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さて、岡田さんの質問に対する小泉さんの答弁の続きをさらに見ていこう。「代表質問と小泉答弁の対比」の中の資料で、外交に関しての質問が報告されている。それを見ていこう。まずは、岡田さんが次のように質問したことが報告されている。「イラク戦争を無条件で支持された小泉総理に、いまでもイラク戦争は正しかったと思っておられるのか、改めて質問します。」これは、過去の時点ではまだ分からないこともあったが、今では明らかにされた事実もいくつかあるので、それによって認識が変わったかどうかを尋ねているのだと思う。例えば、イラクが持っていると言われた大量破壊兵器は等々見つからなかった。アメリカも、それを探す努力をもうしないと言うことを表明しているので、なかったということが確定したと言っていいだろう。イラクが大量破壊兵器を持っていると言うことが、差し迫った危機の一つの理由だった。それが間違いだったと分かった今、過去に「イラク戦争は正しかった」と判断したことが、今でも正しいと思っているのかどうかと言うのが、この質問のポイントだ。小泉さんは何と答えたのか。「我が国は安保理決議に基づきとられた行動を支持したのであり、これは今でも正しかったと思っております。」これは、大量破壊兵器のことなどどこかへ忘れてしまったのかというような回答だ。そして、「正しい」というよりどころを、単に「安保理決議に基づきとられた行動」ということに求めている。しかし、安保理では、最後まで武力行使に反対する国がいたのであり、こう単純に判断するわけにはいかない。そこで、岡田さんもこれに反論を加えて再質問している。「仮に国連決議があったというふうに考えるとしても、その時点において拒否権を持つ常任理事国である中国やフランス、ロシアが明確に武力行使に反対していた以上、それは、国連決議があるということは言えないと思います。この点について、総理はどう考えているのでしょうか。しかも、大量破壊兵器が存在しなかったことについて、存在すると言い続けた自らの甘い判断、判断の誤りをどう考えるのでしょうか。」ここでは二つのことを質問している。一つは、武力行使に反対していた国がいたことと国連決議があったということをどう整合的に解釈するかという問題だ。小泉さんは、国連決議があったと判断しているわけだから、その反対があったにもかかわらず、国連決議があったということの根拠を語らなければならない。果たして語っているだろうか。それからもう一つ、大量破壊兵器の問題が回答から抜け落ちていたので、その存在を主張していたことの判断の誤りをどう考えるのかと言うことが聞かれている。判断の誤りを誤りとして認めるのかどうか。認めないのなら、見つからないと言う事実と、アメリカでさえ、それを探すことをあきらめたという事実をどう考えるのかを語らなければならない。小泉さんはどう答えているのだろうか。「イラクは最後まで国際社会の真摯な努力にこたえようとしなかったのであり、このような認識の元で我が国は安保理決議に基づきとられた行動を支持したのであり、これは正しい選択であったと現在においても考えております。」この答弁が非論理的だと分からないものがいれば、どんな言説の論理性も判断できないだろう。岡田さんが聞いているのは、イラクへの攻撃を認める安保理決議があったかどうかという点だ。これを小泉さんは、巧妙に論点をずらして、「安保理決議に基づき」という表現にしている。つまり、直接安保理決議が攻撃を認めていなくても、何らかの安保理決議に基づいていれば正当性があるのだと主張しているのだ。それでは、その「基づき」ということが本当に正当であることを説明しなければならないだろう。「基づき」というのは、宣言しただけで正当性を持つわけではない。これは、アメリカがそのように言っているから小泉さんは支持しているのだというようにしか見えない。そういうことを自ら語っているような答弁だ。また、「最後まで国際社会の真摯な努力にこたえようとしなかった」ことが攻撃の正当性を示すものであるかのような語り方をしているが、これも、程度の問題を抜きにして一般論を語っても正しくない。具体的にどのようなことにこたえなかったのかを語って、それが武力攻撃もやむを得ないと納得できるものであることを説明しなければならないのだ。このような言い方で武力攻撃が正当化されるのなら、アメリカが攻撃したければいつでも攻撃できると言うことになってしまう。「これは正しい選択であったと現在においても考えております」という最後の言葉は、単なる宣言に過ぎない。小泉さんの答弁は、単に自分が思っていることを宣言するだけのものだ。思っていれば、それが現実に存在するのだと考えている観念論的妄想の持ち主であることを示しているだけだ。そして、この答弁には、大量破壊兵器のことは全く触れられていない。それは、小泉さんの詭弁をもってしてもごまかしようのないことだからだろう。このあと岡田さんは、「国連改革」について次のような質問をしている。「今回の国連改革は、21世紀における新たな脅威の発生に対し、国連がよりよく対応できるために、どう改革すべきかとの大きな問題意識に基づくものです。ハイレベル委員会は武力行使について、第一に、加盟国による予防的な軍事力の行使、すなわち先制攻撃について、リスクが大きすぎると指摘し、第二に、安保理決議が武力行使を容認するに際して、武力行使が最後の手段であること、手段が脅威と比べて必要最小限であることなど、5つの基本原則を示しています。私は、ハイレベル委員会の指摘に基本的に賛成です。 小泉総理に質問します。第一に、加盟国の予防的な軍事力の行使について慎重な見解を示したことについて、第二に、安保理決議が武力行使を容認する際のこの5つの基本原則についてどうお考えですか。第三に、アメリカのイラク攻撃はこの基本原則に照らして正当性があったと考えますか。答弁を求めます。」資料では、このうちの第二の質問「安保理決議が武力行使を容認する際のこの5つの基本原則についてどうお考えですか」というものを採りあげて、小泉さんの答弁を載せている。「報告書が国連憲章第7章のもとでの武力の行使につき、一つの考え方を示したことを評価しております。 本件については、安保理を始めとして加盟国間で議論が行われることが予定されており、我が国もその議論に積極的に参加していく考えであります。」岡田さんの質問は、5つの基本原則の内容に関して、具体的にどのような考えを持つかを聞いているのである。内容ではなく、それが提出されたことについて「一つの考え方を示したことを評価しております」と言うことが聞きたいのではない。「第一に、加盟国による予防的な軍事力の行使、すなわち先制攻撃について、リスクが大きすぎると指摘し、第二に、安保理決議が武力行使を容認するに際して、武力行使が最後の手段であること、手段が脅威と比べて必要最小限であることなど」についての、具体的な考えが聞きたいのである。それを支持するのか反対するのか。反対ならば、どのような理由で反対するのかが聞きたいのである。だからこそ「ハイレベル委員会が示した原則について総理は、これから議論をしていく、議論に参加をすると言われました。しかし、常任理事国に自らがなろうとする国がこういう根本的な問題について自らの意見を述べずして、なぜ常任理事国になれるのでしょうか。総理のこの5原則に対するきちんとした見解を述べられたい。」と言う再質問になるのである。自らの考えもない国が「なぜ常任理事国になれるのでしょうか」というのが普通の感覚だ。しかし、小泉さんは、とうとう自らの考えを述べることがなかった。次のような答弁しかできなかったのである。「同委員会の報告書が国連憲章第7章のもとでの武力の行使につき一つの考え方を示したことを評価しております。」と同じ言葉を繰り返すだけだったのである。小泉さんには、自らの考えがないのであると言わなければならない。誰かが議論してくれなければ、それについて考えられないのだ。だから、まだ議論していないことは、議論すると言うことを評価することしかできないのである。議論の中身を独自に判断することなど出来ないのだ。最後に、「政治倫理」の答弁が資料としては残っているが、これも全く聞かれたことを理解していないか、答えたくないからはぐらかしているのか、どちらかだとしか思えない答弁だ。小泉さんが、もれなく答えたという答の内容はこのようなものなのである。これに怒りを感じなければ、感じない方がおかしい。民主党が鈍感でないと言うことを示しただけでも、国会の騒動はよかったのではないかと思う。国会の混乱の原因の全ては小泉さんにあるのである。
2005.01.31
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このところ「ゴミ」には答えないという方針を貫いているのだが、笑えるような「ゴミ」は、それがいかに水準が低いのかということのサンプルとして面白いので一つ採りあげることにしよう。28日(一昨日)の日記のコメントに次のようなものがあった。「正しくは「自衛隊が活動しているところ「は」非戦闘地域だ」です。昨日の管氏の持ってきたボードにも「は」と書かれていましたよ。ちなみに衆議院か参議院の議事録で検索かければ発見できるかと。」この書き込みをした主は、何か気の利いたことを書いたつもりなのだろうが、全くばかげたことを書いていると言うことがきっと分かっていないのだろう。それが論理的無知を示していることをこれから証明しよう。ここでは、「が」と「は」という助詞の違いを採りあげて、小泉さんの発言である「自衛隊が活動しているところが非戦闘地域だ」が誤報だという主張をしている。もし、この助詞の間違いが、重大な意味の違いをもたらし、「小泉さんが非論理的な発言を繰り返している」という主張に論理的に影響を与えるのなら、この指摘は論理的に意味があるだろう。しかし、この違いが「小泉さんが非論理的な発言を繰り返している」という主張に対しては、全く影響を与えず、むしろ「が」が「は」になった方が、小泉さんの非論理性を際だたせるとしたら、この指摘は役に立たないどころか、さらに非論理的であることを強めることになる。こういうのをまさに「やぶ蛇」というのだろう。言わなきゃいいのに、言ってしまったために、ますます小泉さんのマヌケさが際だってしまった。さて「が」という助詞は、目の前の事実に認識を限定して、対比するものを持たない時に、その「認識」を表現するために使う。例えば、「犬がいる」という表現は、まさに目の前の犬がそこにいるという事実を見た時に発する言葉だ。それと同じように、「自衛隊が活動しているところが非戦闘地域だ」という言葉で「が」を使っているのは、「自衛隊が活動している」という事実と「非戦闘地域だ」という事実を、他との対比を考えずに、目の前にある事実に注目して語っているから「が」を使うことになる。それに対して「は」を使うのは、何か対比するものがあって、それとの比較という認識があるから「は」を使うのである。「犬はいる」といった場合、犬でない動物を頭の中に思い浮かべて、例えば猫などを想像して、ここに「猫はいないが」犬はいるのだという認識を表すために「は」を使うのだ。「自衛隊が活動しているところは非戦闘地域だ」と言うふうに「は」を使うのであれば、これは何と比較しての「は」なのか。「自衛隊が活動していないところ」との比較での「は」なのか。そうすると、小泉さんは、「自衛隊が活動していないところ」は「非戦闘地域じゃない」つまり「戦闘地域だ」と考えているんだろうか。これは、まさに「自衛隊が活動しているところが非戦闘地域だ」と言っているのと同じじゃないかと思う。実際の小泉さんの認識は、この「は」は、現実の話ではなくて、「イラク特措法」という法律上の話であると言っているようだ。それは、「自衛隊が活動している地域は非戦闘地域、これがイラク特措法の趣旨なんです。」と語っていることから想像できる。つまり法律の文章上の問題と、現実のイラクの問題とを比較して、法律上は、という意味での「は」として使っているのだろう。この「は」の使い方も、小泉さんの非論理性を示すだけで、なんら非論理性の反論にはなっていない。現実の「非戦闘地域」がどうなのかということを小泉さんは全く語っていないのだ。「非戦闘地域」の判断の現実的な根拠を聞かれているのに、法律上の定義しか答えないことの非論理性を、この「は」が示しているだろう。「が」を「は」に直すことで、さらに小泉さんの非論理性が際だってしまった。この「が」と「は」の問題は、僕も確かめることなく簡単に書いてしまったので、失敗と言えば失敗かも知れないが、そのおかげで、このようなばかげた反論が見られたというのは収穫だった。論理に対して事実を対置して反論した気になっているものがいるが、それがいかに論理に対する無知であるかがよく分かる例になったからだ。その事実が論理に対する反駁になるのは、論理の根幹を揺るがすような事実である場合だけである。この場合は論理の根幹を揺るがすどころか、論理をむしろ強化するような事実の指摘になっているので、まさに「やぶ蛇」だなと思う。さて、岡田さんの質問に対する小泉さんの答弁の続きを見ていこう。小泉さんの答弁というのは、相手の質問にまともに答えたというものが一つもない。それは、「代表質問と小泉答弁の対比」の中の資料を見るとよく分かる。これだけ、全編にわたってまともに答えない首相というのは、歴史上でも小泉さんが最初なのではないだろうか。ぜひ小泉さんで最後にしてもらいたいものだ。小泉さんの詭弁を許しているのは、国民とマスコミにも責任があると思われる。国民がこれを正しく批判せず、むしろおもしろがっているので、俗情に媚びるマスコミがこれを持ち上げてしまうのだと思う。小泉さんが戦術としてこのような詭弁を使っているのなら、政治家としての姿勢に問題があると思う。そして、能力としてこの程度しかできないのなら、政治家としての能力に問題があると思う。岡田さんの「郵政・財投改革」の次の質問の答弁を見てみよう。まずは岡田さんの質問だ。「第二に、現在郵政公社が保有する150兆円を超える国債を民営化法人が売却したときに、その国債市場に与える影響は大丈夫なのでしょうか。」これは、「大丈夫なのでしょうか」と呼びかけているのだから、まず最初に、「イエス」か「ノー」か、あるいは問題が難しくて結論が出せないのだとかいう答が返ってくるものと期待する。これは、小泉さんは立場上は「イエス」、つまり「大丈夫だ」としか言えないはずだ。「ノー」という「大丈夫ではない」という判断なら、民営化してはいけないと判断しなければならない。また、問題が難しくて分からないのなら、その結論が出るまでは民営化は見送らなければならない。だから、「分からない」とも言えないはずだ。これは、「大丈夫だ」としか答えられない質問なのである。では、岡田さんは、なぜ答が決まっている質問をするのか。それは、その答えに伴って、「イエス」である「大丈夫だ」という理由を述べなければならないからだ。単に小泉さんがそう思っているだけ、というのでは聞いても仕方がない。小泉さん個人ではなく、首相という立場で答えるということは、それに対する説明責任が生じるのである。その説明を引き出すための質問だと僕は思う。それが説明されれば、それに対してさらに批判を展開することが出来るからだ。そういうものがまともな議論というものだ。それでは小泉さんが何と答えたかを見てみよう。「民営化に当たっては、郵貯、簡保の既契約にかかわる公社勘定については安全性を重視して運用し、また、移行期においては市場関係者の予測可能性を高めるための適切な配慮を行うこととしており、国際市場の安定性を損なうことのないよう十分配慮いたします。」ここには、「イエス」という言葉はないが、そうとしか答えられないのだから、これを「イエス」の理由として受け取ってみよう。これは、果たして「大丈夫」だということを納得させてくれるだろうか。「安全性を重視して運用し」というのは、どのように具体的に運用するかが分かって、初めて信用が出来るものになる。このように語ったから、それを信じろという方が無理だ。実際に銀行などを見ると資金の運用が安全でなくなって不良債権化したという問題が生じている。このように決意したからといって、それが実際に行われると単純に信じられるものではないのである。決意ではなく、具体的な方法を語ることが説明責任を果たすことなのである。「予測可能性を高めるための適切な配慮を行う」「国際市場の安定性を損なうことのないよう十分配慮いたします」というのも、単なる決意に過ぎない。問題は、この決意が、実際にはどのような方法で実現されるかということなのである。それを答えないというのは、具体的な方法も持たずに、見切り発車をすると見られても仕方がないのではないか。そこで岡田さんは、さらに次の質問をすることになる。「私がお聞きしたかったのは、民営化した後の民営化法人は、私は、当然民営化されたわけですから、国債について自由に処分権限があると思います。その時に本当に大丈夫なのかというのが私の質問であって、その途中に至ることを聞いたのではありません。明確にお答えをいただきたいと思います。」岡田さんは、普通に考えれば、「自由に処分権限がある」と考えるので、その影響は、一私企業の判断にまかせておいたのでは大きすぎると考えているのである。それは、その抱えている国債の巨大な額が影響の大きさをもたらすわけだ。大丈夫であると考えるのなら、その根拠を聞かなければ、「大丈夫だろうか」という疑念は払拭されないのである。また、大丈夫でなければ、この権限を制限することが必要になる。そういうリスクをどう考えているかを具体的に聞きたいのである。そして、これは民営化を進める政治のリーダーとして、明確な説明をする責任があることなのだ。それでは、小泉さんは何と答えたのか。次の通りである。「国際市場の安全性を損なうことのないよう、十分配慮してまいる考えであります。」またしても決意を語っただけだ。これがまともな答になっていると考える方がおかしい。小泉さんは、全く説明責任を果たしていないのだから、首相としてはふさわしい能力を持っていないと僕は思う。これは、戦術以前の問題だ。国債の問題に関しては、「 2005年1月24日(月) 不毛の「郵政民営化」議論 」の中に次のような考え方もあった。「本日行われた代表質問は、郵政民営化が1、短期間に郵貯・簡保の資金を安全・有利に運用する能力を高められるのか、2、郵政公社の持つ国債売却で市場が混乱しないか、という点でした。1に関して、巨額の運用資金は誰が運用しても大きな差が生じるとは考え難く、重要な問題ではないと思われますし、2に関しては、確かに郵政公社の国債保有額は大きく、売却すれば大混乱必至ですが、そのメカニズムが本来の国債の問題点ではありません。 (中略)しかし、国債市場の混乱を心配するのは本筋の議論ではないはずです。「国債そのものが経済を混乱させずに返済できるかどうか」の議論こそ重要でしょう。普通に考えれば返済不可能な国の借金ですから、価格が急落するリスクは常にあります。郵政公社の売却を心配する意見は本末転倒の不毛の議論と言うべきものでしょう。債券需給を心配する以前に、増税以外の国債の返済方法がないのかどうかの議論こそ深めてもらいたいものです。」このようなまともな反論の仕方もあるのである。しかし、まともな反論は、再反論でつっこまれるところもたくさんあるかも知れない。「増税以外の国債の返済方法がないのかどうかの議論」に向かうと、小泉さんとしてはますます困ってしまうと考えたのかも知れない。行き当たりばったりの対処で、先の見通しを持たない論理能力では、議論をしないのが負けないためには一番いいのかも知れない。小泉さんを見ていると、そう思えてならない。
2005.01.30
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今朝のテレビでは、昨日の国会で、小泉さんの発言がまた失笑を買ったというニュースが流れていた。菅直人民主党前代表の質問の中での答弁が紹介されていた。そのニュースは、分析するまでもなく、非論理的な開き直りであることが分かるものだった。このレベルの答弁しかできない人間が総理大臣をしているということをよく考えなければならないだろうと思う。そこら辺の路地で吠えているただのオヤジだったら無害だが、総理大臣をしていることによって大変な危機をもたらす。小泉さんも、ただのオヤジだったら、何を言おうと「困ったヤツだ」くらいにしか思われないのに、総理大臣をしているばかりに厳しく批判をされることになる。今日も、「代表質問と小泉答弁の対比」の中の資料を基に岡田さんとのやりとりを考えてみようと思う。「歳出構造改革」について、岡田さんは次のように質問している。「来年度の公共事業予算は、従来型の自民党的発想が復活し、将来の大型公共事業の予算拡大は必至です。人口減少時代にあって、いま求められているのは、「あれもこれも」という発想ではなく、将来の公共事業予算を着実に削減していくなかでの、より必要なものは何かという選択であるべきです。整備新幹線などの大型公共事業拡大に関し、どのような歯止めと将来の姿を考えておられるのか、総理の基本的な考え方について、明確な説明を求めます。」ここでの岡田さんの質問のポイントは、「人口減少時代にあって」という条件の下で、「将来の公共事業予算を着実に削減していくなかでの、より必要なものは何かという選択」に対する考えを尋ねていることだ。人口減少時代だから、これまでのような経済成長期とは違い、財政規模は確実に縮小していく。金がないのだから、必要なところに優先的に金を使うような工夫が必要になる。その基本的な考え方を聞きたいというのが岡田さんの質問である。このように考えれば、回答として期待したいものは、その選択の基準であり、実際の選択に当たっての判断の根拠であろうと思う。それを語らずして、回答をしたとは言えないだろう。それでは、小泉さんは何と回答したのか。その発言を分析してみよう。「平成17年度の公共事業予算については、従来同様に投資の重点化、効率化を図ることとし、全体として3.6%削減したところであります。整備新幹線などの個別事業については、削減した公共事業予算の枠内で計上し、事業の効果等については厳密に検証したものであります。」ここには、基本的考えは何も語られていない。それは、基本的考えはないということを意味するのだろうか。とにかく削減したという事実を語り、その範囲内でやっているから認めろと言うことなのだろうか。これからも、財政規模の縮小に伴って、何とかして支出も縮小させるから、それでつじつまが合うと言うことなのだろうか。問題は、必要なところに必要な金を使い、それによってより効率的な社会の活性化を図ると言うことにつなげることではないのだろうか。「投資の重点化、効率化を図る」というのは、このような一般的な言い方では、それが正しいかどうかの判断が出来ない。どのような具体的方法で、このようなことを達成するかを語らなければ、賛成も反対も出来ないのである。「事業の効果等については厳密に検証した」というのであれば、どのように「厳密」に行ったのかを語る必要がある。それを全く語らずして、このような言葉だけを並べるから小泉さんの語ることは空疎な妄言といわれるのである。「今後とも、公共事業については、事業の必要性、緊急性を厳しく審査しつつ、重点化、効率化を推進して参ります。」と言われても、誰が今後そうなると信じられるだろうか。今までの小泉さんも、かけ声だけは威勢がよかったが、達成されたことは何一つなかった。これも、空疎な言葉の羅列である。このような答弁が続いたので、この質問に対しては再質問が続いた。まずは次の岡田さんの質問があった。「将来の人口減少時代、財政がきわめて厳しいという認識の中で、今まで作ってきた、例えば高速道路や新幹線の計画について、もう一度全体を見直して、どこまでなら可能なのかということをしっかりと議論することが政治の責任であります。総理にそういう姿勢があるのかどうか、お聞きをしておきたいと思います。」ここでの岡田さんの質問は、「どこまでなら可能なのかということをしっかりと議論することが政治の責任であります」ということが大切なことであるとの主張が基礎になっている。これを認めるか認めないかと言うことを聞きたいのだ。そして、認めないと言うのであれば、それは「無責任」だということを言いたいのだと思う。それでは小泉さんはどのように答えたのかを見てみよう。「公共事業の計画につきまして、今後とも、事業の必要性、緊急性等を厳しく審査し、重点化、効率化を推進していく考えであります。」というのが小泉さんの答だ。これから、「どこまでなら可能なのかということ」の議論が見えてくるだろうか。「必要性」「緊急性」「重点化」「効率化」という、それ自体では何の意味もなさない抽象的な言葉をつなげてあるだけだ。これらの言葉は、具体的な内容を語ってこそ、その具体的な内容が、「必要性」「緊急性」「重点化」「効率化」を適切に語っているかどうかという評価が出来るのである。このような空疎な言葉を連ねる小泉さんには、岡田さんが語る意味での「そういう姿勢がある」とはとうてい思えない。この答弁で、自ら、そんな姿勢がないということを表明していることになっているのではないかと思う。そこで岡田さんもさらに質問をして追求することになる。「私が聞いた純減ベースで5カ年計画を作るべきだということについてのお答えはありませんでした。しっかりお答えいただきたいと思います。」これは、岡田さんが語る「べき」に対して反対であれば、そのどこが欠点があるのかを指摘して、反対の理由を述べるべきだし、反対がなければ、賛成の旨を語り、どのように具体的に実現をするかを語るべきだろう。そのどちらでもなければ、このことについてはまじめに考えていないか、あるいは考えるだけの能力を持ち合わせていないので分からないのか、どちらかだということになるだろう。小泉さんの回答は次の通りだった。「「今後の行政改革の方針」において、5年間で10%以上の削減を目指すことを決定しており、平成17年度においても純減を確保することとしておりますが、いずれにしても、この問題については、民主党の提案も参考にしながら取り組んでいきたいと考えております。」この回答を見ると、「純減」については賛成していることが分かる。しかし、それをどのような方法で行うかについては答がない。この具体性がないというのが、これまでの小泉さんの答弁の最大の特徴なのだが、これは、議論を進展させない答弁である。やはり期待した答ではない。それで、岡田さんはさらに質問をすることになる。「三位一体の改革について、……将来展望なき単なる数字あわせは問題だというのが私の指摘です。18年度以降についてはハッキリとした姿勢を示すということを、少なくともこの一年間でしっかりそのことを検討するという姿勢ぐらいは見せられないのでしょうか。答弁を求めます。」結果として、数字が「純減」になっていればいいというのではなく、実質的にその内容が、将来の展望につながる「純減」でなければいけないというのが岡田さんの主張であり、政治家として実に真っ当な考え方であると思う。そして、将来につながるかどうかは、基本的な姿勢が大きく関わってくるのであり、その評価をするために、「この一年間でしっかりそのことを検討するという姿勢」の表明を求めているのだと思う。これに対して小泉さんはどう答えているのか。「19年度以降何をなすべきかについては、18年度までの改革の成果を見極めた上で判断する必要があると考えております。」つまり、この時点では、そんなことは分からないといっているようなものである。また、「改革の成果」の見極めも、どのようにしてするのかが語られていないから、また恣意的な判断で成果があったと言われてしまうのではないかと感じる。この答弁からは、「この一年間でしっかりそのことを検討するという姿勢」はまったく見られない。ここまで水準が低い議論がされてしまうと、ここは本当に国民の代表が集っている国会なのかという気がしてくる。新聞報道などでは、岡田さんや民主党が「切れた」と表現されていたのもあったが、切れるというよりも、これはあきれてものが言えないという感じだったのではないだろうか。そして、総理大臣が、本気でこのようなレベルの答弁をしているとは思えないので、国会を愚弄しているようにしか見えなかったのだろうと思う。それが怒りにつながったのであって、わがままな子供が、自分の自由にならなくて「切れる」のとは違うと思う。それを、そのような報道の仕方しかできないのだから、マスコミのジャーナリズムセンスもひどいものだと思う。しかし、小泉さんが、単に戦術として国会を愚弄しているのではなく、本気でこのような低レベルの議論しかできないのだとしたら、この国の民主主義はいったい何なのだろうと思ってしまう。ますます冷ややかに眺めたくなってしまうなあという感じだ。
2005.01.29
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「衆院代表質問 民主、社民が退席、戦後初の異常事態」というニュースによれば、「岡田氏は首相の答弁が不十分だとして郵政民営化など9項目について再質問した。しかし、首相が「すべて明確に答弁している」などと事実上の答弁拒否を続けたことから、共産党を除く、民主、社民両党議員の大半が退席した」と伝えられている。小泉さんは、以前も質問に対してそれをはぐらかして論点をすり替えたり、挙げ句の果ては、「自衛隊が活動しているところが非戦闘地域だ」というような、全くお話にならない非論理的な答を平然と語るところがあった。だから、この騒動も大部分の原因は小泉さんの方にあると僕は思った。それでニュースを細かく追いかけたのだが、残念なことに、小泉さんの答弁のどこが不十分なのかに具体的に言及したニュースが見つからない。これでは、答弁が不十分だという判断がたとえ正しいものだとしても、それを単純に信じているしかなくなる。なかなか見つからなかった資料だったが、やっと見つけたのが、「代表質問と小泉答弁の対比」の中のものだった。これを見ていきながら、具体的に検討してみようと思う。まずは、岡田さんの質問を見て、まともな論理を使う人間だったら、どのような答えを期待するかを考えてみたい。その期待と、小泉さんの答がどのようにずれているかを分析することで、小泉さんの論点のすり替えを見ていきたいと思う。まずは次の質問から考えていこう。「私が理解に苦しむのは、被災者生活再建支援法に対する政府・与党の態度です。秋の臨時国会で、民主党は住宅本体の再建を対象に加える修正のための改正案を国会に提出しましたが、まともに審議さえされずに廃案となりました。なぜ、本当に困っている被災者が求めるささやかな要求が満たされないのでしょうか。内容を充実させて再提出した法案を与野党力を合わせて全会一致で成立させようではありませんか。総理の心のこもった答弁を求めます。」ここで岡田さんが尋ねているのは、<まともに審議されなかったのはなぜか>ということである。この回答としては、民主党案の欠点を指摘して、審議する必要がなかったという批判をするか、もしくは、審議できなかったやむを得ない事情があったという釈明があってしかるべきだろうと思う。もし、それがないのなら、岡田さんが呼びかけるように、「与野党力を合わせて全会一致で成立させようではありませんか」という声に応えて賛成するというような回答があってしかるべきではないのだろうか。小泉さんはどのように応えているのだろうか。「昨年の通常国会で、被災者が住宅を再建、補修する際に負担する経費の一部を支援する制度が設けられ、その積極的活用を図っているところであります。」と、まず現状報告をしている。これは、なぜ審議されなかったか、ということとは無関係である。民主党案とは違う方向で行われているのなら、民主党案のどこに欠点があったのかを述べるべきだろう。単に、今やっていることを報告したからといって、今困っているという事実が消えるわけではない。実際に、小泉さんも「被災住宅の再建に対する公的支援の充実について関係者から要望があることは承知しております。」と、現状に問題があることは認識している。だから、本来なら、この現実の問題に対して、どのように対処するかを具体的に語る責任が、政治の指導者としてはあるはずだ。ところが、小泉さんが語ることには、全く具体性がなく、第三者的に一般論を語るだけなのだ。次のような回答を聞いた時、これがまともな回答だと思うだろうか。「行政は公共サービスの回復に重点を置くべきであるとの立場から、個人の住宅本体の再建に対する公費支援については慎重な考え方もあり、また、住宅の耐震改修、地震保険の加入等の自助努力を促進する方策をまず充実させるべきとの考え方もあります。このため、様々な角度からなお議論を深める必要があると考えております。」誰が「慎重な考え方」をしているのだろうか。小泉さんが、そうしているのなら、ハッキリとそう語るべきだと思う。「考え方もあります」という言葉も、自分ではどう思っているかを語らない言い方だ。政府は、その考え方をとっているかどうかが聞きたいのである。それを語らずに、「様々な角度からなお議論を深める」とだけ言うのでは、何も知らせていないのと同じだ。つまり、何も答えていないのと同じだ。政府がどのように考えて、どのように決定するかを語らなければ、まともな批判も出来ない。批判をさせないためにはぐらかしているのではないかと疑いたくなる。だから、岡田さんの次のような再質問が出てくるのだろうと思う。「総理は、現在個人財産について国がどこまで見るべきかということについて検討中である、と答えられました。しかし、その答弁は、もうここ数年来何度も繰り返されたものであって、まさしく官僚の考える答弁であります。今、……まさしく政治的な決断が求められている、そのことを私は聞いたわけです。総理のもう一度、政治家としての、総理としての明確な答弁を求めます。」「まさしく官僚の考える答弁であります」という岡田さんの感覚は、僕も同じようなものを感じる。小泉さんの言い方は他人事のような言い方だ。ここには、民主党案に対する批判も、やむを得ず出来ないという釈明もないのだから、本来なら、「政治的な決断」として、やるかやらないかという回答がなければならないだろう。小泉さんの言い方では、何も決断できないので、ずるずると時間だけが過ぎていっても仕方がないといういいわけにしか聞こえない。結局、どちらに決めても責任が生じてくるので、どちらにも決めないような方向を取るために、議論を継続しているという形にしているようにしか見えない。首相という政治のリーダーが、そのような姿勢で許されるのだろうか。当然、「明確な答弁を求めます」と言われるだろう。それでは、小泉さんはどのように答えたのか。「なお議論を深める必要があると考えております。」と答えたのである。つまり、決断する気はないと言っているに等しい。しかし、それをあからさまには言えないから、結論の出ない議論を続けるために、「議論を深める必要がある」と答えているのである。このような回答をするのではなく、今すぐに決断をする必要がない、あるいはそれが出来ないと言うことの理由を語るべきだったのだと思う。そのような回答があれば、そのことに対する批判がそれに続き、議論は内容を深めていくことが出来る。しかし、小泉さんの回答では、同じことの繰り返しになってしまう。議論が深まっていかないのだ。岡田さんは、すぐにでも政治的に決断するべきだと主張している。それに対して、小泉さんは、その判断の妥当性には全く言及せず、議論を続けるということを語るだけだ。一方は決断するべきだと言い、一方は議論するべきだと言い続ける。全くの水掛け論になっている。この水掛け論の原因は、小泉さんがちゃんと、自分の主張の根拠を語らないからだ。なぜ議論を深める必要があるのかの理由を語らず、結論だけを答えて答弁したつもりになっているからだ。これは、確かに、質問に対して「何か」を言ったという意味では、「回答」の一つではある。しかし、これは、日本国総理という最高指導者が、誠実に答えた回答とはとても思えない。小泉さんの登場で、国会の議論の水準というのは全く低レベルのものになった。政治家の答弁なんてものは、言い逃れの詭弁しかないとは、以前からも言われてはいたが、それでも、そのようなことをする政治家は、少なくとも恥ずかしさをかみしめながら答弁をしていただろう。しかし、小泉さんは、このような非論理的な答弁をしても、全く恥ずかしさというものを感じさせない。むしろ開き直っているような感じさえする。このような低レベルの議論が国会で行われているのを見て、いったい多くの国民はどのように感じるだろうか。どんな水準であろうとも、強弁で押し切れば「勝ち」だなどと思うのだろうか。それとも、無理が通って道理が引っ込むのを見て、言いしれぬ絶望感に包まれるのだろうか。僕は、このような低レベルの議論が見抜けないような国民であれば、やはり民度が低いんだなと、冷ややかな目で眺めるだけだ。今後ますます小泉さんの支持率が下がるようなら、国民は正しく見ているのだなと思う。いったいどうなるだろうか。正しい判断をする国民が多いことを期待している。この分析は、この後もさらに続けていくことにしよう。
2005.01.28
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マル激での議論の続きを追いかけてみよう。次の宮台氏の発言は面白いものだと思う。<日本では、メディア・リテラシーがないという想定が強い。分からないことを書こうということがない。何でも面倒を見る感じがする。極端なことを書いたら分からないだろうということで、極端なことが書けない。>宮台氏が書いたり言ったりすることは、専門用語がちりばめられていたりして、かなり難しいことが多い。誰も分からないようなことを語っていて、意味がないと感じる人もいるかも知れない。これは、よく分かっていない人間が、難しい言葉を使いたくて、こけおどしのために語っているのならほとんど意味がないと言えるだろう。しかし、宮台氏が使う場合はそれとは全く違う。宮台氏が専門用語を使うのは、正確な記述をしたいためだと僕は受け取っている。日常用語の範囲内では、やはり正確さを欠く場合が多いのだ。単なる印象を語る感想だったら、それは日常用語の範囲でかまわない。しかし、現状を正しく把握して、それを正確に記述することで理解を深めようと思ったら、どうしても難しい言葉を使う必要が出てくる場合がある。もっとも、これは宮台氏を高く評価している場合に、宮台氏の難しさをこのように受け止められるのであって、その評価がまずなければそういう受け取り方は出来ないだろう。全く同じ言葉を語っていても、宮台氏が語るのなら、その深い意味を考えたいと思うが、考えの浅い人間の言葉は、「勝手に吠えていろ」と思うだけだ。<BBCは、かなり難しい番組を作る。そのような番組を作ることの意義。みんなが分からなくても、何人かの人が分かって、それを伝えることが大切だということもある。みんなが分かることだけでは、深い真理は伝えられない。>これも宮台氏の言葉だが、全くその通りだなと思う。そして、そのような姿勢を支える基礎がイギリスという国にはあるのだろう。日本のテレビの状況を見ていると、このような姿勢はかけらもないんじゃないかという気もしてくる。それは、末端の作り手には、そういう意識を持っている人間がいるだろうが、上層部の「エライ」人間には全くないのではないかとしか思えないからだ。それがNHK問題に端的に表れていると感じるのだ。番組改変が起きた番組に関しても、BBCと同じような姿勢を持っていたら、そこでの主張は必ずしも一般化していないので、それを正確に受け止める人間は少ないかも知れないが、深い真理が語られているという判断で放送するのだ、と考える人間も出てくるだろう。視聴者を信頼していれば、このような判断もできる。日本の問題は、放送を提供するNHKの側が視聴者を信頼していなくて、本来最も信頼に値する視聴者であるはずの人々が、NHKの方を全く信頼していないと言うことだろう。<NHKの問題は、最初はインフラの問題。日本全国に電波を行き渡らせるという、近代化の過程の問題だった。それが最初から「公正」を求めていたかのように考えるのが「幻想」。それはこれからの話。>NHKの発展は、まずは入れ物としての発展に過ぎなかったという認識が必要なのだろう。ようやく入れ物が満足すべきレベルに到達したので、今度はその中身を充実させていく段階なのだろう。この段階で、中身もそれなりにできあがっているのだと見る方が間違いだというわけだ。中身を充実させるには、それを監視できるシステムがなければならないだろう。今のNHKには、視聴者の声が反映するようなシステムがない。それがなければ、中身はいつまでも変わらないに違いない。そのシステムがないうちは、NHKを「公共」だというような幻想を持たないようにしなければならない。<最初に、朝日の報道に対して、「当然だろう」というような、ある意味では認めるコメントを出しているのは、それがたいした問題ではないと思っていたのだろう。それが、かなり深刻だと気づいて、打ち消そうと思って、朝日の記事が全て「ウソ」だといってしまったのではないか。>これは、今回の騒動の流れを本質的にとらえる見方だろう。「当然」が「当然」でないと知ったら、無理を通して道理を引っ込めるしかなくなる。NHKと安倍・中川両氏の行動には、そのような滑稽さが見える。<朝日としては、「圧力をかけた」とは書いていない。「指摘した」とかいただけ。だから、問題が大きくならなければ、それで終わっていただろうが、「ウソだ」といわれたのでは、報道機関としては反論せざるを得ないので、ことが大きくなった。カウンターがあまりにも効き過ぎて問題が大きくなった。>宮台氏の解釈では、朝日は「書き逃げ」をするつもりだったのだろうと言っていた。だから、朝日としては、「この程度までは書いても大丈夫だろう」と思っていたのではないかと思う。それが、「捏造だ」ということまで言われるようなリアクションが返ってきてしまったので、朝日としても引くに引けなくなったのだろうと宮台氏は判断しているみたいだ。NHKと安倍・中川両氏の方が、むしろやぶ蛇になるような反応を見せてしまったのではないだろうか。過剰反応なんだろうと思う。過剰反応する人間は、ヘタレなんだと思う。つまりは、その程度のレベルの政治家に過ぎないんだと思う。NHKで言えば、その程度のレベルの人間が上層部にいることを暴露しているだけなんだと思う。<朝日は、このことによって、ある意味では立場をハッキリさせて線引きをした方がいい。全体性を僭称する必要がなくなる。>朝日は、本来の左じゃなくて、単に読者に左が多いから、その左に媚びるために左のポーズをとっているだけだとしたら、これをきっかけに、本当の左にシフトすればいいという考え方だろうと思う。これは、それなりに意義のあることだと思う。媚びるだけの左だったら、本来の左の立場の人は去ってしまうからだ。本来の左を中軸にして、そこから支持者を増やし、むしろ反対の立場の人にも注目させるような内容で部数を増やしていくという戦略しか、今後の朝日の生き残る道はないような気もする。俗情に媚びるという点では、読売の方がずっとうまいような気がするからだ。その路線を進んでいたら、やがては読売に駆逐されるのではないかと思う。<これは「公正さ」の問題ではない。逆に言えば、右翼の集会で、何かの発言をしたものを「これはまずい」ということで放送を差し止めたのなら、朝日はきっと何も書かなかっただろう。>「これ」というのは、今回のNHK騒動を指す。今回の番組改変問題が、「公正」と言うことを基準に判断される問題ではないという指摘だ。今回は、たまたま左翼的な主張が弾圧されたので、それで朝日が記事にしたのだという認識だ。だから、最初からその立場がハッキリしている赤旗などが書いていれば、別に叩かれることもなかったかも知れない。朝日は、全体性を僭称して、「公正」を装っていながら、左翼的な利益という観点から記事にしていることが、反対の方からの批判が来る原因だという理解だろう。だから、この批判に反論するなら、朝日が自分の立場を明確にして本当の左翼の立場に立ってしまうか、「公正」であることの方を選んで、今度は右翼的な主張が弾圧された時も、断固として「公正」さの方からそれに反対する主張を出していかなければならないだろう。だから、この今起こっている具体的な騒動は「公正」の問題ではないという解釈だと思う。これは僕もそうだと思う。だからこそ、何を言ったかという事実の問題にするのではなく、本当の意味での「公正」は何なのかという本質に議論を戻さないとならないのだろう。<「公正」かどうかは議論が困難だ。むしろ作品論的に、カットしたことが作品としての評価がどうなのかという議論になればもっと違っていただろう。>今の騒動に関連して「公正」を議論するのは難しいと言うことだろう。「公正」は、ある程度抽象的に論じて明確にしておいて、それが現実に適用できるかどうかを判断しなければならないだろうと思う。専門家の目から見ると、実際に放映された作品は、ひどい完成度を持っていたそうだ。その点をもっと詳細に批判することで、作品を台無しにしてまでも規制されなければならないものは何かを考えることで、「公正」と言うことも浮かび上がってくるのではないかという意見だと思う。<宮台氏は天皇に戦争責任はない、という立場。以前は、インテリゲンチャーの中で、このような発言をすることが難しかったが、ようやく発言できるようになった。>これは、唐突に出てきた意見なので、神保氏も議論の方向を扱いかねていた。僕も、これが宮台氏の発言でなければ、その意味を深く考えることもないだろう。しかし、宮台氏が語ることだから、そこには深い意味があるだろうというふうに受け取る。例えば、「戦争責任」と言うことも、いったい何を背景にした責任なのかという問題がある。法的な責任なのか、道義的な責任なのか。まずは、宮台氏が語る「戦争責任」の正確な定義を知りたいと思うだろう。その上で、宮台氏が語っていることの真意を知り、それに賛成できるかどうかを判断しようとするだろう。「天皇に戦争責任はない」という言葉だけに過剰反応して、「何を言っているんだ」などと吹き上がることはない。それをきわめて冷静に受け止めようと努力するだけだ。しかし、これは宮台氏が語るから、このような受け取り方をするのである。全く考えの浅い人間が、自分の感覚のみで論理を考えもせずに、「天皇に戦争責任はない」と同じ言葉を語るのなら、僕は「勝手に吠えていろ」と思うだけだ。深い理解をもった人間が語るからこそ、その真意を受け取ろうとするのだ。浅い考えのものなどは、浅く受け取っておく。<基本的に人間はみんな偏っていうる。「僕はこう思っている」とは言える。でも「みんなこう思っている」とは言えないはずだ。>これは東氏の発言だったが、僕も基本的に賛成だ。このような姿勢で、僕も発言をしていきたい。<番組のカットの問題にしても、トップが「天皇に戦争責任はない」という立場に立っている人間で、自分の判断でカットさせたというのならいい。でも、みんながどう思うか、ということをおもんばかって、「君の言うことも分かるけれどねえ」というような感じで、カットさせたなら、構造的に圧力を受けているのと同じ。>主体性のない人間の判断は、構造的に存在している、その集団の常識に支配されると言うことだろうか。この構造をこそ改革しなければ、同じような問題はこれからも起こるだろう。個人の責任を明確にすると言う、これまでの日本社会ではなかった、革命的な規範が確立しなければ、本当の近代化はできないのかも知れない。<「期待権」の問題が、ジャーナリズムにとっては重大な問題。これがあると、自由な取材ができなくなる。相手に期待を抱かせるような言葉を使えば、どんなに事実をつかんでいても報道ができなくなる。>これは神保氏の発言だ。「期待権」の問題は、まだよく分からないところがあるだけに、今度はこれで特集をしてもらいたいとも思う。この権利を認めてしまったら、本来の取材ができなくなるとしたら、それによって不利益を受ける我々は、このことをよく考えて自らの考えを決定することが大事だろう。賛成するにしても反対するにしても。俗っぽい表面的な理解しかしないと言う主体性のなさでは、やはり近代性は身に付かない。日本の民度もあがらないと言うことになるだろう。
2005.01.27
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さて、マル激での議論の続きを見ていこう。まずは、東氏の次の言葉を考えてみたい。<朝日は、日本社会の全体性を代表しているわけではない。全体性を代表しているように僭称していることに対して批判が大きい。>朝日は、ある一時期は、その発行部数も一番多く、世論の大多数を代表しているオピニオン・リーダーだったことがあったと思う。しかし、いまや発行部数では読売に抜かれ、いまでは世論の一部を代表しているに過ぎなくなった。しかし、まだ朝日そのものに、自分たちは日本社会の全体性を代表しているというおごりが見えると、東氏は評価しているようだ。そして、その部分に批判が集中し、朝日叩きというものが起こると見ている。全体性を僭称しているということをもう少し考えると、次のような感じになるだろうか。宮台氏も次のように語っていた。<左翼は、弱者に対する共感性を元に言説を語る。誰が弱者であるかということに対して選択性があるのだが、その選択性に公平性があるのかどうかという問題がある。>左翼は、基本的に弱者救済のための資源の再配分に賛成する立場だ。この弱者を誰だととらえるのかに、公平性がないと、社会の全体性を代表しているとは言えないだろう。実は、弱者だと見られている方が、その弱者救済のための権益のために、むしろ強者となっているような逆転現象もある。そうなると、本来は弱者を助けるための措置が、私欲を肥やすための権益のように見えてしまうことがある。そうなるとやはり、誰が弱者であるかという選択性に公平性がないように見える人も出てくるだろう。その人たちが、左翼の代表だと感じている朝日が「全体性を僭称している」と見るのかも知れない。少しも公平でないのに、それがあたかも社会の世論であるかのように語っていると感じるかも知れない。<マルクス主義は、全体性を僭称するイデオロギー。それを戦線を縮小して、多様性を認めて欲しい。いろいろな考え方をもっている人間はたくさんいる。>という東氏の発言を見ると、マルクス主義を基本的なイデオロギーとしている左翼にとっては、「全体性を僭称する」ということは、基本的なものの考え方の中にすでに入り込んでいるものだと考えられている。そうすると、よほど注意深く自分の思考を組み立てないと、全体性を僭称する方向に流れてしまうだろう。マルクス主義は、階級という見方をして、全ての人間を二つの階級に分けて見るところがある。そうすると、階級を代表する考え方として、その階級にとっては、やはり「全体性を僭称する」ことになるだろう。細かい違いというのは全て捨象されてしまう。マルクスが生きていた時代は、確かに社会は、二つの階級に別れているように見えたかも知れないが、歴史の発展と共に、それが細分化されて、現代社会ではもはや単純に二つの階級に分けることはできなくなったのだろうと思う。それを指して、東氏は「多様性を認めて欲しい」と語っているのだろうと思う。僕は、この現状認識は賛成だ。僕が、ここで提出する考えも、あくまでも僕個人の考えであって、これが何かを代表しているものとは思っていない。だから、賛成する人もいれば反対する人もいて当然だと思っている。どちらを選ぶかは、自分で判断すればいい。反対する人間が、まともな論理を使える人間だったら、実りのある議論ができるだろうと思うが、残念なことにまともな反論が一つもない。今回の番組に対する「偏向」批判に関しては、神保氏が次のような指摘をしている。<日本の右とか左とかは、外国の方から見れば、ほとんど真ん中付近のものばかり。そのような状況の時に、極右・極左に当たるものが出てくれば、「偏向」だという印象が強くなる。>これは、日本には本当の意味での右も左もほとんどいないということなのだろう。極右も極左もなかなか存在できないのだ。だから、それを見慣れていない人たちは、それが出現しただけで驚いてしまうのだろう。今回の番組は、どちらかというと極左に近い主張だったのだろう。それで、見慣れていない人たちは「偏向」だというふうに見えたのかも知れない。極左であっても、一つの見識だと受け止められる人間が多ければ、なんということはなかったのかも知れない。極右も極左も、当たり前に目に触れるような存在になっていたら、日本人ももっと免疫性がつくのかも知れない。インターネットの世界では、ほんのちょっと左がかっていても、右の立場の人間から見ると、かなり心を揺さぶられるようだ。右の立場の人間に、もっと免疫性をつけてもらいたいものだと思う。弱者に同情する人間は、立場的にはどうしたって左になる。でも、その程度の左なんて、ほとんどイデオロギーとは関係のない左に過ぎない。どうして、そんな程度のものに過剰反応するかが僕には分からない。過剰反応する右なんかヘタレにしか見えないのにと思う。<「公正」だけではなく、「中立」の方が重く見られている。>これは重要な指摘だ。本来なら、「中立」よりも「公正」の方が大事だろうと思う。それが、今回の議論では、「中立性」の方がクローズアップされていて、主張が一方の側だけだという批判が多い。しかし、一方の側の主張であっても、それが一つの見識であることを知らせているだけなら、「公正」さには問題がないと思うのだが。このように考えるから、今のNHK問題の世の中の受け止め方がピントがずれていると、マル激では語られているのだろう。「中立」というのは、時代と共に状況が変わり、その基準が一定しない。しかし、「公正」というのは、時代の変化に影響されることが、「中立」よりも少ない。確固とした基準を立てることができる。そちらの方こそ重要性があるだろう。しかも、<NHKに中立を期待する方がおかしい。予算権を握っている与党の歓心を買おうとする方が当然。構造的に意向を忖度して、勝手に影響を受けてしまうことになってしまう。>というような現実があるのだから、「中立」ということを正しく判断することなどできない。「公正」の方こそが、正しい判断ができる可能性があるのだと思う。<見る方が、NHKが中立だとか公正だとかいうことが「幻想」だということをしっかりと認識しなければならない。>という指摘も大事だろう。本来の意味での「公正」を実現しなければ、本来の意味での「中立」も実現できない。「公正」さは、客観的に評価できるからこそ、今のNHKにそれを求めるのは「幻想」だという評価が出てくるのだと思う。構造的に、与党よりになることがむしろ当然であるNHKで、それを拒否して「公正」を求めるということの方が、道徳や倫理という観念的存在がそのまま現実に存在していると考える幻想だと僕も思う。むしろ、今のNHKが「公正」さを欠いているのだから、NHKの改革をこそ考えなければならないだろう。それに本来の意味での「公正」を求めるのか、「公正」の実現はできないのだから、公共放送という形態はあきらめるという方向に行くのかどちらかではないだろうか。<12日のコメントでは、安倍さん自身が、「私は負けない」とまでいうコメントを出して、口を出したことを認めている。それを後でやばいと思って、NHKと口裏を合わせて変えてきた。>これは、神保氏の解釈だ。ベタな意味での事実として確認されたものではない。しかし、論理的な思考をする人間だったら、ほとんどの人は、このような解釈をする。僕も同じだ。<こういう動きをするということで、「介入した」ということをなんとかないことにしたいと思っているんじゃないだろうか。つまり、「介入」することはいけないと、安倍・中川両氏でさえも思っていることを表しているんじゃないだろうか。>「こういう動き」というのは、後で、前に言ったこととは違うことを語っていることを指す。つまり、そのままの意味で受け取られたら、「介入」だという解釈をされると、安倍氏の側も考えているので、言葉を修正してきたと神保氏は受け取っているのだ。だから、安倍氏が最初に語ったような行動は、それだけで「政治介入」だという社会的なコンセンサス(合意)が得られたと、神保氏は解釈している。それなら、この問題は、そういうコンセンサスがとれたと言うことで、一つの決着を見たのではないかと、神保氏は考えているようだ。そういう見方もあるのか、とこれは目から鱗という感じだった。<どのような言い方をしたかということは問題じゃない。脅し言葉を使ったかどうかは本質的な問題じゃない。各企業にとって、深刻な問題というのは、敏感に反応する。>これは、映画なんかを見ていれば十分想像できることだ。本当に悪いヤツは、丁寧な言葉を使う、社会の名士であることが多い。汚いことに手を染めるのは、下っ端の人間にまかせるし、直接何かを指示する言葉などは決して語らない。「よろしくお願いしますよ」という一言で、相手の方が、何を望んでいるかを忖度するのだ。それは、構造的な圧力があるからで、それを企業にとっての敏感な問題といっているのだろう。問題は、そのような構造を改革することだ。構造改革ができない限り、同じような問題は生まれ続ける。NHKの会長がいくら辞任して交代しようと、この構造は変わらない。もちろん、個人としての会長にも責任があるだろうが、会長個人が構造を支えているのではないから、辞任したくらいではそれは変わらない。小泉さんが「構造改革」をぶち上げた時に、僕は、ほんのわずかではあるけれど、本当に「構造」が変わるかも知れないという期待を持った。それは、小泉さんが型破りのように見えたからだ。しかし、ここまでの小泉さんがやってきたことを見ると、型破りだったのは見かけだけで、やっていることは旧態依然とした権益に寄りかかった姿だった。このNHK問題は、議論が本質的な部分にまで展開すれば、もしかしたら「構造改革」の本当の姿を見せてくれるかも知れない。そういうほんの少しの期待を持って眺めている。マル激の議論は、まだまだ続くので、残りは「その3」の方に、つなげることにしよう。
2005.01.26
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論理が分からない「ゴミ」がまた増えてきているようだが、いつまでも「事実」の問題をほざいているのは、事実がベタに(ウラの意味を持たずにそのままの姿で解釈する)現れないと、何も分からないのだと言うことを告白しているに等しい。ウラの意味を読みとる技術こそ論理というものなのだ。他人に事実を示せと言うのなら、自分で先に事実を示せばいいのである。安倍氏が語っているということが事実であることをどう証明するというのだろうか。相手が、自分が語ることが「絶対的な」事実であるということを証明できなければ、安倍氏の側が事実であると証明できるとでも思っているのだろうか。背理法というのは、世界がきっちりと二分される時にしか成り立たない。安倍氏の側が正しいといいたいなら、長井氏の側が間違っていることを証明しなければならないのである。しかしそれは、「絶対的に」証明することはできないのである。せいぜい言えるのは、長井氏の語っていることが本当かどうかは、この時点では「絶対的には」分からないということだけだ。だからこそ、どちらの言い分に妥当性があるかを論理で判断するのである。ここで、「事実を示せ」などという「ゴミ」を撒き散らしている暇があったら、自分でブログでも作って、トラックバックをつけてみろということだ。自らの論理も語れない人間に、この問題に口を出す資格などない。まともな論理展開をしていればトラックバックを返してやるけれど、くだらない言説だったら無視して放っておくだけだ。今週のマル激でもNHKの問題を採りあげて議論をしている。神保哲生・宮台真司両氏に加えて、哲学者の東浩紀氏をゲストに迎えている。話し言葉なので、「」(カギカッコ)で正しく引用することはできない。それで、<>で、僕がどのように受け取ったかを示すことにして、その発言を考えてみようと思う。<>の中は、僕が受け取り方を間違えている可能性もあるので、それを前提として読んでもらいたいと思う。まずは問題提起としての<放送法における中立性とは何なのか>ということを考えてみたい。これは、現在報道されている問題が、何を言ったかということに収斂されてきていることに対する批判だろうと思う。事実の問題ではなく、本質的には「中立性」をどうとらえるかという問題だということだ。以下の議論も、それにかかわるものが多い。<「偏向」の意味。取材対象が語っていることが偏っていた場合、その取材をちゃんとやっても、そのまま報道したら「偏向」になるのかどうか。>という問題に関してはどうだろうか。偏っている人が、いかに偏っているかを伝える「事実」の報道は偏向と呼ばれるのだろうか。偏っているものを提出したということが「中立性」を欠くことになるのだろうか。それなら、もう一つ別の見方を別の番組で提出することで「中立」を保つことができないのだろうか。後の方で、「天皇に戦争責任がある」という立場と「天皇に戦争責任がない」という立場が出てくるが、この立場で複数の番組を作ることが日常化していれば、一つの番組の中で、両方の意見を提出して中和する必要もないのではないかという考えだ。このことに関する一つの答は、宮台氏の次のものだろうか。<それは、見ている人の民度による。それを批判的に受け取ることができない人が多いと、「偏向」になってしまう可能性がある。それを見て、影響を受けすぎる人が多い場合は、「偏向」に見えるかも知れない。メディア・リテラシーの問題がある。>もし、日本人の大部分が、人に言われてその意見を変える主体性のない人間ばかりだったら、一方の側の主張だけを伝える報道は、それがいかに正確であろうとも、「そういう見方もあるんだな」と冷静に受け止めることができなくなる。本来なら、そのような主体性は、教育によって育てられなければならない。しかし、日本の教育は主体性を育てる方向に行っていないので、自分の判断ができる人間が少ないという前提で、NHKの側は社会を見ているのだろうと思う。しかし、自分の判断ができないから、両方の立場を見せるというのは、たとえそれを見せても自分で判断できないのだから、報道そのものの提出に意味がないということにならないだろうか。僕は、むしろそのような中立性を作るよりも、そのままの立場を提出して、それに対する賛成・反対を明確にするように、視聴者に求めることで主体性を育てることにもなるのではないかと思う。反対なら反対でもかまわないと思うのだ。それだったら、自分たちの主張をストレートに示す作品を提出すればいいのだと思う。そして、批判を問えばいいのだと思う。メディア・リテラシーがないからといって、主張を曖昧にすれば、いつまでもメディア・リテラシーは育たないと思う。そのまま受け取らずに、「疑う」という批判精神を持って見ればいいだけの話だと思う。<反対の人を連れてきてしゃべらせれば「偏向」でなくなるのか。「中和」することが解決なのか。両方の意見を、別々に提出することが偏向でなくすることなのではないか。わざわざ中和することで、かえって偏向になるのではないか。>中和すると言うことは、本来の主張を薄めると言うことなので、その主張を伝えたいと思っている人間にとってはマイナスである。一方の側にとってマイナスになるようなことをするのは、それこそ「偏向」だと言うことになるのではないだろうか。<中和の方法に疑問がある。今回の場合は、法廷に全く関係ない人を持ってきて、それを批判する映像を付け加えている。>これは、神保氏が語っていた疑問だったが、僕もその通りだと思う。批判するのなら、シリーズの別の番組として、批判する特集も組んだらいいと思うのだ。そうすれば、両方の意見がハッキリして、それを比較することもできるだろうと思う。そして、比較して自分でどちらに賛成するか判断すればいいのだと思う。<メディア・リテラシーについての想定の低さ。>これは、テレビに関して東氏が語っていたものだ。東氏がテレビに出演した時に、使ってもらっては困る言葉というのを伝えられたらしい。それは、差別語のようなものではなく、視聴者が理解できないだろうと思われる言葉のいくつかだったようだ。「偏向」や「中立」に関する認識というのは、基本的にはこのメディア・リテラシーについて、視聴者の側がかなり低いものだと、放送する側が考えていることに原因があるのではないかと言う。これは民主主義というものをNHKの側があまり信じていないことを示しているのではないだろうか。視聴者に判断をゆだねることができないのだ。また、視聴者に批判されるのが恐いのかも知れない。これは、薄められた「中立」を放送してきたことによる弊害だろう。本来なら、放送の内容は、もしそれが批判に値するものなら、誰を批判しなければならないのかということは、その内容によって決まってくる。いつでも放送をしたNHKの側が批判されるとは限らない。しかし、薄められた「中立性」があれば、いつでも放送したNHKが批判にさらされることになる。視聴者のメディア・リテラシーが高ければ、誰が批判に値するかも正しく判断されるだろうに、と思う。<メディアはイデオロギー的に中立である必要はない。朝日は「偏向」しているという批判があるが、朝日が「中立」であるとする見方が「幻想」だ。NHKに関してもそう。>これは、今回の問題というか、世論の問題の本質を突いているものだろう。今回の批判の多くが、NHKに対するものは、それが与党よりであるという、つまり「右翼的」だという批判だ。それに対して、朝日新聞に対する批判は、それが反権力という「左翼的」だという批判が多い。これは、どちらも「中立」「公正」でなければならないという前提があるので、そうでないのはケシカランという思いが生まれてくるからだろう。しかし、現実には、様々な条件からある種の「偏向」があるのが当たり前だと言えるかも知れない。NHKは、予算を握られているのだから、政府与党に気を遣うのが当然だし、朝日新聞は、その購読者の割合が、左翼的な人間の比率が多いのだから、左翼的な言説に気を遣うのが当然だとも言える。そう考えると、<メディアに対する判断は、見る人にまかせればいい。>というふうに考えていればいいのではないだろうか。いや、日本人はそれだけの判断をする能力が個人にはないんだから、それを指導する立場のものがいるのだ、と考える人がいるかもしれない。しかし、この判断は間違えたっていいじゃないかと僕は思う。人間は、成長するためには間違いを経験しなければならない。間違えることは、権利の一つだ。もし大部分の人がメディアの主張に対して間違った判断をしていれば、それが日本の現状なのだと受け取った方がいいだろう。それを、誰か正しい判断をする人がいて、その人の意見を受け入れることが正しいのだと思っている人間ばかりだったら、それは全体主義国家と言ってもいいだろう。民主主義国家なら、<メディアに対する判断は、見る人にまかせればいい。>というのが基本なのだと思う。<メディアが中立性を保つのは、発信する情報が、全て立場のあるものだと受け取られるのを避けるため。主張としての意見では偏っても、記事そのものは中立性を保つ努力をする。そのためには、例えばクリントンを支持した新聞は、クリントンにとって都合の悪い事実があったら、より厳しくそれを報道しなければ信用されない。>これは、神保哲生氏の発言だがその意味は、主張においては偏っていて、ある種の立場を表明していてもかまわないが、事実においては偏りがあってはならないと言うことだ。これも正論だと思う。そういうことが出来るメディアの方が信用を獲得していくだろう。主張はハッキリしていてもいいが、事実は事実として認めると言うことだ。しかし、これは今回のNHKの問題ではどのように現れてくるかは、まだ分からない。いままでの朝日の動向を見ていると、神保氏は次のような見方もしている。<朝日は、立場的に右を叩く記事が多すぎたので、右から見れば「偏向」しているように見える。>という朝日の歴史があるので、朝日が右から叩かれる客観的な理由もあるということだ。朝日も、左に都合の悪いことこそ厳しく受け止めて報道すればよかったのだろう。しかし、これは朝日に対して「俗情に媚びる大衆迎合主義」と見ている宮台氏の判断が正しいと思う。大衆が左を叩くことを望めば、市場原理として、売れる新聞を作るという意味で左を叩いただろう。朝日は、むしろ左に立つことを自覚すれば、左の正当性を貶めないためにも、左を厳しく見つめることができただろう。それが出来なかったので、左の読者に媚びるために、左をたたけなかったのだろうと思う。そして、結果的に右をたたく記事ばかりになったのだろう。まだまだ、興味深い発言が続くが、今日の所はここでいったんまとめにしよう。
2005.01.25
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NHKの問題を、未だに末梢的な事実の問題だととらえている人間は、木を見て森を見ることが出来ない人間だ。こういう人間は、例えば戦時中のように、大本営放送しか得られない時代には、民衆は正しい判断をすることが出来ず、ただ操られるだけだと考えるかも知れない。しかし、大局的な観点から事実を見直すことで、ハッキリと得られなかった情報を見えない糸でつなぐことが出来るのだ。冷静な目を持っている人なら、聖戦で勝利の連続だと言われていた先の戦争が、周りの事実と合致しないことに気づいただろう。勝利の連続であるのに、なぜ生活がますます苦しくなるのか。勝利の連続であるのに、なぜ若い男が全て兵隊にとられるようなことになるのか。しかも戦死者がなぜそんなにも多くなるのか。周りに、朝鮮からつれてこられた人を知る立場にいる人は、その実態を見れば、これが「聖戦」と呼べるものであるだろうかと疑問を持っただろう。それを確かめる情報は、戦後にならなければ得られなかっただろうが、その情報がなくても疑問を持ち続けることは出来る。軍国主義下では、そのような冷静な目を養う教育はなかっただろうから、このような見方ができる人は少なかっただろう。しかし、それを歴史として学び、民主主義の中で育った我々は、たとえ事実が知られなくても、知られた事実の中に整合性を見て、何が正しいかを判断することが出来るし、少なくともおかしなものに疑問を持つことが出来る。僕が長井さんの言葉に整合性を感じるのは、次のような事実をつなぎ合わせられるからである。・番組は、放送日前日にほとんど完成していた。・放送日前日に、番組の変更のための試写をすることはほとんどあり得ないのに、その異例のことが行われた。・制作者の側に、納得のいく説明のないまま番組の変更がなされた。内容に関する議論を経た上での変更ではなく、ほとんど業務命令の形でなされた。・放送当日も、異例の変更がなされた。これは、制作者の全てが反対したにもかかわらず変更が行われた。これは、長井さんが直接関わった事実であり、他にも多くの人が関わった事柄であるので、NHK上層部も否定していない。つまり、事実として確定していると考えられる。この事実に加えて、・NHKの幹部職員が、放送前日に安倍氏を訪ねて、番組のことについての話をした。(内容については問わない。話をしたということが肝心なことだ。)ということは、NHKも安倍氏も否定していないので事実である。この事実と、長井氏が語る事実をつなげて考えれば、「政治の介入」が行われたと考える整合性が出てくる。それは、番組の変更という事実が、なぜ行われたかということについて、NHKの側が説得性のある説明をしていないからだ。もし、長井さんの語ることが事実でないと主張するのなら、その証明には二つの方法がある。一つは事実でないことを直接証明することだ。つまり、ウソだという証拠を提出せよ、ということだ。たぶんこれは出来ないだろう。そうすると、もう一つの方法である、論理的な整合性という面の証明をするしかないだろう。長井さんが語ることに整合性がないと論証するか、NHKと安倍氏の側に整合性があると論証するかのどちらかだ。僕も、安倍氏がウソを言っていると直接証明することは出来ないし、長井氏が本当を語っていると直接証明することも出来ない。だからこそ、論理的整合性で証明をしようとしている。僕と反対の意見を持っている人間は、そのどちらをしてくれるのだろうか。直接の事実の提示か、それとも論理的な論証か。そのいずれも出来ないで、単に長井さんが語ることが事実であることを示せと、それしか言えないようなら、論理に対する無知を自分で告白しているようなものだ。そういう人間には、このことに関して何も語る資格はない。なお蛇足ながら、朝日が法的な対抗手段を執ったと言うことの意味を解釈しておきたい。法律というのは、たとえ真実であっても証拠がなければ裁判には負けると言うことがある。ひどい時には、権力の側の捏造した証拠に負けることもある。民主主義の手本の国アメリカでさえも、<サッコ・バンゼッティ事件>や<ローゼンバーグ夫妻裁判>のような例がある。そういうことを考えあわすと、法的対抗手段を執ったというのは、朝日の側が動かぬ証拠を握っているのではないかという推測もある。今後に注目していきたいものだ。神保哲生氏の、ビデオニュース・ドットコムのページの「「ジャーナリストやメディア関係者によるNHK問題に関する記者会見とアピール (2005年1月18日)」 」からまた、発言を拾ってみよう。高橋哲哉(東京大学教授)・長井さんの語ることには非常に説得力があると感じた。当時から、噂は局内にあった。それまでに知られていた、このような事柄が、長井さんの発言でつながった、ブラックボックスだったものの中身が分かったというような感じ。この感覚は僕とほぼ同じだ。僕が上で語ったような内容を、高橋さんも感じているとしたら、嬉しいと思う。論理というのは、ブラックボックスを解明するための方法のようなものだ。これが解明出来れば、その出力としての、結果という事実は得られているのだから、入力としての未知の事実は、方程式を解くように解明されていると考えられるだろう。歴史的事実の解明などは全てそうされていると思う。この問題も、いずれはそういう形で解明されるだろう。服部孝章(立教大学教授)・朝日新聞の報道を受けて、NHKの側が調べれば、どこへ行ったかはすぐに記録としては分かるだろう。公用車だったのだから。それが発表が遅れたというのは、NHKの側も問題を軽く見ていたのではないだろうか。だから、今「言った」とか「言わない」とかでもめているような内容も、当初軽く見ていたために、軽く言ってしまったのではないか。安倍・中川両氏についても同じ。・安倍さんがソフトでリベラルという印象を持っている人々が多いことを再認識しなければならない。これはテレビのイメージの問題でもある。これは、「語るに落ちる」という現象を論理的に理解すると、こう判断できるという見方だ。NHKは統治権力への従属が日常的だったから、普通の感覚を失っていたのだろう。こういうのも「構造的無知」と呼ぶような現象ではないかと思う。他の所では、かなり悪知恵もきく、頭のいい人たちでも、このようなところでは全くの愚かさを見せるというのが「構造的無知」なんだろうなと思う。安倍さんのイメージについては、ヒトラーの宣伝を例にとるまでもなく、情緒に訴えるということの危険性を感じる。僕はほとんど情緒に動かされない人間だが、そういう免疫性のついた人間に増えてもらいたいものだと思う。森達也(映画監督)・制作者の意見として、番組が放送当日3分削られると言うことは、普通は絶対にあり得ない。NHKは、当時の裁判で、「よくあること」と言ったが、よくも言えたものだと思う。・その裁判では「期待権」を裏切ったという判決だったが、これはとんでもない判決だ。これを認めたら、取材された方の期待通りの番組しかできない。政治家の汚職をつかんで放送しようとしても、それは期待に反することだから、放送できなくなる。・もう一度、「公正」「中立」「客観」「不偏不党」というものを考え直そうと思う。取材を始めた時点で、それは主観からスタートしている。幻想としての「公正」「中立」を求められたら報道は出来ない。「公正」「中立」が既定の事実であるかのように政治家にいわせてはならない。・「自主規制」というのはない。規制は全て「他律規制」だ。しかし、その「他」の主体がない。具体的な相手が規制しているのではなく、何となくみんなの顔色を見て規制している。・年配の人の言葉だけれど、軍国主義の時代の方が、今よりもいいたいことが言えたという感想があった。森さんの指摘は実に鋭い。言葉の問題で、「公正」とか「中立」とかいう言葉を、表面的にとらえるのではなく、その中にある矛盾(パラドックス)の構造を含んで理解しなければならないということだと僕は受け取った。かつて本多勝一さんも、白紙の「客観的」報道はあり得ないという主張をしていた。それは、何を書くかという選択において、すでに記者の主観が入っているのだから、主観を全く排除した客観はあり得ないという主張だった。「全て」というキーワードが矛盾をもたらすということから考えると、このように「全て」を含んだ「客観」などという言葉を基に考えた「公正」「中立」は、パラドックスからは逃れられないということになるだろう。つまり、政治家が語る「公正」は、政治家の主観から得られる「公正」であり、それが全ての人に承認される「公正」ではないということだ。「公正」であるかないかという判断は、「公正」には出来ないということだ。「公正」に出来ないのであるから、あとは民主主義という制度のもとで、民主主義的に判断するしかない。「公正」という判断が正しいかどうかは分からないが、多くの人に問いかけて、民意を問うことで判断するしかないだろう。それが「言論の自由」というものだ。「自主規制」という言葉の解釈も秀逸だ。「他律規制」という言葉と共に考えるというのは、きわめて弁証法的な扱い方のように感じる。複雑なウラを隠し持った存在に関しては、表面的な理解ではなく、ウラのウラを読むような弁証法的な理解が必要だ。すぐれた人の語ることには、具体的な弁証法がたくさん含まれているとは、かつて三浦つとむさんが語っていたことだが、森さんの言葉にそれを感じる。「自主規制」は、自分の判断によってある種の規制をすることだ。しかし、その判断にはいつも「他人がどう受け取るか」ということが入り込んで規制を考える。そこのところをとらえて「他律規制」だと森さんは見抜いている。形としては、確かにNHKが勝手に番組を変えたのだろう。しかし、上層部の判断は、明らかに政治家の方を向いていて、その意志を忖度して判断しているのだ。まさに「他律規制」に違いない。最後の年配の方の言葉は、今の時代が、すでにファシズムの時代になっているということの感覚を語ったものだろう。この判断は、ジャーナリストの斎藤貴男さんと同じ感覚だ。今は、何を語っても命を奪われるというところまでは行かない。それでも我々は、ものをいうのに「自主規制」ならぬ「他律規制」をしてしまう。完成されたファシズムは、力によって支配し、思い通りに動かすのではない。国民自らがそれに従うような行動をとるようにする。日本は、奴隷の主体性を作ることに成功し、ファシズム体制を確立したのだろうか。しかし、権力の側も、成功のウラに失敗があることを思い知るだろう。奴隷の主体性の持ち主では、権力を支える能力が育たないからだ。奴隷が増えた日本は、やがて衰退し、アジアのリーダーとしての地位は、やがて中国や韓国に取って代わられるだろう。その日は近いかも知れない。
2005.01.24
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神保哲生氏の、ビデオニュース・ドットコムのページで、「「ジャーナリストやメディア関係者によるNHK問題に関する記者会見とアピール (2005年1月18日)」 」を見ることが出来る。その発言を、要旨を抜き出して考えてみようと思う。どれも共感出来る素晴らしい意見だ。たくさんあるので、まずは半分くらいを紹介しよう。岩崎貞昭(「放送レポート」編集長)・朝日新聞と長井さんの記者会見はだいたい一致している。自民党の二人の議員とNHKの見解はだいたい一致している。これが真っ向から対立している。この問題は、両者から独立した第三者が判断する必要があるのではないか。・基本的に、政治家が放送局にものを言うのはなんなのかという問題がある。事前に言えば、これは検閲に当たる。事後に言ったとしても、これは何らかの影響力を行使することになるのだから、ものを言うこと自体が問題だ。・NHKの側の問題。不自然な点。なぜNHKの側から放送の内容について伝えなければならないのか。安倍・中川両氏は、直接には予算には関わっていない議員だ。その議員に説明をしに行くというのを、おかしいはずなのに、堂々と記者会見で言うのはどういうことなのか。・作品の出来は、プロの作り手から見ればひどい作品になっていることが明らかで、ずたずたに切り裂かれているのが分かる。・通常より4分短い番組を、直前になってから納入するというのは、民放ではあり得ない。・この事件に関するNHKの報道は偏向している。自民党の側の情報を流すだけで、長井さんの側の情報はほとんど流さない。報道機関としては、たとえ自分の問題であっても、これは公正とは言えないのではないか。僕も、岩崎さんが語るように、問題の本質がどこにあるかを基本的に考えるべきだと思う。それは、事実がどうなのかということではない。むしろ論理の問題だ。長井さんが語ることに整合性があり、NHKと安倍・中川両氏の発言の側に整合性がないということが問題なのである。この論理的矛盾を問題にせず、末梢的な事実の問題の証明に話が行くようなら、日本の民主主義は近代などといえるものではなく、その民度の低さを証明するようなものになるのだと思う。番組がいかにひどいものになったかというのを、変更前とその後とを比較して比べてみたいものだと思う。小田切誠(「GALAC」編集長)・問題の本質の一つは、NHKの予算などを握っている政府との関係をどう保つことが公正さを実現するのかという問題。・二つ目は、政治家の介入の問題で、介入を疑われるような行為そのものを避けるのが政治家の倫理という問題。たとえどのような形であろうとも、放送の内容そのものを伝えるのが問題。・マスコミが、安倍氏の言説を検証抜きに垂れ流している。小田切氏は、政治家に倫理を求めるのは、八百屋で魚を求めるようなものだという、むかし語られた比喩を語ったりもしたが、もしも国民の意識がそんなものになっているとしたら、やはり日本の民度は低いとしか言わざるを得ない。NHKの問題は、我々の民度をいかに上げるかという問題でもあるかも知れない。桂敬一(立正大学教授)・こういう問題は、世界的に起こっていると注目されているようだ。権力とメディアの関係において、同じような支配の問題が起きている。・放送に関するメディアへの権力の介入がケシカランということでメディアが一致しないことが問題だ。メディアが、ジャーナリズム精神を失っていると言われてから久しいが、それが明らかに見えるようになったのは、この事件の成果と言えるかどうかは難しいところだ。僕は、ほとんどテレビは見ないし、今年になってから新聞の購読もやめた。もはや、マスコミはジャーナリズムではない。政府公報にも近い情報などを流す、全く役に立たないものになった。北村肇(「週刊金曜日」編集長)・大きな問題は3つ。NHKが政治的な原因で番組を変えていたということ。自民党に、番組の内容を事前に説明していたと言うこと。それにもかかわらず、NHKは開き直って、何が悪いかという態度でいることが問題。・メディアが一致していない。論理のすり替えに荷担している。問題が、番組の内容の問題に変わってきている。・メディアがジャーナリズムを守れるかどうかという危機にあると認識しなければならない。権力の監視という本来の使命を自覚出来るかどうか。一人一人の記者に期待したい。番組の内容にかかわらず、権力の側が番組の内容に口を出すと言うことそのものが問題であるのに、メディアの側がそれで一致出来ないと言うのは、メディアが、政府公報に成り下がり、ジャーナリズム精神を失っているからだろう。斎藤貴男氏がそういうふうに指摘していた。番組の内容そのものも、簡単に評価出来るものではなく、むしろ視聴者に問題を投げかけるものになっている。そういうものさえも許さないと言うことが、「言論の自由」の弾圧であると僕は思う。斎藤貴男(ジャーナリスト)・日常的にNHKと政治家の関係があるということが問題。絶対にあってはならないこと。・自民党の政治家の歴史を研究するグループの発言に問題のあるものがある。「もと従軍慰安婦だと言われているものが何を言おうと、そんなものは証拠がないんだからほっとけ」とか、「何も証拠がないんだからなかったことにする」とか、「戦争なんだから、命賭けて戦うんだから、その前に楽しみを与えてやるのが当たり前じゃないか」と、こんなことまで平気で言っている。こういう人間たちにNHKが、頭を下げてお伺いをするのはどういうことなのか。NHKが、様々の不祥事を起こして、その内部が注目された時に、NHKの職員がものを言えない雰囲気の中で働いていると言うことが語られていた。それは、日常的に、統治権力の顔色をうかがう姿勢がNHKの中に蔓延していたからだ。上の顔色をうかがわなければ、仕事そのものが出来ないという中で、政治圧力が、それがあるのが日常という雰囲気がNHKにあるのだと思う。自民党の政治家の放言については、このような下品で思慮の浅い人間たちが、「公正さ」などという高級な概念の評価が出来るかどうかが大いに疑問になるということを言っておこう。このような下品な放言は、長井さんの語ったことにも投げつけられているようだ。「証拠がなかったら」と言うことが、開き直る要素になっているようだが、このように考えることで、自らの品性の下劣さを示しているのだと言うことを知るべきだ。広河隆一(「DAYS JAPAN」編集長)・ジャーナリズムが健全に機能しているかどうかは、それが権力や政治をきちんと監視出来ているかどうかということ。ジャーナリズムの本来の使命を分かっていない人間が、政治家や、メディアの管理職的立場にいる人間に増えてきていることが問題だ。・伝えるべき事実を持っているジャーナリストはいるのに、日本には、それを伝えることの出来る媒体がない。民主主義を勘違いしている者は、選挙で勝った政権担当勢力というものがやることは、国民の支持を得たのだから正しいと思う。しかし、民主主義のパラドックスは、多数決に勝ったからと言って、それが多数の支持を得ているとは限らないことを示している。ましてや、正しさなどは全く証明してはいない。政府に反対するものがケシカランと思っている人間は、近代民主主義というものを理解していない、時代遅れの人間である。民主主義を理解している人間なら、権力が間違いを冒さないかどうか、監視することこそが民主主義を支えるのだと理解するだろう。日本に真のジャーナリズムを伝える媒介がないというのは、やはり民度の低さの問題である。坂上香(映像ジャーナリスト)・番組の変更の支持は、すでにかなり前から始まっており、それは、制作者との議論によって変えていくというのではなく、一方的な業務命令の形で変更が支持されていた。・(坂上さんは)第3夜の作り手だが、第2夜の女性法廷とのつながりの部分が削られていた。その切られ方は、制作者としては、作品の完成度を破壊するような、必然性のない切られ方だった。・長井さんと朝日新聞を孤立させたくないと思う。坂本衛(ジャーナリスト)・いろいろな意見があろうとも、政治介入はだめだという認識が大事。・細かい事実関係に問題が矮小化されているけれど、安倍氏の発言だけを見ても、政治介入は明らかだろうと思う。・「心ある関係者からの情報が寄せられたため、事実関係を聴いた」という安倍氏の言葉(ホームページ上に12日に掲載された)から、事前に内容を「聴いた」とハッキリ言っている。論理的な整合性を求めて発言を見れば、NHKも安倍・中川両氏も、「語るに落ちている」ことが分かるだろう。これは、日常的に政治介入しているので、それが当たり前だという感覚が身に付いているのだろうと思う。それで、不用意に発言する時は、よく考えれば政治介入になることをしていることを、このようにぽろっと語ってしまうのだと思う。篠田博之(「創」編集長)・今回は、ある意味ではNHKが明らかに自主規制をしているが、その自主規制そのものが、政治圧力の結果としての自主規制であることを認識しなければならない。政治介入の形が、このように変化していることを考えなければならない。・番組前にお伺いを立てることをNHKが恥ずかしいと思っていないのが情けない。内部告発を奨励する制度を作りながら、いざ、内部告発されると、それを上から叩くなどという行為も見苦しく情けない。・安倍さんは言いたい放題で、長井さんの伝聞を非難しているのに、自分も放送された裁判については、伝聞情報しか語らないのに、それについてメディアの側が何も批判せずに垂れ流している。この問題を間違えて判断しているものは、自主規制をしているから、これはNHKの問題であって、政治家の問題ではないと考えているものがいるようだ。それは、政治圧力というものがどういう形で現れてくるかが理解出来ていないのだろうと思う。明らかに政治介入であることが分かるような形でやってくれば、民主主義国家では逃げることが出来なくなる。一応民主主義国家で生きているのであるから、その点は政治家も工夫するだろう。その点を理解して問題を考えなければならない。長井さんを批判する人間は、その批判が、むしろ安倍氏の方にこそ当てはまるということを考えていないようだ。いずれにしろ、どちらの方が論理的に整合性のあることを語っているかをよく考えてみたいものだ。明日も、残りの人の発言を考えていきたいと思う。
2005.01.23
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内田樹さんが、自身のブログの中で、「言論の自由と時間 (1月18日)」という文章を書いている。ここで触れているNHKの問題に関する考察が、非常に論理的で明快だ。今マスコミでは、末梢的な事実の問題にこれが矮小化されそうになっているが、議論を内田さんが語る方向に戻して考える必要があるだろうと思う。これをまだ知らない人のために紹介しようと思う。内田さんは、その著書「寝ながら学べる構造主義」で初めて知った人だった。それまで、構造主義というものがほとんど分からずにいながらも、どこか間違っているんじゃないかという思いを抱いていた僕にとって、この本は目から鱗という感じを受けたものだった。構造主義の本質が見えてきて、その積極的な意義も伝わってくるような感じがした。内田さんは、実に説明がうまい人だ。これは、昔三浦つとむさんを読んだ時にも感じたことだが、自分が語ることを構造的に、全体像を把握して理解している人は、分かる語り方をするという感じがした。しかも、三浦さんのように、難しい用語には丁寧な解説を付けてくれる人はさらにわかりやすいところがある。内田さんにもそのようなところがあるのを感じた。宮台氏は、その親切さに少し欠けるところがあって、難しい用語をそのまま使うが、それが理解できると、宮台氏が語ることは、それ以外の意味にはとれないという間違いようのない意味で伝わってくる。それが論理的ということだろうと思う。内田さんは、論理的でありながら、しかも親切な書き方をしてくれる。内田さんは、NHKの問題を「言論の自由」の問題として考えるのが本質的なとらえ方だと語っているように感じる。その「言論の自由」の考え方も、きわめて明確でわかりやすい。引用しよう。「政治的意見の公表についての私の立場はわりと簡単である。「言う人」は好きなことを言いたいように言う。その適否については「聞く人」に判断してもらう。」これは、板倉さんが語る「言論の自由」と同じだ。「言論の自由」は、基本的には「何を言ってもいい」のである。「自由」というのはそういうものだ。それじゃ、何でもありだな、と思って誹謗・中傷でもいいんだと短絡的に考えるのは、論理が分からない人間だ。何でもありが原則だからこそ、自主的に判断して規制するのが「自由」というものなのである。これはいいけれど、これはだめだと、人から教えてもらわなければ分からない人間は、「自由」が分かっていないのである。「自由」を正しく行使するには能力が必要なのだ。言論は何を言ってもいいが、とんでもないことを言えば、聞く人がそのひどさを判断して、その人間の言論能力を低い水準だと判断する。それがいやなら、どのように評価されるかを考えながら発言するというのが、「言論の自由」の正しい行使の仕方だ。だから、「言論の自由」を支えるのは、「聞く人」の判断も高い水準になければならないという条件がいる。「聞く人」が「言う人」の語る内容を正しく評価できなければ、「言論の自由」も本当の意味では実現されていないのである。「今回のNHKの事件では、中川と安倍というふたりの政治家がいずれも自分たちには「言論の適否を判定する能力が、自分以外の人間よりも豊かに備わっている」ということを不当前提している。」と内田さんは語るが、安倍・中川両氏の態度は、「言論の自由」の原則に反する。「聞く人」が判断をするという権利を侵している。しかも、「言論の適否を判定する能力が、自分以外の人間よりも豊かに備わっている」という前提がきわめて疑わしいのも問題だ。このようなことをこそ議論して、我々一人一人が、「聞く人」としての水準を上げるようにすることが、今回のNHK問題では重要なことだ。内田さんは次のような情報を紹介している。「中川昭一は朝日新聞とのインタビューでこう語っている。―なんと言われたのですか。「番組が偏向していると言った。それでも『放送する』と言うから、おかしいんじゃないかと言ったんだ。だって(民衆法廷は)『天皇死刑』と言っている」―「天皇有罪」と言っていましたが。「おれはそう聞いた。何をやろうと勝手だが、その偏向した内容を公共放送のNHKが流すのは、放送法上の公正の面から言ってもおかしい」―放送中止を求めたのですか。「まあそりゃそうだ」―報道や放送への介入にあたりませんか。「全然そう思わない。当然のことをやった」やっぱり目をつけるところが違うなと思う。ここに紹介された中川氏の言葉に問題を感じないとしたら、だいぶ感覚が鈍っているので注意した方がいい。内田さんは、「中川という政治家はある意味で率直な人間だと思う」と語っている。つまり、このような感覚が、統治権力の側の政治家には普通なのだろう。しかし、この言い方が、「言論の適否を判定する能力が、自分以外の人間よりも豊かに備わっている」ということを語っているものなのである。そういう前提で論理を展開すれば、「中川は「NHKの視聴者には番組で報道される言説の適否を判断する能力がない」ということを前提にしてしゃべっている。」という内田さんの結論が導かれる。これをもっとハッキリと言えば、「中川は、「視聴者はバカだから、メディアがどんなことを報道しても、それを無批判に受け容れてしまう。だから選択的に『正しい』ことだけを報道させるように、私は監視しなければならない。それが政治家としての私の仕事の一部だ」と考えた。」というような言い方になる。これが、いかに「言論の自由」に反するものであるかを議論しなければならない。内田さんの議論は次のようなものに展開する。「「選択的に正しいことだけを報道する」ということが原理的にありえないからである。というのは、無数の無価値な情報、虚偽の報道、イデオロギッシュなメッセージの中から、何を聴き取り、何を「正しい」とするかを決定するのは国民ひとりひとりの不可侵の権利だからだ。」このことを原理的に認めると、論理法則として、言論の内容を事前に誰か第三者が判断すると言うことが間違いであることが結論される。その言論がどのような影響を与えるかは、言論の提供者は考えなければならない。どのように評価されるかは慎重に予想しなければならない。しかし、その発表は許されるというのが「言論の自由」の考え方だ。そして、自分が考えた評価が世の中に受け入れられるかどうかを問うためにこそ発表が許されるのだと考えなければならない。このような論理を進めていると、いついかなる時でも「言論の自由」は認められるべきだと受け取る人がいるかもしれないが、「いついかなる時」という「全て」を包含してしまうとパラドックスに陥る。「原則」として認められると言うことの意味は慎重に考えておいた方がいい。僕は、以前に田中真紀子氏の長女のプライバシー問題の時に、「週刊文春」がやっていることは、「言論の自由」をはき違えてプライバシーの暴露をしているだけだと批判したことがあった。これは、「週刊文春」がやっていることが、「言論を公開して多くの人の判断を問う」というようなレベルのものではないという批判だった。決して「言論の自由」の否定をしたのではない。このときに、長女の側が、母親の権力を使って、その記事の内容を事前に知ったのだったら、そこには問題が生じただろう。しかし、その時はプライバシーにわたる末梢的なことを記事にすべきではなく、もしそのような権力の行使をしたという事実があったら、そのことをこそ記事にしなければならなかっただろう。そのような記事であれば、僕は少しも問題はなかったと思う。しかし、実際には、単なるプライバシーを記事にしただけで、しかもそれがプライバシーの暴露に当たるかも知れないと言うことで、やばいと思ったのか、「週刊文春」の側が長女の側に、記事の内容を示して来たのではなかったのだろうか。だから、NHKの問題とは、「言論の自由」の質が全く違うのだというのが僕の判断だ。今回問題なのは、内田さんが指摘するように、「中川が「正しい報道」だと思うのは、「中川にとって正しい報道」であり、例えば「私にとって正しい報道」とは重ならない」ということなのだ。中川氏の判断で、放送が放映されないことになれば、それを見て判断しようとした人間の判断が出来なくなる。判断する権利を侵しているのだ。政治家という権力者には、そのような権限があると思うのが間違いだ。その間違いを、国民が理解して議論しなければならない。「中川が永田町内で比較的影響力のある与党政治家であるというだけの理由で、報道内容についての「中川的正しさの基準」が「ウチダ的正しさの基準」より優先されるべきだということに私は同意することができない。」この感覚を、国民の一人一人が持つべきだ。それが、僕が何度も主張している主体性というものだ。自分の判断能力には自信がないから、ということで判断をしないということではいけない。少なくとも、判断の材料を提供しないと言うことに関しては、それが間違いだという認識を持たなければならない。「私は「事実のレベルの問題」と「原理のレベルの問題」は同一次元で論じてはいけないということを申し上げているのである。「視聴者には報道内容の適否を判断する能力がない」というのは「事実のレベル」ではかなり蓋然性の高い主張である。しかし、「だから適否の判断を視聴者には委ねない(私が代わりに決めてやる)」というのは「原理のレベル」で受け容れることのできない主張である。」このことは大いに議論にのぼって欲しいところだ。末梢的な事実を語る議論ではなく、原理のレベルでの議論をしなければならない。NHK問題の議論はこの部分でやられなければならないと思う。この原理を支えるのは、また次のような原理でもある。「民主社会における私たちの人権は「誤り得る自由」も含んでいる。「誤り得る自由」が認められず、「正解する自由」だけしか認められない社会というのは、人間が知的であったり倫理的であったりする可能性が損なわれる抑圧的で暗鬱な社会である。」これも非常に明確で、僕などは全く当たり前のことだと思う。「言論の自由」には、間違った原論を主張する自由も含まれる。それを発言する時点では、間違いであるかどうか分からないのだから。それを認めつつ、もし間違っていれば厳しく批判すればいいのだと思う。僕の所のコメントも、基本的にはそのような方針を持っている。とりあえず何を書いても自由だ。しかし、水準の低いものに関しては、思い切り罵倒するか、全くの無視をする。それが、僕の評価だ。それは、僕の評価だから、そのまま受け入れる必要はない。それを「聞く人(見る人)」は、自分の判断を持てばいい。でも、僕は水準の低いコメントの水準が分からない人間の判断は、論外だと思って受け入れるつもりはないから、それを承知で、ここを訪れて欲しいと言うことだ。僕は、正しいか正しくないかを自らの中にある基準で判断する。だから、どんな言論を見ても、それを見ただけでヘタレることはない。そんなものは、冷静に分析して評価すればいいだけのことである。自分の信じていることの反対を主張しているものを見て、心が揺さぶられて、それを消し去りたいという気持ちになるのは、自分の判断に自信が持てないヘタレのやることである。安倍・中川両氏は、ヘタレた政治家なのだろう。
2005.01.22
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田中宇さんのイラク戦争の際に立てた仮説について、いくつかやりとりをしたことがあった。そのとき、田中さんが、「イラク戦争が起こらない」という仮説を立てたのだと思っている人間が多かったのに驚いた。田中さんの仮説は、まず一つは、「イラク戦争がアメリカの利益にはならない」という仮説だった。これは「利益」というもののとらえ方によるが、経済的な面もアメリカはイラクの石油を手に入れたとしても、それで国家の利益になるという単純なものではないという予想をしていた。戦争にかかる費用などを計算に入れればマイナスの方が大きくなると言うものだった。さらに、アメリカの権威の失墜というものがある。これまで築き上げてきたアメリカの「善」なるイメージが、このイラク戦争で地に落ちるというマイナスだ。その他にもアメリカのイメージを落とすようなことが起きて、このイラク戦争はやればアメリカが損をするだけだと言うことが田中さんの予想だった。これは、まだ起きていないことを予想するので「仮説」という形をとる。そして、この「仮説」としての予想は実際に起きたことを見て、それが正しかったかどうかを判断する。今のアメリカの現状を見れば、この予想はほぼ正しかったということが了解できるのではないだろうか。アメリカは、人権を尊重する民主主義国家であるという幻想も打ち砕かれて、アメリカの民主主義はウソとごまかしに満ちていることもわかり、その権威は地に落ちた。しかし、この予想そのものは、田中さんだけの独自の予想ではない。まともな論理を使う人間は誰でも似たような結果を予想していた。僕のような市井の一個人である素人でもある程度は予想できたことだ。だから、田中さんは、ジャーナリストとして大胆にももう一つの予想(仮説)を提出したのだと思う。それは、ブッシュ政権の中枢にも、この程度のことには気づくだけの人間がいるだろうという仮説だ。田中さんは、それをパウエル国務長官に期待したようだ。パウエル国務長官の行動の中に、イラク戦争を阻止しようとする意味を読みとろうとしていた。ブッシュ大統領の論理能力には、かなりの疑問符を感じるが、その側近たちはアメリカではエリート中のエリートばかりである。知能指数の高い集団だといわれていた。だから、情報を細かく分析していけば、やがてはパウエル国務長官の説得が功を奏するのではないかと予想したのだろう。しかし、結果はそうはならなかった。実際にイラク戦争が行われたので、田中さんが予想した、「アメリカの権力の中枢が正しく論理的に判断する」ということは間違っていたという結果になった。あれだけすぐれた人間が集まっているのに、これは信じがたいことだ。それで、その信じがたい気持ちが、「陰謀があると思わなければとても信じられない」という感想にもなってくる。これを採りあげて、田中さんが陰謀説を主張していると受け取ったものもいたようだが、これはネタとして語っているだけだ。今のところ、なぜアメリカの権力の中枢が間違った判断をしたのかが理解できないので、例えば「陰謀」でもあったんじゃないかとネタを振っただけのことなのである。今回田中さんは、「北朝鮮崩壊の可能性を分析する 」という文章の中で、「崩壊の可能性は低い」という予想(仮説)を提出している。これも、仮説として受け取ることが出来ないと、また誤読をするんだろうなと思う。僕は、この仮説を正しく受け止めるためにも、田中さんが判断した根拠になるものを正しく受け止めることに努めようと思う。田中さんは、まず「北朝鮮崩壊」という予想をする者たちをいくつか挙げている。・「「北朝鮮の金正日政権は、間もなく崩壊するかもしれない」といった予測が最近、日米欧の専門家らから相次いで出され、世間をにぎわせている。」・「来年のクリスマスまでに政権内部が破裂し、金正日は次回のクリスマスを楽しむことはできないだろう」「金正日政権を継続するために中国が負担する政治的なコストが高いものになっているので、中国はすでに金正日に取って代わるべき将軍の人選を決めているのではないか」「間もなく日本のテレビ局が北朝鮮の政治犯収容所における虐待を撮影した映像を入手しそうで、これが放映されたら、韓国の世論も(金正日政権を倒せという方向へ)変化するだろう」(アメリカのネオコンの一人であるハドソン研究所のマイケル・ホロウィッツ上席研究員)・「日本では、公安調査庁が12月末に発表した公安動向の報告書の中で、北朝鮮の政権の弱体化は今後「ますます深刻化していくものとみられ、政策の選択や金正日総書記の後継問題などをめぐって指導部内の緊張・確執が表面化することも考えられる」と分析した。安部晋三・自民党幹事長代理も、北朝鮮で政権転覆が起きる可能性があると発言している。」・「欧州では、年末に北朝鮮を訪問したEU代表団のメンバーが、金正日政権が不安定化しているので、突然の激変に備えた準備をしておいた方が良いと警告した。EU代表団は、2期目に入るブッシュ政権がもっと大きな圧力をかけてくるのではないかという予測を受け、北朝鮮の政権内部で分裂が激しくなっていると指摘している。」これらの予想に対して、田中さんは次のように語っている。「だが、日米などで主張されている北朝鮮崩壊予測の根拠を詳細に検討すると、予測の具体的な根拠が薄いことが感じられる。」この「感じられる」理由として田中さんが挙げている事実を見ていこう。一つの根拠は、「若手登用で経済自由化」が図られているという事実を見ている。「ナンバー2の張成沢(チャン・ソンテク。朝鮮労働党組職指導部・第1副部長)とその側近たちが相次いで粛清され」たのに対して、「軍の最高決定機関である「国防委員会」のメンバーと、経済自由化政策を進める実働部隊である政府内閣の閣僚に、40-50歳代の若手を次々と抜擢して任用している。軍の各部隊の司令官クラスには30-40歳代を抜擢している。」これは、「老人たちに任せておくと「社会主義によって理想の国家を作る」という昔の目標にこだわりすぎて「社会主義は失敗だから、中国のような自由市場体制に早く移行しよう」と考えることができないからだろう」と田中さんは考えている。これはたいへんな英断であり、おそらく社会主義国家としては革命的な変革ではないかと思う。僕は、ゴルバチョフの改革が重なって見えてきてしまう。ゴルバチョフは、権力の中枢にいながら、その権力が崩壊するという未来を正しく見据えることが出来た人だったと思う。それが出来たからこそ、それまでのソビエトでは考えられないような改革に踏み切ることが出来たのだと思う。それと同じことを、もし金正日がしているとしたら、金正日が「北朝鮮」で最も賢い人間なのかも知れないとすら思える。このような改革が進んでいるとしたら、金正日体制が弱まっているということの方が信じられない。むしろ、その反対勢力の方が、何をしていいか分からなくて弱体化しているのではないかと思うくらいだ。また、「北朝鮮」のあちこちから金正日の肖像画が消え、バッジを着ける人もいなくなったことを田中さんは、「これらの一連の動きは、金正日自身が肖像画や個人崇拝をやめるように要請した結果である可能性がある」と解釈している。これも、もしもこのような方向に進んでいることが事実だとしたら、金正日は、指導者として正しい方向を選んでいるように感じる。「北朝鮮」の経済発展には、資本主義的な経済を支える国民が必要だが、それは、個人崇拝をするような主体性のない国民では担うことが出来ない。それを金正日が理解しているならば、やはりゴルバチョフ並みに賢いのではないかと感じざるを得ない。「中国(と韓国)は、北朝鮮が中国式の経済自由化政策(経済は自由化するが政治は一党独裁を維持する)を成功させ、北朝鮮の人々が脱北しなくても北朝鮮国内である程度豊かに暮らしていけるようにすることを考えている。」という田中さんの解釈も、僕は、将来を考えたら、この方が中国にも韓国にも国益になると思えるだけに、論理的な整合性を持っているように感じる。また、この解釈の正しさを予想させる事実も次のように語られている。「韓国では昨年10月、野党ハンナラ党の鄭文憲議員が、韓国政府が北朝鮮の体制崩壊に備えて以前から「忠武計画」という有事計画を秘密裏に作っていたことを暴露した。これに対し盧武鉉政権の韓国政府は、北朝鮮の崩壊はほとんどあり得ないので、今の段階で有事計画について議論する必要はないと表明し、有事体制の議論を進めるべきだと主張する鄭文憲議員らに対し、国家機密を漏らしたため訴追すると脅しをかけた。」このように、「北朝鮮」に最も大きな影響力を持つ中国と韓国が、その「崩壊」を全く考えていないのであれば、「(北朝鮮崩壊)予測の具体的な根拠が薄い」と判断したくなるのではないだろうか。ただ、これはあくまでも予想なので、その予想が崩れる要素というものもある。それを、田中さんは「北朝鮮存続のカギは経済自由化」というものに見ている。「韓国と中国が支援している経済自由化が軌道に乗れば、北朝鮮が崩壊する可能性は低くなり、逆に経済自由化に失敗すれば、政変が起きやすくなり、崩壊の可能性が高くなる。」と語っているように、経済自由化が進み、それなりに経済成長するようなら、崩壊の可能性が低くなるというふうに見ている。問題は、何らかの原因で経済自由化に障害が出て、経済成長がストップした時だ。その時は、田中さんの予想に反して、「北朝鮮崩壊」というシナリオの方が現実になるかも知れない。しかし、田中さんの予想(仮説)は、それを含んでのものであることを注意しておかなければならない。「北朝鮮」が崩壊してしまったということが、たとえあっても、それだけで田中さんの予想が間違っていたということにはならないのだ。崩壊するケースについても、「経済自由化に失敗した時」という具体的な条件が付いているのだから、これが正しいかどうかを見なければならないのだ。この考察を総合的にまとめたものとして、田中さんは「私は今のところ「中国が自国で成功した改革開放政策のノウハウを伝授しているだろうから、北朝鮮の経済自由化は意外と軌道に乗るのではないか」と予測している。」と語っている。だから基本的には、「崩壊はないだろう」という予想だ。そして、合わせて次のような予想もしている。「日本政府は、対米従属度が高いだけに、北朝鮮に対する経済制裁を検討するなど、北の崩壊を支持する立場にあるが、今後の動向しだいでは、転換もありうる。」このことはよく覚えておきたい。田中さんは、「自由化が成功するかどうかは、今年中にある程度分かるだろう」と語っている。今年の年末に、果たしてどうなっているか、「北朝鮮」の経済状況と、日本政府の対「北朝鮮」外交の基本方針が変わらないかどうかに注目していくことにしよう。
2005.01.21
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さてNHKの問題の重要性をよりハッキリと認識するために、それが持ち上がってきた前後の安倍氏の発言を詳細に分析してみよう。僕の考えに「ゴミ」のような非難を寄せてくる人間は、この分析というものが分かっていない人間が多い。それが真っ当な批判になっておらず、「ゴミ」の非難にしかなっていないのは、単に言葉を並べるだけで分析がないからだ。一例を引いておくと、僕が「全て」を含んだ言説がパラドックスになるといったことと、安倍氏の発言が正しいこと、すなわち長井氏が間違っていることを証明したければすればいいと言うことを取り上げて、そこにこのパラドックスがあると思い込んではしゃいでいたのがあったが、その論理的間違いを指摘しておこう。「「関与した」という主張が全て否定されれば、「関与していない」という主張が正しいことが分かる。これも、必要なら全てを否定してくれということだ。」という僕の言葉は、証明というのは必要な側がやれと言うことを語った上での言葉だ。一般論としての「全て」に関わる証明をしろと言うことではない。つまり、「出来はしないだろうけれど、やりたければやれよ」と言うことだ。僕にとってはそんなことは必要ない、というか、不可能なことだから、必要がないように論理を組み立てたと言うことだ。それを鬼の首を取ったように、喜んで次のように書くのは、論理に対する無知というものである。「あれ、そうすると、昨日と言っていることが正反対ですね。 今日は必要なら、全てを否定してくれとおっしゃいますが、昨日は全てを包含する言葉を使えばパラドックスに陥るといっていますね。 全てを包含する言葉は使うのは論理的無知とも昨日は言っていますね。 そして、今日は全てを包含を使って、それを反対論者に実行せよって言っていますね。 あらら、矛盾していますね。 自分でパラドックスに陥ると分かっていたはずなのに、できないことを相手に押し付けるなんて、秀氏はステキです。」僕が押しつける必要なんてない。その証明が必要ないような論理を組み立てれば、証明をする必要はないのだ。しかし、その論理が組み立てられなければ、最後は、長井氏の側が事実を証明できないことにしがみつくしかないだろう。それは、裏返せば、自分たちが事実でないことを証明しなければならないことに結びつくわけだ。なぜなら、事実の証明というのは、それが必要な側が行うものだからだ。僕が押しつけなくても、それしか論理が組み立てられなかったら、それをするしかないだろうということだ。こういうことではしゃぐのは、具体論と一般論の区別がつかない論理的無知があるからだ。論理的無知があるとアイロニーも理解できない。こんな証明は出来ないことだから、もちろん安倍氏の側ではそこに関心を持っていくことはしないだろう。あくまでも長井氏の言うことに物理的な証拠がないことの方を突いていくに違いない。しかし、それは自らの言っていることも同じだということには触れないだろう。それに触れたら、どっちが証明しなければならないかが問題になるからだ。こういう事実の問題にすることが、問題を矮小化することだと宮台氏は語っている。全くその通りだと思う。ここでもう一つ付け加えておけば、長井氏が語ることの方に信憑性があるかどうかは、今後、長井氏がどのような攻撃を受けるかで推測することも出来る。すでに、長井氏の思想・信条に対する攻撃が始まっているようだが、このようなところに攻撃の矛先が向き、本質的に重要な、「言論の自由」を脅かすというのは、どのような行為がそれに当たるのかという議論から離れた、末梢的な個人攻撃の方に流れるようなら、長井氏が語っていることはほとんど本当だと信頼してもいいと思う。言論そのもので批判することが出来ないで、人格攻撃をしてくるようなら、それだけでまともな論理ではないということが分かる。まともな論理を使わない側が、間違ったことをいっている可能性の方が断然高いのである。さて、前置きが長くなったが、昨日の日記で引用しておいた朝日の記事から安倍氏の発言を抜き出して分析してみよう。なお、朝日について、その「大衆迎合」を批判していたのに、その記事を信じるということがおかしいと、とんちんかんな非難をしているのもいたが、それは、「大衆迎合」と言うことの意味を分かっていない田吾作である。記事の事実部分が信用できなければ、それはもはや「新聞」ではない。「大衆迎合」というのは、その論説部分や、記事を採りあげる傾向において現れるのである。僕は、朝日はまだ「新聞」であると思うから、事実に関しては「誤報」と言うことはあるかも知れないが、意図的な捏造はないという前提で引用しているのだ。だから、次の朝日の記事を引用して考察しよう。「安倍氏は「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った。国会議員として言うべき意見を言った。政治的圧力をかけたこととは違う」としている。」ということが12日の時点での発言だ。ここでは、明確に「意見を言った」と語られている。また、「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた」とも語っている。この言葉を普通の日本語読解力のある人間が読めば、<放送前に放送の内容を知って、それに批判的な意見を言った。>と理解するだろう。これは、番組制作者が、制作の過程で議論するのならば問題はない。制作者が番組の内容を知らないなどとは考えられないし、議論の過程では批判も出るだろう。しかし、安倍氏はどのような立場でこの行為を行ったのか。宮台氏は、当時の官房副長官だったと語っていた。その立場の人間が、どうして番組の内容を放送前に知り得たのか、そして、それを放送前に批判すると言うことがどのような意味を持つのか。まともな論理が使える人間だったら、これが事実だとしたら、それは「政治介入」だと思うだろう。ここから分析にはいるのだが、安倍氏がこのようにうっかり口を滑らせたのは、その心理状況を解釈することは出来る。NHKは、数々の不祥事を起こしているが、それは組織全体の腐敗というものが原因していることは明らかだ。特に、政治との癒着とそのケツ舐めはひどいものがあるらしい。その前提で考えると、このようにNHKの側が政治家にお伺いを立てるなどと言うことは日常茶飯事だったのだろう。そうであれば、事前に放送内容を知って、それに意見を言うなどという行為は、ばれたらたいへんなことになるが、当たり前の行為だったのではないかと思う。それを当たり前だと思う感覚が、不用意にこの発言につながったのだと僕は推測する。しかも、安倍氏が問題の番組のようなものに反対する意見の持ち主であることは誰もが知っているので、何を今更聞いてくるのだというような感じで自信を持って語ってしまったに違いない。この発言内容が次のように微妙な変化をしていくのはなぜかと言うことを今度は分析しよう。「安倍幹事長代理は、当時、番組を担当していたNHKのチーフ・プロデューサーが13日に記者会見したことを受け、「『NHKを呼びつけた』『番組内容を変更するよう圧力をかけた』との報道や発言は全くの誤りだ」との談話を発表した。 安倍氏は「NHKとの面会は『予算の説明に伺いたい』との要望に応じたもの」としたうえで、「NHK側から予算の説明後、自主的に番組内容の説明がなされた。『偏った内容だ』と指摘したり、番組内容に注文をつけた事実も全くない」と説明した。」これは14日の報道の内容だ。12日の記事では、『NHKを呼びつけた』『番組内容を変更するよう圧力をかけた』というようなことは書いていない。これは、長井氏がそのように感じたと言うことを指して言っているのだろうが、これを<安倍氏が言ったと報道された>ことにして事実関係の間違いを主張したいのだろう。だが、これは直接語ったかどうかが問題なのではない。呼びつけたかどうかは本質的な問題ではない。放送前に、放送内容について語ったことが問題なのだ。また、直接圧力をかけなくても、批判するだけで、その立場からすれば圧力になりうるということが問題なのだ。上のように問題をすり替えようとするだけでは弱いと思ったのだろう。『予算の説明に伺いたい』というふうに、番組の内容を語ったことを末梢的なことにしようとしている。当たり前だと思っていたことが、世間ではそうでないことが分かってあわてたのだろう。神保氏が指摘するとおりだ。「「NHK側から予算の説明後、自主的に番組内容の説明がなされた」のであれば、これはNHKにとっては大問題なのだが、NHKは安倍氏にこの発言の抗議はしないのだろうか。これは、明らかにNHKの不正行為だと思うのだが。どうして放送前に、放送の内容を漏らす必要があったのだろうか。さらに、発言をまとめたものを再度引用しておこう。「 《1月10日、朝日新聞の取材に対するコメント》「偏っている報道と知るに至り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されなければならないのであり、反対側の立場の意見も当然、紹介しなければいけない。時間的な配分も中立性が保たれなければいけないと考えている、ということを申し上げた。NHK側も、中立な立場での報道を心がけていると考えている、ということだった。国会議員として当然、言うべき意見を言ったと思っている。政治的圧力をかけたこととは違う」 これが最初の発言だ。「偏っている報道と知るに至り」と「申し上げた」「言うべき意見を言った」という言葉に注目したい。「 《1月12日の報道後》「この模擬裁判は、主催者側の意図通りの報道をしようとしているとの情報が寄せられたため、事実関係を聴いた。その結果、明確に偏った内容であることが分かり私は、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」この時点では、事態の重大性をまだ認識していないようだ。最初の発言とほぼ変わりない。「情報が寄せられた」「事実関係を聴いた」「指摘した」という言葉に注目したい。「《1月12日の追加コメント》「先方から進んで説明に来たのであって、当方がNHK側を呼びつけた事実は全くない」この時点でようやくことの重大性を認識したのだろう。呼びつけたと言うことにしてはまずいと思って、それを否定しにかかっている。「《1月13日のコメント》「面会は、NHK側の『NHK予算の説明に伺いたい』との要望に応じたもので、こちらからNHKを呼んだ事実は全くない。NHK側から、自主的に番組内容に対する説明がなされたものであって、こちらから『偏った内容だ』などと指摘した事実も全くなく、番組内容を変更するように申し入れたり、注文をつけたりした事実もない」 ここで、ほぼ前言を翻す発言になった。ことの重大性を全面的に理解したと言うことだろう。「指摘した事実も全くなく」と言うことは、前言を翻したことになるのだから、このことの挙証責任は、安倍氏の側にあるのである。
2005.01.20
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今週のマル激では、目加田説子氏(中央大学教授)をゲストに迎えて「NGOは世界をどう変えるのか」というテーマを語っている。そして、後半には、最近の出来事を取り上げて話題にしているのだが、その中でやはり今回のNHKの番組改変問題にも触れている。それが、僕とほぼ同じ認識と基本的なとらえ方だったので安心した。やはり論理が分かる人間は同じ結論に達するものだと感じた。それをちょっと聞き書きでここに記して、もう一度確認しておこう。まず放送法に関して、宮台氏の次の発言があった。「放送法には確かに二つ柱があって、<政府の介入を許さない>という側面と<バランスを欠いた政治的主張を認めない>という部分がある。どちらが本義かといえば、政治的介入を排除するということ。そして、政治的介入を排除した上で、価値観を主張してもらうということはかまわない。」これは全く当たり前の判断だと思うのだが、今回「ゴミ」のような書き込みにあふれている判断は、その反対の「中立性・公正さ」の方が優先するかのような考え方だ。論理的にいえば、「中立性・公正さ」は、事前に判断が難しいものがある。それであれば、その判断を問う意味でも「言論の自由」を根拠に発表することが許されるべきで、事後に判断される場合もあると理解しなければならない。それがバランスを欠いた主張だと事前に判断できるなら、その根拠を正確に示さなければならない。それをするのはNHKの役目だろうということだ。政治家が判断するものではない。その逆に「政治の介入」は、疑いをもたれるだけでもいけないのだ。安倍・中川両氏が、どうして放送前に放送の内容を知ることが出来るのか。知らないのであれば、どうして「公正さを欠く」というような判断が出来るのか。誰が情報を知らせたのか。このことだけでも疑いを持つには充分だ。NHKの側が権力の顔色を疑ったのだから、NHKの方にこそ問題があると考える人もいるかも知れないが、もしNHKの方が顔色をうかがってきても、まともな政治家だったらそれを拒否してしかるべきなのである。それがまともな政治家だというコンセンサスが日本社会に存在しなかったら、それは日本社会の民度が低いという問題なのだ。神保哲生氏が、「政府に対抗しなくても、もう一つの公を立てるだけで、日本では反逆にされてしまう」という感想を語っているが、これが現状だとしたら、日本社会の民度は全くお粗末だ。政府批判をしただけで、もうそれが偏ったバランスを欠いたものだと言うのは、宮台氏に言わせれば幼稚園的発想だと言うことだ。批判されただけでおたおたするような政府など、全く信頼できない。自分の正しさに自信がないのだろう。僕は、いくら非難が来ようとも、それが「ゴミ」だったらちっとも堪えることはない。「ゴミ」の批判など、「それがどうした」となぜ構えられないのだろうか。あの程度の批判をされるだけでおたおたする政治家など、政治家としての資質が疑われる。批判が正当でないと思うなら、弾圧して放送そのものを変えさせるという方向ではなく、正当な言論による反批判をすればいいだけのことだ。「ゴミ」だと思うなら一蹴してやればいい。それが出来ないでおたおたするということから、この問題を判断しなければならない。これは、日本の政治家の資質を問う問題でもあるのだ。この問題のとらえ方の基本として、宮台氏は次のように語っていた。「最大の問題は放送法上の問題で、もし安倍さんが当時の官房副長官の立場で、番組の情報を放送前に入手して、介入したのであれば放送法違反になる。これがもし事実だったら、安倍さんにとっては政治家生命に関わる致命傷になる。そして、NHKがそれを許していたのなら、NHKの問題としても致命的な大問題になる。 しかし、この問題は「もし」という仮定の問題で、実はこれを事実として証明することが難しい。実際には水掛け論に終わる可能性が高い。 だから、この問題は、事実がどうだったのかということに目を奪われる前に、どういう重要性を持つ問題であるかという問題意識を共通に持つことから始めないとならない。」この認識は、僕も全く同じだ。事実も大切だが、事実だけにこだわる問題ではない。日本社会の構造として、統治権力に都合の悪い問題は、統治権力の側が、明らかに「介入」というものをしなくても、その意図を忖度した人々によって排除されていく構造になっているかどうかの認識の問題だ。その構造があると認識するのか、それはないと認識するのかで、この問題を見る目が違ってくると言うことだ。これは、構造があるから事実があるという主張をしているのではない。論理が分からない人間は、すぐにそう誤解して、事実でないものを事実としていると、とんちんかんな非難をしてくるものがいるから注意しておこう。構造があるという認識をしている人間の事実の追求と、その構造が見えない人間の事実の受け取り方は全く違うのだ。主体性を持って自分の判断を持ちたいと思うなら、構造に目を向けなければならない。構造を知らなければ、無意識のうちに構造に支配されてしまう。つまり、奴隷の主体性を身につけてしまうのだ。事実関係について言えば、神保哲生氏が鋭い指摘をしている。安倍・中川両氏が前言を翻した問題について、誰が証明しなければならないかという問題をこのように考えている。世間では、朝日の誤報だから、朝日が証拠を提出しろという声が高いようだが、これは変だと言うことだ。「朝日の最初の取材で、事実関係を一度は認めている。それを、あとでやばいと思ったのか、記憶違いだったり、記録になかったことにして翻している。それだったら、挙証責任は、それを翻した側にあるはずだ。証拠がないのだから、それを認めろと言うことではなく、前言が違っていたという証拠を安倍・中川両氏の側が提出しなければならないだろう。」前言を翻した部分を、朝日の記事から拾ってきてみよう。「一方、中川氏は朝日新聞社の取材に対し、NHK幹部と面談したことを認めた上で「疑似裁判をやるのは勝手だが、それを公共放送がやるのは放送法上公正ではなく、当然のことを言った」と説明。「やめてしまえ」という言葉も「NHK側があれこれ直すと説明し、それでもやるというから『だめだ』と言った。まあそういう(放送中止の)意味だ」と語った。 安倍氏は「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った。国会議員として言うべき意見を言った。政治的圧力をかけたこととは違う」としている。 番組内容を事前に知った経緯について両議員は「仲間から伝わってきた」などとし、具体的には明らかにしていない。」(01/12 08:52)http://www.asahi.com/national/update/0112/006.html「中川氏も同日夜、「NHKが説明に来たのは2月2日。放送内容の変更や放送中止に関しては一切言っていない」とのコメントを発表した。 安倍幹事長代理は、当時、番組を担当していたNHKのチーフ・プロデューサーが13日に記者会見したことを受け、「『NHKを呼びつけた』『番組内容を変更するよう圧力をかけた』との報道や発言は全くの誤りだ」との談話を発表した。 安倍氏は「NHKとの面会は『予算の説明に伺いたい』との要望に応じたもの」としたうえで、「NHK側から予算の説明後、自主的に番組内容の説明がなされた。『偏った内容だ』と指摘したり、番組内容に注文をつけた事実も全くない」と説明した。」(01/14 02:43) http://www.asahi.com/national/update/0113/029.html(安倍氏の発言に関する報道)「 《1月10日、朝日新聞の取材に対するコメント》「偏っている報道と知るに至り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されなければならないのであり、反対側の立場の意見も当然、紹介しなければいけない。時間的な配分も中立性が保たれなければいけないと考えている、ということを申し上げた。NHK側も、中立な立場での報道を心がけていると考えている、ということだった。国会議員として当然、言うべき意見を言ったと思っている。政治的圧力をかけたこととは違う」 《1月12日の報道後》「この模擬裁判は、主催者側の意図通りの報道をしようとしているとの情報が寄せられたため、事実関係を聴いた。その結果、明確に偏った内容であることが分かり私は、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した」 《1月12日の追加コメント》「先方から進んで説明に来たのであって、当方がNHK側を呼びつけた事実は全くない」 《1月13日のコメント》「面会は、NHK側の『NHK予算の説明に伺いたい』との要望に応じたもので、こちらからNHKを呼んだ事実は全くない。NHK側から、自主的に番組内容に対する説明がなされたものであって、こちらから『偏った内容だ』などと指摘した事実も全くなく、番組内容を変更するように申し入れたり、注文をつけたりした事実もない」 」(01/18 03:05) http://www.asahi.com/national/update/0118/006.htmlやばいということの理由は、NHKが安倍氏に呼び出されたということにすると、何のために呼び出されたのか、ということが問題になるし、NHKが番組説明のためにわざわざ出向いたとすると、これも何のために、ということが問題になる。さらに、番組に対して何か意見を述べたと言うこともやばいことになる。それだけで「介入」という判断が出来るからだ。前言を翻したい気持ちはよく分かる。とにかく、なぜ前言を翻したのかという説明責任が安倍・中川両氏にはあるし、前言が間違いであるという証明をしなければならない。さらに、目加田説子氏は次の点を指摘している。「安倍・中川両氏が、前言を翻しているということは事実だ。この事実だけを見ても、(他の事実を全く知らなくても)そのような政治家が政治家として、判断力があるかどうかということは、個人の判断として出来るだろう。」政治家というものが、自分の言葉に責任を持たずに、簡単に前言を翻すというだけで、政治家としての資質を疑うということだ。宮台氏にいわせると、我々国民がヘタレているために、相対的にこのようにヘタレた政治家が登場してしまうという因果関係もあるというようなことを語っていた。最後に、安倍氏のホームページに載せられている次の文章に対する宮台氏たちの感想を紹介しよう。「投稿者: webmaster 投稿日時: 2005-1-12 17:04:09 (237 ヒット) 朝日新聞の記事『NHK番組に中川昭・安倍氏「内容偏り」 幹部呼び指摘』に関し、朝日新聞らしい、偏向した記事である。この模擬裁判は、傍聴希望者は「法廷の趣旨に賛同する」という誓約書に署名しなければならないなど主催者側の意図通りの報道をしようとしているとの心ある関係者からの情報が寄せられたため、事実関係を聴いた。その結果、裁判官役と検事役はいても弁護士証人はいないなど、明確に偏って内容であることが分かり私は、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した。これは拉致問題に対する鎮静化を図り北朝鮮が被害者としての立場をアピールする工作宣伝活動の一翼も担っていると睨んでいた。告発している人物と朝日新聞とその背景にある体制の薄汚い意図を感じる。今までも北朝鮮問題への取り組みをはじめとし、誹謗中傷にあってきたが、私は負けない。安倍晋三」http://newleader.s-abe.or.jp/modules/news/article.php?storyid=11続きはコメントに。
2005.01.19
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宮台氏の書く文章には、よく「超越」と「内在」という言葉が出てくる。「内在」というのは、「世界内存在」というものであり、「世界」とは、ありとあらゆるものを集めた実体的なものというイメージだろうか。「超越」は、その「世界」を超えた存在を示す。これは、「世界」を超えているのだから、世界の中にはいることが出来ない。しかし、「世界」とは、ありとあらゆるものを集めたものだから、「超越」すらもその中に入らざるを得なくなる。これは、ある種のパラドックスで、超越という世界を超える全体性が、世界の内部と対応してしまうという意味で、宮台氏が定義するアイロニーでもある。このパラドックスを逃れる道は二つあるだろう。一つは、「超越」を否定するもので、世界には外はないという考えだ。そのようなものを考えること自体が間違いだという対処の仕方だろうか。これは、ある意味で自然科学の対処方法だと言える。自然科学は、内在であるこの世にある存在だけで物質的な法則を求める。これは、物質の存在を基礎に置いているので、基本的に唯物論の立場と言っていいだろう。もう一つの立場は、「世界」が全てを含むということを否定する立場だ。「全て」という概念は、人間には把握できない概念として退けてしまうということだ。「世界」は、人間が理解できる範囲で満足するしかないという立場だろうか。その外に関しては知り得ないのだから、知ることをあきらめるという立場だ。「世界」が「全て」を包含するのでなければ、その外に「超越」があるという可能性は残る。しかし、それは人間には知り得ないというふうに考える。僕の立場は、この二つをミックスしたような立場だと言えるだろうか。自然科学を受け止めている時は、あくまでも世界内存在だけで説明できる法則を求める。「超越」的な存在が奇跡を起こすというようなものは考えない。そして、それで説明できない現象がある時は、まだ人間の進歩が足りなくて解明できていないか、あるいはそれは原理的に知り得ないことで「世界」の外の問題だと受け止めるかどちらかになる。「超越」があったとしても、それを求めようとせず、現実に有効な方向を求めるという立場だ。これは、パラドックスを避ける立場だが、パラドックスをそのまま持ち続ける第三の立場というものがある。やっかいなことに、時々この立場にも魅力を感じるので困る。この立場は、パラドックスをそのままにするので、基本的には「超越」を信じる立場だ。これは、「世界内存在」に飽き足らない思いを抱く時に、その立場が非常に魅力的に見えてくる。自然科学は、物と物との関係を非常に細かいところまで明らかにする。ニュートン力学は、いくつかの物質的なデータをつかむことが出来れば、その物質の運動を完全に把握できる。「世界内存在」がどうなっているかということはよく分かる。しかし、それを超える「メタ」の部分に関しては、自然科学は知り得ないこととして追求しない。例えば、ニュートン力学そのものを対象にして、それがなぜ成り立っているのだろうかということは問題にしない。この「メタ」の部分を問題にしたくなったら、「超越」の存在まではもう一歩だ。「世界内存在」の相互の法則ではなく、世界そのものを対象にして考えると、「メタ」的になり、「超越」の世界に入っていく。「人間は(自分)はなぜ生きているのか」「正義が実現されないのはなぜか」「平和は絶対的な価値なのか」等々ということが気になったら、それは「メタ」の世界の入り口にいることを意味する。これは、非常に魅力的なものだ。普通は、このような「超越」に関しては、青年期に引きつけられるもので、大人になるとともに「内在」の方に引き寄せられ、通俗化することで「超越」から離れていくようになる。しかし、どうしてもこの「超越」から離れられない人間が存在する。それを宮台氏は「超越系」と呼んでいた。「超越」を捨てて、それから離れていった人間は、宮台氏は「内在系」と呼んでいた。これは、どちらがいいとか悪いとかいう価値の絡むものではない。どちらにも一長一短がある存在だ。「超越系」は、崇高な価値を求め、理想を追求するというプラス面がある代わりに、自分の価値が正しいと思うあまり、それを人にも押しつけかねないところがある。宗教的な布教活動には、そういう感じがするものだ。また、「内在系」は、人にお節介をするような所はないだろうが、通俗的で崇高な価値とはほど遠いという感じはするかも知れない。大事なのは、自分がどちらの傾向を持っているかを自覚することではないかと思う。僕は、哲学青年であったり、マルクス主義や全共闘世代に対するあこがれを抱いたりする傾向があったから、たぶん「超越系」の要素を持っていたのだろうと思う。何かのきっかけがあれば、宗教の世界や運動の世界に入っていたかも知れない。しかし、そのような偶然に恵まれなかったので、僕は自分の「超越系」としての感覚を生かす機会がなかったのだろう。そして、その機会がないまま、今は、「超越系」と「内在系」をふらふらしているようないい加減な存在になっているという感じだろうか。僕は、自分のことをこのように自覚しているが、それならいったいこのように自分の主張を書くことで何をしたいと思っているのだろうか。僕は、ここでの主張を誰かに働きかけて、何か運動的なことがしたいという欲求は持っていない。多くの人に理解してもらって、支持を得たいというものでもない。mechaさんが正しく指摘してくれたように、「恐らく秀さんの性格からして、極論をいえば、支持者がゼロでも構わないと考えていらっしゃると思いますよ。」ということを感じている。これは、僕以上に僕のことを理解してくれているんじゃないかと思った。このような感覚の中に、僕の「超越系」としての個性が表れているような感じがした。僕が信じている「超越」は、おそらく論理というものの持つ「超越」性だと思う。論理というものは、抽象的な存在であり、頭の中にしか存在しない。しかし、それは抽象的であるだけに完全なものだ。その世界における真理は、完全に自分のコントロール下にある。真理であるかどうかは、絶対的に判断できるのだ。だから、この世界にいる限りでは僕は「超越」している。たとえ支持者がゼロであっても、僕以外の全てが間違っているという感覚しかない。これは、僕の考えに反対している人間には信じられないだろうが、僕の感覚はそういうものだから、信じられなくても事実として受け入れるしかないだろう。問題は、論理は抽象的に頭の中にあるが、その頭の中の抽象と現実との対応は、そのままでは僕と共通のものを持てないということだ。僕は、自分が抽象して論理の形式として扱う対象を、出来るだけ同じものになるように説明を努力しているが、それが全く同じ認識になるというのは難しい。僕の頭の中をそっくりそのまま他人の頭の中に映すことは出来ないからだ。僕が現実の対象のどの面を抽象して、どの面を捨象しているのかが、正しく伝わらなければ、当然のことながら僕の論理は伝わらない。この、対象の扱い方というものが、僕にとっては議論の前提と語っているものになるわけだが、これが共通のものにならなければ、論理の帰結は同じものにならない。だから、前提が違う人間がいくら反論しても、僕は説得されることはないだろう。こういうとき、議論がかみ合わない、と端から見ている人は感じるのだろう。このときに、前提を議論することの出来る相手なら、有意義な対話が出来るようになる。しかし、単に自分の論理で否定するだけの相手は、僕には、単に間違っているだけにしか見えないのだ。だから、議論の前提について話が出来ない人間は、どんな反対意見をここに書いてもそれは一切無駄だ。僕は、自分の「超越」した論理体系から、正しいか正しくないかを判断するだけだからだ。それは、絶対的な判断であり、よほどの水準で批判してもらわないと全く批判だとは感じないだろう。僕は、自分が「超越系」の要素を持っていると自覚しているので、自分の考えを誰かに押しつけようという気はないし、押しつけにならないように気をつけている。「超越系」は、うっかりすると宗教的になりやすいからだ。僕は、僕が語ることを「真理」であるかどうか、自分の判断で受け止めてくれればいいと思っている。だから、それを「真理」だと受け止めなくてもちっともかまわない。自由に好きにしてくれればいい。むしろ、よく考えないで支持すると言うことに気をつけて欲しい。支持してくれるなら、考え抜いたあとで支持をして欲しいと思っている。そうでなければ、僕は、支持者だからといって、人情に左右されて論理的な判断を甘くするということはしないつもりだからだ。だから、たとえ支持者であろうとも、論理的に間違っていれば、それは指摘する。それは、単に論理的な指摘であって、悪口ではないのだが、論理に疎いと、そこら辺の区別が難しい。だから、あまりよく分からないうちは、支持するという判断は保留しておいて欲しいと思う。そして、よく分かった後に、僕が言っていることが「正しいだろう」という信頼が出来たら支持して欲しいと思う。こういうことを言ったからといって、僕が支持を求めているのだと勘違いしないで欲しい。mechaさんが正しく指摘してくれたように、僕は、たとえ支持者が0でも論理的判断は揺るがないだけのものを持っている。僕の考えを支持できなくて、反対の人間は、反対でいっこうにかまわない。その代わり、ここに書き込んでいくのなら、少しは水準の高い「論理」を使ってくれと要求するだけだ。水準の低い「ゴミ」を書き込んでいくのなら、それは、僕は罵倒の対象にするだけだ。
2005.01.18
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宮台真司氏が大先生と語る小室直樹氏の「数学嫌いな人のための数学」という本を読んだ。僕は、小室直樹氏に対してある種の偏見を持っていた。だから、宮台氏に対するような天才性は感じなかった。この本も、宮台氏が大先生と語っていなければ手にすることはなかっただろう。小室氏が天皇制主義者であるということが僕の引っかかりだったのだが、この本には、そのようなものに関する記述がどこにもなかった。それで、純粋に論理的にこの本を受け止めることが出来た。論理的な観点で眺めれば、この本はたいへんすぐれた本だと思う。さすがに宮台氏が大先生と尊敬するだけのことはある。この本は、「数学嫌いな人」に語りかける形で書かれているが、それは必ずしも「易しい」と言うことを意味しない。むしろ論理的な水準は高いので、論理としては難しいと言ってもいいかも知れない。しかし、従来の「学校数学」に対して嫌悪感を持っている人は、それとは全く違う数学像を見て、そういう人には、この本はとてもいいものに見えるかも知れない。暗記して、アルゴリズムに従って答さえ出せばいいと言う「学校数学」に飽き足らない人は、この本で新たな数学の姿を見いだせるだろう。ここに書かれていることの大部分は、僕にとってはすでに知っていることの方が多かったが、改めてその重要性を認識できたり、違う視点からの発見があったりして、それなりに面白かった。それをまとめてみたいと思う。まず冒頭で、いきなり古代宗教と論理の関係が語られる。これは、僕は両方ともある程度の知識はあったが、これを結びつけて考えたことはなかった。そういう意味では新鮮な視点として新たな発見があった。古代イスラエルの神は、唯一絶対の存在である。それは、疑いを差し挟むような存在ではなく、ただ信じるだけの対象である。それは、論理の出発点になるようなものなのだ。デカルトは、全てのものを疑って、どんなに疑っても疑っている自分自身の存在は疑えないとして、それを基礎にして哲学を始めた。しかし、考えようによっては、その「思い」も、実は神がそのようにし向けているだけの「幻想」なのだと疑えるかも知れない。つまり、全てを疑ってしまうと、確かなものは何もないという「不可知論」に達するというのが、究極的な結果ではないだろうか。この不可知論にピリオドを打つためには、出発点として、絶対に疑えない存在を立てる必要がある。それが古代イスラエルの神だったと考えられる。そう受け取ると、この神の概念は、きわめて論理的なものであることが分かる。そして、この神の存在を出発点として、全ての真理がそこから演繹されるというのが、また古代イスラエルの宗教の特徴だ。出発点の神の正しさが絶対であるから、演繹された宗教的真理も絶対的なものになる。僕の立場は、宗教的真理を信じるという信仰の立場でもなく、不可知論のように、確かなことは何もないという立場でもない。僕の場合は、仮言命題の正しさを論理的に確信するという立場だ。前提の正しさを絶対的に証明することは出来ない。それはどこまでもさかのぼることが出来るから、無限の連鎖に陥ってしまう。しかし、ある命題を仮定にし、それから論理的に導かれる結論を、仮言命題の形にした時の確かさというのは論理的に証明できる。その仮言命題の正しさを確信し、ものの考え方の基礎にしようと言うのが僕の立場だ。これは、数学における公理論的な立場と言ってもいいだろうか。公理というのは、現実に正しいという命題ではない。論理的な出発点となる命題と言うことに過ぎない。これは、それから導かれる「定理」というものが、どのような構造を持っているものを作りたいかで、選び方が違ってくる。つまり、公理を選ぶと言うところに、それぞれの主体性を実現すると言うことになる。宗教を信じる人は、その公理に宗教的真理を選んだというふうに僕は解釈する。僕も、現実理解のための公理をいくつか選んでいる。主に、自然科学が証明の原理としているものを公理として選んでいると自覚している。例えば、エネルギー不変の法則というものがあるが、これは証明できるものではないだろう。ある特定の現象が、この法則に従うと言うことは証明できると思う。しかし、この法則は、普遍的にどこでも成立するというのが、法則としての意味だ。これは、現実には証明できない。だから、これが成り立つと仮定して世界を見るというのが、この法則に対する態度だと言えるだろう。アインシュタインの相対性理論は、光速がどこで観測しても一定であると言うことを公理にした論理体系だと言われているそうだ。この公理そのものは証明することが出来ないが、これを公理として受け止めれば、そこから実に興味深い定理が導かれ、それが現実に合致するという不思議な結果が出てくる。つまり、この理論は現実に対して有効だということが証明される。論理的な立場というのは、このような立場であるが、これが、古代イスラエルの宗教から発展してきたという見方は、とても新鮮みのある面白い視点だった。この論理が数学と合体して発展したのが古代ギリシアというもので、この見方は僕もおなじみのヤツだ。数学というのは、中国などでもかなりの発展をしたものだが、中国ではとうとう論理と合体することがなかった。いや、そもそも中国を始めとする東洋には、古代イスラエルの宗教的・古代ギリシアの数学的「論理」という発想がなかった、と小室氏は指摘する。中国の論理というのは、「説得」の論理だというのだ。それは、西欧的な「真理」を求める論理ではない。相手が納得し、自分の考えに同意してくれればそれで終わる論理だ。必ずしも「正しさ」を求めていない。これは、現在にも続いている日本社会における論理のイメージに近いのではないだろうか。西欧的な論理は、「地に働けば角が立つ」と言われるようなものだろうと思う。たとえ正論であっても、それは嫌われる。いや、正論であればあるほど嫌われると言ってもいいかも知れない。日本の民主主義は、明確な多数決原理のもとにはないように感じる。本当に多数の方を採用するならば、反対の意見はほとんど採り入れられないのだが、日本では、いつでも妥協してお互いがある種の我慢をすることで丸く収める、つまり角をなくすように働きかけるように感じる。どちらの主張が正しいかを、明らかにするようなことを嫌う感じがする。このようなメンタリティでは、西欧的な論理と真理の概念を持つことは難しいかも知れない。日本的な論理は、たぶん東洋的な論理なんだろうと思う。これは、真理を明らかにするという「科学」における論理ではない、と言うことをもっと自覚することが大切だ、と小室氏がこの本で語っているように僕は感じる。論理の違いに敏感にならなければならない、という例として、小室氏は「裁判」の論理を語っている。「裁判には、原告(例。検事)と被告(例。弁護人)という二つの立場がある。原告にも主張があり被告にも主張がある。これらの主張は、お互いに矛盾する。どちらが正しくて、どちらが正しくないかは、本当は分からない。その本当は分からないところを分かったようにする。それが裁判である。実は、どちらかが絶対に正しくて、どちらかが絶対に間違っているということなんかは、本当はあり得ない。その本当はあり得ないことを、あたかもあり得るようなふりをする。それが裁判である。」これによれば、裁判の論理は、真理を争う論理ではないと自覚することが大事なことだと受け止められる。判決を出そうとする人間を説得する論理という感じだろう。東洋的な意味での論理という感じだろうか。裁判の論理というのは、本質的に白黒がハッキリ出来ないということがあれば、形式論理ではなく、説得の論理にならざるを得ないということがあるかもしれない。それは、正反対の利害が対立するものが行う論理だから、客観的に白黒がハッキリ出せない。利害から離れた第三者に結論を出させるという、陪審員の制度は、その意味では合理的な制度だ。白黒がハッキリ出せる物事に関しては、西洋の論理である形式論理は絶大な威力を発揮するだろう。この形式論理は、論理として固定化しているので、弁証法の立場で批判されたということを小室氏は語っている。しかし、この批判は、対象が弁証法的な性質を持っているにもかかわらず、形式論理を使うということでの批判だろうと思う。対象が、固定的に考えてもかまわない、形式論理の対象であるならば、それは形式論理で判断することが正しいのである。ある公理を立てて、そこから推論するというのは、形式論理が絶大な有効性を発揮するところだろう。形式論理が絶大な威力を発揮する分野は、他にどのようなものがあるだろうか。小室氏は、「存在証明」というものを挙げている。特に重要なのは、答があるかないかという「存在証明」だ。ギリシアの3大難問と言われた「角の3等分線問題」「立方体倍積問題」「円積問題」と呼ばれるものは、いずれも、数学的には不可能であること、すなわち答がないことが証明された。数学には、このように不可能であるとか、存在しないとか、存在するというふうに語られる問題がある。これは非常に重要な問題だ。答がないと言うことは、どんなに頭のいい人が考えても答が出ないということだ。つまり、努力して進歩すればいつか答が得られるというものではないと言うことが分かるということだ。これが分かると、「無駄な努力はしない」という方向へ進むことが出来る。今解決しようとしている問題が、本質的に解答を求められる問題であるかどうかと言うセンスを身につけることは、無駄な努力を回避できるかどうかという問題でもある。このことを応用してみよう。昨日の日記で論じた、NHKの問題に関して、原理的に解決不可能な問題というのはなんだろうか。それは、水掛け論に終わりそうな問題に決着をつけるという問題だろう。水掛け論というのは、お互いの主張の決め手もなく、相手の主張を否定する決め手もないという時に起こる。この問題の場合、水掛け論に終わりそうな問題は、「政治的圧力があって、放送内容への政治介入があった」という解釈を認めるか認めないかで水掛け論になりそうな感じがする。これは、僕は、「あった」と解釈する立場だが、「なかった」とする立場も成立するだろうと思う。それは、事実が完全に解明されれば、解答が出来るのだが、これほど利害が絡む問題で事実が明らかになる期待は出来ないだろうと思う。だから、この部分で解答を求めるのは、僕は無駄な努力のように思える。もちろん、双方が主張するのは大事なことだ。どちらも徹底的に事実を求めて主張して欲しい。しかし、どちらかが正しいと決定することは期待しない方がいいと思う。これは、どちらが正しいと考えてもらえるかという説得の論理になってしまうだろう。それでは、形式論理として決定できるのはどういうことか。それは、抽象的な「公理」という前提を認めたら、それから論理的に導かれて、それを認めざるを得ないという主張を見つけて、抽象的な「公理」に当たる主張を認めるか認めないかということを決定することではないかと思う。続きはコメントに
2005.01.17
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神保哲生氏の「ビデオニュース・ドットコム」で、「NHKを内部告発した長井暁チーフ・プロデューサー記者会見(2005年1月13日)」を見ることが出来る。この問題は、すでに多くの人が言及している。それは、NHKを批判し、内部告発した長井さんを支持するものが多い。僕は、この多くの人の判断が正しいと思う。そして僕も長井さんを支持するという判断をする。そして、その判断が、様々の情報からどのように導かれたかというのを記述したいと思う。情報の分析という面を語ろうと思う。1次ソース云々とほざいていた人間がいたが、「ビデオニュース・ドットコム」のインタビューは、長井さんの直接の話だという点では、長井さんに関する1次ソースになる。だから、それは全面的に信用できるのだというような、マヌケな論理を僕は使うつもりはない。情報の完全な信頼性というのは、原則的にはウラ(裏付け)という事実がとれるかどうかにかかっている。ウラさえとれれば、他の情報と比較する必要はない。だから、他の情報と比較して、それが正しいかどうかと言うような議論もするつもりはない。しかし、ウラをとるというのは、よほどのことがない限り出来ない。それでは、全ての情報は、確からしさにおいては同等で、結局はどれが正しいか分からないと結論せざるを得ないだろうか。そういうものもあり得る。ほとんど事実が知られていない事柄に対しては、どの情報も確かとは言えないというものがある。しかし、かなりの部分で事実が知られていて、その事実の間に「解釈」の違いが入り込んで判断を迷わせるというタイプの情報もある。このような情報は、どうやって信頼性を判断したらいいだろうか。「事実」というのは、同時に正反対のものが現れることはあり得ない。中川昭一氏が、NHK職員に会ったのが、放送の前日なのか、放送後なのかというのは、事実の問題だから、これはどちらが正しいかが決定される問題だ。決定はされるが、正しい情報がもたらされるかどうかは分からない。ウソをつくことも十分考えられる。しかし、原則的に「事実」というのは正しいかどうかは、決定される問題だ。それに対して、「解釈」の問題は、何が正しい解釈かということは決定できない。ある意味では、解釈はどうにでもなるのである。解釈については、「妥当性」があるかどうかが問題の焦点になるのではないかと思う。この問題でいえば、「事前に番組制作への圧力という介入があった」という解釈が、妥当性を持つかどうかという問題だ。これは、立場によっても違ってくる。だから、「あった」という解釈も、「なかった」という解釈も両方とも成立する。この解釈の違いは、解釈しようとする対象が、本質的にパラドックスを背負っている対象だったら、どちらの解釈も整合性を持つから、ある意味では見解の相違でもあり、どちらの解釈をとるかは、その人間の自己決定という主体性の問題でもある。しかし、パラドックスを背負っている対象でなければ、その解釈を論理的にたどっていくと、整合性がとれる解釈と、整合性がとれない解釈が出てくる。現実に対して、どちらが妥当かという判断は、論理的に見れば、もちろん整合性がとれている解釈の方が妥当性を持っていると考えられる。僕が長井さんを支持するのは、長井さんの発言の方が論理的な整合性がとれているという判断からだ。そして、中川氏や安倍氏の発言には論理的な矛盾があると思う。それを、これから様々な情報から判断していきたい。なお情報については、情報そのものの正しさは判断できないので、情報を発信する人間、あるいは組織への信頼から、一応その情報が正しいものと仮定して、論理的な判断を進めていく。もし、情報の一部に間違いがあれば、そこに関わる判断を訂正していくというものだ。僕の判断は、情報が正しいからそれをそのまま信じるというものではない。むしろ、情報そのものに対する正しさの判断は保留しておいて、そこに論理的な整合性がとれているかどうかを判断する。整合性がとれていれば、情報の正しさも信頼性が増すという考え方だ。これは、物事をより広い視野で見るということになると思う。複雑な問題の判断を間違えないためには、このような方法が有効だと思う。さて、長井さんの主張の中で、事実に関する部分と、解釈に関する部分とを分けてみたいと思う。新聞情報と、直接長井さんが語った内容を比べると、長井さんの主張は次のようなものであると思われる。<事実>--直接確かめられる事実、あるいは長井さんが直接関係した事実・「天皇の戦争責任などカット、「戦犯法廷」に反対の学者インタビュー大幅追加」(番組が、予定のものと変えられた部分の事実)・変更部分を列挙すると次の通り「 (1)法廷が、日本国と昭和天皇に戦争責任があるとした部分を全面的にカットする (2)スタジオ部分の出演者である米山リサカリフォルニア大学準教授の話を数カ所カットする (3)「女性国際戦犯法廷」に反対の立場をとる日本大学の秦郁彦教授のインタビューを大幅に追加する。」・「その日の夕方六時過ぎから、松尾放送総局長、野島担当局長と伊東律子番組制作局長と長井デスクで異例の試写が行われました。」(安倍・中川両氏に説明したと言われる日に、行われた試写は、きわめて「異例」だったというところに注意)・「「それまでもNHKの上司の指示で何度もつくり直しはしました。でも、それはあくまで編集の範囲だった」。長井デスクは、二十九日以降、番組修正の質が変化したことを語ります。」・「放送当日30日松尾放送総局長は、「(1)中国人被害者の紹介と証言(2)東ティモールの慰安所の紹介と元慰安婦の証言(3)加害兵士の証言をカットする」という三分のカットを現場に指示した。これには制作現場は全員が反対」--長井さんの伝聞による事実・「長井CPは当時、政治の介入を感じていたが、後になって中川、安倍両氏が、当時の放送総局長ら野島氏ら幹部に「公正中立な立場で放送すべきだ」などと語ったことを上司から聞いた、という。」・「二〇〇一年一月下旬。自民党の安倍晋三官房副長官と中川昭一衆院議員らが、NHKで国会・政治家対応を担当していた総合企画室の野島直樹担当局長(現理事)らを呼び出し、放送中止を強く求めます。この時期は、自民党総務部会でのNHK予算審議直前。事態を重く見た野島担当局長は、一月二十九日の午後、松尾武放送総局長を伴って、中川・安倍両氏を議員会館などに訪ねました。」・「政府・自民党幹部に呼び付けられて「放送中止」まで迫られた」・「NHKの局長らは番組についての説明を行い、理解を求めましたが、両氏は納得せず。放送総局長は、「番組内容を変更するので、放送させてほしい」と述べ、NHKに戻ります。」<解釈>・「いまなおNHKは、「番組改変が自主的判断に基づくものだった」と主張していますが、けっしてそうではなかった」・「「(NHKでは)政府に都合の悪い番組の企画は通らない。委縮した雰囲気がまん延している」と、現場に広がる閉塞(へいそく)感を強調した。」これらの事実を見た場合に、長井さんが直接かかわったものは、その事実性がかなり明らかに出来るものだろう。その中で否定するのが難しいのは、番組が、制作段階と、放送段階では変更されたものだということではないかと思う。これは、動かしがたい事実なのではないだろうか。それに比べて、長井さんの伝聞情報によるものは、その事実性を確かめるのはなかなか難しい。隠すことの出来る事実だけに、本当を知るのは難しい。だが、論理的に整合性を考えるには、次の一点にさえ注目すればいい。それは、番組の放映に変更が行われたのは、自民党幹部の安倍・中川両氏に会った後のことであるという事実だ。中川氏については、前ではなく後だという主張もあったが、少なくとも安倍氏は事前に会っていることを認めている。この、会ったことが、番組の変更に影響を与え、因果関係が成立するとしたら、それは、本人がどのように意識しようと「政治の介入」なのであると僕は思う。単に指摘しただけと、安倍氏は主張しているようだが、安倍氏の立場での指摘は、それだけで政治的な圧力になることを自覚すべきである。それが自覚できなければ、近代民主主義国家の政治家としての資格はない。僕は、この因果関係は、消極的な証明が出来ると思っている。それは、番組の内容変更ということが、もし、政治介入でない他の理由で行われたというのなら、論理的に整合性のある理由がなければならない。いったいどんな理由で番組の内容変更が行われたと主張するのだろうか。それは、NHKが後で釈明したように、内容に偏りがあり、公正・公平にするために自主的に判断したからだというのが理由になるだろうか。しかし、そのような判断があったのなら、なぜ放送直前にその指示をするのか。こちらの方の論理的整合性の方が疑わしい。つまり、「政治介入があった」と直接証拠を提出することは難しいが、その他の理由は、「政治介入があった」という理由よりも論理的整合性が見あたらない。だから、他の可能性が否定されることによって、「政治介入があった」ということの可能性が証明されるという、やや消極的な証明が出来るのではないかと思う。消極的であるとはいえ、この段階では、僕は長井さんの方が信用できるように見える。まだ、確かなことは結論できないが、僕は論理的な判断から、長井さんを支持するという結論を出す。最後に、ついでながら、安倍・中川両氏の主張の論理的整合性も検討しておこう。<安倍、中川両氏の側の主張>--事実に関するもの・「中川氏によると、放送3日後の01年2月2日、NHK幹部が恒例の予算説明に来た際、人づてに聞いた番組の内容について「公平性を欠くのではないか」とその幹部に伝えた。」・「同氏(中川氏)は、朝日新聞の報道を受けて事務所の面会録を調べたほか、当時の秘書らにも聞いた結果、番組放送前後でNHK関係者と会ったのは2月2日と同8日、それに翌9日の自民党の部会の席だけだと確認できた、としている。また「放送前には、電話を含めNHK関係者と番組についてやりとりした事実は一切ない」と強調した。」。「中川氏は10日、朝日新聞の取材に対し、放送前日に面会した事実を認めたうえで、「NHK側があれこれ直すと説明し、それでもやると言うから『だめだ』と言った」と答え、その後も「(番組でとりあげた)模擬裁判につき、NHK教育テレビで放送するとの情報があった。NHKより番組について説明があった。公正中立の立場で放送すべきであることを指摘した」とするコメントを発表していた。」・「安倍氏のコメント この模擬裁判は、主催者側の意図通りの報道をしようとしているとの関係者からの情報が寄せられたため、事実関係を聴いた。その結果、明確に偏った内容であることが分かり、私は、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した。」・「安倍晋三氏は13日、自民党本部で記者団に「事実と全く違うことを述べている。NHK側から『会って予算の説明を行いたい』というので会った。自民党で話題になっていた番組について説明があり、私は『公平公正な報道を行ってもらいたい』と述べたのが真実だ。(私がNHK側に圧力をかけたことは全くない:この部分は解釈)」と語った。」--解釈に関するもの・「中川昭一経済産業相も同日午後「公正中立の立場で放送すべきであることを指摘したもので、政治的圧力をかけて中止を強制したものではない」と申し入れを認めるコメントを出した。」・(私がNHK側に圧力をかけたことは全くない:この部分は解釈)・「「(NHKに圧力を掛けたとの指摘は)全くの事実誤認だから、予算委員会の審議を遅らせたりする手練手管に使われたくない」(安倍氏の解釈)続きはコメントに。
2005.01.16
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今日は、論理的には高級なことを書くので、とんちんかんな質問をしてくる連中には理解できないと思うが、まともに現実を受け止めることが出来る人間には少しも難しくないことを書く。論理が難しいのは、当たり前のことがいかに当たり前に正しいかを徹底的に保証しようとするから難しくなる。しかし、当たり前のことを当たり前だと受け止めるセンスがあれば、論理の壁はそれほど高くはない。我々が地動説を論理的に理解するというのは、天動説の間違いを論理的に理解するということでもある。単に、権威あるものから地動説が正しいと教えられたことを記憶しているだけなら、天動説が正しいと信じている人間と大差はない。それどころか、天動説を信じている人間は、少なくとも自分の目で見たことから判断したということでは、地動説を信じているだけの人間よりは論理的にはましかも知れない。天動説は、その内部では様々な矛盾を処理できなかった。例えば惑星が「惑う星」と呼ばれるのは、これが目で見た限りでは、前に行ったり後ろに行ったりと、奇妙な動きで惑っているように見えるからだ。恒星のように、恒にとどまって見えたりしない。この矛盾を天動説は、その理論の中では説明できず、単に計算を合わせる工夫しかできなかった。本質ではなく、現象を捉えただけの理論は、必ずこのような破綻がやってくる。地動説は、地球の動きの本質をとらえていたので、様々の矛盾を、その理論の範囲内で整合的に説明することに成功したのである。ある種の主張を信頼するのも、その主張がどれほど深く本質をとらえて論理的な整合性を取っているかにかかっている。僕が田中宇さんを信頼しているのは、イラク戦争の前に語られたその分析の論理の見事さによっている。論理的に判断をするなら、イラク戦争は決してアメリカの利益にはならないという結論の正当性を、その論理から感じた。そして、ブッシュがこの論理を正しく判断できれば、少なくとも側近にそれが判断できる人間を置いておけば、イラク戦争は避けられるという「仮説」も納得できるものだった。それに対して、実際にはイラク戦争が起こったのだから、田中さんは間違えたのだといって、信頼性がないような主張をするものもいた。これはそういう主張をする人間が、「仮説」という考えと「仮言命題」という考えが分かっていないことを宣言しているようなものだ。田中さんは占い師じゃないんだから、「戦争が起こらない」ということを予言したんじゃない。「ブッシュか、あるいはその側近が正しく判断すれば」という仮定の下に、「戦争は起こらないだろう」という推論をしたのだ。だから、間違えたとすれば、「ブッシュか、あるいはその側近が正しい判断をする」という「仮説」を間違えたのだ。この仮説が間違いだとしたら、それは「ブッシュと、その側近の両方とも正しい論理的判断が出来なかった」ということが結論されるだけなのである。これは、田中さんの信頼性を少しも損なうものではない。単に、アメリカの権力中枢がマヌケな判断をしたというだけのことである。僕は、田中さんに対する信頼を基礎にして、その情報も信頼する。そして、最新の情報でかなり衝撃的な記事が飛び込んできた。それは、「経済発展が始まりそうな北朝鮮」というタイトルで送られてきた。この中に次のような記述がある。「国有企業に成果主義を導入した結果、平壌の火力発電所の発電量は2001年に比べて2倍になり、平壌市内の停電回数が減った。国有企業には、本業以外の事業に手を出して良いという認可が出され、部品や原材料が輸入できず操業を停止していた国有企業が、食品加工やビル建設などに参入し、自宅待機していた労働者に再び仕事が与えられる傾向も出てきた。ソ連崩壊後、衰退し続けた北朝鮮経済は、2003年には1・8%と、低い水準ながら経済成長を実現した。」この記述をどう受け止めるかというのは、田中さんに対する信頼度の違いで違ってくる。田中さんへの信頼度が低ければ、ここの事実が本当にそうであるかを別の情報をもとにして確かめたくなるだろう。田中さんを信頼していない人は、ぜひそうして欲しい。それは自分でやればいいことなので、田中さんを信頼している人間に求めるものではない。田中さんを信頼している僕は、上に書かれたことを信頼して、ここから推論をスタートさせる。僕は、読売新聞や産経新聞を信頼していないので、そこに書かれている記事が変だと感じたら、僕が信頼する人が違う観点で記事を書いていないかどうかを探す。決して、読売新聞や産経新聞を信頼している人に、その根拠を示せというようなマヌケな質問はしない。そんなものは自分で調べる。それが出来ない人間がマヌケな質問をするのだろう。これだけいっても分からないヤツが、もしもマヌケな質問をしてきたら、そのマヌケさを笑ってやろう。「そんなものは自分で調べろ」と。さて、田中さんは、この記事ではタイトルどおり「北朝鮮経済の発展の兆し」をいろいろと報告している。少し列挙してみよう。・「北朝鮮でも比較的裕福な人々は自宅にビデオデッキやVCD(ビデオCD)、DVDプレーヤーを持っており、韓国のテレビドラマや歌謡番組を録画したテープやCDも、中国でコピーされて北朝鮮に持ち込まれ、北朝鮮の各都市で売られている」・「北朝鮮当局は最近、国民に対して何回も、長髪や派手な服装を禁じる布告やマスコミキャンペーンを行っているが、これは平壌などに住む比較的裕福な若者が、韓国のテレビに出てくる俳優や歌手の髪型や服装を真似する傾向が強くなっていることに対処するための措置である。冬ソナのペ・ヨンジュンやパク・ヨンハのような、やや長髪の髪型をした若者が、平壌の街角を闊歩しているということだ」・「韓国の影響だけでなく、中国からの影響もある。中国国境に接した北朝鮮の町である新義州などでは長髪が流行っており、新義州から出張で平壌に出てきた男性の長髪を平壌市民が批判する番組が、昨年末に朝鮮中央テレビで放送された」・「北朝鮮の山間部などでは、飢餓状態の人がかなりいるのは事実だろうが、その一方で、都会では自由化にともなう経済発展の恩恵を受ける人も増えている。平壌市内では、夜遅くまで開いているレストランや商店が増え、市内を走る自家用車の数が増え、あちこちに外国製品の広告看板が立つようになった」これらの事実は、僕も「北朝鮮経済の発展の兆し」であるように感じる。経済成長がなければ、このような現象は起こらないだろうという論理的な判断だ。だから、それを批判したければ、上のような事実が本当はないのだという事実を批判するか、上の事実は必ずしも「北朝鮮経済の成長の兆し」を意味しないという推論を批判するかどちらかをしなければならない。「情報の信頼性」などというマヌケな議論で、これが批判できるものではない。さて、この「北朝鮮経済の発展の兆し」という前提を受けて、どのような推論が展開できるだろうか。これは、日本で盛んに主張されている「北朝鮮への経済制裁」への有効性が疑わしいものになるという推論が成り立つだろう。韓国の「太陽政策」はしばしば「アメとムチ」の「アメ」に喩えられる。その喩えからいえば、「経済制裁」は「ムチ」であり、相手を屈服させてこそ効果がある。「経済制裁」を解いてもらわなければ困るという状態が作れなければ、その効果はない。「北朝鮮」の経済は、日本からの送金などで成り立っているというイメージが多くの日本人にはある。新聞なども、「経済制裁」は、「北朝鮮」に大きなダメージを与えるかのような印象を与える情報を流している。しかし、次のような情報に接すると、そのイメージはどうなるだろうか。・「北朝鮮の経済自由化は、中国を見習って外国からの企業進出や外資導入によって経済成長を実現し、国を安定させようとする政策だ。特に昨年以来、南隣の韓国と、北隣の中国からの企業進出が盛んになっている。 このうち韓国は、現代グループが政府の支援を受け、南北を分ける38度線から15キロ北方の開城市に工業団地を作っている。昨年末から韓国のメーカーが操業を開始し、第一号の製品として鍋がソウルのデパートで売り出された。 この工業団地は、まだ15社しか入っておらず、最終計画の1千社には遠く及ばないが、計画が達成されれば72万人の北朝鮮国民を雇用できる。韓国のメーカーは現在、人件費の安い中国に生産拠点を移す傾向が続いているが、北朝鮮の経済自由化政策が頓挫しなければ、ソウルから2時間で行けて、言葉が韓国と同じで、従業員の賃金も中国より安い(月給約6千円。このうち800円分は北朝鮮当局が徴収する)ため、開城の工業団地への企業進出が増えると思われる。」・「同時に盧武鉉政権は、できるだけ早い時期に南北統一するという、これまで韓国が掲げていた目標を引っ込め、代わりに北朝鮮が現体制のままで経済発展して安定することを支援する戦略に切り替えつつある。北の政権を崩壊させて南北統一を挙行するやり方だと、韓国が負担するコストが大きくなりすぎるとの見方からである。韓国の防衛白書からは、北朝鮮を最大の敵とみなす表現が削られたが、これも統一より北を発展安定させた方が得策だという考えに基づいている。」・「一方、北の中国から北朝鮮への経済進出は、中国当局はあまり関与せず、民間レベルで行われている。中国の民間企業(もしくは地方政府も絡んだ地場の半官半民企業)の間では、昨年夏あたりから中国投資ブームが始まっている。」このような国際的な背景を考えると、日本だけが経済制裁をしても、それがどれほど効果があるか非常に疑問だ。せめてアメリカを巻き込むことが出来ればまだなんとか形にはなるだろうが、あれだけケツを舐めて忠実なしもべを演じているというのに、経済制裁に対するアメリカの支持はどうもあやふやだ。小泉政権が経済制裁に踏み切れないのは、アメリカの支持が取り付けないからではないかと、僕は予想したりする。経済制裁をして、なおかつそれの効果がないことがハッキリしてしまったら、その時は完全に、「北朝鮮」にとって日本が不要であることがハッキリしてしまう。これは、拉致問題の解決に関しては、致命的なダメージだ。拉致問題を解決するには、「北朝鮮」にとって日本が重要な位置を占めなければならない。経済制裁をするよりも、むしろ経済発展に協力し、日本なくしては経済は発展しないというくらいの重要性を持たなければならないと思う。日朝交渉が始まった頃、日本は、「北朝鮮」にとってはアメリカとの対話をする唯一の窓口ということで、その重要性は計り知れないものだった、とは宮台氏が語ることだ。僕もそう思う。このとき、この重要性を保つことが出来ていれば、今頃拉致問題は解決していたかも知れない。拉致問題を国家として認めたということの意味を深く理解し、これを日本の優位性として外交に当たっていたら、その後の展開は違っていただろう。しかし、最初のぼたんの掛け違いが、今の「経済制裁」という非合理的な、感情的な反応につながってきているような気がする。田中さんは、「北朝鮮」の経済発展に関して報告していたが、それと拉致問題の経済制裁との関係については語っていない。その推論は僕のものだ。なお、田中さんは最後に、「中国や韓国から投資が入り、経済的には成長できる環境が整っていくとしても、金正日政権の内部でクーデターが起きるなど、政治的な混乱が起これば、北朝鮮は安定せず、崩壊に向かう可能性がある。私は、北朝鮮の政治は不安定化しないだろうと予測しているのだが、そのあたりのことは次回に解説する。 」と語っている。この予測の推論の見事さを味わえるかと思うと、いまから楽しみである。
2005.01.15
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「情報ソースの信用性」というとんちんかんな文句をつけてきたものがいたが、このようなことを言う人間は、論理的判断が出来ないと言うことを宣言しているようなものだと思う。以下に、それを分析してみよう。僕は、以前の日記で、「掃討作戦のことが開始前に大々的に報じられたため、ゲリラは事前に市外に逃げてしまい、米軍は町を制圧したもののもぬけの殻で、その後でゲリラが市内に再潜入し、制圧したはずの市内の70%の地域で、ゲリラが米軍に対して攻撃を仕掛ける事態に逆戻りした。米軍は引くに引けなくなり、戦闘が終わったはずのファルージャに延々と釘付けにされ、ゲリラと戦い続けねばならなくなった。」という、田中宇さんの報告を正しいものと信頼して引用した。僕は、田中さんの論理展開が、論理として正当であり、その視点の鋭さが物事の本質をとらえていると言うことから、田中さんに対する信頼を抱いた。その信頼をもとにして、この報告が正しいという信頼を抱いているのだ。この報告そのものの正しさを確認して引用しているのではない。報告そのものが正しいかどうかなどは、市井の一個人に判断できるはずがない。もし判断できるのなら、わざわざ田中さんの報告でそのことを知る必要はない。自分の情報をそのまま出せばいいだけのことである。もちろん、田中さんが決して間違えない無謬の人だとは思わない。しかし、田中さんのようにまともな論理を使う人は、自分の判断が確実でない時は、決して断定的な言い方をしない。「仮説」の段階での提出にとどめる。そういう表現の仕方も信頼性を支えるものなのである。その仮説がたとえ間違っていたとしても、その間違いを正しく理解できれば、何も考えずに目の前で起こっている現象をそのまま表面的に受け取るよりもずっとましなのである。田中宇さんにしろ、宮台真司氏にしろ、その論理の正当性を僕は理解できるし、その正当性を説明することも出来る。それを基礎にして両者に対する信頼を築いているのであって、その人間的な信頼から、その人の発する情報への信頼を抱いているのである。逆に言うと、「情報ソースの信用性」というものを言い立てる人間は、どのようにして自分の情報の信頼性を判断しているのであろうか。ばかげた論理は、自分自身に適用してみると、それがいかにばかげたものであるかがよく分かるようになる。僕のように、論理的な判断から人間的な信頼を抱き、その信頼を基礎にして信じると言うことが分かっているのなら、こんな文句をつけてくることはないだろうから、他の信頼性を基礎にしているに違いない。そういえば、朝日新聞の世論調査というものを引っ張り出してきた人間もいた。これは、「世論調査」だから信頼できると思っているのだろうか。そのような単純な判断をしているのなら、数字さえ使っているものがあれば、簡単にだまされるようになるだろう。数値データが、どれだけ現実を反映したものになっているかというのは、現実に対する深い分析をしてみない限り信頼することは出来ないのだ。世論調査というものには常に誤差の範囲というものがあるものだし、その質問項目を工夫すれば、自分が出したいと思う結果を誘導することさえも出来る。また、世論というのは、確かな情報を持って主体的に判断する大衆というものの存在を前提として、安定した世論が形成されると受け取らなければならない。隠された情報があったり、情報の操作があったりすれば、それは安定した世論にはならない。違う情報が出されただけですぐに大きく揺れ動く「世論」になってしまう。一番確かな信頼できる情報は、自分が直接確かめた情報だと考える人がいるかもしれない。しかし、それはごく狭い範囲でしか通用しない論理だろう。自分が直接確かめられる情報というのは、プロのジャーナリストでもない限りそれほど広い範囲のものをカバーすることは出来ない。ちょっと広い世界のことを知りたいと思ったら、専門家として信頼できる人間の情報を受け取った方がずっと効率的で、しかも正しいのだ。もしも、「情報ソースの信用性」というものを、情報そのものから導けるものなら、ぜひそうしてもらいたいと思う。おそらく出来ないだろうと思うが。ある情報の信用性を、他の情報から導くことは出来ない。その、他の情報の信用性がまた問題になるからだ。これは、信用性の無限の連鎖になってしまう。だから、信用性を保証するためには、どこかでそれを断ち切らなければならない。そうすると、その情報を発する個人を信頼するのではなければ、いったい何を信頼して「信用性」を導くのだろうか。そのどれも、論理的に怪しいものになるだろう。世論調査などという数値が信頼の保証にならないことはすでに批判したが、どんなものを提出しようと、論理的に批判することが出来る。だから、これは、自分が何を信頼しているかという「自己決定」の問題としてとらえるしかないのである。田中宇さんを信用していない人間に、田中さんの情報を信頼しろなどとはいわない。田中さんを信頼している人間が、それを信じればいいだけのことなのである。どちらが、現実を深く把握しているかは、これから起こる事実によって証明されるだろう。それから、情報そのものと、その情報から導かれる判断とは区別しなければならない。情報の正しさは、確かめようがないものもある。あとは、どこから発しているものかで信頼性の高さを判断するしかない。しかし、その情報を正しいものと「仮定」した、そこから導かれる判断というのは、「仮言命題」の正しさを受け取ることである。この仮言命題は、論理的判断が出来れば、形式的な正しさは受け取ることが出来る。その形式的な正しさが理解できれば、前提となる「情報」さえ正しければ、結論を信頼することも出来るのである。それから、僕は情報を全て引用して、それを前提にして論理の展開をしているが、中にはうっかり情報の提出を忘れて論理を展開している人がいるのを見る。これは、論理に慣れていない人は、そのようにうっかり忘れることがあるだろうと思う。その時に、結論に疑問があるようなら批判のポイントは二つある。一つは論理展開そのものに間違いがあるのではないかということだ。これは、情報の正しさには関係ない。論理さえたどることが出来れば批判できる。もう一つは、論理の展開には大きな問題はなく、その前提となっている情報の方に問題があると感じる場合だ。それは、情報の方の正しさを批判すればいい。批判の方法は様々だ。情報そのものが、事実としての矛盾を含んでいれば、それは論理的な指摘だけですむ。矛盾が情報そのものの中に無ければ、それと矛盾する別の情報を対置して、情報の信頼性を批判するという方法をとればいい。このような方法こそが正しい批判の方法だ。「情報ソースの信用性」を叫び立てるというのは、批判でもなんでもない。単に文句をつけているだけだ。そんなものは誰にも証明できないもので、証明できないものを相手に要求して、「出来ないだろう」と文句をつけたいだけのナンセンスだ。「田吾作性」を示すものにしか過ぎない。それだったら、「情報ソースの非信用性」を証明して見ろという答を返してやればいい。これは、本質的にはどちらも証明できないものだと言うことが分かるだろう。これは結局、情報そのものの批判が出来ないので、「信用性」を攻撃することで文句をつけているだけだ。情報そのものの批判が出来れば、そんなことをする必要はない。それから、「情報ソース」を要求するような文句もあちこちで見かける。僕の場合は、最初からどこから拾ってきた情報であるかを明確にしているので、このようなとんちんかんな文句をつけてくるものはいないが、これも要求しても無駄なことだ。問題は、その情報ソースを、どれだけ信頼しているかと言うことで、その受け取り方が違ってくるからだ。その「情報ソース」を信頼している人間同士であれば、どこから拾ってきたかと言うことを示せば、その信頼性を伝えることが出来る。しかし、そういう共通の前提がなければ、「情報ソース」を示したからと言って、その情報の信頼性が高まるものではない。その情報源を信用していないと宣言したからと言って、それが客観的にどんな意味があるかということだ。「君がそう思っているのなら、勝手にそう思ってください」で終わりだ。情報が信頼できないのであれば、他にそれと矛盾する情報を対置して、どちらが信頼に値するかで批判すればいいだろう。「情報ソース」を求めるなんて言うのは、そういう検討が出来ませんと言っているようなものだ。この「情報ソース」を要求する人間の心理を考えると面白いことに気づく。これを要求する人間は、ソースによって信頼性が決まると考えているのだろうと僕は感じる。だから、僕が、田中宇さんが発する情報だから信頼しているのだ、というのは、同じ考えの基にあることが理解できなければならない。しかし、これが論理としては同じだから、文句をつけられることではないとは受け取らないのだ。自分が田中宇さんを信頼していないから、田中さんへの信頼そのものが間違っているという判断しかできない。自分の判断が、そのまま他人も賛成するものだというおめでたい判断をしているのかも知れないが、論理構造としては同じだということが分からないのは、やはり論理への無知を表すものだろう。僕は、論理的な正当性を信頼を判断する基礎においている。これによって田中宇さんを信頼し、宮台真司氏を信頼するという判断が出てくる。ジャーナリストの場合は、これに加えて、事実に対する視点のすばらしさ(斬新さ、あるいは見逃していたものに気づかせてくれる、本質を突いた視点)を感じると、また信頼性が増してくるものを感じる。今週の「マル激トーク・オン・デマンド」では、神保哲生氏がスリランカの津波被害の報告をしている。その視点は、津波で流された地雷の影響がどのくらいあるかと言うもので、地雷を探す人々を中心に取材した報告になっている。これは、マスコミでは全く聞いたことのない視点だった。しかし、問題としての重要性はすぐに理解できる。マスコミの報道は、その被害の大きさを嘆くという、ある意味では普通の人の感覚での見方だ。視聴者という市井の個人であれば、このような見方にとどまっていても仕方がないと思うが、ジャーナリストを名乗る人間が、このような「俗情に媚びる」視点でしか報道できないとしたら、その情報は僕はほとんど信頼性を抱かない。被害を拡大した本質的な原因はどこにあるか、というような報道であれば、少しは信頼を抱く。しかし、その対策は日本では十分してあるから大丈夫だ、というような所に落ち着けようとするような報道なら、やはりそれはあまり信用しない。政治的な意図を感じる報道だと思うからだ。その点、他の人が問題にしないところであるにもかかわらず、その問題は、あらゆる所に影響を及ぼすような重要性を持っていると思えるものを伝える、という神保氏の視点は、本物のジャーナリストだと信頼できるような視点だ。神保氏は、今回だけではなく、他の問題でも、このような素晴らしい視点を感じさせてくれる報告をたくさんしている。それを理解して、僕は神保氏に対する信頼感を抱くようになった。「情報ソースの信用性」などというものを言い立てる人間は、そもそも、このような人間的な信頼を基礎にした考え方が理解できていないから、このようなことを言い立てるのだろう。そういう人間とは、何を話し合っても無駄だ。「そんなものは、勝手にそう思っていろ」というのが、僕の返事だ。
2005.01.14
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エクリチュールの問題での宮台氏の発言の中で、もう一つ理解したいと感じたのは「否定の図式」というものだ。それは、エクリチュールの問題を、言葉に表されたものは、実際には存在しない「幻想」に過ぎないのではないかという、ある意味ではマイナスの意味でのパラドックスとしてとらえるのではなく、プラスの面もあったというふうにとらえる見方を示すものだと感じた。そういう意味で「否定の図式」を受け取ったので、エクリチュールの問題を対立物の統一として理解するためにも、「否定の図式」の意味を深く考えてみたいと思う。宮台氏は、「否定の図式」を説明するのに、自明性を裏切る事態というものから始めている。これは、「アンビリーバブル(信じられない)」というものだろうか。こういう事態に陥った人は、その事実をどう受け止めていいか分からなくて、パニック状態に陥ってしまう。これが自明性を裏切るものと受け取られるのは、自明性が成り立っていた世界(システム)の外がとらえられていないからだ。これが、もっと広い視野を持っている人なら、システムの外部としてそういうこともあり得るという予期も持っているはずだ。そうするとそのようなことが起こっても「自明性を裏切る」とは感じない。それは自明性の延長として受け取られるだろう。システムの外部を見るには、そのシステムよりも広いシステムをとらえて、外部さえも内部になってしまうような、相対的な広いシステムが必要だ。人間は、長い歴史を経て、そのようなシステムを次々に作り上げてきたのではないだろうか。これは、アプリオリ(先天的)に、天才の頭脳に舞い降りてくるものではない。最初は、「内外差異という内部」という形で、内部を基準にして作り出した「幻想」としての外部というものを作り出して、実践を通じながら、「幻想」が「現実」になっていったのだろうと思う。。そして、「幻想」ではなく確かな現実だと確認されて、本当の外部としてシステム化されるのではないだろうか。「否定の図式」で否定されるのは、「自明性を裏切る」と思われることを否定し、パニックに陥ることを防ぐということではないかと思われる。これはエクリチュールの問題のプラスの面を指しているのではないかと僕は感じる。宮台氏は、古いタイプの宗教で、このパニック状態を処理するために、「超越的なものを呼び出すための共同的儀式を行う」というものを「否定の図式」としてまず考察している。例えば、日食のメカニズムを知らない人々は、突然暗闇が訪れるような事態にはパニックになっただろうと思う。世界が終わったかのような恐怖さえ抱くかも知れない。このときに、たとえ正しくなくても、ある程度合理的に納得できる説明があれば、そのパニック状況をやり過ごすことが出来る。ある種の神の怒りということにし、やがて日食が終われば、神の怒りが解かれたと解釈すれば、不安を取り除くことが出来る。これは、日食のメカニズムが正しく捉えられ、それが正しく予想できるようになれば、大きなシステムの中での一つの事実という内部にすぎないものになる。そうなれば、もはや日食でパニックになることはない。これも一つの自明性として処理されるだけだろう。その処理が出来ない、つまりメカニズムの本質が解明されていない間は、不安の解消という働きのために、「否定の図式」としてのエクリチュールの問題が使われるのではないだろうか。エクリチュールとして記述することで、それを「内外差異という内部」にしてしまい、内部であるがゆえに「自明性」を取り戻したと安心できるのではないだろうか。人間にとっての世界とは、理解している範囲内のものとしてのシステムになるだろう。理解できない外部は、世界の中に入っていないので、「幻想」すら抱かないだろう。しかし、ある時に「事実」がこの世界を超えてしまう時がある。今回東南アジアを巨大な津波が襲ったが、これなどは、それまで津波というものが考慮の中に入っていなかった人々には、それは自分の世界には存在しない「外部」だったのではないだろうか。それが、事実として突然内部を訪れたという感じがするのではないかと思う。これは、現在では津波のメカニズムがかなり解明されているので、パニックは長続きせず、合理的な説明によって津波そのものは理解されるかも知れない。しかし、もしもそのメカニズムが解明されておらず、パニックだけが残るようなら、どんな説明でもいいからそれが起こった必然性の説明を求めるのではないだろうか。人間は、偶然性という不安の中にいつまでもいられるのではないと思う。予期していなかった不幸に襲われた人は、その不幸がなぜ自分に訪れたかを納得したくて、ある種の宗教を求めるという動機が生じることもあるだろう。多くの迷信の成立も、同じような心理が働いているようだ。板倉聖宣さんも、原理的に合理的な説明ができない事柄については、迷信という形で合理的な説明が生まれるというような話をしていた。迷信というのは、本来は合理的な説明が出来ない事柄を、合理的に説明しようとしたために、その前提に不合理を立てなければならなくなったものと理解できる。人間が解明できる事柄というのはまだまだ世界の中の一部だけに過ぎない。それも、本当に合理的に説明できるのは、一部の自然科学的な対象だけである。「意志の自由」が絡んできたりする問題では、その「自由」の中に不合理なものを選ぶ自由があったりするので、完全に合理的に説明することは出来なくなる。特に、近代社会は、社会のいろいろな要素が複雑に絡み合ってくるので、「自明性」はきわめて低くなっている。不安の材料は世界中に満ちている。それをやり過ごすためには、エクリチュールのパラドックスは、たとえ「幻想」であろうとも有効性を持つのではないかと思う。それは、世界を超えるわけの分からないものとしてパニックを起こすものではなくなり、「内外差異という内部」として、理解できるものとして不安をやり過ごすことが出来る。このあたりのことを宮台氏は次のように記述している。「否定の図式は、正義と不正義、道徳と不道徳、正常と異常、美と醜などといったものです。かつてであれば自明性の破れゆえにパニックになったところが、あらかじめ「あり得る否定性」としてボキャブラリーに登録し、事前に対処の仕方を決めておくようになるわけです。宗教から法が分出していくのも、そうした流れにおいてです。 これは文字文化の誕生と相即的です。文字化すると、かつてならパニックを招いた否定的な出来事が、参照可能な形でアーカイブスに収蔵されます。その結果、図式を超えるような事態が起こることは滅多になくなり、事前に用意された「外」や「異常」という範疇に当てはめられるようになります。差異ではなく、反復が優位になります。」これは、不安をやり過ごすという面ではプラスの面を持っているが、そのプラスの面が同時にマイナスにつながる恐れもあるから、また難しいところがある。その説明としてのエクリチュールが、本当に正しい現実とつながっていなくても、不安を沈めるという点で役に立てば、そのまま信じられてしまうというマイナス面が出てくることもあるだろう。その合理的説明が、論理的整合性を言葉の上で取るだけでなく、事実としても整合性をとれるような方向にしていかなければならないだろう。また、どんなに合理的な説明を尽くしても、すべてにわたってそれが成功することはない、ということをゲーデルが不完全性定理で証明したように僕は感じる。そうすると、いつかは、説明できない世界を超えたもの、宮台氏の言葉では「超越」というものを考えざるを得ない時がやってくるかも知れない。しかし、そんなものは「幻想」だ、と片づける立場も当然あるだろう。ゲーデルは、存在証明はしたが、その存在が具体的にはどうなるかということは語らなかった。だから、証明不可能な命題が、これがそうだと提出することは出来ない。証明できそうにないな、ということが予想されるだけだ。その時に、そこに「超越」という存在を見て、その「超越」から合理的に説明しようとする立場と、その「超越」も「幻想」に過ぎないとして、あくまでも現実を基礎に説明しようとする立場と、二つの立場がありそうな気がする。これは、どちらの立場が正しいかは分からないということがあるだろう。うまく現実から説明する方法が見つかれば、どちらが正しいかの結論が出せるが、その説明が見つからない時は、どちらを正しいかと考えて、どちらの立場に立つかを選び取ることしかできないのではないかと僕は感じる。主体性の問題は、それがあるともないとも、どちらの立場も合理的な説明が出来る。極端な、完全な意味での主体性の存在を考えると、それはないと結論せざるを得ない。何ものにも縛られない、完全な自由のもとに自己決定するなどということは、具体的な特殊な社会と時代に生きている人間には出来るものではない。必ず、社会と時代の制約を受ける。それを逃れることは、どこにも存在していない抽象的な人間にしかできないことだ。しかし、このような完全な意味での極端なものでなければ、ある種の制限された「自由意志」による自己決定はあり得る。この自己決定をする「主体性」の存在を信じるか信じないかで立場の違いが生じる。これを信じる立場というのは、極端な意味での主体性は、ある意味で現実には存在しないけれど、それは現実に存在する主体性が抽象された理想だと受け止めているのだと思う。つまり、ある種の「超越」を信じる立場と言えるだろうか。具体的な事実として現れる主体性は、不完全な不十分な主体性に過ぎない。しかし、それが理想に近づいていく姿として抽象される主体性は、その過程として現実に存在していると、その「超越的」な存在を信じているのだと思う。それは、それを信じることによって、それが実現する可能性があると考えるからだ。それが、あくまでも「超越」は存在しない。そんなものは全て「幻想」だ、と考える立場は、結果的にはニヒリズムに通じていくだろうと思う。理想など無いのだから、何をしようとやったもの勝ちだ、と言う考えにも通じるものだ。僕は、この両方の考えを揺れ動きながら、あえて「幻想」を見ながら生きていきたいという立場だろうか。「幻想」だというニヒリスティックな思いが頭をよぎりながらも、しかし、その「幻想」を見なければ、理想が消えてしまうという思いだ。理想が消えた世界を生きるのは、現在に安住して幸せを感じていればいいという生き方になる。しかし、どうにも、そのように世界に内在して幸せを感じるというメンタリティを持つことが、僕には難しい感じがする。どうしても「理想」という「超越」を求めたい気持ちが働く。そういう気持ちの揺れの中で、合理的な説明を求めていくという生き方をするんだろうなと思う。
2005.01.13
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宮台真司氏と仲正昌樹氏の共著「日常・共同体・アイロニー」は、それぞれが交互に自分の主張を述べあっていくというスタイルになっている。宮台氏の最初の主張は、「現代思想と自己決定」という中見出しが付けられている。ここから、宮台氏の発言の中で、深く考えてみたい文章を抜き出してみようかと思う。まずは次の文章だ。「現代思想は、元々アイロニーの思想だと言えます。アイロニーについては回を改めて話題にするようなので、一言だけでいえば、全体を標榜するものが部分に対応してしまうことです。従って、いま仲正さんがいったエクリチュールの問題は、システム理論の言葉を使えば、「内外差異という内部」ということになります。」これは、この章の冒頭に書かれた文章で、アイロニーについてはこれまでに少し検討した。ここで考えてみたいのは、「内外差異という内部」という言い方だ。これは非常に難しい。いったいどんなものをイメージしたらいいかを考えてみたい。まずは、これを考える材料として、仲正氏が語った「エクリチュールの問題」を見てみようかと思う。それは、生き生きとした体験を綴る文章から、生き生きとした現実を受け取れるかという問題のように僕は感じた。芥川賞を取った作品を例に出して、仲正氏は次のように語る。「文字によって書かれたもの、すなわちエクリチュールが「生き生きとしたもの」を再現=表象するということは、パラドックスだと言えます。現代思想の大きな問題の一つが、このエクリチュールのパラドックスだと言ってもいい。生き生きとした「言葉」を語って欲しいとか、作品の中に生き生きとしたものを見出すようなことは、非常に矛盾した行為です。 金原ひとみさんが、『蛇にピアス』で記した他者体験のようなものをしたとする。だが、その体験は、言葉にした瞬間に他者体験ではなくなっている。なぜかといえば、彼女は体験を文章にした瞬間に、社会で使われている言葉に引き戻して表現しているからです。そうやって書かれた彼女の文章を、市民社会の日常の中にいる私たちが「理解」しているわけですから、他者体験という一回的なものが、一般的な言語に翻訳されて、表現されていることになります。 彼女が経験したようなことを、彼女のエクリチュールを読むことによって引き出せるかというと、それはとても困難なことだと思います。もちろん、全く引き出せないとはいいません。問題なのは、エクリチュールの読み手が、あたかも書き手の経験を追体験できるかのような幻想に陥ってしまうことです。」長い引用になったが、これが仲正氏が提起した問題の前段を語る内容だ。この前段を理解してもらわないと、問題提起そのものが分からなくなりそうだと思ったので引用をした。この前段を承認した上で、仲正氏が提起する問題は次のようにまとめられる。「これが、デリダがエクリチュールの問題として、指摘していることです。現代人はなぜか、「主体性」の問題に関心を持ちつつ、「生き生きとした経験」からなる「世界」を求めている。しかし、生き生きとした経験というものは、あくまでも瞬間的なものである。言葉という他人から与えられたものを媒体として、他人に分かるように語ってしまえば、その瞬間に体験そのものは、文字によって「死んで」しまう。」「生き生きとした経験」は、あくまでもその個人がその時に経験した一回だけのものであるのに、追体験によってそれが経験できると思うところに、幻想があり、しかもそれが幻想であり、不可能なことであるというのは、「生き生きとした経験」というそのものに含まれている、というところにパラドックスを見ているように感じる。この「エクリチュールの問題」が、何故に「内外差異という内部」という表現でまとめられるのだろうか。これを考えてみたい。まずは、「エクリチュールの問題」は上に書かれているように理解し、「内外差異」と「内部」という言葉の理解も考えてみようと思う。これは、システム理論における述語なので、その厳密な意味をとらえないと、ここで表現されている内容がつかめない。システムというのは、ある存在を指す言葉で、この存在は、何らかの境界を持っていてそれが他と区別されるという特徴を持っている。そして、その境界の中に入る要素を「内部」と呼び、それ以外を「外部」あるいは「環境」と呼んでいる。「内外差異」というのは、この「内部」と「外部」の要素の違いを指すものだと思う。これは、ある条件の下に区別されたのであるから、「内外差異」はその条件に深い関わりがある。「エクリチュールの問題」では、「生き生きとした経験」と、それを記述した「言葉」というものが二つの要素として出てきている。これをシステムとしてとらえるということを考えてみたい。「生き生きとした」という条件で様々な「経験」を区別してみようと思う。そうすると、内部に入ってくるのは「生き生きとした経験」で、それはある種の気分の高揚をもたらしてくれるものというイメージがある。それは、内面からの気分を感じなければ「生き生きとした」という条件に当てはまらない。そうすると、それは経験している本人にしか実は感じられないものになるだろう。どんなに想像力が豊かでも、「生き生きとした経験の追体験」は、このシステムの内部には入ってこないのではないだろうか。それでは、「生き生きとした経験を綴った言葉」というシステムはどのようなものになるだろうか。これは、まず綴った人間が、自分の体験を「生き生きとした経験」と認識している必要があるだろうか。自覚していなくても「生き生きとした」ということがあるだろうか。これは、ありそうもないような気がする。「生き生きとした」というのは、内面から感じるものであるから、やはり自覚があると思った方がいいだろう。そういう自覚がある人間が綴ったというのがまず条件の一つだろうか。この言葉が、他人にも「生き生きとした」イメージを伝えて、想像の中で追体験させるという幻想を生むというのは、条件の中に入れるべきだろうか。これは、ちょっと躊躇するところだ。「幻想」だという判断は、システムの中にいるだけでは判断が難しいような気がするからだ。システムそのものに属する性質ではないような気がする。システムというのは、ある境界を引いて、内部と外部を区別するが、それが内部と外部であると分かるのは、システムを超えた視線があるからである。それは、そのシステムを含むより広い世界を見ることが出来るので、その世界の中で、システムの外部があるということが分かるのである。システムの内部の世界だけしか見えていないと、そこだけが世界だと思ってしまうだろう。外の世界は、考えることも出来ない異界になってしまうのではないだろうか。「幻想」という判断は、システムの外を理解してから出来るものだと思うので、システムの条件からは外さなければならないのではないかと思う。システムの世界しか知らないと、バーチャルな「幻想」の世界がリアルな「現実」だと思い込む、マトリックス的な感覚になるのではないだろうか。内外差異というと、本来ならシステムを超えた視点で眺めないとそれが見えてこない。システム内部から眺めるだけでは、とにかくシステムにあるのとは「違う」という感じだけでとらえたものに過ぎなくなる。それが、どう違うのかはそのままでは分からない。このような内外差異を、「自分の観察による構成物」と宮台氏は表現している。これは、システムの外にあると思っているが、実はそう思っているだけの「幻想」ではないかというのが、「内外差異という内部」なのではないだろうか。本当にシステムの外にあるということを確かめて、それから導き出された内外差異ではなく、そういうものがあるらしい、あるいはそういうものがあって欲しいという外部として、実は内部が作り出したものとしての差異であり、内部との関わりしか持っていないから、内外差異という「内部」と呼ばれるのではないだろうか。エクリチュールは、言葉によって表現されたものだが、言葉によって表現することで、その言葉の内部ができあがる。「生き生きとした経験を綴った言葉」によって、その内部に「生き生きとしたイメージ」ができあがる。この内部を外に照射したものが「現実に生き生きとした経験」になるのだが、それは照射であって、本当の現実では無いというのが、内部であるエクリチュールによって作られた「内外差異という内部」と言えるのではないだろうか。このエクリチュールの問題は、身近なものでは、教育目標のようないろいろなスローガンに見られるような感じがする。だいたい、そういうものは美辞麗句で作られている。「自ら考え、自ら行動する子供を育てよう」というようなものが、最近ポピュラーなものだろうか。これは、言葉としては、たいへんけっこうなものだが、言葉に出してみると、この言葉で語られている「幻想」が実際に存在していると錯覚してしまう。しかし、実際にはそういう子供が存在しているかは、スローガンの有無には関係がない。現実の存在を見て判断しなければならないことだ。このようなスローガンの問題に関して、板倉聖宣さんは、具体的手段が存在しない時、その言葉が美しいからといって目標にしてはいけないということを語っていた。つまり、実際に「自ら考え、自ら行動する子供」を育てる手段を持っていなければ、どんなにそれが理想であろうとも目標に掲げてはいけないということを語っていた。だから、仮説実験授業は、まず実践で確実に成功する方法を作り上げてから、それを目標にするような方法をとっていた。エクリチュールの問題は、それを忘れないことが大切だ。それを忘れると、「幻想」が現実に存在していると錯覚してしまう。「幻想」を「幻想」として受け止め、リアルな現実を見つめなければならない。そうでないと、「幻想」が存在しないことを何かのきっかけで知ってしまうと、それを受け入れることが出来なくて思考停止になってしまうからだ。「幻想」に対する免疫性を持たなくてはいけない。それを、エクリチュールの問題は教えているのではないだろうか。
2005.01.12
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宮台真司氏は、自己決定という主体性の問題をいくつか論じている。少年法の厳罰化が叫ばれていた時は、こんな議論をしていた。もしも、少年の行動というものが、自己決定的で、自らの選択で行動を選ぶということが徹底していたら、自ら選んだものに対しては自己責任をとるという意味で厳罰化の方向が論理的には当然だ、と。つまり、犯罪を犯した少年が、その犯罪を自己決定的に選択して犯したのなら、その責任を自らがとるという意味で厳罰を科さなければならないということだ。しかし、少年には自己決定する能力はないのだという見方に立つと、彼の未熟さが犯罪を引き起こしたのであって、その未熟さを教育し直すということこそが少年にふさわしい措置だということになる。つまり、少年には自己決定する能力がないと見るならば、厳罰化の方向は論理的にあり得ないということになる。自己決定という、ある種の選択を自分で行うという主体性を、少年に認めるかどうかということの議論は、なかなか結論が出ない議論ではないかと思う。宮台氏は、そのような能力を育てる教育に、教育の内容を変えていくということが、自己決定を基礎にした少年法の厳罰化の道を正当化するということで、主張そのものは、自己決定を推進し厳罰化をするということだったように僕は感じた。これには、僕も基本的には賛成だ。僕は、主体性を育てる教育が大事だと思うし、主体性を育てるためには自己決定を大事にすべきだと思う。そして、それが達成されたら、論理的には自己責任の道を取らざるを得なくなり、少年法は厳罰化をするのが論理的な道だろうと思う。しかし、その前提の自己決定が成立していない時に、厳罰化だけが議論されるのは間違いだと思った。この自己決定に関しては、そんなものはあり得ないとするアイロニーが存在する。それは「自由」に関する考察から導かれるものだ。人間の「自由」になるものにはどれだけのものがあるのかということだ。逆に言えば、人間はどれほど、人間の外の世界の影響に支配されるかという問題でもある。人間が自由に自己決定するといっても、本当に自由に選択できるものだろうか、という疑問が残る。空中に浮かび上がりたいと思っても、万有引力の法則に逆らって、自由に浮かび上がることを選択して自己決定することは出来ない。そのように、自己決定できないものがたくさんあって、むしろ自己決定できるように見えるのは「虚構」ではないかと思える。そのように思い込んでいるだけで、法則に反することは自己決定したという気分があるだけだというものだ。自己決定というものは、いくつかの選択肢から、人間が自らの意志で選び取るものであるはずなのに、実は、それはどれを選ぶかはもう決まっていて、あとはそれを理解できた時に選択が正しかったと言われるだけなのではないかということがアイロニーだ。本来は、自己決定をする選択肢の全体があるのに、それは結局は「正しい選択」という部分と一致するものだけが自己決定ではないのかということだ。この、部分が対応する全体がアイロニーを構成する。しかし、このような議論は、宮台氏にとっては百も承知の事柄であり、実はこれを前提としてここに新たな議論を積み上げることが大事なことなのである。自己決定が虚構でありアイロニーである、ということを前提にして、だからこそその虚構を基礎にして真理を求めるという、これまた新たなアイロニーを議論しなければならないということなのだと思う。自己決定が虚構であるということを批判する人は、自己決定など出来ないのだから、伝統や大いなるものへの敬愛こそが、自己の支えになるという論理を語ることがある。それに対して、宮台氏は、近著「日常・共同体・アイロニー」の中で次のように語っている。「私の考えでは、「本当に自己を超える大いなるものがあるのなら、自己決定で振る舞う時にこそソレが現れる」と見るのが、魂を信頼する真正右翼です。三島由紀夫はこの立場で愛国の強制に断固反対しました。反対に「自己を超えるものだと言挙げされた何かに服せ」と命じるのは、三島のいうとおり、似非右翼です。 元々選択の対象であり得ないはずの伝統や共同性も含め、何もかもが選択の対象となる再帰的近代では、自己決定を前提とした上で、応答が返ってくることを信頼して呼びかけるしかありません。言い換えれば、表出の連鎖を信頼するしかない。伝統がかろうじてあるなら、呼びかけに応じる自己決定的な振る舞いにこそ、伝統が刻印されるはずです。」自己決定などないのだから、大いなるもの(これは権威のことを言い換えただけにすぎない)と一体化して、「伝統を守る」べきだという主張は、奴隷の主体性を持てということと同じだと僕は感じる。宮台氏が語るように、もし「伝統」というものがあるのなら、それは、たとえ虚構だとしても、自己決定という形でこそ示すことで「伝統」の存在が語れるのだと僕も思う。それを、押しつけという形で、相手に求めるとしたら、これはもはや「伝統」というものがなくなってしまったことの証明になるだろう。これは「伝統」のアイロニーでありパラドックスだ。日の丸・君が代が日本の伝統ならば、真正右翼は、その強制に反対しなければならない。自発的に、自己決定的にそれに敬意を払ってこそ本当の愛国心というものになる。また、伝統でもない、単なるシンボルにすぎないものだというのであれば、何故にそれを強制してまで掲げたり歌ったりさせようとするのか。単なるシンボルであれば、それに敬意を払う必要はない。区別する表象だと認識すればいいだけのことだ。敬意を払うかどうかは、自己決定の問題で、拒否する自由も与えられるべきだ。自己決定というものは、それがあるともないとも、どちらも証明が出来ないものではないかと思う。ちょうど、ゲーデルが自然数論の中に、決定不可能な命題が存在することを証明したように、それがあると言えないことから、すぐに無いと結論することが出来ない問題ではないだろうか。フィクション(虚構)として定立することによって、人間が抱えている問題を解決する要素となるようなものではないのだろうか。自己決定がないといって、その全ての意味を否定してしまうのではなく、自己決定を信頼して相手の判断にゆだねることによって、「伝統」だとか「人間的なもの」とか「平和」とか「安全」とか、多くの良きものがまだ社会に存在しているのだと確認させてくれる、そういう判定装置の要素になってくれるものではないのだろうか。このようなニュアンスを、宮台氏は、憲法意思を比喩的に語ることで次のようにいっている。憲法意思というものも、民衆がそのような意思を持ったということは実は証明できないものだ。だから、本質的には虚構である。しかし、「さて、虚構だから憲法意思はくだらないということになるのでしょうか。現実の社会というものは虚構を織り込んで初めて回るシステムです。社会システムは虚数と実数によって張られる複素数空間を前提にします。憲法意思ないし一般意思という虚数を否定すると、実数空間の構造まで失われてしまいます。 憲法意思には実体がない。しかし、一般意思が憲法を支えているということにしないと、近代の社会システムは機能しません。人権概念のベースはそういうものです。それをわきまえずに、フランス革命におけるロベスピエールによるギロチン政治の顛末はルソーの一般意思概念のせいだというのは、事実としては正しくても(!)、思想として間違っています。」と、宮台氏は語る。虚数というのは、方程式の解を考える時に、これなしでは解が求められないものである。しかし、虚数は、自ら「虚(ウソ)」の「数」と名乗っているように、虚構なのである。だが、この虚構なしに方程式を解くことは出来ない。方程式を解くために絶対に必要な虚構なのである。社会にも、このような、問題を解決するための絶対に必要な虚構があるのではないだろうか。「自己決定」という虚構がそういうものであるような感じがする。そして、これに通じる「主体性」というものも、ある種の問題を解決するための虚構なのだと思う。これをアイロニーとして理解しないと、そんなものはないと単純に結論を出して、「主体性」などというものを考えの外に追い出してしまう。そうすると、「主体性」があると思えるからこそモチベーションを高めることが出来るという問題などが、全く考慮の外に追い出されてしまう。また、「主体性」があるからこそ、感動したり共感したり出来るという問題もなくなってしまう。「主体性」の虚構を信じない人間は、それにつながる様々な問題を解決することが出来なくなる。このあたりのニュアンスは、宮台氏の次の言葉に見ることが出来る。「自己決定とは虚構です。自己決定ならずとも、先の一般意思も含めて、人倫の世界における形象は、大半が虚数的です。「それって本当にあるの?」と尋ねられたら「厳密には、無い」と答えるしかありません。ただし、こう付け加えるのを忘れてはいけない。「でも、あるということにしておかないと、現にあるものまで、無くなってしまうのだ」と。 自己決定を、教養があって論じるのか、教養なしに論じるのか。両者の「違い」は、あくまでも虚数的ないし創造的なものを、どういう手つきで扱えばよいのかにかかります。エクリチュールの中でしか意味を持たないという意味で虚数的なのですが、虚数であることをわめき立てる俗流の構築主義は、単なる素人の議論だと言えます。 私は近代主義者で、そういう看板を出しています。偽りでなく、本心からの近代主義者です。そして近代主義者としての私は、近代がいわば複素数空間であり、虚数的なものを認めないと定義できないことをわきまえています。虚数を虚数のまま維持することが大切で、虚数をマルチチュードに置き換えればいいというわけにはいかない。」ここで「エクリチュール」という言葉が難しい。僕も完全に理解しているわけではないが、とりあえず、虚数的な虚構を、言葉の中でしか意味を持たないと考えるのが、「エクリチュールの中でしか意味を持たない」ということだと僕は理解している。しかし、これはとりあえずであって、これを、現実に存在していない虚構は、現実における影響はないという考えだと受け取ってはいけない。そうではなく、虚数的なものというのは、虚構の中でも、問題解決のために不可欠な虚構なのであって、現実の中でも意味を持つのだととらえなければならないということだと思う。「マルチチュード」というのもまた難しい言葉だ。これは多数的なものを意味するらしい。その意味で、この場合を解釈してみると、虚数を虚構として考えると何もつかめなくなるので、これを何か実体的なものに比喩的に解釈することを「置き換える」と呼んでいるのではないだろうか。そして、多数意見として賛成されそうな「置き換え」をマルチチュードという言葉で表現しているのではないだろうか。それは、問題の解決を、別の形に変えてしまうことになるので、根本的・本質的な解決をしたかったら、やはり「虚数を虚数のまま維持することが大切」だと宮台氏は言っているのではないだろうか。僕は、現代日本社会が陥っている様々な混乱の問題を、「主体性」という虚構を維持することで解決の方向を見出したいと思っている。それこそが本質的な解決の方向ではないかと感じる。
2005.01.11
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僕が、今最も注目しているのは宮台真司氏だ。新しい著書が出るとたいていはすぐに手にしている。つい最近も、仲正昌樹氏との共著「日常・共同体・アイロニー」を買った。僕が宮台氏を天才だと思うのは、かなり直観的な判断によるものだが、それをちょっと深く考えてみようかと思う。僕は学生の頃からかなりの読書量があったが、たいていはある著者が好きになり、その著者の本を集中的に読むという読書の仕方をしていた。数学少年だった頃から、専門に数学をやっていた頃は、遠山啓さんの本を中心に読んでいた。遠山さんは数学者で、数学教育にも大きな貢献をした人で、水道方式の発案者だ。論理学に関心を持ち始めた頃に出会ったのが三浦つとむさんだ。三浦さんは、僕が師と仰ぐ人で、三浦さんのセンスと思考を身につけることが僕の理想だった。師と仰ぐ三浦さんでも、僕は三浦さんを天才だと思ったことはない。三浦さんの能力は、合理的な訓練を積んで身につけたものだということが分かるからだ。このほか僕が好きになった著者は、板倉聖宣さん・本多勝一さん・佐高信さん・鎌田慧さん・河合隼雄さん・松下竜一さん・佐藤忠男さん・千葉敦子さん等々といったところだ。これらの人々も、僕は天才だとは思わなかった。もちろん飛び抜けてすぐれた優秀な人々だとは思っているが、その優秀さは、やはり合理的な訓練のたまものであり、天賦の才が花開いたものという感じはしなかった。それだけに、これらの人が語ることは、合理的な訓練を積みさえすれば必ず理解できるものだと思ったものだ。それでは、宮台真司氏だけを何故に天才だと僕は思うのか。一つには、宮台氏が語ることが飛び抜けて難しいということがある。一度読むだけでは理解不可能なものがかなりある。「権力の予期理論」などは何回か読み返しているのだが、なかなか理解が難しい。インターネットで公開されている「社会学講座」も、入門のはずなのに、その難しさは飛び抜けている。最新刊の「日常・共同体・アイロニー」の中で、仲正昌樹氏が語る宮台像というのが面白い。次のようなものだ。「90年代後半以降に宮台ファンになった人には想像しにくいことだろうが、あの頃の宮台さんは、いかにも東大の社会学の頭でっかちの院生が、パンピー(一般ピープル)にはひとことも理解できないような難しいシステム理論系のジャーゴン(わけの分からない言葉)で、「若い子」たちの「現実」について滔々と語っているというイメージだった。当時の私は駆け出しの院生で、社会学を専門的にやっていたわけでもないので、正直言って、語っていた内容がよく理解できなかった。 ただ宮台さんの口調が、いかにも東大文系に典型的なものであることだけは、すぐに分かった。単調だけど微妙な抑揚のついた独特のリズム。やや甲高い声。きわめて専門的なことを、まるで暗唱しているかのように、すらすらと語っていく。「声だけ」だったので、よけいにそのイメージが強かった。東大の知的にスノッブな院生の集まるゼミに一度でも出たことのある人は、「ああ、あれか」とすぐに分かるはずだが、そうじゃない人にはなかなかイメージできないかも知れない。当然のことながら、一般の聴衆には何を言っているのか分からなかっただろうし、そもそも、宮台さんが何者かも理解できなかったかも知れない。東大のエリート意識の強い院生をいきなりテレビに出して、しゃべらせたら、たぶんあんな感じになるのだと思う。」これがなぜ面白く感じるかというと、僕は、宮台氏に対して、このようなイメージを抱いたことがなかったので、印象というものは人によってこれだけ違うのかというところが面白かった。宮台氏が、いかにも自分の自慢をしているように聞こえる言い方をするのは、僕も時々感じる。しかし、それはエリート意識の表れというよりも、あえてそのような言い方をして相手の反応を見ているだけというふうにしか僕には感じられない。宮台氏が自慢話のようなことを語っても、宮台氏なら、それくらいに思っても当然だろうなというような感じもしてくるから不思議だ。それが、宮台氏を天才だと僕が感じていることの証拠なのだろう。天才だから、それくらいのことがあっても普通だと思えるのだと思う。宮台氏でない人が、同じようなことを同じような口調で語れば、僕も仲正氏が感じたような印象をその人に持つだろう。だが、宮台氏だけは別格という感じなのである。それは、僕が宮台氏に遭遇したのが、まず文章からだったことに原因しているのかも知れない。僕は、その文章の論理的な完璧さにまず驚いてしまったのだ。どこにも穴を探すことが出来ないくらいに、完璧に配置された文章に、まず宮台氏の天才性を感じた。結論として主張していることの説明としての、前段の文章が完璧につながりあっているのだ。これは、三浦さんの文章にも感じたものだが、宮台氏の方がより完璧度が高い感じがした。世代的には、僕は宮台氏よりも上なので、その天才性を感じるという感受性に落ち着いたのだろうと思う。もしも、三浦さんのように、宮台氏が僕よりも上の世代の人だったら、これこそ師と仰ぐべき人だと思ったかも知れない。宮台氏は非常に難しい言葉を使う。しかも、対象の全体像を把握しているので、その全体像の把握を前提に語ることも多いように感じる。そうすると、その言葉は、全体像を把握した後でなければ完全な理解は難しい。三浦さんなどは、全体像が把握できるように配慮しながら文章を綴るということをしていたが、宮台氏には、そのような親切心はあまり感じられない。しかし、そのように難しい宮台氏の文章も、ぜひ完全な理解をしたいというモチベーションは非常に高い。それを感じるのも、宮台氏の天才性を感じるからで、天才の言葉をぜひ受け止めたいという気持ちがわいてくるのを感じる。そこで、宮台氏の本を読む時は、読み進めているうちに全体像がぼんやり見えてくると、また最初から読み直して、その全体像を手がかりに分からなかったところを読み返すということをしている。それだけの努力を払っても、理解したいというモチベーションが生まれてくる著者だ。最新刊の近著では、「アイロニーとは全体が部分に対応することです。」と、実に簡単に、とてつもなく難しいことを語っている。しかし、この言葉が、本当は何を意味しているのかということが、ものすごく知りたくなるというのが、宮台氏の天才性を受け取るということではないかと僕は感じる。アイロニーとは、辞書的な意味は次の通りだ。「1 皮肉。あてこすり。 2 反語。逆説。 3 修辞学で、反語法。 4 ソクラテスの問答法。無知を装いながら、知者を自認する相手と問答を重ね、かえって相手が無知であることをあらわにし、その知識が見せかけのものでしかなかったことを悟らせる。 」これが、いかにして「全体が部分に対応する」という意味になるのか。そのつながりが分かった時、アイロニーという言葉の本質がつかめたことになるのだと思う。僕は数学をやっているので、「全体が部分に対応する」ということには、あるイメージを持っている。集合論では、「1対1対応」というものを考える。例えば自然数全体の集合(1,2,3,4,5,……)というものと、偶数全体(2,4,6,8,……)を考える。このとき、自然数Nに、偶数2Nを対応させると、これが「1対1対応」になる。必ず一つずつが対応する。これが、数学科的な「全体が部分に対応する」というイメージだ。これが、いかにして「アイロニー」に結びつくのだろうか。集合論が、このような論理を使う前までは、全体は部分を包含して含むのだから、全体の方が部分よりも大きいというのが常識だった。誰もが疑わなかった常識を破ったのが、「全体が部分に対応する」という考え方だった。これは「逆説」と言えるものになるかも知れない。全ての「逆説」が、構造的に、これと同じで「全体が部分に対応する」という構造を持っていれば、「アイロニーとは全体が部分に対応することです。」ということになるかも知れない。宮台氏は、「超越」という言葉に「アイロニー」を見ている。「超越」というのは「世界」を越えるものという意味での「超越」だ。しかし、「世界」というのは、ありとあらゆるものを含む「全て」を「世界」と呼んでいる。ありとあらゆるものを含んでいるのに、どうしてそれを越えた存在を考えることが出来るだろう。それも「世界」の一部になってしまうのではないか。これは、全く「逆説」的なことでパラドックスである。世界は全てを含んでいるのだから、「超越」もその部分であるはずなのに、世界を越えることで全体である世界に対応している。「全て」に関するものは、集合論でもラッセルのパラドックスというものを生んだ。だから「全て」を包含する「世界」は、最初からパラドックスを持つものとして運命づけられているのかも知れない。このパラドックスこそが「アイロニー」の本質だと宮台氏は語っているのだろうか。このパラドックスを避けるには、「超越」を捨てて「内在」すなわち現に存在している「世界内存在」に満足することが必要だ。しかし、人間は「超越」を求めざるを得ない何かを感じ取る。パラドックスから逃れられない性を感じてしまうのだ。「アイロニー」こそが人間存在の本質だとも言えるかも知れない。この「アイロニー」を強烈に意識して世界をとらえるのが宮台氏だ。この世に存在する「内在」的な愛では満足できず、「超越」的な愛を求めてしまう。しかし、そんな「超越」など存在しない。これは非常に厳しい「アイロニー」だ。しかし、それでもそれを求めずにはいられない。ウソと知りつつもそのウソを求めていく。そういう「アイロニー」の生き方が、この本の帯にも書かれている。「「共同体」も「自己決定」も虚構なのです。でも私たちは虚構の存在を信じて、前に進まなければならないのです。」僕には、この言葉が実に心に響いてくる。この言葉の真意を深く理解したいと願う。こういう言葉を発するセンスを持った宮台氏を、僕はやはり天才だと感じずにはいられない。彼の書くことをもっと深く理解したいと思う。
2005.01.10
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「パラドックスの面白さが分かる本」(香川知晶・著、KAWADE夢新書)で紹介されている面接試験のたとえが面白かった。ここに、独裁が生まれる一つのきっかけが語られているような感じがしたからだ。大学の入学試験や入社試験のような面接を想像してもらいたい。これを一人の判断で決定しようとすると、その一人が何らかの偏った見解を持っていたら、偏った人間ばかりが選ばれてしまうだろう。そこで、複数の面接官が、多様な判断で合議制で決定するという仕方で、その偏りを防ごうという工夫が生まれる。これは、民主的な方法が正しい判断をもたらすかという問題にも通じるものだ。そこで、この面接官の分布を、一人だけ偏りがあり、他の数人は常識的な判断をするものとして、この一人の偏りを、他の常識的な判断が歯止めとなって偏った結果を生まないように出来るかどうかを考えてみたい。これは、受験生の質によって歯止めになる場合と、そうでない場合が考えられる。その受験生が、常識的に見て受かって当然というような者であれば、これは大勢の常識的な面接官の多数意見によって合格する。非常識な偏りのある人間の意見には左右されない。民主的な決定が正しさをもたらす。しかし、これは元々が正当性を持ったものを、その通りだと認めただけのものであるということも出来る。逆に、全く合格にはふさわしくないと思える人間も、常識的な人が多ければ排除することが出来る。つまり、最初から両極端として理解しやすい人間は、民主主義もその判断を間違えないということだ。しかし、それは考えようによっては、民主主義を用いなくても正しい判断が下せるとも言えるような気がする。問題は、合否ぎりぎりの所にいる者を、この合議制は正しく判断できるかどうかということだ。合否ぎりぎりにいるのだから、常識的な線で見ると、確率的には意見が分かれるというのが普通だ。だから、正しい判断としては、「合否の判定が出来ない」というべきだろう。しかし、そうは言っていられないので、どちらかに決定するために多数決を用いるだろうと思う。そうすると、常識的な人々の間では合否ぎりぎりになるということは、最後の決定に重要な意味を持つのは、偏りを持つ非常識な一人の判断と言うことになる。これを、「キャスチング・ボート」を握るというのだろうか。この一人の意見で決まってしまうと言うことは、形の上では独裁と同じように見える。本来は、このように決定できない時は決定しないと言うことが正しいはずなのだが、決定せざるを得ない時があるので困るのだろう。だから、この決定は、必ずしも正しいとは限らないという認識が必要だ。むしろ、正しいと思った人間は、その決定が結果として正しくないと言うことが分かったら責任をとると言うことが必要だろうと思う。その合格させた受験生が、結果においてその大学にふさわしくないと分かったら、合格の判定をした面接官が責任をとらなければならない。少なくとも判断を間違えたという評価を受け入れなければならないだろう。民主的な決定というのは、結果が明らかに分かる場合には正しいものと一致するが、結果が分からない時は、正しい結果をもたらすかどうか分からない。だから、民主的な決定によって選ばれたからと言って、それを根拠に正しいと主張することは全く出来ないのだ。正しさは、他の根拠から推論されなければならない。これは、ごく当たり前のことを語っているに過ぎない。民主的な決定というのは、正しさをもたらすものではなく、どうしても決定しなければならない時に、どちらかに決める方法として選ばれているに過ぎないのだ。そして、それはその決定を下した人間が、その決定に責任を持つというシステムを作らないと、決定に対しては誰も責任を持たないという無責任体制が出来てしまう。このたとえを、ナチスが権力を握っていった当時のドイツにかぶせて想像をしてみよう。細かい歴史的な知識は確かめていないので、大雑把な抽象的な部分での想像に限ることにする。まず、当時のドイツは国の行くべき道というものがハッキリ見えていなかったと想像できる。ドイツは第一次大戦に敗れ、多額の賠償金に苦しんでいた。そのため多くの国民も生活苦を感じていただろう。国の行くべき道が誰にもハッキリ見えていたら、多数決をしても圧倒的多数が同じものを選ぶという、ちょうど、合格するにふさわしい学生を常識的な面接官が必ず選ぶという状態になっていただろう。しかし、国の行くべき道が見えないと言うことは、合否ぎりぎりの学生に対して、合格させるべきかどうか迷っている面接官と同じように、国民の多くがどうしたらいいか迷っているという感じだったのではないだろうか。この迷っている状況の時に「キャスチング・ボート」を握る極端な考えの持ち主が出てきたら、その人間が独裁者になる可能性が高いのが、民主主義という制度ではないだろうか。ナチスはまさにそういう存在だったのではないか。ナチスは、中産階級を中心に、その主張が受け入れられていったという。人々が迷って、方向が分からない時に、決定のためのキャスチング・ボートを握って、最初は少数だったかも知れないが、様々の決定に独裁的に自らの考えを押し通せるようになってから、本物の独裁を築いていったのではないだろうか。ナチスは宣伝活動によってその支持者を増やし、党勢を拡大していったらしい。1928年には10万人だった党員が、33年には150万人にまで増えたそうだ。そして完全に多数派を握った後に、制度的にも独裁体制を確立したらしい。独裁というのは、民主制と矛盾する。しかし、民主的な手続きで、多数の賛成を得て独裁が成立してしまったのだ。これの原因はいろいろ考察できるだろう。独裁制と民主制の矛盾を正しく判断できる国民が少なかったのかも知れない。毎日の生活が苦しくて、ドイツ人がみんな思考停止になって、とにかく生活を改善してくれるなら、誰でもいいから全権をまかせようとしたのかも知れない。ナチスは、宣伝活動によってドイツ人にそれを信じさせたのだろう。これは、ぼくにはやはり奴隷の主体性に見える。思考停止になって、本来の矛盾に気がつかず、目先の利益に目がくらんで判断を間違えているように見える。正しく判断できない、奴隷の主体性をもった人間が多数を占めるようになると、そこには民主制によって独裁が生まれると言えるのではないだろうか。この本ではこのほか、「寛容のパラドックス」というものも紹介されている。これは、「全てに寛容であろうとする」と、「非寛容の考え」も認めざるを得なくなり、自らを否定する考えを受け入れなければならなくなる、ということをパラドックスとしてとらえている。ここでのポイントは、「全て」を認める「無制限」の寛容だ。自由というものについても、それが「全て」の自由を認める「無制限」の自由だったりするとパラドックスを生む。それは、自らを否定する考えも「自由」だと認めなければならなくなるからだ。「全て」と「無制限」という言葉はパラドックスを生む。このことをこの本は次のようにまとめている。「民主主義にしろ、寛容にしろ、自由にしろ、私たちの社会はその価値を疑うこともなく、無条件によいものとして受け入れているように見えます。しかし、少し考えてみると、いずれも深刻なパラドックスを抱えていることが分かります。 そうしたパラドックスが出てくる原因の一つは、無制限に自由や寛容を認めることにありました。そこには、ちょうど本書の最初で見た集合論のパラドックスが、集合を無制限に認めることから生じてきたのと同じ構造が認められます。」このパラドックスを避けるには、パラドックスが生じるような「無制限」をやめて、そこに何らかの制限を加えることが必要だ。「過ぎたるは及ばざるがごとし」ということわざは、ここら辺の感覚を語っているとこの本は書いている。この制限には具体的にどんなものがあるかも面白い問題だが、これは現実のパラドックスを見つけて考察した方がわかりやすいかも知れない。あとの課題として残しておこう。この本で考えているのは、第三者に判断をゆだねるというものだ。これは、論理的には「メタ論理」の判断を立てるという感じになるだろうか。論理のレベルを変えるわけだが、これを現実には、利害を離れた第三者に、そのレベルの違いをゆだねるということになるだろうか。しかし、独裁者が出てきてしまったら、第三者も見つからなくなるので、これもいつも役に立つ方法とは限らない。やはり、文章として、法律のような形で制限を明確にしておいた方がいいのかも知れない。しかし、人間の第三者と違って、文章は臨機応変に現実に対応することが出来ない。それで、その制限が現実にそぐわなくなるということも出てきてしまうだろう。新たなパラドックスを生むような感じだ。この本では次のように語っている。「ですが、この制限というのが難しい。多くの場合、可能な限り、制限は少ない方がよいと考えておかないと、「角を矯めて牛を殺す」ということになりかねません。自由主義の原則からいえば、他人に危害が及ばなければ何をしても良い、ということになっています。もちろん、その他人への害なるものがどんなものなのか、どの範囲まで及ぶのか、決めるのが難しいわけです。」結局、どのように考えても人間はパラドックスから逃れることが出来ないのかも知れない。それだったら、人間はいつでもパラドックスを忘れることなく、いつもそれに敏感になるようにすべきではないだろうか。パラドックスに対する対処は、それしかないような感じがする。そして、そのためには、やはり本物の主体性を持つことが必要だろう。主体性のない人間は、パラドックスには鈍感になってしまうに違いない。
2005.01.09
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イラク特措法を巡るやりとりをしていた時に、それは民主的な手続きによって成立したのだからということを、その正当性の根拠にしているようなものがあった。僕は、これに違和感を感じていた。民主主義というのは、それだけで正当性の根拠になるものではなく、単に一つの制度に過ぎないと思っていたからだ。それは多数決原理を基礎にしているもので、集団の意志決定として多数決を使うということが、民主主義の制度であるということに過ぎないのであって、多数決の結果が正しいかどうかは、制度とは全く関係がない。意志決定の手段として多数決が選ばれているのが、民主主義というものなのだ。民主主義は、何ら正当性を保障するものではない。民主主義は最後の奴隷制だ、ということは僕は板倉聖宣さんから聞いたことだった。しかし、同じようなことは、すでにプラトンの時代から人々に考えられていたらしい。民主主義のもっている欠陥は多くの人に指摘されてきたようだ。だが、今のところ、民主主義以上に近代にふさわしい制度が見あたらないので、欠陥がありながらもこの制度が続いているというのが民主主義に対する正しい見方のようだ。このような民主主義の欠陥に対して、多くの人はあまり知らないのではないだろうか。うっかりするとその逆に、民主主義はとても良い制度で、その正しい手順によって決定されたことはかなりの正当性を持っていると判断している人もいるのではないだろうか。ここで、もう一度この欠陥をよく調べて、民主的な手続きによって決まったからといって、それが必ずしも多くの人の利益になってはいないこともあるということを理解した方がいいのではないかと思う。そして、民主主義の欠陥というものを深く自覚して、その制度の担い手になっているということを受け止めたいものだと思う。参考にするのは、「パラドックスの面白さが分かる本」(香川知晶・著、KAWADE夢新書)だ。ここには、多数の意見に従って決定したことが、必ずしも多数の意思を反映していない場合があることを解説している。まずは「投票のパラドックス」というものを紹介している。これは、説明すると長くなってしまうので、同じようなものが次の所に書かれているので、詳しくはそこを見て欲しい。「三分の二のパラドックス (参考 佐伯 胖:東京大学名誉教授 社会的意思決定理論)」ここで考察されているのは、圧倒的多数の賛成が得られないような多数決のケースだ。圧倒的多数が得られれば、多数決としては単純にその多数をとればいいということで意志決定が出来る。しかし、圧倒的多数がどれも得られない時に、どれか一つに決めようとすれば、それは必ずしも民意を反映していないことになる。これは、考えてみれば当たり前のことだ。圧倒的多数が存在しないのだから、本当の民意は、どれかには決められないと言うものでなければならない。それを無理やりどれかに決めて、多数決の結果だから仕方がない、と手順の正当性で結果の正当性を受け入れさせようとするものが多数決には感じられる。実際には、どの要素を重視するかということで、多数決の結果を全く変えてしまうことが出来るということをここでは語っている。上位2者の決選投票などは、多数決として正しいように見えてくるが、これも正しく民意を反映しているかどうかは分からない。順位に点数をつける方式もそうだ。解釈によって、誰もがトップにこれるように細工できる。圧倒的多数が支持しないものというのは、民意としては多数の支持を得ていないという解釈が本質的には正しいのだと思う。多数決というのは、現在のように多様な価値観が存在する社会では、一部の利益を全体の利益であるかのように錯覚させるために利用されるといってもいいのかも知れない。利益の調整を合理的に図るためには、多数決そのものにも工夫をしなければならないだろうし、多数決以外の決定方法も考えなければならないのかも知れない。板倉さんは、反対者には何もさせないという多数決を提唱していた。今までの発想では、多数決で決まったことは、成員の全体を制約し、たとえ提案に反対であっても決定に従わなければならなかった。それは、意志に反して押しつけられるのであるから、それを指して板倉さんは「奴隷」状態だと語っていた。「奴隷」にならないためには、多数決の決定事項は、賛成者が推進するべきで、反対者は傍観者でいるべきだということだ。これは誤解を招きやすい言葉だと思う。例えば、誰もが守ってもらわなければならない法律的なことなどは、たとえ反対でも、その人間を規制しなければならない。そういうものはどうするのだという疑問が出てくるだろう。僕は、基本的には、誰もが制約を受ける事柄は、多数決によって決定してはいけないと思っている。それは、論理的な正しさを証明して、正当性をもとに誰もが制約されることを受け入れるようにしなければならないと思う。多数決による決定は、賛成者が推進できるような内容に限るべきだろうと思っている。現在は、多数決以外の決定方法が見つからないので、過渡的に多数決が用いられるのは仕方がないという受け止め方をしているが、誰もが制約を受けるような決定は、それが間違いでないかをいつも検証できるようなシステムを作って決定すべきだろう。言論の自由を保障するのは、そのようなシステムの一つだろうと思う。民主主義のパラドックスとしてこの本で紹介されているものに「アローの定理」と呼ばれるものがある。これも説明が長いので、同じようなものが次の所に書かれているので参照してもらいたい。「代議制民主主義のパラドックス 【アロー*の一般可能性定理】」これは、非常にわかりにくい。おそらく証明も難しいのだろう。それが書かれていない。だから、僕もこの証明が具体的には分からないが、多くの学者がこの証明が正しいと認めていることを信頼して、これは定理として正しい命題なのだということを前提として考えよう。ここには4つの条件が示されていて、その4つの条件が全て満たされると言うことはないということが証明されている。つまり、条件のうちどれかが否定されてしまうということが必然的なことになる。特に重要なのは次の条件だ。 4 非独裁制:集団内には独裁は存在しない。一見民主的な手続きから、独裁制が生まれるのは、これは不合理なことのように見えるが、実は民主的な手続きを徹底させていけば行くほど独裁制の恐れが高まるというパラドックスを、この定理が示しているような感じがする。これは、スターリン主義などを受け止める時に重要な示唆を与えるものになるのではないだろうか。スターリン主義は、スターリンの個人的資質としてとらえられている面もあるのではないかと思う。しかし、旧社会主義国家の指導者が、権力を握った後はほとんどが独裁者になっている。これは、社会主義に潜む欠陥だと受け止めた方がいいだろう。個人的資質に還元するのではなく。そして、その社会主義の欠陥は、今までは民主主義の欠如であるかのようにいわれてきたのではないだろうか。これに少し疑問を持った方がいいのではないかと僕は思った。旧社会主義国では、正確な民意の反映はなかったと思う。しかし、もし選挙をしたら、100%共産党が支持されるという結果が出ただろうと思う。つまり、形式としての民主主義であれば、いくらでも存在したのではないかと思う。それが、強制されたもので、いやいや賛成させられる多数決であろうとも、形式的には民主的だと主張できるものになる。これは、社会主義国以外の、民主国家といわれる国でもあまり変わらないのではないか。違うのは、社会主義国では、警察国家としての監視が行き届いているので、国民の管理が基礎になって形式的な「民意」をコントロールしているというだけのことではないのだろうか。先進資本主義国では、これを国民に気づかせないような巧妙な管理システムを作り上げることで、いやいや賛成しているのではなく、主体的に選択しているように錯覚させながら、実は一部の利益をはかるような決定をさせているのではないだろうか。民主主義国家も、常に独裁の危機にさらされているというのが、「アローの定理」の正しい受け止め方なのではないだろうか。特に、奴隷の主体性を持った国民が増えるようなら、民主主義のもとでの独裁が進むのではないだろうか。そう受け止めると、我々は常に独裁ということに敏感で、それに注意しなければならないということになるだろう。独裁に関しては、この本でかなり詳しく語られているので、日を改めてもう一度考えてみたいと思う。民主的な手順を踏んで、どのように独裁になっていくかの具体的な過程を理解していけたらと思う。抽象的には、独裁を生まないためには、やはり言論の自由が大事だと思う。そしてやはり重要なのは主体性だ。民主主義によって独裁を生まないようにするには、その成員個人が主体的に選択行動をしていくしかないだろう。奴隷の主体性をもった人間が多数を占めるようになれば、そのような人間を思い通りに動かそうとする独裁者の出現を許すようになるのではないかと思う。僕は、日の丸・君が代の問題、民主主義の問題、主体性を破壊する管理の問題、など様々の問題を個別に考えてきたけれど、ここでそれが一つにつながってきたようにも感じる。社会を構成する個人の主体性こそが、自分の主体性を守るためにも大事なのだという認識だ。僕は、自分の主体性を大事にしたいからこそ、他の人間にも主体的に生きて欲しいと願うのだろうと思う。
2005.01.08
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民主主義について書こうと思っていたのだが、田中宇さんの新しい記事が、とても興味深いものだったので、これについて考えてみようかと思う。記事は、「アメリカの敗戦 2005年1月5日 田中宇」だ。田中さんは、イラクにおけるアメリカの敗戦を予測している。これは、抽象的なレベルでは僕も感じていたことだ。「敗戦」と言うことを、何をもって敗戦というかという問題はあるが、少なくとも「勝てない」と言うことは明らかだろうと感じていた。世界一の軍事力を持ってしても勝てないのなら、それは負けたと言ってもいいだろうと思う。最終的にはアメリカが撤退して終わることになるのではないかと思う。それを僕も「敗戦」と呼ぶ。僕の理解は、一般論的な結論としての理解だった。アメリカの理不尽なやり方は、決してイラク人の支持を得ることはないだろうという判断からだった。つまり、管理としてアメリカのやり方では、イラク人が自らアメリカ的な民主主義を受け入れることはなく、アメリカへの抵抗の気持ちを持ち続けるだろうという判断だ。占領統治は失敗するだろうから、アメリカにとって都合のいい時に撤退が出来ないだろうと思った。その帰結の方が論理的だと思ったから、現実はやがて論理に従う時が来るだろうというのが僕の予想だった。ただ、僕の予想はこういう論理レベルの予想なので、現実にはそれがいつになるか分からない。田中さんは、それを豊富な情報収集から、具体的に予測しているように感じる。論理の筋道としては、ほぼ同じ過程をたどっていると思うが、その過程を根拠づける現実の事実というものが田中さんにはある。それが非常に興味深いものだった。論理の筋道と、根拠となる事実を田中さんの文章の中に追いかけてみよう。まずは、ファルージャ攻撃に関するもので、「米国内だけでなく、日本の外交専門家たちも「米軍がファルージャを制圧すればイラクは安定する」と予測していた」と言うことを田中さんはまず語る。しかし、この「11月8日から約2週間続いたファルージャのゲリラ掃討作戦は、大失敗に終わった」と田中さんは評価する。この判断根拠は次の通りだ。「掃討作戦のことが開始前に大々的に報じられたため、ゲリラは事前に市外に逃げてしまい、米軍は町を制圧したもののもぬけの殻で、その後でゲリラが市内に再潜入し、制圧したはずの市内の70%の地域で、ゲリラが米軍に対して攻撃を仕掛ける事態に逆戻りした。米軍は引くに引けなくなり、戦闘が終わったはずのファルージャに延々と釘付けにされ、ゲリラと戦い続けねばならなくなった。」ファルージャで犠牲になったのは、ゲリラではなく民間人だったという予測も語られたが、上の田中さんの報告する事実から考えると、その予測もかなり信憑性の高い予測のように感じる。さらに、この攻撃で分かった事実として次のようなものもある。「たとえば、米側は自分たちの敵が何者であるかという分析と判断からして間違えていた。米当局は、ファルージャのゲリラの中心は「ヨルダン人のアブムサブ・ザルカウィに率いられたアルカイダの外国人テロリストたち」であると発表していたが、実際に掃討作戦で米軍が拘束したゲリラ約千人のうち外国人はわずか15人で、残りはイラク人だった。」これは、イラクでの反米活動が、単なる「テロ」ではなくて、レジスタンスとしての抵抗だということを予想させる事実だ。単なる「テロ」であれば、アメリカがイラク人に嫌われるような間違いを冒さずに、時間さえかければ占領統治は成功する。日本人のほとんどが親米感情を持ったように、アメリカのおかげでイラクがいい国になったと感謝されるような存在になっただろう。何しろ「テロリスト」の方が、イラク国民にとっては迷惑なのだから。しかし、反米活動がレジスタンスであるということになったら、これはいつ終わるか分からない戦いになる。アメリカが弾圧すればするほどこれは強くなるだろうからだ。かつて、ベトナムでは、アメリカがそこに居続ける限り戦うというベトナムの人々がいた。大人が殺されても、それを引き継ぐ子供たちが次々に生まれていった。いつ終わるかも分からない果てしない戦いの泥沼にアメリカは入っていった。イラクでも同じような状況が生まれつつある。これは、やはり敗戦を予測させる事実だろう。田中さんは、「ファルージャの反米ゲリラの中心はザルカウィではなく、フセイン政権時代の軍や秘密警察の関係者やその支持者である」と判断している。フセイン政権時代は、弾圧されていた国民も多かったのだから、もしそうであるなら、アメリカの対応さえ間違えなければ、圧倒的多数のイラク人はアメリカを支持していたのではないかと思う。しかし、その対応を間違えたことが多かったのではないだろうか。イラクでは未だに治安が回復しないし、インフラの整備もままならない。フセイン政権下の方が生活は良かったという不満が渦巻いている。そこに来て、ファルージャでは、テロリストに対する怒りよりも、アメリカ軍の理不尽な攻撃に対する怒りの方が強い。ファルージャに対しては田中さんは次のような見方をしている。「米軍は、これまでに2回ファルージャに侵攻し、いずれも奇妙な失敗の仕方をしている。1回目の昨年4月には、ファルージャ市民に米軍下請企業の米国人傭兵が殺された報復として総攻撃をかけろとホワイトハウスから命じられ、現場の海兵隊司令官は報復攻撃は良くないと反論しつつも攻撃を開始した。市街をかなり制圧したところで、ホワイトハウスは一転して今度は司令官に撤退を命じた。そして戦闘の代わりに、その日まで敵として戦っていたゲリラ勢力を正規のイラク軍として認め、彼らにファルージャの治安を任せるよう命じた。 ホワイトハウスは、戦争を途中までやった後、敵に対して大幅譲歩して撤退するというおかしな行動をした。衛星テレビのアルジャジーラなどで連日ファルージャの情勢を見ていたイラクなど中東の人々は「ファルージャのゲリラはアメリカに勝った」「米軍は実は弱いのだ」と考え、ファルージャのゲリラはアラブ諸国で英雄視されて内外からの支援が増え、米軍に対して撤退を要求する声が強くなった。」本来なら、フセイン政権の生き残りとして白い目で見られるはずだった抵抗勢力が、英雄になってしまうような失敗をアメリカは犯している。抵抗勢力が抵抗勢力のままであれば、それは今後増える可能性もなかっただろうが、英雄になり祖国のレジスタンスだとなれば、今後それに結集してくる若者が出てくるだろう。アメリカはベトナムの泥沼に一歩入り込んでしまったのだと思う。それでも、現実にはイラクのゲリラ勢力よりも、アメリカの方が圧倒的に軍事力は大きい。それなのに、なぜ負ける方へ傾いているのだろうか。それはいろいろな面に現れていると田中さんは報告する。まずは諜報活動について、世界一のハイテクを誇るアメリカが、人間という面でゲリラ勢力に負けているという皮肉を報告している。今でもイラクでは連日の「テロ活動」と呼ばれる抵抗が続いているが、これはかなり正確にねらった相手を絞っているし、しかも事前に発見されるような失敗が少ない。これは、アメリカ軍の情報がかなりもれていることを物語っているのだろうと思う。アメリカは、占領統治のためにイラク人を使わざるを得なくなっているが、その中にかなりの数のスパイが紛れ込んでいるものと思われる。だが、それを把握し切れていないのだろう。これは、いくらハイテクを使っても分からない。人間の問題だからだ。田中さんの、ゲリラ勢力に対する次の分析は、彼らがいかにアメリカに対して優位に立っているかを想像させるのではないだろうか。「イラクのゲリラ組織は、フセイン元大統領が米軍に拘束された後も下火にならず、今では15万人のイラク駐留米軍よりも多い20万人がゲリラ活動に参加していると、イラク暫定政府の諜報機関が分析している。 フセイン政権は戦争前からゲリラ戦の準備をしていたことや、占領政策の失敗によってイラク人の大半が反米になってゲリラ支持者が増えたことなどから考えて、ゲリラ勢力はかなりの力を持っていると思われる。彼らはまだ全力を出し切っておらず、米軍の限界を試すように、少しずつテロや戦闘を拡大していくと予測される。」「昨年11月8日にファルージャ総攻撃が始まった4日後には、イラク北部のスンニ派の多い町モスルに、ゲリラ活動が飛び火した。モスル市内のいくつか警察署や政党事務所などがゲリラによって攻撃され、モスルで働く警察官の75%以上が職場放棄して辞めてしまった。 モスル市警の本部長自身、ゲリラに対して積極的に派出所を明け渡す行為をおこなった。本部長はその後、この行為を発見した地元のクルド人民兵に拘束されている。イラク人の治安部隊がパトロール中にゲリラに襲撃されて殺される事件も増えた。(モスルは人口200万人で、スンニ派が100万人、クルド人が50万人、残りはトルコ系など)」「モスルはこれまで比較的安定しており、米軍は兵力不足を補うため、イラク人の警察官や治安維持部隊を養成していたが、その努力は水の泡となり、再び米軍自身が町をパトロールしなければならなくなった。米軍が頼みの綱とするイラクの警察や治安部隊は、ゲリラがちょっと騒ぐだけで雲散霧消してしまう心もとない存在であることが、日に日に明らかになっている。ゲリラが強いと見るや、警官や治安部隊を辞めてゲリラ側に鞍替えする者も多く、ゲリラの戦闘能力は上がっていると指摘されている。」このような事実から、田中さんは、実に明快にアメリカの敗戦を予測している。「撤退派が主張するように、アメリカはすでにイラク人から徹底的に嫌われており、もはやイラク人に好かれることは無理で、そのためこの戦争はもうアメリカの勝ちで終わることはない。アメリカの敗北はすでに決定的で、負けを認めるのが早いか遅いかという問題が残っているだけである。負けを認めるのがあとになるほど、アメリカは国力を無駄に消耗し、世界の覇権国としての地位を失う傾向が強まる。」撤退派とは、アメリカ国内で、イラクから撤退するべきだと主張している人々だ。僕は、この田中さんの判断が、きわめて合理的で正しい判断だと思っている。アメリカの権力の中枢に、まだ賢い人間が残っていたら、これと同じ判断をするだろう。そして、この判断が正しければ、次の田中さんの、日本に対する提言の正しさも分かるだろう。「こう考えると、世界最強の覇権国であるアメリカに従属することが最良の国家戦略とされる日本にとっては、アメリカにイラクからの早期撤退を勧め、ブッシュがアメリカの国力を無駄遣いするのを防ぐ必要がある。自衛隊の派兵延長を支持する親米派の論客より、小泉政権を嫌う反戦運動家の方が日本の国益に沿った主張をしているという、皮肉な事態になっている。日本は、イラク撤退を主張するパット・ブキャナンあたりの保守派や、アメリカの反戦運動家に、こっそり資金提供するぐらいのことをした方が良いともいえる。 」果たして、この田中さんの提言を理解できる賢い人間が、小泉政権の中にいるだろうか。もしいなければ、日本は、いよいよアメリカの没落と共に運命を共にするという泥沼に落ちていくのだろうと思う。アメリカのケツ舐めをしていなければ、アメリカが撤退したあとに、日本が中心になってイラクの再建を担う道もあっただろうに、アメリカのケツ舐めで自衛隊を送った今となっては、イラク人はもう日本を信用しないだろうな。自衛隊の問題は、憲法に抵触するという原則的な問題だけではなく、現実には、このような国益の問題にも関わっているのではないかと僕は思う。
2005.01.07
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ペストとハンセン病に対する対処の仕方から抽出した管理の方法は、ひとことでそのイメージを語ると「人間を内側から拘束する装置」というふうに呼べると、この本ではまとめている。それは、強い力によって、いやいやながら何かを強制するというのではなく、むしろ自ら進んでその指導に従うような性質を人間にもたらすように働きかけるものだ。そして、それは決してその管理に当たる人間の個人的な能力に頼るものではなく、システムとしての「装置」の働きとして、誰がその役職に就こうとも管理が出来るような工夫がされている。僕は、この「装置」に奴隷の主体性を育てる効果があることに恐ろしさを感じている。なお「装置」とは、この本によると、「多数の要素で構成されていながら、それらがネットワークとして働く仕組み」をそう呼んでいる。一つのシステムと考えてもいいだろうと思う。このシステムを実現する具体的な存在として、この本ではベンサムの「一望監視施設」というものを考えている。それの説明を見ながら、この「装置」がいかに奴隷の主体性を育てるかという観点で、これを考えてみよう。この施設の構造を箇条書きにすると次のようなものになる。「1 建物の外周を円環にして(ドーナツの輪のイメージで)、中心に監視の塔を置く。 2 その円環の部分を(ドーナツの輪を切るように)独房に区分する。 3 中心の塔に鎧戸のついた窓をいくつか設ける。 4 その塔の内部を壁で仕切り、ジグザグの通路で各セクションをつなぐ。 5 独房に窓を二つ設ける(一つは中心の塔に面して内側に、もう一つは採光のために外側に)。」この構造は次のような特徴を持っている。「個人はそれぞれしっかり各自の独房に閉じこめられ、そこで看守に正面から見られている。しかし側面には壁があるので、隣人たちとは接触できない。被収容者は、見られているのに見えないし、情報の客体ではあっても、決して情報の主体ではない。」主体になることを奪うことは、主体性を奪うことにつながるだろう。この建物は、監視することで管理するという原則を忠実に守る構造になっている。この監視することが、いかに主体性を奪い、抵抗の気力を奪うかというのを僕は感じる。最初に、このようなところに閉じこめるのに力を用いるかも知れないが、いったん収容してしまえばもう力を使わなくてもすむような工夫がされている。あくまでも力で何かを強制しようとしたら、おそらく人間は抵抗し続ける気力を持てると思う。しかし、閉じこめたあとは、力ではなく監視によって教育していけば、人間の抵抗の気力は持ちこたえられないのではないかと思う。ジャック・チボーが死んだ人間のように従順になってしまったように。昔の学校は、教員の側にいい意味での「いい加減は良い加減」というセンスがあったと思う。しかし、今の学校は、「いい加減」はほとんど認められない、管理体制の整ったシステムになってしまった。目こぼしというものがなく、常に子供たちは監視の目にさらされている。宮台氏は、そこから逃れる第4空間が必要だと語っていた。学校、家庭、地域という3つの空間とは違う、第4空間の必要性を語っていた。それは、家庭も地域も学校化してしまって、監視の目を逃れることが出来なくなっているからだ。子供の世界はほとんどが監獄になってしまっている。プライベートな自由な空間がない限り主体性が育たない。日本は、学校だけではなく、社会全体で主体性を殺しているのだと思う。日の丸・君が代の問題に僕が主体性の危機を感じるのは、それに反対の声をあげるのをためらわせる監視の圧力を感じるからだ。別に反対しても、それは言論の自由の範囲の問題であって、何も非難されるべきものではない。だが、反対そのものが非難されるという雰囲気は、監視の圧力になるものだ。この装置は実に管理という面の特徴を考えさせてくれるものになっている。まずは次のような特徴を考えてみよう。監視の視線に関して次のような記述がある。「第一には、独房を壁で仕切る方法は、被収容者の横への視線を断ち切り、それを、「秩序の保障」とするので、人間を管理する方法として一般性を持つことである。」人間は、孤立していると自分に対する自信を保つのが難しい。横の視線を断ち切るというのは、そういう効果があるだろう。これは拷問よりも人間の心理に与える効果は大きいと思う。拷問は、その不当性が明らかに分かるから、不当なものに抵抗しているということを心の支えにすることが出来る。しかし、ただ見られているだけの時は、その抵抗する相手の実態がつかめない。そのうち生まれる疑心暗鬼に心が弱くなる可能性は大いにある。そうなれば、自ら相手の言うことを認めたくなってくる心理が芽生えるだろう。奴隷の主体性だ。「第二に、被収容者を管理するには、看守から被収容者を見ることは出来ても、被収容者から看守を見ることは出来ないように、建物の構造に工夫を凝らすことである。誰かに絶えず見られているのに、その誰かを見ることは出来ないという状況は、人間を強く拘束するからである。フーコーはそれを「可視性(見られ得ること)は一つのワナである」と表現している。」という記述は、常に見られることで自由が失われる状況を語っていると思う。自由こそが主体性の基礎になるものだから、それが失われれば主体性も失われる。この管理が恐ろしいのは、これが実現できるような装置を作れば、確実に管理の効果を上げられると言うことだ。今の日本で、例えば学校での秩序が乱れているように見えるのは、ある意味では管理がいい加減にされていて、その効果が発揮されていないからだ。しかし、そのおかげで子供たちの主体性がまだ失われずにすんでいる。もし、管理が行き届いてしまえば、確実に子供たちは主体性を失っていくだろう。我々は、どちらの道を選ぶかと言うことを迫られているのだと思う。秩序の安定を選んで主体性を殺す道を選ぶのか、あえて秩序の乱れを前提としても、主体性を大事にする道を選ぶのかと言うことだ。この装置の恐ろしさは、それが動いてしまうと、もはや個人の力では歯止めがきかないことだ。「このように、ベンサムの一望監視施設は、「見る-見られる」の関係を不均等に配分することによって、それを「ワナ」として利用する構造を備えている。だからこの施設では、中央の塔に必ずしも看守を置く必要さえない(ドーナツの輪の真ん中が空虚であるように)。独房の被収容者からは塔の中は見えない構造になっているので、たとえ誰も見張っていなくても、誰かに絶えず見られているという感覚さえ被収容者に植え付けておけば、それで充分だからである。 その意味で、被収容者は、誰かに服従しているのではなく、誰とも分からない他人の視線を身体に組み込むことで、自分自身を拘束している。つまり監視のメカニズムは、特定の権力者によってではなく、建物の構造によって自動化されて働いている。」この記述にあるように、装置そのものがシステムとして管理の働きを持っている。だから、一歩を踏み出してしまえば、その管理が管理として機能することを止めることが出来なくなる。一歩踏み出すことに抵抗しなければならないということだ。この施設は、犯罪者を収容する監獄のシステムである。だから、相手が犯罪者だったら、管理するのに有効なこの施設はいいのではないかと思う人もいるかも知れない。しかし、この施設は、管理に対して非常に高い有効性を発揮するものであるから、権力を持つものが、管理をしたいという願いを持ったら、これを利用したいという誘惑に駆られるだろう。たとえ相手が犯罪者でなくても、有効な手段としてこれを使いたくなるに違いない。もちろん、あからさまな監獄をイメージさせる方法では抵抗される恐れがあるから、そのイメージを浮かばせないような工夫をするに違いない。ソフトで見えないような工夫をするが、実はその管理は上の監獄と同じ構造を持っているという工夫をするに違いない。しかし、それによって管理されていくと、我々は確実に主体性を失って行くに違いない。管理というものに対して鈍感であってはならないと思う。僕は権力に対してかなり敏感に反応し、反権力の立場に立つことが多い。それは、権力というもののイメージが、次のように語られるものだと感じているからだろう。「フーコーの表現では、「権力の原理は、一人の人の中にあるというより、身体、表面、光、視線を計画的に配分することの中にあり、その内部の仕組みが、個々人を拘束する関係を生む機械を整備することの中にある」。だから権力は、所有されるのではなく、あくまで行使されるのであり、確固とした実在ではなく、特定の効果をもたらす戦略として働くのである。 言い換えれば、ベンサムの一望監視施設では、空間の区分や視線の配分さえ終われば、たとえ誰が看守になっても、権力は「均質の効果」を生み出し続けることになる。しかもこの施設が特異なのは、被収容者がその権力の働きを自分自身で引き受けて、「自らの服従の根源」になることである。」権力は、本質的により完璧な管理を求めてくる。それは権力の安定のために必要なものとして、権力の運動法則のようなものではないかとも思える。その権力にとっては、個人の主体性は、秩序を乱す、管理の邪魔になるものだ。権力は、必然的に主体性を殺しにかかる。僕はそんな感覚を持っている。だからこそ、権力をいつでもこちら側からも監視し続けることが必要になると思う。権力が自由を弾圧し、暴走しないように監視しなければならないと思う。権力というのは、ある意味では便利なシステムだ。大きな力を集中させて大きな事業を行うことが出来る。それが常に、最大多数の利益をはかるものになっていれば、権力の暴走もなくなるだろうが、現実は暴走の恐れの方が大きいのではないかと思う。それは、民主主義という制度そのものにもパラドックスがあることから想像できる。明日は、その民主主義のパラドックスを考えてみようかと思う。そして、管理は権力の一面であることを忘れずに、管理の恐ろしさに敏感であり続けるように努力しようと思う。
2005.01.06
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昨日は、ペストへの対処というものから管理の一般原理の考察へと進んできた。これには4つのポイントがあったが、この4つは並列した4種類の方法があったというのではなく、連続した段階を4つに分けた「一連の仕組み」としてシステムとしての理解が必要だと、「現代思想のパフォーマンス」では語っている。もう一度4つをここにあげておこう。「1 空間の区分 2 視線による観察 3 記録と報告 4 消毒の実施」この4つを組み合わせたシステムを運営することによって、ペストを駆逐し、衛生的で健康な環境という秩序を回復するという目的を達成する。この目的遂行のための手段が、管理というものになる。これは、管理というものが積極的な利益をもたらすという面を見せるものだ。これは利益には違いないが、僕には何かいやな感じがするような問題も感じる。このいやな感じというのは、次のような記述からも感じるものだ。「もちろん住民の中には、ペストが広がっているというのに、外出したり、ウソの申告をしたりして、この装置としてのペストへの対処法の働きを妨げるものもあっただろう。しかしそうした人間は結局、身分と関係なく、死刑になったり、ペストに感染したりして命を落とすから、町の住民たちはそろって、フーコーが「権力」と呼ぶ働きを継続させる方向に向けて協力せざるを得なくなる。 その時住民たちは、本人たちも知らない間に、単にペストを退治する方法ばかりでなく、人間を管理する方法一般のモデルを体現していたことになる。なぜなら、彼らの行動は、社会から混乱をなくして秩序をもたらすには、人間に規律を組み込み、その人間が規律どおりに行動しているかどうかを監視して、それに背くものには罰を与えればよいことを示していたからである。フーコーの「監獄の誕生」の原題が「監視することと罰すること」になっていたのはそのためである。 フーコーがこの本で繰り返し主張しているのは、人間を管理するには、相手を外側から暴力的に拘束する必要はなく、「規律訓練のための装置」を作りさえすれば、相手はそのメカニズムに介在している権力によって、自分自身を内側から拘束し始めるということである。」ペストを駆逐するという、明らかに利益となる目的にのみ、この管理が利用されるのならいやな感じを持たずにすむ。しかし、管理は、何の目的で利用されるか分からない。その目的によっては、非常に恐ろしい、個人の尊厳や自由を損なうような利用のされ方をされかねないという思いがする。その思いが浮かんでくるので、いやな感じがするのだ。社会における秩序というのは、誰にとっての秩序かということは難しい問題だ。大人にとっての秩序は、しばしば若者にとっては邪魔な足かせになることがある。若い頃の愛読書だった、マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」の主人公ジャック・チボーは、古い習慣に従わない秩序の破壊者だった。しかし、それは主体性の表れでもあり、無理やり矯正して従順な奴隷に生まれ変わらせるようなものではないと僕は感じていた。ジャック・チボーは、監獄のような矯正施設に入れられて、四六時中監視され、権力に従順になるように教育される。その結果として、彼は「自分自身を内側から拘束し始める」ようになる。奴隷の主体性を身につけるようになる。それは読んでいて恐ろしく感じたほどだ。ジャック・チボーのように主体的なエネルギーをもっている人間でさえ奴隷に変えてしまうような施設に対する恐怖と怒りを感じたものだった。ジャック・チボーを矯正したところは、監獄ではなくて学校だった。監獄の管理は、ある程度仕方のない理由があるかも知れないが、学校の管理は、奴隷の主体性を作るようになるということでは、僕は大きな疑問を感じるところだ。秩序の乱れを、ある程度のリスクとして前提し、それでもなおかつ中心線の秩序に乱れさえなければ安定するようなシステムが作れないだろうかと思う。この本では、「混乱から秩序をもたらす権力の働きの中で、最も簡単で、最も効果があるのは」「それはおそらく、線引きである」と語っている。これは、最も効果があるものだけに、その弊害も大きなものになりそうな気がする。中学校では、1980年代頃に校内暴力が吹き荒れた時代があった。このときに、多くの学校では、この線引きによって生徒管理をしたように僕は感じる。それは、校内暴力を起こすような非行化した生徒と、そうではないような従順な生徒という線引きだ。そして、非行化した生徒には、徹底的な力の支配という管理で対処したように思う。この管理によって、校内暴力は影を潜めた。表面からは消えていったように見えた。しかし、本質的に生徒の持つストレスを解決したわけではないので、それはいじめという形でまた新たな問題を生んだというのは、多くの教育評論家に共通する考えだ。このいじめの背後には、生徒集団という中での相互監視による同調圧力が深い関わりを持っていると指摘している社会学者もいる。この同調圧力は、一見秩序を保つのに都合がいいようにも見えるので、教師の側で黙認していることも多い。しかし、これは奴隷の主体性を育てる秩序を生み出すような気が僕にはする。ペストの駆逐のように、秩序が回復すれば、問題が解決したと言えるようなものであれば、管理によって秩序の回復を図ることは間違いではないと思う。しかし、秩序の回復だけが解決ではない時に、形式的に秩序の回復を図るために、線引きという手段を使えば、表面的に回復した秩序の裏に、さらに複雑で面倒な問題が入り込んでしまうのではないだろうか。校内暴力の問題は、単に乱暴な個人の秩序の破壊を押さえればすむという問題ではなかったのだ。それは、中学生という年代の子供の抱えているもっと深刻な問題の表面的な現れに過ぎなかったのだと思う。その背後にある深い問題を掘り下げなければ本当の解決にはならなかったのに、表面的におとなしくなったことをもって問題の解決としてしまったことが間違いだったと思う。このボタンの掛け違えは、今に続いて中学校の問題を解決困難なものにしていると思う。単に管理するだけでは本質的な解決にはならないと思う。やはり、学校は監獄であってはならないのだと思う。ペストへの対処から管理の一般原理が導かれたように、ヨーロッパにおけるハンセン病の対処の歴史からも、フーコーは管理の一般原理を導いている。これは基本的には、「排除」と「追放」と「囲い込まれる」という言葉で表現されるものだ。これはペストの場合とは違うものとして考察されている。現在では、ハンセン病に対するこのような対処は間違っていることが証明されている。だから、フーコーが語るのは、ここから抽象される方法としての「排除」と「追放」と「囲い込まれる」ということだと思う。この両者の対処法の違いは次のようにまとめられている。「多様な分離、個人化のための配分、監視と管理の徹底した組織、権力の強化と細分化」「人間を二つの集団に二元的に区分すること」一方の対処は、秩序を保つように人間を矯正し、また社会に戻して社会の構成員として働かせるという対処法になっている。もう一方の対処法は、当時の常識では不治の病と思われていたハンセン病の患者を、もはや社会から追い出してしまうという対処法になっているように感じる。こちらの方は、もはや矯正することは出来ないという判断をされているという感じだろうか。これは、刑罰における死刑とその他の刑との違いを感じさせるものでもある。死刑を宣告される人間は、もはや矯正することは不可能で、永久に社会から排除するという宣告をしているようなものではないかと思う。それ以外の刑については、なんとか社会復帰を目指して矯正をするという対象になっているという感じだろうか。もし、日本でも終身刑というものがあったら、命までは取らないが、永久に社会からは排除するという刑の一つととらえられるかも知れない。この両者の比較を通じて、この本では次のような分析をしている。「この相違には、全く別の「政治的な夢想」が反映されていたとフーコーは指摘する。ペストの場合は「規律で訓練された社会の夢」、そしてハンセン病の場合は「純粋な共同体の夢」である。言い換えれば、ペストの対処法には、患者をしつけの身に付いていない存在と見なして、それを鍛え直すことで、秩序ある社会を作ろうとする理想、ハンセン病への対処法には、患者を汚れた存在と見なして、それを取り除くことで、清潔な社会を作ろうとする理想が認められる。 しかしたとえ理想とする社会のイメージが異なっていても、これらの対処法は共に「人間に権力を行使し、人間関係を管理して、人間の危険な混じり合いを解消するための二つの方法」だった。具体的にいえば、ペストの患者は、訓練を通して更正させるべき人間像のモデルとなり、ハンセン病の患者は、社会から隔離すべき人間像のモデルとなる。そしてやがて、この二つのモデルが組み合わさって、人間を管理する方法の一般原理が作られていく。それが、19世紀のヨーロッパにおける「監獄の誕生」にまつわるフーコーのシナリオである。」管理というのは、それ自体ではいいとも悪いとも言えない、価値観を離れた存在であるが、「政治的な夢想」が夢想ではなく、本気でそんなことを考える人間が出てきたら、なんと恐い世界になることだろうと思う。どんな秩序が、社会の理想となるのだろうか。それが理想だと思い込んだ人間がその秩序を押しつけてきたら、それが権力を持つ人間だったら、どれほど恐ろしいことになるか。生類憐れみの令や、ナチスドイツの例を思い出すと、その恐ろしさは現実的なものになる。管理能力が大したことがなければ、理想からはずれる異端者は、目こぼしされるという恩恵にあずかれる。しかし、管理能力が上がり、異端者を全く見逃さないような完璧な社会が訪れたら、何を理想とするかで、上手に管理される恐ろしい秩序ある社会が実現するだろう。人間は何回そのような恐ろしい社会を作ってきたか分からない。ナチスドイツもその一つだし、警察国家を作った旧社会主義国もそうだった。もちろん、軍国主義下の日本もそうであったと思う。「非国民」と呼ばれた人々は、間違った政策で弾圧されたハンセン病患者の人たちと同じように、線引きをされ隔離されて弾圧された。近代成熟社会は、高度に管理能力が発達している。そこに恐ろしさを感じるセンスを持たなければならないと思う。この管理は、全く上手な管理であるだけに、管理されている人々に管理されているという意識を与えない。しかし、近代成熟社会は、確実に異端を排除するような社会になりつつある。秩序は大事だが、管理が高度に進むことにも抵抗するだけの敏感さを持たなければ、我々は、知らない間に自由を失い奴隷の主体性を身につけるようになるだろう。この考察は、さらにもう少し続く。
2005.01.05
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難波江和英・内田樹、両者の共著の「現代思想のパフォーマンス」(光文社新書)に、ミッシェル・フーコーの「監獄の誕生」を解説したところがあった。これが非常に衝撃的で面白い内容だった。特に、監獄というものが人間管理の一般原理を考えさせてくれる材料として考察されているのが面白かった。管理というのは、そのもの自体には価値観というものは含まれていない。有効性があるかないかというレベルの違いがあるだけである。管理しているということだけで悪いことだとは言えない。それが、目的にかなった管理であり、有効性をもっている管理なら、むしろ管理することが人間の役に立っているのであり、いいものであるという価値評価も出来る。監獄にしても、罪を犯した人間を、どのように管理するかという目的に従って、その目的にかなうような管理なら、有効さは大きいと言える。その管理が、ある価値評価を持つのは、その管理によってどのような資質が人間に育つかという、その結果と社会の関係から価値評価がされることがあると思う。僕は、学校というところは、管理という面では基本的に監獄に似ているものだという思いをもっている。これは、生徒と囚人とは基本的にその存在が違うのだから、僕には学校の管理が監獄の管理と似ているのは間違いだという思いが消えない。監獄の管理と学校の管理には本質的な違いがあるべきだと思っている。その思いをもっと深く考察するためにも、ここで語られている、監獄から導かれる管理の本質というものを考えてみようと思う。さて、ここで「監獄の誕生」と、「誕生」という言葉が使われているのは、それ以前には、罪人に対する対処の仕方が違っていたからだ。監獄が誕生する以前は、刑罰というのは、犯した罪に値するような苦痛を与えるものだった。そして、囚人として収容される時も、それは隔離し隠しておくことが目的だった。しかし、監獄の目的は、罪人を単に処罰するのではなく、彼らを秩序を守る人間として教育し直すことにある。そのために有効な管理というものを、システムとして構築しているのが監獄であるというのがフーコーの理解だ。監獄で教育し直された囚人は、権力の命令に従順に従うことを、自ら進んでやるようになっていく。このようにして、法を犯すという秩序の破壊を防ぎ、彼らが社会に復帰しても秩序が守られるようにしていく目的を達成する。これはある面での利益をもたらすから、管理の有効性を利用する価値もある。しかし、それは一度秩序を破ったという罪人に対する対処として有効性があるというふうに受け止めなければならない。そのような罪を犯していない子供に対しても、同じような管理方法を使うとしたら、これは間違いを冒すことになるというのが僕の感覚だ。管理としてのシステムという点で監獄を見たフーコーの基本的な視点を見てみよう。この本では、当時のペストに対処する方法から、この視点が得られたとして、次の4つをあげている。「1 空間の区分 2 視線による観察 3 記録と報告 4 消毒の実施」「空間の区分」とは、境界線を引くことになるが、これは「システム」という考え方の基本にもかなう視点である。これは、娑婆の世界と監獄とに境界があるという意味での「区分」と、監獄内での境界を作って場を分けるという「区分」の問題との二つがある。境界を設けることによって、その境界の内部と外部を分けると、内部に入るものはある条件の下にまとめられたものとしての秩序を持つ。だから、それによって管理というものも秩序を持たせることが出来るようになる。区分して分けるというのは、管理にとって重要なポイントだろう。これがペストへの対処ということで出てきた方法だということは重要性を持つことだ。それは、管理される方もペストの恐怖から逃れたいと思うので、それに対して有効だと思えば、進んで管理されることを選ぶからだ。権力によって強制する必要はない。ここは、監獄との違いだから、忘れないようにしたい特徴だ。この空間の区分に対して例外となる存在もいる。「監督官と管理人と見張り番」というものだ。普通は、区分された空間を行き来することが出来ない。しかしこれらの人たちは、役職として、区分された領域を行き来することが出来る。それはあくまでも役職としてということで、個人的に恣意的に好きな時に行き来できるわけではない。だから、例外的な存在といえども、管理から逃れているわけではないのだが。2の「視線による観察」は、管理されている人間が、常に見張られているということを自覚させられることだ。人間の良心に当たるような言葉でフロイトが使った言葉にスーパーエゴというものがあるが、これは、常に監視しているような目というような感じがするものだ。人間は、見られていると自分の行動に何らかのセーブをするものだというのは、法則のようなものだろう。逆に言うと、監視の目のないところでは秩序が保てない恐れが出てくるとも言えるだろう。監視の目というのは、プライバシーという権利では、それを拒否できるものだ。監視を拒否し、自由に振る舞うという権利は、プライバシーというもので守られる。犯罪を犯した人間は、このプライバシーという権利を剥奪されるというふうに考えてもいいだろうか。これは、犯罪を犯したということで、ある意味ではやむを得ないとも考えることが出来る。しかし、学校に来る子供たちは、犯罪を犯したわけではないのだから、プライバシーという権利は守られなければならないと僕は思う。これはあとで考察してみたいことだ。「視線による観察」のポイントとして、この本では3つのものがあげられている。「a 観察する側は、あえて実力(例えば暴力)を使わなくても、相手を「見る」だけで、その言動をコントロールできること。」これは、見ることが次のものにつながっているという意味を理解させることによって、このことが可能になるだろうと思う。例えば内申書の評価というものが、教師の視線とつながっているものだと生徒の側が理解していれば、教師に見られることによって、生徒の行動が変化してくるだろう。それが変化してこないのは、そのつながりが理解できていないか、理解できていてそれを無視しうるだけの強さをもっているかのどちらかではないかと思われる。ある宗教的な戒律を信じている人なら、その宗教で権威を持つ人から見られただけで、自分の行動をその戒律に従わせようとするだろう。このポイントは、その背後にある種の規範をもっていることを前提としているように思われる。管理の有効性を決めるのは、その規範の存在にかかっているとも言えるだろう。「b 観察する側もまた、すぐに観察される側に回ってしまうこと。」これは、役職として、観察するものの上位にまた観察するものが存在するということを意味する。学校でいえば、生徒を監視する教師は、また管理職と呼ばれる校長・教頭に監視され、さらに校長・教頭は教育委員会から監視されるという関係が出来ている。これは、最上位に行けば監視が終わる構造になっているだろうか。教育委員会の上位には議会というものがあると思う。その議会の上位には、これは選挙民の民意というものがある。これはなかなか実態がつかめないもので、ここに来てあるループを構成してしまうような感じがする。つまり、最上位の監視をする個人というのは存在しない構造になっているような感じだ。これは次のcのポイントにも通じるものだ。「c この「大規模な監視」を可能にしているのは、特定の個人や集団ではなく、監視システムに働く目に見えない権力であるということ。」実体的な個人が最上位にいるのではなく、抽象的な「権力」というものが、この監視システムの最上位に位置しているような感じがする。逆に言うと、このような監視システムの最上位にあると感じられる存在を、「権力」という言葉で呼ぶことが言葉の定義としてふさわしいのではないかということだ。権力というのは、何らかの個人であったり、実体的に存在する何かではないという感じだ。宮台氏は、「予期」というものから権力を考えていた。3の「記録と報告」の重要な点は、その情報の集積だ。単に記録し、報告を受けるだけではなく、情報を収集し、それを利用するシステムを作ることで管理の有効性を発揮する。現代の管理では、この情報の集積こそが最も重要なものになっているだろう。情報をもっている人間こそが社会の支配者になれるという感じだ。そして、ただ持っているだけではなく、その情報をどのように組み合わせて有効活用するかということも大事なことだ。学校における情報も、クラスから学年へ、そして学校全体から教育委員会へ、さらに文部科学省へと集中されていく。これは、管理としては必ずしも悪いことではないが、管理というものを考えると必然的にそのようになっていくという比較は忘れないようにしたいものだと思う。これは、監獄であろうと学校であろうとも、管理をするところでは共通しているものだということを忘れないようにしたい。ここで問題点をあげておけば、情報の収集が進めば進むほど中央集権化が強くなるということだろうか。それは、本人が意図していなくても独裁者になる構造が進んでいるとも言える。管理は大事なことだが、中央集権化が強まるのは弊害が大きいと思う。なんとかそれを食い止める歯止めを考えて情報の集積を行う必要があるだろう。4の「消毒の実施」というのは、管理することによって得られた情報から、ある種の問題を解決する指針を提出するという問題だ。ペストの場合でいえば、ペストの蔓延を防ぐために、得られた情報から消毒というものを実施する場所を決めるという指針を出すということになるだろうか。学校の場合でいえば、学校には不登校やいじめ、校内暴力など、管理上の問題がいろいろある。これらの情報を収集して、より上位の機関からその対処の指針を提出するということがあると思う。これが円滑に行われているなら、有効な解決策が提案され、問題が解決の方向へ向かうということになるだろう。これが、現在ではかなり難しくなっている。有効な解決策がなかなか提案されない。「ゆとり教育」は一つの解決策だったが、それは今では批判の方が多いくらいだ。これは、情報の集積にも問題があることを示唆すると思う。学校というところは、正確な情報を提出しにくい面があるのだろうと思う。不登校やいじめ、校内暴力が不名誉なことであるという価値判断があれば、それが少ないように見る情報の方が多くなるだろう。絶対的な基準がないのだから、報告の方の正確さが問題になると思う。以上が、ペストへの対処から、その問題解決へ至る過程で現れる「管理」の考察である。今日はやや中途半端なところで終わるが、この考察は非常に刺激的で面白いと思う。しばらく続けて考えてみたいと思う。
2005.01.04
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現代社会はストレスを与えるようなものに満ちている。これに対処するのに、ストレスを避けるという方法もあるけれど、それは不可能なことであるように思われる。全てのストレスを避けようと思ったら引きこもるしかなくなるのではないかと思えるからだ。社会の中で生きていくことを考えたら、ストレスを避けるのではなく、ストレスとどうつきあうかを考えなければならないだろう。そのつきあい方の一つが「免疫性をつける」と言うことだ。これは、ストレスが大きな影響を与えないようにやり過ごすための対処方法だ。例えば、今の子供たちはテストとその結果にどれだけのストレスを受けているだろうか。僕は、テストやその結果からはほとんどストレスを受けることがなかった。それをやり過ごすことが出来たのは、テストというものに大きな価値を感じなかったからだ。だいたいがテストで測れる能力というのは、限定されたものに過ぎない。しかも、評価されることを望んでもいないようなテストは、テストすることの意味すらも感じなかった。さらに、テストでの評価というのが、正しい評価であることはきわめて希なことであるという思いもあった。数学のテストは、決して数学の能力そのものを測るテストではない。単に、学習したことをどれだけ覚えているかというまじめさをテストしているだけだ。テストというものにこのような向かい方をすればそのストレスの影響はきわめて小さくなるだろう。これが免疫性を付けると言うことだ。この対処は、外見上は鈍感さによく似ているので、その区別をしておかなければならないだろう。鈍感さというのは、感覚が鈍くなるためにストレスを受けない状態を言う。それは、多くの場合に理解することを拒否することからもたらされる。テストというものの意味を全く理解しなければ、その結果として生じる影響を感じることもなくなる。外国語を全く理解できなければ、外国語の話を聞いてもなにも感じないようなものだ。鈍感さというのは、基本的に無知から来るものだが、免疫性は深い理解から来るものだ。テストというものの意味を深く理解することにより、それに対する受け止め方を相対化し、自分でコントロールすることが免疫性を付けると言うことだ。外見上は同じように見えることが、本質は全く逆の現象であると言うことを理解して、免疫性をつけることの重要性を受け止めていきたい。免疫性をつけることは非常に難しい面を持っている。それは深い理解を伴わないとならないので、それが出来ないと思ってあきらめてしまうと、鈍感さの方に流れてしまいたくなってくる。そこをなんとか鈍感さに流れないような工夫をして、深い理解をしたいというモチベーションを持ち続けなければならないと思う。いくつかの現象に現れてくる免疫性と鈍感さを分析して、その違いを考えてみようと思う。屁理屈でいつも論点をずらして平気でいる小泉さんの厚顔無恥さというのは、鈍感さの最たるもののように僕には見える。少しでもまともな論理というものが分かるのなら、自分の語っている論理がいかにデタラメであるかが分かるはずだ。それでも、あえてそのデタラメを語るのだというのであれば、もっと深い真理をつかんでいなければならない。しかし、小泉さんにはそのようなものは何もない。そう判断するのは、小泉さんの改革がどれもなんの成果も上げていないからだ。深い真理があって、あえて表面的には間違っているように見える道を選ぶのなら、結果としてそれが日本の利益につながっているのだということを事実で示すことが出来なければ、真理があるということの証明にはならない。真理が深いものであるから、表面的には間違っているように見えるという現象も中にはある。しかし、その真理がないのだったら、間違ったことをそのまま語っているだけだ。そのことが分かるだけの賢さを持っていたら、語ることの間違いを恥ずかしく思うだろう。それを恥ずかしく思わないようにするには、間違いが分かるだけの賢さを持たない方がいいことになる。つまり無知であった方が「恥を知らず」にすむ。こういうのを、内田さんは「構造的無知」と呼んでいた。鈍感さの基礎には「構造的無知」があるとも言えるだろう。鈍感さの構造には、無知から来る鈍感さというものが大きいと思うのだが、知的には鈍感であるからといって、必ずしも感情的にも鈍感だとは限らない。むしろ、知的な理解が出来ないので、悪口に対しては感情的な反発を感じることの方が多いのではないかと思う。これが感情的な鈍感さにもつながって来るというのは、自分には力がないということの劣等感の表れから、傷つくことへの防衛という目的で感情的にも鈍感になっていくのではないかと思う。小泉さんは、日本で最高の権力を持っている人だから、感情的な鈍感さを持つ必要はないと思う。だから、知的には「構造的無知」にとらわれているかも知れないが、感情的には、逆鱗に触れて復讐心を燃やしたくなることもあるかも知れない。報復的で恣意的な人事というのは、その感情の表れではないかと僕は感じる。これが、本当に賢い人間だったら、たとえ自分とは違う考えを持っていても、その能力に応じた適材適所の配置を考えるだろう。権力を持つ人間の鈍感さは実質的に被害をもたらすという点で深刻だ。だから、そのような鈍感さを持った人間が権力を手にしないだけの賢さを多くの人が持ち、民主的にそのような人間を権力の座から排除していくようなシステムが必要だろう。我々自身がもっと賢くなる必要があると思う。権力を持たない人間の鈍感さは、実質的な被害は少ないが、そのような鈍感さを持つ人間が増えてしまうのは、民意というものを考える上では深刻な問題を引き起こす。民意というのは、賢い選択をする人間が圧倒的に多いという前提で、社会の選択が間違った方向へ行かないという信頼が生まれてくる。鈍感な人間が多くなると、この民意への信頼が失われる恐れがある。アメリカの大統領選挙では、ブッシュを選択する人間の方が多かったという結果が出た。これは、それまでは選挙に見向きもしなかった宗教的な原理主義者たちが多く選挙に集結したことと、フォックステレビのような愛国宣伝が有効だったことによると分析している人もいる。無知から来る鈍感さが多数を占めてブッシュを選んだという解釈も出来るだろう。免疫性の分析には、楽天にわいて出てくる「お節介野郎」に対する免疫性を分析するのがふさわしいのではないかと思う。僕の対応を、感情的な対応に見ている人もいるかも知れないが、もしもこの「お節介野郎」に対する認識が浅いものであれば、それは感情的な対応といわれても仕方がないかも知れない。これを、あえてやっているのだと主張するには、「お節介野郎」を深く分析して、その生態を理解しているという前提を持たなければならないだろう。「お節介野郎」たちは、反戦平和を訴える人間に文句をつけるということでまず登場する。そのメンタリティの基礎にあるのは、脆弱な自尊心だろうと僕は思う。これは、宮台氏が「新しい歴史教科書をつくる会」への批判で語っていたようなものと同じで、大いなるものとの一体感で自尊心を保っていた主体性のない人間は、大いなるものへの批判を少しでも聞くと、知的には鈍感だが、感情的には反応するということが起こるのだろう。反戦平和を唱える人間が、全て正しいことを語っているとは僕も思わないけれど、それを見ただけで感情が揺さぶられるというのは、彼ら「お節介野郎」たちにも免疫性がないことを物語っている。免疫性をつけるためには賢さがなければならないので、「構造的無知」にとらわれていてそれがない「お節介野郎」には、免疫性を付けろと言うのは無理な注文かも知れないが。実際には、意見表明だけなら言論の自由なのだから、誰かが自分と反対のことを語っていても聞き流していればいいのだと思う。それが、影響を与えるだけの大きな存在であれば批判すればいいが、単に市井の個人が自分の思いを表明するだけのページに、わざわざ批判を書き込むというメンタリティは、そのことによって感情が揺さぶられているのだということを言いに来ているのに等しい。しかも、論理的にまともな批判が出来ないので、相手の言論を封じるためのイチャモンしか言えないと言うのが、「お節介野郎」の「お節介野郎」たる所以だ。僕は、他人が自分と反対の意見を自分のページで展開していても全く気にならない。それは、鈍感さというものではなく、そんなものが大きな影響を与えることはないという判断から、関心を持たないだけのことなのだ。それで影響を受けるような人間には、僕は関心を持たないので、影響を受ける人間が多少はいても別に気にならない。「お節介野郎」に気持ちを揺さぶられるのはもったいないことだ。「お節介野郎」の実態を正しく理解することで、免疫性をつける方がいいと思う。僕は、最初は分からないこともたくさんあったので、実験をしながら彼らの分析をすることにした。まずは、彼らに答えるのではなく、第三者に語りかける意味で彼らの間違いを分析してみた。これは、もうある程度は終わったので、もうあまり興味がなくなった。今の気持ちとしては、彼らの無知さ加減が自分の判断で分からないようでは、いくら僕がそれを説明しても伝わらないだろうという判断の方に傾いている。だから、「分かるヤツが分かればいい」という感じで、あえて詳しい説明はもうしないことにした。それから、彼らを罵倒することによって、どれだけ彼らの感情を揺さぶることが出来るかを観察してみた。結果的に、無知なヤツは鈍感だということが分かった。これは宮台氏が、「地蔵」という比喩で語っていたが、地蔵には何を言っても仕方がない。今後は、この鈍感な相手にどう対処していくかを考えることになるだろう。鈍感なので、罵倒があまり効果を示さないようだし、論理が理解できないので何らかの説明をして理解を求めると言うことも期待できない。あまりにもばかげた書き込みなので、第三者に説明して論理の訓練をする気にもならない。論評に値しないという感じだろうか。あとは放置するか、書き込みを禁止にするかという感じになるかも知れない。禁止するのは面倒な手順を踏まなければならないと思うので、たぶん放置することになるだろう。放置すれば、水準の低い書き込みでも、中にはそれを信じてしまうような訪問者もいるかも知れない。しかし、それも放置しておくことにしよう。水準の低さを理解できないような人間では、まともな会話が出来るとも思えない。結局は、やはり「分かる人間が分かればいい」という対処法で落ち着く感じだろうか。水準の低い書き込みの水準の低さを認識するという理解の深さで免疫性を保つことにしよう。
2005.01.03
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主体性というものを、僕はあくまでも自らの判断で選び決定する行為としてとらえている。しかし、これは形だけそう見えるという場合がある。例えば、小泉さんは、もしかしたらイラクへ自衛隊を送ることが本当に国際貢献であると「信じて」自ら決定しているかも知れない。このようなものを、自分で決定しているという外見から、やはり主体性であると考えるのは、主体性という言葉の持つ意味を限りなく曖昧にするのではないかと思う。昨日の日記では、言葉というのは同じ意味でのレベルの違いを伝えるコミュニケーションが多いというようなことを書いた。そういう意味では、主体性という言葉も、自分の判断が高いレベルにある主体性と、自分で判断していると思い込んでいるだけで、実はそう判断させられているというレベルがあると受け取った方がいいのかも知れない。しかし、そういったレベルの意識が薄い人にとっては、同じ言葉で「主体性」というと、勘違いしてしまうことが多いだろう。主体性とは、言葉の意味からすれば、やはり主体である自分が「主」であり、周りの環境やその他の影響は「従」であるときに「主体性」という言葉を使うべきだろうと思う。自分が「従」で、周りの方が「主」になっているのに、観念的には自分が「主」であると思い込んでいる状態もある。それは本来は「主体性」とは呼べないものだと思う。しかし、形式的に「自分が選んでいる」という形に目がくらむと、これも主体性と呼びたくなってくる。これは、レベルで言えばほとんど0に近い主体性であるのだが、形式しか目に入らない人間にはそれが分からない。このような主体性を、本来の主体性から区別する意味で、「奴隷の主体性」と呼ぶことにしよう。このように、単に自分が思い込んでいるだけのものは、「奴隷の」という修飾語を常につけて表現するようにしたい。そして、これが本来の主体性ではないと言うことを意識したいものだと思う。「奴隷の主体性」のイメージは、アメリカでの奴隷解放の頃に、むしろ奴隷の地位にいたくて解放に反対した奴隷がいたと言うことを聞いた時にイメージしたものだ。自由を尊ぶ人間だったら、解放に賛成し喜んで当然だが、奴隷の身でいた方が安心できるという感情を持つ人々もいたようだ。優しい主人に愛されて保護されていた方が安心できるという感じだろうか。自立し自由に自分で決定するのは、その決定を自分の責任として背負わなければならないので、常に不安にさらされなければならない。脆弱な自尊心はそれに耐えられなくなる。それだったら、たとえ自由はなくても安心の方を選びたいというのが「奴隷の主体性」だ。小泉さんのアメリカのケツ舐め選択というのも、自ら選んだことには違いないだろうが、僕には奴隷の主体性のように見える。アメリカのケツを舐めていた方が、今までの利権がそのまま確保され、物質的な豊かさや、安全が保証されるという判断が働いて、結果として自らケツ舐めを選んでいるんだろうと思う。しかし、これは単に自由に選択すると言うことの不安を避けるために選んだのではないだろうか。ケツ舐めを選ばないという選択肢もあったはずなのだが、その選択肢を選べば、そのために考えなければならないことや、責任を負わなければならないことが増えてくる。そのようなものを考えてもし失敗したらと言う不安に耐えられなかったら、失敗の少ない方へ行こうという感じになるだろう。つまり、これは本当に主体的に選択しているのではなく、ある種の圧力で選択させられているのに過ぎないことを、そう思うのは自尊心が傷つくから、自ら選んだと思いたがっていると言うだけなのではないだろうか。小泉さんは、わがままに自分の思うように決断しているように見えることもあるが、アメリカが関わってくるところでは全くわがままに行動出来ていないように見える。そこがケツ舐めと言われる所以なのだが、このような人間はちまたでもよく見かけるだろう。自分より下の地位や、下の力しかないという風に相手を見れば、傲慢にわがままに振る舞うが、少しでも上の地位にいたり力が上の人間がいると、そこにすり寄り、自分の判断よりもそのすり寄った人間の判断を優先するというものだ。こういう人間は、自分ではそれを自分でそうしたいからしていると主観的には思っているだろう。しかし、客観的に見ればそこには主体性はない。「奴隷の主体性」があるだけだ。かつての軍国主義を支えた日本国民の主体性も、僕は基本的には「奴隷の主体性」だと思っている。そこでは、本物の主体性を持っている人間が「非国民」にされて攻撃を受けた。そして、「奴隷の主体性」を持った多くの人は、その「非国民」という判断を批判もせずにそのまま受け入れて、主体性を潰す方に荷担したのだと思う。「奴隷の主体性」の弊害は、それが大衆的支持だというふうに勘違いさせて、指導者の主体性をも損なうと言うところにある。指導者というのは、先見の明があるから指導的立場に立つことが出来る。素人では見通せないことでも、専門家には未来が分かることがあるから、専門家は指導的立場に立つことが出来る。この専門家が、その専門性ゆえに主体性を持って大衆を指導していくことが出来れば、間違いを冒すことは少なくなる。しかし、大衆的支持というポピュリズムの方を判断の一番におくようになると、専門的に考えて正しいかよりも、大衆的支持が得られるかどうかに判断が傾いてしまう。この弊害が小泉さんに強く見られるのは、日本社会がまだ「奴隷の主体性」に支配されていることを意味しているのではないかと僕には思える。数学者は、数学の世界にいる限りでは主体性を失うことはない。それは、数学というのは、それが正しいかどうかを自分で判断できるからだ。そして、全ての数学者が正しいという判断で一致する。これが違ってくるように見えるのは、「まだ分からない」と言うことを読み間違えるとそう見えることもある。分からないことに関しては、数学というのは「正しい」とも「間違っている」とも言ってはいけないのだ。そして、分かったことに関しては、それが「正しい」か「間違っている」かは明確に決まる。「正しい」か「間違っている」か分からないことに対しては、判断保留という意味で「分からない」という態度を持つことは、主体性を保つ上では賢明な方法だと思う。これを、権威に頼ったり、先入観で判断したりすると「奴隷の主体性」が身に付くようになる。民主主義的に多数決で決定したことが、その多数決を根拠として正しいと考えるのは、奴隷の主体性の表れである。多数決の決定というのは、基本的には「正しい」か「間違っている」かが判断できない時に、仕方がないから多数決で決めるのである。判断できるものなら、それは専門家の判断を信用してそれを受け入れるしかない。その際、その専門家が本物であるかどうかの判断がまた大事になるけれど。実践的な問題というのは、「正しい」か「間違っている」か判断できない時でも、どちらかに決めなければならない時がある。そのような時に、最終的に多くの人が責任を持とうと言うことで多数決に従うのである。賛成した多くの人がその責任を負うという覚悟で多数決をするのである。多数決というのは、そこで決定されたことが間違いであることが明らかになれば、多数決が否定されて正しい判断の方が選ばれなければならないのである。民主主義的な決定手続きというのは、正しさを保証するものではない。それは、誰が責任を負うべきかというのをハッキリさせるための手続きなのである。奴隷の主体性の問題は、本人が自分の自発性を信じているので、なかなか奴隷であることの批判が出てこないと言うこともある。これは、自由の問題で大きく影響を与える。自由を何か社会を混乱させる不道徳なものと考えるのは、奴隷の主体性に毒されていることから来るのではないかと僕は思う。自由というのは、むしろ主体性の根拠になるもので、これなしには主体性を発揮することは出来ないと僕には思えるものだ。どちらを選ぶのも自由という状態で、どっちかに決定すると言うことが主体性の発揮である。佐高信さんは、「悪いことも出来るのだが、悪いことを選ばない自由」を使う能力というものを論じていたことがあった。悪いことをさせないためには、悪いことを全て禁止するという方法もある。しかし、何かのきっかけで悪いことに転びそうなものはいくらでもたくさんある。包丁のような刃物は、料理には欠かせないものだが、使い方によっては人を傷つける武器にもなる。だから、世の中から包丁を全部なくそうと思う人はいないだろう。そうしたら、料理をすることもあきらめなければならない。便利さと欠点は表と裏のようにくっついている。だから、いくら欠点だけを取り外そうと思っても、それをすると便利さという長所も同時になくしてしまう。だから、本当に有効な対応は、自由の使い方を訓練して、破壊的な方向の自由の使い方をしないように人間をし向けるしかないだろう。悪に対する免疫性を作ると言うことでもあるだろうか。旧日本軍は、中国大陸で様々の残虐行為をした。これは深く分析して、その原因を徹底的に糾明しなければならないだろう。なぜなら、よく分からないけれど、人間の感情としてそれも無理はなかったのだというような理解では、同じようなことが繰り返されるからだ。僕も、知識も経験もない若い兵士が、パニックの中で行動すれば、残虐行為に結びつきかねない可能性は理解できる。そのことをもっとメカニズム的に深く知ることが出来れば、先を見通す目が育つことによって、パニックにならずにすむだろうと思う。そうすれば、残虐行為の一歩手前で思いとどまる人間がもっとたくさん出てくるはずだ。そのためにこそ、歴史は正しく学ばれなければならないと思う。奴隷の主体性を克服して、真の主体性を身につけるためには、自由を恐れないことだ。自由というのは不安をもたらす。自分で責任を負わなければならないと言うことへの不安をもたらす。この不安は、失敗したらもう終わりだというようなことからもたらされるような気がする。だから、失敗した時にいつでも修正できるのだという能力を持つことが大事だろうと思う。取り返しのつかないような失敗はないのだと思えるかどうか。そして、失敗に敏感になり、いつでも小さな失敗の時に気づいて、大きな失敗まで行かないように出来るという能力が大切だ。僕は、三浦つとむさんや板倉聖宣さんを通じて、このような能力を身につけられたような気がする。多くの人がこのようなことを考えて、ぜひこのような能力を身につけて欲しいと思う。どうするのが最も有効かというのを考えてみたいものだと思う。
2005.01.02
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内田樹さんの新しい本「死と身体」の「わかりにくいまえがき」に「あべこべことば」というものが書かれている。これは、わかりにくいのかも知れないが、とても面白かった。「あべこべことば」とは、一つのことばが反対の意味を持っているというものだった。最初の例は「適当」ということばで、これには、「的確な、正しい」というような意味と「あまり的確でない、あまり正しくない」という二つの反対の意味がある。漢字の意味として考えれば、「適正」とか「妥当」という意味が正しいように思えるが、「テキトー」とカタカナ書きにしたりすると、かなりいい加減だというような感じになる。この「いい加減」という意味も、「良い加減」と書くと、適正な加減(程度)という意味になってくる。日記のタイトルの「いい加減は良い加減」というのは、板倉聖宣さんがよく使うことばで、あまり適切に配分せずに、確率にまかせたやり方の方がかえって結果的にはいいことがある、ということを語る時に使う。交通渋滞のひどい交差点で、交通整理をしている警官は、ベテランになるとどう整理しても渋滞が避けられないという状況になることが経験的に分かるという。そんなときはどうするかというと、整理することをあきらめてしまうそうだ。そして偶然にまかせていると、あるきっかけで急に流れが良くなる時がある。それを「良い加減」ととらえて、そこからまた交通整理を始めると聞いたことがある。探偵小説の名探偵は、手がかりがほとんどなく、何を考えても推理が先へ進まなくなった時は、「テキトー」に一歩を踏み出してみるということをよくやるそうだ。とどまっていても何も得られない時は、まず一歩を踏み出すことが大事だということだ。そして、踏み出した一歩が偶然何かにぶつかった時に「良い加減」を見出す鋭いセンスを持っているかどうかが、名探偵であるかどうかを分ける。こんな想像が浮かんできて、内田さんのこの「わかりにくいまえがき」が非常に面白いと感じた。内田さんは、このまえがきで、人間はなぜわざわざわかりにくい表現を使うのかということを論じていた。同じことばが二つの反対の意味を持っていたら、どっちのことばか迷ってしまうのだから、わかりやすいようにどちらかに意味を限定すれば便利なのにということだ。その便利さを捨てて、なぜわかりにくい方をわざわざ選ぶのだろう。このことに対する内田さんの回答は実に面白い。それは、我々がコミュニケーションにおいて相手に伝えたい事柄というのが、「同一レベル上での項間差異を検出する」というものではなく、「同一項に含まれる差異を検出する」ということの方が大事だからだという考えに基づいている。そのコミュニケーションには、同じことばが違う意味を持っていた方が都合がいいのである。これはやや抽象的な言い方なので分かりにくいと思うので、内田さんが提出している具体的な例で考えてみよう。内田さんは、「だいぶ前に見たテレビドラマで、主人公の少年(前田耕陽)が好きな少女(中山美穂)に向かって「オレのこと好き?」と訊ねる場面があった。中山美穂が「うん、好きよ」と答えると、前田くんはその答えに納得せず、こう言った。「その『好き』じゃなくて!」」と、テレビドラマの一シーンを想像するように語りかけ、これを次のように解釈する。「「好き」というような、誤解の余地のありそうもないことばでさえ、言い方一つで、「異性として好き」という意味と、「異性として好きなわけではない」という全くの反対の意味をとることが出来る。しかるに、今のケースでは、少女の答えた「好き」が「人間としては好きだけど、異性としては興味がない」という意味であることを、少年はどうやって瞬時のうちに識別したのであろうか? これは皆さんご自身の経験に照らして考えればすぐに分かるはずである。 前田くんが中山さんの「好き」を「異性として興味がない」という意味であると一瞬のうちに判別できたのは、「好き?」という問いかけと「うん、好き」という答の間の「間」が有意に短かったからである。」もしこのとき、「同一レベル上での項間差異を検出する」ことがコミュニケーションの問題であるのなら、「好き」か「嫌い」かという差異が問題になるかも知れない。あるいは、「異性として好き」かそうでないかを表すことばを使って表現するかも知れない。しかし、人間はいつでもどちらかにすっぱりと判断が分けられるとは限らない。その中間であったり迷ったりする。そんなときに、両方の意味を持ったことばがあると、その時の状況を表現するにはとても便利だと思う。「同一項に含まれる差異を検出する」というのは、同じ「好き」という項の問題において、どのレベルの「好き」なのかというのを問題にしたい時に、それを伝えるコミュニケーションにおいて必要になる。100のレベルと0のレベルを比べると、全く正反対の意味になるのだろう。「適当」の100のレベルは、全く適正で正しいものだろうし、0のレベルはデタラメで正しくないと言うことになるだろう。このようにことばの意味とコミュニケーションを考えると、コミュニケーション・スキル(能力)の問題は、そのレベルを正しく判断する能力と言えるかも知れない。「いい加減」が「良い加減」になるレベルを正しく判断せよと言うことになるだろう。板倉さんのことばも、そのようなことを物語っているのだと思う。このまえがきで書かれている、ダブル・バインド(二重拘束)の問題も面白さを感じたものだ。これは、辞書では次のように説明されている。「同時に相矛盾する二つの次元のメッセージを受け取った者が、その矛盾を指摘することができず、しかも応答しなければならないような状態。ベートソンが提唱。」内田さんが挙げている例はベートソンから引いているのだと思うが、ことばでは子供を「愛している」と言いながら、行動では子供を避けて「愛していない」というメッセージを送る母親で説明していた。「愛している」と「愛していない」という相矛盾するメッセージを受け取った子供は、普通は次のような反応をする。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているのだと。これは当然だ。両立するというのは論理的にあり得ない。「愛している」というのは口先でそう言っているだけだと理解して、母親を拒否する方へ行くかもしれない。また、何らかの原因で行動では拒否的に振る舞うことを強要されているのだと理解すれば、行動の方が間違っていて、本当は愛しているのだと子供が思うようになるだろう。しかし、この両方を同時に受け入れさせようとする力が働く時がある。内田さんがあげているのは次のような場合だ。「しかし、母親自身が、「自分は息子を愛していない」という事実を認めようとしないことが事態をややこしくする。自分を愛情深い母親であると信じ込みたい母親は、彼女の愛情表現が口先だけの擬態であると息子が見破ることを許さない。母親は口先だけの「愛しているよ」ということばを、非言語的レベルで彼女が発信している「おまえなんか愛していない」というメッセージを否定するメタ・メッセージとして読むことを息子に要求する。」こうなると息子は悲劇的な状況に陥る。矛盾をそのまま背負わなければならなくなるからだ。矛盾を背負わなければならなくなった人間は、その矛盾をどこかに押しつけなければならなくなる。無理が通れば道理が引っ込むというわけだ。内田さんは次のように語る。「息子は窮状に追い込まれる。彼は(自分を愛しているようには全然感じられない)母の身振りを「自分を愛していることの兆候」として解釈しなければならない。この解釈を受け入れるためには、「母は自分を愛しているようには全然感じられない」という彼自身の「感じ」を否定する他ない。「『母親は私を愛していない』と感じる私の感受性は現実を正しく受け止めていない」「私のメッセージ解釈能力は全く適切に機能していない」と自分に言い聞かせない限り、この読み替えは成功しない。」これがいかに悲劇的状況かというと、このようにして育った人間は、正しいコミュニケーション能力を獲得することが出来ないからだ。自分の能力に信頼を置けないので、自分が受け取った意味が正しいかどうかの判断が出来なくなるのだ。主体性を持つとか言う以前の状況になってしまう。内田さんが語るのは、次のような例だ。「そのような人間は、自分が今どういう種類のコミュニケーションを前にしているのかを識別することが出来ない。「今日は何をする気?」という問いを差し向けられても、「昨日自分がやったことでせめられているのか、性的な誘いを受けているのか、それとも単に字義通りのことが言われているのかについて、正確な判断を下すことが出来ない」。」このような悲劇的状況は、心が疲れてくると誰にでも程度の違いはあるが現れてくる。僕も、被害妄想的になった時に、運転をするのが恐くて仕方がなかった。周りの車の行動が、全て僕の運転を邪魔する意図があってやっているんじゃないかという深読みをしたくなったからだ。そして、このことが面白いと思ったのは、現代社会というものが、ダブル・バインドの問題を生じさせるきっかけにあふれていると思えるからだ。ダブル・バインドの問題について知識があるのとないのでは、実際にそのような状況を自分が感じた時に、ヘタレるかどうかを分けるような気もする。ヘタレないためにも、この知識は重要だと思った。内田さんが語るように、現代社会には、次のようなものに似た場面はいくらでもあると思うからだ。「例えば、子供たち同士がどこかに出かける相談をしている。その中の一人が、通りがかったクラスメートに「ねえ、あなたも行く?」と声をかける。 この「ねえ、あなたも行く?」が語義通りの意味なのか、「私は誘う気もないのに『ねえ、あなたも行く?』と声をかけるくらいにあなたの気分に配慮しているんだから、あなたも『あなたなんか来て欲しくない』という私の気分にちゃんと配慮してね」という意味なのかを、声をかけられた子供は瞬時に判断しなくてはならない。 そして、「ううん、やめとく」という返答が、適切なタイミングよりコンマ一秒早すぎても、コンマ一秒遅すぎても、その時間差が別のメッセージ(「あんたとなんか行きたくないわ」とか「変な気を遣って、いい人ぶるの、やめなさいよ」とか)を伝えてしまうリスクをも熟知していなくてはならない。」このようなコミュニケーションの中で、適切な判断が出来ない経験が重なると、コミュニケーションそのものが恐くなってしまうだろう。その結果としてコミュニケーションを避ける引きこもりになるのは十分理解できることだ。現代社会の若者は、このような緊張したコミュニケーションの世界を生きているとしたら、なんと悲劇的なことだろうと思う。内田さんは、このことを一般論的に語っているが、日本的なものなのか、世界のどこでもそうなのかは難しいところだと思う。宮台氏の社交術の考え方からすると、西欧的な社交術では、このようなコミュニケーションのリスクを避けるために、まずは自分がどのような能力があるかを伝える社交術があるということが語られていた。そして、能力が認められれば、自分のメッセージを深読みしようが文字通り受け取ろうが、それは受け取る側の責任として、メッセージを発する側は精神的負担を免れると言うことだった。僕も、このような社交術が早く主流になって欲しいと思う。そうでなければ、日本社会は、ダブル・バインドの問題で人間の心がずたずたにされるような時代になってしまうのではないかと思う。このことは、また改めて、もっと深く考察してみたいものだ。
2005.01.01
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