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バルトの知見のうち、内田さんが重要性を強調し、この本で紹介しているのは、「エクリチュール」と「作者の死」という概念だ。どちらもそれをつかむのは難しそうだが、「エクリチュール」というものをまず考えてみよう。内田さんは、我々が言語を使うということから原因する思考への影響というものを考える。我々はどこの国に生まれるかというのを自分で選ぶことが出来ない。ある国に生まれて、その国の言葉を使うのは全くの偶然だ。しかし、この偶然生まれ落ちた国の言葉を使うということは、その言葉に特有の思考が身に付くということでもある。内田さんは、この本の他の部分で日本語の「肩こり」という言葉のことを語っていたが、日本に生まれた我々は、「肩こり」という言葉で、ある現象を理解し、その言葉に従った思考をするようになる。精神的な疲れが残る仕事をしたときに、その疲れが肩に残っているという感じ方や考え方を我々はするようになる。しかし、「肩こり」という言葉がない外国では、そのような精神的な疲れは肩に残らない。アメリカなどでは、肩ではなく、背中にそういうものが現れるらしい。背中に重荷を負うというような感じなのだろうか。日本語には、明確に論理的に判断する言葉が乏しい感じがするが、それが、論理的判断が乏しい国民性を作っているとも言えるかも知れない。バルトは、このようにその国民に不可避の影響を与える「国語」を「ラング」と呼んだらしい。これは、ソシュールが、言語そのものを指す言葉として使ったものと同じだ。それは、三浦さんの分析では、言語規範を指すものだった。それは、その言語を使う人間が、誰でも従わなければならない規範であるというのが三浦さんの解釈だったが、そのようなものなら、人間の思考にも影響を与えるだろう。どのような影響を与えるかは、いろいろな考え方があるだろうが、影響を与えるということは否定出来ないだろう。ラングは、我々には選択する余地のない、外部からの規制だという理解を内田さん(=バルト)はしているようだ。これに対して、内部から規制するものが考えられるという。それを「スティル」と呼んでいる。これは、英語的に言えば「スタイル」というような感じなのだろうか。これは、「文体」という言葉でイメージされている。僕は、三浦さんとか本多さんの文章が好きで、その語り口が、三浦つとむ的・本多勝一的になるように努力しているような所がある。くどいくらいに論理的であろうとしたり、事実と、それから発生してくる観念とを明確に区別しようとしたりするのが、僕の「スティル(スタイル)」というものだろうか。これは、自分で意識的に選び取るものになっている。それで、内田さんは、これを内部からの規制だと語っているのだろう。自分の意志によって選び取ることが出来るものとして考えられている。このように「ラング」と「スティル」を理解して、なお第3の規制として「エクリチュール」というものを考えようと言うのが、バルトの発想のようだ。これは、「ラング」と「スティル」の中間物のような性質を持っている。自らの意志に関わりなく、外部的に規制する面があるかと思えば、その規制そのものについては、それを選び取るという選択の余地のあるものとして登場する。「スティル」は個人の持つ好みによって生まれる「文体」であるという面を感じさせるものだが、「エクリチュール」は、ある集団が持っている「文体」を、個人が選び取ったという面を持つものとして考える。これを選び取ったと言うところに、「スティル」との共通性を見るのだが、いったん選び取られた「エクリチュール」は、その集団が、個人とは独立に持っている性質によって、個人の言語表現に影響を与え、それを規制してくる。具体的な「エクリチュール」として内田さんは次のようなものを例として挙げている。「例えば、私が「おじさんのエクリチュール」で語り始めるや、私の口は私の意志と関わりなしに突然「現状肯定的でありながら愚痴っぽい」言葉を吐き出し始めます。「教師のエクリチュール」に切り替えると、とたんに私は「説教臭く、高飛車な」人間になります。同じように、ヤクザは「ヤクザのエクリチュール」で語り、営業マンは「営業マンのエクリチュール」で語ります。そして、その言葉遣いは、その人の生き方全体を密かに統御しているのです。」このような現象の解釈は、僕が勉強したマルクス主義などで、「存在は意識を決定する」などという命題で語られていたことと同じような気がする。マルクス主義的な命題では、必ずしも言語だけの影響ではなく、存在という諸々の条件が多面的な影響を与えて、その思考を支配するという感じで理解していたような気がする。影響を与える存在の中でも、特に言語を取り上げて分析したのがバルトだという感じがする。このような解釈で、それぞれの言語表現と、その表現者の思考を分析してみると、人間をある種の分類で分けることが出来るようになる感じがする。言葉遣いを聞けば、その人がどのような階層に属しているか(マルクス主義的に言えばどのような階級に属しているか、ということか)が分かる。そして、どのような思考をするかも、ある程度予測出来ると言うことになるだろうか。これは、「エクリチュール」を「エクリチュール」として了解出来る場合の想像だ。しかし、実際には、この「エクリチュール」があまりにも当たり前の感覚になってしまい、特定の集団に属する「エクリチュール」だと気づかなくなってしまうことがある。「そんなことは常識だ」という表現で語られるようになると、社会の中の一部集団ではなく、社会全体がある種の「エクリチュール」に支配されるようになる。この状態を、バルトは注意せよと強調しているようだ。世の中の常識として通用していることは、一見「価値中立的な語法」のように見えるが、その中にこそ「その社会集団の全員が無意識のうちに共有しているイデオロギーが潜んでいる」とバルトは指摘している。今はもう「父兄会」という言い方をする学校関係者はほとんどいない。だいたいが「保護者会」という言い方をするだろう。「保護者」と言えば、「父兄」に決まっているという時代ではなくなったからだ。しかし、「父兄会」という言い方が当たり前だった時代は、おそらく、保護出来るほどの力量を持ったのは、父か兄だけだという感じだったのだろう。当たり前だという感覚で、無反省に使う言葉の中に、その社会のイデオロギーがもっとも色濃く出ているという指摘は、当たり前すぎて見過ごすということから考えると、非常に鋭い指摘だったのだろうと思う。この指摘をもう一歩進めて、感覚的な同化を経ることによって、イデオロギー的にも同化していくということもバルトは指摘しているようだ。映画を見た人間が、その主人公になったつもりになって、主人公と同じような感覚を感じたり、考えを持ったりすることを指摘している。これを、ある文章の批評と言うことに当てはめて考えてみると、その文章に書かれていることを解釈して、その内容を自分の基準で判断して批評するという場合ばかりでなく、その文章が読み手に大きな影響を与え、文章が読み手を作りかえて批評そのもの、すなわちその文章をどう感じるかということまでも変えてしまうことがあるかも知れない。ある文章を批評するということは、それを客観的存在として、外にあるものとして受け取ることが出来なくなるということだろうか。その文章を読んだ人間は、それを主体的に感じることが不可避で、その影響を考慮に入れた判断を語らなければならないということだろうか。このような見方は、三浦つとむさんが語っていた<観念的な自己分裂>の考えを思い出させる。三浦さんは、人間が他人の表現を受け取るという認識を考えるとき、現実的な自分のままでは、その表現を理解することは出来ないのだと語っていた。その表現を語った他人になったつもりになって、観念的に自己が分裂して、自分が他人になったと想像しないと、その言葉を語った人間の思いや考えを受け取ることが出来ないと考えた。この観念的な自己分裂は、他人への理解がすんだあとには、自己へと戻ってこないとならない。そのまま分裂して他人になったままでは困る。自己へと戻ってきて、初めて他人の思いや考えを、自分が理解したと言える状態になる。観念的に分裂して他人になることは、いったんは他人の影響下に入ることを意味する。その他人があまりにも強大な影響力を持っていたら、なかなか自分へと戻ることは難しいだろう。そういうことをバルトも語っているとしたら、人間は、正しいことを考える限りでは、みんな同じことを言うのだなと僕は思う。バルトが語る「エクリチュール」を意識することは、自分の思いや考えが、決して普遍的なものではなく、特殊なものではないかということを忘れないようにするために役に立つのではないかと思う。自分が正しいと思っていることも、相対的なものに過ぎないのだ。それは、ある時代、ある地域でたまたま選ばれただけの「文体」に過ぎないものなのだ。これは、三浦さんが語る観念的な自己分裂を、人間の認識というものを理解する基礎に置くのと同じ発想だ。観念的な自己分裂で分裂する相手になるのは、特定の個人である誰かなのか、あるいは特定の集団の誰かなのか、それとも、さらに抽象的な対象である、任意の誰かなのか。どの対象に分裂するかで、認識の深まりも違ってくるだろうと思う。論理的な思考をしたいときは、およそあらゆる人間を抽象して、任意の対象としての誰かを意識しての分裂になっているのではないかと思う。「誰が考えてもこうだろう」という思考が論理的な思考になるからだ。もう一つの知見である「作者の死」は、三浦さんが厳しく批判していた知見でもある。「エクリチュール」というものの影響をさらに強くしていくと、それは、もはや自分が語っているのではなく、「エクリチュール」の支配が語っているとも言えるものに感じられるのだろうか。そういう発想から「作者の死」というものが出てくるのだろうか。三浦さん的に考えると、作者というのは、観念的な自己が復帰した自己が作者だということになるのではないかと思う。観念的な自己が復帰してきた自己は、観念的な自己をコントロール出来る。どこに観念的に分裂した自己が登場してくるかをコントロール出来るわけだ。だからこそ「作者」というものになれる。この「作者」が死んでしまうというのは、このコントロールが出来なくなるということではないのだろうか。ある意味では、現代小説というのは、そのようにコントロールを失う方向に進んでいるのかも知れない。この次は、そのような方向から「作者の死」というものを考えてみようかと思う。
2005.06.30
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この本を手にしたのは発売されてまもなくのころだったと思う。つい最近読み終えた。僕は、著者の高橋さんについては何も知らなかったのだが、<はじめに>の中の「私は歴史家ではなく、哲学者の端くれである。靖国神社がどのようなものであるかを知るためには、その歴史を知らなければならないが、本書の中心テーマはそこにはない。靖国神社の歴史を踏まえながらも、本書では、靖国問題とはどのような問題であるのか、どのような筋道で考えていけばよいのかを論理的に明らかにすることに重点をおきたい。」という文章が印象的で、思わずこの本を購入したいという気持ちになった。哲学的に靖国問題を考えると、いったいどのように考えることが出来るのだろうかというのが、僕の関心だった。靖国問題を歴史として語る人はたくさんいるのではないだろうか。また、外交という政治的な面を語る人もいると思う。靖国問題は、それぞれの特殊な顔を持つ部分では、その特殊性に応じてさまざまな語られ方をしている。そして、それぞれの特殊な分野での語り方での「靖国問題」の正解は見えてきているような感じがする。外交的な面での語り方は、河野太郎議員の語り方(「ごまめの歯ぎしり メールマガジン版 2004年12月1日(水)中国側の言い分」)が正解であるような気がする。しかし、この「靖国問題」の難しさは、外交問題としての正解が、他の問題として考えたときには、必ずしも正解にならないということではないかと思う。靖国問題を、それぞれの特殊な面から考察した解答は、ある意味では、それぞれの立場からの解答であるとも言える。それは、相容れない矛盾を含んでいるときもある。そのようなときに、哲学的な解答を与えるというのは、どういう意味があるのか?哲学というのも、人によってさまざまな定義があるかも知れないので、僕が感じるものは必ずしも一般的ではないかも知れないが、哲学は、その対象を最も広い世界に求めているような感じがする。ある意味では森羅万象を求めると言おうか。だから、靖国問題を哲学的に考えると言うことは、あらゆる語られた議論を考慮の中に入れるという意味として僕は受け取りたい。哲学は、これから語られるであろうことを予想してその中に取り入れることは出来ないが、今まで語られたことをすべて考慮して、その上での判断を求めるという営みが出来るのではないかと思う。高橋さんは、「靖国問題」を5つの側面から考えた、すでに語られた議論を紹介して、それを哲学的に受け取る議論を展開している。歴史を踏まえて語るが、歴史そのものがテーマではない、ということは、歴史的な事実という前提を、特殊な事実を設定するのではなく、常識的に誰もが認めざるを得ないだろうと言うことだけを前提にするのだというふうに僕は感じる。そして、その前提から論理的に導かれることを求めていくというのが哲学的アプローチなのではないだろうか。その導かれたものは、果たして「靖国問題」を整合的に理解する助けになるだろうか。それとも、混沌とした矛盾の中に埋没することになってしまうだろうか。もし矛盾の中に埋没するとしたら、「靖国問題」は、本質的に解答が得られない問題なのだという哲学的結論になるのかも知れない。果たして高橋さんは、どのような哲学的解答を出しているのだろうか。これは、僕には今ひとつ分からなかった。ある書評を見たら、高橋さんは、現実的な矛盾を解消するための現実的な処方箋を提出していると受け取っているものもあった。しかし、現実的な処方箋を出すことが哲学的な解答だとは、僕には思えない。むしろ、高橋さんは、ここで靖国問題の難しさをさらに際だたせて結論としたのではないだろうか。高橋さんが、本当は何を言わんとしていたのかというのを、正しく受け取るためにも、高橋さんが語る哲学の構造を理解する必要があるのではないかという感じがする。高橋さんは、それぞれの側面を考える際に、どのようなことを前提として、どのような論理的な帰結を導いたのだろうか。それをわかりやすく表すことが出来ないだろうかと思う。第1章で語られているのは感情についてである。感情はどのような感情であると言えるだろうか。次のようなものだと考えられるだろうか。まず一つは ・靖国に祀られることを誇りに思う感情 (靖国を汚されたと感じるときの屈辱感)というものが語られているように感じる。この解釈には大部分の人が同意するのではないだろうか。もし同意しないとしたら、このような感情は、靖国にはないのだと主張することになる。論理的に考えれば、そのようになる。だから、このことには同意せざるを得ないだろう。このような感情はないのだと主張するのは難しい。高橋さんが引いている実例を見るだけでも、このような感情が存在すると言うことは、確かな事実だと言えると思う。さて、このことが事実だとすれば、ここから「論理的」にどのようなことが結論出来るというのだろう。「論理的」と言うことはどういう意味なのだろう。単に自分が「そう思う」と言うだけではなく、自分の主観以外に客観的根拠を示せなければ、それは「論理的」だとは言えないだろう。高橋さんが主張したい論理的帰結は次のようなものだと思う。 <普通は、肉親の死は悲しいものであるはずなのに、靖国に祀られるような死は、悲しさを感じなくなる。むしろ、死が栄光であり誇りになる。>このことは、実例として直接言うことも出来る。高橋さんが紹介している座談会にも次のような発言が見られる。「うちの兄貴は、動員がかかってきたら、お天使様へ命をお上げ申しとうて申しとうてね。早う早うと思うとりましたね。今度は望みが叶って名誉のお戦死をさしてもらいましてね。」この発言をした個人は、肉親の死を悲しむよりも、それが名誉の死であることを誇りに思っている。このように、一つの例を引いてきて、その個人がこのような性質を表現していると言うことを証明することは出来る。しかし、上の命題が一般的に成立するということを言うには、この実例が<任意の一つ>であることに整合性がなければならない。現実的には、大部分の靖国遺族感情がこのようなものなのだという一般性を証明してやっと、上の命題が一般的なものになる。もし、実例として上の命題に当てはまらない遺族が存在すると、この一般性がどの程度現実のものなのかを考えなければならなくなる。このような検証は、現実把握としては大切だと思うが、論理的にはかなり難しい判断を含んでいるものだ。現実のとらえ方やデータの信頼性によって判断が違ってくる。靖国遺族の感情に関する結論を、論理的な推論ではなく、現実の対象から証明しようとすれば、現実把握という難しい問題をクリアーしなければならない。その問題をひとまずわきに置いておける方法が、論理的に推論するという方法だ。論理的な推論では、より承認しやすい前提から結論が導けるのなら、現実に事実を確かめるという点を省くことが出来る。それでは、上のような結論は、どのような前提から論理的に導かれるだろう。<靖国を誇りに思う感情>から、ストレートに、<肉親の死を悲しむよりも誇りに思う>と言うことが導かれるだろうか。これに対して、「当然だ」と納得する人には「論理的」な反省はいらない。「誇り」と「悲しみ」とは違う感情ではないか、それがなぜ比べられるのか、ということに疑問を感じた人間には「論理的」な反省が必要になる。普通は「誇り」と「悲しみ」は違う感情なので、これが両立したり、両方ともなかったりするという状況が想像出来る。一般的に、「悲しみ」の感情を「誇り」の感情が上回ると言うことはない。だから、それが起こる根拠を現実の中に求めて、これがそうだと納得出来る整合的な理由を示さなければ論理的とは言えない。この根拠に高橋さんは靖国の思想というものを挙げている。靖国の思想というものが日本人の大部分の中に教育され、価値観として、<国のため(天皇のため)に命を捧げる>と言うことが、他の何よりも優先する高いものだという思想が行き届いているために、感情的な問題でも、「誇り」が一番に来るのだと結論しているように感じる。画一的な軍国主義教育のせいで、一つの価値観に染まった国民が存在するという前提が、このような感情の優先をもたらすことになると言うことが、論理的に帰結出来ると思う。この<全体主義>的な国家だった日本という前提を認めたら、このような帰結が導かれると納得することが「論理的」と言うことの意味だと僕は思う。推論から導かれた結論であるから、<悲しみよりも誇りが優先する>というのは一般的な主張をする命題になる。しかし、この一般論は、自然科学と違って、現実を対象とするときは例外的な存在を持つ、蓋然性を語る命題になる。大部分の日本人は、悲しみよりも誇りを持つような感情構造を持っていたが、例外的に「全体主義教育に染まらなかった」人間は、その感情の優先順位を持たない人間がいる可能性がある。それは ・靖国に祀られることを屈辱だと思う感情 (意に反して祀られることに対する屈辱感)を持つ人々もいることを予想させる。しかし、それはあくまでも例外的存在であって主流にはなり得ない、ということがまた推論の結論でもある。靖国の思想は、<悲しみよりも誇りを優先させる>という感情の動きをもたらすことが本質である、と結論していいのではないだろうか。そして、これが本質であるのなら、<靖国は、悲しみよりも誇りを優先させ、国のために命を捧げることを理解する国民を作るために作られた>という帰結が論理的に導かれる。本質こそが、それの真の目的なのだという理解だ。この結論に対して、立場上、「そんなことは当然だ」というものと、「許されないことだ」という判断が両方ともあるに違いない。しかし、これは論理的には帰結出来ない判断だ。どちらが正しいかを無条件には決められない。ある種の倫理観を前提としなければでてこない判断だろう。だから、哲学的には、この結論に対する価値判断は出来ない。哲学的には、論理としてこのような結論が導けるだけだということが言えるだけなのではないか。逆に言えば、ほとんど大部分の人が認める結論として上の命題を提出することが出来るのではないかと思う。そして、これを出発点として靖国は議論されなければならない、ということが哲学的なとらえ方なのではないだろうか。靖国に対しては、その立場上さまざまな思いや判断が錯綜してくる。その錯綜した思いや判断をそのままにして議論したら、おそらく議論は議論として正当な方向へは行かないだろう。議論というのは、その前提になることが明確になったとき、初めてその判断が論理的に正当かどうかということが言えるのだ。高橋さんが、靖国問題を哲学的に考えるというのは、その前提となることを確認することなのだと、僕は思った。感情の問題から確認出来ることは上のような命題ではないかと思った。それ以外の問題から帰結する前提は、いったいどのようなものになるだろうか。明確に出来るかどうか考えてみたいものだ。
2005.06.30
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内田さんの「2005年06月28日 「ここにいるはずのないやつ」と教師の要らないゼミについて」というエントリーの中に、また自分と同じような問題意識を見ることが出来た。それは、後半部分の「教師の要らないゼミについて」語る部分で、この部分の解釈が、教育を考察するときに僕の今までの経験から得られたものとかなり一致するのを感じる。まずは、次の認識に大きな共感を感じる。「教師がその主題についての専門的知識を独占的に所有しているということになると、聴講生たちは教師が誘導しようとする結論に誰も的確には反論することができない。「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」ということになってしまう。」宮台真司氏が、自ら麻布中学で受けた数学教育のエピソードを語っていたが、授業の最初で、数学の教師からは、「考えるな、すべて記憶しろ」ということを言われたそうだ。中学・高校の教科書で語られている数学などは、すでに完成された知識であって、それを自分で考えるなどは出来るはずがないから、完成されたものをすべて覚えろと言うのが数学教師の考えだったようだ。これは一つの知見ではあるだろう。思考力は必要ない、知識さえあればいいのだという価値観であれば、このような主張も頷ける。受験の評価が、思考力ではなくて知識のみにあるのであれば、このような方向もある意味では合理的なものである。驚くべきことは、このような教育を受けながらも、宮台氏のような非常にすぐれた論理能力(思考力)が育つという現実だ。おそらく、これは教育と言うよりも素質に負うところが大きいのだろうと思うが。東大受験が目的にならないような大衆教育では、このような極端な知識(記憶)教育は、あまり効果がないのはすぐ分かる。しかし、数学教育においては、知識においても技術においても、中高生レベルであれば、教員の方が遙かに高いものを持っている。だから、よほど注意深くしていないと、「キミたちは、『こんなこと』も知らんのだから、黙って私の言うことをききたまえ」という方向に流れていく。このような流れに一石を投じたのが、数学教育協議会を率いた遠山啓先生だった。遠山先生は、数学教育を知識の伝達ではなく、理解の伝達にしようとした最初の人だったのではないかと僕は思っている。水道方式というすぐれた筆算の教育の体系は、筆算を、単なるアルゴリズムの記憶ではなくて、数の持っている10進法の構造を理解することから導くという画期的な方法だったと思う。遠山先生に言わせると、数学教育の初歩の段階での素朴な疑問というのは、完全に答えようとしたらこれほど難しいものはないということだ。マイナスとマイナスをかけたらプラスになるということを、本当に説得的に伝えるのは非常に難しい。だから、これは覚えておけ、と言うことになりかねない。実際には、このことを覚えておくだけでも役に立つし、計算をしていくことに支障がない。だから、人はいつしか、「こんなことは当たり前だ」という感覚になって、このことがなぜ正しいのかという疑問を忘れてしまう。しかし、このようになっていくと、教育の中で「理解」という面はどんどん後退していき、「知識」という面が肥大していくことになる。しかし、知らない知識をただ知識として受け取るだけのものが教育であるならば、極端なことを言えば教師はいらないと思う。どこかにデータベースがあって、そこに自由にアクセスさえ出来れば、知識などはいくらでも手に入る。知識の伝達だけが教育なら、学校などいらないだろうと思う。教師という人間から、いかにして理解の過程を学び取るかが、教育の本来の意味ではないのだろうか。そんな問題意識で、上の文に続く内田さんの次の文章「しかるに、教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると話がまるで変わってくる。発表者によってその日にあらたに与えられた情報を、これまでのゼミ発表で仕込んだ情報と組み合わせて、「ということは…こういうことじゃないの?」という仮説を立てる権利は全員にほぼ平等に分かち与えられている。つまり、ここから先は「知識量」の勝負ではなくて、断片的知見をどのような整合的な文脈のうちに落とし込むかを競う「文脈構成力」の勝負になる。」を読むと、ここで語られている解釈が、僕がすぐれた教育として学んできた仮説実験授業の方法に近いものを感じた。水道方式は、数の構造の理解という面ではすぐれていたが、それはすでに完成されたものの構造を理解しやすいように構成しなおしているという感じで、自ら主体的に構成までも担っているという感じはしない。それは、数の歴史は数千年の年月を経ているので、それを個人の経験や能力だけで発見するというのは難しいからだろう。これに比べると、仮説実験授業の方は、その時に個人が所有している知識や技術の範囲内で、問題を考えることが出来るような適度な難しさの問題を設定する。だから、ここでは理解の方向を、あらかじめ提示された構造として、それに従って進むのではなく、自分の考えで主体的に試行錯誤をしながら進んでいくことになる。これは、物事の理解を、もっと積極的に押し進めていく「思考」を育てる教育になっていると僕は思っている。仮説実験授業では、教師の役割は、ランダムに流れる生徒の思考の流れを適切に位置づけるという調整役になっている。新しい知識を教えたり、思考の方向を示すことは慎重に避けると言うことがなされている。内田さんのように、「教師の知識がゼミ生と「どっこい」ということになると」、このように慎重に避けなくとも、避けたときと同じような結果になるだろう。かくして、このような方法によって、生徒は自主的に自由に思考を展開させるという経験をすることが出来る。この経験が、他の物事を考えるときも、正しく思考を進める方法というものを教えてくれることになる。仮説実験授業は、確か成城学園という私立の小学校からスタートしたと覚えている。成城学園は、宮台氏がいた麻布のような極端なエリート校ではなく、かといって公立学校のような純粋な大衆教育の場でもない。ある程度先進的ではありながら、知識に偏重したエリート教育ではないというところで、このような教育がスタートしたというのはなかなか面白い偶然だと思う。内田さんのゼミでは、そこで行われる議論で「あくまでテンポラリーな正解者」が決定すると考えているようだ。それぞれの主張は、平等な「仮説」というものであって、どれが正しいかは簡単に決定出来ないからだ。だから、多くの支持を集めたものが、とりあえずは説得力があるということで「あくまでテンポラリーな正解者」と言うことになる。ここまでは、仮説実験授業の流れと全く同じだ。仮説実験授業でも、ある問題が提出されたときに、それは実験の結果を予想するものなのであるが、実験をする前にそれがどうなるか主張するのでどれが正しいかは議論の段階では分からない。いずれも平等な「仮説」となるのである。そして、どの「仮説」がもっとも支持を集めるかを確かめながら議論をする。時々、どの仮説を支持するかというのを集計するのである。内田さんのゼミと仮説実験授業が違うのは、この仮説の正否を仮説実験授業では実験によって決着させるところだ。それは、教師が教えるから正しいのではなく、権威ある書物に書いてあるから正しいのでもなく、目の前の事実として、自分で確かめることが出来るから、どれが正しいかを納得せざるを得ないという形で決着させる。内田さんのゼミでは、あらかじめ解答が決まっているとは限らない問題を議論するので、このような決着をすることは出来ないだろう。幸運にも解答が得られる場合もあるかも知れないが、多くの場合は、現段階では、このような見通しがもっとも確からしいという結論しか得られないだろう。それに対して、仮説実験授業では、すでに科学史の中では決着がついている問題を扱う。だから、教師はその正しい解答にうっかり誘導しないように気をつけるために討論に参加することはない。あくまでも調整役に徹する。しかし、教育の構造としては全く重なるように見える。仮説実験授業によって育つのは、主体的にものを考えるという能力だ。それは、たとえ間違いに陥ることがあっても、その間違いを反省して、間違いからでも学び取ることが出来るという能力が育つことになる。内田さんは、そのゼミで育つ学生の能力について次のように語っている。「現に、三ヶ月前はごく平均的日本人のレベルにあったゼミ生たちの中国リテラシーは見違えるように向上し、「華夷思想が清末の洋務運動に与えた影響はそういうんじゃないと思う」とか「愛国主義教育によって江沢民の党内基盤は強化されたんだろうか?」とか「改革・開放路線と毛沢東思想のフリクションはどうやって思想的整合性を獲得するかな」というようなぐっとコアな質疑応答が飛び交うようになった。」これは、内田さんのひいき目ではなく、仮説実験授業を通じて思考力を伸ばしている子供たちを知っている僕は、同じ構造を持っている教育なら、そのような能力が伸びて当然だろうと感じる。だから、このような経験から得られた内田さんの次の見解は、僕は全く同意する。問題意識がぴったり重なって、結論も同じものだというのを感じるのだ。「ふつう私たちは「専門的知識を備えた人間が指導しなければ教育は成立しない」と考えがちだが、そういうものではない。仮説の提示と挙証、その反証という手順についてルールをわきまえたレフェリーさえいれば、どのような分野の主題についても学生たちは実に多くのことを学ぶことができる。逆に、知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている限り、学生はたぶん何も身に付けることができない。」仮説実験授業は、教員をすぐれたレフェリーにする訓練にもなっている。仮説実験授業を通じて子供たちがどれほど多くのものを学ぶかは計り知れないものがある。道徳性が伸びるのも僕は感じる。それは、論理的に正しいという整合的な判断能力が伸びるせいだと思う。合理的な判断が出来る人間は、道徳を考えるときも正しい判断をする。そして、内田さんが最後に語っている言葉にも、僕は全く同感だというのを感じる。「知識はあるが文脈構成力のない教員に指導されている」学生は、おそらく知識だけが肥大している<知識オタク>のような学生になるだろうと思う。<知識オタク>に出来るのは、末梢的な部分での勘違いを、重箱の隅を突っつくようにあげつらうことが出来るだけだ。それが、理論全体でどのような意味を持っているかという位置づけの問題は、そもそも考えたこともないだろうから、全く分からないだろう。この<知識オタク>がすべて正しい知識を持っていればまだ救われるが、ソースになるような知識がずさんなものだったら、そもそもその知識そのものがデタラメだという可能性もある。しかし、<知識オタク>にそれを検証することは出来ないだろう。検証するには、知識ではなく、合理的思考という「理解」が必要だからだ。宮台真司氏は、知識の量も、一定の量を超える膨大なものになれば、ほとんど思考がなくても知識だけで大部分の問題が解決出来ると豪語していた。宮台氏ほどの博覧強記であればそれが可能かも知れない。これは、知識と思考力との「量質転化」の問題として面白いと思う。しかし、宮台氏ほどの膨大な知識を持っていなければ、やはり思考力を育てた方がいいだろう。それは、宮台氏が習った数学教師が言うように、「普通の人間には出来ない」ことではないと思う。仮説実験授業が、それが可能であることを十分示していると思う。宮台氏ほどのすぐれた論理能力を持たず、膨大な記憶力だけで、現実に対して正しい判断をする人間がいたら、この「量質転化」が起こるかどうか検証出来るのだろうか。でも、そういう人間って、どこかにいるのかなあ?
2005.06.29
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僕が内田さんの文章を読んだのは、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)が最初だった。そのタイトルにも心引かれるものがあったが、まえがきの冒頭に書かれていた「「専門家のために書かれた解説書」には、「例のほらあれ…参ったよね。あれには(笑)」というような「内輪のパーティ・ギャグ」みたいなことが延々と書いてあって、こちらはその話のどこがおかしいのかをさっぱり分からず、知り合いの一人もいないパーティに紛れ込んだようで、身の置き所がありません。 それに対して、「入門者のために書かれた解説書」はとりあえず「敷居が低い」のが取り柄です。どんな読者でも「お客様」として迎えようという態度がそこには貫かれています。」という文章がまず印象に残った。このような感覚は僕も以前から持っていて、そこから<初心者が初心者の段階を抜け出るには、どのようなものが必要なのか>という問題意識をずっと持ち続けていたからだ。それは、漠然とは、三浦つとむさんの弟子を自認していた武道家の南郷継正さんが語っていた「名人が達人に至る道と、初心者がそれを脱する道とは同じ」と言うことがヒントになるだろうとは思っていた。初心者だったころの記憶というのはハッキリと残っているのだが、それを脱した瞬間の記憶というのは、ほとんど思い出せないほど明確化が難しい。ある日突然出来るようになってしまったという記憶しか残らないのだ。どのようにして、というメカニズムがなかなか分からない。もしもこのメカニズムが発見出来たら、教育という営みに対して革命的な理論を発見することが出来るだろうと思う。内田さんは、先の文章に続けて、「敷居の高さの違いは、「専門家のための書き物」は「知っていること」を軸に編成されているのに対し、「入門者のための書き物」が「知らないこと」を軸に編成されていることに由来する、と私は考えます。 専門家のための書き物は「知っていること」を積み上げてゆきます。」と書いている。この文章がまた強烈に僕の中に何かを発見させる言葉に映った。そういえば、よく分からない文章には、知らない言葉がたくさん入っている。しかも、その「知らない」言葉は、辞書で意味を調べるくらいでは「知っている」言葉にならないということをしばしば感じた。この「知らない」は、知識として持っていないと言うよりも、概念を理解していないと言い換えた方がいい「知らない」ではないかと思う。問題は概念の理解なのだ。そう感じたとき、仮説実験授業などが、科学入門者である子供たちを、その初心者の段階を抜け出させるために非常に有効な授業であるということの認識がまた頭に浮かんできた。仮説実験授業は、科学的思考を進めるために必要でかつ有効な概念を正しく伝えるための授業だ。それがあるからこそ、科学的思考をすることが出来る。つまり、科学を言葉として記憶するのではなく、ちゃんと思考の段階で扱うという、初心者のレベルを超えた科学の扱いが出来るようになる。内田さんのこの言葉は、僕がもっていた問題意識に対する解答を与えているものとしても読めたので、同じ問題意識を共有していたと言うだけではなく、同じ方向で考えていたと言うことで、自分の考えに自信を持つことも出来た。だから、この冒頭の文章を読んだだけで、僕は内田さんはすごい人だという評価を持つようになった。あとは、その評価に間違いがないことを、その他の内田さんの文章で確認をするということが今まで続いている。その内田さんを通じて、「カフェ・ヒラカワ店主軽薄」というブログを知ることが出来た。ここに書かれていることも、自分が抱いていた問題意識に通じるものが多く、しかも共感出来るものが多いので愛読させてもらっている。ここに「2005.06.24 知性の文体。」というエントリーがあり、ここで紹介されている「ララビアータ 田島正樹の哲学的断想」というブログにも、問題意識の重なりを見るような知的興奮を感じる文章があった。「2005年06月24日 スピノザ的政治」というエントリーの中の次の文章にそれを感じた。「スピノザは、否定的なものを否定する事によって肯定的なものが得られるとは考えなかった。一見否定的なものも、それが存在する限りは、それを取り囲む諸般の事情から理由あって存在し、理由あって存続しているものなのだから、否定的なものだけを手術のように切り取る事などできないのだ。」僕は、スピノザに関しては、その名前以上の何を知っているだろうかと言うくらいの、スピノザに関する初心者だ。しかし、スピノザを知らなくても、「否定的なものを否定する事によって肯定的なものが得られるとは考えなかった」と言うことの意味はよく分かるし、このことを論理学的に考えて、まさにその通りだなと思うことが出来る。このことが僕の心に引っかかるのは、普通の人は、この逆に<「否定的なものを否定する事によって肯定的なものが得られる」と考えている>のではないかと感じる問題意識があるからだ。このブログを持っている田島さんが、わざわざこのことを主張するというのは、僕と同じような問題意識を持っているのではないかと感じて、そこに注目したくなった。僕は、このことを論理学的に捉えて考える。否定的なものを否定すると言うことは<二重否定>としてイメージする。<二重否定>は、形式論理の世界では肯定へと戻ってくる。だから形式論理においては、「否定的なものを否定する事によって肯定的なものが得られる」ことになる。しかし、形式論理の世界というのは、命題の中身については何も言及しない。それが「すべて」を把握出来る数学的命題であろうが、原理的に「すべて」を把握出来ない現実世界に関する命題であろうが、その違いは区別出来ない。命題の中身に関して考えるようになると、そこでは形式論理だけではつかめない世界が開けてくる。僕は、三浦つとむさんから学んだ弁証法論理の世界が開けて来るというふうに考えている。弁証法論理の世界では、<二重否定>は、<否定の否定>であり、それは元のままの肯定がそのままよみがえってくるのではなく、内容的な発展を経て肯定が、質の違いを伴って現れてくると考える。例えば形式論理の世界では、 <世界平和の実現に対する効果がない>とは言えない ↓ <世界平和の実現に対する効果がある>という推論が成り立ってしまう。しかし、弁証法論理の世界では <世界平和の実現に対する効果がない>とは言えない ↓ <世界平和の実現に対する効果がある> かまたは <世界平和の実現に対する効果があるかないかは決定出来ない> (つまり、効果がないだろうと予想したことが間違いだったかも知れない。効果があるかないかには無関係かも知れない。)と捉えることが正しいのではないかと思う。形式論理の世界では、命題の肯定と否定は、形式論理の世界を二分する。それからはずれるものを認めない(排中律)。しかし、現実世界では、その命題の内容を吟味すると、必ずしも世界全体を二分しないことが分かる。<世界平和の実現に対する効果があるかないかを決定出来る対象>全体を集めた世界では、肯定と否定はその世界を二分し、排中律が成立する。しかし、世界を少しでも広げてみると、これが決定出来ない対象が入り込む可能性が出てきて、その世界では排中律が成立しない。<否定の否定>が単純に肯定とはならない。これが弁証法論理の世界だと僕は受け取っていた。論理的思考をするときに、自分がどのような世界で論理を使っているかに気を遣う人は少ない。だから、多くの人は、<二重否定>を単純に肯定にして了解してしまうのかも知れない。それが成り立つ世界で論理を使っているのかどうか、という問題意識を持つ人は少ないのではないか。その問題意識を、僕はこの田島さんの文章の中に見ることが出来た。田島さんの文章の残り半分にも、僕は同じような問題意識があるのではないかというのを感じる。この部分を、「<あってはならないと見えるもの>が実在するとしたら、その実在にも論理的に整合性のある理由を見つけることが出来る」と言い換えることが出来るなら、僕の問題意識と同じだ。これは、実践的な問題意識として、常に持ち続けないと、ドグマのような思い込みによって行動する恐れがあるのではないかと思う。<あってはならない>という思いは、真面目な人にはどうしても生まれてくる思い込みではないかと思うからだ。この思い込みが危険なのは、<あってはならないもの>の存在の理由を明らかにして、その理由の方をこそ改善して、<あってはならないもの>を解決するのではなく、理由などどうでもいいから、とにかく存在そのものを消すことが解決だという短絡的な思考をもたらす恐れがあるからだ。アメリカがイラクのフセインを排除したのは、まさにこのような短絡的思考の危険性を現実に示したものだと僕は感じる。僕がこのような問題意識を持ったのは、三浦つとむさんの言語論を学んだことからと言うこともある。三浦さんの言語論では、否定判断というのは、まず肯定判断が先行して、その判断を否定するという形を取る。肯定判断が出来る対象でなければ否定が出来ないのだ。数学で0を教える場合も、全く何もない状態をイメージして0を教えることは出来ない。0は、入れ物の中に、本来は何かが入っているという肯定判断があるはずなのに、それがないという否定判断を表すものとして0をイメージする。あるはずのものがないのが0なのである。否定そのものとか、無そのものというのは人間にとって想像出来ないのではないか。まず肯定出来るものがあり、その肯定する理由が成立しないところから否定が生まれると考えなければならないのではないだろうか。その否定が再び否定されて肯定に戻るのは、存在する理由が成立したときであって、理由なしに肯定がよみがえると言うことは、現実にはあり得ないのではないか。そういう問題意識を僕は持っていた。田島さんの文章の一部に、僕は自分に似たような問題意識を見ている。この直感が正しいものであるかどうか、田島さんの文章をもっと詳しく読んでみたいと思うようになった。このような人に出会うことによって、自分の世界が広がっていくのだなと思う。世の中にすごいと思える人はたくさんいるものだ。何かのきっかけでそういう人に巡り会うのはとても幸運だなと思う。
2005.06.28
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以下は、もう一つのブログで書いたものの転載。内田樹さんが「2005年06月26日 対偶と教員評価(のあいだには何の関係もありません)」と言うエントリーで当ブログについて触れてくれた文章があった。対偶というものについて語ったあとに、「あるいは私は「それと知らずに」数学的に思考しているのかもしれない(「数学屋のメガネ」さんによると、私の推論形式はけっこう数学的検証に耐えるものらしいから。意外にも)」という文章の中で、触れてもらっていた。このことから、内田さんが僕の文章のいくつかを読んでくれたのだなと言うことが分かる。内田さんに「読んでくれたのですね?」と聞かなくても、 <文章の内容に言及している> → <文章の内容を知っている、つまり読んだということ>という推論からそのような判断が出来る。もちろん、文章を読まずに、誰かから聞いただけという可能性がないわけではないが、自分で確認もしないで、ただ聞いただけの情報から判断するほど、内田さんがずさんな判断をするとは思えない。だから、きっと直接読んでくれたのだろう、と僕は確信することが出来る。内田さんに直接聞かなくても、そのように確信出来るところに論理というものを利用する価値がある。上の推論に対して、僕が内田さんのファンであって、内田さんが僕の文章を読んでくれていたらとても嬉しく思うだろうから、そういう願望が結論に反映しているだけで、少しも論理的ではないという印象を持つ人がいるかもしれない。そう願っているから結論をそうしたいだけだというわけだ。間違った論理を使う人は、自分が求めたい結論をまず設定して、その結論に都合のいいような前提を探してきて、その前提が成り立つから、結論も正しいのだという「詭弁」に陥るときがある。ここでも話題になった <ウナギには戦争をなくす効果がない>という命題は、ある事実から導かれたものではなく、この結論が正しくなるような前提 <「すべての」戦争をなくす効果がない「もの」は、「戦争をなくす効果がない」>を正しいものと設定しなければ、この結論が正しいという推論が出来ない。しかし、この前提には論理的な問題がいくつかある。まず「すべての」戦争と語られている「すべて」が、現実的に把握出来るかどうかという問題だ。「すべて」が把握出来る対象というのは、原理的には、そのすべてを構成するメカニズムが明らかになっている数学的対象についてだけである。だから <「すべての」戦争をなくす効果がない>という判断が、判断として決定可能かという問題がある。また、言葉の定義の問題として、「効果がない」(より本質的には「効果がある」ということ。「効果がない」はその否定)という判断が明確に定義出来るかという問題もある。これは、「効果がある」という判断が個別的にしかできない判断であって、「すべて」を対象にした判断にはなり得ないという感じが僕にはする。このような問題を無視して、上の命題を単に集合に関する命題と捉えたらどうなるか。それは次のようなものになる。 <すべてのxが集合Aに属するならば、そのxは集合Aに属する>これは、集合の包含関係は、自分自身を含むとも言えるという包含関係の定義のようなものとして捉えることが出来る。つまり、形式からいうと<A→A>というような、形式論理的なトートロジーだと解釈することが出来る。数学の世界でトートロジーだから、現実世界でもトートロジーのはずだ、と思いたくなるだろうが、世界が違えば論理が違うといういうのがより厳密な論理学なのである。現実世界では、この集合A自体が明確に決定出来ない場合がある。つまり、前提になる部分の、xがAに属するという判断が出来ない(属するか属さないかが決定出来ない)場合がある。その場合は、この論理を現実に適用するということが論理の間違いなのである。「ウナギ」を巡る問題は、まさにそのような問題だった。僕の推論も、結論が僕を喜ばせるものなので、僕の思い込みだという可能性を否定出来ない。もっとも、そうだと言い切るには、それなりの証明が必要なのだが。単にそう感じるというだけでは、これまた論理的な批判ではない。そこで、僕を喜ばせる結論を否定して、その対偶を取ってみようと思う。 <(内田さんが)僕の文章の内容を知らない、つまり読んでいない> ↓ <(内田さんは)僕の文章に言及することが出来ない>この推論は、「人間は、自分の知らないことについて語ることは出来ない」という一般的な命題を根拠において推論が成り立っている。この一般的な判断を認めてくれるなら、この推論も認めざるを得ないだろうと思う。そして、ここにはもはや僕の願望は含まれていない。むしろ、願望と反対の命題が現れている。何しろ結論の否定なのだから。これは、僕が示したい仮言命題の対偶に当たるものだ。この対偶が正しいと確信出来れば、僕が示したい仮言命題の正しさも同時に示せることになる。こちらを示す方が現実的にはわかりやすそうだ。自分の願望に流されているという批判も避けることができる。対偶を用いるというのは、このように、直接的に証明することに難しさがあるときに使われるのではないかと思う。内田さんが対偶を使って推論を進めるというときも、結論自体が内田さんにとっては都合のいいものに見える場合が多いのではないだろうか。その時に、もし都合の悪い結論であった場合にも、正当な反論が出来れば、都合の良さで結論を選んだのではないということが示せる。そんな感じがする。僕が内田さんの推論を、論理的に考えて正当だと感じるのは、かなり単純な理由から帰結されたものだ。それは、内田さんが語る論理が、現実を正しく把握し、現実を正しく解釈し、そこから導かれる結論が、現実の本質をつかんでいて、それによって未来が予測出来るときなどは、おそらく正しい予測につながっているだろうと感じるからだ。つまり、内田さんは、非常にすぐれた仕事をしているので、すぐれた仕事には、当然正当な論理が含まれていると期待出来るのだと思っている。もし、その仕事がすぐれているにもかかわらず、論理的には正当でないということが証明されるようなことがあれば、論理そのものが、実は現実を正しく捉えることが出来ていない論理なのだということを意味するのだと思う。内田さんの仕事を評価している限りでは、僕の論理では内田さんの正当性を証明出来る、そういう関係になっているのだと思う。僕は、内田さんが書く文章を、現実の世界との対照で、現実を正しく捉えているかどうかを判断し、それが正しいという結論から内田さんを信頼するようになった。あくまでも判断の基準は現実というものにある。現実を正しく捉えている仕事は、論理的に考えても必ず正当性がある、と思っている。それが論理なのだという確信だ。しかし、内田さんの仕事を、現実を正しく捉えていないと感じている人もいるだろう。それは、内田さんとは現実に対する認識が違っているということが原因していることが多いと思う。内田さんが「仕事」というものを語ったときに、現実の仕事というのは、「苦役」となるものの方が多いということで反発している人がかなりいたようだ。これなどは、現実のとらえ方の違いから、内田さんの論理に反対するものだろう。僕は、内田さんが語る「仕事」を、現実に存在する具体的な「仕事」のどれかを指して語ったのではなく、多くの「仕事」という対象を抽象して、一つの抽象として、「仕事」の本質を取り出して、その「仕事」について語ったものとして受け取った。そういう受け取り方をしたので、内田さんが語る「仕事」についての文章は、正当なものだという判断をした。僕は、一応論理を専門にして、ある程度論理操作の技術も身につけていると思っている。そういう人間は、いつも論理的に正しく思考するかというと、そうとは限らない。人間の思考は、常に論理的に働くものではなく、感情に左右されることもあるからだ。論理を知っている、あるいは理解しているというのは、提出された言説(命題)に対して、そこに含まれている論理を分析して判断する技術を持っているということだ。だから、他人の論理を理解するという点では、論理を知らない人よりも、深く正確に理解出来ると思っている。自分で思考を進めるときは、論理の他にも、その対象に対する深い知識というものがなければならない。あらゆる角度から思考を展開するために、知ることの出来る限りの知識を持っていることが大切だ。だから、僕は、自分が知らないことを論じているときは、もっとも信頼がおける人の言うことに耳を傾ける。そして、そのことに深い関心を抱いたら、より深い知識を求めて、今度は自分自身で論じることの出来るレベルにまでいきたいと思う。そういう、知識が向かう方向を示してくれる、信頼のおける人間の一人として僕は内田さんを尊敬している。でも、こんな風に支持していたり尊敬しているということを言うと、僕のことを、「内田さんが語ると言うことだけで、現実の判断をせずに、妄信しているのだろう」と勘違いする人も出てくる。いつになったら、そういう勘違いではない、本当の意味での議論が出来るようになるだろうか、と思う。今のインターネットでの議論を見ていると、勘違いを脱してそういう水準に達しているものを見るのが極めて少ない。これは、日本の論理教育の貧困さの表れなのだろうか。
2005.06.27
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内田さんが第4章で紹介しているのはバルトである。その中心は「記号学」というもので、「記号」というものを「何かのしるし」という意味でまず導入する。しかし、「「あるしるしが何かを意味する」場合にはいろいろな水準がある」ということで、「しるし」というものをもっと細かく分析する。この章の冒頭で内田さんはまず「徴候」と呼ばれる一つの「しるし」の概念を説明する。「例えば、「空いっぱいの黒雲」は「嵐」の「しるし」です。しかし、これはソシュールの定義では「記号」には含まれません。というのは、「空いっぱいの黒雲」と「嵐」の間には、自然的な因果関係があるからです。「稲妻」と「雷鳴」や、「あくび」と「眠気」も同様です。いずれも自然な関係によって結ばれていて、人間の作った制度が介在する余地がありません。これは「徴候」(indice)と呼ばれます。」「徴候」というのは、因果関係がハッキリしていて、その<意味>を知らなくても、類推によって簡単に<意味>を知ることが出来るような存在と考えられるだろうか。社会的な定義を必要としないというのが本質であるように思われる。抽象という面から考えると、具体的な結びつきが表現の中から失われていないので、捨象されていない部分で意味が分かるという感じだろうか。この具体的な結びつきがもう少し抽象されると「象徴」と呼ばれる存在になる。内田さんの説明によれば、「象徴」とは次のようなものだ。「トイレの入り口には、そこが紳士用であることを示す「しるし」として「スーツを着た人型の紺色のシルエット」が描いてあることがあります。(そういう場合は、反対側のドアには「スカートをはいた人型の赤色のシルエット」が描かれているのが普通です。)この看板も「あるしるしが何かを意味する」ことにかわりはありませんが、やはり「記号」とは呼ばれません。これは「象徴」(symbole)と呼ばれます。 「象徴」と「記号」は似ていますが別のものです。というのは、「象徴」は、それが指示するものと、どんなにわずかであれ、何らかの現実的な連想で結ばれているからです。(現に、多くの男性サラリーマンは「紺色のスーツ」を着用しています。)」「徴候」は自然的な結びつきが、その表現するものとの間に連想されたが、「象徴」になるとそれが、自然的と呼ぶにはちょっと難しくなって来るという感じだろうか。上のトイレの表示くらいならまだ易しいが、「てんびん」が「裁きの公正」の「象徴」であるという解釈になるとかなり難しくなる。媒介となる連想が必要になるからだ。<てんびん> → <計量を測定する> → <どちらが重いかを決める> → <正しいか正しくないか、どちらが重いかを決める> → <重さを正確に測る> → <裁きの公正さを示す>このような連想でつながれていると、<風が吹く>が<桶屋が儲かる>の「象徴」になるかどうかという感じになるだろうか。これは、その連想のつながりに無理があるので「象徴」にならないという判断になるかも知れない。「徴候」にしろ「象徴」にしろ、それが表す意味を考えると、それは社会的な約束事として決めるというよりも、そのつながりが、理性的に考えれば見つけることが出来るというような形になっている。これが、「記号」というものになると、社会的な約束事がない限り、それが表す意味が伝わらないということが特徴になるものとして考えられている。内田さんによれば次のようなものだ。「一方トイレのドアに書いてある「紳士用」という文字、これこそが「記号」です。この文字と、「男性はここで排泄を行う」という生活習慣の間には、「人為的な取り決め」以外のいかなる自然的結びつきも存在しないからです。」「ご覧の通り、記号というのは、ある社会集団が制度的に取り決めた「しるしと意味の組み合わせ」のことです。記号は「しるし」と「意味」が「セット」になって初めて意味があります。また、「しるし」と「意味」の間には、いかなる自然的、内在的な関係もありません。そこにあるのは、純然たる「意味するもの」と「意味されるもの」の機能的関係だけです。」このように抽象された対象である「記号」を研究対象にするのが「記号学」である。ここでは、自然的な結びつきが捨象され、「機能的関係」が抽出されて対象化されている。「機能的関係」を持つものだけを対象にして、その間に成り立つ法則を求めるのが「記号学」なのである。この内田さんの説明は、まことに理路整然としていて、解釈としては十分納得がいくものだ。論理的な問題は感じない。しかし、これは一つの解釈であって、解釈として正しいからといって、この通りに現実を受け取って現実を正しく反映する理論が構築出来ると単純に考えるのにはやや躊躇する。それは、僕が全く違う解釈をもう一つ知っているからである。三浦つとむさんが『言語学と記号学』(勁草書房)で、内田さんとは違う解釈で「記号」を捉えているのである。三浦さんは、「徴候」「象徴」「記号」という3種類を、同じように抽象のレベルで区別をして捉えるのだが、これを並列的に3つの異なったものが存在するとは捉えない。これらはすべて「記号」なのだが、抽象の低い段階から、記号の中を分類して呼び方を変えているのだと考える。だから、3番目は、「記号」とは呼ばず、何か他の言葉で示した方がいいのかも知れない。三浦さんがこのように捉えるのは、例えば地図記号を考えた場合、教会を十字架で表すというのは、自然的な結びつきを残している「象徴」と考えられる。ところが一方では、目的地に×をつけるようなものは、目的というイメージは必ずしも×のイメージと重ならないので、内田さん的な意味での、自然的な結びつきがない記号と考えられる。同じ地図に使われるものなのに、「象徴」と「記号」が混在すると考えるのは理論が混乱するのではないかと考えられる。だから、これらは両方とも「記号」なのだが、その「記号」の中でも微妙な分類が出来るのだと捉えるのが三浦さんの解釈だ。目的地に×ではなくてG(ゴールという意味)を書けば、これは「象徴」と言えなくもない。ますます混乱が増してくるような例が出てくるので、「記号」というものを大きな全体集合として考えて、その部分集合として「象徴」を考えた方が理論的にはすっきりするのではないかと考えるのである。これは、どちらも解釈であるから、どちらかが正しいかという判断は出来ない。どちらの解釈も可能だが、どちらの解釈の方が、現実をより深く精密に捉えられるかということが考えられなければならないだろう。内田さんは、記号学が解明する法則性として次のものを挙げている。「言語ばかりではなく、礼儀作法も服装も食べる料理も好きな音楽も乗っている自動車も住んでいる家も、すべては記号として機能します。ですから、記号学というのは、私たちの身の回りのどんなものが記号となるのか、それはどんなメッセージをどんなふうに発言し、どんなふうに解読されるのか……を究明する学問ということになります。」この記号学の定義は、かなり気をつけないと、強引な解釈の基にメッセージを解読するような誤りに陥る可能性はないだろうか。ラッセル・クロウが主演した「ビューティフル・マインド」という映画では、数学者のジョン・ナッシュが本来は暗号が含まれていない週刊誌の文章の暗号を読みとるというシーンがあった。ナッシュは、隠された構造を読みとる能力が異常なほど高いので、偶然構造として現れているものまで暗号として読みとってしまう。それは、意図的に構成した構造ではないのに、暗号という意図的な構造だというふうに読み間違えてしまうのだ。このような記号学では、頭の良すぎる人こそ気をつけなければならないだろう。本来は存在しないものまでが見えてきてしまうということがあるかも知れない。構造のないところにまで構造を見てしまうという、構造主義的な発想を間違えて適用するという誤謬が生まれる可能性が大きい。僕は、やはり三浦さんを師と仰いでいるということもあるのだが、三浦さんが語るような記号の定義で記号学を捉えることが実りのある結果を出せるのではないかと思う。三浦さんによれば、文字言語は、記号のもっとも完成された姿なので、文字言語こそが記号の謎を解明する対象であるというふうに考える。文字言語は、規範という社会的な認識によって、「徴候」や「象徴」が持っているような、微妙な現実とのつながりをすべて抽象したあとに成立したものと考えることが出来る。地図記号のように、いろいろなレベルの記号が混在しているのではなく、高いレベルの抽象による記号を、ほぼ純粋に扱うことが出来る。そのような特徴を持っているだけに、文字言語の解明が、記号一般の解明に役に立つという感じになるのだろう。三浦さんは、「人間の解剖が猿の解剖の一つの鍵になる」という比喩で語っている。これはマルクスの言葉だっただろうか。
2005.06.26
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およそ理論と呼ばれるものは、現実を直接語ったものではない。現実から抽象されてはいるが、現実そのままではない抽象的な対象の世界を設定して、その世界で成立する法則を求めるのが理論と呼ばれるものである。例えば<質点の力学>と呼ばれる理論では、質量が集中している<質点>という抽象的な対象の間に成立する力の釣り合いというものを求める。この質点は、現実にそのままの形では存在しない。現実の物質というのは、その全体の属性として質量を持っている。現実の質量は、物質の全体性として存在しているが、その現実存在のままではなかなか分析が難しい。現実存在というのは、現実のさまざまな偶然性を伴っているので、その条件が複雑になっている。その偶然性を捨象するために、物質の質量が集まっている点を想定するというのは、推論のために有効な方法の一つである。この抽象によって、物質の釣り合いというものだけに的を絞って分析することが出来るからだ。抽象というのは、推論を進めたいものの本質を表現するものを抽出するという意味で行う。そして、抽象の際に捨象されるものというのは、その本質から考えると、必要のないものとして捨てられると考えることが出来る。捨てられるものを理解すれば、抽出されるものを理解することが出来る。抽象の理解というのは、同時に捨象の理解でもある。理論を理解するというのは、このような過程を理解すると言うことだ。もし過程が理解出来なければ理論を理解出来る日はやってこない。そういうときは、出来上がった理論を、文章として記憶するしかないだろう。しかし、そのような理論は、現実には応用出来ない理論になり、無理やり応用しようとすれば、形式面のみを応用するという間違いを冒すことだろうと思う。さて、抽象の理解を考察するために、もう一度、ユークリッド平面の具体的な距離から、抽象的な距離へと至る過程や、その距離を持つ距離空間が位相空間へと至る過程を、何が捨象されているのかという面から見ていこうかと思う。まず、もっとも素朴で現実的な距離を考えると、物差しで測る距離というものが思い浮かぶ。これは、単位を決めて、現実存在に密着させて、その単位の何倍になるかを測定して距離を求めるというものだ。このときに、距離の定義を伝えることは、実際に測定してみせることで出来る。具体的な動作という現実存在によって定義が分かる。これがユークリッド平面の距離と言うことになると、まずは座標というものの導入が必要になる。これは、平面の位置というものを座標という数値情報で表現するという抽象が行われている。具体的なものに沿って物差しを当てるというような状況は捨てられている。この抽象では、具体的な存在が捨てられていると考えられる。このときの距離の定義は、三平方の定理による計算で行われる。位置情報の(x、y)を用いて、これから計算される数値が距離であるという定義がされる。位置情報が抽出されていると言うことは、物差しで測る行為というものが、実は位置情報をつかむと言うことに本質があると考えることも出来る。だからこそそれが抽出され、他が捨てられると言うことになるのだろう。さて、位置情報から計算されていたユークリッド平面の距離が、一般距離空間における距離になると、もはやそれは計算で出されるものではなくなる。それは、空間上の点という、ある意味では位置情報に当たるものを元にするのであるが、それに対し計算ではなく、実数を対応させる一つの関数であるという理解になる。それは、具体的にどのような数値が対応するかは分からない。しかし、何らかの数値を対応させるものとしての関数であると考える。ここで捨てられたのは計算という具体性だ。それでは抽出されたのはなんだろうか。それは、距離の持っている本質が抽出されたと考えられる。ユークリッド平面で確認される距離の性質はいろいろなものがあると思う。その中で本質的なものというのは、どういうものだと考えられるだろうか。それは、他の性質がほとんどすべてそこから論理的に導かれるというものだと考えられる。論理の基になるような性質、すなわち公理としてふさわしいと考えられるものが本質として抽出される。これは、ユークリッド平面の距離の性質の全体像を把握して、その個々の関係をつかんで後に結論として求められる。そして、その結論が、次の抽出された世界では、公理という出発点になると言う関係にある。全体像をつかまなければ、何が公理としてふさわしいかというのを判断出来ないので、全体像をつかんで本質を抽出して、そして新たな世界へと考察を進めていくというイメージだろうか。前回書いた距離空間の公理をもう一度書き出してみよう。1 同じ点の距離は0である。 d(x、x)=02 距離はマイナスにはならない d(x、y)>0(x、yは違う点)3 距離はどちらから測っても同じ d(x、y)=d(y、x)4 二点間を結ぶ距離が一番短い。(三角不等式) d(x、z)<d(x、y)+d(y、z)これこそが距離の本質として抽出されたもので、これ以外の具体的な性質は捨象される。ここで距離に関連した「近い」というイメージについてちょっと言及しておこう。この「近い」というイメージは、距離のもっとも素朴な出発点における現実世界では、感覚として「近い」が定義される。しかし、この「近い」も、数学的世界に取り入れるためには抽象しなければならない。つまり、本質を引き出して、末梢的なものを捨てなければならない。この場合捨てられるのは「感覚」という具体性で、数学の世界では「感覚」に従った判断は行わない。「近い」というのは、具体的な数値を設定して、その数値より小さい距離を「近い」と判断する。このように判断すれば、それは「感覚」のように曖昧なものではなく、誰が判断しても同じ判断になると言う客観性を持つことが出来る。それでは、具体的数値が捨てられて、単に数値を対応させるという関数になった場合は、この「近い」はどうなっているのだろうか。具体的な数値より小さいという「近い」を設定することが出来ない。「近い」という属性は捨てられているのだろうか。この「近い」は、点列の収束という「限りなく近づく」というイメージの中に保存されるように僕は感じる。数学的な表現では、任意の正の数に対応して、この点列のある部分から先の点は全部その任意の正の数よりも距離が小さくなるほど「近く」なるというイメージになる。この正の数は任意であるから、どれほど小さい数を取ってもそれが言えるということになる。この「近い」だけが、距離空間に残された「近い」だ。ここまでは距離の話なので、距離が抽象化されているという了解があれば、なんとか捨てられているものが理解出来る。しかし、ここから位相空間へ至る抽象の過程は、距離そのものが捨てられるという抽象になる。そうすると、なにかの本質が抽象されて、その本質からはずれるものとしての距離が捨てられるという構造を考えなければならない。位相空間というものは、もはや距離の定義を必要としない。それは開集合という、ある部分集合を指定することによって空間に構造を設定するという発想をする。そして、その開集合によって関数の連続性というものを定義する。このことから逆に考えると、<関数の連続性>の本質を抽出して、距離空間では、それが距離によって定義されていたが、位相空間ではその特殊性としての距離を捨象していると考えることが出来ると僕は受け取った。距離空間における関数の連続性は、aに収束するような点列x(つまりaに限りなく近づく点列x)を考えると、f(x)という関数の値の点列もf(a)に収束する、つまり限りなく近づくならば、この関数fはaという点で飛躍がない、すなわち連続だというイメージが浮かんでくる。ここで近づくとか、点列が収束するとかいう性質は、距離空間の特殊性だ。そうすると、距離空間における関数の連続性は、連続性そのものの本質だけではなく、距離空間という特殊性を伴ったイメージになっている。この距離に張り付いた特殊性を捨てることが出来れば、連続性そのものの本質が抽出出来るはずだ。これがある意味では、開集合を基に設定された位相空間での関数の連続性の定義ということになる。位相空間は、近いという属性が抽出された数学的世界ではなく、関数の連続性の本質が抽出された数学的世界なのだと僕は思う。これは次のような論理関係からそのような判断が出来る。距離空間でも、距離を使って開集合を定義することが出来る。そして、その距離を使った開集合の集まりは、位相の公理を満たすものになる。つまり、距離空間は、距離を使って定義された開集合の基に位相空間にもなる。逆に、位相空間に距離が定義出来るとき、位相空間の公理を満たす世界では、位相空間で定義した意味で関数が連続であれば、距離で考えたような連続の意味も同時に成り立つことが証明される。距離が定義出来る位相空間では、位相空間の意味での連続と、距離空間での意味での連続が全く同等になるのである。だからこそ、距離を持たない位相空間でも、開集合を使う関数の連続性の定義が論理的な整合性を持ち、距離空間の概念の拡張、すなわち距離の捨象で、一段高い抽象のレベルに上がったと考えることが出来るのである。距離が定義出来る位相空間なら、距離を使って関数の連続性を考えても同じことだから、それを使ってもいいということだ。しかし、それを使う必要はない、と言うことでもある。開集合を用いる定義が、距離を使う定義の拡張になっていることが確かめられるので、安心して開集合を用いて考えることが出来るのである。最後に一つ付け加えておく考察は、抽象のレベルが上がっていくと、そこで想定されている世界はどんどん単純化されていくが、そこで推論を進めていくことは極めて難しくなっていくということだ。推論を進めていくには、概念と概念との関係がどのようになっているかをつかまなければならないのだが、具体的なイメージのない概念は、思考の中で動かすことが非常に難しい。出来る人がいるのかもしれないが、僕にはとても困難だ。思考の中で概念を動かすには、その概念に張り付いた具体的イメージがどうしても必要だ。だから、位相空間を考察の対象にし、何らかの推論を進めたいときは、全く抽象的な位相空間を設定して推論するのではなく、ある時はユークリッド空間であったり、ある時は距離空間であったりと、具体的なイメージの助けを借りなければならないだろう。そうでなければ推論を進めるということは僕には考えられない。このようなときに、推論を進めるために抽象のレベルを落として具体性を持たせたというのを意識しておかないと、その具体性に付随している特殊性をそのまま抽象的なレベルでの普遍性と間違えることが起きてくる。数学の場合は、抽象がかなり明らかなので、この特殊性と普遍性を取り違える間違いは少ないと思うが、現実を対象にしている理論では、そこに現れてくる対象が現実に存在しているものが多いので、それが抽象のレベルで語っているのか、推論の便宜のために具体性を持たせているのかがわかりにくい。内田さんの「仕事」という言葉に過剰反応している人を何人かみかけたが、あそこで使われている「仕事」という言葉が、どの抽象のレベルで使われているのかを考えるのは、<誤読>をしないようにするために大事なことであると思う。そして、推論を進めているときに出てくる「仕事」は、推論のための特殊性がどの程度含まれているのかを正確に把握しなければ<誤読>になるのではないかと思う。理論における抽象を理解するということは、そのくらい慎重さがなければ、失敗することが多いのではないかと思う。
2005.06.26
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以前のエントリーで、「2005年05月21日 抽象的な文章は抽象的に理解出来るか」というものを書いた。その時に出した結論は、<抽象的な文章を理解するには、その抽象がどのような過程を経て抽象されてきたかを理解し、その判断が、どの条件の下での判断であるかを理解しなければならない、ということだった。すなわち、抽象的な文章は、辞書的な意味でそれを理解するのではなく、抽象の過程で捨象された具体物を理解することで初めて本当の理解が出来る。抽象は、具体との統一という弁証法的なとらえ方をしないと理解出来ない。抽象の理解には、いつでも具体の理解が伴う。>ということだった。文章の誤読を考えてみたときも、抽象の理解の失敗によって誤読していると思われるケースがかなり多いように思う。抽象の理解は、ものを考えるという<思考>の問題と深く関わってくる。これは、<記憶>という、ものを覚えていることとの違いを考えることで、その特徴が浮かび上がってくるかも知れない。まず抽象にはレベル(質)の違いがあるけれど、記憶には量の違いがあるだけということを考えてみようかと思う。三浦さんが語った言語学から学んだのは、言語が使えるということは、それだけであるレベルの抽象が出来るということを意味するということだった。言語というのは、三浦さんの言語学では、対象を認識した頭の中の観念を、他人に伝えられるような形にして表現したものと捉えることが出来る。例えば、大きな猫を見たときに、それが「猫」であるという認識と、その対象が「大きい」という属性を持っているという認識が生まれたとする。その認識は、表現されない限り他人には分からない。顔色を読むことが得意な人もいるだろうけれど、顔色で読めるのは、ごく狭い範囲のものだけで、認識そのものを見ることは出来ないのだ。だから、自分が「猫」や「大きい」を認識したら、それを伝えるには何らかの表現をしなければならない。対象に忠実に絵を描くというのも一つの方法だ。これを言語として「大きい猫」と表現するのは、表現の過程に<抽象>というものが働いていることを意味する。「猫」というのは、特定の対象に対して固有に与えられた名詞ではない。多くの対象に共通な性質を<抽象>して「猫」という概念を作る。その概念に与えられた名詞なのである。つまり、「猫」という言葉を使えるという時点で、あるレベルの<抽象>が出来たということを意味する。日本語を話すことが出来るという人は、最も低い段階ではあるかも知れないが、一つの<抽象>が出来ていることは確かなのだ。もし、個別の対象に個別の名詞を与えなければ表現が出来ない人がいたら、その人は<抽象>を理解していないと言えるかも知れないが、普通名詞が使える人間なら、あるレベルの<抽象>は理解していると言えるのである。この<抽象>がどのように行われているのか反省してみると、多くの対象から共通の性質を<抽き出す>ということをしている。これを抽き出されなかったものの方から見てみると、<捨てられている>という捨象が行われていることを意味する。つまり、<抽象>とは<捨象>のことであり、この対立する二つを同時に把握することによって本当の理解をすることが出来る。<抽象>の理解には<捨象>の理解が必要不可欠だが、<記憶>というものはどういう構造をしているだろうか。記憶というのは、パソコンのメモリーのようなものがそれを典型的に表しているのではないかと思う。ある状態を保つ、刻印されたものを消さないということが<記憶>のイメージだろうか。だからこそ量が重要になってくる。<抽象>の理解は、<捨象>を通じて、その過程を理解しなければならない。しかし、何かを覚えているという<記憶>の方は、過程の理解は必要不可欠ではない。過程を「知っている」必要もない。記号として刻印されていればそれで十分だ。人間は言語を使うことで<抽象>の第一歩を踏み出す。だから、言語で語られることを考えれば、それはすべて<抽象>の問題が入り込んでくる。「考えなければ」記憶だけですむ。しかし、「考える」という行為に及べば、それは<抽象>が関係してくる。その抽象の最高の段階にあるのが数学というものだ。これは、最高にあるから価値が高いというのではない。<抽象>という面から考えて、もっとも徹底しているのが数学だというだけのことだ。だから、数学の理解は<抽象>の理解でなければならない。数学は<記憶>の量がいくらたくさんあっても、それだけでは数学としての役には立たない。役に立つ唯一のケースは、入学試験で役に立つということくらいだろう。これなら<記憶>だけでも役に立つ。位相空間のことがちょっと話題になったので、位相空間を使って数学における<抽象>の理解を考えてみようかと思う。位相空間というのは、普通は開集合を使って定義される、といっても数学を専門にしていない人間にはちんぷんかんぷんだろうと思う。とりあえず、そのストレスをわきに置いておいてもらい、開集合で定義されているということを了解してもらおう。その開集合の定義を「知っている」という<記憶>は、どこかで見た定義の文章を、そのままそっくりに記述出来るということだ。これが出来れば、「知っている」とは言える。しかし、これは<抽象>を理解していることではない。<抽象>を理解するには、その<抽象>が生まれてきた<過程>というもの、つまり、何が「捨てられてきたのか」という<捨象>が理解されていなければならない。位相空間は、具体的な対象の何が捨てられて、何が本質的なものとして抽き出されて生まれてきたものなのか、それがつかめなければならない。位相を抽象する前段階として、距離というものを考えなければならない。これなら、かなり具体性があるので想像も可能だ。距離というのは、もっとも具体的なものは、我々が巻き尺や物差しを使ってはかることが出来る。具体的な対象にくっついている属性としてイメージ出来るので、これは分かりやすいものだ。ただ、距離そのものも抽象を経て作られたものなので、これは、具体的な存在に張り付いているからわかりやすいというレベルの抽象なのだと受け取らなければならない。具体的な存在がどんどん捨てられていくことによって抽象のレベルは上がる。そして、ほとんど具体的な存在がなくなったものが最高度に抽象された対象で、これは非常にわかりにくい。それが位相空間だと言っていいだろう。さて、物差しで測っていた距離から、物差しという具体物を捨てたいとしたら、どのように考えたらいいだろうか。距離の現象の中で、もっとも基本的なものを選んで、それを距離の一般化として捉えるという方向に行くだろう。つまり、距離の他には何も考える必要がないような<距離空間>というものを設定する公理を考えようと言うわけだ。これは、距離空間の全貌がどのようなものになるか、現実の具体的な距離を分析することによって予想し、何を捨ててもいいかと言うことから<抽象>される。そうして次のような4つの特徴が距離の本質だという結論に至る。1 同じ点の距離は0である。 d(x、x)=02 距離はマイナスにはならない d(x、y)>0(x、yは違う点)3 距離はどちらから測っても同じ d(x、y)=d(y、x)4 二点間を結ぶ距離が一番短い。(三角不等式) d(x、z)<d(x、y)+d(y、z)これ以外の具体性が全部捨てられると、距離空間という<抽象>が完成する。数学において、このような抽象が行われるのは、具体的な特殊な性質に惑わされて判断が狂うのを防ぐためである。この距離空間においては、距離が具体的な数字で表されているという特殊性がまだ残っている。この特殊性に伴って、関数の連続性も、「近くの点は近くへ写す」と言うことが関数の連続性のイメージとして残る。関数の連続性というのは、要するに関数のグラフがつながっていると言うことだが、これはつながっているのだから飛躍がない。つまり、近くの点は近くへ写すと言うことが基本的な性質になる。この連続性のイメージは、距離というイメージがなければ考察することが出来ない。距離なしに連続性の考察が出来ないだろうかと言うことを考える。関数がつながっているという特殊性が関数の連続性ではなく、連続性というものの本質を表すような表現がないだろうかということを考える。そのために、距離という概念をも抽象しようとしたのが位相空間だ。位相空間は、距離を捨象してしまったので、距離の具体的イメージで「近くの点を近くの点に写す」という考察が出来ない。だから、この<抽象>の過程が理解出来ないと、位相空間における関数の連続性は全く分からないものになる。それは、もはや目に見える連続性ではなくなるからだ。ここからは、かなり専門的になるのでうまく説明することは難しいのだが、距離を捨象した位相空間で基本的な対象になるのが開集合というもので、空間の中にある部分を設定して、空間そのものに構造を与えて、その構造が関数の連続性を表現するというものを考え出すことが、位相空間へ至る<抽象>だ。そこでは、近い・遠いというイメージはもう使えない。何が連続の本質になるか。それは、点列の収束というもので考察する。ある点列xがaに収束する、つまりイメージとしては究極的にaと重なってしまうと言うことだ。これは、「近い」というイメージがあれば、「aに近づく」と表現出来るのだが、距離を捨象した世界では「近づく」とは言えない。このとき、f(x)が究極的にはf(a)と重なってしまえば、関数fには飛躍がない、すなわち連続していると考えられる。これが関数の連続性の本質だと考えられる。この点列の収束において考えた関数の連続性を表現する方法が、開集合を使う方法だ。基本的には、閉集合という概念を使って表すのだが、開集合は閉集合の否定だから、論理的には同じ条件を設定出来る。大雑把に言うと、 開集合…開かれているというイメージで、境界線がない、つまり境界が属していない集合 閉集合…閉じているというイメージで、境界線がある、つまり境界が属している集合閉集合には境界が属しているので、その中で収束する点列はすべてそこに属することが証明される。開集合は境界が属していないので、境界に収束する点列は、開集合自身には属さない。収束する点列が写したf(x)も写された先で収束してf(a)と重なると言うことは、fで写された点は収束する極限を含めてすべて移された先でひとまとめにすることが出来ると言うことになる。つまり、閉集合を移した先は、そこでもまた閉集合になるということだ。これこそが、関数の連続性の本質を表すイメージだと捉え、それを公理にすることによって位相空間が生まれる。ただ位相空間は、普通はこの対偶を取って、 ある開集合は、関数で写した先を考えてみるとそこもまた開集合になっているという反対のもので定義されることが多い。これは、どうしてその方が便利なのかは、まだ僕も十分了解していないが、証明の便宜のためなどがあるのだろうと思う。しかし、それが分からなくても、関数の連続性というものの本質を表現するための<抽象>という、位相空間の全体像が把握出来ると、その公理がどういう理由(観点)で選ばれているかと言うことが分かる。そのくらいのことが分からないで、適当に公理を選ぶなどという無謀を数学者はしない。数学者は、その程度のレベルで<抽象>というものを理解しているのである。
2005.06.24
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フーコーの最後の章では「性」というものについて語っている。これは、対象としてどのようなものを指しているのかということがまず問題だ。「性行為」というものを指しているのだろうか。「性行為」においてタブーがあるというのは、一つの制度と捉えてもいいだろうか。近親相姦のタブーについても、遺伝的な悪影響は必ずしも言えないという意見もあるらしい。いずれにしても、ある「性行為」に対して、物理的な悪影響が法則的に出てくるのであれば、その「性行為」は物理法則によって淘汰されるだろうが、物理的な影響が出ないのであれば、それは制度によって抑えられていると考えられるのではないか。このような「性」の「零度」について語るのかなと思っていたら、ここでは「零度」についての話題はなかった。それは、「零度」の解明がやはり難しいからなのだろうなと思う。そのかわりに、「性」の表現を巡って、ここでは「権力」というものを分析しているようだ。権力のイメージについては、身近なものはやはり国家権力だろうか。それにはいつも暴力装置が伴って、強圧的な力による支配というイメージが権力には張り付いている。この権力のイメージは、現実に具体的に存在するものから得られたイメージだが、それは、その具体的な権力に属する特殊性であって、権力というものをもっと抽象して、その本質を捉えると、必ずしも暴力装置を伴うものだけが権力ではない、とフーコー(内田さん?)が語っているような感じがする。内田さんは、「「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向性」のことなのです。」と語っている。趨向性というのは、「物事がある方向・状態に向かうこと。また、その方向」の性質というものらしい。データベース化することが権力の本質だというとらえ方だろうか。「性」の話題についても、「性」の制度的な面を考察するのではなく、「性」に関する言説の多さと、それをまとめ上げようとすることがデータベースの構築になり、そのことで権力として君臨するようになるという点を指摘するために提出されているように感じる。「性」に対する言説は、「性」に対する抑圧に対抗するために提出されてきたと考えているようだ。つまり、「性」を抑圧する「権力」に対する「反権力」の言説だった。しかし、それが集積されデータベース化されると、「反権力」だったものが、もう一つの「権力」として君臨するというパラドックスを生み出す。このような指摘がフーコーにはあるのではないか。このパラドックスは、フーコー自身にも返ってくる。「権力批判」をしているといわれるフーコーが、実は「権力」として君臨するというパラドックスだ。内田さんは次のように書いている。「フーコーは「権力批判」の理説を立てた、というふうに要約することはフーコーの本当の意図を逸することになります。フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報をとりまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能すると言うことです。 ですから、そう書いている当のフーコー自身の学術的な理説も、そしてフーコー理論を祖述したり紹介したりしているすべての書物も(もちろん本書も)、宿命的に「権力」的に機能することになります。 現に、フーコーの著作は今では全世界の社会科学・人文科学の研究者の必読文献であり、それを「勉強する」ことはほとんど制度的な義務となっています。院生たちはフーコーの術語を駆使し、フーコーの図式に準拠して思考し、推論することをほとんど強制されています。これこそ「権力=知」の生み出す「標準化の圧力」でなくてなんでしょう。この逸脱をフーコー自身はおそらく痛切に予知していたはずです。」このパラドックスに似たようなものは、宮台真司氏も指摘していたように記憶している。正しい言説というものが、かつてはある意味では「メタ的」(一段高いところから対象を見ている立場)に作用したのだが、現代社会では、その言説自身も、言説の内容から逃れられなくなったというのだ。ある種の批判は、自分自身にも批判として返ってくる。そうすると <この種の言説は正しくない>という言い方が、上の命題にも適用されて、これが正しくないということになると、 <この種の言説は正しくない>というのは正しくないから <この種の言説は正しい>となり、最初の主張と矛盾してしまう。果たして、このパラドックスは、避けることができるパラドックスだろうか。避けることのできない、運命的なパラドックスなのだろうか。フーコーの章の最後で語られているのは、直接的には「性」の問題ではなく、「権力」という制度の問題のように見える。この「権力」という制度の「零度」が解明出来れば、このパラドックスから逃れられるのだろうか。論理の世界では、自己言及するような論理は必ずパラドックスを招くので、「メタ的」な解釈をして、この種のパラドックスを避ける。 「クレタ人は嘘つきだ」と語ったのがクレタ人だとしたときに、そのクレタ人だけは、ここで語られている「クレタ人」からは外しておかなければならない。そうでなければ、これはパラドックスになる。これを、そのクレタ人の都合のいい独りよがりの意見だと受け取るか、「クレタ人」だという立場を離れて、客観的判断が出来たから正しい意見を言えたと受け取るのか、かなり微妙なところだろう。このパラドックスからは、人間は立場から発言することには、原理的には論理的整合性がとれないという教訓が言えるかも知れない。宮台真司氏も、都立大の問題に対しては、利害当事者としてほとんど何も語っていない。しかし、それが論理的には正しい態度かも知れない。自分に返ってくる言説は、深刻なパラドックスを生みかねないからだ。内田さんが、教育について語っていない部分があるという批判がある。これなども、教師という当事者としての内田さんが語ると、その利害関係が立場上パラドックスを生みかねないものがあるかも知れない。第三者的な立場からの発言は、「メタ的」な受け取り方が出来るので、ある種の客観性を持たせることが出来るが、そうでないときは微妙な問題が生じるのではないかと思う。フーコーの「権力」に関する考察は、このような問題も含んでいるものなのではないだろうか。自己言及するパラドックスは構造的なものだという発想が、構造主義というものであれば、構造主義は、見落としていることに気づかせてくれる役に立つものだと感じる。何しろ、これは、考え始めると自分にとってはとても痛い部分をついてくるものだから、出来れば無知のままでいたいという「構造的無知」にとらわれていたい部分だからだ。「構造的無知」は自覚することがほとんど不可能だ。それに気づかせてくれるかも知れない発想は、とても役に立つだろう。
2005.06.23
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フーコーが提出している歴史観というのは、歴史を時間軸の流れに対応した事実の流れと捉えるのではなく、個別的な存在の属性としての<誕生>から<死滅>までの状態を歴史と捉えているような感じがする。この個別的な存在を人間の諸制度として捉えたとき、その<誕生>の瞬間を<零度>という術語で表していると僕は理解した。さて、「狂気」という存在の歴史に続いてフーコーが問題にする存在は、「身体」というものだ。「身体」というのは、一見すると物質的な存在であって、それが「制度」だとは思えない気がする。まずは、これを「制度」としてとらえる見方を考えてみよう。制度というのは、社会的な存在で、辞書的な意味は次のようなものになる。「社会における人間の行動や関係を規制するために確立されているきまり。また、国家・団体などを統治・運営するために定められたきまり。「封建―」「貨幣―」」封建領主そのものという個別的な存在を「封建制度」とは言わない。その個別的な存在が、支配-被支配関係の中で位置づけられて、それがどのような意味を持つかが確立されている構造的な認識を制度と呼ぶような感じがする。そのような仕組みを理解しているとき、「封建制度」という認識が頭の中に出来上がるような感じだろうか。構造を理解するという点では、構造主義には全くふさわしい対象のような気もする。「身体」が制度だという場合も、物質的な身体そのものを指すのではなく、それが社会の中でどのような意味づけをされているかという、構造的認識を捉えて「制度」だというのではないだろうか。「身体」というのは、素朴に考えれば自分の精神の入れ物というような感じがする。しかし、制度としての「身体」は、必ずしも自分のものではないという主張なのではないだろうか。制度としての「身体」は、社会が要求する意味での「身体」という受け取り方をして、内田さんが挙げている「身体」の例を考えてみよう。内田さんは、日本の伝統的な歩行法である「ナンバ」(右足を出すときに身体の右半身が前に出るようになる。相撲のすり足のようなもの)が、西洋式の行進をする「身体」に変えられていったことを、制度としての「身体」の誕生として語っている。「この歩行法は明治維新後に政治主導で「禁止」されることになりました。軍隊の行進をヨーロッパ化するために新しい歩き方が導入されたからです。つま先を振り上げ、かかとから落とし、腕を反対に振ってバランスを取る、新しい歩き方を習得させるために、全国の学校で「朝礼」というものが行われ、子供たちはこの歩き方をその幼い身体に刷り込まれました。」腕と足を反対に振って歩く「身体」は、意図的にそのように作られた「制度」としての身体だったということだ。しかし、「ナンバ」の歩き方を自然に身につけたら、それは「制度」ではないかといえば、これも、社会がそのような歩き方をしているのが普通であるという状態が、ある種の制度として個人に影響して身に付いたとも言える。だから、いずれにしても「制度」としての「身体」ということが言えるのではないかと思う。しかし、西洋式の行進をする「身体」については、その「零度」の状況がかなり具体的にハッキリと分かっているようだ。「ナンバ」の方は、いつそれが始まったかという「零度」を解明するのは困難だが、西洋式の行進の方は、明治維新後に政治主導でされたということがハッキリしている。この「零度」が分かるということは、いったい何が有効性として得られるのだろうか。それは、その制度が現在も残っているとしたら、その制度の現在の社会での位置づけというものが明確になるということではないかと思う。明治政府が、なぜこのような「身体」を作ったかといえば、それは近代化のためであり、具体的には近代的な軍隊を作るためのものだった。西洋式の行進をさせるというのは、基本的な「身体」の動かし方を、近代的な軍隊が必要とする動きに順応させるという直接的な要求もあったことだろう。それに加えて、命令による訓練を経れば、要求するような動きを持つ「身体」に作りかえることが出来るということも大事だったに違いない。命令に従って動く「身体」というものも必要だったのだ。この「零度」が忘れられると、「身体」の意味が後付けされる。きれいに腕と足がそろった行進は美しいという観念が生まれ、行進の訓練は、調和と協力を学ぶものだという解釈が生まれてくる。それに従わない人間は、調和と協力を乱す道徳的な間違いを冒しているという解釈が生まれてくる。軍隊を作るために行われた行進だったら、軍隊を否定した現代日本社会では、その「零度」の考え方は否定せざるを得ないだろう。しかし、それに道徳的な意味を見出すと、道徳は民主主義を否定するものではないので、行進の訓練を強制して「身体」を作りかえても、その問題性を認識することは難しい。もし制度として構造的な変化がもたらされていないとしたら、同じような訓練をしているのは、行進の「零度」の時の精神を隠蔽された形で維持し続けているのではないだろうか。調和と協力を学ぶのであれば、何も全員が一糸乱れずそろっている必要はない。躍動的な動きの中に調和を見ることも出来る。また、それぞれの特性を生かして協力するのなら、同じことをするのではなく、違うことをして協力することも出来る。しかし、調和と協力は、みんなが同じことをすることだと、「身体」に刷り込まれた精神が、頭脳の働きに影響する人もいるかも知れない。このようなことを反省するのに、「零度」というのはまことに役に立つものだと思う。「零度」が解明出来た事柄は、それを反省するのに役に立つ。学校教育に携わっている人間としては、「三角座り」と呼ばれるものの「零度」の考察は興味深かった。「これは体育館や運動場で生徒たちを地べたに座らせるときに両膝を両手で抱え込ませる」座り方だと内田さんは説明している。これをやらされた記憶がある人は多いだろう。これは内田さんの引用によると、次のような意味を持っていることが分かる。「古くからの日本語の用法でいえば、これは子供を『手も足も出せない』有り様に縛り付けている、ということになる。子供自身の手で自分を文字通りしばらせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐに気づく。息をたっぷり吸うことが出来ない。つまりこれは『息を殺している』姿勢である。手も足も出せず息を殺している状態に子供を追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子供の身体へのいじめなのだ。」(竹内敏晴『思想する「身体」』)内田さんは、「生徒たちをもっとも効率的に管理出来る身体統御姿勢を考えた末に、教師たちはこの座り方にたどり着いたのです」と語っている。僕も、その通りだろうと思う。このことは、「零度」を考察しないとなかなか分からない。現在それが行われているから、それが普通なんだと思ったら、「無自覚ないじめ」をすることになるだろう。「零度」の考察は非常に難しい。「身体」の考察において、軍隊式の行進が出来る「身体」や、三角座りに慣れた「身体」は、その「零度」の起源が比較的新しくハッキリ分かっているので解明出来たが、大昔から続いている制度については、その起源を明らかにするのは無理な場合が多いだろう。こういう場合とるべき道としては次のようなものがある。「零度」の考察においては、解明出来るものだけに限って「零度」の追求をするというものだ。解明出来そうにないことについては「零度」は問わないということだ。これは、ある意味で<科学的>な方法だと思う。科学というのは、解明出来ることを少しずつ積み上げて進歩してきたものだ。解明出来そうにないことは、とりあえず科学の対象からは外している。霊魂の存在を解明しようとする科学者がいないのは、それが実りある結果をもたらすようなものにならないと思っているからだ。そんなものに時間を潰すよりは、ちゃんと結果が出ることを先にしようというものだ。構造主義が、解明可能な「零度」について考察をするのなら、「零度」の解明は現在を理解するのに役に立つ。多くは、現在の反省に役に立つようなものになるだろう。しかし、解明出来そうにない「零度」を解明しようとすると、それはある種の逸脱を招く結果につながりそうな感じもする。この逸脱を三浦つとむさんは厳しく批判したのではないかと感じる。「零度」が事実として解明出来ないときは、構造の機能を分析するという方向に行くのではないだろうか。機能は関数化出来るから、その構造の変化については、機能を分析するといくつかのことが分かってくるだろう。構造の変化が分かるというのは、その転回点である「零度」という誕生の瞬間が、関数化した機能から求められるかも知れないと思える。レヴィ・ストロースは、結婚という制度を、女性の交換という機能(関数)によって、構造的に分析したように見える。これは、分析としては見事なものだったのではないかと思う。しかし、関数というのは、パラメーターを増やしたり、次数を上げたりすると、本来の関数とは違うものであっても近似的に現実を表す場合もある。レヴィ・ストロースの分析が本質を捉えたものであるならば、その機能(関数)は、近似的なものではなく、まさにそれにぴったり当てはまるものになるのだろう。その判断は僕には出来ないけれど、機能(関数)の分析は、近似的なものであるかどうかが分からないということは常に伴うのではないか。この近似的なものを、そのものだと思い込むと逸脱になり、構造主義の応用を間違えたということになるのではないだろうか。数学なら、対象になる集合の全体を構成的に把握して構造を分析することが出来る。しかし、現実存在を対象にしている考察は、その対象を構成的に把握することが出来ない。いつ未知の対象が発見されるかが分からない。「零度」の考察においては、この未知の対象がいつでも発見されうる可能性を含めて考察する必要があるのではないかと思う。そのように慎重な態度で応用するのなら、構造主義的な発想も役に立つのではないかと思う。
2005.06.22
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フーコーの歴史観というものを、対象という存在に内在する属性として捉えるものと理解して内田さんの説明を考えてみる。この世に存在するものは、永遠の過去から存在していたのではなく、ある時に誕生したものと考えることが出来る。その存在の歴史は、その誕生の瞬間から始まる。人間の諸制度に関して、特にその誕生の時を「零度」という言葉で捉えて考えるというのが<構造主義>の一つの方法のようだ。これは非常に難しい考察だろう。制度というものは、その存在がハッキリと分かるようになってからは、いつの間にかそれがあったという感覚しかないからだ。クリアーな誕生の瞬間という区切りはおそらくないのではないかと思う。漠然とした前段階が連続して、それこそヌエのように曖昧な存在のものが、ある日突然くっきりと浮かび上がってきたような感じがする。その瞬間は誰にも分からない。フーコーは、「狂気」というものを対象にして、その歴史をたどっているようだ。その誕生の瞬間の「零度」は果たして求められるのだろうか。その瞬間に関してはハッキリしないので、まずはハッキリする違いのあるところからフーコーは(内田さんは?)説明を始めている。「『狂気の誕生』において、フーコーは、正気と狂気が「科学的な用語」を用いて厳密に分離可能であるとする考え方は、実は近代になって初めて採用されたものだ、という驚くべき事実を指摘します。」この指摘が驚くべきことなのは、現在に生きている我々にとっては、「正気と狂気が「科学的な用語」を用いて厳密に分離可能である」という状態が普通だからだ。「昔からそうだったのでは?」という思いにとらわれるのが普通だと思うので、驚くべきことなのだと思う。しかし近代以前は、次のようだったという。「精神病者の「囲い込み」はヨーロッパでは17~18世紀に近代的な都市と家族と国家の成立と共に始まりました。それ以前は、狂人は地域社会においては共同体の成員として認知されており、固有の社会的役割を担っておりました。というのも、狂人は中世ヨーロッパにおいては悪魔という超自然的な力に「取り憑かれた人」と見なされていたからです。」これは、事実として確認出来ることだろうと思う。つまり、「狂気」という存在の歴史には、それが共同体の成員として受け入れられていたという歴史と、共同体から排除される対象になっていたという歴史が存在している。「狂気」そのものは連続しているから、この変化には転回点があるはずである。その転回点の「零度」の状態はどういうものであるのか。「排除される」という制度の「零度」はどういうものだろうか。「零度」の考察と共に僕に関心があるのは、この展開が、必然性を伴ったものであるのか、それとも偶然そのような方向に歴史が流れただけなのだろうかということだ。受け入れられたものが排除されるのは、それ以外のさまざまな存在の関係から、いつ起こるかは偶然かも知れないが、いつかは起こるはずの必然性を持つものであったのかどうか。<構造主義>は必然性を否定するもののように感じるのだが、僕が学んだマルクス主義では、この種の必然性を肯定するもののようにも見える。果たして、どちらが論理的な整合性を持つかということにも強い関心を抱くものだ。まず狂気が受け入れられていた社会的背景を内田さんは次のように語る。「狂人は「罪に堕ちる」ことの具体的な様態であり、共同体内部ではいわば信仰を持つことの重大性の「生きた教訓」としての教化的機能を果たしていたのです。ですから狂人たちが身近にいること、その生身の存在をあからさまにさらしていることは、人間社会にとって自然であり、有意義なこととされていたのです。」つまり、論理的に正当な理由というのがあって、その存在を了解出来るということだ。これは、存在することの必然性を語っているのではないだろうか。三浦さんから学んだマルクス主義的な意味での必然性は、僕にとってはこのような意味での必然性に感じる。理由を語ることが出来るというのが、必然性があるということなのだ。<構造主義>が否定する必然性は、この種の必然性ではないのかも知れない。このように、受け入れられる理由が分かるということは、この理由が消滅したときには、存在の必然性がなくなり、それが消滅して転回点が訪れるというのも論理的に理解出来る。つまり、歴史的な変化の必然性を、僕が理解した必然性という言葉の意味で感じることが出来る。しかし、これが消滅した原因に関しては、その理由が見付からないのかも知れない。そうすると、<転換>の必然性は見つけることが出来るが、<消滅>の必然性は見付からないかも知れない。ここに必然性が見付からないことを、<構造主義>は必然性の否定と捉えるのだろうか。それは、消滅する可能性も、消滅しない可能性も持っていたが、消滅してしまったのは、数ある未来の中の一つをたまたま選んだだけで必然性はないと考えるのだろうか。消滅したことの必然性を語ることが出来るのかどうか、内田さんの説明を見てみよう。内田さんは、「17世紀以後、人間主義的視点が次第に根を下ろすにつれて」「世界は「標準的な人間」だけがすむ場所になり、「人間」の標準からはずれたものは、社会から組織的に排除されることになるのです」と、その変遷を語っている。しかし、その変化が起きた原因についてはなかなか記述が見付からない。なぜ、「標準的な人間」だけがすむようになったのだろうか。どうしてそれからはずれる人間が排除されたのだろうか。危険だからなのだろうか。それを考えるヒントになるのは次の記述だろうか。「狂人は「別世界」からの「客人」であるときには共同体に歓待され、「この世界の市民」に数えられると同時に、共同体から排除されたのです。つまり、狂人の排除はそれが「なんだかよく分からないもの」であるからなされたのではなく、「何であるかが分かった」からなされたのです。狂人は理解され、命名され、分類され、そして排除されたのです。狂気を排除したのは「理性」なのです。」この説明は、とても腑に落ちる感じがする。理解出来ない相手には、ある意味では対処のしようがない。しかし、権威ある考えが、「別世界」から来た「客人」であると教えていれば、自分では理解出来なくても「客人」として扱うことが出来るだろう。その権威ある考えが、宗教であるとか、地域での伝承というものだったのではないかと想像出来る。しかし、理性がそれを理解出来るようになると、その理解に従って対処の仕方が決まってくる。対処のしようがあるので対処してしまうということになる。その対処が、排除という形で現れたと理解すると、この排除には十分論理的な説明がつく。つまり必然性があるとも感じられる。それでは、このように理性が発達して、いろいろなものが明らかにされるようになるのは、歴史の必然性だろうか。人間の理性は、より複雑なものを理解する方向へと進むのが必然性だと言っていいのだろうか。これが必然的なものであれば、人間の歴史は、必然的な方向性を持つと考えられる。僕には、必然性があると考えた方が魅力的な感じがするが、これはなかなか検証が難しいだろう。だから、これは<歴史観>というような<観>の問題になるのかも知れない。これは、僕が長く自然科学畑を歩いている人間だから、このような<観>を持つのかも知れない。自然科学においては、長いスパンでその歴史を眺めれば、確実に進歩していることが分かる。より深く正しく世界の現象を捉えていると確信が出来る。しかし、自然科学以外では必ずしもそうは言えないかも知れない。哲学には進歩がないという人もいる。現代に生きる我々が、ソクラテスやプラトンよりもすぐれた哲学を残しているかは疑問だというわけだ。また、宗教的な「狂信」というものに支配されている人間がいることを、理性の進歩という観点からどう理解するかという問題もあるだろう。理性が進歩の方向を向いているとは、単純には言えないことが分かる。狂気を排除するという制度の誕生の瞬間には、狂気への理解という要因が強く働いていることが内田さんの説明でよく分かった。これを理解することが、この場合の「零度」を理解することではないかと思う。しかし、これは歴史的事実ではない。誰もそれを事実として確かめることは出来ない。これは事実ではなく、推論によって得られた結論だ。しかし、この結論は十分な確信が持てる結論のようにも見える。それはどこから来る感覚だろうか。事実として<狂気の理解>というものと、<狂気の排除>というものが同じ時期にあったということを確かめることは出来るだろう。しかし、同じ時期にあったのだから、必然的な結びつきがあるとは結論出来ない。それこそ偶然同じ時期に存在したのだとも言えるのだから。僕は、この二つが実質的な関連性をもっていて、偶然同じ時期に存在したのではなく、互いに影響し合っているという必然性を持った存在のように見える。しかし、これを偶然と捉えるのが<構造主義>なのだろうか。このあたりの疑問が、内田さんのこの本を読むことで解明されると、本当に<構造主義>を理解出来たと言うことになるのかも知れない。どうなるだろうか。
2005.06.21
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内田樹さんが「2005年06月15日 靖国再論」と言うエントリーで展開している推論部分だけを分析の対象にして考えてみようと思う。これは推論部分の整合性を考えるもので、前提の正しさや、結論の正しさを一応わきに置いておいて、論理の流れの正当性を考えてみようと思う。このエントリーで内田さんは、「小泉純一郎は何を考えているのかについて想像をめぐらせてみることにした」と語っている。つまり、ここで語られていることの中心は、事実を出発点にして、その事実を解釈するというものではないのだ。自分の考えではないから、率直に「こう思う」というようなことを語ることが出来ない。他人が思っていることを勝手に忖度することは出来ないので、ある前提を設定して、その前提にしたがって考えると、論理的にはこう考えるしかないだろう、というようなことをつなげていって推論するしかない。その推論部分が、論理的観点から見て正当性を持っているかどうかを考えてみよう。まずは、内田さんが前提にしているのではないかと思われる命題を、内田さんの言葉から拾ってこよう。1「彼(小泉首相)がまさか「強気に出ないと相手になめられる」というような路地裏政治力学のレベルで日中関係というデリケートな外交的難問に対処するほどに知性を欠いた人物だと私は思わない。」 (これは、事実として小泉首相がすぐれた政治家だと評価しているのではなく、「もしかしたらほんとうに「何も考えていない」のかもしれないけれど、私はこういう場合にはそういう安易な回答への誘惑を自制することにしている」のであって、「自分がその行動を理解できない人間の動機について忖度する場合には、「そこには容易に常人の想像のおよばない深い理由があるのでは・・・」と考える」という戦略的思考としての前提である。)2「日本国首相がA級戦犯が合祀されている靖国を公式参拝することについて、権利上まっさきに異議を唱えるはずの国」は「アメリカ合衆国である。」3「アメリカは小泉首相の公式参拝を彼らの東アジア戦略上「有利」なカードであると評価している」4「「アメリカ抜き」の東アジア秩序の再編はアメリカにとって最悪のシナリオである。」5「靖国問題にアメリカは「すでに」プレイヤーとして参加している」6「日本の政治家の中に、この新しい東アジア共同体の中で中国や統一朝鮮の政治家たちと五分でわたりあえるだけの外交的手腕と戦略的思考を備えた人物はいない」7「小泉首相もたぶんそのこと(6の命題)を知っている」8「小泉首相は独特な仕方でナショナリストである(私はそのことについてはかなりの確信をもっている。かれもまた彼なりに国益を配慮しているのである)。」以上8個の命題を前提と考えて、「だから」で語られている次の命題が結論として導かれているのではないかと思った。結論「熟慮の上で、「中韓の風下に立つくらいなら、アメリカの風下に立ち続ける方が日本国民の自尊心と国民的統合の保持の上ではベターな選択である(アメリカへの服従ならもう60年やっているので、改めて屈辱感を覚えることもない)」という政治的決断を下したのである。」内田さんは、このほかにもいろいろと語っているが、それは上記の9個からの論理的帰結になるのではないかと判断した。また、上記の9個は、他のものからの論理的帰結から得られないと思ったので9個を並列に並べた。もしかしたら他のものからの論理的帰結で得られる命題があるかも知れない。そうであれば、その命題を減らして、前提の数が少なくなる。また、僕が上記の命題から論理的に帰結出来ると判断したものが、実は論理的帰結にはならないということになると、前提はそれを加えて多くなる。いずれにしても、この前提から、結論が論理的に導かれるかどうかが、推論の正当性に関わっている。ここに論理の飛躍を感じずに理解出来る人は、これ以上推論に対する説明はいらない。あとは、この結論に関して、それを直接確かめることが出来なくても、前提の正しさを確認出来れば結論の正しさを信頼することが出来るという論理の役割を感じるだけだ。つまり、小泉さんにその考えを直接聞かなくても、この想像が正しいだろうと判断することが出来るというわけだ。この推論には論理の飛躍を感じないだろうか。僕は、すんなりと腑に落ちる感じがする。これを論理的だと思う。なお、結論部分は二つに分けることが出来る。A「中韓の風下に立つくらいなら、アメリカの風下に立ち続ける方が日本国民の自尊心と国民的統合の保持の上ではベターな選択である(アメリカへの服従ならもう60年やっているので、改めて屈辱感を覚えることもない)」B「(A)という政治的決断を(小泉首相が)下した」Aの判断が上記のいくつかの前提から論理的に導かれる。そして、その程度の論理能力が小泉首相にはあるのだと前提するとBの判断も導かれる。それでは、内田さん自身もAの判断を、自分の判断として提出しているのだろうか。これが僕と、その反対者とがもっとも意見が分かれるところだろうと思う。僕は、この判断は、内田さん自身の判断ではなく、仮言命題として提出されているだけだと受け取る。しかし、僕の反対者は、この判断を、論理的に導かれているのだから、内田さん自身もそう思っているのであり、それが小泉首相を支持している理由なのだと主張したいのだろうと感じる。内田さんが論理的に導き出した判断のAというのは、これが数学的な議論であれば、内田さんが好むと好まざるとに関わらず、論理的帰結は数学の世界では正しいものとして確定する。つまり個人の見解を離れて、その正しさが確定してしまうのだ。これはなぜか。数学的な世界というのは、その前提を任意に設定出来る。設定したもの以外を排除することが出来るのだ。つまり、前提としたこと以外は、もはや前提として入り込んでくる心配がない。その中での論理的帰結だから、それが変わりうる可能性はない。しかし、現実に対する言及は、前提として設定したことが変わりうる可能性がある。前提が変化すれば、当然論理的帰結に影響を与える。知られていなかった前提が発見されれば、それを含んだ整合性を再構築しなければならない。また、前提の一部に間違いが発見されれば、これも論理を修正しなければならない。内田さんが、この判断を仮言命題の形で提出しているということは、これらの前提のみから引き出される論理的結論は、こういうものだろうという提出の仕方をしているのだ。前提が変われば、結論が変わる可能性があるということを自覚しての提出なのだと僕は思う。だから、正確な解釈をすれば、小泉首相がこの前提のみから論理的に判断していると考えると、Aの結論を下すのは、まことに「得心がいく」ということになるのだ。小泉首相が、この前提以外のものを考慮して判断を下せば、もしかしたら判断は違うものになるかも知れない。その時は、「おや?」という感じから、抜け落ちていた前提を発見することが出来るだろう。とりあえず、現段階で小泉首相を「理解する」(その行動を整合的に受け止めて、わけが分からないという受け止め方をしない)というのは、こういう理路を理解するということなのではないかと思う。さて、このような分析で小泉さんを「理解した」あとに行うことは何か。それは、この前提が確かに正しいかどうかを確認することと、この前提以外に前提が考えられないか、あるいはこの前提の中で捨ててもいい前提があるかどうかというようなことだ。命題の中身の分析に進まないとならないだろう。これは論理的にはかなり難しいと思われる。個々の命題の中身に言及していくと、全体の大きな論理の流れからはずれてくるので、論点がシフトしたように感じるし、木を見て森を見ないという現象が起きてきたりする。ある論理の流れの正当性を考える中で、個々の構成要素としての命題の正当性をどのように考えることが論理的に正しいのか、今度はこれを考えてみたいと思う。内田さんへの批判が的はずれに見えるのは、全体の論理の流れの批判ではなく、その一つの命題に関する批判で、全体の批判をしているように見えることが多いからだ。その中心的な主張よりも、個別的な部分の方への関心が強いということは良くあることだろう。自分の関心が強い部分への言及の方がしたいということは良くあることだと思う。しかし、それが当の主張にとっては、本質的なことではないことが往々にしてある。末梢的な部分への議論は、議論を拡散し、本当に主張したいことをぼやけさせる。これが議論がうまくいかない原因の一つではないかと思う。建設的な議論とは何かということを求めるためにも、論理の全体の流れと、個々の命題の正しさという問題を詳しく分析してみたいものだと思う。
2005.06.20
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sheafさんから提出された疑問「「世界にはAがある」、「世界から戦争がなくならない」という2つの命題からは「すべてのAに世界から戦争をなくす効果はない」が演繹できるのではないでしょうか。(蛇足でしょうが、「あるAに戦争をなくす効果がある」と仮定すると「世界から戦争がなくならない」に矛盾し、よって「すべてのAに世界から戦争をなくす効果はない」が導かれます。)」というものが、論理的な分析として面白いと感じたので、ちょっと詳しく考えてみようと思う。これが、面白いと思うのは、一見この考えが正しいのではないかと思えてしまうからだ。しかし、僕には直感的に、「何か変だ」という思いが浮かんでくる。正しそうに見えるのに、「何か変だ」と直感するその思いはどのあたりにあるのかというのを、自分で解明したくなった。これは1 世界にはAがある2 世界から戦争がなくならないという二つの命題から、3 すべてのAに世界から戦争をなくす効果はないという結論を導くというものだ。この推論は、このままではもちろん論理の飛躍が大きすぎて、推論として正しいかどうかを判定することは困難だ。だから、この論理の飛躍をもっと縮めて、この推論が正しい論理形式に則っているかどうかを判断しやすい形に変えなければならない。論理の飛躍を埋めるために、この命題自体が、もっと細かい命題で表現されるようにしてみよう。次のような記号を設定する。 A(x):ある対象xがAである EX(y):ある対象yが存在する W:戦争を表す記号 EF(P):Pである効果を持つこの記号を用いて上の命題を書き換えると1 EX(A)2 EX(W)3 A(x)→非EF(非EX(W))2は、戦争がなくならないというのを、戦争が存在すると解釈した。3において、「すべて」と表現されている部分は、<もしある対象がAならば、それは世界から戦争をなくす(非存在にする)効果はない>というように文言を解釈した。さて、これらの命題は、この形のままでは全く関係のない違う命題で、1,2から3が導かれるという論理的必然性はない。これが導かれるためには、どのような正しい命題がここに付け加わる必要があるのかを考えてみたい。1,2に加えて、いくつかの正しい命題があれば、正しい推論形式に則って、3の形の命題を導くことが出来るかどうかという問題だ。命題論理にはいくつかのトートロジー(常に正しくなる命題)があるが、推移律というものはもっとも有名なもので、 A→BかつB→C → A→Cというものだ。3の仮言命題は、その前提と結論が全く無関係なパラメーターと関数で組まれている。だから、このままでは論理的に導かれるということはないが、その中間項としてBが見付かって A(x)→B かつ B→非EF(非EX(W))ということが示せると、ここから3の命題が結論出来る。果たして中間項のBが見付かるだろうか。僕は、この中間項を2の命題EX(W)にしてみた。つまり、 A(x)→EX(W) かつ EX(W)→非EF(非EX(W))このあとの方の命題は、その対偶をとると 非非EF(非EX(W))→非EX(W)すなわち EF(非EX(W))→非EX(W)(二重否定は肯定に戻る)これを日常言語で言い直すと、4「戦争をなくす効果を持つものならば、必ず戦争をなくすことが出来る」これは、何となく正しそうな気がする命題だ。この正しそうな感じが、sheafさんが提出した問題が、正しそうな気がした原因だと思う。しかし、これは本当に正しいのか。という疑いの気持ちが、僕の中の「ちょっと変だな」という直感なのだ。この変だなという感覚は、「効果を持つ」ということが、形式論理的に確定出来るかどうかという疑問の感覚だ。この命題を中間項として加えて、推論を構成しようとすると、この中間項は、いつでも正しい命題でなければならない。そうでなければ推論の正しさを保つことが出来ないのだ。この命題はいつでも正しいことが確認出来るだろうか。これは、現実との関わりを持つ命題で、その正しさが現実と対照されて決定する命題だ。つまり現実の条件に従って正しさが変わるので、常に正しい命題になり得ない。これは弁証法的な論理だ。つまり、「戦争をなくす効果を持つものが、必ずしもいつも戦争をなくすことが出来たわけではない」というのが現実ではないかということだ。もう一つの A(x)→EX(W)についても考察しておこう。これは日常言語に直すと5「もし対象xがAであるならば、世界には戦争は存在し続ける。つまりなくならない」これは常に正しくなる命題だろうか。形式論理的に、この命題が常に正しくなる場合は二つの場合しかない。Aである対象xが一つも存在しないときは、前提が成り立たないから、この仮言命題全体は真になる。しかし、1でEX(A)としているので、xは一つは存在することになる。そうすると、この命題が真になるのは次の場合しかない。<世界に戦争は存在し続ける。いかなることがあっても戦争はなくならない>これは、仮言命題の結論部分がいつまでも変わらない真理だと主張していることになる。これを主張したい人がいるかもしれないが、これは形式論理的にはもちろん証明出来ないし、未来永劫に戦争があり続けるなどという判断は、現実を生きている、限りある生命の人間に言えるはずがない。つまり、あの中間項を挿入して、形式論理的に結論を導き出そうとすると、<戦争をなくす効果を持つものならば、必ず戦争をなくすことが出来る><世界に戦争は存在し続ける。いかなることがあっても戦争はなくならない>という二つの命題が正しいと主張しないと、形式論理として成り立つとは言えなくなる。「「世界にはAがある」、「世界から戦争がなくならない」という2つの命題からは「すべてのAに世界から戦争をなくす効果はない」が演繹できる」とする考えには、上の二つの主張が内在していると考えられるわけだ。もっとも、この内在は、僕が付け加えた中間項を推論に使うという前提がある。あの中間項ではなく、もっと別の中間項を使えば、もしかしたらこのような主張を内在させないですむかもしれない。しかし、僕は、あの中間項以外に、この演繹を形式論理的に正しくするものは考えられないのではないかと思う。この演繹は、もちろんそのままでは何の正当性も持っていない。全く内的な関連のないものを結んでいるからだ。「存在」と「効果」は全く違うものであり、それに現実的に内的な関連はない。だから、論理の飛躍を埋める中間項はどうしても必要だが、その中間項を入れると、さらに論証が難しくなるだけの推論ではないかと思う。これに比べると、内田さんが語った推論「世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない。 だから、平和憲法は空文である。」には、前提となる部分に、文章としては表現されているのに、実質的効果を持っていないという「空文」の辞書的意味に関することが内在されている。これは、 文章として表現されている…平和憲法が存在する 実質的効果がない…戦争がなくなっていないと解釈している。これは、前提の中に、結論の内容が内在しているから、推論としては間違っていないのである。これは、文章の内容から、その推論の正しさが導かれているが、内在している部分を表に出せば、形式論理的に正しい推論であることを示すことも出来る。ある文章に内在している論理を取り出すのは非常に難しい。しかもその内在している論理が、<戦争をなくす効果を持つものならば、必ず戦争をなくすことが出来る><世界に戦争は存在し続ける。いかなることがあっても戦争はなくならない>というものだったりすると、これが、何となく正しいように思えるものだから、その文章が正しいように見えてくる。しかし、「必ず」とか「いかなる」とか「すべて」という言葉は、現実には証明不可能な言葉だ。これが入り込んでくるような判断は、論理的な間違いをするのではないかと、言葉に敏感になる必要があるのではないかと思う。このような言葉は、形式論理では扱えない。弁証法論理による考察が必要なのだと思う。
2005.06.19
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内田さんは、この本の第3章でフーコーを取り上げて紹介している。そしてその話をまず「歴史」というものから始めている。この「歴史」は学校で習うようなあの「歴史」のことなのだろうか。僕はどうも違うイメージのように感じた。学校で習う「歴史」は、個人とは別に時間の流れがあり、物理的に計れる時間の流れに対し、その計量的な時間の時に何が起こったかという事実を記述していくもののように見える。つまり、個人の観念とは別に歴史的事実があるということを見ていくもののように感じる。個人の寿命というのは短いのだから、長いスパンで事実を見ていくと、このような歴史観で見ていくほかにはないだろうと思う。そして、このような歴史観が普通に学校で教えられていると、「歴史」のイメージはこのようなものから離れることが難しくなるのではないかと思う。しかしそうするとこの章の最初に書かれている「歴史は「いま・ここ・私」に向かってはいない」という言葉の意味が分からなくなってくる。歴史の長い時間の流れの結果として「いま」があるとしたら、それは「ここ・私」に向かっているのではないか。このような疑問を持って、この章の書き出しを見てみると、ある音楽に対してそれをリアルタイムで聴いていなかったものはみんな「昔の曲」としてまとめられてしまうという個人的体験のことが語られているのが引っかかってくる。これが「歴史」とどのように関係しているのだろうか。もし「歴史」が過去に確定された事実の集積であるのなら、古いものをみんな「昔の曲」としてまとめることは出来なくなる。その曲は、何年にヒットしたものだという「歴史」があるだろう。その「歴史」に従って、「何年の曲」というものになり、「古い曲」というものにはならないのではないか。ここで語られている「歴史」というものは、過去の集積ではなくて、現存在の属性として捉えているのではないかという感じがしてきた。それは次のような言葉からうかがえる。「あらゆる文物にはそれぞれ固有の「誕生日」があり、誕生に至る固有の「前史」の文脈に位置づけて初めて、何であるかが分かると言うことを、私たちはつい忘れがちです。そして、自分の見ているものは「元々あったもの」であり、自分が住んでいる社会は、昔からずっと「いまみたい」だったのだろうと勝手に思い込んでいるのです。」存在するものの誕生を「歴史」の始まりと見、いつか訪れる死滅を「歴史」の終わりと見ているのではないだろうか。そのような歴史観を持つと、「元々あったもの」のように見えたものが、いつ誕生したのかという関心を持って眺めることが出来るのではないだろうか。フーコーは、このような「元々あったもの」というような思い込みを粉砕することを目指していたと内田さんは語る。つまり、ものの「歴史」というものを強く意識することを自らに課したのではないだろうか。このような意識は<構造主義>とどのような関連があるのだろうか。内田さんは、「構造主義とは、一言で言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であるということも出来るでしょう。」と語っている。ここで「零度」と言っているのは、「ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的な価値判断が混じり込んできて、それを汚す前の「生の状態」のこと」と説明している。ロラン・バルトの作った術語だという。そのものが誕生した瞬間というのは、それを目撃した人間はもはやいない。記録として残っているものも、必ずしも全貌を伝えるものではない。だから、「零度」というものは極めて解明しにくいものになるだろう。その解明のために<構造主義>が役立つと言うことだろうか。フーコーは進歩主義的な歴史観にも反対するという。これは「零度」を求める発想から必然的に導かれるものなんだろうか。進歩主義的な歴史観というのは、ごく自然なものだと思う。古い時代よりも複雑化し発展してきたと思えるものは数多い。科学などは、確実に新しい科学の方が進歩しているように見える。もちろんすべてがそうであるとは限らない。全く進歩していないように見えるものもあるし、むしろ退歩しているように見えるものもある。だから、進歩しているばかりでないよ、というのもごく当たり前の見方のように見える。しかし、フーコーが進歩主義に反対するというのは、そのような素朴なものには見えない。内田さんの「世界は私たちが知っているものとは別のものになる無限の可能性に満たされているというのはSFの「多元宇宙論」の考え方ですが、いわばこれが人間中心主義的進歩史観の対極にあるものと言えます。 フーコーの発想はある意味ではこのSF的空想に通じるものがあります。」という言葉を参考にして想像してみよう。フーコーにとっての歴史とは、いくつもの可能性がある中から、たまたま選ばれたという偶然性に支配されたものに見えているのではないだろうか。つまり、常に進歩の方向を向いているという必然性はないと考えることが、進歩主義に反対すると言うことなのではないだろうか。三浦さんから学んだマルクス主義的な歴史観では、確かに現実のもっている偶然性というものはあるけれども、その偶然性を貫く必然性というものが歴史にはあるということだった。それが僕が学んだ歴史観だった。だから、必然性のない、すべてが偶然に支配されているような歴史観は、今すぐにそれに賛成することは出来ない。歴史を決定する要素に必然性というものは本当にないのだろうか。内田さんは、フーコーの歴史観に対してその特徴を次のように語る。「フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずに来たか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。 その答を知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点--出来事の零度--にまで遡って考察しなければなりません。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「いま・ここ・私」を「カッコに入れて」、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーはニーチェの「系譜学」的思考から継承したのです。」偶然実現されなかった歴史を考察することで、「零度」というものに迫ることが出来るのだろうか。それが<構造>とどのような関わりを持つのか。ソシュールまでの説明では、<構造>との結びつきをイメージしやすかったが、フーコーに至って、<構造>との結びつきはひどく難しいものになった。歴史の進歩性の否定もまだ腑に落ちない。論理的必然性が、歴史にも貫いているという、三浦さん的なマルクス主義が僕の中にはまだ残っているようだ。「零度」の状態が解明出来ると、何が可能性として失われたのかと言うことが分かる。しかし、その可能性が失われたことに対して必然性はないのだろうか。すべてが必然だという決定論は間違いを導くが、すべてが偶然だという考えも間違っているのではないだろうか。それとも、すべてが偶然だと考えるのは、フーコーの考えではないのだろうか。必然性も存在すると考えているのだろうか。その必然性こそが<構造>になると考えているのだろうか。フーコーからは疑問だらけという感じだが、この疑問が先を読み進めていくことによって解明出来るのだろうか。入門書とはいえ、<構造主義>はやはり難しい。
2005.06.18
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これもよそに書いたものの転載。内田さんは、「2005年05月02日 またアンケートが来た」というエントリーの中で、「『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいけば私は靖国参拝を支持する。」と語っている。この言葉をKENさんは、次のように受け取っている。「一般論としては理解=支持ではないですが、この一節により、彼の場合は理解=支持であると読み込んで間違いないでしょう。」内田さんが「2005年06月15日 靖国再論」で小泉さんの考えを論じたのは、「誰も私に代わって想像してくれる人がいないようなので、自分で小泉純一郎は何を考えているのかについて想像をめぐらせてみることにした」からである。つまり、あの論理は内田さんのものであって、小泉首相のものではない。内田さんが得心したのは、自分で得心するように論理を構成したからであって、小泉さんの説明を聞いて得心したのではないのだ。小泉さんが内田さんと同じ思考で靖国参拝の意味を説明するとは限らないのである。つまり、内田さんが小泉さんを支持するという前提条件はまだ満たされていないのだ。これを「得心した」という事実だけから「小泉さんの靖国参拝を支持している」と判断すれば、それは論理的な誤りだと僕は指摘している。もし内田さんが小泉さんを支持していると主張するのなら、それ以外の根拠を示さなければならないのが論理的に正当なやり方だ。内田さんの得心を端的に言えば、小泉さんにはアメリカの子分として振る舞う方が国益として大きいという判断が働いたということだ。内田さんは、「2004年03月31日 国益と君が代」の中で「「国益」とは理念的に言えば、国民の生命幸福自由の確保のことであり、リアルに言えば、実効的な法治と通貨の安定のことである。」と語っている。つまり、アメリカの子分でいた方が、「国民の生命幸福自由が確保出来」「実効的な法治と通貨が安定する」と判断していることになる。これは内田さんの判断だろうか。これは、内田さんが想像した小泉さんの判断だと僕は思っている。小泉さんが、このように判断しているのなら「得心」するというわけだ。これが正しいと内田さんが判断しているわけではない。正しいかどうかは結果を見てみないと分からないが、一応の理由としては納得がいく。だから、結果を見てそれをまた考えてみようということだと思う。もし小泉さんがこのように説明してくれたら、結果を見るまで待つというくらいの支持は出来るだろうということだと僕はこれを受け取った。しかし結果が間違っていることが分かったら、それはすぐに批判されるべきだとも思う。小泉さんがこのような説明をするということは、小泉さんがどの方向へ進んでいるかを明らかにするということだ。そして、それが明らかにならなければ、小泉さんが正しいのかどうかも判断が付かないので、明らかにする義務があると思う。それが政治家としての義務だと僕は思うのだ。内田さんの得心を、僕はこのように解釈するので、得心=支持とは考えないのだ。同じような説明を小泉さんがしてくれるのなら、一応実験結果が出てくるまでは待ってみようということだと思う。アメリカの子分でいた方が、この先も国益が大きいのかどうか。アメリカの子分でいた方がいいという説明は、真正右翼にとっては許せない判断だろう。だから、小泉さんがこのような説明をするのが苦しいというのはよく分かる。しかし、苦しいからやらないというのは、政治家としての責任を果たしていないことになるのだ。苦しいから避けてもいいというのなら、人間はいくらでも逃げていくだろうし、誰も責任をとらなくなるだろう。そういう意味では、KENさんの次の言葉「さらに説明責任についてですが、私が再三再四、これを国民に説明するのは苦しいとコメントしているのは、そのような説明を軽々とできるはずもなく、この点においても反対理由は無効であるということを暗に指摘したかったからです。」というものには全く賛成出来ない。論理的に言っても、反対理由が無効になる根拠は何もない。反対理由が無効になるのは、例えば次のような場合だ。ある会議で議決決定の条件が、総会において3分の2以上の賛成が得られていれば決定するとされていれば、この条件が成立してさえいれば決定は有効だ。これに反対したい人間がいて、例えば、「その場に自分がいなかったから決定は無効だ」と主張したとしよう。つまり、「そんなことは聞いていない」とごねたというわけだ。これは、規約の中に、その個人がいなければ決定出来ないとでも書いてあれば、この反対は有効になるが、そんな規約がなければ反対は無効になる。反対として正当でないと言うことが、無効になることの根拠だ。しかるべき規約の下に反対しなければ、その反対は有効でないという条件があるとき、その規約に従った反対でなければ無効なのだ。有効とか無効とかは、そういうものであって、ごく普通の個人的な意見の表明に対して判断出来るものではない。この場合、無効という判断の根拠はどこに置いているのだろうか。小泉さんが説明するのは苦しいという、小泉さんの心情を配慮して無効にしたいのだろうか。そうだとしたら、ずいぶんと小泉さんには親切な配慮だなと思う。とにかく、どんなに苦しかろうとも、小泉さんが自らの言葉で靖国参拝の正当性を、国益という観点から説明し、それが得心がいかなければ、内田さんは小泉さんを支持出来ないのだ。いくら、死者を哀悼するという心情をのべても、それが国益とどう絡むのかが説明されない限り、内田さんの、小泉さんを支持するという条件は満たされない。また、内田さんが想像した小泉さんの思考は、戦略的に考えたもので、その通りに小泉さんが説明してくれるという保証はない。あくまでも想像の中の話だ。もしこういう話をしてくれれば得心するのにということに過ぎない。KENさんは「内田先生自身、最初のエントリで小泉首相を支持する条件というのをみずから設定されており、今回の論考においてこれが満たされているように「みえる」以上、その枠組みにおいては、結論が支持しているとならざるを得ないと考える」と語っているが、僕はその条件はまだ全く満たされていないと判断している。内田さんの得心は、あくまでも想像の中で、内田さんが作り出した小泉さんの言葉に得心しただけのことなのだ。現実には、まだ得心していない。靖国参拝そのものの是非は、条件によって違う判断が出てくるものだ。外交上の判断と内政上の判断には食い違いが出てくるだろう。だから、内田さんも、このことそのものの判断は保留しているものと思う。ただ、小泉さんがどのような判断をしているかを、国益という観点から判断をしているということが得心出来るのなら、政治家としての務めを果たしているという意味で支持出来ると言っているのだと思う。KENさんが語っている「当初の先生の隣国との友好と精神的参拝というある意味国民みな認識しているレベルの議論から急にこの外交戦略というところに論点が飛躍したのを観察していて、わたしは失礼ながら先生が当初のナイーブな見解から少し掘り下げたレベルの論考へ前進されたんだと思います。」ということも、僕は全く受け取り方が違う。「隣国との友好と精神的参拝」というのは、靖国参拝そのものの是非を巡って対立する二つの軸になっている。これは、それぞれの立場に立つ限り相容れない矛盾として、解決出来ない難問として横たわる。しかし、これを「国益」という観点から考え直してみれば、この対立に一つの決着をつけることが出来る。論点が飛躍したのではなく、そのままでは解決出来ない問題を、解決が出来る形に設定し直したというのが僕の受け取り方だ。つまり、解答の出ない実りのない議論を、解答の出る実りある議論に転換しようと言うのが内田さんの意図で、それは最初から変わらず保たれているものだと僕は思う。内田さんは、最初からこの問題を極めて論理的に捉えているのだと僕は受け取っている。だからこそ、小泉さんを論理的に批判しているのだと思う。
2005.06.18
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これも、引き続きよそでの話題の転載。「靖国問題の論理的な考え方」と言うエントリーに、KENさんという方からたくさんのコメントをもらった。その中のいくつかの疑問に答えていきたいと思う。ただ、その答え方は、論理的な問題として受け取って、論理的な問題として解決するために答えるという方向を取る。論理以外の要素に関しては判断を留保する。それは、論理なら客観的に正しい方向を見出すことが出来るが、それ以外は個人的な見解というものになってしまい、見解の相違と言うことであれば、いろいろな見解が並立すると思うからだ。さて、最初のコメントには、「内田さんのこの結論だけを取り上げて、内田さんが小泉さんを「理解している」のを、小泉さんを「支持している」と勘違いする人がいるとしたら、やはり仮言命題の無理解というのを僕は感じる。内田さんが、どのような前提で推論を進めているかをもう一度注意深く読まないとならないだろう。」という僕の文章に対して、「おそらく私のことだと思われます」とKENさんは受け取っているように書かれている。この文章を僕は誰か特定の個人を指して表現をしたのではない。そもそも僕は、個人を取り上げる時も、その特定の個人に属する事柄で取り上げると言うことがないようにしている。あくまでも論理の問題として考えたいので、その個人が提出したという関係はあっても、一般論として設定し直して考察の対象にすることにしている。それは、個人的な事柄を考察してもあまり実りはないと思うからだ。内田さんが語ることを考察するのも、内田さんと結びつけてその内容を考えるのではなく、内田さんが語る対象を一般論として受け取って、その一般論に妥当性があるかというのを僕は考える。内田さん自身がどのようなイデオロギーを持っていて、どのような個人的な思いを抱いているかにはあまり関心がない。現実の対象の説明として、論理的に妥当性があるかどうかということが僕の最大の関心事なのである。そういう意味で、内田さんの文章を論理的に間違って受け取っていると思われるものは気になるし、一般論から言って、「結論だけを取り上げて」他の部分を無視すれば、内田さんが小泉さんを支持しているかのように勘違いする人がいるかもしれないと、論理的な判断としてそう思った。KENさんは、「結論だけを取り上げて」そう考えているのではなく、内田さんの他の部分も総合的に受け取って、結果的に内田さんが小泉さんを支持していると考えているように見える。だから、僕が語ったように、「結論だけを取り上げて」間違えている人ではないと思うのだが、「内田さんが小泉さんを「理解している」のを、小泉さんを「支持している」と勘違いする人」という部分に過剰反応したのではないかと思う。他の理由があって、内田さんが小泉さんを支持しているように見えるというのは、その理由に正当性があるのなら、論理としては何も問題はない。問題は、論理としての正当性を持つかどうかと言うことだ。「結論だけを取り上げて」判断をするのは、論理として正当ではないという一般論を僕は語っただけだと言うことをまず感想としてのべておこう。「どのような前提で推論を進めてこられたかということを注意深く読んで見ると、微妙に先生の論点がシフトしてきている」という意見に関しては論理的な内容なので、論理的な判断を語ることが出来るが、それを理解し合うことに少々の不安を感じる。一つは「論点がシフトしている」という判断をどのような観点で行うかというものだ。論理というのは、最も小さい単位の仮言命題と、ある複雑な現象に対する総合的な判断の仮言命題とがある。どのような前提で、という前提は、どの範囲の論理を問題にしているかで変わってくる。また、論点のシフトというものも、全体の大きな問題へと論理が転換する時は、むしろシフトするのが当然で、それは正当なシフトということになるのだが、その判断はかなり難しい。正当なシフトを正当と思えないと、論点をすり替えたという錯覚に陥る場合もある。例えば三平方の定理を証明する時、直角三角形のそれぞれの辺の上に作った正方形の面積の計算でこの定理を証明する時がある。このとき、部分的に「底辺を共通にする平行四辺形は、高さが等しければ面積が同じになる」という仮言命題を適用する。このとき、定理そのものの大前提は三角形が直角三角形であるということだが、この証明の部分では、前提は「底辺を共通にする平行四辺形の高さが等しい」という前提になる。これは、大きな目的である三平方の定理の証明のためには、小さな目的の証明を積み重ねていくことになるのだが、その時に小さな目的の証明では微妙に論点がシフトする。しかし、これは後になってちゃんと大きな目的に帰ってくるようにシフトしているので、正当なシフトということになる。複雑な問題を扱うと、このあたりの判断はかなり難しくなる。だから、KENさんの文章のように、抽象的な言い方をしているだけでは、そのことが正しいのか正しくないのかの判断は出来ない。真であるかどうかが決定出来ない命題になる。KENさんは、このシフトに問題があると見ているようだが、僕にはどこが問題になるかがハッキリしない。大きなテーマの問題としては、<小泉さんが説明責任を果たしていないことが、政治家としての信用性を失わせているので、靖国参拝に関しては支持出来ない>という主張だと僕は思っている。このテーマに関しては、内田さんは論点のシフトはない。この大テーマを説明するための小テーマでは、さまざまな論点が顔を出しているものの、それはすべてこの大テーマにつながっているもので、そのシフトには正当性があると僕は思っている。KENさんが問題にしている論点のシフトは、次の二つの文章「このとき先生は、隣国と正常で友好な外交関係と国民統合のための儀礼、精神的なものを天秤にかけて論じられております。さらにその政治決断について国益の観点から論理的な説明責任を果たしていないという一点で小泉首相の参拝に反対されております。」「ところが、直近のエントリでは、前述の天秤>説明責任といった反対理由はまったく影を潜め、外交の話に全シフトされています。このエントリでは前述の反対理由は完全に無効化されてことはお分かりになるでしょうか?」に現れている「国益の観点」から「外交の話」へのシフトが、論点のシフトとしては正当性を欠いているように見えるのだろうか。これは、僕には少しも不当なシフトには見えない。論理的なつながりが見えるからだ。「国益の観点」というのは、政治家の役割と言うことから論理的に導かれたものである。現実の政治家がそのように振る舞っているというのではなく、政治家の行動は、個人的な心情に基づくものではなく、選挙によって民意を代表したと言うことから推論して、個人の利益ではなく、大多数の利益、すなわち国益を図るのが政治家の務めだと言うことが出てくる。だから、政治家を評価する、つまり政治家を支持すると言うことは、この国益を第一に図っていると言うことを納得させてくれる説明責任に求められるからこそ、内田さんは、小泉さんを支持する条件として上のようなものを挙げたのだと思う。この国益の中には、いろいろと複雑な内容が入っている。国民感情を満足させるというのも一つの要素だし、外国との関係を良好に保つというのも一つの要素だ。そして、その要素同士が対立する時に、どちらかをとらねばならないという実践的要求が出た時、両方を天秤にかけると言うことも出てくるだろう。これは、政治家でなければ、自分の感情の赴くまま、つまりどちらか好きな方を選んでも問題がないという場合もある。思想信条の自由というものがあるのだから。しかし、政治家であれば、自分の感情を抑えてどちらが国益にかなうかを慎重に判断しなければならない。現実の選択としては、小泉さんは中国という外国との関係の良好さを保つよりも、靖国に参拝することが一つの心の慰めになるという国民の感情を優先させたように見える。しかし、これは国益という観点からは必ずしも賛成出来ないと言うのが内田さんの考え方ではないかと思う。これは、小泉さんはそういう人間だから、と単純に小泉さんを理解していれば、小泉さんは判断を間違えていると済ませておけばいい。しかしもしかしたら、自分が考えてもいなかった深い理由で、実は国益の方を重視して、あえてそうでないように見える道を選んでいるのかも知れないと考えてみた、と内田さんは語っているように僕は感じた。その考察が、中国との関係を悪化させてまでも靖国参拝を強行するための整合的な理由の追求だったと思う。そして、もしも次の前提「「アメリカ抜き」の東アジア秩序の再編はアメリカにとって最悪のシナリオである。いかなる手段を用いても、それを阻止し、ブロック内の最重要メンバーとして東アジアにとどまること。これがアメリカの戦略のとりあえずの「基本方針」である。」「「アメリカのコミット」がない限り世界秩序は安定しない」「小泉首相が靖国参拝に固執するのは、彼もまたこのアメリカの東アジア戦略に「同意」しているからである。」「東アジア共同体の創設はただちにアメリカの極東における軍事的プレザンスの後退を意味する。」「在留米軍基地を失った日韓は、現在の国力を比較するなら、「中国の圧倒的な軍事力」の前に政治的にも圧倒される可能性が高い。」「日本の政治家の中に、この新しい東アジア共同体の中で中国や統一朝鮮の政治家たちと五分でわたりあえるだけの外交的手腕と戦略的思考を備えた人物はいない(それだけは確言できる)。」が正しいのなら「中韓の風下に立つくらいなら、アメリカの風下に立ち続ける方が日本国民の自尊心と国民的統合の保持の上ではベターな選択である(アメリカへの服従ならもう60年やっているので、改めて屈辱感を覚えることもない)」(以上「2005年06月15日 靖国再論」より)という政治的判断も導かれるだろうというのが、内田さんの仮言命題としての予想だ。このような論理の流れなら「そういう理路なら私にも「納得がゆく」」と言うことになるのである。つまり、この外交問題の考察は、国益というものとつながっての考察なのだ。この論点のシフトは国益の問題に帰ってくる正当なシフトなのである。なお、内田さんが語っているのは仮言命題なので、その前提がすべて正しいと言うことが分からなければ、結論が成立するとは言えないものとして受け取らなければならない。つまり、この仮言命題は、実は対偶として受け取るのがその正しい受け取り方だろう。ある条件が満たされていれば「小泉さんの靖国参拝を支持する」というのは、「小泉さんの靖国参拝を支持しない」のは、いくつかの前提条件が満たされていないからですよ、と受け取るのが論理として正しい受け取り方なのである。以上、とりあえずいくつかのコメントにお答えしたが、論理的に関心を引くものはこのような考察をしていこうと思う。
2005.06.18
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これも他の所で書いた文章だ。僕が数学を専門的に勉強し始めた時に面食らったのは、定理の証明に「自明」と書かれていることだった。定理とは、確かに数学的に正しい命題ではあるのだが、それが正しいことは明らかであって、考えるまでもないことだと言われると初学者としては途方に暮れてしまう。証明の記述というのは、正しい推論を追うことなのだが、それは、読む人間のレベルに従ってもっと親切に書かれるべきだといつも思っていた。例えば「二等辺三角形の両底角は等しい」という定理を考えた場合、これは「自明」だと言って安心していられるだろうか。この「自明」というのは、「見りゃわかるじゃないか」という意味での自明ではないのである。数学は、見るという感覚を信用しない。そこには錯覚があるかも知れないからだ。あくまでも論理として正しいものが「自明」であるとはどういうことなのかを考えなければならない。二等辺三角形の属性の中に、最初から「両底角が等しい」という性質が入っているのなら、これは考えるまでもなく「自明」だと言ってもいい。例えば、「二等辺三角形の2辺は等しい」というような命題があったら、これは考えるまでもなく正しいことで「自明」だと言える。なぜなら、これは二等辺三角形の定義そのものだからだ。だが、「両底角が等しい」という性質は、最初から主張されているものではなく、観察の結果として得られるものだ。つまり、「ある三角形が二等辺三角形だった ↓(ならば) 両底角が等しい」仮言命題として推論の流れがある。この推論の流れが論理的にすぐ理解出来る人は「自明」だと言ってもいいだろう。しかし、この流れがすぐに分からなければ、「自明」ではないのだ。そこで、この推論が自明でない人は、流れを自明なものにするために中間項を挿入することになる。この定理を初めて証明したギリシアのターレスという哲学者は、二等辺三角形を裏返して重ねることによって証明したという。だから、それを中間項にすると、「ある三角形が二等辺三角形だった ↓(ならば) その三角形を裏返しにしても、元の三角形に重なる ↓(ならば) 両底角も重なるから等しい」という推論の流れになる。ここでこの仮定と結論のつながりが細かくなって、それぞれが自明になれば、全体の推論の流れも自明に思えるようになってくる。しかし、これでもまだ厳密さが足りないと思えば、これをもっと細かいつながりになるように中間項を入れていくだろう。重なるという部分が数学的に曖昧だと思えば、三角形の合同条件をきちんと定義してそれを中間項として入れていくだろう。このように、数学においては、推論の中間項が入ってくる論理的必然性というのは、論理の流れの自明性を確実にするためである。その推論の正しさを、確実に正しいと納得するために中間項を挿入する。中間項の挿入は、推論の正しさを補強するために行うのであって、間違った推論に対しては挿入することの必然性はない。sivadさんが「2005-06-08 レトリックの効用 」というエントリーで展開した論理は、内田さんの推論の正しさを補強する意味で中間項を挿入したわけではない。むしろ、その中間項を挿入することによって、論理的な矛盾を起こすことを僕は指摘した。矛盾を起こすような中間項を挿入することの必然性は論理的にはないのだ。もし、矛盾を起こすような中間項を挿入して、その論理を批判するのであれば、その中間項を挿入した人間の論理の間違いを批判しなければならない。誰がその中間項を挿入したのか。内田さんがそれをしたのだったら、内田さんが批判されなければならないだろうが、それなら、内田さんがどこでどのようにしてその中間項を挿入したのかを具体的に指摘出来なければならない。僕は、そういう具体的な個所は、内田さんの文章からは見付からないだろうと思っている。sivadさんが勘違いしているだけだろうというのが僕の感想だ。outisさんから「中間項は付け加えられるのではなく、暗黙裡にはじめからあるんですってば」というコメントももらったが、もしそうであると主張するのなら、これは証明しなければならないことであって、この主張に自明性はない。内田さんの文章の「世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない。 だから、平和憲法は空文である。」というものに、sivadさんが付け加えた「平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである。」を中間項として推論を進めると、この中間項からは、平和憲法は書いてあることが現実に効果を発揮しているという判断が出来ることになり、「平和憲法は空文ではない」という結論が導かれる。一方では「空文である」と語りながら、もう一方で「空文でない」と語る矛盾を冒すことになる。つまり、この中間項を付け加えなければ破綻しなかった論理が、これを付け加えることによって破綻するのである。破綻する命題を何故に付け加えなければならないのか。その論理的必然性は何か。これが証明されなければ、「暗黙裡にはじめからある」と言われても、その言葉を信じることは出来ない。内田さんの論理には破綻はないのだ。よけいな中間項を付け加えることによって破綻しただけなのだというのが、僕の批判だった。ついでのことながら、outisさんの次の文章にも言及しておこう。「実際、あなたの説明も実質的に中間項「平和憲法は世界平和を目指すものである」が導入されてるじゃないですか、といっているんです。」人の言葉を引用する時は正確にした方がいい。僕が挿入した中間項は、「空文とは、実際の役に立たない文章、効力のない文書のことである。」という辞書からコピーをした自明な命題だ。僕が書いていないことが読みとれるというのなら、やはりそのことを証明しなければならない。誤解を受けそうな部分としては「平和憲法には、日本国憲法にもあるように、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」というような、世界平和を願う言葉が入っている。願う言葉は、言葉としてあるにもかかわらず、その願いが叶わない、ということは、「実際の役に立たない文章」の実例になっていないだろうか。」という部分があるが、ここで書いているのは「願い」であって、「目指すもの」という表現ではない。もしも、このような表現に読めるというのであれば、違う言葉が何故このような読み方が出来るかというのを証明しなければならない。また「目指す」という表現なら、「効果を果たす」という表現とは違って、文章だけを見れば判断出来るから、「効果を果たす」と受け取るのに比べて論理的な破綻は起こさないだろう。内田さんの文章から、何故「効果を果たす」という判断を読みとり、僕の文章からは「目指す」という文章を読みとったのだろうか。実際に書いてあるものなら、それを引用するだけで証明になる。しかし、書いていないことを引用文のように扱うのは、論理としての正確さに対する注意が足りないと言わざるを得ない。だいたい「世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない。 だから、平和憲法は空文である。」という内田さんの文章を批判すると言うことは、この結論部分を否定したいのだろうか。「平和憲法は空文ではない」と主張したいのだろうか。そのあたりが全く曖昧なので、論理に説得力がないのではないだろうか。内田さんは「平和憲法は空文である」という主張に、論理的には賛成せざるを得ないけれども、空文であるということでそれがなくなってもいいとか、変えるべきであるという推論につなげるのは間違いだと批判している。平和憲法に平和を構築する効果があるとかないとかいうことを議論しているのではない。内田さんの主張に対する批判なら、「平和憲法は空文ではない」と反対の主張をするか、「空文である」と言うことを認めたあとの、「それでもなお存在する価値がある」と言うことに反対するかのどちらかでなければならないだろう。平和憲法に実質的な効果があるかないかを議論するのは、それなりに面白いものだと思う。効果がないように見えるけれども、実は、解釈によっては大変な効果があったとも考えられるという議論も存在する。しかし、これは内田さんが「2005年05月16日 空文の効用」で語った議論とは全く別のものとして展開しなければならないだろう。内田さんが、平和憲法の実質的な効果については語っていないと言っても、あのエントリーではそこまでの必要性はなかったのだと思う。語っていないことについて批判すると言うことが、論理的には正当性を欠くものになるので、論理的には誤解のように僕には見えるのだろうと思う。なお、ここで僕が反批判として書いているのは、あくまでも論理的な面からのみ語っているに過ぎない。内田さんへの批判は、論理的な方向だけでなく、他の面からの批判があるかも知れない。僕の反批判は、内田さんが全く批判出来ないということではない。論理という面から見た時、sivadさんの批判は、的はずれで勘違いなのではないかということだ。
2005.06.17
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これは、他のブログでのことだがKENさんという方から、たくさんのコメントをもらった。それは、僕が「靖国問題の論理的な考え方」と言うエントリーの中で最後に語った「内田さんのこの結論だけを取り上げて、内田さんが小泉さんを「理解している」のを、小泉さんを「支持している」と勘違いする人がいるとしたら、やはり仮言命題の無理解というのを僕は感じる。内田さんが、どのような前提で推論を進めているかをもう一度注意深く読まないとならないだろう。」という部分に対して意見をくれたものだった。僕は、内田さんは小泉さんの靖国参拝を支持していないと受け取っているから、ここで論理を「理解している」ことを「支持している」ことと取り違えるのが、仮言命題の誤解だというふうに考えている。しかし、KENさんは、そこに内田さんの小泉首相支持を読みとったようだ。これが論理の誤解であると言うことをもう一度詳しく考えてみようと思う。まず内田さんの基本的な考え方を論理的に分析する。それは「2005年06月12日 国際感覚について」の中で書かれている次の文章を元にする。「『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいけば私は靖国参拝を支持する。」これを論理的に操作しやすいように、次のように表現する。「『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大であることについての首相の説明に得心がいく」 ↓(ならば)「私は靖国参拝を支持する」この仮言命題の前提をさらに分解して次のように書き換える。「『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大である」 かつ「そのことを小泉首相が説明する」 かつ「その説明に(内田さんが)得心(よくわかって承知すること。納得すること)する」この表現は、最初に書かれた日常言語での表現を、論理的な構造が同じになるように考えて書き換えたものである。従って、最初の表現の正しさは、この論理的な表現の正しさと同じになる。それでは、この仮言命題の正しさは論理的に考えてどうなるのだろうか。この仮言命題は、形式論理的には次の構造を持っている。 AかつBかつC →(ならば) Dこの仮言命題は、トートロジーといういつでも正しくなる命題ではない。A,B,C,Dの内容によって正しくなったり正しくなくなったりする。正しくなくなるのは、A,B,Cが正しいにもかかわらず、Dを否定した時だ。「AかつBかつC」という前提条件の時にDを主張したのに、その前提が満たされるにもかかわらずDを否定したら、嘘つきと言われるか、論理を理解しない頭の悪いヤツだと思われてしまうだろう。この仮言命題が正しいと主張するのなら、「AかつBかつC」という前提が満たされたら、必ずDになるということを受け入れなければならない。これが正しいと主張するのでなければ、Dと言うことを受け入れる必要はないが、内田さんは、この仮言命題全体は正しいと主張しているように受け取れる。それでは、「AかつBかつC」という前提が満たされていない時は、Dの主張はどうなるのだろうか。これは、正しいとも正しくないとも決定が出来ない。前提が満たされていないのだから、Dではないと主張することも出来る。しかし、その主張は、この仮言命題の結果として主張出来ることではなく、他の要素が絡んでくる。他の要素が絡んでくれば、Dを主張することも出来る。つまりDが正しいと考えることも出来る。Dの正しさを他の方法で直接証明出来るかも知れないし、他の前提を考えるとDが帰結するということがあるかも知れない。いずれにしても、仮言命題において、前提の正しさが確定しない時は、結論の正しさも確定しない。仮言命題において結論の正しさを主張出来るのは、その前提が正しいということがあってなのだ。さて、形式論理が言えるのは以上のことだけで、A,B,Cの内容への言及が出来ない形式論理では、前提の正しさそのものは証明することが出来ない。だから、内田さんの具体的な仮言命題に対しては、その前提の正しさを命題の内容から判断しなければならない。もう一度前提を並べてみると次のようになる。「『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大である」 かつ「そのことを小泉首相が説明する」 かつ「その説明に(内田さんが)得心(よくわかって承知すること。納得すること)する」これは「かつ」という言葉で結ばれているので、そのすべてが正しくならないと、この前提そのものは正しくならない。一つでも正しくないものがあれば、前提の正しさは失われる。「『靖国に参拝することによって得られる国益』が『それによって損なわれる国益』よりも大である」と言う命題は、正しさを決定することが困難である。客観的真理として正しさを決定することはおそらく出来ないのではないかと思う。それは、現実の条件というものがあまりにも複雑で多岐にわたっているので、そのすべてを考慮に入れるのが困難だし、あとから新しい条件が発見されると、いつでも判断を修正しなければならなくなると思うからだ。ただ、内田さん自身がこのことが得心がいくと思えるような論理を発見したら、内田さんにとってはこのことは真理なのだと判断してもいいだろうと思う。それは大多数の人が賛成する客観的真理ではないかも知れないけれど、仮言命題の結論が、「支持をする」という内田さんの気持ちを表現するものになっているから、前提としての真理性は、内田さんが真理だと思えば真理だと判断してもいいだろうと思う。次の命題「そのことを小泉首相が説明する」については、事実として正しさが確定する命題になっている。これは、正しくない命題であることが客観的に確定すると僕は思う。「そのこと」というのは、国益に関しての説明であって、小泉さんの心情の説明ではない。小泉さんは、個人的な心情はたくさん語ったが、国益に関しては何も語っていない。だから、この命題は、正しくないことが客観的に判断出来る。ここで、一つ正しくない命題が入り込んでいるので、この仮言命題は、結論の正しさを保証するものではなくなった。つまり、これはある仮定が実現されたら、このように考えるという、「もしも」の世界の話なのだ。だから、結論としての「小泉首相支持」に関しては、まだ現実のものではなく、想像の世界の話として受け取るのが論理として正当である。ついでに付け加えておくと、前提条件の最後の命題「その説明に(内田さんが)得心(よくわかって承知すること。納得すること)する」というのは、小泉さんが説明したという前提の元に判断されなければならないことだ。だから、これも説明がない間は、正しいかどうかという判断が出来ない命題になる。正しさが確定しない命題なのだ。以上のことから、内田さんの仮言命題は、結論の正しさを主張するものではなく仮言命題そのものとして受け取るべきものだというのが僕の判断だ。仮言命題そのものとして受け取るというのはどういうことなのか。そもそも仮言命題というのは、どのような時に提出されるのだろうか。その前提の正しさが明らかである時に、人は仮言命題で語るだろうか。今土砂降りの雨が降っている時に、「今雨が降っていたら……」という表現をする人がいるだろうか。こういうときは、仮言命題なんかで表現せずに、「雨が弱くなるまで待っていよう」というような結論部分の判断を語るだけなのではないだろうか。人は、前提条件の正否が未確定である時に仮言命題を使うだろう。それは多くの場合は未来を語る時だ。未来は不確定の条件が多く、命題の正否を正確に言い当てることは出来ない。だから、「もし~であったら、……」というような仮言命題の表現になるのだろう。小泉さんは国益に対する説明をしていないが、未来永劫にそれをしないとは限らない。未来のことは分からないのだ。未来のことを考える時は、あらゆる可能性を視野に入れて考えるというのが、戦略的な思考の一つである。宮台真司氏は、フィーズビリティ・スタディ(feasibility study)という言葉で語っていた。あらゆる可能性というのは、まだ実現していないのだから、その正否は確定出来ない。実現した可能性を語ることは正しくなるが、実現しない可能性を語ることは正しくなくなる。これは、正しい正しくないにかかわらず、そのように考えることが戦略的には有効になるから行われる。それこそが仮言命題の有効性なのだ。ホリエモンと呼ばれるライブドアの堀江社長は、「想定内」という言葉をよく使うが、仮言命題で、あらゆる可能性を「想定」しておけば、何が起こってもあわてることはなく、確実に先手を打っていけるだろう。仮言命題というのは、そのように使うのだと思う。内田さんは、「私が首相の参拝を支持しないのは、自らが下した重大な政治判断の適切性を有権者に説得する努力を示さないからである。自らの政治判断の適切性を有権者に論理的に説明する意欲がない(あるいは能力がない)政治家を支持する習慣を私は持たない。」と、小泉さんを、現段階では支持しないことを明確に表現している。この判断を変えるのは、未来において、小泉さんが説明をすると言う可能性が実現した時、その説明に内田さんが得心した時なのだ、と受け取るのが、内田さんが語る仮言命題を正しく受け取ることになる、と僕は考えている。つまり、あのエントリーでは、現段階では支持をしないが、未来が変わるものなら支持をする場合もあり得ると語っているのだと僕は受け取っている。KENさんのコメントは、他にも興味深いものを持っているので、それも検討させてもらおうと思う。基本的には、仮言命題をどう理解するかということだと僕は思っている。
2005.06.17
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内田樹さんが「2005年06月15日 靖国再論」と言うエントリーの中で、次のような疑問を投げかけている。「靖国神社参拝の是非を論じたら、いくつかコメントやTBがあり、いろいろ議論がされている。目を通したけれど、その中に小泉純一郎の「戦略」についてまじめに論じたものはどうもひとつもなさそうである。だが、私が訊いたのは、それ「だけ」である。どうして、誰も答えてくれないのだろうか。」内田さんが、「まじめに論じたものはどうもひとつもなさそうである」と感じたのは、内田さんの問いかけに対して論理的に答えたものがなかったという意味ではないかと僕は受け取った。問いかけに対して別の答が返ってきたように感じたのではないだろうか。それを内田さんは「興味がない」という言葉で語っている。上の疑問に対する内田さんの答は次のようなものだった。「私の設問の仕方が悪かったのかもしれないし、どなたも「そんなこと」には興味がないのかもしれない。「興味がない」のは、おそらく靖国参拝賛成派の方も反対派の方も「小泉が何を考えているか、私にはわかっている」と思っているからである。」僕は、内田さんのこの指摘に加えて、日本人の議論の中に、仮言命題に対する無理解があって、仮言命題の条件を無視して議論しようとするので、「興味がない」ことは「自明の前提」になってしまうのではないかと思った。だから、誰も内田さんの問いかけに対し論理的な答が出来なかったのではないだろうか。仮言命題というのは、「AならばB」という形をした命題のことで、Aと言う条件を仮定した場合に、Bという結論が成り立つと主張するものだ。この場合は、仮定の成立というものが本質的に重要で、仮定の成立が確かめられない時は、この命題は無内容な命題になる。仮定の成立が確定しない時は、結論に対しては、正しいとも正しくないともどちらとも言えなくなり、本来はBを主張したいはずであるのに、Bの主張にはなっていないという結果になる。空想的な仮定を設定して議論をする人をよく見かけるが、それが空想的な仮定である限りは、結論の正しさを主張するものではない。その仮定の正しさと込みで、仮言命題そのものの正しさを主張するものになるのである。つまり、その場合は、結論の正しさを云々するのではなく、その仮定の元での推論が正しいのかどうかが、論理的には重要なことになる。哲学者の高橋哲哉さんが『靖国問題』(ちくま新書)という本で、靖国問題を哲学的に考察するということをしている。哲学的に考察するというのは、僕は論理的に考察することであると受け取った。そして論理的に考察するというのは、個々の問題に対して事実の検証をするということではないとも受け取った。靖国問題を歴史的に考察するのは、歴史学の問題であって哲学の問題ではない。政治的に考察するのも、日本人の感情として伝統などと絡めて考察するのも、哲学の問題ではない。哲学の問題というのは、それらの前提が正しいかどうかは決定出来ないかも知れないけれど、一応正しいと前提して推論してみて、正しい推論でどういう結論が導かれるかを考察することが哲学の問題、すなわち論理の問題だと僕は思う。哲学(論理)では、前提そのものの正しさは問わない。それが考察するのは、推論の正しさだ。僕は、内田さんが「2005年06月12日 国際感覚について」と言うエントリーで問いかけたのは、仮言命題として「中国政府の「悪口」を書かずに、感情を排して法的・論理的・政治的な判断のみに依拠して論じ」るという条件の下での主張を求めていたのではないだろうかと思った。これを、前提を無視して、自分にとって自明の前提の元で、「靖国参拝の是非」という結論部分のみを論じていることが、内田さんの問いかけへの返事になっていないということではないかと思った。僕は、<中国との外交関係における靖国問題>という条件を付ければ、河野太郎さんが語っていたように、次のことが本質的に重要なものだと思う。「1972年9月に、当時の田中角栄首相と大平正芳外相、二階堂進官房長官が中国を訪れ、毛沢東主席や周恩来総理と会談し、日中共同声明に署名して、日中国交正常化への第一歩を記しました。」ここで、語られている理念は、「その日中共同声明のなかで、日本は「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」との立場を明確に文書にしました。当時の中国国内には、日本に戦時賠償を求めよとの世論もありましたが、毛沢東主席、周恩来総理をはじめとする中国の指導者は、戦争は日本国内の一部の軍国主義者によって発動されたものであり、大多数の日本国民も戦争の犠牲者であるとの認識を示して、戦争の被害者が同じ戦争の被害者に賠償を求めることはできないとの立場を取りました。」と言うようなもので、「日本国内の一部の軍国主義者」がいわゆるA級戦犯として裁かれた人たちだった。首相の靖国参拝は、この理念に反対するもので、いわば一度結んだ約束を反故にすると言うことで外交問題になりうる。内政問題ではないと言うことが、これを前提にすれば論理的に理解出来る。これは、中国との外交関係という条件に絞った時の靖国問題の本質だ。しかし、靖国問題は、このような条件が複雑に絡み合っているので解決を難しくしている。高橋さんが先の本で挙げている条件でも「感情の問題」「歴史認識の問題」「宗教の問題」「文化の問題」「国立追悼施設の問題」と、それぞれに問題があることを指摘している。このそれぞれに特有の条件があり、それから仮言命題が生まれる。これは仮言命題としては全く違うものになるので、それぞれで結論が違ってくる。この結論だけを議論し合っても全く無駄なことになる。仮言命題は、その仮定を含めて議論しなければならないからだ。外交問題としてはそうかも知れないが、感情問題としてはこうなんだ、と言うような議論をする人がいたら、その人とは建設的な結論は得られないだろう。外交問題に限定したら、他の問題を排除して、まずは外交問題としてどこまでが同意出来るかを議論しなければならない。そして、その同意をまた新たな出発点として、他の仮言命題に向かわなければならない。そうして、一つずつ片づけて、最終的には総合的な結論に達するというのが建設的な議論の方向だろうと思う。内田樹さんは「2005年06月15日 靖国再論」と言うエントリーの中で、小泉首相の考えを考察している。その前提として考えているのは、中国との外交関係を、東アジアの国家群との協力体制と、アメリカとの同盟関係の中で、日本が少しでも有利な地位を占めるような政治的方向を目指すという条件の下で考えている。小泉首相については、何も考えていない、感情にまかせた行動をする人間だという評価が一方ではあるが、内田さんは、「彼は場数を踏んだ政治家であり、下馬評をひっくり返して自民党総裁のポストをゲットし、圧倒的な追い風ブームを作り出して選挙に連戦し、戦後最良の関係を日米間に築き上げた手練れの外交家である。彼がまさか「強気に出ないと相手になめられる」というような路地裏政治力学のレベルで日中関係というデリケートな外交的難問に対処するほどに知性を欠いた人物だと私は思わない。」と受け止めて考察している。これは僕にはとても興味深く面白く感じた。自分が理解出来ないのは、相手が馬鹿だからだと思うととても納得出来るし気分がいいものだが、それは危険な考えだと内田さんは指摘する。むしろ「自分がその行動を理解できない人間の動機について忖度する場合には、「そこには容易に常人の想像のおよばない深い理由があるのでは・・・」と考える方が、少なくとも私にとってはスリリングである。どちらにしても、それによって失われるのは私の時間であって、誰の迷惑にもならない。」と言う考え方から、小泉首相が、小泉さんの立場から考える国益を最大にしようと努めているのだと前提することにしている。これは論理的に納得がいくことだ。実際の小泉さんがそれほど深く考えていなくても、戦略的に考えようとする人間だったら、相手も同じように戦略的に考える人間だと前提した方が失敗が少ない。このあとの議論を細かく追っていく余裕がもうないが、最後の結論である「だから、熟慮の上で、「中韓の風下に立つくらいなら、アメリカの風下に立ち続ける方が日本国民の自尊心と国民的統合の保持の上ではベターな選択である(アメリカへの服従ならもう60年やっているので、改めて屈辱感を覚えることもない)」という政治的決断を下したのである。私はそういうことではないかと小泉首相の胸中を想像してみる。そういう理路なら私にも「納得がゆく」。彼が靖国にこだわるのも、歴史問題の解決を遅らせているのも、日本がアメリカの庇護を離れた「スタンド・アロン」のプレイヤーとなったとき、東アジアの政局の中で中韓やASEAN諸国とわたりあうだけの政治的力量を備えた政治家が日本には存在しないということを彼が知っているからである。」という言葉は、僕も大変納得がいくものだ。小泉さんがこのように考えているのなら、小泉さんの行動を理解出来る。「理解出来る」というのは、「賛成する」ということではない。論理的に整合性のある解釈が出来るということだ。内田さんのこの結論だけを取り上げて、内田さんが小泉さんを「理解している」のを、小泉さんを「支持している」と勘違いする人がいるとしたら、やはり仮言命題の無理解というのを僕は感じる。内田さんが、どのような前提で推論を進めているかをもう一度注意深く読まないとならないだろう。内田さんが展開している推論については、エントリーを改めてまた考察してみたいものだと思う。
2005.06.16
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内田さんの『寝ながら学べる構造主義』の第2章を読みながら、それに触発された自分の想像を綴ってみようと思う。ここでは構造主義の始祖とされているソシュールについて書いているのだが、これと構造主義、特に<構造>の概念との結びつきを想像するのはなかなか難しい。これは、ソシュール自身が語っていることが難しいということと、三浦さんがソシュールを批判していたこともあって、僕にとってはソシュールが間違っているという先入観がどうしてもぬぐえないところがあるので、素直にソシュールが語るところを受け入れるということが難しいことが、ソシュール理解を困難にしている。そこで、ソシュールそのものを考える前に、ここまでにぼんやりとでもつかみかけた<構造>というものについてもう一度反省してみようかと思う。僕にとって<構造>というのは、まず数学的な概念として現れてくる。数学は高度に抽象化されたものではあるけれど、考察する対象としては具体的・個別的なものが存在する。自然数や有理数・無理数などという数は、存在の量的側面を抽象化したもので、それ自体抽象的なものではあるけれど、その間に成り立つ計算(加減乗除)などを考える時は、数学の中では具体的・個別的なものとして考察する。具体と抽象も相対的な関係で、同じものがある観点からは具体的なものになり抽象的なものになる。計算の規則も、具体的なものとしては 1+3+5+7+9+11+13=7×7=49と言うようなものが存在し、これをさらに抽象(一般)化して、 1+3+7+……+(2n-1)=n×nとすると、任意のnについて成立する抽象的な数学法則が得られる。これは、個別的な対象について成り立つ法則を一般化していくものである。このようなものはたくさんある。このようなものの中で、計算の本質を貫く、法則のエッセンスのようなものはないだろうか。例えば次のようなものを考える。 a*b=cという計算があった時、それは必ず答がある a*(b*c)=(a*b)*c(結合律) a*e=e*a=aとなるeが存在する a*x=eという方程式を解くことが出来るこれを具体的に整数の集合での足し算で考えると、次のようなものになるだろうか。 (+2)+(-4)というような計算はいつも答を求められる (+2)+((-4)+(-2))=(+2)+(-6)=-4 ((+2)+(-4))+(-2)=(-2)+(-2)=-4 (+2)+0=0+(+2)=+2(すなわちe=0) (+2)+x=0の答えx=-2このように、数学は、具体的な対象を観察し考察していく中で、次々と抽象的な法則を導いていく。これは、整数の集合という具体的な対象があり、そこに成立する足し算という具体的な演算があり、これを観察することで上のような法則を導いている。この発想を逆転させて次のように考えると、今まで具体的な対象であった整数という存在が考察の背景に消えてしまう。ある集合を考える時、その要素が具体的に何であるかということは考えない。つまり、整数であるという具体性を伴わないと成立しないような法則を考えない。逆に、ある種の法則が成り立つ対象をすべて考慮の中に入れようと考える。例えば上に書いたような法則が成り立つということだけを前提にする。もう一度ここに書くと a*b=cという計算があった時、それは必ず答がある a*(b*c)=(a*b)*c(結合律) a*e=e*a=aとなるeが存在する a*x=eという方程式を解くことが出来ると言うようなものだ。このa,b,cは、もはや整数ではない。何でもいいのだが、とにかくこの法則を満たすという対象だ。このように考えると、ここでは対象の具体性は消え去って、この法則を満たす集合が考察の対象になる。個々の存在ではなく、全体性が考察の対象になる。この全体性というイメージが僕にとっての<構造>というイメージだ。実際の考察に当たっては、抽象的対象を抽象的なままで考えることは出来ない。だから、この対象を具体的な例に戻して整数などで考えたりする。しかし、このときは、整数の特殊性に関係した考察を慎重に抜き出して、上の一般性に関連する事柄だけを考察の対象にする。例えば、偶数や奇数などという区別は整数に特有のものだと考えられるので、これは上の性質だけを持った集合全部に共通するものではないとして、それは別にして考える。この<構造>だけに注目して数学を再構築したものが<群論>と呼ばれるものになったと僕は理解している。そして、不思議なことに、構造に注目した方がわかりやすくなる事柄が出てきたのだと思う。例えば方程式の解の存在などは、具体的な実数という対象について考えるよりも、構造面に注目した群で考えた方がハッキリしてくるような気がする。具体的な対象であると、方程式の解が存在するのなら、その解き方が気になってきて、なかなか存在そのものを問題にすると言うことがしにくいような気がする。それが、構造を問題にするとなると、具体的な解法というものは、それぞれの集合の具体性に関わってくるので一律に考えることが出来ないが、存在そのものについては、より抽象的な対象について考察した方が考えやすいという面があるようにも感じる。このように、構造というのは、具体性に密着しすぎると考えにくいものを、具体性を捨象した構造という面から見ることで、新たな発見をするという積極面を見出すことから注目されたのではないかと考えることが出来る。構造主義にもそのような側面がないだろうか。ソシュールの言語学が構造という面を重視したのは、個々の具体的な言語を観察・考察するだけではつかめない何かをつかもうという意図からではないのかなという思いが浮かんできた。内田さんは、この第2章で次のように語っている。「ソシュールの言語学が構造主義にもたらした最も重要な知見を一つだけあげるなら、それは「言葉とは、『ものの名前』ではない」と言うことになるでしょう。(他にもソシュールはいろいろなことを指摘したのですが、一番大事な一つだけにしておきます。)」「言葉とは、『ものの名前』ではない」というのは、その意味を受け取るのが難しい言葉だと思う。僕が上で考えたような構造のイメージが、この言葉とうまくつながるだろうか。言葉が「ものの名前」であるとしたら、それは具体的個別的な対象になるのではないだろうか。ものの名前は、いつでもその具体的存在に密着した、それを離れては考えられないものになるのではないだろうか。「言葉とは、『ものの名前』ではない」というのは、言葉を、具体的な対象から離して、言葉を使う場面・状況というものから考察しろということではないだろうか。そして、場面・状況というのはちょうど数学でいう集合という全体性に通じるもので、全体性という<構造>に関係してくるのではないだろうか。個別・具体的な対象に密着していると見えてこないものは、言語学においては何になるだろうか。これはとても難しい問題なのでまだうまく表現は出来ないが、社会性というものの考察がうまくいかないような気がする。言葉というのは、新しく知ったものに名前を付けていくということがある。その時に、「ものの名前」であると言うことになると、発見した人間が恣意的に名前を付けてもかまわないということになる。それ以前にはそれは知られていなかったのだから、名前がなかったと考えられる。しかし、その言葉が社会で通用するというのは、単に恣意的に名前を付けるだけではうまくいかないような気もする。恣意的に名前を付けているようでいて、何か法則的な規則にしばられているような感じもある。社会との関連は、個々の人間を越えて、集団として構造としてつかんだ方が分かってくるのではないだろうか。ソシュールは、言語をラングとパロルに分けて考えたという。パロルは、個々の人間の具体的言語現象で、これを言語学の対象から外してしまった。そして、ラングという、語彙や文法を含んだ、言葉が社会で通用する基礎的な知識の集合体を言語学の研究の対象にしたと言われている。これは、構造に注目しているとしたら、極めて自然な考え方のようにも見える。構造は、個々の現象を理解するよりも、それを越えた全体、つまり社会の方を理解するのに役立つと思えるからだ。このような理解をすると、ソシュールで説明されている構造と、僕が想像した構造とがうまくつながってくる。ソシュールは、まさに構造主義の始祖にふさわしい人なんだなと思える。ただ、内田さんが語るこの章では、三浦さんの影響で唯物論者になった僕には、唯物論という観点から少々疑問を感じる記述がある。次のような部分だ。「日本語では「犬」と呼ぶものを、英語では dog 、フランス語では chien 、ドイツ語では Hund と呼ぶというふうに、ものの呼び方は「言語共同体ごとにご自由に」ということになっていて、どの名が一番「正しい」のか、と言うようなことは問題にしても仕方がありません。「ものの名前は人間が勝手に付けた」というのが「カタログ言語観」の基本にある考えです。これは誰にでも納得出来るでしょう。 しかし、この言語観は、いささか問題のある前提に立っています。それは、「名付けられる前からすでにものはあった」という前提です。 確かに私たちは普通にはそう考えます。「丸くてもこもこした動物が来たので、アダムは勝手にそれを「羊」と名付けた」というふうに。 しかし、本当にそうなのでしょうか。「まだ名前を持たない」で、アダムに名前を付けられるのを待っている「もの」は、実在していると言えるのでしょうか。名付けられることによって、初めてものはその意味を確定するのであって、命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない、ソシュールはそう考えました。」ここで僕が疑問を感じるのは、「実在」という言葉の使い方だ。「名付けられることによって、初めてものはその意味を確定する」というのは確かにその通りだと思う。しかし、「意味を確定」しなければ実在しないのかという疑問がある。内田さんがここで使っている「実在」の意味は、「命名される前の「名前を持たないもの」は実在しない」という言葉の使い方から、<意味を持つものだけが実在する>と考えているように思われる。これは、ソシュールの考えだというふうにことわっているが、特に批判的には取り上げていないので、内田さん自身もこの考えを肯定しているかも知れない。そうすると、これは<ものの存在は人間の意識(観念)と共にある>と考えていることになる。これは、観念論であり、唯物論の立場からは批判せざるを得ない。三浦さんのソシュール批判にもこのような観点が入っているものと思われる。これはとても難しい問題だと思うので、エントリーを改めてまた考えてみようかと思う。
2005.06.15
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三浦つとむさんが、「「人はなんのために生きるのか」という疑問」という文章を書いている。収録されているのは、『ものの見方考え方』(季節社)という本だ。三浦さんは、この文章を祖母の死という個人的な思い出から始めて、自らの死生観を綴ることにつなげている。三浦さんは、「誕生と死滅は自然のすべてに当てはまることで、生死ということを何か特別な問題として考えること自体おかしいのではないかと、私は素朴な万物流転の世界観で生死を位置づけるところに落ち着いた」と書いている。死というものも、存在するものの必然的な運命として自然に受け入れようということだろう。このような死生観を持っている三浦さんが、徳富蘆花の『思い出の記』を読んだ時、そこに書かれていた青年の悩み「人はなんのために生まれてくるのか」という疑問に対して関心を持ったことが書かれている。この本では、その青年の友人の主人公もまた「行き着く先は死とすれば、何のために生まれてきたのであろう、死んでどうなるのだろう」という疑問にとりつかれ、「これらの古い、しかし永久に新たな疑問を逃れることは出来ない、死かそれとも解答を得るかその一つをとらなければならない」と苦しんでいる。三浦さん自身は、自分ではこのような疑問を持ったこともなかったので、主人公がキリスト教の教えに解答を見出しているのに対して、「神などと言うものは空想でしかないことを確信していたから、そんなものを持ち出さずにすむような本当の解答を出してみようと思った」そうだ。僕自身は、三浦さんに出会うまではもっと子供らしい単純な思いに駆られて生きるということを考えていたので、「何のために生きるか」という疑問に苦しむということはなかった。「数学を楽しむために生きているのだ」というような単純な答で満足していた。しかし、哲学に触れて実存主義にかぶれそうになった時には、「人はなんのために」という問題設定に傾きそうになり、小説の主人公のような悩みに近づきそうになった。そんなときに、この本が1981年に出版され、僕は哲学的な悩みの中に入らずにすんだ。ここに書かれた解答が、三浦さんが言うように「本当の解答」だと思ったからだ。三浦さんの本当の解答とは、「やがて私は、「人はなんのために」という、この疑問の立て方それ自体がおかしいことに気づいた。何のために、というのは目的についての問いである。目的を持って行動するのは、人間だけに見られる特殊な場合で、他の生物が同じような行動をしても、それは本能的なものでしかないらしい。目的を持つというのは高度な精神活動で、人間以外の生物にはないらしい。人間は、雨や風から自分を守るために家を造り、寒さをしのぐために衣類を作り、飢えを逃れるために食物を料理し食器を作る。だから、「生まれてくる」ものに対して「何のために」と問うことが出来るのは、人間の作り出し生み出した事物に対してであって、それ以外の事物に問うことは出来ない。山や海や犬や猫などは自然が作り出したもので、これらに「何のために」と問うことは出来ないし、人間についても同じである。もし人間に対して、「何のために生まれてきたのか」と問うならば、その個人を生み出した別の人々つまり親に問うべきである。「あなたは何のために子供を産んだのか?」と問う場合、「年をとって働けなくなった時に養ってもらうためだ」という答えもあろうし、「特別な目的もなしに出来てしまったのだ」という答えもあろう。いずれにしても、事物について「何のために」と問う時に、それを作り出した人間以外に問うのは、的はずれで不当だといわなければならない。」と語られている。つまり、この疑問は答がない問題に対して問いを発していると考えられるのである。個別的・具多的な問いとして、自分を作り出した人間に対して問わなければならないものを、何か一般的・普遍的な答があるもののように考えて問いを発していることが間違いだと三浦さんは語っている。三浦さんが指摘したこと以外にも、僕は目的という「何のために」ということを次のようにも考えていた。道具というものに関しては、三浦さんが語るように、それを作り出した人間にその使用目的を問うことが正しいと思う。しかし、人間に関しては、誰かが作り出した道具ではないのだから、その使用目的は最初からないという感じもしていた。むしろ、自分自身で「何のために生きるか」という、自分の個別の目的を見つけることが生きることの充実のために役立つのではないかと思った。他の人間はどう考えるか分からないが、自分はこのように生きることが楽しいし、このように生きることが出来れば、それに一生懸命になって心を集中出来るという対象を見つけることが大事だと思った。それが僕にとっては数学だったので、二十歳くらいの青年期までは、子供らしい単純な思いで生きることに疑問を持つことがなかった。いずれにしろ、誰にでも当てはまるような一般的・普遍的な答を探すことが間違いであり、答がないから深刻な悩みにもつながってくるのだと思っていた。答がない問題に対して、答を探していると、逆の意味での踏みはずしにまでいってしまうことがある。それは、答が見付からないということを一般化してしまい、すべては不可解であるという不可知論にまでいってしまう間違いだ。実際には、答が見付かる問題と見付からない問題を正しく分けることが正しいのだが、すべてが答が見付からないと言う極端にまでいってしまうことがある。明治のころに華厳の滝から身を投げた藤村少年は、このような不可知論的な思いに悩んで死を選んだといわれている。哲学的な問題に悩んでいる青年は、今でもこのようなタイプの間違いに悩んでいるかも知れない。答があるかないかという問題をさらに一般化して考えると<存在問題>というものに行き着くと、宮台真司氏の師匠である小室直樹氏は『数学を使わない数学の講義』(ワック出版)の中で語っている。小室氏は、数学研究から社会科学の道へ進んだ人で、数学の重要性を説く言葉をたくさん残している。小室氏が指摘しているのは、「存在しないものに関しては何を言っても正しい」というのが論理の法則だということだ。これは、なかなかイメージしにくいのだが、正しくない前提からは、何を導いてもその推論は正しい推論になると言うことが論理の法則になる。結論が正しいのではないが、推論自体は正しくなってしまうのだ。だから、答が存在しない問題で、答が存在するという間違った前提を立てると、どんな結論を出しても推論自体の間違いはないので、結論が正しいかどうか分からなくても結論を正しいと思い込んでしまう。「何のために」という哲学的な悩みの解決が、ほとんどの場合宗教的な信仰の道に入って、その悩みが消えていくというのも、存在しない解答が存在するかのように信じさせてくれるという心の安心感が、宗教を信じさせる原因にもなるのではないかと思う。「存在しないものに関しては何を言っても正しい」と言うことを直感的に捉えるには、レトリックとして、ありそうもないことを前提にして出来そうもないことを宣言するというものを考えるとちょっとイメージ出来そうだ。小室氏が例として語っているのは次のようなものだ。相手が絶対に大学に合格しないと確信している人間が、「もしおまえが大学に合格したら、オレは逆立ちして東京から大阪まで行ってやるぞ」と宣言するものを例として挙げている。このとき、相手が大学に合格するということが正しいものとして実現したら、逆立ちして東京から大阪まで行かないと、論理的には間違いで嘘ということになる。しかし、大学に合格しなかったら、合格するという前提が正しくないことになるから、そのあとに何を言おうと自由だと言うことになる。推論自体は、何を言っても正しくなる。つまり、この結論部分で絶対に出来そうにないことをいうことが、その前提が絶対に実現しないということの強調でもあるから、これがレトリックの一つにもなるのである。これは、ことさら論理とか数学とかいわずとも、日常会話の中にさえあるレトリックなのでかなりおなじみだと思うが、論理的に正確につかんでいる人は少ないだろう。推論というのは、正しい前提から正しい結論を導くものだとイメージしている人が多いのではないか。確かに、前提が正しくて、推論も正しければ、その結論というものは結論自体を直接証明することなく正しいことを信じてもいい。論理というのはそういうものだ。3段論法というのは、そういう構造を持っている。 人間は死すべきものである ソクラテスは人間である ゆえに ソクラテスは死すべきものであると言う3段論法は、その前提が正しいものであれば、ソクラテスが確かに死ぬものであるかどうか実験することなしに、その結論が正しいことを信じることが出来る。正しいかどうか、殺してみて実験しようなどと考えなくてもすむのだ。論理を意識する推論というのは、このように前提も正しく推論も正しいというケースを考える場合が多い。だから、論理に詳しくない人は、推論において前提が正しくないケースを考えるということが難しくなる。よく反省することなく、前提が正しいという思い込みにとらわれることが多い。しかし、<存在問題>が関わってくるものは、その前提である、答が存在するかということが正しくなるかどうかを意識しなければならない。もし、答が存在しない問題を考えているのなら、それはいつしか「どんな結論でも言うことが出来る」という推論に迷い込んでいる可能性があるのである。これは、推論自体には間違いがないだけに、そういう推論に迷い込んでいてもなかなか気づかない。対立した考えが、建設的な議論の方へ向かわずに、いつまでも対立したままで結論だけをぶつけ合う不毛な議論に終始している時は、僕はこの<存在問題>を考えた方がいいのではないかと思う。どんな結論を出しても自由なのだから、間違った前提からは、自分の好む方向の答が引き出せるだろう。そんなことをするくらいなら、その問題が、実は答が存在しない問題なのだと理解する方が役に立つだろう。そして、問題の設定を少し変えて、答が存在するように工夫していくことがより建設的な方向だと気づくだろう。「人はなんのために生きるか」という問題設定は不毛な結論に達するけれども、「私(自分)は何のために生きるか」という問題設定は、自分の生き甲斐にもつながる建設的なものになると思う。「何のために」という問題は、一般論として考えるのではなく、「自分」というものを中心に考えることが正しいのではないかと僕は思う。「自分は何のために勉強するのか」「自分は何のために読書をするのか」「自分は何のためにそれをするのか」、いずれもその答を自分が納得すれば、モチベーションを高めてより充実した人生を導いてくれるだろう。三浦さんの考えの方向が、小室さんが考えた方向と一致するということは、三浦さんの考えが極めて数学的な要素を持っていることなんだろうなと思う。だからこそ僕は三浦さんの考え方に引きつけられたのだろうと思う。
2005.06.14
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三浦つとむさんの『試行』(1968年発行)第26号の論文、「構造主義者の妄想(上)」では、構造主義者たちが行ったマルクス批判を取り上げて、その反批判をしている。前回のエントリーでは、<原型>と<映像>の混同という面からの批判を紹介したが、この混同は、次のような批判の指摘にも結びつく。「このヘーゲル的修正はマルクスのヘーゲル弁証法の転倒を逆戻りさせているから、この立場ではマルクスがいったいヘーゲル弁証法をどう転倒させたのか分からなくなってしまう。そこから、自分たちの逆戻りを棚に上げて、マルクス=エンゲルスにイチャモンをつける者が出てきた。マルクスの弁証法の画期的な意義は、イデーを否定すると共にイデーのあり方としての「客観的弁証法」をも否定して、弁証法が人間の頭の中の抽象的な映像に「還元された」(reduzierte sich)点にあり、「存在」でなく「科学」(Wissenschaft)になった点である。構造主義的マルクス主義者はそんなことは反省しない。」法則を抽象的思考として理解するよりも、その法則がいつもついて回る存在の方を理解する方が、認識としては易しいだろうと思う。存在の属性を取り上げるよりも、属性を持っている存在という具体的イメージを持った方が想像しやすい。足し算をする時に、抽象的な数字を操作するという段階に行く前に、指を使ったり、おはじきを使ったりして、具体的な操作として足し算を理解する。これは、その方が理解しやすいからだ。そして、具体物が、やがて半具体物である「タイル」という教具を用いることによって、抽象的存在である数字に結びついていくように配慮するのが、遠山さんが打ち立てた水道方式の数学教育だ。抽象的な認識は、いきなりその核心にまで到達することは出来ない。具体的な存在から徐々に抽象へ進んでいき、全く具体性を捨て去った最高の抽象へ到達して、高度の数学や科学というものになる。この手順を慎重に踏んでいかないと、本当の意味での抽象的対象を扱うことは出来ない。三浦さんが批判する構造主義者が、<原型>と<映像>を混同して、<映像>である法則の理解に失敗するのもこの難しさがあるからだと思われる。そして、この失敗した認識を正しいと信じていると、ちゃんと区別している正しい認識の方がおかしいもののように見えてくる。それは、<原型>の持っている属性を無視しているように見えてくる。実際は、無視することこそが正しい抽象なのだが、勘違いをしているとそれが分からなくなる。このことを、三浦さんは次のような卓抜な比喩で語っている。「自分が逆立ちをしているとチャンと立っている人間の方が奇妙で不条理に見えることは確かである。」自分が逆立ちをしているというのは、<原型>と<映像>を混同していると言うことだが、このようなことが何故起こるかと言えば、それは、法則を言葉で覚えているだけで実践が伴わないからであると三浦さんは批判する。実践をすると言うことは、現実の問題に取り組んでそれを解決すると言うことである。言葉を暗唱するだけなら、実際の問題を解く必要はない。そして、問題を解いてみなければ失敗もしないのである。実際には、簡単な問題から始めて、だんだんと難しい問題に取り組むことによって、問題解決能力が高まっていく。そういう訓練をしていないと、いきなり難しい問題を解こうとして、とんでもない間違いをしてもそれに気づかないと言うことが起きてくる。このあたりの見事な説明を、ちょっと長いが引用しよう。「現在家庭用あるいは工業用に広く使われているLPG(いわゆるプロパンガス)は、石油生産の副産物であって、天然ガスを高圧下に液化して運搬している。使う時圧力をゆるめてガスに戻すのである。気体→液体→気体と、先の転換を逆に再転換するから、これも「否定の否定」の一つのあり方と見ることが出来る。産地の近くならパイプで送ることが出来るが、中東から日本へガスのまま送ることは出来ないし、ガソリンに代えて自動車の燃料にすると言う時にも、ガスのままでは十分に積むことが出来ない。そこで液化という方法がものを言うのである。弁証法という科学は、音をそのままでは缶詰にして保存出来ないとか、ガスをそのままでは輸送したり積み込んだり出来ないとか言う時に、「それを異なったあり方に一度転換してから処理し、あとでまた元のあり方に再転換する方法」を考えろと、基本的な発想法を教えてくれるところに実践的な有効性がある。だから「否定の否定」の法則を暗記した哲学者が、我こそマルクス主義者なりとふんぞり返っていたところで、ディスクやテープに録音再生する装置を設計するとか、ガスを液化して輸送する設備や器具を考案するとか、実践的に「否定の否定」を実現する能力を持っていなければ、具体的な問題の解決には役立たない。」抽象というのは、具体から引き出されるものであるが、その過程を正しく捉えることが出来れば、それをまた具体におろしていくことが出来る。そして、それこそが応用問題を解くと言うことになる。基本的な発想を身につけている人が、正しく現実に応用が出来るというのは、抽象の過程を正しく捉えているからなのである。具体的な存在を目の前にして、それを抽象した法則を、言葉として暗記したとしても、それはその対象以外には全く使えない発想になる。それは、法則の構造を理解しているのではなく、結果としての抽象的な言葉の表現を覚えているだけだからだ。批判の方向がおかしいと思えるのは、このように、正しい抽象を知らないことから来ることもあるのではないかと思う。本来法則を当てはめるべき構造に気づかず、形だけが似ている、全く違う構造を持ったところに法則を押しつけている場合がある。三浦さんが批判する構造主義者に共通しているところではないかと思う。三浦さんは、この次に構造主義の流行について触れているが、この流行と言うことが実は構造主義にとっては不幸なことだったのではないかと僕は感じる。流行だったと言うことは、猫も杓子も構造主義にかぶれて、その水準を著しく下げるという結果になっただろうと思う。本来なら構造主義とは呼べるようなものではない水準のものまでも構造主義になってしまったのではないだろうか。流行するものには、眉につばをつけて注意していかなければならないのではないかと思う。最後にルフェーブルの次の言葉「確かにマルクスの言う「人間はその歴史の流れの中で労働によって作られた」というのは認めることが出来ますが、しかし「労働のために」というのは保留したくなります。人間は労働のために作られたので、レジャーのためではないなどとは、今日本当に仕事に熱心な労働者か、熱心な労働の擁護者でもなければ考えられません。ここでは明らかに、イデオロギー的な要素がマルクスの中に出てきているのです。たとえある人々が、相変わらず人間は労働により労働のために作られていると言い続けようとも、私はこういうイデオロギー的なごまかしを弾劾します。」(2月7日東京日仏会館での講演から)に対する三浦さんの批判を紹介しよう。これが僕の目にとまったのは、内田さんが語る「仕事」というものに対して、それが尊いものであり、人間の本質として仕事をせずにはいられないと言うような表現に対し、滅私奉公を肯定するようなイデオロギーであるというような批判があったことを思い出したからだ。ルフェーブルの言い方は同じような構造を持っているものと思われる。三浦さんは、ルフェーブルの勘違いを、まずは「労働」という言葉の意味の勘違いとして指摘している。僕が、内田さんの「仕事」という言葉の批判を読んだ時も同じように意味が違うのだと感じたが、ルフェーブルが批判している「労働」という言葉の意味と、三浦さんが使う、つまりマルクス=エンゲルスが使う「労働」という言葉の意味が違うというのだ。三浦さんは次のような指摘をする。「女子工員が工場でラジオを組み立てるのは労働だが、アマチュアが組み立てに徹夜するのは労働ではないと、ルフェーブルは言うのか?個人タクシーの運転手がお客を乗せて車を走らせるのは労働だが、彼が休日に妻子を乗せて温泉へ車を走らせるのは労働ではないと、ルフェーブルは言うのか?レジャーを楽しむとは、自ら進んで満足感を得るために労働すること以外の何ものでもない。」内田さんを批判した人は、仕事というのは苦役以外の何ものでもないというイメージを持っているように感じたが、果たしてそうだろうか。それが、仕事の定義として本当にふさわしいものだろうか。三浦さんは、ルフェーブルを批判して次のように語る。「もしルフェーブルをしばって転がしておけば、体を動かさずにはいられなくなって、解いてくれと悲鳴を上げるだろう。独房にぶち込んで何もせずに横になっていろと言えば、1日2日とたつうちに耐えられなくなって、何か仕事をさせろと悲鳴を上げるだろう。彼はそれによって、人間は労働するように出来ているという主張の正しさを実証する。もっともマルクスにとって、そんなことは自明の事実であった。人間は動物と違って自然が与えてくれるものを受け取るだけでなく、自然に働きかけて生活資料を生産し、この使用あるいは消費によって間接に生活そのものを生産している。だから生活を維持していくには生産資料を再生産しなければならない。人間は自然に能動的に、労働によって働きかけるよう作られている存在なのである。」ここにこそ、抽象された対象としての「労働」という言葉の定義を見出さなければならないのではないか。マルクスが使った「労働」は、このように抽象された対象を指す言葉なのではないのか。三浦さんは、ルフェーブルの間違いの本当の原因を次のように語っている。「ところでこのルフェーブルの「批判」の論理は、現在の労働者が職場で強制されている苦役、すなわち特殊な労働のあり方を、そのまま人間の労働一般についてのマルクスの規定に当てはめた、不当な度はずれなやり方である。」一般性を語る抽象的な文脈で、現実の特殊性を持った意味を言葉に与えるのは、特殊性を普遍性と取り違える間違いである。労働や仕事を苦役としてしかイメージ出来ないのは、現実を語ることしかできないことを物語っている。その現実を抽象して、科学として対象を捉えるという抽象的な思考が出来ないと言うことを物語っている。内田さんの「2005年05月19日 資本主義の黄昏」と言うエントリーに書かれた、「仕事というのは賃金を得るためのものではなく、仕事を通じて他者からの社会的承認を得るためのものである」「仕事というのは「額に汗して」するものであり、先般も申し上げたように本質的に「オーバーアチーブメント」なのである。」「賃金と労働が「均衡する」ということは原理的にありえない。人間はつねに「賃金に対して過剰な労働」をする。というよりむしろ「ほうっておくと賃金以上に働いてしまう傾向」というのが「人間性」を定義する条件の一つなのである。」と言う一連の言葉は、すこぶる評判が悪かった。ルフェーブルが非難したように、「イデオロギー的なごまかし」と受け取られたようだ。しかし、ここには三浦さんが分析したのと同じ構造が存在するだろう。ここに現れた「仕事」という言葉は、現実の苦役のような特殊な「仕事」を指しているのではなく、人間が行う、「「人間性」を定義する」抽象的な意味での「仕事」なのである。そう受け取って読めば、この言説は、抽象的な観点から現実を適切に記述した言葉になると受け取れるのではないだろうか。
2005.06.11
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宮本浩樹さんから、「「寝ながら学べる構造主義」のオンライン読書会」というものに誘われた。一つの書物を何人もで読んでそれについて対話をするというのは面白い試みにも感じるが、掲示板形式の場では議論は難しいのではないかと感じた。掲示板の文章というのは、2チャンネルに代表されるように、短い言葉で感覚的に表現される傾向にある。論理的に内容を深めることは無理ではないかと感じる。構造主義というような難しいものを語る時、掲示板のような場での短い言葉のやりとりで意味が通じるとしたら、よほど同じ前提・レベル・問題意識というような共通の基盤がなければ不可能だろう。そこで、誘いを受けたのだが、そこの議論に参加するのは遠慮することにした。しかし、第一章についての書き込みを見る限りでは、かなりの読み方の違いを感じるので、ここに自分の読み方を、それと比べて考察してみるのも面白いかなという感じがしてきた。内田さんは、構造主義前史としてマルクス、フロイト、ニーチェを取り上げて紹介しているのだが、僕はこれを、あくまでも構造主義との関連から、構造主義につながる面を取り出して紹介したものとして受け取った。この3人は、短い文章で取り上げるにはあまりにも巨大すぎる存在だ。すべてを紹介することは出来ないだろうと思う。だから、特に構造主義に関わる面だけをピックアップして、構造主義の「前史」として紹介したのだと思う。しかしここに書かれている感想を見ると、構造主義との関連でこの3人を見ているのではなく、例えばニーチェならニーチェそのものを取り上げて論じているような感じを受ける。内田さんは、その文章に書かれていることよりも、書かれていないことについて批判されることが多いように僕は感じていたが、ここにもそのような傾向が出ているような気がした。僕は、それと違って、内田さんの記述に忠実に、構造主義前史としてのこの3人を内田さんがどう捉えているのか、というのを僕の読み方ではどう感じたのかを記してみよう。内田さんの意図が、僕が考えたとおりのものであるかは分からない。しかし、僕にはこのように読めた、というものを語ってみよう。まず、この3人に共通するのは、「私たちは自分が何ものであるかを熟知しており、その上で自由に考えたり、行動したり、欲望したりしているわけではない」(p39)ということを発見した、ということだ内田さんが語っているように僕には見えた。人間の思考は自由ではない。ある種の制限を受けている。その制限こそが<構造>と呼ばれるものなのだというのが、<構造主義>の基本的な発想なのではないかと思った。マルクスが発見した構造は経済的な構造だ。これ以外にも、マルクスは唯物弁証法という、僕にとってはもっと関心があるものも発見しているが、これは、内田さんが語る「構造主義前史」には関係がない。だから、これが語られていないからといって、そこに不足があるとは僕は感じない。経済的構造が階級意識というものを生み、この階級意識に支配されて人間はものを考えるということが、構造主義にとっては大事なことなのだから、このことこそがマルクスの重要性として構造主義が取り上げるものになるだろう。なおこの階級意識は、自然科学の法則のように例外を許さないものではない。たとえ経済的にはブルジョア階級の出身であろうとも、ブルジョア階級の利益を重視するような考え方をする人間だけが育つとは限らない。より大きな構造を捉えることの出来る人間、例えば<人類>などという抽象概念を基に思考することの出来る人間は、階級意識を乗り越えることも出来る。構造を深く理解すれば、構造にとらわれずに、むしろ構造を改革する思考もすることが出来る。これは、フロイトの場合にも当てはまるだろう。フロイトは、無意識という構造を発見して、人間の思考はこれに支配されていることを示した。やはり人間の思考は自由ではなく構造に支配されている。しかし、この構造も深く理解することによってある種のコントロールが出来る。無意識のうちに失敗することを防ぐために、よけいな手順を入れるという工夫がある。学校には電動の裁断機があるが、これはうっかりミスが大変な大けがにつながる。この裁断機は、両手でスイッチを押さないと動かないような構造になっている。もし片手で動き出すような構造になっていたら、うっかり片手を裁断機の刃の下に置いていたというミスが起こる可能性がある。しかし、両手でスイッチを押さなければならないとなったら、片手を刃の下に置くというミスは絶対に起きない。これは、無意識の構造に配慮した工夫のような気がする。マルクスもフロイトも、人間の思考を支配する構造を解明して、その構造をコントロールして思考の自由の幅を広げる方向も示した。そこが偉大なところなのだろうと思う。このように、マルクスもフロイトも構造を問題にしているのだから、構造主義者と言いたくもなってくるが、そうは言われない。それは、<構造主義>というのは、方法論として、あらゆる思考において<構造>を基礎におくことだからなのではないかと思う。マルクスは確かに経済構造のことを研究したが、それ以外の構造についてはどれだけのことを残しているだろうか。フロイトは無意識の構造を研究したが、やはりそれ以外の構造についてはあまり言及していないのではないだろうか。この二人は、構造を研究したが、それは構造の研究が本質を解明するという法則的な前提をもって研究したのではなく、マルクスは経済現象を深く考察する中でその構造に注目し、フロイトは精神現象を深く考察する中で無意識の構造に注目したのではないかと考えられる。この両者は、結果的に構造に注目したのであって、それが目的ではなかった。これが<構造主義者>と呼ばれる人間との大きな違いになるのではないだろうか。<構造主義者>は、方法論としてハッキリと意識して、目的的に<構造>を分析しているのだと思う。だから、この二人は<構造主義前史>に登場する人なのだろう。構造主義の創始者と言われるソシュールは次の章で語られるが、ソシュールなどは、かなり意識的に構造について語っているのではないかと思う。さて、もう一人のニーチェについてだが、ニーチェも人間の思考が自由でないことを語っていると、そう内田さんが言っているように僕には見える。それでは、ニーチェはどのような構造にとらわれて人間が自由に思考出来ないと言っているのだろうか。マルクスとフロイトについては、僕もある程度の知識を持っていたのでわかりやすかったが、ニーチェについてはあまりよく知らないので、内田さんが語ることを何とか理解すると、次のようなことだろうかと想像する。ニーチェは、普通の人間には「自己意識」が持てないと語ったのではないだろうか。「自己意識」とは、自分を振り返って、自分を他者として客観的に眺めることの出来る意識だ。つまり、自分の感情や感覚という内面から発する主観だけにとらわれるのではなく、自分を突き放して、自分がどんな状態にいるかを、他者のように客観的に判断出来るという「自己意識」が持てないと言うことだ。これは、人間は自分に対する正しい判断は出来ないと言うことを意味する。この「自己意識」を持てないと言う構造が、ニーチェが語った構造と言うことになるのだろうか。「自己意識」を持てない普通の人間は、他者と同じであることで安心するという「畜群」を構成するとニーチェは考えたようだ。そして、この構造を乗り越えるには「超人」にならねばならないと考えたのがニーチェだと、単純すぎる受け止め方ではあるが、構造主義にとっては、そのあたりがニーチェの持つ重要性だろうか。なおこのようなニーチェの考え方は、内田さんは「負の遺産」であると語って、ニーチェから受け継ぐべきは次のようなものだと語っている。「何よりもまず、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持出来ない。過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎付けと、大胆な想像力と伸びやかな知性が必要とされる、と言う考え方です。私はこの点については、ニーチェに全面的に賛成です。」これを読むと、ニーチェの考えた構造というのは、歴史と地域という壁を持つ構造ではないかという気もする。歴史が違い、地域が違うと、その時代・地域に特有のものの考え方に支配されてしまい、その構造から抜け出て自由に思考することが出来なくなる。ただ、ニーチェがここで語る自由な思考というのは、我々が今の時代の思考に支配されて、過去の時代の思考を追体験出来ないと言う意味での思考の不自由を言っている。だから、この構造の壁という不自由を乗り越えるには、構造の壁を取り除くのではなく、むしろ自分が生きている社会とは違う社会の構造という壁を自分で設定するという<想像力>が必要になってくる。これこそが、構造を越える方法だというわけだ。ニーチェは「超人思想」の方が有名で人気があるようだが、構造主義にとっては、むしろ上で内田さんが語っていることの方が大事なのだろうと思う。構造主義前史を飾るこれらの人々が残した遺産を基に、このすぐれた業績を残した3人の考え方のエッセンスを受け継ぐべき構造主義が生まれたのではないかとも感じる。そう考えると、構造主義というのは、当たり前の平凡なことに過ぎないとは言えないし、突拍子もない間違った考えとも思えなくなる。世界の最高の知性が、今まで乗り越えられなかった問題に解答を与えるべく努力した結果が構造主義に結実したとも言えるのではないかと思った。僕は、内田さんの第一章をこのように読んだ。
2005.06.11
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僕は三浦つとむさんを通じて構造主義に触れたので、その批判的側面だけしか知らなかった。三浦さんの批判があまりに見事だったので、もはや構造主義には学ぶことがないと感じるほどだった。それが内田さんの『寝ながら学べる構造主義』を読んで、構造主義に対するイメージが変わった。僕は数学をやっていたので、元々構造というものはかなり馴染みの深いものだった。数学は個別的な対象を扱うのではなく、抽象化された対象が存在する世界の構造を解明することが本来の目的であるような学問だった。だから、その抽象的世界がモデルになるような具体的な世界に応用出来るという関係が生じるのだと思う。ことさら構造を前面に押し出して思考するということにちょっとした違和感があった。構造などはごく当たり前のものではないかという気がしたからだ。だから、三浦さんが批判する構造主義が、現実の分析よりも、抽象化された構造の方を主要な対象にしていることから、現実を無視しているような間違いをしているように見えた。抽象化された構造という存在の方が主であり、現実の存在が従属しているという観念論にも見えてきた。しかし内田さんの本を読んで感じたのは、構造主義的な考え方の歴史的な意義だ。構造主義が、それ以前の常識的な考えをひっくり返すような革命的なものであるのなら、それは多くの人にとって魅力あふれるものだったに違いない。それまではどうしても解決出来なかった諸問題に解答を与えるものだったのではないかと思う。三浦さんは、構造主義者の誤りを厳しく指摘しているけれど、構造主義を唱えた人たちがすべて愚かな考えから構造主義に至ったとは思えない。その時代としては、最高の知性の持ち主たちが構造主義を深めていったように僕には感じる。その最高の知性の人々にとって構造主義の魅力とはどういうものであったのか。それを知りたくなった。僕は、三浦さんの批判を読んで、構造主義についてはよく知らないまま否定してしまった。それがいつも気になっていたが、内田さんのおかげで構造主義の建設的な面を知ることが出来たように感じた。構造主義のすばらしさをもっと理解し、それでもなおかつ構造主義に根本的な欠陥があることが捉えられたら、三浦さんと同じ認識に到達することが出来るのではないかと思う。内田さんから学んだ構造主義の建設面を考えに入れながら、三浦さんの批判をもう一度読み返してみようかと思う。資料として選んだのは、三浦さんが多くの論文を寄稿していた『試行』という雑誌の1968年発行の第26号だ。そこには「構造主義者の妄想(上)」というタイトルで三浦さんの批判が展開されている。この中かから、いくつかの批判を取り上げて考えてみようと思う。構造主義全体に対する批判としてはまず次のように語っている。「我々に妄想ないし詐欺を差し出すフランス人たちは、ソシュール言語学やマルクスの『資本論』について語っているが、いったい観察すべき所を正しく観察しているかどうかが問題である。分析家の特徴は「推論の妥当性よりも観察の質にある」ので、「必要な知識は何を観察すべきかを知ることなのである。」(ポオ『モルグ街の殺人事件』)哲学者たちは文献を前にして文章をあれこれと観察するが、科学者は現実と取り組み現実を深く観察して、現実から体系的な理論をたぐっていく。」三浦さんは、この論文で、構造主義者たちのマルクス批判を取り上げて、それが的はずれであると反批判している。そのポイントが、上に語られているように、マルクスを正しく批判するなら、マルクスの書いた文章を観察するのではなく、マルクスが記述した現実の方を観察しなければならないということだ。現実を観察して、そこから得られる帰結が、マルクスの記述の中に正しく書かれていないということを指摘することこそが正しい批判になる。それを、マルクスの文章を解釈して、その自分の解釈の中に矛盾があるのを、あたかもマルクスが矛盾していたかのように受け取って批判するのは、観察すべき所を正しく観察していないと、三浦さんは判断しているように感じる。このような方法で行われる批判こそが本当の意味での建設的な批判になるだろう。内田さんの文章に対する批判に僕が違和感を感じるのも、どうもその批判のほとんどが文章解釈を基礎にしての批判になっているような気がするからだ。僕は、内田さんが捉えた現実の世界というものが、正しいとらえ方をしているように感じるので、強引な解釈による批判には違和感を感じざるを得ない。さて、三浦さんは構造主義者のマルクス批判を具体的にはどう見ているのだろうか。三浦さんは「彼らは弁証法の諸法則を攻撃して、「対立物の同一性」とか「否定の否定」という「理論仮説」は、ヘーゲル主義の妄想に過ぎないのに、マルクス=エンゲルスがまだそんな「暗喩に過ぎないもの」「曖昧な所定式」をのべているからこそ、マルクス主義が非科学的になり不振や不信を招いたのだと非難する。」と語って、次のような引用をしている。「確かに、マルクスにおける矛盾の概念の特殊な性格が分析されないままだった限り、否定の否定の概念は、対立物の同一性のまやかしが払い落とされたあとにも、合理的なものとして残るように思われた唯一の、ヘーゲル主義的一般概念であった。」(ゴドリエ「『資本論』における体系、構造、矛盾」)構造主義者のマルクス批判は、弁証法の諸法則にあったようだが、これがヘーゲルの弁証法と同じ言葉が使われていたので、ヘーゲル主義の残りかすのように思われていたように感じる。ここに、現実を分析するのではなく、言葉を観察しているだけだという三浦さんの批判があるように思う。三浦さんは、この批判の間違いは、論理レベルの間違いに原因があると見ている。それは、現実を観察することと、その現実を抽象することの関係を論理的に正しく捉えるということを考察することで、その間違いを指摘している。弁証法が曖昧であるとか、暗喩であるとかいわれるのは、それが具体性を排除していることからそのような印象を受ける。しかし、具体性を排除しているということは、それが高度の抽象を経て生まれた概念であるということも意味しているのである。三浦さんは次のように語っている。「特殊性をすべて捨象してしまって、社会や思惟における矛盾のあり方と共通する高度の抽象でその論理を把握した時にこの認識が弁証法と呼ばれるのである。」ある対象に対して、それをよく知らないから曖昧になるのではない。細部もすべて知り尽くしているにもかかわらず、その細部を捨象して、本質を抽象して捉えるので、ある面を無視しているということが起こる。それが、形だけを見ると、対象をよく知らないために曖昧になっているように見えたりする。これはそう見えた人間の解釈であって、マルクスの表現ではないのに、見えたことが存在していると思うことで間違った批判につながる。観念論的な誤りにも通じているのだと思う。またエンゲルスの表現に次のようなものがあることを三浦さんは指摘する。「いわゆる客観的弁証法( Die Dialentik, die sog objektive )は自然全体にわたって行われている。」(エンゲルス『自然弁証法』)ここには、ヘーゲルと同じ用語「客観的弁証法」という言葉が使われている。だから、エンゲルスはヘーゲルと同じ認識を持って弁証法を使っているのだという批判が行われる。これは、まさに言葉の解釈であって、現実を観察して、エンゲルスがどういう意味で弁証法という言葉を使っているかを考えていないということである。三浦さんは、エンゲルスの言葉に「いわゆる」という言葉が使われていることを注意する。これは「ヘーゲル哲学のいわゆる」であって、ヘーゲルはこういう用語を使っているけれども、という意味なのであると三浦さんは受け取っている。三浦さんは、現実に存在する弁証法性と、それを認識として反映した弁証法とを区別している。これは、現実観察から得られた区別であって、マルクスを読んで、マルクスの文章を解釈して得られたものではない。自分で現実世界を観察して、そのような考え方が正しいと確信し、マルクスも同じように考えていたのでマルクスを信頼するという関係になっている。また、ヘーゲルは、この弁証法性と弁証法とを区別せず、弁証法が現実化した発展したものが弁証法性だと捉えてそれを「客観的弁証法」と呼んでいたと考えている。だから、マルクスの弁証法とは全く違うものだと考えているのだが、マルクスを批判する構造主義者は、これを混同して、自分の混同をマルクスの混同だと思い込んで、責任をマルクスに押しつけたというのが三浦さんの反批判になる。このような法則という、認識への反映というものを、三浦さんは<原型>と<映像>という言葉で比喩的にも語っている。現実の弁証法性が<原型>であり、脳に反映された認識としての弁証法が<映像>ということになる。<映像>の段階で、<原型>の末梢的な属性が捨てられ抽象される。そうすると、<原型>は複雑で重層的なのに、<映像>は単純で単層的だと言うこともあり得る。この違いが理解出来なくて的はずれの批判が生まれることもある。三浦さんは次のように語る。「ところがフランスの自称マルクス主義者たちは、弁証法を客観的な矛盾のあり方で解釈したから、抽象の結果として単層になっているマルクス主義の弁証法のあり方を客観的な矛盾のあり方へ押しつけて、マルクス=エンゲルスが原型の方を単層的に扱ったものと思い込み、そこからまやかしとか曖昧とかわめき立てたのである。」ヘーゲルと同じ間違いに陥っていたのは、実は構造主義者の方だったのだ。自分の間違いを自覚出来ず、間違いの原因をマルクス=エンゲルスに押しつけているのが、この当時行われていた構造主義者のマルクス=エンゲルス批判だったと三浦さんは判断しているようだ。文章を解釈するだけの批判には、あまり正当性が生まれないような気がする。批判が批判として正当になるのは、批判したい言説以上に、現実を正しく捉えているということが必要だ。三浦さんの反批判という批判こそが本物の批判という感じがする。なお、この三浦さんの構造主義批判を、内田さんから学んだ構造主義と合わせて考えると、三浦さんの批判は、マルクス批判への反批判という特殊性をもっていると考えられる。構造主義者のマルクス=エンゲルス批判が、どうも観察すべき対象を見誤っていると考えられることに批判の中心がある。つまり、構造主義のすべてを否定しているわけではないのだと感じる。構造主義というものが、必然的にこのような間違いにつながっていくものであるのか、それとも他の正しいものの考え方と共通する正しい面をもっているのか。三浦さんの批判を読み返すことを通じて、そのようなことも考えてみたいと思う。
2005.06.11
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araikenさんは「なぜ私は内田批判をするのか その1」というエントリーの中で、次のように内田さんの論理の矛盾を指摘している。「内田さんは「競争」を批判するようなことをいいながら「競争」を肯定し、追認している」批判をするというのは、ある意味で否定することであるはずなのに、肯定しているというのは、正反対の事柄が両立すると語っている矛盾である。この矛盾が、もし形式論理的なものであるのなら、それは間違いであり不合理ということになる。しかし、弁証法的なものであれば、その矛盾は現実に存在する合理的な矛盾かも知れない。矛盾の中身を詳しく分析しなければならないだろう。araikenさんは、上の言葉に続けて内田さんの次の言葉を引用している。「自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。」この文章は、「2003年 5月3日 憲法記念日なので、政治について考える」という日記の中の文章だ。話のつながりから言えば、araikenさんが語る矛盾が、この言葉にも表れているはずだ。それを探してみよう。競争を批判(否定)しながら実は肯定しているというような所があるだろうか。まずは、「「自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである」と、自由競争から必然的に生まれる違いについての考察が語られる。これは、「生き方」という言葉の定義が曖昧なので、自然法則のような厳密な意味での法則的なものとして必然性を語っているのではない。自由競争(これはネオコンが語る意味で)をすれば、その競争の勝者と敗者が決定するだろう。そうすれば、すべてが平等になると言うことはなく、何らかの差異が生まれる。その差異を解釈する時、それを「生き方の違い」と解釈するか、「同じ生き方の格差の違い」と解釈するか、どちらなのかを内田さんは語っているのだと思う。そして、内田さんは、これを「格差」の違いだと解釈するのだと宣言している。これは、ネオコンのように「生き方の違い」だと解釈してもかまわない。解釈は、どちらが正しいかという白黒は原理的には決められない。解釈はどうにでもなるのである。大事なのは、内田さんは「格差」としてこれを見ていると言うことだ。これが「生き方の違い」だとすれば、基本的にその間に優劣はつけられない。比べる基準がないからだ。しかし、「格差」と言うことになれば、それはある基準をもって比べた結果としての格差になる。例えば、賃金の違いという基準をもって比べれば、賃金が多いか少ないかが「格差」になる。ネオコン的な「自由競争」から生まれるのは、このような「格差」の方ではないかという主張は、僕はその通りだと思う。同意する。なおネオコン的な意味での「自由競争」というのは、ある種の序列の中での競争というものだ。そしてこの序列が、社会の中では共通に受け止められているということが重要だ。誰もが同じ目的の競争をする時の序列だ。そこで少しでも上の順位に行こうとする競争だ。一番になることが目的の競争だ。ある序列の中での順番を争うという基本的性格から、その序列の基準で比べる格差が生じるという必然性も感じる。これが「生き方の違い」という多様性につながらないのは、社会が一つの価値観で序列化されているからだ。多様性が排除されているので、その競争からは多様性が生まれてこない。この部分と、それに続く「量的格差だけが前景化する社会である」までの文章は、直接的には競争に対する批判ではない。客観的判断を語った部分として受け取った方がいいだろうか。批判の部分は、最後の「そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。」という部分に感じられる。ネオコン的な自由競争が支配する社会は「均質的社会」であり「危険な社会」であるという判断がここでは語られている。ここには、直接批判する言葉、そのような社会が問題があるという指摘はされていないが、「危険な社会である」という判断に、これが問題だという内田さんの認識が含まれているものと思われる。以上で、この引用文の分析から得られるのは、これは<ネオコン的な自由競争の批判である>という結論だ。ここには矛盾は見付からなかった。批判した競争の肯定は見られなかったのだ。そういう意味では、矛盾の指摘としては、この引用はふさわしくないと言うことになる。それでは、内田さんの矛盾はどこで見つければいいのか。araikenさんは、この引用に続けて次のようにも語っている。「この内田さんの言葉はあきらかに業績主義的な価値観に沿って行われる一元的な「競争」の批判です。このような量的格差を争う競争がヒートアップしている現状、つまり資本主義の暴走を鋭く批判しているわけです。 にもかかわらず内田さんが何も手を付けずに、ほとんど無邪気に肯定している量的格差を争う「競争」が一つだけあります。………それは学校教育です。」araikenさんが矛盾を感じているのは、内田さんの教育に対する言説のようだ。教育に対しては、競争を肯定しているように見える文章があるという指摘なのだろう。しかし、ここには引用がないので、どこにそれを感じるのかと言うことは分からない。全体的な感じからそういう印象を受けると言うこともあるのかも知れない。しかし、それは、論証という観点からは弱いのではないかという感じがする。ハッキリと特定の部分を指摘して、ここに内田さんの矛盾が現れているという指摘がないと、その指摘にはあまり説得力がないように感じる。araikenさんが同じように考えているかは分からないが、教育においては内田さんが競争を肯定(ないしは黙認)しているのではないかという誤解をしそうな部分の存在は僕も感じるところがあった。しかし、それは僕の感覚では、あくまでも誤解なのであって、「内田さんが何も手を付けずに、ほとんど無邪気に肯定している」ようには見えなかった。僕が、誤解を生じそうだと思ったのは、内田さんの「2005年03月21日 希望格差社会」の中の次の文章だ。「これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。」試験による選別というのは、ある意味での競争を行うことである。しかも、これは点数という序列によって格差を生じさせる競争でもあるから、ネオコン的な自由競争と言ってもいいだろう。一方では、ネオコン的自由競争を批判しながら、ここではそれを肯定しているのではないかと思わせられる。これは矛盾ではないのか。しかし、この肯定は、ネオコン的な自由競争の肯定と同じ肯定なのだろうか。僕にはそう見えなかったので、これを内田さんの矛盾だとは感じなかった。少なくとも形式論理的な矛盾とは感じなかった。矛盾があるとしても、それには合理的な理由をつけられる、弁証法的なものだと感じている。「自己評価をゆっくり下方修正させる」というのは、全く必要のないものとは言えない。誰もが大きな夢を持っていつまでも生きることがいいとは限らない。実現不可能な空想的な夢は、本人にもストレスになるし、建設的でないという面では社会に対してもあまりいい影響は与えない。何らかの方法で「下方修正させる」ことは必要だ。それが封建的な時代には、生まれや家柄などで下方修正していたのではないかと思う。民主主義の時代になって、一応平等化が行われたので、今の時代は、能力で下方修正するというやり方が合理的だということになったのだろう。この下方修正が、どのような方法で行われるかというのは、下方修正の正しさを判断する条件になると思う。その夢を実現させるためにふさわしい能力という面での競争に敗れて下方修正するのは、ネオコン的な自由競争による下方修正には当たらないのではないか。イチローのような優れた能力の人間に野球という世界の競争で勝てないと思えば、自己評価を下方修正していくのではないだろうか。それは、下方修正することこそが正しくて、いつまでも実現出来ない、つまり「イチローのようになる」という夢を持ち続けるのは、本人のためにも良くないのではないか。まだ未知の段階である子供の時に、見果てぬ夢を見るのはいいだろうが、成長と共にそれは下方修正していくのが、大部分の人の生き方ではないだろうか。僕は中学生のころに天才数学者のガロアに憧れたが、成長と共にガロアにはなれないと思って自己評価を下方修正していった。この下方修正が、その場での条件にふさわしくないもので下方修正しなければならないとなったら、下方修正が間違いだと言えるのではないだろうか。数学の世界での夢を下方修正するのに、英語や歴史の能力で判断されたらやはり不合理を感じるだろう。そういうことをしているのが、ネオコン的な、価値の一元化による競争の勝敗の判断ではないのだろうか。本当にその世界でのふさわしい能力という面で、自分を下方修正しなければならないと悟ったら、内田さんが語るように「いささか切ない自己評価を受け容れる」のだろうと思う。それが、本当にふさわしいと思うからこそ「いささか切なく」なる。もし、このような正しい意味での下方修正だったら、それを受け入れることが人生の正しい選択だと思う。そうだからこそ、サマセット・モームが描いた『人生の絆』のフィリップの選択に多くの人が感動して共感するのだろうと思う。そして、「オレ様化した」子供たちは、このような正しい意味での下方修正を受け入れないということが問題なのだと思う。これは、ネオコン的な自由競争の批判とは別の次元で考えなければならない問題だと思う。内田さんが肯定しているように見える競争は、ネオコン的な自由競争とは違うものだというのが僕の受け取り方だ。条件の違う競争は肯定出来る、というのが弁証法的な論理だ。つまり形式論理的な、排除すべき矛盾ではないというのが僕の判断だ。araikenさんが指摘する内田さんの矛盾は、もしかしたら別の所にあるのかも知れないが、もしここの部分だったら、僕はこの矛盾は存在するだけの根拠がある矛盾だと思う。批判の対象にはならないのではないかと感じている。形式論理と弁証法論理という論理のレベルの違いというのが、<誤読>においてはかなり大きな影響を与えるのではないかと思った。
2005.06.10
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sivadさんからトラックバックをもらったので、「2005-06-08 レトリックの効用 」というエントリーを読ませてもらった。ここでは、内田さんの「2005年05月16日 空文の効用」というエントリーの中の、「世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない。(A) だから、平和憲法は空文である。(B)-(C)」という推論に対して批判がされていた。この推論に対しては、内田さんは「ここまでは推論として間違っていない」と判断しているのだが、sivadさんは、この推論には重要な中間項が隠されており、それを補って考えると、推論自体が破綻していると批判している。僕は、その批判自体が論理的に破綻しているように感じた。以下そのことを詳しく分析していこう。sivadさんは、上の文章の最初の命題をAとして、「A→Bに見えるけれど、本当はA→(B)→Cとなっていて、Bは巧妙に隠されているのです」とその批判を展開し、Bとして次のような命題を提出している。「平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである。(B)」これを中間項のBにしたので、前に出てきた上の命題はCということになる。そして次のように判断する。「すなわち、本来は「世界中に平和憲法がある→平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである→世界からは戦争がなくならない→よって憲法は空文」となるはずのものが、途中をすっ飛ばされているわけです。」sivadさんはここに書かれた「世界中に平和憲法がある→平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである→世界からは戦争がなくならない→よって憲法は空文」という論理に対して、「Bの時点で論理的に破綻しており、その後の議論は無効になるわけです」という判断も語っている。しかし、この論理が破綻した理由は、まさにsivadさんが言うように、Bという中間項を挿入したせいなのだが、この中間項は、論理的には全く必要がないのだ。必要のないものを挿入し、その挿入によってこの論理は破綻している。それでは、その中間項の挿入は、内田さんに責任があるのだろうか。内田さんは、このような中間項については一言も語っていない。それが論理的に必要でないことを承知しているからだと思う。さらに言えば、こんな中間項を挿入すれば、その挿入によって論理が破綻することも承知しているから、そんなものを挿入しようなどという発想そのものが生まれないのだろうと思う。結論として言えば、この中間項が必要だと思ったのは、sivadさんの勘違いだと思う。勘違いによって挿入した中間項が、論理の破綻を招いたのだが、それが勘違いだと気づかなかったので、自分が原因で論理が破綻したことに気づかなかったのだろうと思う。内田さんが「ここまでは推論として間違っていない」と判断した論理的根拠を詳しく分析しよう。僕は、sivadさんとは違って、次のような中間項を挿入する。「空文とは、実際の役に立たない文章、効力のない文書のことである。」この3つを並べてみよう。「世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない。 空文とは、実際の役に立たない文章、効力のない文書のことである。 だから、平和憲法は空文である。」「だから」という言葉は、論理的に結論が導かれていることを示す言葉だ。つまり、上の3つの命題が3段論法になっている時に、この「だから」は論理的な妥当性を持つ。内田さんが語るように「ここまでは推論として間違っていない」のである。僕が挿入した命題は、「空文」という言葉の辞書的意味である。つまり、これは正しい命題である。そして、「実際の役に立たない文章」の内容として、「世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない」というものを挙げている。これが、平和憲法が「実際の役に立たない文章」であることを示している事実であると了解出来れば、結論は論理的に導かれる。だから、この推論を批判するには、「世界中に平和憲法がこれだけあるのに、世界からは戦争がなくならない」ということが、「実際の役に立たない文章」の実例ではないということを示さなければならない。これが論理としての批判だ。平和憲法には、日本国憲法にもあるように、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」というような、世界平和を願う言葉が入っている。願う言葉は、言葉としてあるにもかかわらず、その願いが叶わない、ということは、「実際の役に立たない文章」の実例になっていないだろうか。平和憲法が、空文の定義にかなうような存在であると証明されれば、「だから、平和憲法は空文である」と言うことが論理的に導かれるのである。ここまでは、確かに論理としては間違っていない。内田さんが、僕が挿入したような中間項を入れなかったのは、言葉の定義などは、ある意味での予備知識として自明の前提としていたのではないかと思う。あまりにも説明を多く入れすぎると、僕がここで書いているように、ひどくくどい文章になってしまうからだ。内田さんの文体からすれば、そこまでくどく説明はしないというのがそのやり方なのではないかと思う。さて、必要のある中間項を入れれば、この論理は少しも破綻しないで、ある意味ではより厳密になる。ところが、必要のない中間項を入れるとこの論理が破綻してしまうのだが、それではsivadさんが挿入した中間項はどうして必要のない、論理を破綻させてしまう中間項だったのだろう。それは、この中間項が、最初から真理としての性格が薄いものだったからだろうと思う。「平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである」という命題は、sivadさん自身も語っているように、「これは論理的には「世界から戦争をなくす効果を果たすもの」とはなり得ません」と判断されるように、真理とはなり得ないものになる可能性が高い。真理として疑わしいものを推論の中間項に入れれば、それは結論の信憑性を低くするし、しかも、この命題は、その内容からして平和憲法が空文であることと直接の関係がない。空文であることの判断は、現実に効果を果たすかどうかにかかっているが、最初から「効果を果たすもの」という判断をするのであれば、このことによって空文ではないということをいっていることに等しい。空文ではないといいながら、結論として空文であるといえば、これは形式論理においては許されない矛盾を生むことになり、このことによって論理は破綻する。つまりsivadさんが提出した推論「世界中に平和憲法がある→平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである→世界からは戦争がなくならない→よって憲法は空文」は、「よって」という論理的判断がそもそも間違っていたのである。これを、推論だけ正しいものにするには、「世界中に平和憲法がある→平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである→よって憲法は空文ではない」としなければならない。これなら推論としては正しい。だから、結論の正しさを証明したければ、二つの前提が正しいことを示せばいいのだが、これは難しいだろう。だから、形式論理の利用としてはあまり上手なものではないということになる。これは、むしろ次のような形にして利用すれば、もっと実りのある結論を導くことが出来るだろう。「世界中に平和憲法がある→平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものである→だから世界から戦争がなくなる→しかし、世界からは戦争がなくならない→よって平和憲法は世界から戦争をなくす効果を果たすものであるというのは間違いだ」これは数学ではおなじみの<背理法>という証明方法である。なお、ついでに言っておけば、この結論は、「平和憲法は世界から戦争をなくす効果を<必ず>果たすものである」ということは間違いだと、<必ず>という言葉を補って受け取るのが弁証法的な受け取り方だと思う。<必ず>ではないが、果たすこともあり得る。そういう結論が得られると僕は思う。sivadさんは、自分で破綻するような論理を作ってしまい、内田さんがそう主張していると勘違いしているというのが僕の感想だ。このあとに書かれている「既決事実」に関しても、sivadさんが引用している内田さんの文章の前を見ると、その勘違いが分かる。内田さんは、「例えば、1950年に警察予備隊創設のときに、「憲法と現実の乖離」をきらって、「すっきりさせる」というオプションを取った場合に日本はどのような利益を得ることができたのか。その場合、日本は朝鮮戦争やベトナム戦争や湾岸戦争に出兵することが「でき」て、多数の日本人兵士がそこで死傷することが「でき」て、いくつもの都市を破壊し、数千数万の現地国民を殺傷することが「でき」たであろう。その場合に、日本は現在わが国が享受しているよりもどれほど多くの経済的繁栄とどれほど高い国際的威信とどれほど信頼に足る友好関係とどれほど潤沢な精神文化を享受しえたのか。」というように、過去の出来事がもし違っていたらという想像を基に語ることを指して、この想像が「あたかも既決事実であるかのように語る」と言っているのである。事実でないことを事実のように語ることを指して批判している。それでは、内田さんが語る「不思議なのは、このような網羅的な憲法研究の結論が、「だから日本国憲法第九条は空文だ」というものに落ち着くことである。」や「しかし、そのあと日本国憲法はその「空文」を宣告された不戦条約の条項を再び掲げることによってとりあえず戦後60年間戦争をしないできた。」ということは、事実ではなく想像の上だけのことなのだろうか。事実の反対を想像して、こうであったならということを、「あたかも既決事実であるかのように語」っているのだろうか。この批判も、内田さんの論理を使って、内田さん自身を批判する方法としては、どうも妥当性を欠くような感じがする。形式論理に限らず、論理というのは難しいものである。しかし、少なくとも論理についてなにがしかの知識と技術を持っていたら、文学的レトリックだけでだまされるようなことは少ないと思う。論理学者がすぐれた文学的レトリックを使えればだますことも出来るだろうが、論理の専門家でない文学者が使うレトリックでは論理の専門家をだますのはかなり難しいのではないかと思う。もし内田さんが、詭弁論理のレトリックの使い手で、論理の専門家でさえもだますことが出来るのなら、それは内田さんが極めて高度の論理を駆使する人であることを示すものだろう。もし、それほど高度の論理とレトリックを使うのであれば、内田さんの詭弁を見破ることは普通の人には出来ないだろう。僕は、内田さんが高度の詭弁を使っているとは思えない。むしろ、その言及している対象の難しさの大きさが、極めて大きなものであるゆえに、誤解されることが多いだけのことではないかと思っている。無難なことだけを語るのではなく、内田さん自身もまだ確かな解答を出していないことも語るために、誤解されるのではないかと思う。内田さんは、そのように真摯な人なのだと僕は思う。とても詭弁を使う人には思えない。
2005.06.10
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さて、内田さんの「2005年05月16日 空文の効用」というエントリーに対する批判を論理的に考察してみようかと思う。対象とするのは、「フォロー^2」というエントリーだ。この中に現れている論理の混乱を分析していこうと思う。これは、ある意味で、このエントリーに対する批判になる。僕は、批判というものは出来るだけ一般論の範囲でやるように努めてきた。それは、一般論の範囲で十分出来ると思っていたからだ。一般論を個人と結びつけて批判すると、批判の本質は一般論の方であるのに、その個人を批判しているように見えてしまう。それを避けるために、ある種の批判的な思いを抱いたエントリーを見ても、そのエントリーを直接批判するのではなく、それを一般論として設定し直して批判するという方法をとってきた。今回は、内田さんに対する具体的な批判を取り上げて考えなければならないので、どうしても具体的な対象を批判しなければならなくなっている。自分に対する批判を見せられて気分が良くなる人間はいないと思うので、この文章をトラックバックして送るのにはとてもためらいを感じる。しかし、自分の知らないところで自分の文章が批判されているというのは、もっと気分が悪いことになるだろうと思うので、僕がこの文章を取り上げたということを知らせる意味でトラックバックを送ることにしよう。トラックバックというのは、その文章を取り上げて考察したということを知らせる意味で送るのだというふうに割り切って考えることにする。もし、僕の考察が考慮するに値するものではないと思ったら、そのまま無視してくれればと思う。また、考慮に値すると思ってもらえれば、たとえ批判的な語り口であっても、建設的な対話が成立するかも知れない。願わくばそうなってくれることを祈っている。さて、ここで展開されている内田さんへの批判が、論理的に妥当であるかという面からのみ考察していくことにしよう。まずは次の文章を考える。「全体を通して内田氏は、どうも改憲論者というのは憲法9条を廃止して戦争をしたい人のことだとお考えのようである。憲法改正によって「軍事的フリーハンド」を確保すると書かれている点からもそれは言える。いやもちろんそういう人もいるだろう。それは認める。しかし現実の問題として決して多くはないし、また改憲論者とよく言われている勢力がそのような主張をしているわけでもない。」ここで気になるのは、内田さんの言葉では「しかし、「だから、平和憲法を戦争ができるように改訂すべきである」というのは推論として間違っている。」というように「戦争が出来る」と表現されているのを、「戦争をしたい」という受け取り方をしていることだ。戦争が出来るようにしたいという人の中には、「戦争をしたい」という人も含まれるだろうけれど、ここには微妙な意味の違いがある。また、上の文章では、内田さんが改憲論者の大部分を「戦争をしたい人」だと思っているように受け取っている感じがするが、内田さんがそう語っている部分は僕には見付からなかった。だから、「しかし現実の問題として決して多くはないし、また改憲論者とよく言われている勢力がそのような主張をしているわけでもない。」という主張そのものは正しいと思うが、内田さんが、その反対を主張しているという前提は違うと僕は思う。だから、この文章が、もしも内田さんがそう主張していることが間違いだ、という批判だとしたら少々的はずれではないかと感じる。論理的な問題としては、改憲論者がどのような分布をしているかには関係なく、 「平和憲法が空文である ↓(ならば) 戦争が出来るように改訂すべきである」という形式論理的推論が間違っているというのが、内田さんの指摘だ。これは、前回のエントリーでも詳しく考察したが、「空文であれば、そこには何もいいことはない(効用がない)」ということが正しい前提として加わって、この推論が正しい推論として通用するようになる。つまり、結論の正しさを保証する形式論理になる。しかし、「空文であれば、そこには何もいいことはない(効用がない)」ということが正しくなければ(いつも成立する真理ではない)、結論の正しさは保証されない。これは、結論が間違っているということではなく、結論の正しさを保証しないということで、正しいとも間違っているとも、現段階では結論出来ないのだということになる。つまり、上の命題(推論)に対して反対であっても少しもかまわないということになる。だからこそ内田さんは、このことに反対だということを、「空文の効用」というエントリーで説明しているのだと、僕は受け取った。もしかしたら、内田さんが「改憲論者の大部分が「戦争をしたい人」だ」と考えている可能性もある。そうであれば、この批判は、その時には妥当性を持つ可能性もある。しかし、内田さんの「空文の効用」という文章からだけでは、内田さんをそのように受け取ることは出来なかった。だから、あのエントリーに対する批判としては妥当性を欠くだろうというのが僕の感想だ。本質的な部分ではなく、末梢的な部分への批判のように感じる。また、「改憲論者の大部分が「戦争をしたい人」だ」という判断についても、これが正しいか正しくないかを決定するのは難しいのではないかと僕は思う。情報の乏しい大部分の人は、影響力の大きい人の言説で自分の考えを変える可能性が高い。マスコミを握っている権力に近い部分の人間の大部分が「戦争をしたい人」だったら、その宣伝によって世論の大部分を「戦争をしたい人」に導くことも出来るかも知れない。軍国主義下の日本ではまさにそのような状況が生まれていたのではないかとも思える。だから、これも一つの仮説であって、まだ証明されている事実とは考えられない。このあとの論理展開は、内田さんの文章を離れて読めばかなり面白い主張のように感じる。知識として難しい部分も感じるが、おおむね論理的な妥当性はあるのではないかと感じる。しかし、この論理展開が内田さんへの批判だという風に見るのはかなり無理があるように感じた。内田さんの主張は、改憲の根拠として憲法が空文であるということを使う論理がおかしい、つまり論理的に間違っているということだ。そのことに対する批判であるのなら、その論理そのものを考察しなければならない。しかし、ここで展開されているのは、現実の憲法状況に対する認識の問題だ。その状況をどう捉えるかという問題に僕には感じる。だから、その状況を考察する中で、その問題を解決するために改憲が必要だという論理が展開するのは、論理的に見て少しもおかしいことではない。宮台真司氏の改憲論などに僕が共感するのは、そのような現状認識において共感するからである。だから、この展開は、憲法が空文であるという理由意外にも、こんなにたくさん改憲すべきだと考えられる理由があるじゃないかという主張のように見える。これはこれで一つの見識として成立するだろう。しかし、内田さんに対する批判としては妥当性を欠くものだと僕は感じる。この考察の大部分は、内田さんとは関係なく展開してもいいものだし、展開すべきもののように感じたので、的はずれではないかという感想を持ったのだと思う。このエントリーへの批判ではないが、内田さんへの批判として考察の対象になるのは、次の部分かも知れない。「さて最初に述べたように、内田氏は敵のいない場所を撃っている。現実には多様である改憲論を「戦争解禁」という一部に押し込め、それを否定することですべてを否定できたかのように装うこのような手法をポラライズという。しかし思うに、内田氏の魅力はそのポラライズにある。「会議に出ると、世の中には三種類の人間がいるということがよくわかる」というのは、もちろん現実の人間がそれらのカテゴリに完全におさまるわけではないから無根拠な断定である。だがそのポラライズが事柄の本質を突いているときに、それはアフォリズムとなる。氏の手並みはその本質の切り出し方にある。」この批判は、このエントリーを含んで内田さんの文章一般に対する批判になっている。しかし、上に見たように、このエントリーでは、内田さんが<改憲論者の大部分は「戦争をしたい人」だ>と語っている部分は見付からなかった。だから、「ある改憲論を「戦争解禁」という一部に押し込め、それを否定することですべてを否定できたかのように装う」と判断するのは無理があるような気がする。内田さんが主張したいのは、改憲論者がそのような人間であるということではない。内田さんは、改憲論のすべてを否定したいのではなく、空文であるということを根拠に改憲を主張する人の論理的矛盾を批判しているのである。なお、「ポラライズ」というものが、一つの真理を全体に無批判に拡大するものであるのなら、それはいつでも誤謬になるだろう。この判断は、しかしかなり難しいのではないかと思う。それは抽象のレベルというものを正しく判断しなければならないからだ。高度に抽象化された数学では、任意の対象であるxについて成立することは、すべての対象に対して成立すると考える。つまり、純粋の抽象的世界では、一つに対する事実がすべてに対して通用してしまう。それは、抽象化することによって、「すべて」の範囲を限定しているからである。「すべて」の中に未知なる想定外のものが入り込まなければ、「すべて」に言及することが出来るのである。内田さんが語る抽象のレベルがどこにあるかで、それが「ポラライズ」という誤謬であるかどうかという判断も変わってくるだろう。現実に即して厳密に分類することを考えれば、どんなに慎重な分類をしても、現実にはその分類からはずれるものが出てくる。分類そのものを批判することが出来る。しかし、そもそも分類という行為が、自然の中に人為的に区別を導入して、無理やりレベルを切断するという抽象的なものだ。分類をしたということで、すでに抽象的なレベルに入り込んでいると考えなければならない。内田さんが、「会議に出ると、世の中には三種類の人間がいるということがよくわかる」と語る時も、現実にこれからはずれる人間は「その他」とでもして分類しておけばいいと僕は思う。そして、内田さんの考察からは、「その他」は今のところ対象として取り上げる必要がないという捨象をされているのだと僕は受け取る。抽象というのは常に捨象を伴う。つまり常に現実のある部分を無視しているのである。抽象において捨象した部分を、考慮に入れていないから現実のとらえ方として間違っているというのは、やはり批判としては的はずれのように感じる。その捨象の仕方に問題があると指摘するのが、本来の論理的な批判のあり方ではないかと思う。そういう意味では、刑法をたとえとして展開されている最後の内田さん批判も、内田さんが展開している抽象に対する批判ではなく、「ポラライズ」に対する批判のように見える。これが内田さんにも当てはまるということに同意するには、内田さんの主張が「ポラライズ」という論理的な誤りを含んでいるということに同意しなければならない。これに同意出来ないと、結論が「ポラライズ」を正しく批判していても、それが内田さんへの批判だということに同意出来ない。それが形式論理というものだ。僕は、このエントリーに対してかなり批判的な考察をしたが、それは、このエントリーが考察に値するだけの水準の高いものだと感じたからだ。もし、簡単にその間違いが分かるようなものだったら、僕は考察することなく見捨てておくだけだっただろう。ここでの内田さんへの批判は、単に悪口を言っているのではない。それと同じように、僕の批判も、単に悪口を言っているのではないと受け止めてもらえるとありがたいのだが。
2005.06.09
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sivadさんから、内田さんの「2005年05月16日 空文の効用」というエントリーに書かれた文章への批判として、面白いものを紹介してもらった。僕がそれを面白いと思うのは、そこに書かれていることが、論理的には整合性がとれているにもかかわらず、内田さんへの批判としては的はずれのようなものを感じるからだ。つまり論説としては正しいにもかかわらず、それを内田さんが主張しているとするのは間違っているのではないかという感じがするのだ。これは、僕が関心を持っている<誤読>に通じるものがそこにあるのを感じさせる。その感じを説明すると、抽象的には、論理のレベルの違いを混同しているのではないかと言うことだ。僕は、形式論理と弁証法論理を区別して捉えることを自分の方法論としているが、これは、その扱う対象が違う論理なので区別しなければならないと考えている。形式論理は、あくまでも抽象化された対象の間に成り立つ、思考の上での関係を判断するもので、矛盾を許さない論理である。それに対し弁証法論理の方は、現実の複雑性をそのまま反映して、矛盾の存在を認め、それに対してそれが存在することの整合性を見つける論理というふうに捉えている。形式論理の方は、抽象的な対象が相手なので、その抽象的な対象の存在そのものはあまり問わない。むしろ、その時の論理的な関係の判断である推論が重要になる。推論の必然性こそが形式論理では大事なことになる。前提から結論が導かれることに必然性があると証明出来ることが大事なことだ。それに対し弁証法論理で重要なのは事実だ。事実として確かなことが言えるということが重要で、しかもその事実に相反するような性質があった場合、その相反するような矛盾に見えるものが、何故に存在するかということを整合的に説明することが弁証法論理の役割だと僕は考えている。形式論理は矛盾を許さないので、形式論理を批判するにはそこに矛盾があることを示せばそれですむ。しかし、弁証法論理は、矛盾が存在する対象にこそ使われる論理なので、矛盾を指摘したからといってそれで批判が成り立つわけではない。つまり、形式論理の批判と弁証法論理の批判では、批判の方法が違うというのが僕の考え方だ。紹介してもらったエントリーでの内田さんへの批判は、形式論理に対して弁証法論理で批判し、弁証法論理に対して形式論理で批判しているような感じがした。そこが的はずれではないかと感じた理由だろうか。それぞれの論理は正しいように感じるのだが、批判の方法としてはずれているような感じがするので、このような感じを受ける。もっと単純にいえば、論理の批判に事実を対置してもそれは批判にならないし、逆に事実の批判に論理を対置しても批判にならないということだ。論理は論理として批判しなければならない。論理の批判は、推論の批判でなければならない。事実の批判は、事実が正しいかどうかの批判でなければならない。抽象的にはこのように考えているのだが、これを具体的に展開するために、まずは内田さんの文章を論理的に分析してみようかと思う。論理的な分析というのは、形式論理の表現と弁証法論理の表現とを区別するということだ。内田さんの文章のどこがそのように受け取れるかというのを見てみようかと思う。まずは、この内田さんのエントリーでの内田さんの主張を僕なりに受け止めたものをまとめておこう。内田さんは、ここでいったい何を言いたかったのだろう。それは、僕には次のようなものに思われる。<それが「空文」だからという理由で、その存在意義がないとは必ずしも言えない。つまり、たとえ「空文」であっても、現実に役に立っているというケースは事実としてあり得る。だから、「憲法9条」は「空文」だから変えた方がいいという議論には賛成出来ない。>この場合の「空文」という言葉の意味は、辞書的に「実際の役に立たない文章。効力のない文書。」という意味で捉えておく。憲法9条に関連させて言えば、世界平和を謳っているのに、実際の世界平和の実現には全く貢献していないと言うところを「空文」というふうに理解する。さて<それが「空文」だからという理由で、その存在意義がないとは必ずしも言えない>というのは、形式論理の命題だろうか、それとも弁証法論理の命題だろうか。もし弁証法論理の問題であれば、その反対である<「空文」という理由で、必然的にそれには存在意義がなくなる>という命題が両立するという矛盾が許されなければならない。この文章は、一方が成り立つと他方が排除されるという解釈しか許さない。両立することのない文章だ。つまり、形式論理的な命題になる。これは、「必然的」という言葉が、事象の「すべて」を含んでいるという言い方になるせいである。「すべて」に関わる言明というのは、形式論理でしか語れないのである。「すべて」を包含すると言うことは、現実の条件を捨象しなければならない。「想定外の条件」が入るようでは「すべて」を把握出来ないからだ。弁証法が矛盾を許すのは、「想定外の条件」が矛盾を生じさせるからである。例えば<人間は生きている>という命題を考えた時、その反対の<人間は死んでいる>という命題は弁証法論理になりうる。つまり両立することがあり得る。矛盾の存在を整合的に理解出来る。これは<生きている>と<死んでいる>という言葉が、厳密には定義出来ないことから弁証法的に捉えざるを得なくなるのだ。「すべて」の状況に関わって<生きている>と言うことを定義することが出来ない。全体としての人間は生きていても、細胞単位での人間は死んでいると解釈することも出来る。この解釈を許すと言うことの中に弁証法論理が生まれ、その論理で対象を捉えない限り、その解釈での理解は出来なくなる。<それが「空文」だからという理由で、その存在意義がないとは必ずしも言えない>という命題は、形式論理として捉えなければならない。これは、矛盾を許さないので、その反対の命題とどちらが正しいかというのを論理的に決定出来る。内田さんは、<たとえ「空文」であっても、現実に役に立っているというケースは事実としてあり得る」という実例を挙げることで、この命題が正しいことを証明している。論理的には、存在意義があるものが一つでも存在すれば、それはこの命題の正しさを証明するものになるから、内田さんの論理展開そのものは間違いではない。しかし、ここでは事実が上げられているということが問題になる。論理展開は批判出来ないが、事実を批判することは出来るからだ。内田さんが挙げたものが事実ではないということになれば、命題はまだ証明されていないと言うことになる。しかし、だからといって反対の命題が正しいとは言えない。反対の命題は「必然性」を含んでいるので、現実からの証明は出来ないからだ。有限の対象に対して成立したからと言って、「すべて」に対して成立するとは言えないからだ。このあたりのニュアンスは、内田さんも次のような言葉で語っている。「ある法律が「空文である」という事実は、それが「存在すべきでない」という結論に論理的にはつながらない。」「しかし、「だから、平和憲法を戦争ができるように改訂すべきである」というのは推論として間違っている。」この「だから」には、「すべて」の対象がそうなっているの「だから」という論理が含まれている。だから、「ある法律」という有限個の対象で確かめただけでは、論理的にこの命題を結論づけることは出来ないのである。内田さんの証明が、事実の指摘が違うと言うことで否定されると、この命題はどちらが正しいか証明出来ないという判断になるだけで、ある意味では、ゲーデルの不完全性定理のような状況になるのかも知れない。形式論理としては、どちらかが正しくなければならないが、人間にはそれが決定出来ないと言うことも言えるかも知れない。さて、この命題にはこのような論理的な問題もあるが、もう一つ重要なのは、<「空文」であっても役に立っている>という現実的な判断において、その認識が食い違う可能性があることである。何を空文と判断するかと言うことや、どのような状態をもって役に立っているということに同意出来ないと、「必ずしも言えない」と言うことの現実的根拠として、<「空文」であっても役に立っている>という事実が、事実として認められないと言うことになるからだ。これを事実として認めなければ、内田さんの証明は、その根拠を失ってしまう。その意味では、内田さんの文章に対する批判の一つは、この事実の点に対するものであれば正当性を獲得するだろう。しかし、この事実を認めれば、その結論に至る推論は承認せざるを得ないのではないか。つまり、論理そのものは批判出来ないのではないかと僕は思う。「空文」であるということが、必然的に存在意義を失うものであれば、どんなに心情的に改憲に反対したくても、<「憲法9条」は「空文」だから変えた方がいい」と言うことに反対することは出来なくなる。それが論理というものだ。しかし、これに必然性がないとすると、論理的には、反対してもいいということになる。つまり、内田さんの「賛成出来ない」という主張は正当性を持ちうる。内田さんのこのエントリーでの主張は、このように抽象的な論理によって導かれる結論であると僕は思う。だから、本質的には、この論理に反対であるかどうかが批判の中心になるべきだろうと思う。もちろん、他の部分に対する批判もあり得るだろうが、それは本質ではなく、かなり末梢的なものだと僕は思う。内田さんの文章は、この部分は推論を語っている、すなわち形式論理を展開しているという部分や、事実を語っている、すなわち弁証法論理を語っているという部分がある。それを注意深く区別して読まなければならないだろう。そして、結論を語った判断の部分もあれば、それをまだ事実として確認していない<仮説>の部分もある。これらをハッキリと意識して読まないと<誤読>することになるだろう。次のエントリーでは、今度は具体的な批判の方を論理的に分析して、形式論理を形式論理として正しく受け止めて批判を展開しているかを見てみようかと思う。弁証法論理に対してもそうである。それから、<仮説>を事実と間違えて受け取っていないかも注意しなければならない。そういう分析をしたくなる対象として、大変面白い文章だと思った。
2005.06.08
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araikenさんが「なぜ私は内田批判をするのか その1」というエントリーを書いてくれたので、僕が考える意味での<誤読>という言葉のより厳密なイメージと、内田さんの文章に対する読みの違いが、自分なりに解明出来てきたような感じがしてきた。araikenさんとのこの対話は、僕にとっては非常に建設的な結果をもたらしつつあると感じるが、araikenさんにとっても同様に建設的だったなと感じてもらえると嬉しいと思う。まずは<誤読>という言葉について、今回発見したことを記しておこう。この言葉は、何か自分が間違っているという指摘のように感じるようで、ちょっとイメージが悪いようだが、この言葉のおかげで<正読>とでも呼ぶような正しい読み方はどういうものかというイメージが浮かんできた。人間が文章によって表現するものというのは、その表現者の頭の中にある<認識>というものだ。これは三浦つとむさんが語っていたことだが、例えば客観的存在を指していると思われる「犬」というような名詞だけを表現した場合も、自分がそこに見た対象は「犬」という種類の存在だという判断を語っているのだと受け取ることが出来る。判断そのものが表現されなくても、その表現をたどっていけば表現者の判断にたどり着く。だから、正しい読み方というのを、このような表現者の認識をそっくりそのまま受け取るということだと考えると、それはあり得ないことになってしまう。なぜなら、表現は認識のすべてを表現出来るわけではないし、正確さも100%にはならないからだ。これは、認識のレベルでは個別的・具体的だったものが、文章という言語表現のレベルになると一般的・抽象的にならざるを得ないということも影響している。正しい読み方というのを、上のような意味で考えるとそれはあり得ないことなので、文章を読むということはすべてが<誤読>なのだと考えることも出来る。しかし、このような考え方はあまり実りのある方向への論理的展開が出来ない。もっと実りある方向はないかと探していたら、文章表現の客観性という面に注目してみたらどうだろうということが浮かんできた。文章というのは、一度表現されてしまうと、その表現者を離れて存在するものになる。表現者がどのような人間かというのを考慮に入れずに、表現された言葉だけからその内容を受け取るという対象になりうる。表現者のことをあまりよく知らなくても、書かれた文章を客観的対象として、客観的に正しく読むということを考えられないだろうかと思った。それは、その文章に表現されている事柄を、客観的対象として設定出来るかどうかに寄っているような気がした。客観的対象として設定出来れば、表現者がどう思っているか、どう考えているかに関係なく、自分自身でその客観的対象を考察することが出来る。そこに表現されている客観的対象を、自分で考察して自分の判断を引き出すことは、その文章を読むこととは違うことになるので、その結論を出したからといって正しく読んだと単純には言えない。しかし、自分で出した結論が、現実を正しく認識したものであり、論理的に正当な結論であった場合、その結論と比べて、読んだ文章がその現実を正しく表現しているか、結論を正しく表現しているかという判断が出来るだろうと思う。客観的対象の正しいとらえ方と、そこから導かれる正しい判断が、そこで読んだ文章にも確かに表現されていて、同じものだと受け取れれば文章そのものが正しいと受け取ることが出来るだろう。しかし、そのように表現されていなければ、文章には間違いがあると受け取るだろう。どちらの受け取り方にしても、自分の方に現実に対する受け取り方の正しさがあれば、文章そのものの正しさを判断出来る。これが正しくできた時<正読>つまり正しい読み方が出来たと言えるのではないか。正しい読み方の判断には、現実を正しく捉えたという基礎があるような気がする。例えばマルクスの『資本論』を読む時に、自分自身に「資本」というものの正しいイメージがあって、そのイメージと現実から、正しい筋道で論理的展開を捉えていれば、マルクスが書いている内容が正しいものであるかどうかの判断が出来るだろう。そういう時に、マルクスの『資本論』が正しく読めるのではないかと思う。つまり、その内容について、読む前から深い知識と理解をもっている時に限って正しい読み方が出来ると言えるのではないだろうか。その条件がない時は、<誤読>することが普通なのであると思う。内田さんが語ることについて僕が関心を持つのは、僕自身にはまだ分からないことを語っている時が多い。分かり切ったことを書いてあっても、おそらくそのことに関心を持たないだろう。だから、僕は内田さんが書くことの内容を、書く前に完全に把握して理解していることはない。内田さんによって新たな発見をさせてもらう内容ばかりだ。内田さんによって、現実の対象の見方を教えられ、その判断を教えられるのだから、内田さんの言うことをかなり素直に受け取るのは極めて自然なことのように思う。僕が内田さんの文章を読む姿勢というのは、出来るだけ<誤読>をしないように、内田さんが語る現実の対象を、出来るだけ忠実に設定出来るように努力するということになる。そして内田さんが語る現実を正しく認識出来るようになったら、今度は内田さんの表現を客観的に受け取って、それがうまく表現出来ているかを感じることが出来るだろう。僕は、内田さんという人は、かなり的確に表現している人のように感じる。それは、内田さんが説明してくれたことによって、自分は現実を正しく捉えることが出来るようになっていると感じているからだ。正しい読み方というイメージについては、上のようなものがかなりハッキリと自分に意識されてきた。また、このようなイメージとつながって、araikenさんと僕との読み方の違いというのもハッキリしてきたような感じがした。araikenさんは次のように内田さんの文章を捉えている。「内田さんの論理の矛盾を突くことは、すでに458masayaさんへの回答において示したつもりです。ですがもう一度大事なところだけ抜き出すとするなら、内田さんは「競争」を批判するようなことをいいながら「競争」を肯定し、追認している、ということころです。この矛盾した内田さんのスタンスが私には正直言って理解しがたい錯誤にしか思えないのです。」araikenさんも、内田さんが語っている現実の客観的な対象の間の判断には、自らも認められるものがあると受け取っていると思う。しかし、その表現がふさわしくないと感じているのではないだろうか。それは「論理の矛盾」という指摘に現れているように感じる。「論理の矛盾」というのは、僕には「形式論理の矛盾」という意味で受け取れる。矛盾にはもう一つ「弁証法論理の矛盾」があるが、こちらの方は、現実に存在する矛盾を捉えたもので、反対の性質を持ったものが何故に存在するかと言うことを整合的に受け止めるための「論理の矛盾」だ。「弁証法論理」は、その存在を批判するものではなく、むしろそれが存在する条件を了解することが矛盾の正しい理解になる。araikenさんが受け取る「論理の矛盾」(形式論理の矛盾)を、僕はそうは受け取らず、「弁証法論理の矛盾」すなわち、現実に存在する客観的な矛盾に見える事柄を語っているように見える。内田さんが「競争」を批判するのは、現実的な問題が存在すると言うことが出発点になって批判をしているのだと思うが、「競争」のすべてが批判されなければならないわけではないと思う。だから、ある条件の下では肯定し追認していても不思議はないと思う。これが弁証法論理のとらえ方だ。araikenさんが形式論理の矛盾だと捉えている事柄を、僕は弁証法論理の矛盾だと受け取っているところに違いがあるような気がした。このあたりのことを、araikenさんが引用した内田さんの文章を解釈することでまた考えてみたいと思うが、ここまでで十分長くなってしまったので、具体的な分析は次のエントリーで行うことにしようと思う。araikenさんがどの部分を形式論理の矛盾として受け取っているのか、その部分を、僕はどうして弁証法論理の矛盾として受け取るのか、その違いを考えてみたい。araikenさんが、内田さんのこの部分を形式論理の矛盾として受け取っているだろう、というのは僕の読み方だから、もちろんこの読み方にも<誤読>の可能性がある。もし僕が<誤読>しているのであれば、その部分を指摘してもらえるとありがたい。そこからまた建設的な対話が発展するのではないかと思う。
2005.06.07
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「2003年 5月3日 憲法記念日なので、政治について考える」というエントリーで、内田さんは、ネオコンの特性を「(1)元左翼「転向」組なので、リベラル派に対して近親憎悪的怨念を抱いている (2)平等主義を嫌い、自由競争による社会の多様化をめざしている (3)競争で脱落してゆく弱者に対する配慮は「宗教的道徳性」によって担保される」という3つにまとめていた。そして、この主張と内田さん自身の主張がかぶるところがあると認めながらも(これは、抽象的な判断ということに限れば、論理的に整合性がある判断は、正しい論理を使う限りは、かぶって当然のことになる)、温度差があると語り、その具体的な批判を展開していた。(2)の「多様化」に関しては、その「多様性」を巡るイメージの違いが温度差に当たるものだと僕には感じた。(3)の「宗教的道徳性」に関する温度差は、川仁さんが問題を指摘している「宗教のように合理性を超えた絶対的な道徳心」あるいは「超越的な道徳観(宗教)」と呼んでいるものにあるような気がする。内田さんが指摘するように、ネオコン的な「自由競争」は、必然的に格差を生むのだが、ネオコンはそれを「多様化」と捉えて、それが弊害を生むほどひどくならないように、「宗教的道徳性」によって格差を埋めようとしている。しかし、これはうまくいかないのではないかというのが内田さんの主張だと僕には感じる。この内田さんの主張を、より抽象的に表現すると、表題にしたような「善の義務化」というものの是非を考えることになるのではないだろうか。どんなに道徳的に正しいと思われることでも、それが道徳的であればあるほど、自発的な自由意志によってその実現を図らなければならないものであって、決してある種の規制をもって押しつけるものではないという気がする。それが道徳的には正しい行為であっても、強制的にやらせようとすれば、それは形のみが実現されることになり、内面が無視されるようになるだろう。面従腹背の形をとるに違いない。本当の意味で「宗教的道徳性」が実現されていれば、弱者に対する救済も実現されるだろうが、形骸化した形だけのものが実現されているようなら、それは全く本来の目的を実現しないものになってしまうだろう。「善の義務化」という話では、板倉聖宣さんが作った仮説実験授業の授業書の『禁酒法と民主主義』『生類憐れみの令』という二つのものが、これが必然的に失敗の結果をもたらすことが社会の法則であるということを証明しているように思った。飲酒の害悪をなくそうとする「禁酒法」は、善であることが明らかである行為を人々に強制しようとするものだ。しかし、禁酒というのは、かなりの意志の強さをもってしても難しい行為である。「飲まずにはいられない」状況というものがある場合、そのストレスに打ち勝って禁酒をするというのは難しい。飲酒を取り締まる「禁酒法」を設定するよりも、むしろ「飲まずにはいられない」という状況を改善する方が、飲酒の害を減らすには効果的である。「生類憐れみの令」は、生き物を大切にするという道徳を人々に押しつけるものだった。これも、道徳としてはその正しさを誰もが認めるものだろう。しかし、この道徳を常に最優先させると言うことは現実的には無理がある。この道徳と、自分の利害とが衝突した時に、常にこの道徳の方を選ぶという生き方は普通の人間には難しい。綱吉という人は、自らはこの道徳を守った人のようなので、その点では非常に立派な人なのだが、誰もが出来ると考えることには無理があったように思う。正しい道徳を実現する時、ついその道徳に反した行為をする人を、厳しさが足りないからだといって取り締まることで道徳の実現を図る道というものがある。「禁酒法」や「生類憐れみの令」はそのような方向を取ったものだ。しかし、現実の条件として、その道徳の実現を阻害するものがある場合、条件を改善するのではなく、厳しさを追求する方向は、結果的に目的と逆のものを生む。人々は、その厳しい取り締まりを逃れることが第一の目的になり、道徳性を自らに育てることは出来なくなる。それがよい行いだからやるのではなく、罰則を逃れたいのでやらないようになる。面従腹背ということも起こる。「生類憐れみの令」の場合は、本来の目的は、動物を大切にする心を育てると共に、そのような行為が出来る人間にすることだろうと思う。しかし、動物に関わればいつこの法律に違反するか分からないということになったら、積極的に動物に関わる人間はいなくなるだろう。生き物を大切にするという道徳は社会から忘れられていくことになる。自発性を元にして本当の道徳性が発揮されるのに、その自発性を育てるのではなく、むしろ自発性を殺す方向に行くのが、「善の義務化」とでもいうような道徳の押しつけである。ネオコンが考える「宗教的道徳性」も、このようなものと同じ構造を持っていると思われる。ネオコンが考える方向で、このような「宗教的道徳性」が押しつけられたら、弱者が救済されるのではなく、その意図と反対のひどいことが弱者へ行われるようになるだろう。川仁さんが次のように語っているが、僕も同じような予想を持つ。「しかし、上のようなクリストルの議論を読んで問題だと思うのは、やはり「超越的な道徳観(宗教)」の部分ではないか。その道徳観がどういう構造を持ったものなのかにもよると思うけど、クリストルが言うような新保守主義の道徳観は、「明瞭」すぎて恐ろしいと思う。クリストルやポドレツは、新保守主義はイデオロギーではないと言っているらしいが、そんな「道徳」を社会に押しつけたら、社会が「均質化」してしまうだろう。「経済のではなく、道徳の貧困と戦い、社会を道徳的に均質化することによって統合する」というのが、新保守主義の目指すところなのだろう。その裏には、必ず他者への抑圧があると思う。それが良い社会なのだろうか。」川仁さんのこの言い方はかなり抽象的なものだが、これを具体的なたとえとして展開したのが、内田さんの「愛国心」を巡る話のような気がする。「愛国心」というのは、本来はとても複雑で判断が難しい内容をもっている。人によってその考え方に違いがあるのが当然のことだ、と内田さんも語っている。それは、その定義を順に追いかけていくと、そこで決定的な意味を持つ言葉が確定出来ないことから、そのことが言える。内田さんは、「愛国心」の定義として次のようなものを上げていた。「私の定義によるならば、「愛国心」とは「国益の最大化を優先的に配慮する心的活動」である。それ以外にもっと「正しい」定義があるというなら言っていただきたい。」この抽象的な定義を共有出来たとしても、今度は、「国益」という言葉が何を意味するかが共有出来るかということが問題になる。内田さんは次のように語る。「「国益」とは、端的にこの国民国家の全構成員の生命身体財産の効果的な保護と、人間的自由の保全のことである。」この抽象的な定義に同意して、この定義を共有出来るだろうか。また、共有したとしても、今度は、「何が国益か」という点が同意出来なければ、それを基にした「愛国心」についても同意出来るかどうかが難しくなってくる。特に、利害が衝突するように見える問題で、どちらの利益を優先させるかという判断において、この「国益」は必ずしも一致しない。内田さんは、小沢一郎と自分との「普通の国になる」という国益を比較して、このことのたとえとしている。そして、その判断については、自分が正しいのか小沢一郎が正しいのかは分からないという判断をしている。それは結果を見てみないと言えないことなのである。このような問題で、実践的にどうするかを判断しなければならなくなったら、今の社会では民主的な手続きで決定するしかないだろう。しかし、民主的に決定したからといって、「国益」の判断が正しいとは限らない。「国益」とはそういうものだ。このように、「愛国心」というのは大変難しいものなのだ。その「愛国心」を簡単に査定しようとする方向に対して内田さんは強い批判をもっている。複雑な構造を持っている「愛国心」を、あまりに簡単に明瞭に判断しすぎているのである。その恐ろしさを内田さんは次のようなたとえで語る。「その私に向かってもし六年生のクラス担任教師が、「祝日に家の玄関に国旗を掲揚しない」とか「君が代を大きな声で歌わない」とか「伝統文化を軽視し、フランス人の本などを耽読している」というような理由で、「日本人としての自覚が足りない」とC査定を下したなら、私は口惜しくて涙を流すであろう。逆にもし小学生が右翼の街宣者で校庭に乗り付け、戦闘服で国旗に敬礼して、「海ゆかば」を絶唱し、唱和しない同級生を殴り倒したら、教師たちは彼の「日本人としての自覚」の評点をAにするのだろうか?(それを拒むどのような理由を彼らは思いつけるだろう?)」このたとえは、現実の「日の丸」「君が代」の押しつけを見ていると、単なるたとえ話で終わっていない部分もあるようだ。これを内田さんは、「愚かな話だ」と一刀両断にする。僕もそう思う。内心の自由を主張する人に対して、法的側面での最近の動きを見ていると、川仁さんが危惧するような「必ず他者への抑圧がある」という指摘が正しいという感じがする。「善の義務化は成功するか」というのは、反語的表現で、僕の主張は、そういうものが成功するはずがないというものを含んだ言い方になっている。内田さんが、ネオコンの主張に温度差を感じるのも、このあたりの社会法則を捉えてそう感じているのではないかと思う。ネオコンは、そもそもの「多様性」という考え方でぼたんを掛け違えているので、それが「道徳」の考え方にもねじれを与え、結果的にひどい方向への論理になっているような感じがする。それに対して、内田さんの語る抽象論は、僕にはとてもすっきりと納得のいく論理のように見える。そして、その抽象論から展開される具体的なたとえ話は、これも現実の例と合わせて考えると、抽象論の正しさを補強するもののように見える。「愛国心」というものの抽象的イメージが明確になったという点でも、このエントリーはとても勉強になったと思う。
2005.06.05
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araikenさんが「センセー、やっぱり違うと思います! その3」というエントリーで語っていた内田さんの文章に対する感想について、実際の内田さんの元の文章を詳しく読んだ時に、僕自身はどう感じたかというのを考えてみたい。araikenさんが語るように、「実は、内田氏が否定したいのは「競争」そのものではなく、「オレ様化」したバカどもの盲目的な「競争」だけなのです。身の程知らずな奴らが「無限の可能性」というイデオロギーに踊らされ「競争」をヒートアップさせ資本主義を暴走させるのだ。バカどもさえ何とかなれば社会は安定するのに…………ってぼやいてるだけです。バカはおとなしく社会の下層に降りて「かけがえのない」(つまりバカにしかできない)下層での仕事をきっちりこなし、システムを下支えしなさい! ってわけです。」と感じられる部分が見付かるかどうかを考えてみよう。また、araikenさんは、内田さんの文章から、内田さんの思想を次のようなものとして抽出している。「たぶん内田氏は学校での「競争」、業績主義的価値観の成功物語にのっかって努力する人以外信用できず、そこから降りる人の存在が許せないのでしょう。そういう奴は行くべきところ(社会の下層)に行きなさい! 原初に「学び」を降りる者の排除ありき………これが内田氏の思想のエッセンスです。」これについても、論理的に導かれるものであるのかを考えてみよう。論理的に導かれているものなら、その結論に関しては、いくら心情的に反対でも、前提を認めた時には認めざるを得ない。それが論理というものだ。また、僕は内田さんを決して無批判に支持しているのではないと自分では思っているのだが、内田さんを支持する人の心情というのも考えてみたい。上の文章に続けてaraikenさんは、「おそらく内田氏の考えを無批判に支持するのは、内田氏と似た境遇にある学校の先生や優等生、あるいはそれに近い立場の人じゃないかと私は想像します。」と書いているので、自分自身を振り返りつつ、僕はどうして内田さんの考え方を支持するのかという理由を考えてみようかと思う。参考にするのは、 「2003年 5月3日 憲法記念日なので、政治について考える」という内田さんのエントリーだ。まずは、このエントリーで内田さんが語ることの中心となるものを探してみよう。ここで内田さんが言いたいことは、端的に言えばどのような言葉でまとめることが出来るか。内田さんは、このエントリーで、いわゆるネオコン(「新保守主義 neoconservatism」)を取り上げて考察している。内田さんは、河仁さんという方の文章から、ネオコンの特徴を次の3つにまとめている。「(1)元左翼「転向」組なので、リベラル派に対して近親憎悪的怨念を抱いている (2)平等主義を嫌い、自由競争による社会の多様化をめざしている (3)競争で脱落してゆく弱者に対する配慮は「宗教的道徳性」によって担保される」これを、内田さんは自分の主張ともかぶっていると言っているが、「温度差」があるとも語っている。その「温度差」は、「多様性」と「倫理性」と言うことで言い表される部分に特に大きいようだ。この「温度差」がどういうものであるかを語ると言うことが、このエントリーの中心の話題であるように僕は感じた。さて、そうすると、このエントリーからは、araikenさんが語るような感想は直接は得られないような気がする。内田さんが語るのは、ネオコンが主張するような「自由競争」が「多様性」をもたらすかどうかと言うことであり、「「オレ様化」したバカどもの盲目的な「競争」」のことではないからだ。それでは、直接的には語られてはいないが、間接的に、このような競争を語っていると解釈出来そうな文章はあるのだろうか。それも、araikenさんが語るように、「バカはおとなしく社会の下層に降りて「かけがえのない」(つまりバカにしかできない)下層での仕事をきっちりこなし、システムを下支えしなさい」という意図が見えるような解釈の出来る文章があるかどうか探してみよう。内田さんも社会の「多様化」を求めていることではネオコンの考え方とかぶってはいるが、それが「自由競争」によってもたらされるとは考えていないところに温度差がある。ネオコンが語る「自由競争」による差異というのは、内田さんから見ると、種類の違う「多様性」ではなく、同種のうちのレベルの違い(数値で測られる量の違い)である「格差」に過ぎないものに見えるようだ。つまり、内田さんが問題にする競争という言うのは、同一のゴールを目指す「自由競争」というものであり、価値観の違う別の種類のゴールを目指すものではない。ゴールが別の所にあれば、一番というのはあまり意味をなさない。どちらで一番になっても、どっちも価値があるので、その価値に優劣はつけられない。これが本当の多様性だ。しかし、ゴールが同一であるなら、一番は他のものよりも高い価値を持つことになる。内田さんが考える「多様化」は、違う種類のゴールがたくさんあるというもののように感じる。そこならば、共存共栄の可能性を見ることが出来る。しかし、ゴールが一つであれば、そこには共存共栄の可能性はなくなる。一番になった勝者は、いい目を見ることが出来るが、敗者は、負けたのだからひどい目にあっても自業自得だと言うことになりかねない。だから、ネオコン的な<格差が「多様性」だ>という錯覚をしたままだと、敗者は、その地位にふさわしい分に応じた思考を身につけろという主張につながっていきそうな感じがする。araikenさんの批判は、むしろネオコンに対しての方がふさわしいような気がする。しかし、それは真の多様性ではないということを主張し、格差ではなく、本当の多様性(多くの価値観が共存する他種類の競争が存在する)の確立を主張するのなら、むしろその反対に、敗者が復活するような多様な価値観を形成すべきだという主張につながっていかないだろうか。内田さんは、ゴールが一つしかない競争を、「サバンナに「ライオンだけしかない」状況を考えれば、その生態系がどれほどすみやかに壊滅するかは誰にでも想像できるだろう」と比喩的に説明している。ライオンだけしかいなければ、生きるためには他のライオンと勝負をして勝たなければならないだろう。そして勝ち残ったただ1頭だけが生き残り、ただ1頭だけしか生き残らないので、その1頭も絶滅してしまうと言うことになるだろう。ゴールが一つしかない競争は、必然的に多数の敗者を生み出し、社会を支える多数者を殺してしまう。少数のエリートだけで社会を支えられると考えるのは、現実には不可能なことなのではないかと思う。実際には、動物は棲み分けをしていて、多様性があるからこそ生き延びることが出来るというメカニズムを持っている。社会も同じで、多様な生き方をする多くの人が存在するからこそ社会というものが存続していく可能性が生まれている。ゴールが一つしかない社会が、「それがどれほど危険な社会であるかは」僕にも論理的に理解出来る。内田さんが語る競争の批判は、かなり抽象的・一般的なもので、具体的にある競争を取り上げて、その具体的な競争の中の批判的部分を取り上げるというものではない。だから、この批判に具体的な競争が取り上げられていないからといって、現実の競争を批判していないと受け取るのは、考察のレベルを取り違えているのではないかとも思える。しかし、内田さんの次の言葉「「社会階層間の移動の全面的な自由」「社会的ボーダーの全廃」は、「社会階層間の移動の全面的禁止」や「社会的ボーダーの絶対的固定化」と同じように生物の本性に反している。」は、これを抽象的に受け取らずに、具体的に受け取るとかなりの誤解をしやすい言葉のように感じた。これは、現実の「自由」や「平等化」を否定し、現体制を無批判に肯定し、その体制維持のために論理を展開しているように受け取られる恐れがあるからだ。ここで内田さんが語る「生物の本性に反している」という判断は、「社会階層間の移動の全面的な自由」「社会的ボーダーの全廃」という言葉の、「全面」「全」という言葉が表す、「すべて」の要素に対する表現に対するものだ。つまり、すべてを包含するような抽象的な論理展開をすれば、その「すべて」には、条件にふさわしくない対象も含まれてしまうので、命題そのものを否定しなければならない場合が出てきてしまうと言う、論理的なパラドックスの問題として受け取らなければならない。「全面的な自由」ではなく、「ある条件の下での自由」が正しいのであり、「全廃」が正しいのではなく、「ある条件に合致する事柄を廃する」のが正しいのである。「全面的禁止」や「固定化」の間違いはわかりやすいのでことさら注意する必要はないが、「全面的な自由」や「全廃」は、それに反する制限や規制を経験していると、つい過剰に反応してそれが正しいと思ってしまうので注意しなければならないと言うことで、特に内田さんがこのように書いているのではないかと思う。これは、「私たちはこの原則を踏まえた上で、「適度に活性的で、適度に安全な社会システム」を構想しなければならない。」ということを考える上での「適度」という判断を正しくするための注意だと思う。ゴールが一つしかない競争の弊害というのは、「オレ様化した若者」たちだけに現れるものではなく、もっと一般的なものである。だから、内田さんが語る論理に、「オレ様化した若者」たちが含まれるとしても、それだけを特に取り上げて論じてはいないだろうと思う。また、「オレ様化した若者」に関しても、その若者だけが問題だと捉えているのか、むしろ社会構造の方を問題として見ているのかでその姿勢が違ってくるだろう。内田さんは果たしてどっちなのだろうか。僕には、内田さんは、社会構造の方を問題にしているように見えるのだが、そう見えない人もたくさんいるようだ。それは、内田さんのどのような表現から読みとれるのだろうか。僕は教員ではあるけれど、内田さんが語ることを、より普遍的な論理として整合性があるかどうかという点から見て、確かに納得出来ると言うことから支持をしている。立場が同じだからという判断ではないのだが、立場が論理に反映することも可能性としてはあり得るだろう。だが、このエントリーの競争批判に関しては、より一般的な意味での、社会においてゴールが一つしかない状況での競争に対する批判だと受け取った。もう一つの「倫理性」の問題も、愛国心の問題と絡んで面白い問題だと思うので、エントリーを改めて詳しく考えてみようと思う。
2005.06.04
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araikenさんの「センセー、やっぱり違うと思います! その3」というエントリーに、次のような内田さんの文章が引用されていた。 「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。それは単に希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだって、いつかはトップに・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・」というようなことを全員が幻視する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。勘違いしている人が多いが、人間の価値は、そのひとにどれほどの能力があるかで査定されているのではない。その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。現に、「リストラ」というのは「替えの効く社員」を切り捨て、「替えの効かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく棄てられる。人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。そういうものなのである。だから、人間的な敬意というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。そのような社会で、個の多様性やひとりひとりの「かけがえのなさ」への敬意がどうやって根づくだろうか。」少々長い引用だが、この文章の読み取り方が、僕とaraikenさんではまたまた全く違うので、その違いを考えたくなった。内田さんは、上の文章をもっと長い文章の一部として書いているのだが、まずは、この抜粋だけから受ける印象を考えてみようと思う。これからの考察は、まだ内田さんの元の文章を読む前のものだ。この考察を経てから、内田さんの上の文章の前後をよく読んで、もう一度考えてみようかと思う。上の一部だけを読むのでは、もしかしたらその一部だけというものが<誤読>を呼ぶのかも知れないからだ。自分自身の<誤読>の可能性も考えながら、まずは、上の文章だけの読み取りで、僕とaraikenさんの違いを考えてみよう。araikenさんは「内田氏は一見「競争」を辛辣に批判しているように見えます」と上の文章の感想を書いている。ということは、上の文章を批判とは見ていないと言うことを語っているのだろうか。この点が僕とはまず違う。僕には、上の文章は批判に見える。では何を批判しているのか。それは「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というネオコンの主張を批判しているのである。より明確な言い方をすれば、「自由競争の元で違う生き方が出来る」と言うことを批判しているのだと僕は受け取った。内田さんは、「自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである」と語っていることから、僕はそう受け取った。「同じ生き方の格差の違い」に対しても内田さんは批判的である。これが、もしもそれほど悪いものでなければ、自由競争がこれを必然的に生み出したとしても何も問題にするに値しない。しかし、内田さんは、生き方に格差がある社会は、「生き方の多様性が確保されている社会ではない」と判断し、「それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である」と考えている。そして、そのような社会は、「私たちの生存にとって危険な社会である」と主張している。自由競争によって生み出される「均質的社会」を批判しているということは、それを生み出している「自由競争」を批判していることにならないだろうか。これは「競争一般」の批判ではないが、「自由競争」という競争の批判ではある。僕は、「競争一般」の批判は間違いだと思うが、「均質的社会」を必然的に生み出す「自由競争」の批判は正しいと思う。これも「自由競争一般」の批判ではなく、「均質的社会」を必然的に生み出すという属性が批判の対象になるものだと思っている。この文章だけを読んだ限りでも、僕には内田さんが、この「自由競争」に関しては実に鋭い批判をしている、というふうに受け取れる。araikenさんが、競争の批判がないと受け取ってしまうのは、内田さんが語る「競争」とaraikenさんが語る「競争」との間に食い違いがあるからではないのだろうか。競争というのは、健全なものであればそこから切磋琢磨というものが生まれてくる。だから、競争一般は必ずしも批判されるべきものではない。すべての競争を否定してしまえば、停滞した社会主義国家の経済のような状態になってしまうだろう。だから、araikenさんも、競争一般を批判しているのではなく、そこに非人間的な性質をはらんでいる競争を批判しているのだと思うが、そのイメージが内田さんとは食い違っているのではないだろうかと、ここを読んでそう思った。araikenさんは<競争批判がない>という感想に続いて、次のようにも感想を述べている。「このような「競争」の加熱をクールダウンさせるはずの「分をわきまえる」という言い方は、やはり人間の優劣、つまり業績主義的な価値観を………ご自身が危険だと言っている同質的な価値観を前提としている言葉です。」ここで語られている「分をわきまえる」という言葉は、上の内田さんの引用文には直接含まれていない。しかし、この言葉を僕もどこかで見た覚えがあるから、それとの連想で、araikenさんは、このように語っているのだろうと思う。僕は、この「分をわきまえる」という言い方の受け取り方に、僕とaraikenさんの決定的な違いが含まれているような感じがした。araikenさんのイメージでは、「分をわきまえる」というのは、社会の中での自分の位置を自覚して、たとえ不満があろうとも我慢してその位置にいることを受け入れろという宣言のように聞こえているのではないだろうか。また、そのあきらめは、競争に敗れたのだから仕方がない、自業自得だという合理性をもたらしている言葉だと受け取っているのではないだろうか。このようなイメージを持っていると、一見競争を批判しているように見えながら、実はその競争の結果を受け入れて現状に満足しなければならないと言っているようにも見えてくる。これは論理的にはひどい矛盾だと思うので、このように見えてきたら内田さんを批判したくもなってくるだろう。しかし、僕がこのようにaraikenさんを見るのも、僕の<誤読>かも知れない。だが、文章の理解というのは、このような誤読が積み重なって、やがては誰が書いたかということと関係のない、現実の属性への判断に至った時に、本当の意味での正しい理解がもたらされるのではないかと僕は思っている。そういう意味では、<誤読>を意識して、<誤読>を本当に理解することが、文章の正しい理解に通じるものだと思っている。僕は、内田さんが語る「分をわきまえる」という言葉のイメージを次のように受け取っている。現実において、自らの夢の実現や成功・失敗というものを考えた時、それは単純に起こる出来事ではないことが分かる。実力さえあれば成功が保証されるというものではない。運というものも大きな作用をするものだ。競争を勝ち抜く時、競争相手に恵まれるというのは運というものだ。とんでもなく強いライバルがいた時は、けっこう実力があっても勝負にならないだろう。黄金期の巨人で当時の王選手のライバルだった一塁手は、他のチームへ行けば4番を打てるだけの実力があっても、とても巨人での王選手との競争には勝てなかっただろう。相手が強すぎたから。こういう運というものはどうしようもないもので、自分の力ではどうしようもない運命が働いている、という受け取り方が僕には「分をわきまえる」と言うことだという感じで受け取っていた。だから、「分をわきまえる」というのは、敗者としての落胆だけに包まれて勝負を降りると言うことでもないと感じている。相手がそれだけ強大であるにもかかわらず、一度はその相手に勝負を挑んだというのは、これは大したことなのであると思う。力及ばず破れはしたけれど、それだけの挑戦者としての意気込みは十分ほめてあげてもいいだろう。そして、自分がどうしてもかなわなかった相手の強大な実力に対する尊敬の気持ちが生まれてくるのではないだろうか。これが、宮台氏が語る、<断念>と<リスペクト(尊敬)>というものではないだろうか。「分をわきまえる」というのは、現状を肯定して単純にあきらめると言うことではなく、相手に対する尊敬と、その相手に挑んだ自分に対する賞讃の気持ちが、これからの挑戦の意気込みを支え、自分の貴重な経験として、自らの人間の器の大きさを育てる糧となるものになるのではないだろうか。僕にとっては、内田さんが語る「分をわきまえる」というのは、とても前向きで建設的な姿勢のように感じた。だから、araikenさんが批判するのとは全く違った方向で内田さんの文章を受け取ったのだろうと思う。araikenさんは、内田さんの文章から次のような印象を受けている。「実は、内田氏が否定したいのは「競争」そのものではなく、「オレ様化」したバカどもの盲目的な「競争」だけなのです。身の程知らずな奴らが「無限の可能性」というイデオロギーに踊らされ「競争」をヒートアップさせ資本主義を暴走させるのだ。バカどもさえ何とかなれば社会は安定するのに…………ってぼやいてるだけです。バカはおとなしく社会の下層に降りて「かけがえのない」(つまりバカにしかできない)下層での仕事をきっちりこなし、システムを下支えしなさい! ってわけです。」しかし、僕はこのような印象を全く受けなかった。内田さんは、学者らしくまず現状分析を厳密に行い。現実の問題点を指摘することにこそ力を注いでいるように見えた。そして、その問題点は簡単に解決出来るものではないが、多くの人が問題を正しく理解して、まさにそのことが問題だと感じてくれれば解決の方向も見いだせるのではないかと、その発言をしているのではないかと感じた。内田さんが発言したからといって、世の中がそれで変わるものではない。それほど現実は甘いものじゃない。また、内田さんは、問題をはらんでいる教育現場で仕事をしているのだから、ある意味では自分を棚に上げての発言に見えるものもあるだろう。しかし、現実を客観的に捉えるには、自分を棚に上げる必要も生まれてくる。それが出来なければ、誰もそのことに対して発言する資格などないということにもなってくる。コメントに続く
2005.06.02
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