・・旅のあとさき・・

・・旅のあとさき・・

2011.01.10
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カテゴリ: 無
今日は主人の実家へ行ってきた。車で2時間くらい。
90歳の義父は 3年前の重い帯状疱疹の後 ひどい痛みが消えず入院したりしてから 精根使い果たしちゃったようでほぼ寝たきりのような生活パターンになった。
それを86歳の義母が介護保険を利用しながら看ている。

私の家の周りは 介護ホームが多い
費用的にはピンキリだけれど 料理がまあまあという◇タミの経営するホームもある。
で
チラシが入ったので 今回はそれを提案として主人が持って行った。
事業を始めちゃったので 頻回には行けないけれど 近くなら今よりは銀行とか お花見とか 買い物とか 一緒に過ごせるのではないかと思ったから。

主人 行く前は

などと クールに言ってたのに
積極的に説明してたわ

やっぱり親子だなァと思った

半年前に会った時より さらに義母の耳が遠い
義父も ヨチヨチ歩きがおぼつかない

今年は考えなくちゃなあ・・と思う


私の両親も 主人の両親も 奇遇にも戦後外地からの引き揚げ者だ。
うちの両親の話は 結構聞いていたけれど
義実家の両親の話は ほとんど聞いた事がなかった

で 主人が今回 義母に聞いてみた
「引き揚げは大変だった?」


義母は唐突に聞かれて ビックリはしていたけれど 今までになく話してくれた
義母と義父は遠戚関係だったこと
小さい頃から知っていたけど 義父が義母に恋したこと
義両親共に 朝鮮で育ったこと
義父の父は 今のソウル大学の前身 京城大学の教授をしていたこと

義母の父は 満州鉄道に勤めていたこと
だから引き揚げてくる20歳までは日本を知らなかったこと

終戦間近には 今までいばっていた軍人達は なぜか最初に逃げていったこと
残ったのは 民間人や教育関係者らだった
残った若い兵隊さんは シベリアに連れて行かれた人も多いらしい

ある日 終戦になったけれど
日本人を襲撃 略奪などがあったわけでもなく 怖いと言う感覚はなかったと言う
ただ お屋敷や土地 財産は 明け渡さなくてはならなかった
が とりあえず 引き揚げるまでは追い立てるわけでもなく 見守ってくれたと思うって
それまでの京城(今のソウル)では 朝鮮人と日本人との関係はわだかまりはあったろうけれど
共存共栄 学問や仕事では尊重し合っていた
京城大の学生が 日本の京大や東大へ留学したりもしていたし

義母の勤めていた化学学校でも上司は朝鮮人だったし
お正月などは その上司が部下の朝鮮人、日本人を家に招いてくれて
ご馳走をしてくれたりして 和気藹々だったとのこと


一応国家公務員に準じていたので 割合に早めに釜山港まで引き揚げるための列車には乗り込むことができたらしい
きっと奥地の満州の人は もっと大変だったろうって

で 手に持てるくらいの荷物だけ
日本に到着するまでの食料も持たなければならないから 思い出の品や財産はほとんど持って帰れなかった

それでも 日本での生活のためにとタイプライターをやっと持ち帰ったのに やっとたどり着いた日本の博多港で 日本人に盗まれたのだって
朝鮮でさえ 略奪されなかったのに・・・・

数ヶ月かかって やっと本籍のある地に戻って親戚に遠慮しながら生活を立て直したんだそうだ

義父は 日本に来ていて大学生だったけれどいよいよ学徒動員で もう一歩で戦地へ送られる寸前で終戦だったそうだ
くわしいことは けっきょく義父からは聞けず終いだった

でも 義母からいろいろが聞けて良かった

主人も初めて聞いた両親の話

そうやって 踏ん張って生きてくれたおかげで 主人がいる

私の両親も 引き揚げ者だから全てを捨てて無一文で帰って来たのだから苦労をしてきたんだろう

そうやって 年老いた今があるんだな

遠いようで ついこの間の戦争だ






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最終更新日  2011.01.10 23:43:56


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