コーチンのNY日記

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Deafな人々について・・・。

Deafな人々について・・。


今日、ASLのクラスは初めて授業中に話してもいい時間でした。
いつもはクラスで話す事は厳禁です。もちろん手話を習っているのであたりまえですよね。
なぜ今日は話してもよかったかというと、手話通訳を通して先生にdeafについていろいろ聞く授業だったのです(先生はdeafです)。
それも踏まえ、僕なりの「deafに関する思い」をせっかくなので書き綴ります。

アメリカに来て早3年。まだまだ短いかもしれませんが、僕のちっぽけな価値観を変えるには十分な期間が過ぎました。
実際に、色々な人、文化や物に触れて物の見方も変わってきたと思います。
その中でも一番衝撃を受けたのはやはりアメリカのdeafな人々です。

正直に話すと、はじめは耳が聞こえない人を見ると
「かわいそう。」とすこし同情が入ったような視点で見ていました。
しかし、今現在、そんな気持ちはまったくありません。
先生はこう言いました。
"We (Deaf People) can do anything!"

「私たち(耳が聞こえない人)はなんでもできる!」

実際に僕の先生は$8000を使って世界中を4年間旅行しました。
飛行機の免許も持っています。大学を卒業していろいろな学校でASLや社会学を教えてきました。そして今は僕の行ってる大学で11年間目の教師生活をおくっています。
先生は「私はただの教授だよ。」と言いますが。
噂によるといろいろなことをやってきたらしいです。
とにかく、ここまでの人に「かわいそう。」と思うことは確実に変です。
むしろ・・・羨ましい。そんな人生めちゃくちゃ楽しそうじゃないですか。
同情の気持ちがなくなっただけでも、僕自身、相当変わったと思います。

日記にも書きましたがこちらのdeafな人々はdeafである事にプライドを持っています。しかも並大抵のプライドではありません。
僕の見たビデオでこんな会話がありました。
A「もしも奇跡的に耳が聞こえるようになる薬があったらどうする?」
B「私はいらないわ。今更、耳聞こえたって社会に入れる気がしないし。それに、deafコミュニティーにいれなくなるのはいやだしね。」
衝撃でした、耳が聞こえないなら聞こえるようになりたいものだと思っていたのですが。こちらのdeafな人々はそんなことこれっぽっちも思っていません(すべての人ではありませんが)。
彼等はASLやdeafカルチャーを誇りに思い、そしてそれを犠牲にしてまで耳が聞こえるようになりたくはないのです。
「耳が聞こえない事」はすでに「障害や病気」ではなく「文化」なっていることは、僕にとって興味本位で受けたASLの授業を本気で続けようと思わせた要因です。

日記で書いたことも反復していましたが、僕が久々に結構燃えてる加減が伝わったと思います。短いですが今回はこの辺で・・・。

最後に、僕は耳が聞こえない人を「聴覚障害者」と呼びたくはありません。
文化を障害と呼ぶことほどdeafな人々にとって屈辱なことはないと思うのです。
なので僕のサイト内では「deafな人(耳が聞こえない人)」と呼ぶようにしています。

彼等にとって耳が聞こえないことは障害ではない、

人々に彼等が障害者と思われていることが障害なのだ。

これは僕がたまに行くdeafコミュニティーについての学校の掲示板に書いてある言葉です。
04/13/05

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