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仮説実験授業の実践者でもあり研究者でもある平林浩先生の話を聞く機会があった。話の中心になったのは、「燃焼」という授業書の実践を通じて、小学校6年生の子供たちが、どのようにそれを理解し、どのように考えたかということを分析するものだった。「燃焼」という授業は、ものが燃えるということの本質は酸素と結びつく・化合すると言うことだということを教える授業だ。しかし、酸素と化合する現象を普通の目で見ることは出来ない。だから、それはノーミソの目で見るという「考える」ということとつながってくる。仮説実験授業は、実験の前に予想をしてその予想が正しいかどうかを実験で検証することを通じて、自分のもっていた仮説や考え方というものが正しかったかどうかを判断する。そして、その判断を通じて、ものを考えるということや、科学上の基本概念というものを深く知るということを目的とする授業だ。「燃焼」の授業では、ものが燃えた後の重さがどうなるかという実験を通じて、燃えるという現象が、実は酸素が結びつくという本質的性質を持っているのだということをイメージを通じてとらえるという構成になっている。燃えるということが、単に炎を出すという現象としてとらえられるのではなく、目に見えない酸素原子が他の原子と結びつくということで理解をする。普通の目には見えないノーミソの目が、酸素原子との結びつきを見せてくれるというのが、「燃焼」の授業でのイメージであり、考えているということになる。木が燃えると、木の中の炭素Cと空気中の酸素O2が結びついて二酸化炭素CO2が出来る。これは気体なので、固体である木から空気中へと逃げていき、この分だけ木は軽くなる。日常生活の中での、燃えるという経験は、このように燃えた後に灰が残り、燃えかすは軽くなるという経験が圧倒的に多い。「燃焼」の授業では、鉄を燃やすという実験をするのだが、金属を燃やすという経験をしている子どもは少ない。自分の経験を基礎にして「考える」ということをすれば、燃えた後には灰が残り、それは軽くなるという連想をするだろう。鉄が燃えてもやはり軽くなるのではないかと考えるのが、経験主義からいえば普通だ。しかし、鉄は木と違うのではないかという発想があるとこれが違ってくる。さらに、燃えるということは酸素と結びつくことをいうのだという、燃えるということの本質を知っていると、この「考え」はさらに違ってくる。鉄の場合は違うのではないかという「考え」は、漠然としたものであり、確信が持てるものではない。「そうかもしれないな」という程度のものだ。しかし、酸素と結びつくという本質からの推論は、酸素と結びついたものが、二酸化炭素CO2のような気体になって空気中に拡散していくのでなければ、結びついた酸素の分だけものは重くなるという結論にならざるを得ない。これは論理的な帰結だ。この論理的な帰結は、それまでの経験と違っていようとも、確信を持って主張できることになる。実際に、実験では、実験前にてんびんの両側で釣り合っていたスチールウールという鉄が、一方の側を燃やした後では、燃えた方のスチールウールの方が圧倒的に重くなっててんびんが下がるのが分かる。この実験によって「燃焼」のイメージが生き生きと描けるようになった子どもたちは、すでに原子を習っているということもあって、そのイメージを絵にして酸素と結びつく様子を理解することが出来る。僕がこの話を聞いて関心を持ったのは、「燃焼」という授業を通じて、子どもたちがものを理解していく、考えていくというメカニズムがどうなっているかということもさることながら、論理的に思考を展開していくということがどうなっているかということだった。論理というものは、それだけを独立して教えるということは、学校教育では行われていない。仮説実験授業でもロジック(論理)そのものを教える授業というものはない。それは、具体的な物事にそった、何かについてのロジック(論理)だ。果たしてロジック(論理)は自然に身に付くものなのだろうか。それを意識的に訓練しなくても、何かを学ぶことを通じて身につけられるものなのだろうか。また、意識的に教育した時に、何か大きな成果が期待できるような可能性はないだろうか。そのような想像が浮かんできた。今ここで僕は、カタカナでロジックと書いた。これは漢字の論理と微妙なニュアンスの違いを感じているからなのだが、これを伝えるのはけっこう難しい。カタカナで書いたロジックは、僕のイメージでは形式論理的な、ある法則性を持った体系的な論理という感じでのロジックだ。それに対して、漢字の論理は、弁証法論理をも包摂した、広い範囲での法則としての論理というイメージがある。漢字で書いた論理は、哲学的な意味も含んでいて、究極的には現実という具体的な物質的世界と、思考という観念的な世界との一致を記述するものが論理であるというイメージがある。だから、これは具体的にはさまざまな論理が存在する。広くは弁証法的論理という、現実存在を正しく記述する、特に一見矛盾したように見える現実を記述する論理もある。また、自分の心情を説得的に説明するような、自分固有の論理もあるだろう。イソップの寓話に「酸っぱい葡萄」というものがあったが、葡萄を取ろうと思って失敗した狐が、その葡萄を取れなかったことが心残りで、「あれは酸っぱかったんだ」といって自分を慰めるというものだ。これは、一つの屁理屈であるが、狐がその理屈で納得するのであれば、それは狐にとっての論理になるだろう。これはロジックではないが一つの論理だというのが僕の受け止め方だ。葡萄が本当に酸っぱかったかどうかは、それが手に入らなかったのだから分からない。だから、狐が「あれは酸っぱかったんだ」といった言葉の真偽は分からない。しかし、それによって自分の心情が説得的に受けとめられれば、真偽にかかわらず現実という物質的世界と、自分の心情という観念の世界とは一応の一致を見ているのだから、論理として通用するだろうと言うのが僕の考えだ。ロジックという論理は、数学の世界で通用する論理というイメージだ。「これは必ずこうなるはずだ」と確信を持って主張できる論理がロジックと言えるだろうか。これは個別的な論理ではない。自分だけが納得すればいいのではなく、誰が考えてもこう考えざるを得ないというものでなければならない。イラスト・ロジックというパズルがあるが、あれはロジックという言葉をよく反映したパズルだと思う。知っている人はすぐにイメージできるだろうが、格子状の図柄に、それを塗りつぶす個数を数字によって示し、その数字からロジックだけを使って格子を塗りつぶしていくと絵が描かれていくというものだ。その塗りつぶしの際に、この格子は必ず塗らなければならないとか、塗ってはいけないというのがロジックの帰結として出てくる。僕は、このパズルを何とかしてロジックの教育に使えないかというのを考えているのだが、なかなか難しいので、マニア的な関心を持たないとつまらなくなりそうだというのが今ひとつ教育として使えない感じがするところだ。漢字で書く論理は、自分が納得すればいいだけのことだから、教育されなくても自然に身に付くところがあるだろうと思う。また、自然に身に付くだけに、その論理の頑迷さを脱するのは容易なことではない。封建的な雰囲気の中で育った男が、男はこうあるべきだという思い込みを持っていると、そこから抜け出るのは難しいだろう。論理というのは、相対化されなければ、独りよがりの思い込みに陥る危険性がある。これを逃れるには弁証法を知ることが有効かもしれない。それに対し、ロジックはなかなか自然に身に付くような感じがしない。これはどのような教育が有効性を持っているのだろうか。ロジックが屁理屈にならないためにはどのような点に注意したらよいのだろうか。平林先生によれば、小学校の1年生でも見事なロジックを使う場面があると言うことだった。彼らは、どこでそのようなロジックを身につけたのだろうか。ロジックの本質はどこにあるかというのが、今の僕の最大の関心事になった。ロジックとしてここまでは認められるということが正しく分析できるようになるにはどうしたらいいだろうかと思う。その部分が、おそらく議論の共通の基盤になるものだと思うからだ。ロジックを超える部分については、個別的な経験の違いなどの要素が大きく絡んでくると思う。ロジックの本質を求めるためにロジックの歴史を調べたいと思ったのだが、これが意外に難しい。ロジックとしての論理学はすでに完成された形のロジックしか記述していない。不完全な発展途上のロジックというものは、なかなか目に見える姿になっていないのである。子どものロジックの発展というものが、ロジックの歴史の理解の一助になるとも思うのだが、このような観点で子どものロジックを記述した資料がなかなか見あたらない。数学と自然科学を材料にして、その中のロジックそのものを取り出して考察してみたいと思う。また、自然科学以外の論理の中に入っているロジックや、ロジックになり損ねた屁理屈としての論理との比較も考えてみたいと思う。今年の夏休みの一番の収穫は、ロジックというものについて新しい視点を発見したことだろうか。
2005.08.31
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以前にノーミソの目についていくつか書いたエントリーにトラックバックをもらった酔狂人さんが「ヒトは脳でモノを見る(2)」というエントリーを書いていた。このエントリーで語られている中心は、「事実が判断に依存している」と言うことなのだが、それをさらに展開して、事実と判断との関係についてもっと深く考えてみたくなった。酔狂人さんは、「ある人が事実と見たことを他の人が事実と認めないことはごく普通に起こる」と語り、このことから、「意見に相違がある時は、往々にして共通に事実と認められることを明確化することから始める必要がある」とも感じているようだ。僕もこのことには同意するのだが、さらに一歩を進めて、どのようにすれば「共通に事実と認められる」という判断が成立するのかを考えてみたいと思う。最初から同じ考えに立っているのなら、このことはわけもなく成立するだろうが、全く違う前提で物事を見ている人間にとっては、このことが果たして可能なのかということも考えてみたいと思う。以前本多勝一さんが事実と真実と真理について論じた文章を読んだことがある。「事実とは何か」という問いを考えるという形での文章だったと思う。その文章が今手元にすぐ見付からないので、記憶に頼って思い出すのだが、結論としては、この3つは同じものをそれぞれニュアンスの違いから3つの言葉で表現したものに過ぎないと言っていたように思う。真実というと、やや情緒的な表現になり、高い価値観を伴うものというニュアンスが入り込んでくる。真理というと、やや学術的な雰囲気が出てきて、普遍性を持ったものというニュアンスがついてくる。事実という言葉は、日常のごくありふれたものを指す言葉として使われているようだ。しかし、いずれにも共通しているのは、それが正しい現象を表現した言葉だと言うことだ。「今日は暑かった」というのは、ごく平凡な事実であるが、これは今日の気候に対する正しい文章表現だろう。これは、平凡な事実ではあるが、これを真実という仰々しい言葉で呼ぶ人はたぶんいない。そして、真理という言葉で語る人もいないだろう。正しいという判断が出来る表現があったとき、その表現を最も広い範囲で考えると<事実>と言うことになるのだろう。そして、その<事実>に高い価値観を持たせるようなニュアンスを持たせて表現すれば<真実>と言うことになり、学術的な意味を付与したいとなれば<真理>という言い方になるのではないだろうか。いずれにしても、ある現象を事実であるというのは、それが正しいという判断があればこそなのではないかと思う。そういう意味では、酔狂人さんが言うように、事実の基礎には必ず判断があると言うことになる。それが事実だと言うには、それが正しいという判断がなければならないのだと思う。それでは、この正しさは、一度判断を下せばいつまでも正しくあるという固定的なものだろうか。僕が三浦つとむさんから学んだ弁証法論理では、現実を対象にしていない抽象の世界ならそれが成り立つことがあるけれども、現実を対象にした言明なら、それはいつまでも事実のまま(すなわちいつまでも真理のまま)ではいないと言うのが、弁証法的な理解になる。例えば、「今日は暑かった」という事実は、大部分の日本人にとっては正しい言明であるに違いない。つまり、これを事実だと判断する人は圧倒的に多いだろう。しかし、ごく少数の特殊な条件にある人たちは、これを否定して「今日は暑くなかった」という判断こそが正しいというかも知れない。つまり「今日は暑かった」というのは事実ではないと主張する人たちがいるだろうことも想像出来る。一日中強い冷房の中で仕事をする人にとっては、外がどんなに暑かろうとも、自分が仕事をする場は寒いかも知れない。そうすると、その人にとっての事実は、「今日は暑くなかった」と言うことが事実になる。今日の一日を日本で経験する人たちは、同じ一日を経験しているはずなのに、違う事実を判断する。同じでありながら違うという弁証法的な統一の元にある。このような理解が必要なのではないかと僕は思う。これもうる覚えなのだが、三浦さんがよく引用する労働者哲学者のディーツゲンは、水の中に入れた棒が曲がると言うことを取り上げて、それが視覚的事実というものに限れば、事実なのだと主張した。本当には棒は曲がっていない。しかし、曲がっているように見えるという視覚的な事実として考えれば、それを見ている人にとっては、曲がっていると言うことが事実なのである。このように、事実というのは、あらゆる事実に関して、それが事実でないという判断も成立しうる条件を見つけることが出来る。だから、事実の場合に最も重要なのは、それが事実であると判断した根拠となる条件は何かを明確にすることではないかと僕は思う。自然科学者というのは、事実の判断について食い違うことが少ない。それは、その条件を非常に厳しく設定するからだと思う。自然科学者というのは、ほとんど感覚というものを信用しない。客観的に測定された数字に対して、それがどのような量を指しているかという事実を基礎にして物事を判断する。だから、自然科学者同士で事実が食い違うことがまれになるのだろうと思う。数学の場合はもっと徹底している。数学の場合は、考察する対象が、数学的な定義に従って想定されたものだけを扱う。それ以外の一切を排除するので、見解の相違が入り込む余地がない。現実社会を対象にする社会科学や、見解の相違が大いに入り込む文学や芸術などでは、事実とされることが人によって大いに食い違うことが予想される。このような場合に、事実を争うことに意味があるのかという疑問が僕にはある。いや、表現が紛らわしいのだが、平凡な意味での事実を争うのならいいのだが、ニュアンスの違う<真実>や<真理>を争うことには意味がないのではないかという気がする。例えば、今でも「南京大虐殺」があったのかなかったのかが論議されることがあるが、僕はこの種の議論は全く意味がない無駄な議論のように見える。この種の議論は、一見事実を争っているように見えるが、実は議論されているのは事実ではなく理念だけのような気がしてならない。「南京大虐殺」という言い方は、たぶんに情緒的であり文学的な表現だと思う。まず問題になるのは、何が「虐殺」になるかだ。ひどい殺され方をすれば虐殺だというのでは、それは定義していることにはならない。ひどいと感じさえすればいいのだから、感覚のアンバランスな人にとっては、すべてが虐殺になることもあれば、すべてが虐殺にはならないこともあったりするだろう。事実であるという判断をするには、少なくとも客観的でなければならないが、「虐殺」と言うことは客観的には判断出来ない。このこと一つを取っても、「南京大虐殺」の議論が事実を巡っての争いではないことが予想される。「虐殺」だけでも定義が難しいのに、それが「大」であるかないかの定義をするのは、さらに難しくなる。このような議論をしていけば、おそらく、南京大虐殺に心を痛めている人が分が悪くなるだろうと思う。どうしても情緒的な定義に傾いていくからだ。そして、情緒的な定義に傾けば、それはもはや事実としての判断は出来なくなる。そう感じたくなる心情は分かるけれど、必ずしもそうは言えない、と言うことの方が正しく思われてくるのである。僕は、事実というのは、もっと平凡な事柄で確認をすべきものなのだと思う。何か高尚なことと結びつけたり、崇高な理念からそれを求めたりすれば、それは事実の証明をするのではなく、<真実>の証明や<真理>の証明をしなければならなくなってくるだろう。もちろん<真実>や<真理>だって証明出来る可能性はある。しかし、それはかなり難しい証明になるだろう。<真理>を証明するために、科学はどれだけの険しい道のりを乗り越えてきたかは、科学の歴史をひもとけばいくらでも見つけることが出来る。だから、この難しい事柄に挑戦することも悪くはないが、それはとても難しいことだという自覚は持っていた方がいいだろう。我々は、そのような極端に難しいことに、いきなり手を出すよりも、もっと簡単なことから手をつけていった方がいいのではないかと思う。そのためには、いつでも平凡な事実が見付からないかを考えた方がいいのではないだろうか。そして、平凡な事実の積み重ねが、いつか<真実>や<真理>に一歩近づいていくのだと考えた方がいいような気がする。机の上にコップのようなものがあるという判断を考えてみたい。このときに、もっとも平凡で簡単な判断は、「何かがある」という存在を問うものではないかと思う。何かは分からないが、何かがあると言うことは分かるというような段階だ。そして、それが視覚的にはコップのように見えると言うことから、「コップがある」という判断が、ある種の仮説として立てられる。これはまだ事実にはなっていない。確かめられていないからだ。実際に、水でも入れて、それがコップであることが確かめられれば、「コップがある」と言うことが事実になると言うわけだ。このとき、実はコップだと思ったのは、中まで全部ガラスになっているコップの形をした文鎮だったと言うことが分かるかも知れない。その時は「コップの形をした文鎮がある」と言うことが事実になるわけだ。この判断を、自分以外の誰もが同じように行うだろうと考えられれば、客観的な判断になり、それは事実だと言うことがますます補強されると言うことになる。この場合に、実際に他人に判断してもらう必要はない。入れ替え可能性という思考実験で済ませることが出来れば、それは、十分客観性を持つものとして考えることが出来ると僕は思う。むしろ、実際に同じ判断をしている人が他にもいると言うことから、思考実験をせずに判断する方が間違える可能性が高い。二人とも錯覚しているという場合もあるからだ。事実の判断の時は、むしろ論理的な思考実験での入れ替え可能性の方を確かめた方がいいのではないかと思う。「南京大虐殺」に関しては、もっと平凡な事実として、 ・どこで戦闘が行われていたのか ・戦闘は、正規の軍隊だけの間で行われたのか ・一般市民はどの程度南京に残っていたのか ・双方の正規の軍隊はいったいどれくらいいたのか ・敗北した中国軍の捕虜はどうなったのか ・勝利した日本軍は、どのようにして南京に駐留していたのか (食料の調達・その他必要な物資はどうして手に入れたのか)ざっと挙げただけでも、ごく平凡な事実として上のようなものが考えられないだろうか。これらの事実からは、そこで行われたことが「大虐殺」であったかなかったかというような判断は出てこない。しかし、日本の軍隊の中に不正があったかどうかは判断出来るかも知れない。戦争を評価する上で重要なのは、侵略する軍隊がどのような不正を伴うものであるかを考察することなのではないかと僕は思うので、南京大虐殺について考察するよりも、もっと平凡な事実について考えることで、侵略軍としての日本軍にどのような不正があったのかを見る方が大事なのではないかと思う。なおここで僕が、かつての戦争での日本軍を侵略軍だと判断しているのは、当時の時代で先進国であった国はすべて侵略する軍隊を持っていたと考えているからである。日本は、当時の先進国の一つなのであるから、その軍隊は当然に侵略する軍隊であるという判断をしている。これは、事実と言うよりは推論の結果としての判断と言った方がいいだろうか。事実として捉えているのは、当時の日本が先進国の一つだったと言うことだ。事実の判断と共に、推論による判断というのも、考察すると面白いかも知れない。それが、どのように事実の判断と関係しているのかを今度は考えてみよう。
2005.08.09
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田中宇さんの朝鮮半島和平の可能性 2005年7月28日から、前回と同様に、<事実>の部分と<推論>あるいは<判断>だと思われる部分を区別して考察してみようと思う。まずはアメリカが「北朝鮮」に歩み寄ろうとしているように見える次の事実1「米政府は今春以来、機会があるごとに「北朝鮮を国家として認める」「軍事攻撃するつもりはない」と何度も表明し、6カ国協議に不参加の態度をとっている北朝鮮に何とか出てきてもらおうと、これまでにない譲歩を行った。」2「今年3月にはライス国務長官が、訪日中の演説で、北朝鮮を主権国家として認める発言を行い、これと前後してアメリカの駐韓国大使が、アメリカは北朝鮮に侵攻する意志はないので6カ国協議に戻るよう表明した。」3「ライスは5月にも、テレビのインタビューで北朝鮮の国家主権を認める発言を繰り返した。」4「その直後には、ニューヨークの国連本部で、米側と北朝鮮側が半年ぶりに直接面談し、ここでも米側は北朝鮮の国家主権を認め、不可侵を約束した。」を確認しておこう。これが事実であることは、前回同様、田中さんに対するジャーナリストとしての信頼からこれを信じるという態度を僕は取る。なお3の事実については、「米政界内には北朝鮮への譲歩を拒否するタカ派勢力が強く、国務省などの現実主義派が北朝鮮に対して不可侵を約束したくても、口頭で約束するのが限度だった」という説明が付け加えられている。これは、誰もが確かにそうだと思える内容なら<事実>と呼んでもいいと思うが、これに疑問を持つ人がいるならば、これは田中さんの<判断>といってもいいだろう。僕は、この判断についても、田中さんに対する信頼感からこれを信じるという立場だ。また、ここで田中さんは、「北朝鮮は、アメリカが不可侵を紙に書いて約束すれば6カ国協議に戻ると表明していた」とも語っている。アメリカが不可侵を紙に書いて約束をしていないのに、「北朝鮮」が6カ国協議に戻ってきたということは、アメリカの口頭での約束がかなり確実だったと推測できるだろう。また、「口頭で約束するのが限度だった」と言うことを「北朝鮮」の側も納得したのではないかとも思われる。さて、この事実に対して、これと正反対のように思われる事実も存在する。次のようなものだ。1「ところが、ここで政権内のタカ派が、流れを阻害する挙に出た。彼らは5月初め「軍事偵察衛星の写真解析により、北朝鮮が近く核実験をすべく準備していることが分かった」という情報を米マスコミに流し、記事を書かせた。」2「タカ派勢力は米国内などで、北朝鮮当局の人権抑圧を問題視するキャンペーンも強化した。「核問題だけでなく人権問題も解決されない限り、アメリカは北朝鮮を許してはならない」と主張する動きで、北朝鮮に対する宥和策に傾く米中枢の現実主義派を牽制することになった。」3「5月末にはタカ派の頭目であるチェイニー副大統領が金正日を中傷する発言を行ったり、6月末にはアメリカ国防総省の高官が「北朝鮮が核武装したとしても、米軍は北朝鮮を攻撃してつぶせる」と豪語するなど、タカ派による対立扇動戦略が続いた。」これらの事実は、アメリカの歩み寄りとは反対の立場を表明するようなもので、どちらが本当の姿なのかという矛盾が存在する。これに対する田中さんの<推論>と<判断>はどういうものだろうか。そして、それは論理的な整合性があって、合意できるものであるのだろうか。核実験に関する報道に関しては、田中さんは「イラク侵攻前の「サダム・フセインは大量破壊兵器を持っている」という報道と同様、戦争を誘発することを目的に、米中枢のタカ派がわざと歪曲した情報を流した可能性がある」と語っている。これは妥当な判断ではないかと僕は思う。イラクに対するアメリカのやり方を見ていれば、それと同じようなことをしたとしても不思議はない。ただ、「北朝鮮」に対する態度が、イラクに対する時のように戦争にまで行かないのは、そこに何らかの違いがあるのだろうと感じる。その違いを考えるのもやはり<ノーミソの目>であり、<推測>ということになる。これらのタカ派の発言に対して、これがアメリカの本当の意向ではないということを、田中さんは次の事実から推測している。「これに対して現実派のアメリカ国務省は、韓国政府をメッセンジャー役として頼み、韓国統一相が平壌を訪問したり、盧武鉉大統領が訪米したりした。韓国政府は、北朝鮮に対する経済支援を強化し「北朝鮮が6カ国協議に復帰したらこれまでにない重要提案を行う」と発表するなど、従来より積極的な動きを展開した。」このように、現実派と呼ばれる「北朝鮮」に歩み寄ろうとしている宥和派は、具体的な行動を示している。ところが、タカ派の方は、マスコミにニュースは流すが、具体的な動きとしてはほとんど示していないように見える。この事実から、アメリカの本当の意向は歩み寄りであり宥和であるという判断が出てくるのではないだろうか。現時点でのアメリカの対「北朝鮮」政策というのは、歩み寄りという宥和であるという判断が得られたのだが、これは、以前はその反対の強攻策であったように感じる。以前はタカ派の政策こそがアメリカの意向だったようにも感じる。これがなぜ変化したのだろうか。この変化に対しても、整合的な理由がつけられなければ、単なる思い込みではないかとも疑われる。田中さんは、果たしてどのように説明しているだろうか。田中さんは、この変化を、対「北朝鮮」だけの特別な事情ではなく、アメリカの基本方針が変わったのだというふうに説明している。次のように語っている。「転換したのは対北朝鮮政策だけではない。最近のアメリカの世界戦略は全体として、単独覇権主義から多極化推進へと劇的に転換している。 」このことは、次のような事実から<判断>される。1「米軍がイラクから撤退する構想は、その後も表明され続けている。7月27日には、在イラク米軍の司令官が「状況が整えば、来年中にイラク駐留軍を大幅削減する」と表明している。米軍が撤退したら、その後のイラクが頼みの綱とするのは、イランやシリアといったアメリカが敵視する国々になるが、アメリカはそれでもかまわないということである。」2「先日、インドの首相が訪米し、アメリカはインドの覇権拡大を支援し、インドの核兵器を容認しつつ核技術を伝授することになった。米政府は、表向きは「インドを中国のライバルとして育てるため」の策だとしているが、インドと中国はもはや対立していないどころか、中国がロシアや中央アジア諸国と作っているアメリカ抜きのユーラシア安保体制である「上海協力機構」にインドが参加するなど、中印は戦略的な同盟関係をどんどん強めている。アメリカのインド支援は、中国敵視策の一環などではなく、ユーラシアを安定させる責任をインドや中国に任せ、アメリカの覇権の負担を軽減させようとする多極化戦略の一環である。」3「アメリカはイラク侵攻以降、表向きこそタカ派の「世界強制民主化」の方針が目立っているが、実際に行われている外交は軟弱かつ消極的で、明らかに世界の多極化を容認し、ときに支援している。私がアメリカの隠然とした多極化戦略を感じた始めたのは、イラクが泥沼化し始めた2003年夏ごろだった。多極化戦略を感じさせる兆候は、その後一貫して強くなっている。」このような事実の中で進められてきた「多極化戦略」の流れとして対「北朝鮮」の宥和政策も出てくるというのは論理的に整合性のある<推論>だと思う。「北朝鮮」だけが、特別に宥和できない理由があるとは思えないからだ。イラクには石油という特別な事情があったかもしれないが、「北朝鮮」には、そのような特別な事情があるようには見えない。田中さんは、アメリカの「多極化戦略」について次のような判断もしている。「タカ派の硬直した態度は、世界の国々の反米感情を高め、親米国がアメリカを頼れない状況を作り出し、世界の諸問題を行き詰まらせる。その後、現実主義派が出てきて、諸問題に関して目立たないように譲歩することで、アメリカ以外の国々が主導するかたちで世界が安定する多極化の状況が生まれている。ブッシュ政権内のタカ派と現実派との対立は911以前からずっと続き、権力闘争と考えるには、決着がつかない状態が長すぎて不自然だ。何か隠された意図に基づき、対立しているように見せかけていると考える方が自然である。 」これも非常に納得のいく推論である。イラクの状況を見ていても、それはもはやアメリカの手に余る状況になっているように感じる。これ以上世界の混乱した諸問題に手を出していたら、アメリカそのものが立ち行かなくなる可能性すら出てくるのではないか。賢い人間だったら、国威発揚をするよりも、現実的に国が安定する方向をとるべきだと考えるのではないだろうか。そういう意味では、アメリカにはまだ賢い人間が多く残っているのかもしれない。田中さんの考察の進め方というのは、論理的整合性を考えて事実と事実を結びつけるというやり方をしている。ここが僕にとっても大きな信頼を寄せるところであるが、この推論とそれから導かれる判断を指針として行動の選択をすると言うことには一つの落とし穴がある。それは、ある種の行動の選択の対象となる相手も同じように論理的に整合性のある方向を選ぶということを前提にしていることから来る落とし穴だ。もしも、相手がまったく論理的でなく、論理以外の・想定もしていない行動基準で行動を選んでいるとしたら、その判断を間違えるということも出てくる。イラク戦争の前に、田中さんは、ブッシュ大統領が賢い判断をするならば戦争を避けるだろうと予想したが、その予想は外れてしまった。これは、僕は、ブッシュ大統領が賢い判断をしなかったからだと思っている。論理以外の何ものかがブッシュ大統領の判断に入ったために戦争を避けられなかったのだと思っている。論理的整合性を持った判断をして行動の指針にするのは戦略的判断というものであるが、これには、相手も同じように論理的に判断するという前提がなければならない。相手が論理的でない判断もする可能性があることを見込んで判断しなければならない、と言う考えもあるが、これは難しいだろう。論理的な判断なら予想できるけれども、非論理的な判断は予想することが原理的には不可能だからだ。正しい判断というのは、僕は、あくまでも論理的な判断だと思っている。しかし、それは現実には違う結果となることがある。そこにまた<誤謬論>の考察の対象となることが生まれてくるだろう。この考察も、論理的整合性が分かって初めて理解できるものとなるのではないかと思う。この次にさらに残りの部分を考察していこうと思う。
2005.08.01
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