2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全31件 (31件中 1-31件目)
1
小椋佳というのは、タイトルを見ただけでいいなあと思う歌を作る人だな。今日は、こんな気分でちょっと幸せになりたいという感じでこの歌にした。でも、残念なことにこの歌の歌詞は<うたまっぷ>では検索出来なかった。知らない人は、このタイトルからいろいろと想像してもらおう。「ただ」という言葉にはいろいろな意味が込められているだろう。人間にはたくさんの悩みがあるし、つらいことや悲しいことの方が、その反対の楽しいことよりも多いかもしれない。そういういろいろな想いが頭を駆けめぐるときに、煩わしいことをすべて忘れて、ただ「お前」のことが頭に浮かんできて、それだけが頭を占めている時を感じる、その瞬間の幸せが伝わってくるようなタイトルだ。こういう「お前」が一人いるということが、たぶん人間にとっての最高の幸せなんだろう。欲張りな人は、たくさん欲しいと思うかもしれないけれど、一人だけでもいればそれは奇跡といってもいいくらい幸せなことだと思う。タイトルだけではイメージがわかない人のために少しだけ引用しよう。 また逢う約束など することもなく それじゃまたなと 別れるときの お前がいいとても平凡なシーンの「お前」がいいといっているようだけれど、こんななんでもない場面でも、やっぱり「お前」がいいんだといっているように僕には聞こえる。ロマンチックなシーンの、輝くように美しく見えるときの「お前」だけじゃなく、ごく普通のなんでもないときだって、「お前」が「お前」であるならば、なんていいんだろうという感じだ。だから「ただお前がいい」んだろうなと思う。いい気分の歌だ。
2003.01.31
コメント(13)
高木麻早は、僕の親友が好きだった。それで当時新宿にあったライブハウスに見に行ったことがあった。「夢のバラード」という歌を歌っていた頃だっただろうか。ライブハウスは、身近で見られるのでなかなかよかった。高木麻早は、高音の細い声が実に女っぽく感じる歌手だった。その高木麻早の<Take a Ten>というアルバムに入っているのがこの歌だけれど、最近なぜかこの歌が気に入ってしまった。詞を改めて読み返してまたもっと気に入ってきた。<うたまっぷ>で検索出来ないのが残念だ。この歌では、「風の色は何色?」と問いかけているけれど、目には見えない風の色を見るのは、ノーミソの中の目で、想像力という力を使うというところがまず気に入った。風の色は何色に見えるかな。この歌では、 水色、緑、灰色、バラ色、広い海の青さと問いかけている。水色や緑は、何か爽やかな感じを与える。水も緑も生命の源という感じがするものね。灰色に見えるのは、心が沈んでいるときかな。でもバラ色に見えることもある。心の持ち方で見え方が変わってくるんだろうな。色のないものをノーミソの目で見るから、ノーミソの調子で変わってくるわけだ。青に見えるときは、わざわざ広い海のという言葉をつけた青に見えるようだ。何もかも包み込んでくれる、優しい海の青さに見えるときは、きっと気持ちも落ち着いているんだろうな。このところの風は冷たくて厳しい色に見えそうだけれど、やっぱり優しい風を見たい感じがするから、僕は海の青さの風を見たいかな。歌は、最後に、「風は空の旅人」と歌っている。風に乗って世界中を巡っていくという感じがする。そして締めくくりの詞がまたなかなかすてきだ。今日はそこを引用しよう。 形もない風だけれど そんな風に想いを寄せる 愛と希望に燃えながら 夢と幸せ運ぶ 風は空の旅人 世界中を巡るメロディーも楽しい気分を感じさせてくれるような軽快さがあり、風に乗ってどこまでも飛んでいく姿を想像して、そこから世界中に愛と希望に燃えながら夢と幸せを運んでいたら、きっと楽しそうだね。この歌がこんなに爽やかな歌だということをつい最近知った。CDを持っていたんだけれどね。だから、これは懐かしのと言うよりは、再発見したフォークソングの名曲かもしれない。
2003.01.30
コメント(2)
この歌を<うたまっぷ>で検索したけれど見つからなかった。それは残念だけれど、今日はこの歌にしたい。この歌を聞いて、僕がなぜ中島みゆきが好きなのかが分かってきたような気がしたからだ。この歌はとても悲しい歌だ。その悲しさは、「ノルウェイの森」を読んだときの悲しさににているような感じがする。タクシーの中で、にぎやかさの中から抜け出してきた孤独な女性の独白のような感じで展開されるこの歌だけれど、孤独であるが故に、にぎやかな席では必要以上に陽気に振る舞ってしまうということが、この女性の孤独をいっそう感じさせる。特に悲しみを誘うのは次のようなセリフだ。 だけどあたしはもう行くところがない 何をしてもしかってくれる人がいないこのセリフからは、限りない孤独感というものが伝わってくる。本当に誰もいないんだろうか、ということに限りなく同情感がわいてきてしまう。こういう人がいたら、僕はこのセリフだけで一目惚れしてしまいそうだ。僕は、ほとんどすべての女性に魅力を感じることが出来る便利な男なので、たぶん一目惚れはたくさんあると思うんだけれど、そこを一歩踏み出して恋になるまでは時間がかかる。一目惚れした相手に恋をしないように、むしろ気をつけているという感じもあったりする。僕は、返ってこない気持ちを捧げ続けるのはきっとつらすぎると思って、返ってきそうだと思ってようやく恋心を自分で認めてやれるのかもしれない。中島みゆきが「タクシードライバー」で歌っているような女性は、本当に誰もいないのなら、想いを捧げれば僕にもその気持ちが返ってくるんじゃないかと思えるのかな。それで、中島みゆきが好きなんじゃないかと思った。僕は女じゃないから、中島みゆきにそのまま感情移入は出来ないんだけれど、こういう人がいたらというあこがれのようなものがあって好きなのかもしれない。「ノルウェイの森」のワタナベ君は、彼を巡る女性たちにとって、ただ一人だけ必要な男だった。そういう男に対するあこがれからも、僕があの小説に入り込めた理由があったような気もする。その孤独を救う人が誰もいないとき、その位置に僕がいることが出来たら、僕の理想の「寄り添う」ということが実現出来そうな感じがして、たぶんこんな歌を歌う人が僕の理想だったんだろうな。それで中島みゆきが好きだったに違いない。
2003.01.29
コメント(7)
今日は久しぶりに長渕剛を選んでみた。初期の長渕剛は、高温のファルセットが哀愁を誘うような響きがあり、切ない歌を聞くと何とも言えない気分になったものだけれど、この歌は切ない歌じゃなくて、明るい希望に満ちた歌だ。<うたまっぷ>にも歌詞があったので、その明るさを味わってもらえるかもしれない。この歌詞で引用したい気に入っているところは、 この僕の想いよ君の街まで吹いて行け そして君の胸に突き刺され 今 風は南から南からの風に乗せて、暖かい気持ちも君の胸に届くようにという願いが爽やかというか、可愛い感じがする。穏やかな愛がゆったりとしたメロディーに乗せられて、静かに届くという感じがいい。歌い出しの詞も、自分の中にある希望と愛することの喜びにあふれているようで、とても心が温かく豊かになってくるように感じる。自分が本当に南の風に乗って空を泳いでいるような、屋根を見おろしているという感じがいいね。朝の光や白い鳩というイメージも、美しさや希望を感じさせてくれる。大地にしっかりと立ち、両足をしっかりと踏みしめ、じっと静かに待つという気分は、相手に対する大きな信頼感を感じさせて、これもいい気分だね。本当に希望が叶うという感じがする。とても気分のいい歌だ。やっぱり切ない歌よりもこういう気分のいい歌の方が、日記に書くには書いている方もいい気分になれるね。
2003.01.28
コメント(9)
グループサウンズファンのゆめんこさんに訪問してもらったので、久しぶりにグループサウンズネタで書いてみよう。たまたま図書館でゴールデンカップスのベスト盤も見つけたことだし。僕はゴールデンカップスの「長い髪の少女」が好きだったんだけれど、このベスト盤を聞き返したら、この曲がとても気に入った。おまけに<うたまっぷ>に歌詞も出ていたので、今日はこの歌で行ってみよう。この歌が気に入ったのは、今聞き返しても全然古くさい感じがしないんだ。そのままリメイクしてもいいくらいの感じがする。なかにし礼の詞も鈴木邦彦のメロディーもなかなかいい。二人とも、グループサウンズの時代のヒットメーカーだったな。ディブ平尾のボーカルのすばらしさは「長い髪の少女」の方が感じるかもしれないけれど、曲としてはこっちの方がなんか気に入ったな。ちょっと引用したいすてきなセリフは 僕の魂 君に上げよう うちひしがれた 心に勇気を 与えてくれたこの歌は歌詞は短いんだけれど、どれもすてきな言葉に満ちている感じがして、なかにし礼はやっぱりうまいなと感じる。最初の「悲しいほどに愛している」というセリフもいいんだけれど、「心に勇気を与えてくれた」という感じの方が、何か好きな感じだな。「悲しいほどに」というのは、心にジェラシーが入ってきたり、想いのすべてが伝わらないというようないろいろなことがあるんだろうな。でも、「心に勇気を与えて」くれれば、何があっても希望がもてるという感じがあっていい感じだ。「僕の魂」をあげるということが「僕のすべて」をあげるということだというのも、その通りだなと思えて気持ちがいい。グループサウンズのかっこいい男の子たちに、こういうセリフを言ってもらったら、あのころの女の子たちはみんなうっとりして聞いていたんだろうね。とてもきれいな言葉がちりばめられた歌だと思うんだけれど、今の若い女の子は、こういうセリフはどうなのかな。僕は全然古くさいとは感じないんだけれどな。
2003.01.27
コメント(6)
この前図書館でトワ・エ・モワのベスト盤を見つけた。僕は一時期トワ・エ・モワが嫌いだったのでベスト盤を手にすることがなかった。「歌の下手なフォークシンガーと一緒にされたくないので、自分たちをフォークシンガーと呼ばないで」というようなことを言っていたと聞いたことがあったからだ。歌がうまいかどうかだけで歌手の価値を云々するなんて芸術家らしくないと思い、フォークソングのすばらしさを分からないやつだと思って嫌いになった。でも、マスコミの伝え方なんていい加減なものだから、本当はこんなことを言ったんじゃなかったのかもしれない。挑発的な言葉を引き出そうとして変な訊き方をしたのかもしれないな。改めて歌を聞き返すと、なかなかいいものね。この歌は<うたまっぷ>でも検索出来るので、全文を知りたい人は検索してもらうといいかな。この歌では、「死にはしない」という言葉が繰り返されている。1番では「つらくても」、2番では「寂しくても」、3番では「一人でも」、とそんな心の中にあっても「死にはしない」と自分に言い聞かせている。つらいとき、寂しいとき、孤独なとき、ふと死の誘惑が訪れるのかもしれない。むかし実存主義にかぶれたときに、キルケゴールの「死に至る病」という本を手にしたことがあった。死に至る病は絶望のことだと思った。僕が自殺ということを考えることが出来ないのは、たぶん僕は絶望しきることが出来ない人間だったからだろうと思ったものだ。どこかで希望を感じてしまう。秋は、寂しさや孤独を感じるにはぴったりの季節だけれど、海や砂や空は、美しさの象徴でもあり、自分を包み込んでくれるものの仮の姿なんだろうな。その暖かさの中に包まれていれば、つらさや寂しさや孤独があっても絶望の中に深くはまりこまなくてもすむのかもしれない。だから、「死にはしない」と約束出来るのかもしれないね。僕は、高校生の時に、世界史の先生からの宿題でレポートを書くために「ブラザーサン、シスタームーン」という映画を見に行った。これがものすごく気に入って、数学以外で学校で勉強したなと思ったのはこの世界史くらいだった。これは、イタリアのアッシジの聖人フランチェスコの半生を描いた物語だったけれど、この映画で僕はすっかりキリスト教が好きになってしまった。その後聖書を読み、遠藤周作のキリスト解釈を知ってから、イエスというのは、どんなにひとりぼっちだと感じるときも、決して自分を見捨てることがなく、いつまでもそばに寄り添ってくれる存在なんだと思った。信じさえすれば、絶望から救ってくれる、それがイエスの奇跡であり、神であるという証拠なんだと思った。僕が感じた、このイエスのような存在が、この歌では海だったり砂だったり空だったりするんだろうな。本当は、それが生きている誰かだったら、もっと救われるんだろうけれど、人間が相手だとそこにはやっぱりジェラシーが入ってきてしまって、最後まで寄り添ってくれるという確信を持つのがしにくいのかもしれないな。僕は若い頃教会にも通ったけれどクリスチャンにはなれなかった。イエスを神として受け止めきれなかった。どこまでも寄り添ってくれる存在には感じたけれど、僕にはそれはこの世でもっともすばらしい、やさしい「人」にしか思えなかった。こんな人はもう二度と現れないかもしれないけれど、かつてこの世にいたということが、僕が絶望の中に浸りきれないで、どこかで希望を感じてしまう源かもしれない。僕は、イエスのようにすべての人の絶望を救うために寄り添うことは出来そうにないけれど、誰か一人の絶望を救うことだったら出来るかもしれないなんて思ったりする。誰か一人くらいだったら、絶対に見捨てることなくいつまでも寄り添えそうな気もするんだけれどな。神ではない人間にだって、それくらいなら出来そうなんだけれど。
2003.01.26
コメント(19)
今日は久しぶりにビートルズ関連で、ジョンのこの歌を選んでみた。嫉妬心というものを考えてみたいと思ったからだ。嫉妬心は、ある種の醜さがあるものの、多くの歌にされていて、たぶん人間にとっては普遍的な感情なんだろうと思う。僕は、この感情が自分にはきわめて少ないといつも思っていた。だから自分が立派な人間だと思っていたわけじゃない。むしろ反対に、自分はきっと冷たい人間なんだと思っていた。本当には人を愛することが出来ない人間だから嫉妬心もわいてこないんだと思っていた。「ノルウェイの森」のワタナベ君が自分と重なって感じられたのは、ワタナベ君も、嫉妬心の香りのしない人間だったからだ。ジョンのこの歌を聞くと、素直に自分の嫉妬心を告白出来ることに憧れる。僕には告白したい嫉妬心の自覚がないから、素直になっても告白が出来ない。本当はあるのかもしれない。ただ自覚していないだけなのかもしれない。でも、そうだったら、その方がうれしいと思うくらい、僕は嫉妬心の自覚がないことが寂しかった。嫉妬することも出来ないくらい心が冷めているのかなと、そんなふうにしか思えなかった。ワタナベ君は、どうして嫉妬心が生まれてこないのかを考えていたら、彼は相手の存在を自分のものとして確信したことがなかったんじゃないかというような気もしてきた。僕も、相手を尊重したいという気持ちが強すぎるためなのかどうか、相手が自分のものになったという瞬間が感じられなかった。自分のものでもない相手に嫉妬心を抱くということに躊躇する気持ちがあったんだろうか。嫉妬させてくれるくらい愛されていると感じさせてくれる人に巡り会わなかったのかな。嫉妬心は僕にとってはあこがれだから、中島みゆきの歌なんかにも惹かれるのかもしれないな。嫉妬に苦しむ姿を自分で感じられたら、僕ももっと人間的になったと思えるのかもしれないな。一人を愛することが出来なかったから、人類全体なんてのを愛そうと努力したのかな。人類のすべてを愛したら、嫉妬する相手はいなくなっちゃうものね。この歌の今日の引用は、まず次のところだ。 I was feeling ensecure (僕は不安だった) You might not love me any more (君がもはや僕のことを愛していないんじゃないかと感じて) <ジョン・レノン詩集「イマジン」平田良子・訳より>こんな気持ちになってみたかったな。不安を感じる前に、まず自分のものになったという気持ちにならなければならなかったんだけれど、どうしてもそれが出来なかった。だから、不安にもならなかったし、嫉妬も感じなかった。そして、最後にこんな風にささやいてみたかったね。 I’m just a jealous guy (僕はよっぽど嫉妬深い男なんだ) Watch out, I’m just a jealous guy (気をつけた方がいいよ 僕は嫉妬深いやつ) Look out, babe, I’m just a jealous guy (用心した方がいいよ 僕はとても嫉妬深いやつなんだ)
2003.01.25
コメント(10)
今日は久しぶりにオールディーズを選んでみた。エルヴィスは、ロックンローラーとして偉大な影響を与えたと思うけれど、僕はなぜかスローバラードにうっとりすることが多い。この歌なんかは、詞もメロディーもシンプルなのに、最高にセクシーでうっとりする。この歌は、邦題では「やさしく愛して」となっている。この歌から浮かんでくる連想は、今日は「やさしい」ということだろうか。「やさしい」ということは、今日いちばん求められているものかもしれない。でも、「やさしさ」というのはいろいろなイメージがあるから、それぞれが思い描いている「やさしさ」には微妙な違いがあるんだろうな。僕が思い描く「やさしさ」は、「深い理解」ということだろうか。何かをしてあげることだけがやさしさではないような気がする。何も出来なくても、ただひたすら深く理解すること、それがいちばんのやさしさであるようなイメージがあるな。だから、僕は同情というのも悪くないと思っている。同情だけでは何にもならないと言う人もいるけれど、同情すら出来ない人が多いんだから、同情できるだけでもやさしさを見せてくれていると思う。同情し、理解することから始めなければ、そのあとの行動が始まらない。同情なしの行為は、もしかしたら独りよがりのお節介になるかもしれないからね。同情が、ただ自分の心を満足させるためのものではなく、相手と同化し、相手の気持ちを同じように感じて、深く理解するための一歩なら、同情も悪くない。久野収さんが、ある翻訳書で、「心理学は、貧しい人々がなぜパンを盗むかではなくて、なぜパンを盗まないかということを解明しなければならない」というようなニュアンスのことをどこかで書いていた。貧しい人の大部分は、パンを盗んでも仕方がないような境遇にいるのに、なぜパンを盗まないか、それが分かれば人間への理解が深まるだろう。そして、人間に対してやさしくなるに違いない。愛するということが、元々が相手をどこまでも理解し相手に対する関心をずっと持ち続けることのようにも思えるから、たぶん本当に愛していればやさしくならずにはいられないんだろうな。だから、「やさしく愛して」というのは、「本当に愛して」ということと同じなんだろう。この歌は、全部が甘い言葉でうっとりするんだけれど、特に好きなのは、次のところかな。 Love me tender, love me dear Tell me you are mineやっぱり最後は、この言葉を聞きたくなるかな。相手を縛り付けたいわけじゃないけれど、独占されてもいいと思ってくれたら、やっぱりうれしくなるだろうな。
2003.01.24
コメント(8)
今日も吉田拓郎の歌になっちゃったけれど、二十日に見た再放送の<吉田拓郎デラックス>では、拓郎がまた岡本おさみとの仕事をしているという話に続いてこの歌が演奏された。昔聞いたときはさほどインパクトを感じなかったのに、二十日に聞いたときは、この歌がこんなにいい曲だったかと再発見をしたので、ちょっと日記に書き込みたくなった。この歌は「君が好きだ」というのを何回も繰り返すんだけれど、そこのところをちょっと引用しよう。 こんな暇つぶしの午後に 君が好きだ …… そんな疲れやすい午後に 君が好きだ …… こんな暇つぶしの夜に 君が好きだ …… そんな寂しい夜に 君が好きだ暇だったり、寂しかったりすると「君が好きだ」と言いたくなる気持ちが、なぜか実感を伴ってわかるようになって、この歌がとてもいい感じだというのを再発見した。若い頃は、こんな気持ちが本当にはわからなかったんだな。暇だったり、寂しかったりするから君のことを思い出すというんじゃないんだな。君のことは四六時中思っているんだけれど、暇だったり寂しかったりすると、ほかに思い煩うことが頭から全部消えてしまうから、君のことだけが頭の中に残ってしまう。だから、思わず「君が好き」とつぶやきたくなる。そんな印象を受けた。僕は、若い頃に肉体労働をしたいと思ったことがあった。体を使う仕事をしていると、体の使い方に気持ちを集中しなければならない。だから、他のことが心を占めなくなるだろうと思った。頭に余裕があると、すぐに哲学的な思いが頭を駆けめぐってしまうからね。「君が好き」という気持ちも、暇だったら四六時中その思いが頭を駆けめぐってしまう。そうすると恋煩いなんてものにかかったりするんだろうな。適当に忙しければ、この病気が進むのを防げるようだ。そして、ちょっと暇になると、この歌に歌われているように、喫茶店にいたり、街を見下ろしたり、ワインを飲んでいるときに、ふっとこの気持ちが心を全部占めるときが訪れ、つぶやいてみたくなる。その気持ちがなかなかいい感じだ。
2003.01.23
コメント(8)
「ノルウェイの森」を読み終えた。これは、とても深い悲しみの物語だ。僕は、灰谷健次郎の「兎の目」を読むと、いつも同じ場面で涙が出てしまう。それは、何度も読んですでにストーリーを知っているにもかかわらず、やはり感動してしまうので涙が出てしまう。僕は、感動したときに一番涙が出てくる。悲しいときには、ほとんど涙は出てこない。でも、この物語で、初めて悲しくて泣きそうになった。それくらい、この物語は、悲しさを心の底から揺さぶるように伝えてくる物語だ。ピリオドを打つことができなかった恋心は、相手の存在が消えてしまうことによって、それをどこにも持って行きようがなくて、どこまでも引きずってしまうことになる。生き残った人間は、それをいつまでも覚えておくことしかできない。その悲しみがワタナベ君を通じて伝わったくる。「私をいつまでも覚えておいて」といった願いは、悲しい形で実現することになってしまったわけだ。楽しいことというのは、月日がたつと色あせて感動が薄れてしまうけれど、悲しみはどうして強い印象を残したままいつまでも消えないんだろうと思う。悲しみを背負う人間が、誠実な人間であればあるほど、それは消えずに残るというのも不公平なものだ。あまりに強い悲しみは、共有することができないし、共有しても少しも減ることがない。無限大は、2で割っても3で割っても無限大のままにしかならないようだ。そんな印象を与えてくれる物語だった。ワタナベ君が、物語の冒頭で、「ノルウェイの森」を聞いて感情が揺さぶられ泣いてしまうシーンが、最初は違和感があったけれど、この物語を最後まで読んで、泣いてしまったのがよくわかった。泣かずにはいられないだろうというのがよくわかる。それほど大きな悲しみを感じさせる物語だ。僕がこれまで読んだ悲しい物語は、悲しさよりも感動の方があとに残るものばかりだったけれど、これは、悲しみが大きすぎて、感動の方を忘れてしまう、そんな物語だった。
2003.01.22
コメント(3)
昨日は、NHKのハイビジョンで、去年の暮れにやった拓郎のスタジオライブの再放送をしていた。去年は録画に失敗して、その失敗したものも再インストールで消えてしまったので、今度は失敗しないように構えていたのだが、また失敗してしまった。NHKが放送時間をずらしたために、今度は最後の「人生を語らず」が切れてしまった。これからの教訓だな。始めと終わりを10分くらい余裕をみて録画しなくちゃいけないというのは。ちょっと残念だったけれど、この程度のことで落ち込んではいられない。拓郎の歌を選ぼうとも思ったけれど、この前選んだばかりなので、今日はさだまさしのこの歌で連想がわいてきた。でも、これはグレープ時代のアルバム曲なので、知っている人は少ないかもしれないな。印象的なフレーズからの連想だけで味わってもらえるだろうか。それは、次のセリフだ。 あなたが嫌いになったわけではありません あなたより好きな人ができただけのことですこのセリフは、言う方も言われた方もつらいけれど、もしも気持ちを正直に言えといわれたら、仕方がないことじゃないかなという連想が浮かんできたりした。嫌いになるという気持ちは、かなりインパクトの強い気持ちなので、それはもしかしたら「好き」の裏返しなのかもしれない。好きになるのがいけないと思うか、好きという気持ちを認めたくないので「嫌い」が芽生えるのかもしれない。だから、嫌いになったわけじゃない、という言葉にもうすでに「好きではなくなった」という気持ちが隠れているような感じだ。このセリフは、言う方と言われる方と、どっちがつらくて傷つくだろうか。普通は言われる方が傷つきそうだけれど、言われた方の悲しみや傷は、共感して理解しやすい。同情もできる。だから、時間さえあれば何とか癒されることも可能じゃないだろうか。でも、誠実な人間は、もし言う方の側になってしまったらずっと引きずって生きていくことになるだろうな。でも、それが正直な気持ちなら仕方ないとも思える。誠実であれば、そう言わざるを得ない。灰谷健次郎の「兎の目」に出てくるバクじいさんは、裏切る人間と裏切られる人間のどっちがつらいかということを考えさせてくれた。裏切られる人間の方にいつも正義はある。だから、裏切られた傷はやはり時間が癒してくれるような気もする。バクじいさんのように誠実な人間は、運命が裏切りをさせてしまったときに、誠実であるが故にその後の一生をそれを引きずって生きる。引きずって生きることが誠実さの表れであることがよくわかる。誠実な人間は、裏切ったことを忘れることはできないんだ。たとえそれが自分の責任ではなくても。誠実に生きるというのはつらいことだね。悲しみや不幸をよりたくさん感じなければならなくなる。でも、大部分の人は誠実に生きてしまうんだろうな。だから、悲しい歌の方が共感を呼ぶんだろうか。
2003.01.21
コメント(10)
猫のゆりかごさんのところで村上春樹の話題で話をしていたら、買っていながら読んでいなかった本を読みたくなった。村上春樹は、河合隼雄との対談を読んでからおもしろい人だなと思って、「ねじ巻き取りクロニクル」を読んだ。これもとてもおもしろいものだった。それで、何冊か買ったんだけれど、それ以後はなぜか読まずに積んでおくだけだった。今回、きっかけがあって読んでみたんだけれど、この年になってもまだ夢中になれる新しい本があるのがちょっとうれしかったな。まだ2冊あるうちの上巻を読み終えて下巻に入ったばかりだけれど、久しぶりに一気に読めそうな本に出会った。半分を読み終えた感想としては、主人公でもあるワタナベ君への感情移入がだんだんと深くなっていくのを感じる。読み始めの頃こそ、今の僕とは違うので、冷静に外から眺める感じだったけれど、あるセリフからほとんど一体になるような重なりを感じて、深く感情移入ができるような気がした。それは、ワタナベ君にとって最も重要な女性の一人である直子の次のセリフを読んだときだった。 「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」 「私たちみんなどこかでねじ曲がって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間なのよ。私もキズキ君もレイコさんも、みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きにならないの?」僕も、ワタナベ君と一緒で、世間でまともでないと見られている人の方がまともで、世間でまともだと言われている人の方が本当はまともじゃないと思っている。だからこのセリフで、ワタナベ君がぐっと身近に感じられるようになった。ここに登場してくる人たちは、それぞれが自分の存在を希薄にしか感じられない人たちばかりだ。どんなにすばらしいものを持っていても、それが自分の支えにならない。彼らは、すばらしいものを持っていればいるほど、周りの期待に応えようと大きなプレッシャーを受けながら生きている。その周りの世界を断ち切ってしまいたい心から逃れることができないでいる。ワタナベ君は、自分をごくふつうの人間だと思っている。周りの期待というプレッシャーがないので、彼は存在そのものが希薄であっても、周りの世界から逃げないですんでいる。誰からも放っておいてほしかった僕の若い頃を思い出してしまいそうなくらい、ワタナベ君を身近に感じてしまうところだ。そして、自分がそういう特別な人間という意識が薄かったからだろうか、そういう意識の人間に引きつけられてしまうのは。人間が、生きていると感じる気持ちの危うさというものを、この物語からは感じる。孤独でありながら孤独でいられない人間の悲しさとでも言うんだろうか。僕は、今の状態は、この物語の登場人物のような危険な状態ではないけれど、人間の心は、いつでもこんなもろさを持っていると思う。河合隼雄さんがこの人に注目したわけというのが少しわかったような気がした。ラストまで読み終えるのが楽しみだ。
2003.01.20
コメント(6)
合同文化祭を終えて帰ってきました。昨日の夜に、どうにかインターネットだけはできる環境を作っておいたので、日記だけでも書いてから、ソフトウェアのインストールをしようかなと思ってます。僕は、外を歩くときは、MP3プレーヤーで音楽を聴きながら歩いているんだけれど、今日はその中から選んだのが拓郎のこの歌。拓郎の歌は、詩を読み返すといろいろな想像がわいてくるから、どうしても選ぶことが多くなるな。これも<うたまっぷ>にあったけれど、今日はとても込んでいて、出すまでに時間がかかった。まずは最初に耳に残ったのが次のフレーズ。 いいさ落ち込んでだれかを傷つけたいなら 迷うことなくぼくを選べばいい人間というのは、何かいやなことがあったり、心が騒ぐことがあると、そのはけ口を求めたくなる。たいていは自分よりも弱い存在に八つ当たりをしたりして、それがいじめになることが多い。いじめる側の問題は、彼らが、自分の気持ちを自分で処理できないということに僕はあると思っているんだけれど、とにかく人間というのは、そういうストレスの処理の仕方が下手だ。これだけ科学が進歩してもそれだけはうまい方法が見つからない。落ち込んで誰かを傷つけて自分を守りたいと思うときは誰にでもあるだろう。そんなときに、僕は好きな人にはほかの人を傷つけてほしくないとも思う。誰かを傷つけるなら、それは自分を選んでほしいとも思う。好きな人に傷つけられるのなら、それで死んでしまうということはない。その傷は、その人の悲しみみたいなものだから、同じ気持ちで悲しみを共有できると思えば、それも悪いことじゃない。目をつぶって走るのは勇気とは思わないけれど、君のためにそこまでできるんだよという気持ちを伝える言葉としては悪くないかもしれない。そして きみのためにできることを あれからずっと探してるというのはいい感じだな。好きな人に対しては、こんなふうに思いたくなる。自分にできるすべての事をしたいと思う。何一つやりのこすということをしたくない感じだ。これは、心からしたいと思うことなので、やらせてくれることがうれしいというか、好意を受けるということは、最高のやさしさのように見える。好意を受け取ってもらえると、次の歌詞にあるようなこんな気分になるんだろうな。 全部だきしめて きみと歩いて行こう きみが泣くのなら きみの涙まで 全部だきしめて きみと歩いて行こう きみが笑うなら きみの笑顔まで泣くのも笑うのも、自然のままに一緒に歩いていけたら、いい気分だろうね。そんないい気分にさせてくれる歌だな。帰りの電車で、こんなことを考えながら帰ってきた。僕は、歌を聴きながら想像の世界で遊べるので、電車の中でも退屈しなくていい。
2003.01.19
コメント(8)
今日<うたまっぷ>で検索して見つけたのは、懐かしの歌謡曲になった。一時期、カラオケに行くと歌うのはこの歌という時期があった。僕は、一応下手の横好きではあるけれど、ギターだけは弾けるようになっていたけれど、自己流の大した腕じゃないから、楽譜がないとどのコードを押さえたらいいのかさっぱり分からない。ピアノが弾ける人は、楽譜なんかなくても、音を聞き取って弾いてしまったり出来るので、ずっとうらやましいと思っている。もしもピアノが弾けたら、本当の自分の想いを歌にすることが出来るんだろうなと思っていたものだ。映画の「海の上のピアニスト」を見ていると、主人公の想いがその手に乗り移って鍵盤をたたいているようにも見えた。ギターだってそういうことが出来ると思うけれど、ピアノの方がよく似合いそうな感じだ。君に聞かせる気持ちが、一番では、自然のままにという感じで、風や雨やお日様に気持ちを託してという感じがする。自分の気持ちが、自然に現れてくるというのが、「雨が降る日は雨のよに」という言葉に表れているような気がする。それに対し、2番では、 人を愛したよろこびや 心が通わぬ悲しみや おさえきれない情熱やというふうに、自分の内面に向かって表現したいものが向いているような気もするな。愛することは喜びではあるけれども、それがなかなか伝わらないもどかしさが、一つの悲しみでもある。心というのは直接見ることも触れることも出来ないから、間接的に、何を通じて伝えるかということに心を砕かなければならない。抑えきれない情熱があったら、本当にもどかしくなってしまうだろうな。今でも僕はピアノが弾けないけれど、誰かが、今度は僕のためにピアノを弾いてくれないかなとも思う。僕が弾けないのなら誰かが代わりに弾いてくれると嬉しいんだけれどな。「もしもピアノを弾いてくれたなら」という感じだろうか。ステキな夜を過ごせそうな感じがする。
2003.01.18
コメント(10)
僕には、14才になる息子がいる。この歌は「お前が二十歳になったら」というフレーズを繰り返すんだけれど、それを聞くたびに、僕も「お前が二十歳になったら」ということを想像する。僕は、特にそんなふうに育って欲しいと思って育てたわけじゃなく、ほとんど放任していたんだけれど、自分が子どもの頃の感じとよく似ているような気がする。この歌では、「男は生意気くらいがちょうどいい」といっているけれど、僕の子どもの頃も、僕の息子も、全然生意気じゃなかった。その代わりにとっても頑固だったけれどね。これは、もしかしたらトランペッターの親父から受け継いでいるものかもしれないな。僕は、ほとんど手がかからない子どもだった。放っておけば一人でいつまでも遊んでいるような子どもだった。自分だけの世界にいるときは、完全な自由を感じていて、好きなものだけに没頭していられる子どもだった。だから、好きじゃないものはほとんどやる気がしなくて、もしそれをやるように干渉されたら、ゆがんだ育ち方をしたかもしれない。幸いなことに、両親とも全く干渉することはなく、僕のやりたいことをやらせてくれて、ただ見守っているだけだった。今の時代に子ども時代を過ごしていたら、僕もちょっと危なかったかもしれないな。あの頃はいい時代だった。学校でも、手のかからない子どもは放っておいてくれたからね。今は、手がかからないことを心配されたりするから困る。僕の息子も、今の時代では生きにくいと思っているかもしれないな。親父は、音楽をやりたくて仕方がない人間だったから、自分のことで忙しくて子どもに干渉する暇がなかったのかもしれない。今の僕と息子の関係みたいだ。僕も、自分でやりたいことがたくさんあって、息子のことまでかまっていられない。違うところは、僕は息子が小さい頃は良く連れて出歩いたことだろうか。動物園や博物館に行くことが多かったけれど、弁当を持ってよく一日歩いたものだ。小さい頃の可愛さは、一日いっしょにいても飽きなかった。親父は、日曜が休みになる仕事じゃなかったから、僕が子どもの頃は、親父と出かけるのは年に何回あるかという感じだったけれど。僕は、二十歳を過ぎてから酒を飲み始めたけれど、親父といっしょに飲むようになったのは仕事に就いてからだっただろうか。「思い出話」でいっしょに飲めなかったのが、親父には申し訳ないと思う感じだった。でも、家を離れて暮らすようになってから、時々手紙を書くようになった。直接話しにくいことを手紙にし、その中で思い出話が語れるようになって、ようやく「思い出話」で飲めるようになったのが、息子が生まれたくらいの頃だっただろうか。僕は、想像力だけは発達していたので、荒唐無稽な大きすぎる夢はよく見ていたけれど、息子も似たようなところがあるといいと思っている。夢は理想と同じ意味を持っている。理想は、あくまでも高く掲げていた方がいい。実現しなくても、それが憧れであっても、いつもそっちを向いている目印になるのが夢とか理想とかいうものだろう。お前が二十歳になったら、いっしょに飲めるのかな。水で薄めるような酒は飲みたくないな。酔いが回らないような酒ではなく、ちょうどいいほろ酔い気分になれる酒を飲みたいものだ。
2003.01.17
コメント(14)
ドリフターズなんていうと、昔の「8時だよ全員集合」を思い出す人がいたり、それすらもう知らない若い世代もいるかもしれないけれど、これはオールディーズの楽しい歌で、越路吹雪が日本語の歌を歌っていた。その越路吹雪の歌詞を<うたまっぷ>で見つけたので、今日はなんとなくこの歌を聞いている。訳詞は岩谷時子で、やっぱりしゃれた詞を書く。日本では、越路吹雪が歌っているので、歌詞は女性の側からの語りかけになっているけれど、ドリフターズは男性コーラスグループなので、英語の歌詞は男の側からのお願いになっている。どっちの方が想像力をかき立ててくれるかな。女性が、いろいろな男からダンスを申し込まれて、その男たちに愛想笑いを返してやってもいいけれど、本当の笑顔は僕だけにとっておいてという感じで、ラスト・ダンスは僕だけにという気持ちが、男としてはよく分かる感じだ。女の側はどうなんだろう。あちこちで女性にダンスを申し込んでいる男を待って、最後のダンスだけは私にという気分は、岩谷時子の歌詞のように、女性にもその気持ちが伝わってくる歌詞なのかな。ドリフターズの歌では、ラスト・ダンスのあとに最後に送り届けるという役は自分のためにとっておいてというないようになっているけれど、日本語の歌詞では、頼まれても送らないでというふうに立場の違いが現れている。ラスト・ダンスの意味というのは、たぶんこの事なんだろうな。最後に踊る相手というだけじゃなくて、送り届ける役割を持っているんだろうな。僕は、若い頃にドストエフスキーに夢中になって、「罪と罰」のラスコーリニコフに感情移入するような男だったから、いろんな女の子にダンスを申し込んで楽しむというような男に感情移入するのが難しい。だから、どちらかというとドリフターズの歌の方がすんなりと入ってくるかな。僕は、やっぱり待つ方が似合いそうなタイプだ。ただ、僕の場合は、待っていても甲斐がないと分かるとあきらめて先に帰ってしまうタイプでもあったな。あまりに待つことに慣れていたので、自分が待ち合わせ場所を間違えたのに、それに気づかないで待っていたこともあった。どうせ相手が遅れたんだろうと思っていたから、自分が待ち合わせ場所を間違えたなんて全然思わなかった。1時間たってからようやく気づいて、あわてて本当の待ち合わせ場所に行ったなんてこともあったな。今なら携帯電話があるからすぐに分かるんだけれど、あの頃はそんな便利なものがなかったものね。今でも僕は待つことには慣れている。たぶん必ず来てくれるという相手なら、いつまでも待っていても退屈しないで待っているだろう。待っていても、甲斐があるのなら、一人で過ごす時間もそれほど悪いものではない。
2003.01.16
コメント(2)
今日はいつもの懐かしい歌の話題じゃなくて、印象的な言葉を見つけたので、そのことで連想がわいてきた。まだ全部を読んではいないんだけれど、灰谷健次郎の「風の耳朶(みみたぶ)」という物語の中で見た。その印象的な言葉は、 「したいことをするというのは簡単なようだが、したいことをするためには、全身全霊で抵抗しなくてはならないこともある。したいことをするのは、わがままなんかじゃなくて、自分を鍛えることなんだ、……」というところだった。わがままと主体性の問題というのは、僕にとっては若い頃からの哲学的なテーマと言っていいものだった。どこに線を引くか、どう区別するかということを若い頃は考えていた。でも、年を重ねると、それは線が引けるものではないような気もしてきた。わがままを抑えるということは、それは主体性を殺すことでもあるんじゃないかという思いが強くなっていった。こんなことを言うと、なんかわがままを勧めているような感じがするけれど、日本人というのは、主体性を殺すことの方が強い性質を持っているから、むしろわがままに見えるくらいの方がちょうどいいんじゃないかとも思える。週刊金曜日の対談記事で、北山修が「<不登校>という問題について国際学会などで話をすると、「どうしてそんなことで大騒ぎするのか。学校に行かないなら家で遊ばせておけばいいじゃないか」と、フランス人に言われたという精神科医がけっこういるんです」という話をしていた。ある種のわがままは、自己主張であり、主体性の表れであると認めてもらえれば、日本での不登校の問題など、この程度のものですんでしまうのかもしれない。わがままが、本当に自分の心の中から、自分が求めていることが浮かび上がってきたことの現れなら、それは全身全霊をかけて自分を鍛えることになるだろう。ある種の足かせをはめておいて、それさえ守っていれば、他の何をやっても黙認してしまうというようなところで発揮されるようなわがままは、全身全霊をかける必要がない。だから、そういうわがままは自分を鍛えることにはならないだろう。封建的な軍国主義の時代に黙認されていた、暴力的な制裁などは、そういうわがままをふるっていたようにも見える。自分の存在をかけて主張するような、全身全霊をかけてのわがままなら、それは理解できるわがままではないだろうか。存在をかけることのない、気晴らしのようなわがままとは区別されなければならないのではないか、などとこの言葉を見て思った。
2003.01.15
コメント(14)
この歌も、厳密に定義すれば、懐かしい「フォークソング」じゃないだろうけれど、そこはファジーに、気に入った歌はフォークソングということにしてしまおう。心に響いてくる歌をフォークソングということにして。僕は、お袋が沖縄の出身で、半分は沖縄の血が流れているので、喜納昌吉が「ハイサイおじさん」で登場してきたときから面白いなと思っていた。この歌は、あまりにも有名なので、おそらく知らない人はいないくらいだろう。僕は、有名すぎる歌はあまり心にとまらないときもあるんだけれど、この歌だけは別だなという感じがする。この歌は副題で「すべての人の心に」と書かれているのがいいと思う。その気持ちが込められている いつの日か いつの日か 花を咲かそうよという部分を聞くと、いろいろな連想が浮かんでくる。花になる前のつぼみというのは、誰の心にもたくさんあるような気がする。つぼみは、いろいろな意味での可能性を秘めたもので、その可能性のつぼみが花開くためには、好奇心というものが必要だ。好奇心という栄養があって、つぼみは花にまで生長する。仮説実験授業に「花と実」という授業がある。それは、植物というのは、花を咲かせないと実が出来ないというメカニズムを持っているということを教える授業だ。花が咲かずにいきなり実が出来る植物はない。見た目にはあまり美しくない花もあるけれど、花としての条件を持っているものが現れないと実にならないというのは、何かを象徴しているような感じもする。人間は、豊かな実りを持つためには花を咲かせないとならない。だから、「すべての人の心に」なんだろう。そして、花が咲いているとなかなか分からないひっそりと咲く花もある。そんな花を見つけてあげて、いつの日か花が咲いたことをいっしょに喜んであげるようなことが出来たら、「寄り添う」という雰囲気にぴったりになりそうだな。人生という時の流れの中で、人間は、泣いたり笑ったりして花が咲く日を待つんだろうな。若いうちは、可能性というつぼみをたくさん持っているだろう。年をとってからも、それが全部なくなるということはないはずだ。かなり少なくなってはいるだろうけれど。その少ないつぼみを大事に育て、いつか咲く花があるかもしれない。年をとって、すでに花は枯れてしまっていても、その代わりに豊かな実をならせれば、それが種になり、やがてはそこから新しいつぼみが生まれてくるのを見ることが出来るかもしれない。そういう希望に充ちた、心が穏やかになる歌だ。年の初めに、未来を語るにはふさわしい歌かな。
2003.01.14
コメント(16)
今日<うたまっぷ>で見つけたのはこの曲だった。最初は「片思いの少女へ」を探したんだけれど、それが無くて、この曲が代わりに目に入った。この歌は、男の立場から詞を綴っている。男が女の立場で詞を書くときもあるし、反対の立場を想像して詞を書くというのは、その本来の立場からはどう見えるだろうか。この詞は、男としては、ちょっと女々しい感じに見えるけれど、元々が女々しい僕のようなタイプにはちょうどぴったり来るような感じがするな。この曲が目に入ってきた印象的なフレーズは次のところだ。 君はぼくの為に 生きてくれたやさしい人 君は悲しみの 君は悲しみの 君は悲しみの やすらぎの人「悲しみの人」が「安らぎの人」になるというのは、海援隊の「贈る言葉」のフレーズに通じるところがある。やっぱり感受性の豊かな人は、そんなふうに感じるから、同じようなイメージの詞が生まれるんだろうな。悲しみというのは、それを知っている人間が、より深く共感できる。深く共感できる人は、何も言わなくても心が通じる、というのは唯物論者としては矛盾しているんだけれど、それが事実だと思えるから仕方がない。深い共感が出来る人がもっとも安らぎを与えてくれる人だろう。僕は、この歌にあるように若い頃は自分の世界しか見えなかった。でも、昨日のことさえ思い出せないくらい疲れてはいなかったようだ。僕はギリギリまでがんばる人間じゃなくて、限界が近づいたら逃げ出すような女々しい人間だったから。もし、疲れるくらいつらくなっていたら、近くにいた「悲しみの人」を見つけられたかもしれないな。その後、僕は自分ではそれほど大きな悲しみの中にはいなかったけれど、たくさんの悲しみには触れてきた。悲しみの人というのは、きっと近くにもいるんだろうけれど、なかなか悲しみを伝えてくれる人はいないんだろうな。気づくのが難しいのかもしれない。本当の悲しみの中にいるときに、相手の悲しみも伝わってくるのかもしれない。人間の生活で、悲しいネタなんてのはいくらでもありそうだから、これから僕も本物に出会ったりするんだろうか。でも僕は、安らぎの人に出会うよりも、自分が安らぎの人になりたいタイプだから、やっぱり自分自身が悲しみを知る必要があるかもしれないな。自分が不幸になるのは困るから、やっぱり多くの人の悲しみを感じる心を持つように、感受性を鈍らせないようにしないとならないな。27日頃に、イラクでは多くの悲しみが生まれるようにいわれている。せめて、その人たちの悲しみを、痛みとして感じるくらいの感受性は消さずにいたいものだ。
2003.01.13
コメント(6)
今日は久しぶりにビートルズだ。昨日の日記で吉田拓郎の「君のスピードで」を書いて、僕の持っている歌集を見たら、この曲が入っていなかった。そうしたらどうしてもこの曲の楽譜が欲しくなって、昨日は楽器店に探しにいってしまった。その時に、ビートルズの詩集も見つけた。ビートルズの詩集は僕は持っているんだけれど、これがもう在庫もなくなってどうやら絶版になったらしいということを聞いた。売れる本なのになぜ絶版になったのかなと思った。もしかしたら新しく作り直しているのかなと思ったら、装丁がとてもきれいになって新刊で並んでいた。そこで、今日はビートルズの中からステキな詩がないかを探していたら、この歌が見つかった。これは<ホワイト・アルバム>の2枚目の最後に収められている曲で、まさに最後に聞くのにふさわしい、うっとりしながら眠りに誘われそうな歌だ。ステキに感じたフレーズは、 Dream sweet dreams for meだ。なんということはない言葉だけれど、僕のためにいい夢を見て欲しいという気持ちが、とても穏やかな愛情を感じさせていい言葉だなと思った。おやすみを言うときに、その日一日がとてもいい日だったら、きっと穏やかな眠りの中でいい夢を見られるだろう。もし、ちょっと心が騒ぐようなことがあっても、おやすみを言うときに、その騒いだ心を静めて、さざ波の立った心の波を静め、いい夢を見られるくらいに心が落ち着いたら、どんなことが起こってもやっぱりその日はいい日だったと思えるだろう。何もなくて穏やかな一日よりも、何かがあってそれを静められる愛情を感じられたら、その方が幸せかもしれない。リンゴの優しい声で、ゆったりしたメロディーとリズムで、「目を閉じて」と言われたら、素直に眠りの中に入れそうだ。毎日、こんなふうに「おやすみ」が言えたら、きっと眠れない日なんか無いだろうね。そして最後は、こんな穏やかな気持ちになるに違いない。 Good night, good night, everybody Everybody everywhere Good night世界中のすべての人に、穏やかに「おやすみ」を言いたい気分になれば、きっとすべての争いもやめてしまいたくなる気分だろう。すべての地域で、穏やかな眠りのために「おやすみ」が言える世界になるように、ビートルズの歌が永遠に愛されるように、願ってやまない。
2003.01.12
コメント(7)
この歌は、<うたまっぷ>では研ナオコの歌として検索できる。作ったのは小椋佳で、僕は復刻盤としては小椋佳のものしか持っていないので、とりあえず小椋佳の歌としておこう。この歌は、男が女心を想像して書いたものだけれど、男から見ると、なんてきれいな女心だろうと思う。実際に女はこんなふうに感じるんだろうか。こんなふうに感じて悲劇のヒロインを演じるのは、女にとっても気持ちのいいものなのかな?この歌でかっこいいと思うフレーズは次のところだな。 あなたの言葉より 今は 安い 流行歌の方がまし 悲しいことは どんな 化粧したって 悲しいのですこんなステキなセリフが言える女を泣かせる男なんてのが、ちょっと僕には想像が出来ないけれど、そういう設定だからきれいに感じるんだろうな。悲しいけれどきれいな歌ってのは、実際にはきれいすぎて、そんな場面というのは本当にはないんじゃないのかなと思うから聞いてられるのかもしれないというのが僕の感想だ。きれいな悲しみの中で、悲劇のヒロインを感じてうっとり出来る。そんな感じの歌に聞こえるな。もっとも僕は、本当の意味での修羅場というのを経験していないからそんなふうに感じるのかもしれないな。捨てるなんて経験は一度もないし、たいていはふられることの方が先だったから、相手を傷つけずにすんだという点では気楽だったのかな。僕の方も傷つきすぎないうちに身を引くという感じだったので、本当には痛手を受けていない。だから詩人になりきれないのかもしれないね。本物の悲しみを経験したら、こんなステキなセリフが口をついてでるんだろうか。でも、小椋佳の経歴も、実体験は大したことがないみたいだったな。こういうのは、やっぱり想像で作り上げるからきれいになるんだろうか。でも、悲しいときは泣かせてくれる相手がいたら、悲しみは薄れるだろうな。そういう相手と別れるときに泣きたくなったら、いったい誰を相手にして泣けばいいのか、そこが難しく思えてしまう、複雑な心境を感じる歌だ。でも、きれいな言葉だね。詩人は、こういうきれいな言葉を見つけ出すんだな。
2003.01.11
コメント(8)
僕は吉田拓郎ファンなのでつい拓郎の歌に目がいっちゃうけれど、今日も出だしの言葉が印象的でこの歌を選んでみた。こんなセリフだ。 こんなに人を愛せるなんて またひとつ世界が広がったようだ 孤独という親しい友と うまくやって行くつもりだったがむかし「どうしてこんなに悲しいんだろう」を聞いたときも、僕が持っていた「孤独」というイメージにぴったりのものを感じて、すぐに拓郎ファンになってしまったけれど、この最初のフレーズも、僕が持っていた気持ちにぴったりだったな。僕も「孤独という親しい友とうまくやっているつもりだった」。実際に数学少年だった頃はかなりこの友とうまくつきあっていた。孤独であることが普通だったので、孤独に慣れていたのかもしれない。人間を必要だとは思わなかった。でも、この歌にあるように、人に愛を感じるということは世界を広げることになるということがわかってくると、孤独の感じ方が変わってきた。相変わらず、孤独が親しい友であることは変わりないんだけれど、それだけが友だちでなくなったという感じかな。君の好きなスピードに僕のテンポを合わせるというのも、僕のやり方に合いそうで気持ちのいい感じがする。あまり速く走りすぎると僕は疲れてしまうから、たぶん「君」の方も速くなりすぎないように合わせてくれるんだろうと思うけれど。君のスピードでというのは、君のそのままの姿でということをいっているんだろうと思う。過去の想い出よりも今の真実の方が素晴らしいという感じもいいね。僕も、今がいつも最高の時だと思いたい人間だ。過去にいくら素晴らしいことがあっても、過去をそのまま再現することは出来ないのだから、それにしがみついていたくはないし、ましてや過去が悲しいものだったら、それは美しいところだけ写真のように残して想い出にしてしまえばいい。過去は動かない。動くのは今だけだ。だから、これからがいつも最高になると思っていられた方がいいな。この歌は拓郎の作詞になっている。拓郎は、自分で詞を書いてもやっぱり僕にはとっても共感できる言葉にあふれているな。これは<うたまっぷ>で検索できる。
2003.01.10
コメント(12)
今日も気ままに<うたまっぷ>を検索していたらこの歌にぶつかった。僕は、図書館にあった歌謡曲のオムニバス盤をいくつか借りたんだけれど、この歌もたまたまその中の一つに入っていた。僕がまだテレビっ子だった頃に中山千夏はちょっとしたアイドルだった。お嫁さんをやるシリーズか何かがあって、毎週見ていたように覚えている。そのアイドル時代の可愛い歌がこの歌で、中山千夏自身が作詞をしている。若い頃に作った詞だから、それほど深い意味があるわけじゃないけれど、実に微笑ましい純な気持ちを感じる詞だと思う。愛する人の心に、風や空や海を見るのは、あの頃の女の子にはとても共感できる気持ちだっただろう。今はどうなんだろう。「私一人で」という気持ちがかわいいと思う。そして だって いつも あなたは 笑って いるだけ そして 私を 抱きしめるだけここのところは、あの頃の男の子だった者たちに共感できる雰囲気だと思った。何もしゃべらないで、ただ笑っているだけで、抱きしめるだけだったらいいね。今だったら、僕はかなり饒舌になったけれど、若い頃は思っていることを表現するだけの言葉を知らなかったから困ったものだ。中山千夏は、いわゆる美人タイプではなかったけれど、あれだけ絶大な人気があった理由が今はよく分かる気がする。ああいう可愛さが男は好きなんだと思う。その後国会議員になったりしたけれど、他のタレント議員とは一線を画していたように感じた。中山千夏は、自分の言葉で語れる人だと思った。僕は本多勝一のファンなので、本多勝一が編集委員をしている「週刊金曜日」を創刊号から定期購読している。そこにも中山千夏は寄稿していた。ステキに年を重ねていることが分かる。若い頃魅力を感じた人が、美しい年の取り方をしているのを見るのはとても嬉しいことだなと思う。
2003.01.09
コメント(11)
この歌はかなり新しいので「懐かしの」ではないけれど、長渕剛が「懐かしい」人にはいるので、このテーマでの日記にしておこう。実は、これは<うたまっぷ>で検索したときから気になっていた歌なんだけれど、昨日レンタル店で新しいベスト盤を借りてようやく聞くことが出来た歌だ。この歌は、きわめて政治的メッセージの強いもので、かつてのメッセージフォークの時代を彷彿させるものがある。長渕剛らしいストレートなものの言い方が、今こそふさわしい時を迎えたというような感じで、聞かれる価値があるように感じた。特に気になった歌詞は次のところだ。 戦争に人道などありゃしねぇ 戦争に正義もくそもありゃしねぇほとんどすべての人は戦争が嫌いだ。だから、戦争をするためには大義名分が必要だ。でも、この歌詞にあるように、それらの大義名分はすべて嘘だということに、そろそろ人類は気がついてもいいんじゃないかと思う。気がつくに足りるだけの歴史を持ってきたのだから。この歌のいいところは、きわめて具体的に言葉を選んでいるところだ。一般論で戦争反対をしているんじゃない。イメージがはっきりとしている。一般論で語るとき、言葉は美しくなるけれど、それは言葉だけの美しさに酔ってしまい、本当の意味でのエネルギーがわいてくる感じがしないけれど、具体的な言葉で語られると、その人たちの姿が浮かんできて、その人たちのために何かをしたい気になってくる。ビン・ラディンを始めとするテロリストがアメリカに育てられたというのは、ちょっと情報を手にすればすぐに分かることだ。ジャーナリストの田中宇さんのページを見るとその情報にあふれている。 http://tanakanews.com/index.html にアクセスすると、実に興味深いニュースを見ることが出来る。ブッシュのやり方が、ハリウッド映画の単純なアメリカンヒーローの安っぽいシナリオをなぞっているというのも、まさにその通りと思える指摘だ。アフガニスタンは遠い国ではあるけれど、その姿は今や日本にいながらも目にすることが出来る。銃弾に倒れる兵士や、両足を爆弾でとばされる少女を見ていても、まだ戦争の正義を信じられる人がいるだろうか。具体的なメッセージで限りなく共感を覚えるのは次のようなところだ。 日の丸と星条旗に僕は尋ねてみたい 戦争と銭はどうしても必要ですか?戦争が銭のためだということはほとんど明らかなんだけれど、それに気づきたくない人がまだ多いんだろうか。この歌が、メッセージフォークの時代の70年に歌われていたら、きっと大ヒット間違いなしだっただろうな。2000年を過ぎた今、これが大ヒットにならないところにちょっと淋しさを感じるけれど、今このときこそこの歌がふさわしい時代が来たとも言えそうだ。アメリカのイラク攻撃がもうすぐだと言われる中、再びこの歌が人々の目にとまることを祈っている。現在の素晴らしいメッセージフォークとして、やっぱり「懐かしのフォークソング」に入れたい歌だ。
2003.01.08
コメント(5)
kuri-kurumiさんから、中島みゆきの「わかれうた」を日記にというリクエストがあって、何回か聞きながら考えていたんだけれど、なかなか連想が浮かんでこなかったときに、ふとついでに聞いたのがこの歌だった。そうしたらすぐにいろいろなことが浮かんできた。これは、中島みゆきの歌には珍しく、とても希望に充ちた詞だなと思った。特に次の部分がいい。 Remember 生まれた時だれでも言われた筈 耳をすまして思い出して最初に聞いた Welcome Remember けれどもしも思い出せないなら わたし いつでもあなたに言う生まれてくれて Welcome誕生の時に歓迎されない子どもはいないと信じたい。一つの命の誕生は、神が祝福するだけでなく、最も近い人間がもっとも大きな祝福を込めて「Welcome」を言うはずだ。それと同じくらい大きな祝福を込めて、愛する人の誕生に「Welcome」を込めて言いたいという気持ちがとてもいい感じだ。「生まれてくれて」という表現がいいね。自分のために生まれてくれたんだと思いたいくらいの気持ちかな。「Welcome」と同時に「ありがとう」も言いたいような気持ちかな。生まれてくれてありがとう、と。その人の存在がこの世に誕生したから、自分の幸せがあると思える感じが、この言葉からする。なんてポジティブ(肯定的)な歌なんだろうと思う。中島みゆきの歌で、これだけ肯定的な歌が他にあったかな。メロディーもやさしいゆったりとした感じで、この肯定感をじっくりと味わうことが出来る。この歌は<うたまっぷ>で歌詞を検索できるので、この肯定感を味わうことが出来る。最初の歌い出しでは、この歌の主人公が、悲しみの中に生きてきたことを思わせるけれど、その悲しみも生まれ変わりもう一度誕生するときのために過ごしてきた悲しみだと思えると、最後の肯定感がさらに増してくる。 すがりたいだれかを失うたびに だれかを守りたい私になるのという歌詞は、「贈る言葉」の「人は悲しみが多いほど、人にはやさしくできる」というものに通じるような感じのする言葉だ。「わかれうた」も嫌いじゃないけれど、日記に書いて他の人と共感したいのはやっぱりこういう肯定感を感じることの出来る歌になるかな。「わかれうた」は、一人でしみじみと味わいたいときに聞きたくなる歌かな。
2003.01.07
コメント(8)
僕は、この歌のレコードを確か持っていたと思った。なぜか気に入っていた。歌謡曲の、しかも男の歌手の歌なんかは、それまでは他に持っていなかったと思ったけれど、沢田研二が歌ったこの歌だけはなぜか気に入っていたな。沢田研二は、このあとの歌の方が大ヒットしたけれど、<うたまっぷ>にこの歌詞も出ているということは、僕と同じようにこの曲のファンというのがたくさんいるんだろうと思う。この歌は、<うたまっぷ>に寄れば、作詞が岩谷時子で、作曲が宮川泰ということになっている。あの時代のヒットメーカーだったのに、なぜかレコードは大ヒットはしなかった。でも、やさしさを感じさせる甘いメロディーと、詞の中の 君をのせて 夜の海を 渡る舟になろうという言葉が好きだったな。運命の冷たさとでもいうんだろうか、吹きすさぶ風を受けながらも、その風の方へ向かって歩かずにはいられない気持ちがあり、地図が破れ、行く当ても分からないときに、二人で歩ける、そういう相手がいるんだなということが、何となくいい感じだったんだろうか。その大切な相手を乗せる舟になりたいという気持ちがよく分かる。この歌を初めて聞いたときは、たぶんまだ子どもだったから、ここまではっきりと分かって聞いていたんじゃないだろうけれど、とてもかっこいいと思ったことは確かだ。「君の心 ふさぐとき」、君が悲しみに包まれたときに、「粋なうたを」うたったら、本当にかっこいいだろうなと思った。どんな歌が粋な歌になるのかなと思ったものだ。もちろん、この歌でもいいだろう。これが舟だというのも粋だと思ったな。二人だけが乗るんだから、手こぎの小さい舟で十分だ。大きな船はいらない。ましてや、ジェット機なんかじゃちっとも気分が出ない。飛行機が嫌いな僕は、遠くへ出かけるときも船で行きたいんだけれど、なかなか船にはつきあってもらえない。のんびりと行く旅の方が好きなんだけれどな。僕の小さな舟につきあってくれる「君」は、誰なんだろうと思ったものだ。
2003.01.06
コメント(12)
去年の暮れにビートルズ詩集を探しにいったときに、サイモン&ガーファンクルとジョン・レノンの詩集を見つけて手に入れた。今日はその中から印象的な詞を見つけた。この歌は、リアルタイムで聞いていたときにはそれほど印象的ではなかったけれど、今あらためて詞を読み返してみたら、とても心に残るものになった。 Who will love a little Sparrowという言葉で始まり、これが繰り返される。雀というのが、ちっぽけな、なんの取り柄もないつまらない存在の象徴のように感じられる。その雀をいったい誰が愛するだろうとという問いかけで始まるこの歌が、若い頃には気づかなかったものに気づかせてくれるような感じがする。1番では、樫の木が答えるけれど、彼は巣作りに枝を貸してはくれない。休息を求める雀には、休む場所がない。2番では、白鳥が答える。やさしい言葉はかけてあげないようだ。雀をかまうのは、仲間の白鳥に笑われ、バカにされてしまうらしい。3番では、憐れみを感じ、食べ物を与えるのは誰かと問いかけている。でも、黄金色の麦は、その願いには応えない。そうしたいとは思っているみたいだけれど、与えるのは惜しいと思っているようだ。最後の4番で、ようやく雀を愛する存在が現れる。それは大地だ。その大地の最後のセリフがステキな言葉で、これが心に残ってこの曲を選びたくなった。 For all I’ve created returns unto me From dust were ye made and dust ye shall be大地は、私が創ったものはすべて私に還ってくると語っている。塵から創られたものは、塵に還ってしまうとも言っている。雀のように小さな存在でも、それは大地が作り出したものだから、尊いのだとも聞こえるようだ。大地は、すべてを飲み込む存在で、これがもしかしたら<神>というもののイメージかもしれない。樫の木や白鳥や黄金色の麦は、それぞれが孤立した存在で、自分が生きるだけで精一杯で、他のことを考えることが出来ないけれど、大地は、すべてがつながっていることを知っている。僕は、自分が大地になれるほど悟りきってはいないけれど、大地の存在を知り、それをまだ知らない人に知らせるということなら出来るかもしれないと思える。大地があるから、君は一人ではないんだと。君を受け入れ、愛する存在がこの世に一つは存在する。それはたった一つでも、どの存在よりも大きな存在だ。それを伝えることが出来たとき、<寄り添う>ということも実現できそうな気がする。そんな思いがするような、この詞だった。
2003.01.05
コメント(3)
今日頭に浮かんできたのはこの歌だった。<うたまっぷ>で歌詞を探したんだけれど、そこにはなかった。でも<無料歌詞検索>というところにはあったので、そこで探してもらうとここにはギターコード付きで出ている。これはかなりヒットしたのできっと知っている人が多いだろうな。この歌で好きなフレーズは次のところだ。 そして心が 傷ついたなら 泣きながら 帰っておいで 僕はおまえの そばにいるよこの「そばにいるよ」という言葉がいいと思った。このフレーズが頭に浮かんできたので今日の歌に選んでみた。「そばにいるよ」というのが、僕の好きな「寄り添う」という言葉を連想させてくれていい感じだ。本当の悲しみの中にいる人には、慰めの言葉をかけることが出来ない。どんな言葉も、その悲しみの大きさに比べたら限りなく軽いものとしか思えなくなってしまう。結局は、その悲しみを同じように感じているんだと伝えることしかできない。それも言葉で伝えるのは、言葉にした瞬間に本当らしさが薄れてしまう。いつまでも寄り添うということで伝えるしかないんじゃないかと思ってしまう。沢田研二の「時の過ぎゆくままに」には「身体の傷なら癒せるけれど、心の傷は癒せはしない」というセリフがあったな。でも、「寄り添う」ということでだったら、きっと心の傷も癒せるんじゃないかと僕は思うんだけれど。幸せに包まれた一生を送れるようにとつけた「幸子」という名前が、その通りにならないということは皮肉なことではあるけれど、そこをくぐり抜けたあとに本当の幸せが来るといっているような気もする歌なので、ちょっと切ない言葉があっても心が温かくなるような気がする歌だ。心がきれいでも、醜いのはいやだといっていたけれど、それがいつか笑い話になるというのは、やっぱり心がきれいな方が人間は幸せなんだと思う。姿の美しさは、ほんの一瞬の輝きに過ぎないけれど、美しい心は年を重ねるごとに輝いてくるものだから。でも、その美しい心も、一人ではきっと美しさを保てないんだろうな。思い通りに生きている姿を見守り、笑い方を忘れたときに、思い出すまでそばにいてくれる存在があって、心は美しさを保てるんだろう。ありのままの姿を受け入れるというのも、「寄り添う」ことの大事な条件だろう。どんなふうにすれば、「寄り添う」ことになるか教えてくれているような歌だったので、今日はこれが頭に浮かんできた。今年のテーマとしてだれかに本当に「寄り添う」ということが出来るかどうかが、僕の年頭の想いかな。
2003.01.04
コメント(12)
今日は珍しく誰もが知っている歌を選んでみた。僕は、金八先生をやっているときはちょうどアルバイトをしていて、その時間はテレビを見ていなかった。だから、物語はほとんど知らないんだけれど、この歌は歌詞もメロディーも好きだったな。武田鉄矢の書く詞は昔から好きだった。それは誰もが思いつきそうな感じがするんだけれど、誰も書かなかったという感じがする詞だ。つまり、みんなが心の中に抱いている気持ちを思い出させてくれるような、そんな気がする詞だった。これは誰もが知っているので、もちろん<うたまっぷ>で検索が出来る。この歌で特に印象的なのは次のフレーズだ。きっとそう思う人が多いだろうな。 人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから僕は、灰谷健次郎に出会ってからずっとこんなふうに思っているけれど、ちょうどそのころにこの歌も聞いたのかな。「そうだ」と思っていることをその通りに言葉にしてくれたとき、共感が一番大きくなるような気がする。人生は、不公平だと思うけれど、喜びよりも悲しみの方が多いんだろうな。だから、悲しみをたくさん知る人ほど、人間の本当を知っている。本当を知る人でなければ、本当にはやさしくできないんだと思う。悲しみを深く知らなくても、やさしくする方法が一つだけあるかもしれない。それは、もう一つの印象的なフレーズの次のところに感じる。 だけど私ほど あなたのことを 深く愛した ヤツはいない誰よりも相手のことを想っていれば、悲しみを深く知らない、人生の経験が不足している未熟者でも、その相手にだけはやさしく出来そうな気がする。他の誰にも負けないという気持ちさえ持っていればね。だから、相手があまりやさしくないと感じたときは、もしかしたら想いが弱くなってきているのかもしれないね。この歌は、他のところでも共感するところは多い。武田鉄矢はステキなセリフを考えるね。みんな同じ気持ちを持ってはいるんだけれど、言葉にすることが出来ない。それを言葉に出来るというのがすごい才能だ。悲しみをこらえてがんばるよりも、自分の気持ちに素直に泣いてしまった方がいいなんてのも、その通りだと思うし、信じないよりも信じて傷ついた方がいいというのもその通りだと思う。僕は、教員の仕事には「裏切られる」という悲しみが含まれていると思っている。人間というのは、みんながみんな期待通りに生きているわけではない。さまざまな条件で、期待がかなえられないことの方が多いだろう。そういう意味で裏切られるということがきっと多いだろうと思う。それを、相手に対する落胆として受け取るのではなく、やさしくなるための悲しさとして受け止めることが出来れば、この歌のように「人にはやさしく」なれるのかもしれないと思った。僕は、金八先生とはまるでタイプの違う教員だと思うから、ある意味ではそれを見なくてよかったかもしれない。無理して金八先生になろうとしなかったから。僕は、灰谷健次郎が「砂場の少年」で描いた葛原順のような教師ならなれそうな気がした。それは、情熱で引っ張っていくような教師ではなく、迷いながらも生徒の側に寄り添っていこうとするような教師だった。悲しみを知る人間も二つのタイプがあると思う。自分が悲しみの中にいた人間で、肌でそれを知っている人間だ。これは金八先生のようなタイプになるかもしれない。もう一つは、人の悲しみを感じることの出来る人間で、これは葛原順のようなタイプになるかもしれない。僕は、夜間中学で悲しみを知る人に囲まれている。葛原順のような人間になりたいと思う。
2003.01.03
コメント(9)
僕は、パソコンのハードディスクにCDのライブラリーを作って、MP3 Audio Magic XP というソフトでアルバムを登録しているんだけれど、これにはジャケットを登録する機能もあって、昨日は公式サイトから拓郎のアルバムジャケットをダウンロードしてこのライブラリーを整えていた。なかなかいい感じだ。その時に、<オンリー・ユー>のアルバムを見て、そういえば昔はこのアルバムが一番好きだったなというようなことを思いだした。ここには「流星」という歌もあって、これはカラオケにも入っていたりするのでけっこう有名みたいだ。「幸福だとはいわないが、不幸ぶるのは柄じゃない」というフレーズが気に入っているんだけれど、今日はそれじゃなくて、この「愛の絆を」を選んでみた。これはちょっとマイナーかもしれないけれど、岡本おさみの詞がステキなのと、拓郎らしいメロディーが気に入っている。この詞を改めて読み返してみると、最後のフレーズの 愛する すべてのものを 二人で分かち合おう 身体と身体 心と心 確かめようという言葉が今日はとても心にしみてきた。喜びを分かち合うことは簡単に出来るんだけれど、「すべて」に含まれるものを分かち合うのはなかなか難しい。悲しみも、悔しさも、苦しみも、切なさも、不幸を感じるものも、相手のことを思っていればいるほど相手には知らせずに自分の中に収めておきたいとも思う。でも、本当に相手のことを思っているときは、喜びだけでなく、「すべて」を分かち合った方が嬉しいものだ。その時に本当に二人は一つになったんだなと思える。この歌には、他にもステキなフレーズがたくさんあるので、歌詞が検索できないのがちょっと残念だな。この詞のストーリーは、愛する二人が愛を確かめ合ったあとの朝を迎え、その愛が本当のものであったことを確かめたい男のつぶやきという感じのものだ。遠い国に来て、そこで愛するためという目的で来たという気持ちに、今の迷いがあるような感じもする。遠い国に来て、二人きりで考えたいんだろうな。「語り合う一日が終わって、見つめる夜がやってくる」という言葉もある。言葉でたくさん語っても、見つめ合うことの方が多くを伝えられるんだろうな。夜の静寂の中で見つめることで、見つめること以外のことが頭の中から消えていくんだろう。そうしたら、「断ち切れぬ愛の絆を」全身で感じられるのかもしれない。迷いのあった若い頃の恋が落ち着いて穏やかになってくるのはいつからかな。そういうときはなかなか訪れないかもしれない。「語り合う一日が終わって、見つめる夜がやってく」ればその穏やかさも自分のものになるかもしれない。でも、唯物論者としての結論は、見つめるだけじゃダメだと思う。その前に「語り合う一日」がなければならない。多くの言葉で語り合ったあとだからこそ、見つめる夜に愛の絆を確かめられるんだろうと思う。
2003.01.02
コメント(7)
年が明けて、あちこちで新年の挨拶をしているだろうと思う。年が明けたからといって、日付が一日進んだだけだと、現実主義者だったらそう感じるかもしれない。現実主義者=唯物論者だと思っていると、唯物論者もそうだと思うかもしれないけれど、本物の唯物論者はちょっと違う。僕の尊敬する板倉さんという本物の唯物論者は、<きっかけの論理>というものを大事にする。人間というのは、いつ始めてもいいというものを始めるのにとても苦労するものだ。明日があるさと思っているうちに時間が過ぎてしまう。そんなときに、「今日は一年の最初の日だから」と理由をつけるのが<きっかけの論理>だ。きっかけには理由が必要だ。それは、自分が納得さえすればいい。新しい年だから、新しいことを始める。それが納得できれば、きっかけになるものだ。その新しい年にふさわしい歌として、今日は「友よ」を選んでみた。これには「夜明けが近い」という繰り返し出てくる言葉がある。今のように暗い時代に「夜明けが近い」なんて、皮肉じゃないかと思われそうだけれど、板倉さんの発想でいえば、少数派にとっては多数派が暗いと思う時代こそ明るさを感じられるとでもいおうか。仮説実験授業は、徹底的に子どもたちの主体性を大事にする。それはわがままと紙一重だ。子どもたちがわがままになり、大人のいうことを聞かなくなったと嘆く声があがれば、仮説実験授業学派は、子どもたちがやっと正直に自分たちの声をあげることが出来るようになったと解釈する。いい時代になったものだ。我慢して苦しんでいた時代ではないのだ。不登校の子どもたちが増えたと嘆く声が多くなれば、国家に支配された教育から、本当に個人のための教育を求める人がやっと増えてきたのだと、民衆の成長を喜び合いたい気持ちになってくる。この歌がかつて人々に歌われていた頃は、みんな「夜明けは近い」という気持ちを抱いていた。でも、それは気分だけで中身が伴わなかった。だから、岡林信康もこの歌をすぐに歌わなくなってしまった。今は、気分はとても夜明けが感じられないけれど、客観的条件は、改革の前の混沌という感じもする。今こそまさに夜明けを感じるにふさわしい時じゃないんだろうか。僕は混沌が好きだ。それは権威あるものを否定してしまうから。誰もが困っている、誰もが分からない、そういうときこそ新しいことが自由に出来るときだ。この歌は<うたまっぷ>で検索できる。今日引用したいフレーズは次のところだ。 友よ 君の涙 君の汗が 友よ むくわれるその日がくる僕は、昔から<根性>とか<努力>とかいう言葉が嫌いだった。この言葉は、嫌なことを我慢させて、何かを人に押しつけるときにしか使われてこなかったから。報われる苦労だったら、本人は少しも努力と感じないで根性も出てくる。報われない努力に根性なんか出したらつぶされてしまう。報われない努力なんか放り出してしまえというのが、僕が昔から抱いている気持ちだ。でもそれはかつては出来ないことだった。今は、それが出来る。みんな報われる努力にだけ力を傾けて、報われない努力なんかやめてしまおう。それは奴隷の努力だ。繰り返される次の言葉が、今こそふさわしい時代がやってきたと僕は思う。 夜明けは近い 夜明けは近い 友よ この闇の向こうには 友よ 輝くあしたがある岡林信康も、今この時代こそこの歌を歌ってくれないかな。今が闇の時代だからこそ、輝く明日があると。明けない夜など無いのだから。
2003.01.01
コメント(23)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

![]()
