し去るか。それは、私たちのこころ次第。
2013.06.27
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電磁気の単位にその名を残す、英国の科学者、マイケル・ファラデー。十分な高等教育を受けていませんでしたが、王立研究所で偉大な成果を残した彼。科学者らしく心霊現象には否定的でしたが、敬虔なキリスト教徒でもありました。彼は、専門家以外にも、多くの講演をしたことでも知られています。ある医学生に向けた講演での、彼の語りが今に伝えられています。この試験管に入った液体。きみたちには、これが何か分かるだろうか?これは先日、わたしを訪ねてきた、ひとりの母親が流した涙です。その母親は、病気の息子を想い、涙を流していました。きみたちには、この涙に、何が含まれるか分かるだろうか?それを知るのに必要なのは、高価な分析機器でも、精密な実験装置でもない。科学者である前に、測定値に捕らわれる前に、きみたちは、まず感じなくてはならない。この涙に含まれるもの。それは、母が息子を思う、愛である。科学者である前に、医学者である前に、きみたちは、人間であることを忘れてはなりません。合理的、機械的な知識に捕らわれ、わたしたちが忘れそうになる大切なこと。19世紀に生きたファラデーは、すでに気づいていたのです。
2013.06.25
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「昆虫記」で有名な、ファーブル。彼の地元での評価は、”変人”でした。45歳で教師を辞めた彼は、ひたすら昆虫の観察と執筆に専念しました。地面にはいつくばり、虫の観察。人を嫌い、会話もしない。散髪屋にも行かず、訪問者も門前払い。家庭でも、必要なければ、会話もしない。食事中ですら、会話はありません。室内でも帽子をかぶり、師も弟子も持たずに、ひとりで研究。彼にとって、孤独こそが、幸福でした。貧乏だけど、自由な生活。菜食主義に、早起きの生活。そのおかげか、彼は1823年という時代にあって、92歳の長寿でした。孤独を愛した彼ですが、結婚はしています。そればかりか、多くの子供を授かっています。21歳で、最初の妻と結婚。22歳、24歳、27歳、30歳、32歳、38歳、40歳で、3男4女を授かっています。62歳で、妻が他界。64歳で、41歳も若い、23歳の妻と再婚。65歳、67歳、そして72歳で、1男2女を授かります。長寿の甲斐もありました。87歳で有名になり、生活も豊かになりました。そして、若い妻も48歳で他界。その2年後に、ファーブルも人生の幕を閉じました。人を避け、自由に生き、菜食主義で、規則正しい生活。長寿と、4男6女の子供を授かり、人より虫を愛した。変人と呼ばれることを、いとわなければ、あなたにも、長寿が可能かもしれません。
2013.04.24
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りんごが木から落ちるのを見て、万有引力を発見。このニュートンの逸話は、ニュートンの著書にはありません。ただ、ニュートンが語ったという記録は、いくつかあります。有名なのは、ニュートンの主治医スタックリーの記録。84歳のニュートンが、りんごの思い出を語ったと記されています。それは造幣局長官として暴君と化し、多くの罪人を死刑にした後。株の投資で大失敗、晩年、錬金術に心頭したニュートンが亡くなる前年でした。イギリス、ウールズソープの庭のニュートンの木から、種と苗木が日本に送られました。しかし、種からの生育したりんごの木は、1973年に枯れてしまいました。一方、接ぎ木にも問題がありました。苗木がウイルスに感染していたのです。16年の苦難の後、このウイルスを無毒化しました。高温生育法で、ウイルス感染していない新芽を作りあげたのです。この苗木を接ぎ木したニュートンの木は、今も小石川植物園で見ることができます。さらに、この木から枝分けし、日本の各地にニュートンの木は存在します。ニュートンの木は、リンゴが熟すると、すぐに落下する品種だそうです。ニュートンの、りんごの話の真偽はわかりません。それでも、たしかなことがひとつあります。木から落ちるりんごを見ても、わたしが引力に気付くことは、きっとありません。ただ、りんごがもったいないと、思うだけに違いありません。
2013.04.21
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漢字を廃止せよ。福沢諭吉は、漢字廃止論を唱えました。福沢諭吉以前にも前島密が、それ以降にも原敬らの多くの人物が漢字廃止運動を進めました。帝国教育会国語改良部でも、漢字を減らすための検討がされました。漢字をなくしたかったのは、間違いやすいからではありません。ただし、漢字が難しく、漢字教育の負荷が高いというのは理由でした。さらに、英語と漢字の相性の悪さも、理由のひとつにありました。さらに大きな理由もありました。それは、印刷の問題。活版印刷では、多量の漢字の活字を準備しなくてはなりません。その点、ひらがな、カタカナだけでは、活字の種類もわずかです。漢字があるために、欧米に比べて、日本語の印刷の負荷は多大でした。今日ではワープロの登場により、漢字の印刷も容易になりました。また漢字には、短い熟語で多くの情報を伝える長所もあります。かつて漢字を使っていた、ベトナム、韓国、北朝鮮。現在では、これらの国では、漢字は使われなくなりました。中華民族以外で、漢字を使う国は、現在では日本のみ。これからも、貴重な漢字文化を伝えていきたいですね。
2013.03.23
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文豪の夏目漱石は、造語好き。次々と、新しい言葉を作ります。まずは、漱石が作った「当て字」をご紹介。・「兎に角」:とにかく・「矢鱈」: やたら・「浪漫」: ロマン・「成程」: なるほど・「非道い」: ひどい・「可笑しい」:おかしいさらに、造語もご紹介。「無意識」,「反射」,「新陳代謝」,「肩が凝る」「電力」,「価値」,「経済」,「連想」,「世界観」「生活難」,「自由行動」,「評価」,「正当防衛」,「打算」言葉を楽しみ、自在に操った夏目漱石。間違いなく、現代なら「流行語大賞」を受賞したことでしょう。
2013.03.13
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心理学で有名な、ジークムント・フロイト。彼はコカインの普及に尽力しました。コカインの精神への作用。彼はコカインの服用を、コカイン療法として考案し、広めました。彼のコカインを勧める論文が掲載されたのは、1884年。彼自身、約3年間、コカインを常用しました。次々と患者に、友人にコカインを勧めるフロイト。その結果、彼は患者を、友人をコカイン中毒で亡くします。そして、毒物を勧める者として、彼は医学界での評価も失いました。まだコカインの毒性が知られていなかった時代。それは無理もない、あやまちだったかもしれません。その頃は、コカの葉を原料として「コカ・コーラ」が人気を博していた時代。1886年から1903年まで、コカ・コーラにコカインが含まれていた頃ですから。コカイン療法は、フロイトの人生の汚点。しかし人の心理を見つめる姿勢が、後の彼の心理学での成功につながります。失敗を恐れる必要はありません。ただあやまちは、あやまちと認めなくてはなりません。コカインに、薬物に、悩まされたフロイト。1939年、末期癌の彼が選択したのは、モルヒネによる安楽死でした。
2012.12.17
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物言う猫がいると聞いた。猫に年を問えば、「ニャンニャンニャン」と答える。なるほど、この猫は3歳らしい。感心していたが、後日、からくりが分かった。問いかけていた女将が、猫が鳴く数だけ、尻尾をつねっていたそうだ。また、ある時、カッパの見世物があった。水を張った大きな桶の中から、時々、カッパらしきものが浮かんでは沈む。あれは何かと気になり、騒ぎを起こして、桶をひっくり返した者がいる。二重底になった桶の下に、少女が隠れていて、人形の河童をひもで操っていたと分かった。見世物小屋は、やれ営業妨害、損害賠償と騒ぎ立て、桶をひっくり返した者は、詐欺欺瞞と言い返したが、結局は、田舎の常で、うやむやになってしまった。・・・これらは、佐々木喜善の「遠野奇談」からの話。日本のグリム、佐々木喜善。柳田國男の「遠野物語」は、佐々木喜善の語る話を聴き取り、書かれました。しかし、佐々木喜善は借金を抱え、48歳の若さで亡くなります。そして、柳田國男が民俗学を確立するとともに、佐々木喜善は忘れられていきます。佐々木喜善、彼は柳田國男に消された研究家。「遠野奇談」の大半は、「遠野物語」に採用されなかった話。なるほど、物言う猫や、カッパの見世物は、民俗学の範疇を外れそう。日本のグリムの語りには、泥臭い、遠野の人々の生活が見え隠れします。「遠野奇談」は、読みやすい短編集。みなさんも、読まれてはいかがでしょうか。
2012.09.22
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