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三浦つとむさんは、「哲学入門」の中で、落語の「一つ目の国」を使ってとても役に立つものの見方を教えてくれる。「一つ目の国」というのは次のような物語だ。ある男が、一つ目の人間ばかりが住んでいる国へ行って、一つ目の人間を一人さらってこようと思った。それは、珍しいので見せ物にしたら儲かるだろうと思ったからだ。それで、一つ目の国へ行って子供をさらおうとしたら見つかってしまった。そうしたら、一つ目の国の人たちは、二つの目があるその男がとても珍しかったので、つかまえて見せ物にしてしまったという落ちが付いた落語だ。三浦さんを僕が好きなのは、こういう話から実に深い教訓を引き出してくれるからだ。三浦さんは、このことを次のように一般論でまとめてくれる。「この哀れな探検家(一つ目の人間をつかまえようとした男)は、私たちの国で暮らしていた時と、一つ目の国に入った時と、人間として顔かたちに違いがあるわけではありません。彼の外部の状態が違っただけです。そして、この外部の状態の違いが、そこに新しい関係をうみ、その結果として彼自身を全く反対の役割に、見せ物を見せる側から見せ物として見せられる側に変えてしまったのです。 科学や技術は誰の手にあり誰が利用しても科学であり技術であることに変わりないように見えます。これらは人類全体に貢献するかに見えます。しかし、その置かれている条件によって、その役割は全く反対にさえなります。」置かれた条件を見る観点の一つとしては、この場合は量の違いに注目するように三浦さんは言っている。一つ目の人間は、我々の国では数が少なく珍しいけれど、一つ目の国に行けば、逆に我々のように二つ目の人間が珍しくなるというふうに条件が変わる。これを「量質転化」という言葉でまとめているけれど、この言葉の具体的な説明としては実にわかりやすかった。置かれた条件によって、同じ言葉が反対の意味を持つということも物事の判断にとって重要な指摘だ。次の言葉を引用しておこう。「今の言語学では、同じ言葉は同じ内容を持っていると主張する学者が少なくありません。科学的な哲学の立場に立っていないのです。自由という言葉一つとって調べてみてもこの主張の誤りが分かります。エンゲルスが「弁証法の傑作」と批評した、フランスの大哲学者ディドロの著作「ラモーの甥」の一節をお目にかけましょう。これは今から160年以上も前に書かれた小説ですが、ついこの間日本の映画会社の社長とその会社の従業員組合の代表との会話に、これに似たのがあったことを思い出す諸君もあるでしょう。 「私は今不徳といったが、それはあなた方の言葉を使っているか らで、私どもがもし自分の言葉の意味をはっきりさせる段にな れば、あるいは私が徳と言っているものをあなた方が不徳とい い、私が不徳と言っているものを徳と言わないとも限りません よ。」同じものを違った名前で呼び、違ったものを同じ名前で呼ぶ。「弁証法」と言い、「平和」と言い、「自由」と言い、紙の上や言葉の上で考えていると、それらの中に違いがあることを忘れがちです。私たちは名前に迷わされないようにしなければなりません。」有事法制と言い、個人情報保護法案と言い、「防衛する」「保護する」という言葉が、辞書的な意味でそのまま現実に存在すると思い込まないようにという注意としてこのことは読める。量的なとらえ方の間違いでは、よくある世論調査の受け取り方に関するものがありそうだ。世論調査というのは、その時の偶然的な状態を知るためには役に立つのだが、それによって何かが正しいというような判断をするものではない。ある種の教育をすれば当然世論の動向に影響をしてくる。軍国主義時代の日本であれば、日本の戦争を支持するのが当然で、あの時代に世論調査的なものをすれば、100%に近い人間が支持をするだろう。あの状態で支持をしない決断が出来るのは、主体的に生きられる人間でなければ無理だ。アメリカもブッシュの戦争を70%の人が支持していたのは、戦争の本当の姿がほとんど報道されないという、ある意味では教育が行き届いていたからだと思う。これから、隠されていた情報がいくつか出てきたら、情報量の変化が、やがてはそれを受け取る人の量と質を変化させて、いくらかの揺れはあるかもしれないけれど、真理に近いところに落ち着いていくのではないだろうか。歴史は、そんなふうに流れてきているような気がする。三浦さんの哲学は、最後は何となく希望を持たせてくれるところがあるので、僕は昔から心惹かれていたんだろうと思う。
2003.05.30
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仮説実験授業研究会に牧衷さんという人がいる。牧さんは、戦後まもなく学生運動の指導的立場にいた人で、砂川基地闘争の運動などでも活躍した人で、「運動論いろは」(季節社刊)という本を書いている。この本は、運動論をいろはカルタふうにまとめて、様々な箴言を教えてくれている。その中に、 「見物人のいない議論は殴り合い」というものがある。牧さんは、この言葉の説明にこんなことを書いている。「ところで、この討論・論争というものは、対立者と二人だけの場でやってはいけません。議論するからには、相手と自分は意見が違う。これ、敵対的矛盾です。で、一対一でムキになって相手を説得・論破しようとすると、矛盾対立はますますひどくなって、しまいには「この野郎ッ」とゲンコツが飛び交うことになりかねません。」インターネットというのは、ある意味では見物人はたくさんいるといってもいい。だから、牧さんのこの言葉が正しいとしたら、インターネットでも実りある議論が出来てもいいはずだが、牧さんの言う「見物人」はちょっとインターネットの見物人とは質が違うようだ。ちょっと長い引用をさせてもらおう。「殴り合いになるのを防ぐにはどうしたらよいか。議論をみんなの前で行うのです。公衆の前で議論する。そうすると、その議論を聴いている公衆の方が、どっちかの意見に味方する。そういう形で議論の勝敗を判定してくれます。それで勝ったか負けたか決まります。そんな時に殴り合いなんかやっちゃったら、殴った方が負けですよ。だから殴り合いにはならない。<見物人のいない議論は殴り合い>--私、腕力にあまり自信がありませんもので、もっぱらこれを拳拳服膺しております。 仮説実験授業の討論も、まさに見物人を前にして議論を戦わせ、どっちが多数を獲得するか競っておるんですね。だから子供たちが盛り上がる。ずいぶん激しい言葉でやり合いますね。あれを見物人のいないところでやり合ってご覧なさい、子供だって殴り合いのケンカになりますよ。だから見物人のいないところで議論をやっちゃぁいかん。 --これはつまり、「矛盾を媒介する場」が「二人だけの場」だと矛盾はゲンコツ(=運動を阻害する要因)になり、「見物人のいる場」だと矛盾は白熱した討論(=運動を推進する原動力)となる、ということです。<矛盾の性格は媒介次第>なわけです。 運動における議論は、見物人を自分(たち)の意見の味方にするために行うのです。まさに多数を争って行われるんです。どっちが多数を獲得するか、「見物人」の多数をどうやって獲得するか、で議論が面白いんです。 議論をやっていると、「見物人」がぱっと立って、「そんなこと言うけど、俺はやっぱりこう思う」とか、「その二人の意見の食い違いというのはちょっとおかしいんじゃないか」とか、いろいろ言ってくれる。そうしてみんなが議論に参加してくる。これが運動の元になっているんです。」長い引用だけれど、その最後の部分が重要だ。牧さんの言う「見物人」とは、議論に参加してくる見物人のことを言うのであって、単に傍観するだけの見物人では、いくらいても議論を盛り上げることは出来ない。インターネットでは、傍観するだけの見物人が圧倒的に多いので、口数の多い方が議論に勝ったように見えるだけという感じになる。「朝まで生テレビ」状態にしかならないんだろうと思う。長い引用になったのは、このことを本当に実感するには、前半部分の記述も必要だと思ったからだ。インターネットでの議論は、相手を受け入れるという雰囲気があって、自由に口出しが出来るということを誰もが感じていられる状況でなければ、実りあるものにはならないだろう。見ている人間が、口を差し挟むのをためらうような雰囲気では実りある議論は出来ない。これは、インターネットの未成熟というものの一つの表れであろうと思うけれど、今のところは、信頼出来る相手としか議論は出来ないというのが僕の感想だ。掲示板での議論をほとんどの人が嫌うのは、匿名での無責任な放言の方が多いからなんだろう。まずは信頼出来る相手との議論から始め、その輪を広げていくことが、インターネットでも議論が出来る可能性を広げることになるのではないかと思う。
2003.05.29
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図書館で「戦争論妄想論」という本を借りてきた。これはベストセラーになった漫画「戦争論」(小林よしのり著)を批判的に検討した本だが、その最初に載っている宮台真司の「<情の論理>を捨て、<真の論理>を構築せよ」という文章が印象に残った。まだこの文章しか読んでいないのだが、宮台真司という人は読むに値する人だと思った。この人に対しては、本多さんや佐高さん、それから最近の田中さんのように、その考え方にほぼ全面的に賛同するわけじゃない。むしろかなり違うものも感じる。宮台氏は、「私は「南京大虐殺」があったと断定する証拠はないという立場です」と語るように、「南京大虐殺」は、あったともなかったとも断定することは出来ないという立場で、僕はあったと断定出来るという立場なので、ここは全く違う考え方だといってもいいかもしれない。しかし、次の指摘は僕も賛成する。「<南京大虐殺>をめぐる事実認定をどう見るかという問題と、大戦での日本の戦争戦闘行為全体を他国の戦争戦闘行為と比べてどう見るかという問題は、別問題です。正確に言えば、(1)大虐殺の事実があれば戦争戦闘行為全体評価にも負の影響が出うるが、(2)大虐殺の事実がなくても戦争戦闘行為全体が正しいことにはならない。」つまり、「南京大虐殺」という一つの事実を否定されたからと言って、それに過剰に反応するような<情の論理>に流されてはいけない、戦争戦闘行為全体の評価という<真の論理>を冷静に考えなければならないと言う主張だと僕には読めた。この論理には全く賛成だ。ただ、「南京大虐殺」を事実として証明する努力をしている人は、<情の論理>で対応しているのではなく、自由主義史観と呼ばれる人たちのよりどころの一つも、実は事実として反論出来るということを示すことで、中間派と呼ばれる人々への影響を考慮しているのだろうと思うところが、僕と宮台氏の違うところだろうか。宮台氏は、戦争の評価に関して次のような提言をしている。「戦争に代わる多様な代替的選択肢との利害得失表、非戦闘員の負傷・死亡率、捕虜収容所での罹患・死亡率、戦争への合意形成プロセス、国際法の遵守程度、仕掛けたのはどちらかなどを「相対的」に検証して、どちらが悪いかを「相対的」に判定するしかありません。これが戦争評価の国際常識なのです。」つまり戦争評価をするには実に難しい問題がたくさんあるということを述べている。これらをいっぺんに論じてもそれは訳の分からない知識が飛び交う水掛け論になってしまうに違いない。僕は、以前に自由主義史観を提唱する藤岡信勝氏とその反対者の議論を見に行ったことがあるけれど、双方の主張がかみ合うところは全くなく、それぞれの基盤となる事実と意見を述べあっているに過ぎなかった。この戦争評価の方法は、イラク戦争の遙か前に提出されたものだけれど、今度のイラク戦争を、この観点で検討するというのも論理的でいい方法かもしれない。しかし、このように難しい問題は、正反対の主張を持っていて議論をしても仕方がないという感じだ。むしろ共通の基盤を持つ相手と、不明な部分を検討しあうということから始めるのが建設的なやり方になるだろうと思う。共通の基盤を持つ相手は、同じようなセンスを感じる相手と言うことが出来るかもしれない。生理的に暴力を嫌う人とは同じセンスを共有出来そうな感じがする。僕の場合は、正当防衛はやむを得ない暴力だと思っているけれど、それ以外の暴力は生理的に嫌悪感を感じる。特に、強いものが弱いものに暴力をふるうのは、決して正当防衛とは思わないので、これは生理的に嫌悪感を感じる。次のような宮台氏の言葉に共感出来ると、同じセンスを持っているんじゃないかなと期待出来そうな感じがする。「原理的な次元で言えば、「足を踏まれたので痛い」といった端的な切実さが出発点にあれば、切実さが組織化され、一つの運動になります。端的な切実ささえあれば、それ以外にどんな幻想が成り立とうが成り立つまいが、運動は行われます。ただそれだけのことで、それ以上でも以下でもあり得ません。」運動には、当事者意識というものが必要で、それがあれば、それがいかにして生まれてきたかを検討することによって論理的にも整合性を持ってくるのだと、僕はこのことを解釈した。イラクの殺される民衆の運命を自分と重ねることが出来た人が、反戦の運動に入っていったのはごく自然なことなのだと思う。このことに関連して、次のような言葉もある。「自分がやりたいから革命する。自分の好き勝手で社会運動に夢をはせる。つまりやりたいのは「自分」だ。他人のためになる「かもしれない」が、それは他人のためになることを「自分」が望むからだ。望むのは「自分」だという一点を忘れないことが重要です。さもないと不遜な普遍主義や本質主義が生まれてしまうからです。」この言葉は、自戒も込めて心にとどめておきたい言葉だと思う。なまじ論理的な判断が出来てしまうと、「不遜な普遍主義や本質主義」に陥る落とし穴がいつでも待っているような気がする。大事なのは、それを本当に自分が望んでいるかということだ。仮説実験授業では「楽しいだけでいい」ということをいうけれど、人間の生き方でも「楽しさ」がまず一番の基準になるのかもしれない。次の引用も僕は共感を覚えるところだ。「日本の戦争戦闘行為がなければ、アジアの一部の国の独立はなかった。あるいは遅れただろうと、よく言われますね。そうだとしましょう。「だから、どうなんだ?」で終わりです。戦争の波及効果はいくらでもあり得る。それを言うなら、国内法に違背する犯罪の、善の波及効果だっていくらでもある。でも「だから、どうなんだ?」」「いずれにしても、「インドネシアは独立した、だから日本の戦争はよかった」という戦争正当化は、「南京大虐殺はあった、だから日本の戦争は誤りだ」という反戦教育と、全く同じ質を持っています。私に言わせれば「だから、どうなんだ?」で終わりです。いったいいつまで馬鹿を繰り返すつもりでしょうか。」論理的なつながりのないものを情緒でつなげてはいけないと言う主張だと思う。あくまでも本当に論理的につながるものを見ていかなければならないと言う主張だと思うので、僕は共感出来ると思った。宮台真司は読むに値する人だと思う。たとえその基本的な姿勢は自分と違っていても、いや違うからこそ僕の知らない豊かな発想を教えてくれるような気がする。その基盤にあるのは、ものの感じ方に同じようなセンスを感じるからかもしれない。同じセンスを持った人間だったら、考え方が違っても、きっと実るある議論というものが出来るだろうと思う。
2003.05.27
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対立物の統一というのは哲学的な用語で、これだけを単独に取り上げたら難しいけれども、三浦つとむさんはいくつかのたとえのあとにこの用語を取り上げる。真実の二面性ということの例をいくつか挙げて、どちらの面を重視するか、どちらが本質的だと思うかと問いかける。たとえば、剣術で負けた弁慶の一面と、機転を利かせて危機を脱出し、主君の牛若丸に忠誠を尽くした一面とを取り上げる。剣術で負けたのは偉くないけれど、その他の面では偉いのである。日本では、選挙の時に、身内にどれだけ配慮してくれたかということが投票の決め手になることがあるが、身内にやさしくしてくれる人が議員として本当にふさわしいかは次のような一面も考えて決めなければならないと三浦さんは教える。「しかし、本当は、この(立候補した)社長や重役が自分の会社の従業員にどういう態度をとっているか、世の中の働く人たちの生活をどう考えているか、労働組合や外資導入の問題についてどういった見解を持っているか、それこそが聞いている人たちの愛する子供が幸せになるか否かを決めるのです。自分の子供をかわいがったり教育のことを心配しているのが事実であっても、それは世の中の働く人々の子供何千万人を可愛がり教育について心を痛めていることを必ずしも意味しないのです。」戦後まもなく書かれた本であるのに、現在にも通じる言葉であるというのはすごいものだと思う。それだけ我々は進歩していないのだろうか。身内にやさしい人が、すべての人に平等に優しいかどうか、対立する面を考えなければならない。戦争に関しても、この時代にすでにこのような意見を書いている。「平和といっても侵略者の思いのままにさせる平和と侵略者のいない平和とあるように、戦争にも侵略者のやる戦争と解放者のやる戦争とがあります。問題は「戦争をする」ことではなく「どんな」戦争をするかにあるのです。働く人たちの利益に役立つ、解放のための戦争にしても、やはり悲惨な出来事には違いありませんが、この戦争によってより大きな悲惨が姿を消すことを見失ってはなりません。もちろん、戦争をしないでこの大きな悲惨が姿を消せば、これにまさる喜びはありませんが、正義のためにやむなく戦わねばならぬことも起こるのです。」アメリカは、正義を装い、必要な戦争であることを主張したが、それは証明されなければならないことだ。果たしてそれは証明されたのか。正義であるかどうかを判断するには、その逆の不正義の場合もよく知った上で、この場合が具体的にどうなのかという判断をしなければならない。本当に深い理解のためには、常に逆のことを考え合わせることが必要だということを、僕はこの「対立物の統一」という言葉に見ることが出来た。三浦さん自身の言葉では、次のように説明している。「こういうように実例を次々に調べてくると、これら全体を共通して貫いている原理ともいうべきものに気がつきます。戦争は否定せねばならぬとか、平和を望むものは侵略に反対するのだとかいう規定は、確かに事実を正しくとらえてはいますが、それは一面の真理であって、全く反対の、対立した規定で補われて初めて、本当に正しい規定であるということです。常識では、一方を原則、他方を例外といいますが、原則ばかりで例外のないという場合があるかどうか考えてみましょう。いつでも例外がついて回るなら、例外のあること自体一つの原則ではありませんか。」このような説明で具体的なイメージを持てば、次のように哲学者ヘーゲルの高度に抽象的な言葉でもその内容が頭に浮かんでくるようになる気がする。三浦さんの本から孫引きしてみよう。「二つの対立する面の各々はそれ自らその他者を包含し、他者を除いては考えられない。故にこの規定はいずれも独立的には真理でなく、むしろその統一のみが真理であることが結論される。そしてこの結論こそがその規定に対する本当に弁証法的な考えであって、またその本当の結果でもある。」(ヘーゲル「大論理学」)哲学の理解というのは、こういう風に進んでいくんじゃないかと哲学青年だった頃は思っていたな。対立の統一こそが真理であるならば、どんな物事にも対立する部分が見つけられる。その一面だけを攻撃することも可能だ。しかし、本当はその対立する二面のどちらが重要であるかを判断し、それがどのように統一されるかをこそ考えなければならないのだろう。イラク戦争においては、アメリカの不当性が際だっていたので、結果的にイラクが解放された面もあるといういうことを軽視してしまう傾向があったが、それを正しく位置づけて評価する必要もあるということに気づいた。そうでなければ対立物の統一にならないだろう。アメリカには、イラクを解放するという必要も確かにあった。解放しなければ国連の決議を解除して石油を自由にすることも出来なかったのだから、解放という事実もその一面から考えなければならないだろう。全体的には、やはりアメリカの不正義を問題にしなければならないが、それはアメリカが主張する正義を考えると同時に不正義も現れて来るという構造になっていそうだ。ヤフーのニュースで、それに関連がありそうなものを見つけた。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030526-00000026-kyodo-int ここでは、ブッシュ政権が、米議会報告書の公表拒否をしているという記事が出ている。その理由は、「(1)アルカイダによるハイジャックの可能性が事前にブッシュ大統領に報告された(2)サウジアラビア政府とアルカイダとの関係が指摘された-といった「微妙な問題」が公になるのを嫌っているためだと報じた。」この事実が明らかになれば、アメリカの正義の内実も明らかにされるだろう。田中さんが推測しているように、ブッシュ政権はむしろテロが起こることを望んでいたということが証明されるかもしれない。アメリカの正義が本当の正義かどうかということが、対立物が統一されて正しい判断になるだろう。
2003.05.26
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僕は、かつて哲学青年だった頃に三浦つとむさんの本に夢中になっていた。僕が三浦さんに夢中になったのは、最初のページから最後のページまでよく分かる哲学書というのを、三浦さんの「哲学入門」を読んで初めて経験したからだった。他の哲学書は、難しい用語を知らなければ論理のつながりもさっぱり分からなかったのに、三浦さんの本は、知識がなくても、読み進めていくとその知識が分かるような書き方がされていた。三浦さんは、比喩的な説明に優れている人で、弁慶と牛若丸の話を引いて「本当のことを知らせて嘘をつくことが出来る」ということを説明している。弁慶と牛若丸とどちらが偉いかを考える時に、五条の橋での試合が有名なので、それを知っているとつい牛若丸が偉いといいたくなる。しかし、弁慶が機転を利かせて危機を脱出する「船弁慶」や「勧進帳」と呼ばれる物語を読むと、弁慶の頭の良さや、勇気や立派な精神というものを知ることが出来る。今度は、これを知ると、総合的には弁慶の方が偉いのではないかとも思えてくる。偉いというのは客観的な判断ではないから、必ずしも誰もが賛成する必要はないけれど、何かの判断をする時に、その判断の一番大きな理由となるものをどう見るかという観点が決定的に重要なのだということを僕はここから学んだ。一面を見るのが間違いなのではなく、本質的な一面を見るかどうかが正しいか間違いかを決定する。このことを哲学的にまとめると、三浦さんは次のように表現している。「真理は、すべて決まった条件の中で正しいのです。その運用される限界があります。いくら正しい理論でも、その条件を無視し限界を越えて度はずれに広げるならば、それは間違いになります。科学は非科学になり、科学的な哲学は神がかり哲学になるのです。」このことから教えられる教訓は、一般論で展開される意見に気をつけなければならないということだ。一般論は、条件をはっきり提示しない。運用される限界を自分の都合で変えられてしまう危険がある。有事法制の議論に僕はそんなものを感じた。具体的にどんな危機があって、それに具体的にどう対処するのかという議論をしない限り、その議論が正しいかどうかを判断することは出来ない。抽象論の範囲では、いくらでも解釈を変えて正しく装うことが出来てしまう。三浦さんの本には、どこに注意して真理と誤謬を区別するかということが書かれていることが多い。本質的な面に注目して物事を見るというのもその一つだろうと思う。昨日紹介したチョムスキーにもそれを見ることが出来る。マスコミの宣伝に乗せられた人々は、イラクの人々が歓声を上げていたことを、アメリカ軍が歓迎されているという判断に結びつけていたけれど、その歓声が起こるまでに時間がかかりすぎていて、その数も限られていたという面を見ていたチョムスキーは、逆にアメリカが必ずしも歓迎されていないという判断をしていた。どの面を見るかで、判断が正反対になってしまう。問題は、どちらが本質を表している事実かということだ。三浦さんの「哲学入門」には、興味深い注意もある。引用しておこう。「私たちは、物事をいくら深くつかんでいっても決して全部を知りきってしまうことは出来ません。前の知識を土台にして次の物事がどうあるかを想像し、それによって行動します。今日のありさまから明日を想像し、他人の一生から自分のそれを想像するというようにして生活していきます。私たちが物事を知る時は、すべて一部分から他の部分へと知っていき、ある部分でつかんだ真理を土台にして他の部分を想像していくので、いつでもこういう度はずれを起こす危険が待ち伏せています。また、こういう原理を応用して人をだますことも出来ます。たとえば、ある人にとってそれほど重要でない個人的な性質や事件を取り上げ、その小さな真理を大きな声で触れ回り、その他のことについてはいっさい口をつぐんでいるなら、これを聞いた人はその小さな真理を土台にしてその人間全体についての判断を下すでしょう。」含蓄の深い言葉をかみしめたい。どの事実、どの一面に注目するかということは、ある意味ではセンスの問題でもある。誤謬から逃れ、真理をつかむにはセンスを磨くことも重要になるだろう。
2003.05.25
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昨日の金曜日は「週刊金曜日」が届く日だ。ここにはマスコミに載ってこない貴重な情報が載せられているので、これを知らない人に知らせるのはとても価値の高いことだと思う。そこで、記事のいくつかを引用して紹介しよう。有事法制について、これが「自治体の責務」を規定していることもあり、その具体的内容がどのようになるかが分からないので国立市は国に質問書を提出したらしい。それに「個別には直接回答しない」というものをもらった国立市長の上原公子さんは、次のように書いている。「法案によれば、自治体は危険な現場に出る立場ではないが、国民・市民を「有事」の際に誘導し、駆り立てなければならなくなる。しかも法定受託事務なので戦争協力を拒否すれば処罰の可能性があり、「代執行権」という名目で国が自治体に乗り込んでくることが予測されます。つまり、憲法で定めた自治権が、侵される恐れがある。」具体的な検討がなされなければ、実際に有事と判断されたら、検討をする前に独裁的に物事が進められてしまう。だからこそ、有事になる前に慎重な検討が必要になるのだが、抽象的な議論だけで具体的な検討なしにこの法案が通ってしまった。具体的な検討に進めば、この法案の実質というものが国民の目に明らかになってしまうからだろう。現在のアメリカで最高の部類に入る知識人の一人である、言語学者として著名なチョムスキーへのインタビュー記事もある。チョムスキーはアメリカのイラク侵略に対して、「侵略の理由の一つは確かに、世界第二位の石油資源を支配することにあります」と言っているが、より本質的には、次のように考えているようだ。「もし社会・経済問題が選挙の争点になっていたら、ブッシュ政権に勝ち目がなかったことは、政治の天才でなくてもすぐ分かることですね。それで、私たちの生命に重大な脅威が迫っているという話をでっち上げる必要があった。そして強力な指導者が、この脅威を奇跡的に克服してみせるというわけです。」これは、このごろの日本の状況にも似ているようだ。小泉政権の経済政策は失敗ばかりで少しも明るい兆しが見えないが、北朝鮮の脅威をあおっている間は、人々の目はそこに向いていかない。いわゆるブッシュドクトリンというものについても、次のような発言を読むと、その本質がよりはっきりと見えてくる。「これは報道ではしばしば「先制攻撃」のドクトリンと呼ばれています。しかし、この呼び方は全く間違っている。先制攻撃よりも遙かに先を行くものだからです。もっと正確に「予防戦争」のドクトリンと呼ばれることもあります。これでもまだ控えめに表現しています。「予防」すべき軍事的な脅威の存在さえ、もう必要ないからです。脅威などは、いくらでもでっちあげられる。それに脅威といいながら「抵抗」に過ぎないかもしれない。歴史に関心のある人なら知っているでしょう。(弱者の側からの)「有力な抵抗」にあうと、たいてい(強者の側は)武力行使を正当化してきたものです。」戦争が終わった時に、イラクでフセインが倒れたことに歓声を上げていた人々がいたことをどう考えるかということも、興味深い回答を見ることが出来る。「歓声が聞こえるまでずいぶん時間がかかりましたね。街頭に出た人々の数も限られていた。私にはそれが意外で、驚いたくらいです。まともな人なら誰でも、独裁者がいなくなったことを喜ぶだろうし、これで経済制裁が終わると安心するでしょう。イラク人ならなおさらです。」同じ事実を見ても、観点が違うとこういう見方も出来るのかと感心する。何に歓声を上げ、何に危惧を抱いていたかということが、歓声が聞こえるまでに時間がかかったということに現れていると見ていたのではないか。イラクに民主主義の国を作るというアメリカの言い分に対してどう考えるかという問いには、こう答えている。「ブッシュ政権には中東諸国を民主化するつもりなどありません。きちんと機能する民主制が出来ると、アメリカのヘゲモニーに都合の悪い事態を招くことになるからです。アメリカの「裏庭」(といわれる中米やカリブ海諸国)の過去一世紀に渡る歴史が、これをよく物語っています。」日本にとってというより、平和を望む多くの人々にとって実に深刻な内容のメッセージもある。次のようなものだ。「もう一つ、もっと具体的なメッセージが届いています。イラクと北朝鮮が別扱いにされたからです。 --アメリカからの攻撃を避けるためには、確かな抑止力を持つのがいい。 多くのエリートたちが予測していることですが、(イラク侵略の)結果として、大量破壊兵器を持つ国やテロ組織が増えます。テロ活動が、様々な形をとりながら広まってゆくでしょう。テロリズムは、アメリカ政府に対する恐怖と憎悪から生まれます。アメリカ政府こそが、世界平和に対する最大の脅威だと見なされている。この侵略が始まる前から、すでにそうでした。」このほか「週刊金曜日」には、元防衛庁防衛研修所第一研究室長だった前田寿夫さんという人が意見を寄せている。いくつか考えたい指摘がある。抜き出してみると、次のようなものになる。「今日も、周辺諸国との間で軍事力で解決しなければならないような問題は存在しません。」「本来組織というものは、絶えずそれが「必要なのだ」ということを示すことが求められます。自衛隊も同じで、存在理由がなくなると困ってしまいます。そのため、自分で「脅威」を作ることは出来ませんから、常にどこかに「脅威」を求めるようになる。また自衛隊はこれまで様々な兵器を購入してきましたが、それを使うためにも理屈を考えてきたのです。」「もし戦争の危機があるとすれば、日本が安保条約のために米国の戦略にのめり込んで、その結果戦争に巻き込まれるというケースしかない。」「(北朝鮮の様々な、脅威といわれる活動に対して)しかしこれらの活動は、米軍が占領後も日本に居残り、日本を基地にして、日米安保条約を使って北朝鮮に対し軍事活動を展開しているから、その反応として北朝鮮が行動しているに過ぎません。」「我が国が平和を維持しようとするなら、必要なのは自衛隊の強化でも有事法制でもない。米国の戦争に日本を巻き込む可能性がある安保条約を、第一に廃棄すべきでしょう。米軍との関係を徐々に薄くしていき、最終的には日本から出て行ってもらうことが日本の平和と安全にとって一番の得策なのです。」これは、結論しか引用していないので、関心を持った人には、ぜひ全文を読んでもらいたいと思う貴重な意見だ。
2003.05.24
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田中さんの本を読み終えて、改めて物事を正しく理解することの重要性を感じた。アメリカを支配するネオコンの考え方は、自分とは全く正反対のものなので、理解するのも気が滅入る感じになるけれども、この理解を間違えると、自分の行動も間違えてしまうのではないかという気がしてきた。たとえば、今度のイラク戦争に関しても、戦争という手段は多くの民衆を殺すことになるし、それによって絶望と恨みが残れば多くのテロリストを生み出すというのは、まともに考えれば誰にでも予想出来ることだ。しかし、ネオコンが基本的に戦争状態を歓迎する姿勢を持っているということが分かると、この批判は彼らには届かないし、どれだけ批判しても彼らが権力を握っている限りは必ず戦争をしてしまうだろうということも「理解は出来る」。それに賛成はしないけれど。同じように賛成はしないけれど、理解出来るものとして、小泉内閣に関するもので、田中さんの本にこういう記述があった。「イラク戦争前の小泉政権の慎重な態度は、日本のマスコミなどでは「曖昧な態度だ」と不評だったが、上に見たような外交上の位置関係を考えれば、微妙なバランスを保つものだったといえる。」ここで、「上に見たような外交上の位置関係」に関しては、次のような記述がある。ちょっと長いけれど、これがないとこの記述にあるような理解が難しいので引用しよう。「このように、今後北朝鮮で戦争が起きるとしたら、それはアメリカが仕掛けた部分があることになるが、日本のマスコミでは、そのような説明がなされることはないだろう。北朝鮮だけが悪く、アメリカは正義だという論調が展開されると思われる。日本では北朝鮮に対する「防衛的な戦争」や「先制攻撃」に賛成する人が多い状態になるだろう。 イラク戦争に至る流れを見れば、アメリカ政府は正義でも何でもなく、ただ世界を混乱させて自国の覇権を強化しようとする「悪の帝国」であることが分かる。北朝鮮に対する戦争も、この流れの中にある以上、「正義」などではない。外交で解決出来るのに、アメリカ中枢を仕切っている戦争をやりたい人々が不必要な戦争を起こしているに過ぎない。 それでも「北朝鮮の人々の何分の一かが死に、韓国の市民が何十万人死んでも、日本が防衛されるなら、それでいいではないか」という考えもあるだろう。ところが、これも軽信だと思われる。アメリカのタカ派は、アメリカの覇権が拡大出来るなら、韓国や中国だけでなく、日本も戦争に巻き込まれて破壊されても、別にかまわないと思っている可能性があるからだ。「日本はアメリカの同盟国だ。韓国のように反米に転じたこともないのだから、アメリカが日本を見捨てるはずがない」という考え方は希望的観測に過ぎない。アメリカにとっては、韓国や中国だけでなく、日本も破壊されて東アジア全体の経済生産性が落ちれば、アメリカの生産力が今よりも重要になり、アメリカ経済にはプラスかもしれない。東アジアという経済的ライバルがいなくなれば、ブッシュ政権が経済面で米国内の世論から攻撃される恐れが減り、好都合かもしれない。」このような背景をもとに考えてみると、アメリカの忠実な傀儡としての自民党の総裁である小泉首相の行動は、自民党の総裁であるということを考慮に入れれば「理解は出来る」。自民党とは無関係な一庶民である僕は賛成は出来ないけれど。アメリカの傀儡であることによって利益を得る自民党や、その自民党と関係することによって利益を得る人々は、小泉首相の判断を支持することは理解出来る。それ以外の選択肢はないだろう。しかし、直接利益を得ることのない人々までがそれを支持しているのは大量宣伝のたまものだ。そういう人々が早く目覚めて我々と手を取り合うことが未来への希望だが、これは多くの困難に満ちているだろう。それでも、我々は絶望することなく、希望を持っていきたいと思う。賢い人間は多いはずだ。北朝鮮に対するマスコミの見方は、かなり強い偏見に満ちたものが多く、それをそのまま信じていると深く理解するということは出来なくなる。しかし、そういう偏見を捨てて理解するということに重点を移せば、民衆レベルで連帯するということが出来るかもしれない。権力の側に情報を操られている今は、そういう冷静さが大事なように思われる。次のような田中さんの記述が参考になるのではないか。「日朝間には「拉致問題」がある。この問題を重視すると「金正日は異常だ」という結論になりかねない。だが、日朝間に国交がなく「準戦時状態」であることを考えると、北朝鮮が日本を混乱させるためにスパイを送り込もうとして、スパイ養成のために日本人を拉致して来るというのは、北朝鮮側の軍事戦略としては必ずしも「異常」ではないということになる。」「「北朝鮮がアメリカとの合意を破ったので、アメリカも北朝鮮との約束を守らないことにしたのだ」という主張を聞いたことがあるが、これは正義がアメリカの側だけにあることを前提にした議論だ。相対的に見れば、逆に「アメリカの政策が揺れている以上、北朝鮮が疑心暗鬼になって秘密裏に再武装を始めたのも当然だ」という考え方も出来る。」勘違いされると困るので一言付け加えておくけれど、理解することと賛成することとは違う。しかし、すべての行動は、まず正しい理解を前提にして行わなければ正しい方向へは行かない。どんなに反対の考え方であっても、まず論理的な整合性を理解するということが大事だろう。偏見による先入観から脱していかなければならないと思う。
2003.05.23
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昨日紹介した田中さんの本をもう少しで読み終えるけれど、田中さんの文章はとても面白いので、しばらくは田中さんにしぼってその著書を読みたいと思うくらいだ。衝撃的で、自分が考えもしなかった観点を教えてくれるという点でとても刺激的だ。しかもそれが説得的で充分納得がいく。「アメリカ「超帝国主義」の正体」で衝撃的な考えは、今アメリカを支配しているネオコン勢力の考えが、基本的には世界を不安定な状態にして、アメリカの強大な軍事力を必要とするような状況を常に作り出しておくというものだった。常に有事体制を作り出すことが基本政策になっていくだろうという予測だ。有事体制というのは、日本の法律でもそうだと思うが、議会の承認を経て何かを行うというのでは対処が遅すぎるという議論で、権力を集中させる独裁体制を何らかの形で承認するものになっている。平時なら許されることのない、民主国家での独裁が、有事なら実現出来るということは右翼的な保守層にとっては非常に都合のいいことだ。アメリカの民主主義は、世界の平和を願い、多くの人々の幸せを実現する方向に進むということが、全くの幻想であるということを田中さんは教えてくれる。テロリストについても、ネオコンの考えとしては、それは温存しておく方が利用価値が高いという結論になってくる。イラク戦争は、テロリストを生み出すのだからやめるべきだという批判は、ネオコンには届かないのだ。テロリストを生み出すのはかえって好都合だということになる。権力の座にいる人間はテロリストには狙われない。テロリストは、パレスチナを見ても分かるように、戦車やミサイルに石を投げて抵抗するような人たちだ。直接強大な軍事力にぶつかることが出来ないからテロに走ってしまう人々だ。狙われるのは、もっとも警備が弱いところになる。もしくは、権力の側がわざとやらせるために警備を手薄にしたところになる。それはたいていは一般民衆が集まるところになる。権力は、このテロを憎しみの心を植え付けるのに使うだろう。そうして民衆が憎しみあってくれれば、国内的にも反政府運動をする人間を多く生み出さなくてすむからだ。反政府運動をする人々を孤立させておけば弾圧するのにも都合がいい。アメリカの今の状況がそれに近いだろうか。このような状況を田中さんに教えてもらうと、現在は悲観的な要素ばかりで絶望するしかないようにも思えてくる。しかしこのような状況だからこそ、民衆の多くの部分がもっと賢くなって、憎しみの気持ちを乗り越えなければ、本当に悲惨なことになってしまう。こんな状況だからこそ民衆は、お互いに理解し合い手を取り合わなければならないと考えていかなければならないと思う。国家の枠を越えて世界市民を形成するというジョン・レノンの夢が実現しないと、我々はひどいことになるだろう。世界市民になる必要がない時代は、それを訴えてもそれは「夢物語」として相手にされないかもしれない。でも、それが必要だという時代になったら、もしかしたらこの夢が実現されるんじゃないだろうかと、そう未来に光を見ながら生きたいものだ。ジョンは、少し早く生まれすぎたけれど、時代がようやく彼に追いついてきたと思いたい。イラク戦争が起こるかもしれないという時に、世界中で盛り上がった反戦の思いは、世界が一つになっていく可能性を感じさせてくれた。アメリカにも、マイケル・ムーアのような人が生まれるということは、民衆のレベルでは人々は理解し合えるということを、これまた感じさせてくれるのではないだろうか。テロリストを放置しているのは、アメリカの権力の側だということを民衆が理解するようになれば、絶望的な状況だからこそ真理が分かるという逆説的なことが起こるのではないかと、それを期待して未来を見ることにしよう。アメリカは、戦争の勝利の陰で、経済的には史上最悪になりつつあるという。そして、そろそろそちらに気づく人が増えてきたようだ。権力の嘘は、こういうところからほころびていくんじゃないだろうか。
2003.05.22
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土曜日に近くの本屋で村上春樹の新訳のサリンジャーを買った。その時に目について、購入したのがこの田中さんの本だ。田中さんの文章は、そのメールマガジンでおなじみなので期待はしていたけれど、期待通りの面白い本だ。まだ半分しか読んでいないけれど、一日で半分読めてしまうほど面白い本だった。田中さんは、インターネットで報告される膨大な量の記事に目を通し、それを独特の視点で分析して論評をするジャーナリストだ。誰にでも見られる記事が、田中さんの目を通してみると、実に多くのことを教えてくれる。物事を見る時の視点の大事さというものを教えてくれる。そして、田中さんは、文献から机上で想像するだけの人間ではなく、それが正しいかを現地で検証するジャーナリストの基本を忘れない人でもある。だからこそ信頼のおける文章を書けるんだろうと思う。田中さんはまえがきの中でこのように語っている。「私は反戦運動家ではない。世界がどう動いているか、自分なりに納得したいと考えて分析を続けてきた。いわば「市井の国際情勢アナリスト」である。ところが、分析を続けているうちに分かったことは、アメリカが非常にフィクション的な騙し(だまし)に満ちた危険な外交政策をとってしまっている、ということだった。アメリカの現状は、アメリカ国民にとっても、日本人を含む世界の人々にとっても、望ましい状況からあまりにかけ離れている。私は自然に「こんな戦争はすべきではない」と思うようになった。 本書の内容に初めて接する読者の中には、これを「陰謀論」と受け取る人がいるかもしれない。だが、本書をよく読んでいただくと、私が根拠のない「陰謀論」を述べているのではなく、事実と思われるニュース情報をもとに分析、推論していることが分かっていただけると思う。」「陰謀論」というのは、権力の悪を暴露しようとする人々を排除したい時に、権力を擁護する側が貼るレッテルだ。<根拠なしにすべてのことを陰謀に結びつける>という非難をするから、こう言うんだろうと思う。そういう人間もいるだろうけれど、田中さんの語ることはすべて根拠のあることだ。だから信頼出来ると僕は思っている。田中さんは、他の著書でもニューヨークのテロについて興味深いことを書いているけれど、この本でもそれの分析を通じて書名にあるように「アメリカ超帝国主義」というものをわかりやすく説明してくれている。僕もあのテロが行われた時から、これは権力の陰謀のニオイが強いという思いを持っていたものだ。アメリカほどの世界の最先進国が、あれだけの大胆な行動をするテロを、何も防ぐ手だてがなくてやらせてしまうというのに大きな疑問を持っていた。どこかで防ぐことが出来たのではないか、少なくとも防ぐ行為があってもいいと思ったのに、それがほとんど報道されず、結果としての悲惨な光景だけが報道されていたからだ。ただ、僕の場合はその根拠が見つけられなかったので、陰謀ではないかと思っていても、それは客観的な推論として考えたものではなかった。それが田中さんの文章を読むと、単なる思いではなくやはり根拠のある推論なんだと思える。それは、通常であれば守られている警備や防衛のシステムが、なぜかあのテロの時だけは正常に作用していなかった事実を一つ一つ田中さんが明らかにしているからだ。あのテロが起こった時に、かなり早い時点で犯人が特定されて報道された。あれは、すでにその前からマークしていた人物だったので速やかに犯人が特定出来たらしい。つまりテロが起こる前からテロリストとしてマークしていたわけだ。それなのに、なぜかその捜査がそれ以上進まずに、テロが行われる前の逮捕が出来ていなかった。旅客機がハイジャックされた時も、防衛システムが正常に働かずに、まるでビルにつっこむのを待っているかのようにテロが終わってから防衛のための戦闘機がニューヨークに到着している。正常に働いていればもっと早く来ていたはずなのに。これは一つのミスだという見方も出来るかもしれないが、すべてに渡ってミスが続いているのは、これは何か意図が働いていると推論しても間違いではないような気がする。しかも、それは末端の人間が出来ることではないので、権力の中枢にいる人間の意図が働いた、つまり陰謀であるという推論が出来そうな気がする。映画の「JFK」でも、当時のケネディ大統領の警備が、通常では考えられないミスばかりが行われていて、しかもその捜査が全く行われていないことに疑問を感じたギャリソンがそれを調べ始めたのが、その陰謀を暴くきっかけだった。個々の事実がはっきりしなくても、大局的に見ればおかしいと感じることをつなぎ合わせて真理に近づくことが出来る。田中さんの視点というのはそういうものじゃないかと感じた。田中さんの推論に寄れば、アメリカを今支配している危険な新保守主義のネオコンは、世界を戦争の緊張状態に置くことで、最強の軍事力を誇るアメリカの支配力を強くしようというねらいを持っているということだ。だから、ネオコンにとってはテロリストがいることが好都合なことで、これをなくすような努力をせずに、むしろ育てるようなことをしていくだろうということだ。そうなれば、イラク戦争が100人のビン・ラディンを生んでも、それはかえって好都合ということになる。テロをいくら非難しても、ネオコンにとってはそれで反省して武力による弾圧をやめようとはしないことが予想される。戦争状態こそが彼らの望むことであるとすれば。これは、有事法制を考える時も大事な視点になりそうな気がする。有事というのは、乱された平和を回復するために、防衛を行うことではないようだ。アメリカの世界戦略である戦争状態の継続の中に、日本の協力というものを取り付けるためにその法律があると考えた方がいいだろう。ネオコンがアメリカを支配し続ける限り、日本は常に有事の中にいると思った方が良さそうだ。この危険性に、果たして日本人の何人が気づいているだろうか。田中さんの言葉に耳を傾ける人が一人でも増えることを願いたい。
2003.05.20
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トップページに、貴重な情報源となるところを6カ所紹介しておいた。マスコミの大量の発表記事という権力の側の宣伝に対して、これらの情報がどうして信頼がおけるのかというのは、論理に慣れていない人にとっては判断が付かない時もあるかもしれない。感情に訴える言葉の方がわかりやすいし、何よりも大量に流されているということから、そちらの方が本当ではないかと思わされてしまうからだ。まともなことを書くには、客観的な証拠を提出して、そこからどのように論理的に結論が導かれるかを説明していかなければならないが、これは自分の頭でよく考えるということを要求する。単純な言葉をそのまま信じるという簡単なことではない。しかし、誰かの言葉をそのまま鵜呑みにして信じるよりも、自分の頭で考えることの面白さを知ると、世の中が今よりもはっきりと見えてくる。そうすると、自分の頭で考えずにはいられなくなるだろう。そういう人が一人でも増えることが民主主義の発展につながると思う。そこで、僕がこれらの情報の方をどうして信頼するのかというのを、マスコミの発表記事と比較して考えてみたい。自分の頭でものを考えるということの参考にしてもらえればと思う。アメリカの嘘を紹介した日記で、バグダッドの略奪行為はアメリカ軍があおったというようなことを僕は http://www.egroups.co.jp/message/TUP-Bulletin/41 からの情報で得た。この情報をなぜ信用したかというと、ここでは次のような証拠を挙げていたからだ。人間の盾としてバグダッドに入っていたカリード・バヨミという人の目撃証言として次のようなことを書いている。「午後になると戦闘が止んでまったく静かになり、そこへ4台のアメリカ軍戦車が貧民街の境に移動しました。米兵はハイファ大通りの向こう側にある自治体行政府ビルの門前に立っていたスーダン人警備員二人を撃ち殺し、行政府ビルの扉を粉々に破壊しました。その後、戦車の中から貧民街に隠れている人々に向かって、アラビア語で、近くまで来るように熱心に誘う声が聞こえてきたのです。 午前中いっぱいは、大通りを横切ろうとする者は誰でもみな撃ち殺されていたのに、米軍の通訳は、今度は近くに寄るように誘うのです。銃撃戦も終わり、何とも言いようのない静けさがしばらく続きましたが、家々に隠れている人々はその誘いに、徐々に好奇心を持ち始めたのでしょう。 45分後には、最初のバグダッド市民が思いきって家から出てきました。すると、戦車に乗っているアラビア語通訳は、近くに寄ってきた市民たちに、行政府ビルの中に入っていって、何でも好きな物を手当たり次第に持ち出してもいいぞと奨励したのです。」この報告が嘘だという続報は入ってこない。おそらく否定出来ない事実なのだろう。権力を持たない側は、間違いをするかもしれないが、意図的な嘘はつかない。間違えた時も、それに気づいた時は速やかに訂正をする。 http://www.egroups.co.jp/message/TUP-Bulletin/45 を見ると、その訂正を見ることが出来る。間違いを速やかに訂正出来るということにまた信頼性を持つことが出来る。権力の側の垂れ流しの記事は、戦争が行われていた時はたくさんあったのだが、それはもう消えてしまってなかなか適当なものが見つからないので、実例を正しく引用出来ないのが残念だが、その特徴を一言で言えば、客観的な証拠の提出がないということだ。イラクの大量破壊兵器については、それが戦争の口実であったにもかかわらずとうとう一つの証拠も提出出来なかった。すべてが、間違いであるかでっち上げであるかのどちらかだった。バグダッドの略奪行為についてはその原因は米軍が作ったのであるが、正しく報道されなかったために、イラクの側の責任というイメージを振りまいた。このようなフセイン政権の悪を宣伝するためのニュースというのが他にもいくつかあるようだ。戦争当初の油田の火事は、イラクが火をつけたものと思われていたが、その証拠はなかった。これに関しては次のような記事もある。 http://www.egroups.co.jp/message/TUP-Bulletin/53 ここでは次のように報告されている。「また、油田の火事も米軍の特殊部隊によって放火されたのではないか?というニュースも先日、同じラジオ局で聞いた。 その根拠は、油田爆破に使われた火薬が米軍のものらしいということだった。サダム・フセインは戦争直前の米TVとのインタビューで、「油田はイラクの財産なので、自分から火を付けることはありえない」と言っていたし、油田火事の消火はチェイニー副大統領が2年前まで社長をしていたハリバートン社の子会社が契約している。 油田が燃えればサダムの悪役イメージが高まるし、また、燃えれば燃えるほどハリバートン社は儲かるというわけだ。ちなみに、チェイニー副大統領はハリバートン社から、今でも年間100万ドル(1億2千万円)を受け取っている。」今日の日記は、おそらくいつも以上に長くなっていると思うが、確かな証拠を提出しながらの報告は、このように長くなってしまう。単純にわかりやすい一言を言うだけではすまないのが難しいところだ。アメリカの宣伝は、わかりやすい言葉を大量に流すというもので、多くの人には、それが有効なのが残念だ。さて、掲示板での僕に対する攻撃も、証拠なしに単純な悪口を言い立てるだけのものばかりで、権力の側の宣伝によく似ているのは偶然の一致だろうか。客観的な証拠がないと議論をすることは出来ないので、自分がただ思うというだけでは証明にならないということを指摘しておこう。証拠なしに人の悪口を言うことを、正しい日本語の使い方では誹謗中傷というのだが、どこがそれにあたるか具体的に指摘して日記の締めくくりとしたい。>をつけた文が、掲示板に書かれたものの正しい引用で、一言一句変えずに引用している。>ところで、件のサイバー・デモの広告は朝日新聞に載ったとは聞>かないのですが、朝日新聞にもサイバー・テロと判断されたから>ではありませんか?そう思いたい心情はよく理解出来るが、朝日新聞がそう判断したと論じたいのなら、朝日新聞自体の記事で、そう判断したと客観的に受け取れるものを証拠として提出する必要がある。これは、もしかしたら僕が論じていた サイバーテロとして告発されていないのだから、サイバーテロではないということを真似たのかもしれないけれど、僕の主張は、 サイバーテロだったら、犯罪なんだから告発されるはずだということの対偶をとっているだけだ。上の言明を正しいと認めるのなら、その対偶も正しいというのが論理学の法則である。上の引用は、 朝日新聞に広告が載らなかったのは、サイバーテロと判断されたからだと、日本語としては言い換えられる。これの対偶をとると、 サイバーテロと判断されなければ、朝日新聞に広告が載るとなるのだが、広告を載せるのは広告を載せたい会社の判断であって、朝日新聞社の判断ではないから、これは常に正しい言明になるわけではない。したがって、対偶としての引用の文章も、常に正しくなるわけではないのである。>実は一度読んだだけでは、何を仰りたいのかさっぱりでした。何>度か読み返し、そして論理学について書かれているサイトも見た>上で、結局、前提から結論を導き出す途中ですり替えを行ってお>られるのかなと思いました。すり替えをしているところを、具体的に指摘しなければ客観的証拠とは言えない。一言一句変えずに引用し、ここの部分がすり替えだと客観的に指摘出来なければ、それは自分で思っているだけで、思いたい心情は理解出来るが、論理的な証明ではない。>秀さんがサイバー・テロ発言その他のことで、議論を交わした相>手を誹謗中傷し、間違った認識を流布するような内容の日記を繰>り返しお書きになっているからこその意見です。 ここにも具体的な指摘が欠けている。僕のどの文章のどの部分が「誹謗中傷」に当たるのか、具体的に指摘出来なければいけない。間違った認識というのも、具体的にどの部分なのか指摘がなければ、この文章そのものがまさに「誹謗中傷」の見本のようなものだ。自分の思いだけで悪口を言っているのだから。ここには客観的な証拠が何もない。>嘘を放置するのは如何なモンだろうね?これも全く具体的な指摘がない。嘘というのはどこを指して言っているのだろうか?ついでにいっておけば、表現としても品性に欠けると、僕は思っている。>君の間違いについては、ウチのBBSで「秀さんの論理は間違>い!!」さんが詳しく解説してくれてるから読んでみるとイイ>よ。 僕は、全く読む気がないので、次のことを思っていることだけをいっておこう。これは「思って」いるのであって客観的に証明したいことじゃないので反論する必要はない。思うだけなら、何を思おうと自由だから。今までのいきさつで、だいたいどんな論理を使うのかはよく分かったので、それもどうせ証拠なしの思いだけが語られている、観念論的なものだろうと、僕は思っている。思うだけなら自由だし、人の思いに対しては反論出来ないので、客観的証拠が見つかって、それが反論するに値することなら反論も考えてみよう。>あ、そうそう、「死刑制度」には反対するけど、「公開処刑を行>う国」は応援するのがお好きですね>秀さん。これも誹謗中傷の見本としてちょうどいい例かもしれない。僕が、どこで、公開処刑をする国を応援したのか具体的に指摘してもらえたら、その日本語解釈の間違いがはっきりするんだけれど、ここにも具体的な指摘はどこにもない。すべての引用は著作権に触れるとでも思っているのかな。ねつ造の方が罪は重いと思うんだけれど。その情報が信頼出来るものであるかどうかは、客観的な証拠が提出されているかどうかにある。アメリカが、イラクの大量破壊兵器に関して、客観的な証拠を見つけられるかどうかに注目していきたい。
2003.05.19
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大塚博堂は、失われた過去の切なさを感じさせてくれる歌が多いと思う。この歌でも、まずタイトルから、その失われた過去を感じる。もう子供でもないということは、子供の持っている純真さが失われたということを感じさせる。鳥でもないというのは、鳥のような自由さが失われてしまったということだろうか。歌い出しでは、少年の頃は何でもない石ころが宝物のように思えたことが語られる。それがいつの頃からただの石ころに見えてくるようになってしまったのだろうか。石ころが宝に見えるのは、そこに夢を見ているからだけれど、その夢を見なくなった頃に鳥のような自由さも失われてしまう。心の自由さというものが。「人はみんな傷つき生きてゆく」という言葉があるから、傷つくことによって子供であることをやめていくんだろうか。しかし、子供であることを失い、鳥であることを失うというのは、ある意味では成長して大人になるということだ。この成長し大人になるということが、どんな風になるかということで、想い出を引きずって歩く人間になってしまうか、幼さを脱してより深いものを感じ、人間のすばらしさを感じられる大人になれるのかが決まりそうな気もする。その成長を支えるのは、いかにして芸術に触れるかということにかかっているような感じがするこのごろだ。仮説実験授業では、技術というものの持っているメカニズムを重視する。<キミ子方式>という美術の授業では、発案者の松本キミ子さんの名前が付いているが、本物そっくりに描くという技術を教えることにかなりの時間を費やす。そのために、どの部分をどういうふうに描いたらいいのかどういうふうに見たらいいのかを教える。自由に描かせるということはしない。しかし、その技術を知ると誰でもモデルそっくりだと実感出来る絵を描ける。でも、そのそっくりは、自分の目を通したそっくりになる。だから、ほんのちょっと目の位置が違ったり見方が違ったりすると、それはその人の個性を反映する絵になってくる。技術を全く考えずに、自由に書きたいものを描いているのは、子供の持つすばらしさを反映する絵になるけれど、成長するとなかなかそういうわけにはいかない。その時に、ちょっとした技術で表現の幅が広がると、自己表現の成長が感じられ、それが何とも言えないいい解放感を与えてくれる。<キミ子方式>は、とても人気のある授業だけれど、その秘密は、この解放感にあるような気がする。自己表現の進歩には、ちょっとした技術が必要だ。これは技術として解明出来る限りでは、誰にでも習得出来る。このことを発見した仮説実験授業はやはり素晴らしいと思う。教育するに値するものを見つけたんだと思う。これに比べると、芸術を鑑賞することを教えるのは違う難しさを持っている。何を感じるかというのは、感じる方の自由であり、決して正しい鑑賞の仕方を教えるということは出来ないからだ。どんなに有名な芸術でも、その時に何も感じさせてくれなければ鑑賞することは出来ない。仮説実験授業では、詩や文学の授業をするけれども、その時の教材は本当に優れていると教える側が思えるものを選ぶ。教科書に入っているから鑑賞の仕方を教えるということはしない。教える方がまず感動出来る芸術でなければ、その感動を伝えることが出来ない。だから、仮説実験授業の鑑賞の授業は、作品のすばらしさに依存しているということになるだろうか。子供の純真さや鳥の自由さは素晴らしいものではあるけれども、それをいつまでも引きずるのではなく、そこから脱して芸術の持つ感性を受け取ることによって大人に成長するという道が、この歌で最後に歌われているように、「一人歩きの季節を見つけだす」ということになるのかなというような連想が浮かんできた。そういう意味では、この歌は、失われた過去の切なさと共に、未来への希望も歌い上げているような感じもする。それでメロディーとしてはけっこう明るい雰囲気を持っているんじゃないだろうか。2番では、少年の頃に長い髪の少女に憧れたという歌詞があるけれど、これは僕には想い出がないな。憧れたのは長い髪の少女じゃなかった。どちらかというと短い方かな。僕が憧れたのは、古いフランス映画「シベールの日曜日」にでていた少女だった。その少女は、誰からも見捨てられた少女だった。その少女を見捨てなかったのは、誰にも理解されなかった男だった。誰からも理解されなかった男は、その少女だけに理解されていた。少年の日に、その男と自分とを重ねたのを、失われた過去として今でも思い出す。そんなことが浮かんでくるような歌詞だった。今日は、先週に引き続き、また一日だけ掲示板を開放してみます。久しぶりにフォークソングの話題につきあっていただける方は書き込みをしていってください。
2003.05.18
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大塚博堂の歌が選曲出来ないので、今日もちょっと違うテーマで日記を書きます。それから、掲示板に書き込んでくれたり、メールをくれた方には心を込めて返事をしたいと思っていますので、返事が少々送れていますがお許しください。土・日にならないとなかなか時間が取れないものですから。二人ほど返事はしたのですが、まだ全員には出来ていないので、今しばらくお待ちください。さて、今日の日記のタイトルの本は、マイケル・ムーアの本を買った時に一緒に購入したもので、昨日読み終えたものだ。僕は鎌田さんのファンで、その反骨精神にあふれた文章を愛読している。この本も期待通りの素晴らしいものだった。鎌田さんは、この本の冒頭で小泉内閣の批判を展開しているけれど、この文章が2001年5月22日のもので、その内閣支持率が異常な高さを示していた頃で、その時に批判が出来たということにまず驚きを覚える。今だったら、誰でも批判出来るけれど、支持率が80%を超える時に批判出来るのは、本質が見えている人間だけだ。僕も、田中真紀子さんが応援をした時には、ひょっとしたらという期待を抱いたりもしたものだけれど、靖国への参拝を強行したり、田中さんを切り捨てた時点で、これは見せかけだけの改革者だと気づいた。小泉内閣は、すべてを悪くして歴史から消えていくのではないかと思う。「戦争は防げないことか」とタイトルが付けられた章では、次のような印象的な言葉がある。これは、ちょっと前にその採択の反対運動が全国的に盛り上がった「新しい歴史教科書」に対する批判なのだが、そこには、戦争は仕方がないものとして検定前の教科書には次のような記述があった。「戦争は悲劇である。しかし戦争に善悪はつけがたい。どちらかが正義でどちらかが不正という話ではない。国と国とが国益のぶつかり合いの果てに政治では決着がつかず最後の手段として行うのが戦争である。」(新しい歴史教科書の記述)ここの部分は、検定で修正を受けたらしい。さすがにこのままでは受け入れられないくらい、日本の民主主義も進歩していたのは喜ばしいことだ。かつてのアメリカとベトナムの戦争は、アメリカが不正でベトナムが正義だったのは明らかだった。今回のイラク戦争に関しては、戦争前にイラクのフセインにも不正があったので、どっちもどっちだと思われがちだが、戦争行為に関しては、アメリカが不正であることは明らかだった。だから、この言葉は間違っているのだが、これに対して、鎌田さんは次のように批判する。「この文章は、「戦争は悲劇である」とは書いているのだが、戦争を防ぐための努力が必要であり、防ぐことが出来る、というのではない。政治の最後の手段として行われるもの、との戦争肯定論である。 戦争という最悪の事態にならないために、外交努力をするのが、日本国憲法の精神である。国際紛争を武力によっては解決しない、という反戦平和の精神こそ、子供たちに伝えなければならない。」全く同感だ。だいたい戦争をして命が危なくなるのは、いつだって庶民の方で支配する側の人間じゃない。実際の戦闘行為で殺されるのもそうだし、たとえ戦争に勝っても、恨みを買ってテロに狙われるのは民衆の方だ。支配する側の人間は強固な軍隊に守られていてテロでは殺されない。戦争をすれば、結果的に被害を受けるのはいつでも我々の側なのに、どうして殺される側の人まで戦争を支持してしまうのだろうか。こういう教科書で教育されてしまうとそうなるのかもしれない。このほかにも、この本には現在を語るにふさわしい話題があふれている。死刑制度に対する批判などはマイケル・ムーアの本にも通じるところがある。フォークソングの選曲が決まらない間は、ここから日記のネタをもらうことにしよう。フォークソングについても、やっぱり心を込めて文章を書くには、その曲が本当に好きだという気持ちが固まってから書かないとならないので、時間をかけてじっくりと選曲をしようと思う。もう少しお待ちください。
2003.05.15
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マイケル・ムーアがアメリカの教育に関して書いていることを読むと、それはある種の驚きを感じる。まさかここまでひどいとは思わなかったというのが正直な感想だ。民主主義においては、日本よりもずっと進んでいるアメリカだから、教育においては、少々の問題があったとしても、日本よりはまだましだと思っていたのだが、これではあまり変わりがないどころか、民主主義があるものだから、ある意味では問題がもっとあからさまになって、もっとひどく見えるところすらある。こういう教育がアメリカで行われているということから、マイケル・ムーアは、この本のタイトルに「アホでマヌケな」という形容詞をかぶせたんだろうな。「アホでマヌケなアメリカ白人」を生むような教育になっているんだ。彼にいわせるとアメリカの教育は、こんな感じらしい。「輝かしき栄光のこの国では、頭に何かをつめこむんなら、どうでもいいことほど素晴らしいとされる……そう、スポーツの記録とかな。逆に、批判的な思考や正しい理解なんてのは、クソだ。」これは全く日本の教育と一緒だ。つまらない記憶するだけの知識で頭をいっぱいにした人間が優等生になるのは、アメリカでも変わらないというのは驚くべきことだ。アメリカは本物の実力主義の世界だと思い込んでいたから。日本でも、佐高信さんの本を読んだりすると、最高の成績で学校を出た高級官僚ほどマヌケだということがよく分かるけれど、アメリカでもそれは同じだということは驚くべきことだ。でも、ブッシュの戦争を支持した人間が70%もいるんだから、これはマイケル・ムーアの言っていることに間違いはないんだろう。アメリカでも、戦争にかける費用はどんどん上がっていくのに、教育にかける費用は逆にどんどん下がっていくらしい。教師の給料も低くて、なり手がいないらしい。そういう政策をとっていながら、教師の質が悪いと言って、アメリカの教育が悪いのは教師のせいだという攻撃がかなりあるらしい。質がよくなるような政策をとらないで、質が悪いと言って非難するのは日本と同じだなと思う。削れるところからは容赦なく予算を削るというのもアメリカは徹底しているらしい。用務員の数を減らしたので、学校を掃除する人間がいないそうだ。図書館の予算も減らされて、自分で本を買えないような家庭の子供たちは、本を読むという機会を奪われている。貧乏人は勉強しなくてもいいということなのだろうか。日本でも、これからはエリートに金をつぎ込むので、エリートでないものは道徳教育さえしておけばいいというような教育観を持っているのが政府の教育審議会にいたように覚えている。イラクでは1発何億円するか分からないミサイルをどんどん飛ばしておきながら、アメリカの学校ではトイレットペーパーにも困るようなところがあるそうだ。ボランティア活動をしてトイレットペーパーを買っている学校もあるらしい。これは日本よりひどい。マイケル・ムーアの次の意見にはかなり共感を覚える。「何と言っても一番傑作な皮肉は、アメリカ人の教育に十分な財源を割くことを拒否した当の同じ政治家たちが、アメリカの子供たちがドイツ人や日本人に後れをとっていることにむかっ腹を立てたりしていることだ。突如、彼らは「説明責任」を求め始めた。教師に責任を押しつけ、資格試験をしろと言い出したんだ。さらには、子供たちにも試験を--何度も何度も何度も--受けさせろと言い始めた。 子供たちの読み書き計算の力を決めるのに、標準化されたテストを使おうという考えほど、恐ろしい過ちはない。だが、政治家も教育官僚も、国ぐるみでテストにとりつかれている。その点数を上げさえすれば、この国の教育システムのすべての間違いが、魔法のように消えてしまうかのように。」標準化されたテストなんてのは、覚えてしまえば、理解していなくてもいくらでも出来てしまう。人間の能力を高めるのは、覚えることではなくて理解することなのだが、覚えることしかできなかった人間には、その違いが分からないのかもしれない。日本の教育が優れていたのは、それなりに金をかけてきたからだ。その金を惜しむようになったら、きっとアメリカと同じ道を歩むだろう。アメリカでも、日本の教育界のエライ人のように、「すべての子供が賢くなる必要はない」と言いたいのかもしれないけれど、個人主義の国のアメリカでは、それは言えないんだろうな。日本では、「分相応に」という考え方があるから、そう言われても腹を立てない人が多いんだろうか。アメリカでは、金のない学校に対して、企業が金儲けの目的で入り込むという問題がまたあるそうだ。アメリカの高校には、コカ・コーラの自動販売機がおいてあるらしい。そして、コカ・コーラは、学校に対してかなりの援助をしているらしいのだが、援助をしてもなお儲かっているのだろう。そのために、アメリカの高校生の健康が破壊されたとしても、そのことはあまり問題にされないようだ。日本でも、こういうことはそのうちアメリカの後を追うようになるのだろうか。このような状況から抜け出すために、マイケル・ムーアは、学生たちにいくつかのアドバイスをしているのだが、これはとても面白い内容なので、また日を改めて紹介したいと思う。とても勇気づけられる内容だ。
2003.05.09
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この本を初めて目にした時は、そのタイトルから来る印象で、ふざけた内容の本だろうと思い込んでいた。しかし実際に読んでみると、これはきわめてまじめな内容の本で、しかも大変優れたものであることがよく分かった。この本は、ブッシュの言語能力をただ茶化して笑うだけではなく、このような大統領が生まれてきた背景を鋭く分析し、現代アメリカの持っている問題点を正しくとらえて自説を展開している。これがユーモアを交えて展開されているので、面白いし、だからこそわかりやすい。まず問題のとらえ方の視点というのがすばらしい。それは差別される側からの視点であり、支配される側に本当の主体性を取り戻すように呼びかけている。アメリカにおける黒人差別や女性差別は、かなりの努力によって解消された部分もあるものの、それはあからさまに差別が出来なくなったということで、隠然とした差別はまだあちこちに残っていることを指摘している。そして、その差別をしている傲慢な白人にとっては、その傲慢さがやがては身を滅ぼすと警告をしている。弱い存在、女々しい存在にこそ真理が見えるという主張にはとても共感を覚える。マイケル・ムーアは、テレビをつければ黒人の犯罪ばかりがニュースになるけれど、実際に凶悪犯罪を行うのは圧倒的に白人の場合が多く、我々は宣伝に毒されているだけだと主張する。ここのところは、西部劇の悪役にされたアメリカ先住民族の方が、実際には気高い精神の持ち主だったというのと通じるような事実だ。差別意識を感じるその象徴的なエピソードは、マイケル・ムーアの撮った最初の映画「ロジャー&ミー」というものの1シーンの話だ。そこでは、生活保護を受けている白人女性が棒で兎を殴り殺すというシーンがあるそうだ。それは、兎の肉を売るために仕事としてやっているそうだ。このシーンは、様々の非難を浴びたらしい。残酷すぎるということで。ところが一方では、このシーンの2分後に、フリントの警官がスーパーマンのマントを着ておもちゃの銃を持った黒人を射殺するシーンを入れておいたそうだが、これには1回も非難が来なかったらしい。これが何を物語るかは、差別された側にはすぐに分かるだろう。これこそが社会の中に存在する不当な差別感覚なんだと思う。本当に残酷なことに対して残酷さを感じず、表面的な残酷さを見て非難をするということのばかばかしさやいやらしさをユーモアを交えて表現している。難民認定をせず、外国人が最低の生活をしていてもそれを少しも知ろうとせず、偶然迷い込んだだけのアザラシを追いかけ回す我が日本の姿にも、同じような差別感覚を感じてしまうのは僕だけだろうか。タマちゃんには市民権を与えても、貧乏なアフガン青年には働く権利さえ与えられない。これが日本の姿だ。黒人に対する差別の表れをマイケル・ムーアは次のようなところに見ている。「16才から24才までの黒人の約20%は、学校にも行けず、職にも就いていない--白人の場合は、これがたったの9%だ。90年代の「景気急上昇」にもかかわらず、このパーセンテージはその前の10年と比べて、さほど変わっていない。」「卒中の急患の中で血栓溶解治療を受ける人の割合は、白人の方が黒人よりも5倍も多い。」「黒人女性が産褥で死ぬ確率は、白人の4倍も多い。」「1954年以来、黒人の失業率は白人の2倍である。」我が日本でも似たようなことが見つけられないだろうか。隠然とした不当な差別はまだ社会に残っている。それは、人々が知らないからまだなくならないとも言えるものだ。教育に関する考えも共感出来るものが多い。アメリカは、民主主義の先進国だから、教育に関しては日本よりもまだいいだろうと思っていたけれど、この本を読む限りではアメリカの方がいいとも言えないような感じもする。もちろん日本がいいというわけではないけれど、同じような問題もアメリカではかなり極端に出てきているという感じがする。この本は、実に多くの示唆に富む本だ。大きなニュースがない間は日記のネタになってくれるだろう。今日注目のニュースはこんなタイトルが付いていた。「イラクで移動式の生物兵器実験施設を発見=米国防総省」アメリカは、移動式の施設(トレーラー)を徹底調査するらしい。現在製造中の兵器や、完成された兵器が見つからず、いつもその可能性のあるものばかりが見つかっているようだけれど、徹底調査して、それが大昔に使われていたかもしれないということが分かっただけだったらアメリカはどうするんだろうか。現在差し迫った危機はなかったけれど、石油が欲しかったから戦争を仕掛けたんだと証明してくれることになるんだろうか。
2003.05.08
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昨日久しぶりに書店に行ってこの本を買ってきた。この本は、以前から出ていたのだが、タイトルがちょっと気になって前は買い求めなかった。相手を馬鹿にするだけのふざけた内容の本ではないかと感じたからだ。しかし、アカデミー賞でのマイケル・ムーアの発言を知り、インターネットでの彼の文章を読んでみると、きわめてまっとうなことを論じていることが分かった。それで、この本を買い求めて読んでみたのだが、期待通りの面白いものだった。ただふざけて書いただけのものではなかった。まっとうな論理に貫かれて書かれた本だった。まだ最初の方しか読んでいないけれど、そこにはブッシュがいかに不正な方法で選挙に勝利して大統領になったのかということが書かれている。アカデミー賞の授賞式で「恥を知れ」と言ったのは、イラクの戦争のことだけじゃなくて、この選挙のことも指して言っているんだなということが分かった。アメリカでは、重大犯罪を犯したものは選挙権を剥奪されてしまうそうだけれど、ブッシュは軽犯罪を犯したものも、ゴアの支持をしそうな人間はみんな選挙権を剥奪してしまったそうだ。また一方では、自分を支持しそうな人間に対しては、不在者投票の不正を犯してでも投票権を与えたらしい。海外に駐留している軍人の票をそういう不正なやり方でかき集めたそうだ。大統領選挙後に、裁判で争われた投票については、こんな不正が行われていたのだが、日本のマスコミでは全く報道されなかった。この本でようやくその裏側が分かったような気がする。民主主義を踏みにじるような不正をした男が、イラクを民主化するということを言っているのを、この不正のことを知らない人間は信じてしまうのだろうか。マイケル・ムーアによれば、アメリカでもこのことは知らされることがなかったようで、このことを知らないから、彼がタイトルに書いたような「アホでマヌケな」という形容詞がつくようになったんだろうな。無知を脱すれば、「アホでマヌケな」状態を抜け出られるんだろうと思う。この不正選挙で、ブッシュの勝利のイメージを作るのに成功したのはFOXテレビらしいけれど、このテレビはブッシュの親戚がその経営に当たっているらしい。FOXテレビはイラクとの戦争でも、その愛国的なニュースを流すことに成功した。こういったテレビ局を支持しているアメリカ人を見ると、やっぱり「アホでマヌケな」と言いたくなるだろう。この本は、これから読み進めるにつれてまた日記のネタを提供してくれそうな感じがする。昨日、本屋で買い求めた本はもう3冊あるんだけれど、フリーのジャーナリストの鎌田慧さんの「こんな国はいらない」という本も買った。これは、小泉批判の書で、マイケル・ムーアがブッシュ批判をしているのと重なってくるような感じだ。後書きの最後にこんな言葉がある。「タイトルの「こんな国はいらない!」は、より正確に言えば、「こんな政府はいらない!」であり、もう少し小さく言えば「こんな首相はいらない!」なのだ。しかし、こんな国を作り出しているのは、私たち自身なのだから、自分の責任をかみしめてのことでもある。こんな国がいやなら、こんな政府をボイコットするしかない。」マイケル・ムーアのように「アホでマヌケな」という形容詞をつけないのは、やはり日本人の国民性だろうか。でも、こんな政府をそのままにしているような日本人だったら、「アホでマヌケな日本人」といいたくなるような気もする。一握りの支配者にとっては利益となるのだろうが、人民にとってはひどいことになりそうな非民主主義的な政治判断を、無知であるが故に容認してしまいそうな最近の動きを見ると、僕も鎌田さんと一緒に「こんな国はいらない」と言いたくなってきそうだ。マスコミでない、信頼出来る情報源をもっと求めたいと思う。
2003.05.05
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この小説は若い頃に一度読み、その後これを原作にした6部作の長い映画を見て、これまでに何度か読み返している愛読書だ。五味川純平には、これよりももっとベストセラーになった「戦争と人間」という小説があるので、そっちの方が有名かもしれない。「戦争と人間」は、細かい史実を徹底的に調べ上げた小説で、日本が中国に仕掛けた侵略戦争の実態を知るには、事実としても実感としても優れたインパクトを与えてくれるものだ。この「人間の条件」も、事実としての戦争を語ってくれるけれど、それ以上にこれは人間の生き方に大きな示唆を与えてくれる物語だ。戦争という極限状態の中にいても、それでもなお人間性を失わずに生きていくというのを模索した人間として、五味川純平が描いた主人公「梶」という男がいる。誰もが人を殺し、その殺した相手が敵である場合には賞賛さえされるという戦争という状況の中で、いかにして殺さないでいられるかを梶は追求した。自分が殺されるかもしれないという環境の中で、ともすれば明日のことなんか考えられないという自暴自棄に陥りそうな中で、どうやって人間でいられるかということを考えながら生きていけるだろうか。日本の軍隊は、中国で様々な残虐行為を働いた。それは、より弱い人間に対して行われたことの方がむごいことが多かった。女やこどもに行われた残虐行為は数々の証拠が挙げられている。それは、ある意味では戦争が行われている地域には多かれ少なかれ行われていることでもある。どの地域も、侵略してくる軍隊によるレイプ行為は戦争の暗い部分として語られている。だから、彼らに対して「これは戦争だから仕方がなかった」と理解を示すことも出来るかもしれない。しかし、理解が出来たからといって、それを容認してはいけないと思う。それを容認することは、再びそのような状況が生まれた時に、自らがその過ちの中に沈んでしまうことを意味するからだ。容認しない決意をした時に、極限状況になっても人間性を失わないでいられる強い知識を持つことが出来るのだと思う。多くの日本の兵隊にとって気の毒だったのは、極限状況というものに初めて対処したことだった。見習うべきものがない状況で、自分で考えて行動しなければならなくなったとしたら、梶のような人間でない限り人間性を失わないですむことが出来ない。しかし、見習うべき人間がいれば、梶でなくても梶のように生きることが出来る。梶という人間の存在を知れば、僕のような人間でも梶に近づけるという感じがしてくる。何かを知るということは、その知ったことが自分の行動に影響を与えることがなければ、本当に知ったことにはならない。極限状況に陥って非人間的な残虐行為をしてしまった人間がいたことを知ったならば、それがたとえそのような状況であってもやはり残虐行為であるということを知らなければならない。それを知った時に、自分はその残虐行為をしないという自信が生まれてくる。たとえ殺されるような状況でも、殺さないということを守ることが出来るようになるだろう。しかしここに難しい問題がある。侵略する軍隊は、決してこのような人間的な教育はしないということだ。侵略する軍隊は、敵を殺すことが目標なので、そのためにじゃまな道徳は教育することはないだろうと思う。ベトナム戦争の頃も、アメリカではベトナム人に対する偏見と差別感を植え付けるための兵士教育があったそうだ。相手を人間だと思わずに、虫けらぐらいにしか思わないように教育すれば、殺すことをためらわない兵士ができあがる。戦場においては、人間性を失うことが侵略する軍隊には必要だからだ。結局軍隊には人間性教育は望めないとしたら、我々の中の目覚めたものがそれを知らせていくしかないだろう。今の時代に五味川純平が再びベストセラーになるのは難しいだろうが、優れた芸術にその力があることを望みたい。今ブッシュのアメリカは、戦闘の勝利の美酒に酔っているけれども、こんなものは長く続かない感情で、長い歴史の中では、やはり人間性を失わない美しい行為こそが語り継がれていくものだ。劣化ウラン弾の影響が米軍兵士にも出てくる頃になって、アメリカは、高い代償を払って戦争をしたんだということを知るようになるんだろうか。非人間性は、自らをもむしばむということを知ることになるだろう。昨日のニュースで注目したいのは、こんな見出しが付いていた記事だ。 「<パレスチナ>ガザで英国人記者撃たれ死亡 イスラエル 軍に」真実を伝える人間は、今は一番危ないところにいるのかもしれない。何しろ権力を持たない個人が多いから。しかし、そこにこめられた真実がとても重いものであれば、きっとこの人の意志を受け継ぐ人間が出てくるだろう。真実は伝えられなければならない。大量破壊兵器の発見のニュースにも注目している。世界中が監視して10年以上も制裁を加えて疲弊した国が、果たして大量破壊兵器を作れるものかどうか、そう考えた方が合理的だと思うが、それが正しいかどうかもうすぐ結果が出るだろう。アメリカがどのように正当化を図ってくるかに注目したい。デモ隊への発砲事件の続報もなかなか入ってこない。これは真相を知るには、マスメディアのニュースでは難しいのかもしれないな。どこかの小さい媒体に真実の報道が入ってくるのを待つしかないのかもしれない。これも注目しておこう。
2003.05.04
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本物の芸術家なら、戦争のような醜いものには生理的な嫌悪感を持つのではないかと思うけれど、長渕剛は、この歌で本物の芸術家であることを証明したんじゃないかと感じる。70年代には、みんながベトナム戦争に反対していたので、反戦のフォークソングを作るのはそれほど難しくなかっただろう。ある意味では本物の芸術家でなくても、その流れに乗ってしまえば反戦を叫ぶことも出来た。しかし今反戦を叫ぶのはそれほど容易ではない感じもする。だから、今このとき反戦を叫ぶ人間は、きっと本物の芸術家である可能性が高いだろう。この歌の歌詞は、下のアドレスにアクセスすると見ることが出来る。ぜひ味わって欲しいと思う。http://www.utamap.com/show.php?surl=B/B00207&title=%C0%C5%A4%AB%A4%CA%A4%EB%A5%A2%A5%D5%A5%AC%A5%F3&artist=%C4%B9%DE%BC+%B9%E4&PHPSESSID=95ab5058df465bcd6d12c4de1803e98b まず歌い出しに、「アメリカが育てたテロリスト」という言葉が出てくる。アメリカは、テロ支援国家というのを悪の枢軸として非難しているけれど、実はアメリカが世界一のテロ支援国家だということに気づいていない人が多いんじゃないだろうか。フセインのように、人民を弾圧する軍事独裁国家でも、親米的な国は支援してきた。韓国の昔の軍事政権なんかは、ほとんどフセインのイラクと変わりがなかった。パレスチナの民衆を理不尽に殺しているイスラエルもずっと支援し続けている。国家が行うテロも、自国の利益のためなら支援してきたのがアメリカだ。民主的な国家が反米的になりそうになると、クーデターを起こす勢力を支援してテロの手伝いをしてきた歴史もある。アメリカ自らを標的にしてきたテロリストも、利用価値があると見れば裏で資金提供などもしてきたようにも見える。芸術家の鋭い直感は、これらを的確な言葉で表現している。テロリストの大部分はアメリカが育てている。 「戦争に人道などありゃしねぇ 戦争に正義もくそもありゃしねぇ」これも、きわめて当たり前のことだけれど、よけいな知識がたくさんある人間は、いろいろと屁理屈をつけて「正義の戦争」を論じたがる。でも、その正義は長く保つことが出来ないので、目先を変えるためにコロコロと変わっていく。テロとの戦いが、大量破壊兵器の発見に変わり、最後はフセイン政権の打倒になって、イラクの解放という言葉でごまかされた。戦争には正義はない。侵略された側が抵抗をする時に、その抵抗の行為の中にだけ正義がある。戦争の姿を長渕剛は次のように表現する。 「僕らはTVで 銃弾に倒れる兵士を見てる 空爆に両足ふっ飛ばされた少女の 瞳から真っ赤な血液がしたたりおちる」こういう戦争の姿は、アメリカでは全く報道されなかったそうだ。だから、戦争の本当の姿をアメリカ人は知らない。それを知らない人間が屁理屈をこねて戦争の正義を主張するんだろう。芸術家は、その本当の姿を見事に暴く。これだけでも、長渕剛の芸術家性を語るには十分だけれど、次の言葉でそれがさらに印象深くなる。 「日の丸と星条旗に僕は尋ねてみたい 戦争と銭はどうしても必要ですか? 広島と長崎が吠えている 「もう嫌だ!」と 泣き叫んでいる」こういう本質的な疑問を提出することが出来るところに、本物の芸術家の直感のすごさがある。戦争は、金儲けの手段に過ぎない。広島と長崎を経験した日本が、なぜ戦争に反対出来ないのか、これは本質的な疑問だ。アメリカ国内では、イラクの大量破壊兵器が見つからないことに対する批判が高まっているらしい。暴力によって押しつけられた無理をそのまま通すことなく、最後まで道理を捨てない追求をして欲しいものだと思う。そうであれば、まだ民主主義は全く死んでしまったわけではないことが証明されて、僕たちも希望を持つことが出来るだろう。
2003.05.03
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