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「タイタンズを忘れない」を見た。最近は、一気に映画を見ることが出来ないので、細切れに連続ドラマのようにしてみたのだが、それでもかなり印象的に感じた。最近考えていたことに重なるような思いを感じたからだろうか。この映画は実話をもとにしているそうだ。フィクションなら、かなりのスーパーマンを設定して、かなり立派な人間を主人公にすることが出来る。しかし、この映画の登場人物には「普通」を感じる。確かに実際にいそうな感じというリアリティーを感じるのだ。もちろん、あとから振り返れば非常に立派な行動に見えるのだが、最初から立派な人間が間違いなく選んだ行動ではなく、成長していく中で選んだ行動が、またもう一つの成長をもたらしていると感じさせてくれるところがあるのだ。タイタンズというのは高校のフットボールのチームの名前だ。時代背景は、1970年頃で公民権運動が盛んな中でまだ人種的偏見が根強く残っているという時代だ。そして舞台となる地もヴァージニア州の田舎町で、保守的な気分が強い土地で、そこで育つ子供たちは疑問も抱かず人種的偏見の中で育つというような雰囲気を持っている。つまり、理由は分からないけれど、肌の色の違う人間は別の人間なんだという気分を持って育つ土地だ。その土地で、今までは別々に教育を受けていた白人と黒人の高校生たちが、統合されてともに学ぶ高校が出来るという中で物語が進む。上のような雰囲気の町だから、当然人種的偏見の中でいがみ合う姿が描かれるが、ある意味ではそれが当然の行動だろうと理解できる。それが現実なのだと言うことであって、その現実に非難を浴びせる気にはなれない。だからこそ、この現実から彼らがどのように成長していくかという姿に感動し印象が残るのだろう。映画ではフットボールを通じて高校生たちの気持ちに変化が起きてくることを描いている。そして、その高校生たちの姿を見て、保守的な大人たちも変わってくるわけだ。フットボールというスポーツの持つさわやかさが、高校生たちの心を解きほぐし、仲間としての連帯感を育てていくということに僕はリアリティーを感じた。フットボールというスポーツは、協力して相手を攻めないと、決して勝負に勝つことが出来ないと言う面もある。人種的偏見よりも、勝つために連帯することの方がどれだけ素晴らしいかということが伝わってくるような気がした。タイタンズを変えるのに大きな影響を持っているのは、デンゼル・ワシントン演じる黒人のコーチだが、このコーチが単なるスーパーマンとして描かれていないのがいいと思った。彼は確かに強い信念の持ち主だが、失敗することもあり、葛藤することもあるんだという風に描かれていた。むしろ立派さという点では、控えめな白人コーチの方が立派なように僕には思えた。彼が見事に、黒人コーチの足りない面を補っていたなと感じた。キャプテンである白人の高校生のゲリーを襲った事故という悲劇も、ゲリーは実に素晴らしい姿勢でそれを乗り越えている。フィクションだったら、あまりにも立派すぎてご都合主義だと言いたいところだが、実話だと言うところに、彼が成長してきた跡を見てきた観客は、それをリアリティーあるものとして受け取るのではないだろうか。ゲリーは、純粋で情熱的な若者で、それだからこそ最初は強い人種的偏見の中にいたにもかかわらず、チームメイトを「兄弟」と呼ぶほどその連帯感を受け入れる若者でもあったのだなと思う。その彼だからこそ、フットボールが出来なくなるという下半身麻痺という事故も乗り越えて、車いすのスポーツでも一流になってしまうと言う生き方ができるのだろうと思う。その他、自分はダメだと思っていた太めの愛嬌のある青年が、チームメイトやコーチの助けで、できないと思っていた大学進学の夢を実現できたり、自由な雰囲気の中で育った転校生が、保守的な町で巻き起こす騒動などのエピソードも、成長の中で人間は変わっていくのだなあと言うことがリアリティを持って感じられる。この映画がさわやかなのは、ごく普通の人であっても、環境の中で懸命に生きることによって、大きな成長が出来るのだという人間に対する信頼感を回復させてくれることだろうか。教育という仕事に携わる人間としては、希望を抱かせてくれる映画として、とても印象的だった。そういえば、昨日は「ほっぺにチュッチュ2004」(ひよこの会<ダウン症乳幼児の会>20周年記念誌)というものを、掲示板によく訪れてくれるまきさんから送っていただいた。我が子がダウン症だと知ったとき、その親は、どうして自分にこんな運命が降りかかるのか、その理不尽さを感じることだろう。しかし、この本ではその扉に、全く逆の発想で呼びかけをしている。ダウン症の子供たちは、その子を本当によく理解してあげなければ、成長の段階でものすごい苦労をしていくことになる。親は普通の親よりも大変だ。その大変さを受け入れてくれる親を「神様」は探しているんだと呼びかけている。そして、あなたはその「選ばれた」親なんだという風に語っている。これは素晴らしい発想だなと思った。僕は無神論者だけれど、こういう神様なら大歓迎だ。そして、普通のエリート主義は嫌らしいけれど、こういう意味で「選ばれた」人間は素晴らしいと思う。その選ばれたことで、きっと成長し続けていくことが出来るだろうという感じがするのだ。運命を呪うのではなく、その運命が、気づかないで過ごしてしまうような真実を見させてくれるという、素晴らしい成長をくれるのだと思えれば、どんなにすごいことだろう。どんなに立派な人でも、生まれつきの素質で立派だと言うことはない。成長することによって、振り返ってみれば立派なんだなあと言うことになるんだろう。その成長のきっかけをつかむというのは、まさに運命なんだなあと思う。タイタンズは、それまで分離して幸せに生きていた白人と黒人が統合されるという、それまでの気分から言えば不幸を味わったが、その運命によって、それまでの幸せよりも大きな幸せをつかむことが出来た。それは、運命を成長へのきっかけとしてつかんだからだ。ダウン症の子供の親になった人も、タイタンズが歩んだ道と同じ道を歩んでいるような気もする。まきさんからのメッセージでは、この本は回し読みをしてもらってけっこうだという風に書いてあった。そこで、僕は自分が読み終わったら、次の人に回していきたいと思っている。その際、自分が感じたことを書き込んで回していこうと思っている。ある意味では本を汚しながら次の人に渡すのだが、この本は、思いを伝えながら回したい気がしてならないのだ。自分が感じたことを次の人に知ってもらいたい。そして、その人が感じたことを、またそこに記して欲しい。そして回り回ってまた僕のところに帰ってきて欲しい。僕も他の人の思いを知りたいと思う。そして、いろいろな人の思いの詰まった本として、またまきさんのもとへ返したいとも思っている。とりあえず次の相手としては、僕もまきさんも知っている、小林とむぼさんの元へ届けたいと思っています。その次に、思いを共有してくださる方がいれば、ぜひご連絡をお願いします。今10数ページほど読み進めました。
2004.01.31
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引き続き、「論座」の森本さんと田岡さんの言葉を比較してみたい。これは、自衛隊の派遣前に語られた言葉なので、今の状況を予想するような部分もある。今後のイラクの状況を語る次の言葉は対照的で面白い。森本:考え得る今後のシナリオは二つあると思うんです。一つは、数ヶ月に渡る掃討作戦の結果、テロ勢力が少しずつ衰退し、治安がゆっくりと回復され、アメリカがほぼ考えていたとおりの統治システムが6月までに出来るという、好ましいシナリオです。もう一つは、域外からテロ勢力が入ってきたり、あるいはイラクの中で同調する勢力が増えて、掃討作戦がなかなか功を奏しないと言う状態が続き、犠牲が増えるというシナリオです。日本は、前者のシナリオを前提に、イラクの復興人道支援に協力するため、地域、活動内容を決めて派遣しようとしているわけです。しかし、もし後者のシナリオが動くことになった場合は、どこかで自衛隊の活動の見直しをやらないといけない。いくら任務を与えられているからと言って、状況が変化すれば決断が変わるのは当然であって、派遣計画そのものをあまりかたくなに考える必要はなく、復興支援が出来るような状態ではないと言う客観情勢が出来たら、その時は派遣活動や内容を見直すというプロセスがなければいけないと思います。考えられ得る情勢を想定して、そのそれぞれの場合に整合性のある行動は何かと言うことを検討している。実に学者らしい態度だと思う。派遣を取りやめる場合も想定しているので、実際に派遣されたという事実から考えると、森本さんの評価では、政府は、前者のシナリオをとったと考えることが出来るのだろうか。僕は、政府は始めに結論ありきという姿勢で、派遣という結論を出すために論理を構築したのであって、現状を判断して結論を出したのではないと思っている。だから、政府にとって、前者のシナリオは願望であって、客観的な現状認識をしたのではないと思う。実際には前者のようになると言う予想は、きわめて確率が低いのではないだろうかとも思う。そこのところを森本さんは語らない。あくまでも可能性の一つとしてあげるだけだ。もちろんそうならない場合もあげて、自衛隊を送らない可能性もあると語るのは、学者としての良心の表れだけれど、あくまでも同等の可能性のように語るのは、やはり立場が見えてくる言い方ではないかと思う。これに比べて田岡さんの言い方は実に明確だ。ズバリと結論づけている。田岡:イラク特措法の期間は「4年」だが、「さらに4年延長できる」とあるから、私は防衛庁の人に「8年の長期戦を見越したのか。先が見えていてけっこうだ」と言ったんだけれども。それぐらい長期になって、結局はうまくいかないだろう。対ゲリラ戦では、一時制圧に成功したかと見える時期があって、手をゆるめると再燃、結局撤退という筋書きが多い。ベトナムでは地上部隊派遣の4年後に削減、「ベトナム化」の話が出た。今回は開戦後半年で、もう「イラク化」と削減の話が出る。今年11月に大統領選挙があるからね。アメリカでは「exit strategy」を論じていますが、これは日本語の「逃げ支度」で、これから自衛隊が行くというのは計画倒産で商品を運び出そうとしてる会社に新規融資をするような形だ。最後のたとえが実に面白い。石油でもうけようと思ったアメリカが、その思惑がどうもうまくいかないので、損にならないうちに金目のものだけを取っていって、尻ぬぐいをさせに自衛隊を呼んだという感じだろうか。弱みのある日本は、それを拒否できずに、損することが分かっていながら「新規融資」という自衛隊派遣をしなければならなくなっている。実にイメージ豊かなたとえだなと思う。ここまでの事実は田岡さんが解釈するとおりだ。問題はこの先だろう。森本さんが語る可能性の一つとして、占領統治が6月までにうまくいき、イラクの人に歓迎されるような自衛隊の活動が行われれば、損をしても将来的な得を取ることにつながる可能性もまだ残されている。しかし、それは戦争状態が終わって、占領統治システムができあがり、それがうまくいくという前提があってのことだ。サマワ以外でのすさまじい戦闘のニュースを見ると、これが実現される可能性に疑問を抱かずにはいられない。むしろ、田岡さんが語るように、アメリカはこれ以上の損はたまらないと言うことで逃げ出す用意をしているのではないかという感じもしてくる。「ベトナム化」と同じ「イラク化」が進行しているのではないかという気もしてくる。今の状況は、どちらの予想が当たったかはまだはっきりしていない。これからの情勢がどうなるかを見守っていかなければならないが、僕は田岡さんの予想の方が、やはり現実を整合的に受け止めていると感じるな。自衛隊派遣について、森本さんの次の予想を見ると、現実には、心配したとおりのシナリオになっているんじゃないかなという気もする。森本:イラク特措法の法律上の規定としては、通常国会が始まる前に基本計画が了承され、自衛隊の一部が防衛庁長官が作る実施要項に基づいて派遣されたあと、国会で承認される必要がある。もしその承認が得られなかった場合には自衛隊を撤収するわけです。それだけではとどまらず、内閣不信任案が提出され、政権が崩壊する可能性もある。自衛隊を出しておいて撤収するという国際的な恥をかくだけでなく、国内政治上も非常に大きな危機を迎えてしまう。どの部隊を出すかと言うより、むしろ問題はタイミングです。本来は国会で承認を得て自衛隊を出すのが原則なのですが、その時期が日米関係に大きな影響を与えるようなタイミングかどうかを見極めないといけない。その見極めこそが、政治的判断の最も重要なところです。先に行われた総選挙で民主党が議席を伸ばし、その後の経緯にかんがみれば、きちっと通常国会で議論をしてから部隊を送り、そのことについてアメリカにきちんと説明をしなければならない。手続きを踏んでから自衛隊を出すのでないと、払うべき政治的リスクがあまりにも大きすぎると思います。この意見には、田岡さんも同意見だと言うことを語っている。自衛隊を出す以上は、撤退することは出来ないと言うことだ。成功のシナリオのうちに終わらせないとならないということで、始めに結論ありきという行動だから、これはものすごく難しいわけだ。しかし、今の状況を見ると、森本さんが危惧した状況になりつつあるのではないだろうか。ちゃんとした議論もなく、まず派遣ありきと言うことで、現状の分析も甘い中で、ひょっとしたら最悪のタイミングで派遣してしまったのではないだろうか。いつ帰れるかも分からない中で、自衛隊はイラクへ行ってしまったのではないだろうか。見通しを間違えたという風に見える中では、自衛隊は帰ってくることが出来ない。何かのミスが生じたとき、そのミスを取り返すまでは自衛隊がイラクに居続けなければならなくなるのではないか。かつての戦争の泥沼の歴史を繰り返すのではないか。この問題と同じように始めに結論ありきという論理の破綻と、行動の矛盾を表すニュースを見つけたので、これだけ書き足しておこう。「<イラク問題>大量破壊兵器捜索あきらめない 米報道官http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040127-00001034-mai-int 」ここには、「また報道官は、フセイン元イラク大統領に大量破壊兵器保有の「意図」と「能力」があったことは備蓄の有無にかかわらず明らかだと主張し、「フセイン政権を除去しようというブッシュ大統領の決定は正しかった」という趣旨の発言を再三繰り返した。」という言葉があるが、これは事実が見つからなかったので、事実の主張の代わりに「意図」と「能力」という観念的な存在に論点をすり替えたと言うことだろう。結論を覆すわけにはいかないので、その理由の方をどんどん変えて行かざるを得ないわけだ。この報道官は「背理法」という論理の使い方が出来ないことを表している。矛盾が見つかったら、論理的には結論を否定しなければならないんだ。大量破壊兵器があると言うことで差し迫った危機があると結論したのだから、大量破壊兵器がなかったのなら、差し迫った危機があるというのを否定しなければならない。差し迫った危機はなかったのだ。戦争の必然性はなかったのだ。それは、アメリカが恣意的に、やりたかったからやった戦争だったのだ。「カブールで自爆テロ、カナダ軍兵士ら17人死傷http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040127-00000211-yom-int 」この記事を読むと、アフガニスタンでは「アフガニスタン化」という「ベトナム化」が起こっているのかなと感じたりする。
2004.01.30
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田中長野県知事の住民票移転問題に関してちょっとした記事が出ている。このことに僕は素朴な疑問を感じている。田中知事は、何かと目立つことをするので、出る杭は打たれるという日本的な習慣でバッシングされることが多い。そういう田中知事をたたきたいというところでは「虚偽申請」というような悪意に満ちた言葉も見られる。さすがに報道機関の記事ではあからさまな悪意の表現はないものの、田中知事の方が間違っているという感じの記事が多い。それは、「地方税法では、住民税は住民票の有無でなく、日常生活を総合的に判断し市町村が課税すると定められている。」「田中知事は昨年9月に「住民税を泰阜村に払いたい」と住民票を移した。これまでに同村を訪れたのは数回という。」ということが書かれている記事が多いからだ。これは、暗に田中知事の行為が、生活の基盤がないのに税金を納める先を変えるために、無理に住民票を移しているというイメージを抱かせるような書き方になっている。つまり何か悪いことをやっているんじゃないかというイメージを抱かせるような書き方になっていると思う。しかし、この住民票移転で、田中知事が何か得をすることがあるのだろうか。たとえば税金を払う額が少し節約できるとか、個人的に何か得になることがあるのだろうか。そうであれば、田中知事の行為には不正があるという指摘もできると思うのだが、形式が違うということで批判するのはどうにも変だという素朴な疑問がわいてきた。長野市は、今まで納められていた税金がなくなるのであるから、これは損失ということになる。損失を受ける側が批判するのはある意味では当然であるから、その立場からの言葉であることを考慮しながら、長野市長の言葉をちょっと眺めてみよう。次のアドレスだ。https://wwws.city.nagano.nagano.jp/mail-mgz/backno/2003/1009091548.htmlここではまず、「転出の理由について、長野市に市民税を払いたくない、合併しないで頑張っている泰阜村を応援したい、本拠地ではなくて自分の好きな場所に住民税を払うのは自由だ、国会議員だって東京に本拠があるのに、地元に住民票をおいているし、学生が住民票を移さず、東京の学校へ通っている例はいくらもあるというような理屈を言って、その行動を正当化しようとしておられます。」この言い方は、僕はかなりの悪意を感じるのだが、田中知事は、本当にこんなことを言っているのだろうか。田中知事が言っていることの、本当に正確な引用というのを見てみたいものだ。誰かの解釈を通じた伝聞としての言い方では、悪意があればいくらでもねじ曲げて解釈できる。これがまず素朴な疑問の具体例の1番目かな。「しかしながら、知事が住民票を移され、泰阜村に住民税を納めたいということについては、私としては、法治国家における自治体の長として、法に基づき何らかの手続きをしないわけにはいかないと考えています。」この言葉に対しては、手続きが正しければ問題はないといっているのかな?という感じも受ける。そうすると、東京を活動の基盤にしている政治家が、地元に住民票を置いているという問題も、手続きさえ正しければ批判には値しないと言うことだろうか。最初の言い方では、実態がなければダメだという言い方に聞こえるけれど、形式が合っていればそれはいいと言うことなんだろうか。かなり官僚的な考え方だなという感じがする。これが素朴な疑問の二つ目だ。「すなわち、今回の知事の行動に対しては、地方税法に基づき実態を調べた上で、生活の本拠である市町村(おそらく長野市ということになるでしょう)が住民税を課税することになるでしょう。」長野市が実態を調べて、田中知事は長野市で住民税を納めることがふさわしいと結論を出したら、同じ基準で他の政治家についても考えてみることを、マスコミなどはぜひして欲しいと思う。田中知事に対しては厳しい基準を適用して、他の政治家にはそれを適用しなかったら、不当なダブルスタンダードになる。そうならないかどうかと言うのが素朴な疑問の第3だ。「私とすれば、何の関係もない泰阜村長さんと、知事の住民税課税のことで協議するということは、まことに子供じみた話だと思っています。」批判というのは具体的にやらなければならない。どの事実を指して「なんの関係もない」と判断するのかを指摘しなければ、それは単に個人的な印象だけじゃないかと思うだけだ。関係があるかないかは、客観的な事実を見て、その事実から判断できるものだ。「子供じみた話」というのも単なる印象にすぎず、どの事実を指してそういうのかがなければ、批判ではなく、単なる悪口にすぎない。「両市村の協議が不調に終わった場合、調停をする役目は県知事さんだそうです。そうなった場合、今までの判例等に照らし合わせ、公平な判断をどのように下すのでしょうか。」この批判だけは論理的に正当な批判だ。利害当事者が結論を下すような構造は、たとえちゃんとした結論であっても誤解を招く。これは、特殊なケースとして例外規定を設けて、田中知事本人が決定をしないような方向を取るべきだろう。「例えば、選挙人名簿の管理は住民基本台帳を基に行われます。そのため、生活の実態のほとんどない人達が、その被選挙人の理念が好きだというだけで住民票を異動したら、現在の選挙制度というものはどうなってしまうのでしょうか。」この批判は、論理に弱い人は、うっかりするとなるほどと頷いてしまうかもしれない。しかし、これは本当に田中知事が言っていることを正しく受け止めて解釈して批判しているのだろうか。という素朴な疑問を僕は感じる。田中知事は、理念だけに共鳴して、他の実態は無視して、今回のようなことをしようとしているのだろうか。田中知事の行為が、このことに論理的につながるというのなら、この批判は正当性を持つけれども、論理的につながらないのなら、自分の頭の中に生まれた妄想に対して批判を浴びせていることになる。これが、本当に田中知事の行為と結びついてくる論理的根拠があるのかどうかというのが、また素朴な疑問になる。「しかし、これはあくまでも個人の思いであり、現実には、国の法律が変わらなくては不可能な話です。」批判の最も重要なポイントは、この言葉に集約されるように感じる。しかし、法律というのは時代が変化すればそれに応じて変わる必要も出てくるだろう。まず法律ありきではなくて、法律に対して問題提起をするということであれば、あえて習慣に反することをして問いかけると言うことにも意味が出てくるような気もする。果たして、田中知事の行為はその方向で解釈できるかどうか。いつでも法律の方が重いと考えるのはどうだろうか、というのも素朴な疑問だ。それでは、反対の側の利益受ける泰阜(やすおか)村村長の話を見てみよう。次のアドレスだ。http://www.vill.yasuoka.nagano.jp/sonchou/ ここで、村長の松島貞治氏は、個人的な見解と断って次のように語っている。「彼の行動は、単なるパフォーマンスではないと考えています。もともと、田中さんは、税金というものは、その使われ方が見える形が望ましい、見えるようになれば、納得した使い方をしている自治体へ納めることになるのでは、また、そのような自治体を応援したい。だから、複数の自治体に税金を納めてもいいのではないかという持論を展開しておりました。ここまでは、誰でもできるのですが、実際それに挑戦するという田中さんの行動力に敬意を表しています。」正しいかどうかの結論は出せないが、一つの問題提起として受け止めているという姿勢が伺える。これを考えていこうという呼びかけではないかと僕は感じた。法律に照らして考えるべきだという考えと、若干違う受け止め方ではないだろうか。「今回のこの住民票移転問題も、税金の納税の仕方、使われ方、住所と住民票の関係、税金を納めたい自治体へ納めることはどうなのか、それらを総合した問題提起だと考えています。これは、私がやっても挑戦になりません。田中さんだから挑戦になるのです。」という言葉では、これは田中知事がやるからこそ問題提起になるという見方を語っている。あくまでも問題提起なのであって、これが絶対に正しいのだと主張しているのではない。泰阜(やすおか)村は、介護という言葉が一般的になる前から介護に取り組んできたところらしい。つまり、田中知事としては、本当に住民のためになる政治をしている自治体にこそ、喜んで税金を払うという意識を持とうと呼びかけている、そういう問題提起として受け止めようと言うことではないかと思う。利害当事者でありながら、自らの利益に厳しく控えめな言い方は、客観性を持つ要件があるのではないだろうか。こちらの考えの方に僕は共感する。この問題は、問題提起であって、どちらに共感するかが大事なことで、どちらが絶対的に正しいんだという風には結論づけられないのではないかと僕は感じた。今日は、田中知事自身の考え方がどうなのかということまでは調べる余裕がなかったが、今度はそのことも詳しく調べて考えてみたいと思う。長野市長の批判が当たっているのかどうかと言う素朴な疑問を確かめてみたいと思う。それにしても、以前竹中平蔵大臣が、アメリカに住民票を移して税金を節約していたという疑惑が報道されたことがあった。これは、税金節約という不正のにおいがあるにもかかわらず、大手マスコミメディアでは話題にされなかった。田中知事とは偉い違う扱いだなと思う。関連のサイトを検索したら次のようなものが見つかった。http://www9.plala.or.jp/bruce-t2/2002/09_02.htm http://www.otokusite.com/etc/takenakadaijinn.htm http://www.fusosha.co.jp/spapage/2003/spa282701_02.html http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000215320011128003.htm 田中知事のことが問題にされるなら、このことも改めて問題にされなければならないのではないかと思う。
2004.01.29
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昨日の筒井信孝氏の質問は、次のページにアクセスすると見ることが出来る。http://www.shugiintv.go.jp/top_frame.cfm まだこれを見ていない人は、一度見てもらって、どんな感想を持つか尋ねてみたい気がする。もちろん僕と違う感想を持つ人もいるだろうが、簡単な報道で紋切り型の表現でその中身が分かるものではないということは感じるだろう。ここには、他の人の質問もすべておさめられているので、時間があったら、他の人の質問でも政府答弁が逃げているようなものがないかどうか確かめてみたいものだ。政府の立場は、いろいろな事実を勘案して、そこから客観的判断を導き出すというものではない。ある立場から見て、最初から答えが決まっている判断を説明している。この、立場が決まっている答えというものは、この立場に都合悪い事実が出てきてしまうと、その事実とつじつまを合わせるために無理な論理を使わざるを得なくなる。答えが決まっていない、事実をもとにして答えを求めるような客観性があれば、どんな事実が発見されても整合性のある答えを求めることが出来る。ある立場から発言する人間の論理の弱さというのがここにあると僕には思える。「論座」での森本さんと田岡さんのインタビュー形式の記事は、森本さんが、どうしても立場から来る発言の苦しさを持っているように感じる。しかし、森本さんは、学者としての良心がある人なので、発言に苦しさがあっても、論理的に無理な断定はしない。政府も、立場から来る答弁の苦しさがあっても、せめて森本さんくらいの真理に対する良心を持って欲しいものだと思う。追求する側の民主党は、野党の立場なのだから、与党になったときのことなどを考えずに、客観的な立場での追求をゆるめないようにして欲しいと思う。さて、良心的ながらも、立場から来る森本さんの発言はどこが苦しくなってくるかというのを、立場を離れてドライに客観的に発言する田岡さんの発言と比べてみてみることにしよう。アメリカの中東戦略についての発言が面白い。森本さんは、アメリカ擁護をするための論理を苦労して探している。次のような発言だ。田岡:アメリカは「フセインの20年あまりの圧政からイラク国民を解放した」と言うが、その前半はフセインを支援した。イラン・イラク戦争中にも「日本は石油の9割を中東に依存し、安定が大事。フセインを支援しろ」といい、日本はイラク支援に3000億円ぐらい出した。また同じことを言う。森本:イランが強すぎたときに、バランスをとるためにアメリカはそうやったわけです。アメリカは80年代にイギリスに代わって中東湾岸に介入して、イランとイラクのパワーバランスの中で、常にアメリカは強者とは反対側に立って、バランスをとってきた。どちらかがあの地域の覇権者になることを、アメリカはずっと阻止しようとしてきた。アメリカや日本が、フセインを非難するのは、過去に支援してきた事実があって整合性がないご都合主義だという感じの田岡さんの言葉に対して、森本さんは苦しいいいわけをしている。過去にフセインを支援したのは、パワーバランスをとるためであって、これは仕方がないんだといいたいように聞こえる。田岡さんは、事実として、アメリカは自国の利益のためにのみフセイン支援などの行動をしているのであって、そこに正当な理由などは見つからないというようなことを語っているように見えるが、森本さんは、そこに仕方のない事情があったかのように論理を構築しているのではないかと感じる。次のやりとりなどそんな感じがする。森本:アメリカの外交官の説明を聞いたり政策ペーパーを読むと、アメリカの意図は、イランとイラク、どちらかが強大な国にならないように、常にバランスをとろうとして長期的に動いてきていた。しかし、どちらも地域を不安定にすることに気づいてからは、「ダブル・コンテーメント」(二重封じ込め)がずっと続いている。田岡:それはイラン・イラク戦争が始まってから、侵略者であるフセイン支援を正当化するために言った理屈で、革命前は、アメリカは一方的にイラン、その後はイラクを支持した。西側主要国では日本だけが常にイランとも友好関係を保ち、成功した。森本さんの言い方は、いかにも学者らしく客観性を装って、難しい言葉をちりばめている。しかし、それはよく考えてみると、田岡さんの言っているように、単なるご都合主義の勝手な言い分ではないかという風にアメリカの言っていることは聞こえる。学者としては次のように解釈せずにはいられなくなり、森本さんはこのあと次のように発言している。森本:アメリカの中東湾岸政策は、自分が覇権を握ろうとすることなんです。だから、誰かが覇権者になったら困る。今はイラクのフセイン政権を倒して自分が覇権者になろうとしている。アメリカはイギリスに代わってあの地域の覇権者になろうとして20年間やってきた。誰か強くなろうとすると、押さえてバランスをとるという政策を繰り返して、それがうまくいかないという歴史を繰り返してきた。アメリカの本音は、中東を自分の自由になる国にしたいということなんだと、森本さんもそれは認めざるを得ないと言うことがこの発言から分かる。このアメリカの勝手な行動と言い分を許してもいいかと言うことが問題なのだと思う。いろいろな理由をつけて、これを仕方のないことだと思ってしまうのか、こんなことを許していたら、人類が築いてきた民主主義の歴史を否定するものだと言うことで、民主主義を守るためにこれに反対するか、どちらの道を選択するかと言うことが求められているのではないかと思う。ある事実を解釈すると言うことは、その解釈に都合のいい事実を見つけてきて、それを理由になんとか論理を取り繕うことが出来る。しかし、新たな事実が発見されたとき、無理矢理つじつま合わせをした無理な論理は、どうしても整合性をとれない事実にぶつかってしまう。その時に解釈を捨てるのか、新たな論理を見つけて取り繕うのか、歴史はどちらが正しかったかを教えてくれる。プトレマイオスの天動説は、天体観測を細かく正確にすればするほど、その理論に合わない事実が次々に出てきた。そこで、理論を取り繕うために、新たな理論を継ぎ足して、複雑怪奇な理論ができあがった。周点円などという発想で無理矢理理論を事実に合わせた。しかし、そのあとも新たな事実が発見されると、またまた理論が事実に合わなくなった。永遠の修正が必要な理論になった。コペルニクスが展開した地動説は、発見された事実のすべてに整合性を持っていて、しかも新たに発見された事実にも適用可能な理論だった。ここに至って、天動説が詭弁であることが誰の目にも明らかになったわけだ。回りくどいわかりにくい説明が展開されるときは、天動説が犯した誤りが、同じ形式で展開されているのかもしれない。始めに結論ありきという論理は、たいていの場合間違いにつながっているような気がする。
2004.01.28
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昨日の衆院予算委員会で、民主党の筒井信隆氏が石破茂防衛庁長官とやっていた議論が気になったので、その正確な報道を探しているのだが、どれも僕が見たものと印象が違う事実を伝えている。たとえば、「首相、大量破壊兵器「まだ可能性」=テロ攻撃で撤収直結せず-防衛長官http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000895-jij-pol 」というニュースでは、次のように伝えている。「また、自衛隊のイラク派遣に関し、民主党の筒井信隆氏が正体不明の相手から自衛隊がテロ攻撃を受けた場合の対応をただしたのに対し、石破茂防衛庁長官は「直ちに戦闘地域(になった)という判断には結び付かない」と答弁。「戦闘地域」の判断基準として「国際的紛争を解決する手段として武力行使が行われた場合で、国際性、継続性、組織性が挙げられる」と説明した。」これでは、単に質問に答えたということを伝えているだけで、しかもその答えも整合性があるかのように書いてある。これは、僕がテレビで見ていた印象と全く違う。石破防衛庁長官は、正面から答えることをせず、論点をなんとか別の方向へ向けようとしているように感じたのだが、そういう報道は一つも見なかった。誰も、あの答弁をそういう風には感じなかったのだろうか。筒井氏は、「国際的紛争を解決する手段として武力行使が行われた場合で、国際性、継続性、組織性が挙げられる」という答弁を受けて、戦闘行為を行った相手が、「国際性、継続性、組織性」があると認めたら、その戦闘行為は、武力行使になるということをまず確認した。それは戦争状態なのだということだ。そうなると、その場所は当然「戦闘地域」ということになる。逆に言うと、戦闘行為の相手が、「国際性、継続性、組織性」を持っていなかったら、その相手との戦闘行為は武力行使にならないと判断をするわけだ。ある意味では正当防衛だと判断するのだろう。テロリストには、「国際性、継続性、組織性」を認めないと言うことだろうと思う。ここまでをとりあえず認めておいて、相手がテロリスト集団だと分かれば、その相手との戦闘行為は武力行使ではないと判断するのも一応認めよう。それでは、相手が分からないときの判断はどうするのか、と筒井氏は質問したと僕は思った。相手がはっきりと分かるときは、その相手の性格によって判断してもいいだろう。基準がはっきりしていれば、その基準に従って判断するのは論理的だ。しかし、相手が何者か分かっていないときは、どうやって判断するのか。たとえば、日本人外交官が射殺された事件では、未だに誰にやられたのかが分からない。相手が誰か分からないから、これが「国際性、継続性、組織性」を持つ戦争当事者であるという判断は出来ない。しかし、相手が分からないのだから、このような性格を持っていないということも判断できないはずだ。つまり、このような攻撃を受けた地が、「戦闘地域」であるという判断も出来ないし、「戦闘地域」であるという判断も両方とも出来ないはずだ。だから、このような攻撃を受けた場所は、戦闘地域であるかどうか分からないと言うべきなのに、どうして「戦闘地域でない」と判断するのか、ということを質問したのだ。これは、とても本質的な部分をついた質問だと思ったので、僕には印象的だった。それでよく覚えているのだ。石破茂防衛庁長官は「直ちに戦闘地域(になった)という判断には結び付かない」と答弁しただけで、それがどうして「戦闘地域でない」と判断するかの理由は答えなかった。「戦闘地域でない」と判断された土地にのみ自衛隊を送ることが出来るというのがイラク特措法だ。「戦闘地域でない」と判断しないと、イラク特措法によって自衛隊が駐留できる理由がなくなってしまうので、その場合は撤収する必要があるのではないかと思うのだが、「戦闘地域であるかないか分からない」という状況でも、これでは撤収はないのではないかと感じる。最後は、筒井氏が挙げた具体例が、すべてサマワ地域でのものではなかったので、サマワは「戦闘地域ではない」と判断できると言うことで逃げられたように僕には感じた。しかし、今はサマワでは、このような事件が起きていないが、これから起こる可能性はかなりある。その時にどのような判断をするかということは、もう少し詰めても良かったのではないかと思ったが、石破防衛庁長官が何度も同じ答えを繰り返していたのでしびれを切らしたようにも感じた。そのように感じた国会の議論が、このような報道しかされないのであれば、直接見ていない人は、民主党が追い込めなかったというイメージだけがふくらんでいくのではないだろうか。自民党の間違いや論理のすり替えが伝わらない。http://www.asahi.com/paper/politics.html で伝えられるニュースでも、「民主に限界」というイメージで書かれている。確かに、「大義に疑問の残るイラク戦争と、その延長線上のイラクへの自衛隊派遣に強く異を唱えてきた民主党だが、政権政党をめざすうえで「イラク復興」や「日米協調」に完全にノーとは言えない。「立場の違いはあれ、派遣された自衛隊員の身に何かがあっては困る。任務を遂行して帰還していただきたい、という気持ちは(政府と)共有している」。そう付言せざるを得ないところが、前原氏ら同党の限界でもある。」というのも正論であることは分かるが、自民党の間違いや論理のすり替えを全く伝えずに、民主党の限界というイメージだけを報道していたら、政府に対する批判の気持ちを持つ人は増えないだろうと思う。次のような世論調査の結果に、この報道が結びついているように感じる。マスコミの世論操作的報道の結果が、この世論調査に結びついているのではないだろうか。「イラク自衛隊派遣決定、53%が評価…読売世論調査http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000113-yom-pol 」アメリカ人が、中東の現実を全く知らないために、イラクに民主的な国家を打ち立てるというブッシュ政権の嘘を簡単に信じていることを批判したい気持ちを、実は自分自身に向けてみると、日本人だってイメージばかりで本当の姿を見ていないのではないかと批判しなければならないんじゃないかと感じる。昨日の国会中継を見て、そのニュースが正確に伝えられていないと感じて、こんなことを思った。もう一つ気になるニュースは、田中知事へのバッシングを感じるニュースだ。出る杭は打たれるというか、新しいことをして、変化を起こそうとする人間は、何かと攻撃を受けるんだなと思う。もちろん、批判すること自体は悪いことではないと思うけれど、今までに決まっていることを破ったことが悪いというような印象を受ける批判は、どこか違うんじゃないかという気がする。田中知事の住民票の問題は、明日改めて資料を読み返してみたいと思う。
2004.01.27
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昨日のTBSテレビの報道特集で、生まれたときから耳が聞こえないという障害を持った子供のルポをしていた。そのルポでは、若い両親が、その子を手話を使って子育てしようとしている様子を伝えていた。両親はともに聴覚障害はないので、それまでは手話を全然知らなかったが、子育てをすると決心してから手話の勉強を始めていた。その子は耳が全く聞こえないので、両親がいくら言葉をかけても、話し言葉でコミュニケーションをとることは出来ない。手話でなら、子供とのコミュニケーションが直接とれるのではないかと、その両親は考えたのだった。番組では、子育ての最初から手話で育てようと考えたのは初めてだったのではないかと語っていた。しかし、よく考えてみると、これはきわめて論理的な考え方なのではないかと思う。耳が聞こえないのだから、音声言語を獲得することはおそらくできないと思われる。だからといって文字を獲得するまで待っていたら、いつコミュニケーションがとれるようになるか分からない。体の動きが、心を表す手段だということが子供に伝われば、最初は簡単な表現しかできなくても、心の発達に応じてだんだんと表現がふくらんでいって、コミュニケーションが深まっていくのではないかと予想するのは合理的な感じがする。心を表現する手段を持てば、知能の発達にも影響を与えるに違いない。自分の心を見つめて、それを正しく表現する手段と結びつけるという思考が働くからだ。外界のものを認識するという意識も、表現しようという意欲がなければ働かないのではないかと思う。ものを分類したり、その特徴を概念化して、同じものと違うものを区別するというのも、表現手段があって、表現と結びつくことによってその力が伸びるのではないだろうか。その子は、耳が聞こえないにもかかわらず、普通の子供が話し始める1歳を少し過ぎたあたりから、身体で表現するという手話を使い始めたのだ。この場面に僕はとても感動した。両親の願いが実現したということに対する喜びの共感もあったが、合理的に考えたことが、その通りになったことに感動したのだった。ヘーゲルの言葉にあるように「合理的なものは現実的である」ということが本当なんだなあという実感がわいてきて感動した。もしこの子が手話でコミュニケーションを取るという環境にいなかったら、知能の発達にも何か障害となるものが残ったのではないかと感じる。その年齢にふさわしいコミュニケーションを取る手段があったからこそ、その子は健全に発達することが出来るようになるのではないかと感じた。今は2歳くらいだけれど、この子の今後は、耳が聞こえる子供たちと違いがあるのは、おそらく耳が聞こえないという点に関してだけになるのではないかと思った。この子は、両親が手話で育てると決心したので、家庭での手話コミュニケーションの環境を作ることが出来た。それだけではなく、手話コミュニケーションが出来るもっと大きな場にも恵まれていた。龍の子学園と呼んでいただろうか。そこには多くの聴覚障害を持つ人が集まってきて、手話によって子供たちに様々の活動を提供していた。小学生や中学生には、手話を用いて教科の授業などもしていた。ここでは、手話を教えるのではなく、手話で教えていた。子供たちはその環境の中で、手話を勉強するのではなく、普通の子供たちが生活の中で言葉を覚えていくように、生活の中で手話を覚えていっていた。そして、ここに集う人たちが、ろう教育に対して、手話で教育するという選択肢を作ってくれるように要求していた。これは、この人たちが、手話によってこれだけの成果を上げているのを見たら、要求をして当然だと思った。今のろう教育は、基本的に手話を禁じているらしい。特に公立のろう学校ではそのようだ。それは、世間というものが手話が通用する世界ではなく、その世間で生きて行くには、手話よりも世間に合わせた「口話法(口の動きを見て言葉を受け取る)」がふさわしいと考えているかららしい。しかし、これは子供たちにものすごい労力を要求するもののようだ。この技術を習得することが難しくて、肝心の勉強の中身にまで気持ちが入る余裕もなくなるみたいだ。それが、手話を使って授業をすれば、自分が考えたことをすぐに表現できるし、相手の表現もすぐに受け取ることが出来る。本当の意味でコミュニケーションが出来るようになるのだ。学習においては、その方が絶対に内容が深まると僕は思った。世間にでたあとのことを考えるよりも、今勉強していることの方を考えた方がいいと思う。文部科学省は、この要求に対して、手話を使うという方法が、必ずしも効果があるかどうかが証明されていないというようなことを言っていたが、それなら文部科学省が指導している口話法は大きな成果を上げているのかと逆に問いたいような気がする。しかも、彼らの要求は、すべてを手話にしろといっているのではなく、選択肢としてそれを許して欲しいといっているのだ。つまり、希望する人には、手話で教育をして欲しいといっているのであって、口話法がいいと思っている人には、それをしてもらっていいといっているのだ。そういうささやかな要求すら実現できないというのは、どうしてなんだろうと思う。変化というものを嫌う官僚的考えの弊害以外の何ものでもないと思った。筑波大付属の聾学校の校長だっただろうか、この人はかなり良心的な人だと思ったのだが、子供を手話を用いて育てようということに関して、次のような感想を語っていたのは間違っていると思った。それは、手話というのがほとんど外国語を使うようなものだというたとえをして、もし自分の子供をフランス語で育てようということになったら、親の自分がフランス語を習ってそれで子育てをするなんて不可能なことだというたとえを語っていた。しかし、手話を習うということは、フランス語を習うこととは全く違うと思う。手話のもとになるのはあくまでも日本語であって、常に日本語の表現と結びつけて手話の表現がある。語彙も文法も全く違う外国語を学ぶのとは違うのではないか。それに、子供とのコミュニケーションがとれるという喜びがあるのなら、関係のない外国語を習うというのと、モチベーションが全く違ってくる。この考えの間違いは、番組が伝えてくれた夫婦を見ると、事実によってそれが不可能ではないことが証明されていると思う。この日のルポは、ろう教育にとって革命的なものだと思うな。ろう教育に携わる人は、手話が出来るという資格を持つべきだと思った。ろう者が少数だからといって、彼らを聴者(耳が聞こえる人)に近づけるというのは、無理を強要していることではないだろうか。手話がろう者のコミュニケーション手段であることを認め、彼らに対する配慮をすべき場所では、手話こそが主要なコミュニケーション手段であるようにすべきではないだろうか。さて、イラク報道に関して、マル激トーク・オン・デマンドで神保哲生さんが目から鱗が落ちるという感じの指摘をしていた。たとえば、次のような報道がある。「陸自先遣隊がサマワで活動内容説明会、雇用に要望続々http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040125-00000112-yom-int 」「<陸自先遣隊>老朽化した小学校を視察 イラク・サマワhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000037-mai-int 」「「陸自保護は宗教的義務」サマワのイスラム教導師http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000401-yom-int 」これに対して、僕は、この大いなる勘違いが現実になれば、それは瓢箪から駒のようにいい方向へ行ってしまうのではないかとある種の期待さえ抱いていたが、それはそう見る方も勘違いではないかという思いも生じてきた。最近のこの種の報道が、あまりにも多すぎて異常な感じさえしてきたからだ。神保さんに言わせると、冷静に現実を眺めてみれば、サマワ以外のイラクでは連日自爆攻撃が行われていて、戦闘は激しさを増しているくらいだし、自衛隊に何が出来るかということを客観的に考えてみれば、期待に応えられないと見る方が現実的だろうということだ。そのような現実があって、どうしてこのようなニュースが溢れているかという意味の方を考えた方がいいという指摘だった。マスコミがこのような報道を流すのはどうしてなのだろうか。自衛隊に世論の圧力をかけて、復興支援に限定した活動だけをさせようというのだろうか。自衛隊のイメージアップを図りたいのだろうか。何か事件が起こったときに、自衛隊はこれだけがんばっていたにもかかわらず、誤解のもとにおそわれたというイメージを作りたいのだろうか。とにかく、今のところこれらの報道は、サマワのイラク人の大いなる勘違いだということが語られている。本当のところはどうなのか、事実として正しいものをもっと信用できる媒体に求めなければならない。神保さんは、日本語だけではなく英文メディアも求めていかなければならないと語っていた。田中宇さんも英文メディアの必要性を語っていた。英語の能力というものが、こういうところで必要になるとは思わなかった。真理のためには、もっと英語の読み書き能力を高めないといけないんだなと感じた。「<イラク警官射殺>「車目当ての可能性」 サマワ地方警察署 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040126-00000036-mai-int 」この記事を見ると、イラクでの事件は、政治的な意図を持つものばかりでなく、強盗のたぐいもたくさんあるのだなというのを今更ながら感じる。テロというのを政治的な意図を持つものと定義すれば、強盗のたぐいの事件とは区別して受け取らなければならないのではないかと思う。どの事件がテロで、どの事件が犯罪なのか、それも含めて報道されないかなと思うが、これも日本語のメディアでは難しいのかな。英語を勉強しないとならないのかなと思う。今のところは、そう簡単に英語が上達するとも思えないので、日本語のマスメディアの限界を補う情報源として、田中さんや神保さんの報告というものを見つめていこうと思う。
2004.01.26
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小泉さんが施政方針演説をしていた同じ頃アメリカではブッシュ大統領が一般教書演説をしていた。僕の感想は、これも小泉さんのと同じように中身のない空疎な言葉だけの演説のように感じた。次の記事が要旨を伝える。「米大統領の一般教書要旨http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000900-jij-int 」これは簡単な要旨なので、その意味を深く知ることが出来ないが、たとえ深く知ったとしても、この言葉でまとめられるような内容ならやはり中身のない空疎なものという印象は変わらないだろう。勝手なことを言っていると思うだけだ。「<米一般教書演説>対テロ、攻撃的対処を継続 ブッシュ大統領http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00001042-mai-int 」という記事では、中身についてのもう少し詳しい報道がある。それによれば、「大統領は01年9月の米同時多発テロ以来のアフガニスタン攻撃やイラク戦争を全面的に肯定し、今後もテロ組織や大量破壊兵器の脅威に対して攻撃的な対処を続ける姿勢を明確にした。」と語られている。ブッシュ政権は、その攻撃的な姿勢を変えないと宣言しているわけだ。それは、今までのやり方で成果を上げているという評価だから、論理的には整合性があるが、力ではテロは防げないと考える人間には、その評価に賛成できないのだから、この姿勢には反対だ。ブッシュ大統領が再選されると、この姿勢がアメリカ国民に支持されると言うことになる。世論の支持を得たら、この方向が変わる可能性が薄くなるので、気分は暗澹としたものになる。「大統領は演説の冒頭、「テロとの戦争」のため世界に展開している米軍が米国を安全にしていると指摘。「我々の最大の責務は米国民を積極的に守ることにある」と明言し、「米国はテロリストに対して攻勢にある」と強調した。」国家が国民を守ると言うことはいいのだが、テロを力で制圧しようとするのは、かえって危険を増しているというのが現実ではないのか。厳重な警戒を日常的にやらなければならない生活は、国民を守っていることになるのか。自由を失うと言うことは、安全が失われていることではないのだろうか。ここには解釈の違いがたくさんある。「中東地域が「専制と絶望と怒りの地」のままであれば、米国と友好国への脅威となる人々や運動が生まれ続けると指摘。「米国は広域の中東に自由を広げる戦略を遂行している」と述べた。」という言葉に対しては、サウジアラビアやクウェートは専制の国ではないのか、イスラエルがそのままでいることによって絶望や怒りが生まれているのではないか、という反論がある。この問題は放っておいて、なぜイラクだけを変えようとするのか。一般のアメリカ人は、このようなことは何も知らないのだろうか。知らなければ、無知からブッシュ政権を支持しているのかもしれない。識者と呼ばれるアメリカのインテリ層は、ブッシュ政権を支持している人はほとんどいないという話を聞いているからだ。「民主党が大統領選で、安全保障政策でブッシュ大統領を破れるとは、私は決して信じてない」(米アメリカン大学のアラン・リットマン教授)というコメントを見ると、選挙のためにもブッシュ政権のやり方は今後も変わらないという感じがする。アメリカの一般国民が目覚めることを祈るしかないが、日本人としては、ブッシュ政権の戦略に荷担するようなことには反対していくことが、正しい道であるように感じる。政府は、自衛隊の派遣をして、その戦略に荷担しているが、国民としては、実質的に荷担にならないように批判的に見ていくことが必要だろう。自衛隊には、復興支援だけをしてもらうようにその行動を見ていきたい。「米民主党、国民軽視として一般教書演説を厳しく批判http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000811-reu-int 」という記事では、反対の立場からの批判を載せている。反対の立場であるということを差し引いても、こちらの方が説得力があるように僕は感じる。「同盟国との関係を悪化させ、イラク戦のコストと犠牲者の大半を米国から出すことになっている」「最高経営責任者(CEO)の給料は上昇し、ウォール街の企業収益は増加しているが、平均的な米国民の稼ぎは1ドル当り3セント増えたにすぎない」という言葉に、事実をとらえて批判していると感じるからだ。ブッシュ大統領は、空疎な願望を言葉にしているだけだけれど、批判者は事実をもとに批判しているように感じるからだ。「ブッシュ大統領「同性結婚は認めない」…一般教書演説http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000211-yom-int 」という報道を見ると、ブッシュ大統領という人は、民主主義や政教分離と言うことを理解していなのではないかと感じる。基本的人権である思想・信条の自由についても理解していないように思う。「同性結婚は認めない」などという言葉は、宗教的権力者が語るような言葉だ。これを含めてブッシュ大統領を支持すると言うことを、アメリカ国民には考えて欲しいと思う。そして、その上でもなおブッシュ大統領を支持するなら、僕はもうアメリカ一般国民の民主主義に関する姿勢をあまり信用しない。かつてマッカーサーが日本の占領軍の最高権力者としてきたときに、日本人12歳説というのがあったそうだが、論理よりも感情や宗教的信念の方が優先するのなら、アメリカ人こそ12歳の精神年齢しかないんじゃないのかと思いたくなってくる。僕の願望としては、まともな批判が出来ている民主党が大統領選に勝つことを願っているが、本当の多数派が誰なのかということにアメリカ国民は目覚めて欲しいと思う。ブッシュ政権は、確かに一方の側の利益を増大させるように働いているので、利益を得る側は当然支持をするだろう。しかし、もう一方の側は利益どころか損害を被る方なのだと言うことに目覚めて欲しい。そして、その損害を被る方が、実は圧倒的多数派なのだと思う。真の民主主義が実現されれば、ブッシュ政権は倒れなければならない。果たして、11月には真の民主主義が実現されるのだろうか。見通しはきわめて悪いが、アメリカ国民が目覚めるような出来事が起こるのを期待している。「<イラク>大量破壊兵器の捜索指揮したCIA特別顧問が辞任http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040124-00001027-mai-int 」この記事では、「ブッシュ政権がイラク戦争前、フセイン政権打倒の大義名分として主張した「大量破壊兵器の差し迫った脅威」は、存在しなかったことがほぼ確実になった。」と語っている。つまりブッシュ政権は嘘を語っていたと言うことがほぼ明らかになった。この責任が追及されるかどうかで、論理が通用する社会かどうかが分かるだろう。この記事では、「一方で、ブッシュ政権は昨秋以降、大量破壊兵器そのものではなく、「大量破壊兵器開発の『プログラム(計画)』が確認された」と微妙な軌道修正を図り、大規模な備蓄が発見されない場合の予防線を張っている。ブッシュ大統領も20日の一般教書演説で「大量破壊兵器に関する多くのプログラムを確認している」と述べ、脅威をあおった昨年の一般教書演説の内容を言い換えている。」ということも報道されており、嘘であることがばれたときに、それをどう取り繕おうかという常套手段が使われていることも分かる。語るに落ちるとはこのことで、当事者であるブッシュ政権も、もう嘘であることを隠せないと覚悟したのだろう。「米国内では大量破壊兵器の有無にかかわらずイラク戦争を正当化する世論が大勢を占める。しかし、米国がイラク戦争の正当化の根拠にあげる02年11月の国連安全保障理事会決議はあくまで大量破壊兵器の脅威に関するものだ。インタビューでのケイ氏の証言は、対イラク武力行使の正当性をめぐる問題の原点を国際社会に問いかけることになるだろう。」この問いかけで、アメリカの世論が再び原点に返ることがあれば、僕はまたアメリカの民主主義に対する信頼を回復できるかもしれない。今後の動向を見守っていこう。この辞任に関しては次のような裏もあるようだ。「イラクでの調査報告書の作成を始めたケイ氏に、国家安全保障会議の担当者から、ブッシュ政権の主張を支えるような内容にするよう、非常に強い圧力がかかったことを私は知っている。これが辞任の一因ではないか。」嘘の片棒を担ぐことを拒否するための辞任だったのだと言うことが想像される。これは、米カーネギー国際平和研究所研究部長の言葉だが、次の言葉には全く共感する。「私はケイ氏を何年もよく知っているし、開戦前にはイラクの大量破壊兵器について議論もした。当時彼は、存在を確信していた。だが、何も見つからず、彼と米政府の誤りが明らかになった。彼にはそれを認める誠実さと勇気があった。大統領も見習うべきだ。 米国は、間違いを犯したのだ。いまや、(イラク)戦争の最大の根拠が事実ではなかったことが疑いもなく明らかになった。これまでも、大量破壊兵器の存在を疑う指摘は多かった。ブッシュ政権は、ケイ氏の今回の発言で、兵器の脅威を排除するため戦争は正当化されるとの主張を継続できなくなった。」間違いを間違いとして正しく認識できない人間は信用できない。ここまで明らかになった間違いに、ブッシュ政権は厳しく責任を取るべきだろう。「イラク人警官殺害、300人 フセイン政権崩壊以降http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040124-00000105-kyodo-int 」この記事には、やや批判的な思いを抱く。ベトナム戦争の頃も、米軍協力者に対する解放戦線側の処刑というものがあった。それは本多勝一さんのルポにも載せられていたように思う。しかし、その処刑は、村長であったり、いわば地位の高い指導的立場にいるものへの処刑だった。影響力があるからこそ処刑に値するという見方があったのだと思う。警官をねらうというのは、警官そのものに米軍協力という事実での、たとえば住民への弾圧というものがあったのだろうか。そこら辺の報道がないので、単に治安維持のために働いていただけの警官だったら、協力者として死に値する罪になるのかという疑問もある。ベトナムでの解放戦線は、同じベトナム人を処刑するときは、必ずどのような罪状で処刑するのかを記した声明を出していたそうだ。反米勢力の側も、そのような声明がなければ、政治的には悪影響の方が大きいのではないかと思う。300人の警察官の中には、仕事のない中で、仕方なく生活のために警察官になった人間もいるのではないだろうか。憎しみだけで処刑されたとすれば、なんと悲惨な状態なんだろうかと思う。未来に対する暗い予想をさせるニュースが多いが、感情的に吹き上がることなくまずは冷静に事実を受け止めたい。そして、あくまでも未来に対する正しい予想に結びつく解釈をしたいと思う。それがたとえ暗い未来であっても、正しいと言うことの方に価値を見いだしたい。
2004.01.25
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今朝もテレビでは国会の議論についてのコメントを語る人がいた。それは、パフォーマンス的には、やっぱり小泉さんは原稿の棒読みをしているということが指摘されていたが、議論の中身では小泉さんを支持していたような感じだったのでちょっと僕の感じ方と違ってるなと思った。菅さんが行った、自衛隊派遣が憲法違反であるというものを、イラク特措法が通った今となっては蒸し返しても仕方がない無駄な議論と評価していた。これはちょっと違うんじゃないのと思った。憲法違反であることは論理的にはほぼ明らかなので、議論したくないから話を蒸し返したくないだけじゃないの、と僕は感じているからだ。このコメントは日本テレビの出演者が話していたんだけれど、日本テレビは読売新聞の系列で、読売の論調は一貫して政府支持であり、その論調に合わせた発言をするコメンテーターを出しているのかなと感じた。一見客観的な立場を代表しているように装って、実は一方の論調を補強するような論理を使うというのは、マスコミが使う常套手段のような気がする。その人間の発言は、どちらの利益を代表しているのかというのを考慮に入れて受け取るというのは大事なことだろうと思う。これは、役に立つ見方だと思うので、「哲学的考察の道具」としてまとめておこうと思う。さて、そのような観点から、「論座」の森本さんと田岡さんのコメントの続きを眺めてみようと思う。イラクが戦争状態かそうでないかという質問では、二人とも、今の状態は戦争であるという点では一致した。しかし、森本さんは、米英軍の相手がイラク国民であるかどうかには疑問を提出している。相手は、アルカイダを始めとする外国から入ってきたテロリストではないかというのが森本さんの考えだ。これを断定せずに、疑問として提出するところに学者としての良心を感じる。立場だけにとらわれてしまうと、相手はイラク国民ではなく、テロリストグループであると断定したくなるのだが、確たる証拠がないので疑問の提出にとどまっているのだと僕は解釈する。それに対して、田岡さんは事実を提出するだけで、相手が誰かということの解釈はしない。これは、森本さんが、イラク国民が相手ではないのではないかということを言ったので、直接的ではないにしても、イラク国民を相手にしている可能性もあるということが解釈できる事実を述べたのだと思う。次の部分だ。「民衆はフセイン政権はいやだったが、外国軍に対しても反感がある。フセインが拘束されて復権の恐れがないとなると、かえって南部のシーア派地域でも占領軍に対する反感の方が表に出てくるのではないか。道路脇のリモコン爆弾は準備するのに相当時間がかかる。民衆が協力しているか、少なくとも黙認していなければやれないでしょう。」反米勢力の攻撃に、全く民衆がかかわっていなければ、それはすぐにでも制圧されてしまうのではないかと僕も疑問に思っていたが、積極的に国民を敵にしていないとしても、テロリストだけが戦争の相手だという単純な見方では現状認識を間違えるのではないかと思う。イラク国民の感情に対する解釈は、二人の立場の違いが鮮明にでていて面白い。これは、感情というような客観的に証明できる対象ではないので、より鮮明にその立場が見方に反映するのではないだろうか。森本さんは次のように語っている。「ただ、イラクの国民全体が、外国人勢力を一掃しようというコンセンサスをもっているかどうか、私は疑問だと思う。フセイン政権が崩壊したことを喜んでいる人々には、いつ報復を受けるか分からないという恐怖感がある。新しい政権はアメリカが統治評議会として決めたメンバーを主体に構成されるわけで、彼らはゲリラに報復を受けるような状態を望んでいるとは思えない。今すぐ多国籍軍がでていくとどういうことになるか、誰が考えても明らかです。」これに対して、田岡さんは次のように語る。「根本問題として、アメリカはイスラエルを支援している。イラクはクウェートを占領し、撤退を求めた国連の安保理決議に従わないとして攻撃を受け、経済制裁を受け、さらに今回侵攻を受けて占領された。ところが、イスラエルは奇襲で始めた1967年の第3次中東戦争でヨルダン川西岸やガザを占領し、その年の国連安保理決議でイスラエル軍の即時撤退が決まったにもかかわらず、従わないどころか入植を進めた。しかしアメリカが国連安保理で常にイスラエルをかばって拒否権を使うから、有効な制裁措置がとれない。大量破壊兵器にしても、イラクは中断したが、イスラエルはジェリコ1,2という核ミサイルを作っていることを半ば公言しているのに米国は年に30億ドルの経済援助までしている。極端なダブル・スタンダードでアメリカがイスラエルをえこひいきし、イスラエルがパレスチナのアラブ人を徹底的に抑圧している以上、アラブ民衆がアメリカに対して反感を持つのは不可避です。」両方の言い分とももっともだ。どちらがイラクで多数を占める民衆を代表しているかが問題だろう。統治評議会にかかわるイラク人がアメリカに頼るのは当然のことだが、彼らがイラク民衆を代表しているかということには疑問を抱かざるを得ない。個人的な利益のために動いているような印象も受ける。それに対し、田岡さんが語るアメリカへの反感は、イスラエルとの関係を考えれば、実に感情移入しやすいよく分かる論理だ。自分がイラク人だったら、やはりアメリカに反感を持ちたくなる。一般のイラク人の感情への解釈としては、田岡さんの見方が正しいと僕は感じる。この記事ではもう1回分くらい日記が書けそうだ。今日は、あとは注目するニュースについてちょっと書いておこう。最初は次のものだ。「大量破壊兵器ないと言明 米のイラク調査団長辞任http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040124-00000035-kyodo-int 」これは、「大量の生物化学兵器が存在しているとは思えない」と言明したのであって、数学の証明のように、完全な形で「ない」といったのではないが、これだけ徹底した調査をしたのだから、今後見つかることはほとんどあり得ないという意味で語ったのだろうと思う。しかも、語ったのがアメリカの調査団の責任者だということに重みがある。この報告は、イラクにはアメリカが戦争の理由にしたような大量破壊兵器はなかったと結論していいということを語っているのだと思う。一方の立場からは、今更議論を蒸し返すなという声が挙がるだろうが、それは議論をしたらいいわけが出来ないから、そういう声が挙がるのだと思う。我々の立場としては、大いにこの事実を蒸し返す必要があると思う。忘れてはいけないのだ。「<巨額リベート>イラク駐留米軍事業で 石油関連社員2人http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040124-00002117-mai-int 」大義名分ではなく、利権のために始めた戦争だというのが、論理的には理解できるのだが、その証拠がちゃんと出てくるまでは納得できない人は、これでイラク戦争が利権のためだったというのを少しは納得できるだろうか。正義や民主主義というのは、人々をだますための手段にすぎなかったのだと思う。これからも、こういうことがたくさん暴露されていくだろうと思う。「無防備市民に対象広がる イラク反米武装勢力の襲撃http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040123-00000150-kyodo-int 」この記事で語られていることが事実だとしたら、反米勢力の政治判断を批判せざるを得ないと思う。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があるが、米軍基地で働いていたからという理由で、洗濯などの雑用をしている人間まで、対米協力者として処刑するなんていうのは論理的にむちゃくちゃだ。これが本当に反米勢力のやったことなら、その政治的判断は間違いだし、これでは強盗やごろつきのたぐいと同じだ。ただ一つだけ判断を留保するとすれば、これを行ったのがいったい誰なのかがまだはっきりしていないということだ。政治的なことを考えれば、反米勢力は、自らの攻撃に対しては必ず声明を出すべきだろうと思う。自分たちがどのような意図を持って誰をねらっているかははっきりさせておいた方がいいだろう。そうでないと、米軍側への攻撃をすべて彼らのものだと考えると、論理的には全くつじつまが合わなくなるので、彼らはまともな頭をもっていないただの暴力集団としてしか見えなくなる。それが正しい解釈なのかどうかに僕は大いに疑問を持っている。先日購入した姜尚中さんの本にも共感できる部分を見つけた。しばらくは日記のネタに困らない感じだな。毎日興味深いことも起きるしね。
2004.01.24
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小泉さんと菅さんのやりとりに関して、どちらに軍配を上げるかというような解説を今朝のテレビでやっている人がいた。その人の見方では、原稿なしで語った菅さんをパフォーマンスでは軍配を上げ、その中身では小泉さんに軍配を上げていた。僕とは全く正反対の見方をしていたので驚きだった。その解説者は、テロリストとの戦いは正当防衛であるということから、正当防衛は武器使用に当たらないから憲法違反ではないということを正当なものとして評価していた。これは、正当防衛というものが成立するならば、論理としては受け止めてもいいだろう。しかしそもそも正当防衛と言うことが正確に判断できる状況でなければ、論理そのものが成立しない。その状況について全く言及せずに、正当防衛が成立することを前提にして論理を展開することに疑問を感じているのである。僕の見方では、小泉さんの議論には、その前提の正しさが全く確かめられていないことを前提にしたものが多く含まれて、その意味で中身がないという風に感じた。そして、中身がないにもかかわらず互角以上の議論に見えたので、パフォーマンスの点で上回ったという風に感じたのだ。いい加減な発言でも、力強く言い切ることによって、よく分かっていない・自信のない人に対してはその主張を押しつける効果がある。まさにパフォーマンスの勝利のような気がした。ただ、僕の見方が独りよがりの間違いだという可能性もあるので、第三者的にはどう見えるのだろうかということを判断する記事を探してみた。神戸新聞の社説がこのことを論じていた。次のアドレスだ。 http://www.kobe-np.co.jp/shasetsu04/0122ja23810.html ここでは、このやりとりを次のように評価している。「質問はなかなか、迫力があって、面白かったのではないか。菅代表は、原稿も持たずに力強い口調で首相に迫った。だが、首相の方は、答弁用紙に時々目をやりながらの回答である。イラク問題以外では、とうとう原稿丸読みになった。 結局は、いつもの通り、質問と答えはすれ違いである。首相は自分の肉声で、質問に真正面から答えるべきである。それでないと、代表質問はいつまでたってもセレモニーで終わるだけだ。」神戸新聞は、パフォーマンス的には菅さんに軍配を上げているようだが、「いつまでたってもセレモニーで終わるだけだ」と言うことは、追い込みきれなかったと言うことを示すわけで、そこが対等のやりとりに見えてしまうという点で僕はパフォーマンス的には小泉さんが勝ったと思った。一方中身の方の評価は、「再質問に立った菅代表が「まともな説明になっていない」とこき下ろしたが、そう言われても仕方ないだろう。与党と野党の立場の違いを勘案しても、とても議論とはいえないやり取りだ。」と、ほぼ僕と同じ感じ方をしていた。テレビの解説者は、中立的な立場ではなく、どうも政府擁護をしたい立場にいるのではないかという感じがした。これに比べると、新聞はかなり中立的な立場から見ていると思う。特に全国紙ではない神戸新聞ならば、政府に対してはより中立性を保てるのではないかとも感じた。次の、小泉政権そのものに対する批判的評価も的を射たもののように見える。「菅代表は小泉首相を「日本をどの方向に導いて行こうとするのか、分からない。状況追随型だ」と批判したが、それは小泉政治の最も懸念されるところだろう。まもなく就任から三年になるが、いまだに首相が目指す国家像が見えてこない。 それはイラク問題だけではない。就任当初から掲げてきた構造改革も同じである。本来、目指すべき国家像があって、それを実現する手段として構造改革があるべきなのだが、目的が明確でないから、改革の方向がゆがんだり、骨抜きになっても平然としていられるのかも知れない。」最後の指摘などは全くその通りだと思う。目的が明確なら、そのために何をするかということは自ずと明らかになってくる。それが明らかにならないと言うのは、何をするかが明らかになっては困ると言うことなのかと疑いたくなってくる。何をするかが明らかになれば、今までの利権にしがみついていた人間は、その利権を失うのが明白だからではないのか。この社説は、最後に次の言葉で締めくくられている。「「議論が終わるとむなしくなる」と、菅代表は最後にこう言ったが、聞いているほうも同感だ。」まさに僕が感じたことと全く同じことが語られている。第三者的な立場で国会の答弁を眺めれば、このような感想を持つのが自然なのだろうと思う。昨日の答弁では、小泉さんは、同じ質問だから答える必要はないというようなことをいって議会を紛糾させたようだ。「<衆院代表質問>再質問の答弁拒否を弁明 首相http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040123-00002083-mai-pol 」小泉さんの答えが答えになっていないから、質問のポイントをよく理解してもう一度答えてくれと言っているのだが、小泉さんは、それが理解できないのか、答えるとまずいことがあるから答えたくないのか、それを拒否するという暴挙に出た。しかし、これも国民の目にはどう映っているのだろうか。たいしたことではないと映っているとしたら、やはりパフォーマンスでは小泉さんの勝利と言うことになってしまうだろう。中身のないパフォーマンスだけで大事なことが決められていってしまう。「<参院代表質問>自衛隊の安全、首相「万全期す」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040122-00003023-mai-pol 」という答弁に対しても、小泉さんは、聞かれたことにまともに答えていない。決意の方は、それでいいのだろうが、可能性というものを考えれば、万が一の場合に対してあらかじめ対処の方法を考えておくことが大事だろう。それが起こらないように気をつけると言っても、現実には起こってしまう場合もあるのだから、起こってからおろおろするのではなく、あらかじめどのように対処するかを考えておくのが指導者というものだ。feasibility study という言葉を宮台氏が時々使うことがある。それは、可能性のある事柄を想定して、もしこのことが起こったらどうなるかということを考える思考のことだ。それは、絶対に起こさないように気をつけるから考えないのだとなったら、危機管理などというのは出来なくなる。原発の事故は起こさないように気をつけるから、事故が起きたときのことは考えないと言って安心していられるだろうか。ある種の想定に対してどう対処するかという問題は、その想定が絶対にあり得ないことなら、あり得ないと言うことを証明すべきだし、あり得ることなら、それが起こったときにどうするかという見通しを指導者は語るべきだ。それを、万全を期すなどという言葉で答えるのは、指導者としての責任感がないのだと思う。この首相の姿勢を反映してだろうか、イラク関係でも気になるニュースが出ている。「<イラク派遣>治安調査「儀式」色濃く 26日にも本隊に命令http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040122-00000042-mai-pol 」最初から結論が決まっている調査など、なんの価値があるのだろうか。調査というのは、それによって得られた情報から、何らかの判断をするためにするのではないか。判断の方はもう決まっていて、それを正当化するための調査をするのであれば、判断の誤りがあってもそれが分からない。こんな姿勢では feasibility study なんかを期待することが出来ないだろう。共同通信記者の春名幹夫さんは、マル激トーク・オン・デマンドで日本の外交を官僚的外交だと言っていた。それは結論が先に決まっているものだそうだ。今のところは、対米追従一本槍ということだろうか。これは、判断の誤りを情報活動によって修正することが出来ない。どんどん泥沼にはまっていくだけだ。また、最初から結論が決まっていれば、やっかいな情報活動に努力することがなくなるので、日本の情報収集能力は皆無に近いらしい。やがて、誰の目にも間違いが明らかになってからしか軌道修正が利かないと言う、今の経済のような状態になってしまうのではないかという懸念を感じる。feasibility study で考えると、次のニュースがちょっと気になってきた。「航空自衛隊本隊、クウェートに向けて出発http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040122-00000955-reu-int 」以前の報道では、陸上自衛隊よりも、航空自衛隊の方が、車によるテロなどにねらわれないので安全だという議論がされていた。しかし、最近の状況を見てみると、政治的には航空自衛隊の方がねらわれる理由が充分あるのではないかと思えるようになった。陸上自衛隊の方は、水道や電気を始めとする、イラクの人々の生活に密着した施設の再建という仕事を明確にしておけば、その限りでは米英の占領軍に協力しているのではないと言うことがはっきりする。むしろイラクの人々の役に立っていると見られるかもしれない。そういう自衛隊をねらうのは、政治的判断として間違いだ。しかし、航空自衛隊が、米英のための物資の運搬をするようなことがあったら、これは明らかに占領軍に荷担していると判断されるのではないだろうか。方法的な面で航空自衛隊がねらわれる可能性が低いと見られているが、たとえ襲撃が失敗をしても、米英の協力をしていると見られているときにねらわれたら、その政治的意味はかなり大きいのではないかと思う。状況によっては航空自衛隊の方が危険なのではないかとも感じる。かつてマルクスは、存在が意識を決定するというようなことを語ったけれど、立場というものがその考え方に影響を及ぼすというのを考慮するのは、真理を求め、間違いを逃れるにはかなり有効な見方かもしれない。自分自身もどのような立場に立ってものを考えているのかを自覚し、人の意見を採り入れるときも、その人がどの立場で語っているかをよく見ないとならないと感じた。
2004.01.23
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小泉首相が施政方針演説を行い、それに対して民主党の菅代表が代表質問をした。その時に、菅さんが「むなしさを感じる」というような表現をしていたが、小泉さんの応答を聞いていると僕もそう感じる。小泉さんは、論理的に正当に答えていないのだ。聞かれたことをはぐらかし、論点のすり替えばかりしている。「「戦闘」認定判断触れず=イラク派遣、憲法に合致-首相答弁http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000959-jij-pol 」というニュースでは、この答弁の様子を伝えているが、小泉さんは、「首相は「自衛隊は非戦闘地域の要件を満たす区域で人道復興支援を行う」と反論、「問題はない」と突っぱねた。」と伝えられている。これは、今までと同じ回答ではないかと思う。問題は、非戦闘地域があり得るかどうかということに関連して、非戦闘地域があり得ないのなら、イラク特措法との整合性がどうなるかを聞きたいのだ。非戦闘地域かどうかを判断するのは、自分たちだから、「あり得ない」とは考えていないのだろうか。それだったら、はっきりとは言わないが、何をやっても自分たちの勝手だと放言しているに等しい。全く論理的だとは思えない。記事では、「戦闘行為にテロ攻撃を含むかどうかなど具体的な判断基準には触れなかった」と報道している。これも、これまでのやり方と同じだ。具体的なことには触れずに、一般論として正しい範囲内での回答しかしない。問題は、一般論を現実に適用するときに、現実がそれを適用するにふさわしい条件を持っているかどうかの判断を問いただしているのである。小泉さんの答弁は、内容のない空虚な論理と呼べるものだ。この空虚さがむなしさを呼び起こす。「正当防衛の武器使用は合憲 衆院代表質問で首相http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000206-kyodo-pol 」という記事においては、「小泉首相は自衛隊イラク派遣に関連し、正当防衛の武器使用は合憲とした上で、「自衛隊の活動は憲法違反とは思わない」と強調した。」と報告している。大事なことは、小泉さんが思うか思わないかということでなく、その判断に客観的な正当性があるかどうかということだ。「正当防衛」という概念は非常に難しいものである。たとえば相手から攻撃されたときにその攻撃が非常に強力なもので、それに対応してから反撃しようとすると反撃する前に死んでしまうという場合がある。そんな場合に、相手の攻撃前に先制攻撃をするのは正当防衛になるかどうかを考えただけでも、この回答の難しさが分かる。そして、今のイラクの現状は、このような難しいことが起こりうる状況ではないのだろうか。この問題の難しさは、判断を間違えれば米軍のような誤射が出てくるということだ。正当防衛は当然許される行為であるというのは一般論の範囲だ。しかし、その行為が正当防衛であるということが間違いなく判断されるときに通用する一般論だ。ある行為が正当防衛に当たるかどうか分からないときに、正当防衛だからということを根拠に正当化できるものではない。正しいかどうか分からない前提を根拠にした結論の正当性の主張がむなしく感じないようでは、論理的なセンスとしては問題だ。小泉さんの答弁もむなしいものだが、施政方針演説そのものも同じようにむなしさを感じるものだ。これは、反論することが難しいものになっている。それは、中身が良くできているからではなく、その反対で、中身が全く空疎で何もないから反論のしようがないのだ。これは、一言で「内容がない」と片づけてもいいようなものだ。そこに論理的な内容があれば、論理的に反論することも可能だが、反論すべき中身がないので、いかに内容が空虚であるかを説明しなければならなくなる。これはまともな反論よりも難しい。特に、イメージで小泉さんを判断している人に、論理の内容がないことを説明するのは至難の業だ。小泉さんは、まともなことを語っているところは、ほとんどすべて一般論でいえば正しいと言えることを語っているにすぎない。具体的に現状に即して、難しい問題の解決を図っているところは一つもない。耳触りのいい言葉をつなげて表現することに力を入れているだけだ。批判というのは、相手がまともな論理を使っていればそれなりの実りもあるのだが、まともな論理が通じないときは難しい。ブッシュ政権批判が難しいのもそのせいだが、アメリカはまだその周辺には論理が通じる相手がいるのでマイケル・ムーアのような巨大な影響力を持つ人間が出てくるのだろう。でも日本では大きな影響力のある批判者がなかなか出てこないな。菅さんもイメージで負けている。そんな難しい批判ではあるけれども、批判せずにはいられない。小泉さんの施政方針演説の一部を眺めてみよう。小泉さんは、(イラク復興支援とテロとの闘い)の中で、次のように語っている。「イラクに安定した民主的政権ができることは、国際社会にとっても中東にエネルギーの多くを依存する我が国にとっても極めて重要です。国際社会がテロとの闘いを続けている中で、テロに屈して、イラクをテロの温床にしてしまえば、イラクのみならず、世界にテロの脅威が広がります。イラク人によるイラク人のための政府を立ち上げて、イラク国民が希望をもって自国の再建に努力することができる環境を整備することが、国際社会の責務です。」これは、このことだけを切り離してこう言えば、きわめてまともで正しい言明だと思う。だから、これを前提にして論理的に考えれば、このことを実現するために具体的に何をするかということが問題になる。その具体的な活動が、この目的を実現するのに、本当にふさわしいかどうかが議論の中心にならなければならない。しかし、小泉さんは、このことの実現のために具体的に何をするかを少しも語っていないのではないか。小泉さんが語っているのは次のようなものばかりだ。「国家再建に向けたイラク人の努力を支援することを要請しています。」「イラクの復興に、我が国は積極的に貢献してまいります。」「資金協力と自衛隊や復興支援職員による人的貢献を、車の両輪として進めてまいります。」「真にイラクの復興にいかされるよう努めてまいります。」「世界各国が協力してイラク復興を支援するよう、今後とも外交努力を重ねるとともに、中東和平に尽力し、アラブ諸国との対話を深めます。」上で語っていることが、言葉の通りに達成されるのならまことにけっこうなのだが、どのように具体的にやってくれるのかが語られていない。言葉だけのむなしい目標なのだろうか。僕は、かつて組合のスローガンに「体罰をなくそう」というものがあったのに、その目的を達成する具体的な手だてが何も考えられていなかったのに失望したことがあるが、同じような失望感を小泉さんの言葉には感じる。いったい具体的にはどうするのだ。それが本当に目的達成のために有効なのか。それこそが議論されなければならないのに、その議論をするきっかけがどこにもない。「資金面では、当面の支援として電力、教育、水・衛生、雇用などの分野を中心に総額15億ドルの無償資金を供与するとともに、中期的な電気通信、運輸等の経済基盤の整備も含め、総額50億ドルまでの支援を実施することとしており」とか具体的なことが一部語られているように見えるところもあるが、議論するには、もっと具体的な中身が必要だ。「電力、教育、水・衛生、雇用」に対して、具体的には何をするのか。ただ、この言葉を羅列しただけでは、やはり具体性に欠けると言わざるを得ない。自衛隊の活動に対しても、「医療、給水、学校等公共施設の復旧・整備や物資の輸送などイラクの人々から評価される支援」と言うだけで、やはりその中身の具体性に欠ける。何が出来るか分からないけれど、とにかく何かをしなければならないから送るのか、という感じだ。それは、送るのがなぜ自衛隊なのかということを説明する次の言葉からも感じる。「日ごろから訓練を積み、厳しい環境においても十分に活動し、危険を回避する能力を持っている自衛隊を派遣することとしました。」本来なら、自衛隊でない・復興に必要な専門家が行った方がいいのだが、イラクの状況が戦争状態なので自衛隊が行くのだという説明に僕は聞こえる。これは、イラク特措法の前提条件を自ら・真っ向から否定することでもあるし、国際紛争の解決を武力を用いては行わないという憲法にも、明らかに違反するのではないか。日本を攻撃してくるのでもないイラクに、自衛隊が行くことの整合性は無視されている。小泉さんの言葉が、抽象的な言葉で飾られていて、そこに具体性がなかったとしても、現実の行動でその具体性を示していれば、抽象的な言葉が現実の行動にすぐ結びつくので、それは批判するものではない。「イラクに安定した民主的政権」を作るために実効的な活動をしていれば、この言葉と具体的な活動を結びつけることが出来て、むなしさを感じなくてすむ。しかし、現実にやっていることは、この言葉にふさわしい活動なのだろうか。ジャーナリストの田岡さんが「論座」で語っていたが、イラクに本当に「安定した民主的政権」を作ろうと思ったら、それはイスラム原理主義的な反米的な宗教国家にならざるを得ないと言っている。だから、現実にはちっとも民主的には見えない体制が作られようとしているんじゃないか。アメリカは、自分たちに都合が良ければ、封建的な独裁国家であるサウジアラビアでさえも容認する現実を見せている。現実がちっとも言葉通りではないのに、その言葉の中身を具体的に語らずに、抽象的な言葉で飾り立てたものを誰が信じるだろうか。小泉さんの施政方針演説は、一部を取り上げただけでもこんな感じが溢れている。全編ほとんど同じだと思う。むなしい・内容のない・空虚な言葉に満ちている。そういえば、同じ時期にブッシュ大統領も一般教書演説を行っていた。これは、その全文を見る機会がないが、一部を聞いただけでも、小泉さんと同じようなむなしい言葉の羅列のように見えた。この二人が特にこういう個性の持ち主なのか、それとも権力が腐っていけば、腐った権力の頂上にいる人間は、一般的にこんな風になるんだろうか。国会の議論は、今回もまた気持ちの悪い議論になってしまった。しかもその気持ちの悪さが国民に充分伝わっていないように感じる。イメージ的には、小泉さんに押し切られたような感じだ。残念だし、情けないと思ってしまうな。
2004.01.22
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今月号の「論座」では、「自衛隊の派遣は正しい選択か」という問題を巡って、拓大教授の森本敏さんとジャーナリストの田岡俊次さんの二人一緒のインタビューという記事が載せられている。これは、二人で対談をしているというよりも、同じ問題を巡って立場の違う二人が、その立場をある意味では鮮明に出して答えているのが面白かった。森本さんは学者だから、本来は具体的な立場を越えて、抽象的なある意味では現実を一段高い立場で眺めるというより大きな観点からの立場にいる人だ。しかし、森本さんは防衛庁出身という個別的な事情があって、現実的立場をすべて越えてはいない。どうしても防衛庁の方向に心情的に重なる部分が出てきてしまう。そういう微妙な立場からの発言が随所に見られる。田岡さんについては、非常に明確な現実主義的立場を感じる。ジャーナリストらしい第三者的な、ある意味ではドライとも感じられる発言だ。ジャーナリストはどちらの現実的な立場にも立たず、立場を離れながら、しかも現実的に事実を受け取ってそれを解釈する。学者のように、隅から隅までいろいろな関係を配慮して物事を判断するというのではない。学者の判断は、あらゆるものを考慮の中に置くので、はっきりと明言できる事柄は少なくなる。こうであるかもしれないし、ああであるかもしれない、という言い方が現実に対して話されるだろう。明確に言い切れるのは、前提が明らかで他のものを考慮の中に入れなくてもすむ場合だ。ジャーナリストの場合は、現実の複雑さの中から、何が一番重要かをその嗅覚で感じ取って、その重要な事実が確かめられたとき、その事実に従ってこうだろうという明確な見方が語られる。しかし、これはある一面からの見方であって、学者のように全面的な見方ではない。そこら辺の対比が面白いインタビューだった。まず冒頭の質問は、イラクで日本人外交官が殺害された事件について、これをどう受け止めているかというものだった。森本さんは、二人のイラクでの役割と、その存在が占める重要性というものを考えて、これは日本政府にとって非常に大きな損害になったととらえている。これは、客観的に見てもそうだろうと思うが、ORHA(米復興人道支援室)からCPA(米英の暫定占領当局)というアメリカの機関で、アメリカ支援の活動を日本政府を代表して行っていたということには、批判的には触れていない。これは、森本さんの言うことが、学者としての良心的な客観性は保っているものの、微妙な立場にいるなというのがでている感じがした。それに対して田岡さんの場合は、事実に対する引っかかりを受け止めているだけで、それ以外のことに対しては全く触れていない。一面に注目するジャーナリストの特徴がでているのではないかと思う。その一面が、事件の核心の一面である場合は、非常に鋭い指摘になると思う。次のような指摘だ。「今回の事件を巡っては、米軍の発表に矛盾が非常に多く、また車のボンネットやフロントガラスには真正面の高い位置から打たれた弾痕があり、並走中の車から射撃されたとは考えにくいなどの腑に落ちない点が多いのに、外務省はすぐに現地調査もしなかった。真剣な疑問を抱かざるを得ません。」この事実に何か隠されたものがあって、それが暴露されたら、外交官殺害事件の意味も変わってくるくらい、重要な事実の一面であるような気がする。さすがに鋭いジャーナリストの嗅覚だと思う。国連の評価にかかわる質問に伴って、イラクの現状をどうとらえるかということを田岡さんが語っている。徹底したその現実主義的な観点に僕は共感するんだけれど、ここにいろいろな要素を絡めて考えたくなると、こんな単純な見方はなかなか受け入れられないと言う人が多いかもしれない。ちょっと長いけれど引用しよう。「今回のケースに関して言えば、小泉さんは「民主的で安定した政権をイラクに作るため」と国際法違反の内政干渉を公言する。しかし、あの国で真の民主制を敷くなら、世論を反映して反イスラエル・反米的政権になる。宗派も民族も対立があるから、当然不安定になる。民主的で親米で安定した政権という3つの要素を全部満足させるのは不可能で、どれか1つを選ぶしかないでしょう。日本にとってはイラクの安定が一番大事だけれども、複雑な構成の国だから、安定のためにはクルド族など一部の国民を抑圧せざるを得ないし、反イスラエルでないと国内は治まらない。安定第一なら「フセイン2号」のような人物に協力するしかあるまい。また「テロの温床にしない」と米国はいうけれども、テロを軍事力で抑えることは不可能です。イスラエルが武力でパレスチナを抑圧したためテロが起き、ドイツ占領下のフランスでもレジスタンスが活発だった。イラクも米英の占領によってそうなった。テロの温床にしたくなければ、早く米軍が撤退し、そのあとに安定政権が出来るように各国が協力するという手しかないと思います。」実に明快な論理でわかりやすい。現実を単純に受け止めて、ある意味では様々な価値観を排して、国家としての日本の利益を考えたらこうではないかという提出をしている。小泉さんの言葉が内政干渉だとか、安定のためには民衆の抑圧もあるとか、フセインのような支配者も容認しなければならないというのは、現実的ではあるけれど、その悪宣伝の部分を知っている人は、道徳観や他に配慮すべき点があるのではないかという思いから、すんなりと賛成できない人が多いかもしれない。僕が共感するのは、田岡さんが指摘する事実の一面が、核心をつく一面だと感じるからだ。確かに、この状態がそのまま永久に続いたのでは、人間には正しく従うべき倫理もないのかということになってしまうが、無理矢理理想の方向に引っ張っていくのではなく、理想の方向が実現できるような方向で現実を受け入れるということが必要なのではないかと思う。テロを力で制圧しようというのは、理想を早急に実現するための大きな無理をしているような感じがしてならない。テロの制圧が必要でないと言うことではなく、他の方法の方がふさわしいのではないかという感じだ。森本さんは、学者らしく、この田岡さんの現実主義に対して、もしも田岡さんの言う「安定」した「フセイン2号」のような国が出来ても、それはとても安定したとは言えないという反論をしていた。一面ではなく、全面を見据えて考える学者としては当然の結論だろうと思う。しかし、理想をそのまま実現しようとして力を使うのは、現実にはやはり無力な感じがする。理想実現のための条件を整えるにはどうしたらいいかを提出しなければならないだろう。このあとにも記事はもう少し続くのだが、それはまた後日紹介しよう。なかなか面白いと思った。さて、今日の注目ニュースは、まず次のものだ。「米軍がアフガンの村を攻撃、子供含む11人が死亡=州知事http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040120-00000645-reu-int 」この記事では、「カブールの米軍報道官は、攻撃の事実を把握していない」と語っているそうだ。まだ発表はないのだなと思う。本当に事実を把握していないのか、それともつかんだ事実が発表できないものなのか、ちょっと疑いを持ちながら続報を眺めている。これは、事実の一つにしかすぎないけれど、アメリカ軍というものを象徴する核心をつく事実になりそうな気がする。「イラク市民の死者1万人に 調査団体が独自集計http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040120-00000127-kyodo-int 」この記事では、「昨年来のイラク戦争で直接、間接的に死亡したイラクの民間人が1万人近くに上っていることが20日までの英米系調査グループのまとめで明らかになった。同戦争で500人余りに達した米兵死者を圧倒的に上回り、戦争が市民に多大な犠牲を強いていることを浮き彫りにした。」と報告している。このことに憤りを感じるか、それとも目的遂行のためにはやむを得ない犠牲だったととらえるか、どちらの考えで受け止めるかで、自分の立場というものが見えてくるかもしれない。僕は、民間人の死は、すべて理不尽な死のように感じる。兵士の死だって、大義名分がないのなら理不尽な死だけれど、民間人の死は、大義名分があってさえも理不尽な死だと思う。「イラクの反応冷淡と報道 先遣隊到着で新華社http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000014-kyodo-int 」という記事を見ると、事実も他の方向から見ると、全く正反対の見方も出来るんだなと改めて気づく。僕は、イラクの多くの人が、基本的には日本が来ることを歓迎しているので、たとえ自衛隊という軍隊であっても、それが日本から来るということの方が大きいものであって、そのために歓迎されているという風に受け取っている。つまり、軍隊としての自衛隊が歓迎されているのではなく、日本から来たということが歓迎されているのだと思う。軍隊という面を重視してイラクの人々に聞けば、冷淡な見方をする人も出てくるだろう。この記事は、そういう面で事実を伝えているが、あまり核心をついた事実のようには見えない。むしろ、中国が、その立場からするとこういう見方をしたいということが記事になったという気がする。中国の立場が絡んだ報道なのだろう。日本の軍隊があまり歓迎されては困るという立場が中国にはあるのではないだろうか。軍隊でない面が歓迎されているのだととらえれば、中国の立場とは対立しないんだろうと思うけれど。「水や電気復旧で援助を=会談で地元州知事ら-先遣隊、宿営予定地視察・イラクhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040121-00000796-jij-int 」この記事で、「知事側からは水の供給や電気、通信関連施設の復旧などの分野で、自衛隊の援助を求める声が上がった」と語られているように、日本の自衛隊の活動が、このような方向でのみ進んでくれれば、自衛隊は平和的な活動を成功させられるのではないかと思う。間違っても、占領政策の片棒を担ぐような政策のミスがないように見守っていきたいと思う。
2004.01.21
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「論座」という雑誌を買ってみた。綿井健陽さんというジャーナリストのイラクからの報告を読みたいと思ったからだ。ジャーナリストというのは事実を報告する人間だ。その解釈は出来る限り表現しないようにする。解釈は読者の判断にゆだねるのがジャーナリストの基本姿勢だ。ジャーナリストの解釈は、どの事実を選ぶかという選択の中に込められている。その事実を受け取った読者が、ジャーナリストが感じた解釈と同じものを感じたとき、その報告は優れたものになるだろう。綿井さんはジャーナリストとして信頼できる人間だと、以前のイラクのレポートを見て僕は感じた。事実の確認を怠らず、ねつ造に関するたぐいのものは決して行わないと言う、ジャーナリストとしての最低限のモラルはもちろんクリアしている。それに加えて、その選択した事実を見て、選択の仕方にジャーナリストとしての感性の優れた面を感じるのだ。ジャーナリストは学者と違って、大局的な観点から、全体を評価して部分を位置づけるというようなダイナミックな解釈はしない。自分が確かめた、確かに事実だと思えることを報告するだけだ。それは、彼のすぐ近くの、もしかしたら特殊な事実かもしれない。全体を調べてその中から報告するわけではないからだ。しかし、彼のジャーナリストとしての嗅覚は、どこに行けばイラクの現状を象徴的に表してくれる事実に遭遇するかを判断する。そのセンスを信じて、彼の報告がイラクの現状を象徴的に表していると受け取って僕は解釈をしたい。彼は最初に、イラクでの電気と水の事情がどのようにダメなのかを具体的に報告している。他のニュースでは、ダメだと言うことはたくさん知らされているのに、どのようにダメなのかと言うことは聞いたことがない。彼が言うには、「電気供給の大本よりも、末端部分の変電設備や配電部分が老朽化しているところが多い」そうだ。電気が止まると、水を吸い上げているポンプが止まるので水道もダメになるそうだ。老朽化しているというのは、戦争によってダメにされたのではなく、フセイン体制の時からそういう状態が続いていたことを予想させるという。フセイン政権下では、水道局に賄賂を使うと優先的に工事をしてくれたそうで、金持ちは優遇されていたらしい。今はその賄賂が高くなったので、金持ちも困っているそうだ。貧しい人間は、昔から捨てられていて、フセインがいなくなってもそれが変わっていない。この貧しい人々が、少しも変わらない生活に絶望し、恨みをためていっても不思議じゃない。逆に言えば、日本の自衛隊が、豊富な物資をもっていって、末端の電気や水道の設備を改善するような活動をし、しかもその活動において現地の人に技術を伝達して働けるようにしたら、民衆の支持が集まらない方がおかしいと言えるだろう。自衛隊が復興支援をするというのなら、この報告からその方向が見えてくる。この報告は、綿井さんの近くのことを語っているのだろうが、なぜ困っているかと言うことが具体的によく分かる報告だ。だから、おそらくこれはごく一部の出来事ではなく、大多数のイラクの人々が抱いている困難を代表しているのだろうと受け取ることができると思う。貴重な事実の報告だと思う。テレビのニュースで話題になった「自衛隊歓迎」横断幕の真相については、次のような事実を報告している。「その横断幕の脇にある宝石店を経営するアマル・モハセムさん(41)が、11月上旬に作ったものだ。「ここに書いてある文字は、私だけの思いではありません。サマワ市民みんなの思いです。私たちは日本人を歓迎しています。一緒にこの町を再建したいという思いを表しました。でも、日本語の部分はここに取材に来た日本人のジャーナリストに頼んで書いてもらいました」という。彼が作ったその横断幕の一つには、日本語の部分に「自衛隊」の文字が入っていた。「ようこそ自衛隊の皆様」と書かれているのだが、その上のアラビア語部分には、「自衛隊」や「軍隊」の文字はない。実際には「ようこそサマワへ日本人の皆様」と書いてある。」サマワの市民は、日本人が来るのを歓迎していたけれど、「自衛隊が来る」のを歓迎していたのではない。「ようこそ自衛隊の皆様」というのは、サマワの市民の思いではなかったのだ。日本のテレビでは、この横断幕が、「現地の人は自衛隊を歓迎している」と言うことを表すものとして利用された。この横断幕の日本語が書かれた背景の事実としては次のように報告している。「別の日本人記者の目撃証言では、「11月9日にサマワを訪れたとき、何も書かれていない横断幕の日本語部分を書いたE氏は、「通訳が訳した「ジャパニーズ・アーミー(日本軍)」という英語を、日本語で「自衛隊」に訳して、ボールペンで横断幕に下書きをした」と、民放テレビ局のニュース番組で弁明している。しかしその通訳は、「彼には「ジャパニーズ・ピープル(日本人)」と訳した」と後に説明して、食い違いがある。また、そのE氏が自分で撮影した横断幕の映像は番組製作会社を通じてその映像がなんの注釈や説明もなくニュースで流されてきた。」この事実を知っていたら、あのニュース映像の見方は全く違ったものになる。むしろ、「自衛隊」という言葉がなかったにもかかわらず、なぜ日本語としてはそれを付け加えたのかという疑問の方が大きくなる。弁明が食い違うというのもますます疑問を大きくする。綿井さんはさすがにジャーナリストだから、この疑問をどう解釈するかは書いていない。しかし、この事実を受け取った人は、ジャーナリストのE氏がテレビ局の意向を受け取って、ニュースとしての価値を大きくするために「自衛隊」の文字を付け加えたのではないかと解釈したくなるのではないだろうか。「ようこそ日本人の皆様」よりも「ようこそ自衛隊の皆様」の方が、断然売れるニュースになるだろう。これは、ねつ造に近いニュース作りで、これを行った人間のジャーナリストとしての意識を疑わざるを得ない。綿井さんは、最後に日本人外交官殺害事件にふれて、ここでは事実ではなく、自らの意見を表明している。これは、ジャーナリストとしてはルール違反かなという面も感じるんだけれど、下の言葉には深い共感を覚える。ジャーナリストでも、事実と思いとをはっきり区別して、それが自分の思いであることをはっきりさせておけば、時には自らの考えを表明してもいいのかなとも思う。僕が共感したのは、次のものだ。「「武力行使はしない」「戦争に行くのではない」と繰り返す小泉首相の説明に対して、私は次のように反論したい。「こちらが武力行使を望んでいなくても、銃を持った兵士は時に武力行使をせざるを得ない状況に直面することがある」「戦争はこちらから仕掛けなくても、すでに戦地になっている地域では、兵士も現地の市民も否応なく巻き込まれていく」自衛隊が行う「人道復興支援活動」以前に、現地のニーズに合わせる矛盾を背負った軍隊というその存在自体が、自衛隊員も現地の住民への「武力行使」や「戦争」の要素を十分に含んでいる。」今朝のテレビでニュース解説をしていた人が、自衛隊がイラクへ行くことになった以上、神学論争のように言葉の概念をもてあそぶ不毛な憲法論議をすることなく、自衛隊の安全確保という面で議論して欲しいと、これからの国会での議論を解説していた。これは、余りよく考えないで受け取ると、もっともだと感じてしまうかもしれないが、イラクへの自衛隊派遣を、単なる事実として受け取って、それが正しいかどうかを考えずに、これからの事実を考えろと言うことに等しくなる。そもそも前提であるイラクへの自衛隊派遣が間違っているものならば、そのあとに何をしても、間違いの上に打ち立てられた議論になってしまい、それは全く信用できない議論になる。そもそもの前提をすっ飛ばしてしまい、今の問題だけに対応しようと言うのは、ある種の論点のすり替えである。そもそもの前提を論じることが出来ないので、目をそらすために論点をすり替えているように感じる。野党民主党は、神学論争などという言葉におびえずに、まっとうな論理を国会で展開して欲しい。ニュースの中でちょっと目にとまったのは次のものだ。「米政権、一般教書演説控え「健全な結婚」支持をあらためて示すhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000602-reu-int 」これを読んで、自由と民主主義の国であるアメリカが、結婚という制度に関しては、それを個人の自由だとは考えていないのかと言うことに驚いた。結婚を神聖なものだと見る考え方は、宗教的なものではないかと感じる。政教分離が行われていないなんて、とても民主主義国家だとは思えない。アメリカの政治は、キリスト教原理主義に乗っ取られてしまったのだろうか。「国連の役割めぐり3者協議 米、間接選挙支援要請かhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000155-kyodo-int 」この記事を読んで危惧するのは、国連がアメリカの意向をくんで動いたりしないかという心配だ。国連の価値は、その中立性にあるのであって、アメリカの傀儡のように動くのであれば、もはや国連として機能することは出来ないだろう。アメリカの手先としての国連では、反米勢力も信用することはないだろうから、政治的な力もなくなってしまう。どのような結論が出るか分からないが、形の上での中立は最低限守って欲しいと思う。「米空爆で市民11人死亡 アフガン南部http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000240-kyodo-int 」「米軍ヘリの爆撃で子供含む11人死亡…アフガンhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000012-yom-int 」「<アフガン>米軍ヘリが南部の村を爆撃 市民11人死亡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040120-00000112-mai-int 」「<アフガン>米軍ヘリが南部の村を爆撃 市民11人死亡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040120-00002112-mai-int 」これらのニュースはいずれも同じことを伝えているのだが、アメリカ当局の発表は書かれていない。市民が殺されたことは、ほぼ間違いないと思われるのだが、どうしてそういう事態が起きたのか、アメリカからの発表はない。最新の続報では、わずかに次のような予想がされているくらいだ。「米軍空爆で住民11人死亡=誤爆の可能性も-アフガンhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040120-00000627-jij-int 」誤爆であるという発表は、アメリカは出来ないのだろうか。この報道の続報で、発表が正式に出るかどうかに注目していきたい。もし発表が行われなかったら、そこにはいろいろな憶測が飛び交うことだろう。発表されることを望むが、発表されなかったら、真相を突き止めるジャーナリストの登場を待つだけだ。
2004.01.20
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今日最初の注目ニュースは次のものだ。「シリア、大量破壊兵器放棄求めた米国務長官に反発http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040118-00000515-reu-int 」ここで行われているシリアの反論は、わかりやすくしかも論理的にもっともだと思われるもので、次のように報道されている。「これに対し、シリア国営ラジオは解説で、イスラエルが100発以上を保有している核兵器など、さまざまな大量破壊兵器を中東から廃絶するため、国連安全保障理事会に提出したシリア案を阻止したのは米国であると指摘。イスラエルに大量破壊兵器プログラム放棄や査察受け入れ、軍縮関連条約への署名を求めない米政府の姿勢をただした。」これに対してアメリカが論理的に反論するのは難しいだろうと思う。事実の指摘をしているからだ。これは事実であるから、それがなかったという反論が出来ない。そうすると、この事実が「大量破壊兵器放棄」を求めるアメリカの姿勢とどう整合性を取るかというのを論理的に説明しなければならない。シリアとイスラエルとを、なぜ違う態度を取るのか。ダブル・スタンダードの正当性はどこにあるのか。身内意識のえこひいきだなんていうのは、全く論理的な説明にはなっていないから出来ない。果たしてアメリカは、このシリアの論理に反論が出来るのだろうか。続報が出ることに注目しておこう。「乗客情報、米航空会社がNASAに流す…同時テロ直後http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040118-00000011-yom-int 」このニュースが気にかかるのは、プライバシーというものをどう考えるかということにかかわってくると思う。テロ対策という重大な場面では、プライバシーが侵害されるようなことがあってもやむを得ないと受け止めるのか、テロ対策よりもプライバシーを守るという重さの方が大きいと受け止めるのかという問題だ。自分には秘密にすることなんかないから大丈夫だと思っている人がいるかもしれない。それよりも危険人物を早期に発見できた方が利益だと考えるかもしれない。しかし、当局の意志によっていつでもプライバシーをのぞき見できるという制度の危険性をもう少し考えなければならないのではないか。住基ネットの問題でも、その情報の集中に対して、将来の徴兵制につながると危惧している人がいた。国民の情報を一元管理しておけば、危険思想の持ち主についても事前にチェックしておけるし、思想統制に利用される恐れもある。たたけばほこりが出ない人間なんてのはいないといわれている。だから、目をつけられた人が、プライバシーにかかわる情報を集められたらいくらでも弾圧が出来るようになる。今は被害を受けなくても、将来的に自由を脅かされる恐れがかなりあることになる。この感覚を国民がどのくらい持つかが、この問題の解決の方向にかかわってくるだろう。記事では、「米国では昨年9月、格安運賃のジェットブルー航空が、同様の理由で国防総省の契約業者に約110万人分の乗客情報を提供したことが明らかになり、乗客らの集団訴訟に発展した。」とも報道されている。アメリカ人は、自由に対する感覚がまだ鈍っていないのだなと感じるところだ。「<イラク>米英占領当局前で自動車爆発 テロか 20人死亡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000030-mai-int 」この報道に関しては、何が起きたかは知らせてくれたけれど、なぜ起こったのだろうということが全く分からないという感じだ。テロであれば、何らかの政治的意図があって、どういう理由で行ったかという犯行声明がなければならないんじゃないかと思うんだけれど、このところのイラクで起こるこのような事件については、全く犯行声明が報道されず、なぜこのようなことをしているのかが分からない。死んだ人のほとんどがイラク人だったというのは、民衆の支持を失うことにならないだろうか。テロリストであれば、そこら辺のことを考えて行うような気がするんだけれど、彼らはそこを考えることが出来ないほど自暴自棄になってしまったのだろうか。テロリストにとって、敵の範疇に入る民間人であれば、それをねらうということも考えられるだろうが、同じイラク人でも、占領当局に協力する人間は敵なのだろうか。それであればちゃんとした声明が出てもいいと思うんだけれど、それもない。たとえ占領当局への協力に見えようとも、仕事のないイラクでは、それをするしかないということもあるだろう。そこら辺の配慮が出来なければ、テロリストの側は政治的に敗北するのではないかという感じがする。この事件に関しては、記事では次のように解釈している。「ゾーン内にはこれまで数回、迫撃砲が撃ち込まれたことがあった。しかし、この日の自爆テロは、車を使って本部まで可能な限り接近し、爆弾を爆発させるという直接的な攻撃であり、フセイン元大統領が拘束された後も依然、反米武装勢力の活動が衰えていないことを見せつけた。」反米勢力の活動は衰えていないけれど、政治的には失敗ではないのだろうか。政治的な問題でいえば、いよいよ日本の自衛隊がイラクの地に一歩を踏み入れるときが来たようだから、これを考えてみたい。「陸自先遣隊きょうサマワ入り 車に分乗、国境越え、日程早めるhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000009-kyodo-int 」アルカイダの宣言では、イラクへの自衛隊の一歩が記されたときが日本への攻撃の時だったように記憶している。これが、機械的・物理的なものであれば、今日の一歩がそれに当たるだろうが、政治的な意味を考えれば、今日の一歩はまだなのではないかという感じがする。今日の一歩に機械的に反応したら、政治的判断としては間違いではないだろうか。イラクでの自衛隊の活動がどうなるかはまだ混沌として不透明だ。サマワの地では自衛隊への期待にふくらんでいて、反米感情に直接結びつくものが自衛隊には必ずしもない。もしかしたらいい結果をもたらしてくれるかもしれない。このような状況の時に、機械的に自衛隊を攻撃したり、日本を標的にした攻撃をしたりすれば、政治的には逆効果を生みかねない。サマワの人の期待を壊したということを感じる人も出てくるだろう。政治的な効果を考えれば、サマワでの自衛隊の評価がある程度固まったあとに、行動を起こすかどうかを判断すべきだろう。それが、期待を裏切るようなアメリカへの協力であり、アメリカの占領の一翼を担うものにすぎないということが明らかになれば、攻撃することの政治的意味は大きいものになる。しかし、サマワの人の期待に応えるような、平和的な活動であると評価されたら、攻撃することは逆に政治的には間違いになる。この場合は、高く評価されるという結果が出たら、決して攻撃の標的にはしないという判断が、アメリカのやり方をよりいっそう批判することにつながってくるだろう。政治的な判断を考えれば、テロリストの攻撃は、自衛隊の活動の評価がある程度決まってからと予想するのだが、テロリストがこのように政治的に判断してくれるだろうか。最近の攻撃がテロリストの攻撃だとすると、政治的なものにあまり期待できないような感じもするので心配だ。とりあえず、自衛隊にはサマワの人々の期待に応えるよう最大限の努力をして欲しいと思う。それが、きっと国民にとっての最大の利益につながると思うからだ。最後に気になったのは次のニュースだ。「イスラエル大使が作品破壊 自爆テロ犯の肖像に激怒http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040119-00000013-kyodo-int 」これは、芸術のもっている様々の面を考えさせてくれる事件だと思う。芸術は、人間の感性に訴えかけて、理性よりも直接感情が反応するという面がある。それをどう受け止めるかは、解釈の問題になるので、ある意味では自分はどの立場でこの事件を見るかという問題を提起しているのではないかと感じる。この作品は、写真などがないので直接それを見て芸術として感じることが出来ないが、表現されていることは、自爆テロというものを単純に賛成したり反対したりしているのではないと思う。そこに込められている、人間の悲しみというか、そのような行為にならざるを得ない憤りや矛盾というものを、象徴的に表すものとして自爆テロが選ばれているという感じがする。イスラエルの大使は、そこにイスラエル批判を見て、反ユダヤ主義が広がるという恐れと怒りを抱いたのだろう。論理的な反応ではなく、感情的な反応を引き起こしたという面では、この芸術が優れているということを表しているのかなと思ったりもする。それをぜひ見てみたいものだ。それを見て、どのような感情がわいてくるものか、味わってみたいと思う。イスラエルとパレスチナの関係やテロという個別の状況を越えて、人間としての根元の感情がわいてくるようなら、きっと優れた芸術に違いないと思う。
2004.01.19
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今日ニュースを見たら、痛ましいものが目に入ってきた。次のニュースだ。「<自殺>サッカーゴール転倒死事故の中学校長 静岡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040118-00001013-mai-soci 」「清水6中校長が首つり自殺 ゴール下敷き事故を苦に?http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040118-00000040-kyodo-soci 」これは、その前のニュース「サッカーゴールの下敷きに 頭を打ち中3男子死亡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040113-00000162-kyodo-soci 」で報道された事故の責任を一人で背負ったことによる自殺なのではないかと思う。この事故は、報道によれば生徒が遊んでいるときに起こったもので、部活動の指導などをしているときではなかったようだ。目の届かないところで起きた事故であり、不可抗力というよりは、安全義務を怠っていた(風などで倒れないような措置をしていなかった)ことによる責任を問われる事故だったように感じる。これは、責任を明らかにして、二度と同じ事故が起きないようにしなければならない。しかし、それはこの校長個人の責任を追及するということではないと思う。校長個人が一人で責任を背負ってはいけないのだと思う。それは次のニュースを見るとそう感じる。「静岡・サッカーゴール事故 清水六中で全校集会--改めて転倒防止策要請 /静岡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000003-mai-l22 」この中では、次のように報道している。「事故を受けて、静岡市教委は13日に市立の幼稚園、小中学校、高校に転倒防止を徹底するよう通知を出した。また、市内の小中学校126校を対象に「体育器具転倒防止対策調査」を実施し、サッカーゴールやその他の移動式器具に転倒対策を取っているかなどを尋ねた。小学校では80%が転倒防止策を実施し、まったくしていないのは約15%だった。中学校では措置をしていない学校が51%と半数を超え、実施している44%を上回った。」この記事は、事故は十分予想できたにもかかわらず、その対策を取っていなかったことを教えている。この、対策を取っていなかったということを放置していたことにこそ一番の責任があるといわなければならない。事故が起きないと本気で対策を講じないという体質にこそ反省すべき最大のものがある。この校長にも、対策を取っていなかったという面で責任があることは確かだが、起こった事故の責任をすべて背負うのは間違いだ。そこですべてを背負ってしまったら、本当に責任があるところの改善が見過ごされてしまう恐れがある。背負いきれない、背負ってはいけない責任を背負って自殺したという面に、僕はとても痛ましいものを感じる。学校において生徒の安全を確保するのはもっとも大事なことだ。他の予算を削ってでも、安全確保のために予算をつぎ込むべきだろう。この事故そのものも痛ましいが、この事故を教訓にして、本当の責任を自覚して、二度と事故が起こらないように配慮する方向へ行って欲しいと思う。イラク関係の記事では次のものが目についた。「オランダ軍への憤り拡大 雇用問題でサマワ紙編集長http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040117-00000106-kyodo-int 」この記事では次のように語っている。「また日本政府が警察車両620台分の資金拠出を決めたことについては「イラクの人々と協力しようという日本政府の意欲の証拠」と言明。オランダ軍への失望が広がる一方で、自衛隊駐留による雇用問題の解決に期待が高まっていることを強調した。」これは大いなる誤解ではあるのだけれど、とてもいい方向での誤解だと思う。自衛隊は、完結型の行動をして、あまり雇用には効果がないということを言い訳する方向を考えているようだけれど、この期待を逆手にとって、自衛隊が大規模に現地の人を雇用して土木工事を行ったらどうなのだろうか。そのために技術者が必要なら、特別に自衛隊と一緒に行動できるようにしたらどうだろう。どうせ期待が大きいなら、この期待に応えるようにやり方を変えてしまったらどうだろう。そうすれば、日本国内で自衛隊派遣に反対していた人たちも、賛成に回る可能性があるし、小泉さんが言っていた復興支援が実現することにもなるのではないだろうか。期待に応えた自衛隊は、決して侵略のための軍隊になることが出来なくなるだろうから、自衛隊の本来の役割というものも前例が出来て、平和の方向へ行く可能性だってある。でも、こんなのは夢物語なのかな。期待に応えて欲しいけれど、今までの硬直した日本の官僚的やり方だと、臨機応変に動くのは難しいだろうか。イラクの人々の期待を裏切ったら、自衛隊派遣反対の人々が心配している結果が生まれそうな気がする。そんなことを感じた記事だった。昨日は姜尚中さんの本をいくつか購入した。「反ナショナリズム」「ナショナリズム」「東北アジア共同の家をめざした」「イラクから北朝鮮へ--「妄想」の戦争」「ナショナリズムの克服」の5冊だ。最近は、姜さんの文章に引きつけられている。姜さんは、朝生のディベート的な議論でも、反対者に対して説得的な議論を展開し、詭弁や強弁という声の大きさで相手の口を封じようというような議論に屈しないという面で、とても信頼に値する人だと思った。朝生では、数少ないまっとうな議論が出来る人だと思う。朝鮮民主主義人民共和国の問題に関しては、最新のマル激トーク・オン・デマンドでも取り上げていたが、姜さんの本を読んで、これからもっと深く考えられたらと思う。
2004.01.18
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今日、目にとまったニュースは次のものだった。「<成人式>川崎市の式典批判の男性が謝罪 川崎市の成人式問題で、演台に土足で上がり式典を批判した男性が同市に謝罪していたことが16日、分かった。男性は14日午前、市長に対する始末書を持参して市役所を訪れ、担当職員に「演台に上がったことは深く反省しているが、自分の思いは間違っていないと思う」と伝えた。阿部孝夫市長は受け取りを拒否したという。(毎日新聞)[1月16日20時44分更新]http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040117-00002066-mai-soci 」この男性は、暴れて式を滅茶苦茶にしたわけではない。以前の報道を見る限りでは、演台に土足で上がったのを非難されたという風に言われている。だから、彼はその点について謝罪した。この意味を深く考えてみたい。彼の成人式批判の内容は、成人式が、議員の挨拶の場になっていて、選挙のための宣伝の意識の方が強く、成人を祝うという趣旨が感じられないということに対する批判だったように思う。内容のない挨拶ばかりで、成人の心に言葉が届いていないということから、そのような批判を抱いたのだろう。これは、僕はとてもまっとうな批判のように感じる。彼は、ただ目立ちたいために行動を起こしたのではなく、演台に上がったのも、気持ちが高ぶり興奮してしまったせいではないだろうか。だから、後で冷静に考えて反省したら、その点を謝罪しなければならないと感じたのだろう。彼が謝罪したことで、彼の行動のすべてが悪かったと見られるのは間違いだと思う。その点、この報道では、彼は演台に上がった点での謝罪をしていて、主張そのものは間違っていなかったと思っているようなので、これは良かったと思う。だいたい、式典と呼ばれるものは、ほとんどがエライ人のハレ舞台として用意されているだけのものが多い。エライ人がエラサを宣伝する場として利用されている。これに対して、舞台の背景として利用される側が、違うんじゃないかという声をあげるのは当然だと思う。この報道で一つ気がかりなのは、市長がなぜ受け取りを拒否したかということだ。発表がなければ、発表したくない内容なのかという憶測を生むだけなのではないか。一つの憶測を考えると、反省は歓迎するが、批判は受け取りたくないということなのかとも考えられる。しかし、そうであれば受け取り拒否は間違いだろう。批判には反批判で答えるべきだと思う。受け取り拒否ということはまっとうな態度には見えない。彼のやったことは秩序を乱すことだから、保守的な人間にとっては、成人式で暴れる行為と同じようなものに見えるかもしれない。批判の内容にかかわらず、秩序を乱したということで怒りを覚えているのかもしれない。しかし、批判を正当に受け取らず、秩序を乱したということですべてを否定しようとするのは、同じことをまた繰り返すということになるだろう。ここには、共同体主義の弊害が表れているように僕は感じる。共同体主義というのは、ある種の仲間意識を持った共同体では、証明なしに・無条件に信じられている真理というのがあって、それは疑問を持つなどということでさえ許されないことだとされる考えだ。それに疑問を持つことは、共同体としてのまとまりや一体感を破壊する最悪の行為ということになる。共同体主義は、その成員がすべて身内意識に囲まれていて、幻想を信じていることが利益だという人に限られていれば、その弊害は出にくい。しかし、身内だけでなく、異質な人間との接触が必要になった近代以後では、お互いに納得しあえる論理によって妥協しあうことが必要になる。頭から拒否するという態度は、時代遅れの間違いだ。共同体主義は、価値観の転倒ももたらす。たとえば、夫婦別姓の実現が叫ばれて久しいが、保守的な層では、これに強硬に反対している。これが現実的にどんな弊害を生むかということに対しては、確かなことは誰にも言えない。むしろ、希望する人でさえも、その希望を制限されることに、権利の侵害を見るのは僕だけだろうか。希望しない人にまで夫婦別姓を押しつけるのではない。希望する人がそうできるようにしようという考えだ。反対する人は、希望する人も出来ないようにしようとしている。しかもその反対論は、全く納得できないようなものだ。一つの反対論は、夫婦の安定を壊し、ひいては家族の安定を壊すというものだ。別姓にすると離婚がしやすくなるという人もいる。これは、共同体主義による価値観を条件抜きに肯定しているように僕には見える。離婚がしやすくなるとなぜ困るんだろうか。離婚がしにくくて不幸になる人も大勢いるんだから、それは条件次第であって、一般論として離婚がしやすくなると困るということではないだろう。共同体主義に毒されていると、論証抜きに認めなければならないことが基礎にあるから、論点のすり替えが行われて、直接反論できないことを別のもので反対するというやり方も出てくる。成人式批判に対して直接反論できないときに、それは土足で演台に上がったことの問題だけにしてしまおうとするやり方だ。我々が論証抜きに認めてしまいがちな事柄をもっているときは、そのことに論点をすり替えようとするような言葉遣いには気をつけなければならない。今までも多くの問題でそのようなことが行われてきた。大きな事件で思い出すのは、「沖縄密約事件」だ。これは次のページで詳しいことを知ることが出来る。http://www.jca.apc.org/mai-u/120.html ここでは、沖縄返還交渉での密約という、国民への背信行為である事実を報道するという、いわば国民の利益としてこの報道がどうであるかという問題が、情報入手の方法としての男女関係に矮小化されてしまった。本来の論理の問題に目がいかず、末梢的な問題の方へ論点をすり替えられてしまった。これは、当時の日本社会が、やはりまだ共同体主義の弊害の中にあって、公的な観点が民衆の側に欠けていたからだろうという感じがする。教育の現場でも同じような論点のすり替えを感じるような問題はたくさんある。服装の乱れは生活の乱れになり、非行の第一歩だという信念が教師の側にはある。これは、証明抜きに信じられていることで、一つの共同体意識と呼んでもいいだろう。だから、ばかげているとしか思えないような服装の規定である校則があったりする。しかし、事実をよく見てみると、服装の乱れが非行につながるのではなく、非行という事実があれば必然的に服装にもそれが表れて乱れているように見えるというのが、論理的には自然なのではないだろうか。非行の原因は多様で、その本当の原因に対して対処しない限り非行というものを防ぐことが出来ないのではないか。単に服装を注意しているだけで非行が防げるものではない。服装に注意をするというのはやり安い方法で、何かをしているという風に見えるので、いわばアリバイ作りとしてやられているのかもしれない。これだけ指導しているのにもかかわらず、非行が起きてしまったら、指導している教員の責任ではないというアリバイ作りだ。しかし、実際には、服装などというきわめて個人的な嗜好にかかわる部分でさえ規制されるという、いわば人権を抑圧されているような状況が、かえって非行化に拍車をかけるということもあるのではないかと、逆効果を生んでいるとも思える。服装の乱れは、秩序を乱しているように見える。しかも、それを校則で禁止したりして、その校則を破ったりすれば、それは共同体主義に対する挑戦でもあると見られる。共同体主義としては、許し難い行為になるだろう。共同体主義に毒されている学校ほど、このような校則には厳しくなるのではないかと思われる。非行の原因を服装の乱れに還元するのは論点のすり替えではあるけれども、共同体主義にとっては、もっとも大事な証明抜きに承認する価値観を守るという点では、論理的には理解できる行為かもしれない。論理的に理解できるというのは、それが納得できるとか、賛成できるとかいうことではない。因果的に、何が原因でそのような行動が起きているかが理解できるというような意味だ。自分ではそのようにはしないけれど、そのように行動する人間の心理は、こう考えると理解できるだろうというような感じだ。さてイラク関係で気になるニュースは次のものだ。「陸自先遣隊、クウェート到着へ=米軍キャンプに宿営-週明けにもイラク入りhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040117-00000188-jij-int 」もはや、イラクへの自衛隊派遣は、派遣そのものを止めることは出来ない状況に来ている。そうすると、いつかイラクの地へ自衛隊がその第一歩を踏み入れるときが来るのだが、それはいったいいつになるかが気になるところだ。アルカイダは、イラクの地に自衛隊が一歩を踏み込んだときが、日本への攻撃の時だと宣言していた。アルカイダは、その時をいつだと認識するだろうか。先遣隊が行ったときなのか、それとも本体が足を踏み入れたときなのか。それに注目していきたい。「イラクで数万人規模デモ、「暫定議会」直接選挙求めるhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040116-00000102-yom-int 」この記事に注目したいのは、民主主義というものを原則的にとらえれば、直接選挙の方こそが民主主義にふさわしいだろうと思うからだ。建前として、イラクに民主主義を実現すると言っているアメリカが、なぜ直接選挙に反対するのか。この報道ではその理由が分からない。民主主義にも様々の弊害はある。だから、どんな理由で直接選挙がだめなのかが論理的に納得できるものであれば、それに反対するのも、アメリカの欺瞞だけだとは言えないだろう。直接選挙が、衆愚政治につながるということが納得できれば、それは時期尚早だということも分かる。遅れた民衆は、進んだ指導者に導かれなければならないというわけだ。でも、この図式は、もしかしたら崩壊した社会主義国家と同じ図式じゃないのかな。アメリカは、イラクに昔の社会主義国家のような体制を作りたいのだろうか。本当は、サウジアラビアのような傀儡の独裁国家を作りたいんだろうと僕は思っているんだけれど、果たして直接選挙が行われるようになるだろうか。注目していきたい。
2004.01.17
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ダブル・スタンダード(二重基準)という言葉は、アメリカがイラクに対する大量破壊兵器の問題を言い立てて戦争を始めた頃に盛んに語られるようになった。大量破壊兵器の問題は、それが一般市民を無差別に攻撃するようなテロリストに渡った場合の危険性を考えると、そのようなケースのみを独立して取り上げれば、非難に値することだということはよく分かる。しかし大量破壊兵器の危険性は、テロリストに渡る場合だけではなく、それを保有している国家が一般市民の犠牲を含んだ攻撃を平然と行う場合には、さらに非人道性が増すことに注目しなければならない。イスラエルがパレスチナ人に行う報復攻撃は、明らかに戦争における戦闘員同士の戦いとは違う。巻き添えになる市民の犠牲の方が多くなるくらいの非人道的なやり方だ。市民が犠牲になるという点では同じなのだから、両者を差別することなく非難すべきだ。これを、イラクの大量破壊兵器は非難するけれど、イスラエルやアメリカの大量破壊兵器は非難しないとすれば、基準が違うという差別ではないか。これがダブル・スタンダードを不当とする批判だった。アメリカのイラク攻撃に関しては、巻き添えになった市民の数は正確なところは分からないが、数千人と言われている。しかも、アメリカが使った兵器は、市民が巻き添えで大量に死ぬことが予想されている「大量破壊兵器」だった。一方で相手の大量破壊兵器のことを言い立てながら、自分の側の大量破壊兵器の使用に対しては何ら言及することがないというのは、ダブル・スタンダードの最たるものだろう。ダブル・スタンダードの問題は、論理の使い方の間違いとして問題がある。論理というのは、それが普遍的に差別なく適用できるところに客観性の基準がある。ある対象には使いながら、別の対象には使わないという論理は、客観性を持つことが出来ない。なぜそういう差別をするかに正当性がない限り、信用できない論理になると言うわけだ。だから、イラクがもっているとされた大量破壊兵器の問題が、それのみを独立に考察するなら正当性を持つにもかかわらず、ダブル・スタンダードで考察するなら、その正当性が全く信用できないものになってしまうのだ。イラクの大量破壊兵器については、それがそもそも存在していて脅威を与えていたということが事実として疑わしくなっている。ダブル・スタンダード以前の事実の信憑性の方が怪しくなっている。イラクの大量破壊兵器の件が、全くのでっち上げだったら、イスラエルとアメリカの大量破壊兵器の方こそ、一方的に非難されなければならないものになるだろう。アメリカは、大量破壊兵器の問題が思惑通りにならなくなったときに、イラクの人権抑圧的な体制を非難し始めた。これは、一般的には独裁国家によくある監視・警察体制による民衆の弾圧によるもので、これも、これだけを取り上げれば非難に値するものだ。しかし一方、非難する当事者であるアメリカにも、次のような事実がある。「基地拘束で米政府を提訴 1000億円の賠償求めるhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000153-kyodo-int 」この記事によれば、拘束されているアフガニスタン人の扱いを、「米政府は拘束者の氏名の公開を拒否、正式な裁判手続きも適用しないまま事実上無期限の収容を続けており、内外の人権団体から強い批判を浴びている」と伝えている。これは、「訴えによると、米政府は、法的根拠もないまま同基地に原告の収容者を含む多数を拘束。家族など外部との通信も認めず、拷問に近い状態で収容しているという」という訴えが正しいのではないかと思わせるような事実だ。旧社会主義国家の監視・警察国家体制は、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダが描いた「大理石の男」や「鋼鉄の男」などで、僕はイメージしているのだが、その最大の人権侵害は、拘束されていることの理由が本人にさえはっきりとされず、なぜ拘束されているのか、いつまで拘束されているのか、それを知らせないということにあるというように感じた。それがはっきりとしていれば、間違っているときの抗議も出来るし、処罰されるだけの根拠があるのなら納得も行くというものだ。根拠を示すことなくというのは、ある意味では根拠が示せないということでもあるのだろう。疑い程度しかないのを、拘束しておく方が安全だという判断から、それが間違っていたとしても、万が一疑いが本当だった場合のために拘束しているのではないかと思われる。旧社会主義国家の弾圧を見ていると、映画では、国家の考えに少しでも疑問を持ったら、それが将来の危険性につながるという恐れで、確たる根拠もなしに秘密のうちに拘束されていた。アメリカが、アルカイダだと思われる人々に行っている拘束は、イラクや社会主義国家に対して非難してきたことと同じことをアメリカ自身がやっているのではないか。これは、ダブル・スタンダードではないのか。ダブル・スタンダードを行う側が使う論理は、論理として信用できない。だから、アメリカがダブル・スタンダードをしている限りは、批判は終わらない。このとき、アメリカが批判に値するのは、ダブル・スタンダードを行う当事者だからこそ批判に値するのだが、勘違いしている人もいるかもしれないので、ちょっと付け加えておきたいことがある。アメリカ批判をしているときに、悪いのはアメリカばかりではなく、旧社会主義国家やイラクのフセイン体制だって悪いことをしてきたのだから、それも批判しなければならないと考える人もいるだろう。それはその通りで、アメリカだけを批判して、同じことをしている他の国を見過ごしているのなら、やはりダブル・スタンダードだと言わなければならないだろう。だが、批判の文脈上で、他の国への批判に言及する必要がない場合もある。それは、第三者的に批判する場合だ。これが、批判をしている事柄の当事者であれば、当然自分自身にも言及しなければならない。アメリカが大量破壊兵器を批判するのなら、大量破壊兵器をもっていないのであれば、自分自身に言及する必要はないけれど、それをもっているのであれば、自分自身の大量破壊兵器にも言及しなければならない。イスラエルの大量破壊兵器は、アメリカが援助しているのだから、これも言及する必要がある。イラクの人権抑圧に言及するときも、アメリカ自身に人権抑圧がなければ、一方的にイラクを批判するだけでいい。しかし、アメリカ自身も人権抑圧をしているのなら、それに言及しなければダブル・スタンダードだ。僕は、イラクの人権抑圧に直接言及していないけれど、これはアメリカを批判するときにはその必要を感じないということもある。それと、確かな事実の情報がないことも原因している。イラクの人権抑圧に関しては、おそらくこうだろうという想像の範囲では分かるのだが、確かにこのようなことをしていたという情報はほとんど出ていない。だから、これはフセイン裁判が始まったときに出てくる事実をもとにして、事実に即した批判をしなければならないだろうと思っている。アメリカに関しては、事実が報道されているので、その事実に則った限りでの批判をしている。第三者的な批判では、必要な範囲で言及をするという感じになる。しかし、当事者であれば、自分自身にも言及しない限り、それは利害当事者だから言わないのだという、疑問を持たれる。自己批判というのは、なかなか徹底するのは難しいから、客観性をもっているのはやはり第三者的な立場からの批判だ。自己批判は、利害が対立している相手から受け入れられたときに、その正当性が証明されたことになるのではないだろうか。日本にとって拉致被害者の問題は、ダブル・スタンダードの難しい問題を抱えている。この問題に関しては、日本人である僕も、第三者的な立場に立つことは難しいので、正しい批判は難しいと感じている。拉致というのは、明らかな犯罪で、犯罪として責任を取るべき人間がいて、正当な手続きで裁かれなければならないし、被害者の受けた損害を賠償しなければならないと思う。この事件が、他と関係なく独立した事件として、犯罪として裁かれるならダブル・スタンダードの問題は起こらない。しかし、日本は過去の歴史において、同じような犯罪的なことを行って、しかもその正当な決着をつけていないという問題がある。過去の出来事に関して、日本が当事者であることが、それに言及しないときにダブル・スタンダードの問題を生み出す。この問題が進展しないのは、話し合っているのが当事者同士でしかないからかもしれない。仲介をする第三者という存在があれば、もう少し客観化した見方で、ダブル・スタンダードに落ち込むことなく、双方を平等に裁くことが出来るかもしれない。僕は、国連に幻想を抱いているわけではないけれど、当事者以外の第三者が加わるという可能性からいえば、国連が今のところ唯一の機関であるような気がする。もちろん、国連でも力関係で、平等性や客観性が疑わしくなるときもあるが、あれだけの国の数が参加していたら、すべてを傀儡にするのは難しいので、利害当事者でない第三者的な国が必ず存在するだろう。それこそが国連の持つ意義であるような気がする。国連決議を正当性のよりどころにするのは、利害当事者が勝手に決めたのではないということに正当性を見いだしているのではないだろうか。国連が常に正しい結論を出すというのは幻想だが、利害当事者の勝手な判断よりはましだというのが国連を重視する考えであるように思う。さて、イラク関連のニュースで注目しておきたいのは次のものだ。「戦闘以外の死者14%は自殺 イラク駐留米軍http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000059-kyodo-int 」今や日本は自殺大国であるけれども、第2次世界大戦中は自殺が少なかったそうである。そのままでいても殺されるかもしれないという日常だったこともあるだろうが、天皇制軍国主義が、一つの考えに国民を染め上げて、全体主義が支配していたために、個人的な絶望感が少なかったということがあったと考えられるそうだ。個人的な絶望感を背負ったのは、全体主義の中の生け贄にされたいじめの標的になった人たちだったようだ。軍隊では、強烈な支配を支える暴力的な日常が、かなりのストレスを与えて、そのはけ口になるような生け贄を常に求めていたという部分があったようだ。そのはけ口になった人間は、映画などではよく自殺のシーンも描かれているが、それはほとんどは「名誉の戦死」として報告されたらしいことも映画に描かれている。だから、戦争中は統計上でも自殺はかなり少なかっただろうと思う。アメリカ軍での自殺が、通常の自殺よりも多いのかどうか、統計データがないので分からないが、その原因を調べるのは大切なことだろうと思う。イラクでの自殺は、通常軍隊内での統計よりも多いらしい。原因としては、精神疾患の可能性が示唆されている報道もあった。旧日本軍のように、いじめの標的になったというのではなさそうだ。その精神疾患は、どこから来ているのだろうか。いつどこからねらわれるかもしれないという、死に対する恐怖感を常に感じている緊張感のせいだろうか。そういう緊張感を強いる戦争状態というのは、そもそも何かが間違っているのではないかという批判の対象になるような気がするんだけれどな。そういう緊張感の中での戦争をやらされるというのは、本当に必要なことなのだろうか。
2004.01.16
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三浦つとむさんの哲学を勉強していたときに、一番心を引かれたのは主体性の問題だった。三浦さんはマルクス主義者で、唯物論の立場に立った哲学を展開していたのだが、マルクス主義者や唯物論というのは、主体性のない機械的なものというイメージがかなり強かった。しかし、三浦さんは違うという思いがあった。唯物論は、人間の主観とは独立に存在する物質的な存在を基礎にして、その物質的な存在の間に成り立つ法則を客観的に認めるものだ。これは主観とは独立に存在するので、どんなに心で思っていても、思うだけでは現実は変わらないと言うことを教えてくれる。精神主義の限界を教えてくれるわけだ。これは正しいのだが、これが行き過ぎると、すべては機械的に決定されて、そこに意志の入り込む隙がないように思う間違いに陥る。人間の生き方と関係なく世の中は決定しているという感じだろうか。マルクス主義も、マルクスが発見した社会法則が、客観的なもので、それはもうすでに決定しているものだというイメージがあった。どんなことがあろうとも、マルクスが予想したとおりに歴史は動くのだという信念を持っている人が多かったようだ。物と物という存在の間の法則で未来が決定しているのは、頭の中の想像の世界で作り上げた「理想状態」での物の存在について言えることにしかすぎない。これは、考慮すべき属性を抽象した、ある一面に注目した物の存在だ。現実には、物には他の面も無限に多様に見られる。そうすると、考慮していなかった面が法則に影響を与えると言うこともあり得るわけだ。そうなれば、たとえ法則が正しくても、その法則がそのままでは適用できなくなる。存在を単に与えられたものとして受動的に受け取っていると、なかなか予想外の物を発見することが出来ない。何かを信じ込んでいて、その呪縛を逃れることが難しくなってくる。しかし、能動的に、事実の中に疑いをもって眺めていくと、予想外の物にも注意を払うことが出来て、法則を修正しながら現実を見ていくことが出来る。この能動性を左右する一番大きな要因が、三浦さんが主体性と呼んでいるもののような気がしていた。外から見ていて同じ行為のように見えるものでも、主体性が違うとその意味が違ってくる。今イラクへの自衛隊の派遣に関しては、賛否両論が拮抗していて、どちらが正しい判断になるかは分からない状態だ。しかも、同じ賛成派・反対派の中にも、かなりの温度差があって、どのような主体性のもとでの賛成・反対かには大きな差があるような気がする。たとえ主体性に差があろうとも、大同団結のもとで反対することが大切だという考えもある。これももっともだと思うが、本当に小異を捨てて大同のもとに集まれるかどうかは、主体性をはっきりと自覚していなければならないのではないかとも感じる。そうでないと、日本の運動の歴史でよくあるように、同じ陣営のもとでの反発の方が強くなって、相手を攻撃し合って運動に障害をもたらすと言うことも出てきてしまうのではないだろうか。近い相手の方にこそ憎しみを大きく抱いてしまうと言う姿をこれまでもよく見てきた。反対する人間の主体性を考えるとき、一番脆弱な主体性は、ある種の善意に支えられた主体性のような気がする。これは、ある面では美しい心を表すのだろうが、その美しい心の期待を裏切るような出来事があったら、反対の方へ揺り戻しが起きかねない脆弱な主体性のような気がする。差別はいけないことだと単純に信じている人が、善意でもって差別される現場に入り込んで、差別されている人のために何かをしようとしているとき、その差別されている人間の汚れた一面を見たりすると、自分が信じている美しさをけがされたような気がする。実際には、差別されている人が生きていく現場は厳しいもので、かなりあくどいことが出来ないと生きていくことさえ難しいと言うこともある。そんな中で清く正しく生きられるはずがないとも言える。しかし、汚れた一面を見ると、今度は意識の方がひっくり返って、せっかく善意で助けてやろうと思っているのに、こんなにひどいのでは差別されても仕方がないと思ってしまうかもしれない。その時に、現実をもっと深く見つめるには、その背景にある事柄に注目して、なぜそのような生き方をしなければならないかを考えなければならない。世の中の汚さを見つめる主体性が必要になるわけだ。イラクの復興支援に対しても、単純な善意で彼らを助けたいと思っているだけでは、これが脆弱な主体性になってしまうのではないかという危惧がある。せっかく助けるために自衛隊が行ったのに、それに対して悪意で返すような事件が起こったら、善意を踏みにじられたような怒りがわいてきてしまうかもしれない。単純な善意は、その反対の憎しみに転化する可能性をもっている。毎日の生活が脅かされ、生きるか死ぬかという修羅場を体験しているイラクの人々の気持ちを、表面上は平和で安全な日本にいて切実に感じるのは難しい。だから、イラクの人々の行動には、我々の予想外のことがあるのが当然だという受け止め方がまず必要だと思う。同じ気持ちだなどと単純に考えない方がいいと思う。イラクでの出来事に関しては、その行為の背景というものを常に注意してみることが必要だろう。そして、その背景の中に主体性の問題を考慮に入れるのが、予想外のものを発見するきっかけになるのではないかと思ったりする。「<イラク>バスケ選手らがサマワに日本友好協会設立http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040113-00001026-mai-int 」この記事に書かれているイラクの人々の歓迎を、単純に善意が通じた美しい心の交流のたまものと見ないで、誤解の上に成り立っているかもしれないものだと見るのは、ある意味では意地悪な見方だ。お互いの善意が通じて、温かい心を感じられた方がいいに決まっている。しかし、あえて意地悪な見方も考慮の中に入れて、今後の推移を見守った方がいいと思う。もしイラクで自衛隊がある種の悪意の中に落ち込む事件が起こっても、それはもしかしたら彼らの期待を裏切ったからかもしれないという考えを持つことが出来るようにするためだ。「<イラク戦争>米国にとって不必要だった 陸軍大教授が批判論文http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040114-00000002-mai-int 」ここでの報告は、批判が道徳的なものではなく、利害の面から見ての批判であることが面白いと思う。これは、ある意味では善意の人にとっては納得しがたい面がある批判かもしれないが、立場を越えた客観的な面からの批判として、このような見方を知ることは、主体性を「善意」という道徳面からだけに偏らせないためにはいいのではないかと思う。ここには次のような記述がある。「さらに、あらゆる国際テロ組織の壊滅、イラクを手がかりとする中東全域の民主化、大量破壊兵器拡散の完全封鎖などを追求する「テロとの戦争」は、米国への脅威が乏しい相手との「終わりなき、無用の戦い」へと米国を追い込み、それは財政的にも政治的、軍事的にも継続不能な非現実的戦略だと非難した。」これは、一般国民から見たときの利害から考えられる評価(解釈)だ。一般のアメリカ人にとっては、利益よりも損害の方が大きいという評価だろうと思う。しかし、今のブッシュ政権の中枢に位置する権力者にとっては、この評価がまた違うだろう。彼らにとっては利益が大きいと読んだから戦争に踏み切ったのだろう。彼らの主体性は、彼らの立場を想像して考えるのが必要だろう。「月面基地に火星有人探査 米大統領が新宇宙政策http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000018-kyodo-int 」というニュースについては、どのような主体性をもって眺めるかでこの記事の評価が変わってくるだろう。アメリカがアポロ計画で初めて月面に人間を送ったのは、ちょうど僕が中学生の時だった。あの頃の僕の主体性では、未来への希望を感じる快挙だという評価だった。単純にすごいことをしたなあという受け止め方だっただろうか。しかし、今回の宇宙計画については、僕はもう無邪気な中学生ではないからそんな単純な感激はない。これは、ブッシュ政権が考えた、選挙のための人気取りの政策に違いないという風に受け止めるだけ世の中にはすれてきている。ブッシュ政権が誕生した当初は、宇宙開発のための予算などは付いていなかったそうだ。ブッシュは宇宙への関心などは全くないと誰かが語っていた。それが急にこのような計画を出すのは、そこにどのような主体性が潜んでいるかを疑ってもいいだろうと思う。「イラク南部で発見の砲弾「化学兵器と判定されず」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000202-yom-int 」というニュースは、予想通りの結果を報道している。思った通りのことだったというのが確認できた。結果的に、このようなことが見通せたのに、最初の報道では「大量破壊兵器発見か?」などと言うような見出しが付いたのは、どういう主体性のもとでその見出しが選ばれたのかと言うことに関心がある。暴露される続報が出てくるだろうか。「緊急治療機のイラク派遣も 独首相、対米協調また一歩http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040115-00000033-kyodo-int 」このニュースに関しては、「対米協調」という言葉を見出しに入れるというものを支える主体性を知りたいものだ。ドイツでさえも対米協調しているのだから、日本がそうしても当然だという思いがそこにあるんだろうか。でも、この記事は次のように語っている。「首相は「負傷者を手助けする人道支援を考えている」と説明。ただ、派兵を拒否してきた従来のドイツの方針を変えるものではない、と強調した。派遣に際しては、国連安全保障理事会の決議を求めるもようだ。」と言う基本姿勢を保った上での「対米協調」なのである。ずいぶん「対米協調」のイメージが違うなという感じだ。まあ、「反米」ではない「対米追従」でもないと言う意味では、「対米協調」なのかなという感じはするけれど。主体性の問題を常に考慮に入れて事実を解釈していくというのは、大事なことのように思う。
2004.01.15
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朝鮮民主主義人民共和国について、マスコミの宣伝では、何をするか分からないならず者国家という悪のイメージが浸透している。とにかく、ひどいことをしているところで、まともに相手に出来ない国という見方をしている人が多いのではないだろうか。この国に関しては、日本人全体がかなりの偏見に目を曇らされているし、それをいいことにマスコミも偏見をあおるようなニュースを流すので、マスコミのニュースだけで正しい判断をするのは難しい。しかし、朝鮮民主主義人民共和国が、その主張としている事柄の中にどれだけ論理性があるかを考えてみたい。訳の分からないひどい国であるのなら、その論理の中にも、こじつけや詭弁がちりばめられているだろうから、それを見ることで偏見の多い報道の中からも一つの真実がかいま見られないかと思う。まず核問題に対する基本的な考え方としては、アメリカが朝鮮民主主義人民共和国をならず者国家として名指しして、いつ攻撃を受けるか分からないという危機感を持ったことがその状況としてある。特に、イラクが圧倒的な武力で壊滅的な状況になるくらいやられてしまった姿を見ると、攻撃されたらおしまいだという判断をするのは、きわめて論理的な判断のように思われる。そうすると、朝鮮民主主義人民共和国の取るべき道としては、いかにしてアメリカに攻撃をさせないかという道を探るしかない。イラクの姿を見ると、国連の査察という合法的な道をとっても、アメリカが攻撃するという意志を持ったら、それを防ぐことが出来ないことを見せられている。合法的な方法で、論理的に世界を説得する道が危ういとなれば、いろいろな画策を図って安全の道を探るようになるだろう。その一つの表れが、日本に近づいて、日本を媒介にしてアメリカと交渉をする道だという風に、日朝国交正常化交渉を見ていた人は多い。拉致問題を認めて謝罪をしたのも、日本側に歩み寄って協力を引き出したいからだという意志の表れだと、宮台氏などは見ていた。しかし、その思惑がはずれて、日本国内ではむしろ拉致問題への怒りの感情が高まって、その後の一歩を踏み出すきっかけをなくしてしまった。おそらく、外交政策としては、拉致問題を特定のけしからん人間の行為ということにして、ある種の生け贄を差し出して、ともに解決するという形で日本との協力関係を築き、次にアメリカとの交渉において見返りの協力を求めたかったのだろうと思う。しかし、日本との協力関係は全く築けないままに来てしまった。宮台氏などは、そうなったらもう核カードを切ってアメリカとの二国間交渉を求めざるを得ないだろうと早くから予想していた。現実に論理的に予想したとおりの展開を見せているということは、その行動は、善悪という価値判断をせずに、論理という範囲だけで見てみると、きわめて論理的な行動なのかもしれない。ちなみに、拉致被害者が一時帰国したときは、それはやはり一時帰国という約束で、いったんはまた帰ってから次の段階に進むという約束はされていたようだ。だから、そのまま日本にとどめて帰さなかったのはやはり日本政府の約束違反だったようだ。これに対して、自民党の平沢勝栄議員がラジオで次のように語っていた。そもそも拉致というのが犯罪なのだから、その犯罪がちゃんと解決されていないところに帰すなんていうことが出来るはずがない、と。これは感情的にはよく分かる。しかし、論理的には、そういう風に思っているのなら、そもそも約束をすること自体が間違いだと言いたくなる。2週間後にまた帰すなんていう約束をしてはいけない。帰ってきたら、本人の意思を確認して、もう朝鮮民主主義人民共和国には帰さないこともありますよと言わなければならない。もし、このような意志がありながら、とりあえず日本に帰ってくることが先決だと言って嘘をついたなら、だましてでも自国の利益を優先させる国として、日本を考えるかもしれない。また、最初は約束を守るつもりだったが、日本国内の世論と感情に押されて約束を守りきれなかったとしたら、論理よりも感情が優先する国として日本を見るかもしれない。いずれにしても、日本の対応は論理的でないという風に見えてしまう。日本の世論と感情に押されて約束を守れなかったのなら、そういう説明をするのが論理的であり、誠実な対応になるだろう。日本国内に向けてそういうことが言えないようであれば、水面下で相手に伝えるよう努力すべきだろう。それに対して、朝鮮民主主義人民共和国の方が誠実に対応してこなければ、その時に本当の意味で論理が通じないおかしな国だという判断が生まれてくる。一連の流れを冷静に眺めてみると、論理が通じないのは朝鮮民主主義人民共和国の方ではなく、むしろ日本の方ではないのかとさえ思えてくる。さて、核問題に関しては、少しずつ展開が見えてくるように伝えるニュースが入っている。次のようなものだ。「核施設「6時間見た」 韓国政府に訪朝結果説明http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040113-00000002-kyodo-int 」この中では、「討論で、北朝鮮側は従来の立場を繰り返しつつも対話に臨む意思は表明したという。2人は北朝鮮側の対応に「満足している」と語った。」と報道されている。具体的に書かれていないので、どのようにして対応に満足したのかが分からないが、具体的な報道がされれば、論理的にまっとうな対応をしたのかどうかが分かるだろう。「北朝鮮、黒鉛減速炉の凍結用意 米の同時行動と補償条件http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040113-00000001-kyodo-int 」この記事では、朝鮮民主主義人民共和国の主張として、「米ブッシュ政権に、一括妥結による同時行動で核問題を解決する真剣な意思があり、その第1段階として核凍結とそれへの補償措置に合意する用意があるなら、非核化のための出発点として、黒鉛減速炉による核活動を凍結する用意がある」というものを伝えている。合意の中身への言及(それに賛成するか反対するか)をしなければ、この条件命題は、論理的にはそれほどむちゃくちゃなことを言っているようには見えない。合意の用意があるのなら、交渉が進展するというのは論理的にまともなことだ。あとは、合意の中身をいかに妥協するかという問題になってくるわけで、妥協できるかどうかと、上の主張の論理性とは別の問題だ。妥協できない条件を出してくるからと言って、論理的に間違っているわけではない。交渉というのは、まずは過激な条件を出しておいて、それを修正して少しでも自分の方に有利に展開させたいというのは、一つのテクニックでもあるかもしれない。最初から譲歩しすぎると言うことをすることもないとも言える。朝鮮民主主義人民共和国は、過激な主張をするので、それだけを見ていると訳が分からないという思いを抱くかもしれないが、その主張をつなげてみると、一貫して論理的には理解できるものがあるように感じる。それは、次にこう展開するだろうと言うことが、論理的に読めるところがあるからだ。だから、論理を無視して自暴自棄にならない限りは、心配している事態にはならないとも言えるかもしれない。朝鮮民主主義人民共和国が感情的に反応しているように見えるのは、日本の方が感情的に反応してしまっているので、その感情が投影されてしまっているからそう見えるのではないだろうか。日本の方で、感情的にならずに、冷静に論理的に対応してみて、その上で論理を無視して対応するのなら、その点を批判していった方がいいのではないだろうか。日本の方が論理的でない、感情的な反応をしているので、それに対するカウンターとしての朝鮮民主主義人民共和国の反応が、本当に論理的なのかどうかが評価しにくい。感情に対して感情で反応しても、それはむしろ論理的な対応かもしれないからだ。それに対して、日本はますます感情的に対応するという泥沼に落ち込む。どこかで、この方向を変えるきっかけを作らなければならないんじゃないかなと僕は思うんだけれどな。本当の批判をするためにも、日本は論理的に対応すべきだ。本当の批判になっていないから、6カ国協議でも、他の国が日本に対して冷たいんじゃないかと思ったりする。イラク関係で目にとまったニュースは次のものだ。「町ぐるみで「日本人守れ」 サマワで友好協会初会合http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040113-00000021-kyodo-int 」この記事に書かれたイラクの人々の感情は本当だろう。日本は、イスラムに対して手を汚していない唯一の先進国でもある。侵略をして、悪逆非道の限りを尽くした欧米白人ではなく、彼らと同じ仲間に見える有色人種のアジア人であるという親近感もある。いわゆる「湾岸戦争」の時代に、日本は多国籍軍に多額の金を出して、ある意味では戦争の一方に荷担したにもかかわらず、イラク人にとっては、日本は「湾岸戦争」での敵ではないそうだ。日本の戦争に関しては、植民地にされていたアジアやアフリカその他の国に、解放の気分を生み、独立の希望を与えたという議論がある。これは一面として正しいと、今なら思える。ただ、その一面を全面に広げないように注意しなければならないけれど。日本が日露戦争などで、欧米の侵略国の一つを破ったと言うことは、イラクの人々にとっては、長年苦しめられていた欧米先進国に対して、それを打ち破ることが出来るんだという希望を与えたというのは、感情的な問題として充分あっただろうと思う。そういうイメージを持った日本が来るからこそ、自衛隊という軍隊であっても、これだけの希望を抱くのだろう。日本なら、他の国とは違うはずだという期待だ。ぜひ、この期待に応えて欲しい。もし、この期待に応えると言うことが、本当に実現したら、日本の自衛隊は、世界の歴史上初めて平和のために本当に役立つ軍隊になるだろう。今までの軍隊は、平和を壊すことしかできなかったが、もしも平和を築く軍隊が存在したら、「自衛隊」という言葉が本当の意味で世界に認知されるかもしれない。そうなったら、「自衛隊」は侵略軍になる恐れは絶対になくなる。こういう風に災い転じて福となるのなら、僕は自衛隊がイラクに行くことを支持しよう。逆に言えば、そうでない可能性が大きいのなら、自衛隊が行くのはやはり反対だ。
2004.01.13
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昨日・今日と成人式の記念式典が、各自治体で行われているところが多い。沖縄では今年もまた暴れる新成人が出てきたようだ。この現象について、興味深い考察を加えているページを見た。ヤフーのトピックスにも取り上げられていたので見た人が多いかもしれないが、次のアドレスだ。 http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news/2003/seijin2003.html ここに書かれていることにほぼ賛同する感じがするので、これをきっかけにして成人たちが騒ぎを起こすという現象を考えてみたいと思う。ここには、まず冒頭に次のように書かれている。「これまでにも書いてきたように、騒ぐ新成人たちの心理は、基本的には「目立ちたい」「注目されたい」でしょう。もう少し、深層心理的な言い方をすれば、「愛されたい」のだと思います。」僕も、全くその通りだと思う。この解釈には賛成だ。社会生活においては、ハレ(非日常)の場と、ケ(日常)の場があると言われている。ハレの場では、自分が目立つ存在であり、注目される存在であることを確認して、自分に対する大いなる尊厳を獲得できる。逆に言うと、ハレの舞台を持たないと、いつまでも自分に自信が持てない主体性を欠く人間になりかねない。ハレの舞台は、人生の節目でバランスよく配置されてきたのが、これまでの日本の社会ではないだろうか。ところが、子供たちが、深層心理で「愛されたい」という思いを強くもっているとしたら、ハレの舞台で自分を確立しているという、今までの社会の機能が崩れてきていることを示しているのではないかと感じる。ハレの舞台が、必ずしも彼ら自身にはハレだとは感じられなくなっているのではないだろうか。子供の成長に伴って、七五三などのお祝いをハレの舞台だと思いたくても、それは子供のためのハレ舞台ではなくて、どうも親のハレ舞台になっているようなところもある。学校では、ハレの活躍をするよりも、マイナス評価をされないように汲々としている。これまで伝統的にハレ舞台だと考えられていたものは、今の若者には必ずしもハレ舞台にはなっていないのだろう。むしろ、彼ら独自のハレ舞台を作って楽しむというのが、今の時代の傾向のような気がする。ストリートでダンスや音楽を楽しむ子供たちは、彼らにとってのハレ舞台をそこで作っているのではないだろうか。成人式で騒ぐのも、騒いで注目されることこそが彼らのハレ舞台だという感覚があるのかもしれない。ハレ舞台に対する感覚が全く共有できないのだろう。宮台氏は、日本人の祭り好きについてよく語っている。祭りというのは、非日常の世界で、ハレの舞台を作り上げるものだと思う。そこでは、何をするかと言うことはあまり大きな価値を持たず、そこに参加して、普段は味わえない高揚した気分に浸るところに意義がある。この祭りも、伝統的な祭りに変わって、独自の祭りが増えているそうだ。ちょっと前には「マトリックス・オフ」というものが新しい祭りとしてやられたらしい。これは、映画の「マトリックス」の登場人物のエージェント・スミスの格好をした人間がある場所に出没するので、それに気づいたら捕まえて欲しいというメッセージをインターネットで発するのだそうだ。そして、エージェント・スミスの格好をして出かける人間が、それに応えた人間と遊びを楽しもうという祭りになるらしい。これなどは、これを祭りだと知らない人間にとっては、全く祭りとしての意味を成さないのだが、これに参加している人間にとっては、気分を高揚させる祭りになっているという現象が起こる。実は、日本全国であちこちにこのような祭り現象が起こっているのではないかという感じがする。仲間にとっては祭りだが、そうでない人間にとっては何をしているのか分からないという祭りだ。祭りどころか迷惑になっているのもあるかもしれない。成人式で暴れる若者の現象も、一種の祭り現象のように見える。このような観点で眺めてみると、学校で行われているいじめなども祭り現象の一つかとも思えてくる。問題は、この祭りに対して、必ずしも楽しい気分になれない、眉をひそめてしまう人がいるということだ。伝統的な祭りなら、それが社会的に承認されていて、祭りの中で気分が高揚した者を、ある意味では社会がその価値を認めてくれる。かっこいいと思ってくれる。かっこいいと思ってくれず、迷惑だと思われている祭りをどう考えたらいいかというのは、社会にとっては結構重大なことかもしれない。この論説では、若者は承認されたいという「愛されたい」という気持ちが深層にあると分析しているのに、世間は彼らを承認せず迷惑だと思っている。これでは、彼らの希望も満足させられないし、世間の方も彼らを排除するという対応しかとれない。論説では、彼らの表面だけを見ずに、その深い意味を考えようと呼びかけている。一緒に良い社会を作っていこうとを呼びかけている。この姿勢は共感できるものだ。この論説で、さらに共感を覚えるのは次の記述だ。「少年による凶悪事件は、長期的に見れば増えるどことか、むしろ激減しています。むしろ問題は、普通の子どもたちのモラルの低下でしょう。飲酒、喫煙、万引き、自転車泥棒、売春(援助交際)など、以前なら「非行少年」たちの仕業だったものが、一般の子どもたちにも広がってしまっています。 人が話しているときには、黙って静かに聞くべきだという考えをすでに持っていない少年たちもいます。 またそういう我慢や訓練を受けていない子達もいます。 こういう子どもたちが、二十歳になったからといって、社会人としてのルールに簡単には従ってくれないでしょう。」モラルの低下は、子供たちだけでなく、大人にも蔓延しているような感じがする。これこそが、新成人が暴れるという問題よりも、もっと根が深い重要な問題なのではないだろうか。どうすればモラルの向上が図れるのか。それは、道徳教育で解決できる問題ではない。これは、すぐには解答が見つからないけれど、考え続けていきたい問題だと思う。さてイラク関係のニュースでは次のものが目にとまった。「イラク南東部で英軍がデモ隊に発砲、5人死亡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040111-00000958-reu-int 」この記事では、「デモ隊が手りゅう弾とみられる爆発物が英軍車両に投げようとしたのを英兵が確認して銃撃した」と英軍が発表したことを伝えている。これが確実に手榴弾だったのかどうかが分からない。もし疑いだけで発砲したのだとしたら、これはモラルに問題があるのではないだろうか。紛らわしい動作をした方が悪いのだと言ってすませられることだろうか。むしろ、紛らわしい動作を、人が殺されるようなことに結びつける状況こそが問題なのではないだろうか。それが手榴弾であるかどうか、確かめることが出来ないと言うモラルは、そのような状況で英軍が駐留するということにそもそもの原因がある。その状況をどうにかしない限り、このようなモラルを向上させることは出来ないのではないか。「フセイン打倒は政権発足直後から計画…米前財務長官http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040111-00000013-yom-int 」この記事からもモラルの低下を読みとることが出来る。次のような記述からだ。「また、暴露本では、「大統領が『これ(イラク攻撃)をやるための方策を見つけてこい』と言っていた」ことも明らかにしている。前長官自身は、「米国が決めれば何であれ一方的に行えるという先制攻撃の考えは、論理に大きな飛躍がある」と考えていたという。」論理的に正当な理由があってイラク攻撃をしたのではなく、攻撃をするための理由をなんでもいいからでっち上げて、やりたいようにやるというのはモラルの低下以外の何ものでもない。それに反対していた人間が力を持てないというのも、モラルの低下の表れである。イラクで発見された36発の砲弾についても、さすがにもう「大量破壊兵器の発見か?」というような記事はなくなった。「びらん性ガス入り砲弾か イラク南部で駐留軍発見http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040111-00000118-kyodo-int 」しかし、最初の一報で、確かめもせずに「大量破壊兵器の発見」を云々するのは、嘘でもいいからアメリカに都合のいい宣伝をしようという、これもやはりモラルの低下の表れだろう。この記事を紛らわしい表題で流したということには、ジャーナリストとしての最低のモラルも感じられない。上の論説では、成人式で暴れる若者を次のように分析している。「「ふつう」ではいやだと感じてします。それは、現代の一つの病理かもしれません。芸能人のようになりたい、普通の事務仕事はいやだ、たとえ悪いことでも目立ちたい、そんなふうに思ってしまいます。 けれども本当は、普通に生きている一人一人が、すばらしい、かけがえのない存在です。」最後の言葉に共感を覚える。SMAPの「世界に一つの花」にあったように、注目を浴びるナンバー1でなくても、個性的なオンリー1であることの方が、本当は素晴らしいんだと知ってもらいたいものだと思う。次の最後の呼びかけも、全くその通りだと思うものだ。「大丈夫。あなたは今のままですばらしい存在です。無茶なことをしなくても、ちゃんと注目してくれる人がいるし、愛してくれる人がいます。社会の中で、君の役割があるはずです。君の活躍を待っていてくれる人がいます。」このことを信じられる人が多くなる社会を築きたいものだと思う。それがモラルの向上につながるだろう。
2004.01.12
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統計的センスの問題で思い出すのは、少年法を厳罰化せよという世論が盛り上がっていたときに宮台氏が指摘したことだ。当時は、少年による犯罪が増えているという報道があったようだが、統計的に見る限りでは、数の増加はなかった。むしろピーク時に比べて減っているという統計結果が出ていた。しかし、それでも凶悪犯罪は増えているのではないかという声もあったが、これも殺人を始めとする凶悪犯罪はむしろ減っているのが統計結果だった。殺人が一番多かったのは、団塊の世代が子供だった頃で、これは子供の数が多かったということと、当時の世相などが関係していたのだろうが、その時には少年法の厳罰化などという話は全く出てこなかった。宮台氏の指摘では、少年犯罪に関しては、質的な変化とマスコミの宣伝によるイメージの増幅が、大変だという感情を吹き上げさせてしまったということだ。質的な面でいうと、かつての犯罪は、その原因と思われるものが比較的理解しやすかった。貧困であったり、その少年の環境が犯罪に結びついているということが理解しやすかった。しかし、今の少年犯罪は、ごく普通の家庭で、非行歴もない優等生に近い少年が、いきなり殺人などの凶悪犯罪を起こすというケースがある。どうしてそんなことが起こるか分からないので、どうやってこれを防いだらいいのかが分からなくなる。その子供が凶悪なせいだとして厳罰を与えるというのは、感情的な面を納得させるものではあるのだろう。しかし、殺人のような凶悪犯罪に関して、それが厳罰化で防げるという、効果がどれくらいあるかという問題は、統計的には効果がないというのが専門家の間の常識であるらしい。統計的には効果がなくても、感情の落としどころを見つけなければならないので、犯人に対する憎しみの感情を厳罰化というもので投影するということになるのだろうか。ちなみに厳罰化が効果があるのは、性犯罪と軽犯罪については効果があることが統計的に証明されているらしい。これは、その犯罪動機の中に、罰を受けるということを計算に入れて行動している面がかなりあるかららしい。だから、この程度の罰なら、やった方が得だというような計算が働くのだろう。そういう面では、この二つはぜひ厳罰化をしてもらいたいものだと思う。なぜ厳罰化をしないのだろうか。強姦などの罪は、親告罪ではなくて、刑事罰として捜査をし、少なくとも10年くらい刑務所に入れるようにすればかなり減るんじゃないだろうか。たばこのポイ捨ても10万円くらい罰金を取って、歩きたばこ程度でも5万円くらいふんだくれば、町中を煙で汚す人間は減るんじゃないかと思う。はっきりと効果がある厳罰化はしないで、効果が疑わしいところを厳罰化するというのは、何らかの意図が働いているのだろうか。さて、今日の注目ニュースは次のものだ。「<イラク派遣>復興へ期待最高潮 サマワの住民たちhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040110-00001053-mai-int 」イラクの人は、日本に対する良いイメージがかなり大きいのだろうなと思う。たとえ自衛隊であっても、日本が来るのなら大歓迎をするという感じなのだろう。これが、他の国の軍隊なら、これだけ大きな期待を抱くことはないということなんだろう。しかも、アルジャジーラで小泉さんが、自衛隊は復興支援のために行くと断言したのだから、期待はさらにふくらんだことだろう。結果的に、自衛隊がこの期待に応えるのなら、自衛隊の派遣に反対していた僕も、それを撤回したくなるかもしれない。僕は、自衛隊が行くことによって、そこが戦闘状態になり、自衛隊やイラク市民に犠牲者が出るだろうという予想のもとに派遣に反対していた。その予想がはずれて、自衛隊がイラク市民の期待に応えて、本当の復興支援をするのなら、自分の予想の間違いを認めて、イラクの復興支援を支持するのが筋だろうと思っている。果たして自衛隊はイラクの人々の期待に応えるか。どんな計画をもっているのか知らせて欲しいと思う。復興支援だったら、それは軍事機密ではないだろうと思うからだ。イラクの人々の大きな期待が、結果的に自衛隊の行動を縛り、復興支援の方向に向けていくのなら、歓迎したいと思う。そうすれば、自衛隊にも犠牲が出ることはなくなるだろう。それどころか、自衛隊が成功をすれば、占領政策にも影響を与えて、イラクの人々が望む方向へと変わっていくだろう。果たしてそのように理想的な方向へ傾いてくれるだろうか。災い転じて福となって欲しいものだ。イラクでは、相変わらずアメリカ軍の作戦ミスが続いている。「イラク人警官2人を射殺 米兵、勘違いでhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040110-00000152-kyodo-int 」アメリカ軍ではないが、イギリス軍も同じようなミスを犯している。「求職デモに発砲、5人死亡 イラク南部、英軍と警察がhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040111-00000022-kyodo-int 」これらの事件は、単なる偶発的なミスなのか、それとも基本方針に問題がある構造的なミスなのか、統計的にはどうなのかという調査がないので判断が難しいが、僕はやはり構造的なミスの可能性が高いと思う。もし偶発的なミスであるのなら、単純な原因でそのミスを防げるはずだ。相変わらずこのようなミスが頻発するのは、それを防ぐ意志がないのか、防ぐ能力がないのかどちらかだが、防ぐ意志がないとは考えにくい。防ぐことが出来なければ、ますますイラクの人々の感情を悪化させるだけなのだから、米英の占領軍はこのようなミスを防ぎたいはずだ。それにもかかわらず防げないのは、防ぐ能力の問題で、それが構造的な問題と絡んでいるから、心がけのような個人の努力では防げないのに違いない。「びらん性ガス入り砲弾か イラク南部の地中から36発http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040111-00000019-kyodo-int 」という注目すべきニュースもあった。この記事は、「びらん性ガスであることが確認されれば、米国がイラク戦争の大義名分に掲げた大量破壊兵器が開戦以来、初めて発見されたことになる。」と報じているが、このような大げさな表現がふさわしいのかどうかには大いに疑問がある。だいたい36発の砲弾が「大量」なのだろうか。アメリカは開戦直後にトマホークを何千発も打ち込んだけれど、大量といったら、それくらいの数を大量と言って欲しい感じがする。しかもこの砲弾は、「これらの砲弾が少なくとも10年は地中に埋められていた」というように報じられているように、すぐに使う目的で埋められていたとは信じがたい。もしかしたら、捨てる場所に困って埋めていたんじゃないだろうかという気さえする。このニュースは、この前に次のような一報が入っている。「イラン・イラク戦争中の化学兵器?迫撃砲30基を発見http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040110-00000114-yom-int 」これにはクエスチョンマーク(?)がつけられている。それは次のような事実があるからだ。「イラク駐留デンマーク軍が9日、土中から発見し、液体物質が漏れ出しているという。同准将は、フセイン政権が1980年代のイラン・イラク戦争中に使った兵器の残りとの見方を示しており、最近開発されたものではない可能性が高い。」なんだ、これはアメリカがイランとの戦争のために使うようにと、イラクにあげたものなんじゃないのか、という感じがする。イラクが自力でこの兵器を作り出せたかどうか証明できるんだろうか。最近開発されたものでない兵器の残骸が、差し迫った危機を感じさせる「大量破壊兵器」の一つになるんだろうか。こんなものの発見で、すぐに「大量破壊兵器の発見」というニュースを出してしまうなんてのは、そう思わせたい側の意志を感じる。統計的なセンスでいえば、少なくとも何千という単位の兵器が見つからなければ、とても大量とは思えない。差し迫った危機というのなら、何万という単位が必要だと思う。それに、20年も前の戦争に使った兵器では、とても差し迫った危機とは言えない。液が漏れているような砲弾では、実際に使用することも出来ないだろう。戦争直前に、大量に製造しているという痕跡が明らかになるような証拠でない限り信じてはならない。そうであるからこそ戦争を起こしたのだから、それがなければアメリカのいっていることは嘘だったと結論しなければならないのだと思う。
2004.01.11
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僕の尊敬する三浦つとむさんは、「哲学入門」の中で、弁慶と牛若丸はどちらが偉いかという問題を論じて、弁証法的な考え方というものを紹介している。牛若丸は位が高く、物語の主人公でもあり、弁慶はその家来で脇役の立場だ。そのイメージからすれば、牛若丸の方が偉いと思えてしまう。1対1の対決でも牛若丸が勝っている。でも、弁慶の方が偉いという考え方も出来る。弁慶は、その知力と度胸で牛若丸の危機を何度も救っていることが芝居に残されているそうだ。関所を通るときに、正体がばれて捕まりそうになって、その時に機転を利かせて弁慶が牛若丸を打つことによって、逆に牛若丸が家来であるかのように装って危機を脱したということが三浦さんの本に書かれていた。当時の道徳からいえば、家来の方が主人に手を出すなどということはとても出来ないことだっただろうが、とっさにそのような機転を利かせて危機を脱するという弁慶の力量は十分に「偉い」と言っていいものだったと思う。牛若丸が偉いという考え方に対して、逆に弁慶が偉いとも言えるというのも一つの対立した考え方で、弁証法的な考え方の一つだ。これをさらに進めて、三浦さんはこのことから次のような弁証法的な見方も提出する。牛若丸が偉いというのは、主君であり、対決に勝ったということもあり、いくつかの事実から言えることだ。この事実しか知らない人間は、そこから牛若丸が偉いという結論を引き出しても仕方がないだろう。弁慶に対して、家来であるということや、決闘に負けたということしか知らなければ、偉いと思えなくても仕方ない。しかし、弁慶についてもっとよく知っていたらどうだろう。その時は、むしろ弁慶の方が偉いじゃないかと思えるようになってくる。ここで三浦さんが引き出した教訓は、人をだますときに嘘をついてだます場合が多いけれど、本当のことを言ってだますことも出来るということに注目することだった。弁慶の偉いところを一つも言わないで、牛若丸の偉いところだけを言っていれば、それしか知らない人は牛若丸の方が偉いと思ってしまう。弁慶が偉いなどと思う人はいなくなる。これは結果的にだますことになっていると考えられるわけだ。嘘をついてだますのは、その嘘がばれてしまえばだまされていることがすぐに分かる。しかし、本当のことを言ってだましているときは、それが本当のことだけに、だまされていることになかなか気づかない。「嘘をついてだます」と「本当のことを言ってだます」という対立した二つの考え方を認めて、この対立物の統一を考えるのが弁証法的な考え方というわけだ。上手な詐欺師も、すべてを嘘で固めていたのでは相手をだませない。嘘をつくのは、金を巻き上げるときの1回だけで、それまでは本当のことを言っている。本当のことを言ってだますのが本当のだまし方なのだろう。イラク戦争のアメリカの嘘は、大量破壊兵器についてのものが嘘であることがばれてきているが、これはだまそうという意図が分かりやすい嘘によるだまし方だ。本当のことを言ってだまそうとしているのではないかという点に注目してみよう。アメリカは、大量破壊兵器のことが嘘であることがばれそうになって、フセイン体制が人権抑圧の独裁体制であることを攻撃し始めた。実際には、このことに関しても、どのように人権抑圧していたのかという具体的な情報がないので、イメージだけがふくらんでいっている感じがするのだが、ここでは次の点に注目してみたい。フセイン体制が悪であるというイメージが強くなると、それに伴って、それを倒すアメリカは善であるというイメージが強くなってくる。しかし、アメリカだって同じじゃないかというイメージがあったらどうなるだろう。民主主義国家としてのアメリカは、フセイン体制のような独裁ではないのだから、同じような人権抑圧なんかあるわけがないと思っている人もいるかもしれないが、それが同じだったら、イメージにだまされることになる。フセインも悪かもしれないが、アメリカも同じように悪だったら、アメリカの言うことをそのままでは信用できないという正しい認識に達するのではないかと思う。次のニュースに注目してみた。「<イラク>相次ぐ米軍機攻撃 背後に「反米戦士狩り」http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040109-00001062-mai-int 」アメリカは、反米戦死として拘束したイラク人に対して、次のような扱いをしているらしい。「現在、家族はアジさんらの拘束場所を米軍にたずねているが、返答はない。近所のモハンマド・ジャバールさん(43)によると、アジさんは旧バース党幹部で93年ごろまで警察官をしていたという。ジャバールさんは「バース党を恨む住民の誰かが米軍に通報した。ここの住民は今、米兵が怖くて誰もゆっくりと寝られない」と語った。」なぜ拘束されているのか、いつまで拘束されているのか、どのようにしたら容疑を晴らすことが出来るのか、そのことを全く伝えていない。これは、宣伝されているイラクの秘密警察とどこが違うんだろうか。明らかな人権侵害だと思う。しかも、民衆に密告させて、その密告をもとに拘束していると思われる記述もあることを見ると、これまた秘密警察と同じやり方ではないのか。同じやり方をしているアメリカが、イラクに正義と民主主義を実現するというのが果たして信じられるだろうか。こういうことをしていると、逆にフセイン体制は、悪いことばかりやっていたのではないのではないかという疑いさえ出てきてしまう。真実を伝えるジャーナリストの登場を待ちたいものだ。アメリカは、かつての本多勝一さんの「アメリカ合州国」に描かれたように、本国内でもマイノリティや反体制派に対する人権抑圧はひどいものがある。「JFK」という映画では、謀略によって大統領でさえも暗殺されるという可能性さえ示唆している。アメリカに対して無知でいれば、大量宣伝によってだまされると言えそうだ。アメリカの正義を疑わせる情報には次のようなものもある。「<イラク>劣化ウラン弾被害「5年後に出る」医師語るhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040110-00000028-mai-int 」ここでは次のように語られている。「アリ医師は「私の調査では、バスラのがんによる死者は88年には34人だったのが02年には644人と19倍になった」と指摘。イラン戦争について「湾岸戦争では郊外に集中していた劣化ウラン弾の使用地域が、今回はバスラやバグダッドの市街地にも拡大した。5年後には被害がはっきり出てくる」と語った。」これに対して、次のような解釈もあったそうだ。「フセイン政権下、2人が主張する劣化ウラン弾被害は同政権にとっても都合が良かったため、一部には「政権が2人を利用している」という見方があった。政権崩壊後、バスラ教育病院では一部の医師から「劣化ウラン弾被害はフセイン政権が作り上げたもの。2人の医師は政治利用された」と批判もあった。」これは、事実の解釈に伴う疑問なので、それが解釈である限り疑問を抱く人間はいるだろう。解釈が、事実であると認定されるときが来れば、アメリカの正義も事実として崩れるという感じがする。劣化ウランと癌の関係が、事実として人々に認められるときが来ると僕は思っているが、その時が来たときが、アメリカの嘘が確定したときかなと思う。「大量破壊兵器捜索隊の一部、ひそかにイラク撤収…米紙http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040109-00000214-yom-int 」大量破壊兵器に関する嘘は、この報告でかなり決定的になった感じはする。差し迫った危機は作られたものであって、そう思い違いしていたというものでもなかったということが、当のアメリカの方で語られている。意図的な嘘であったことがかなり暴露されてきたのではないだろうか。ニュースは次のように伝えている。「一方、米有力研究機関のカーネギー財団国際平和研究所は8日発表した調査報告書で、「イラクの大量破壊兵器は米国や世界の安全保障にとって差し迫った脅威ではなかった」と結論づけ、「ブッシュ政権が組織的に脅威を誤って伝えた」と批判した。報告書によると、イラクは数年前から核開発を中止した上、国連査察や制裁の結果、大規模な化学兵器生産能力も失われていたという。」「モスクで爆発、6人死亡 イラク中部バクバhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040109-00000241-kyodo-int 」この報道は、そこから受け取るイメージがよく分からないものになっている。同じイラク人を殺すと言うことは、まさにテロリストと呼べるような行為で、その残虐性を宣伝しようと言うことだろうか。しかし、これがシーア派のモスクで行われたことを考えると、イラクの状況はもはや内戦に近いものになりつつあるのかというイメージもわいてくる。これは、もっと細かい点が報道されないと、どんな意味があるのか分からないという感じだ。弁慶と牛若丸が、偉いか偉くないかという問題は、事実として認定できる問題じゃない。どっちを選んでも一応の根拠が考えられることで、間違いとは言えない。まさに、どちらを選択するかで、自分がどのように考え、どのような立場にいるかということを表す問題になる。事実として認定できる問題は、それが事実として決定すれば、正しいか間違っているかが決定する。白黒がはっきりする。劣化ウランの影響などは、将来的には事実として決定するものだろうと思う。アメリカが正義かどうかという問題は、正義というものの定義が厳密には決まっていないため、事実として確定する問題じゃない。だから、自分がどの立場にいるのかを表明するものとして、アメリカが正義だと思うかどうかが決まってくるだろう。不正義であるフセイン体制を倒すという面に正義を見る人もいるかもしれないが、僕はアメリカがイラクの民衆に対して行っている行為に、正義に反するものを見る。この不正義が正しく批判されて、少なくとも不正義である部分に対してアメリカが責任を取るように世論が盛り上がることを望んでいる。現実の問題を埋め合わせるために、不正義を棚上げしてすませようとする動きには注意しておきたいものだ。
2004.01.10
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「7月4日に生まれて」という映画を見た。7月4日はアメリカの独立記念日で、愛国的なパレードなどが行われるらしい。この7月4日に生まれた主人公のロン・コーヴィックは、愛国心の固まりである象徴的な存在として登場する。国を愛し、国のためにすべてを捧げると考える純粋な若者のロンは、やがて海兵隊を志願しベトナムへ行くことになる。そのベトナムで彼は、銃声の聞こえた方向に向かって反射的に銃を乱射してしまい、女や子供を誤って殺してしまう。さらに、パニック状態になった彼は、味方をも誤射で殺してしまう。そして、自らもある戦闘で傷ついて下半身麻痺の重傷を負ってしまう。愛国心に燃え、正義を信じ、国のために戦ってきた彼が、その思いを裏切られていくのはこれからだ。ロンは、国のために命がけで尽くした自分たちが、少しも人間らしく扱われておらず、報われていないと感じる。帰国してからも、尊敬されるどころか、間違った戦争に荷担したとして批判の対象になっていた。愛国心というのは、報われることがなくてもなお捧げ続けるというのは難しいのではないかと思う。国のために尽くせば、それにふさわしい扱いがあってこそ愛国心を持ち続けることができるのだと思う。その期待に全く応えてくれない状態で、ロンの愛国心にもかげりが見えてくる。しかも、彼は正義と信じていったベトナム戦争で、必ずしも正義ではない面を体験してしまった。このような青年が生きる目的を失い、気を紛らわす酒と女におぼれて、自暴自棄になるのは当然すぎるほど当然なことのように見える。彼が愛国心を引きずっていたら、いつまでもそこから抜け出すことが出来なかっただろう。しかし彼はそこから立ち直る。それは、映画のラストで、「真実を語る」といった彼のセリフに、その立ち直りの方向が込められているように感じた。彼は、ベトナムでの矛盾から、自分の信じていた愛国心に疑問が生じていた。しかし、たいていの人間は、自分が信じてきた価値観を否定することは、自分の人生を否定することにも等しいので、なかなかそれは出来ないだろう。だが、彼はそのままでは全く意味のない人生を送らなければならないという状態にいる。真実に対してまともに目を向けなければ、彼の人生はそこで終わりになってしまう。「真実を語る」と決心したときに、たとえそれまでの人生を否定することになっても、これからの人生を取り戻すことが出来て彼の人生はまた意味を取り戻したのだろうと思う。彼は確かに間違った戦争に参加した。彼は、恐怖心から無差別に銃撃するような戦闘で非戦闘員を殺してしまった。このようなことが起こるのは、そもそもが間違った戦争であるからだと考えた。そして、自分たちにも責任があるものの、もっと重い責任は、自分たちに間違った正義を吹き込んでベトナムに送り込んだ権力の側にいる人間たちだと気づいた。それを知らせるために、彼は戦場での真実を語り始めた。イラクがベトナム化するのではないかという声が挙がっているが、イラク戦争にも、ベトナム戦争におけるロン・コーヴィックのような青年がいないだろうか。愛国心に燃え、正義を実現するためにイラクに行きながら、その現実に打ちのめされ、傷ついて帰国したロンがいないだろうか。その青年が、自暴自棄になって、生きる屍のような人生から立ち直るには、ロンのように戦場の真実を語ることが必要なのではないかと思う。不正義の戦争に利用されたことに怒りを込めて抗議する、ロンのような青年が登場するのを待ちたいと思う。さて、イラクではロンがベトナムで経験したような誤射が昨日もあったようだ。「誤認攻撃で夫婦死亡 イラク、米掃討作戦中http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040108-00000041-kyodo-int 」この誤射について、反米勢力が逃げ込んだのが悪いという見方もあるだろう。つまり、ゲリラが動き回るのが悪いのだから、正々堂々と立ち向かってこいというわけだ。しかし、圧倒的な武力の差がある相手に向かって正面から来いというのは、卑怯な言い方ではないだろうか。むしろ、正義を実現するというのだったら、民間人を守るための配慮が出来る作戦をするべきだろう。それが出来ないとすれば、そもそもイラクへ行って戦争をすることが間違いだと考えるべきではないだろうか。劣化ウランの影響というものもそろそろ現れてきそうな時期になってきた。劣化ウランに関しては、アメリカはその影響の大きさを認めていない。そうであれば、健康被害が起きても正当に扱われない可能性も出てくる。ロン・コーヴィックは正規の戦闘での負傷だったので、それに対する補償は一応あったが、劣化ウランによる健康被害に対しては、もしかしたら補償も十分ではないかもしれない。そうなったら、ロン・コーヴィックよりも悲惨な人生を歩まなければならない青年も出てくるかもしれない。そういう青年が救われるには、やはり真実を語る以外にはなくなるだろう。劣化ウランの真実をもはや隠せないとなったら、アメリカはそれを認めて米兵に対して補償をするようになるだろうか。その時は、イラクの人々に対しても、劣化ウランが原因で被害を受けた人には同等の補償をしなければならないだろう。そうでなければ正義の実現にならないからだ。しかし、劣化ウランの影響を認めれば戦争が不正義であることがますます明らかになってしまうので、いつまでも認めないという可能性が大きいかもしれない。それにしても、アメリカというのは、自国の愛国心というものに対して根本的な疑問を投げかけるこのような映画が作れるというのは、文化的に偉大な国なのだなと思う。愛国心でさえも、無条件なものでなく、権力が間違った愛国心を吹き込んでいるときは、その愛国心は間違いだと主張できるわけだ。この偉大さは、果たして日本では実現できるだろうか。ある愛国心が正しいか間違っているかを問題にして議論することが出来るだろうか。愛国心を無条件に認めて、その正邪を判断するなんてことを許さないのではないだろうか。不正義の戦争に参加するために自衛隊がこれから送られようとしている。形の上では、自衛隊員は自らが望んでイラクへ行くことになっている。彼らの愛国心には曇りはないだろう。しかし、どこかで愛国心に疑問を感じたときに、日本でもロン・コーヴィックが出てくるだろうか。第2次世界大戦で、戦場の真実を語る旧日本軍兵士は数が少なかった。アメリカのように、ベトナム帰還兵がベトナム戦争に反対するデモを起こすというようなことが、日本でも起こる可能性があるだろうか。自衛隊員の中から、戦場の真実を語るロン・コーヴィックが出てくることが、自衛隊が民主主義の軍隊であるかどうかの試金石にならないだろうか。言論の自由が保障されている民主主義のもとでなら、戦場の真実を語る人間が出てきてもいいはずだと僕は思うのだが。
2004.01.09
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僕は、教員になる前の学生時代は、灰谷健次郎的世界に心を引かれていて、灰谷さんとよく対談をしていた宮城教育大の当時の学長の林竹二さんがいわば理想の先生だった。林さんは、教育とは生徒の中にある宝を探り出す仕事だと語っていた。林さんはその哲学的教養を基礎にした「人間について」という授業を日本各地で行っていて、その授業が生徒の心に響いたとき、生徒が実に深い表情を見せ、知的な輝きを見せるという実践で自分の信念を証明していた。僕も、勉強というものの基本はモチベーション(動機付け)にあり、どうしてもそれを知りたいという強い関心があれば、ほとんどどんなことでも勉強できてしまうものだと思っていた。だから、教育にとって大事なのは強い動機付けで、あとは教授テクニックなどはそれほどなくても、並のレベルで充分成果が出るものだと思っていた。しかし、実際教室に行ってみると、この動機付けが実に難しいものだと思い知らされた。実際の授業の現場では、灰谷健次郎的世界の理想などどこかへ吹っ飛んでいってしまった。生徒の中に宝を見つける前提である生徒との信頼関係を築くのがそもそも難しい。勉強などは仕方なく我慢してやるものだと思っている生徒に、強い動機付けなどは難しい。こちらの言葉に耳を傾けさせるのでさえ難しい。今ならこの現実を多少は分析できるけれど、若かった頃はまずどれから手をつけていいのかが分からなくて、途方に暮れていた感じだった。かといって現実をそのまま肯定して、つまらなくてもなんでも我慢して勉強するのが生徒の役割だと割り切ることも出来なかった。つまらない数学を教えることに耐えきれなくなり、数学を教えなくてすむような学校に行こうと思い養護学校に転勤したようなものだった。僕は、学生の頃は社会と無関係に観念の中で生きていたようなところがあった。僕にとって関心があったのは、生きている人間ではなく、数学であり哲学であり文学の方だった。人間に対する関心も、生きている人間よりも、文学に登場する典型的な人間の方により大きな関心があった。だから、仕事を始めて社会の現実に直面したときにとまどったのだと思う。なんとかこの社会を理解しなければならないと思ったときに出会ったのが本多勝一さんだった。最初に手にしたのは「貧困なる精神」というシリーズの本だった。これは今でも僕の愛読書で、まだ新しい本が出続けている。本多さんは、それまで僕が表面的にしか見られなかった物事の別の一面を見せてくれることで、もっと深い考えに到達するということを教えてくれた。常識だと思われていることの中に疑いを持ち、変だと思った感覚をいかにして次の考えに結びつけていくかという道を教えてくれた。本多さんのおかげで、マクロ的な観点からの社会のとらえ方は分かってきたけれど、まだ目の前の現実をどうしたらいいかは難しい問題だ。今でも中学生のほとんどは、勉強は我慢してやるものだと思いながら毎日を送っているんだろうなと思う。なんという無駄をしているのだろうと思う。モチベーションを高めるシステムにさえすれば、生徒も教師もどちらも幸せを感じる学校生活に出来るのに、道徳を押しつけて忍耐をする訓練で学校生活を送らせてしまっている。学校というシステムは、とても個人の力では変えることが出来ないので、もしも養護学校と夜間中学というところがなかったら、僕も不幸な教員生活を送っていただろうと思う。まあ、勉強は我慢して行うもので、忍耐が立派な人間を作るということに疑いを持たなければそれほど不幸ではないのかもしれないけれど、そういうことに反旗を翻す人間にとっては耐え難い場所が学校だ。学校制度というのは、元々が明治の富国強兵の考えの基で生まれてきたもので、国家にとって役に立つ兵隊を養成するのが大衆教育の目的だった。だから、それを肯定すれば、学校で行われていることにはそのために役に立ちそうなものがかなりあることが分かる。訳が分からなくても、教えたとおりの手順を踏んで答えさえ出せば高く評価されるという授業なんかは、それを受け入れる人間が多いときは従順な兵隊を作り出すのに役立っただろう。物事を理解して、自分の考えで行動を選び取っていく人間は、民主主義を実現するのには必要だけれど、学校ではあまり歓迎されない。だいたいがわがままだという評価を受ける。主体性とわがままは紙一重なんだけれど、主体性が高いという評価を受けることは少ない。建前上は、今の学校は民主主義的で、生徒の成長というのを一番に考えていくことになっているが、果たして本当にそうなっているかには大いに疑問がある。これは、システムとして疑問だということで、個々の教員が努力していないということではない。むしろ個々の教員は、まじめで誠実な人が多く、努力の方向を間違えていると、かえってその弊害が恐いくらいだ。養護学校も、夜間中学も、ある意味では本流からはずれた学校で、それほど気にかけられていないために、国家を無視して生徒本意に考えても目こぼしをされているのかもしれない。さて今日のニュースの中で目についたのは次の記事だ。「<米大統領>新移民政策発表へ 就業中なら3年間滞在、延長もhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040108-00000069-mai-int 」これを見ると、アメリカのやり方は日本とは正反対のように見えるが、どちらが合理的か考える材料になりそうな気がする。ここには次のような記述がある。「米政府高官によると、新制度の目的は▽地下経済化している外国人労働者市場を正常化し、米国人雇用者による合法的な労働力確保を推進する▽不法滞在者に身元や居場所を登録させ、テロなどからの国土の安全を向上する▽最低賃金や労働法規による保護などを保障し外国人労働者の権利を保護する――など。「米国経済の現実に沿った措置」(同高官)だという。」日本では不法就労者は、犯罪者に変わる可能性もあるので出来るだけ閉め出す・入れないという方向を取っているように思われるが、アメリカではむしろ危険を減らすために合法化して受け入れようとしている。これは、たとえ閉め出そうとしても、何らかのルートをたどって必ず入ってくるだろうということが前提になっているんだろうと思う。違法にすれば、そこに危険な媒介者が介在する可能性が高くなる。それを合法化すれば、入ってくる人間の情報もつかみやすくなり、何かトラブルが起こったときの処理もやり安くなるだろう。僕はアメリカの方が合理的な考え方だと思うんだけれど、日本ではほとんどを閉め出すことが出来ると考えているんだろうか。それは無理のような気もするが。「<オランダ>下士官を殺人罪で起訴 暴動イラク人に発砲でhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040108-00002077-mai-int 」という記事には、様々の難しい問題を感じる。自国の防衛でもない、イラクにわざわざ行っているというオランダ人兵士にとっては、「兵士は職務を遂行しただけで、罪に問うべきではない」という感覚は当然出てくるものだと思う。しかし、イラクの人々から見ると、ここで正義が実現されるということは、本当にイラクの人々のために来ているのかどうかを問う一つの鏡になると受け取られるのではないか。正義を実現するということは、自分自身に対して厳しすぎるくらいの規範を課すという高い倫理がなければ、とても相手に信用してもらえないと思う。これは、どちらの結果が出ても、双方(オランダ人とイラク人)に不満が残ることになりそうな難しい問題だ。このように難しい問題が生じるというのは、そもそもこの戦争が不正義のもとに行われているということの結果のように思われる。「子供ら16人死亡の爆発、タリバン司令官が異例の謝罪http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040107-00000315-yom-int 」この記事をどう受け止めるかというのも難しい問題だ。かつて本多さんがベトナムを取材したときに、解放戦線の失敗をどう受け止めるかということを書いていた。反対の立場に立って報道すれば、その残虐行為を非難し、いかにひどいことをしたかを言い立てるということになるだろう。しかし、解放戦線の普通のやり方をたくさん取材してきた本多さんは、これは不幸なことではあるけれど、「解放戦線にも失敗はある」という、避けられぬ現実の問題であるという風に語っていた。アメリカが「誤射」をするということと同列に論じるような問題ではない。アメリカの「誤射」には、民間人の犠牲が最初から計算済みだが、解放戦線の失敗は、出来るだけ民間人の犠牲を避けるという注意をしながらも、避けられない現実があるという問題になっているということだ。果たしてタリバンの普通のやり方がどうなのか、タリバンについての情報が不十分なのでよく分からない。アメリカの宣伝では、タリバンの残虐性が言い立てられているが、これは利害の反対側からの宣伝なので差し引いて受け取らなければならない。この謝罪の表明が、本当に誠実なものだったら、タリバンは、宣伝されているようなひどいものではないとも言えるかもしれない。果たしてどうなんだろうか。
2004.01.08
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田中宇さんの「イラク」という本を読んでいる。この本は、イラク戦争が始まる少し前の2003年3月に書き上げられたものだ。学者が様々の角度から分析してイラクの全体像を築いたものではなく、ジャーナリストである田中さんが見聞きした事実をもとに、ある意味では個人的な感想を含んだものになっている。だから、これがイラクの本当の姿だとか、全体像だとか言うことは出来ないが、田中さんはジャーナリストらしく、事実と自分の考えをはっきりと区別しているので、田中さんが見聞きした一面としてイラクを描写している。最後に近いところで田中さんは次のように書いている。「私はイラクに行って、「イラクにはイラクなりの事情があるのに、それを無視して世界の人々が悪し様に言っている」と思うようになった。フセイン政権が独裁であるとか、人権侵害であるとか、人権侵害が多いという指摘に対しても「イラクは欧米や日本のように社会が長期安定できる地理的環境になかったことを考えると、やむを得ない部分がある」と感じる。中東は紀元前から現在まで、東西南北のいろいろな勢力から何回も侵略され、またはイスラム帝国のように外に向かって侵略し返したりして、不安定な状態が続いている。1910年代以後は、統一すべきアラブは欧米によってずっと分割されたままの状態だ。」中東の専門家である高橋和夫さんも、サダム・フセインはイラクのホッチキスだというような比喩を語っていた。イラクは、様々な民族対立や宗教対立もあって、そのままでは国がバラバラになっているけれども、なんとか統一を保っていたのがサダム・フセインの力だったといっていた。サダム・フセインによって一つに束ねて綴じていたのだという比喩だった。上の一文は、あくまでも田中さんの思いだから、それに賛同しない人もいるだろうが、我々がイラクのことをよく知らないために、マスコミの宣伝によってイラクについて判断しているかもしれないと言うのは気をつけなければならないことだと思う。イラクは本当はどのようなところなのか。一面的なイメージでとらえずに、今まで知らなかった他の面も知ることで、もっと深く考えることも出来るのではないだろうか。田中さんが報告することもイラクの一面である。それがイラクのすべてではない。しかし、その一面を知らず、マスコミの宣伝する一面だけしか知らなかった人は、田中さんが報告する一面を知るだけでも大きな価値があるのではないかと思う。ちょっと紹介しよう。田中さんは2003年1月にイラクを訪れた。この報告では、主にその時に出会ったイラクの人々を紹介している。バグダッドについて次のように書いている。「日本や欧米にいてイラクに関する報道に接していると、12年間の経済制裁を受けたイラク社会は完全に疲弊しているように感じられたが、バグダッドに来てみると、非常に活気があり、以外に豊かなのでとても驚いた。町は雑然とした感があり、その点でエジプトのカイロと似ていたが、バグダッドはカイロに負けない豊かさを誇っていた。インフレが激しく、公務員など固定給の人々の中には貧しい人もたくさんいるのだろうが、町全体としてみれば、中東有数の活気ある大都市だった。」イラクは、ガソリンが日本円で約3円ほどでとても安く、豊富にあるという記述もある。また、医療と教育は基本的に無料で、食料に関しても配給制があって、食べるのに困ることはないと言う。アメリカの占領下で、これらがどうなっているかを想像すると、いくつかの点でフセイン時代より悪くなっているというのはうなずけることのようにも思える。フセイン政権下の監視社会が現実にはどのようなものか分からないので、総合的に言うと、その時代と今とどっちがいいのかという判断は簡単には出来ないが、フセイン政権下で出来たことがアメリカに出来なければ、アメリカに対する不満はだんだん大きくなるのではないかということは考えられる。田中さんはイラクの人々の優秀さも語っている。イラクは経済制裁で物があまりたくさんはない。だから、そこにあるものを利用してなんとか工夫するという能力が伸びたようだ。車が故障すると、先進国ではその車のメーカーでなければ修理が出来ないだろうが、イラクでは会社が違ってもあるものを使わなければならないので、部品を寄せ集めて修理してしまうそうだ。仕事をきちんとやる態度にも言及している。誰かが見ているわけではないが、高い倫理意識で自分の仕事を全うしようとする姿を至るところで感じたようだ。イラクは、フセイン政権の人権侵害も確かにあっただろうが、アメリカが戦争を仕掛けてそれを排除しなければ、国民はいつまでもその力に押しつぶされていると考えるのは、あまりにもイラクの人の主体性を認めない見方ではないだろうか。助けてやらなければ、自分たちを解放する力はないのだと思ってしまうのは、田中さんが接したイラクの人々の姿を見ると、どうも見くびった見方ではないかと思ってしまう。われわれは、あまりよく知らない人に対しては、マスコミの宣伝でそのイメージを作り上げてしまう。それは事実を伝えているのかもしれないけれど、すべてではないということを常に考えに入れておかなければならない。それは、ある一面の姿を伝えているだけだ。他の一面もあるということをいつも頭の片隅においておかなければならない。そして、その他の一面の方が、ある意味では大事な一面かもしれないのだ。イメージの強さからいえば、イラクの人々よりも、お隣の朝鮮民主主義人民共和国の人々の方が、偏った一面を見せられ続けているかもしれない。他の一面を知ることの出来る情報を探したいものだと思う。最近は、日本の世論の中にも、話し合いをしていこうという意見も出始めている。もしかしたら、他の一面のニュースも出てくるかもしれない。今日のニュースで気になるものを一つあげて締めくくりにしよう。「北朝鮮、経済改革により政変のリスクも=研究報告http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040107-00000664-reu-int 」経済改革は、平和的に問題を解決することになりそうな気がする。経済的な発展は、資本主義的なシステムを取り入れない限り難しいと思う。そして資本主義的なシステムを本当に働かせるには、民主主義的なシステムがなければならない。消費者のことを考えて商売をしなければ、商売は繁盛しないし、繁栄もないというわけだ。闇市のようなものが出来て、ある意味では不当に金儲けをする人間も出てくるかもしれないが、そこで力を得た人間が出てくれば、体制側がコントロールできない勢力が生まれることになる。ここから体制が崩れていくきっかけも生まれてくるかもしれないというわけだ。もし朝鮮民主主義人民共和国が、経済改革に手をつけ始めたら、平和的に体制が変わっていく可能性を選んだとも言えるかもしれない。そうであるのなら、賢い選択をすることの出来る国であるかもしれない。核開発の問題も、拉致被害の問題も、もしかしたら平和的に解決する道が今後期待できるのかもしれない。このニュースにあるように、国内的には政変というような混乱が生じるかもしれないが、戦争という事態は避けることができて、本当の破滅の道からは逃れられるのではないだろうか。このニュースの続報に期待したいと思う。
2004.01.07
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夜間中学には大人の生徒が多い。それでずっと考え続けているのが、大人にとって学ぶに値する数学とは何かということだ。僕の専門は数学なのだが、今の中学校の教科書にある数学で、本当の意味で役に立つ数学というのが見あたらない。学校を卒業してしまえば、ほとんど忘れてしまっても不便を感じないばかりでなく、こういうことに役に立ったとも言えないものばかりだからだ。大人になってから学ぶには、労多くして功少なしという感じがしている。僕は数学の中でも一番に勉強したのは論理学で、これはとても役に立つと思っている。しかし、これはやや専門的な面倒な議論が必要になり、なかなか学びやすい形に工夫できないので、教えることが難しいという感じがして残念だ。学生の時に、もう一つ面白いと感じた数学は統計数学だ。これは、現実の問題を解決するものなので、とても学びやすいと感じていた。せめて、統計的なセンスのようなものでも伝えられないだろうかということを考えている。統計というのは、個々の性質を捨象し、集団としての全体の性質を予測しようというものだ。個々の動きはランダムでデタラメのように見えるのに、ある一定の量が集まれば、その集団としての動きが予測できるというのが統計数学の考え方だ。数字を通じて社会の姿を把握しようと考えるのが統計的センスの第一歩とも言えるだろうか。社会というのは、個人の単純な延長ではないというのが社会の難しさで、社会の中で何らかの体験をしても、社会というものの全体像が見えるとは限らない。その全体像をかいま見る窓のような役割をしてくれるのが統計というものだという感じだろうか。統計数学で大事なのは、得られたデータを加工してそれについて考えることも大事だが、データそのものにどれだけの信用があるかを考えるのも大事なことだ。得られたデータの加工やその解釈は、数学的に正しくても、データそのものに信用性がなければ、その結果や解釈も信用できなくなる。統計的センスの中には、データとして得られた数字に対するセンスというものがまず含まれる。神保哲生と宮台真司のマル激トーク・オン・デマンドで「世論調査を疑え」というテーマでの番組があった。世論調査というのは、国民がどのような考え方をしているかを、簡単な質問に答えてもらうことによって予想しようとするものだ。これは国民全員に答えてもらうことは出来ない。あまりにも数が多すぎるからだ。だから、全体の傾向を予想するために、その中の部分を選び出して調査をする。この調査数は、基本的には1000人くらいらしい。しかも、この1000人は全員が答えを返してくれるものではなく、この中から有効回答数というのは、600~700くらいになるらしい。この数で、日本全体の傾向を予想しようとするわけだ。まず問題になるのは、この選び出された1000人が、本当に日本を代表しているような、全体の縮図にふさわしい1000人であるかということだ。偏りがあったら、それは日本全体を予測するということにふさわしくなくなる。これには、いくら慎重に選び出そうとしても必ず誤差が含まれる。誤差の計算は難しいので簡単に説明は出来ないが、誤差があるという前提で眺めるという意識が統計的センスの第一歩だと思う。世論調査で、もしも小数点以下の数字なんかが出てきたら、これはかなり怪しいものとして見ておいた方がいいだろう。かなり大差が付くようなら、大きく差がついているというくらいの意識を持ってみておいた方がいいだろう。細かい数字をあげて論じてはいけないと思う。それは誤差の範囲内かもしれないのだから。世論調査の場合は、その質問の仕方にも気をつけなければならない。質問によっては、最初から結果が読めるような質問である場合もあるからである。ある主張の正当性を宣伝するために行われる世論調査もあるのではないかという疑いをもっておいた方がいいかもしれない。イエスかノーかがはっきりするような質問なら調査結果の信憑性も出てくるが、中間の答えが考えられるような質問では、「どちらでもない」というような選択肢がなければ、その結果はイエスが多いのかノーが多いのかが、あまり信用できないかもしれない。「どちらでもない」が一番多くなるようでは、質問そのものにあまり意味がなくなってくる。統計的センスの問題は、だまされないための知識を得るということでも大切なことのように思う。大人にとって学ぶに値する知識は、だまされないための知識かもしれないからだ。新聞記事の中から、具体的に授業で使えそうな数字を探していきたいと思う。新聞を正しく読むための数学を勉強できたらと思う。ちょっとだけ数字を読むことを試みてみよう。次のニュースには、いろいろと数字がでている。「米大統領、再選に向け始動…党内対抗馬なく資金も独走http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040106-00000211-yom-int 」ここには、ブッシュ大統領の支持率が6割という数字が出ている。この6割という支持率に、積極的支持がどのくらいあるのかというのが一つの問題だろうと思う。もし、全部が積極的支持だったら、これは圧倒的多数が支持していると言ってもいいだろうと感じる。しかし、その比率が低ければ、消極的支持は、いつ不支持に変わるか分からない不安定な支持と言うことになり、これはかなり割り引いて支持を受け止めなければならない。この記事からだけではどちらかは分からない。希望的観測をしないように気をつけないとならないだろう。「運動論いろは」という本を書いた仮説実験授業研究会の牧衷さんは、運動において、積極的賛成派と積極的反対派は、せいぜい2割程度しかいないといっていた。だから、中間層の3割を獲得すれば、形の上では過半数を超えてしまい、それが明らかに分かるようになれば、あとの3割は雪崩を打って自分の陣営に流れて来るというようなことをいっていた。支持するかしないかという世論調査が、積極的支持なのかどうかという点まで分かるようであれば、その安定度がかなり分かるような気がする。この記事では、「「ブッシュ対ディーン」でどちらに投票するかの問いでは、ブッシュ55%がディーン37%を圧している」という記述も見える。この55対37という数字も、圧倒的にブッシュが優勢だと見て取るかは、やはりその中身が問題になるだろう。アメリカの大統領選は、結果的にブッシュが勝つかもしれない。しかし、その宣伝にはだまされないように気をつけてみていきたいものだ。ブッシュ大統領も小泉首相も、政策的なミスが目立つのに、その支持率はいっこうに衰えない。これはだまされる人間がかなり多いのではないかなと思うのだけれど。統計調査の方にも問題があるのだろうか。世論調査の結果だけではなく、その中身の方も調べてみたいものだ。
2004.01.06
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ページの設定をいろいろ変えてみた。すでにフォークソングの話題をやめてから長くたつので、いつまでもフォークソングを掲げていたのでは看板に偽りありということにもなるので、日記の内容にふさわしい表題にしようと思った。いつか再びフォークソングの話題に帰るかもしれないけれど、まあしばらくはこれでいこうかなと思う。物事を解釈したり、それについて考えたりするのに役立ちそうな知識をメモしておこうかなとも考えている。昨日の日記に書いた、事実と解釈を区別するという見方なんかはそういう知識の一つかもしれない。もっと抽象的にすれば、主観と客観の問題を考えると言うことになるだろうか。主観は、自分の頭の中にある、自分と切り離せない自分の中にある存在で、客観は、自分とは独立に外にある存在だ。この主観と客観は、一見全然別のものに見える対立した関係にあるように感じる。しかし、よく考えてみると、主観でもあり客観でもあるというような存在にぶつかることがある。ここに、弁証法的な見方というものの重要性が示唆される。対立物を切り離すのではなく、その統一的な見方をするということだ。昔、本多勝一さんが、「客観的報道はあり得るのか」という疑問を提出していた。この「客観的報道」というものの考察で、主観を離れた客観はあり得ないという意味での主観と客観の統一を語っていたように感じた。報道というのは、客観的でなければ信用度が落ちてしまう。その客観性というのは、自分の考えを直接伝えるのではなく、事実をもって語るという意味での客観性だ。何が起きたのかということを正確に語らなければならない。しかし、事実というのは探せばいくらでもたくさん出てくる。本多さんの話では、たとえばベトナムのことを報道するのに、その地理的位置も事実になれば、ベトナムの土地に関することも、どんな微生物が存在するかとか、そこで何が作られているかとか、それは無限にたくさん事実があるといっても言いくらいだ。この事実をすべて網羅することは物理的には不可能だ。そこで事実の中から、報道に値すると思うものを選択しなければならない。この選択は、報道する主体が選び取るという点で、必ず主観が伴うものになる。一人の主観だけでは妥当性が低いからといって、複数の人が選択するにしても、やはり選択に際しては、その選択に参加した複数の主観が含まれた客観になっているわけだ。データをランダムに、確率的な偏りなしに選ぶという工夫でもしない限り、事実の選び方に客観性はなくなる。だから、こういう意味で、客観的な報道というのはあり得ないし、完全に客観的にしてしまったら、ほとんど価値のないデータベースを埋めるだけの報道になってしまう。何らかの価値のある報道は、主観を含んだ、そのバランスにおいて適切なものをもっている客観的な報道ということになる。一方的な情報操作をするような報道を大本営発表などと比喩的に言ったりするが、マスコミの報道は、その選択の仕方に偏りがあることを前提にして客観性を受け取った方がいいだろう。さて、そのマスコミ報道で気になるものを探してみよう。「拘束イラク人に暴行死なす バスラ駐留の英軍兵士http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040104-00000028-kyodo-int 」この記事に関しては、この暴行が不当なものであるかどうかが問題になる。「死亡したのはホテル従業員バハ・ムーサさんで、仲間の7人とともに英軍の施設に連行され、手を縛られ頭から袋をかぶせられた上で、殴るけるの暴行を受けた。」という状況を見ると、これが正当な取り調べの上で行われたとは解釈しにくい。なぜこういうことが起きてしまうかということは、解釈の部類にはいるが、抽象的にいうと、不正義の側が正義を実現するのは難しいということの表れなのかなと解釈したい感じだ。暴行を行った兵士個人の問題としてみるのか、構造的な問題としてみるかで解釈が違ってくるだろう。構造的な問題としては、人種差別的な問題もあるのではないだろうか。この兵士は、相手が欧米系の白人であっても同じような行為をしただろうか。「イスラエル軍、少年らパレスチナ人4人射殺http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040104-00000380-reu-int 」この記事では、「イスラエル軍は3日、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区ナブルスで同軍戦車や兵士に投石していた10代のパレスチナ人少年3人を射殺した。目撃者が明らかにした」と伝えている。石を投げる少年に対して、最新兵器で応えるイスラエル軍というのを想像すると、そのコントラストの不当性というものを限りなく大きく感じる。この兵士は、なぜそういう反応をしてしまうのだろうか。これは、暴力によってイラク人を殺したイギリス人兵士と同じ構造的な背景があるのではないだろうか。主観に存在する事柄は、あくまでも意見とでもいうべき存在で、まだ真理として客観性を獲得しているものではない。せいぜい仮説の段階だ。だから、そういうものに対しては、他人の立場としては、賛成するか反対するかどちらかを選択するということになるだろう。これが、完全に客観性を獲得し、事実に間違いないということになれば、賛成・反対にかかわらず、真理としての資格を獲得することになる。自衛隊の派遣が正しいか間違っているかは、正しい・間違いの判断基準がはっきりしていなければ、単なる意見という主観を脱することは出来ない。だから、それは賛成するか反対するかどちらかになるということになるだろう。基準がはっきりしている言い方をすれば、それが事実として真理を獲得するか、間違っているかははっきりするだろう。自衛隊がイラクに行けば、必ず反抗勢力の標的になり、何らかの攻撃を受けると予測する人がいる。これは、事実として攻撃を受ければ、この予想が正しいことは分かる。しかし、この予想から、イラクへの自衛隊の派遣が間違っているとすぐに結論できないのは論理の難しさだ。自衛隊派遣そのものの是非は、どういう事実が起こったときに正しいか間違っているかを判断するのかという共通の理解がないからだ。正しいか間違っているかを議論するのなら、この共通の理解がないとならないのだが、それは難しいかもしれない。だから、正しいか間違っているかは議論できない問題として認識した方がいいかもしれない。議論できないのは、事実として何が起こるかという具体的な予想だろう。そして、それに対する解釈は、賛同するか出来ないかという意見表明に意義があるのかもしれない。
2004.01.05
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事実と解釈を区別するということはとても大事なことであるけれど、これはそれほど簡単なことではない。たとえば次にニュースの中に表れる事実と解釈を区別してみよう。「テロ警戒で民間機追跡 米戦闘機 【ワシントン2日共同】米政府が2001年の米中枢同時テロのようなテロリストによる民間機のハイジャックを警戒し、F16戦闘機が海外から米国に到着する民間機の監視飛行を実施していることが2日までに明らかになった。 ワシントン・ポスト紙など米メディアによると、昨年12月30、31日にはロサンゼルス行きのエールフランス機2機をF16戦闘機が追跡したという。 同時テロではハイジャック機が世界貿易センタービルなどに突入しており、万一の場合に被害を最小限に食い止めるため、民間機撃墜も選択肢に入っているとみられる。(共同通信)[1月3日13時11分更新]http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040103-00000040-kyodo-int 」この中の事実の部分は、「F16戦闘機が海外から米国に到着する民間機の監視飛行を実施している」、「昨年12月30、31日にはロサンゼルス行きのエールフランス機2機をF16戦闘機が追跡した」という部分だ。これが事実であるということは、これが正しいか間違っているかにはっきりと白黒をつけられるということだ。マスコミのニュースは、事実に関する限りはあまり間違いを起こさないから、信頼してもいいだろうと思う。このことは間違いなく、あったことに違いない。それに対して、「テロリストによる民間機のハイジャックを警戒し」、「万一の場合に被害を最小限に食い止めるため、民間機撃墜も選択肢に入っている」という部分は、これが当局の発表に基づくものならば、発表した側にはそのような意図があるという事実の報道になる。しかし、そのような発表がないのなら、これは事実をもとにした一つの解釈ということになる。解釈である場合は、この解釈の妥当性がどれくらいあるかということが問題になる。解釈をする場合、その解釈はどの事実をもっとも重く見るかと言うことで解釈が違ってくる。上の場合は、他の解釈を考えるのが難しいので、かなり妥当性の高い解釈だとは思う。この解釈が正しいかどうか分かるのは、実際にテロリストがハイジャックするという、予想された事実が起こったときに、どのような対処をするかが現実のものになったときに、解釈が正しいかどうか分かるということになるだろう。正しさが決定するのは、未来にその予想された事実が起こったときということになる。解釈は、現在の時点でその正しさは分からない。妥当性の高さを考えることが出来るだけだ。昨日のニュースを、事実と解釈という視点から眺めてみよう。「イラク西部で米軍ヘリ撃墜、米兵少なくとも1人死亡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040103-00000320-reu-int 」このニュースには解釈が含まれていないので、自分で解釈を考えなければならない。このとき気をつけなければならないのは、解釈からさらに論理的に帰結される2次的な解釈をどう考えるかという問題だ。解釈そのものが、事実と違って100%確実なものではない。もしかしたら間違っているかもしれないものだから、その間違っているかもしれないものを基礎にした推論は、結論の信用性も薄いものになる。一番いいのは、2次的な解釈をしないようにすることだ。解釈は、常に一次的なものにとどめておくことだ。もしも2次的な解釈に踏み込むときは、それが2次的なものであることを充分意識しておかなければならない。さて、上のニュースの解釈だが、これは一つには決まってこない。一つは、米軍のミスによって、たまたま撃墜されてしまったという解釈だ。そしてこれは2次的解釈になるが、そうであれば影響はたいしたことはない。ミスの原因を突き止めて、そのミスが起こらないようにすればいいとも言える。しかし、ミスが起こるのは、システムに問題があることが多いから、米軍の全体のシステムの問題を象徴的に表すものだという解釈も出来るかもしれない。このように解釈は、「たいしたことはない」「いや重大だ」という全く正反対のものが成り立ったりするので、現時点ではどれが正しいか分からない。新たな事実の発生がそれの正しさを教えてくれるのを待つしかない。この事実を米軍のミスではなくて、反米勢力の力量の大きさと解釈することも出来る。ヘリコプターを撃墜するほどの戦力を持っているという解釈だ。この解釈には、武器の力量としての解釈と、それを扱う人間の技術の高さの解釈と二つあると思う。武器が優れたものであるという解釈と、人間の腕が優れているという解釈と、その両方であるという解釈だ。ここから得られる2次的解釈は、これほど優れた戦術を使える反米勢力なら、これからも米軍は苦しめられるだろうという予想だ。そう簡単には押さえられそうにない。果たしてどうなるか。これら二つの解釈は、両立しない解釈ではないので、二つの相乗効果で起こっていると解釈することも出来る。米軍は、必ずしも使命感に燃えた兵隊で、優秀で勇敢な兵隊だけではなく嫌々行っている人間が多く、むしろ反米勢力の方が、愛国心に燃えた宗教的信念も高い勇敢な人間であったという解釈をすると、米軍にはミスが生まれ、反米勢力には高い能力が生まれてくると言う解釈にもなる。いずれにしても解釈の正しさは現時点では分からない。これから何に注目するかという視点を与えてくれるので、そこを注意深く見ることによって判断していこう。「礼拝日のモスク急襲 米軍に信者1000人抗議http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040103-00000048-kyodo-int 」このことに対しては、「反米感情が一段と高まった」とニュースは解釈している。ここには、事実として曖昧なものもあり、「押収されたのは自衛用のライフル銃だけ」、「米兵は銃を手に、靴のまま入ってきた。(イスラム教の聖典)コーランを踏み、礼拝している人を殴り、募金箱を盗んだ」とイスラム教徒の声を伝えているが、これは、あくまでも聞いたことなので、このことが事実としてあったかどうかは確定していない。これが事実なら、「反米感情が一段と高まった」という解釈の妥当性は高くなると思う。「<イラク>サマワで職求め1000人以上デモ 混乱で男児死亡http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040104-00000034-mai-int 」この記事はどう解釈すればいいだろうか。事実としては、混乱と社会不安が起こったという風に見られるが、ニュースでは、これが次のようなものにつながるのではないかと解釈している。「住民の間では、自衛隊が雇用の場を提供するとの期待が高まっており、対応次第では現地の深刻な失業問題を背景にした社会不安に巻き込まれる懸念も出てきた。」これは、自衛隊がイラクに行ったあとでどうなるかで、この解釈の正しさが分かるが、僕はこれはかなり妥当性の高い解釈のように見える。自衛隊が、土木工事などで地元の人間を雇用する方向で事業を興すことでも考えないと、ただ行って何かをしても、テロは起こらないかもしれないが、暴動に巻き込まれる可能性は非常に高いのではないだろうか。その時に、過剰に反応して自衛隊にミスが起こる可能性が高くなったり、混乱に乗じてテロリストがねらって来るという恐れも出てくるかもしれない。懸念は高いと思う。事実と解釈の問題は、あくまでも論理的な問題で、ここにとどまっている限りでは、それは主観の問題を排して客観の問題として扱うことが出来る。しかし、事実を確認し、その解釈を求めたら、そのあとには自分はどの解釈を選び、どう行動するかを選択するかという主観の問題が表れてくる。解釈は、何が正しいか分からないから、いくつかの解釈が考えられるという問題提起だけなら、主観は関係なくなるが、その解釈の中で何を選ぶかは、主観の問題になってくる。それは、自分の実存をかけて選び取るという問題になってくるだろうと思う。アメリカを批判する立場を「反米主義」と呼ぶ人もいるが、「主義」というのは、判断をするときの一番重いものとしてそのことを考えるのを「主義」と呼んでいるような気もするので、「アメリカ批判」=「反米主義」ではないと思う。批判には、論理的な理由があって批判をするのであって、まず「反米」という考え方があって批判の材料を探しているのではない。信用するに足る材料が見つかるまでは批判をゆるめないと言う立場だ。僕の解釈は、やっぱり基本的には「アメリカ批判」というものになっていくだろうと思う。
2004.01.04
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僕は、学生の頃形式論理学を専門にしていて、その時に三浦さんの「弁証法いかに学ぶべきか」という本に出会った。形式論理学というのは、矛盾を許さない論理学なのだが、弁証法というのは矛盾を分析する論理学だった。形式論理学では、矛盾を認めてしまったら、どんな命題でも認めなければならなくなるので、論理的に考えると言うことがそもそも意味を成さなくなってしまう。だから、初めて弁証法に接したときは、僕はこれは詭弁だと思ったものだった。三浦さんに出会う以前に弁証法の解説書をいくつか読んだが、そのいずれも納得がいかない詭弁にしか見えなかった。しかし、三浦さんの考える弁証法は、形式論理学では扱えない事柄を、弁証法という考え方で乗り越えていこうとするもので、初めて論理的に納得が出来る弁証法の解説書だった。形式論理学というのは、その名の通りに、論理の形式を対象にして考察する論理学だ。だから、具体的に内容がかかわってくるような命題に対しては、内容を抽象し、その論理形式のみに焦点を当てて考えるように命題を作り変えなければならない。本質的に、内容を扱うことが出来ない論理学だ。そして、形式のみを考える限りでは、矛盾というものは成立しない。しかし、存在する物と物との関係を考察したりするなど、論理の対象に存在の内容がかかわってくると、矛盾しているように見える事柄があることが分かる。たとえば、原因と結果の連鎖などを考えるときも、ある事柄の結果が、次の事柄の原因になるということがよくある。そうすると、それは結果でもあって同時に原因でもあるということになる。それは、単なる観点の違いだという考えもあるかもしれないが、事柄の内容まで考えたことで、結果に見えたり原因に見えたりするのである。結果と原因は対立するものであり、同時に成り立つと考えるのは矛盾になる。形式論理学は、その矛盾を排除するような工夫をして内容も排除してしまうのだが、内容を取り扱えるように、矛盾に対する考え方の方を工夫したものが弁証法のように見えてきた。三浦さんは、現実に存在する矛盾を考察するのが弁証法だと語っていた。現実に存在しない、頭の中で矛盾をくっつけただけの、形式的な矛盾は弁証法の考察の対象ではなく、そのような矛盾を扱えばそれは詭弁になってしまうと語っていた。これは、僕の感覚と同じだったので、三浦さんに学ぶ価値があると思った。現実に存在する矛盾というのは、その例を見てみると、普通の常識で考えると、そうでないはずなのに、現実には常識に反するような事柄のように見えるという、素朴な疑問を感じるところに現実の矛盾が発見できる場合が多い。後に板倉聖宣さんを知ってからは、このように常識的発想が通じなくなったときに、常識とは違う発想を教えてくれるのが弁証法だという見方を学んだ。つまり弁証法は、論理学というよりも発想法として利用した方がいいだろうということだ。これも、なるほどと思い、板倉さんも学ぶに値する人だなと思ったものだ。弁証法は、矛盾の分析をするので、常識ではこうだけれど、でもその正反対を考えたらどうなるだろう、というような発想をする。板倉さんは、かなり早い時期に「いじめは正義から生まれる」というようなことをいっていた。当時は、いじめというのは、悪い心から生まれるというようなイメージが強く、心の教育が問題だというような方向が努力されていた。しかし、いじめのきっかけは、いじめられる人間が全体の価値観を壊したり、一人だけ浮いているという状態から始められることが多い。これは、悪い行いをした人間を、正しい方向へ導くことであるという全体の意志が、その集団の中ではいじめを肯定してしまう意志として働いていくというメカニズムを予想させる。今では、こういう発想をする人がかなり増えてきて、いじめに対しては、むしろこのように考える方が主流になりつつあるのではないだろうか。個人が個人をいじめるのであれば、個人の心理の問題で、心の教育の問題になるだろうが、学校で大きな問題になったいじめは個人の行為ではなく、集団の行為としてのいじめだった。だから、そこに注目して考えない限り、いくら個人の心の問題を解決するような努力をしてもいじめの解決にはならなかった。常識的な考えが通用しなくなった問題で、全く正反対のことを考えて考察を進めてみるという、発想法としての弁証法が役に立った例だと思った。この考えをさらに進めていくと、内藤朝雄さんの「いじめの社会論理」のように、問題となっているいじめの解決には、中間集団全体主義という、その集団内部で成立する特殊な規範をコントロールするという問題意識が生まれてくるのではないかと思う。世の中を見ていると暗い気分になるようなニュースに溢れている。どうして暗くなってしまうかというと、本来こうあるべきだと思っている考えに反する事柄が多く出てくるからだ。本来あるべきでなことが起こるというのは、世の中に矛盾が溢れているということではないかと思う。このような時代こそ、その矛盾に対しては弁証法的発想が、暗さを反対の明るさに展開してくれるものになるかもしれない。そういえば、板倉さんが提唱した仮説実験授業をやっている人々は、学校が無秩序になり、今までのやり方での学習が成立しなくなったと、人々が嘆いているときに全く反対の受け取り方をしていた。生徒たちがようやく自分の好き嫌いを素直に表現してもいい時代が訪れたと喜んだのだ。ようやく自分たちの時代が来たと歓迎していた。仮説実験授業なら、必ず生徒たちに歓迎され、好きなものを選択して勉強するということが普通になったときに、仮説実験授業を選ぶ生徒がたくさんいるだろうと思っていたのだ。素朴な疑問を感じたときに、弁証法的発想でそのことを分析してみたいと思う。今までの考え方では納得のいく答えが見つからないところに、全く正反対の答えを想定して考えてみたらどうだろうかと思っている。それがもし詭弁になるのなら、従来の方法での解決にまだ期待が残っているかもしれない。全く新しい発想で、新たな方向が見えてくるかもしれない。従来のやり方で全く解決の方向が見えない問題としては、テロとの戦いに、毅然として武力で立ち向かうという方法ではないだろうか。今日のニュースでも、相変わらずイラクでは誰かが死ぬような事件が起こっている。同じことの繰り返しで、全く解決の方向が見えない。矛盾が覆っているという感じだ。テロリストは弁護の余地のない悪であるという常識に疑問を提出することは出来ないだろうか。この常識に反することをいったら、それはテロに屈したことになるという考えがある。でも、その考えにとどまっていたら、そこから先へ進む発想は何も出来なくなる。テロに屈するというのは、テロを口実にした権力の側の権利の剥奪に何も抗議せずに屈してしまうことが、本当はテロに屈したことになるのではないだろうか。際限のない警備のエスカレートによって、正当な容疑なしに、入国に際して指紋押捺が強制され顔写真が撮られるようになるというニュースがあった。正当な容疑があれば仕方がないが、外国人であるという理由だけで一律にそのようなものが強制されるのは権利の侵害ではないだろうか。マイケル・ムーアは、プライバシーが侵されるというのは自由が侵されることだといっていた。テロ対策のためには、これもやむを得ないのだと思ってしまうことがテロに屈することではないのだろうか。テロに対して、毅然として戦うことは、テロを温存し、結果的にテロに屈する道を我々に開くことになっているのではないだろうか。権力の側はテロに屈していない。むしろテロを利用している。テロに屈しているのは民衆の側なのだ。テロリストはすべてが悪なのではなく、どこかに一理があるのかもしれないという発想が必要なのではないだろうか。それは、テロリストを弁護することではなく、一理があるところでは対話が成立し、暴力を使う必要をなくせると考えられるのではないだろうか。対話の成立しないところでは、自己主張するには最終的に暴力しかなくなってしまうというのは、学校での体罰の問題や、子供に対する虐待の問題を見ていると感じるところだ。あくまで正義を貫くために暴力を用いるのか、それとも暴力の可能性を減らすために対話の可能性を求めるのか。弁証法的に発想してみたいものだと思う。
2004.01.03
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元旦の日に、小泉首相が靖国神社を参拝した。形としては初詣をしたということらしい。これが、純粋に個人的な行為であるのなら、何も問題にはならないのだが、総理大臣の行動は、それによって何らかの影響を与えるような結果を発生させるようなら、個人的な行為であるといってすませることは出来ない。靖国神社参拝は、国内問題であり、諸外国の抗議は内政干渉だという声も挙がってくる。この問題は、常識の範囲内で考えていたのではなかなか正しい認識に達しないのではないだろうか。それで、新しいテーマを起こして、ここに素朴な疑問を提出してみた。この問題は、様々な解釈が出来るだろうから、どんな解釈を選ぶかの参考になるような知識を探してみた。まずは自民党議員の加藤紘一さんが次のページに書いている文章が参考になった。http://www.katokoichi.org/agenda/jikyoku_index49.html ここで加藤さんは、2001年8月13日に参拝したことについて書いている。ポイントは次の部分だ。「サンフランシスコ講和条約で日本は、A級戦犯の戦争責任を認めた東京裁判を受け入れました。国際社会への復帰。めざましい戦後の復興。未曾有の経済的な繁栄。すべて、サンフランシスコ講和条約とともに手にした、自由と民主主義のもとに始まったのです。 にもかかわらず、国の最高指導者が終戦記念日に、A級戦犯が合祀されている靖国を参拝したら、どうなるでしょう。A級戦犯の名誉を回復させるという印象をもたれても仕方がないのではないでしょうか。それは、サンフランシスコ体制そのものを否定してしまうことにもなりかねないのです。」加藤さんは、自民党議員でもあり、靖国神社参拝への心情的な理解というものはむしろ小泉さんに共感している。立場上はそうであるにもかかわらず、論理的な問題として靖国神社参拝の問題を提起している。これは、サンフランシスコ講和条約の問題であり、その中では東京裁判の結果を受け入れるということを、日本は国際的に表明しているのである。次の部分だ。「第十一条【戦争犯罪】 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。」この条約の全文は、次のところで読むことが出来る。http://list.room.ne.jp/~lawtext/1952T005.html 現在の日本人の常識からは、サンフランシスコ講和条約はどこかへ消え去ってしまっているのではないだろうか。諸外国の抗議が内政干渉であると反発する前に、この事実があるということを思い出してみたい。物事の解釈をするときは、どの事実をもっとも重く受け取るかということが大事なような気がする。この事実はかなり重く受け止めなければならないのではないだろうか。靖国神社参拝を考えるときに、これ以外の事柄というのもたくさんあるだろう。小泉さんは、「戦争で犠牲になった方々に、哀悼の誠を捧げたい」ということをよく言う。このことに反対する人はほとんどいないだろう。しかし、だから靖国神社へ参拝に行ってもいいのだと考えると、論理的にはちょっと違うのではないかという感じがしてくる。哀悼を捧げる方法として、靖国神社参拝しか方法がないのなら、論理的な帰結として靖国神社へ行かざるを得なくなる。しかし、他の方法はないと言っていいのだろうか。わざわざ靖国神社へ行くことが、国際的な約束を破るように見えることと比べて、そちらの方が重いという判断なのだろうか。加藤さんは、諸外国の反発をアジア地域の国に限らず、「これまで静観していたアメリカも、非難の声をあげてくる心配があります。」と語って、アメリカの非難を心配している。これをちょっと意地悪に受け取ると、アメリカさえ反発しなければ、アジアの国の反発などはやり過ごせるというおごりが小泉さんの側にあるのだろうか。アジアなんか無視してもアメリカについて行きさえすればいいんだという考えがあれば、確信犯的に靖国参拝をするということも考えられる。対米追従・アジア無視という路線は、これまで日本が孤立してきた道をこれからも歩むということを意味する。唯一の友人であるアメリカも、対等な意味での友人ではなく、日本は忠実な家来のようなものだと思われている。現在の国力では、確かに抗議の声をあげている中国や韓国を押さえていくことも可能かもしれない。しかし、いつまでもそのままだろうか。国力が上だから、無理なことでも押さえつけているというのは、かなり危ういことではないのだろうか。むしろ国力と関係なく、論理的にまっとうな路線を歩むべきではないのだろうか。将来、中国の国力が日本を上回ったとき、アジアでの孤立がどれだけの影響になるか、それを懸念する人は少ないのだろうか。東京裁判は不正な裁判だったから、その結果を受け入れるという条約そのものが間違いだと主張する人もいるらしい。東京裁判の正当性というのは、戦勝国が敗戦国を裁くという形を見ても、僕も疑問を感じざるを得ない。国際法に違反する捕虜の虐待などは、裁かれるだけの理由があると思うが、人道的な犯罪に関して言えば、一般市民を無差別に殺戮するアメリカによる都市部への爆撃や原爆投下など、同等に裁かれるべき犯罪が問題にされていないのは不当だと思う。しかし、このことは国際的な理解を求めるための努力が成された後に主張されなければならない。その努力をせずに、こちら側の解釈だけで靖国神社参拝を正当化するのは、やはり国際的な批判を浴びても当然だと思う。加藤さんは、先のページの中で次のようなことも語っている。「もう一つ厄介な問題があります。いったい誰に戦争責任があったのか、まったなしに問い直さざるを得なくなることです。 しかも、今度は日本人自身の手で答えを出さなければなりません。」靖国神社参拝の問題は、本質的にはこの戦争責任というものを、我々自身にも諸外国の人々にも納得する形で提出できたときに、ようやく解決するのではないだろうか。東京裁判に関しては、それとの比較が出来そうなフセイン裁判がこれから行われようとしている。東京裁判に批判的な人は、この裁判の行方も注意してみていなければならないだろう。東京裁判と同じように、一方的に戦争に勝った側が負けた側を裁くという状況になっているようであれば、これに対して批判の声をあげなければならないだろう。靖国神社参拝の問題には、もう一つ難しい問題があることを宮台氏が指摘していた。それは、遺族の感情の問題で、亡くなった人の死が犬死にではないということの証として靖国神社の神聖性を求めるというところだ。国のために、我々のために亡くなったのだという認識が、死が無駄ではなかったという慰めになる。この感情の問題は、ある種靖国神社でなければだめだというような、靖国の特殊性が絡んでいるようにも思われる。国立の戦没者追悼施設では、この感情が慰撫されないかもしれないのだ。この感情を諸外国に理解してもらうのはとても難しいと思う。いずれにしても靖国神社の問題は、もっとも重大なものは国際関係にかかわる問題だと思う。諸外国への理解を求める努力をするのか、国内問題だといって抗議をはねつけるのか、どちらを選ぶかが重要になっているのだと思う。僕は、国際協力の中で孤立しない方向を求めるべきだと思う。対米追従でない道を探すためにも、アジアの国々への理解を求めて努力するべきだと思う。それは、靖国を全否定するのではなく、どこまでが理解してもらえる事柄なのかを議論すべきだということだ。「戦争で犠牲になった方々に、哀悼の誠を捧げたい」という心情は、全く正当なものだという常識がある。だから、諸外国の抗議は、どうせ日本から経済的な援助を引き出すための外交戦略だという見方もある。大部分の人が抱く感情的な反応は、小泉さんは困ったことをしてくれたが、それに過剰に反応する中国や韓国にも多少の反発を覚えるという感じではないだろうか。これが、今の日本の常識の範囲ではないかと僕は感じた。それで、その常識にちょっと素朴な疑問を感じてこんな感想を書いてみた。靖国神社参拝は、結果的に日本と中国や韓国の一般民衆の感情を対立的にするのに役立っているのは残念なことだ。建設的な協力関係を築く方向へこそ行くべきだと思う。
2004.01.02
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今朝は、朝まで生テレビの特別版を見ていたので、少々寝不足気味だ。姜尚中さんの発言が聞きたくて見たのだが、やっぱりさすがだと思うことが多く、6時頃まで見入ってしまった。朝鮮民主主義人民共和国を巡る議論では、同席していた小林よしのり氏の「どうして国交正常化が必要なのか」という疑問に対して次のように答えていた。もし、国交が正常化されて、国内にいろいろな国の大使館が出来たら、今までのように中国まで逃れて、脱北という行為をする必要がなくなるのではないかということを言っていた。つまり、国交の正常化が、国内を監視する一つのきっかけになり、国そのものが変わらざるを得ないきっかけにもなるという説明だった。朝鮮民主主義人民共和国については、その国家体制に対する批判がたくさんあるが、その体制が変わらなければならないという点ではどの立場の人も意見が一致する。その変えようとする方法について、アメリカがイラクに対して行ったような武力による方法を選ぶか、国交正常化というような方法で、変わることを相手の内側から起こるように、いわば相手に下駄を預けるような方法を選ぶかの違いがあるだけのことかもしれない。ソフトな方法の方が、日本の損害の可能性が低くなるのではないかと思う。そのための国交正常化だという姜さんの説明は、充分説得力があると思った。この説明は、小林氏も納得したみたいで説得されていた。姜さんは、在日という立場があるので、どちらかというと北の立場に近いのではないかと思う人もいるかもしれないが、どの立場を代表することもなく、きわめて中立の立場で客観的な論理を展開して語ってくれているように感じる。だから、とても信頼できる人に見える。それで、眠いながらも姜さんの言葉を聞きたくて起きてしまった。他の出席者は、ほとんどある立場を代表して発言しているという感じがした。ある利害を離れて客観的に論理を展開できないでいるように感じた。姜さん以外では中東の専門家である高橋和夫さんが、唯一利害から離れた発言が出来る人のように見えたが、発言が少なかったのが残念だ。高橋さんは、中東の専門家ではあるけれど、アラブの人々の意見を代弁しているわけではないから、それなりに客観的な立場に立てると思った。自民党や、それに近い立場だと思われる人からは、「政治的判断」という言葉が出てきたが、これは抽象的に論じている限りでは、権力の側が恣意的に判断することのごまかしに使われているような気がした。ある法律(議論では「イラク特措法」を巡ってだったが)が、現実にそぐわない状況が出てきたときに、法律を越えた判断をするのは「政治的判断」だということで、合理的な判断だという議論があった。これは、抽象論としては全くその通りだと思う。法律が制定されたときは、ある種の特殊な条件の下に制定されているわけだから、その条件が変われば法律が現実にそぐわなくなる場合はいくらでも想像できる。しかし、「政治的判断」を具体的に行うのならば、法律のどこが現実にそぐわないのかを具体的に指摘して、対処の仕方が正当であることも具体的に説明できなければならないのではないだろうか。抽象論として正しいからといって、いつでも「政治的判断」に正当性があるわけではない。「政治的判断」が間違っている可能性はいくらでもある。「イラク特措法」を越えて、イラクに自衛隊を派遣するのは一つの「政治的判断」であるという認識は、出席者がほぼ共通に了解していた。そして、それが正当であるという具体的な説明としては、小泉さんの説明は不十分であるということも共通して了解されていた。僕は、ここの部分に自衛隊派遣を世論が反対する大きな理由があるのではないかと感じた。姜さんはさらに、自衛隊を派遣する以上、その撤収の時のことも考えていなければならないと言うことも語っていた。自衛隊を出すという決断は、それをいつ撤収するかというさらに難しい決断を伴うのだといっていた。これに対しては、自衛隊を出したいという側からは、具体的には語られなかった。どんな事態になったときに撤収を決めるかは、まだ分からない混沌としているということだろうか。出した以上は生半可なところでは撤収は出来ないという言い方はしていた。世論が撤収に傾いて、その声を無視できなくなったら撤収せざるを得なくなるかもしれないという答えもあった。これに対しては、派遣反対の世論も5割を超えているけれども、この世論に対してはその反対に派遣を決めているのはなぜかという姜さんの質問には答えられていなかった。結局、決断するのは政府の側で、決断に都合のいいときは世論を利用するということなのだろう。それぞれの立場で語られている言葉は、その立場から出てくるものだということを考慮に入れればそれなりに理解できる。これは、賛成したり共感したりするということではなく、この人がこう発言するのは分かるということだ。むしろ客観性のある発言をしたときの方が驚く。学者であったりしたときは、学者としての良心が残っているんだなと感じるところだ。ジャーナリストという肩書きでありながら、全く中立ではなく、一方の立場を代表しているのではないかと思われるような人もいたが、それぞれの立場の人の発言は、立場を差し引いたものとして理解し、姜さんのように中立を保っている人の発言は、かなり信用できるものとして僕は受け取った。新年早々イラクでは、またもテロ行為と思われるニュースが飛び込んできた。「<イラク>自爆テロで5人死亡 新年目前のバグダッドhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040101-00001003-mai-int 」反米勢力の攻撃は、テロと呼ぶよりも、単なる凶悪犯罪と呼んでもいいようなくらい、政治的なメッセージ性がなくなってきているように感じる。テロリストの側に、完全な絶望を与えるのも、戦術としては失敗なのではないかという感じさえする。テロリストを殲滅するのではなく、テロリストをテロリストでなくさせるために、政治的な駆け引きというものが必要なのではないかなと感じる。テロリストを殲滅するための作戦が、新たなテロリストを生み出す原因にもなっているという悪循環はどこかで断ち切れないものだろうか。しかし、田中さんの報告などを読んでいると、権力の側にいる人間は、必ずしもテロリストがいなくなることを望んでいないようなところもある。テロリストがある種のバランスで存在していてくれた方が支配には都合がいいと思っているところもある。そうであったら、我々が願いを込めて議論しても、全く役に立たないということもあり得る。立場によってはそのような思考もあるのかということを、考えの中に入れて事実を見ていきたいものだと思う。最後に、元日早々次のようなニュースを見て、日本の未来にちょっと暗い影を見るような思いがした。「小泉首相が靖国参拝へ、元日は初めてhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040101-00000005-yom-pol 」中国での反日感情が高まり、朝鮮半島での緊張した状況の中で、協力関係に水を差すようなこのような行為を、わざわざこの時期に行うという外交センスに疑問を感じる。ほとんどあきれてしまうという感じだ。ある立場の人にとっては、靖国参拝の問題は、日本国内の問題であり、それを問題にする中国や韓国の方が悪いという思いがあったりする。しかし、この問題は、日本がいくらそう思っていようとも国際問題になってしまうのが事実だ。おまえが悪い、というだけでは孤立するだけだ。理解してもらうためのなんの努力もしないで、これは俺の自由だといっていれば、アジアでの友人はいなくなる。そして、そうなるとますますアメリカに追従するしかなくなってくる。いや、もしかしたら、アメリカに追従するしかない状態を小泉さんは作りたいのだろうか。そうした方が小泉内閣の延命になるかもしれない。僕は、アジアで孤立して、アメリカと同じ道を歩むよりも、アジアで協力関係を作って、自立した道へ一歩踏み出す方を望みたい。そんなことを感じた1年の最初の日だった。
2004.01.01
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