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前レバノン大使の天木直人さんの「さらば外務省」という本に、国民の意識の目覚めのために次のような問題を考える必要があると提言している部分がある。全部で九つの項目だ。(1)日米安保条約の歴史と変遷を学び、自らの意見を持つ。(2)第二次世界大戦以降の日本の現代史を知る。(3)憲法改正問題を避けずに直視する。(4)アジア諸国への謝罪と天皇の戦争責任について考える。(5)日本経済の混迷の真の原因を知り責任者を追求する。(6)政治家、官僚にこれ以上特権を持たせない決意を固める。(7)石にかじりついても政権交代を実現する。(8)情報公開法をさらに改善し積極的に活用する。(9)地方分権化を徹底して推進する。いずれの提言も、その通りだと共感できるものばかりだ。そして、その内容についても、宮台真司氏を知ってからは、新しい側面を見て考えることが出来るようになった気もする。日米安保条約に関しても、かつては廃棄することこそが正しいと思っていたが、その歴史においては、それが必要だった時代もあったのかということが分かるようになった。しかし、それが必要だった時代があったからといって、それを現在もそのまま引きずるのは間違いではないかと、必要性を理解した上で考えることが大事だと思うようになった。憲法改正問題についても、かつては平和を守るために憲法の改正を許してはいけないという気持ちの方が強かったが、これも歴史的なものだという風に考えるようになった。平和を守るために憲法を守らねばならない時代もあったが、今は平和を守るために憲法を「改正」する必要があるかもしれないと思うようになった。この場合の「改正」は文字通り「改正(正しく改変していく)」なのであって、権力の側に都合良く書き換えられてはならないと思うが。憲法改正というと、それに反対する側も冷静に議論することが出来ず、議論そのものが成り立たなかったという感じがするが、明らかな憲法違反にもかかわらずイラクに自衛隊が送られようとしている現実を見ると、憲法を勝手に解釈して何でもやりたい放題という状況よりも、憲法解釈上許されることと、許されないこととをはっきりさせておいた方がいいのではないかという思いも生まれてくる。憲法は、国家が国民に負っている義務を規定しているものとして書かれていると考えると、外交問題の解決手段としての軍事力を放棄したという憲法の規定は、自衛のために国民を守らなければならないという国家の義務と矛盾をする。この矛盾の一つの解決が、今までは日米安保条約であったと、その歴史を解釈することが出来る。しかし、現在の状況は、アメリカが始めたイラク戦争への参加が日米安保条約で強制されるという状況だ。これは、日本の自衛のための戦争とは違う。むしろ日本を危険に導く戦争になる。もはや日米安保条約は憲法の矛盾を解決する手段にはなっていない時代になってきたのではないだろうか。イラクへの戦争の参加は、憲法の問題と複雑に絡み合っているという感じがする。天木さんの提言に従ってこのことをよく考えてみたいと思う。天木さん自身はどう考えているのか、それをこの著書では次のように語っている。「占領下に米国の手によって起草された日本国憲法は、その直後に冷戦が表面化したため、起草者である米国自らの手で拡大解釈され、平和憲法の趣旨を大きく逸脱させられてしまった。しかもその後の国際情勢の変化と米国の世界戦略の変化により、憲法第9条の拡大解釈は歯止めなく進み、もはや憲法第9条は完全に形骸化してしまった。このような状態を放置しておくことは、法治国家としての日本をモラルハザードに追い込むばかりか、米国の軍事戦略に沿った日米同盟体制の果てしなき傾斜を、黙って許すことになる。 憲法第9条の改正を口にすると、直ちに軍国主義か、右傾化という批判が平和主義者から出てくる。しかし今や、平和憲法を守るためにこそ憲法改正が必要だという認識を持たねばならない時期に来ている。憲法第9条を擁護し続ける平和主義者たちは、皮肉にも憲法改正を頭から拒否し続けることによって、政権政党と官僚による違憲行為をなし崩し的に許してきた。彼らは自民党と官僚が米国にいわれるままに日本の軍事力を増強してきたことに、どんな効果的な対抗策も打ち出せなかったのだ。 憲法論議で最も重要なことは、このまま日米軍事同盟を米国の言いなりに強化していくことを許すのか、あるいは本来の平和憲法の精神を明確にさせ、日本独自の安全保障政策を国民的合意のもとに作っていくのか、いずれかの選択を迫られていることを認識することである。その際大切なことは、安全保障議論を政治家や官僚、学者に独り占めさせることなく、国民が最終的に判断し決定するという透明性を確保することである。安全保障問題は難しい問題ではない。一部の識者や官僚が独占すべきものではない。みんなが率直に語るべき身近な問題なのである。 もし国民の多数が、米国に我が国の安全保障をゆだね、何があっても米国の軍事戦略に荷担していくしかないという選択をするのであれば、それはそれで日本国民の選択なのである。そのような選択をした結果責任を負うのも日本国民なのである。」長い引用になったが、最後の部分はもっとも共感する部分だ。我々は選択したことに責任を持たなければならない。そうでなければ、いつまでも真剣にものを考えるようにならないだろう。大事なのは、まともな議論をすることである。そしてその上で選択をするという意識を持つことであると思う。僕は、自衛隊の派遣に関しては反対だけれど、それが日本国民の主体的な議論の末に選ばれたことであるならまだ我慢が出来る。しかし、今のようにアメリカに追随するだけで、アメリカに言われるから仕方なく派遣をしなければならないという状態は、モラルハザードをますますひどくさせると感じる。たとえそれが仕方ない状況であっても、最終的な選択は我々が行ったのだという意識を持つ必要があると思うのだ。さて、イラクへの自衛隊派遣に関して大きな事件がイラクで起こったようだ。次のような見出しのニュースだ。「イラクで邦人2人殺害、大使館員か…暫定当局から連絡」これは、後のニュースで日本の外交官だったことが明らかになった。僕は、日本が自衛隊の派遣を決めて、自衛隊がイラクの地に着いたときにゲリラの攻撃が来るんじゃないかと思ったけれど、それ以前に、日本がねらわれてしまった。これは、政治的駆け引きとしては失敗じゃないかと思う。イラクのゲリラは政治的なメカニズムで動いているんじゃなくて、無差別的な犯罪者に成り下がっているんだろうか。これの続報として次のようなニュースもあった。「「親米国」日本にもテロ拡大か=イラク 【エルサレム30日時事】イラク北部ティクリット近郊で29日に在イラク日本大使館員2人が殺害された事件は、日本も「親米国」として反米勢力の格好の標的になり得る危険性が高いことを露呈した。反米勢力の標的は完全に無差別化しており、イラク在留邦人の治安確保という困難な課題を突き付けられた格好だ。 (時事通信)」この事件によって、政府の対応としては、自衛隊を送らざるを得なくなったのではないかと思ってしまう。ここで引いてしまったら、見かけ上はテロに屈したことになってしまうからだ。今までの状態なら、ぐずぐずしていることも出来たが、これでぐずぐずすることも出来なくなってしまったのではないだろうか。イラクの現状については混沌として分からないことがまだ多い。報道を見る限りでは、反米勢力の力が強く連日のようにゲリラ攻撃が続いていることが伝えられている。しかし、一方では、軍人に対しては賞金が出されているので、賞金目当てにやってくるならず者の仕業でやられているだけだと報告する人もいた。そうであれば、政治的なレジスタンスではなくて、単なる犯罪者だと言うことになる。だから、日本から自衛隊が来れば、自衛隊は軍人だから必ずねらわれるだろうと、この情報をもたらした人間は語っていた。しかし、今日の報道を見ると、軍人ではない外交官がねらわれて殺されている。これはどう解釈すればいいのだろうか。日本がアメリカの側としてねらわれたのか、それともこれは単なる犯罪者の仕業なのか。ここに来て、イラクの姿はかなり混沌としてしまったように感じる。イラクの本当の姿が分かるまで、もう少し日本政府がぐずぐずしてくれないかなと思う。
2003.11.30
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ヤフーを初めとしてニュースを配信するところはたくさんあるけれど、ニュースは事実を報道することが主な役目なので、その事実をどう解釈するかということはあまり綴られていない。そこで、ニュースをどう解釈するかということを書いてみたくなった。これは、解釈なので、必ずしも正しいとは限らないけれど、共感してもらえる人がいたら話し合ってみたいと思う。さて、最初のニュースは次のものだ。「<米小型核兵器>研究の道開く法案に署名 ブッシュ大統領」アメリカは小型核兵器を開発するらしい。これをどこで使うんだろうかと僕は疑問に思う。イラク戦争を見ても明らかなとおりに、通常兵器でさえもアメリカに匹敵するような軍事力を持っている国はいない。必要のない兵器の開発はどこへいつながっていくんだろうかと思う。イラク戦争で使われた通常兵器でさえ、その威力があまりにも大きく、戦闘員以外の市民を殺すということが非難されたのに、小型とはいえ核兵器を使えばさらに無益な殺傷が増えることになる。非難を覚悟でアメリカは使うつもりなのだろうか。核兵器が「戦略兵器」だと呼ばれるのは、それは決して使うことのない、交渉を有利に進めるためにちらつかせる道具であるから「戦略」という言葉がつくのだと語っていた人がいた。アメリカ以外の核保有国にとって、これは当たっているだろう。核をもっている国が、核を使ってしまえばもうおしまいだ。その国は核で反撃されても仕方がないという風に思われてしまう。逆に言えば、その国がもうおしまいだというところまで追い込まれてしまったら、最後の暴発として核を使う恐れがある。暴発以外で核を使用する可能性がある国はアメリカだけなのではないだろうか。そのアメリカが、小型の核兵器を開発するということは、いよいよ核を使った戦争を戦略の中に組み入れてきたのかという恐れを僕は感じる。そして、小型核兵器の開発が出来るのはアメリカぐらいしかいないんじゃないかと思うと、アメリカが開発に成功したとき、それがどういう訳かテロリストの手に渡る可能性が出てきたりしないかという恐れも抱いている。テロ支援国家と呼ばれるところには、今のところ核兵器開発の能力はない。アメリカはわざわざ危険なことをしているように見えるのだが、テロリストが時々騒ぎを起こしてくれた方が、アメリカの軍関係者にとっては都合がいいというつながりが考えられるのかもしれない。このことに関しては、ヤフーのニュースでも、ちょっと解釈めいた報道もあった。「<米議会調査局報告>小型核兵器、民間に多くの死者出す可能性」と見出しのある記事で、次のような中身だった。「ブッシュ米政権が10年ぶりに研究再開を解禁した小型核兵器は、軍事的効果が不確かなうえ、地中貫通型でも、大量の死の灰をばらまき民間人に多くの死者を出す可能性があるとの米議会調査局(CRS)の報告書を、毎日新聞は25日入手した。調査局はブッシュ政権が核兵器を先制使用する可能性があると受け取られているとも指摘、「不使用宣言で核戦争の恐怖を減らせる」との見方も示している。 (中略) 小型核は、敵の大量破壊兵器施設や幹部の退避ごうなどが標的として想定されているが、破壊効果については、「爆発力が小さいほど、着弾精度や爆発高度、標的の構造など、さまざまな要素に影響されるため、見積もりが困難」としている。 推進派が、空中・地表爆発型より放射性降下物が少ないと主張する地中貫通型小型核については、「深度が浅く土壌が湿っている場合など特定の条件下では、地表爆発型より降下物が多くなり、人的被害も増える」と指摘している。 具体的には、シリアの首都ダマスカス近郊の地中約10メートルで爆発力5キロトンの地中貫通型核が爆発した場合、23万人が死亡、2年間でさらに28万人の死者が発生するとの、国防総省のコンピューターモデルによる米民間研究機関の推定を紹介。「人口500万都市のバグダッドでフセイン元大統領の退避ごうの破壊を狙って使用されていたら、同程度の被害が出た可能性もある」使ってみないと、その影響を正確に計ることは出来ないけれど、とにかくたくさんの人が死ぬことは確かだという予測が出ているような感じだ。なんの目的で、このような兵器を開発するのか。これは解釈しておいた方がいいだろうと思う。「「事実と異なる国内向け」 米司令官発言に批判続出」という見出しで報道されたニュースは、「米中央軍のアビザイド司令官が25日「イラク駐留軍に対する攻撃よりも民間人を狙った攻撃が増加している」と発言した」というものだった。これが、事実と違うというわけだが、どのように違うかというと、「イラク人を含む民間人への攻撃は8月以来、国連事務所やヨルダン大使館への爆弾テロなどが続いており、今になって武装勢力側の戦術が転換したわけではない」ということだという。さて、どうして米司令官は事実と違う発言をしたのか解釈してみたい。イラクでの攻撃が民間人をねらっていたのは以前からなのだから、民間人をねらうことを非難するだけなら、事実をそのままいえばいいだろうと思う。問題は、最近になって攻撃の矛先が変わったのだというような印象を与えることだろう。つまり、米軍のゲリラ対策がうまくいっているので、より防衛力の弱いところに攻撃の矛先が向かっているのだと宣伝したいからではないだろうか。こういう風に解釈すると、米軍はゲリラ対策の失敗を覆い隠そうとしたいのではないかと思いたくなってくる。つまり、本当はゲリラに手を焼いていて、かなり追い込まれているのではないかという解釈も成り立ちそうな気もする。「米軍、イラク旧政権ナンバー2の妻娘を拘束」という見出しのニュースを見たときは、どうにも解釈が出来なくて困った。本人をとらえたのなら、これからどのように取り調べがあって、どのような事実が出てくるのだろうかということに注目するけれど、妻や娘が拘束されたあとに、いったいどうなるのだろうかと考えてしまう。まさか、彼らを人質にして目指す相手をおびき出すというような映画のような話にはならないだろうと思うし、居場所を聞き出すために拷問をするなんて訳にもいかないだろう。このニュースは、事実としての価値はあるかもしれないけれど、だからどうしたのだという感じだ。その近くに潜んでいたのが発見されたとかいうことと結びついているのならそれなりの事実の関連があると思うのだが、このニュースだけ単独で報道されることの意味が分からない。このニュースに対しては、意味が分からないという解釈だ。「主権移譲日程の内容批判 イラクのシーア派権威」この記事に関しては、シーア派は反フセインだったかもしれないけれど、必ずしも親アメリカではないという解釈が出来るのかなということだ。親アメリカではないのだから、今後のアメリカのやり方によっては反アメリカになる可能性もあるのではないかという解釈も出来る。「<アフガン派兵>NATO「全国展開できず」 各国で財政難」アフガンの事実はイラクの未来を予想するのに役立つと思う。戦争は経済を圧迫するという当たり前のことが起こっているという感じだ。アフガンでさえ財政難に陥っている状況で、果たしてイラクでは金が持つんだろうかという感じがする。「マル激トーク・オン・デマンド」で神保哲生氏が、アメリカ国内でイラクの戦費が2000億ドルかかると戦争前に予想して笑われた人がいたけれど、現在のところ約1600億ドルあまりの予算が計上されている、と語っていた。すぐに2000億ドルを超えそうだ。アメリカは双子の赤字を抱えているのに、これからもイラクに金をつぎ込み続けることが出来るのだろうか。経済的破綻からイラクの状況が変わっていくことを予想させるというのが、この記事の解釈だ。「イラク市民は冷ややか 米大統領の突然の訪問に 【バグダッド28日共同】「こっそり来るなんて憶病者だ」「選挙目当てだろう」-。ブッシュ米大統領の27日夜の突然のイラク訪問に駐留米兵らは沸き立ったが、イラク市民は対照的に冷ややかな反応をみせた。 ホテルで働くオマル・ジョワリさん(26)は「事前に知らされていたら、多くのイラク人が抗議のために集まっていただろう」と指摘。「治安、経済は言うまでもなく、電力供給についても米国はイラクのために何もしていない」と、改善の兆しをみせない市民生活の状況に不満をぶつけた。 ブッシュ大統領が華々しく姿を見せたパーティーの映像がイラクで放送された時間帯も、バグダッドの一部では停電が続いていた。 バグダッド大のジャミル・ムサブ教授(政治学)は「超大国の大統領が、なぜイラクを秘密裏に訪問しなければならないのか。米国はイラクで泥沼に足を踏み入れたということだ」と今回の訪問を「解説」した。(共同通信)」ブッシュ大統領のイラク訪問は、決してイラク国民のために何かをしようということではなく、自分のためでありアメリカのために来たにすぎないということが、イラクの国民には明らかなようだ。つまり、イラクの国民はアメリカのやり方を全く支持していないのだということを読みとれるような気がする。この記事に対しては、さらに次のような続報があった。「<米大統領>「バグダッド訪問は兵士の疑い消すため」 イラク駐留米軍の慰問でバグダッドを電撃訪問したブッシュ米大統領は帰国途中の専用機内で27日深夜、ワシントン郊外のアンドルーズ空軍基地に戻った。大統領は帰国途中の専用機内で同行記者団と懇談し「駐留軍に私と米国民の支持を知ってもらい、彼らの心から疑いを消したかった」と今回の行動の動機を説明した。」疑いを消すために来たということは、疑いがあったからなんだと思う。つまり、今や米軍の中にさえ、この戦争の意義やブッシュ大統領の意図に疑いを抱く人々が増えているのだということなんだろう。本人がそう感じているくらいなのだから、これはマスコミの宣伝と違って、かなり信憑性のある情勢だなと僕は解釈する。話は変わるけれど、今朝のテレビでは年金問題について話している番組があった。様々な批判があった中で、次のような批判はとても印象に残り共感できるものだった。それは、年金改革について、その方向を厚生労働省が提案するのはおかしいという意見だった。厚生労働省は、グリンピアの問題などでも、様々の年金財政の無駄遣いをしたり、官僚の天下りで利権をむさぼったりしていたところで、彼らが改革案を出しても、そのような責任を逃れ、利権を温存するような改革案にしかならないのだから、これは政治家の責任で改革案を出さなければいけないのだという意見だった。その通りだなと思った。最近話題の道路問題にしても、結局は利権を温存するような、改革とは全くかけ離れた結論が出そうだ。利権をむさぼってきた人間が改革をするなんていう構造を信じるなんて、全くお人好しなんだと思う。改革を国土交通省に丸投げするような小泉内閣の基本姿勢が問われるべきだろう。まあ、その本質は実は小泉内閣が発足した当初からあったのかもしれない。外務省の改革に乗り出した田中真紀子さんを全くバックアップすることなく、外務省の改革を外務相に任せてしまったという基本姿勢が、その後の改革のすべてを貫いている。田中さんの乱暴さを批判するよりも、改革を利権の側にいる人間に任せている姿勢の方を批判する方が先だったと思う。前レバノン大使の天木さんによれば、外務省には改革は出来ないといっている。我々一般庶民は、情報としての事実はかなりたくさん受け取っている。しかし、現代社会はかなり複雑化しているので、事実だけを受け取ってもその意味するところが分からない場合が多い。自分なりに事実を解釈することも大切なのではないかなと思う。
2003.11.29
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田中宇さんの最新のレポートが届いた。「世界大戦の予感」と題されたもので、次のところで全文を読むことが出来る。 http://tanakanews.com/d1127iraq.htm 田中さんはここで、アメリカがイラクを3分割して統治しようとしているということを報告している。「イラクはシーア派(人口の60%、主にイラク南部・中部に在住)、スンニ派(15%、主にイラク中部)、クルド人(20%、主にイラク北部)という3つの系統の人々から主に成り立っている」ので、これに応じて3つに分割して統治しようというわけだ。フセイン政権を支持しているのはスンニ派で、他の派については親米政権を作りうると考えられるので、米軍の攻撃力をより絞り込めるから、ゲリラ活動を押さえるのにも都合がいいだろうという考え方だ。しかも、それぞれの派の拠点になっているところが、クルド人は北部、シーア派は南部だがイラクの石油が集中しているのはこの両地域だそうだ。つまり分割してしまえば、スンニ派の財源である石油に関してもそれをコントロールできる。このような考え方からすると、イラクの3分割はアメリカにとっては非常に有利な戦略となるが、田中さんは、そう簡単にはいかないだろうと考えている。その方向によっては中東の不安定をさらに増幅させ、世界戦争の危険さえ起こるのではないかと警告しているのだ。3分割をすると、米軍の戦力を集中できることに加えて、さらに反目し合っている各派どうしを互いに戦わせることによって、米軍が戦闘に加わらなくても良い状況も作り出せると考えているところがあるそうだ。いいとこずくめのような感じもするが、そうは思惑通りには行かないだろうということで、田中さんは次のように書いている。「だが少し考えていくと、そんなにうまい話ではないことが分かる。クルド人地域にはかなりの数のスンニ派が住んでおり、一般市民とゲリラの見分けがつかない。キルクークとモスルというクルド人地域の2つの百万人規模の大都市では、人口の半分前後がスンニ派である。クルド人の自治を拡大し、反対する者は武力で制圧して良い、ということになると、内戦になり、何十万人というスンニ派の一般市民が死ぬ結果になりかねない。同様に、南部のシーア派地域にもたくさんのスンニ派が住んでいる。 一方、スンニ派の多い地域であるイラク中部には首都のバクダッドがあり、ここでは600万人の人口のうち300万人が貧困層のシーア派である。3分割案では「彼らを安全にシーア派地域に移住させる。移住の際の警備は米軍の義務となる」としているが、南に向かうシーア派と、北に向かうスンニ派の避難民の列が、相互に殺し合いを始め、米軍は危険にかかわりたくないので傍観するだけ、という事態が起こりかねない。」さらに泥沼のような状況が訪れて、たかだか10万程度の米軍では何も出来ないということも起こりかねない。それこそ、最低でも数10万、下手をすればもっと多くの軍隊をつぎ込まなければ収拾がつかなくなる恐れもある。これは、単なる懸念だけではなく、そういった歴史があるのだということを田中さんは指摘している。「こうした悲劇を、われわれはずっと前に見たことがある。インドとパキスタンの分離の際の悲劇である。インド植民地の宗主国だったイギリスが「次善の策」として行った民族大移動は、現在まで印パの対立として残り、インドでテロが続発し、アヨドヤの聖地でヒンドゥ教徒とイスラム教徒が殺し合い、パキスタンでイスラム主義組織が拡大する、という昨今の事態につながっている。」まことに歴史というのは我々に大きな教訓を残してくれるものだ。これから起こることを想像する助けになってくれる。机上で考えただけのものは、考えに入ってこない要素があるので、それが影響を与えるときに、思いもかけない展開に発展してしまい、それに対処することでさらに予想外のことが起きてくる。イラクの現状というのは、たぶんそういう感じなんだろうと思う。アメリカは歴史に学ぶことを怠った。これから何が起こるかを予測するのは、同じように机上の論理にしかすぎないけれど、どちらの論理の方が、より現実を豊かにとらえて、予想外の出来事を生まないのかが、有効な論理であるかどうかの分かれ目になるだろう。アメリカがイラクを攻撃したら、利益よりもその反対のものをもたらす恐れの方が大きいというのは、多くの専門家が指摘していたことで、その予測の方が有効な予測であったことが、今の姿で証明されたのではないだろうか。田中さんは、「米軍が撤退しても残っても混乱」という予想をしている。スンニ派はイラクでの少数派だといっても、長年に渡る権力者の位置にいたことで、統治能力は高い。それに比べて他の派は、その能力も低く、経済的にも圧迫されていたことで民衆の力そのものが弱くなっている。米軍が撤退すれば、この戦力のバランスがどう出てくるかが懸念されるし、駐留し続けたとしても、民衆とゲリラの区別が付かない現状では米軍のミスがクローズアップされて、さらなる憎しみを増やすことになるかもしれない。田中さんの予想は、このイラクの不安定さがさらに拡大して他の国に及ぶことで世界戦争につながりかねないという懸念につながる。イラク国内ではアメリカがその支援をする立場であるクルド人について、これがトルコ国内の状況では、クルド人を弾圧するトルコを同盟国として支援しなければならないという矛盾がある。シーア派に関してはイランとの関係が深いという指摘もあった。アメリカは、イラク後はイランを標的にしていろいろな攻撃を国連の場で行っている。イラク国内ではシーア派を支援しなければならないが、これがイランとの連携をするようであれば、シーア派はアメリカの敵になっていくということも考えられる。一方イラクでの当面のアメリカの敵であるスンニ派については、田中さんは次のようなことを教えてくれる。「スンニ派に関しては、同じ宗派の人々がサウジアラビア、ヨルダン、シリア、エジプト、トルコ、パキスタン、アフガニスタンなどの多数派を占めており、アメリカとのゲリラ戦争が激化した場合「イラクのスンニ派を救え」というイスラム主義の運動が強くなる。すでに不安定になっているサウジアラビアの王室が倒れるかもしれず、そうなるとイスラム主義の政権ができるかもしれない。」こちらも、中東の他の国を巻き込んで戦争が拡大する恐れがあるのだ。アメリカは、とどまっても混乱、撤退しても混乱という状況にいるようだ。このような状況が予測されるということは、やはりそもそもこの戦争を始めてしまったことが間違いだったといわざるを得ない。どうにも尻ぬぐいが難しいこの戦争に、日本はどのような関わり方をするのが、もっとも日本国民の利益になることなのだろうか。アメリカに追従することが最前の選択肢だとは思わないのだけれどな。最後に、まとめのような田中さんの予想を紹介しておこう。ちょっと長いが引用させてもらいたいと思う。「戦争の危険を外交で取り除くことも、ある程度はできる。最近欧米がイスラエルに対し、パレスチナ人との和平交渉を再開させようと圧力を強めているが、これはイランやシリアを攻撃して中東の危機を拡大させそうなイスラエルを封じ込めておくための方策とも受け取れる。 だが、戦争とは外交によって国際問題が解決できなくなったときに勃発することを考えると、アメリカがイラクに侵攻することで、中東地域で保たれていた微妙なバランスをうかつにも(もしくはわざと)壊してしまった以上、中東の問題は以前よりはるかに大きくなり、解決不能になって戦争に陥る可能性が高まっていると考えられる。 エジプトからパキスタンまでの地域に戦争が広がっていくと、その周辺の東欧、ロシア、中央アジア、インドに影響が出る。インドネシア、フィリピン、マレーシアなど東南アジアのイスラム諸国にも飛び火するかもしれない。世界全体が不安定になるなかで、北朝鮮の問題も外交で解決しきれなくなるかもしれない。 世界の現状は、第一次大戦の勃発期に似ているかもしれない。このことは改めて詳しく書きたいが、第一次大戦は、それ自体としては日本にはあまり直接関係なかった(日本の対アジア利権を拡大させた)が、その20年後に起きた第二次大戦につながり、結局は日本をも破綻させた。今は遠くで起きている戦争だが、長い目で見ると、東アジアに飛び火してくる可能性もある。」
2003.11.28
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イラクへの自衛隊派遣とともに、外交上の問題で大きなものの一つに朝鮮民主主義人民共和国に関わる拉致被害問題というのがある。このことに関して、宮台真司・姜尚中氏共著の「挑発する知」という本で、興味深い対談がされている。まず宮台氏の次の発言を紹介しよう。「2002年10月に政府が拉致被害者5人の強制帰国を決め、北朝鮮との約束を破ったときに、私はすぐにラジオで「北朝鮮は今後、日本を外交交渉の相手として認めず、アメリカを相手にして核カードを切るだろう」と予測したら、そのようになった。 即日そのように予測を語る人はほとんどいませんでした。もちろん同様な考えの人がたくさんいたでしょう。姜さんの本にも書いてありますけれど、5人の拉致を認めるということは、あとのないカードを北朝鮮が切ったと見ることが出来るからです。 究極のカードを切った北朝鮮の意図は、簡単です。休戦協定を平和条約や不可侵条約に変えることも含めてきた朝鮮を助けてくれないか。アメリカの愛人である日本からアメリカに口をきいてくれないか。そういうシグナルを出してきたわけです。 ここで日本が口をきけば、戦後初めて日本が外交でイニシアティブを執ることが出来たでしょう。これほど国益に資することはないと思ったのですが、拉致被害者の北朝鮮への帰国を拒否したことにより、そのチャンスは一瞬にしてつぶれてしまった。」(「北朝鮮」という言葉は、引用文中で使われているので、引用を正確にするためにそのまま使った。)拉致被害者の帰国の問題をこのように解釈している人はどれくらいいるだろうか。見事な分析だと思う。朝鮮民主主義人民共和国の強がりの言葉の裏に、このような真意を読みとることが外交能力というものではないだろうかと思う。真意を読みとるだけの能力があれば、たとえ一時的に拉致被害者が朝鮮民主主義人民共和国に帰ったとしてもその後の交渉で日本の方が有利なカードを持ち続けながら進めることが出来ただろう。しかし、相手の真意を読むことが出来なかったために、一度返したらもう二度と戻らないことがあるかもしれないという恐怖から、強制帰国を決めてしまった。このことに関しては、あまり正確な情報がないので、僕も憶測以上のことを語れないのだが、次のようにいわれているのを聞いたことがある。事前の約束では、拉致被害者は一時帰国で日本に来るけれど、すぐにまた朝鮮民主主義人民共和国に戻るという約束があったそうだ。だから、約束違反という点で日本が執った行為は問題があるとも言える。拉致問題の犯罪性と、この約束違反は一応別にして考えた方がいいのではないかという考えがある。約束違反をするということは、日本側の回答として、朝鮮民主主義人民共和国が望んでいるアメリカとの口利きを拒否するという意味だと朝鮮民主主義人民共和国では受け取ったのではないだろうか。朝鮮民主主義人民共和国と日本では、正常な国交がないのだし、本音で語るにはまずい部分がかなりあるのだろうと思うから、そういうサインを出しながら交渉が進むのだろうと思う。日本は、拒絶するサインを出してしまったので、朝鮮民主主義人民共和国としては、もはやアメリカを相手にする以外に執るべき道がなくなってしまったということなのだろう。しかし、これをもう一度考えるというサインを朝鮮民主主義人民共和国が送ってきたと解釈できることがあったと宮台氏は言う。それは、万景峰号の入港問題だと語っている。「別の例を出すと、万景峰号が船内装備を改装の上新潟港に入りたい、または新潟港に入ってから改装したいので入港をさせてくれという要求が、再び北朝鮮から出されています。すると日本では「断固認めるべきではない!」という声が噴出します。まるで「北朝鮮に対して強攻策に出る」という手札を、日本が自由に切れるかのように勘違いしている。 本当に馬鹿ですね。頭を働かせば分かるでしょう。時期を考えてみてください。直後に6カ国協議があるからこそ、北朝鮮は日本に(万景峰号という)ボールを投げて、「日本の対応次第で北朝鮮は6カ国協議でどうとでも出るぞ」という具合に試してきたんですよ。」これまた見事な分析だ。マスコミの報道は、朝鮮民主主義人民共和国がつけあがって勝手放題をしているという報道の仕方だったけれど、一応万景峰号は法律に従って行動をしていたことは確かだ。この対応次第では、朝鮮民主主義人民共和国が日本を頼るという方向に向けることも出来たかもしれなかったのだ。世論に対して、それが甘いと見られるようなら、そうではないということを説明することが政府には必要だっただろう。それが出来なかったから、世論に追従するような行動しかとれなかったのだろう。国連での国名の呼称の問題も、もしかしたらこのようなサインの一つだったかもしれないけれど、日本はそれをはねつけただけだった。朝鮮民主主義人民共和国に対する強硬な世論に対しては、かっこいい対応なのかもしれないけれど、その反応で何か事態が改善されることがあるのだろうか。日本の手持ちのカードというのは今のところ何もない。6カ国協議の参加国にとっては、核問題こそが最重要課題であって、むしろそのことのために拉致被害問題はそこで持ち出したくないという空気すらあるのではないだろうか。八方ふさがりの日本にとって、かっこよく強気で出るだけで事態が打開できるのだろうか。外交というのは、気分をすっきりさせることが目的なのではなく、実質的な利益(宮台氏はよく国益という言葉を使う)をもたらす交渉をすることが目的なのだといわれる。そのためには、表面的には相手のいうことに屈したように見えても、実質的にこちらが主導権を握っていればいいという考え方が必要になる。そのためには、相手に対する正確な分析が必要だろう。朝鮮民主主義人民共和国の本当の姿を見誤っているのではないかと感じる。マスコミは、そのひどさと恐ろしさを宣伝するだけで、実質的に何が出来て、何をする恐れがあるのかを報道しない。いたずらに恐怖感と軽蔑感を植え付けるだけで、それらを取り除くための情報を何も提供しない。これでは世論は、本来の国益をもたらす外交を支持しなくなるのではないかと思う。かつて関東大震災の時に、多くの朝鮮の人々が理不尽に殺されたことがあったが、それは日本人の中にある恐怖心が原因だった。それまで、ひどい差別の中で理不尽な扱いをしていたので、その仕返しをされることを恐れて、恐怖心が必要以上の攻撃性に向かってしまった。今の日本の世論の態度を見ていると、それと同じ構造も感じる。正しい歴史を受け止めて、お互いの現在を理解し、無知から来る恐怖心をなくすための努力をしなければ、本当に最悪の結果を招いてしまうのではないかと思う。現在の朝鮮民主主義人民共和国をその歴史的背景を理解した上でもっと正確に知ることが必要なのではないだろうか。最後に宮台氏の見事なアメリカ分析を紹介して終わりにしたい。アメリカの朝鮮民主主義人民共和国に対する態度を次のように解釈すると、6カ国協議の行方もかなり正しく予測することが出来るのではないだろうか。「アメリカも当初は、北朝鮮が要求する二国間協議には応じない立場でした。北朝鮮が多国間協議もあり得るとの立場を表明すると、アメリカは多国間協議は二国間協議よりももっと悪い、中国やロシアにごちゃごちゃ言われちゃかなわんということで拒絶しました。 ところが、イラク攻撃でのブッシュ政権のデタラメぶりが国際世論の激烈な批判を浴びると、さすがのアメリカ政府も、北朝鮮とのガチンコは都合が悪いという判断に傾き、今日の6カ国協議の枠組みに乗っかるという順序だったわけですね。 背後にはこういう事情もあります。今、アメリカ議会では共和党強硬派の影響力が強い。たとえ米朝不可侵条約ないし米朝平和条約が結ばれても、議会の3分の2以上の賛成がないと批准できません。よって、アメリカの議会状況では条約批准はそもそも不可能です。 するとジレンマが生じます。アメリカは、北朝鮮との二国間協議に応じないと、フリーハンドがなくなって戦争状態につっこむ可能性が高くなります。国際的批判を浴びまくっているアメリカは、それは避けたい。しかし、二国間協議に応じて、北朝鮮の要求する不可侵条約や平和条約を締結しても、アメリカ議会はそれを通しません。どうしたらいいか。 そこで、カムフラージュのための装置が必要になる。すなわち、日本、中国、ロシア、韓国など、米朝当事者以外の国に入ってきてもらった方が、一転してアメリカにとっては都合が良くなるのです。「日本政府や韓国政府の言い分を無視するわけにはいかない」との大義名分を利用可能になり、政府には議会対策用の手札が増えます。そうなれば、米朝不可侵条約は無理でも、それに準じる落としどころにつなげられるのです。 もちろんアメリカは強攻策という札も捨てませんが、それでいい。つまりアメリカ政府にとって6カ国協議に参加することは、対北朝鮮、対議会、両方の側面で、手札が増えることを意味します。逆に6カ国協議に参加しないと、手札が極端に乏しくなる。その結果、エスカレートした上でガチンコ勝負になるのが避けられなくなってしまう。こうした手札不足を回避しようというのが、今のブッシュ政権の選択なのです。」日本は外交の失敗で手札をなくしてしまった。日本独自でやれることはほとんどなくなってしまった。あとは、他の国に頼るしかない状況だ。それはアメリカなのかもしれないけれど、アメリカは、自国の利益のために動くのであって、日本のことを優先的に考えて行動するのではないというのが外交の世界なのだということを知っておいた方がいいと僕は思うのだけれどな。
2003.11.27
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国際的ジャーナリストの田中宇さんが、「イスラエル化する米軍」という題の興味深い報告を書いている。この報告の全文は、次のところで見ることが出来る。 http://tanakanews.com/d1125iraq.htm この報告の冒頭で田中さんは次のように語っている。「9月下旬、バグダッドから北に70キロほどいったイラク中部の町ドルアヤの近郊で、米軍のブルドーザーが果樹園の木々をすべて根こそぎにする作業が行われた。付近は旧フセイン政権の支持者が多いスンニ派の地域で、米軍に対するゲリラ攻撃が頻発していた。米軍は、付近の村人たちを尋問したが、誰もゲリラの居場所を教えなかったため、その「懲罰」として、村人たちが所有するナツメヤシやオレンジ、レモンなどの果樹を、根こそぎ切り倒した。 伐採するなと泣いて頼み込む村人たちを振り切り、ブルドーザーを運転する米軍兵士は、なぜかジャズの音楽をボリューム一杯に流しながら伐採作業を続けた。ナツメヤシは樹齢70年のものもあり、村人たちが先祖代々育ててきた果樹園だった。伐採を止めようと、ブルドーザーの前に身を投げ出した女性の村人もいたが、米兵たちに排除された。 伐採を担当した米軍部隊の中には、村人たちの悲痛な叫びを聞き、自分に与えられた伐採の任務と「なぜ村人たちにこんな辛い思いをさせねばならないのか」という不合理感の板挟みに耐え切れず、突然大声で泣き崩れてしまう兵士もいたという。」この懲罰には全く正当性がない。人間性を失わないでいる兵士は耐えきれないのが当然だろうと思う。兵士がゲリラ捜索のために、尋問をするのは仕方がないだろう。しかし、その答えが気に入らないものだとしても、気に入らないからといって証拠なしに、懲罰的に乱暴をはたらくのは、戦争下といえども正当化できるものではないと思う。村人たちはゲリラそのものではない。ゲリラをかくまっているという証拠があれば、それに対して懲罰を下しても仕方がないかもしれないが、フセイン政権支持者が多かった村だからという理由だけで懲罰を下すのは、理不尽だと思われるだろう。フセイン政権は暴力的な独裁政権だったのだから、支持をしているといっても、暴力で協力させられているだけだったかもしれないし、村人にとっては、米軍が守ってくれるという保証がない限りゲリラを密告することなどもできないだろうと思う。そういう配慮をした上での行為なのかということが、イラクの人々の受け取り方に大きな影響を与えるだろう。この行為に対して、田中さんは次のように語っている。「テロ・ゲリラ攻撃が起きた場所の近くで、実行犯の居所を教えろと村人に尋ね、情報をもらえなかったら「懲罰」として村の家々を壊したり、果樹園を伐採したりするのは、イスラエル軍がパレスチナ占領地でよく行っている「作戦」である。パレスチナ人はオリーブの果樹園を大事に育て、オリーブはパレスチナ人の「民族の木」のような意味合いを持っているが、それがイスラエル軍のブルドーザーによって潰されることは、パレスチナ人の全体にとって、イスラエルに対する憎しみを植え付ける「効果」がある。」この、「憎しみを植え付ける」という点で、アメリカはイスラエル化をしているのではないかと田中さんは主張している。イスラエルは、パレスチナのテロを防ぐためと称して、パレスチナを理不尽に攻撃している。最新の兵器を使い、市民の巻き添えを全く気にかけずに、パレスチナ人を絶望させるために攻撃しているのではないかとさえ思えるようなやり方をしている。パレスチナ人は、自爆テロ以外に進むべき道がないように追い込まれている。昨日は、NHKの「クローズアップ現代」でパレスチナに建設されている壁のニュースを取り上げていたが、この壁は、全くイスラエルの都合のみを考えて、パレスチナにどのような影響が出てくるかを無視して建設されている。イスラエルの軍事行動は、パレスチナ人の物質的な体を殺す行為だが、この壁の建設はパレスチナ人の心を殺す行為だと僕は思った。田中さんの報告では、この理不尽な行為に対して、次のような恐ろしい解釈もあることを知らせている。「イスラエルのパレスチナ占領が純粋に治安維持や防衛のための占領だとしたら、アメリカがイスラエルに頼ることによる懸念はまだ少ないかもしれない。だが、イスラエル軍は、パレスチナ人のオリーブの果樹園を伐採したり、住宅地を空爆したり、検問所で何時間もパレスチナ人を待たせたりすることで、パレスチナ人を怒らせ、自暴自棄にさせ、イスラエルに対して自爆テロを仕掛けるテロリストが増えることを望んでいるように感じられる。 イスラエルに対するテロが増えると、イスラエルの右派政権は、和平交渉せよと圧力をかけてくる欧米に対し「パレスチナ人がテロを止めない限り和平交渉はできない」と拒否し、その間にパレスチナ占領地の土地を没収してイスラエル人入植者を住まわせ、占領態勢をますます強化することができる。 つまり、イスラエルの占領ノウハウは、パレスチナ人を怒らせ、テロを増やすためのノウハウであると感じられる。それと同じことをアメリカがイラクでやっているということは、イラクでもテロが増え、民主的なイラクを作る方向からはどんどん遠ざかっていることを意味している。私は以前「米軍はわざとイラク人を怒らせているのではないか」と推測する記事(イラクの治安を悪化させる特殊部隊)を書いているが、こうした見方と「米軍のイスラエル軍化」の動きは一致する。」アメリカのイラクでの行為が、配慮の足りなさや、方法の誤りであるのなら、経験を積んでまともに考える方向へ進むのであれば改善される可能性も期待できるのだが、確信犯的にむしろ憎しみを駆り立てる方向へ進む道を選んでいるのだとしたら、その改善は期待できない。世界はますますテロリストが暗躍するようになる。そして、そのテロリストを倒すためには軍事力が必要だということに反対できない世論になってしまう。軍事力を握っている人間たちにとっては、テロが起こってくれた方が都合がいい。しかし、軍事力に支配される我々にとっては、それはどうなのか。テロを防ぐ方法は今のところ有効な手段はない。しかし、確実にテロを増やす間違った方法として、理不尽な武力によって弱い立場の人々を弾圧するというやり方があるだろう。テロリストが理不尽な殺人をするのなら、テロリストそのものとは厳しく戦うことは必要だろう。しかし、テロリストではなく、弱い立場の市民を理不尽に殺すようなまねをすれば、その中からテロリストになる人間が必ず出てくる。テロを抑えるといいながら、実際には理不尽な殺人行為をしていないかどうか、世界はそれをよく見なければならないのではないか。昨日は文化祭の代休だったので国会中継を見ていたが、国会では本質的な議論は何もなされなかった。イラクへの自衛隊派遣について小泉さんは「状況を見て判断する」と繰り返すだけで、どのような状況の時にどのような判断をするのかということは全く話さなかった。だから、判断をするときその判断の根拠が何であるかとか、判断をしたときの正当性のある理由はどういうものかについては何一つしゃべっていない。小泉さんがその判断をするときに、それが正しいのか間違っているのかを判断する材料を何も提供しなかった。新聞の論調なんかでは、菅さんの追求が甘かったとかいうものもあったけれど、小泉さんが説明責任を果たしていないことは明らかだから、そのことだけでも、この内閣は支持に値しないと僕は思った。国民に何も知らせないで、改革、特に構造改革などが出来るはずがないと僕は思った。ゴルバチョフはソビエト共産党を改革するときにグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再構築)を唱えた。情報公開をしない小泉さんに改革は出来ないだろうと僕は思った。国会にまともな議論が戻ってくれば、何かが変わるという期待も出来たのだが、やっぱり絶望しかないのだろうか。
2003.11.26
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昨日の日記に書いた内藤朝雄さんが、「学校が自由になる日」という本の中で、「学校リベラリスト宣言」という部分を書いている。ここには、多くの示唆を受けるものがあるので、これをちょっと紹介しよう。内藤さんは、日本社会の特徴を「中間集団全体主義」という言葉で定義づけている。これは、学校だけにその特徴が出ているのではなく、日本社会全体がその特徴を持っていて、学校がもっとも象徴的にそれが現れていると解釈している。普通全体主義というと、国家単位でのものが思い浮かべられやすい。最近では、朝鮮民主主義人民共和国を思い浮かべる人が多いだろう。全体主義では、異論を許さず、その集団の同調圧力が大きく、自由にものを考えることが出来なくなる。日本では、国家単位での全体主義はなくなったが、会社単位、地域単位などの小さな単位では未だに思想・信条・言論の自由がない部分が見られるので、国家という単位ではない中間集団での全体主義は未だに残っていると言えるだろう。朝鮮民主主義人民共和国の全体主義は、それを揶揄する報道がちまたには溢れているが、同じことが会社や地域・学校で行われていても、同じようにそれを揶揄できないと言うのは不思議なことだ。軍国主義時代の昔の日本では、国家としての全体主義もあったのだから、朝鮮民主主義人民共和国の全体主義を鏡としてそれを振り返ることも必要だと思うのだけれど、マスコミの報道ではそれは全く見られない。朝鮮民主主義人民共和国では、脱北という行為で、国家の全体主義から逃げ出す人がいるけれど、軍国主義下の日本では、国家に加えて中間集団での全体主義がきつかったので、そこから逃げ出すことさえも出来なかった。そこから逃げ出すという発想を持つことも難しかったと思う。内藤朝雄さんは、この中間集団全体主義が、日本におけるいじめの発生の温床になっている、いじめをその根底で支えている構造をなしていると主張している。僕は、これには大きな共感を覚えた。いじめの解決は、周りにいる人間の心がけの問題として解決できるものではない。構造を変えなければ、理不尽ないじめはなくならない。誰がその標的になるかは偶然だけれど、いじめが発生するのは、中間集団全体主義という構造を残す限り必然なのだと思う。全体主義では、その集団の意志に従属することを求められるが、集団の意志を代表するリーダーになる存在が生まれる。このリーダーが、ほとんどの場合人格的に問題があって、とても理屈で納得して指導されたいと思えるような人物ではない場合が多い。そして、このリーダーの恣意的な、感情的な判断が全体の意志に取って代わられるので、目をつけられた相手はいじめに遭うことになる。ちょっと長いが、内藤さんの文章を引用しよう。「たとえばある61歳の女性は、戦争中にこんな体験をしています。(朝日新聞、1991年2月2日)。隣組で地域の共同体化が進むと、近所のおじさんが怒鳴り散らすようになりました。父が英字新聞を取り、子供がミッションスクールに通っているような家であったのが災いしました。母が、出産直後なのに隣組の防空演習や行事でいじめ抜かれ、ストレス死してしまいました。投稿者は、戦後になって、ニコニコ愛想いいお店のおじさんを見ても「いつ、あのころのように変わるかしれない」と感じます。彼女の身には上からは国家の焼夷弾が、横からは隣組の「我々」が降ってきました。 また戦時中の日本では、町会ごとの分団、さらに隣組ごとの班といった単位で若い人たちに自治と共同を強制する大日本少年団が制度的に無理強いされました。すると、元々学校制度のもとで蔓延しがちないじめが何倍にもエスカレートしました。さらに疎開などで共同生活を強いられるようになると、いじめは地獄の様相を呈しました。精神科医の中井久夫は「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』みすず書房)で、自分が大日本少年団でひどいいじめを受けた体験を綴っています。そこには暴君とも言うべきリーダーを中心とした自治的な世界ができあがっていました。空襲で忙しくなると残酷な「子供」集団とのつきあいが減るので、空襲は少年にとってちょっとした解放の意味を持っていました。戦争が終わり大日本少年団がなくなったときのことを書いている次の一文は、何が重要なポイントかを教えてくれます。『小権力者は社会が変わると別人のように卑屈な人間に生まれ変わった』(前掲書、22ページ)今までこのタイプのエピソードは、状況次第で人が変わってしまうのが情けない、といった風に受け取られてきました。しかし社会学的に考えれば、このような豹変を希望の論理として受け止めることも出来ます。うまい具合に制度、政策的な環境条件を変更すると、小権力者が卑屈な人間に生まれ変わり、威張り散らしていたのがニコニコ愛想のいい近所のおじさんになります。そして多くの人々が「隣人=狼」の群れから被害を受けずにすむようになります。」長い引用になったが、全体主義的な権力をバックに弾圧をしていた人間は、全体主義がなくなり、権力の後ろ盾がなくなれば、理不尽に他人を弾圧できなくなり、むしろ卑屈で愛想のいい人間になって無害になるという法則があるということだ。社会にとっても、個人にとってもこのような社会になることが僕は望ましいと思う。日本から中間集団全体主義をなくすための努力をしたいものだと思う。内藤さんの発想は実に素晴らしいと思う。中間集団全体主義を薄める方向としては、社会の流動性を高めることだという提案を宮台氏がしていた。所属する集団がたくさんあり、しかもそれが常に変わりうるものであれば、そこにしか居場所がないという状態ではないので、その集団の圧力を我慢し続ける必要がなくなるからだ。いやなら、その集団から抜ければいい。それを秩序の崩壊と見るか、全体主義の崩壊と見るかは、立場の違いによるかもしれない。学校が、中間集団全体主義に染まっているのなら、学校を自由に変われるシステムを作れば少しは変わるかもしれない。世の中の流れはだんだんとそういう方向へ向かっているのではないだろうか。さて、イラク関連の記事で今日注目するのは次のものだ。「口閉ざす日本調査団 戸惑う各国報道陣 【バグダッド24日共同】自衛隊派遣に備えイラク南部サマワで活動を続けていた日本の専門調査団には各国メディアも取材に訪れていたが、調査団側の口は固く、メディア側からは「衝撃的」との声まで出ている。 自衛隊が派遣された場合、国際社会に日本の立場を説明する報道対応も日本の課題となりそうだ。 「何も話す権限がありません。映像も写真も遠慮してもらいたい」。調査団がサマワに到着した18日、調査団側は集まった報道陣にけんもほろろの応対だった。 「日本政府は自衛隊派遣時期や場所について公式発表していない。調査団の安全確保の必要もある」というのが理由だ。 数日後、調査団を取材したロイター通信の契約記者は、同様の対応を受け「衝撃だったし、頭にきた」と怒りが収まらない。「調査団の活動を日本の人々らへ紹介するのは公正なことだと思う」と話した。(共同通信)[11月25日0時37分更新]」口を閉ざすのは、まともに考えたら自衛隊の派遣は出来ないとしか言えないのだろうけれど、それを口にすることは、集団の圧力として出来ない、ということの結果ではないかと思う。まともなことが言えなくなるのは、「バカがうつるシステム」だと思うけれど、日本における特徴は、トップに立つ本当の指導者でさえも、集団の圧力に負けてまともなことが言えなくなることだ。小泉さんが、昔、決断はその場の空気で決めるというような意味のことをしゃべったけれど、日本社会では空気が人間を支配してしまう。その構造を変えなければ、「バカがうつるシステム」を改革することが出来ないだろう。
2003.11.25
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今日のイラク関連の記事の見出しは次のものだ。「イラクで米兵2人が襲撃され死亡、略奪行為の目撃情報も」この記事は、次の部分を引用してちょっと考えてみたいと思う。「2人の遺体はイラク人の群衆に損傷されたうえ、所持品を略奪されたとみられている。 複数の目撃者によると、米兵らは銃撃を受けた後に何者かにナイフで刺され、のどを切られた。イラク人らは米兵らの車を強奪し、放火しようとしていた。 米兵から盗んだという血の付着したイラク・ディナール札を、これ見よがしに振りかざしていた男もいたとされる。」イラク人の、アメリカ人に対する憎悪の深さを感じる記事だ。これほど憎まれているのはなぜなのかをやはり深刻に考えなければならないのではないだろうか。記事を見る限りでは、フセイン政権の残党のゲリラの仕業と言うよりも、民衆が恨みに駆られてやったというようにも見える。イラクでは次のような事件も起きている。「民間機にミサイル攻撃 無事着陸、負傷者なし」このことに関連して、TUP速報220号に興味深い情報が載っていた。ちょっと引用しよう。「米軍の攻撃ヘリ(ブラックホーク)を撃墜した携行式ロケット砲(RPG)も実に恐ろしいものだが、輸送用大型ヘリ(チヌーク)の撃墜に使われた肩掛け式の携帯型地対空ミサイル(通称マンパッド)は、5000mの射程距離を持ち熱感知装置で正確な攻撃ができるため、危険性は比べものにならない。ヘリコプターも含めて米軍の航空機には熱感知に対抗する回避装置が搭載されているというが、100%有効なわけではなく10回から20回に1度は命中する。撃ち手の腕が上がれば、今週のように度重なるヘリ撃墜は続き、米軍の士気に影響するだろう。とはいえ、マンパッドが軍事作戦全体に及ぼす影響はそれほど大きくはない。しかし、マンパッドは民間機の飛行にとって大きな障害となる可能性がある。主要航空会社の航空機でミサイル防御装置を装備しているものはない。直接的な危険はもちろん、イラク復興が遅れることで民間航空機の乗り入れが遅れれば、イラクはいつまでたっても国際経済から切り離されたままで、その経済的損失は計り知れない。」軍用機と違って、民間機にはミサイルを防衛するためのシステムがないのだから、もしねらわれたら防ぎようがない。今までは、まさかそんなことはしないだろうという思いこみがあったが、最近のイラクでの動きを見ていると、たとえ民間機であっても、アメリカとその同調者だと見たら、攻撃されかねないという感じもある。イラクが崩壊したおかげで、この武器がテロリストにわたってしまったという。大量破壊兵器がテロリストに渡らないようにという名目で始まった戦争が、結果的には、恐ろしい武器がテロリストに渡るような皮肉なことに結びついてしまった。この記事は続けて、次のような恐ろしい予測も立てている。「米国運輸安全委員会では民間航空機に装備可能な対策を検討しているものの、5年の年月と100億ドル程度のコストが必要とされている。アメリカの領空で、もし失敗に終わったにせよ1度でも民間航空機が狙われたら(たとえばミサイルが25mの誤差で飛行機の脇をすり抜けたら)どうなるか、有力な政策立案者たちも認識していることは間違いない。アメリカのほとんどで、悪くすれば全土で、航空機が離陸さえできないことになるだろう。ミサイルが飛んでくる危険があるのを承知で飛行機に乗る人がいるだろうか。安全の確証が得られない限り、飛行再開を許可できる人はいるだろうか。経済的打撃は甚大だ。」非常に現実的な問題として、この予測がもし当たってしまったら、経済的な損失があるから戦争をしない方がいいという専門家の予測は見事に当たってしまうことになるだろう。どうして、予測できたリスクを避ける道を選ばなかったのだろうか。アメリカの政権は、「バカがうつるシステム」になってしまっているのだろうか。宮台真司・神保哲生の「マル激トーク・オン・デマンド」でも、今週の放送はイラク関連のものだった。イラク専門家の高橋和夫さんを招いての放送だったが、そこで高橋さんは、「アルカイダは有言実行の今までの歴史をもっているので、警告したことは必ずやるだろう」という風に見ていた。そのアルカイダの警告は次のようなものだ。「アルカイダが大規模攻撃予告、「自衛隊派遣なら日本も標的」=アラビア語誌」「ロンドン発行のアラビア語週刊誌「アルマジャラ」は、アルカイダから、来年2月上旬までに大規模な攻撃を実行するとの電子メールを受け取ったことを明らかにした。 同誌によると、メールには、日本がイラクに自衛隊を派遣すれば、日本も標的になるとも書かれていた。 アルマジャラ誌によると、電子メールは、アルカイダのメンバーで、アブムハンマド・アルアブラジと名乗る人物から送られきた。メールが本当にアルカイダの声明かどうかは不明。 同誌によると、この人物は、アルカイダが2月初旬までに「大規模な作戦」の実行を計画していると警告。さらに、「日本の兵士がイラクに一歩でも足を踏み入れれば、米国と日本を攻撃する」、「日本は最も破壊しやすい場所のひとつで、日本人もその事実を知っている」と主張しているという。」日本がイラクへの自衛隊派遣をためらったとしても、それはテロに屈したことにはならないと思う。予測できる危険を避けると言うことは、決して臆病ではないと僕は思う。むしろ、予想できる危険にあえて踏み込むならば、それだけの危険を冒してでも守らなければならないのは何かというのをはっきりさせなければならない。メンツや勇気を示すためだけに命をかけるのは、決して立派な行為ではないと思う。それはばかげた行為なのだと僕は思う。宮台真司氏を通じて新たなすごい人を知った。宮台真司・藤井誠二の両氏と共著で「学校が自由になる日」という本を書いた内藤朝雄さんという人だ。学校のもっている問題をここまで深く分析した人はいないのではないかと思うくらい衝撃を受けた。今日は、内藤さんの「いじめの社会理論」という本を手に入れた。いつか日記で紹介したいものだと思う。
2003.11.24
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戦争が始まった当初もイラク関連のニュースが溢れていたが、最近も見出しに注意を引かれない日というのがないくらいそのニュースは溢れている。今日の注目の見出しはまず次のものだ。「<イラク>路上で爆弾爆発 米兵1人が死亡、2人負傷」「イラク石油省ビル、砲撃受け炎上」「報道陣拠点ホテルにロケット弾=数人負傷-邦人記者は無事・バグダッド」僕は、今までこれらの事件を「テロ」と呼んできたのだが、それは、世間的な言葉の使われ方を無批判に受け入れてしまったためで、もしかしたらこの行為を「テロ」と呼ぶのは不公平かもしれない。「テロ」という言葉は、すでにかなり手あかの付いた汚い言葉になっているからだ。これからは、反米勢力の抵抗と呼ぶことにしようか。この抵抗は、連日やむことがない。明日もきっと何かが起こるだろう。さて、この抵抗に対する反応だが、一つは次のようなものだ。「イラクから撤退せず=「テロに屈してはならない」-ハンガリー外相」「国連事務総長と安保理、トルコの同時自爆攻撃を非難」これはある意味では当然のことだ。その現象面だけを見れば、卑劣な犯罪と同じに見える。しかし、その現象面だけではなく、歴史的な背景や、他の物事とのつながりを見ると、必ずしもこのような単純な解釈ですまされる問題ではないと思う。非難すればこのようなことが終わるものではない。それに、卑劣な犯罪的側面を非難するのであれば、このことだけではなく、アメリカやイスラエルの行為についても、犯罪的な現象面を非難しなければ不公平な扱いになるだろう。結局、犯罪的な側面だけを非難し合うだけでは、どっちもどっちという結果になりかねず、そういうときには力と宣伝力を持っている方に正義が傾いていく。理念的な反応ではなく、現実的な反応としては次のようなものがある。「英政府、トルコで新たな攻撃の恐れがあると警告」「支援部隊視察団の派遣延期=イラク治安悪化で-タイ」この現実的な反応は、次のような事実を解釈することから出てくるのだろうと思われる。「アルカイダの進出が本格化 国境「回廊」通じトルコへ」「アルカイダ系が犯行声明 トルコ同時テロで」「トルコも新たなテロ前線 ブッシュ米大統領」「オランダ軍爆弾攻撃を計画 自衛隊派遣候補地のサマワ」理念的にはいろいろあるが、とにかく危険があるということは確からしいから、とりあえず危険を避けようという判断があってもそれは仕方ないだろう。こういったことから、アメリカの世論はこんな反応を示している。「86%が泥沼化を懸念=米軍のイラク駐留-世論調査」さらに、その他「反ブッシュ10万人集会 “銅像”倒し気勢」「国際社会説得できず 米大統領が英訪問終了」という世論の反応も出ているが、アメリカは未だに、こんなことも言っている。「<イラク>ゲリラ攻撃70%減った 米軍が鉄つい作戦強調」何を根拠に70%という数字を出しているのか、報道では何も書かれていなかった。単に発表されたということを伝えているにすぎない。70%も減って、まだ毎日事件が伝えられるというのは、今まではもっとすごかったと解釈してもいいのだろうか。さて、日本に対しても次のようなことが報道されている。「日本の自衛隊派遣、アル・カーイダが改めてテロ警告」「自衛隊派遣なしでも日本標的に=テロは相手選ばず-米国務省」日本が、反米勢力の敵になるというのが深刻に現れる日が近づいてきたような気がするが、僕は米国務省の解釈にはあまり賛成できない。日本に対する何らかの攻撃が起こるとしても、それは自衛隊の派遣後に起こる可能性の方が高いのではないかと思うからだ。戦術的に見れば、派遣前に事件を起こすのは政治的にマイナスだと、反米勢力の側は判断するんじゃないだろうか。派遣前に攻撃を仕掛ければ、アメリカがいうように、彼らは単なる狂った犯罪集団だということをイメージさせてしまう。また、そういう集団だからこそ自衛隊を派遣して防衛する必要があるという理由付けがされてしまう。これが、自衛隊派遣後の攻撃ならば、彼らのやっていることの正当性を一応主張する理由は立てられる。それが認められるかどうかは別として、理由があるからやるのだという主張は出来ることになる。つまり、単に狂った犯罪集団ではないというアピールは出来るわけだ。それと、敵であることを明らかにすれば、今まで好感を持って眺められていた日本であっても、深刻な戦争の渦中にはいるのだということを示す政治的な宣伝効果もある。「テロリスト」と呼ばれる集団が、犯罪集団ではなく、政治集団であるならば、こういう判断をするのではないだろうかと僕は思う。すべては、自衛隊の派遣をするかどうかにかかっているような気がする。「バカがうつるシステム」についても書きたいことがたくさんあったのだが、今日も長い文章になったので、少しだけふれておこう。「バカがうつるシステム」に関しては、旧日本軍の軍隊という組織を考えてみたが、小熊英二さんの「<民主>と<愛国>」という本には、軍国主義下の日常生活のレベルでも、そこには「バカがうつるシステム」の存在を感じさせてくれる記述がある。そして、そこではモラルの崩壊がかなり深刻に現れているようにも感じる。権力の上の方に行くとモラルが崩れるというのも、「バカがうつるシステム」の特徴なのかもしれないけれど、このことをシステムとして客観的に見ることが出来ると、モラルの低い人間にいじめられることで傷つく度合いというのは押さえられるかもしれないと思う。僕が考えることがすべて正しいとは思わないけれど、もし考えるだけで弾圧されるようなことがあれば、現代日本も、軍国主義時代と変わらない「バカがうつるシステム」の中にいるのかもしれないなと感じる。「バカがうつらない」ようにするには、多様な考えを認め合い、一つの考えに染まらなければ許さないという雰囲気にさせないことが大事だろうと思う。たとえ少数派に見えようとも、異論を発信する価値がそんなところにあるような気がするなと思える。
2003.11.22
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今日のニュースにも、イラク関係での重大事件が報道されている。見出しは次のようなものだ。「テロ攻撃によって、少なくとも27人が死亡=イスタンブール市当局」「小型貨物車で自爆か 英総領事館で目撃」「また同時自爆テロ、25人死亡=英領事館や銀行狙う-アルカイダが攻勢か・トルコ」「<トルコ爆発>アルカイダ名乗る男、犯行認める」すでにたくさんの報道があるので、事件の概要はだいたい知っている人が多いだろうけれど、これをどう受け止めるかということが問題なのだと僕は感じる。事件の表面だけを見て、法的には落ち度のない市民が殺されたという風に受け止めれば、これは憎むべき犯罪ということになる。しかし、政治的意図を持ったテロだと受け止めるのならば、その政治的意図を読みとらなければならない。立場から言って当然の反応をしているだろうと思えるのは次のような報道だ。「トルコで起きたテロに英国が屈することはない=英首相」「米国はイラクで「職務を完遂」する、必要なら軍隊増強も=米大統領」「テロとの戦いを継続=米英首脳が決意表明」「トルコの爆弾テロを強く非難=仏大統領」権力の座にいる人間がテロに対する理解を見せたら、政治的には終わりになってしまうから、それと断固として戦うという姿勢を見せるのは当然のことだ。問題は、その戦い方だろう。武力を持って押さえ込もうとすることが、テロに対して有効な手段となっているかどうかを、テロの歴史からもっと学ばなければならない。そのことについて非常に参考になる文章があった。ジャーナリストの田中宇さんの最新のレポートで、「イスラエルは大丈夫か」と題されたもので、次のところへ行くと全文が読める。 http://tanakanews.com/d1119israel.htm 田中さんに寄れば、イスラエルでは権力の中枢に近い人間の中にも、パレスチナに対する軍事力行使を批判する人が出てきたと言うことを報告している。それは、人道上の理由ではなく、もっと現実的に、軍事力を使って武力を使えば使うほどテロの危険が増し、しかもテロによってイスラエルの国家財政が破綻状態になっていて、将来的にはイスラエルという国家がユダヤ人の国家でなくなるかもしれないと言う悪い予測が現実感を持ってきたからだ。つまり、よくよく考えてみれば、パレスチナと早く和平を成立させて共存の道をとらなければ、たとえ軍事力でテロに屈しないとしても、せいぜい共倒れの道を歩むしかないという予想が出てきているのだそうだ。しかし、イスラエルの権力の中枢が「バカがうつるシステム」に冒されていると、道理を尽くしたまともな考え方がはじかれる。その結果として、田中さんの報告では、イスラエルを逃げ出す人々が増えていると言うことも報告されている。逃げ出すことが出来る人は、それなりの条件に恵まれた人で、ある意味では優秀な人間から先に逃げ出していくことになる。将来のことが見通せるからだ。そうすると、イスラエルの行く方向がますます修正できなくなって、破滅への道へ歩むと言うことになる。イスラエルが、「バカがうつるシステム」を克服できるかどうかに注目したいと思う。記事の中の次の言葉を見ると、「バカがうつるシステム」の克服の可能性を見ることが出来る。「現在のイスラエルの問題は、経済悪化やテロの増加だけではない。「このままでは、国家としての存在そのものが危ない」という指摘がイスラエル内部から出てきている。その一つは10月末、イスラエル軍の参謀長(制服組のトップ)であるモシェ・ヤアロン(Moshe Ya’alon)が「このままパレスチナ人に対する弾圧や和平を嫌う態度を続けていると、イスラエルは国家として破綻する」と政府シャロン政権を非難したことだ。ヤアロンは「パレスチナ人に対して弾圧を強化したことは、本来の目的であるテロ防止に役立っていないどころか、イスラエルに対するパレスチナ人の憎しみを増加させ、逆にテロを増やしている」と述べた。 また、テロリストが西岸地区からイスラエル本体側に入ってくることを防ぐ名目でイスラエル政府が西岸地区内で建設を進めている「防御壁」について「イスラエル本体と西岸の境界線に壁を作るのではなく、西岸内部に壁を張りめぐらせる計画となっており、パレスチナ人の町や村を不必要に分断してしまい、パレスチナ人の絶望感や怒りを増加させる結果になりかねない」と主張し、防御壁のルートを見直すよう政府に求めた。 この発言に対しシャロン首相は激怒し、ヤアロンに辞任を求めたが、外務大臣など閣僚内部からもヤアロンを支持する人々が現れ、シャロンは批判を受け入れざるを得なくなった。」かつてゴルバチョフは、ソビエト共産党という「バカがうつるシステム」に引導を渡したが、モシェ・ヤアロンもそんな役割を担うことが出来るのだろうか。日本の小泉首相は、自民党という「バカがうつるシステム」に引導を渡す役割として登場したはずなのに、自身がバカに感染してしまったような感じだが。テロという事件を表面的に受け止めて、法的に落ち度がないという人々が殺されたことを憎しみの感情だけで見てはいけない。その背景を歴史的にとらえて、なぜこのようなことが起こり、どうすれば今後防いでいけるのかを今一度よく考えなければならない。イスラエルではそれをようやく考え始めたのだと思う。報道では次のような見出しのものもあった。「トルコ外相「組織的なテロ攻撃に直面している」」単なる悪党が憎むべき犯罪を犯していると言うことではない。権力の側がテロリストに対して武力を行使して、テロに対しては弾圧を続けるのだというメッセージを送れば、今以上にテロという反撃を受けるのだと言うことを覚悟しなければならない。なぜなら、テロリストにはそれ以外の手段がないからだ。もし、交渉の席が用意されているのなら、それを使うと言うことも出来るが、それが絶望的であれば、テロリストにはテロという手段以外には方法がない。だから、テロに対して武力で押さえつけると言うことは、テロリストを最後の一人まで抹殺しない限り、テロの攻撃を受け続けると言うことになる。その覚悟をしてでも、命がけでテロと武力対決するのだという決意が出来るのだろうか。そんなところに命がけになるのではなく、他の方向を考えることは出来ないのだろうか。テレビのニュースでは、テロに対する憎しみをあおるよりも、その原因はどうなのかを問う声が大きかったので、まだ道理が通っていることにちょっと安心した。権力の側の、テロは絶対的な悪で、断固として戦うのだと言うことを全面的に信じられないのは、次のような報道も溢れているからだ。「<アフガン>米軍が非政府組織への機銃掃射認める」「イラク北部で爆発5人死亡 各地で反米テロ続発」「日本援助の道路工事現場で銃撃=地元警備関係者が死亡-アフガン」「反ブッシュで大規模デモ ロンドン中心部」「戦後イラク対応、不支持過半数に=米世論調査」「占領終結後も6基地で駐留 米英、イラク密約と報道」イラクでは、アメリカに協力的なイラク人もテロの対象になっている。これはベトナム戦争の時と同じ状況だ。イラクの抵抗勢力が、単にフセインの残党にすぎないのであれば、民衆の支持が集まるはずはないから、同じイラク人を殺すと言うことは支持されなくなり、その犯人はすぐに捕まってもいいと思う。これが捕まらずに、今後も同じようなテロが続くようなら、反米勢力は民衆の支持を受けているかもしれないと考えられる。同じイラク人でさえアメリカへの協力者はねらわれるのだから、外国人でアメリカの側に立っていると思われれば、それは完全に標的になるのだと思う。小さい報道で一回しかなかったので見落とした人もいるかもしれないけれど、次のような見出しのニュースもあった。「<イラク>米兵重傷者2200人近く 米政権に焦り 仏紙報道」イラクのアメリカ軍の死者の多さもさることながら、それを遙かに上回る負傷者についての報道は今まではなかった。テロリストに対する憎しみをあおるためなら、その報道があっても良さそうなものだけれど、どうしてこのことはあまり報道されないのだろう。それは、その数の多さに、憎しみを喚起するよりも、衝撃を受けてしまい、どうしてこんなことが起こるのだと本質的な方へ目を向けてしまいかねないからではないだろうか。イラクは泥沼状態に陥っている。ちょうどイスラエルとパレスチナの関係が泥沼状態になっているのと同じ構造を感じる。イスラエルは、ようやくその泥沼状態を抜けるには武力に頼ってばかりいてはだめだということが分かりかけてきた。アメリカがそのことに気づくにはあとどれくらいかかるだろうか。イスラエルは、国家存続の可能性が危うくなってきてそのことに気づかざるを得なくなってきた。アメリカもそこまで追い込まれたら気づくのだろうか。ベトナムの頃と同じように、イラクからすべてのイラク人を抹殺しない限りテロは終わらないと言うような状況になったらアメリカもようやく気づくのだろうか。「バカがうつるシステム」に毒された集団が、その感染から抜け出すのはいつになるのか。そして日本も、そのバカに気づくのはいつになるのだろうか。イスラエルのように、優秀な人間からまず国外へ逃げ出すという状況が生まれるのだろうか。
2003.11.21
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宮台真司氏の学校批判には、教師のバカがうつらないシステムに変えて行かなくてはならないというような主張がある。これは、うっかりすると誤解されそうな過激な言い方だが、教師に苦しめられた経験がある人間にはすぐにピンと来る感覚だろう。でも、その人たちもこの言葉を正確に受け取っているかどうかは難しい問題だと思う。経験を一般化して抽象するというのはかなり難しいからだ。僕も、この言葉をあまり深く受け取ってはいなかったような気がする。これは、能力の低い教員が、権力という後ろ盾で弾圧をすることで、心ならずも生徒の方が自分の頭で考えなくなる、つまりバカになってしまうという悪循環が、バカがうつるシステムだと思っていたのだ。教員の能力の方に大きな原因があるのかなと思っていた。しかし、これをわざわざ「システム」と呼ぶのは、個々の教員の能力の問題以上にシステムという客観的な存在の方に問題があるという指摘ではないかとも思える。それを納得させてくれる記述というものを、小熊英二さんの「<民主>と<愛国>」という著書の中に見つけることが出来た。小熊さんは、軍国主義化の日本社会の様子を描いているのだが、これがまさに絵に描いたような見事な「バカがうつるシステム」になっているのだ。軍隊組織しかり、学校教育しかり、日常生活での隣組しかりだ。まず当時の軍隊がどのような組織になっていたかというと、小熊さんの言葉で言うと「セクショナリズムと無責任」が支配していた組織ということになる。陸軍と海軍は、双方に無関係に作戦を立てており、陸軍は大陸方面の戦争しか想定しておらず、アメリカとの戦争においては当面の相手となる海軍の方は勝算がないと見ていたにもかかわらず、陸軍に押し切られる形で戦争に踏み込んだようだ。しかも、勝算がなくても負け戦を正直に報告することが出来なかったので、小熊さんに寄れば次のような状況だったらしい。「大本営は陸軍部と海軍部に別れ、それぞれ別個に作戦を立てており、大本営陸軍部の情報参謀の回想によれば、「陸軍と海軍が双方とも、なんの連絡もなく勝手に戦果を発表していたため、陸軍は海軍の発表を鵜呑みにする以外にない」という状況であった。海軍の空母が全滅した1942年6月のミッドウェー海戦の実情についても、陸軍情報部の部員たちは「各種の情報、特に外国のニュースなどによって」「だいたいのことは知っていた」にすぎなかったという。」作戦において、敵の状況を正確に把握しないと、それは悲惨な失敗につながってしまうだろう。このときの日本軍については、別の要素として敵を過小評価し、味方を過大評価するという失敗もあったと思う。これは、正確な情報がなかったことに寄るもので、軍事情報には機密情報が多いだろうけれど、秘密にするということが間違った判断に結びつくという歴史はここでも見られるのだなと思う。軍国主義化の軍隊というのは、おそらく日本で一番優秀だといわれる人間たちが集まってきたところだ。最初からバカだったわけではない。しかし、その優秀な人間たちがこのようなバカとしか思えない行為をしてしまうというのが、旧日本軍の軍隊というところが「バカがうつるシステム」だということなのではないだろうか。つまり、最初からバカな人間が権力を握るような単純な話ではなく、どんなに優秀であっても、権力の座に行けば行くほどバカになっていくシステムということなのではないだろうか。「バカがうつるシステム」では道理が引っ込んで無理がまかり通る。道理を唱える人間が迫害され、無理に反対することが出来ない強い同調圧力がかかる。まともに考えればとても成功しそうもない特攻という攻撃に関しても、それに反対することは出来ず、かえってその攻撃を賛美する空気が作られていく。小泉さんは、特攻隊の隊員の手記に感動していたが、それは理不尽な理由で死ななければならない人間が、その理由を納得しようとして無理矢理ひねり出したその心情の哀れさと純真さに感動するような感じがする。小熊さんの言葉に寄れば特攻の実情というのは次のようなものだった。「航空機による特攻は、「一機で一艦を屠る」というスローガンのもとで行われた。しかし爆弾を抱いた航空機の衝突は、投下爆弾に比べ速力と貫通力が劣り、破壊効果も少ないことが当初から知られていた。米軍の戦闘機と防空弾幕の妨害を、特攻機がくぐり抜けられる可能性も少なかった。 海軍軍令部の予測では、8機から10機が同時に最良の条件で命中しなければ空母や戦艦は撃沈できないこと、出撃する特攻機のうち1割程度が敵の位置に到着できるだけであろうことなどが、沖縄戦の時点ですでに算定されていた。そのためもあって、特攻で沈められた大型艦船は存在しなかった。」科学的に予測できたにもかかわらず、無理な作戦がまかり通った。さらに特攻に関わっては次のような無責任ぶりも見える。小熊さんの報告では次のようなことが語られていた。「航空隊の幹部や兵学校出の将校、古参パイロットなどは、部隊の維持に必要であるとされたため、特攻に出ることは少なかった。そのため特攻隊員の多くは、戦争の後半に動員された学徒出身の予備仕官や、予科練出の少年航空兵などから選ばれた。機材面でも、特攻用には、喪失しても惜しくない旧式機や練習機がしばしば使用された。当時の古参パイロットの一人は、「特攻隊に選ばれた人たちは、はっきり言って、パイロットとしてはCクラスです」と述べている。 海軍のある航空隊では、こうした状況に疑問を持った飛行長の少佐が、司令の大佐に以下のように主張したあと、特攻出撃が立ち消えとなった。「もし行くんであれば、まず私が、隊長、分隊長、兵学校出の士官を連れて行って必ずぶち当たって見せます。最後には司令も行ってくれますね。予備仕官や予科練の若いのは絶対に出しちゃいけません」。しかし多くの特攻は、こうした言葉と逆の形態で行われていたのである。」もっとも立派な人間が、そうでない人間がたまたま権力者の位置にいたために、犠牲になり、その犠牲が卑劣な人間に利用されるという、アメリカの戦争をしたがる人間たちの姿を連想させるような姿になっている。戦争をしたがる人間は、自ら率先して最前線に行ったりはしない。これが、「バカがうつるシステム」の象徴的な姿かなと思う。軍隊についての報告と、隣組のような日常生活の様子など、小熊さんの本にはまだ興味深い「バカがうつるシステム」を思わせる記述がたくさんある。それと、今の学校教育の比較なども面白いものになるだろう。今後も、このテーマはちょっと考えていきたいものだ。さて、最後に今日の注目ニュースのことを少しだけ書いておこう。見出しは次のようなものだ。「<イラク支援>比大統領「治安悪化すれば撤退も」」「日本大使館に10数発発砲 バグダッド、警備員が応戦」「<米軍ヘリ撃墜>イラク武装グループが犯行声明」「米大統領は「人類の脅威」 ロンドン市長、口極め批判」「<タリバン>アフガンの国連職員射殺認める」「<アフガン>米軍が誤爆を否定」これらの報道の解釈をするときに、冷静に事実をどう受け止めるのかというのをまず最初にやらなければならない。テロリストはけしからんという感情的な憎しみを抱きたくなるような価値判断は、今しばらくはじっとこらえて、事実を優先して判断しなければならないと僕は思う。その事実の解釈としては、イラクは大変な危険な状況にあるという判断だ。この危険は、まだその全貌がはっきりしないのだから、はっきりするまでは動かずに見守るということが正しいのではないかと思える。フィリピン大統領の判断はそういうものではないかと思える。日本大使館がねらわれたり、テログループの犯行声明が出たりするのは、危険性がかなりはっきりと出てきていると解釈しなければならないのではないかと思う。世界の世論の動向としての、ロンドン市長の言葉は参考になると思う。また、米軍がアフガンでの誤爆を、殺したのは市民ではなくテロリストだと強弁するのも、世界の世論を気にしての言い訳だろう。僕は、これは誤爆だと思うけれど、事実には注目していきたい。僕が、これを市民を殺していると思うのは、アメリカのこれまでのやり方からの想像だ。それに、誰がテロリストかは、アメリカが決めるというのでは、アメリカの主張は、自分に都合のいい方向にしかいわないだろうから信用できない。第三者機関が、誤爆ではないと証明しない限り、僕は誤爆だと思うだろう。
2003.11.19
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今日のイラク関係ニュースは次の見出しのものだ。「バグダッド北方のバラドで米兵4人が死傷」「自衛隊派遣なら東京でテロ アラブ紙にメールで声明」「日本へのテロ計画中とアル・カーイダ」「イラク駐留米軍、武装勢力拠点に大規模攻撃」これらの記事を解釈してみたい。アメリカは、ゲリラ活動を押さえるために大規模な攻撃をしているが、それでもまたゲリラによって米兵に犠牲者が出ている。アメリカの攻撃はあまり効果を持たず、ラムズフェルド国防長官が語ったように、テロを完全に防ぐことは出来ないということが事実として証明されているということだろうか。アメリカの大規模攻撃もかなり疑問を感じるものだ。これは、記事に寄れば次のようなものらしい。「同北部キルクーク近郊でも同日、反米武装勢力の訓練基地と見られる施設を、全地球測位システム(GPS)誘導ミサイルで攻撃するなど、これまで使用していない精密兵器も投入し、イラク中北部で、掃討作戦を強化している。」これは、イラク戦争当初の様子によく似ている。米兵に犠牲者を出さないために、要するに遠くから恐ろしい威力の兵器を使って無差別に攻撃するという感じだ。このやり方によって、戦争当初のようにイラクの民間人に犠牲者は出なかったのだろうか。記事ではさらに次のようなことも報道されている。「ティクリートからの情報によると、米軍は同日夜、同市北方で、今月7日の米軍ヘリ撃墜に関与した人物の住むとされる住居やビル数棟を破壊。また、武装勢力の指揮をとっていると言われるイザト・イブラヒム元革命指導評議会副議長の別荘にも砲撃を加えた。」イザト・イブラヒム元革命指導評議会副議長なる人物は、戦争の相手だったのだろうか。この人はアメリカに宣戦布告をしているのかな?もしそうでなければ、確たる証拠なしに殺してしまうとことは無法なことではないのだろうか。占領状態というのは、法律の支配を受けなくてもいいのだろうか。別荘は軍事施設だったのだろうか。家族もろとも攻撃することは正当性を持つのだろうか。重要な一人を殺すためなら、周りが少々巻き添えになっても仕方がないという論理だろうか。こういう攻撃をしているから、イラクの民衆には全く支持されないのではないか。今朝のテレビでも日本がテロにねらわれるということがはっきりと現実のものになってきたことが報道されていたが、これの解釈には二つの方向があるだろう。一つは、テロというのは恐怖という手段で相手を自分の意志通りに動かそうとするものだから、ここで自衛隊派遣をためらったらテロに屈したことになるから、テロに屈しないためにも自衛隊を派遣しなければならないという解釈だ。テレビではそう言う論調が多かったようだ。これは、ある条件の下では正しい主張だと思う。それは、命をかけてでも守らなければならない大儀があるときに、殺されるかもしれないという恐れで、その大儀を放棄してはいけないという意味での正しさだ。しかし、その条件をもう一度吟味しなければならない。イラクへの自衛隊派遣は、命をかけてでも守らなければならない大儀を持っているのかと。もしその大儀がないのなら、殺された人は犬死にになる。我々の側から見たら犬死にだが、権力の側から見たら、アメリカに忠誠を示すための貴重な死になるかもしれないが。自衛隊派遣の原因になったイラク戦争に関しては、そこに大儀がないことはほぼ世界的な同意が出来ているようにも感じる。大儀はないけれども、起こってしまったことは見過ごすことが出来ないから、事後処理としてイラクにいろいろな人間を派遣しているという風に僕は現状を解釈する。僕は、日本政府がアメリカへの忠誠心を示すために利用されてテロで死ぬのはごめんだ。だからイラクへの自衛隊の派遣には反対する。人間の死は、それなりの意味のある死でなければ、死んでも死にきれない。イラクへの自衛隊派遣は7割の人が反対しているそうだ。この人たちも、単に死を恐れているのではなく、その死が意味が感じられないことに耐えきれないから反対しているのだろうと僕は思う。それでもあえて政府は自衛隊を派遣するという可能性はある。それだけアメリカの圧力は強いだろうという予想もあるし、実際にテロが起こることで、テロリストに対する憎しみを利用して、武力を使う必要性を宣伝することも出来るからだ。アメリカがその高度に発達した情報網を持っているにもかかわらず、ニューヨークのテロを防げなかったのは、その後の軍事力の行使をする口実を作るためにあえて見過ごしたのだという解釈も絶えない。同じように、自衛隊派遣に反対する世論を他の方向に向けるためにあえてテロを誘い込む戦略もあるかもしれない。こう考えると、自衛隊派遣に反対してもしなくても、テロにねらわれるという可能性がなくならない。かなり絶望的な予想になってしまうが、テロが起こったことによって、感情的に、テロを撲滅するために自衛隊を送れという風に世論が流れることを恐れる。情報を持たない庶民としては、この情勢が変化をするまでは、テロの対象になりそうな場所を避けるという努力をするしかないのかなと感じたりする。その他、イラクだけではないけれど、それに関連するニュースに注目すると次のようなものもある。「アフガンでも活動停止 国連、職員殺害受け決定」「米軍誤爆で6人死亡 掃討作戦中のアフガン東部」「機銃掃射で市民6人死亡=米軍の誤認か-アフガン」「米大統領、18日から訪英…10万人超の反対デモも」「<アフガン>外国人への攻撃強めるタリバン」アフガンでの様子というのは、今後のイラクの姿を占うのに参考になる。ここでもアメリカのやり方はうまくいっていない。それから、イギリスでの世論の動向を見ると、進んだ民主主義国家の国民がどのように考えていくかの参考になる。今後の世界の世論をリードしていく方向が見えるのではないだろうか。イラク関連のことが長くなってしまったけれど、もう一つ関心を持っているシステムのことに関して面白い記述を見つけた。宮台真司・藤井誠二・内藤朝雄共著の「学校が自由になる日」(雲母書房)の中の記述だ。ここでは、今の学校教育の批判を展開しているのだが、個々の具体的な批判ではなく、制度というシステムに対する批判が中心になっている。これは、今までの僕の感覚にとてもよく共感できる批判だ。僕は、今の学校というのは個人の努力で問題が解決できるレベルにはないということを常に感じていた。しかし、それは実際に現場にいる人間にとっては、現実の難しさから逃げているととられかねない部分がある。実際の学校の毎日では、問題が難しかろうと解決の方向がなかろうと努力していくしかない。その努力している人間に協力せずに、一般論で考えるというのは逃げだと思われかねないのだ。しかし、努力の方向が間違っていれば、努力が大きければ大きいほどおかしな方向へ邁進していくことになるのではないかということをずっと考えていた。努力するならば、個々の具体的な問題に対処する処方箋的な努力ではなく、システムという基本をどうにかしなければいけないのではないかという思いをずっと抱いていた。政治の世界でいわれている構造改革ということも、もはや処方箋的な解決方法では、問題を先送りにするだけで、それの解決にはならないという認識を人々が持ち始めていることを意味するのだと思う。教育の世界でも、その方向が見え始めていないだろうか。この本では、システムのどこに注目するかという示唆を与えてくれている。イラク問題とともに、この問題が僕の今の最大の関心事だろうか。
2003.11.18
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今日のイラク関連のニュースで目につくのは、次のような見出しのニュースだ。「バグダッドでゲリラ攻撃か CPA近くに着弾」「イラク駐留軍への抵抗呼び掛け=フセイン氏?肉声テープ-アラブTV放送」ゲリラ活動は休むことなく続けられているようだ。今後も活発化することが予想される。抵抗の呼びかけに誰が呼応するかで、ゲリラが単なる残党なのか、民衆の支持をそれなりに得ているのかが分かるだろう。また、イラク以外の地でもテロに関するニュースが入っている。次の見出しだ。「アルカイダが犯行声明=トルコ同時テロ事件」「国連女性職員を射殺 アフガン、テロの可能性」この二つのテロは、各国で卑劣な犯罪として非難されているものだが、犯行声明などが出されていると言うことは、政治的に意味を持つと判断されて行われたと解釈することが出来る。つまり、テロリストにとっては、敵の側には犯罪と思われてもかまわないが、味方の側にはそれは抵抗の戦いとして支持されるという判断がなければ、実行はしないだろうし犯行声明を出さないだろうと考えられるからだ。これも、中東各国の民衆がどう受け取るかに注目していきたい。今日注目したいもう一つのニュースは、ちょっと前に報道された次の見出しのものだ。「「ジャップ」の次は「島国日本」=正式呼称を再要求-北朝鮮」これは、日本では通常「北朝鮮」と呼ばれている国が、何か失礼なことを日本に向かって言ったという風に受け取られている報道だ。けしからんという感情を呼び起こしたのではないだろうか。しかし、この報道を冷静に眺めて今一度考えてみたいと思う。記事の全文は次の通りだ。「【ニューヨーク14日時事】国連総会第3委員会の人権問題に関する討議で14日、北朝鮮代表が日本に対し、「われわれは日本を『島国日本』『日本群島』『日本島民』とは呼んでいない」と述べ、北朝鮮を正式名称の「朝鮮民主主義人民共和国」で呼ぶよう改めて要求した。 北朝鮮は4日の総会本会議でも、日本が「北朝鮮」の呼称を使っていることを非難し、同様の措置として「ジャップ」を連発。日本側は「地理的な概念として使っている」と反論し、フント総会議長も侮蔑(ぶべつ)的な表現を使わないよう北朝鮮をいさめた。 北朝鮮の代表は今回、日本が同委員会で拉致問題解決を求めたことに答弁権を行使。その際、「地理的概念と言うなら、日本を『島国日本』『日本群島』『日本島民』と呼んでも良いのに、われわれは良識を持ってそう呼んでない」と強調した。」朝鮮民主主義人民共和国の要求を「国名を正式名称で呼ぶべきだ」ということに限って受け取るならば、これはそれほど無茶な要求ではないように感じる。ある意味ではごく当然のことだ。日本は、地理的概念だと言い訳をしているが、当該国の朝鮮民主主義人民共和国が正式国名で呼ぶことを要求しているのだから、そう呼べない強い理由がない限りそれを受け入れるのが国際的な礼儀にかなうのではないだろうか。そう呼べないという理由は報道されていないような気がした。朝鮮民主主義人民共和国の代表が比喩として使った「ジャップ」という言い方は、フント総会議長に侮蔑的な表現を使わないようにいさめられた。しかし、「朝鮮」という言葉も長い間日本では侮蔑的な意味を込めて使われていたという歴史があるのではないだろうか。フント総会議長はそのことを知っているのだろうか。もしも、知っていれば日本に対しても同じようにいさめるのでなければ不公平な感じもする。地理的概念だというのは、単なる言い訳であって、どうして国名の呼称を訂正できないのか語らなければ、実に大人げない対応にしか見えない。日本は、韓国のことを「南朝鮮」と地理的概念を使って呼ぶだろうか。僕もかつての文章で「北朝鮮」という言葉を使っていたけれど、これからは正式名称の朝鮮民主主義人民共和国という言葉を使っていこうと思う。「北朝鮮」という言葉が、日本では当たり前に使われているので、それをいやがる気持ちというものが分からなかったので、かつては使ってしまったが、それを知った今からは気をつけて言葉を使っていこうと思う。日本も、そういう対応に改めていけばいいのにと思う。一般論として国名のことを「リアル国家論」(教育史料出版会)の中で網野善彦さん(歴史学者)が次のように語っている。「それは、国名は国民の意思で変えられるし、決められるということを、明確に日本人が認識する大前提です。もちろん、今すぐ変えろなどとはいわないけれども、変えたいと思ったら国民の総意で変えられるという当然のことを意識していないのは、世界の民族、地球上の諸国民の中で、かなり特異なあり方だと思います。 韓国と朝鮮はいつか統一するでしょうが、その時どんな国名になるかのかは大問題です。「朝鮮」とも「韓国」とも言えないから、「高麗」にしようという意見もあるようです。国号は、それぐらい重大な意味があるということを知っておかなくてはなりません。」国名は、その国の国民にとってのアイデンティティに関わるものだということだ。だから、正式の場で要請されたら、その通りに応えるべき問題ではないだろうか。なぜそれが出来ないのだろうか。その理由の方をよく考えたいものだ。このことについては以上のような問題を僕は感じるんだけれど、もう一つ別の問題も感じる。僕は、国名を正式の場でどう呼ぶかという問題を論じているのであって、朝鮮民主主義人民共和国が関わっている他の問題に関しては何も語っていない。しかし、上の問題でどちらかというと朝鮮民主主義人民共和国よりの解釈をしていると、他の問題でも朝鮮民主主義人民共和国を擁護していると受け取られかねない空気が今の日本にあることだ。僕は決して、他の問題で朝鮮民主主義人民共和国をかばったり支持していたりするわけではない。そのことに今は言及していないだけだ。この問題は、僕が上で論じたことよりももっと深刻で難しい問題だろうと思う。この問題がある限り、朝鮮民主主義人民共和国の問題は正しく論じられないだろうと思ったりする。それにしても、国連の場で今までの呼び方を改めて正式名称だと相手が主張する呼び方にどうして改めることが出来ないのだろう。今までそういうことに思い至らなくて、考えが及ばなかったのであれば、そのことのみに関して簡単な謝罪をして言い方を改めれば、大人の対応だなあと尊敬されるんじゃないかと思うんだけれどな。言い訳をして今まで通りにするのは大人げないと僕なんかは思うんだけれど。朝鮮民主主義人民共和国につっこまれて困るようなところは作っておかない方が外交上は得だと思うんだけれどな。
2003.11.17
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これから、毎日イラク関係のニュースをその見出しだけでも確認していこうかと思う。まずヤフーでそれを拾ってみると次のようなものが見つかった。「イラクで米軍ヘリ2機墜落、少なくとも17人死亡」 [11月16日12時31分更新]その前の日には、トルコでユダヤ教の教会が爆破されて犠牲者が出たというニュースもあった。もしこれらの行為が、憎むべき極悪人のけしからん犯罪であれば、それはやがて人々から追いつめられて平定されるだろうと思う。今後どのようになっていくか、毎日のニュースを追いかけていきたい。それから、この事実をどう解釈するのかという資料があれば、それにも注目をしていきたい。このようなことがなぜ起こるのか、その背景を深く分析した解釈がマスコミに載ってくるだろうか。それとも、その凶悪性や残虐性を訴えるような解釈の方が主流を占めるのだろうか。ニュースは事実を報道するだけで、その解釈については記述していなかった。善悪の価値判断ではなく、事実の解釈として考えると、イラクの反米勢力はかなりの戦力を持っていると解釈したくなる。単なる残党にすぎない勢力だったら、アメリカの軍事力を持ってすれば掃討することも出来るのではないのだろうか。しかし、アメリカ軍の掃討作戦後に、その効果がなかったかのごとくにこのような攻撃が発生すると言うことは、反米勢力の戦力はかなりのものだと受け取れるのではないだろうか。イラクの現状は、まさに戦争状態だという感じがする。イラクの問題は、毎日何らかの形でふれていきたいと思っているけれど、その他のことで関心を持っていることにも少しずつふれていきたいと思う。今関心を持っているのは、システムあるいは構造という言葉でイメージできるようなものだ。学校での生徒指導というと、心の問題がかなりの部分を占めるような感じがする。つまり道徳教育という形でとらえられそうな問題だ。たとえば学習意欲という問題がある。夜間中学を舞台にした映画「学校」を作った山田洋次監督は、夜間中学のことを「勉強したいと思う人だけが通ってくる学校」というように形容した。その時に、定時制高校の先生と話したことがあるが、定時制高校は、同じように夜に授業をしている学校だが、学習意欲を持たせると言うことが大変困難な学校としてその苦労を語っていた。勉強したいと思って通ってくる生徒は皆無に等しく、資格を得るために仕方なく通ってきている状態だそうだ。このとき、これを心がけの問題、すなわち道徳の問題として指導をしてもほとんど成果は上がらない。勉強をすることが大事だと言うことは説得できないのだ。もしかしたら教員の方も本当は大事だなんて思っていないのかもしれない。心を入れ替えて、まじめに勉強する人間になるなんてことがほとんど期待できない。そして、この処方箋は、学習意欲という点で問題を生じていない夜間中学の経験も参考にはならない。夜間中学では、問題が生じてそれを克服したと言うことではないからだ。そもそも学習意欲に関しては、最初から勉強したいと思っている人間しか来ていないのだから、それを改善したり何か働きかけたりという必要がない状態だからだ。そこで、これはどこも解決できない困難な問題で、しかもこれまでの努力の方向では解決のめどさえ見えないという問題になっているような感じがする。そういう問題であれば、とんでもなく常識はずれの考え方であっても、何か風穴を開けられるようなアイデアが見つかるかもしれない。それが、心がけではなく、システムや構造に注目すると言うことで見えてこないかという関心を今持っている。学校のシステムや構造に、学習意欲を高めたり低めたりする要素が見つからないだろうかと言うことを考えている。仮説実験授業を提唱した板倉先生は「エリート効果」というものを学習意欲を持たせる一要素として考えていた。自分たちが先駆者だという意識が、どんな困難があっても学習をしていこうという意欲につながるという考えだ。これは確かにあるだろうと思うが、エリートというのは絶対的な少数者だから、大衆教育においてはエリート効果は期待できない。ましてや、定時制高校はエリートとは呼べない存在だから、この方法で学習意欲を持たせることは出来ない。夜間中学は、エリート効果ではないのに、なぜ学習意欲が高いのだろうか。これは、中にいる我々もよく分からない。個人の資質に帰属するものだとしたら一般化は出来ない。でも、ほとんどの生徒が学習意欲が高いとしたら、個人の資質だけとは言えないような気もしてくる。夜間中学の教員が特別に授業がうまいわけではない。下手ではないだろうけれど並のレベルだと思う。システムの個性を感じるところがあるとすれば、生徒が要求する内容で授業を組み立てると言うことだろうか。指導要領通りに組み立てることがある意味では不可能だ。小学校教育も受けていない人に対して、中学校の教科書をそのまま使って授業をすることは出来ない。だから、ある意味では仕方なく、生徒の要求に沿って授業を組み立てていくことになる。定時制高校との大きな違いがここにあるかもしれない。人間の心ではなく、それとは独立に存在するシステムに注目して、問題の解決の方向を考えると言うことに、今関心を抱いている。
2003.11.16
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イラクへの自衛隊派遣の問題について、政府の最初のトーンが下がってきている。派遣することによるマイナスの要因が高くなってきたので、政治的には派遣をためらうという空気が出てきたせいだ。自衛隊を派遣することにより起こりうる可能性と、その起こったことを日本国民がどのように受け止めて、世論がどういう方向に傾いていくかがかなり流動的になってきたからだろう。因果性の連鎖をちょっとたどってみたい。イラクの現状は、田中さんが分析したように戦争状態が続いているんだという解釈の前提の基に考えてみたい。単に、フセイン政権の残党が混乱させているというのではなく、組織された抵抗が高度なゲリラ戦術の基に、戦闘の拮抗をもたらしていると感じる。アメリカ軍が時間とともに平定するというのではなく、最終的にどちらが勝利するか分からない状態で戦闘が続いているという風に解釈したい。このような状況の下で、自衛隊という軍隊がイラクの地へ行ったら、自衛隊をアメリカの仲間として敵視することは容易に予想される。最近では、民間人でさえアメリカの側にいると判断されるとねらわれかねない状況にあるようだ。まして軍隊が行くとなれば、敵として認識されるのは当然のことだと思われる。昨日のニュースでは、軍事の専門家の発言で、今まで戦闘地域でなかったところも、自衛隊が行くことによって戦闘地域になる可能性があるとも語っていた。イラクのゲリラにとって自衛隊が敵なら、その攻撃にさらされ、自衛隊の身に危険が及ぶことは予想される因果律の連鎖だ。そうなれば、自衛隊は自分の身を守るために武器を使用するだろう。これも当然の結果だと思う。そうすればイラクの人間を殺すことも結果的に起こってくる。これが、当面の敵を殺すということであれば、その正当性を主張できるかもしれない。しかし、人間には判断の間違いが起こる可能性がある。もし判断を間違えて、敵であるゲリラではなく、民衆であるイラク人を殺害してしまったらどうなるだろう。間違いを速やかに認めて、しかるべき責任をとれるだろうか。そうすれば、少なくともイラクの民衆の敵ではなくなると思うが、その責任のとらせ方も正しくやらないと、わざわざ日本から命がけでやってきた自衛隊員の不満を残すようでは、部隊の志気が下がることにもなってくる。これは大変難しい問題だが、そういうことが起こる可能性の方が高い。この処理に失敗すれば、自衛隊はイラク人の民衆の敵にもなりかねない。民衆の敵だということになれば、ますますゲリラの活動が活発になるし、テロリストが活躍する前提条件が出来るようにもなる。民衆の敵を倒すのは政治的に有効な戦術になるからだ。因果律の連鎖をたどるとかなり泥沼状態に陥る可能性が見えてくるけれど、それを日本の世論がどう受け取るかで、あえてその泥沼状態を選び取るという可能性も出てくる。果たして世論はどんな方向に向かって、このような出来事を受け取るだろうか。イタリアは、実際にゲリラの攻撃を受けて多大な犠牲者を出した。これを受けて、イタリアの世論はどう動いているかに注目していきたい。一つの受け取り方は、犠牲をもたらしたゲリラに対する怒りだ。けしからん極悪人だという受け取り方だ。ナショナリズムや愛国心ということからいえば、同じ国の同胞が犠牲になったのだから、その加害者である敵に対する憎しみの感情が生まれるのは無理はない。だから、このことで手を引くのは、敗北主義的な行為だということで、踏みとどまらなければならないという、勇気を鼓舞する世論が生まれてくる可能性がある。戦争が始まったときに、戦争支持で埋められたアメリカの世論はそういうものだっただろう。世論の動向によっては、犠牲が出ても支持は高まるという方向もある。しかし、世論の流れはその方向だけではない。犠牲が出たそもそもの原因は、そこに軍隊を送ったという判断が間違えていたからだという方向に流れることもある。犠牲は、敵が憎むべき極悪人だからではない。敵が攻撃を仕掛けてくるのは当然のことなのだから、その攻撃を受けるに値する理由で、そもそも軍隊を送っているのかということが問題にされる可能性がある。世論がそのような方向に向けば、議論は本質的な問題へ向かうようになるだろう。感情に流されて、敵への憎しみをあおり立てるような議論にはならない。この方向は、権力者がもっとも恐れるものだろう。そもそも、この戦争は正当性があったのかどうかという問題に行き着くからだ。そして、正当性を証明することは出来ないということは、権力の側も分かっているのではないかと思う。これから、マスコミの報道で、イラクのゲリラやテロリストへの憎しみをあおる報道が増えてきて、たとえ犠牲者が出ても世論をその憎しみへの方向で誘導できるという計算が成り立ったとき、政府は自衛隊の派遣に踏み切るのではないだろうか。今の状態で犠牲が出ないなんてことはほとんど考えられないから、たとえ犠牲が出ても何とかなるという状況を作りたいのではないだろうか。しかし、たとえゲリラやテロリストが本当にけしからんやつだとしても、犠牲を避けるために最大限努力するのが、民衆にとっての利益ではないだろうか。けしからんやつだということを証明するために犠牲になるというのは何かおかしい。イラクに行って、自分たちは敵だということをあえてイラク人に見せる必要があるのだろうか。イラクに自衛隊を送るということは、平和を築き人道のために働くという甘いものではないだろうと思う。それは、イラクのゲリラやイスラムのテログループに対して、自分たちはおまえらの敵として断固として戦うんだということを宣言しに行くようなものだと僕は感じる。そういう覚悟が、日本の民衆にあるのだろうか。悪と戦い正義のために尽くすのはいいことだという考え方もあるだろう。しかし、イラクのゲリラとイスラムのテログループだけに悪があって、アメリカの側には少しも悪がないなんて言えるんだろうか。正義のために戦うのなら、アメリカとだって戦う必要があるような気がする。なぜイラクだけを相手にしなければならないんだろう。正義というのはとてもうさんくさいものだ。世論が感情に流されることなく、何かことが起こったときに、本質的にどこに責任があるのかという議論が出来る状況にあれば、おそらく政府はどこまでもイラクへの自衛隊派遣をためらうようになるだろう。マスコミの宣伝に惑わされることなく、世論が本質的な方向を向いているように願っている。この問題に関しては、世論がその方向を決めそうな感じがしている。期待が失望にならないように願っている。
2003.11.15
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日本がイラクに自衛隊を派遣するという問題は、国会での争点になるくらいだから、多くの異論があり意見が分かれる問題だ。僕ももちろん反対だが、昨日のニュースでは新潟で当選した田中真紀子さんも反対の意思表示をしていた。僕は反対の立場だけれど、自衛隊をイラクに派遣したいと思う人がどう考えているかは論理的に納得したいと思う。論理的に納得するということは、そのことに賛成するということではなく、論理的に結びつく理由があることを納得するということだ。自衛隊を派遣したいと思っている人たちは、単に間違った考えにとらわれているのではなく、利害関係からそう考えざるを得なくなっていると思う。だから、その利害関係が自分の側(権力を持たない大衆の側)と一致するかどうかを考える必要があると思うのだ。建前としてのイラクの復興支援という理由は全く信用できない。政治というのは、倫理や道徳で動くものではない。立派な動機を見せかけていればいるほどその理由は建前だけであって、本当の理由は別のところにある。正義のために命をかけるというのは、個人のレベルではあるだろうけれど、国家のレベルでそのようなことがないというのは歴史が証明している。納得できる理由の一つは、アメリカの要求を拒否しきれずに、やむを得ず自衛隊を出さざるを得ないというものだ。日本にとってはアメリカは大切な同盟国だということがよく言われるが、むしろ同盟国というよりも、アメリカの意向に逆らっていては日本では権力の維持が出来ないという判断が、日本の権力者には常にあるという感じがする。アメリカが日本の自衛隊派遣を要求するというのは納得が出来る。どこの国であれ軍隊を派遣してくれれば、イラクの統治はアメリカが勝手にやっているという姿が薄まるだろう。金の問題もある。アメリカは莫大な予算をイラク統治に割いているから、それを少しでも肩代わりしてくれるなら歓迎するだろう。話は飛んでしまうが、アメリカのイラクのための費用は、復興支援のための費用よりも、軍の駐留費の方が遙かに多いというのは、本来の目的はイラクの復興支援じゃないんだなという感じがするのは僕だけだろうか。アメリカが要求することを日本が拒否できないということは、事実として確認できることもあるようだ。天木さんが「さらば外務省」で書いていることに次のようなことがある。1991年にEAECという、ASEAN諸国に日・中・韓を加えた経済協力体制を当時のマレーシアのマハティール首相が提唱した。マハティール首相は、米・欧に対抗するために、アジアでは一番の先進国であった日本を中心にして「アジア勢力圏の構築」という構想を考えたらしい。このままではアジア諸国は、これら二大勢力の餌食にされてしまうという危機感もあったようだ。日本がアジアのリーダーになれるというこのチャンスに、アメリカが強い圧力をかけてこの構想をつぶしにかかってきたそうだ。日本がアメリカの対等な同盟国であれば、この圧力にそのまま屈するようなことはないのではないかと思うのだが、日本はリーダーになる道よりも、アメリカの要求に従う道を選んだ。マハティール首相のこの構想に反対したのだ。マハティール首相は、このことを次のように解釈したらしい。134ページから引用する。「やがてマハティール首相は、「東アジアが結束すること自体にはなんの異論もない。しかし、日本がリーダーになって米国に抗する組織を作ることだけは、どうしても許されない」という、米国の剥き出しの対日警戒心を知った。マハティール首相は、改めて米国の日本に対する敵愾心を感じたという。これは人種差別に由来する感情としか思えないと、マハティール首相は親しい知人に漏らしたという。」日本がアジアのリーダーになることは、日本にとって利益であり、アメリカに対してはそれがアメリカにとっても利益であることを説得することが、真の同盟関係であると思うのだけれど、アメリカに要求されたらすぐにそれをあきらめてしまうという日本の主体性のなさはどういうものなのだろうか。この主体性のなさを考えると、イラクへの自衛隊派遣を要求されたら、何よりもそれが最優先されて、他の要素を考えなくなってしまうという状況は納得してしまいそうだ。アメリカが要求したからやむを得ず自衛隊を派遣するということは、論理的には納得できることだ。でも、それをはっきりと言うことは出来ないだろうな。だから、このことが事実だという風に言うことは僕には出来ない。でも解釈としては、これが一番納得できる解釈だと思う。それでは、アメリカの要求に従うことが、権力者の利益ではあるが、我々大衆の利益にもなることなのだろうか。我々大衆にとってもアメリカに守ってもらうことは必要で、それは我々の利益でもあるという意見はよく聞くものだ。特に、1年以上も懸案になっている北朝鮮の拉致問題を初めとして、北朝鮮に関わる問題はアメリカの力が絶対に必要だという意識は多数派をしめる。しかし、僕は、北朝鮮の問題でアメリカが日本を守るということはほとんど信じられない。アメリカの行動は、アメリカの国益にかなう限りで行われる。だからアメリカの国益と日本の国益が一致していれば、日本の期待通りになるのだが、それが一致しなければ期待を裏切られる。しかもアメリカは日本の期待を裏切っても、それを埋め合わせるようなことを考えなくてもいい状況にある。アメリカは、アメリカの好き勝手に出来るというのが、日本とアメリカの関係だという風に僕は感じるのだ。日本政府がどうしてもイラクに自衛隊を派遣したいのは、アメリカにその要求があるからだと考えると、一応の納得は出来る。日本政府がそれを拒否できない関係にあるということも納得できる。でも、大衆の一人である一個人としての僕は、アメリカの要求を拒否できない理由はないと思っている。拒否したからといってすぐに殺されるようなことがあるわけではないし、生活上の不利益を被るわけでもない。だから、一個人としての僕はやはりイラクへの自衛隊の派遣は反対したい。反対の理由はいくつもある。正当性のない戦争の結果としてのイラクの統治に、アメリカの側に立ったということを鮮明にするような派遣は日本の不利益になると思うからだ。この場合の日本というのは、日本人大衆といった方がいいのかもしれない。下手をすると日本人がテロの対象になるかもしれないという心配もある。自衛隊員にしても、大儀のないアメリカのために死ぬということが許されていいのかという問題もある。殉職したら1億円が出るといわれているけれど、そんな問題ではないだろうと思う。果たして国会ではどのような議論がされるのだろうか。自民党は議論を逃げて問題を先送りにしてしまうのだろうか。注目していたいと思う。
2003.11.14
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民主党は、今後の国会での争点にイラク問題を据えるということを言っているが、イラクの現状を理解するために大変参考になるような情報をジャーナリストの田中宇さんのレポートに見つけることが出来た。田中さんは、5月に一応の戦闘が終わったときに、フセイン軍がほとんど正面からの戦闘をせずに消えてしまったことに疑問を投げかけていた。あまりの戦闘能力の違いに、フセイン軍は逃げてしまったのだと一般には解釈されていたのではないだろうか。これを、結果として逃げたのではなく、戦術としてあえて逃げたのではないかと田中さんは推理している。田中さんの推理は、11月10日にアメリカの新聞「クリスチャンサイエンス・モニター」に載った記事を基にしている。これは、国連の対イラク査察団の主要メンバーだったスコット・リッターによって書かれていた。田中さんはまず次のように報告する。「この記事によると、リッターら査察団は、イラクの諜報機関の拠点をいくつも査察していくうちに、フセイン政権が「即席爆弾」improvised explosive devices、IED、即席爆発装置)を作る技術を諜報部員たちに習得させていることを知った。即席爆弾と、特殊な軍用品の兵器材料が手に入らない場合に、民生品として手に入りやすい原材料だけを使って作る手製の時限爆弾、地雷、手榴弾などの総称で、ゲリラやテロリストが作ることが多い。」この報告によれば、フセイン軍は、最初からゲリラ戦の可能性に備えて準備をしていたのだと考えられる。ということは、結果として正面からの戦闘がなくて逃げたのではなく、ゲリラ戦に備えて戦力を温存するために逃げたのだと解釈したくなる。さらに、次のような報告がこの推理を裏付ける。「イラクの諜報部員たちが即席爆弾を製造使用する技術を持っているということは、今のイラク情勢にとって重大な意味を持っている。イラクに駐留する米軍が受けている攻撃の多くは、即席爆弾を使って行われているからである。このことをふまえると、米軍や国連事務所などに対する攻撃は、イラクの元諜報部員たちの仕業である可能性が高くなり、フセイン政権の諜報機関がいまだに地下組織として存在し、そこが米軍に対するゲリラ戦として爆破攻撃を組織的に行っているのではないかという見方が強くなる。 リッターは、イラクの諜報機関は、バグダッド市内やイラク国内のどこにどういうフセイン政権の支持者がいて、どこに反体制の人々がいるかよく知っていたから、フセイン政権が消滅した後も諜報機関が地下組織として生き残ることは難しくないと主張する。」このような推理から得られるイラクの現状に対する理解は、「まだ戦争は終わっていない」ということだ。考えてみれば、フセイン軍は逃げ出したが降伏をしたわけではない。アメリカの側が一方的に終結宣言をしただけだった。マスコミの情報ではアメリカ側のニュースしか入ってきていないので、イラクで暴れているのはフセイン政権の残党であり、単なる犯罪者にすぎないのだというイメージが持たれている。しかし、これが最初からの戦術で、戦争がまだ続いているのだと解釈すると、これをアメリカ軍が簡単に納められるかどうかは疑問を持たざるを得ない。昨日の大ニュースではイラク駐留のイタリア軍が大規模な攻撃にあって多くの犠牲者を出したというものがある。これも、マスコミのニュースでは、単なるテロリストの悪辣な行為ということになっているが、イラクがまだ戦争が続いているという状態ならば、敵と見なした相手に攻撃を仕掛けてくるのは、戦争であれば当然予想できることになってくる。つまり、イタリア軍もアメリカ軍の仲間であり、敵だと見なされたということをこれは意味しているのではないか。ゲリラ戦というのは、かつてベトナム戦争の時にベトナム軍がアメリカを打ち破った戦術だが、これは民衆の支持がなければ成功しない。ゲリラは民衆に隠れて潜伏して、相手の虚をついて弱い部分を攻撃しなければならない。民衆の支持がなければ、潜伏がばれてしまい、活動する前にとらえられてしまうだろう。これだけ大規模な攻撃が毎日のように起きていても、それが防げない、肝心の実行者が捕まえられないというのは、ゲリラが民衆の間で支持されていることを意味しているのではないだろうか。マスコミが宣伝する、単なる悪党というイメージでは真相を見誤るのではないかと感じる。[TUP-Bulletin] TUP速報210号 帝国現地レポート(24)によれば、イラクでは連日アメリカ軍兵士が殺されているだけではなく、逆にアメリカ軍によってイラクの民間人がたくさん殺されているという事実もあるそうだ。次のような報告がある。「パトロールするたびに米兵が襲われるので、ここ数週間は、米軍の市内パトロールは行われていない。しかし、市民がこれだけ抵抗するのは、米軍側に非があるようだ。4月28日・・・デモ中のファルージャ市民に米兵が発砲、13人を射殺。4月29日・・・ファルージャ市民二人が、理由もなしに米兵に射殺される。9月12日・・・米兵がファルージャ警察官に発砲、12人を射殺。 そして10月には、爆弾攻撃を受けた米兵が、機関銃を乱射して一般市民を射殺、また、通りすがりの車にロケット弾を発射、運転手もろとも撃破した。 さらに、ガソリンスタンドの販売員に手錠をかけ、店に火をつけ、彼を後ろから射殺した。 後に、米兵は病院の死体置き場に行き、黒こげになった販売員を見つけ、死体から手錠を取りもどしたという。 しかし、米軍の犯した最大の間違いは、ファルージャの有力な部族長たちをかたっぱしから逮捕したことだろう。彼らにとって、これ以上の屈辱はない。 最近もまた、尊敬されている部族長アル・サーダンが、自宅で20人の大切な客人をもてなしている最中に、米兵により逮捕された。」これでは、アメリカを支持してゲリラを掃討しようという気持ちがイラク市民の中に生まれるはずがないと思う。日本がイラクに自衛隊を送るのは、建前上はイラク市民のために、イラク市民を支援するという名目で送ることになっている。しかし、イラク市民はそう受け取ってくれるだろうか。アメリカ支援のためにきたという風に受け取らないだろうか。イラク市民がそう受け取ったら、自衛隊も敵と見なされ攻撃の対象になるはずだ。そうでないと考える方が難しい。その際に、自衛隊員が危険にさらされれば武器使用もやむを得ないという空気が出ている。これは、論理的にはやむを得ない場合があるというのは理解できるのだが、その判断を間違えたときの影響は考慮しているんだろうか。アメリカ軍は、ある意味では無差別に無法状態でイラク人を殺している。ねらわれていることの恐怖から、適切な判断をすることなく武器を使っている。そのことがさらなる憎悪を生み出し、また攻撃の標的としてねらわれるという悪循環を生み出している。自衛隊もその泥沼の中に入り込まないと言えるだろうか。国会の答弁では、このような疑問に対して政府がどのように説明をしていくのかに注目したい。なぜなら、遠いイラクで行われていることが、政府の対応によっては日本国内にいる我々にも大きな影響を与えることになるかもしれないからだ。自衛隊という軍隊が、アメリカの同盟軍と見なされれば、戦争状態にいるイラクのフセイン軍の攻撃を受けるというのは当然考えられることだ。さらにその結果が、今度はイスラムの敵と見なされるようになると、世界中のイスラムのテロネットワークに日本がねらわれるという可能性も出てくる。イタリア軍はイラク軍の敵になった。もしイタリアのどこかでイスラムのテロが発生するようなことが起きたら、イラクの敵はテロの標的にもなるということが現実のものになってくる。テロには断固として戦うべきという意見もあるかもしれないが、戦うことでテロが防げないものであることは歴史が教えている。問題の解決は難しいけれど、それが光のある方向へ行くかどうかは、まっとうな議論によって解決が図られるかどうかにかかっていると思う。果たして国会ではどのような議論がされていくのだろうか。
2003.11.13
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今度の選挙は、その結果を評価することが難しく、希望を持っていいのかどうかわかりにくい。もしかしたらもっと絶望的な状況が明らかにならなければ日本は変革というものが起こらないのだろうかという心配も出たりする。すべてが破壊され尽くされないと戦争を終わらせられなかったように。唯一希望の光を見る方向は、国会やマスコミでまともな議論が主流を占めるようになることではないかなとこのごろは感じるようになった。この国では、権力の中枢に行けば行くほどまともな論理が通用しなくなる。事実を隠し、無理が通って道理が引っ込むようになる。民主党は選挙後の国会でイラクへの派兵を論議する方向をとっているようだ。この問題では政府は、その正当性を証明することが出来ていない。アメリカの攻撃の正当性は、それが正当でないということが明らかにされようとしているが、日本がそのアメリカを支持したということの正当性は全く説得力のないものになっている。大儀としての大量破壊兵器の問題や、フセイン政権の人権抑圧的な実態なども、市民を大量に殺戮した戦争のやり方や、戦闘終了後の統治政策の失敗を見ると、大儀があるから支持が正当なのだとはとうてい思えない。その支持に、論理的に納得するとすれば、政府の判断として、アメリカ支持をする以外に外交的な選択肢がなかったのだと説明してくれることではないかと思う。政府が、それ以外に選択肢がないと判断したのなら、「支持したということ」については論理的な納得は出来る。後は、その判断が正しいと賛成できるかどうかの問題になる。「支持した」という判断についての議論をしなければならないのだと思う。それが、今の議論では、支持そのものが正しいかどうかという議論になっていて、しかもそれがとんでもないへりくつで言い逃れようとしているものになっている。大量破壊兵器が、それはまだ見つかっていないだけで、いつか見つかるはずだということが、なんの根拠もないままに主張されていて、それがそのまま通ってしまう。「フセインが見つかっていないからといってフセインがいないことではない」という比喩は、大量破壊兵器が見つかっていないことを言い訳する単なるへりくつにしかすぎないのに、これが追求されずにただ笑い飛ばされて終わりになってしまう。ワイドショー的には笑いがとれるものは便利なのだろうが、マスコミもこれをバカにするだけでまともな追求はしない。このあたりがまともに取り上げられるようになるかどうかが、日本が変わっていくきっかけが見えることになるのではないだろうか。天木直人さんの「さらば外務省」には、外務省の機密費を巡って次のような記述が載っている。「以来、外務省の報償費として予算化された機密費のうち、毎年20億円を内閣官房に還流させるのが慣例となった。関係者ならみな知っている。歴代官房長官はみな当事者であり、知らないはずはない。官房長官経験のある塩川正十郎財務省も、「やっていた」と口を滑らせた後、「忘れてしまった」ととぼけて見せた。旧大蔵省や会計検査院も知らないはずがないのだ。 この点については決定的とも思える証拠が出てきた。2001年3月の衆議院予算委員会で共産党の筆坂英世議員は、「報奨金について」と題する文章の筆跡と古川貞二郎官房副長官の直筆の筆跡を並べたボードを掲げ、疑惑を追及したのだ。この文書は専門家による筆跡鑑定でも、古川官房副長官の筆跡とされたシロモノである。これほど堅い物証を突きつけられたにもかかわらず、事実を否定し、シラを切り通した。認めてしまえば、上納という財政法違反行為があったことを認め、国民を長年にわたり欺いてきたことが公になってしまうからだ。」(104ページ)「忘れてしまった」ととぼけることを許してしまい、「関係者ならみな知っている」事実を知らせないマスコミ。これを我々が許している間は、なかなかまともな議論は登場しないだろう。そして、動かぬ物的証拠を突きつけられても、シラを切ればそれで逃れてしまう状況。これが、権力のない容疑者だったら、本人がいかに否定しても逃れることが出来ないだろう。物的証拠の方が重いはずだ。今まではまともな議論が展開されなかった。権力のある側が無理を通して道理を引っ込めていた。これからの議論では道理を取り戻すことが出来るだろうか。宮台氏的な言葉で言うと、社会がどれだけの「民度」を持っているか、それがこれから試されるのではないだろうか。難しい問題の解答を間違えることは仕方がないとしても、せめて論理だけはまともに展開できる社会であって欲しいと思う。まともでない論理を許さない社会になって欲しいと思う。それをこれから見ていきたいと思う。
2003.11.11
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衆議院選挙が終わり、その結果が報道されているが、それをどう受け止めていいのか大変難しい感じがしている。新聞によれば、自民が後退し民主が大幅増で議席を伸ばしたことをとらえて躍進と解釈している。しかし、与党という枠組みで考えれば絶対安定多数を確保している。これからの政治の方向は今までと変わっていくのか、それとも同じものを踏襲していくのか、いったいどっちなんだろうということが分からない。個人的には僕は小泉内閣には全く期待していない。その改革の方向も、本当の構造改革ではなく、今まで利権を握っていた勢力を排除して、新たな利権が移動するだけのことじゃないかという感じもする。本当の構造改革なら、古い体制によって新しい芽が出てくるのをじゃまされていた、その構造をこそ変えていくものになると思うのだが、古い勢力の中に悪人を作って、それを排除することで改革の幕引きをしているだけのように見える。その改革によってどこが変わるのかということが全く語られていない。民営化されればどの構造が変わるというのだろうか。さらに外交政策にしても、今までの日本の外交を変えて、本当に駆け引き能力を発揮できる外交に変わっていくようには見えない。相変わらずのアメリカの言いなり外交で、これは、イラク戦争反対の公電を打って外務省をクビになった天木直人さんの「さらば外務省」という本に記述されている、今までの外務省の外交をなんの改革もせずにそのまま踏襲しているだけのように見える。小泉内閣が、これからの日本を変えていく期待は、僕にはほとんど感じられないんだけれど、今度の選挙で与党が絶対安定多数を得たということは、社会は小泉さんの方向を支持したとそれを判断してもいいんだろうか。僕は、小泉内閣の方向は間違っていると思うんだけれど、社会の大部分の人は、それが間違っていると判断はしなかったと受け止めたらいいのだろうか。一方で、低い投票率の中で、期待以上に民主党が伸びたということは、自民党ではだめだという判断をした人もかなり多かったと判断していいのだろうか。投票率が低かったのは、民主党の働きかけが失敗したせいで、これがもう少しうまくいけば投票率が上がって、政権交代という可能性もあったのだろうか。ヤフーのニュースでは、「族議員、高齢、スキャンダル…自民候補が続々苦杯」というタイトルで、落選した自民党候補者の分析をしていた。古い構造に対しては、それを拒否するという社会の意志はかなり明確になりつつある。その流れはとどめられないだろうと思う。これからの流れはいったいどういう方向を向いていくのだろうか。民主党はイラク戦争に関することを争点にして議論していくつもりだという報道がある。イラクではすでにかなりの泥沼状況になっていて、国際機関は撤退し、日本以外の国は派兵を見送っている国も出てきている。世界の世論は、この戦争の不正をただす方向に向いている感じもする。民主党は、この問題を人気回復のために利用するだけで、本当の平和勢力ではないという見方もあるかもしれないが、国会における議論でこのことが正当に扱われるならば、未来に少しは期待できるかもしれない。小泉首相のいい加減な答弁が、笑いの中で見過ごされてしまうのではなく、その問題点を正しく指摘して論理的にまっとうな結論を要求できれば、変化を期待できるかもしれない。これが、今までと同じようにへりくつでごまかされていくようではやはり何も変わらないのかという思いが生まれてきてしまう。選挙の結果は一方の勝利が明らかになったと判断できるものではない。どちらが支持されたのかがよく分からない結果だ。だから、今後の方向では民意はかなり大きく揺れ動く可能性があるのではないかと思う。その民意を気にするような方向で政治家が動くようになれば、まともな議論が日本にも生まれる可能性がある。それが僕の唯一の期待だろうか。そのためには、まともでない議論を拒否するような民意が絶対に必要だと思うな。
2003.11.10
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宮台真司と神保哲生の「マル激トーク・オン・デマンド」で「ネタ」と「ベタ」という言葉が出てきた。この二つの言葉はどのくらい一般的になっているんだろうか。僕は、これを見るまでは知らなかった。しかし、なかなか便利な言葉だなと思った。この言葉を使って、いろいろな表現を見てみると、その受け取り方が違ってくるような気がするからだ。表現の読み方として便利な考え方だと思う。「ベタ」というのは、表現されたものを文字通りに受け取ることと僕は理解した。素直に辞書的な意味として受け取ることだ。「ネタ」というのは、辞書的な意味に隠れた裏の意味を読みとることという風に感じた。ある種の皮肉とか、比喩とかいう感じだ。ことわざなんかにはそういう読み方があるように感じる。「猿も木から落ちる」ということわざを、文字通りに解釈すると、「木登りの上手な猿も木から落ちることがあるんだなあ」という事実を受け取ることになる。これが「ベタ」な受け取り方だ。しかし、このことわざは、「その道に通じた技術を持っている人間でも、思いがけない失敗をすることもあるんだ」という、猿という事実を越えた意味をそこに読みとることが出来る。これが「ネタ」な受け取り方に感じる。「ベタ」と「ネタ」の関係に関しては、表現者の意図が「ベタ」なのか「ネタ」なのかという問題と、その表現の受け手の読み方が「ベタ」なのか「ネタ」なのかという二つの問題があると思う。これは、現実をどう解釈するかという現状認識で、どちらかを判断することになるだろう。宮台氏は、「自衛隊を派遣するのなら、憲法改正を初めとする法整備をきちんとした上で派遣すべきだ」という主張をしている。これを「ベタ」な表現として受け取ると、「憲法改正をして自衛隊を派遣せよ」という右翼的な主張として受け取ってしまう。しかし、宮台氏の表現は、「ベタ」ではなく「ネタ」な部分こそが本当の主張だ。「自衛隊を派遣する」という仮定を認めたら、その帰結として「法整備が必要だ」という主張は、その対偶である「法整備がされないならば、自衛隊を派遣してはいけない」という主張をこそ際だたせるための反語的言い方なのだ。多くの人は、この「ネタ」の表現を受け取れなかったようだ。仮言命題とその対偶というのは、結構難しいものなんだなと思った。田中真紀子さんの発言で、「拉致問題の解決は現状では難しい」というような意味を持った言い方は、「ベタ」で受け取ると感情的な反発を招くような言い方だったようだ。「難しいから解決できない」ということが、「解決できなくても仕方がない」、というある意味では、拉致被害者を軽視したように受け取られかねない言い方として見えてしまった。これを「ネタ」という観点で見てみると、日本の外交の失敗が拉致問題の解決を難しくしているという指摘が含まれているように読まなければならない。問題の本質は外交の失敗であり、これを反省して立て直さない限り、拉致問題の解決は難しいだろうという話だ。難しいからだめだということではなく、難しくしている原因をこそ考えなければならない、それを正さなければならないというのが「ネタ」な受け取り方だと思う。何でも素直にストレートに表現できるという社会であれば、「ベタ」と「ネタ」を区別する必要はない。そのまま受け取ればいい。しかし、高度に複雑化した社会では、表現者が意識しなくても、その表現に「ベタ」な部分と「ネタ」な部分が込められてしまう気がする。今日は選挙当日だけれど、選挙で表現された様々な主張も、その「ベタ」な部分と「ネタ」な部分を考えるということは、問題を正しく受け止めるために役に立つようなやり方のように感じる。
2003.11.09
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星川淳さんの<インナーネットソース>というメールマガジンによれば、小泉首相にイラク戦争反対の電報を打った元レバノン大使の天木直人が次のような発言をしているということを伝えている。「選挙で無党派の国民がなすべきことは明確だ。何がなんでも野党に票を入れ、政治をわれわれの手に取り戻すことである。とにかく、政権政党でない党に投票するのだ。これは暴論でもなんでもない。政策論争をやっていては政権交代はできない。それほど今の政治状況は政権政党に集中してしまっているのである。官僚が日本を牛耳っているのである。 なんとなく変革をおそれる多くの日本国民に呼びかけたい。これ以上、日本の政治が混乱することはない。これ以上、日本の経済が悪くなることはない。むしろこのまま小泉政権の存続を許していけば本当に日本は破滅してしまう。」これは、明日の衆議院選挙において、自分がその人を支持するかどうかに関わりなく、いやむしろ支持しない候補者であっても、自民党候補者に少しでも勝てるという可能性のある候補者に投票しようという呼びかけだと僕は理解した。支持しない候補者であっても、その人に投票するというのは、何か不道徳なことをしている気分になるかもしれないが、それが「政治的判断」というものだろうと思う。政治的判断というのは、言葉を換えれば現実的判断というもので、プラスとマイナスを相殺して、もっともプラスになるような判断をしようということだと思う。現実というのは、様々の利害関係が絡んでくるものだから、必ずしも理想通りには行かない。理想を守ることが、逆に理想を完全に捨て去ることにつながる恐れさえある。僕自身は、若い頃はこの政治的判断が嫌いだった。やっぱり純粋さや正当性こそが価値があると思っていた。しかし、長く生きているとやはり現実の方が重くなって来るという感じがする。たとえば、憲法改正の問題にしても、理想を守るためならば憲法を変えてはいけないという主張はよく分かる。しかし、憲法を全く無視してアメリカの要求のままに自衛隊を派遣することが現実の姿ならば、その歯止めのために、憲法の一部を改正するのも政治的判断としてあり得るのではないかと思えるようになった。問題は、どのように改正するかということを見誤らないことだとも思う。宮台真司氏は次のように書いている。「新聞などでも繰り返し書いてきたように、集団的自衛権の行使を許容する、あるいは義務づける憲法改正が必要です。それができないなら、政府による明示的な解釈改憲が必要です。ご存じの通り、政府は集団的自衛権を認める解釈改憲をしていません。 しかし、実際には既に集団的自衛権を行使するようになって長い年月が経ちます。横須賀港を出港して戦地に向かうアメリカ海軍第七艦隊の艦船に、日本は長らく燃料や物資の補給を許しています。国際法的には明らかに集団的自衛権の行使です。 日本政府の見解は笑えます。米艦船が横須賀を出港する段階では、アメリカからどこに向かうかの報告を受けていないので──戦略行動なので報告するはずがない──、戦地に向かうかどうかが分からない以上、集団的自衛権の行使ではないと。 この伝統的図式に沿う政府答弁が一昨年に見られました。アフガン攻撃のためにトマホークを打ち出すインド洋上の米艦船に燃料補給を行うのは、集団的自衛権に当たらないか、との質問に、遠隔操縦兵器なので打ち出した段階ではどこに着弾するかが決まっていないから(!)とか、発射した段階ではまだ着弾していないから(!)、当たらないとの答え。 これはギャグではありません(笑)。そういう答えが可能なら、憲法が集団的自衛権を禁止していても何の意味がない。それどころか、お前んところは何でもありだろうということで、アメリカからの理不尽な要求に抵抗することすらできない。 それだったら憲法改正するべきです。集団的自衛権を明示的に許容して上で、何が集団的自衛権の行使に当たるかを決める要件を、安保理決議なり何なり定めておく。そうすれば、要件不充足を理由に他国からの理不尽な要求を、国際的に正統な理由で拒絶できます。」僕は、憲法改正に諸手をあげて賛成をするわけではない。現状のままでは、改正するよりももっと悪い結果に結びついてしまうという予想があって、それを避けるのなら条件付きで憲法改正を考えた方がいいという政治的・現実的判断だ。宮台氏のこの主張が僕にはもっともまともな主張に見える。政治的判断をするには、現実の正しい解釈というのも不可欠なものだが、宮台氏は次のようなことも語っている。「どうも日本には、思考停止に陷ったまま、両立不可能な主張を平気でなす輩が多すぎる。いまの話で言えば、護憲の主張と、対米自立の主張を、同じ人間がやっていますが、両立しません。他にも幾つでも例を挙げられますよ。 北朝鮮に対する「馬鹿の一つ覚え」的強硬策の主張と、一刻も早く拉致被害者家族の帰国を果たせという主張は、両立しません。小さな政府的な構造改革を優先する主張と、一刻も早い景気回復を要求する主張は、両立しません。 総裁選の直前に多くの国民がインタビューに答えていましたよね。「誰を支持しますか」「小泉さんです」。「何を期待しますか」「景気回復です」。なかなかユーモアが効いたお答えです(笑)。 両立しない主張を一人の人間が平気でやりながら気が付かない。「あれもこれもの気持ちは分かるが頭の悪い思考停止の輩」「言いたいことを言ってスッキリした後は野となれ山となれの思考停止の輩」。 」マスコミのニュースでは、依然として小泉さんの支持が高く、選挙でも与党勢力が圧勝しそうだという予想が出ている。これは、与党勢力が正しいということを示しているのではなく、宮台氏が指摘するような、大衆の思考停止がその予想に現れているような感じがする。両立しない主張を両立するもののように受け止めて、決して改革の出来ない自民党勢力に改革を期待するという世論になっているのではないだろうか。大事なのは、まず自民党的なものを政権から排除するということなのに、そういう政治的判断が出来ないでいるのではないだろうか。
2003.11.08
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以前に著作権に関する話題が楽天上で盛んだった頃があった。今はだいぶ下火になっているんだろうか。その時は、著作権法という法律に疑問を感じながらも、違法行為をしたくはないと思ったので、とりあえず引用文などで「著作権法」を犯さないようにする注意をしていた。最近「コモンズ」(ローレンス・レッシグ)という本の冒頭を読んで、著作権法に関して抱いていたぼんやりとしていた疑問がちょっとはっきりしてきたような感じがした。そこでは、映画制作に関して次のような記述がされていた。ある映画監督が、その映画の中で登場する様々の映像対象に対して、全くのオリジナルでない作品に対してその使用に著作権保持者の許可を求めなければならないという問題がある。それが、原作の小説であったり、効果を高めるための意図的な音楽の使用であったりすれば、それに対して著作権料を払ったりするのはごく当然だと思われる。それでは、その著作権という権利が及ぶ範囲はどこまでなのだろうか。この本では、次のように語っている。「でも、たまたま映画の中に出てくるものはどうだろう。寮の部屋の壁にあるポスター、「たばこを吸う男」が手に持つコーラの缶、バックを走るトラックの広告は?こういうものもクリエイティブな作品だ。監督はこういうのが自分の映画に出るときにも、許可がいるんだろうか? グッゲンハイムはこう説明する。「10年前なら、たまたま出てくるアート作品が(中略)一般人に認識されるなら」その著作権をクリアするということになった。が、今日では、ずいぶんと違ってきている。いまでは「もしいかなるアート作品が誰か一人にでも認識されたなら(中略)権利をクリアして使用料を払わないと」その作品は使えない。「ほとんどあらゆるアート、あらゆる家具や彫刻は、使う前に著作権のクリアが必要になります」。 オッケー。じゃあそれがどういうことになるかを考えて欲しい。グッゲンハイムの表現を借りると「撮影に入る前に、人にお金を払ってですね、使うものをすべて一覧表にして弁護士に提出するんです」。その弁護士たちは、その一覧をチェックして、使えるものと使えないものを選り分ける。「そのアート作品のオリジナルが見つからなければ(中略)それは使えません」。そして見つかったとしても、許可がおりないことも多い。映画に何が映るかを決めるのは弁護士たちだ。ストーリーに何が入るかを決めるのも弁護士たちだ。」ちょっと長い引用になったが、ある芸術家の創作が、その芸術家のオリジナルだけではなく、先人の成果を元にして築こうとした場合、著作権というものがそれを阻む可能性があるということの指摘をここから僕は感じる。引用の最後に、決定権は弁護士にあるという言葉があるが、創作をする人間の自由がなくなり、機械的に物事を処理する弁護士に、その芸術の創作の重要な決定権があるというのは、何か釈然としないものがある。著作権法という法律は、オリジナルな創造性のある人間の権利を守り、創造性を発揮するという動機を高めるために作られたものではないだろうか。それが結果的に創造性の発揮をじゃまするという皮肉はどうして生まれてくるのだろう。この問題が、僕が著作権法というものに対してぼんやりと抱いていた疑問だったような気がする。問題は程度の問題であり、その芸術にとって本質的に重要な対象に関わる著作権は守らなければならないが、たまたま登場するような重要性の低い程度のものに対する著作権は、その程度に応じて低い権利にしなければ創造活動をじゃまするということになる。しかし、この程度を決めるのは誰になるのだろうか。しかも、その程度の基準がいつも正しいという保証は出来るのだろうか。これはおそらくできないだろうと思う。そうすると著作権法というのは、本質的に困難な問題を抱えている法律だという感じがする。その制作意図には善意が溢れているのに、結果として善意がいい方向に行かずに、足かせとなって芸術創作の意欲をそぐ結果になれば、芸術そのもののレベルがだんだんと落ちてくるということにならないだろうか。個人の思いと社会での影響が違うという一つの例のような気がする。仮説実験授業では、「生類憐れみの令」と「禁酒法と民主主義」という授業書がある。このどちらも、その立法意図には善意が溢れている法律だが、結果的には人々に対するひどい足かせになり、法律があるおかげで法を犯す人間が出てくるというような感じになっている。生き物を大事にしたり、様々の悪影響のある酒を飲まないようにしようというのは、個人としては大変いいことだと思う。それが法律として機能しないのはどこに原因があるのだろうか。法律というのは、万人に対して平等に適用されなければならない。臨機応変に差別してはいけないわけだ。機械的に適用しなければならない。だから、法律の適用に関しては、それが差別にならないように配慮できる能力を持った専門家がいるのだと思う。だから、その裁く対象が明確に出来る事柄ならば法律は矛盾なく機能するだろうけれど、そこに様々の多様性がある場合は、すべての場合をチェックするように法律を作ることは不可能なのではないだろうか。生き物を大事にするということも、悪影響のある酒をやめようというのも、ある意味では道徳あるいは倫理の問題だ。道徳や倫理の問題というのは、いつでも例外が生まれてくる可能性がないだろうか。犬を守ることが絶対化されているときに、人間を守るためには犬を犠牲にしなければならないという状況が起きたらどうなるだろう。酒を飲むことが違法行為だったとしても、飲まずにはいられないという生活をしている人がある割合で生まれざるを得ない社会だとしたら、社会を改善しないで酒を禁止できるだろうか。そうしないではいられない状況が存在する中で、機械的な禁止だけをするような法律があった場合、その法律はとてもいやなものとして人々には感じられるだろう。著作権法もある意味では道徳や倫理に関する部分が含まれているような感じもする。また、「コモンズ」に描かれていた映画の例にもあるように、矛盾した面も現実に想定できる。果たして、これは矛盾を薄めて、納得が出来る人を増やせる方向へ改善していけるものになるだろうか。「生類憐れみの令」と「禁酒法」は、その改善が出来なくて結局はなくす方向で考えるしかなかった。「生類憐れみの令」と「禁酒法」の二つの問題は、法律として規制するよりも、道徳性や倫理性を高めて、その方向で解決しなければならないと、人間はそういうことを学んだのではないだろうか。著作権法に関しても、理想としては道徳や倫理の問題にしていく方向が望ましいと僕は思う。しかし、著作権法には一つ、それだけに還元できない問題も残されている感じがする。それは、著作権が莫大な利益を生むという問題だ。利益の問題は道徳や倫理では解決できない。莫大な利益を生むというときに限り、それによって不当な利益を得たり、不当に損害を被るということは救済しなければならないだろう。しかし、そうでない問題は法律で規制して欲しくないと思う。この二つを正しく区別できる社会が訪れる日は来るのだろうか。訪れる日が来なければ、社会は成長しているんだと言えないんじゃないかと僕は思うんだけれどな。「コモンズ」は、まだ読み始めたばかりなので最後まで読んでいない。もしかしたらここに解決の方向が示されているかもしれない。それを期待して、もう少し読み進めてみようかと思う。
2003.11.07
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昨日の日記に書いた「北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか」というアンケートの質問についてちょっと考えてみたいと思う。何を考えることがあるのか。この答えは「はい」に決まっているだろうと思う人もいるかもしれない。でも、僕には何かが引っかかる感じがするのだ。この質問が「北朝鮮による日本人拉致を凶悪な犯罪と認識するか」という質問だったら内容的にはそれほど引っかかるものはない。しかし、この答えはほぼ100%「はい」だと思うので、アンケートにして聞くということに対する違和感は残る。結果が分かるようなことをどうしてわざわざ聞くかということだ。今の状況を見ていると、この質問をされた議員はほとんど凶悪な犯罪というような意味で答えているんじゃないかと僕は感じている。凶悪な犯罪で許し難いものだというようなイメージで「テロ」という言葉をとらえているんじゃないかと感じている。それではなぜ「凶悪な犯罪」といわずに「テロ」という言葉を使うのだろうか。国家が関わっている犯罪だからテロと呼ぶのだろうか。加藤朗さんが書いた「テロ-現代暴力論」(中公新書)に寄れば、テロとは何かという定義には大変な難しさがあるそうだ。次のように語っている。「実際、専門家や研究者の間でもテロの定義は様々で、万人が納得できるような統一した普遍的な定義はない。テロリズム研究の権威ウォルター・ラクォールも『テロリズムの時代』(1987年)で「歴史に登場したすべての種類のテロを網羅できるようなテロの定義はない」と述べている。実際何を持ってテロというかは、人それぞれである。」テロの定義の問題の難しさは、テロという言葉を決める内容に本質的に存在する問題だということを加藤さんは教えてくれる。我々の能力がまだ低くて解明できないと言うのではなく、それが万人が賛成できる定義を打ち立てられない性質を元々内包しているところに、テロという言葉の特徴があるというわけだ。欧米のテロ研究者の意見が一致しているのは、フランス革命のジャコバン党による恐怖政治が近代テロの始まりだと言うことだそうだ。テロという言葉は、政治と深い関わりがある。しかしその後の様々のテロは、これの発展としての姿にとどまることなく、全く新しいスタイルで現象してくるので、それ以前のテロを含んだ定義も、新しいテロには当てはまらなくなったりしてしまう。さらに政治的立場から、テロであるかないかの判断が食い違うので、そこに共通した定義が出来ない場合がある。象徴的なのは、イスラエルとパレスチナの関係だ。日本の報道はパレスチナの行為をすべてテロと断じているが、パレスチナ人から見れば祖国防衛の英雄と言えないことはない。逆に、日本の報道では軍事行為としか報道されないイスラエルの行為が、パレスチナ人から見れば国家テロと呼ぶべきものに見えるだろう。伊藤博文を暗殺した安重根をテロリストと見るか英雄と見るかは、政治的立場で違ってくるのと同じようなものだと思う。またテロという言葉には、とてもネガティブなイメージがあり、テロリストと呼ばれたものは、とんでもない悪人だということが、そう呼んだ瞬間から思われてしまう。だから、敵対する者たちは、互いに相手をテロリストと呼びたくなってくるだろうと思う。つまりその人間が善か悪かという判断は、とても難しく多面的な判断であるのに、テロという言葉を使った瞬間に、そう呼ばれた相手は悪一色に染まってしまうような感じさえある。テロという言葉は、厳密に考えれば考えるほど、抽象化することが難しく定義できない言葉になってくる。そういう意味では、昨日の日記に書いた「北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか」というアンケートの結果が、「分からない」という回答が少なく、「はい」と書いた回答が圧倒的に多かったという結果はある意味では驚きだ。政治家は、テロ問題の専門家ではないので、定義を厳密に考えたのではなく、もっと単純なイメージでテロだと結論したと考えないとこの結果は理解できない。テロという言葉は、結果的に思考停止をもたらしてしまいそうな気がする。それ以上の分析を許さないという感じがする。拉致問題に関しては、それがどんなにけしからんものであったとしても、それがなぜ生じたのかという合理的な説明を見つける必要があるのではないだろうか。そうでなければ、その犯罪を犯した人間に対する恨みの気持ちが残るだけで、恨みを晴らすための何らかの手段を求めるしかなくなってしまいそうな気がする。だから、テロに対してはテロで返しても当たり前だと受け取られそうな石原東京都知事の発言などがあまり批判を受けない空気も出来てしまう。逆に言うと、思考停止状態をもたらしたいと思ってテロという言葉を使っているのなら、その意図で世論を操作している人間はかなり成功していると思うし、かなり恐ろしい権力者だという感じがする。このことをもっと大きな観点から眺めてみるとこんな風に考えられないだろうか。テロに象徴されるような凶悪な犯罪というのは、それがどうして生まれてきたのかがほとんどの人には分からない。全く理不尽な、それを行った犯罪者の凶悪性を証明する出来事としてしかとらえられない。理解が出来ないことに対しては、多くの人が感情的な反応をしてしまう。長崎の12歳の少年の事件が起こったときに、厳罰化を望んだり、その親を市中引き回しにしろというような感情的発言が必ずしも全面的にはたたかれなかったことにそれは象徴されている。恨みを晴らすために、相手を同じような目に遭わせてやれということは、一時的な感情の浄化はもたらす。すっきりするという感覚だ。しかし、これでは恨みをためて理不尽な犯罪を犯した犯罪者とあまり変わらないような反応にも見える。本当の癒しになるのは、彼らがなぜそのような行動に至ったのかを本当に納得することではないだろうか。彼らの恨みの根元はどこにあったのか。それを正しく明らかにすることが問題の本質をとらえることになるのではないだろうか。そうしなければ同じような犯罪をこれから抑止することが難しくなる。犠牲が無駄になってしまい、実りのない結果をもたらしてしまう。これでは本当の癒しにならないのではないかと思える。ただ、この問題の本質を明らかにしようとすると、現代社会の持っている秘密の部分を暴かなければならないものが出てくるだろうと思う。隠された情報がたくさんあるに違いない。しかし、その方向を多くの人が求めない限り、恨みの連鎖は消えないで同じことが繰り返されるのではないか。テロも凶悪犯罪も、それに同じ暴力で応えることは問題の本質的解決にはならないような感じがする。拉致問題に関しては、それがテロに当たるかどうかを聞くよりも、それがなぜ行われたのかということを、因果律の連鎖をたぐり、歴史的背景をたどり、説得的な説明を求めるということが本当の問題の解決になるのではないだろうか。そして、責任の所在を明らかにして、責任のある人間の追求という方向を求めるべきなのではないだろうか。国交を回復して、実行犯の正当な裁きを要求するという方向こそ解決ではないのだろうか。その時に、背景をすべて明らかにして、被害者が納得できる説明ができなければならないと思う。北朝鮮がいかにひどい国であるかという報道は毎日溢れるくらいたくさんあるのに、拉致問題の背景を分析した報道が全くないというのはどういうことなのだろうか。テロという言葉は、やはり思考停止をもたらすために使われているのだろうか。
2003.11.06
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本質をとらえるための方法としては、これはごく当たり前のことかもしれないけれど、因果律の連鎖をたどることと、それを歴史的観点からみるというやり方があると思う。宮台真司氏が、 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=10 において金融システムを分析しているのだが、そのやり方が参考になるような気がした。大変鮮やかなやり方に見える。ちょっと前に、りそな銀行への公的資金導入がニュースになったが、この現象だけを眺めていると、自分たちの失敗で経営が危なくなった銀行に対して、我々の税金をつぎ込むなんて許せないというような見方をしている人が多かったのではないだろうか。りそな銀行の経営破綻については因果律を両方向にたどっていける。この現象を結果として見て原因をたどるというのが一つの方向だ。何が原因として破綻が起きたかを考えるという方向だ。もう一つは因果律を先にたどる方向で、経営破綻したらどうなるかを考えるという方向だ。宮台氏は、まずこの方向を考えて次のように語っている。「不良銀行を潰して債権整理をする場合、不良銀行から借金をしていた経営者は他の銀行に借り換えなければなりません。でも、不良銀行から借金をした当初に比べて経営環境は悪化し、銀行の審査も厳しくなっていて、借り換えは簡単じゃなく、多くは倒産します。」<銀行の経営破綻>→<銀行をつぶして債権整理>→<借金をしていた会社の多くがつぶれる>というような因果関係の連鎖が考えられる。そして、上の文章に続けて、宮台氏は次のように語る。「倒産すれば、例外なく個人保証に入っている中小企業経営者は、預金や債権や家や土地を巻き上げられ、路頭に迷うことでしょう。それどころか、倒産を防ぐべく、また個人保証分を補填して家族に迷惑をかけないように、保険金目当てで自殺する人も出てきます。」前の因果律の連鎖に続くのは、→<会社がつぶれると経営者は全財産を失う>→<それを避けるために自殺者も出てくる>というものだ。最終的には、自殺者さえ出るかもしれないというひどい状況が予想されてしまう。これは何とかしなければならない、となったら因果律の最初を防がなければならないという考えが出てくる。そこで、経営破綻したとはいえりそな銀行をつぶすことは出来ないという問題解決法も出てくるわけだ。この説明を読んで、この問題解決法に賛成するか反対するかは別にして、解決の仕方の一つとして、なぜこのような考えが出てきたかの理由は納得できた感じがした。それが良かったか悪かったかの判断は、また別の要素を加味して判断しないとならないと思うけれど。ある種の利害を守るためにこのような解決法を選んだんだということは理解できた。しかし、この解決法は、どうも対処療法的な感じがして本質的な解決ではないような感じもする。未来への懸念に対して、それを避けるためにやったのだといわれると、ちょっと説得されてしまいそうな感じがするが、それじゃ、そもそも何でそんな懸念が生まれてくるのかということが分からないと、この対処がしっくりと納得できてこない感じなのだ。そこで宮台氏は、因果律を今度は逆にたどるために、歴史的な方向を探ってみる。ちょっと長いが引用しよう。「中小企業の倒産をめぐる波及効果は、計り知れないほど大きいんです。でも、ここで考えていただきたいことがある。なぜ波及効果がかくも大きいのかということです。他の国ではこれほど大きくないのに。理由は、日本の金融機関が、非常に特殊なものだからです。 どこが特殊なのでしょうか。今の話に直接関わる範囲でいえば、中小企業経営者が個人保証に入っている点が特殊です。会社の負債を、経営者個人が補填しなければいけない無限責任が特殊です。他の先進国は有限責任で、無限責任制度は反社会的だとされています。 では、なんでこんな反社会的な制度がまかり通っているのか。それを知るには、戦後の金融機関の歴史を振り返る必要があります。戦後の銀行は、敗戦直後から始まる傾斜生産方式を出発点としています。」日本では、借金をした中小企業経営者が、借金を返せなくなると全財産を失って責任をとらなければならないのがごく当たり前なので、そのこと自体に疑問を持つ人が少ないかもしれないが、宮台氏にいわせると、これは日本だけの特殊な現象で反社会的なものだという風に見えるのだそうだ。この「反社会的」というのは、いわれてみるとなるほどと思える共感できることだ。本質をみるには、特殊性の中にいてはだめで、一般的普遍的な目を持たなければならないということがここでも現れている感じがした。日本だけの状況を見ているだけではだめなのだ。広い世界ではどうなっているかを見なければならない。このあとは長いので引用を省略するが、このような日本での特殊なスタイルが出来たのは、戦後復興期に行った傾斜生産方式というやり方が原因しているという歴史的背景があるそうだ。これは、国がある産業に重点的に(=傾斜的に)お金や人を集中させてその産業が大きく伸びるように考えた方式だ。これは見事に成功したが、そのおかげでその産業以外のところにはお金も人も回らなくなり、そこは阻害したという結果も生み出したようだ。この方式の中では銀行も自由な活動は出来ず、銀行は安全な相手にしか金を貸さない機関になってしまい、リスクを判断する能力を失ってしまったという。外国の銀行であれば、新しいアイデアを持った人間に対して、そのアイデアが現実に成功可能かどうかを判断する能力を持たなければならないらしいが、日本では、アイデアに金を出すということがなかったようだ。金を出すのは、出した分が回収できるだけの担保がある相手にしか貸さないという場合だけのようだった。このような歴史を背景にして、借金をする相手にすべての責任を押しつけるというシステムができあがってしまったのだろう。このことは、新しい時代を変えるようなアイデアのきっかけの芽を摘むような結果になっただろう。そういうものが必要になった時代に、時代を変えるような人が生まれにくい状況を作っている。また、土地さえ担保に取っていれば大丈夫だという習慣が、バブル期の乱脈な貸し付けにつながり、まさか土地の価値が下がるとは思っていなかったという、判断能力の欠如が今の銀行の不良債権につながっているのではないだろうか。自らがリスクを負うような判断をしてこなかったので、判断能力が伸びなかったのではないだろうか。このように因果関係をたどり、歴史を見ていくと、りそな銀行の問題の本質は、銀行がしかるべき責任を負わずに来たシステムにあり、貸し付ける相手にすべての責任を押しつけるのではなく、銀行が正当な責任を負うことで、銀行の能力も、企業の能力もともに向上していくようなシステムを構築していくという、構造改革の問題こそが本質だと言えるのではないだろうか。りそな銀行を救うことで、確かに当面の中小企業経営者の悲惨は防ぐことが出来たかもしれない。しかし、システムがそのままなら、同じような危機はまた訪れるだろう。本質をとらえた方法のみが、これからの危機も回避できるのではないかと感じる。因果関係をたどり、歴史的視点を持つということは、より広い観点から問題を見ろということになるのかな。話は変わるが、疑問を感じたことがもう一つあるので、それを書いておきたい。拉致被害者家族会などが行ったアンケートの「北朝鮮による日本人拉致をテロと認識するか」というものに関するものだ。僕は、これがアンケート調査になるということに疑問を感じている。アンケートというのは、結果がある程度不透明なものがあるので、世論の動向を探るという目的で行うのではないだろうか。この質問の答えは不透明ではなくほとんど予想できるものであるような感じがする。テロリズムの研究者ならば、日常言語的な意味の曖昧さから抜け出て、厳密にその意味を定義して、拉致問題をテロと考えられるかどうか様々の判断を聞かせてくれるかもしれない。しかし、専門家でない政治家にとっては、人々に自分がどう見られるかという判断からこの回答を考えるのではないだろうか。そうすると、拉致問題はテロではないと回答する政治家がいる方が僕には考えられない。ほとんどがこの質問に「はい」と回答するだろうと思う。そうすると、回答が予測できるアンケート調査というものに、どんな意味があるのか僕には分からなくなる。予測が出来ないから、その資料を得るためにアンケートをするのではないだろうか。しかし、結果が分かってしまうアンケートというのは、そういう意図はないのかもしれないけれど、結果的には、異論を排除するという圧力を人々に感じさせるのではないだろうか。違った答えを許さないという、そういう雰囲気を作るための質問のように感じてしまう。言論の自由にとってはとても心配な状況じゃないのかと、このニュースを見て僕は疑問を感じてしまった。
2003.11.04
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本質を見誤らないための方法論をちょっと考えてみた。まず最初に浮かんできたのは、情報を鵜呑みにしない、情報を常に疑ってかかるということが必要なのではないかと思えてきた。特にマスコミが流す情報については、それはある一面しか伝えていないのだという意識を持って、単純に信じないようにしなければならない。現実というのは、もっと複雑なものなのだから、多面的な見方が出来る情報でなければそのまま受け取ってはならない。十分納得できるまでは疑いを持ち続けるというのが最初に浮かんだ方法論だ。昨日ヤフーのニュースで田中真紀子さんの発言に関するものを読んだ。次のようなものだ。「北朝鮮による拉致被害者の家族会と支援団体の救う会は1日、田中真紀子前外相が31日に新潟・佐渡で行った衆院選候補者の応援演説で、帰国した拉致被害者5人の家族について「国籍は北朝鮮」などと発言したとして、抗議の声明を出した。 田中前外相は演説の中で「あの方(拉致被害者)たちは日本人ですが、子供さんたちの国籍はどこですか。北朝鮮なんじゃないんですか」「外務省だって分かっているんでしょ。あれ(帰国)は難しいということをはっきり言わないとだめですよ」などと述べ、政府や外務省の対応を批判した。 国籍法は「父か母が日本人である時は、子供は日本国籍を持つ」と定めている。 両会は「外相の要職を務めながら基本的知識さえ持ち合わせていない。北朝鮮の人権侵害を弁護した重大な背信行為だ」と非難し、取り消しや謝罪を求めている。(毎日新聞)」この記事の最後の部分を読むと、田中さんの発言は非難に値するもので、発言そのものが問題であると主張しているように受け取られる。しかし、この主張は毎日新聞の主張ではなく、「拉致被害者の家族会と支援団体の救う会」の主張だ。それにもかかわらず、記事全体から、このような印象を受けるのはなぜだろう。それは必要な情報が書かれていないからだと僕は思う。田中さんの発言が問題を持っていると思うには、そこに間違いが含まれていると考えられなければならない。ここで間違いの根拠になっているのは、「国籍法は「父か母が日本人である時は、子供は日本国籍を持つ」と定めている。」という法律があるにもかかわらず、田中さんが拉致被害者の家族の国籍が北朝鮮にあると発言していることのように僕は受け取った。しかし、これは本当に間違いなのだろうか。確かに形式的には、法律で国籍の所在を主張できるだろう。しかし実質的にはどうなのだろうか。北朝鮮で生活している人間が日本の法律に従うということを期待できるのだろうか。日本と北朝鮮が正常な国交を持っているのならまだしも、敵対的な関係にあるときに、日本の国籍法に従えと言って効果があるものだろうか。形式を主張するだけでは、この問題の解決は難しいんだと田中さんは言いたかったのではないだろうか。これは、田中さんに対して好意的すぎる見方かもしれないが、そういう見方も一つ成立するのではないかと思うのだ。田中さんは、このように考えるが故に今の状況では日本に来させることが難しいんだという「事実」をなぜ外務省はいわないのだという批判を展開しているんだと僕は受け取った。ポイントは外務省批判にあるのであって、拉致被害者の国籍がどっちにあるかと言うことが本質ではないように感じる。マスコミの情報を鵜呑みにしない、疑いを持って見るという方法は、事実と解釈を区別して受け取るという方法と結びつけるとかなり有効な感じもする。この記事における事実は、「田中真紀子前外相が31日に新潟・佐渡で行った衆院選候補者の応援演説で、帰国した拉致被害者5人の家族について「国籍は北朝鮮」などと発言した」「田中前外相は演説の中で「あの方(拉致被害者)たちは日本人ですが、子供さんたちの国籍はどこですか。北朝鮮なんじゃないんですか」「外務省だって分かっているんでしょ。あれ(帰国)は難しいということをはっきり言わないとだめですよ」などと述べ、政府や外務省の対応を批判した。」という2点だと思う。この事実は様々な解釈が出来る。情報が少ないので、この文言だけから想像力をふくらませて解釈を作り出すと間違う可能性が出てくる。「国籍は北朝鮮」という言葉は、言葉として演説の中に出てきたのかもしれないが、その具体的な意味は、前後の文脈が分からないと本当は何を指しているのかが分からない。上にあげた一つの解釈では、現実に彼らが北朝鮮で生活しているという事実から、その事実を象徴する意味でこの発言をしたのではないかと、僕が想像している。僕の解釈も一つの想像であって事実ではない。事実は、この情報からだけでは分からないのだ。同じように次の部分は、この発言に対する一つの解釈であって、事実ではないという受け取り方は大事なことだと思う。「両会は「外相の要職を務めながら基本的知識さえ持ち合わせていない。北朝鮮の人権侵害を弁護した重大な背信行為だ」と非難し」田中さんが「北朝鮮の人権侵害を弁護した」というのは、事実として確認できることではない。あくまでも一つの解釈にすぎない。僕がこの解釈に疑問を感じるのは、田中さんの思想背景(今までの様々の発言から伺える)を考えると、田中さんが北朝鮮を弁護するということが信じられないからだ。なぜ弁護する必要があるのだろうか。田中さんが弁護している、と世の中が思っていると得する人たちは、そう思わせたいだろうけれど、その他の事実との整合性がとれないのではないだろうか。心に傷を負っている人たちが、ある種の言葉に敏感に反応して感情的になってしまうということは理解できる。差別語を巡る問題にはそういうものが多い。しかし、世論がそのように感情的に反応するのにはとても危険を感じる。この問題は、田中真紀子さんという個人に関わった問題だけれど、その本質を見るには、田中さん個人の側面ではなく、それが一般的普遍的な面に通じる方から見ることが必要ではないかとも感じる。これが、本質を見る方法論の第二だろうか。一般的普遍的な面に通じる側面というのは、田中さんの問題が自分の問題に重なってくるような面を見るということだ。田中さんは、あとのニュースで、自分の発言が誤解されたということを釈明していた。つまり、自分が思っていないことを思っているかのように受け取られたと感じている。こういう誤解の受け方は誰にも起こってくるだろう。田中さんが誤解を受けている、それも世論に対して誤解を受けているというのは、単にコミュニケーションの間違いということではなく、そこに政治的な利害関係が絡んだ意図的なものも感じる。田中さんが誤解されたままならば利益になる人々がいると考えられる。その利害関係を保つために、誤解されたままで放置するとすれば、これは一つの人権侵害にならないだろうか。少なくとも、正しい情報がもっと多く出されるべきではないかと思う。田中さんが間違っているのならば、その間違いを明らかにして謝罪をすべきだろうと思うが、それがはっきりしないならば、憶測で断罪するようなことは間違いだと思う。田中さんの問題は、北朝鮮の問題ではなく、感情的な反応でバッシングをする報道被害の問題ではないかと僕は感じる。僕は田中さんのような有名人ではないからマスコミにやられる心配は少ないかもしれないが、似たような経験は狭い範囲内でも起こりうる可能性はある。それに、普通の一般人であっても、えん罪などで犯人視されれば、マスコミの報道被害に遭う可能性もある。一般化してとらえると、問題の本質はこんなところにあるんじゃないだろうか。方法論をまとめてみると次のようにならないだろうか。1 情報を鵜呑みにせず疑うこと。 事実と解釈を区別すること。 それが確信できる証拠をつかむまでは、事実として受け取るのではなく、あくまでも解釈の一つという受け取り方をすること。2 問題を特殊性からではなく、一般性から眺めること。 個人的な問題ではなく、誰にでも起こりうる問題としてとらえる。方法論として、まずこの二つを意識してみた。その他の方法についてもよく考えていきたいと思う。
2003.11.03
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ある種の問題を考えるときに、その問題の本質がどこにあるかをとらえるということは大変大事なことだと思う。現実は複雑に錯綜していて、問題を様々な角度から見ることが出来る。その見方によっては、末梢的な部分が拡大して見えてしまうことがある。すると、その点にだけ解決するための努力を注いでいたのではいつまでたっても問題が解決しないということが出てくるだろう。問題の解決のためには、本質的に大事なところに力を注がなければいけない。では、本質的に大事なところは、どうやって発見したらいいのか。それは、マニュアル的に「こうやればいい」という方法はないと思うが、様々な問題での宮台氏の指摘を聞いていると、ほとんどの場合に本質的な見方をしているように感じる。そこで、宮台氏の指摘から本質を見る見方を考えてみたいと思う。僕は宮台氏が神保哲生氏とやっている<マル激トーク・オン・デマンド>というインターネットの番組をよく見ているんだけれど、そこで沖縄での地位協定の問題を論じていた。これは、日米安保条約によって、沖縄での米軍の犯罪が一種の治外法権のようなものになっていて、凶悪な犯罪が行われてもそれが日本では裁けないということが問題にされている。少し前にも、米軍兵士によるレイプの問題が何回も繰り返されていた。これは、日本人から見れば、アメリカ人が悪いことをしてもそれが逃げられてしまうということに問題があるように見える。だから、逃げられないように地位協定を検討し直して変えることで問題を解決したいと思うのだが、これがなかなか出来ない。これが出来ないのが、アメリカが悪いからだという印象がマスコミの報道からは受け取れてしまうのではないだろうか。しかし、この問題の本質は、日本の警察の取り調べにあるのだというのが宮台氏の指摘だった。容疑者として逮捕された人間は、まだ疑いがあるという段階なのだから、もしかしたら疑いが間違いかもしれないから、人権が保障された取り扱いがされなければならない。弁護士の立ち会いも許されず、代用監獄と呼ばれるところに長期間監禁されて、心理的にも身体的にも強い圧力を受けて取り調べを受ける。これでは、全く人権が守られているとは言えないのだから、それを改善しなければアメリカとしては容疑者を日本のやり方で裁くことにゆだねることは出来ないという解釈をしていた。つまり、容疑者の人権を守るやり方になれば、地位協定を書き換えて日本の裁きに身を預けることも出来るのではないかということだ。ところが、このような要求は、今度は日本の方が受け入れられないのだろうという。それは、アメリカ人だけ容疑者の人権を守って、日本人の容疑者の人権は守らないという差別をすることは出来なくなるから、すべての容疑者に対して、弁護士の立ち会いを認めたり、人権に配慮した対応をしなければならなくなるからだ。警察の対応が全く変わる必要が出てきて、それが出来ないという風に宮台氏は見ていた。地位協定の問題は、本質的には外交の問題ではなく、内政の問題なんだというこの指摘はとても共感を覚えたものだ。警察を変えることが出来れば、地位協定の問題も解決の方向へ向かうという期待が出来る。しかし、こんな思いも僕にはある。警察が今までのやり方を変えるというのがとても難しいことなんだろうと思うけれど、それとともに、日本の民意がこの警察の転換を支持するところまで進んでいないということも、本質的な問題から目をそらされている原因のような気がする。日本人の多くにとっては、容疑者はもう犯人と同じように見えてしまう感じがする。そして、犯罪を犯したんだからある程度の人権が抑圧されても自業自得だろうというような思いがあるんじゃないだろうか。本当は、たとえ犯罪者であっても守られなければならない人権というものがあると思うのだが、感情的にそれが冷静に考えられるまでは、日本では時間がかかるだろうな。人権というのは、すべての人に関わってくる問題だから、誰か一人の人権が侵されたら、それは自分の人権も侵されることにつながってくると、冷静に考えられないといけないと思う。たとえ、感情的に嫌いだと思う人間に対しても、その人間の人権が守られなければ、自分の人権も危ないのだという感覚を持たなければならない。こういう民意が広がらないと、代用監獄の問題などは解決できないのではないかと思うし、地位協定の問題も解決の方向に行かないような気がする。どうしたら、ある種の問題で、このように本質的なところに光を当てることの出来る発想が出来るようになるのだろう。豊富な知識がないといけないのだろうか。論理的な能力も関わってくるのだろうか。ある種の方法論を学びたいものだと思う。イラクの自衛隊派遣の問題に関しても、イラクが危ないから派遣が問題になるというのは、本質でないような感じがする。どこに本質があるのだろうか。明らかに正当性を欠いているのに、アメリカにいわれたら、へりくつをこねくり回してでもやらなければならないという状況に本質があるような気がするんだけれど。つまり手段を選ばず、何でも強いものが無理難題を押し通せるのだという状況に問題の本質があるんじゃないだろうか。本質がどこにあるかを見る方法論を考えたいと思う。そして、正しく本質を見る目を養いたいものだ。
2003.11.02
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外交というものを専門家でない一般民衆の我々が考えるのはとても難しい。我々に与えられる情報はマスコミから流れるものがほとんどで、それは、権力の側が流したい情報に満ちている。だから、その情報から結論されることと言うのは、国際社会の本当の姿と言うよりは、権力の側に都合のいい側面を見せているだけという感じがする。外交上のことは国家機密に関わることが多く、それを知らなければ本当のことがわかりにくいのに、それが知られるのはかなり時間が過ぎ去ったあとで研究者が突き止めると言うことでもなければ我々に知られない。しかし、これだけ日常の生活が世界と関わりが深くなった時代に、国際社会のことを正しく知らずに安心して生きていくことが出来るだろうか。外交はもっと国民の関心を呼んでもいいはずなのに、その難しさ故に今度の選挙でもあまり重要性を持っているように見えないのは残念なことだ。もしかしたら、これからの我々の生活を左右するもっとも大きな要因になるかもしれないのに。限られた情報の中で正しいものを見つけるのは難しいにしても、大きくはずれない考え方というものはあるのだろうか。神保氏と宮台氏の「マル激トーク・オン・デマンド」から学んだことを元に考えてみたいと思う。宮台氏は、国益という言葉をよく使う。僕は、かつてはインターナショナルなマルクス主義に惹かれていたこともあり、一国家の利益を考える国益というものは、エゴイズムのにおいがしてあまり好きになれなかった。しかし、現実の社会の動きを判断するには、インターナショナルな人類益というものを考えても、それによって社会が動く可能性はほとんどゼロだと言うことも分かってきた。現実は、エゴイズムのにおいの濃い国益(もっと小さい社会では、私利私欲)を元にして動くものだと言うことが分かってきた。僕がこだわっているイラク戦争に関して言えば、これはアメリカの国益(それも今のアメリカを支配しているごくわずかの権力者の私益にすぎないものではあるけれど)に従って現実が動いている。どんなに理念に反して不当であっても、その不当がただされて倫理が確立されることがない。ほとんどの人がひどい目に遭っているというのに、アメリカの権力の中枢にいるネオコン関係の企業はほとんどのもうけをイラクで独占しているという現実がたまに知らされてくる。このような状況のイラクに日本が支援をするというのは、いったい現実にはどのような「支援」になるのかを考えなければならない。ほとんどの場合はアメリカの国益(私益)に奉仕するような支援になるのではないかという感じがする。日本の自衛隊がイラクの人々の目にどのように映るかによって、彼らの態度が決まってくるだろうと言われている。イラク民衆のために働いていると映るのか、アメリカの手伝いをしに来ていると映るのか。それは、間違いなくアメリカの手伝いをしに来ていると映るだろうと予想している人もいた。そうなれば、日本もアメリカ同様彼らの攻撃の標的になるに違いないと予想していた。このような状況での外交を考えるには、アメリカの国益に奉仕させられるだけの関係を改善しなければならない。無理難題を押しつけられたときに拒否できる正当な理由を構築する必要があるというのが宮台氏の考え方で、僕はこれが日本の国益であると主張する宮台氏に共感する。この国益は、僕自身の利益でもあるので、国益という言葉はあまり好きじゃなかったけれど、この国益なら賛成だ。憲法解釈、法律解釈をねじ曲げて何でもありだという流れを作ってしまったら、アメリカのどんな要求も、力関係によっては飲まざるを得ないものになってっくる。だから、自衛隊を出さざるを得ない状況が来ているのなら、どんな場合に出すことに正当性を与えるのかを、法律として明文化して曖昧さをなくさなければならないという主張は、正当な主張だと感じる。出さざるを得ない状況かどうかでは意見が分かれると思うが、自民党政治が支配している現在は、出さざるを得ない状況になってしまっていると思う。それだったら、なんとか歯止めになるような手を打っておかなければならないだろうと思う。しかし、日本の外交は、アメリカから要求されたらそれをどんどん飲んでいくようなものに今はなっているような気がする。自民党政府に任せていたら、この状況は変わらないんじゃないかと思う。だから、本当は外交は選挙の争点になっていいはずなのに、野党もそんな外交しかできないから争点にならないんだろうか。北朝鮮の問題に関しても、対話と圧力と言うことでマスコミが宣伝していたが、両方ともうまくいっていないのが対北朝鮮の外交だと僕は感じている。対話はほとんどない。圧力にしても、北朝鮮外交の主導権を握っているのは中国なので、北朝鮮が感じる圧力は中国の動きの方ではないのだろうか。その中国は、ヒューマニズムよりも国益の方が大事だろうから、一番関心のある問題は、北朝鮮が大量の難民を生み出すような崩壊の仕方を避けると言うことらしい。対外的には、他の国にとっての関心は、北朝鮮の核問題なのでこれを前面に押し出しているが、中国の国益にとっては難民問題の方を重く見て動いているだろう。それが現実なんだと思う。そうすると、日本の国益(権力の側にいる人の私益?)にとって最優先の問題である拉致問題に関しては、国際的には優先問題はかなり低くならざるを得ない。他の問題の方が重大だと考える諸外国にとっては、むしろ6カ国協議の場ではその問題を出してもらわない方がいいというのが、諸外国の国益になるだろう。もし、今の中国の位置に日本がいるような外交戦略をとることが出来れば、表向きは諸外国の国益に配慮するような姿勢を見せながらも、北朝鮮の国際的地位に関しての命運は日本が握っているという外交的位置を保つことが出来ていたならば、水面下では拉致問題の解決に進展が図られたはずだろう。日本は、こういう戦略的外交が出来ずに、感情を吐露して世論をあおるようなことしかできなかったという宮台氏や神保氏の評価はなるほどと思う。今の日本は北朝鮮の外交に関しては蚊帳の外に置かれているように僕は感じる。これでますますアメリカにすり寄るしかなくなってきているようにも感じる。軌道修正することは出来るのだろうか。アメリカは、自分の国益にかなうと判断した動きしか現実にはしない。日本の国益は、いつでもアメリカの国益に重なるのだろうか。北朝鮮に経済制裁をするという圧力を考える人もいるようだが、日本はかつてアメリカの経済制裁によって真珠湾を攻撃する道に突き進んでいった。日本は、これを恐れる必要はないのだろうか。中国や韓国はこれを恐れているような感じもする。だから、現実には経済制裁ではなく、援助の方が語られているのではないだろうか。外交というものは難しいけれど、もっと関心を持っていいことのような気がするな。
2003.11.01
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