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僕は、小学生の頃に多湖輝さんのベストセラー「頭の体操」という本をもらってから、パズルマニアの子供になった。パズルの面白さは、常識にとらわれて一面的な見方をしている間は問題が解けないのに、ある一点を突破するような発想に気がつくと、その問題の全貌が見えてきて答がはっきりと見えてくることを体験できることだった。世界をつかんだという気分だろうか。そういう傾向を持っていたので、数学にとりつかれた中学生くらいの頃も、パズル的な面白さを持っている図形の証明に心を惹かれていた。図形の証明も、たった1本の補助線を引くことによってその全体像が明らかに見えてくることがある。発想の面白さを味わうという楽しみがあった。僕にとって数学の証明は、これ以上確かなことはないという言明の連鎖のように見えたけれど、数学以外のものでは、その確かさを納得できない言明がどこかに入り込んでくるようで、真理を証明できるのは数学だけではないかと若い頃は思い込んでいた。その後哲学や文学の世界を体験し、板倉さんの自然科学と実験の考え方を知ってからは、数学と他の分野では証明の仕方が違うんだなと言うことを感じるようになった。数学というのは、その世界を自由に自分で設定できる。ただ一つの制約をのぞけば。それは、論理的な内部矛盾を起こさないようにするという制約だ。この制約を守るならば、何を前提にしてもいい。それは、自分が好きなように設定できる。僕が数学を気に入ったのは、この自由さにあったかもしれない。そして数学は、その設定した前提のみから論理的に導かれる結論だけを真理とする。設定した前提以外のことは認めないのである。これが、証明をするときに、直ちに他の数学者の賛成を得られることにもつながってくる。前提とすることに共通の理解があるから、論理の正しささえ保証されれば、その証明を全面的に信じることが出来るのである。数学の証明は、理解さえ出来れば直ちに了解できる。これが証明というものだと僕は思っていた。しかし、数学以外の世界を見てみると、全く正しいと思われる証明でもなかなか認められないものがあることを知った。それは、ずっと無理解から生じるものだろうと僕は思っていた。数学も理解できなければ、それは単なる主張にすぎないものであり、証明として受け取ることが出来ない。確からしい言明に対してそれを認めない人は、そのことを理解していないだけなのではないかと僕はずっと思っていた。だから、大事なのは、いかにして理解してもらうかと言うことだと言うことではないかと思っていた。そんなとき板倉さんの仮説実験授業を知り、この方法なら、自然科学の正しさを証明できると思った。自然科学は、数学と違ってその前提を恣意的に選ぶことが出来ない。現実を相手にしているので、現実の存在というものが前提になる。そうすると、現実の前提というのは、無限に多様でたくさんあるのだから、そこで共通の了解を持って前提とすることを選ぶのは限界があるように感じた。どうしても前提としていないことが入り込んでくる可能性を排除できない。自然科学では、その前提の排除というものを、現実を抽象化して行っているように感じる。現実をそのまま持っていくのではなく、理想的な状況を想定して、その理想的な状況ではどのような法則が成立するかという考え方で証明をしようとしているのだと僕は感じた。重さが集中するような質点というものは現実には存在しないが、それを設定することで数学に近い厳密な論理が使えるようになる。それは、現実には存在しないから、現実との誤差がいつも問題になる。理論上は成り立つけれど、実際には違うと言うこともありうる。しかし、それでも抽象化することで、理論的に証明するという道を開いたのだと思う。しかし、理論的に証明するだけなのなら、これはほとんど数学と同じになる。自然科学なら現実とのつながりも問題にしなければならない。この理論と現実とのつながりを証明するのが板倉さんが考えた「実験」の概念だったような気がする。実験というのは、具体的な問題を設定して、未知の事実を予想しようと言うものだった。その予想に、理論的に証明された「仮説」を使うのである。数学ならば、証明されたものは直ちに数学的な真理になるが、自然科学では理論的に証明されたものは、まだ「仮説」に過ぎない。それは、現実を抽象化しているので、無限に多様な現実の条件を考えの中に入れていない。もしかしたら、理論に都合のいい事実だけしか抽象していないかもしれない。重要な前提が抜け落ちていれば、理論で予想したことが実際には起こらない。その抜けた前提が影響を与えるからである。しかし、捨て去った現実が大した影響を与えないものであり、重要な前提をすべて考慮に入れてあれば、実験は予想通りに成立するようになる。実験が常に予想通りになることが確かめられれば、その理論は、正しく現実を反映していると受け取ってもいいだろう。理論が、理論上だけでなく、現実に対しても真理であることが証明されたと受け止めていいだろうと思う。自然科学においては、実験をすることが証明になるというのは、こういうことなのだと僕は思う。もっとも抽象度の高い数学と、それに準ずる自然科学においては、真理を証明する方法があると僕は思う。では、もっと現実に密着した事柄では、真理を証明することは出来るのだろうか。証明は、抽象化されたものに対する方が易しい、というのは奇妙に聞こえるかもしれないが、同意を得る証明は、一般論として証明された方が同意を得やすい。前提条件を同意しやすいからだ。一般論なら、立場や利害というものが深刻にかかわってくることがないからだ。これが具体的なものに密着していると、そこに絡んでくる立場や利害のために、一方の側では捨象して前提からはずしているものを、もう一方では重要な前提として組み入れていると言うことがいくらでもありそうだ。世間から、かなり優秀だと思われている人々の間でも、現実を論じているのを見ると、その意見が一致しないことがよくある。ほとんどの場合は、違う前提のもとに主張している意見を、相手の前提を検討することなく、自らの前提のみを正しいとして主張していることが多い。このような状態の中で証明をするというのはたぶん不可能だと思う。証明が了解できるのは、前提を共有している人間との間だけだ。だから、僕は何事かを証明したいと思ったら、前提を共有している人間と話し合うか、あるいは共有できそうな人間と前提そのものについて議論するという道を選ぶ。前提が共有できない相手には、何を言ってもたぶん共感することはないだろう。すべては、立場・視点・見解の相違が表れてくるだけだろうと思っている。もちろん、僕は自分の方が正しくて、相手が間違っていると思っているわけだけれど、それを証明しようという考えはもうあまり持っていない。僕は、僕の前提のもとに考えを進めれば、僕の前提が正しい限りにおいて正しい結論を出している、というふうに考えるだけだ。僕が前提の正しさに疑問を抱くようになれば、結論を捨て去ると言うこともあるけれども、前提の正しさを感じている間は、結論を棄てることはないだろう。相手もおそらく同じ状況だろうと思う。僕と反対のことを考えている人間も、その人間が前提としていることが正しいという条件の下ではそのような結論が出るのだろう。しかし、自分が前提としていることをすべて自分で意識しているかというと、それは難しい。無意識のうちに正しいと思い込んでいることもあるからだ。このような自覚があって異論を交換し合うのであれば、自分が前提としていたことがどんなものであるかに気づくと言うこともあるだろう。しかし、自覚がなければ、相手の言っていることがとんでもない非常識に見えてきて、相手がバカに思えて仕方がなくなる。僕が、信頼関係のない相手との議論を不必要なものと思うのは、信頼関係のない相手とは、このような自覚を持って相手の言葉を受け止めると言うことが出来なくなるからだ。このような自覚がなくて議論をすれば、おそらく相手がバカなヤツだと感じるだけで終わるだろう。それでもどうして、このような見解が分かれるような意見をインターネットで公開するかと言えば、前提となることを共有できそうな人間の目にとまって、そういう人間との間で、意義のあるコミュニケーションが出来るかもしれないと言う淡い期待を持っているからだ。大きなニュースがあるときは、そのニュースに関して記述する人が多くなる。イラクでの主権移譲というニュースは、それを語る人が何人かいた。これに関しても、その前提とすることをどうとらえるかで、「解釈」というものが違ってくる。「主権移譲」というものを、文字通り受け取る人もいれば、これは言葉だけであって、実際には「主権」など少しも移っていないと現実を解釈する人もいる。僕もそう思う。そこで、僕はそのように語っている人を見つけると、そのことを話し合いたくなってくる。どの程度前提を共有できるだろうかと言うことを話し合いたくなってくる。主権が本当に移譲されるのなら、イラクという国が、主体性を持って自己決定できることがいくつかあるはずだ。それが本当に実現されるかどうかで、「主権移譲」という言葉が実現されたかどうかが証明されるのではないかと僕は思う。セレモニーをしたから「主権移譲」がされたなどとは受け取らない。内政や外交においてイラク国家は主体性を持っているのだろうか。国家の指導者とされている人々は、本当の意味でイラク国民を代表しているのだろうか。そういう前提に疑問を感じる人とこそ僕は話し合ってみたいと思っている。僕が分からないのは、議論を深めて、より深い真理をつかみたいと思っていないのに語りかけてくる人たちだ。何が目的なんだろうか。たとえば、その主張に反対する人間が、質問を問いかけてくるものを見かけることがよくあるが、その質問は、本当に答を知りたくて質問をしているのだろうか。答を聞くまでもなく、自分で答を持っているのなら、質問をする必要はない。その答を主張すればいいだけのことだ。僕ならそうする。どうして、主張をせずに質問をするのか、その深層心理にはかなり興味があるけれど、そこから実りある議論が生まれるとは僕は思えない。考え方や意見が反対であっても僕は別にかまわないと思う。思想・信条の自由があるのだから、どんなことを考えようと自由である。また、現実は無限に多様なのであるから、どのように現実に切り込んでいくかで、様々な視点があり得るだろう。自分の立ち位置からくる見方があって当然だ。そういうのを、すべて許容する前提で、どうして議論を考えることが出来ないのだろうか。僕は、前提を共有できない人を説得しようとは思わない。そういう人は、そういう立場で自己主張をしてくれればいいんじゃないかと思っている。僕が見落としていた前提を指摘していることに気がつくような書き方をしてくれていたら関心を持つけれど、そうでなければ僕は前提を共有している人の方により大きな関心を抱くだけだ。証明を証明として受け止められる人となら議論が出来る。僕はそう考えるので、議論をする相手を選びたいと思っている。
2004.06.30
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僕は、三浦つとむさんを師と仰ぐほど尊敬していて、その語ることをほぼ100%に近いくらい信頼している。100%にならないのは、板倉さんが批判した部分などは、やはり間違いだったかなと思うからだが、たとえ間違いがあったとしてもその信頼感は揺るぐことはない。三浦さんは、アカデミックな世界では全く評価されていない人で、一般的な意味での権威などはない。だから、権威があるからという理由で三浦さんを信じているのではない。僕が三浦さんに惹かれるのは、三浦さんが独学の人だからだ。僕も、ほとんどの知識を独学で得てきただけに、三浦さんの独学の姿勢や、その考え方に深く共感するところがある。三浦さんは、「スターリン批判の時代」(三浦つとむ選集1,勁草書房)の中の、「私の独学について」という文章で独学について語っている。独学というのは、単に形の上で先生を持たないと言う「独り」という形式が大事なのではなく、「独力」で真理をつかむと言うことが本質なのだと語っている。「(本質的な独学は)自ら能動的に対象と取り組んで創造的に真理をつかみ取り、現実的に訓練を重ねて頭脳なり手足なりが合理的に活動するよう肉体をして学ばせるという、勉強の仕方である。「独」とは、独自・独力の意味である。これは学校や教師と直接の関係がない。たとえ学生でも、教師の言葉を盲信したり教科書の定説を鵜呑みにしたりしないで、学問に欠けてはならぬ健康な懐疑精神を持ち、疑いなく真理と思われても対象と取り組んで再発見しながら身につけ、さらに進んで独自の見解・独自の理論の創造へ進んでいくという学び方をしているなら、それは本質的に独学である。」僕は、数学に関しては、教えられたことをそのまま鵜呑みにしないで、自分の頭で納得してから受け止めることが出来ると感じていた。数学以外の教科では、どうしても知識というものを学ばなければ先に進めない。しかし、数学だけは、わずかな公理に当たる事実を認めれば、それから先はすべて独力で進むことも可能なように見えた。僕は数学少年だった頃は、教えられたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、その都度自分なりの結論を出しながら学んでいった。なぜゼロでわり算をしてはいけないのか、分数のわり算をするときには、どうしてひっくり返してかけるのか、定型的な解き方、たとえば種々の公式と呼ばれるものは、どのような発想の元に導かれているのか、そんなことを考えて、独自の見解を作りながら勉強した。この勉強の方法が間違っていないという確信を与えてくれたのが、上の三浦さんの言葉だった。そこに僕が三浦さんを師と思い込める要素があったのかもしれない。社会に対する芽が育ってくるまでは、僕にとっては確実な知識というのは数学だけだったので、数学以外は学ぶに値しないという思いさえ抱いていたくらいだった。哲学と文学に関心を持ってから、数学のように明晰に真理が判定できる事柄だけで世界ができあがっているのではないと言うことがだんだん分かってきた。しかし、明晰な真理がないからといって、「背理であるが故に信じる」というような信仰的な気分に浸ることは出来なかった。数学のように明晰な真理を語ることは出来ないけれど、明晰でないことは、最後まで疑いを持ってみていくようにしようという気持ちが生まれてきた。「すべてを疑え」というのは、マルクスが座右の銘にしたと三浦さんが書いていた。これは、上の文章でも語っているような「健康な懐疑精神」を指している。「すべて」というのは象徴的な意味で語っているのであって、僕が疑うのは、世間では常識的・あるいは多数派と思われていることで、僕がちょっと変だなと思うようなものだ。それを徹底的に疑うべきだという姿勢を持つようにしている。そして、徹底的に疑ったあとで、その疑いが晴れたときには、今度は徹底的に信じることが出来るだろうと思っている。その疑いと信頼の逆目にある決定的要素が「事実」というものだ。解釈というのはすべて「仮説」に過ぎない。過去のつじつまを合わせるために、知っていることにバランスを取るようなつながりを設定しただけのことだ。問題は、知られていない「事実」に対してもその解釈(仮説)が通用するかどうかと言うことだ。これを確かめるのが、板倉さん的な意味での「実験」と言うことになる。そして、「実験」を経て、現実が解釈の通りになったときに、初めてその解釈は真理としての妥当性を持ったと判断できるのである。これは数学で言えば応用問題に当たるものだろうか。応用問題は、単純に公式を覚えて解き方を適用するのではなく、その問題の構造を把握して、現実に適用することを考えなければならない。それは難しいことだと言うことで、数学の中ではあまり人気がないのだが、応用の出来ない理論などは、学んだことにはならないというセンスが必要だ。そのセンスは、事実と解釈の区別を正しく受け止めて、解釈の間違いという失敗から多くを学ぶ人でなければ身につけられないセンスだろう。最初から正解が欲しいと思っている人間には、このセンスは分からないだろう。多国籍軍への参加というのは、日本が選択する初めての道である。今後どうなるかは、すべて解釈の域を出ない。何が正しいかは、今後の事実を見て決定するしかないことなのだ。その時に大事なのは、新しい事実が見いだされたときに、それを発見したあとに解釈をしても仕方がないということに気づかなければならないと言うことだ。新しい事実の前に、「仮説」となる解釈を提出しておかなければならないということだ。小泉さんは、たとえ多国籍軍に参加しても、日本が行うことは「人道復興支援」であり、「戦闘行為」は行わないと言っている。この言葉が確かに実現されれば、僕も多国籍軍への参加というものへの賛成を考えよう。しかし、この言葉を信じられない間は賛成するわけにはいかない。小泉さんは、「いかなる場合」においても、「人道復興支援」だけを行うのであって「戦闘行為」は行わないと言っているのだろうか。もしそうだとしたら、僕はその言葉を全く信用できない。「いかなる場合」というように、すべてを包含するようなことを言う人間は、現実の複雑性や矛盾というものを全く理解していない人間であることを物語っているだけだと思う。つまり、それは言葉の上だけでの理念の表明にすぎないのである。現実を少しでも正しく把握している人間だったら、具体的にどのような場合には「人道復興支援」にとどめることが出来るかを語らなければならない。どのような場合に「戦闘行為」に巻き込まれる恐れがあるかも語らなければならない。そして、そのような場合が具体的に起こったときに、どのように対処するかを語らなければ、僕は小泉さんの言葉を信じることが出来ない。理念に反することが現実に起こってしまった場合、あとから解釈する人間は、必ずそれは「やむを得ないことだった」という解釈に落ち着くようになる。解釈はあとからやっても仕方がないのだ。それはいいわけになる。僕は今後も事実に注目していきたい。そして、事実の前に解釈を提出する人間を信用するだろう。宮台真司さん、田中宇さん、などはそういう意見を提出している人のように僕には見える。だから、僕は彼らを高く評価し、信頼する。彼らの言うことは、事実によって確かめられるからだ。たとえ間違ったとしても、どこが間違ったかを具体的に考えることが出来る。ただ、僕はこのように考えるからと言って、他の人間もそう「すべき」だなどとは考えない。それは、それぞれが自分の判断で選び取るものであり、自由でなければならないと思っている。それが思想・信条の自由だ。押しつけてくるようなものは、たとえどんなに確からしく見えようとも拒否することが正しいと思っている。正論というのは、正しいのであるから理解を求めればいいだけの話で、押しつける必要はない。理解されないようであれば、理解されるような語り方を見つけるように努力すればいいだけの話だ。数学の証明というのは、自分が分かっていればそれでいいというのではなく、他人が読んで理解できるように書かなければならない。そうでなければ書く意味がないからだ。自分が真理をつかむことだけが大事なのであれば、それはどこにも書く必要はない。自分だけが納得していればいいのである。それを表現すると言うことは、理解してもらうために書くのであって、理解されなければ、それは書き方が悪いのである。僕が書いていることも、確かにその通りと共感してくれる人がいれば、僕の書き方も成功していると言えるわけだが、理解が伝わらなかったとしてもそれは仕方のないことだと思っている。歴史上の名著だとされているものだって、すべての人に理解されているわけではないのだから、僕が書くものが理解されないとしても、それはごく当然のことだろう。真理というのは、それぞれの個人が、それぞれの判断で受け止めればいいもので、他人が言っていることをそのまま鵜呑みにして信じてはいけないと思う。真理だと思えないうちは、どこまでも態度保留をした方がいいだろう。分からないのであれば、分からないと言う感覚を大事にした方がいいと思う。事実は比較的分かりやすい。しかし、解釈は単純であっても、その単純さがわかりにくさを持っている。サマワの自衛隊が、給水活動をしているという事実は僕にも分かる。しかし、それが「人道復興支援」であるという解釈は、僕には全く分からない。それのどこが「人道復興支援」なんだろうか。「人道復興支援」という言葉の意味をどういうふうに定義しているんだろうか。それぞれの意味を辞書的にたどると次のようになる。 じんどう ―だう 【人道】 (1)1 人間として守るべき道。人の人たる道。にんどう。 ふっこう ふく― 0 【復興】 一度衰えたものが、再び盛んになること。また、盛んにすること。 しえん ―ゑん 0 【支援】 他人を支えたすけること。援助。後援。あまりにも抽象的すぎて、どのような解釈も許すという言葉に見える。具体的には、どのようなものが「人道復興支援」なのかというのを提出しないと、それは事実の前の「仮説」という解釈にはならない。事実のあとに、なんとでも解釈できる言葉になるだけだ。なんとでも解釈できる言葉は、どんな簡単な言葉であっても僕には分からない。どの解釈を選ぶかを、最初にはっきりさせてもらわなければ、僕と同じ解釈をしているかは分からないからだ。
2004.06.29
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仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんも、僕は多くのことを学んだ人の一人だ。板倉さんは、三浦さんの弟子を自認している人で、三浦さんに対するすぐれた批判者でもある。板倉さんの三浦さんへの批判は、僕はほぼ賛成をするのだが、それでも僕が三浦さんを師と思う気持ちには変わりがない。師と思う気持ちは、全人格的な影響を持つもので、間違いも間違いとして受け止めて師と感じるといったらいいだろうか。三浦さんに出会う前に板倉さんに出会っていたら、僕は板倉さんを師と感じたかもしれない。でも、師は一人しか持てないようで、板倉さんからは多くのことを学んだけれど、師と思っているのはやはり三浦さんの方だ。板倉さんの三浦さんへの批判では、弁証法を「発想法」だととらえるか、「科学的真理」だととらえるかというものがある。これは、「科学」の定義にかかわるとらえ方になるのだが、板倉さん的な「科学」の定義では、弁証法は「発想法」の一つということになる。僕は、「科学」の定義に関しては、板倉さんが定義するものの方がすぐれていると思うので、この批判に関しては板倉さんに賛成する。板倉さんは、三浦さんには、板倉さんが考える意味での「科学」という概念はなかったという評価をしている。板倉さんが考える「科学」は、それが真理であることを決定するのは「実験」のみであると考えるものだ。いくらもっともらしい論理で真理であることが確からしく思えようとも、最後は実験で決定しなければ真理であるという判断をしてはいけないと考える。そして板倉さんが考える「実験」というのは、これから起こるであろうことを、真理であるという証明をしたい「仮説」のもとで考えて、それを予想し、その予想が実現するかどうかを見るのが「実験」というものであると考える。だから、「実験」が設定できないようなものは、「科学」としての真理性が証明できなくなるので、「科学」ではないということになる。弁証法は、その適用範囲があまりにも広く・抽象的でありすぎるので、真理であることを確かめる「実験」を設定することが出来ないのだ。「実験」はあくまでも具体的な現象に対しての「仮説」を証明するような、具体的な設定がなされないと出来ない。三浦さんについても、その論理が言語学に関するものであったり、具体的な個別の対象に関する考察であった場合は、板倉さんの「実験」概念に近い、マルクス主義的な「実践」概念を持ってその真理性を証明していた。しかし、マルクス主義そのものに関する言及では、実験よりも思弁的な論理の正当性で語る場合が多く、真理性の証明にマルクスやエンゲルスの言葉をもってくるというようなやり方も見られた。だから、板倉さんの批判については、これは正当だろうという感じが僕にもしている。しかし、師から学ぶというのは、ここの知識が正しいかどうかを学ぶというのとは違う。内田さんがどこかで語っていたが、師から学ぶものというのは、師の世界に対する姿勢や態度・ものの見方というような、師の視点を学ぶのだといっていた。僕も、三浦さんから大きな影響を受けているのは、その視点であるように感じている。世界を見るときに、三浦さんの視点で見たら、そこがどのようにして見えるのか、ということをいつも考えているような気がする。板倉さんからも、様々なものの見方や視点を学んでいるが、それはどちらかというと知識として受け止めているという感じがして、全人格的に思いを入れ込んでいるという感じがない。だから、師と感じるほどにはならなかったのだろう。それでも、そういう知識であるのなら、人に伝達できるという感じもする。師への思いは、同じように感じる人でなければなかなか共有は出来ないが、知識ならば伝達可能な気がする。前置きが非常に長くなったが、板倉さんの発想法の優れた知識を伝えたいと思う。これは、「私の発想法」(仮説社)という本からの抜粋だ。まずははしがきからの言葉を紹介しよう。ここでは、「発想法はいかがわしい」というようなことを語っている。すぐれた発想法を見つけると、人間は、それを使えばどんなものでも素晴らしい結論を導けそうな錯覚に陥ることがある。それを戒めて、板倉さんは次のように語る。「発想法とか思想というものは、あくまで「発想法/思想」であって、それから導かれた考えは仮説-仮りの説でしかありません。いくら確信している思想であろうと、また、いくら面白い発想、もっともらしい発想でも、それが正しいかどうかは、実際にやってみて事実と突き合わせ=実験してみるより他ないのです。それなのに、「これは正しい思想だから、間違えっこない/絶対確かだ」などと考えたら、とんでもない間違いを犯す心配があります。だから、「思想とか発想法というものは、いかがわしいものだ」というのです。」かつては、マルクス主義的でありさえすれば正しいという主張が信じられた時代があったそうだ。しかし、今ではマルクス主義そのものさえ忘れ去られようとしている。それが発想法の運命というものだろう。内田さんが語っていたが、構造主義の時代というのは、構造主義的な発想が普通になってしまって、誰もそれに疑問を抱かない時代なのだと言っていた。そういうときに、「発想法はいかがわしいもの」という考えを持ち、発想や思想だけでは真理に到達しないという意識を持つことは大事なことだと思う。発想法がいかがわしいという意識があれば、常に判断の前提を疑い、その確信が得られるまでは判断を保留するという慎重な態度が出てくる。自衛隊のイラクでの活動は、「人道復興支援」であるということになっているらしいが、これは証明されたことのない思い込みだと僕は思っている。だから、このことを前提にして考えた結論は、発想法だけで真理を確定しているいかがわしいものだと僕は思う。真理が確定するまでは、すべては「仮説」なのだという自覚を持つべきだろうと思う。板倉さんは、発想法がいかがわしいものであることを忘れてはならないと言いながらも、一歩踏み出すための発想法の重要性も同時に主張する。こう言うのが対立物の統一というもので、やはり弁証法というのは、発想法として役に立つのだなと思う。板倉さんの主張は次の通りだ。「しかし、未知の世界に踏み込もうと思ったら、なにがしかの思想、発想法に従って考えを進めなければなりません。間違えるかもしれないことを承知の上で、足を一歩踏み出すより他ないのです。ところが、私は時々、「みんながみんな、同じような考えにとらわれて考えているから、先に進めないではないか」と気づくことがありました。そして、「一度は<違う考えの方が正しいかもしれない>と考えてみて、「一歩踏み出してみることが大切ではないか」と強く主張したくなることがありました。」間違いを承知で新しい道へ踏み出すと言うことは、間違いに敏感で、それを正しく処理できなければならないことを意味する。間違いなどないという思い込みをすれば、かえってひどい結果になりかねない。そして、その「失敗を成功のもと」にする条件は、みんなが、今までの常識的に正しいという発想のもとに行っているのでは全く成功の道が見えないときに、違う発想を持つことが大事ではないかと考えている。その違う発想こそ、対立物を統一する弁証法が与えてくれると板倉さんは考えている。板倉さんは、弁証法は詭弁であるということも語っている。それは、常識の範囲内で解決できる問題に対して、わざわざ弁証法を適用しようとすれば、わざと間違えるような発想法になってしまうからだ。弁証法の威力を感じるのは、曲がり角や限界を感じるときに、それを越えるための発想を与えてくれるときに感じるものだ。仮説実験授業研究会には、岩波の科学映画を製作していた牧衷さんという面白い人がいる。この人は、学生運動の頃からずっと(市民)運動を続けている人で、「運動論いろは」(季節社)という本を書いた。これには、いろいろな発想を助けてくれる格言がたくさん載っている。その中に、「壁に突き当たったら曲がれ」というものがある。普通の人は、壁に突き当たったらどうするのだろうか。努力して、自分の能力を高めて、壁を乗り越えようとするのではないだろうか。それとも、自分の力に限界を感じてあきらめてしまうだろうか。その時に、壁を乗り越えることはない、ちょっと曲がって回り道をして、壁の向こう側へ行けばいいじゃないかという発想は、とても面白いと思う。まともにやったらうまくいかないことも、まともでない方法でなんとか出来るかもしれない。こう言うのは、三浦さん的に弁証法用語を使うと、「否定の否定」と言うことになるのだろう。壁を乗り越えることを一度は否定して、回り道を探すのだが、結果的には、否定した壁の乗り越えが出来てしまって、否定の否定で結果は同じになる。板倉さんの「発想法カルタ」(仮説社)にも、具体的な面白い格言がたくさん載せられている。発想法は、格言の形になっていると利用しやすい感じがする。今、解決不可能ではないかと思われている問題はちまたに溢れている。それは、今までの常識的な発想法では解決の方法が見いだせないものばかりだ。大胆な発想が必要なのではないかと感じるが、大胆な発想法は非常識なので、間違いかもしれないけれど、発想のためにあえて考えてみるという自覚がなければなかなか生まれてこないだろう。泥沼のようなイラク情勢、デタラメな国会の議論と、問題解決を先送りにして「改革」を気取る小泉政権、心の荒廃を憂い、心の教育を言い立てるだけで具体的な方法を見いだせない教育の問題、メディアによる偏った情報によって作られる実体のない「世論」の問題、等々さまざまの問題が溢れている。これらは、おそらく常識的な発想ではもはや何も解決が考えられない問題だろう。いかがわしい発想法を使って、「仮説」を立てることを考えてみたいと思う。思いっきり非常識な方向を考えることが、もしかしたら解決への一歩になるかもしれない。どんなに非常識なことでも、考えるだけなら自由だと思うからだ。
2004.06.28
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今週の「マル激トーク・オン・デマンド」は、スポーツ評論家の二宮清純氏を招いてのものだった。近鉄とオリックスの合併問題を始めとするプロ野球の問題を論じていた。二宮氏は、その本質を突いた言葉に好感を持っている人だが、この合併劇を、「終わりの始まり」という言葉で表現していた。野球というスポーツ自体は、イチローや松井の活躍によってメジャーリーグの人気が上がったように、野球そのものが飽きられてきたわけではないようだ。しかし、観客動員や、巨人戦の視聴率などを見てみると、日本のプロ野球は確実にファンからそっぽを向かれているように僕にも感じる。二宮さんが語る「終わり」というのは、このような衰退がもはや歯止めがかからずに、最後まで行くだろうという意味での「終わり」だと思う。その第一歩が今回の合併劇ではないかという解釈だ。なぜ「終わり」なのかといえば、それは未来への展望のない方向だから「終わり」に見えるのだと思う。日本のプロ野球は、巨人を中心に発展してきた。巨人だけが圧倒的な力と人気を誇り、他のチームはそのおこぼれに預かるという形で共存してきた。このシステムが、もはや未来がないくらいに疲弊してきたと言うことなのかな、と二宮さんの話を聞いて思った。この巨人の姿は、何か他のものを連想させる感じがするが、一人勝ちしている強大なリーダーのもとにくっついていたら何とかなるんだと言うことが、もはや終わりだという時代になってきたのかなと言う感じもする。「マル激トーク・オン・デマンド」では、今の日本のプロ野球のシステムは、巨人だけが永遠に強いままで、他のチームはもはや競争しようという意欲さえもなくなりつつあるのではないかと言うことも論じていた。つまり、意欲ある人間が、頑張れば報われるというシステムになっていないという指摘をしていた。頑張れば報われるという形になっていなければ、頑張る人間はいなくなる。頑張らなくても、強いものについていけばそれなりに稼げるとなれば、向上心というものがなくなってくるだろう。そういうものを見て面白いと感じるだろうか。巨人だけが一人勝ちする日本のシステムと違って、大リーグでは共存の工夫がされているそうだ。プロ野球でもっとも大きな収入というのは、観客の入場料収入ではなく、テレビの放映権料になるらしい。大リーグでは、これを個々の球団が管理するのではなく、プロ野球の全体を代表する機構が管理し、平等に各チームに配分するらしい。このようなシステムが日本にあれば、今回の合併劇のようなものもなかったのではないかと、ヤンキースの松井も提言していたが、真っ当な意見だと思う。ダイエーホークスは、福岡の地元に定着して、観客動員では巨人に負けないくらいの人気を誇っているらしい。しかし、球団経営としてはほんの少し赤字らしい。この赤字をもたらしているのは、やはりテレビの放映権料らしい。セ・リーグのチームは、巨人戦での放映権料があるので、これでなんとか赤字を免れているようだ。巨人が一人勝ちしている日本のプロ野球の状況は、やがては全体が衰退し、巨人も衰退していくという方向が見えるのは明らかのような感じがする。それを避けるためには、今の時点では巨人に不利益のように見える、他チームの力を上げるような共存共栄の方向を探るのが、フィーズビリティ・スタディなのではないだろうか。しかし、日本のプロ野球は、そのような方向を全く考えていないような気がする。僕は、長い間アンチジャイアンツのプロ野球ファンだった。なぜアンチジャイアンツだったかといえば、それは巨人というチームが、「勝つためには手段を選ばず」というせこいチームだったからだ。あれだけ強大な力を持つことに有利な条件を持っているチームが、どうして正々堂々としていられないのだろうかということがいつも不満だった。今ではもう日本のプロ野球にはほとんど関心がない。結果すら気にならないくらいになった。僕も、日本のプロ野球はもう終わりだろうなと思う。終わりに歯止めをかけられるような兆しも見えない。来年からは、2リーグ制が終わって1リーグ制になるかもしれないけれど、それは巨人支配が全球団に及ぶと言うことになるだけで、「終わり」が加速されるだけではないかとも思える。1リーグにすれば、全球団にテレビの放映権料が入るというメリットがあるという人もいるが、それは、今まで利権を受け取っていたセ・リーグのチームが利権を失うことでもあるという議論もある。これは、プロ野球界というものが、ファンのものであるという発想を失った、球団経営というエゴを優先した考え方だろう。二宮さんは、今までの2リーグ制だって、交流試合をすれば、いろいろな組み合わせで面白いカードが組めたはずだと語っていた。しかし、利権を持っているチームはそれを拒否したのだろう。今までの利権の上に乗っかっている者たちが、その利権を温存するために改革を阻むというプロ野球の姿を見ていると、何か日本の縮図を見るような思いもする。日本のプロ野球が古い体質のまま、巨人だけが繁栄するというエゴのもとに運営を進めるという道にピリオドを打てないのなら、僕はプロ野球は衰退して欲しいと思う。そういうものに見切りをつけて、淘汰されるような社会状況を作ることが出来れば、一人一人の要望が社会に繁栄するような民主主義的な状況を見ることが出来るのではないかと思っている。多くの人が、巨人のエゴを容認するのであれば仕方がないが、多くの人がそれはいやだという意志を持ったとき、エゴを押し通そうとするプロ野球が衰退すれば、民主主義の一つの勝利になるのではないかとも感じる。ここで、話は変わるけれど、僕は、掲示板をコントロールできない間はそれを閉鎖している。それでメールの方にちょっと質問が来たので、一般論的な形で答えておきたいと思う。一つは、僕の掲示板での書き込みで、>「人道復興支援」であれば賛成ですが、そうでなければ反対です。>すべては、「人道復興支援」であるかないかという判断にかかわっています。というものに対して、その意味がよく分からないと言うものがあったので、ちょっと説明しておこう。論理というのは、条件付きの命題というものをよく設定する。誤謬を判断する鍵は、逸脱と言うことだが、その逸脱は、真理である条件を逸脱するという形で誤謬を導く。だから、「このような条件の時」には、「こう考える」、という条件が大事な要素になる。 A → B (AならばB)という言い方をするとき、これは、Aという条件が正しいことが証明されたときは、Bということの正しさを主張しようという言い方になる。だから、上の僕の主張は、「人道復興支援」というものが証明されれば、自衛隊の派遣も正しいと結論し、それにも賛成しようと言うことになるわけだ。しかし、僕の中では、自衛隊の活動は「人道復興支援」であるという証明が出来ていない。この証明をするには、まず「人道復興支援」というものが成立する条件を提示し、その条件にふさわしい事実が存在するという証拠を示して初めて証明になる。この証明がなされない間は、賛成することが出来ないので態度保留と言うことになるのだが、「人道復興支援」のかけらも見えないと言うことになれば、「人道復興支援」ではなく、宮台氏的な言葉を使えば、「アメリカのケツ舐め支援」と言うことになり、これが証明されれば、もちろん自衛隊派遣には反対だということになる。これは、巨人にすり寄るセ・リーグのチームと同じで、強いものにくっついていれば何とかなるという間違った考えの基での行動としか思えないからだ。これは、将来的には、衰退の方向へ向かい、気づいたときにはもう取り返しがつかないと言うことになりかねない。だから、「すべては、「人道復興支援」であるかないかという判断にかかわっています」ということになるわけだ。もう一つの昨日の日記のコメントに関する書き込みで、>多国籍軍への参加が戦争に巻き込まれる道であるということが>証明されれば、それは当然平和を守ることが出来ないことを>意味するという論理のつながりです。というものに関しても、多国籍軍への参加が戦闘への参加ではなく、人道復興支援であると考えている人には、これも条件付きの命題であることがなかなか伝わらなかったようだ。僕は、自衛隊の活動が「人道復興支援」であるかどうかは、まだ証明されていないと思っている。だから、多国籍軍への参加についても、それが何を意味するかはまだ何も証明されていないと思っている。一つの可能性として、フィーズビリティ・スタディで考えれば、「戦争に巻き込まれる道である」というふうに考えることも出来ると思っている。そしてそれが証明されれば、それは平和を守ることが出来ない道になるだろうという推論だ。一般論で考えれば、多国籍軍は、「軍」である以上、何らかの戦闘行為を行う可能性があるのが当然だ。その可能性が、現実性を持つことが証明されれば、「戦争に巻き込まれる道である」と言うことも証明されるのではないかと考えているという意味なのである。ただし、これを議論するには、「平和」の概念に対してもう少し丁寧な定義をするような議論が必要だろう。たとえ戦闘行為が行われていようとも、それこそが「平和」を守る道であると信じている人もいるから、その人と僕とでは、「平和」の概念に食い違いがあるかもしれないからだ。概念が食い違ったまま議論すれば、それはおそらく相手の言うことが「理解できない暴論」だと思ってしまうだろう。日本のプロ野球の問題は、思いっきり俗っぽい問題だが、実は日本の抱えている本質的に重要な問題と深く関わっているのだな、と今日はそんなふうに感じた。
2004.06.27
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真理を誤謬との統一で捕まえなければならないと主張する三浦さんは、哲学者の真理論がそうなっていないことを批判している。哲学者の語る真理は、一般論としての真理が多いので、普遍的に「すべて」の場合に通用すると考えがちなのだろう。しかし、論理的に「すべて」と言ったら、文字通り「すべて」という無限の対象を相手にすることになる。実際にはそういうことはあり得ない。真理は、いつでも具体的・特殊的な、時と所と場合(状況)にかかわって真理となっているに過ぎない。それが真理である前提を常に意識しておかなければならないのだ。三浦さんは、まず高橋庄治氏の「人民の哲学」の一節を引用して批判している。引用部分は次のものだ。「真理とは、物と観念との一致、原像と模像の一致したとき、その観念、その模像を真理というのです。 一口に真理といいますが、真理という言葉の中には、3つの意味が含まれております。真理は、客観的真理であり、相対的真理であり、そして同時に、絶対的真理であるのです。……真理は、個人の意見とか、個人の感想とか、あるいは空想とか、虚像というようなものと、はっきり自分を区別しております。……すべて真理は客観的真理です。真理の基準というのは、真理の客観性の基準なのです。……その意味で、真理の基準は存在ではないのです。」哲学的な文章になれていない人は、上の文章でも難しく感じるかもしれないけれど、他の哲学的文章と比べると、上の文章はたいへんわかりやすい。だからこそ、高橋氏のこの本は、戦後まもなくベストセラーになったんだろうと思う。少なくとも、意味のとれない部分はあまりない。分かりやすいと言うことは、我々の普通の経験にはよく合致すると言うことだ。だから、経験をそのまま教訓にしてしまうと、ここに書かれていることの誤謬には気づかない。なるほどと思ってしまう。しかし、深く考えてみると、この文章を単純に信じてしまってはいけないことに気づくだろう。まず、言葉の定義の問題がある。哲学書が難しいのは、日常言語とは違う厳密な意味を言葉に持たせて考察の対象とするからだ。それは、間違いのない思考をするためなのだ。日常言語的な意味を受け取ると、そこに張り付いているイメージを引きずって、判断の段階で、定義していないことをこっそり持ち込むことがあるからだ。これは、自分の主張に都合のいいものなので、こっそり持ち込んだことに自分で気づくのはかなり難しい。三浦さんの批判は、高橋氏が、「主観と客観とを「一致」させて、すべての真理を客観的真理にしてしまった」と言うところをまず指摘する。ところが、高橋氏には、主観と客観がどのように「一致」するかという定義がない。どのように「一致」したときに、その主観が真理と呼ばれるかという、判断が具体的に書かれていない。これは、経験的・常識的に受け止めるしかない。頭の中に描いたイメージという像が、外に存在しているものと一致したときに、それを真理と呼ぶのだろうか。真理と呼ぶには、それが「一致」したということを間違いなく判断しなければならないのだが、その判断が正しいという保証はどこから得られるのだろうか。錯覚と言うことはないのだろうか。錯覚と真理とをどう区別したらいいのだろうか。物と観念との一致をどう判断するかを定義しておかないと、この主張を議論することが出来ない。文章を読むと、高橋氏は、錯覚と真理との違いを「客観性」というものに求めているようにも感じる。錯覚は、客観性を持っていないもので、「個人の意見とか、個人の感想とか、あるいは空想とか、虚像というようなもの」だと考えているような気がする。真理は、そういうものとは違うのだと主張しているようだ。しかし、その区別の方法については言及していない。どうすれば正しく区別できるのだろうか。客観性というのは、普通は自分の意思とは関係なく存在が証明できるときに、客観性を持つと言うことになるだろうか。「思う」だけでは「存在」は得られない。自分が思うか思わないかに関係なく、その存在が証明されれば「客観性」を持ったと言えるだろう。それでは、客観性が証明されさえすれば、そこに真理が得られるのだろうか。確かに、そこに客観的な物がある、という判断の正しさを主張することが出来るだろう。しかし、それ以外の属性に関しては、いかに客観的な物が存在しようと、その存在だけでは何も言えないのではないだろうか。存在に対して、何らかの属性があることを主張したりするときには、その「関係」を判断できなければならないのではないだろうか。たとえば、「イラクに自衛隊がいる」と言うことは客観的に主張できる真理になるだろうが、「自衛隊が人道復興支援をしている」という、自衛隊の属性に関する判断は、存在を主張するだけでは真理であることが証明できない。それは、自衛隊とイラクの人々との関係を判断して、この主張が真理であるかを判断しなければならない。このことを三浦さんは、「すべての真理を客観的真理にしてしまったから、真理の基準が存在すなわち客観との関係如何で決まることは考えられない」という批判をしている。そして、客観という物は、主観でしかないものを取り違えるという間違いは考えられるけれど、一度客観であると判断したものは、それはもはや主観ではあり得なくなる。そうなると、「真理は「はっきり」区別されて、移行などない」と言うことになり、三浦さんが主張するように、真理は誤謬に転化すると言うことが思考の中から抜け落ちる。実際には、真理の基準は、誤謬との関係で決まってくるもので、存在との関係で「逸脱」というものがあった場合に、真理は誤謬に転化する。だから、「逸脱」がないかどうかの判断が真理を確定し、誤謬と区別する鍵になる。ある条件の範囲内ではそれが真理だと言うことになるのであって、条件を逸脱すれば、真理は誤謬になる。自衛隊の「人道復興支援」というものも、まず「人道復興支援」というものの定義を明確にしなければ、その条件を確定することが出来ないだろうと思う。表面的に行われていることをあげて、これが人道復興支援だと「事実」をあげても、それは少しも「人道復興支援」が真理であることの証明にはならない。それは、もし「人道復興支援」というものが真理であれば、現実の中にそれが現れてくる例を拾ってくることが出来る、ということを示すものであって、前提として「人道復興支援」が真理であるということを前提にして導き出すものであって、考えが逆さまなのであると僕は思う。どのような行為が「人道復興支援」であるかという共通理解があって、そのことを実際に自衛隊が行っているという客観的事実が見つかって、ようやく「人道復興支援」が真理であることが証明されるのだと思う。始めに定義があって、その定義にふさわしい事実があることによって証明がされる。事実を拾ってきて、それを解釈してもなんの証明にもならない。給水活動が「人道復興支援」になるかという徹底的な議論があって、それが共通理解になったときに、給水活動をしている自衛隊が「人道復興支援」をしているということが真理になる。給水活動が「人道復興支援」であるという共通理解がないのに、給水活動をしているから「人道復興支援」だというような主張をしても、その客観的事実だけから、このことが真理であるという判断は出てこない。真理の判断というのは、客観性という単純なものではない。高橋氏の主張はわかりやすいが、ちょっと難しい問題にぶつかってしまうと、このように判断を間違える場合が出てくると思う。真理の主張は、正しいことを主張していればそれですむと単純に思ってはいけないと僕は思う。真理は、そのままで誤謬に転化する。正しさは永遠のものではない。問題は、その正しさが、どのような条件の下で成立するかと言うことだ。真理の主張が完全になるのは、その真理が誤謬に転化する条件を理解したときに、完全な真理すなわち「絶対的真理」になるのではないかと思う。誤謬に転化する条件をとらえていないときは、どのような真理であろうとも、それは一面的な真理であって、条件によっては真理である場合もあるだろうという程度で考えておかなければならないのだと思う。僕が今抱いている真理はいくつかあるが、それが真理である条件をもっと深く考えたいものだ。それは、条件によっては誤謬になる可能性もあるので、誤謬になる条件を深く知ることが、真理であることの深い理解になっていくと思う。最後に、僕の頭の中にある、真理かもしれない命題をいくつかあげておこう。・アメリカのイラク攻撃は不当な侵略である。 (どのような状況の下で攻撃がされ、その影響、戦後の状況などを考えたい。)・小泉内閣の「改革」は本質的なものではなく、問題を先送りにしただけだ。 (「改革」が、どのようなねらいを持っているもので、現実にどのような効果が現れているかをよく見ていきたい。)・多国籍軍への参加は、日本を戦争に巻き込ませる道であり、平和を守ることが出来ない。 (平和と言うことの定義と、それを維持するための条件と、多国籍軍への参加がどのような関係にあるのか考えていきたい。)・年金の問題は、政府与党の方法では、権益を温存し、破綻を先送りにするだけで、誰も責任を取らない方向を持っている。その他、問題が複雑なので、まだ真理としてはっきりした考えは持てないが、問題意識を持って今後も眺めていきたい問題は次のようなものだ。・教育の問題が、日本社会に与えている影響について。教育に間違いがあるから、信じられないような事件が起こったり、政治への無関心が蔓延したりするのだろうか。それとも、教育は、他の影響を受けているだけで、他の何かが変われば教育も劇的に変わりうるものだろうか。・著作権法という法律は、創造をする人間の利益を守るためのものだと思ったのだが、実はそこから生まれる権益を守るために作られているのではないだろうか。アーティストの利益よりも、それを売り買いして儲ける者たちの利益を守るために機能しているのではないだろうか。かえって、アーティストの創造性を殺す作用をしていないだろうか。・憲法というものの現実的な意義について。憲法9条を守ると言うことの意味。言葉を変えなければ守れるのか。本当に守らなければならないのは、その意志ではないか。憲法意思というものをもっと深く考えてみたい。合わせて改憲の意義についても考えたい。・連帯することの意義・意味について考えたい。連帯することは、共感を基礎にしてつながることだと思うが、共通の利益によって連帯すると言うことが現実には多いようだ。しかし、今の時代に、果たして共通の利益などということがあるのだろうか。共通の利益で連帯するのなら、強い力を持つものは、はっきりとした共通の利益があるので、強者は連帯しやすいだろう。共通の利益ではない、何か(共感?)で連帯をすることが出来るだろうか。・最後の奴隷制である民主主義を越えることは出来るか。国家が制定する法律は強制力を持っている。民主的な制度で制定された法律は、それにたとえ反対であっても、それに従わなければならない。これが「奴隷制」と言われる所以だ。連帯して組織を作ったときも、組織の決定に対しては、たとえ反対であっても従わなければならない場合がある。 主体性を持った民主主義というものは可能だろうか?組織の決定と違う方向に動いても、それが許容される場合というのは想定できるだろうか。組織嫌いの僕としては、これがあるから、なかなか組織に参加することを決意できないところがある。現実というのは、常に新しい問題を生み出してくれる。今思いついただけでも上のような問題が浮かんでくるのだから、今後、頭を使うための対象に困ることはないだろう。こう言うのを娯楽に出来ると、人生には退屈すると言うことがない。今日も一日、こういうことを考えながら楽しむことにしよう。
2004.06.26
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真理とは何かという問題は、誤謬とは何かという問題と統一して考えて、初めて正しいとらえ方が出来る。これが三浦さん的な「弁証法的」なもののとらえ方だ。対立物の統一というヤツだろうか。真理とは、単純に整合性がとれていて「正しい」と言えるものではない。三浦さん的な発想では、真理はそのままで誤謬に転化するので、真理と誤謬との分岐点をはっきりととらえないと、真理をとらえたと言えないことになるのである。こういう発想は理科系にとってはかなりなじみのあるものではないかと思う。気体に関するボイルの法則というものがよく弁証法の例として出されるが、これはエンゲルスの「反デューリング論」でも言及されている。「有名なボイルの法則を例に取ろう。この法則によれば、温度が変わらないでいれば、気体の体積はそれの受ける圧力に逆比例する。ルニョーはこの法則がある種の場合には当てはまらないことに気づいた。」「(ルニョーは)ボイルの法則が一般にただ近似的に正しいだけのものであって、圧力によって液化しうる気体の場合に、特にその妥当性を失うのであって、しかも圧力が液化の起こる点に近づくやいなやそうなるのだと言うことに気づいた。」ボイルの法則は、そのままの数式で、それが真理でなくなる場合がある。条件の範囲を逸脱すれば誤謬に転化するのだ。そういう意味ではボイルの法則は「相対的真理」だと言うことになる。真理であったりなかったりすると言う意味で「相対」的だ。しかし、その分岐点である条件をはっきりさせれば、その条件の範囲内では常に真理を主張することが出来る。つまりその条件内では「絶対的真理」なのである。真理は、「相対的真理」であると同時に「絶対的真理」なのである。常にどちらか一方になるのではない。真理を真理として認識するというのは、このような「相対的真理」の範囲と「絶対的真理」の範囲を認識することに他ならない。このことをエンゲルスは「反デューリング論」の中で次のように語っている。「真理と誤謬とは、両極的な対立において運動するすべての思惟規定と同じく、まさにきわめて限定された領域に対してのみ、絶対的な妥当性を持つ。我々が真理と誤謬との対立を、右に述べた狭い領域以外に適用するや否や、この対立は相対的となり、従ってまた、正確な科学的な表現の仕方のためには役に立たなくなる。しかるにもし我々が、この対立を絶対的に妥当なものとしてかの領域以外に適用しようと試みるならば、我々はいよいよ破局に陥る。すなわち対立物の両極はその反対物に変わり、真理が誤謬となって誤謬が真理となる。」この部分は、三浦さんの「弁証法・いかに学ぶべきか」にも引用されている。真理と誤謬とは転化する。だから、どこで転化するか、どの範囲にとどまっていれば真理なのか、どこで逸脱すれば誤謬になるのか、という点を認識していなければ真理をつかんだとは言えなくなるのだ。多くの事柄の主張に関して、誤謬を意識して主張を展開している人はきわめて少ない。ほとんどの場合は、自分の主張が真理であることのみを語っているようだ。しかし、そのような認識では、いつ誤謬に転化するのかをつかんでいないと言えるだろう。多国籍軍の参加についても、今の時点で正しいと主張する人はたくさんいるけれど、それではどのような場合に誤謬になるかと合わせて主張する人はいない。誤謬についてはとらえ切れていないのか、うっかり誤謬になる場合を語ってしまうと、現実がその場合になったときに、参加を主張できなくなるので言及しないのかどちらかなのだろうと思う。誤謬になることが分かっていても参加を主張しなければならないとしたら、それは始めに結論ありきという議論であり、取り返しのつかない失敗が明らかになってから撤退すると言うことになるだろう。宮台真司氏は、日本においてはフィーズビリティ・スタディが出来ないと語っていた。これは、実行可能性[採算性,企業化]調査のことを言うらしいが、要するに、こういうことをしたら結果がどうなるかというのを予想すると言うことだが、それをあらゆる可能な場合に対して考察することだ。あらゆる可能な場合を考察すれば、当然間違いを犯す場合も入ってくるし、誤謬になる条件というのを考えることが出来る。このようなことが出来れば、そのような条件が現実化しないように手を打つという危機管理も出来るわけだ。しかし、ある種の方針がすでに決まっていて、その方向で物事を進めなければならないとき、それを押しとどめるような考えが出てきてはまずいと言うことから、このフィーズビリティ・スタディが排除されるのが日本社会の現状だ。破綻が常に先送りにされるというのが日本社会の欠陥だろう。このような構造を日本社会が持っているのは、誤謬に対して鈍感だからだろうと思う。その誤謬がどれだけ大きなダメージになるかというのを認識していないのだろう。僕が宮台氏を信用するのは、宮台氏がフィーズビリティ・スタディが出来る人だからだと感じる。多国籍軍への参加と、年金法の「改革」とで、それをしたあとにどうなるかというフィーズビリティ・スタディをした人が何人いただろうか。いくつかのBlogではそのような意見も目にしたが、マスコミに登場する評論家にはそのようなものを語った人が少なかったように感じる。一般人である我々も、フィーズビリティ・スタディが出来ていなかったのではないだろうか。これからでも遅くはない。可能な限りあらゆる場合を想定して、どのようなときに、大きな失敗につながるかを考えなければならないと思う。多国籍軍への参加というものについては、「軍」への参加というものが、民主的な独自の判断を許すものになるのかということをフィーズビリティ・スタディで考えた方がいいと思う。民主的な軍隊というのは理想のものではあるけれど、「危険が考えられるから、日本は参加しない」というような状況が起きたときに、「危険を理由に撤退する軍隊」というものが「軍隊」として通用するものかどうか疑問だ。それなら「軍」に参加する意味がなくなってしまうのではないだろうか。日本政府は、「人道支援」をするという抽象的な言葉を並べるばかりで、どのような事態が起きたときに、独自の判断をして撤退したりするかと言うことを語らない。フィーズビリティ・スタディをしないのだ。これは、うっかりその事態が起きたら、自分の言葉の通りにしなければならないという束縛を受けるのを嫌っているのだと思うが、フィーズビリティ・スタディをしない政府をどうやって信用したらいいのだろうか。多国籍軍への参加が、真理となる場合と誤謬となる場合を明確に認識する必要があるのではないだろうか。年金問題にしても、将来的にどうなるかということを考えた場合、破綻するとしか見えないのに、政府はその法案を強行採決した。それは、今その法案がなければならないという理由が語られたが、今のために将来を犠牲にするという考え方はどういうものなんだろうか。今の犠牲と将来の犠牲とを比べたときに、どちらの犠牲の方が小さくてすむのだろうか。これはフィーズビリティ・スタディをして出した結論だろうか。今の権益を守るために、将来を無視しているだけなのではないか。三浦さんは、ディーツゲンの次の言葉も引用している。「真理とは何かという問題は、真理と誤謬との区別いかんという問題と同一なのである。哲学は、この謎を解くことに従事してきた科学である。」このような問題意識を持った人間が、本当の意味での真理をつかむことが出来るのだと思う。誤謬に鈍感な人間には真理は見えてこない。それが、いつ誤謬に転化したかに気づかないのだ。ディーツゲンは次のようにも書いている。「完全な理解は、一定の限界内においてなし得ることである。完全な真理は、常に自己の不完全を意識している真理である。」真理に対して、その限界を語る人間を僕は信用する。特に具体的な問題に関しては、その限界を具体的に語らなければならないと思う。このあと三浦さんは、哲学者の真理論を批判している。それは、真理と誤謬とを固定したものとしてとらえ、転化するものとしてとらえていないことを批判している。弁証法的な発想を持つことが、誤謬に敏感になることに通じるというのを、ここから見ることが出来る。この次は、このことを考えてみたいと思う。
2004.06.25
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僕が初めて読んだ三浦さんの本は、「弁証法・いかに学ぶべきか」(季節社)というものだった。ここにも三浦さんの批判というものを見ることが出来る。まず最初の部分では、労働者哲学者ディーツゲンを巡って、ディーツゲンを評価する三浦さんと、評価しない他の学者について、それを批判している。三浦さんがディーツゲンを評価するのは、その境遇が似ていることから来る共感もあるのだろうと思うが、それだけだったら、感情的な思い込みに過ぎないと言われてしまうかもしれない。それを、客観性のある論理的な評価であると主張するには、評価が整合性のあることを主張しなければならない。その論理の立て方に、批判の方法を学ぶことが出来ると思う。昨日の日記でも紹介したが、三浦さんの批判には、まず一般論として展開できる基礎的なものの見方・考え方がベースにある。ディーツゲンを評価するときも、単に個人としてのディーツゲンをどう評価するかという問題を立てるのではなく、「学者はいかに評価すべきか・学問するものの態度はいかにあるべきか」というふうに根本的な問題としてそれを立てている。三浦さんは学者の評価というものに、「主体性」というものを重視することを主張している。この主体性を評価の中心におくというのは、何も学者の評価だけに限らない。教師が生徒を評価するときも、自力で問題を解いた子供が結果として80点しかとれなくても、大人の助力を得て100点満点を取った子供よりも評価すべきではないかというたとえから主体性の重要性を導いている。これは僕も大いに共感する感覚だ。たとえ間違った結果を出そうとも、自力で考えて出した間違いの方が、人から教えてもらって正解を出すよりも尊いと僕も思う。三浦さんは、主体性の重要性を次のように説明する。「わたしたちは、いま、著作に述べられた真理が多いか少ないかと、学者としてすぐれているか劣っているかを比べてみた。一致する場合と、一致しない場合とあることが分かった。一致しない場合を調べてみると、この比較が実は外面的・現象的な取り上げ方でしかないことも分かる。著作は手が機械的に動いて作られてものではない。そこには頭脳の媒介がある。著作に述べられた真理は、現実の世界からくみ取ってこられたものであるから、著作と現実の世界の間には頭脳を媒介とした結びつきがある。真理が多ければ、それだけ現実の世界との結びつきも大きいことは確かである。しかしそれは、著作者の頭脳が自力で現実からくみ取ってきたか、それとも他のものの頭脳がくみ取ったものをもらい受けたかと、直接の関係を持つものではない。ところが、学者としての優劣はこの自力か他力かに関係してくる。」真理を語るものが、その真理を自力でつかみ取ったのかどうかは、真理だけを見ても分からない。しかし、自力でつかみ取った人間の方が、能力においてすぐれているというのは、誰でも賛成することではないかと思う。ディーツゲンは、自力で真理を獲得した人間であり、だからこそ三浦さんは高く評価していると主張しているのだと思う。しかし、他の人間は、ディーツゲンの著作に細かい部分での間違いや混乱があることを指して、学者としての評価を落としている、と三浦さんは批判している。これは、果たして三浦さんのひいき目だろうか。僕は、三浦さんの評価こそが正しいと思っている。三浦さんは、このディーツゲンに対する評価についての批判を次の言葉で締めくくっている。「著作は、人間の主体的活動の産物である。著作に述べられた真理が多いか少ないかを論ずるのは、主体の活動を一応考察からのぞいて、現実の世界と著作の内容とをつきあわせて比べることを意味する。ここから直ちに学者の優劣を引き出してくる人たちにしても、これらの著作が学者によって書かれた事実を無視しているわけではないが、活動そのものを検討して優劣を論じようとせず、産物だけを取り上げているのである。今の唯物論者と称する人々には、こういう間違った態度を取るものが少なくない。方法論的な反省をしないので、検討が必要な場合にも主体の活動を無視してしまうのである。だから観念論者に、「主体性を無視している」と、痛いところをつかれるのである。こういう間違った理論を、マルクス・レーニン主義であるかのように説いて、マルクス・レーニン主義の信用を傷つけるのである。(このような偏向を、客観主義と呼ぶ。) 結論はこうである。著作に述べられた真理の多少と、学者としての優劣は一致するが、それは一定の主体的条件においてのみ正しく、ある主体的条件においては誤りである。 ディーツゲンの正しい評価も、主体的条件を正しく取り上げて初めて可能であることに、注意しよう。」三浦さんは、主体性を無視することが間違いであることを批判している。それは、学者という人間を評価するのであるから、現象としてどのようなものが現れているかよりも、その人間自体を見なければいけないと考えている。そして、その人間自体が現れてくるのは主体性の方にこそ現れるという見方から、主体性の重要性を強調しているのだと思う。しかし、主体性を評価するのは難しい。その著者が、自力で真理を獲得したかどうかは、自分で真理を獲得した経験がなければなかなか評価が出来ない。真理をただ記憶しているだけの人間は、獲得する過程を評価できないのだ。結果として表れた知識が正しいかどうかの評価しかできない。主体的活動を無視したくなくても、何が主体的活動なのかが分からないので、結果的に無視することになってしまう。客観的な事実そのものは、評価がある程度一定になりわかりやすい面もあるので、それだけを取り上げていれば不安はないと言うことなのだろうと思う。難しい主体性の評価には手を出さずに、簡単な客観的事実の評価だけを考えることが、かえって「客観主義」という間違いに陥るもとになるというのは皮肉なものだなと思う。こう言うのは数学の評価にも同じように言えるものがあるのを感じる。今の数学は、結果としての答が正解と同じかどうかを評価するだけで、その過程である考え方を評価すると言うことがない。それは、過程をたどって評価できる教員が少ないと言うこともあるのだと思う。間違った答を出していても、その過程を評価して高い評価を出すのは、どうしてなのかを説得的に説明出来なければ高い評価を出すことが出来ない。結果的に正解かどうかで評価すれば、とりあえず客観性を持っているようには見えるので、評価はそのような方向に流れていくことになる。しかし、それは数学的能力の評価ではない。三浦さんが語る学者の評価と、僕が感じる数学の評価とには、共通の構造を持った問題があるような気がする。どうやって、正しく主体性を評価するかという問題があるような気がする。三浦さんは、問題を一般論的に抽象するのが得意だと思う。この学者の評価の問題でも、間違いを批判して「客観主義」という言葉で表している。これは、一見するとレッテル貼りをしているような感じもするかもしれないが、レッテル貼りと違うのは、具体的な例から抽象して、一般論的な結論として提出しているところだ。レッテル貼りというのはその反対に、抽象的なイメージを、具体的な対象に貼り付けるものになっている。三浦さんのように、具体から抽象したイメージは、この次に何かを批判するときの一つの指針になるような気がする。自分の思考も、主体性が重要な要素となるときに、それを無視しないように、客観主義に陥らないように気をつけようという意識を持つことが出来るだろう。批判の方法を学ぶというのは、誤謬に対して深く知ると言うことであり、誤謬に敏感になることだと思う。間違いをしない人間というものはいない。だから誤謬に敏感になることはとても大事なことだと思う。
2004.06.24
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三浦つとむさんは、数々の批判を行っているが、もっとも印象的なものは、スターリンが全盛の頃にその言語論を批判し、それに関連して当時権威を持っていたマルクス主義を「官許マルクス主義」として批判したことだろう。この批判によって三浦さんは共産党を除名になるわけだが、歴史は、三浦さんの批判が正しかったことを、後にスターリンの権威失墜によって証明してくれたと僕は思っている。三浦さんは、スターリンに続いてレーニンの批判も展開した。しかし、マルクスやエンゲルスの批判には至らなかった。そこが三浦さんの限界だと見る人もいるけれど、これは三浦さん個人の限界というよりも、時代の限界だと思う。三浦さんが生きていた時代には、マルクス、エンゲルスの限界が明らかにされるような時代ではなかったのだと思う。今だったら、マルクスやエンゲルスの批判が出来る人間はたくさんいるだろう。古い時代に生きていた人間が考えの中に入れられなかったことを、新しい時代に生きる我々は知っているからだ。あとから批判するのは、その考えが支配的だった時代に批判するよりずっと易しい。しかし、簡単に批判できるということは、その意義を正しく理解する妨げになりそうな気がする。三浦さんの構造主義批判しか知らなかった僕は、内田さんの構造主義の解説によって初めて構造主義の意義を知った。欠点しか見えないと、すべてがだめなように感じてしまうが、多くの人の心をとらえたものというのは、それだけの魅力があるものなんだなということが内田さんの解説でよく分かった。批判を正しく受け止めるということは、どこまでが正しくて、どこからが間違いに陥ったかを正しく受け止めるということだろうと思う。誤謬に転化した分岐点を理解するということが、正しい批判のあり方だろうと思う。そういう意味では、批判の対象として考えるものも、批判に値する価値のあるものを選ばなければならないということだ。三浦さんのスターリン批判は、三浦つとむ選集1「スターリン批判の時代」(勁草書房)に載っている。三浦さんは、ここでスターリンの言語学論文の批判をしているのだが、いきなり具体的な言語の問題に入らずに、まず「基礎理論把握の重要性」を語るところから批判を始めている。この批判の方法は、スターリンが、個別的・具体的な問題に引きずられて、「木を見て森を見ず」という間違いを犯しているという批判を展開しているように見える。これは、三浦さんの批判に特徴的なもので、三浦さんは物事を考える基本に、普遍的に成立する基礎理論というもののイメージがあり、それに反するような具体性を持ったものに敏感に反応するように見える。だから、批判の方向がそのようなものが多くなるのだろう。具体性に引きずられて基礎理論を忘れてしまうというのは、その具体性の表れが、何らかの先入観をもたらすような特徴を持っているのだと思う。スターリンが引きずられた具体性は、我々が使う言語というものが、それを辞書的な部分に分解して意味を受け取ることが出来るという事実だ。言語を道具として見る見方だ。分解して分析できるという行為は、その言語を生み出すときにも、分解したものをつなぎ合わせるのだという、単語を切り貼りするという行為が言語活動だということを意味しない。もし、単語を切り貼りする行為が言語活動だとしたら、どこかに「言語」という実体があって、それをあるパターンに当てはめて並べるのが言語活動だということになってしまう。単語は辞書から取ってきて、それを並べるのが作文だということになってしまう。これは、当時映画製作でいわれていたモンタージュ論と呼ばれる理論にも通じるものだった。モンタージュ論では、断片的なフィルムをつなぎ合わせることが映画製作であるというような現象的な具体性に引きずられて、その「組み合わせ(モンタージュ)」こそが映画の本質であるというような考え方が生まれてきた。言語もうっかりすると、単語が辞書によって分析されているので、このようなモンタージュが言語の基本になってしまいかねない。そうすると、言語学が解明すべきなのは、辞書的な意味を集めた「語彙」の分析と、それをどのようなパターンで並べるかという「文法」の問題になってしまう。しかし、三浦さんは、言語を考えるときに、まず「表現」一般というものを考える。言語は、「表現」と呼ばれるものの一種であるから、表現の本質が言語にも貫かれていると考えるのだ。こういう発想が「基礎理論把握の重要性」という考え方だ。三浦さんが考える表現というのは、何が表に現れたかを考えるとよく分かる。人間が表現をするのは、そのままでは伝えられない頭の中の存在である「観念」を「物質」に託して表に現すと考えるのである。つまり、表現の基礎には、その表現をもたらした認識が必ず存在する。さらにいえば、その認識をもたらした存在そのものも考えることが出来る。表現というのは、「存在-認識-表現」という過程的な構造を把握するところにその本質を見ることが出来る。これは、言語表現だけにかかわらず、絵画などの芸術表現や、無意識の表現など、表現と呼ばれるものにすべて共通するものだ。スターリンの発想は、具体的な現象に注目して、それを過程的に見る目を失ってしまうと陥りやすい間違いだ。その間違いに至る理由も十分納得できるものであり、過程的構造に注目するという、基礎理論を把握していなければなかなか気づかない間違いでもあると思う。しかし、基礎理論を把握していれば、その批判は実に当たり前のようにも見える易しいもののようにも感じる。三浦さんの批判は、当時は絶対的少数派で、多くの人が三浦さんの指摘を理解できなかった。これは、どんなに優秀な頭を持っている人でも、ある種の先入観には勝てないことを表しているんだろうと思う。スターリンの間違いを認めることは、当時の共産党が間違っていることを認めることであり、それが究極的には、共産主義そのものの間違いを認めることになってしまうという先入観があったのではないかと思う。実際には三浦さんが批判したのは、スターリンの言語学論文であって、それにつながる「官許マルクス主義」の間違いであり、マルクスやエンゲルスの考え方そのものに間違いがあったと言ったのではなかった。しかし、そうは受け取れなかったのだろうと思う。マルクスやエンゲルスの言っていることも、全く間違いがないわけではなく、間違いがあったとしても、根幹を揺るがすようなものではなく、末梢的な部分での間違いだと理解できれば、間違いの指摘もそれほど大したダメージではなかろうと思うのだけれど、無謬性の神話という束縛はかなり強かったのだろうと思う。内田さんが語っていたことだが、あるものの考え方というか思想というものは、その時代の大部分の人々がそれに支配されていると言うことがある。かつてのマルクス主義の時代や構造主義の時代というのはそういうものだと思われる。しかし、やがてその熱病のような、誰もがそのように考えていた時代というものが終わる。これは、その間違いが誰にも分かったから終わったというのではないようだ。内田さんに言わせると、それは「飽きた」からだと言うことになっていた。間違いが分かるためには、どこまでが正しかったかも分からないとならない。しかし、その正しさは正確に捉えられていない。正しかった部分までもが忘れられて棄てられているだけのような気がする。ブームがさった今こそ、どこまでが正しかったのかを冷静に受け止めなければならないだろう。ブームの時には、それに流されてなかなか間違いを知ることが出来ないからだ。そして、すべてが間違いだと単純に棄てるのも間違いだろうと思う。批判をするときは、それがどこまでが正しいのかを見極めなければならない。そう言うことが出来るものこそが批判に値するものだろう。ほとんど間違いだとしか見えないものは批判しても仕方がない。正しさと間違いの分岐点を見極めるには、基礎理論の把握が大切だというのが三浦さんが教えてくれたことのように思う。それは、「木を見て森を見ない」ことではなく、森を見るという大局的な見方を持って、木という個別・具体的な現象を見なければならないと言うことだと思う。日本政府が語る多国籍軍への参加も、「木」である国際貢献という具体的な事実が、歴史の中での日本の国際的位置という「森」の存在の中で、どのような意味を持っているのかを考えなければならないだろう。アメリカ主導の多国籍軍へ参加したら、現時点でのアメリカへの貢献という具体的な問題は達成できるだろう。しかし、長い歴史的スパンで考えた場合に、ここでアメリカにすり寄ることが、将来的にも安全で、尊敬される国際的位置を獲得することにつながるものかどうか、批判的に眺めていきたいものだと思う。年金改革法案に関しては、今とりあえずあの法律を通しておかなければ、今後数年の年金政策が立ち居かなくなるという「木」の問題があって、政府はあの法案を強引に通した。しかし、今後数年の問題を優先することによって、今までの利権が温存され、この時点で責任を取っておかなければならない人間の責任を不問にし、その責任を先送りして、もっとひどい状態にしているという状況が「森」的な見方ではないのだろうか。「木」を見ているだけでは、すべてが「仕方がない」という追認で終わってしまう。「森」を見て批判するのなら、その批判を行動に移さなければならないだろう。今できる行動は、「木」を見ているだけだと思えるような政策には、「NO」の意志を突きつけることだろう。それに一番ふさわしい場所は今度の選挙だろうと思う。僕は「NO」の意志を表したいと思うけれど、そう思ってくれる人が増えていくことを願っている。
2004.06.23
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批判というと、何でもかんでも文句をつけるというマイナスイメージを持っている人はいないだろうか。イラクへの自衛隊派遣に反対するのも批判の一つなのだが、人質事件の時には、この批判が、国家に対して文句をつけているというふうに受け取った人がたくさんいて、それが不当なバッシングにつながったように感じる。しかし、批判というのは、民主主義というものが腐っていきそうなときに発する警告の一つでもあるのだ。もし批判を許さないような社会の雰囲気ができあがってくると、民主主義は確実に腐っていく。そして、最後には、制度としての民主主義は残っていても、その民主主義は全く機能しない社会になってしまう。それは歴史を振り返ってみればよく分かるのではないかと思う。今の日本社会の雰囲気を見ていると、批判を許さないという軍国主義下のものとは違うが、批判が全く力を持たないという無力観というか、絶望的なあきらめを感じるような雰囲気があるのを感じる。批判というのは、権力が暴走しそうになったときに、その暴走に警告を発し、取り返しのつかない失敗につながらないように歯止めをかけるものになるはずだ。しかし、今の日本社会では、まじめな批判がなかなか受け止められず、批判をするような人間が時代遅れのものであるかのようにマイナスのイメージしか持っていないように感じる。昨日のニュース23では、小泉政権のなし崩し的な手法を「後出しじゃんけん」というような形容とともに批判していた。年金問題において、大事な情報を提出せず、なし崩し的に物事を決定してから、あとで情報を出していくことを「後出しじゃんけん」と呼んでいた。決まってしまったのだから仕方がない、と言うような雰囲気を作って、批判を無力化しているように見える。イラクにおける多国籍軍への参加も、本来の意味での「人道復興支援」がどういうものであるかという本質的議論がないままに、「人道復興支援」のためなら軍隊を出すのだというなし崩し的な論理で押し通されようとしている。民主党の岡田代表は、「人道復興支援」と、自衛隊を軍事行動を伴う多国籍軍に参加させることとは別に議論しなければならないと、実に真っ当な批判をしていたが、この批判が、「それでは人道復興支援をしなくてもいいのか」というような的はずれの反論で押さえ込まれてしまう。批判が批判としてちゃんと機能しないと、権力の側にいる者たちは、国民の世論というものをなめてかかるようになるだろう。何をしても自分たちの思い通りだということになってしまう。多国籍軍参加というものに関して、ちゃんとした議論もなく単に政府の意向を伝えるだけで決まってしまうなら、これは何をしても通るというふうに政府の側は思うだろう。何をしても通るのなら、無理を通して道理が引っ込むようになる。権力が腐る過程を今確実にたどっているのだと思う。批判というものがこれほど無力になったと感じるようになったのは、戦後の歴史の中では初めてだろう。参議院選挙が近づいているが、もしこの選挙で政府与党に対する批判として、反対勢力の方に票が集まらなければ、このように無理を押し通す政府が国民の支持を受けたというふうに解釈されて、ますます無理が通るようになるのだろう。しかし、反対勢力の最大のものである民主党のイメージがあまりにも悪いので、批判票を投じる対象が見つからない感じもする。そうなると、批判が力を持たない状況はまだ続いてしまうのかという絶望的な思いも感じてしまう。たとえ民主党に積極的な支持を感じなくても、批判という意味で反対勢力を支持すると言うことが、今ほど必要なときはないのではないかと僕は感じる。批判の意味を考える上で、とてもいい例が内部告発者を保護するための法律を考えることなのではないかと思う。神保哲生・宮台真司の「マル激トーク・オン・デマンド」でも、この法律について様々の言及をしていたが、これに対する基本的な認識において、日本の経営者がいかに批判というものに対して間違った認識を持っているかということを語っていた。日本の経営者の意識では、内部告発をするようなものは、企業にとってはマイナスの影響しか与えないという受け取り方をしているようだ。それは、企業の恥部を暴くものであり、企業の社会的イメージを失墜させ、ひいては企業の競争力をそぎ、そのために企業がつぶれる恐れさえあるかもしれないと感じているようだ。しかし宮台氏の考えはこれと全く違う。人間の活動というものは、完全だったり、いつでも良いことだけをするとは限らない。失敗したり、悪意を持って利益を追求したりすることもある。そういうときに、その失敗や悪意を小さい芽のうちに発見して修正する必要がある。それが大きくなって、もはや取り返しがつかないような失敗になってしまったら、それこそ企業がつぶれる恐れも出てきてしまうわけだ。小さな芽のうちにそれを発見するには、ある種の不正に対して内部告発しやすい環境を作ることが必要だ、と考える人間が近代民主主義精神を身につけた人間だろうと思う。それは、単に不満分子が文句をつけるというだけの現象ではない。初期診断をする医者のための、警告の情報だと考えた方がいい。宮台氏によれば、この法律は内部告発するものを全く守らないものになっているそうだ。何らかの不正を発見し、企業のためにこの不正を告発しようとしたものがいても、まず企業そのものにそれを知らせないとならない仕組みになっているらしい。企業に都合の悪い情報を、まず企業に知らせなければならないようになっているのだ。もし、知らせた相手が、その不正にかかわっている相手だったら、その告発を握りつぶそうとするだろうし、告発した人間を排除しようとするだろう。告発した人間は全く守られなくなってしまう。本来ならば、企業を越える機関があって、そこに告発できるようにすべきだろう。そして、その告発によって、告発した人間が企業から不利益を受けないように法律が保障しなければならないだろうと思う。それなしには、公の意識を持って企業を告発しようとする人間は出てこないだろう。もし告発に踏み切るとすれば、告発しなくてももはやその企業にはいられないという条件に陥った人間だけだろうと思う。今の内部告発者を守る法律は、その精神が尊重されるようには作られていない。だから、企業の不正が明らかになるのは、もはやその企業が回復可能な範囲を超えた深いダメージを受けたときだけになってしまうだろう。欠陥隠しのニュースが次から次へと明らかになっている三菱自動車なども、もし問題が小さいうちに内部告発できるような制度があったら、今のようなダメージを受ける前になんとか手を打てたのではないかと思う。批判というのは、単に文句を言うだけのものではない。取り返しのつかない失敗を避けるための警告なのである。批判を許す社会は、失敗を正しく処理し、それが小さいうちに軌道修正が出来る社会だ。今の日本を見ていると、批判が力を持たないのだから、失敗の処理がいつまでも先送りにされ、もはや先送りが不可能になった取り返しのつかない状況になってから玉砕するしかないのかなという絶望的な思いがわいてくる。日本は戦後60年も戦争をしないで平和を保ってきた。しかし、批判が力を持たない状況は、戦前も、戦中も、戦後も変わりなくつながっているのではないか。あからさまな弾圧は見なくなったが、無関心という絶望が蔓延しているような感じがする。小泉さんが言っていることは単純明快だが、それを批判しようとすると複雑で難しくなる。単純明快さの果てに、いつかは破滅が待っているのだが、それが自分が生きている間に来なければそれで幸せだという感じなんだろうか。破滅を避けるための批判精神を取り戻すために、複雑さと難しさに関心を集めたいものだと思う。すぐれた批判の方法というものをこれからも学びたいものだと思う。
2004.06.22
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内田樹さんは「ためらいの倫理学」の中で、スーザン・ソンタグへの批判を展開している。僕は、スーザン・ソンタグについてほとんど何も知らないが、ちょっと調べた限りでは、リベラルで良心的な立ち位置に立つ人ではないかと言うことは分かった。だから、この批判に関しては、内田さんが述べている限りでのスーザン・ソンタグのイメージに関しての批判と言うことで受け取るのだが、共感する部分から批判の方法を学びたいと思う。内田さんが取り上げるソンタグの言葉は、「未来に向けて--スーザン・ソンタグ氏から大江健三郎氏へ(上)」(朝日新聞、1999年6月16日夕刊)の中のものだ。ここに内田さんは、「戦争に対する現代知識人の一つの「定型」」を見ている。それが、論理の構造としては、批判の対象としているアメリカの力の論理と同じではないかという批判をしているように僕は感じる。つまり、論理矛盾を起こしているのではないかという批判の方法のように僕は感じる。内田さんは、まず次のソンタグの言葉を引用する。「作家の最も重要な責務として、ともかくどうあるべきか……真剣さを失わないことが必要なのです。シニカルでは(斜に構えていては)いけない。そして証言すること。被害者のために声をあげて語ること。」この文章だけを取り上げる限りでは、ここに批判すべきものを見つけることは出来ない。良心的で真摯な発言だと思うだけだ。知識人という、多くの人に影響を与える立場にいる人間としては、これだけの責任を自覚していなければならないだろうとも思う。では、内田さんは、この言葉のどこを批判するのだろうか。上のソンタグの言葉に続けて、次の引用をあげている。「私がずいぶん前に自分に課したことがあります。自分がそれまで知らなかったり、この目で見たことがなかったりする事柄については、決してどんな立場も取ってはならないと。」この言葉に対する内田さんの批判は、次の言葉からうかがい知ることが出来る。「もちろんソンタグは、だから時には率直に「よく分からない」と言うことが誠実さの証でありうると言っているわけではない。まるで逆である。「よく分からない」のは「知らない」こと、「この目で見たことがない」ことの帰結であって、要するに怠慢の同義語なのである。」内田さんにとっては、「分からない」ことを「分からない」というのは、誠実さの表れであり、率直さとして評価されるべきものなのだろうと思う。僕も、「分からない」こと自体は、それだけで悪いとは思わない。しかし、ソンタグの解釈は違うと内田さんは述べている。誠実な知識人は、「分からない」と言ってはいけないのだ。「分からない」というのは怠慢さを表す言葉だと言うことだ。ソンタグの言葉をそういうふうに受け取ってしまうのは、ソンタグが次のように語っているからだ。「ベトナムでの戦争については68年と73年にそこへ行っているので語ることが出来ます。サラエボでもほぼ3年間にわたり相当の時間を過ごしました。アルバニアにも最近2度滞在しました。 善意があっても思慮深くとも、直接の体験の具体性に取って代わることは決して出来ません。<……>どんな戦争地帯にも一度も近づいたことがなく、戦闘に与したり、爆撃のもとで生活したりするとはどんなことかこれっぽっちの考えもない。それが見え見えのアメリカやヨーロッパの知識人たちが尊大にもあの戦争について語るのを目にして、怒りを禁じ得ませんでした。」このソンタグの言葉に対して、内田さんは次のような受け取り方をしている。「要するにソンタグは「私は現場をよく知っているし、この目で見ているから、戦争について発言できるし、立場も持てる。そうでない人間たち(「戦闘に与したり」「爆撃のもとで生活したり」したことがない人間たち、たとえば私のような人間)は意見を言う資格がないから、黙っている」と言っているのである(原文がどうだか分からないけれど「戦闘に与する」というのはかなり聞き捨てならない表現である。これは紛争当事者の一方に「与して」戦闘行為に参加するという意味以外にない)。」僕も、上のソンタグの文章に関しては、内田さんと同じ読み方しかできないと思う。共感するところだ。知らないことについては黙っていろという圧力は、いろいろなところで感じるだけに、それを言われると心に引っかかりがあるのも確かだ。しかし、知らないことを知らないとはっきり言うことこそが、真理を獲得するには本当は価値があるというのを、僕は三浦さんや、仮説実験授業の提唱者の板倉さんから学んだ。知らないことに対して黙っているのは、そこで思考停止になることを意味する。知らなくても、疑問を提出することは出来るし、それについて深く考えることも出来る。大事なのは知識や体験ではないのだ。場合によっては、知らないからこそ正しい思考が出来ると言うこともありうる。あるものに関してよく知っている人間は、ある立場に深くコミットしていることがある。そうすると、その立場から考える思考が生まれやすい。客観的な第三者的な立場に立つことが難しくなる。仮説実験授業で討論をするときに、難しい問題であればあるほど、とんでもなく勘違いして考える人間の意見がヒントになって討論が展開するときがある。それは、正しく考えているのではないけれども、盲点をついているような考えであることが多い。それをきっかけにして、立場にとらわれていた考えが、立場を解き放たれて客観性を獲得することがあるのだ。これは、知らないヤツは黙っていろという雰囲気の中では出てこない考えだ。言論の自由の重要性は、このような討論の展開を見るときに感じるものだ。そのことに対してよく知っている人間だけが発言する権利を有するというのは、日本における古いタイプの運動では、そのような論理が強く出る感じがしている。当事者の発言こそが大事で、当事者でない人間には本当のことは分からないと言うような、ナイーブな感覚だ。夜間中学などでも、学歴による差別を受けてきた人間の気持ちは、それを味わった人間には分かるはずがないと言うような論理で、生徒の立場を絶対視するような考えを持つ人々もいる。しかし、夜間中学の問題は、学歴差別の解消だけに絞りきれるものではない。学歴差別の問題は、それの被害を受けてきた人間をもっとも重視して問題を考えるべきだろうが、ある立場からの一方的な意見ばかりでなく、様々な立場からの見方を検討することによって、客観性を持たせなければならないのではないかと思う。知らないヤツは、あるいは当事者でないヤツは黙っていろと言うような雰囲気は、言論の自由を否定する。これは真理から遠ざかることになるのではないかという点で、僕もやはり批判を持つ。当事者であり、それをよく知っている人間こそが、その問題に対する発言権を一番に持つのだという考え方は、構造的には、権力の側であるアメリカ政府と同じではないかという批判を内田さんは次に展開する。「安定した知識人としての生活を棄てて、戦時下のベトナムに行くことが「真剣な」知識人としての知的・倫理的威信を高めると信じているソンタグの信憑の形態は、安定した平時体制を棄てて、内戦のベトナムに軍事介入することが「真剣な」国家としての政治的・倫理的威信を高めると信じているアメリカ政府信憑の形態と同型的である。 「被害者」に代わって「証言」するために戦場に赴き、不可避的に「戦闘に与する」ことがおのれの倫理性の維持にとって譲ることの出来ない選択だと信じているソンタグの行動は、民主主義と人権を守るために外国に出兵して、あえて「戦闘に与する」ことが国家としての倫理性を維持するために譲ることの出来ない選択だと信じているアメリカ政府の行動と、信憑のあり方において同型的である。 戦場に来ないで戦争についてあれこれ論評する知識人に「怒りを禁じ得ない」ソンタグの感覚は、戦場に来ないであれこれ論評するだけの日本政府の弱腰に「怒りを禁じ得ない」でいた(湾岸戦争の時の)アメリカ政府の感覚と同型的である。 そして、自分がアメリカ政府と「立場」が違うだけで、同じ思考の文法で語っていることにスーザン・ソンタグ自身はどうやら気づいていない。」自分が批判している者たちと同じ思考を展開していると言うことは、批判の方法として一度考え直さなければならないものだろう。それは、立場が違うだけだとしたら、もし自分の言っていることが、立場からすれば正しいと言えるなら、相手の言っていることも、その立場からすれば正しいと言えるからだ。全く批判にならないことになってしまう。しかし方法論を振り返るというのは難しいものだ。具体的な属性を検討するのは易しいが、そこに用いられている論理を反省するのは難しい。自分の立場からすれば真理だとしか思えないことは、逆に言えば相手の言っていることは間違いにしか見えない。しかし、立場を変えてみたらどうなのか、と言うことは難しいけれどやってみなければならない問題だろう。立場を変えてみたらどうだろうというのは、たとえいやでも、相手と同じ思考をすると言うことだから、あえて相手と共感したふりをしなければならない。追体験というヤツだ。これはなかなか難しい。本当に共感できる人間なら共感もたやすいが、嫌いだと思うような思考に共感したふりをして追体験するのは難しい。しかし、単純ではない、複雑な問題を考えなければならないときは、一度はこのような追体験も必要だろう。僕は、内田さんと同じようにスーザン・ソンタグに批判的な気持ちを持っているけれど、ソンタグに共感して追体験することはさほど難しさは感じない。ソンタグ自身は良心的で、論理的にも正しい思考をする人だと思えるからだ。内田さんの方により深い共感をするけれども、ソンタグにも共感して追体験することも出来る。そして、その上で批判することも出来ると思っている。難しいのは、論理的には受け入れがたいという主張を見たときに、その主張をしている人間が、なぜ・いかにしてそのような主張に至ったのかというのを追体験することだ。感情的に受け入れたのであって、論理的に受け入れたのではないと言うことかもしれないが、その感情を追体験するのはきわめて難しい。しかし、批判をするときには、その難しさを越えて追体験する必要があるだろう。それが出来ないときは、批判もやめた方がいいと思う。批判をせずとも、自然淘汰されてしまうかもしれないから、それにまかせるという方がいいかなとも思う。内田さんは、この文章の結びで、「今「戦争について語る」ことは、ソンタグ的なフレームワークを受け入れることを意味している」と語っている。だから、「それゆえ古狸は戦争について黙して語らないのである」と結論している。これは、一つの対処として正しいのではないかと、ここでも僕は内田さんに共感する。板倉さんが語っていた格言で、「旗幟鮮明にして昼寝する」というものがあった。世の中の流れが、自分と反対の考えの方に流れているときは、それにあらがっても流されてしまうだけだから、その時は、静かに昼寝でもして流れが変わるのを待った方がいいと言うことだ。自分が考えていることが本当に正しいことであれば、いつか必ず流れは変わる。ただし、昼寝をしているときでも、自分の考えは曖昧さを持たないように明確に言っておかなければならない。あとで、流れが変わったときに、実は前から考えていたんだなんて言っても誰も信用しないからだ。僕の考えも、今のところはまだ少数派で、世の中の流れには大した影響はないと思うが、やがては流れがこちらに来るのではないかと思っているので、考え方だけははっきりと記しておきたいと思う。論理的に見て正しいと思えるものが、やがて現実になっていくだろうと思う。だから、論理的に間違っているように見えるものを僕は批判していく。
2004.06.21
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「数学者には定義のない議論は無意味だろう」」(「数学と倫理」)という言葉が目にとまり、「議論」というものをちょっと詳しく考えてみたくなった。「議論」というのは、辞書的な意味を考えると、お互いの意見を述べ合うことと言うような感じになるだろうか。しかし、意見を述べあうのも、単なる感想だけに終わる場合もあるし、議論とは言えそうにないものもあるように感じる。これは、「議論」という言葉の抽象度が高いので、その実体をつかみにくいのだと思う。そこで、具体的な「議論」を思い浮かべながら、「議論」とはどういうものかという実体を考えてみたいと思う。具体的に考察の対象にするのは二つ考えてみたい。一つは、仮説実験授業で「討論」と呼ばれる議論だ。もう一つはディベートの代表のような「朝まで生テレビ」の議論を思い浮かべて考えてみたい。僕の中では、この二つは、仮説実験授業の討論は「真理に到達するための議論」というイメージで、朝まで生テレビのディベートは「相手を打ち負かす勝敗を争う議論」だというイメージだ。さて、仮説実験授業では、実験の前に実験結果の予想をする。これを4つくらいの選択肢で予想をするのだが、いずれも起こりそうな感じがして、予想が一つに集中すると言うことがない。つまり必ず異論が生じるような意見表明になるわけだ。もし異論が一つもなく、誰もが同じ予想を立てるのなら、そこには議論は生じない。議論の基礎には必ず異論が存在すると言うことがなければならないのかなと思う。仮説実験授業の議論は、議論の後で実験をすることで決着をつける。予想は、曖昧さを残さない形で表現されており、実験の結果から直ちにどの予想が正しかったかが分かるようになっている。つまり、実験の結果の解釈については共通理解が出来ていることを前提に議論しているわけだ。一つの例を話すと、体重計に乗って体重を量るときに、次の3つの姿勢で別々に量ってみるという実験をしてみる。1 普通に両足で立った状態で量る。2 片足で立った状態で量る。3 力一杯踏ん張った状態で量る。このときに次の5つの予想を考えて、どの予想が実験結果として出てくるだろうかというふうに聞いてみる。1 両足で立ったときが一番重い。2 片足で立ったときが一番重い。3 力一杯踏ん張ったときが一番重い。4 どれも同じ。5 その他の考えこの場合は選択肢が5つになったが、たいていはどれか一つに集中すると言うことはない。異論が存在するので、その異論の間で、自分の考えが正しい理由を議論することになる。仮説実験授業では、この議論の時に、自らの予想が曖昧だった者は、誰かの議論を聞いている過程で、そちらの方がいいと思ったら予想変更してもいいことになっている。最初の直感に忠実である必要はない。上の予想では、片足の方が力が集中するから重くなる、と言ったり、力を込めるとその力が重さに作用すると言ったり、いろいろな意見が出てきて、しかもそれは絶対に正しいとも間違っているとも判断が難しい場合が多い。しかし、最後に意見が出尽くした後に実験をすれば、その実験結果は、どの予想が正しかったかはほとんど明らかに誰にでも分かる。こういう議論をした子供たちが、議論そのものにどのような評価をするかはとても興味深い。間違った予想を最後まで変えなかった子供に対して、その子供自身も、他の子供たちも、必ずしも評価が低くないことにちょっと驚く。予想の正しさと議論の価値があまり関係がない。間違った予想を守り続けた子供が、その実験結果に対する認識では、正しい予想をした子供よりもしばしば深い理解を示すことが多い。間違いを間違いと認識することによって、真理が深まるというわけだ。しかもそれをちゃんと自分で評価できていることが多い。だから、予想を間違えてもその結果だけで議論を評価しないのだろう。議論から正しく学ぶと言うことが出来ている。他の子供たちも、彼が間違った主張をしたからこそ正しさがよりはっきりしたという評価が出来るのだ。また、たとえ結果として間違っていようとも、自らの考えを表明したと言うことに対して、その勇気を称賛する場合も多い。特に少数派の意見になってからも、なお自分が納得するまでは意見を変えなかったことに対する賞讃がされる場合が多い。仮説実験授業の討論の場合は、議論の持っている積極的なプラス面が見られることが多い。これは、いろいろと理由が考えられるだろうが、一つは、実験という客観的な手段で真理が決定するので、「正しさ」に納得できるからだろう。もう一つは、科学的真理を議論するものなので、ある種の価値観が結びついていないと言うのもあるだろう。善悪と結びついた予想などをさせると、悪の予想などは出来なくなってしまうが、仮説実験授業の場合はどの予想を選んでもいいか悪いかの価値判断が絡まないので議論が悪影響を与えないのかもしれない。僕は、実りある議論というのは、仮説実験授業の討論のように、真理を求めるという目的を持ったものでなければならないのではないかと感じている。これが、ディベートのように、勝敗を争う議論になってしまうと、技術的な側面を学ぶことは出来るだろうが、議論そのものが実りがあるという経験はできないのではないかと思う。「朝まで生テレビ」を見ていると、かなりデリケートな問題を議論していることが多いので、異論が存在することはすぐに分かる。しかも、その異論に対して、最初から結論に対して強い意識を持っている人ばかりが出てくる。仮説実験授業のように、曖昧な姿勢を持っている人はまずいない。だから、誰かを説得するような議論にはならないのだ。それは、自らの信じるところを述べるだけと言うことになる。相手を黙らせたら勝ちという感じだ。黙らせる方法は、必ずしも真理を語る方法だけではないところに、ディベートと呼ばれる所以があるのかなと思う。朝生のようなディベートでは、真理を決定づける方法がない。仮説実験授業には客観的な実験という手段があったが、どういうものが自らの言説の真理性を確定させるかと言うことに対しては、それぞれの共通の了解がないのだ。使われている言葉に関しても、同じ発音はしているけれど、意味においては一致していないと思われるものが多い。定義が同じだとは思えないのだ。そういう議論においては、その定義に従えば、論理的には正しいかもしれない、と言うことが語られる。しかし、その定義を認めない人間には全く説得力がないという議論になる。これは、定義のない議論が無意味な議論になる典型的な例かもしれない。定義のない議論が無意味なのは、数学者だけに限らない。真理を求める人間には、定義のない議論は無意味なのだ。それが役に立つのは、ディベート的テクニックを持っている人間が、議論に勝つためのテクニックを使うときに役立つくらいだろう。正確な定義がされているかという問題提起に対して、そのようなものが重要だという意識を持たないとしたら、そこでの議論は「真理を求めている」議論ではないのだろうとしか僕には思えない。それでは何を求めた議論なのだろうか。定義をするための議論だったら、定義がないのは理解できる。そういう議論をしなければならないというのは、問題の難しさを自覚する上では大切だ。「倫理性」の定義をしなければならないと言う自覚は、「倫理性」の重要性を自覚したものだと思う。この定義が必要ないと思っている人間は、問題の難しさを自覚できないのだろうと思う。定義をするための議論ではないのに定義がはっきりしていないとしたら、それは結論を出すための議論ではないと言うことになるだろう。言いたいことを言えばそれでおしまい、と言うことなら定義は必要ない。朝生を見ていると、それぞれの出演者は、専門家として正しい意見を言っているのだろうが、どのような前提のもとでの正しさなのかが伝わってこないので、実りある議論ではなく、特殊な議論のディベートだとしか感じられないのだ。議論において重要なのは、前提としている事柄の共通理解だと思う。それがあれば実りある議論になるが、それがなければ、単なる意見表明を出し合っているだけだ。議論というのは異論を語るものだから、そのことに気づかなければ、相手の言っていることが間違っていてばかげたことにしか見えなくなるだろう。そう見えてきたら議論はやめた方がいい。感情的な悪口の言い合いに終わってしまうだろうから。前提を議論できるくらいの冷静さを持っている人間とだけ僕は議論したいと思う。そうでない人間とは、僕は議論をするつもりはない。何か言ってきたら反応はするけれど、それは自己主張するだけだ。そして、それが一致しない意見であるときは、「見解の相違」というものだと受け取るだけのことである。「議論好き」と言われる人間は、どうして相手かまわず議論をふっかけるんだろうと思う。僕は、議論できそうな相手にしか語りかけたくないと思っているのに。相手かまわず議論をふっかければ、ひどい結果をもたらすようにしか見えないのになと僕は思う。
2004.06.20
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内田さんの言葉には、直感的に共感できるという種類のものが多い。だから、共感した理由を説明するのが難しいとも感じるのだが、同じように「そうだ」と感じてもらえる人とは、きっと気持ちのいい会話ができるだろうと思う。この共感を支える基本にあるものはなんだろうと思う。短い言葉の引用では誤解を招く恐れもあるが、次の言葉などはどうだろう。引用は「疲れすぎて眠れぬ夜のために」というエッセイだ。「男の中には、自分の本業について、「オレの仕事ですか?いやあ、つまんない仕事ですよ、ほんとに」というようなことを言いながら、非常に質の高い仕事をしている人がけっこういます。むしろ、スケールの大きなビジネスマンにはそういうタイプの方が多いのです。「何となく、こんな仕事する羽目になっちゃって……」というふうにたらたらしている人が思いがけなく大きな仕事をしたりするのです。」この感覚に「そうだ、そうだ」と頷いてくれる人は、きっと相性の合う人だろうと思う。こういう感覚を持つと言うことは、その正反対と思えるような、自慢話をするような男は、かなり薄っぺらなニセモノであるという嫌悪感を感じると言うことでもある。いかにも、「オレは偉いんだ」なんて言う態度を見せる男を見ると、「それがどうしたの?」ということを言いたくなる感覚だ。「恥を知る」という言葉があるが、男というのは、偉そうにすると言うことに対して「恥を知らなければならない」と僕は思っているのかもしれない。僕の尊敬する見城先生は、その実践に対して吉川英治賞を贈られた。多くの人に高く評価されている人だが、見城先生は、高く評価されることをとても恥ずかしがるようなところがある。羞恥心を持っているというのだろうか。世の中にはもっと偉大なものがあるのだから、自分程度のものが持ち上げられることは恥ずかしいという感覚なんだろうと思う。僕は「努力」というものが嫌いだ。努力は報われることを期待してしまうからなのかもしれない。「偉い」とほめてもらえなければ、なかなか努力する気にならないと考えているからなのかもしれない。僕は、努力しなければ出来ないことをするのは嫌いだ。そういうものは何とかして、手を抜いても結果がまずくならないような工夫をすることにしている。その代わりに、好きなものは、やらなくてもいいと言われてもやってしまうところがある。好きなものは、それをすることですでに楽しい時間を過ごしたという報酬が得られるので、結果をほめられるという報酬を期待する必要がない。そういうときは、「人から見たら大したことないだろうな」という思いがあるから、「つまんない仕事」だと語ることもあるだろう。でも、本人にしたら、それをしていることが楽しくて仕方がないから、結果的に大きなことが出来てしまうのかもしれない。でも、その感覚は、やっぱり自分にしか分からないだろうなと思うと、それで偉そうにする気はなくなってしまうのかもしれない。分かる人は、そういう感覚を共有できる人なのかな、と思ったりはするけれど。愛について語る内田さんは、冷静と言うよりも冷酷に近い感想を述べているように僕には感じる。ニヒリスト的な感覚を感じるところに共感したりするのだが、愛の純粋さに関する次の考察は、どれくらい共感してもらえるのかなと、ちょっと不安になる。「法律的な結婚をしないで、純粋に愛だけでつながっている関係は、愛がなくなった瞬間に終わってしまいます。終わってしまうと言うより「終わらなければいけない」わけです。だって、これは愛以外にいかなる支えも持たない、と言う点において、際だって「ピュアな」性関係であり、損得勘定とか世間体とか言うものをきっぱり退けたところが売り物なんですから。 ですから、「愛だけで結ばれた二人」は絶えず「愛してる?」と相手に確認を入れなくてはいけません。 でもね、これって、けっこうストレスフルですよ。」この言葉は、受け取り方によってかなり誤解を招くものだなと思う。常に愛を確認しなければならないと言うのは、愛が生まれた最初の頃にはむしろ楽しみだったと思う。しかし、それが永久に続くものではないというのを理解しなければならない。これがストレスフルになるという変化を内田さんは次のように分析しているが、全くその通りだなと思う。「100%愛し合っているかどうか、それを毎日確認しておかないと関係が成り立たないと言うような非妥協的な関係だと、ほんとにしんどいですよ。だって、少しでも愛の兆候が微弱になると、「愛が足りない!」という叱責や要求が突きつけられると言うことになるんですから。 そうなってしまうと、日々の愛の確認作業は「愉悦」から「服装検査」とか「禁書の検閲」みたいな抑圧的なものに変わってしまいます。「ねえ、私を愛している?」「もちろん愛しているさ」という行き交う言葉自体は同じですけれど、その目的が愉悦から、契約の確認に変質してしまっているのです。」この感覚が分かる人は、内田さんのこの言葉に共感するだろう。しかし、「愛しているんだから、愛しているという言葉を要求することがなぜ悪いの?」と言う感覚の持ち主は、このことがよく分からないかもしれない。感覚のすれ違いというのは、なかなか埋め合わせることが出来ないものだ。人間というのはプラスの評価をされていれば気持ちがいいけれど、マイナスがないと言うことを確認されているだけの評価では、管理されているという思いが残るだけで、大事にされているという感じは受けないだろう。学校での子供の管理の行き過ぎが、子供の心をすさんだものにするのは、上のような心理が働くからかもしれない。常に確認されていると言うことは、自分が信用されていないと言う感じを残すだろう。信用されていない相手に信頼感を抱くのは難しい。学校での教師と生徒との関係が、「支配-服従」の関係になってしまっていることが、今の学校の不幸なんだろうと思う。しかし、点検をしないと、教師としての責任を果たしていないと見られる世間のプレッシャーもきついことは確かだ。これはなかなか出口の見えない問題だなと思う。DV(ドメスティック・バイオレンス)に関する次の言葉も僕は深い共感を覚える。「DV事例の多くは嫉妬や過干渉から始まります。「オレはおまえのことをこんなに愛しているのに、どうしてオレの気持ちが分かってくれないのだ」と言って泣きながら殴りつける、と言うのが典型的なケースです。 暴力をふるう側は「オレの気持ち」は「純粋だから正しい」と思い込み、暴力を受ける側もしばしば「純粋な愛ゆえの暴力」は容認されるべきだという判断に与します。そうである限り、加害者も被害者も、二人ともこの点については同じイデオロギーの信奉者です。」愛があるから許される暴力という発想は、学校における体罰容認の考えにも通じるところだ。体罰もそのほとんどは不当な暴力に過ぎないのだが、「おまえのためを思って懲罰しているのだ」という意識があるから、被害を受ける子供たちがなくならない。本当に更正に役立つための体罰などは、ごくまれにしかその機会がないのに、その特殊な場合を許してしまえば、ほとんど多くの不当な、ただ子供を傷つけるだけの体罰が放置されてしまう。内田さんは、「「オレはおまえを愛してる」と言いさえすれば、後はなんでも許されるというのは、いい加減にやめませんか」と言っている。暴力をふるうことの基礎に、それを正当化するような考え方を盛り込むのはやめようと言うことだと思う。暴力は暴力としてちゃんと認識しなければならないと言うことだと思う。たとえ相手のことを深く思いやっていたとしても、暴力をふるった者は、その暴力に対しては責任を取るべきだと言うことを基本にしなければ暴力はなくならない。「本当に人を愛してたら、殴れない」と内田さんは言っている。このことを誰もが、「そうだ」と共感して欲しいものだと思う。殴るのは、愛情の表れなんかじゃない。感情的な憎しみの気持ちだけだ。それを内田さんは、次のような経験から感じ取っている。「僕は自分の娘を一度だけ殴ったことがあります。娘が3歳くらいの時です。娘が、トイレ掃除用のバキュームを振り回して遊んでいて、やめなさいと言うのにおもしろがってやめない。そのうちに僕の顔にトイレの水が引っかかりました。その時、いきなり平手打ちで娘の頬を張りましたが、その時僕を支配していたのは、間違いなく「怒り」でした。「しつけ」とか、「愛の鞭」とかたいそうなものじゃなくて、ただ、本を読んでいたのを邪魔され、気分を害して、怒ったのです。娘が火がついたように泣き出して、はっと我に返って、深く反省しました。」このような経験は僕にもあるので、この文章にも僕はとても共感する。僕の場合は、暴力をふるったときに、自分の心がとても弱くなっているのを感じた。そうでなければ、子供が楽しんでいることを一緒に楽しんでしまえたのにと思った。それが出来なかったことで、「怒り」や「憎しみ」の気持ちが僕の中に生まれていたのが分かった。僕もこの経験をしたのは、子供が小さいときだった。言葉による理解が出来るような年(小学生になる前後くらいかな)になってからは、僕は子供に暴力をふるったことはない。内田さんは、「もし、あのときに自分のふるった暴力を「しつけのために必要なことだった」というふうに正当化したら、その後も娘を定期的に殴っていたかもしれません。だって、その後も殴り続けないと、3歳の時に殴ったことの正当性が揺らぎますからね。」と語っている。僕も、あのときに自分の暴力を正当化しなかったので、その後子供を殴らずにすんだのだろうと思っている。すべの暴力のなかで、唯一正当化できるとしたら、それは正当防衛の時だけだろうと、今では自信を持って僕はそう考えている。力の弱い子供にふるう暴力は、たとえ教育のためであっても絶対に正当化はできないと思う。むしろ正当化することはきわめて危険であるというのが、この内田さんの文章から考えたことだ。僕の祖父は、子供を決して殴らない人だったと言うことをよく聞かされた。父が結婚したときも、その条件の一つに、子供を決して殴らないと言うものがあったようだ。海軍の軍楽隊に入り、軍隊経験のある父が、子供を殴らずに育てるというのは難しかったと思うが、僕は父から殴られた記憶がない。父は、自分の好きな音楽の道に夢中だったので、子供を殴る暇がなかったと言うこともあるのかもしれないけれど、殴られずに育った僕は、自分の子供を殴らずにすんでいると言えるのかもしれない。子供を愛情のために殴るという思想は、日本人だけではなく世界中の大人たちが持っているような気がする。殴る行為は愛情表現ではない、と言うことを世界の常識にしたいものだと思う。
2004.06.19
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内田さんの「ためらいの倫理学」(角川文庫)には、批判を語る文章がたくさん入っている。僕はその批判に共感するので、批判の方が正しいと思っている。それと同時に、批判の方法にも正しさを感じる。具体的な批判をたどることで、その方法を考えてみたいと思う。内田さんは、アメリカへの派遣留学生の選考の場面で、学生たちにした質問にちょっと引っかかったそうだ。それは、「NATOのユーゴ空爆について知るところを述べよ」という質問だった。その引っかかりを次のように語っている。「受験生たちのあるものは絶句し、あるものは新聞の見出し程度のことをたどたどしく語り、あるものは新聞のリード程度の知識を披瀝した。 その回答を聞いて、くだんの選考委員は全員にこう諭した。「アメリカではね、高校生でも自国がかかわっている戦争については、賛成反対の意思を明確に表明し、きっちりディベートする。君たちが国際情勢についてそんなふうないい加減な知識しか持っておらず、それについて賛否の立場を議することが出来ないと、向こうに行って恥をかくよ」。 彼はもちろん善意の人であり、その説諭は教化的な意図のものであった。しかし、それにもかかわらず同じ言葉を十数回聞かされているうちに、私はだんだん不愉快になってきた。」この段階での内田さんは、不愉快に思ったと直感的な受け取り方を語っている。まだ論理的にはっきりと批判を抱いたのではなさそうだ。なぜ不愉快に思ったのか、それを分析することで批判が展開する。単に感情のレベルで気に入らなかっただけでは批判にはならない。感想を率直に述べたということにはなるだろうが、そう感じない人にとってはその「感じ」は伝わらないだろう。僕はこの「感じ」を共有できそうな気がするので、内田さんの批判に共感できると思える。この批判は、内田さんが語っていた「構造主義」の特徴を適用すれば得られるような発想の批判だ。選考委員は、アメリカでの常識を語っているが、常識というのは、多くの人が信じていることではあるけれども、真理かどうかは証明されてはいないことだ。だから、その真理性に疑問を抱く人がいてもおかしくない。だが、常識を語る人は、それが正しいということを疑うという発想を持てないので、常識を押しつけてくる。それに対する批判の気持ちが、「不愉快」を感じる気持ちにつながってくるのだと思う。僕も、僕が持っている常識を語るときがある。そしてその常識に疑問を抱く人がいるだろうことも分かる。でも、僕は僕の常識を押しつけるつもりはない。僕は、あることを常識だと思っているけれど、それを常識だと思えない人は、どうぞ自分の常識に従って生きてくださいと言うだけで、人に干渉しない代わりに、僕がどのような常識を抱いていようとも、それに干渉しないでくださいと言うだけだ。お互いに押しつけはよしましょうよ、と言うことだ。押しつけではなくて、論理的な批判だったら、それに納得したときは僕は自分の常識を変える可能性がある。それは押しつけられたものではなく、自分の判断で選んだものだから、不愉快な思いはない。だから、僕も自分の感情を表明しただけのものは、相手がそれに共感しなければ受け入れなくて当然だと思うから、感情レベルの話は、「見解の相違」ということで終わるのがいいと思っている。それが、論理的な批判の段階まで至れば、それを論理的に受け入れるかどうかは、冷静な理性の判断というものだろうと思う。感情レベルの問題ではなくなる。もちろん論理的にも受け入れられないということもあるだろう。内田さんの批判では、上の選考委員の常識を論理としても受け入れられないことが語られている。僕は、内田さんの批判を論理のレベルでも受け入れられるので、とてもすっきりした気分で共感できるというわけだ。さて、内田さんの批判を具体的に見ていこうと思う。まずは、特殊な状況の下での常識が、必ずしも誰にも当てはまるものではないという、時・ところ・場合による違いを考慮するという、構造主義的な発想にまず共感した上で、内田さんの批判の論理的な指摘の方を見ていこう。アメリカでは、高校生でさえも政治的な知識と意見を持つことが常識になっていると言うことだが、内田さんは、自分自身を振り返ってみても、「私はユーゴの戦争について新聞報道以上のことを知らないし、その記事だって決して熱心に読んでいるわけではない」と語っている。自分は常識から外れているということにまず不愉快さを感じるということだろうか。しかし、そもそもこの種の問題に関して「正しい見解」などと言うものがあるのだろうか、と言う疑問を内田さんは展開する。「泥棒にも三分の理。ましてや戦争だ。ミロシェビッチにだってNATOにだってコソボ解放軍にだってギリシャにだって、それぞれ言い分はあるだろう。それぞれの言い分をきっちり聞こうとしたら、いくら時間があっても足りない。それに、「ここまで調べたら、賛否の判断をしても良い」というような情報量の基準線など、原理的に存在しない。CNNのニュースを聞いて、ワシントン・ポストとタイムズとル・モンドと人民日報とイズベスチヤ(まだあるのかしら)を定期購読している人なら正しく判断できるというものではあるまい。私の知っている国際関係論の専門家は、インターネットでセルビア側とコソボ解放軍とアルバニアとギリシャの関連ホームページを読んでいるが、「どれも一方的な情報しか伝えていない」と嘆いていた。 こういう問題について「賛否の判断をするに充分な情報」というものはあり得ない。充分な情報がないままに賛否の判断をするのは、パセティックではあるけれど合理的ではない。審美的にはかっこいいが、論理的には危うい。」このような原理的な疑問は納得がいくものである。ただ、これは、明確な真理が決められないということであって、真理を求めるのが間違いだということではないことに気をつけなければならないだろう。真理は簡単には求められないということで、自分の語っていることも真理かどうかは分からない「仮説」の段階なのだという意識を持つことが大事なのである。この原理的な疑問から生まれる批判は、「仮説」を押しつけてはいけないと言うものであって、「仮説」を持つことがいけないと言っているのではない。情報の範囲を広げ、問題の範囲を広げてしまったら、明確な真理は求めることが出来ない。論点のすり替えが、議論において嫌われるのは、明確な真理からはずれていくから嫌われるのだと思う。議論の範囲を広げたら、同意できる結論が出るはずがない。僕は、アメリカのイラク攻撃に関して、その先制攻撃の正当性がないと言うことで批判をした。論点をそれ以外に広げたら、批判の中心がずれてしまう。テロとの関係とか、フセイン政権の非人道的な弾圧政治などももちろん問題だろうけれど、それと先制攻撃の正当性を一緒くたに論じたら、結論など出せなくなる。人質事件の「自己責任論」に関しても、人質になった人たちの危機管理の問題は、大事な問題だろうけれど、それは一定の結論が出せるような簡単な問題ではない。異論が大いに出るような問題だ。だから、これを議論の中心にしたら、水掛け論にしかならないだろう。だから、問題を絞る意味で、権力の中枢にいる側が、国家の責任を放棄するような「自己責任論」を語ることのおかしさを批判した。問題を明確にし、絞らなければ、異論のある問題を論じることは出来ないだろう。このような原理的な難しさを持つ問題に対して、一定の知識と意見を要求することがそもそも間違いではないかという疑問を内田さんは提出し、批判している。それは、ある種の思い込みが働いているのではないかという推論を内田さんはしている。次のようなものだ。「たぶんそれは「よく分からない」ことについても「よく分からない」と言ってはいけないと、彼らが教え込まれているからである。「よく分からない」というヤツは知性に欠けていると見なして良いと、教え込まれているからである。」彼らというのは、内田さんから見るとアメリカ人一般と、彼らの常識を信じている人々と言うことになるだろうか。「分からない」ことは「分からない」と言うことが価値があると思っている人には、このような常識は受け入れがたいものだ。内田さんのこのような批判を見ると、アメリカ社会で通用している常識というものを、社会や感覚が違う人にも押しつけようとしているところに、僕は「逸脱」というものを感じて、そこに「誤謬」を見る感じがする。そこに批判の中心が及んでいるのだなと思う。そして、その「逸脱」を見る目は、構造主義的な発想が大いに役立っているような感じがする。自分の常識が人類普遍に通用する常識ではないという発想だ。内田さんは、この文章の次に、スーザン・ソンタグという知識人の、戦争に関する発言を取り上げて批判している。ここからも一つの批判の方法を学ぶことが出来る。しかし、今日は文章が十分長くなったので、これはまた次の機会に検討することにしよう。
2004.06.18
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僕は中学生の時に、幾何の証明が好きだったという珍しい数学少年だった。だいたい中学の数学では一番嫌われている幾何の証明が、僕には面白くて仕方がなかった。特に難しければ難しいほど、その発想を味わうという楽しみ方をしていた。これは、パズルマニアから数学少年になったということが影響しているんだろうと思う。パズルの場合は、試行錯誤をしながら、何かの拍子に成功する道筋が発見できて問題が解ける場合が多い。この試行錯誤の時に、ああでもない、こうでもないといろいろ考えるのが好きだった。幾何の証明でも、仮定から結論へ至る道筋を発見するわけだけれども、これはいつも単純に見つかるとは限らない。補助線を引いたり、結論の方から逆に道をたどったりしないとなかなか見つからない場合がある。この試行錯誤というものが、多くの人がかなり苦手にしていると言うことに、教員になってから気がついた。間違いをしてはいけないという強迫観念があるのだろうか。「間違いを前提として、仮に一歩踏み出してみる」と言うことが出来ないでいるのを見ることが多かった。複雑で難しい問題を解くときは、すぐに答が出るとは考えずに、まず何かを試してみるのだが、それはたいていは間違っているだろうと思いながらやることだ。そして、その間違いをどの方向に修正していくかというものが見えてくると、正しい答の方向も見えてくることが多い。試行錯誤というのは、そういうふうに軌道修正をするために行うものだ。そのためには、間違いというものを分析できなければいけない。間違いを受け止めるセンスを養わなければいけないと思う。僕は三浦つとむさんを通じて「誤謬論」を学んだ。三浦さんの「誤謬論」の本質は、「誤謬」と「真理」との区別をどこでするかという問題をつかむことだった。これが全く別物だと考えるのではなく、両者は容易に転化するものであり、条件によっては、今「真理」だったものがすぐに「誤謬」に変わる場合もあり得ると考える。この「誤謬」に関するセンスというものが、批判というものを考えるときに、最も重要な資質になるような気がしている。「誤謬」と「真理」とを膠着した固定的なものと受け止めていたら、「真理」が「誤謬」に転化しても気づかずに信じていると言うことが起こるかもしれない。そういうときは、批判される要素があるということになるだろう。三浦さんはその誤謬論をディーツゲンという労働者哲学者から学んだ。孫引きになるが、三浦さんの「弁証法・いかに学ぶべきか」という本から、ディーツゲンの言葉を引いてみよう。「真理はある一定の条件の下においてのみ真理であって、ある条件の下では、誤謬がかえって真理となる。太陽は輝くということは、真実な知識である。ただし空が曇っておらぬことを前提としてである。まっすぐな棒は、水の流れにつっこめば曲がるということも、もし視覚上の真理ということに限るなら、右に劣らぬほど真理である。……誤謬が真理と異なる点は、誤謬はそれが表している一定の事実に対して、感覚的経験が保証する異常にヨリ広い、ヨリ一般的な存在を度はずれに認めるというところにある。誤謬の本質は、逸脱ということである。ガラスの玉は、本物の真珠を気取るとき、初めてニセモノとなる。」(1869年、「一労働者の見た人間頭脳の働きの本質」)僕も、ディーツゲンが語るように、「誤謬の本質は、逸脱」であると思う。誤謬というのは、何から何まで間違っているわけではなく、重要な一点で「逸脱」が起きるのだと思う。その逸脱が、なかなか自覚できない逸脱であるので、誤謬を真理と取り違えるということが起こるのだろうと思う。批判というのは、そのような逸脱をとらえて誤謬を告発するものでなければならないだろう。自分自身の批判というものも、この誤謬論をもとに振り返ってみよう。僕は、イラク戦争のどの点を誤謬(逸脱)だと見て批判したのだろうか。まず、・アメリカはテロとの闘いを宣言した。・イラクは、大量破壊兵器を持っている危険な国である。・イラクはアメリカの脅威になりうる国であるから、アメリカには自衛のために闘う権利がある。・アメリカは、先制攻撃をする権利を有する。というような論理でアメリカがイラク戦争に踏み切ったと僕は受け取った。この論理にはかなりの逸脱があると思う。テロとの闘いを宣言したからといって、それがすぐにイラクとの戦争を意味するものにつながると思うのは逸脱だと思う。田中宇さんのレポートにもあったが、世俗的な権力であったフセイン政権と、イスラム原理主義のアルカイダとは全くつながりがなかったそうだ。テロを理由にイラクを攻撃するというのは間違った判断をもとにしたものであり、正当性がない。大量破壊兵器の問題も、持っているだけで直ちに危険であるという証明が出来ると考えるのはやはり逸脱だと思う。持っていて、しかもそれを使用する可能性が高いというときに危険だという判断ができるのだと思う。そもそも、前提となっている「持っている」ということが今回はとうとう証明されなかった。判断そのものに逸脱性があると思うし、事実も間違っていたとなると、この誤謬も批判されて当然だろう。自衛のために先制攻撃が出来るとする論理は、「自衛」という概念の逸脱であると僕は思う。これがなぜ逸脱だと思うかといえば、このことを許せば、どんなものでも「自衛」の名の元に先制攻撃が出来てしまうからだ。これは軍事力において優位に立つ国が、軍事力の行使を勝手に出来るようにするために役に立つ論理になる。立場を越えた正当性を見ることが出来ない。ある立場にとっては都合のいいことで真理だと思えるのだろうが、その立場に寄りかかった真理を、違う立場のものにも押しつけようとする逸脱を感じる。批判というのは、自分が間違っていると思う部分に対してするものだろうと僕は思っている。その間違っていると感じるのは、最初はかなり直感的にとらえることが多いと思う。しかし、直感だけでは、自分のとらえ方の方が間違っている場合もある。そこで、論理的に考えて、その直感を感じる部分に逸脱がないかどうかを探すことにする。逸脱を見つけることが出来れば、その逸脱にこそ論理的批判の根拠があると僕は思う。ただ逸脱を感じるというのは、センスの問題もかなりかかわってくる。僕が逸脱だと感じるものを、逸脱だと感じない人もいるだろう。センスが違っている場合は、それを一致させるのはきわめて難しい。最終的には「見解の相違」というもので終わるかもしれない。複雑な条件が絡んでくるものは特にそういう「見解の相違」が多いだろう。どの条件を重視するかで、逸脱しているかどうかの判断が変わってくるだろうと思うからだ。逸脱しているかどうかという、結果に対する意見は、ある意味ではセンスの問題が絡むので、議論しても仕方がないと思えるものもある。問題は、どのような条件を想定して、どの条件の下で逸脱の判断をしたのかということだ。条件付き命題の妥当性を巡る議論ならば、かなり論理的な展開も期待できる。僕は、議論をするのなら、このように条件付き命題の妥当性を巡る議論しか、実りある議論にはならないんじゃないかと思っている。どういう条件の下に、自分の判断を出したのか、それがよく分かるように語らなければならないなと思う。そういう語り方をしている人間は少ないと思う。僕自身も、自分自身にとってあまりにも自明なことは説明を省略するということがある。しかし、本当はこの自明なことが、他人にとっては一番引っかかるところなのかもしれない。僕は、数学を勉強していたときに、その証明に「自明」と書いてある本を見て、そこにものすごく引っかかっていた。それが「自明」になるくらい勉強しなければならないとは思ったが、最初から「自明」の状態で読むことはなかった。だから、僕の勉強は、「自明」と書かれていることが本当に「自明」なのかどうかを納得するということが勉強の目的だったようなものだ。そのために、丁寧すぎるくらいの証明を自分で書いてみるということもしてみた。自分自身をより深く納得させるために、「自明」な部分を出来る限り減らして、丁寧に論理を使うということを考えなければならないなと思う。批判の対象というのは、それを提出している人は「真理」だと思っていることを、僕は「誤謬」だととらえるというものだ。センスが違うとらえ方だから、より丁寧な論理を使わなければならないと思う。それは、相手を説得するためというよりも、自分自身が誤謬に陥らないために気をつけるための方法だと思う。相手を説得するのはきわめて難しい。そういう希望は持たない方がいいだろう。むしろ、自分の誤謬に敏感になるというためにこそ、「自明」だと思えるものももう一度証明していくくらいの丁寧さを持って批判することが大事だろうと思う。そして、それを受け止めてくれた人とは、きっと実りある議論をすることが出来る信頼感を築くことができるだろうと思う。
2004.06.17
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内田さんの「子供は判ってくれない」という本の長いまえがきに表題に書かれた内容の記述がある。これも、とても共感できる言葉で、内田さんの本にははずれがないと思う。内田さんがここで語っている「正しい意見」というのは、「真理である意見」というのとはちょっとニュアンスが違う。「真理」というのは、僕のイメージでは、たとえ誰が反対しようとも、最後にはその正しさが明らかになり、誰も反対できなくなるという「科学的真理」のイメージがある。しかし、内田さんがここで問題にしているのは、誰も反対できないような、いわば「常識」というものを語っているだけの「正しい意見」という感じがする。これは、その常識が変化すれば、時代が変わると「正しい意見」ではなくなる可能性があるものだと思う。「科学的真理」のように時代を超えて普遍的に通用する真理ではないような感じがした。たとえば、イラク戦争の時に朝日新聞の社説が、「米英軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」と書いたそうだ。この意見に反対するとすれば、論理的には、・米英軍はバグダッドを流血の都にしてもいい。・フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってもいい。というものになる。今の日本でこの考えを持つ人はほとんどいないだろう。そういう意味で、今の日本では朝日新聞の社説に反対する人は「誰もいない」と考えられる。そういう意味でのこれは「正しい意見」だ。これに対して、内田さんは、この言葉は誰に向かって語りかけているのかと疑問を提出し、次のように書いている。「「フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」というのはいかな悪逆無道のフセインが相手でも無体な要求である。「考えを持つ」のはフセインの頭の中の出来事であり、100%、フセインさんの自由に属する。 自分自身が相手だって、頭のなかで想像してしまうことは誰にも止められない。まして他人の頭の中だ。そこで考想されていることを余人はどうすることも出来ないし、すべきでもないと私は思う。 どうすることも出来ないことを言ってみても始まらない。」誰からも反対の出てこないような意見というのは、多くの場合「言ってみても始まらない」ことになるのではないだろうか。だから、この意見は「真理」ではないと思う。「真理」だったら、たとえそう思っていない人でも、その「真理(法則)」に従わなければならない必然性を持っているが、「言ってみても始まらない」ことは、それに従わなくても少しも困らないから、「言ってみても始まらない」ことになってしまうのだろうと思う。常識であるから、このようなことは誰にも考えられることで、誰もが判っている。そして「言ってみても始まらない」ことであるから、それを聞いても少しも面白くない。面白くないのであるから、それは少しも人々のところに届くことがない。今や「正しい意見を述べること」はそのようになってしまっている。だから、内田さんは、「読者のほとんどが「直ちに同意すること」を述べることに、どのような積極的な意味があるとこの論説委員は思っているのか、私にはそれが分からない」という感想を述べることになるのだろう。「正しさ」というものが、上で語ったようなニュアンスを持っていた場合は、それがメッセージとして誰かに届くと言うことがあまりないだろう。内田さんは、メッセージというものは、「正しさ」よりも「誰かに届く」と言うことの方が大事だと言っている。僕もそう思う。次のような内田さんの言葉に共感する。「「正しい意見であれば必ず聞き届けられる」と言うことを私は信じない。しかし、その逆にある意見が聞き届けられた場合、その意見には「幾ばくかの正しさ」が含まれていたと言うことについては、これを信じている。」内田さんのこの意見は、僕に届いたメッセージだ。僕は、内田さんのこの言葉に「幾ばくかの正しさ」を感じて受け取っている。その「正しさ」のイメージは「真理」という面での正しさであって、「常識」というイメージではない。こういうものが、聞くに値する意見というものだろうなと思う。聞くに値する意見というのは、意見そのものだけに含まれている要素ではないと僕は思う。聞くに値すると思うのは、自分にもそれを受け取るだけの条件があって、初めて聞くに値すると思えるのだと思う。その条件がまだ生まれていなければ、どんなにいい考えであっても聞くに値するとは思わないだろう。「構造主義」については、僕が師と仰ぐ三浦さんがずっと批判していたので、僕はそれは聞くに値しない意見だと思っていた。しかし、内田さんの本を読んで、「構造主義」にどんな聞くに値するものが含まれているかが判った。聞くに値するものがあったからこそ、あれだけ多くの人々の心をとらえたのだと言うことも納得できた。意見というのは、受け取る側の状況にも大きな要素があって、その「正しさ」が判断されるものだと思う。あまりに先駆的な意見は、人々の条件が出来ない間は、たとえ「真理」であっても「正しい」とは思われないだろう。トラックバックというものに関しても、これは「自分があなたの意見に関心がある」というメッセージを送るものだと僕は解釈している。だから、これは、相手が自分の意見に関心があるということを必ずしも意味するものではない。僕はこのように考えるので、トラックバックを送った相手が自分に返してくれなくても、今は受け入れるだけの条件になかったのだなと解釈して、それほど気にすることはない。自分がこのように解釈しているので、他の人も同じだろうと思ったのだが、どうも違う受け止め方をする人もいるようだ。トラックバックを返さないのは、決してその意見に反対だとか、無視していると言うことの表明ではないのだが、そのように受け止めてしまう人がいるような気がしてきた。実際には、そのこと(これは論じていることがちょっと違うなと感じたりするので)に、まだあまり関心を抱いていないと言うことの表れに過ぎない。僕は、あまり関心を抱いていないのに、親切心でトラックバックを返すのは、逆に失礼なことになるのではないかとも思っている。本当に関心を抱いていれば、そこからある種の議論が始まるが、関心がなければそのような展開をしないのであるから、トラックバックを返してはいけないのではないかとも思うのだ。僕自身も、トラックバックが返ってこない事柄については、その人とは今のところ関心の持ち方というか比重が違うのだなと理解することにしている。掲示板というのは、返事を返さないと「無視している」という感じになってしまうので、儀礼的に返事を返すこともあったが、そういうものが議論においては妨げになる感じがしていた。お互いがあまり関心を持たないものは、議論のテーマとしては淘汰された方がいいと思っている。関心があるのなら大いにやればいいと思うけれど、上のような「正しい意見」のぶつかり合いをしているように見える議論を見ていると、なんのためにしているのかなと思ったりすることがある。双方がいかに違うセンスを持っていて、いかに違う結論を信じているかを確かめ合っているのだろうかと感じてしまう。100%否定できる意見というのは、「事実に反している」のか「科学的真理に反している」のかのどちらかだと僕は思う。これが、少しでも事実を含んでいるとか、必ずしも科学的真理に反しているわけではない、というのであれば、100%否定することはできないと思う。だから、そう信じたり、そう思うのは思想・信条の自由の問題だと思う。他人がとやかく言う問題ではない。実質的な被害が及ぶのなら文句を言ってもいいが、考えること自体に文句を言っても始まらない。そういう文句を言い合うよりも、もっと建設的・生産的な意見交換がしたいというのが僕の願いだ。内田さんは、実りある議論のためには具体的に語ることが大切だと主張しているように僕には見える。次の言葉にも僕は大いなる共感を感じる。「「フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」というのは正しい、「金正日は東京を火の海にするというような考えを持ってはならない」というのも同じく正しい。 しかし、それでは、どうやってフセインや金正日の「考え」に影響を与えるのかについての合意を形成するときに、この意見の「正しさ」はほとんど関与しない。包括的に「正しいこと」を言う人は必ずしも個別的・具体的な局面において「適切な判断」を下す人ではないことを私たちはみんな知っているからだ。 そういう局面で「適切な判断」を下す可能性が高いのは「フセイン大統領は国民を盾にするような考えを持ってはならない」という包括的命題を語っておしまい、という人間ではなく、「フセイン大統領には国民の盾を利用する以外にどのような可能な政治的選択肢があるか?」とか「ロシアはどういう条件なら、フセイン大統領の亡命を受け入れ、その財産と身体生命の安全を保証するか?」というような個別的な問いに議論の水準を移すことの出来る人間である。」このような議論の展開になれば、「正しさ」を求めるのでなく、「真理」を求めるような方向へと向かっていくだろう。包括的命題というのは、高度に抽象的な意味を持った言葉を使うような方向へ向かっていく。しかし、抽象というのは、存在の持っている性質から共通のものを引き出していくものであるから、どれにも当てはまる性質であることが多い。抽象すればするほど、「正しさ」の度合いは高まるが、曖昧さがましてくる。「楽しいことが出来れば幸せ」と言うことに同意する人は多いかもしれないけれど、このことを語ったことで幸せになれるものではない。具体的にどんなことをすれば楽しいかを語るとき、初めて具体的な幸せのイメージが現れてくる。しかし、具体的に楽しいことを語れば、自分が楽しいと思っても、他人は必ずしも楽しいとは感じてくれない。具体的に語るというのは、そのように違いを受け止めることでもある。異論を聞いても傷つかないだけの自尊心がなければならない。議論というのは異論があるからこそ価値があるとも言える。誰もが同意する意見はつまらないもので、議論するに値しない。だから、異論の表明も、相手を100%否定する異論などは価値のあるものではない。それは、議論するに値しないものだ。そう信じているのならどうぞご自由に、というふうに僕は思う。でも、僕はそう信じませんよ。ということで終わりだ。自分が考えていることや思っていることは、必ずしも誰もが賛成することではないからこそ価値があると、そういう自覚に立っている人間と議論したい。僕は共感する意見には、その共感を伝えるメッセージを送る。異論を感じる意見には、議論できる相手だと感じた場合だけ異論を送る。そう感じなければ、自分からは異論を送らない。だから、トラックバックを送るのも、ほとんどは共感できる意見だけだ。自分のところに送られた異論にはどう対処するか。相手の意見が納得できるものであれば、自分の間違いを直したいと思っている。納得できないものであれば、まずは自分の主張の論拠を示す。それで議論できそうな相手であれば、異論を認めつつ意見交換をする可能性を探る。議論できそうにないと思えば、お互いに見解の相違がありますね、ということで終わりだ。相手を否定する気もない変わりに、自分の意見を変える気もない。僕が探る議論の方向というのは、そういうものだろうか。内田さんの本には、いろいろな考えが展開する刺激的な文章が溢れている。本当にはずれがないなと思う。
2004.06.16
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僕が心惹かれる人は、師と仰ぐ三浦つとむさんを始め、いずれも論理を前面に押し出して話を展開する人が多い。批判の言葉もかなり辛辣で、ある種の冷酷さを感じるところもある。三浦さんは、戦後まもなく「生長の家」という新興宗教の批判をしたり、「官許マルクス主義」と言って当時の権威的なマルクス主義批判を展開したりした。その批判は、論理的にもっともだと思うものなので、批判された方はかなり痛いところをつかれているだろうなと思った。最近入れ込んでいる宮台真司さんとか内田樹さんとかも、論理的な人で、口調は穏やかだが批判は辛らつだ。論理的な人は感情に流されて語ることがない。だからこそ論理を誤ると言うことが少ないのだが、これは感情に流されると、どちらか一方の立場に偏る恐れがあるから、それを避けるためでもあると思う。立場でものを考えれば、論理のもっている普遍性という面を見誤る可能性がある。論理的に考えようと思うのなら、立場を離れて、感情移入しないように気をつけて物事を見なければならないと思う。感情移入しないで、第三者的に物事を眺めるというのは、個人的な資質がかなりかかわっていると思うが、諸刃の剣でもある。この資質は、論理を徹底させれば、宮台氏や内田氏のように、客観的な観点というものを提供してくれるが、ちょっと方向を間違えると、世の中を見放したニヒリストになりかねない。若い頃の僕は、社会は自分とは無関係に流れている、だから自分も社会とは無関係にやりたいことだけをやるんだという、どちらかというと非社会的な個人主義をもったニヒリストだったような気がする。社会を転覆させようと言うような積極性はもっていなかったので、反社会性はなかった。社会を無視するという非社会性があったと思う。しかし、人間は社会を無視して生きようと思っても、生きている限りはそれほど無視できるものではない。僕も、「でも教師」として仕事を始めることによって結果的には社会に対する関心と目を開いていくようになるわけだが、それのきっかけになったのは本多勝一さんの文章だった。本多さんも辛らつな批判をする人だが、その批判は論理の中の「事実」とのつながりを持つ部分を重視するものだった。本多さんは、立場というものを打ち出して論じる人なので、論理的な冷酷さとともにある種の熱さも感じる人だ。立場を打ち出すだけに、違う立場からは嫌われても仕方がないなとも思う。僕は、自分の立場としては、どのような結論であろうとも、より正しいと思えるような結論へ向かうことに価値を見いだすという立場だと思っている。感情的には気に入らない結論であろうとも、それが正しいと思えれば仕方がない。感情よりも論理の方を受け入れていくという立場だ。感情の流れによって結論を出さないように注意したいと思っている。ただ、人間であるからには、いつもそのように判断できるとは限らないから、時には失敗することもあるだろう。そんなときも、常にこのような注意をする気持ちを持っていれば、自分の失敗には敏感になるだろうと思っている。僕が、このようなインターネットの場で展開する批判は、ほとんどが権力の側に対する批判だ。公に表明する批判としては、より大きな存在に対する批判の方がふさわしいのではないかという思いがあるからだ。個人の批判を公の場でしても仕方がないという感じがしている。その個人が、何か権力の側を代表しているような個人であれば、個人に対する批判も意味があるだろうが、その批判は、個人的な部分に関する批判ではなく、あくまでもその個人が代表していると思われる一般的な部分に関する批判が望ましいと思っている。登山家の野口健氏を批判したのは、野口氏個人の批判ではなく、野口氏が展開していた「強者の論理」の批判が中心で、その具体的な展開として野口氏の言葉を批判したものだった。野口氏が単なる一個人ではなく、公人に近い存在だと思ったので、批判の対象としたという考えがあった。イラクでの人質とその家族に対するバッシングが始まったときは、個人という存在である彼らを批判すると言うことの意味が僕にはよく分からなかった。彼らが、何らかの論理を代表している存在であるのなら、その論理の代表として見える部分を批判する意義はあるだろうが、態度が悪いとか、個人的な活動が大したことがないとか言う言葉を見ると、単に個人攻撃をしているだけじゃないかとしか見えなかった。だからこそバッシングと呼ばれたのだろう。これは批判の方向として間違っていると思ったので、僕はバッシングする方を逆に批判した。それでも、バッシングする個人を批判したのではなくて、バッシングを代表するような論理を批判したつもりだった。その最たるものは、日本政府の語る「自己責任論」だと思ったので、それを批判の対象として取り上げることが一番多かった。インターネット上の議論を見ると、相手が代表する「論理」を対象にして議論しているものよりも、相手個人を批判の対象にしているものが多いように感じる。これは非生産的な議論だと思う。そこで生み出されるのは、せいぜい相手に対する恨みの気持ちくらいで、真理に近づくというものではないように思う。ある個人が、いかに間違ったことを言う人間であるかということが証明されたとしても、それはいったい何の価値があることだろうか。その個人が、大きな影響力を持つ個人であれば意味がある。しかし、市井の一市民が、単なる感想として書き記した文章に間違いがあったとしても、それがさほどの影響を与えるものでなければ、親しい人間だったら忠告をしてあげればいいし、それほど親しくないのであれば、わざわざ波風を立てる人間関係を作ることもないのになと僕は思う。そんなところで正義感を発揮せずに、もっと大きな存在の批判へ向かった方が生産的な感じがする。正義感を発揮する人は、とても親切心に溢れた人なんだろうけれど、受け取り方によっては紙一重の「お節介」になってしまうのが難しいところだ。僕はそういうところで正義感を発揮することがほとんどないので、ある意味では冷酷な人間だ。よほど親しいか、信頼感がなければ、間違いだと思っても指摘することはない。間違いだと思うような言説を見たら、そのような言説を代表している、もっと一般的な存在がないか探して、その存在を批判することで間接的にその言説を批判するという方法を採る。エンゲルスは「反デューリング論」で、ディーリングに対する辛らつな批判を展開した。それは、デューリングをほとんど全否定するほどの激しいものだった。それは、ディーリングが当時の間違った言説の代表者だったからで、エンゲルスがデューリングに個人的な感情を持っていたからではない。ディーリングが時代を代表するような人間でなかったら、あれほどの批判をすることはなかっただろう。単なる一個人を批判するのは実りのない議論だと思う。それが一般論にかかわった部分で議論できればまだ何か成果が出るかもしれない。しかし議論が実りあるものになるのは、やはり信頼感がある場合だけだろう。そういう意味では、相手に対する批判は実りある議論に結びつくことは少ないと思う。だから、僕は最初の書き込みは、だいたい共感したことしか書かない。そして、信頼関係を築いたと思ったときに初めて批判的なことも書くことにしている。最初から批判的な書き込みをしてくるような人間は、あまり信頼されないだろう。トラックバック機能というのは、そういう議論の方向を探る上ではなかなかいいものだと思う。掲示板の書き込みと違って、相手のところで展開している言説だから、関心がなければ直接返す必要もないし、個人攻撃よりも一般論の展開というスタイルを取ることが多いと思われるので、冷静に眺めることが出来そうだ。トラックバックは、議論のために有効な機能だと思う。それは、和気藹々と和むような目的では使いにくい機能なので、楽天にはあまり必要のない機能かもしれない。しかし、掲示板の議論では、冷静さよりも冷酷さが前面に出てしまいがちだったが、トラックバックの議論だったら、冷酷さよりも冷静さの方が現れるのではないかと僕は感じている。冷静さと冷酷さの紙一重の違いを感じながら文章を書いている人間としては、トラックバックには期待するところ大である。
2004.06.15
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内田さんの「疲れすぎて眠れぬ夜のために」の中から印象に残った部分を抜き書きして感想を記しておこう。まずは次の部分だ。「もし親が子供に向かって、「ある条件をクリアーできたら(きちんと排便が出来たら、言葉が話せたら、勉強が出来たら、**大学に受かったら……)、おまえを子供として承認する、その条件を満たさないようなものは私の子供としては承認しない」という仕方で、子供の成長に圧力をかけたらどうなるでしょう。 子供は幼いうちから、自分の中には「私」として承認される部分(たとえば、勉強が良くできる点)と、「私」の一部としては承認されない部分(たとえば、昼寝が大好きという点)がある、という考え方をするようになるでしょう。親によって「承認された部分」だけが市民権のある「私」となり、親が承認しなかった部分は「私ならざるもの」として、「私」の外部に、「克服すべき欠点」として排除されることになります。 そういう「私」の分断を幼児期から経験してきた子供は、成長した後、自分の存在を「トータルなもの」として経験することに困難を覚えるようになるのではないでしょうか。」僕は、この文章にとても共感する。僕は、自分が親からこのような育てられ方をされなかったので、自分では、ここで語られているような経験がない。自分の存在が分断されているというような感じを持たずに成長した。親は、自分の存在を丸ごとそのままで承認してくれたと思っている。そういう点で、親にとても感謝している。僕は、そういうふうに、このような経験がないにもかかわらず、ここで類推されていることに対して論理的に納得する。それは、いろいろな物語で、条件付きで承認するという育てられ方をした子供が、いろいろな分裂を抱えていると言うことを見るからである。自分もそういう育てられ方をしたら、そういう性質を持っただろうと想像できるので、ここに書かれていることに共感するのである。そして次のような論理の進め方にも、大いなる共感を覚える。「もし、私の中の局部的な「欲望」だけが優先的に配置され、それ以外のすべてのファクターは、それに奉仕するために「滅私奉公」することを求められているとしたら、それは「私」における一種の全体主義と言うことになります。ある種の独裁体制です。 でも、今の若い日本人を見ていると、どうもそういうふうに、非寛容的で排他的な仕方で彼らの「私」のシステムが構成されているような印象を受けます。メディアは若者が「他者」に対して非寛容で排他的であるというふうに書きますが、僕はむしろ自分の中の「自分らしからぬ部分」に対する非寛容性と排他性の方を強く感じてしまうのです。」他者への非寛容は、自分自身への非寛容の反映ではないかという類推はなるほどと思えるものだ。自分の一部を条件付きでしか承認できない性質を持っていたら、承認できない部分に対しては非寛容になるだろう。自分に対してさえ受け入れられないのであるから、他者が同じような性質を持っていたら、なおそれは受け入れられないだろう。イラクでの人質事件の際に起こったバッシングに対しては、そのバッシングを行った人たちの心理を分析的に眺めてみると、この種の非寛容があったのではないかという感じがしてならない。感情的には当然と思えるような、家族のうろたえ方が、当然とは思えず、ケシカランという感情につながるのは、そういう感情を見せたときに承認されたことがない人たちがそう感じるのではないだろうか。自分が承認されないのに、どうして彼らが承認できようかという感情が生まれるのではないだろうか。次の言葉も、僕にはその通りと思えるものだ。「「人間の心身の力には限界がない」というのは現代人の陥りがちな誤解であるということを先ほど申し上げましたが、そのような誤解のうちもっとも危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つだと思い込むことです。 これは若い人に限らず、性別を問わず、あらゆる年代の人に見ることが出来る傾向です。 でも、「不愉快な人間関係に耐える」耐性というのは、僕に言わせれば、むしろ有害であり、命を縮める方向にしか作用しません。」淀川長治さんという映画評論家がいたが、淀川さんは、「私には嫌いな人がいない」と言っていた。そして、多くの人は淀川さんという人は、なんと優しい人だろうと尊敬していた。でも、僕は、この言葉は淀川さんの仕事のスタンスを語った言葉で、ベタにそのまま受け取ってはいけないと感じていた。淀川さんというのは、仕事の上では嫌いな人を作らず、嫌いな映画を作らないと言うことをモットーにしていた人なんだろうと思っていた。実際には、本気で「嫌いな人がいない」なんて言う人は偽善者か、自分のことに無知な人間なのかのどちらかだと僕は思う。嫌いな人間がいて当然だし、人間関係の波風を立てないようにするには、嫌いと言うことを悟られないように振る舞うようになるだろう。これがやりすぎになると、有害な耐性を身につけることになるだろうというのが、内田さんの考えだと思う。僕は、四六時中つきあうことのない人間だったら、はっきりと嫌いだということを宣言した方がいいと思う。それっきりでつきあいがなくなっても別に困ることはないからだ。嫌いになれば、当然相手からも嫌われるが、嫌われることをそれほど怖がる必要はないと思っている。どうせつきあいなど持つつもりはないのだから。四六時中でなくても、仕事などである程度つきあわなければならない関係にある人間が不愉快だったらどうするか。それは、出来るだけつきあう機会を減らす努力をするしかないと思う。この場合は、わざわざ宣言することはしないかもしれないが、嫌いだということは、暗にほのめかしてもいいだろうとは思う。僕は、そういう相手は多くはなかったが、必要最小限の会話以外はかわしたことのない相手も何人かはいる。それ以上の会話を交わせば不愉快になると思ったので、仕事でどうしても必要になること以外は、いっさい口をきかなかったと言うことがある。電車で若者が読んでいる本がちらっと見えたときに、いかにして人に嫌われないようにするかというような本を見ることが多い。どうしてこうも嫌われることを恐れるのだろうと思う。不愉快な人間関係というのは、相手だけに責任があるのでもなく、自分だけに責任があるのでもない。だから、「自分が変われば相手も変わる」などと単純に言えるものではない、と僕は思っている。もちろん誤解に基づくようなものもあるだろうが、感情的なぶつかり合いというのは、ある意味では理屈ではどうしようもないものもある。そんなときは、あきらめて避けると言うことも必要ではないかと僕は思う。耐えて努力するようなものではないと思う。内田さんが語るように、逃げ出すことが大事ではないかと思う。それを阻んでいるのは、内田さんが指摘する次のようなものがあるからだろうか。「会社で上司の罵声に耐え、部下の暴言に耐え、クライアントのわがままに耐え、満員電車での長距離通勤に耐え、妻の仏頂面に耐え、セックスレスに耐え、子供の沈黙の軽蔑に耐え、巨額のローンに耐え、背広の肘のほころびに耐え、痔疾の痛みに耐え……といったふうに全身これ「忍耐」から出来ているのが「中年のオヤジ」という存在です。 これはたぶん、どこかで「ボタンの掛け違え」があったせいだと思います。 人生のある段階で(たぶん、かなり早い時期に)、不愉快な人間関係に耐えている自分を「許す」か、あるいは「誇る」か、とにかく「認めて」しまったのです。そして、その後、「不快に耐えている」と言うことを自分の人間的な器量の大きさを示す指標であるとか、人間的成熟の証であるとか、そういうふうに合理化してしまったのです。」それがいいことであり価値があると思われたのでは、なかなか否定することが出来なくなるだろう。忍耐に価値を見いだす人間は、それが否定されることを恐れ、むしろ忍耐を押しつけてくることがあるので困る。価値があると思うのなら、自分だけがそれを守ってくれているのならいいのだが、他人には押しつけないで欲しいと思う。不愉快な人間関係から逃れて、一度でも愉快な人間関係を築いてみれば、そちらの方が幸せなことはすぐに分かるのだが、不愉快な人間関係から逃げられない人は、それに価値を見いだす以外にアイデンティティを確立できないのかもしれない。そうすると、内田さんがこの後で語っているように、そういう人は、「不快な人間関係だけを選択し続けることに」なる。これは不思議だがそうなってしまう。そういう人間の周りを眺めると、それほど悪い人はいないのに、不愉快な人間関係だけが築かれているのが分かる。結びで内田さんは次のように語っているのだが、まさにその通りと共感できる言葉だ。「でも、彼は自分が「不愉快な人間関係」の原因であることを知りません。なぜ宿命的に自分の周囲には不愉快な人間しかいないのであろうか、と時々やけ酒をあおるくらいです。 でもこれは「オヤジ」一人の事例ではありません。年齢性別に関わりなく、「不愉快な人間関係に耐えている」自分を一度でも合理化し、その生き方に意味を見いだしてしまった人間は、それから後の人生、繰り返し「不愉快な人間関係に耐える」生き方を選択し続けることになるのです。」人間は、自分の価値観に沿った生き方しかできないんだなあと、その不自由さを感じる。
2004.06.14
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内田さんの本が面白い。これほど心惹かれるのは、内田さんの文章に「ニヒリズム」を感じるからではないかと思う。僕自身も「ニヒリスト」の資質があるので、そこに触れるような箇所に共感をするのだろうと思う。この本でも、最初の部分に次のような文章がある。「引っ越すときに荷造りがたいへんだから、余り物を持たない。家具は最低限のものしかないし、洋服は2シーズン袖を通さないものは棄てる。本も読み返す予定のないものは棄てる。本と服とパソコンとCDとDVDだけしかないから、家の中はがらんとしています。 所有しないのが好きなんです。 こういうことを言うと、悟りすました人間みたいですが、でも、物欲を満たそうと思っていると、もう切りがないでしょう。ひたすら不充足感が募ってゆくばかりで、これ、つらいです。」この文章が「ニヒリスト」の性格を表していると読みとるのは、深読みのしすぎかもしれないが、「ニヒリスト」をここから感じると言うことで、僕は内田さんに共感してしまう。僕はここまで徹底して「物欲」から離れることが出来ないが、原則的にはこのような生き方をしたいと思っている。自分のもっている「物」をすべて失っても、なおかつ「物」でない財産が自分の頭の中に残っていれば、それでいいやと思うような心の状態が、「ニヒリスト」の資質の一つかなと僕は思っている。「物」にはその程度の価値しかないんだと軽く見る心と言おうか。「物」をすべて失えば、残念だという気持ちはあるが、それが耐えられないほどのダメージだとは思わない、「物」への執着はその程度にしたいというのが、僕の中の「ニヒリスト」的心情だ。内田さんは、この文章の続きで、「欲望の充足ラインを低めに設定」すると言うことも語っている。僕は、これにも共感する。僕は「努力」とか「根性」とか言う言葉が嫌いなのだが、これは、今よりも「いい」状態を目標にして、内田さんに言わせると「もう1ランク上の自分」を志向するものだ。そのために、困難や嫌いなものに耐えるという「努力」をすることになる。僕は、「努力」なんかせずに、好きなことを夢中でやっていたら、いつの間にかいろいろなことが出来るようになっていた、という状態が好きだ。何かを克服するために「根性」なんか必要がない。それが好きだという気持ちを持ち続けることが出来れば、いつの間にか困難も乗り越えてしまっている、というのが好きだ。「1ランク上の自分」を目指すというのは、その目標になるような「ロールモデル」があるということなのかもしれない。それは、誰かと比較して、その比較の評価が高いことに幸せを感じるという心情だろうか。僕には、そういう心情がほとんどなかったように感じる。僕は、孤独が好きだった若い時代を過ごしたが、孤独が好きだったのは、誰とも比較する気がなかったので、自分一人の世界で充足していたと言うことなのかもしれないと思っている。僕は数学が好きで、数学をやっていれば幸せを感じるという青年時代を過ごした。でも、その数学を誰かに評価してもらって、成績が一番になるということに喜びを感じるというような心情は少しもわいてこなかった。数学自体が面白かったので、それをすることでもう充足感があった。それ以上のもので充足する必要がなかった。「1ランク上の数学を勉強したい」とは思ったが、それによって自分自身が「1ランク上」になるかどうかは全く関心がなかった。僕にとっての「ロールモデル」は三浦つとむさんかもしれないなと最近は思うようになった。僕にとって三浦さんは、師と仰ぐほどの思い入れを感じる人だ。三浦さんの生き方を自分に重ねたくて仕方がないというところがある。三浦さんは、今でもアカデミックな学問の世界からは全く無視されているところがある。しかし、三浦さんはそんなことを全く気にしていなかった。三浦さんは、自分が関心を持った研究を、いつか発表できる形で残しておくというスタイルをずっと守ってきた。流行に乗ったり、それを発表することで有名になったりと言うことを全く考えなかった人だ。真理がつかめると言うことが三浦さんの充足感・幸せだったと思う。このような生き方が、僕にとっての「ロールモデル」になったのだろうと思う。その著書に思い入れを感じる人は他にもあるが、師と仰ぐほどの思い入れ(生き方そのものへのあこがれ)を感じるのは、三浦つとむさんだけだ。内田さんのニヒリスト的な感覚を感じる文章をもう少し紹介しよう。「確かに、そういう「不充足感」をバネにして生きると言うことも堂々たる生き方だとは思います。けれども、僕はもう、そういうのはやめた方がいいんじゃないかと思うんですよ。「向上心、持たなくていいよ」なんて言うと教育者にあるまじき暴言に聞こえるかもしれないけれど、まあいろいろ理由があるわけで。 僕が学生たちに向かってよく言うことは、「君たちにはほとんど無限の可能性がある。でも、可能性はそれほど無限ではない」と言うことです。 自分の可能性を信じるのはとても良いことです。でも、可能性を信じすぎて、出来ないことをやろうとするのはよいことではありません。だって、ずっと不充足感に悩み、達成できないというストレスに苦しみ続けることになりますから。」可能性を信じすぎてはいけないという、醒めた見方はニヒリストの見方だろうと思う。僕は、このようなところに共感する。無限の可能性があるというのは、何かを好きになるという可能性においては、それは無限の対象を想定できると言うことで「無限」なのだと思う。好きになりさえすれば、それは「努力」せずともかなりの水準にまで高めることが出来る。そういう意味での可能性はいくらでもある。しかし、何かを好きになるというのは、自分の資質や条件などによって限定されてしまう。僕は数学を好きになったが、英語や国語や社会は少しも好きにならなかったし、野球は好きだったがバスケットは好きにならなかった。だから、好きになる対象に関しては、その可能性は無限ではないということはよく分かる。ただ状況が変わればそれも変わってくる。学生の頃は少しも好きでなかった社会科のようなものが、仕事に就いてからは、社会そのものを知りたいという欲求が起こってきて、政治・経済・歴史というものが好きになった。萩原朔太郎の詩の朗読をラジオで聞いてからは、高校生までは全く関心がなかった詩の世界への興味もわいてきた。こういう形で、「無限」の可能性が現実化していくのかなと思った。僕は、可能性を現実化するために努力しようという気持ちはもっていない。ここら辺は「ニヒリスト」だなと思う。偶然、その現実化が僕に訪れてくれればいいし、訪れなければ、その可能性はなかったのだと受け止めるだけだ。こういう意味で「向上心」などというものを持たない、というふうに考える。僕は、とりあえず数学教育(公立の中学校だから、大衆教育としての数学教育だ)の専門家だと自分を位置づけている。その立場から、今の数学教育(中学校の)を見ると、数学の専門家にならない人間に対しては、末梢的で必要のない知識が多すぎると思う。それは将来の可能性に備えるというものではないように感じる。それでは、専門家を目指す人間にとっては役に立つかといえば、それは本質を極めるという点で不十分で、とても専門課程の学習に耐えるだけの基礎を作れない。どちらにとっても中途半端な内容になっている。だから学校の成績がいいだけの人間が、数学の成績がいいからと言って、専門課程で数学を選ぶとかなり悲劇的な結果を招く。高校までの課程で数学に関心を持っていても、その関心は専門課程の勉強を持続するためにはほとんど役に立たないからだ。むしろ、高校までの数学がいかに役に立たないものであるかを思い知ることになる。それでもなお数学に関心を失わない人間だけが、専門課程でのモチベーションを持ち続けることが出来る。高校までの大衆教育としての数学教育は、いかにして数学の学習をあきらめさせるかと言うことをねらっているのではないかと思うくらいだ。それが、大学に入って完成するという感じだ。高校までの数学教育に毒されずにいて、しかもそこそこ成績を維持してきた人間が、やっと専門課程の数学の勉強に耐えうる資質を持っていたという感じがする。まことに現実的な可能性そのものは狭いものだ。もう一つ、耳を傾けたい言葉として、「人間はわりと簡単に壊れる」と言うことを説明した文章を引用しよう。「私にはあれも出来るはずだ。これも出来るはずだ。といろいろな課題を抱え込んでしまう。確かに、やろうと思えば出来ないことはないんです。でもそれを「一気に」達成するのは無理です。受験勉強のように「ゴール」が見えているプロセスの場合は、短期的に心身の限界を超えるような負荷を自分にかけることは出来ます。でも、それを数年とか十数年に渡って続けることは出来ません。そんなことをしたら、人間、誰だって壊れます。 人間というのは、強いけれど、弱い。がんばれるけれど、がんばればその分だけ疲れる。無理して先払いしたエネルギーは、必ずあとで帳尻を合わせるために回収される。この当たり前のことを分かっていない人が多すぎると思います。」がんばるのは、「根性」なんかがあるからがんばってしまうのであると思う。「根性」や「努力」という言葉を嫌いになれば、がんばらなくなるのになと、僕なんかは思ってしまう。内田さんが言うように、「向上心は確かにある方がいい。でも、ありすぎてはいけない」と僕も思う。自分が好きだと思うものにだけ「向上心」を向ければいいのだと思う。好きなものだけをしたら、忍耐力がなくなると心配する人がいるかもしれない。でも、その忍耐力が、人を幸せにしないような忍耐力だったら、ない方がいいんじゃないだろうか。みんなが忍耐力を持って、みんなが我慢することで秩序を維持している社会よりも、自由のためにちょっと混乱する社会の方が、僕はずっと幸せな社会であるような気がする。それは、やはり僕が「ニヒリスト」であるからだろうと思う。最後に、この章の結びの言葉を引用しよう。「愛情」という言葉に新しい意味を感じるような文章だ。これは解説なしに、そのまま言葉を味わってもらえばいいんじゃないかと思う。「愛情をずいぶん乱暴にこき使う人がいます。相手が自分のことをどれほど愛しているのか知ろうとして、愛情を「試す」人がいます。無理難題を吹きかけたり、傷つけたり、裏切ったり……様々な「試練」を愛情に与えて、それを生き延びたら、それが「本当の愛情」だ、というようなことを考える。 でもこれは間違ってますよ。愛情は「試す」ものではありません。「育てる」ものです。 きちんと水をやって日に当てて肥料を与えて、じっくり育てるものです。 若芽のうちに、風雨にさらして、踏みつけて、それでもなお生き延びるかどうか実験するというようなことをしても、なんの意味もありません。ほとんどの愛情は、そんなことをすれば、すぐに枯死してしまうでしょう。 愛情を最大化するためには、愛情にも「命がある」と言うことを知る必要があります。丁寧に慈しんで、育てることによって初めて「風雨に耐える」ほどの強さを持つようにもなるのです。 僕たちの可能性を殺す者がいるとすれば、それは他の誰でもありません。その可能性にあまりに多くの期待を寄せる僕たち自身なのです。」
2004.06.13
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内田さんの「「おじさん」的思考」からまた話題を拾っていこう。まずは、「自称リベラリストたちが陥る論理矛盾」という表題で語られるものからだ。「論理矛盾」という表題だけで僕はこれに強い関心がわいてくる。論理に敏感でない人が論理矛盾に陥ることはかなり多い。それは、善意であろうと悪意であろうとあまり差はないようだ。感情に流されやすい人は、たとえ善意溢れる人であろうとも、感情の流れによって大事なことを見落としてしまう。それは、自分のことを棚に上げるといううっかりさだ。論理というのは、普遍的なもので例外というものを作ってはいけない。他人に対して正しいことは、自分にも正しいと考えなければならない。しかし、感情的側面が勝る人は、論理を自分自身に適用することを忘れてしまう。相手を批判するときは実に鋭い面を見せても、自分のガードは甘いなと思う人は多い。これは自戒の意味も込めているのだが、この内田さんの文章で、僕ももっと自分自身に適用する論理を強く意識しなければならないなと思った。相手を批判する論理は、自分自身をも批判しなければならないし、自分自身を許す論理なら、相手をも許さなければならない。内田さんが語るのは「自称リベラリスト」の論理矛盾だから、これは善意の人の善意の暴走に対する批判といってもいいだろう。「親切とお節介は紙一重」という格言の、紙一重の差を感じるセンスにかかわる批判だなと思う。内田さんが批判の対象にする善意の人は次のような人たちだ。まずは、在日コリアンの人たちは本名を名乗ることが「誇り高いことだ」と考える善意の人たちを考えている。これは、一般論として考えればまことに正しいと僕も思う。しかし、正しいから、そうすべきだと他人に強制できると考えるなら、そう考える・強制する人間は「リベラリスト」ではあり得ない。こういう人間は「自称」という言葉がくっつく「自称リベラリスト」だ。個人にはいろいろな個人的・複雑な状況がある。一般論をそのまま適用できるとは限らない。だから、本名を名乗るかどうかは、本人の自己決定にかかわることだ、と考えるのが本当の「リベラリスト」だ。「自称リベラリスト」ではなく、善意を押しつける人間だったら、このような善意の批判にはならないだろうが、そういうときは「よけいなお世話だ」と反発するだけで済ませればいい。「自称リベラリスト」」は善意に溢れているだけに、単純に無視してやればよいという風にならないのが困る。内田さんは、朝日新聞の次の記事を批判する。「日本社会はなぜ「ちょっとだけ異なる存在」を自然に受け止められないのか。(……)この国に住むのは「日本人らしい名前」を持つ「日本人」だけ-私たちはそんな固定観念を振り払い、もっと社会の構成員の多様性に気づき、慣れる必要がある。」これを読んで、少しも違和感を感じない人もいるだろう。一般論としては正しいことを語っているからだ。しかし、この文章に次のような論理を読みとる人もいる。内田さんの批判を聞いてみよう。内田さんは、「構成員に「変わり者」がいてもとやかく言わず、「均質化」することに過剰な圧力をかけない社会に、ぜひ日本はなって欲しい」と書いた後に次のように言葉を続けている。「私は、この記事そのもののうちに「多様性を抑圧し、均質化を求める」きわめて「日本的」な隠微な圧力を感じるからである。子供の頃から繰り返し強要され、私がそれに反抗し続けてきた忌まわしい口ぶりを聞き取るからである。 この記者は「在日韓国・朝鮮人」は「本名」を名乗るべきだ、「日本人らしい名前」で生きるのは日本社会の排他的な固定観念に屈服することで、人として恥ずかしいことだ、と暗に主張している。 このような主張は、「在日韓国・朝鮮人は日本社会において、「日本社会の均質化圧力」に異議申し立てをし、「多様性の混在」を求めるべきである。それこそ正しい在日韓国・朝鮮人のあり方である」というポリティカリーにコレクトな「当為」を前提としている。」つまり、記事は、日本社会の多様性を受け入れない「非寛容さ」を批判しながら、自らは、「あるべき姿」を押しつける論調になっていることに気づいていないところが「論理矛盾」であると指摘している。自らも「非寛容」になっていることに気づかない。多様性が大事だというなら、自らの考えに賛同する人間ばかりではなく、それに反対する人間がいても受け入れなければならない。そういう論理の柔軟さが、この記事からは感じられないと言うのが内田さんの批判なんだろうと思う。僕が事実と解釈を明確に区別したいと思うのは、まさにこの論理矛盾を避けたいと思うからでもある。解釈は、仮説に過ぎないし、どのように考えようと間違いが明らかになるまでは主張するだけの権利を有すると思う。だから、それに対しては賛成するか反対するか、あるいはよく分からないと言うか、いずれの態度も受け入れなければならない。それが出来ない人間は、自らの視野の狭さを宣伝しているようなものだろう。事実の問題は、それの存在を問うものであるから、白黒がはっきりする問題ではある。しかし、その事実のとらえ方は、言葉の定義の問題があるので、言葉の意味に関しては事実ではなく解釈の問題が入り込んでくる。だから、純粋の事実を検討すると言うことは、ある意味では人間には不可能だろうと思う。たとえば南京大虐殺という問題は、未だに「事実」がどうだったかが争われているが、これは、「虐殺」という言葉の解釈と、「大」であるかどうかという解釈がかかわってくれば、事実だけの問題ではなくなってくるからだ。その言葉の妥当な解釈を、多くの人が共有したときに初めて「事実」としてどうだったかという客観的な結論が出てくるのだろう。未だに事実として確定していないと言うことは、きっと言葉の解釈が共有できないのだろうなと思う。この章の内田さんの結びの文章は、これも強く共感できるものだなと思う。次のようなものだ。「朝日の記者はどうして「日本社会」が均質的であることを否定しながら、「在日社会」が均質的であることを当為とするおのれの論理矛盾に気づかないでいられるのであろう。 私に思いつく説明は一つしかない。 それは、彼らが骨の髄まで「均質化」されているせいで、「多様性」とはどういうものか想像できない、ということである。もっと率直な言い方をしてもいいが、角が立つからやめておこう。」自分を棚に上げる論理というものに違和感を感じる人は多いのではないかと思う。特に、善意に溢れる人や、正論を述べる人にそのような面を見つけてしまうと、善意や正論そのものがいやになりかねない。善意や正義が好きな人は、このことを強く自覚しなくてはならないなと思う。「小さな親切」が「大きなお世話」にならないようにしなければならないと思う。「オン・デマンド・教育論」で語られている教育論は、公教育に携わる人間としては、痛烈な批判をされていると受け止めなければならないのだが、なぜか爽快感を感じてしまう。それは、僕自身が内田さんと同じような批判をもっているからだろうと思う。中学生による荒れた学校が報道されていた頃、その原因を「偏差値教育」や「受験のストレス」に求める考えがあったが内田さんはそれを否定する。それは、この二つが充満しているはずの予備校や塾では、公立学校のような荒れが見られないからである。内田さんは、次のように論理を展開する。「それは予備校や塾は受験勉強「だけ」を教え、成績「だけ」を重視し、子供たちの「人格」をきっぱりと無視しているからである。極端に言えば、子供がチックを起こしていようと、ヘビースモーカーであろうと、上着の裾からパジャマがはみ出していようと、よだれを垂らしていようと、予備校や塾ではそんなことには誰も注意を払わないし、誰もがとがめないのである。だからこそ、予備校や塾で子供たちが「解放感」を味わうと言うことが起こりうるのである。 おおかたの人が信じているのとは逆に、学校が抑圧的なのは、そこが個人の「人格」を無視しているからではなく、個人の「人格」だの「個性」だのというものが過剰に言及されるせいである。」僕は、自分が生徒だった頃に、自分の性格や心が評価されるのが我慢ならなかった。人間をどこまで理解できると思っているのだろうかという疑問を抱いていたからだ。理解もしていない人間をどうして評価できるのだろうと思っていた。疑問を感じながらも、心を痛めて、立場上仕方がないのだと思いながら評価してくれているのなら、僕も教員に同情しただろう。無理なことを押しつけられているなと。しかし、本気で評価している教員に対しては、その視野の狭さを人間的な未熟と感じただけだ。そういう人間的に未熟な教員に、人格を評価されるのは笑い話にもならない。人格の高さというのは知識の多さと関係がない。たとえ中学生の子供であろうとも、教員なんかより遙かに人格高潔な生徒がいた。しかし、人格高潔などというのは、僕の主観的な評価だから、他人が同じように感じるかどうかは分からない。客観的に評価できるものではないのである。そういう評価の目にさらされている子供たちに解放感がないという感覚はよく分かる。僕が内田さんの上の論理に共感する所以だ。人格の陶冶を学校が行うというのは、制度的に無理だと僕は思う。それではそれはどこで行うのか。それはすぐに結論を出せない問題だ。内田さんもそれについては書いていない。しかし、学校にその能力がないことだけはもはや明らかだというのは、内田さんも論じているように思う。日本人12歳説というのは、戦後まもなく言われたことであるらしいが、日本人の若者たちが大人になりきれないと言うのはよく言われることだ。大人になるには、人格の陶冶が行われなければならないが、その機会を得られずに年だけ取る日本人が多い。僕は、人格の陶冶は主体性の確立とともにあるのではないかと思うのだけれど、主体性を確立した人間は日本ではとても生きるのがつらくなる。主体性を確立することこそが幸せだという社会が訪れなければ、それに気づいた人でなければ大人になりきれないという風になってしまうんだろうなと思う。
2004.06.12
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内田さんの「「おじさん」的思考」という本から、面白い話題をまた拾っていこう。内田さんの憲法論も僕には共感できるもので、同じように共感できそうな人と語り合いたいと思える内容だ。内田さんは9条の改訂には反対だと述べ、その考えの基本にあることを次のように語る。「法律は、「良いことをさせる」ためではなく、「悪いことをさせない」ために制定されている。 私はそう考えている。 経験的に言って、人間はプラスのインセンティヴがあったからと言って必ずしも「良いこと」をするわけではないが、ペナルティがなければほとんど必ず「悪いこと」をする。 これは自信を持って断言できる(70年代の学生運動のなかでいやと言うほど見せつけられたからである。当時の学生たちが「法的制裁を免れられる」と分かったときにどれほど非道な行為を自分に許したか、私はよく覚えている)。」この感覚が僕にもよく分かる。僕は70年代の学生運動の経験はないけれど、「良いこと」をするためには、非常に高い意識を持たなければならないけれど、「悪いこと」をするにはほんのちょっとしたきっかけさえあればいいと言うことが感覚的によく分かる。だから「悪いことをさせない」ために法律で制限があるのだと言うことも感覚的に分かる。「悪いこと」の基準をどこにおくかという問題があるが、強権をもって制限することの基本には、上のような人間観があるだろうということはよく分かる。そして、この基本を憲法の場合にも適用すると、「憲法9条は「戦争をさせないため」に制定されている」と言うことになる。そうすると、9条を改訂すると言うことは、戦争をさせないという歯止めをなくすと言うことだから、戦争をするという可能性を許すことになる。内田さんは、憲法9条の改訂を推進したい人間は、むしろ「戦争をしたい」と言うことを表明しているようなものではないかと指摘している。9条を残すというのは、あらゆる努力を「戦争を回避する」ことに差し向けると言うことを意味する。これを、何がなんでも戦争反対だというふうに受け取って批判する人がいるが、そう意識することは少しも悪いことではないと思う。そう意識していても戦争が避けられない場合もあるのだから、意識としては、戦争を避けることにあらゆる努力を傾けるとしておいていいのではないかと思う。それを「自衛のための戦争は許される」と考えるのは、戦争をしてもいい場合を設定すると言うことだ。戦争をしてもいい場合を設定すると言うことは、あらゆる努力をして戦争を避けようと言うことのじゃまになる。これはどうもおかしいのではないかと言うことを、内田さんは刑法の比喩で説明している。とても説得力のある比喩だと僕は思う。次のようなものだ。「たとえば刑法199条は「殺人罪」を「人を殺したものは死刑または無期もしくは3年以上の懲役に処する」と規定しているが、「人を殺しても良い条件」は規定していない。 改憲論者のロジックは、「自衛のためまたは公共の福祉に適する場合を除き」という限定条件を刑法199条に書き加えろと言っているのと同じである。 「どういう場合なら殺人をしても罰せられないかをあらかじめ規定しておきましょうよ。だって時には人を殺さなければならない場合だってあるでしょう。除外規定を決めておけば、すっきりした気分で人が殺せるじゃないですか」。そうこの人たちは主張しているのである。 時には人を殺さなければならない場合があることは事実である。 しかし、そのことと「人を殺しても良い条件を確定する」ことの間には千里の径庭がある。殺人について私たちが知っているのは、「人を殺さなければならない場合がある」という事実と「人を殺してはならない」という禁令が「同時に」存在していると言うことである。そしてその二つの両立不可能の要請の間に「引き裂かれてあること」が人間の悲劇的宿命であるということである。 矛盾した二つの要請の間でふらふらしているのは気分が悪いから、どちらかに片づけてすっきりしたい、話を単純にしてくれないと分からないと彼らは言う。 それは「子供」の主張である。「武装国家」か「非武装中立国家」かの二者択一しかないというのは「子供」の論理である。物事が単純でないと気持ちが悪いというのは「子供」の生理である。 「大人」はそういうことを言わない。」ちょっと長いが、味わい深い言葉だと思う。複雑なものは、複雑さを残したままで受け止め理解しなければならない。単純に切り捨ててしまえば、その構造を改変して解釈することになってしまうだろう。複雑なものを単純化できるのは、構造を保存したまま、その構造の骨組みに当たる本質をとらえたときだけである。簡単に単純化できるものではない。宿命として、単純化できない事柄もある。改憲論者が、9条を改訂して戦争が出来るようにしようと考えるのは、気分をすっきりさせるという単純化であって、決して本質をとらえた単純化ではない。宮台真司氏などが唱える改憲論は、このような単純な9条否定の改憲論ではない。宮台氏は、戦争をエスカレートさせないための改憲を論じている。戦争が出来るようにするための改憲ではない。やむを得ず戦争に巻き込まれるようになっても、それが最小の被害で済むように、一定の関与以外は認めないと言う、9条がこれまでもっていた意義を引き継ぐような改憲を論じていた。戦争をさせないための、歯止めとしての9条の意義は残しておく価値のあるものとして改憲を考えなければならないと僕も思う。上の比喩で語っている「子供の論理」と「大人の論理」の対比も応用範囲の広い考え方だと思う。長崎での事件に関しても、わけの分からない事実に対してすっきりしたいと思う人は、これを単純化して、理解できる部分ですぱっと切り裂こうとするのではないだろうか。しかし、本質をとらえるまでは、この事件も単純な理解は出来ないだろうと僕は思う。複雑なものとして、複雑なままで受け止めるしかないだろう。少女にとって、様々な要因が殺意にまで高められたと言うことだけは分かる。しかし、どのようにして、その原因が殺意につながったかというのはまるで分からない。少女の体験をたどれる人間がほとんどいないからだ。ほとんどの人間は、報道されている事柄だけでは殺意までは抱きようがない。それでは、少女は特別な(ある意味で「異常」な)人間だったのだと思いたくなるかもしれない。しかし、それは本質をとらえない単純化であるように僕には見える。特殊な人間として切り捨ててしまえば、自分はそのような特殊には入らないと思える人間は安心できるかもしれない。しかし、あの少女が特別ではなく、どこにでもいるかもしれないと感じている人は、そのような単純化では安心できない。むしろ、少女の存在が、我々の社会がもっているゆがんだ側面を象徴的に示しているのではないかと、我々自身の社会に目を向ける人は、その複雑な社会というものを丁寧に説き明かしていくような努力をしたくなるだろう。この努力をする過程も、単純化して、自分が理解できることで気分をすっきりさせようとしてはいけないと思う。複雑なものを、分からないという気持ちを抱いたままで、地道に一歩ずつ歩んでいくのが「大人」のやり方だと思う。僕も、この年になってようやくそれが分かってきた。内田さんは、9条があれば平和が守れるという、それにべったり寄りかかった思考も批判している。9条があってもなお平和が守れないときもあるのであり、その時は「人を殺さねばならない」平和を侵す場合があるかもしれない。しかしそれでもなお、9条を守ることは「戦争をさせない」と言うことで意義があると考えるのが「大人の論理」だ。内田さんの次の言葉も、実に共感を感じるものだ。「「人を殺さなければならない場合がある」というのは現実である。「人を殺してはならない」というのは理念である。この相克する現実と理念を私たちは同時に引き受け、同時に生きなければならない。 どちらかに片づければすっきりすると政治家たちは言う。だが、「すっきりすること」というのはそんなに重要なことなのだろうか。人間が現におかれている「すっきりしていない」状況から目を背けてまで、「すっきりする」必要があるのだろうか。」9条の改訂には、「侵略されたらどうするのだ」という脅しがよく使われるが、それに対する反論として、内田さんは実に説得力あるものも提出してくれている。「彼らは9条を「空論」だという。「もしどこかの国が侵略してきたらどうするのだ」と脅かす。 だが、よく考えると、このロジックは、刑法が「空論」だと言っているのと同じである。 なぜなら、刑法199条があるにもかかわらず、毎日のように日本では殺人事件が起きているからである。改憲論者が憲法9条は「空論」だから戦力の行使を認めろと主張するのは、刑法199条は「空論」だから、市民は銃器で武装すべきだと主張するのと同型のロジックである。 しかし、彼らもそんな愚かな主張はしないだろう。 改憲論者だって、市民が全員武装することによって新たに生じる危難の方が今起きている危難より多い、ということくらいは予測できるからである。 だからこそ刑法199条が「空論」でないのと同じように、憲法9条は「空論」ではない。私はそう考える。」実に明快な論理だ。市民による武器の自衛を権利として認めているアメリカという国が、世界一殺人事件の多い国であることは、改憲論者のロジックが現実には少しも平和を守る道ではないことを証明しているようにも僕には思える。殺人事件を起こすようなヤツがいるから、市民は武装しなければならないと考えたら、武力の強い人間が支配する世界を正当化するだけではないのだろうか。国家に関しても同じで、侵略するようなヤツがいるから、その国は潰してもいいんだと考えるロジックを持てば、武力で世界を支配することを認めるロジックを認めることになるのではないかと思う。平和ではなく、戦争を支持することになるだろう。9条の改訂は、そのようなロジックに結びついていると言うことを、内田さんのこの文章はすっきりと分かるように教えてくれる。内田さんの本は、刺激的な内容に満ちた本だ。とても面白い。
2004.06.11
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内田さんの本が面白い。とにかく共感できる部分がたくさんある。論理も明快ですっきりしている。年代的には僕よりちょっと上なのだが、同世代的に共感するところが多い。宮台真司さんは、僕よりちょっと下なのだが、彼には世代の違いを感じるところがある。しかし、内田さんは同世代だなと思う。この本からも共感するところをいくつか拾い出してみよう。「普通じゃない」国日本の倫理的選択という表題の文章では、漫画家の弘兼憲史氏の「米国に協力したら日本もテロ集団にねらわれる。だから協力はやめようという考え方がある。そういう考え方だけは避けるべきだ。自分の国だけが助かればいい、という発想法は卑怯である。」という言葉に反発して、これを批判している。それは次のようなものだ。「「米国に協力したら日本もテロ集団にねらわれる。だから協力はやめよう」という発想は、「あり」である。とりあえずの国際関係論的文脈では物議を醸す発想だろうが、長い目で人間社会を見れば、むしろ「正しい」選択であると私は思う。」この言葉に僕は大いに共感した。タカ派的な弘兼氏には共感しないと言うこともあるが、単純正義派の発想のように見える「自分の国だけが助かればいい、という発想法は卑怯である。」というものに共感できない。僕は、潔く死ぬよりも、女々しく生きていたい。加川良が歌った「教訓1」のように。上の内田さんの言葉は、感覚的に共感できることはもちろんだったが、その理由を語ったあとの部分の論理にも共感できた。内田さんは、生物学における種の多様性が、絶滅という危機に際してそれを回避する有効な要素になっているということを語る。すべてが同質の特徴を持っていたら、何らかの原因でその同質の部分に働くような危機が起こったときに、その種の全体が絶滅してしまうと語る。馬とシマウマを比喩の材料にして、この両者が違う性質を持っていれば、馬は絶滅してしまうが、シマウマは生き残るという場合も考えられる。もし馬もシマウマも絶滅してしまうと、それを食料にしている動物も共倒れになってしまうが、シマウマが生き残れば、共倒れを防ぐことが出来る。馬とシマウマという同じ種でありながら多様性を持っている方が絶滅という危機が他に及ばないですむ可能性がある。人間の場合でも、みんなが同じ方向を向いて、違う考えを許さなかったら、それがもし間違えていたら取り返しのつかないダメージを受ける可能性がある。そんなときにたとえ少数派であろうとも、違う考えがあるということが大切だ。もちろん少数派が間違えていることもあるだろうが、それは少数派であれば全体の流れに大した影響を与えないのだから、間違えていたとしても大したことではない。多数派はそれを許容できるだけの余裕を持つべきだろう。多数派が間違えているときは、その被害はかなり大きなものがあるが、正しかった少数派が多数派に代わって指導的位置に着くことで復興を目指すことが出来る。これが、正しかった少数派が全くいなかったら、とても復興を誰かに任すなんて言うことは出来ないだろう。みんなが間違っていた場合は指導者の不在と言うことになってしまう。この文章の結論では、一般論的に次のように語っていてなるほどと思える。それは、今の世論で通用している改憲論や「普通の国」になろうというような論調に対する原則的な批判になっていると僕は感じる。ちょっと長いが引用しておこう。「システムを支えるために個体は、「他の個体をもっては代え難い」という際だった特性を持つ必要がある。それは「おのれ一人が助かればいい」という利己主義ではなく、実は「システムの延命のために、個性的であることを貫徹する」という「滅私奉公」の精神に貫かれた倫理的選択なのである。 日本は不思議な憲法を持っており、不思議な軍隊を持っていて、その二つは不思議な「ねじれた」関係を取り結んでいる。そして、その不思議なシステムが半世紀に渡って日本の政治的安定を支えてきた。 そのことは少しも恥ずかしいことではないし、少しも困ることではないと私は思っている。 「普通じゃない」というのが、日本の国際社会における最大の「強み」なのである。 どうして、弘兼は「普通」になりたがるのか? 「他と同じ」になろうというその提言が「半世紀の平和と繁栄」と引き替えにしてもいいようなどのようなメリットをもたらすことを予測した上でなされているのか? 私にはよく分からない。 きっと弘兼は「均質的」であることが好きなのであろう。 均質的な集団が好きなのは、弘兼の個人的好悪であるから、そう思うことは彼の権利である。ただ、均質的な集団が嫌いな私の個人的好悪にもぜひご配慮願いたいと思う。」全くその通りだと共感する。国際社会における威信より大事なものという表題の文章では、イラクへの自衛隊派遣に対する論理明快な反対論が語られている。批判のポイントは、軍隊の派遣によって相手国の人間が死ぬことをどう受け止めるのかと言うことである。正義のために自国の軍隊が犠牲になることは問題にされ、国際貢献のために、血と汗を流すことの意義が声高く語られているが、戦争になれば、自国の軍隊が犠牲になるだけでなく、敵の方にも犠牲者が出ることは避けられない。内田さんは、「そこで人さえ殺さなければ、たとえ国際法上の敵国であろうとも、根深い憎しみの対象とはならない」と語っている。そのことを危惧するので、「だから、私は対テロで日本政府がアメリカ政府を支援するぞと「口だけで言う」ことには賛成である。「金も出すぞ」というのもどうかご勝手に。戦艦を空母の護衛につけるくらいのことは目をつぶってもいい。 しかし、兵士を戦地に送り込むことには絶対に反対である。」と語っている。僕もその通りだと思う。外交上の姿勢というのは、宮台氏的に言えば「ネタ」の範囲で考えるべきことだろうと思う。「口だけで言う」ことで大いにけっこうだと思う。本気でやろうとは思わないことだ。特に、本気でやったら利益よりも損害の方が大きいと思ったら、相手に対しても「口だけ」だと言うことが伝わるような言い方をするべきだろう。日本以外のイラクに軍隊を派遣している国は、この「ネタ」で送っていると言うことが自覚されている国が多いのではないだろうか。本気でイラクの復興支援なんてやる気はないけれど、外交政策上アメリカに追随しなければならないから、安全をアメリカが保証してくれる限りで軍隊を送るという自覚のある国がかなりあるように感じる。だから、安全が保証されなくなるとすぐに撤退を考える国がいくつかあった。軍隊の派遣が「ネタ」であれば当然のことだ。日本人は、「ベタ」で考えて、本気で復興支援だと思いたがっているのではないだろうか。これは大変に危険だと思う。なぜなら復興支援が終わるまで撤退が出来なくなるからだ。しかし、イラクの復興支援などというものはいつ終わりになるか分からない。だいたいアメリカが本気で復興支援などを考えていないだろうと言うことは、アメリカの占領のやり方を見ると想像できる。だから、本気で復興支援をやろうと思ったら、日本だけがそれを背負うことになりかねない。イラクへの自衛隊派遣を論じるときに、それが国益になるという意見も多く語られたような気がするが、よく考えてみると、これはかえって国益を損なうのではないかと、内田さんの論理を見て改めてそう思う。内田さんはこんな風なことも言っている。「「人的貢献」がうるさく言われるのは、「そこで一人でも日本兵が血を流せばアメリカ国民は日本が味方だと言うことを決して忘れないような仕方で記憶する」というふうにみんな考えているからである。 それは逆に言えば「そこで日本兵が一人でも敵国人を殺せば、敵国の国民は日本が敵だと言うことを決して忘れないような仕方で記憶する」と言うことである。 なぜ、そのことを言わないのか。」国益を判断するとき、この両者を比べて、どちらの記憶のされ方が重いかを判断しなければならない。中国や朝鮮半島で、未だに日本が本当には信用されないのは、そこで多くの人が日本の軍隊に殺されたからだ。その記憶は、およそ戦後60年もたっているのに「決して忘れないような仕方で記憶」されている。それを教訓にするならば、僕は内田さんが語ることに賛成したいと思う。この文章の結びの言葉も深い共感を覚えるものだ。「私はG8の体面なんかよりも大事なものがあると思う。 国際社会における威信よりももっと大事なものがあると思う。 日本の国際戦略の大義は、国際社会において「さげすみ」の対象となっても、「憎しみ」の対象とは決してならないことに存する。私はそう信じる。」僕もそう思う。内田さんの言葉は共感できるものに溢れている。これからも大いに共感できるものは紹介していきたいと思う。
2004.06.10
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昨日の日記で書いた「ロールモデル」について、もう少し深く考えてみたいと思う。これは、行動の手本となるようなものと考えることが出来るが、その手本というのは様々な方向での手本が考えられる。星川さんが問題としたのは、殺意が短絡的に殺人行為に結びついてしまうような、ある意味では負の価値を持ったロールモデルのように見える。本来は手本にして欲しくないのに手本にしてしまうような「ロールモデル」だ。その反対に、手本にして欲しい、価値が高いと見られるような「ロールモデル」もある。そのような反対の極にあるような「ロールモデル」について考えてみたい。道徳的価値というものを考えた場合、道徳的価値が高いと思える「ロールモデル」はあまり手本にしてもらえない。学校の道徳教材で取り上げるような人の生き方は、それを手本にして生きようという気持ちにあまりさせない。それは立派には違いないのだが、みんなが手本にして同じように行動できるような種類の立派さではない。わずかのエリート的な人間が従うことが出来るような行動規範に従った生き方のように見える。ダイエーの王監督の選手時代の生き方などは、道徳の教材になったような立派なものだ。選手時代の王さんは努力の人で、素質のすばらしさ以上に、努力によって成功した人として語られている。では、誰でも王さんのように努力できるかと言えば、これはたいへん難しいことだ。努力というのは、ある程度報われなければそれを続けることが難しい。王さんの場合は、その輝かしい球歴を見れば分かるように、努力が報われた幸せな人生だと言える。しかし、誰でもそのように努力が報われるとは限らない。努力が報われそうにないと思ったら、努力しようという気持ちさえ生まれてこないだろうと言うことは、凡人としてはよく分かる心理だ。ある人を「ロールモデル」として手本に出来るかどうかは、それに自分を重ねられるかどうかという想像力が生まれるかどうかにかかっているような気もする。王さんを尊敬する気持ちは生まれても、王さんの姿に自分を重ねると言うことはとても出来ないような気がする。そうなれば、「ロールモデル」としては機能しないのではないだろうか。立派さを持った人間は「ロールモデル」にはならないが、容易に自分を重ねることの出来る人間だったら、たとえ「悪」の要素を持ったモデルであっても「ロールモデル」になってしまうのかもしれない。負の価値を持った「ロールモデル」の方が浸透しやすいと言うのは、その方が容易に自分と重ねることが出来るからではないだろうか。立派さを持った人間でも「ロールモデル」になりうると思える人がいる。僕は、王さんを「ロールモデル」には出来ないが、ローゼンバーグ夫妻は「ロールモデル」に出来るかもしれないと思っている。ローゼンバーグ夫妻は、原爆のスパイという冤罪のために死刑になった人たちだ。ローゼンバーグ夫妻は、最初からヒーローのように存在した人たちではない。ごく普通の人だった。信念のために生きたと言うよりも、穏やかで思いやりの深い人だったと思う。その人たちが、運命の悪戯で深刻な状況に陥ってしまった。ローゼンバーグ夫妻は、原爆のスパイであることを認めれば死刑を免れるという取引が出来たにもかかわらず、身の潔白を主張して電気イスに座ることになった。それは、子供や孫たちに、間違った生き方をしたという姿を見せたくなかったからだと言われている。愛する者たちに真実を伝えるために、命をかけたのだ。僕は、ごく普通の人で、その強さに特別なものを持っていない人でも、運命の悪戯で極限に追い込まれたときに、信じられないくらいの立派な行為が出来る人がいると言うことを、ローゼンバーグ夫妻によって知った。この事実が僕にとっては「ロールモデル」になりうると思った。ごく普通の人であっても、時と場合によっては立派なことが出来る。エリートというのは、常に立派な生き方をしてしまうが、一生に一度くらいだったら立派なことが出来てもいいじゃないかと思えたりするのだ。常に立派な生き方をするというのは「ロールモデル」にならないが、ここだけはそういうことをするんだという姿は「ロールモデル」になる。「ロールモデル」の問題は、このような難しさがあるのではないかと僕は思った。大人は子供に立派な生き方を押しつけることが多いけれど、それはとても手本には出来ないくらい立派すぎるのではないだろうか。手の届くところに、それなりに立派な生き方の手本があれば、堕落した方向に流れなくてもすむのではないだろうか。あまりにも立派な生き方しか一方の生き方が与えられなかったら、その反動で堕落した方向へ向かいたくなってしまうかもしれない。日本社会における「ロールモデル」の問題は、その画一性というものも一つの問題として感じる。主体性を発揮できる社会なら、多様な価値観に従って、多様な生き方の見本としての「ロールモデル」を見ることが出来る。しかし、日本社会では、画一的な価値観が強く支配しているために、一般的な「ロールモデル」をはずれてしまうと、そのような生き方は特別な生き方としてとても「ロールモデル」にならないと言う問題がある。昨日の日記では、戦場における残虐性というものも、残虐性を発揮することが一つの「ロールモデル」として提出されるため、それが次々と受け継がれて、泥沼のような状態になってしまうと言うものを、今のイラクでの米軍や、中国での旧日本軍に見いだすと言うことを書いた。それは、誰もがその残虐行為に疑問を感じない状況になってしまうために、残虐行為そのものに疑問を感じるという人間が出にくくなってしまうと言う状態を生んでいる。しかしそこには微妙な差も感じる。たとえばアメリカ軍でなら、脱走兵という形で抵抗する人間が出てきたりする。それは、アメリカ軍の中では負けた人間であり、マイナスの評価をされる人間であるが、そういう人間がいると言うことで一つの「ロールモデル」になる可能性がある。そして、アメリカ軍には、軍を離れると、内部告発をするような人間も出てくる。数は少なくても、多様な「ロールモデル」の存在を見ることが出来る。圧倒的多数は違うだろうけれど。ところが旧日本軍では、そのように集団の価値観をはずれるような「ロールモデル」が皆無であるという特徴があるような気がする。森村誠一さんがかつて「悪魔の飽食」という本で暴露した731部隊の人体実験については、その残虐性は、戦後そのことが日本では全く語られなかった。森村さんがこの本で暴露するまではほとんどの人が知らなかった。そして、それが残虐で非人間的であることは誰にも分かっているが、未だに内部からその全貌を明らかにしようと言う人が出てこない。「ロールモデル」がないのだ。内部告発をするというのは、集団の価値を離れて、その逆の価値観を持つことを意味するが、そういう個人が日本社会では全く出てこない。アメリカならば必ずそういう人が出てくるだろう。アメリカでは、今の政権に対しても、そこを離れた人間は厳しい批判の内部告発書を書いたりする。しかし、日本では秘密は墓場まで持っていくというものがほとんどではないだろうか。むしろ秘密を守るために命を絶つ人間が多いというふうに感じてしまう。ここら辺の「ロールモデル」の画一性というのは、日本社会に特徴的なものではないだろうか。僕は、自分を重ねることの出来る「ロールモデル」を出来るだけたくさん持つことが重要ではないかと思っている。それは一つだけという狭い視野のものではなく、いろいろな考えが成立する場合に従って、あらゆる可能性のもとでの「ロールモデル」があるべきだと思う。子供たちには、そういうものを提供できなければならないだろう。自分とかけ離れた「ロールモデル」を大人の価値観で押しつけるのは間違いだと思う。そのようなものを押しつけられるから、大人にとって望ましくない「ロールモデル」の方へ子供たちは流れていくのだろうと思う。長崎の事件をきっかけに「心の教育」が語られているが、これが、手本にならないような「ロールモデル」の押しつけにつながらないように僕は祈っている。押しつけようとしたら、ますます反対の極へと流れていくんじゃないかと危惧している。「ロールモデル」は自由に選択でき、途中でいくらでも変えることの出来る余裕のある手本であることが望ましいんじゃないかと思う。
2004.06.09
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長崎の小学生による殺人事件について、様々の事実の報道がなされているが、その事実の解釈に対してはなかなか共感するようなものを見ない。想像を超えた事実が起こってしまったので、それを理解するための準備がまだないのだと思うが、今までの常識的な解釈の範囲内ではこれを受け止めることができないのだろうと思う。この解釈の一つとして、そう考えることも出来るなと言うようなものを見つけた。メールマガジンで届いた「星川 淳@屋久島発 インナーネットソース #88」の中の次の文章だ。「ひと昔前だったら考えられないほど、毎日のように悲惨な殺人事件が起こる日本で、小学生が同級生をカッターナイフで切り殺す今回の事件は、一線を越えた気がしました。真因はネットや悪口うんぬんより、殺人を含む過剰な暴力が日常化した映像やマンガにあると、ぼくには思えます。いくら「憎らしい」と感じても、その反応が「殺してやる」につながること、その道具にカッターナイフのような本物の凶器を選ぶことは、ロールモデルがなければ起こりえないはずです。」この文章の中の「ロールモデル」という言葉が、一つの解釈のキーワードになるのではないかという感じがした。我々の理解を超えているのは、殺したいほどの憎しみがたとえあったとしても、それが実際に殺してしまうことに結びつくと言うことが想像を超えているのだと思う。観念と存在とには、ある程度の一定の距離があるというのがこれまでの常識だったと思う。その距離が簡単に超えられてしまったように見えることが我々には理解できない、受け入れらないことなのではないかと思う。しかし「ロールモデル」というものがあった場合に、それを越える可能性はかなり敷居が低くなりそうな感じもしてくる。状況はちょっと違うが、信じられないような残虐な行為が行われているイラクの地でも、それが実際に行われてしまうというのは、歯止めがどこかで失われてしまったからだと思う。その歯止めを失わせるものはやはり「ロールモデル」なのではないかと感じられる。戦争という極限状況の中では、信じられないような人間性の残虐さが出ても仕方がないと言うことが「戦争の常識」になった場合、倫理観や道徳意識でそれに歯止めをかけることはかなり難しくなる。しかも、目の前にそのような行為をする他人がいた場合には、それが許されないことだと思う意識がかなり薄くなるだろう。そのような行為をしても仕方がないという意識ではなく、そのような行為に流されそうな状況にあっても、それが人間として許されない行為なのだという倫理を確立しておかなければ、それをせずにいられる人間として主体性を持つことが出来なくなる。どうすれば、このような主体性を持つ人間になれるかを考えなければならない。中国での旧日本軍の兵士は、ほとんど残虐行為の歯止めになるような倫理観を持てなかったのではないかと僕は思う。それは、そのような歯止めを持った「ロールモデル」が存在せず、むしろ歯止めをなくした「ロールモデル」しか彼らの前になかったような気がするからだ。このような状況では、戦争だから仕方がないというようないいわけの気持ちしか浮かんでこないだろう。子供たちの世界に限らず、今の表現の世界には、単純明快な感情で動くヒーローが溢れているのではないだろうか。とにかく「悪」と判断したものはやっつけてしまえという感情を満足させるような、中身の浅はかな物語が多いような気がする。「悪」のように見えるのも、自分の立場からするとそう見えるだけであって、他の利害を代表する立場からすれば、「悪」ではなくむしろ「善」なのかもしれないと言う、複雑な理解の仕方が出来るような物語を見かけない。国際政治の世界でも、単純な善のアメリカと、単純な悪のイラクという図式がはびこっている。これはあまりに単純すぎて、それを本当に信じている人は少ないとは思うのだが、これは日本から見て他人事だからそう冷静に判断できるのだろう。他人事ではない切実な問題では、かなり単純な見方しかできないものも見られる。朝鮮民主主義人民共和国に対して、それが「悪」であると言うことにちょっとでも疑いを差し挟む日本人がいたら、それは悪の手先だみたいに言われるのではないかと感じることがある。実際にはそう単純な問題ではなく、様々な要素が複雑に絡み合って、国家としての敵対関係ができあがっているはずなのだが、その複雑さを一つずつ解きほぐしていこうとするような冷静さが日本国民の中で主流を占めているとは僕には思えない。これに対しては、世論は単純な反応しかしないようだ。しかもそれが正しいというイメージが行き渡っている。このようなものがロールモデルになっているとしたら、自分が「悪」と判断した相手に対しては、同情や思いやりなどいらないのだと単純に考える可能性が出てくる。星川さんは、上の引用文に続けて次のようにも語っている。「いま52歳のぼくが少女たちの年齢の頃、「仲良しの同級生が意地悪したからカッターナイフで殺す」(まだカッターナイフはなかったけれど、鉛筆を削る小刀や切出しナイフは必需品でした)と発想できる子どもは、おそらく日本中で、いやひょっとしたら世界中で一人もいなかったでしょう。強いて翻訳すれば「殺したいほど」の悔しさはときどき味わったにせよ、「殺す」という発想や衝動につながる心の回路がありませんでした。子どもの本性が変わったのではなく、取り巻くロールモデルが何百倍・何千倍も残酷で暴力的になったのです。表現の自由とは別の問題として、子どもたちの心を暴力的・反生命的ロールモデルから守る対策を考えるべき時機だと思います。せっかく銃が身辺にない社会で、ハリウッドばりにマシンガンを乱射したり、次々と人間を吹き飛ばしたりする映像・画像を、一定年齢以下の子どもたちに見せる必要があるでしょうか。そういう対米追従からも自由になりたいものです。」この解釈にも、僕はほぼ同意する。この事件を教訓として、将来のために何かが出来るとしたら、「子どもたちの心を暴力的・反生命的ロールモデルから守る対策を考える」と言うことではないかと僕も思う。社会的状況の解釈としては、この星野さんの解釈が、今のところ僕にはもっとも納得できるものだった。殺したいほどの衝動が心に生まれてしまうのは、感情の生き物としての人間にはあり得ることだというのはよく分かる。しかし、それが実際の行動に結びついてはいけないのだという倫理的な歯止めを持つと言うことが大事なことだと思う。感情的判断は、誤った判断であることが多いという認識を持たなければならない。それをどう育てるかと言うことがこれからの問題だ。社会的側面の解釈としては「ロールモデル」と言うことが重要であると思うが、個人的資質の問題としては、普通に冗談のように語られた言葉を、深刻に殺したいほどの恨みを伴うものとして受け取ってしまうと言う資質を考える必要があると思う。河合隼雄さんの本を読んでいたときに、「コンプレックス」という言葉に注目したことがあった。これは単に「劣等感」というイメージで解釈するのではなく、複雑な心理がからみついた心的イメージというふうに僕は受け取った。たとえば、自分自身の経験でも、ある種の言葉に関しては、必要以上に反応してしまうのを感じる。他人からみれば大したことのない問題でも、それを冗談として受け取れない心理状態を感じる言葉があるのだ。僕はその言葉を分析的に受け取ることが出来るので、感情に流されることはないけれど、そのように冷静になれないときは、その言葉から一気に「殺したいほどの感情」が生まれてくる可能性もあるかもしれない。それは他人には大したことではないけれど、自分には非常に深刻なことであるという特殊性を持っているからだ。事件の加害少女に、そういう面があったかどうかはまだ報道されていないので分からないが、本人が語る動機というものが、他人からみれば「殺したいほどの衝動」を感じることが難しいものが多い。特殊な「コンプレックス」に結びついた衝動があるのではないだろうか。特殊なコンプレックスなどは他人には分からない。それに気をつけて言葉を選ぼうとしても、失敗することがあるだろう。だから、問題は、そのようなコンプレックスに触れることがあったとしても、それが「殺したい衝動」に結びつかないようなメカニズムを社会的に確立することが必要ではないかと思う。それが心を傷つけることであるとしたら、正当にそれを主張できる手段を確立しなければならないし、誰もが納得できる正当な主張であれば、何らかの補償がされるような社会的制度も確立されなければならないだろう。そうすれば、恨みを晴らすために短絡的な行動に走ると言うことの歯止めにもなるのではないだろうか。暴力的な手段に訴えるというのは、それ以外に方法がなかったということを意味するものではないかと思う。それ以外の方法がたくさんあるのだと言うことを示すことも、社会が果たすべき責任の一つではないだろうか。社会を指導していく立場の人は、そのようなものを考えなければならないのではないかと思う。
2004.06.08
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内田さんの「寝ながら学べる構造主義」を買った。これは、図書館から借りて今まで読んでいたものだ。そして、昨日読み終えたのだが、この本を今日買ってきた。これはじっくりと読むに値すると思ったからだ。感想を書き込んだりして、何度も読み返すつもりになったので買ってきた。僕はある著者が気に入ると、その人の本を目にするとだいたい購入してしまう。最初は三浦つとむさんだった。三浦さんの本は、古本屋で見つけたりすると、持っているものでも買ってしまったりして、同じものを数冊持っている。その他、手に入る限りの著書を集めたのは、本多勝一さん・佐高信さん・河合隼雄さん・佐藤忠男さん・千葉敦子さん・板倉聖宣さんなどだった。その他にも、鎌田慧さんや、斉藤茂男さん、武谷三男さん、羽仁五郎さん、松下竜一さんなどの本もたくさん持っている。手に入る限りと言うほどのめり込まなかったけれど。最近たくさん購入しているのは宮台真司氏だ。姜尚中さんの本もずいぶん増えてきた。宮台氏とつながる人の本がこれから増えていきそうだ。そして、今回の内田さんの本もこれから増えていく本の中に入ってくるだろうと思っている。宮台氏を通じて知った人の中に、小熊英二氏がいる。僕は小熊さんの「<民主>と<愛国>」を何回も図書館で借りた。900ページ以上もある本なので全部読み切ったことは一度もなかった。だいたい300ページくらい読んだところで返さなければならなくなっていた。この本は6300円もするので買うのをためらっていたのだが、とうとう買ってしまった。買うに値すると判断したからだ。小熊さんの本もこれから増えていきそうだが、小熊さんの本は、他のものも分厚い高い本が多いので、買うときにためらいを振り払うのがなかなかたいへんだろうなと思う。でも、じっくりと読みたい本だと判断したら買うだろうと思う。内田さんの本が気に入ったのは、そこに書かれていることが実によく分かるし共感できるからだ。それでいて、かなり難しいことが書かれているので、これは何回も読み返さないとならないなと思う。しかも、何回も読み返せるほど面白さが伝わってくる本なのだ。難しいところを、「目から鱗が落ちる」ように解説しているところは、また紹介していきたいと思う。今日は、一通り読み終えたので「あとがき」の印象的な文章を紹介しておこう。次のところには、僕もそうだったよなという思いを共有できてとてもよく分かる。「私は「最新流行の思想のモード」にキャッチアップしようと必死になりましたが、構造主義の主著はどれも法外に難解でしたし、やむなく頼った日本語の解説書は、難しい概念をただ難しい訳語に置き換えただけのものでした。それらの書物が何を言おうとしているのか、二十歳の私には結局少しも分かりませんでした。」僕にとっては、今でも構造主義の本は難解だけれど、内田さんの本を読んだあとなら、どういう難解さなのかが見分けられそうな気がしてきた。そして、その難解さは、著者自身もよく分かっていない難解さなのか、本当に難しいことを記述しようとしている、本質的な難しさなのかが区別できそうな気がしてきた。それが区別できれば、よく分からないで記述している難解さの方は、それほど大した問題じゃないと思えるようになる。それは、その記述している対象を、僕自身が理解できたあとでは、その記述の間違いさえ僕に分かるようになるものだ。そういう見通しを内田さんが与えてくれたと言うことで、内田さんの文章で、僕は初めて構造主義が分かってきたと感じるようになった。そして次の指摘は実に含蓄のある言葉だと思う。「それから幾星霜。私も人並みに苦労を積み、「人として大事なこと」というのが何であるか、次第に分かってきました。そういう年回りになってから読み返してみると、あら不思議、かつては邪悪なまでに難解と思われた構造主義者たちの「言いたいこと」がすらすら分かるではありませんか。 レヴィ・ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「言葉遣いで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。「なんだ、「そういうこと」が言いたかったのか。」 別に哲学史の知識が増えたためでも、フランス語読解力がついたためでもありません。馬齢を重ねているうちに、人と仲良くすることの大切さも、言葉の難しさも、大人になることの必要性も、バカはほんとに困るよね、と言うことも痛切に思い知らされ、自ずと先賢の教えがしみじみ身にしみるようになったと言うだけのことです。」大人になってから学ぶことの大切さが、こんなところにあるのだなと僕は思う。若い頃は頭でっかちで、論理的なものならなんでも理解できるというような思いもあったけれど、それは全く空想的な理解に過ぎないのであって、年を取り、経験を積んで、ようやく実感として理解できるようになったのだなと思った。年の功というのはこういうものを指すのだろうと思う。そういえば三浦さんは、弁証法の神髄をことわざの中に見ていた。簡単な言葉遊びのように見えることわざの中に、深遠な真理である弁証法を見つけることの出来た三浦さんは、その本質を見ることの出来た人だったんだなと思う。構造主義をよく分かるように説明してくれた内田さんは、構造主義の本質を見ることの出来た人なんだなと僕は思う。内田さんは、構造主義の専門家ではないと自らを語っている。しかし、専門家というのは、細かい知識はたくさん知っているのかもしれないが、その本質を見ているかどうかは全く怪しいと僕は思う。むしろ、木を見て森を見ることの出来ない専門家の方が多いのではないだろうかとさえ感じる。末梢的な知識をたくさん持っている人間ほど、本質の説明が下手だというのは、ほとんど法則のように僕は感じる。僕は数学に関しては専門に勉強してきたが、それを説明するときに、僕は自分がものすごく下手な説明をしていることを感じている。それは、素人が知らなくてもいいような末梢的な知識にこだわった説明をしているように感じるときがしばしばなのだ。もっと本質をストレートに説いた説明が出来ないものかなと思う。公教育というのは専門家を育てる教育ではない。素人が学ぶに値する教養はどこまでなのかというのを追求する教育だと僕は思う。そういう発想に立ったときに、本当に大事なことに限定した本質的な知識を学ぶことが出来るのではないだろうか。内田さんの構造主義の解説を読んでいて、そんなことを思った。僕も、自分が素人である事柄についてこそ、何が本質なのかと言うことを追求していきたいと思う。そして、その追求をすることによって、自分の専門についても、専門家として重箱の隅をつつくようなつまらないことをすることなく、本当に面白いことを発見できるようなセンスを磨きたいと思う。公教育に携わる人間として、それは自分の資質を高めることになるのではないかと今は思っている。
2004.06.07
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内田さんの「寝ながら学べる構造主義」には、「目から鱗が落ちる」と言えるようなことを感じる文章が所々にある。次のような文章もそんな感じを受けるところだ。「自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばん根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。それは見たとおり、ヘーゲルとマルクスから20世紀の思考が継承したものなのです。」ここで語られているのは一つの人間観なのであるが、これは僕が三浦つとむさんから学んだものと全く同じだと思えるものだ。三浦さんは、自らをマルクス主義者と呼んでいて、むしろ構造主義に対しては批判的だった。しかし、こと人間観の根本に関しては、ほとんど同じ方から見ていることが分かる。細部では考え方の違いがあるのかもしれないが、根本の正しい部分では重なり合うというのは、どんなものの見方にも共通していることなのかもしれない。三浦さんはロビンソン・クルーソーの比喩を使って説明していたが、すでに人間として完成されたロビンソン・クルーソーのような者が、孤立した個人として関係を作るという発想を批判していた。ロビンソンは、孤立した生活を営む前に、すでに社会の中で育てられたからこそ人間として登場できるのだという見方を教えてくれた。孤立した人間が、社会と無関係に存在して関係を結ぶのではなく、社会の中で育てられた人間が、その社会の個性の中で関係を受け入れるというのが正しい人間観であると思う。内田さんが語っている「主体性」も、それが最初から人間の中にあったものではなく、行動によって育てられたものとしてとらえているような気がする。人間をどう見るかというのは、その社会の常識の一つとしてとらえられると思う。これが常識である限りでは、それが育てられたものだという見方をすることが難しいかもしれない。それは意識的に教育されなくても身に付くようなものだからだ。常識として、自らの国民性をどう見るかというものがあったとき、それが最初からあったものという、固定的なものとしてみるのではなく、時と場合と状況によって変わりうるものとして相対的に見るという見方が構造主義的なものだという記述も内田さんにはあった。これが構造主義だったら、僕は構造主義を受け入れていることになる。人質事件が起きたときに、「世間を騒がせたことに謝罪をするのは日本人として当然の常識」というような意見が聞かれた。これは、それぞれの国に異なった常識があるのだという点では、「日本人として」という意識を持つのはいいのだが、それが正しいことであると短絡的に考えるのは、構造主義的なとらえ方ではないような気がする。日本人はそう考えるかもしれないが、国や状況が違えばそう考えないこともある。だから、この場合は、そう考えることが正しいかどうか、状況をもっと深く考えるべきだ。ととらえるのが構造主義的なのではないだろうか。相対化せずに、固定的に物事をとらえれば、これは構造主義的ではないような気がする。日本ではまだ構造主義は克服されていないのではないだろうか。むしろ、もっと構造主義を徹底して、構造主義の限界を自覚する必要があるのではないだろうか。内田さんの言葉で「抑圧」というものを語った次の言葉も面白いもので印象に残った。「私たちは生きている限り、必ず「抑圧」のメカニズムのうちに巻き込まれています。そして、ある心的過程から組織的に眼を逸らしていることを「知らないこと」が、私たちの「個性」や「人格」の形成に決定的な影響を及ぼしています。 太郎冠者のタフで酷薄な性格は、実は彼の抑圧の効果なのです。だって、「太郎冠者が邪悪な人間であることを人々は知っている」という情報を太郎冠者自身が見落とし続けるという「構造的な無知」こそが太郎冠者の邪悪なキャラクターの成立を可能にしているからです。(当然ですよね、誰だって自分の邪悪な側面が「みんなに筒抜け」であると知っていたら、それを隠すか治すか、何とかしますから。) 私たちは自分を個性豊かな人間であって、独特の仕方でものを考えたり感じたりしているつもりでいますが、その意識活動の全プロセスには、「ある心的過程から構造的に眼を逸らし続けている」という抑圧のバイアスが常にかかっているのです。」太郎冠者は、狂言の「ぶす」に出てくる登場人物だが、本人の「悪い」と思われる性格は、本人だけが分かっていないという人間心理のメカニズムを「抑圧」という言葉で見事に説明していると僕は感じる。それは、本人が分かりたくないと思っているから、本人がどんなに優秀であろうともそれから眼をそらせてしまうのだ。それが「抑圧」というメカニズムだ。欠点を自覚することは難しい。そうじゃないかと思っていても、そうだと思いたくない気持ちが常に生まれる。このメカニズムを逆に、人を攻撃することに利用することも出来る。うすうす自分の欠点を感じ始めている人に、そのことをあからさまに指摘するようなことをすれば、それが大したことがないことでも、非常に大きなショックを受けるだろう。実際には、そういうことをあからさまに言うようなヤツの方が、人間としてはひどいヤツでいやなヤツなんだけれど、誰も味方がいない状態に追い込まれたりすると、自分が悪いような気がしてくる。今までは抑圧で守っていた自分の心を自分が傷つけていくような感じにもなってくる。このような心の傷を回復させるのはとても難しい。特に、まじめで善意に溢れている人ほど、深刻に傷を受ける。高遠さんなどは、おそらくそのような思いを、あのバッシングには感じたのではないだろうか。人間には誰にでも何らかの欠点があるが、それをカバーする長所も存在するから、普通なら欠点を「抑圧」していてもあまり深刻な影響はない。しかし、欠点だけが自分の個性のように感じてしまうと、生きていく気力もなくなってくるのではないかと思う。抑圧のメカニズムは、嫌われることの免疫性が薄いほどダメージが大きくなるのではないかとも思う。少しくらい嫌われても、それが普通の状態だと思える開き直りが出来る人は、抑圧も少なくてすむので、抑圧が少しはずれた状態でもダメージはあまり受けないだろう。しかし、嫌われたことがなかったり、嫌われることを極度に恐れるようなメンタリティを持っていると、抑圧がはずれたときの心のダメージに耐えることが出来なくなるのではないだろうか。僕は、自分が誰かに好かれているという確信が持てなかった若い日々を思い出すことがある。好かれているという確信が持てなかったので、人間は嫌われると言うことが普通の状態であって、好かれるというのはとても幸運なことなのだと思うようになった。嫌われることがあっても、それは何でもないことなのだと受け止めるように自分の心をコントロールするようになった。そういう開き直りの気持ちというのが、今の時代ほど必要になっている時代はないのではないだろうか。今の僕には妙な自信がある。僕が尊敬する人たちは、決して僕のことを嫌いにはならないだろうという自信だ。何しろ、尊敬するほどの人たちだから、論理の面でも、感覚の面でも正しい判断が出来る人たちだと思っている。それを理解している僕のことを、嫌いになる理由が見あたらないのだ。理由もなく人を嫌いになるような人を、僕は尊敬することが出来ないからだ。僕が尊敬する人は、師と仰ぐ三浦つとむさんを始め、板倉聖宣さん、本多勝一さん、佐高信さん、等々有名な人にもたくさんいるし、僕の身近にも、夜間中学一筋に生きたK先生などもいる。その人たちは、たとえ僕が理不尽にも彼らを嫌いになることがあっても、決して僕のことを嫌いになったりはしないだろうと信じられる。それくらい素晴らしい人だと思っている。夜間中学の生徒の中にも、そのように信じられる人がたくさんいるから、以前に書いた森さん(映画「こんばんは」監督)の感想のように、夜間中学に来ると心が癒されると感じたりするのだと思う。僕自身には欠点があるし、個性もあるから、それが気に入らない人からは嫌われるだろう。でもそれは、人間にはいろいろな感じ方をする人がいるんだという当たり前の事実を示すことであって、それほど大したことじゃない。長所を愛してくれる人もいるし、個性を好きになってくれる人もたくさんいると、今は信じられるようになった。今の若者たちは、自分は愛される価値があるのだろうかと心配している人もいるだろう。かつての僕もそうだった。でも、ちょっと長く生きて、人間というものの当たり前の姿が分かってきたら、それは心配いらないと言うことが分かるだろう。嫌われることがあると言うことは、逆にその個性を好きになってくれる人もいると言うことを表しているのだと言うことが分かる。寂しいのは、好きでも嫌いでもないという種類になってしまうことだ。嫌われるのは、かえって歓迎した方がいいとも思えるようになるだろう。嫌われることに慣れてしまえば、その気持ちをコントロールすることも出来るだろうし、抑圧のメカニズムもコントロールできるようになるのではないだろうか。
2004.06.06
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僕は、いくつかの本を並行して読み進めていることが多いが、今は高遠菜穂子さんの「愛してるって、どう言うの?」という本と、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」を中心にして読んでいる。この2冊は読み方において大いに違いがあるのを感じながら読んでいる。高遠さんの本は、理解できないと言う部分はほとんどない。知らないことは細部に渡るイメージを浮かべることは出来ないが、そこで何をし、何を感じたかと言うことは十分想像できる。論理的なつながりをたどらないと、何を言いたいのか分からないと言うことはほとんどない。その意味では理解しやすいと言える。こういう本を読むとき、僕の頭に浮かんでくるのは、そこに書かれている感覚に共感できるかどうかと言うことだ。前の日記にも書いたが、この本には共感できることが多い。だからこそ僕は高遠さんの活動は、尊敬できるものであって、高遠さん自身に対しても非常に敬意を感じている。たとえば共感する部分は次のようなところだ。「着いた。あの村に着いた。子供たちがいた。私のことを覚えているという仕草をする子供たちがいた。私たちは、大きな声で村人たちに挨拶をした。覚え立てのグジャラート語で歌と踊りを教え、同じ曲を日本語でも教えた。すると彼らはあっという間に覚えてしまった。新聞紙で作った特大の折り紙で“サムライキャップ”を作ると、収拾がつかないほどの大騒ぎになってしまった。大人たちも遠巻きに子供たちの様子をうかがっている。でも、私は確認したんだ。一人一人の顔を。みんなが笑っていることを。」上のような文章は、共感できない人にとっては、高遠さんの「自己満足」だというふうに受け取りたくなるだろうと思う。しかし、僕は高遠さんが「確認した」という感性にとても共感を覚える。高遠さんは、自分が専門的知識も技能もない素人ボランティアだと言うことを自覚している。だから、「効率」という面では役に立たないということも自覚している。だからこそ、自分に出来ることは何かと言うことに深い思いを感じている。その出来ることが、笑顔を感じることなのではないかと手探りでつかみ取っている、その感性に僕は共感する。この感性が、高遠さんのボランティア活動全部に行き渡っているように感じるので、僕は高遠さんの活動に敬意を感じるのだ。この感性は、僕自身の仕事にも通じるものだと思えるので共感を感じるのかもしれない。僕は数学を教えて生計を立てているのだが、その際に「効率的に教える」ことよりも、「喜びを感じて」学んでくれた方が、僕自身は嬉しいという感性を持っている。板倉さんは、「面白い」と言うことと「分かる」と言うこととの組み合わせで、授業の評価に次のような順位をつけた。1 面白くてよく分かる。2 よく分かるとは言えないけれど面白い。3 面白くなくてよく分からない。4 面白くないけれど、分かることは分かる。普通の人の常識から言うと、2から4の順位は違ってくるのではないだろうか。面白さにあまり価値をおかない人は、「分かる」方が価値が高いと見て、4を2番目に置きたくなるかもしれない。しかし、僕は板倉さんが言うように、面白くないのに、嫌々ながらも理解させられてしまうと言うところに、奴隷教育の匂いを感じてしまう。面白くないものは拒否することが主体性の表れだと僕なんかは思っている。だから、そんなものは理解させられたくないと思う。そういう感性だから、「面白くないけれど分かる」というものは4番目の最低の評価になってしまうわけだ。そして、「分からなくてもとにかく面白い」というものの評価が高くなる。高遠さんの感覚も、これに近いものを僕は感じる。効率的で、物質的な復興に役立つようなボランティアは、それなりに評価されてもいいだろうと思う。しかし、物質的には豊かになったけれど、心は少しも癒されないと言うような状態では、果たして「幸せ」を感じるだろうか。病気を防いでくれても、人間として扱われていると感じられず、家畜か物のように扱われていると感じたら、たとえ病気になって何も出来なくても、そばにいてただ手を握ってくれているだけの方が幸せだと、そう感じる感性を高遠さんも持っているような気がして、僕はそこに共感する。事実や思いを記述する文章は理解しやすい。そして、理解の後に共感できるかどうかで、その文章を読んだことの評価が生まれてくるのだろうと思う。僕は、高遠さんの文章を読んで、とても気持ちのいい時間を過ごすことが出来た。それは深い共感を覚えたからだ。一方で、内田さんの文章のように理論的な文章を読むときは、共感よりも理解の方を僕は求める。思いや事実をそれだけで受け取るのではなく、その間の論理的なつながりを「理解」するように努めて、それに納得がいったときに、共感する文章を読んだときと同じような気持ちの良さを味わうことが出来る。理論的な結論に対しては、感情的には必ずしも共感できないときもある。それでも、それが納得いくものであれば、その論理の整合性には、気持ちの良さや美しさを感じてしまう。感情が受け入れないから、論理を拒否するという感性は僕にはない。これは、論理に慣れていない人にはなかなか理解できない感性ではないかと思う。長崎での事件のようにセンセーショナルな事件が起きると、人権を巡って次のような「議論」が聞こえるときがある。加害者の人権ばかりが守られて、被害者の人権が守られていないんじゃないのか、というものだ。これは、感情的に、加害者に対する非難の気持ちがあるため、加害者の人権が多少侵害されても「自業自得」ではないかという思いがあるのではないだろうか。しかし、人権というのは、どのような立場にいるものであろうとも守られなければならない最低線というものがあるというのが論理的には正しいと僕は思っている。だから、たとえ加害者であろうとも、その最低線はどのような感情的な憤激があろうとも守らなければならない。被害者は、命を奪われることですでに人権を侵害されている。しかし、これは元に戻すことが出来ない侵害だ。だから、加害者は、それにふさわしい罰を受けることで、この人権侵害を埋め合わせなければならないだろう。これからの人権侵害が起こる可能性に対して、それを出来るだけ防ぐと言うことが大事なので、表面的には加害者の方が守られて、被害者がないがしろにされているというふうに受け取りたくなるが、守るべき人権の内容が違うので、対処の仕方が違うというのが僕の受け取り方だ。被害者に対しては、事件と関係のないプライバシーの暴露や、たとえ事件と関わりがあろうとも、今の時点で一般に知らせる必要がないものは、その暴露に対して制限を加えると言うことが被害者の人権を守ることになるのではないだろうか。のぞき見的関心を満足させるために「表現の自由」というものがあるのではない。内田さんの本から、感情と論理の問題として考えるのに面白い文章が見つかったので、最後にそこを引用しておこう。「ブルジョワとプロレタリアは単に生産手段を持っているか否かという外形的な違いで区別されるだけでなく、その生活のあり方や人間観や世界の見え方そのもを異にしています。 人間の中心に「人間そのもの」--普遍的人間性--と言うものが宿っているとすれば、それはその人がどんな身分に生まれようと、どんな社会的立場にいようと、男であろうと女であろうと、大人であろうと子供であろうと、変わることはないはずです。マルクスはそのような伝統的な人間観を退けました。人間の個別性を形作るのは、その人が「何ものか」ではなく、「何事をなすか」によって決定される、マルクスはそう考えました。「何ものであるか」というのは、「存在する」ことに軸足を置いた人間の見方であり、「何事をなすか」というのは、「行動すること」に軸足を置いた人間の見方である、と言うふうに言い換えることが出来るかもしれません。」ブルジョワとプロレタリアというのは、ある意味ではレッテル貼りのように見える。たとえブルジョワであろうとも、ヒューマニズムに溢れた立派な人はいるだろうと思う。個人としてはそうだ。しかし、個人に対して、そのようなレッテル貼りが間違っているとしても、ブルジョワという抽象的な存在に関しては、一般論としては上のようなマルクスの見方が成立することは論理的に納得できる。また逆に言うと、マルクスは「何事をなすか」にその個人の評価についても重さを置いていると考えられるので、たとえブルジョワに生まれても、何をして生きてきたかでヒューマニストであるかどうかが違ってくるとも言える。僕は24年間公立学校の教員をしてきている。公立学校の教員は、基本的に法律を守って仕事をするわけだから、国家権力が目指す教育の方向に沿って仕事をすることが基本となる。だから、一般論としてその存在を考えれば、ちょっと言葉はきついが「国家権力の手先」であるという存在になるだろうと思う。それがいやならやめるしかない。僕はやめたくはないので、「国家権力の手先」として振る舞わなければならない場面では、そのように振る舞う。これは不本意ではあるけれど、仕方のないこととして受け入れている。しかし、必ずしも「国家権力の手先」として振る舞う必要がない場面では、高遠さんのように相手の笑顔が見たいという思いで、「何事をなすか」と言うことを考えて行動する。そして、その行動によって、存在が規定してくる意識を無批判に受け入れないように注意している。善意に溢れた人は、自らの存在が「国家権力の手先」であると言うことに感情的に耐えられないという思いが生まれる。しかし、存在の基盤が「国家権力の手先」というものを規定してくるのであるから、それを観念の世界で否定しても、その矛盾はいつまでもついて回る。その時は、たとえ存在の一部でマイナスイメージである「国家権力の手先」というものを受け入れても、それが自分の存在のすべてではないという自覚をすれば、自尊心を守ることはできると思う。僕はそんな風にして、感情の問題と論理の問題に折り合いをつけている。現実は矛盾に溢れた世界だ。純粋にきれいな生き方ができるとは思わない。表面的にどこかが汚れていようとも、本質が汚れていなければ、誇りある生き方ができると思う。それを「自己満足」と呼ぶ人もいるだろうが、そうでない感性を持っている人と共感できたら、その共感を大事にして僕は生きていきたいと思う。感性の近い人の文章は、最初から共感できる場合が多いけれど、たとえ感性に違いがあっても、論理的に整合性がとれている文章を書く人には、あとから共感できる人が多いなと思う。
2004.06.05
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構造主義を理解すると言うことは、僕にとっては「構造」を理解すると言うことだった。これは、実存主義を理解することが「実存」を理解することであり、マルクス主義を理解することは「マルクス」を理解することだったのと同じような感じだった。「実存」と「マルクス」に関しては、ある意味でそれを理解したと思っているけれど、「構造」の場合は、僕が理解した「構造」が、必ずしも構造主義で言われている「構造」と重ならないことが、構造主義を難しいものだと感じてしまうところだった。「マルクス」の理解も、ちまたで言われている「反マルクス主義」が理解しているような「マルクス」と僕の理解は全く違う。しかし、これは「反マルクス主義」が唱えているマルクスの理解が浅はかで間違っていると思っているので、これが違っていてもそれほど気にならない。もっとも、大多数を占める多数派の「マルクス主義者」が理解する「マルクス」の理解とも、僕の理解は違うように感じる。「マルクス」の理解だって難しいには違いなのだが、これは三浦つとむさんという素晴らしい導き手がいたので、難しいことを単純化して、自分が理解したがっている「マルクス」の像を作らずに、現実の「マルクス」にかなり近い像を受け取れたと思っている。ちなみに、三浦さんは、多数派の「マルクス主義」のことを、「官許マルクス主義」と呼んで厳しく批判していた。これに比べ、構造主義の「構造」に関しては、構造主義者ごとにどうも違う「構造」を感じてしまうし、どれが正しくて、どれが間違っているという受け取り方も出来ずにいた。僕にとって「構造」のイメージの基礎にあるのは「数学的構造」であり、構造主義と呼ばれているのは、「構造」に注目するからこそ構造主義なのだろうと受け取っていた。しかし、構造のとらえ方が、構造主義者ごとに違うのであれば、構造主義というのは一つのまとまった「主義」と呼ばれるような考え方ではなく、それぞれが正しいと思ったことを勝手に主張しているだけなのではないかとも思える。構造主義と呼んでいるのは、それが今の流行だと言うことを宣言しているだけだろうかと感じてしまった。そして、構造主義を理解できないままに、構造主義というブームはさってしまい、今はポスト構造主義などと呼ばれるようになってしまった。内田さんの「寝ながら学べる構造主義」は、「構造」というもののイメージをまだはっきりさせてはくれないけれど、「構造主義」というもののイメージがつかめそうな記述を見つけた。「構造」と「構造主義」という言葉は切り離して理解した方がいいのではないかという気がしてきたのだ。「実存」と「実存主義」、「マルクス」と「マルクス主義」は切り離せない概念として理解するべきだと思うが、「構造」と「構造主義」はその関係とは違うのではないかという気がしてきた。内田さんは、我々が「構造主義」を理解していなくても、我々の時代には、「構造主義」の考えが常識として深く浸透していると語っている。だから、我々が当たり前だと考えていることを反省すれば、そこに「構造主義」というものが浮かび上がってくると言う。次の言葉が心に残った。「戦争や内乱や権力闘争について、コメントするときに、一方的にものを見てはいけない。なぜなら、アフガンの戦争について「アメリカ人から見える景色」と「アフガン人から見える景色」は全く別のものだからだ、と言うことは私たちにとって、今や「常識」です。 しかし、この常識は実はたいへん「若い常識」なのです。 このような考え方をする人はもちろん19世紀にもいましたし、17世紀のヨーロッパにもいました。さかのぼれば、遠く古代ギリシャにもいました。しかし、そういうふうに考える人は驚くほど少数でした。そのような考え方をする人、あるいはそのような考え方を受け入れられる人が国民の半数以上に達して、「常識」になったのは、ほんのこの20年のことです。」確かに、上のようなものの見方・考え方は、僕の中でもほぼ「常識」になっている。と言うことは、僕も「構造主義者」だったと言うことなのだろうか。意識していなかったが、このような考えの中で生活していたのだろうか。問題は、上のような考え方を論理的に正当なものと理解していただけで、これを「構造主義」とは呼んでいなかったということなのだろうか。「構造」に注目した結果として、どちらの見方も対等に正当性を持っているのであって、どちらか一方が正しくて、もう一方が間違っているとか、一方が他方に優位していると言うことはないのだと受け取れるのだろうか。もしそうであるのなら、このようなものの見方・考え方を「構造主義」と呼ぶのは理由のあることなのかなと思った。レヴィ・ストロースは、その当時未開で遅れていたといわれていた民族の習慣やその習慣を育てたものの考え方を、西洋的な観点で「未開」という評価をすることに異議を唱えたような気がする。それを比較するのではなく、一つの歴史として合理的に理解できるという方向を指し示したのがレヴィ・ストロースの業績だったような気もする。それが「構造主義」と呼ばれたのは、表面的な現象の違いを超えた、「構造」という普遍的な面の分析によって、表面的な具体像の現れの違いを単純な基準で評価せずにすんだから「構造主義」と呼ばれたのだろうか。このように考えると、表面的なセンセーショナルな事実に驚かされずに、その「構造」の部分にまで考えを及ぼして、難しいものを「構造の違う」単純さに解消してはいけないという注意を促すのが、実は「構造主義」というものではないだろうかという考えが浮かんできた。それならば、構造主義はまだ終わったのではなく、今でもかなり有効な考え方の一つになるのではないかと思えてきた。内田さんは、実に論理明快に構造主義について語っている。「私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。 私たちは自分では判断や行動の「自立的な主体」であると信じているけれども、実はその自由や自立性はかなり限定的なものである、と言う事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法なのです。」これを読んで、僕は初めて「構造主義」というものの全体像がつかめたと思った。期待通りの成果が出たと思った。やはり内田さんは僕の好みに合う人だった。ただ上の考え方は、構造主義に特有の、構造主義だけが持っている個性だとは思わない。マルクスが残した「存在は意識を決定する」という言葉の中にも、上のような考え方の基本的な発想は含まれている。だからこそ「構造主義」の姿が今まではつかめなかったのだろうと思う。ことさらそれを「構造主義」だと意識する必要がなかったからだ。「構造主義」というものを正しくとらえて説明してくれれば、それは常識を深く掘り下げたものだから、実はとてもわかりやすいはずだ。内田さんはそのように説明してくれた。他の説明がひどくわかりにくかったのは、実は説明者自身もその本質をよく理解していなかったからではないかと思う。よく理解していない人間が説明すれば、難しい用語をちりばめた知識だけを伝える説明になってしまうか、理解できなところを切り捨てて、単純化できることだけを説明するような間違った説明になってしまうだろう。「構造主義」の理解の際の上のよう問題は、あらゆる「難しいことの理解」に起こってくる問題ではないかと思う。難しいことを、わけの分からない難しい用語を当てはめて説明した気になってはいけないし、単純化して見当違いの理解をしてもいけない。長崎の事件の少女に対して、わけの分からない病名をつけたり、障害名をつけたりして理解したつもりになってはいけないだろう。それは、あの少女が理解できないのは、元々少女がわけの分からない存在だったと説明するようなものだ。これは何の説明にもなっていない。そして、ワイドショーがやっているような、「テレビドラマを見たから犯行が行われた」などと言うような単純な理解もしてはいけない。テレビドラマを見ていた少女はもっとたくさんいただろうが、あの少女がなぜ、信じられないような犯罪を行ったかと言うことの合理的な理解をすることが必要なのだ。それはすぐに分かることではない。それは、構造を深く分析することによって理解されるのではないだろうか。構造主義はまだ有効性を持っていると、僕には思えるようになった。
2004.06.04
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長崎で起こった痛ましい事件について日記を書いている人がたくさんいる。それは、誰もが驚き、信じられないという感想を持ったからだろう。僕自身も、事件の本質をほとんど理解していない。何が起こったかという断片的な知識はいろいろとあるのだが、この事件が持っている、現代社会での「意味」というものがほとんど分かっていない。それは、知識を積み重ねていけば分かることなのだろうか。知識に関してはいろいろと見つけることが出来る。たとえば、「<小6同級生殺害>「4日前に殺すつもりだった」と供述」という記事は、次のような知識を与えてくれる。「関係者によると事件の10日ほど前、女児が髪を切っており、髪形などについて、インターネットの掲示板に書き込みがあったという。県警の調べに女児は「仲良しだったけど、インターネットの掲示板に(怜美さんに)嫌なことを何度か書き込まれ、腹が立った。殺すつもりだった」と供述。実際に事件が起きた1日の4日前にも殺害を実行しようとしていたとみられる。また女児が自分のホームページ(HP)に同級生への激しい憤りなどをつづっていたことも分かった。」この知識を得て、「ああ、悪口を言われて腹を立てて、その結果として事件が起こったんだな」と理解する人はいるだろうか。もしそういう単純な理解をする人がいたら、その考えの浅さに僕は驚いてしまうだろう。この程度の悪口を言われて殺意を抱くなどという感情の変化を、自ら追体験できる人はいるだろうか。その追体験が出来ないから、多くの人は驚き、理解を超えたことと感じているのではないだろうか。殺意を抱くほどの激烈な感情を抱く原因となるものは、なるほど確かにそうだと思えるようなものでなければ追体験できない。もし、追体験できないような原因で加害少女が殺意を抱いたのなら、その少女の特殊性をこそ理解しなければ、この事件を理解したことにはならないだろう。上の記事は、多くの事実の中の一つにすぎないものだ。そういうこともあっただろうが、その事実を正しくこの事件に位置づけて解釈するには、この全体像を見渡すことが出来るような重要な事実がまだ知られていないと僕は思う。センセーショナルな事実を一つ取り上げて、それでこの事件を理解したと思ってはいけないのだろうと僕は思っている。この事件を理解するためには、非常に多くの事実を知る必要があると思う。それは、事件にかかわった人間のプライバシーに踏み込むことになるだろう。しかし、事件の理解のためにはどうしてもそれが必要になると思う。だから、プライバシーの暴露も許されると言うことを僕は主張したいのではない。その逆だ。今の段階でプライバシーが暴露されれば、それは興味本位ののぞき的関心での暴露になってしまうに違いない。事件の本質を理解したいという崇高な願いとはほど遠いことになってしまうだろう。だから、今の時点では、僕はこの事件に対しては、プライバシーの暴露を拒否し、理解できないという思いを持ち続けることが大事だと思う。理解するのは簡単なことではないのだから、今の時点で理解できなくても仕方がないのだと、理解できないことの不安を持ち続けることが大事だと思う。それがいやだから、すっきりと分かってしまいたいからと言って、単純な理解をもたらす知識にすがりついてはいけないと思う。それは、実りのないのぞき趣味的関心からの知識を求めるだけだと思う。のぞき趣味の人間は、今はこの事件に対する関心が深いだろうが、そういう人間は時間がたてばすぐに飽きてしまう。そういう人間が飽きて、この事件から離れていって、プライバシーの暴露がのぞきではない状況になってから、この事件は改めて解明されるべきだと思う。本多勝一さんは、かつてセンセーショナルな、家庭内暴力による殺人事件を追いかけた「子供たちの復讐」というルポを書いた。これは、事件当事者の生い立ちや家庭環境など、かなりプライバシーの深い領域にまで踏み込んだルポだった。しかし、これは事件が起きてからかなりの年月がたってから書かれたので、興味本位の関心はかなり排除されていたと思う。そのような状況になってから、信頼のおけるジャーナリストに、しっかりした取材のもとに、この事件を取り上げてもらいたいと思うものだ。本多さんは、あのセンセーショナルな事件が、特殊な、変わった資質を持った少年の事件だという見方を否定し、少年が体現したゆがみこそが、現代社会が持っているゆがみを象徴的に表したものだと言うことをルポで証明していたと僕は思った。長崎の加害少女も、現代社会のゆがみを、彼女の行為で我々に知らせているのではないかと僕は感じている。それは、長く地道な取材活動からしか見えてこないだろう。単に耳目を集めることが目的の、今のニュースが流れている状況では、そういう深い分析はきっとできないだろうと思っている。今の時点でも、この事件の解釈にとって重要だと思われる指摘もいくつかある。一つは、「山陰中央新報社説」の中の次の記述だ。「他者への信頼感をベースに持てない子どもたちは、他者との距離をうまく測れず、孤立しがちだ。普通ならささいなこととみえる葛藤(かっとう)も、普段から追い詰められている心境にある子どもには、生存を脅かされるに等しいと感じることがある。」これは一般論として語られているが、納得の出来る論理だ。この一般論に合致する事実が果たして加害少女の方にあったのかどうか、事件を客観的に眺めるような冷静さが関係者に訪れたとき、このようなことが解明されれば、事件を理解する一歩が進められることになるのではないだろうか。「こうした事件が起こるたびに、教育関係者からは、命の教育の大切さが強調されるが、言葉による命の教育には限界がある。 子どもは、例えばイラクをめぐるニュースなどで掛け替えのない多くの命が日々、失われていることも知っている。命は限りなく軽く見える。言葉で命の重さを伝えるのはまさに至難の業だが、それでも命の尊さを訴える教育は粘り強く続けなければならない。」と言う指摘も頷けるものだ。次のニュースを読むと、「兵庫県教委は三日、長崎県佐世保市の小学校で女児が同級生に切られて死亡した事件を受け、「生命を大切にする心の育成」などを求める通知を、すべての公立学校と幼稚園に出した。」(「命貴ぶ心育成を 佐世保事件受け兵庫県教委通知」)行政の側は、通知を出せば「生命を大切にする心の育成」ができると思っているようだが、これはそのように願えば出来ると言うほど簡単なものではない。山陰中央新報の社説が指摘するように、「言葉による命の教育には限界がある」のである。その限界を自覚して、通知を出しているのかどうかが問題だ。社説が指摘するように、イラクで簡単に人が死んでいる状況が、深刻に扱われない日本という国の姿を見て、言葉による命の重さを教えることの欺瞞性を子供たちは見抜いているのではないかと思える。命を大切にする教育ではなく、マスコミでは命の軽さを教える教育をしているのではないだろうか。そうであれば、加害少女のような感性を知ると言うことは、現代社会を知ることにもなるのではないだろうか。山陰中央新報社説の次の指摘も、含蓄のある言葉としてかみしめたいものだ。「さまざまな事件を起こした少年たちに底流で共通しているのは、自分は孤立し、愛される価値がないと思い込む自己否定の感情の強さだ。自分を愛せない人間に他者を思いやれといっても無理がある。自分の価値を知らなければ、他者の価値も分からない。ましてや他者の命に思いは向きようもない。 自らを傷つけることと他人を害することは紙一重だ。自己否定的な感情にとらわれて、自分の価値にも、他者の価値にも思いが至らない状況がまん延している。」僕も、今の若者たちが、人に嫌われているんじゃないかということに過剰反応しすぎることが気になっている。嫌われたってかまわないじゃないかと思うのだ。すべての人に好きになってもらおうなんてことが無理なことであるし、だいたい自分自身が、好きな人と嫌いな人を持っているんじゃないだろうか。自分が嫌いだと思っている人に愛されると言うことはあまりない。だから、嫌いな人がいると言うことは、愛されないと言うことでもあるけれど、それが普通のことなんだから仕方がないじゃないかと開き直った方がいいのだと思う。ただ、好きとか嫌いとか言う感情は、100%に染まる感情ではないと言うことを知っていればいいと思うのだ。80%嫌いだという人でも、残りの20%は好きになれるのだと思えばいい。だから、自分だって100%嫌われるというようなことはあり得ないはずなのだ。ただ、親は自分の子供は99%好きになってもらいたいと思う。1%くらいは嫌いになってもいいけれど、親だったら、99%くらいは自分の子供を好きになって欲しい。子供には、そういう人間が一人は必要だと思う。「沖縄タイムス社説」でも、「子どもたちの荒れる心の背後に、メディアを通じリアルタイムで茶の間に届くイラク戦争や世界各地のテロ事件の影響もあるのではないか」という主張が見られる。これはぜひ検証しなければならないことだろうと思う。社会の矛盾が子供に反映していると言うことが言えるのかどうか。大人は、それに気をつけなければならないだろう。子供の問題は、大人の問題を見る鏡なのだ。難しい問題は単純な理解をすべきでないと僕は思う。どこまでも理解できないと言う引っかかりを持たなければならないと思う。その引っかかりを失い、単純な理解を受け入れてしまったら、世界の正しい反映が出来なくなってしまうだろう。世界を正しく反映していなければ、そこから得られる指針も間違うに違いない。未来の正しい方向を見つけるためにも、難しさをかみしめて受け止めていきたいと思う。そして本質的な構造を理解したときに、初めて難しさの糸がほぐれて難しさの幕で覆われていた本質の持つ単純さを理解することが出来るようになるだろう。僕は、構造主義の難しさの曇りがどうしても晴れなかったけれど、昨日の日記で書いた内田さんの「寝ながら学べる構造主義」という本によって、その難しさを難しいままで納得できるような気がしている。その方法に学んで、この事件の難しさを抱き続けたいと思っている。
2004.06.03
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東京犬さんの04月27日(火)の日記の「 『「おじさん」的思考』『期間限定の思想』/5%の邂逅」で紹介されている内田樹さんにちょっと興味がわいたので、図書館で表題の本を借りてみた。僕は、新しい人に出会うのは、人を介して発見することが多いのだが、好みに合うかどうかは、最初の文章を読んだときにほぼ直感的に感じる。内田さんの次の言葉は、その直感を感じさせてくれるに充分なものだった。内田さんは、まず入門者のために書かれた解説書の方が、専門家のために書かれたものよりも面白い場合が多いということを語る。そして、「そこには、「周知のように」とか「言うまでもないことだが」とか「なるほど……ではあるが」というようなことばかり書いてあり、読む方としては「何が『なるほど』だ」と、次第に怒りがこみ上げてきます。しかし、この怒りはゆえなきものではありません。私たちが苛立つのは、そこで「何か本質的なもの」が問われぬままにそらされていると感じるからです。」と、書いている。僕には、この感覚がよく分かる。本質を語らないものはつまらないし、実際によく分からない場合が多い。入門書なのに、すでにそれを知っている人間にしか分からないような入門書に出会うと、著者の頭の悪さを感じるだけだ。仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんも、子供のための科学読み物の中に本当の名著があると言っていたのを思い出すし、数学教育に半生を捧げた遠山啓先生も、子供のために本当にわかりやすい数学を創造するところに数学の本質が見えると語っていた。表面的に「易しい」ことを単純に話すだけでは入門者には分からない。本当にその本質をとらえて、構造を正しく反映した比喩表現を工夫することで、初めて入門者にも分かる話し方ができるのだと思う。僕が尊敬する哲学者の三浦つとむさんは、まさに弁証法というものに対して、そのような本質をわかりやすくとらえた話し方をしていたと感じたものだ。この文章だけでも、僕はこの人がすっかり気に入ってしまった。そして読み進むにつれて、三浦さんや、板倉さんや、佐高さんや、宮台さんなどに感じた共感を感じるようになった。次の文章も、実に共感するところを感じるものだ。「良い入門書は、まず最初に「私たちは何を知らないのか」を問います。「私たちはなぜそのことを知らないままで今日まで済ませてこられたのか」を問います。 これは実にラディカルな問いかけです。 なぜ、私たちはあることを「知らない」のでしょう?なぜ今日までそれを「知らずに」来たのでしょう。単に面倒くさかっただけなのでしょうか? それは違います。私たちがあることを知らない理由はたいていの場合一つしかありません。「知りたくない」からです。 より厳密に言えば「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からです。 無知というのは単なる知識の欠如ではありません。「知らずにいたい」というひたむきな努力の成果です。無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。」これは、実に含蓄のある言葉であり、深い真理を語っている。まさにその通りと思えるイメージがわいてくるので、大いなる共感を感じる。この考え方を今回の人質事件に適用すると、実にうまく解釈できるので、この見方の慧眼さを大いに感じたりする。人質事件でのバッシングは、特に高遠さんに対するものがひどかった。それは、女性であると言うことが一つの理由であろうと指摘する人がたくさんいたが、高遠さんをバッシングする人は、高遠さんのことについての無知ぶりを暴露する人が多かった。ちょっと調べれば分かるようなことでも、それを調べもせず、誰かが言っていることをそのまま鵜呑みにしてバッシングの理由としているようなものが多いように思う。だいたい態度が悪いとか、政府を批判しているとか、反体制的であるとか言うことは、それだけで批判されるべき理由でもなんでもないのに、事実を検証もせず、そう言われているからというだけでそれに乗ってバッシングする人が多かったように思う。反論するにも値しない悪口雑言ばかりだった。高遠さんのボランティア活動を指して、大したことではないとか、自己満足だとか言うこともいわれていたようだ。しかし、そのようなことをいう人間で、高遠さんの活動を具体的に指摘して、そのどこが「大したことない」のか、どこが「自己満足」なのかを語った人を見たことがない。具体的な指摘をだれもしないのだ。それは、おそらく無知からくるもので、指摘しようにも、それを知らないから指摘できないのだろうと思う。それでは、なぜ無知なまま悪口雑言だけを投げつけるのか。それは無知でいたいからだ、と言うのが内田さんの考え方であり、僕が共感するところだ。よく調べれば、そのすべてとは言わないまでも、かなりの部分で評価が出来るものを発見できるはずだ。それは、立花隆氏が第三者的に眺めた目で評価していることを見れば分かる。それを知ってしまったら、悪口雑言を投げつけることが出来なくなる。悪口雑言を言うためには無知でなければならないのだ。知りたくない理由を知りたくないという心のメカニズムも、宮台真司氏が指摘していたことが当たっているだろうと思う。それは、高遠さんが尊敬されるべき活動をしていることを知ってしまうと、自分が何もしていないことが鮮やかに自分に分かってしまうからだ。何もしていないことによる負い目というか、劣っているという感覚を知ってしまうことを避けたいために、無知でいることを選んでいるという解釈だ。実際には、高遠さんを尊敬しても、自分を卑下しないだけの自尊心を持っていれば、無知にとどまる必要はないのだが、脆弱な自尊心によって、高遠さんを尊敬する気持ちを自分に対する卑下の気持ちにつなげてしまうのだろう。それで、尊敬したくないという気持ちから、無知による高遠さんのイメージを作り上げると言うことになると、僕は解釈している。内田さんの次の言葉も、いろいろな想像を書き立ててくれる言葉だ。「入門書は専門書よりも「根元的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書が面白い」のは、そのような「誰も答を知らない問い」を巡って思考し、その問いの下に繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性が自らに課す一番大切な仕事は、実は、「答を出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーライを引くこと」なのです。」まさにその通りだと感じる。そして、これは今までそういうすぐれた入門書をいくつか読んできたから、これほどはっきりとこの言葉を認めることができるんだなと思う。まえがきの部分を抜粋しただけでも、これだけ面白くわくわくするような言葉に満ちている本だ。まだ最初の方を少しだけしか読んでいないが、僕はこの本で初めて「構造主義」というものの全体像がつかめるような気がしている。三浦さんが、弁証法というものの全体像をつかむ地図を示してくれたように、内田さんは、「構造主義」というものの全体像をつかむ地図を示してくれるような気がしている。僕は、今まで構造主義を説明するような本をいくつか読んできたけれど、その全体像をつかめたと思ったことがない。数学的な「構造」の考え方は分かるけれど、「構造主義」というもののとらえ方は、それとイコールではないような気がしていた。内田さんの、この本で僕はようやく「構造主義」に出会えそうな気がしている。この本を読み終えたら、今度は「構造主義」そのものについての感想を書いてみよう。
2004.06.02
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「「米国はより安全に」 米大統領、戦果強調」というニュースの中で、ブッシュ大統領が「米国はより安全となり、2つのテロ体制が永遠に消えた」と語ったと伝えている。そして、「大統領はまた「5000万人以上がいまや自由の中で生きている」と述べ、2つの戦争が「解放戦争」でもあったと指摘した」とも伝えている。ところが一方では、「イラク戦争では既に800人以上、アフガニスタンでも120人以上の米軍死者が出ており、負傷者も合わせて5000人近くになった。同日付のワシントン・ポスト紙は、米軍の死傷者数でみると、イラク戦争はスペインとの米西戦争(1898年)を上回ったと報じた。」とも書かれている。アメリカが、アフガニスタンとイラクを攻撃し、そこで戦争をしたと言うことは事実として誰もが認めることだ。これがなかったという人はいない。しかし、その戦争の結果として、・米国はより安全となった。・2つのテロ体制が永遠に消えた。・2つの戦争が「解放戦争」でもあった。というのは、事実の解釈であって、誰もが賛成するとは限らない。反対する人もいるし、反対まではしなくとも賛成をためらったり、疑問を感じる人もいるだろう。事実であれば誰もがそれを確認できるが、その解釈は、立場がかかわってきたり、間違って受け止めていたりするところがあれば、異論があって当然ということになる。ブッシュ大統領が、上の解釈を本気で信じていたのか、そう言わなければまずい立場にいるので、間違っていると分かっていてもあえてそう述べたのかは分からない。しかし、こう述べると言うことは、イラク戦争に対する反対の声が大きかったにもかかわらず、あえてそれに踏み切ったと言うことの理由が、このような判断にあるだろうという、これも「解釈」が出来る。このように考えることが出来れば、コスト的に見合わないのだという経済的理由で戦争を避けるという意見を無視することが出来る。ブッシュ大統領と違うもう一方のこの戦争の解釈は、報道の次の事実から導かれる、・イラク戦争では既に800人以上、アフガニスタンでも120人以上の米軍死者が出ている。・負傷者も合わせて5000人近くになった。・米軍の死傷者数でみると、イラク戦争はスペインとの米西戦争(1898年)を上回った。米国が「より安全になった」という時の「より」というのは、何と比べて「より」と判断するのだろうか。この戦死者と負傷者の数は、米西戦争と比べると「より安全」とは言えない数字らしい。ここには戦死者の数しか出ていないが、イラクでの治安状況やアメリカでの最近のテロ警戒状況を見ると、「2つのテロ体制が永遠に消えた」という解釈も怪しいのではないかとも感じる。アルカイダという組織は未だに健在だし、その象徴的なリーダーとしてのビンラディン氏もどうやら健在のようだ。これまではテロの標的にならなかった日本も、これからはテロへの警戒を半永久的に行わなければならなくなっている。「2つのテロ体制が永遠に消えた」のなら、どうしてこのような警戒をし続けなければならないのだろうか。「2つの戦争が「解放戦争」でもあった」のなら、なぜイラクの人たちに歓迎されないのだろうか。イラクで反米活動をしている人々は、一部の「テロリスト」と、旧政権の残存勢力だけだという解釈もあるが、一般のイラク人が「解放戦争」であることを歓迎しているような事実はほとんど報道されていないのではないだろうか。アブグレイブ刑務所での虐待事件などを見ると、むしろ「解放戦争」を否定するような報道の方を見ることが出来る。ブッシュ大統領の演説が、どれだけ事実に言及し、事実から導かれた解釈を語っているかは分からないが、報道ではどのような事実に基づいてこの解釈を持ったのかは書かれていない。報道というのが、何が語られたかを抜粋して伝えるものなので、この解釈を伝えることが重要だと判断したから、解釈のもとになった事実は報道されなかったのかもしれないし、事実については何も語られなかったのでその報道もなかったのかもしれない。どちらか確かめられればよいのだけれど、もし事実を語らずに解釈だけを語ったのなら、それだけで僕はこの解釈を信用できないものだと思う。本多勝一さんは、ジャーナリストの方法として、解釈を語らず事実の連鎖で、自分と同じような解釈に到達するような文章を書くことに努めたような気がする。解釈を書くことは、かえってルポの効果を薄めるというようなことも語っていた。これは、やや手法が違うと思われるような神保哲生氏も、同じような発想を持っているような気がした。解釈・解説というものは、事実を受け止めるために参考にするものではあるけれど、もっとも大事なものは事実であると言うことは、ジャーナリストに共通する感覚なのではないだろうか。解釈というのは、立場によっては正反対のものになりうる場合がある。「満員バス、乗ってしまえばもう押すな」というような、ことわざのような表現がある。これは、満員バスを待っている、停留所の乗客の立場からすれば、バスの中はまだ空いているように見える(解釈できる)ので、「もう少し中に詰めてくれないかな」というふうに思う。しかし、いったん待っている立場からバスの中の乗客に立場が変わると、「もう押さないで、これ以上は入れないよ」と思いたくなる。「もう少し入れる」という解釈と、「もう入れない」という解釈は正反対のものだが、どちらの解釈も、それぞれの立場からすれば、そのような解釈が生まれてくるのはかなり理解できることだろうと思う。どちらかが絶対的に正しいと言うことはない。どちらの解釈も、その立場に立てば正しいのである。解釈には、そういう側面があると言うことを忘れてはならないだろう。満員バスのたとえなら、問題がそれほどデリケートではなく単純なので、立場の違いによる解釈も、冷静に判断できる。しかし、思想・信条にかかわったり、かなり重大な利害にかかわったりするようなデリケートな問題での解釈は、なかなか立場の違いによるものだとは理解できないことが多い。もう一方の立場が間違っていて、自分の立場が正しいのだと思いたくなる気持ちが生まれてくる。第三者の立場に立つことが難しくなってしまうのだ。イラク戦争の様々な問題、自衛隊の派遣など、それから日朝国交正常化の問題、拉致問題など、あるいは過去の戦争に関する諸問題、それは南京「大虐殺」が、「大虐殺」であるかどうかの解釈の問題などを生じているが、このようなデリケートな問題では、どちらかの立場からの発言しか見あたらず、なかなか第三者的な見方というものが難しい。しかし、解釈に過ぎないことは、すべて正しいかどうかを確定することは出来ない。事実としてあったかなかったかを確定することは出来るが、それが一つの解釈に決まると言うことは、論理としてあり得ないだろう。南京「大虐殺」は、そこでどれくらいの中国の人々が殺されたかを事実として確かめることはある程度可能だろうが、それが戦闘行為で死んだのか、処刑されたのかは、何をもって戦闘行為とするかの明確な定義がされなければ事実として確定できないだろう。「大虐殺」というのも、単なるイメージであって、明確な定義がないので、「大虐殺」と解釈したい人はそう受け取ると言うことなんだろうと思う。ある軍事専門家は、「テロリスト」という言い方は、そう呼びたい人間が、そう呼びたい対象を「テロリスト」と呼ぶのであって、明確な定義は専門家の間でもないと言っていた。むしろ、「テロリスト」という言葉の使い方から、そう語っている人間が、どのように「テロリスト」という言葉を定義しているかが分かるということを言っていた。ある種の解釈を聞くことによって、その解釈をしている人間の基本的なものの考え方を予測することが出来ると言うことだろうと思う。解釈は議論しても仕方がない。妥当性があるかどうかは議論の余地があるかもしれないが、それが正しいかどうかは議論できないことだ。最終的には「見解の相違」が分かると言うことで終わるものが多い。解釈の議論の限界をお互いに了解していれば、まだ実りある対話が出来るかもしれないが、それを知らずに互いの解釈の正しさをぶつけ合っている状態が続くようであれば、それは堂々巡りをするような水掛け論に終わるだろう。僕は、解釈を語るときは、単に一つの自己主張をするだけだ。それに賛成できなくても仕方がないし、賛成してくれれば、同じような感覚を持っているんだなと思うだけだ。事実を語るときは、間違いであることがはっきりすれば、僕の記憶違いや、ソースとしたものの間違いを訂正するだけだし、それがなければ、事実はあくまでも事実として正しさが確定しているものだと思うだけだ。このような考え方を持ち続けるためにも、事実と解釈を明確に区別しなければならないだろうと言うことを注意していきたいと思う。
2004.06.01
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