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ライブドア問題というのは、大きく分けて二つの問題に分かれていると思う。それは、関連はあるものの、互いに相対的に独立した問題として考察しないと間違えるのではないかと思われる問題だ。一つは、ライブドアの会社そのものの問題で、本当に違法性・犯罪性があったかという分析だ。これがあったということになれば、その程度に応じて責任を取らざるを得ないだろう。もしこれがなければ、ライブドアが攻撃されるのは不当だということになる。もう一つの問題は、ライブドアという存在が日本社会で持っている意味の方だ。これは、宮台真司氏が「壊し屋」として高く評価した面と関わってくる。僕も、この面では積極的に評価されるところがあると思っている。しかし、この面を評価するあまり、違法面・犯罪面を免除するような、ひいきの引き倒しになってはいけないと思う。むしろ、積極的に評価出来る面があるからこそ、違法性・犯罪性を含むような無理なやり方で「壊し屋」を演じた方を厳しく批判しなければならないと思う。それは、積極的な評価が出来る「壊し屋」の面をもマイナスに引き下ろしてしまう結果になりかねないからだ。個々の独立の評価と、その総合的な評価とを区別して行うべきだろうと思う。最初の問題に関して、シカゴ・ブルースさんの「掲示板<濫觴(らんしょう)>193 ホリエモンの実像」に面白いページの紹介が載っていた。それは、山根治さんという会計の専門家の「「ホリエモンの錬金術」 ミラーサイト」というところだ。ここには、ライブドアの犯罪性に関する詳細な分析がある。僕には、ここに書かれていることがすべて正しいかどうかを確かめる能力もデータもないが、その主張に非常に説得力を感じる。論理の展開に整合性を感じるからだ。このページを頼りに、ライブドアの犯罪性を考察し、その上で、「壊し屋」としての積極面をもう一度考えてみようかと思う。山根さんの主張の注目すべき点は、2005年3月という、約1年前からすでにライブドアの犯罪性を指摘していることだ。最近のニュースになってから注目したのではなく、すでにかなり前からライブドアの会社としての行為におかしさを感じていたのだ。その最初の指摘は、2005年3月15日に「ホリエモンの錬金術 -1」に次のように書かれている。「これといった会社の実態が見えてこないのです。プロ野球の球団を買収しようというほどの会社なら、会社の本体がしっかりしていてそれなりの収益がなければいけないのですが、ライブドアの決算書をのぞいてみたところ、余りのオソマツさに呆(あき)れてしまい、会社の分析を途中でやめてしまいました。」これだけの指摘であれば、単に悪口を言っているのか、本当に問題を指摘しているのかは分からない。どこが「オソマツ」なのかは、山根さんが専門家だから分かるのであって、素人には分からないという感じになってしまう。しかし、「早速、ライブドアが証取法に従って、平成16年12月27日関東財務局長に提出した、第9期有価証券報告書(表示を含めて133枚。以下、有報といいます)をライブドアのホームページから引っ張り出して印刷し、分析開始。 同時に、一期前の第8期の有報も印刷して手許に。 その結果判ったことは、公表されている決算書ではもっともらしく利益が出たように繕ってはありますが、実際の業績は極めて悪く、いわば自転車操業に陥っているのではないか、ということでした。 私はライブドアの帳簿とか証憑などをチェックしたわけでなく、また堀江さん本人に直接問い質したわけでもありませんので、現時点では粉飾決算とまでは断定することはできません。 しかし、会社が公表している第8期と第9期の有報を私なりの方法で分析した限りでは、粉飾の疑いが極めて濃厚であると言えるようです。」という文章には、素人でも納得出来る説得力を感じる。それは、山根さんの判断が、「第9期有価証券報告書」という具体的な対象から得られたものだということが分かるからだ。単に印象判断による感想を述べたのではなく、専門的見地からの分析の結果が述べられていると思われるからだ。その内容は素人にはすぐには分からないかも知れないが、もし山根さんが、恣意的に勝手なことを並べているだけなら、この資料を基に他の専門家からの批判がやってくるだろう。そのような議論の前提を提出した上で自分の主張を展開しているところに、僕は論理的な整合性を感じた。その結論についても、「現時点では粉飾決算とまでは断定することはできません」と語っていることに、信用が出来そうだという感じがする。もしも、このような断定が出来るなら、この時点で司法が見逃すはずはないと思うからだ。この時点の資料だけでは断定出来なかったが、現時点では犯罪性が指摘されて逮捕者が出ているということは、「粉飾の疑いが極めて濃厚である」という結論が正しかったことを証明するのではないかとも思われる。もちろん、ライブドアへの疑いが、政治的な陰謀だと解釈することも出来る。現時点では何が真理なのかが分からないから、さまざまな解釈の余地を残している。しかし、山根さんが論理的に導いた解釈と、陰謀説的な解釈を比べると、陰謀説の方は、現時点では根拠が薄弱な印象批判的な解釈に過ぎないように僕には感じる。ライブドアの会社としての行為には犯罪性があったと解釈した方が現実的に正しいのではないかと思える。そして、その犯罪性を早くから指摘していた山根さんは、その本質を見抜いていたのではないかとも感じる。堀江氏の金儲けの分析から山根さんは始めている。それは、信じられないくらい驚異的な儲け方だ。これを批判するときに、単に印象批判だけになってしまえば、それは単なるジェラシーに過ぎないものになるだろう。しかし、この驚異的な金儲けが、論理的に整合性のあるものとして納得出来なければ、そこには何らかの尋常でない要素が入り込んでいる可能性がある。それを山根さんは、「株式市場の盲点を巧みにくぐり抜けていく手法は、今回問題となっているニッポン放送株の時間外取引と同工異曲のもので、奇策、あるいはトリックともマジックともいうべき奇怪なものでした。詐術といってもいいかもしれません。」と語っているのだが、どのように「株式市場の盲点を巧みにくぐり抜けていく」かが具体的に指摘されていると、それは単なるジェラシーではなくて、本当の批判というものになる。具体的な指摘の第一は、2005年3月29日に書かれた「ホリエモンの錬金術 -3」にこう記述されている。「ホリエモンの現在の資産の主なものは、2億2千万株強のライブドアの株式(一株340円で計算すると、748億円)です。 この膨大な資産は、もとを辿れば、5年半ほど前に、彼が会社に投入した3,300万円の資金でした。5年余りで、この3,300万円を748億円へと、なんと2,200倍以上にも膨らませているのです。 現在748億円となっているホリエモンの資産は、一体どうしたものでしょうか。ホリエモンはどこから得たというのでしょうか。 ライブドアから? いいえ、違います。では、どこから? 実は、この748億円という富は、全て一般投資家からホリエモンに移ってきたものなのです。つまり、一般投資家からホリエモンへ、700億円を超える富の移転がなされているのです。しかも、彼らは、ホリエモンに自分たちの富を差し出したとは夢にも思っていないことでしょう。」堀江氏は、5年間でこれだけの富を作ったのだが、これは、彼の頭の良さから来るもので、少しも不正でないと考える人もいるだろう。しかし、これだけの富を、ライブドアという会社が生み出し、その源泉が彼の頭の良さだったと信じるには、現実のライブドアという会社が、これだけの富を生むものだろうかということに疑いを感じる。ビジネス界の億万長者物語では、新しい発明によって、爆発的な需要を作り出した人が、その頭の良さによって巨大な富を得るという話がある。これは、世の中に便利なものを提供したのだから、巨大な富を得たとしても、それは報酬として当然だという整合性を感じる。しかし、堀江氏が得た富は、このような現実に存在するものを基礎にした富のようには見えない。山根氏が指摘するように、「富の移転」が行われただけではないかと感じる。つまり、誰かが損した分だけ堀江氏が儲けたというだけのことではないだろうか。もちろん、株の世界は自己責任原則があるから、損したやつは自分が悪いのであって、儲けた堀江氏は頭が良かったのだと解釈することも出来る。だが、堀江氏が「株式市場の盲点を巧みにくぐり抜けていく手法」によって儲けているのだとしたら、損した人間がすべて自己責任でその損をかぶるのは、不公平ではないかという感じもする。もしこれが不公平なものだったら、株の売買において健全な競争が行われなくなるのではないだろうか。そうなれば、堀江氏の「壊し屋」としての積極面の評価にもかげりが見えてくる。進歩や改革を押しとどめる古い面を壊すのなら高く評価出来るが、それと共に健全性まで壊してしまったら、その評価も考え直さなければならなくなる。山根さんは、「では、このような富の移転は、一体どのようになされたのでしょうか。 ここにホリエモンのマジックがあり、私が錬金術と名づけた巧妙なカラクリがあったのです。 ホリエモンのマジックは、彼の3つのトリックに集約されています。一般投資家の眼を欺(あざむ)いてきた騙しのテクニックと言っていいでしょう。」と語り、「3つのトリック」というものを分析している。この理解には難しさを感じるが、何とか努力してみよう。項を改めて考えてみたい。
2006.01.31
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今週配信されたマル激トーク・オン・デマンドを聞いて、ライブドア問題の全体像がおぼろげながら見えてきた。全体像が見えてきたと言うことは、そこにシステムが見えてきたと言うことでもある。システムが見えてくると、問題の本質に近づくことが出来る。まだまだ分からないことは多いが、ここが本質ではないかと思うものを考察してみよう。まず第一のシステムは、ライブドアがどのように個人投資家の金を吸い上げて急成長を遂げてきたかということに関わるものだ。素人考えでは、株価が上がるというのは、その企業が実績を上げて成長していることが多くの人に認められることによって、その株を求める人が増えて株価が上がるというふうに、論理的には思いたくなる。しかし、会社そのものはまったく業績が変わらなくても、株価だけが上がるという現象があるそうだ。それは、かつてバブルの時に、何も生み出さない土地が、人々が土地を買い求めるという、多くの人が買いたがることによって価格が上がったのによく似ている。需要と供給の関係で、需要の増加に供給が追いつかなくなると、その値段はそれに応じて上がるというのが経済の法則らしい。ライブドアは、実質的な業績では、先行するソフトバンクや楽天に遙かに及ばないそうだ。しかし、株価を合計した資産価値では、その業績の評価以上のものを持っているそうだ。なぜそのように高い資産価値を持っているかと言えば、多くの人がライブドアの株を買い求めたからだという。なぜ多くの人がライブドアの株を求めたのか。それは、ライブドアの株価が上がると予想したからだった。投資家というのは、本来は未来の成長を見込んで会社に投資するものだろうと思うが、今の投資はギャンブルに近い投機になっているといわれている。株価が上がると見込めるところに投資するのであって、ある意味では業績は二の次になるようだ。ライブドアの株価が上がると、多くの投資家に思わせることが出来れば、株を買い求める人が殺到する。そして、奇妙なことに、多くの人がライブドアの株を買い求めることによって、実際に株価が上がってしまうというメカニズムがあるようだ。その現象を見て、投資家は、またライブドアの株が上がるという判断をして、ライブドアの株を買い求めるようになる。そうするとますます株価が上がると言うことが繰り返される。 ライブドアの株価が上がる ↓ ↑ 人々がライブドアの株を買い求めるという、互いの存在の前提を供給し合うループがここに見つかる。このループのおかげでライブドアの株価はどんどん値上がりして、資産価値が高まっていったというのが、表に現れた現象ではないだろうか。しかし、これはバブルのころの好景気が虚構のものだったように、本当の資産価値の上に立った健全なものではないので、バブルのように、いつかは破綻が来るものだった。問題は、虚構の上に立っている株価の高騰が、何故に人々に信じられてこのループが完成してしまったのかと言うことだ。それは虚構であるから、どこかに嘘があるはずで、その嘘に違法性と犯罪性が隠れていることになる。人々はバブルを経験して、虚構の上に成り立っている利益というものがいつかは破綻するものだと言うことを学んだはずなのだが、形を変えて現れたこの虚構にはだまされてしまったわけだ。だましたことの犯罪性と共に、だまされたことの責任というのも考えなければならないだろう。この虚構の利益のからくりの一つは「株式分割」というものらしい。株価が値上がりしても、それが一般の投資家にとっては高いものであれば、なかなか手を出せないのでその値上がりの幅もあまり大したものにはならないだろう。しかし、株を分割して、一株の株価を下げれば、それを買える人間は増えてくる。その株が値上がりすると思えば、人々は殺到するだろう。このことによって、分割したにもかかわらず一株の値段がまた同じ水準にまで上がっていけば、分割したことによって資産価値は分割の割合だけ上がることになる。会社は、何の業績も新たに加えていないのに、株価だけが上がっていくというからくりがここにはある。人々がライブドアを買いたがるようにするには、ライブドアの知名度を上げる必要がある。堀江氏のメディアへの露出や、近鉄の買収・選挙への出馬は、すべてライブドアの知名度を上げる営業だと考えると、その行為がかなり納得出来るものになる。また、ライブドアの株式分割は、100分割という大きなものであり、これは合法ではあるが、それまでの商習慣からは考えられないくらい非常識なものだったらしい。株券が100倍にまで増えたために、その印刷が間に合わず、株を求めても株券が無く、株が手に届くまでの時間差によってますます株価が上がるというからくりがあるそうだ。このような行為は、合法ではあるが、健全な株価の維持のためにはひどい背信行為になるのではないかと思う。ライブドアショックによって東証のシステムがおかしくなったようだが、たった一社の影響でそのようなことが起こるのも、どれだけ多くの個人投資家がライブドアの株に群がっていたかを物語るものだと言われている。違法性の一つに粉飾決算のことが言われているが、これは、ライブドアの株価を保つために、利益が出ていることが必要だったためにやられたようだ。もしも、このような粉飾をせずとも、何とか利益が出ていれば、ライブドアの行為は合法になってしまう。ライブドアのからくりを見抜けなかった個人投資家の個人責任と言うことにされてしまうだろう。これは、果たして正しいのだろうか。システム的な問題のもう一つは、このようなライブドアの行為に対して、それを防ぐシステムが出来ていないことにある。日本の株式市場は、アメリカ的な、大きな自由を認める方向へシフトしたと言うことだ。かなり自由を認めるのだから、犯罪性があるような汚いやり方も、法の網の目をくぐり抜けて考えることが出来る。今までなら、商習慣という内部規制で、そのようなことは誰もやらないという共通理解があったかも知れないが、「何でもあり」だという人間が参入してくることが避けられない。堀江氏が、古い勢力からかなり嫌われていたことが、保守的な層の利己的な保身のようにしか報道されていなかったが、このような犯罪すれすれのやり方が報道されていたら、堀江氏のイメージもかなり変わっていたかも知れない。アメリカでは、自由を濫用するような参入者に対しては、大きな権限を持つ監視機関が目を利かせているようだ。もしも不正なやり方で利益をあげようとする人間がいたら、この監視機関がその人間を退場させるという権限も持っているらしい。日本では、このような強い権限を持つ監視機関はない。このシステム上の不備が、堀江氏のような存在を生んだ原因にもなっているようだ。強い権限を持った監視機関が無いというのは、ある意味では、そのような監視をされたら摘発されるようなものがたくさんあるということでもあるだろう。多かれ少なかれ、不正が横行しているのが日本の株式市場ではないかという感じもする。それは、個人投資家が守られていない、つまり健全な競争の元に市場が開かれていないと言うことでもあるのではないか。株で儲かる人間は必ず儲かるし、それ以外は運次第だと言うことになるのではないか。必ず儲かるのは、人間ではなく、互いに株を持ち合う会社なのかも知れない。株式市場が健全になるには、基本的に株は個人という人間が持つものであって、人の顔が見える市場でなければならないともマル激では語られていた。これも、システムの問題の一つではないだろうか。宮台真司氏は、堀江氏の「壊し屋」の面を高く評価していた。この評価に対して、犯罪性のある行為をしていた人間を評価したという非難があるかも知れない。しかし、「壊し屋」の面を評価するのは、犯罪性のある行為を弁護することではないし、それを免除することを主張しているのでもない。堀江氏が行った行為の犯罪性は正しく理解しなければならないが、それと同時に、堀江氏の行為を通じて見えてきたシステムの不備というものも我々は学ばなければならないのではないか。単に、堀江氏が悪人であるということを見て終わりにしてしまったら、システムの不備は改善されず、また同じような事件が繰り返されるのではないだろうか。堀江氏の行為は、形を変えたバブルのようなものに感じる。実質的な価値が上がっていないのに、虚構の価値を上げてしまったライブドア株は、虚構の価値で値上がりした土地神話に似ている。同じような失敗を繰り返したと言うことは、バブルを経験した日本社会は、バブルから何も学ばなかったと言うことになる。それは、バブルで不正に儲けた悪人は誰かということにしか関心が向かなかったからだろう。システムに関心が向けば、人々の利益をあげたいという欲望を利用して儲けようとするシステムを防ぐ工夫をしたに違いない。システムに関心が向くなら、日本でも強い権限を持った監視機関が出来なければならないと思うのだが、果たしてどうなるだろうか。そういう工夫がなければ、これに懲りて個人投資家が手を引き、景気が冷え込むという方向に進むようにはならないだろうか。
2006.01.30
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僕は数学という形式論理を勉強してきたこともあって、世の中の出来事をまずは形式論理で考えることにしている。それは、平たく言えば、つじつまが合っているかどうかと言うことだ。ある出来事の解釈をしたときに、それがつじつまが合っていれば、一応形式論理的には矛盾がないと言えるだろう。具体的には、つじつまが合うというのは、ある前提を立てたときに、他の事実をもってこなくても、論理(理屈)だけで結論が得られるならば、それは論理的なつじつまが合っていると言える。山口二郎さんの「06年1月:驕る小泉は久しからず?」には、年頭の小泉首相の記者会見で「靖国参拝は自分の心の問題であって、国内のメディアや識者、さらには外国政府に口を出されるいわれはないと言い切った」ということが書かれている。このことがつじつまが合うものかどうかを形式論理で考えると次のようになる。 前提:「靖国参拝は自分の心の問題である」 ↓ 結論:「国内のメディアや識者、さらには外国政府に口を出されるいわれはない」さて、これをもっと一般論的に書くと、 前提:「それが心の問題である」 ↓ 結論:「それは自由である」ということになる。心の問題には、意志の自由が存在すると言うことが、論理的に帰結出来るかどうかと言うことが、つじつまが合うかどうかを決定する。これは、一般論として論理的に帰結は出来ない、と僕は思う。それは「心の問題」というものが、それに含まれる範囲が広すぎていっぺんに考えることが出来ないからだ。これに条件を付けて、一般化しなければならない。例えば、「心の問題」を内心の問題にだけに限ることにして、それが表に決して現れないものに限定すれば、この自由は保障されるべきだと思う。つまり、心で何を思おうと、それを言葉や態度や行動で表現しない限りにおいては、何を思っても自由だということは一般論として言える。それは自分にしか分からないのだから、他人への影響はゼロだ。しかし、「心の問題」が、表に現れて他人へも影響を持ってくると、その影響の具体的状況によって、「自由」だとは言えないことも出てくる。論理的なつじつまが合わなくなってくるのだ。そのつじつまが合わないことを山口さんは次のように論じる。「そもそも心の自由あるいは内面的自由とは、権力の干渉から個人の思想や宗教を守るための原理である。日本の最高権力者である小泉首相が自分にも心の自由があると開き直る光景は、奇妙としか言いようがない。心の自由を主張するのは首相の座を退いた後にすべきである。首相の行動、言動は即ち日本という国の考えや振る舞いとみなされるのが当然である。」山口さんは、内心の自由を「干渉」という面から論じているのだが、「干渉」という行為が、不当であるか無いかは、それが権力からのものであるかどうかという条件によっているとしている。このような条件を付加すれば、「干渉は不当だ」という主張が論理的に正しい、つまりつじつまが合うようになる。だが、この条件がなければ、それはつじつまが合わないことになるのだ。「自由」というのは、それが表現されたときには、そのことによる影響に対して責任が生じる。小泉さんが、自らの内心の自由を行使した靖国参拝によって、中国や韓国との正常な国交が出来なくなっていることには、自らの行為が引き起こした影響の責任を感じなければならないだろう。中国や韓国を非難することでこれが解決するならいいが、そうでなければ、リーダーとしての資質を疑わざるを得ない。ただ、この考察は、靖国参拝がいいか悪いかという価値判断とはまったく関係がない。それは別の論理展開になる。ここで考えているのは、小泉さんの弁明に論理性があるかどうかという考察だ。その弁明はつじつまが合わない非論理的なものであるといえるのだと思う。このようにして僕は数学のメガネを当てはめて世の中の現象を考えている。しかし、いつでも数学のメガネが役に立つわけではない。これは、詭弁に対して、論理の無理な面を理解するのには役に立つが、社会的存在がよく分からないときは、論理の前提そのものが論理的に理解出来ないと言うことが生じる。例えば、ライブドア問題にしても、論理的なつじつまを合わせるとしたら、 前提:「堀江氏は、犯罪につながる違法行為をした」 ↓ 結論:「堀江氏は社会的に責任を取らなければならない」ということがうまく了解出来るかと言うことになる。この前提を認めれば、結論は論理的に認められる。形式論理的には少しも難しいところはない。社会的な責任と言うことで、裁判によって裁かれることになるだろう。この問題は論理の難しさではなく、前提が正しいかどうかという現実認識の難しさにあると僕は思う。マスコミの報道では、堀江氏が犯罪を犯したことは既定の事実のように言われているが、その中身は具体的には少しも分かっていない。詐欺行為に似たようなことをしているとは言われているが、それが本当に詐欺なのかどうかということの理解が難しい。また、ここで考えている条件命題は、事件の本質を表すものではないのではないかという思いもある。堀江氏が、たとえ犯罪を犯しているとしても、それは堀江氏個人の問題ではなく、日本社会の、株というものを巡る何かに問題がはらまれていることが、堀江氏を通じて見えてきたのではないかという思いも残る。そうすると、堀江氏に関するこの命題に論理的な破綻がないとしても、ここでつじつまが合っていると言うことが、この事件の本質の理解になるとは思えない。論理的な整合性と共に、現実認識の確かさをもたらしてくれるメガネが必要だなと感じる。その一つが、宮台氏が語る「システム」というものかな、と最近思うようになった。「システム」というのは、現実に存在するものを考えると、必ずその存在の中に発見出来るもののように見える。現実存在で、システムとして考えられないものは一つもないようにも感じる。システムというのは、対象の全体性を考えるメガネだ。部分を見ているだけでは分からない何かが、全体を把握したときに見えてくる。これは数学の理論構造を考えていたときにも同じような経験をした。個々の定義や定理がいくら論理的に理解出来たとしても、その数学が分かったという気にさっぱりならないことがある。定理の証明の論理的な流れなどは一応分かるのだが、なぜそんなことを考えるのかという必然性がつかめないので、定理の証明が何か末梢的な論理遊びをしているようにしか感じないことがある。こんな時に、その定理が、全体の理論の中で占める位置などが見えてくると、個々の証明の論理の流れもいっぺんに見通しが良くなってくるから不思議だ。個々の定理の理解は、形式論理というメガネだけで何とかなる。しかし、理論構造の全体の把握というのは、実はシステムとしてのとらえ方が出来なければ理解出来ないのではないかと思う。僕は、数学のシステムに関しては、数学的構造を捉えることで、無意識のうちに出来ていたのだろうと思う。数学以外のシステムに関しては、それほど簡単ではないので、宮台氏から学ぶまでは、そのような発想を持てなかったのだと思う。ライブドア問題に関しては、数学で言えば個々の定理に当たる個々の事件の論理性・つじつまが合うかどうかは何とか分かりそうだ。しかし、その事件が、日本社会の中でどう位置づけられるのかと言うことが分からないと、その事件の意味がつかめない。この事件は、システムとしてどう捉えるかと言うことが分からないと、その本質が見えてこない事件ではないだろうか。今度のマル激トーク・オン・デマンドは、午後1時から配信されるらしい。もうすぐそれを聞けると思うが、内容は、「第252回「ライブドア事件にみるアメリカ型市場統治の問題点」(ゲスト:上村達男氏)」と伝えられている。この中で、宮台氏が、システム理論の立場からこの事件をどのように捉えるのかを聞いてみたいと思う。宮台氏のシステム理論の核心は、その要素として、「互いの前提条件を供給するループ」を見つけることにあると僕は理解している。そのようなシステムの理解と、ライブドア問題の理解とをつなげて、システムの理解の方ももっと深めたいと思う。
2006.01.29
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運動というものを、ゼノンはどのような理由から否定しなければいけないものと考えたのだろうか。事実として、そのようなことをしたと言うことを確認するのでなく、ゼノンの基本的な考えから、どのように運動の否定が論理的に導かれるのかということを考えてみたい。まず考えられるのは、ゼノンのパラドックスを帰謬法として捉える解釈だ。運動が存在すると考えると、論理的にパラドックスのような矛盾が導かれる。だから、運動は存在しないと考えられる。このような流れだ。しかし、これは運動の否定の証明ではあるが、この証明が見出されたから運動を否定したというのは、原因と結果が逆であるように感じる。まず運動の否定という考えが生まれ、その考えが正しいことを証明するためにパラドックスを考えたという時間的な順番になるのではないだろうか。パラドックスは証明のための方法であって、これを思いついたから運動を否定するという考えが生まれたというのではないようだ。運動の否定はパラドックス以前にすでに生まれている。それを哲学史から拾ってくると、ゼノンの師であるパルメニデスの考えに行き着く。『西洋哲学史要』(波多野精一・著)によれば、パルメニデスの考えは次のようだったらしい。「彼は「存在」という概念から出発しました。その根本思想は「存在だけがあるのであって、非存在はあることなく、思考することも出来ない」というものです。ここから出発して彼は「存在」のすべての規定を展開しました。」これは完全な形式論理である。ものは、存在するかしないかどちらかであって、その中間はないとするのは形式論理の排中律だ。また、存在して同時に非存在でもあるという矛盾も起こりえない、とするのが形式論理だ。この形式論理が成立する世界で、非存在があり得ないと証明されれば、ものの存在性は絶対のものになる。パルメニデスは、この非存在を否定するために、非存在の規定性から論理的に次のようなものを導く。非存在というのは、存在の否定である。つまり、存在することを否定するのであるから、非存在は存在出来ないと。これは、一見論理的に正しいように見えるが、実は論理ではなく、言葉の意味を辞書的に解釈しただけに過ぎない。これは、論理的には、正確には、 非存在の対象となるものは存在出来ないという命題になる。非存在そのものを対象にしているのではない。非存在という言葉で指すものが対象であって、その言葉で指された対象は、非存在という属性から、存在出来ないという結論が論理的に導かれるのである。これは、言い換えると次のようになる。 存在出来ないものは、存在出来ないこのように書くトートロジー(同語反復)であることが明らかになるので、これは、「非存在」という言葉の定義を言っているにすぎないのだなと言うことが分かる。「非存在」という言葉は、ある対象が存在しないときに、その対象が「非存在」という属性を持っているのだと言うことを意味する。この対象に「非存在」という言葉自体は含まれていない。だから、非存在が、「存在しない」と言うことを語ったとしても、それによって非存在という概念までないことにはならないのだ。パルメニデスが否定したのは、非存在という属性を持った対象の存在であって、非存在の概念ではないから、それによってこの世には非存在そのものがないとは結論出来ないのだ。しかし、パルメニデスは、非存在があり得ないものとして否定し、世界は存在で埋まっているという結論を下したようだ。それは、パルメニデスが「空間」というものを認めなかったと言うことに現れている。空間というのは、そこにものが存在していないから「空間」と呼ばれるのであって、まさに「非存在」を表すものだからだ。実際には、非存在という概念が、空間の属性として考えられていると言った方がいいだろう。さて、非存在というものが形式論理的に存在を否定されて、そこからの帰結で空間の存在も否定されると、ここから運動の否定がもたらされる。この本では、このあたりの論理展開を次のように説明している。「次に、パルメニデスは存在は動くものではない、としました。動くとするならば存在ではない何ものかの中で動く以外にない。存在でないものは無い。従って、存在は動かない。(後に述べますように、非存在とは空間のことです。パルメニデスは空間の存在を否定したので、運動を否定することになったのです)。 次に、存在には変化がない、としました。なぜならば、変化とは存在が存在でなくなって非存在になることを意味するのだからである」「非存在」という言葉の意味を形式論理的に展開すると、最後には「運動」の否定にまでいってしまうのである。こういうものを三浦つとむさんは「論理的強制」と呼んだように記憶している。これは、形式論理で語る範囲を超えた対象を無理やりに形式論理で捉えようとしたためだと思われる。存在というのは、弁証法的な把握をしなければ、現実的な存在を捉えることは出来ない。存在というのは、絶対的に変化しないものとして存続し続けるのではない。属性の中に変化せずに保ち続ける部分と変化する部分とを持っていて、それが不可分に統一されたものとして現実には存在している。板倉さんは、このようなものを表現するのに、<=:イコール>の矛盾というものを語っていた。変化しない同一というのは、A=Aという同一性ではなく、A=Bという同一性だというのだ。AとBとは違うものだが、この中に変化しない共通のものを見ることが出来るので<=:イコール>で結べると考えるのだ。ギリシアの時代に、このように極端な形式論理が使われたのは、おそらくこの時代にはじめて形式論理の有効性が発見されたからだろうと思う。強力な武器としての形式論理は、それこそ世界のすべてを解明する武器に見えたのではないか。また、一度これだけ徹底的に形式論理を使ってみないと、その限界を自覚するのは難しかっただろうと思う。そういう歴史的背景が、パルメニデスの「運動」の否定につながっているのだろう。形式論理の無理な適用が、「運動」の否定という矛盾につながっているのだと思う。パルメニデスはゼノンの師であり、ゼノンがパラドックスを提出する以前に、すでに「非存在」という言葉の意味を形式論理的に展開することによって、非存在そのものの存在が否定され、非存在として考えられている「空間」の存在が否定され、それによって「運動」が否定された。ゼノンは、この「運動」の否定を出発点に、それを証明するためにパラドックスを提出したと考えられる。パルメニデスの形式論理の展開を見ていると、形式論理によって神の存在証明をするものに構造が似ていると思う。これは、神の属性として完全性を立てることによって、存在が必然的になるという形式論理だ。神は完全であるから、すべての属性を備えている。だから、存在という属性を備えていないはずはないと言うわけだ。もしその属性がなければ不完全ということになり、そのような対象は神にふさわしくないと言うわけだ。しかし、これは証明しなければならない「存在」という属性を、証明する前に神に帰属させてしまっている論理になる。それは論理的な構造としては、証明する必要のない前提として、すでに確立されたものとして属性になってしまっている。だから、それを語ったからといって、本当は何も証明されていないのである。単に形式論理を整えて、言葉の定義をしているだけに過ぎない。循環論というものになっている。非存在という言葉に、存在しないと言うことをくっつけて、非存在などというものは無いのだと主張するのは、神という言葉に存在という要素をくっつけるのに似ている。我々は、この世にあり得ないものという概念を作ることが出来る。この世にあり得ないものは、見つけることが出来るはずがないのに、頭の中ではそれを対象とした思考が出来てしまう。頭の中の抽象的な世界では「この世にあり得ないもの」が存在する。これを、直接「この世にあり得ないもの」があった、と表現すれば、これがこの世のことに対する記述である限りでは形式論理的な矛盾になる。この世の出来事に対しては、それをすべて形式論理で表現することは出来ない。それは弁証法論理で表現すべきものを含んでいる。このとき、弁証法論理で、ある種の条件を設定出来れば、その条件の範囲内では形式論理で語ることが出来るだろう。弁証法論理と形式論理は、現実の世界に対してはそのような関係になっているのではないか。数学のように100%形式論理が通用する世界もある。しかしそれは、数学が100%抽象的な世界で出来上がっているからだ。抽象的な世界の比率に応じて、形式論理が受け持つ範囲が限定されていくだろうと思う。そして、抽象の世界が極めて狭い範囲に限られる対象に対しては、弁証法論理が、その解釈において大部分を占めるだろうと思う。弁証法論理は、A=Bのイコールの同一性に関して、違う部分がありながらも同じという、違うと同じを両立させる論理を提出するだろうと思う。同じと考えられる部分では、ある種の抽象が行われ、そこで形式論理が活躍するに違いない。「アキレスと亀」のパラドックスにおいて、形式論理が正しく帰結する部分と、弁証法論理でなければ正しく解釈出来ない部分を分けてみたいものだと思う。僕にとっては、そうすることが本当の意味での「アキレスと亀」のパラドックスの論理的な解決になるのではないかと思う。
2006.01.28
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「運動」の直接表現である「動詞」というものを考えてみたい。振り子の運動を考えるとき、鉛直方向の最下点の状況を考えると、そこに「ある」と静止的に捉えると矛盾を生じ、「通過する」と言えば少しも矛盾が生じないと言うことがあった。「運動」の動的属性をそのまま表現する「通過する」という言葉なら、運動を表現するときに矛盾が生じないと言うわけだ。「ある」というのも動詞の一つなのだが、これは動詞でありながら静的属性を表現しているという特殊な動詞に感じる。だから、この特殊な動詞を考えるのは後回しにして、本当に動きがあると思える状況を表現している一般の動詞について考えてみようと思う。三浦つとむさんは、動詞の本質を、変化する属性の表現として捉えた。何かが動いているように見える現象というのは、そこに必ず変化という属性を発見出来ると言うことだろうか。変化する何かが見つかると言うことだろうか。まずは人間が動作をする動詞で考えてみよう。 歩く・走る・行く・帰る …… 位置の変化 食べる・飲む …… 対象である食べ物の変化(消費) 見る・聞く …… 対象からの情報の変化(認識の変化) 話す …… 発話される音声の変化このほかたくさんあるだろうが、現象の中に何らかの変化を発見出来そうだ。それでは、人間が動作をするのではなく、観察したものを表現する動詞はどうだろうか。 落ちる・上がる・飛ぶ・転がる …… 位置の変化 止まる …… 変化していた状態が変化(動かなくなる) 晴れる …… 晴れでない状態から晴れになる(天気の変化)「晴れ」というのは名詞であり、これは状態を固定的に捉えて表現している。つまりここには、変化という表現はない。これが「晴れる」という動詞になると、それ以前の状態が晴れではなかったという表現が含まれることになる。つまり、変化が表現されていると考えられる。日本語では、変化という属性こそが動詞にふさわしいと言うことが言えそうだ。しかし、ここで困った問題がある。日本語で「好き」という言葉は動詞ではない。これは教科書文法では形容動詞に分類されている。形容詞に近い言葉として捉えられているようだ。しかし、英語では同じ意味を表現する言葉 like は動詞に分類されている。変化という属性が動詞の本質だというのは、日本語だけのものなのだろうか。「好き」という言葉は、活用変化がないので動詞に分類されていないことは明らかだ。ということは、日本人は、この現象を変化としては捉えなかったことになる。確かに、「好き」という感情は、ある程度持続するもので、持続している間はそれに変化は認められない。その変化しない間を捉えて「好き」を動詞に分類しなかった可能性はある。「好き」でない状態から「好き」な状態への変化は、「好きになる」という動詞で表現されたりする。また、自分の心理状態の変化を伴う表現になると、「好む」という動詞が使われたりする。僕は英語に詳しくないので分からないが、この変化する属性を捉えた意味が like の中に入っているなら、 like も変化する属性を含むことになり、動詞に分類されるというのが頷ける。英語でも変化する属性を動詞として捉えているのかなと思える。さて、変化というものが動詞の本質だと考えると、静止状態の表現である「ある」という動詞が、なぜ動詞なのかという理由も納得出来る。それは、すべてのものは同じ状態で変化せずに存在し続けることが出来ないからだ。それは、人間がまったく手を加えなくても自然に朽ち果ててしまう。理由は分からないが何かが変化していることは確かなのだ。存在することは、それだけで何らかの変化をもたらすのである。その変化を捉えると、存在を示す「ある」という言葉は動詞にならざるを得ない。今なら、それが分子レベルのミクロな動きが原因だと言うことが分かる。人間の目には、動いていることが見えないが、ミクロの世界では物はみな動いているのである。もちろん、昔の人はそのようなことを考えたのではなく、現象として、長い時間がたつと物が変化することを捉えて「ある」を動詞にしたのだろうと思う。英語では、 am,are,is などの be 動詞と呼ばれるものが存在を表し、これも動詞として分類されている。存在が動詞として表現されるという日本語との共通項は、とても面白いものだと思う。人間が感じることが、ある程度の共通項があるのだなと確認するのは、真理というものの共通性を感じることでもあり面白いと思う。さて、動詞の本質が変化という属性にあり、運動というものが動詞で表現されると言うことになれば、運動の本質も変化にあると考えていいのではないだろうか。運動というものが、物質の存在形態であり、運動しない物質というものが考えられないと言うことは、変化しない物質が考えられないと言うことでもあるのではないだろうか。物質はすべて変化をする。それが弁証法的なとらえ方の有効性につながってくる。弁証法は、形式論理ではつかみきれない「変化」というものを捉える論理になるからだ。物事が、変化をしない静止だけであるなら、すべては形式論理で解明出来るだろうが、物事がすべて変化するものであるなら、形式論理は多くの間違いを犯すだろう。特に運動を形式論理で捉えようとすれば間違えるに違いない。ゼノンのパラドックスは、そのような間違いでもあるのではないか。すべてが変化するのなら形式論理はまったく役に立たないのではないかと感じる人もいるかも知れない。しかし、変化は相対的に変化しないと解釈することも出来る。同じ速度で運動している二者は、方向も速さも同じだから、相対的に静止の位置にあると言っていい。地球上の、地球と比べて質量が著しく小さい物質はそのような、相対的な静止の位置にあるだろう。だから、大地が動いているとは感じない。このようなときは、静止を表現する形式論理でも正しい表現が出来る。また、相対的に短い時間を設定すれば、その時間の範囲では変化をしないという現象もある。それは静止によって捉えられる。一般に、ある条件でマクロな変化が見られないものに対しては、ミクロ状態を無視出来ると考えると変化しないものとして考えられる。存在することは、マクロ状態での変化は一定の時間には見られない。それがたとえ分子レベルというミクロ状態で変化していたとしても。だからこれも形式論理で記述出来る。変化というものをどう捉え・どう記述するかで、形式論理というものの有効性が決まってくる。ミクロな変化、あるいは連続的な変化というものを記述しようとすると、形式論理はそれを静止で捉えることが出来ずに、論理として無理な面を生じて矛盾が顔を出すのではないだろうか。形式論理は、ある時点を静止的に捉えて、二つの現象を比べてそこに違いを発見したとき、そこには結果的に変化があったという記述をすることは出来る。マクロな変化の結果を記述することは出来る。それは、二つを独立に、それぞれを観察して表現することが出来るからだ。しかし、それは違っていると言うことが、変化の結果を表現しているのであって、変化そのものを表現していることにはならない。形式論理では、その過程を表現することが出来ない。過程は、形式論理をつなげて想像するしかない。もし、変化の途中の一点を表現したとしても、それは過程ではなく、途中の一点を固定して表現しただけのものになる。つまり、それは過程という連続的認識ではなく、ある瞬間という断続的な一側面を表現しているだけだ。瞬間はいくらたくさん並べても瞬間にしかならない。決して連続した過程にはならない。それが過程になるのは、無限に並べることが出来たときだが、この、瞬間を無限に並べると言うことは、形式論理には決してなしえない不可能なことなのではないかと思う。動詞による表現というのは、運動の過程を表現したものになるのではないだろうか。それはおそらく弁証法的に理解することによって本質的な意味が伝わるのだと思う。それは、過程を捉えて表現しているので瞬間についてはよく分からないものとしているようにも思う。「通過する」と言ったときは、通過する瞬間については何も分からないことを意味しているのではないだろうか。その瞬間を語るには、それを固定的に捉えて形式論理で捉えないとならないのではないかと思う。通過すると言うことを、数学的に厳密な意味で、点を通過するということで考えるのではなく、一定時間その場所にいたというようなとらえ方をすると、静止的な存在を語ることも出来る。現実の物質は、大きさのない数学的な点に存在することは出来ない。いつでもある一定の大きさを占める場所に存在しなければならない。この場合は、一定の条件の下に、そこに「いる」という表現をすることが出来る。そして、その時に形式論理は、この運動の瞬間というものを現実的に捉えて表現出来るのだと思う。「アキレスと亀」のパラドックスにおいては、アキレスは無限の点を通過することになっているが、それが数学的に厳密な意味での点・すなわち大きさを持たない位置情報だけを持っている点であるなら、形式論理は、それをつなげて一定の大きさの長さを作ることが出来ない。無限は、いつまでも無限の彼方にあるだけだ。しかし、この点が一定の大きさを持った現実的な点ならば、その点を通過する幅が縮まることによって、いつかはアキレスは亀に追いつき・追い越すことが現実的な結論になる。これは無限の思考を必要とせず、有限の幅の差を計算することで解決する。形式論理の範囲で解決が出来る。これが、「アキレスと亀」のパラドックスが、現実的には解決されると言うことの意味ではないだろうか。「アキレスと亀」のパラドックスは、形式論理的思考においては間違いがなかったのではないか。しかし、それを現実の運動の記述にそのまま使ったことが間違いだったのではないか。現実の運動は、形式論理で記述することは出来ないのだと思う。板倉さんが指摘したように。
2006.01.28
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宮台真司氏は、マル激トーク・オン・デマンドでは、良く日本の後進性を指摘して、日本は近代社会ですらないという点をさまざまに指摘する。例えば個の確立が出来ていないと言う批判は、自分の体験からもよく分かる批判だ。日本人は、周りの空気に流されるという性質が、あれほどの意固地なわがままを抱えているように見える小泉さんにすら見られる。一見信念を貫いているように見えながら、それは、大部分が自分を支持するという予想を元に主張しているに過ぎないようだ。もし、自分が支持されない、不人気になると思ったら、ある主張は簡単に引っ込めてしまうのではないだろうか。小泉さんは以前に、「周りの空気を読んで判断する」と言ったが、それは、その決断において何が支持されるか、何が不人気を呼ぶかが分からなければ判断が出来ないことを意味するのだろうと思う。もしそれが分かっていたら、支持されるだろうと思うことを主張しただろうが、それが分からなかったので、確固たる主張が出来ずに、周りの空気を見たあとでなければ判断出来ないと思ったのだろう。周りの空気を見ることが常に悪いことであるわけではない。他に配慮することは時には必要だ。しかし、小泉さんの周りの空気には、中国や韓国をはじめとするアジアの国は入っていない。周りの空気を構成するのは自国民であり、それよりも強い空気はアメリカの統治権力ではないかと思われる。周りの空気を見ると言うことが、正当に周りの他の人々を配慮していると言うことなら問題はない。しかし、それが常に第一の基準になり、自分の判断をそれにゆだねているとしたら、それは近代社会の市民としての個が確立されているとは言えないだろう。近代社会の個人としての市民は、意志の自由をはじめとするさまざまな自由の元に、自分の頭で考えて判断するという個の確立がなければならないと思う。逆に言えば、個が確立していない人間は、資本主義社会に生きていようと、宮台氏が語るように、やはり近代社会を構成しているとは言えないだろうと思う。日本が近代社会では無いという判断は、日本人の大部分がまだ個を確立していないと言うことから帰結されるのだと思う。小泉さんという、日本のリーダーでさえも個が確立していないのなら、大部分の国民も個が確立されていないと予想される。近代社会の条件は、個の確立だけではないだろうが、個の確立という観点で現代日本の現象を見て考えてみようと思う。現象を深く考えて本質を見ることが出来たら、個の確立を図って近代以前の残りかすを克服する方向が見えるのではないかと思う。まず、個人的な体験を一つ語ると、僕はあるきっかけからNHKの受信料を拒否している。昨今の不祥事がきっかけではなく、本多勝一さんの『NHK受信料拒否の論理』を読んでから、それを吟味して決断したものだ。読んで、それを鵜呑みにしてすぐに拒否したのではない。それなら、他人の意見に従うだけの、自分の判断のない人間になってしまう。読んでから決断するまで10年ほどかかった。受信料を払うか払わないかは、基本的には契約関係であると僕は思っている。契約だから、自分が受信料を払うことに納得して、NHKと合意すれば受信料を払うと言うことになる。それが、義務のように強制的に払わされると言うこと自体が間違いだと思っている。NHKは勝手に放送を流しているのだから、それを見るか見ないかは視聴者の勝手だ。見て、金を払うだけの価値があると判断すれば契約をすればいいのだと思う。NHKの受信料契約は、今のやり方では合法的な押し売りと言える。押し売りは基本的に許されないと僕は思うので、これを拒否する方が正しいという判断をした。あと細かい問題では、NHKの情報公開がずさんだと言うことも拒否の理由の一つだ。我々が払っている受信料がどのような使われ方をしているのか、具体的に知る方法がない。外国に派遣される職員の歓迎パーティーのようなものにまで使われているという噂もあった。その噂が本当なのか、確かめるための情報が公開されていないのは、契約をしようという意志を失わせる。また、受信料を払うと言うことは、番組や運営に関して意見を反映させる制度がなければならないと思う。NHKのやり方に反対の意志を表明する制度がどこかになければならない。受信料を拒否するというやり方が一つの意志表明だと思うのだが、これは制度がないからそのやり方しか残っていないと言うことでもある。意見を反映させるというのは、自分の意見を採り入れろと言うことではない。一般的に何か意見がある人の意見を受け止める制度というのがNHKにはないのだ。視聴者の声を聞いていると言いたい人がいるかもしれないが、その聞いた声が、どのような手順を踏んで番組や運営に反映されるかという見通しがなければ、聞いただけでは制度があるとは言えないのだ。このような拒否の理由は、本多さんから学んで自分で考えて判断したものだ。僕は、近代人であろうとして、自分自身の判断を持つように努力したのだが、ある日説得に来たNHKの職員は信じられないような言葉を言っていた。「自分でそんなことを判断してもいいんですか」と言うことを言って去っていったのだが、受信料を払わないと言うことを、自分で判断したこと自体がケシカランという言い方だった。それは中年の女性だったが、彼女にとっては、「受信料を払う」と言うことは疑うことのない自明な前提だったようだ。その根拠がどこにあるかは聞かなかったが、「受信料を払わない」という根拠を彼女は聞きたくないようだった。NHKの職員であれば、それほど頭は悪くないと思うのだが、根拠を疑わず・考えず・信じているという姿は、個の確立が出来ていない人間に見えた。このような人が少数であれば、日本社会としては影響が少ないので、近代社会ではないという批判はされないのだろうが、どうやら大多数がそのようではないかと思われるので、日本社会の後進性というものが感じられるのだろうと思う。NHK職員といえば、ある意味ではエリート層に近い、社会では上層の部分に属する人間だろう。その人間でさえもが近代的な個が確立されていなければ、社会全体がそれを克服することはさらに難しくなるだろう。個人的な感覚にとどまらず、大衆的に、日本は近代社会ではないと思えるのは、マスコミに煽られる人々を見るときだ。最新のマル激の中では、オウム真理教の教祖だった麻原氏の裁判のことが語られていたが、麻原氏自身が、裁判を理解することが出来ない状況の中で裁判が行われようとしている状況を批判していた。近代社会では、裁判というものを通じて、その事件が社会においてどのような意味を持っているのか、その犯罪がどのような原因で起こったのか、それを抑止するにはどのような努力をしなければならないのかを学ばなければならないのではないか。それを感情的な吹き上がりで、「悪いやつを吊せ」というような復讐心で裁判を眺めるというのは、個が確立されていないと言えるのではないだろうか。麻原氏が裁判を理解出来る状況でなければ、我々がこの裁判から学ぶことは出来ない。だから、麻原氏が裁判を理解出来る状況までまず待つことが必要だ、という主張は論理的に真っ当な主張だと思う。しかし、そのような主張をすれば、大衆的にはものすごいアンポピュラーになり、空気を読めていないと思われる。大衆的な空気は、地下鉄サリン事件などを起こした極悪人の麻原氏は、見せしめのために早くつるすべきだというものではないだろうか。マスコミの報道を見ているとそう感じる。「和歌山毒カレー事件」と呼ばれるものの犯人と見られている林真須美さんについても、動機の解明が出来ていないと言われている。物的証拠にも乏しく、決め手になっている状況証拠の判断も、他に真犯人が見つからないから、疑わしい林さんが犯人だと言われているようだ。このことに対しても、宮台氏は、「疑わしきは被告の利益に」という近代社会の原則が守られていないと言う批判をしていた。しかし、この主張もかなりアンポピュラーなものになり、大衆的な反発を招いたらしい。宮台氏は、林さんが犯人ではないという主張をしたのではない。確固たる証拠なしに、犯人であるという判断をすることを批判したのだった。これは論理的に真っ当な批判であり、個が確立している人間だったら、少なくとも感情的な反発で論理を無視することはない。しかし、大衆的な反応とマスコミの報道を見る限りでは、個が確立している人は少ないように感じる。日本は、まだ近代を迎えていないのだ。近代市民の感覚を持っている人は極めて少ないのである。今またライブドア事件の騒ぎ方を見ていると、日本社会は、まだ近代が何たるかをまったく学んでいないのだなと感じる。マスコミが報道をすれば、まだ何も確定していないのに、すでに堀江氏が犯罪者であるかのごとく扱っても批判の声すら起こってこない。もちろん、一部の人たちは、インターネットなどで見識のある意見を語っているが、マスコミの暴走を止めることは出来ていない。マスコミが暴走するのは、堀江氏を叩くことがポピュラーなことであり、それをしている限りでは自分たちは安全だと思っているからだ。だから、大衆が市民として育っていれば、このマスコミを無視して、マスコミをこそアンポピュラーにして、まともな論理を使えないマスコミを、それこそ商売が成り立たないくらいに拒否することが必要だ。しかし、それは行われない。テレビはいずれ見捨てられると思うが、それはテレビが面白さを失っていくだろうと思われるからだ。テレビには危機意識がないので、質の高い面白い番組を作ろうという人間がどんどん減っていくと思われる。その質の低下がやがては見捨てられることにつながると思う。しかし、この見捨てられ方は、大衆的に市民感覚が確立したから見捨てられたと言うことではない。もし、市民感覚が確立した大衆が増えれば、今の段階でテレビが見捨てられてしかるべきだろう。テレビが自然崩壊して見捨てられるのではなく、我々自身の判断で見捨てる時代が訪れないものかと思う。個の確立は、自分自身の判断を持つことを体験することによって育っていくだろう。その意味では教育は非常に重要なものに思われる。しかし、日本の教育は、自分の判断を持つと高い評価を得られないという仕組みになっている。高く評価される人間は、自己主張する「ウザイやつ」ではなく、素直に言いつけを守る優等生だ。判断停止状態で、周りの空気を読む方が、学生の間は楽に生きられるし安全だ。日本の教育が、このような特質を持っている限り、日本人の大部分が個が確立出来ないのは論理的な帰結になるかも知れない。しかし、希望の一端は見える。それは、日本の教育が、もはや効果が薄れた、崩壊寸前のものになっていることだ。個の確立を奪う教育が効果をなさなくなれば、そこから逃れる人間が、徐々に個を確立していけるかも知れない。学校に影響されすぎない人間が増えることによって、日本も近代社会への道を歩めるのではないだろうか。学校の教師も、価値観を押しつける能力がだいぶなくなってきた。これは、未来への明るい展望ではないかと思う。子供たちが、面従腹背を一つの技術として学び、それを道徳的に悪いことだなどと考えなくなれば、個の確立につながるのではないだろうか。大人たちも、面従腹背の技術を学べればよいのだが、長年染みついた道徳観念が邪魔をするかも知れない。しかし、わがままと紙一重の主体性は、日本の子供たちにも育ちつつあるのではないだろうか。
2006.01.27
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物理学が「運動」そのものを表現しようとすると、どのような矛盾が表現に現れてくるかという問題を、板倉さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で、振り子の運動を例に引いて説明している。これもちょっと長い引用だが、引用して考えてみようと思う。「弁証法を論ずる人々は、これまでよく「運動は一つの矛盾である」といって、「<ここにあると同時にここにない>というのが運動だ」と説明してきました。その説明の仕方を聞いて、これまで「何となく納得できない」と思った人も少なくないことと思います。しかし、次のような例を出すと、その問題点が明らかになってくると思います。 今、ア図のように、物体Wが紐に吊り下がっているとします。運動の力学でない「静止の力学=静力学」では、紐につり下げられた物体に働く力は、 1地球がその物体を引く引力(重力)と 2紐がその物体を引き止めようとする力の二つの力で、「その二つの力は向きが反対で大きさが同じだ」と考えて、これに関する問題を解くことになります。 そこで今度は、この物体Wをイ図のように、紐の付け根のO点を中心に振り子のように振動させることにします。その場合、物体WがちょうどO点の真下に来た瞬間tには、その物体Wにはどんな力が働いていると考えたらいいでしょう。 この問題は、「その瞬間tには、その物体WはA点にある、静止している」と考えていいかどうかによって、答が変わってきます。もしも、「その瞬間には、確かにA点にあると言っていい」のなら、物体Wは、ア図と同じ条件にあるのですから、「答は、前の問題と同じ」ということになります。しかし、「瞬間たりとも<そのA点にある>と言ってはいけない」とすると、別のことを考えなければならなくなります。一体、どうなのでしょう。 実は、物体Wが振り子のように振動してA点に来たとき、2の「紐が物体Wを引き止めようとする力」は、物体Wに働く重力よりも大きくなるのです。その証拠に、ただ物体Wを吊り下げただけのときには切れない紐でも、物体Wを振動させると切れることがあります。だから、「そうも考えられる」だけでなく、「そう考えなければならない」のです(物体Wに働く力は、釣り合っているのではなく、上向きの力の方が大きいから、上向きにカーブして振動するわけです)。 このことは、「物体Wはある瞬間たりとも<A点に存在する>と考えてはいけない」ということを意味しています。もし、その瞬間に本当にA点に存在していたのなら、前の論理が通用するはずだからです。それなら、物体WはA点に存在することはなかったのでしょうか。そんなことはありません。物体WはA点を通過せずに振動は出来ないことは明らかです。だから、「どこにあったか、静止していたか」ということにこだわる「静止の論理」を使うと、どうしても、「物体Wは、瞬間tには、A点にあって、しかもなかった」と言うほかないのです。もちろん、「あったかなかったか」などという静止の論理にこだわらなければ、「物体Wは、点Oの回りに振動して、瞬間tにA点を通過した」といえば、何も矛盾した表現を使う必要はないのです。 これで、「そもそも運動は矛盾である。それは絶えず、ある点にあってその点にないことなのだから」という言葉の意味が分かっていただけたのではないでしょうか。それは、必ずしもやたらに七面倒くさいことを言いたがる人が言う言葉ではないのです。」図がないので想像が難しいかも知れないが、重りをつけたひもをつり下げた振り子があると想像して欲しい。これが静止している状態であれば、それは論理的に簡単に記述出来る。しかし、振り子の「運動」をしている状態にあるときは、それを論理で記述しようとすると、ある地点に「あるか、無いか」という形式論理の表現では矛盾を生じると言うことが語られている。振り子が地面と鉛直方向になるような、真下に来た地点に「ある」と考えるなら、それは、その位置で止まっている状態と同じ記述になる。「ある」というとらえ方は、それが移動せずに静止しているというとらえ方になるからだ。移動してしまえば、それはその地点に「ある」とは言えなくなる。しかし、静止していた時に重りが引っ張る力に耐えていたヒモが、振り子の振動を起こしたときには、切れてしまうことがあると板倉さんは指摘する。そうすると、振り子の運動の時は、真下に来るときに、静止した状態よりも強い力がひもに掛かることになる。これは、体感することも出来る。重りをつけたヒモを自分で振り回すような運動をすると、ただぶら下げていたときよりも、早く回転させればさせるほど強い力で引っ張られるのを感じることが出来る。運動は物質の状態を変えてしまう。静止していれば釣り合っている力が、運動しているので、運動の方向を変える方に力が向いていると考えなければならない。しかし、その記述は、ある瞬間という時間を捉えて、その瞬間には力が中心方向に向いていると記述するしかない。そして、その記述は、静止とは違うものになるので、その瞬間にはそこに「ある」と考えてはいけないということも意味している。つまり、振り子の運動においては、物質は「その地点に<ある>と同時に<無い>」のである。運動そのものを表現しようとすると矛盾が顔を出す。瞬間の記述は、論理的に考えればあくまでも静止でしか表現出来ない。しかし、「運動」は、その静止した瞬間が連続的に無限につながることを意味する。無限につながることで、瞬間が瞬間でなくなる。0(ゼロ)を無限に加えて0(ゼロ)でなくなるという感じだろうか。「運動」そのものの記述は、論理的にやろうと思えば、このようなものが本質的に現れると思われる。「アキレスと亀」のパラドックスにおいても、「アキレスが、亀が元いた地点に到達する」という瞬間を記述する。この瞬間は、論理的には時間が0(ゼロ)としか考えられない。だから、この瞬間をいくら積み重ねても時間は0(ゼロ)であるから、永久にそこにとどまったままで未来へ到達しない。運動は、この瞬間が積み重なって、幅のある時間の経過が生まれることで記述しなければならない。ゼノンの論理では運動は記述出来ないのではないかとも思われる。ゼノンは、矛盾の存在によって、現実の運動そのものを否定したのではなく、形式論理が運動を記述するという可能性の方を否定したのではないだろうか。それはゼノンが意図したことではないのかも知れないが、ゼノンのパラドックスの解釈としては、その方が論理的に正しいのではないだろうか。現実には運動は存在するのだと思う。しかし形式論理では直接表現は出来ないのだ。それを直接表現しようとすれば矛盾が生じてしまい、形式論理が利用出来なくなるのだと思う。直接表現するのではなく、間接的に静止を表現し、その静止を否定することによって運動を表現するという工夫をしなければならないのではないだろうか。板倉さんは、「「あったかなかったか」などという静止の論理にこだわらなければ、「物体Wは、点Oの回りに振動して、瞬間tにA点を通過した」といえば、何も矛盾した表現を使う必要はないのです」とも語っている。運動そのものは、形式論理で表現すれば矛盾を生むが、形式論理にこだわらなければ、「通過する」という動詞表現で語れば矛盾を生まないと言うわけだ。「運動」の本質を求めるには、今度は、その直接の表現である「動詞」というものとの関連を考える必要があるのではないかと思う。三浦つとむさんは、「動詞」は、物質の変化する属性を表現すると捉えていた。「運動」の本質も「変化」にあるだろうことは十分予想出来る。今度は、「動詞」というものを通じて「運動」を考えてみようかと思う。
2006.01.26
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「アキレスと亀」のパラドックスに関連して、「運動」というものについて一度深く考えてみなければならないのではないかと感じている。特に、「運動」そのものを論理は記述出来るかということを考えてみたいと思った。そこで「運動」とその表現の「論理」を語った板倉さんの文章を探したのだが、『新哲学入門』(仮説社)の第16章「「運動は矛盾である」とはどういうことか」(146ページ)の中にそれを見つけた。これを読むと、さすがに板倉さんという感じがする。僕が言いたかったことが見事に語られていた。少し長いが引用しよう。「 そういえば、弁証法や矛盾論を扱った本の中には、「運動は一つの矛盾である」と書いてあるものがありますが、これはどういうことでしょうか。 実は、この「矛盾」の問題は、高等学校や大学の数学の時間に微分や積分を教わるときに出てきます。例えば、速度というのは、距離を時間で割ったものですから、瞬間速度vを出すときには、微少な時間Δtの間の位置の変化ΔxをΔtで割ればいいことになります。ところが、そのΔtというのは「限りなく0に近い量だが、しかも0ではない時間」として説明されます。「限りなく0に近く、しかも0でない」というのは、「0であって0でない」というようなものですから、一つの<矛盾>と言うより他ありません。 それでは、微積分学ではどうしてそんなに非常識なことを言うのでしょうか。――それは、数学を始めとする論理というものは、元々、「すべてのものを<変化しないもの、静止しているもの>としてとらえることに特色があるからだ」と私は考えています。「そういう数学の論理でもって運動を表現しようとすると、<ある瞬間にここにあってここにない>などという表現も採用しなければならず、<このΔtというのは限りなく0に近くしかも0ではない時間だ>などという不自然な表現を使わざるを得なくなる」というわけです。そのかわり、微積分学でも、最初そういう論理を導入してしまえば、後はごく普通の論理だけで展開し、矛盾した表現を使わないですむようになっています。 もちろん、運動しているものだって、静止の論理でとらえるのではなく、運動しているものを「運動している」と言ってしまえば、何も矛盾した表現をする必要なないのです。「ものが運動している」からといって、それが何か矛盾していて、「あり得ないことが起きている」などと言うことはないわけです。」0であって0でない、ということの説明などは見事だと思う。ここでの重要な指摘は、「数学を始めとする論理というものは、元々、「すべてのものを<変化しないもの、静止しているもの>としてとらえることに特色があるからだ」」ということだ。「限りなく近づく」というのは、運動そのものの表現と考えられる。これを論理的に表現しようとすると、「0であって0でない」という矛盾した表現にならざるを得ないという指摘がここにあるのを僕は感じる。運動そのものは論理では表現出来ないのではないかと感じる。だから、運動そのものを表現しようとすると、ゼノンに限らずパラドックスが顔を見せるのではないだろうか。板倉さんは、「運動しているものだって、静止の論理でとらえるのではなく、運動しているものを「運動している」と言ってしまえば、何も矛盾した表現をする必要なないのです」とも語っている。つまり、形式論理に矛盾が出たからと言って、それによって存在を否定する必要はないと言っているのだ。否定すべきは論理の表現の方で、運動そのものを表現することをあきらめてしまえばいいのだ。論理が「静止」の表現であるならば、それは「運動」とは正反対のものになる。この対立は、両立はするけれど別のもの、と言うのではなく、両立しない排反的な対立だ。だから、この対立を一緒に持つような表現をすれば、そこから矛盾が帰結されるのは、そのこと自体はごく当然なことで、少しもパラドックスではない。それが、現実の忠実な表現だと考えることがパラドックスを生むと考えられる。数学の場合「限りなく近づく」という「運動」そのものの表現を、<イプシロン-デルタの論理>によって静止で捉えることで矛盾を回避している。そのポイントはイプシロンの「任意性」にあると僕は考えている。イプシロンは、正の実数を表すのだが、これはある実数として確定すればその数に固定されて、静止した状態として記述される。このイプシロンが「動く」ことはない。しかし、これの選び方には「任意性」があるので、どの実数を選んでもいいと言うことになっている。イプシロンの選び方に「任意性」があると、どうして「限りなく近づく」という運動表現になるのか。それは<否定の否定>としての表現になっていると僕は思う。つまり、次のような思考の流れだと僕は捉えているのだ。 <限りなく近づく>→<限りなく近づくのではない、と言うことではない> →<近づいていない、と言うことではない> →<ある限界から先には近づいていない、と言うことではない> →<すべての限界を立てても、そこより先に近づいている> →<すべての限界を立てても、その限界の先に点が存在する>「近づいている」という現象の直接の表現は、「運動」として考えられるが、その否定「近づいていない」というのは、「運動」の否定であるから「静止」として捉えることが出来る。つまり「近づいていない」という表現を論理で語れば、そこには矛盾が現れない。だから、「近づいていない」という表現を論理でいったん表現してから、それを否定すると言うことで、「近づいていない、のではない」すなわち「近づいている」という表現にしようという工夫だ。これは「運動」そのものではなく、間接的に「運動」を表現することになっている。静止として表現された「近づいていない」を否定するのは、ある命題の否定は論理の中で正当に認められる操作として、論理の矛盾を生まないので、この表現は論理の中での正当性も獲得出来る。この工夫が<イプシロンーデルタの論理>だろうと思う。「ある限界が存在する」という設定から、その否定として「任意性」が現れる。これこそが、「限りなく近づく」と言うことを論理で表現することのポイントだと僕は思う。数学では、このようにして<二重否定>を利用して「限りなく近づく」という「運動」を表現しているように僕は思う。それでは、「運動」を直接扱う物理学などでは、この矛盾をどう処理しているのだろうか。物理学でも論理を使って法則の正しさを証明しているはずだ。もし、「運動」の表現の中に矛盾が入り込んでしまったら、論理的に証明された法則の信頼性が薄れてしまう。数学で解決されているのは、「限りなく近づく」という「運動」だけだ。「運動」一般を取り扱う物理学はどのような工夫で、表現の中に矛盾が現れないようにしているのだろうか。どのようにして「運動」を「静止」として捉えているのだろうか。この工夫は、僕は、物理学では「運動」そのものは表現していないからではないかと思っている。表現しなければ、そこには矛盾が現れない。物理学、特に力学などでは、運動の過程ではなく、運動の結果を記述することで、運動そのものを表現が現れないようにしているのではないかと思う。過程の方は、人間の想像の中に現れるようにして、表現には現れないようにしているのだと思う。物理学における「運動」は、位置の変化によって記述される。位置の情報というのは、「そこにある」という静止した状態で記述しなければ記述出来ない。位置情報の記述によって、運動を「静止」で捉えると言うことをしているのだと思う。ある時間t1にa1という位置にいた物質が、t2という時間にはa2という位置にいたと記述したとしよう。その時に、この物質は、(t2-t1)という時間内に、(a2-a1)だけ移動したと考える。これは、考えるという頭の中の出来事を記述してはいるが、語られているのは、それぞれの位置だけで、どう動いているか、その過程はまったく記述されていない。物理学においては、過程は知らなくてもいいことになる。結果としての対応関係、 f(t1)=a1 f(t2)=a2から、一般的にf(t)=xというような関数が求まって、どの時間の時に、結果的にどの位置にいるかが分かれば、その過程が表現されていなくてもいいということで、「運動」そのものの表現をしないように工夫しているのではないか。このとき、物理学が、「運動」そのものを表現しようとすると、果たしてどのようなことが起こるだろうか。板倉さんは、そのことについても実に興味深い例を語ってくれている。しかし、それも長い引用になるので、エントリーを改めて考えることにしよう。まずは、ここでは、「運動」そのものの表現は、「静止」の表現である論理で記述しようとすれば、必ず矛盾が生ずると言うことを確認しておくことでまとめようと思う。
2006.01.26
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マル激トーク・オン・デマンドの中で、宮台真司氏が思想史の重要性を語っていたことがあった。思想史というのは、分かりやすく言えば哲学の歴史と言うことになるだろうか。宮台氏によれば、現実の物事を判断するときに、これを知っていて、その教養の基礎の上にものを考えるのと、自分の通俗的な観念で恣意的に考えるのとでは、その深さがまったく違うと言うことだった。哲学というのは、基本的に人間が世界をどう捉えるかというのを考える。その発祥の地である古代ギリシアからの哲学の流れは、人間の世界のとらえ方の進歩の歴史である。そしてそれは、ある意味では個人の人生でも繰り返しその流れと同じものが起こってくる。古代ギリシアは、素朴に見たままの世界のとらえ方を哲学として語っている。しかし、少し考えが深くなると、その素朴な見え方の裏に隠されたものを考えるようになる。物事の本質は、見かけという現象とは違うのではないかという考えが生まれる。そうすると、最初の素朴な見方が否定されて、ある側面を重視した、ある種の偏見から世界を見るようになる。これは、その側面こそが本質だと判断するのでそういう見方になる。しかし、それは素朴な見方を否定した偏見でもあるので、これもまたいつかは疑問視されるようになり、今度は、素朴な見方を否定しないような、それを包含した総合的な見方が生まれる。ここに、弁証法で言われる<否定の否定>の過程を持った発展が見られる。このようになったとき、初めて本当の意味での哲学の進歩がもたらされたと言うことになるだろう。自分自身の哲学を振り返ってみると、高校を卒業するまでは、もっぱら古代ギリシアの段階にとどまっていたようだ。その関心の大部分は、世界の整合性に向いていた。論理という理屈で理解出来る対象こそが僕の世界だった。数学こそが、本当に世界としてリアリティを持っている唯一のものだった。それ以外は、不確定要素が多すぎる理解困難な対象だったので、そういうものは無視して生きるというような感じだっただろうか。この時代は、数学に対する愛着がもっとも深かったころで、数学的な理解がすすめば僕は幸福感を感じたものだった。その数学は、まだ初歩的で大したものではなかったが、面白さは他のどの時代よりも強かったかも知れない。そして、世界がまだこのように素朴だったころは、他に思い悩むことも生まれなかった。この世界が広がってくるようになると、哲学はそれなりの進歩を見せなければ、心の安定を含んだいろいろな意味での安定感は失われていく。最初の世界の広がりのきっかけは数学におけるつまづきだった。高校を卒業するまでは、僕が接した数学は、その文章を読めばだいたいが理解出来た。教科書なども読めば分かったので、授業ではノートなども一切取ったことがなかった。教師の説明を確認して、ここはこうなっていたというのを思い出すだけだった。しかし、大学で専門的な数学を始めると、その概念がまったくつかめなくなってしまった。なぜこのように細かい議論をしなければならないのかが分からず、末梢的なことにこだわっているだけのような感じがした。そこで展開しようとしていた理論の全体像がつかめず、そこでの数学的世界がまったく見通せなくなってしまったのだ。僕にとっては唯一の幸福のよりどころだった数学的世界が失われたので、このときはたいへんな危機感があった。そんなとき初めて哲学書に触れた。それは通俗的な哲学紹介の本だったが、僕にとっては、世界に対してこれだけいろいろなバラエティな考え方があるのを知ったのは新鮮な驚きだった。しかし、そのころはまだ幼かったので、哲学史を思想の流れとして読むことは出来なかった。それぞれが並立した考え方の紹介のように感じて、その中で自分が気に入った哲学にのめり込むようになった。進歩の段階をとばして、恣意的な偏見の中に入っていったという感じだろうか。それがある意味では気持ちよかったこともあって、その時代を反映するような実存主義的な哲学に惹かれていくようになる。これにはもう一つ原因があって、自分の世界が広がってから、人間や社会のことも考えるようになり、初めて本格的な失恋を味わったと言うこともある。さらに、卒業して就職を考える時期になって、社会は必ずしも自分を必要としてはいないという、社会にとっては自分の存在は必然ではなく偶然に過ぎないという思いも生まれてきた。このような思いが重なるとどうしても実存主義的なものに心を惹かれるようになる。この時代は、数学以外の世界を広げていた時期でもあり、文学を読みあさったころでもあった。特に気に入ったのはドストエフスキーであり、他にも実存主義的傾向の強い、カフカ・サルトル・カミュなどを好んだ。遠藤周作の純文学作品にも実存主義的な匂いを感じて読みふけったのもこのころだ。実存主義の開祖と言われているキルケゴールの哲学については、『はじめての哲学史』(竹田青嗣・西研・編、有斐閣アルマ)では次のように紹介している。「キルケゴールの思想には、そうした<時代の気分>が鮮やかに反映されている。彼は、こうした時代の流れを背景に、人間が「生きていること」そのことが帯びる不条理や苦悩から生じる「不安」と「絶望」を徹底的に見据えようとした。たとえどんなに社会や文化が進歩したとしても、「不安」と「絶望」から人間が免れることは出来ない--キルケゴールはそう考える。むしろ人間が生きているそのことから生ずる根本感情としての「不安」と「絶望」を徹底的に味わい尽くすことこそ、人間が生きていくエネルギーの源泉が求められる。おのれの不安や絶望から眼を逸らすために一時しのぎの気晴らしや享楽に逃げ込みがちな享楽的「大衆」としてではなく、絶望と不安をトコトン見つめる「単独者」として、自分が生きる意味そのものを問いつめようとする態度こそ、キルケゴールの生涯貫き通した姿勢だった。」<時代の気分>というのは、キルケゴールが生きた19世紀末は、戦争や貧富の格差という、社会にとっての闇の部分が見えてきた暗い時代だったようだ。その前が、人間の可能性が大きな発展をしていた希望に満ちた時代だっただけに、よけいにそう感じたらしい。日本における高度経済成長の明るい時代と、そのひずみが表に出てきたその後の時代に通じるような背景だなと思う。キルケゴールの生き方は尊敬に値するもので、僕にとってはロールモデルになり得た。サルトルなども、「投機」という言葉で、自分を人生の場面に投げ出すと言うことこそが実存主義的な生き方でもあると語っていたように記憶している。「不安」や「絶望」を克服する方向はそこにあると僕も感じたものだった。人間の人生は不条理に満ちている。どんなに努力をしても、結局は「不安」と「絶望」は免れない。それなら、「努力をあきらめる」という方向が享楽的「大衆」の方向になるが、それだからこそ何かにかけて生きると言うことが、実存主義哲学に忠実な生き方になる。僕は、キルケゴールやサルトルのような偉人ではないけれど、自分にも何かにかけるという生き方が出来るだろうかというのが、幼いながらも僕の実存主義理解だった。僕は就職の道として教員になることを選んだが、これは特に教師を志望していたとか、子供が好きだったとか言うことが理由ではない。ある意味では、職についても学問が続けられる可能性が高いものとして教師という職業を選んだと言うことだ。教師なら、学問をすると言うことも仕事の中にはいるだろうと思ったのだ。教師という職業を選んだのは、学問を続けるという目的のための手段に過ぎなかった。しかし、手段に過ぎないものでも、実存主義的な人生をかけるという方向を選び取ることは出来る。僕は、それまでの既成の教師のイメージではない、思い切り理想的な教師を目指そうという大それた思いを抱いて教員になった。僕の理想にあったのは、灰谷健次郎が描くフィクションの世界の先生であり、林竹二先生という、教師としてもっとも尊敬していた先生が目標になった。この大それた希望はまったく実現しなかった。僕の最初の3年間の仕事は、実存主義的な「絶望」の日々だった。しかもなお悪いことには、だんだんと僕が既成の教師像に慣れてきてしまったことだ。そうした方が仕事が楽に進むことは確かだったからだ。僕は哲学を捨てて享楽的「大衆」として生きることになるのかという、他の意味での「絶望」を感じたりもした。そんなときに、僕は車いすの子供たちがいる養護学校への転勤をした。ここなら、もう少し理想に近づけるのではないかという淡い期待を抱いて。この目論見はかなり当たっていた。ここで僕は教師として再生出来たと思っている。何よりも良かったのは、ここでは生徒との心の交流が感じられ、お互いが信頼感で結ばれていると思えたことだ。養護学校で実存的な心の安定感が得られたこともあり、僕の哲学も一つ進歩したように感じる。それは、人生のすべてを、何か実存の証のために、常に緊張感を持って生きる必要はないのではないかという思える余裕が出てきたことだ。実存の証は大切だが、それを常に行っていたら疲れて仕方がない。そのような疲れる人生を無理やり送る必要はない。人生はもっと楽しんでもいいのだという余裕が生まれてきた。哲学史を学ぶときにいい観点だと思うのは、ある哲学は、そのすぐ前の哲学の否定として生まれてきているという流れに注目することだと思った。その前の哲学は、それが正しいと思えた人々によって徹底されることになるが、それは徹底されればされるほど欠点も際立ってくる。そうなれば、やがては後の人から否定されるような時代が訪れるだろう。哲学の歴史は、その前の考えをいかに否定してきたかという歴史でもあり、その流れをつかむことは、より深い真理へ到達する道でもあると感じる。面白いことに、すぐ前の哲学を否定したものは、さらに前の哲学が形を変えて、より洗練されてよみがえってきているようにも感じる。ここにも<否定の否定>を見ることが出来る。<否定の否定>こそが本当の進歩だという感じだ。心の安定を得るのは難しい。最も簡単なのは、考えることすべてををやめてしまうことだろう。そうすれば「不安」の種もなくなる。しかし、これは人間にとっては生きることをやめることに等しい。だから、心の安定というのは、もし得られたとしても常に短期的なものだと覚悟しておいた方がいいだろう。実存主義では、生きている限り心の安定はない、「不安」が人間の本質だと語っていた。世界は常に変化しているから、それを表現しようとすると必ず矛盾が表現される。その矛盾はどうしても不安を生み、心の安定を崩すだろう。それに対処するには、その矛盾をさらに否定して、永遠の否定活動をして進歩していくしかないのかなと感じる。その方向を正しく探るために思想史を学びたいと思う。それが思想史の学び方としては意義のあることではないかと思う。単に知識としてためるのではなく、思考の技術として学び取りたい。
2006.01.25
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シカゴ・ブルースさんが「濫觴(らんしょう)」と言う掲示板の中で、「アキレスと亀」のパラドックスに言及してくれている。時間というものに対する「主観性」と「客観性」がパラドックスに大きな影響を与えているというのは僕も感じていた。シカゴ・ブルースさんは、「運動は物質の存在様式であり物質の内的属性である(エンゲルス『自然の弁証法』)」と書いている。このことを僕なりに解釈してみると、静止さえも「変化0(ゼロ)」の運動として捉えることによって、すべての存在様式を含む表現が出来上がるので、「運動は物質の存在様式である」と言うことが主張出来るのではないかと感じる。ゼロというのは、現実には何もないと言うことを表現する言葉だが、数学的には、「1個ある」「2個ある」という言い方と同等な資格で、「0個ある」という言い方もする。そして、この言い方は「何もない」と言うことと意味は同じものとして受け取る。つまり「0個ある」という言い方は、すべてのものが「ある」という言葉で統一されて表現されるように工夫されている言葉なのだ。「0(ゼロ)」は、「ないのにある」という矛盾した表現になっている。現実には、何もないという現象を指しているだけなので、現実的な矛盾は何もないにもかかわらず表現の上では矛盾している。「0個ある」という表現は、0だけ特別視せずに、すべての数を統一的に扱えるという利点がある。もし、0に対してこの表現を許さなかったら、0だけはいつも特別に別のこととして考えなければならないだろう。しかし、同じような表現を許すことによって、特別視することなく一般的に扱うことが出来る。仮説実験授業研究会の牧衷さんが、力学の運動を語ったとき、「慣性の法則というもので、静止というのを考えたとき、それが初速も加速度も0(ゼロ)の運動だと気づいたとき、力学が分かったという感じがした」というようなことを言っていた。これによって、静止も運動の一つだと言うことになり、すべてが統一的に扱えるようになり、世界が見通し良くなったと言うことではないかと僕は感じた。このような思考から得られる帰結として、「客観的な時間」というものを考えると、それは物質の存在様式としての運動を別の側面から表現したものと考えられるのではないかと思った。例えば、絶対静止の世界(すなわち、変化0の運動だけが存在する世界)というものを想像してみると、そこでは客観的な時間はどうなっていると解釈出来るだろうか。そこには、客観的な時間も0(つまり「無い」)と考えられるのではないだろうか。客観的な時間というのは、物質の相対的な変化を捉えて、その変化に数値を与えて表現したものになっているのではないだろうか。等速直線運動をする物体は、加速度0であるから、同じ「時間」内に、同じ距離を進むと考えられる。距離の方は、物質的に計測することが出来るので、等距離を測ることによって、同じ「時間」というものを客観的にはかることが出来る。現実的には等速直線運動というものが難しいので、天体の運動のように、接線方向には加速度0で等速運動をしているものを、最初の時間の測定に利用したのではないかと思う。天体が1日後に同じ位置、すなわち同じ距離を通過したときに、1日という時間を客観的に定めたのではないだろうか。主観的な時間に対しては、シカゴ・ブルースさんは、「現実の主体・自己が意識のうちに作り上げた想像の世界へ観念的自己分裂によって移行(転換)した観念的な自己として、その想像の世界のうちで経験する「想像的な時間意識」です」と説明している。これもおおむね賛成だ。このときの時間意識も、存在するものの変化に基礎をおいているように感じる。この場合は、想像において何を存在させても、何を変化させても、それは自分の自由になるものであるから、「「主観的な時間」を自由にあやつることができます」と言うことになる。ここで、主題とはやや離れるが、次のような想像も浮かんできたのでちょっと記しておこう。絶対静止の世界では、変化0に対応して、時間も0だと考えられたが、同じことが完全に繰り返される、絶対循環の世界では、時間はどうなると解釈出来るだろうか。そこでは、過去・現在・未来という概念が無くなってしまうのではないかと僕は想像する。今目の前に見ている現象も、実は過去に同じものを見ているし、未来にはまた同じものを見る。そうすると、その過去・現在・未来は、どのようにして区別したらいいだろうか。これは、まったく区別出来なくなってしまうのではないだろうか。絶対循環の世界では、過去・現在・未来という時間の流れの区別が無くなるのではないか。自然科学における、繰り返し検証出来る実験というのは、実は、この過去・現在・未来という時間の流れに左右されない、絶対循環の世界での出来事として考えられているので、いついかなる時でも普遍的に成立する法則として提出されるのではないかと感じる。強いて言うなら、絶対循環の世界では、時間は常に現在しかないとも言えるのではないかと感じる。過去・現在・未来という時間の流れは、あくまでもそれが違うものとして現れるという意識の元に、このような区別がされているのではないだろうか。さて、ここで主題となる「アキレスと亀」のパラドックスに戻って考えると、アキレスが亀に追いつくという運動は、客観的な時間を表現する運動だと思われる。それは、シカゴ・ブルースさんが以前に考察したように、有限の位置の差・有限の速さ・有限の時間内に観察出来る変化というものになる。客観的には、これらの有限性が、いつか追いついて追い越すという現象につながっている。しかし、これを「無限分割」という操作に関連させて考えると、これは想像の世界での操作になり、想像の世界での変化と言うことから、想像の世界での主観的時間が考えられる。ここでは無限の操作をしているのであるから、時間的にはそれに対応して無限の時間が考えられる。この想像の世界で考えられた無限の時間は、決して現実の世界で見つけることは出来ない。この時間を混同することが、パラドックスの大きな原因であることは頷けることだ。しかし、ここでもなお次のような疑問が僕には残る。シカゴ・ブルースさんは、「「想像の世界における運動」と「現実の世界における運動」との性質の違いから生じる「想像的な時間意識」と「現実的な時間意識」との矛盾が人間の意識にもたらす不合理を表現した」と書いている。これを解釈すると、シカゴ・ブルースさんは、この矛盾は、「意識にもたらされた=認識に存在する」矛盾だと考えているように感じる。認識の中に矛盾が存在したからこそ、それが表現されていると捉えているように感じる。だが、僕はもう一つの可能性も捨てきれないのだ。それは、認識としては正しかったものの、言語としての表現において、その認識を表現する言語が存在しないことから、表現の上でパラドックスが生じてしまったのではないかという解釈だ。運動を、運動のままで表現しようとすると、論理ではふさわしい表現が出来ないのではないかという思いだ。ゼノンはそれをしようとしたために、表現の上で免れない矛盾を抱えてしまったのではないだろうか。ちょうど、極限の概念を「限りなく近づく」と表現すると、どうしても数学的には矛盾を免れないように。ゼノンの正しい認識は、運動を静止で表現するという工夫をして、論理的に解決出来ないだろうか。極限の概念が、イプシロン-デルタの論理で解決されたように。ゼノンは、「アキレスが亀に追いついたときに、その時間内に亀は少し前進している」という現象が、絶対循環のように繰り返されると主張している。だから、ここでは、過去・現在・未来という時間の区別が無くなってしまっているのを感じる。そこでは常に時間は現在を表していると解釈することも出来る。未来がどうなるかと言うことは、論理的に排除されてしまっているのではないだろうか。未来が排除されていれば、いつかは追いついて追い越すと言うことも排除されてしまう。これは、認識として間違っているだろうか。想像の時間と客観的な時間を混同すると言うことは、認識の誤りのようにも見えるが、ゼノンの想定においては、客観的な時間にも、過去・現在・未来が存在しない場合を設定しているようにも感じる。だから、この場合の客観的時間を表現すると、ゼノンが語るように、永遠の現在の表現として、「アキレスが亀に追いついたときに、その時間内に亀は少し前進している」と言わざるを得ないのが論理なのではないかという感じもする。これは、運動を運動のままで表現したときに、論理はそれを矛盾として表現することになってしまうと言う、論理の表現としての限界を物語っているのではないだろうか。もう一つ感じるのは、日常言語で厳密な論理を考えることの限界だ。数学の場合、運動の矛盾を解決するのにイプシロン-デルタの論理を発明したが、これは日常言語の範囲で理解することが非常に難しい。おそらく専門的な数学を勉強する人間のほとんどが、この論理を日常言語で理解しようとしてかなり挫折したのではないかと思う。幸いにも僕は記号論理というもので、この論理の厳密性を理解出来たが、この論理は、記号論理の助けなしにその厳密性を受け取るのは難しい。「アキレスと亀」が抱えるパラドックスの解決も、運動の厳密な表現としての論理という観点で考えると、日常言語で語ることは難しいのではないかという感じもする。いずれにしても、僕は、「アキレスと亀」のパラドックスは、その表現の中にあるという思いがまだ消えない。これをもう少し追求してみたいと思う。
2006.01.24
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昨年の締めくくりに配信されたマル激トーク・オン・デマンドでは神保哲生氏が、石破茂元防衛庁長官と語った改憲論議の評価をしていた。その時に語っていたのは、改憲を論じる際の、国家をどういうものにしたいのかという、基本的な方向を考えるグランドデザインがどういうものであるかということだった。石破氏のグランドデザインは、「アメリカの信頼に足るパートナーとしての国家」という国の姿だった。このグランドデザインから来る帰結は、アメリカと共に活動出来ることや、その活動が有意義なものになるように、法整備という観点から改憲をすることになる。自衛軍の明記や、集団的自衛権の明記は、この方向での改憲と言うことになるのだろう。神保氏は、このグランドデザインに関しては、他国の状況に寄りかかるような面が強く、グランドデザインとしては弱いのではないかという評価をしていた。僕もそう思う。結果的にアメリカの要求に沿うような形になることは、現実的にあり得るだろうが、それが目的になるのではなく、あくまでも日本としての主体的な判断から、ある状況ではそうすることが国益にかなうという判断でやられるのでなければならないだろう。どのような状況であろうとも、アメリカの期待に添うという形で「信頼に足るパートナー」になることがグランドデザインだというのでは、神保氏が語るように、アメリカの51番目の州になってしまった方がいいだろう。アメリカの憲法の方が、ずっと優れた憲法なのだから。グランドデザインは、日本の国家として主体的に選び取るものでなければならない。それは、ある意味では人類にとって普遍的に存在すると思えるような価値観から選ばれるものでなければならないだろう。現行憲法のグランドデザインは、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」が3つの柱だと言われている。これは普遍的価値を持つものとして考えられる。「平和主義」に関しては最近は評判が悪く、一国だけで単独で平和は守れないと言うことから、現行の憲法9条が批判されている。しかし、その批判も、平和が必要ないという批判ではなく、現実に平和を守るためには足りないと言う批判であるから、「平和主義」という基本は正しいという前提で考えているのだと思う。そういう意味では、この3つのグランドデザインは、まだ憲法の柱としては生き続けるのではないかと思う。問題としては、この3つのグランドデザインでは足りないのかと言うことでもある。「アメリカの信頼に足るパートナー」と言うことが付け加わるとしたら、これでは足りないという判断になるのだろう。また、この3つの中で、もうグランドデザインとしては必要ないというものがあれば、それは憲法として記述する必要ももはやないということになるだろう。しかし、自民党の改正憲法草案でも、この3つを基礎にして書かれていたように感じるので、この3つはグランドデザインとしてはまだ生きているように感じる。だから、問題は、「アメリカの信頼に足るパートナー」というものが、これに付け加えるグランドデザインとしてふさわしいかと言うことにもなるのではないかと思う。アメリカ合衆国の憲法については、「トマス=ジェファソンの起草による「独立宣言書」は,革命権と並んで,自由・平等の理念をうたった。合衆国憲法は,この理念を達成するための具体的な方法,たとえば三権分立・連邦制などを述べたものである。」(「アメリカ合衆国 アメリカがっしゅうこく」)と言われている。日本国憲法における「基本的人権の尊重」は、「自由・平等」という側面を含んではいるが、合衆国憲法では、それがさらに積極的に肯定されているのではないかと感じる。その自由の最高の段階に「革命権」というものもあるのではないだろうか。これは、日本国憲法で言えば、「国民主権」のさらに強まったもののように感じる。国家が民衆にとってふさわしいものでないと判断すれば、その国家を打倒するという自由さえも保障されているのが合衆国憲法であると言えるのではないだろうか。グランドデザインとして、まことに積極的で強いものが提出されていると言えるのではないか。グランドデザインというのは、もっとも基礎的になる考え方を述べたものであるから、出来うるならば、人類に普遍的に通用するくらいの大きなものであることが望ましい。少なくとも、その国が存続する限りでは正しいと判断されるようなものである必要がある。そのような観点から言えば、「アメリカの信頼に足るパートナー」というものは、国家としてのグランドデザインとしてはやはり弱いと言わざるを得ないのではないだろうか。ある時期に、このことが正しくなることはあるだろう。しかし、未来永劫に、日本という国が存続する限りでは、「アメリカの信頼に足るパートナー」という位置が、日本にとってもっともふさわしいと結論していいのだろうか。アメリカという国が常に正しい判断をするわけではない。また、アメリカの国益と日本の国益が常に一致するわけでもない。国益が対立したときでさえも、なおアメリカに信頼されるように動くのだと言うことを基本に出来るのだろうか。そういう姿は、「アメリカのポチ」と言われても仕方がないものになるのではないだろうか。憲法の議論においてグランドデザインに言及しているものとして、「民間憲法臨調提言 国家のグランド・デザインを描く中から新憲法の創出を」と言うページがあった。ここに書かれているグランドデザインを、「体系的な国家観の構築を」という項から見ていこうと思う。体系的な国家観というのは、一つのグランドデザインだと考えられるからだ。ここでは次のように語られている。「国家は、まず外国による侵略から国家の独立と平和を護り、国民の生命・自由・財産を保守しなければならない。第2に国内の治安と秩序を維持し、社会の平穏を守らなければならない。第3に国際社会の一員として、国際関係の平和と安定に寄与しなければならない。第4に国家は国民の権利と自由を保護するために基本的に介入してはならない領域を有する国家は国民の権利と自由を保護するために基本的に介入してはならない領域を有する。そして第5に国民の最低限度の生活を保障し、福利増進をはかる任務を負う。」これはおおむね正しいだろうと思う。日本という国が、侵略される可能性が高いのか、侵略する可能性が高いのかは、議論の分かれるところだろうが、国家の機能が、「国民の生命・自由・財産を保守しなければならない」という点は一般論として正しいだろう。ただ、僕はここにあげられている項目は、ある種の優先順位があるのではないかと感じる。つまり、基本的な目的というものがあって、他はそれの実現のための手段と考えることも出来るのではないだろうか。基本となるのは、「国民の生命・自由・財産を保守しなければならない」と言うことが国家にとって大切なことで、国家はこのことを実現するために存在しているのだと考えるのが、本当の意味でのグランドデザインになるのではないだろうか。このことの実現のためには、 ・治安と秩序を維持し、社会の平穏を守らなければならない ・国際社会の一員として、国際関係の平和と安定に寄与しなければならない ・国家は国民の権利と自由を保護するために基本的に介入してはならない領域を有する ・国民の最低限度の生活を保障し、福利増進をはかる任務を負うと言うことが手段として取られなければならないという関係にあるのではないかと感じる。なぜこのようなことを考えるかというと、手段は目的を越えて重要性を持ってはいけないと思うからだ。あくまでも目的の達成が第一であって、それを越えて手段の方が肥大してはいけないと思うのだ。治安と秩序の維持というものも、「国民の生命・自由・財産を保守しなければならない」と言う目的の元で考えられるべきであって、多少の自由を制限しても、「治安と秩序の維持」の方が大事だと考えたりするのは、目的と手段ということで考えた場合は、本末転倒と言うことになる。もし、上の項目が、目的と手段という関係ではなく、並列的にすべてが目的だとすると、その間に優先順位はなく、ある場合は、自由が制限されても「治安と秩序の維持」が優先されるということが判断されても仕方がない。目的と手段という関係は非常に重要なものだと思う。アメリカ合衆国憲法などでは、理念としては自由の方が優先しているのだと僕は感じる。テロ事件などによって、その理念がかなり揺らいでいることは確かだと思うが、「治安と秩序の維持」が同列におかれているとは、まだ感じない。このページで、これに続く文章を見ると、この理念はいずれも同列におかれているようだ。いや、むしろ「治安と秩序の維持」の方こそが優先されているようにも感じる。国家にとって「国民の生命・自由・財産の保守」よりも、「治安と秩序の維持」の方が優先されるというグランドデザインはどうなのだろうか。これは、国家の支配的地位にいる人間には、そちらの方が大事なものに見えるかも知れない。国家と一体になっているように感じる人間は、個人の自由よりも国家の秩序の方が大事なように見えるだろう。グランドデザインにおいて、このような感覚の違いは重要だろう。現行日本国憲法においては、「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」は、どれかが目的で、他は手段として考えられるという関係になっているようには見えない。どれかが前提として存在すれば、他が論理的に帰結されるような関係にはなっていない。その意味では、これら3つは並立して存在するグランドデザインと言えるのではないかと思う。だが、「国民の生命・自由・財産を保守しなければならない」と言うことが目的になれば、この3つは、それぞれその目的を達成する手段と考えられるかも知れない。憲法の議論において、誰がどのようなグランドデザインを提出しているかに注目するのはいい観点ではないかと思う。
2006.01.23
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みらいさんの日記で「僕はラジオ」というエントリーを読んだ、ちょうどその日に、ケーブルテレビのスターチャンネルでこの映画を放映していた。もし、この日記を読まなければ、そのタイトルだけからでは、この映画を見ようと言う気にならなかったかも知れない。縁とかタイミングとかは面白いものだなと思う。一言で感想を言えば、とても素晴らしいストーリーの映画だったということだ。映画のついての情報は、「Sony Pictures 僕はラジオ」というところで見ることが出来る。ストーリーを引用しておくと、「フットボール部のコーチ、ジョーンズは、グラウンドの傍らでよく見かける知的障害を抱える青年にチームの世話係を頼む。ジョーンズは、音楽が好きで片時もラジオを手放さないその青年に“ラジオ”というニックネームを付け、試合や学校の授業にも参加させる。自身の明るさと純粋さで、たちまち人気者になる“ラジオ”。しかし、そんな彼の存在を快く思わない人たちが…。『陽だまりのグラウンド』、『オールド・ルーキー』に続く、人々の優しさ溢れる感動作品!」と書かれている。この映画をご覧になっていない方は、これから書くことを実感としては分からないかも知れないが、僕が感動したのは、コーチのジョーンズの人間性と、知的障害を持った青年「ラジオ」を受け入れるアメリカ社会の懐の広さだった。このような素晴らしい人間が、ロールモデルとしてリスペクト(尊敬)されるアメリカ社会の素晴らしさに憧れる。しかも、このロールモデルが、決して偉人的な人間ではなく、普通の市民のように見えるところがまた素晴らしい。誰もが、このような生き方を手本にして、人生に充実感を感じて生きられる可能性があるのが、アメリカという社会なんだなと思う。アメリカという国家には様々な問題があるものの、この社会は何と素晴らしい長所を持っているのだろうと思う。コーチ・ジョーンズは、確固たる価値観を持った信念の人という感じがする。ラジオのために何かをするということの理由が、「正しいことだからだ」という言葉にそれを感じる。人のために何か自分が出来ることがあれば、それをするということは間違いではない。それは正しいことなんだという自信にあふれて、正しいからこそしているのだという思いに、彼の信念を感じる。ラジオの母親は、「正しいことがすべて出来るわけではない」と言うことを語っていたが、これも確かに真理だ。しかし、すべてが出来ないからといって、今目の前に出来ることがあるときに、他のことが出来ないからという理由でそれをやめることはない。今それが出来るからこそ、それをやるのだというのは、「正しいことがすべて出来るわけではない」という真理とはまったく矛盾しないのだ。個人的な理由としては、コーチ・ジョーンズの胸の中に、子供のころに、何かが出来たはずなのに何も出来なかったという悔いがあったことが説明される。その時の悔いを繰り返さないためにも、今何かが出来るならそれをしたいのだ、という強い思いが感じられた。それを、娘と語り合うシーンもなかなかいいものだと思った。子供と、このような真面目な話を照れずに出来るというのはまったくうらやましい限りだ。さて、信念の人というのは、日本の映画でも良く描かれる。この正月には、高倉健主演の「ぽっぽ屋」という映画をテレビで見た。ここにも、仕事一筋の信念の人である鉄道員の乙松という人間が描かれている。彼も、仕事の上での正しさを一心に求める信念の人だ。しかし、日本的な信念の人と、最高にアメリカ的な信念の人のコーチ・ジョーンズの間には、大きな違いがあるのを僕は感じた。乙松は仕事には厳しいが、家族は仕事のために犠牲になってもあまり顧みることがない。必ずしも家庭的な幸福を築くことが出来る人間としては描かれていない。むしろ家庭は、どちらかというと不幸に見えた。子供や妻を亡くすという、運命的な不幸もあったが、それ以上に、彼の幸せは仕事の中にしかないので、家庭を幸福にするという発想がそもそもないのではないかとも感じた。仕事の上では非常にリスペクトされる人間でありながら、人間性として全体像を考えると、僕には単純に尊敬出来る人物には映らなかった。ロールモデルには出来そうにない感じがしたのだ。それに対して、コーチ・ジョーンズは、正しいことをしながらも、それによって家族が犠牲になっているかも知れないと言うことが常に思いの中にあるように感じた。人間の行為の中に、絶対的に正しいと呼べるものはない。だから、一方では正しいと感じながらも、それがその人の全体像の中で、他に影響を与えているとしたら、その影響も考慮に入れて判断をすべきだと言うことになる。そのような信念として、コーチ・ジョーンズの思いを僕は感じた。つまり、彼はあくまでも市民として生きて、その上で自分の責任を果たそうとしていた人だったのだ。これこそが、僕はリスペクトに値するものであると感じた。この人は、ロールモデルとして素晴らしい人だと思った。この映画が、コーチ・ジョーンズの「正しいことをした」という満足感だけを描くものであれば、自己満足に陥った単純なヒーローものに過ぎないものになっただろうが、実は、「人のために何かをした」という人は、そのことによってもっとも多くのことを学び、もっとも多くのことを得ているのだと言うことを描くことによって、その単純さを逃れている。だから、彼が、ラジオのことにかまけて家族を犠牲にしたと感じたときも、その家族の方は、実は彼の行動とラジオとの触れ合いによって、犠牲になるどころか、もっと素晴らしいものを得ていたと気づくところが素晴らしい。アメリカの市民社会というのは、このような信念(「正しいことだからする」)というものが、人間を成長させるということをよく知っているのだろうと思う。だからこそ、ラジオのことを、単なる同情ではなく、同じ市民として受け入れると言うことが出来てしまうのだろうと思う。たとえ障害があろうとも、市民として基本的人権が守られなければならないという信念が社会にあるのを感じる。その基本的人権を守るからこそ、ラジオを簡単に施設に送るなどという発想に反対し、彼が生き生きと生きている、彼の人生を奪うような決定は許さないという信念が生まれてくるのだろうと思う。知的障害を持つラジオの描かれ方も素晴らしいと思った。彼は、彼が普通に生きることで誰からも愛される人間として描かれている。彼に何か、ある美点や長所があるために愛されているという描き方をしていない。彼は、彼が感じたままに行動する。それがとても美しく感じられるという描き方が素晴らしい。この美しさ・素晴らしさはどこから来るものだろうか。それは、悪意のない人間と、信頼ベースで関係を結ぶことの素晴らしさではないかと僕は感じた。彼は、知的障害があるために、ある意味では悪意を持ちたくても持てないのかも知れない。悪意がないというのが、彼の本性であり運命だ。それを理解した人は、彼と接することで、ある意味では自らの悪意を洗い流すような感じがするのではないだろうか。少しでも利己的な考えを持てる人間は、悪意からは逃れられない。しかし、逃れられない悪意であっても、それに気づき、洗い流すことが出来れば、どれほどいい気分になれるかは分からない。このような気分を与えてくれるラジオは、確かに素晴らしい存在であり、なくてはならない存在なのだと思う。相手に対する信頼を持って深い人間関係を結ぶことが出来れば、それがどれほど素晴らしいものかは、それを味わった人間にはすぐに分かる。その信頼を持つことに対し、これは「正しいことだ」という確固たる自信を持ち、だからこそ自分はそうしているのだと思えれば、その内発的な主体性も、人間の自信を支えるものになるだろう。素晴らしいことの循環がループのように回る社会がそこにあるのを感じる。僕が勤める夜間中学も、そのような信頼ベースを基礎にした人間関係が築けるところだと感じる。昼間の中学では、教員は、「生徒になめられない」ことを考えたりする。これは、何かきっかけがあれば、生徒は教員を「なめる」ような存在だと考えていることになる。ここには、残念ながら信頼ベースを基礎にした人間関係を築くことが難しいものを感じる。夜間中学に集う人たちは、学歴差別の中で辛酸をなめた人生を送ってきた人であろうと想像されるのに、なぜか悪意を感じない人たちばかりだ。この映画で描かれているラジオという青年が持っている優しさと同じものを、夜間中学に集う人々に感じる。それが、悪意と偏見に毒された教員にも影響して、教員自身にも悪意を洗い流すような体験をさせてくれるのを感じる。夜間中学のドキュメンタリーを撮影した森康行監督は、夜間中学を訪れると元気が回復すると言うことをよく語っていた。ラジオと接することで、人間としての良さを回復していく人々が感じていたものと同じものを森さんも感じていたのではないかと思う。映画の舞台であるアメリカと違うのは、日本社会では、このような夜間中学の素晴らしさが、夜間中学の中だけで完結してしまって社会的な広がりを持たないことだ。アメリカなら、町を挙げてラジオのことを歓迎するような社会になりうる可能性を持っている。しかし、日本では夜間中学の存在は、それが存在する町に住む人にさえ知られていないことが多い。この映画は、アメリカの素晴らしさを改めて感じさせてくれたが、同時に、その点で日本社会に足りないものをいくつも感じた。どうすれば、あのような素晴らしい社会が生まれるのだろうか。教育に携わる人間として、市民として正しく生きたいと願う人間として、考え続けたいことだと思う。
2006.01.21
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形式論理は静止を表現するものであり、運動を表現することが出来ない、と語ったのは仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんだっただろうか。この言葉を聞いたとき、僕は、目から鱗が落ちるという感じがしたものだった。ゼノンのパラドックスを解釈する鍵があるように感じたからだった。形式論理がなぜ静止を表現するものであるかというと、それは、存在するものの存在する時点を表現することしかできないからだ。もし、運動を表現するとしても、時間のずれた時点を表現することしかできない。ある時点と、それから時間が経過した別の時点を表現して、その間に違いがあるから、結果的に運動をしたと結論するだけで、運動そのものを表現したわけではないのが形式論理の表現だ。これは映画のフィルムによく似た表現だ。映画のフィルムは、ある時点の存在を静止として焼き付けている。フィルムだけを見てもそこに動きを見ることは出来ない。つまり運動の表現とはなっていないのだ。しかし、フィルムをつなげて時間の経過と共にそれを連続して見ていくと、我々にはそれが動いているように見える。それは、我々に動くように見えるだけであって、フィルムそのもの表現としては決して動きを表現しているのではない。ゼノンは「飛ぶ矢は止まっている」というパラドックスを語ったが、飛ぶ矢を映画に撮れば、確かにフィルムの上ではそれは止まっている。止まっているというのは、動いていることの否定であるから、ゼノンはこれによって運動の存在を否定しようとした。しかし、実はゼノンが否定したのは、論理によって運動を直接表現することであって、本質的な意味としては、論理は運動を表現出来ないと言ったのだと僕は思う。飛ぶ矢が確かに存在しているとしたら、それは空間のある位置を占めなければならない。それがどこにあるかという位置情報が、存在するものにはなければならない。しかし、飛ぶ矢の位置情報を確定してしまうと、その瞬間にはその矢はそこで止まっていると考えなければならない。もしそれが動いているなら(運動をしているなら)、飛ぶ矢はその位置にとどまることが出来ずに、その位置にはその瞬間にはすでにいないものと考えなければならない。つまり、飛ぶ矢は「そこに存在すると同時に存在しない」と表現しなければならないのだ。これは形式論理では<排中律>に反する矛盾である。形式論理で運動を表現しようとすれば、そこには矛盾(すなわちパラドックス)が生じるのが必然的だ、というのが板倉さんが語ったことだったように記憶している。このような発想から考えると、ゼノンのパラドックスは、運動の否定ではなく、運動の論理的表現には必ず矛盾が生じると言うことの主張のように思える。板倉さんは、むしろ積極的に、運動というのは「ここにあって、同時にここにない」という矛盾した表現を使わざるを得ないものとして、弁証法的に捉えることが正しいとらえ方ではないかと語っていたようにも記憶している。これは三浦つとむさんにも通じる考え方だったと思う。形式論理においては、運動という「動く」と言うことを直接表現することが出来ない。写真のように、ある瞬間を切り取って、その状態を表現することしかできない。それでは、形式論理において運動は扱えないと言うことになるのだろうか。ニュートンの運動方程式が扱っているのは、運動ではないということになるのだろうか。ニュートンの運動方程式では、微分や積分という数学の考え方が使われているが、実はここに、静止の表現である形式論理が、運動をどう扱っているかという鍵があるような気がする。微分というものが、ある「瞬間」を扱う数学であって、積分が、その「瞬間」をつなぎ合わせたものになっているということが、運動における「瞬間」に通じている感じがする。瞬間というのは、時間的にはゼロだと考えられるが、それは普通はどんなに積み重ねてもやはりゼロになるはずだ。しかし、積分においては、瞬間の積み重ねがゼロにならずに、ある極限に近づくという考え方が使われる。そこには「無限」というものの不思議さが現れているのだが、この極限というのも、実は運動の表現と考えられる。高校数学で極限を学ぶと、それは「限りなく近づく」というイメージで語られる。これは運動するもののイメージだ。例えば、次のような1に限りなく近づく数を想像してみよう。 0.9999999999……「……」の部分は、実は無限に続くというものなのだが、もちろん無限にこれを表現することが出来ないので、想像としてこの部分は考える。これが、「限りなく近づく」という見方をしていると、これはいつまでたっても最後まで行き着かない。それは無限に続くのであるから、ある時点で到達した最後の9の次にまた9が現れてくる。だから、この数を最後まで確認することは、これが「限りなく近づく」という運動をしていると考える限りでは、決して最後まで到達しないからできない。だから、この数を運動としてみている限りでは、 0.9999999999……=1という表現は矛盾したものになる。最後まで確認出来ないにもかかわらず、それが1に等しくなるという判断が出来ることはおかしいと言うことになるからだ。しかし、数学という形式論理では、この等式は数学的に正しいという判断をする。それはなぜだろうか。数学は、限りなく1に近づく上のような数字を、運動としてではなく、静止した存在として解釈することに成功したからだ。静止した存在として受け取る限りでは、それは1に等しいという判断が出来るのである。「限りなく近づく」という表現は、そのままでは運動の表現になる。そこで、この表現の否定を考えてみる。つまり「限りなく近づくのではない」という表現だ。これは運動の否定であり、この否定は静止として表現出来るのではないかと予想出来る。限りなく近づくのではないとすれば、ある瞬間という時点を取ると、近づくと言うことが否定される瞬間が見つかる。その瞬間から先を取ると、どの時点を取っても、以前の時点よりも近づいたとは言えなくなるような瞬間が見つかるはずだ。上の数字において、そのような瞬間が見つかったと考えてみよう。そうすると、そのような瞬間と1の差として表現される値は、ある固定値よりも大きくなるはずである。その差は、それ以上埋めようのないものとして存在しなければならない。そうでないと、次の瞬間にはまた1に近づいてしまうので、このような繰り返しで「限りなく近づく」という状態になってしまうからだ。しかし、その固定値を見つけたと思っても、小数点以下の数字を増やしていけば、どうしてもその固定値を超えて1に近づいていくのも、また必然的なことになる。9は無限にたくさん続くのであるから、どこかで止まることはないのである。つまり、静止の表現としては、ある固定値としての1との差が存在してはいけないというのが、結果的に「限りなく近づく」と言うことと同じ状態を表現することになる。固定値が存在しないと言うことは、任意の値に対して、いくらでも差を小さくできるという表現になる。これこそが<イプシロン-デルタの論理>と呼ばれる、数学における極限の表現になってくる。<イプシロン-デルタの論理>というのは、数学において、極限という運動を静止によって捉えて表現する技術であったのだと僕は思う。「限りなく近づく」という運動を直接表現したものを使うと、極限においては矛盾が顔を現す。例えば、微分においてxの増分を表す△xは、これを限りなく0に近づけないとならない。そうでないと、瞬間の変化というものが計算出来ないからだ。そうすると、この△xは、「0であって、0でない」という存在になる。わり算をするときには、これは「0でない」として扱わなければならない。しかし、あとで微分係数を算出するときには、無視していい<無限小>の量として「0である」という扱いをする。矛盾した存在として扱わないと微分の計算が出来ない。ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスにおいては、運動の矛盾性と共に、「時間」という概念をどう捉えるかというものが重要になるので、論理が持つ静止性だけで単純に解決するとは思わないが、アキレスが亀に限りなく近づいていくという、極限的な部分の論理に関しては、限りなく近づくと言うことを直接表現しようとすると、そこに矛盾が生じるというパラドックス性は理解出来そうな気がする。アキレスの前方にいる亀に対して、アキレスが、亀がいた地点に達したとき、亀はその時間内に少し先に進む、ということは論理的に正当な結論だ。しかし、その論理を、アキレスが亀に「限りなく近づく」範囲でいつまでも永久に適用し続ければ、それは運動の持つ矛盾を論理の中に引き入れてしまうことになるのだと思う。瞬間瞬間の論理としては正当性があっても、運動の表現として考えると矛盾が生じる。それは、「限りなく近づく」という解釈も出来るが、数学的な極限として捉えると、運動ではなく静止の表現になってくる。だから、これが極限として表現されたときは、永久に追いつかないという結論にはならなくなる。ある極限のところで等式が成り立ち、追いつくと言うことが表現される。そしてまた、次の瞬間には追い越すと言うことも、数学的には表現出来るだろうと思う。運動を静止の表現として捉えるという数学を使えば、数学の範囲内では「アキレスと亀」のパラドックスは解決するかも知れない。しかし、それは数学という観点で解決したのであって、他の観点での問題はまだ解決していないとも言える。特に「時間」を含む解釈という点では、数学は解決していないように思える。ゼノンの「アキレスと亀」のパラドックスが、実践的に否定されても、それが論理的な解決になっていないと感じたのは、実践の観点と論理の観点では、問題にしている事柄が違うから、そう感じるのではないかと思う。それが、問題として実践的なものだと意識されている対象なら、実践によって答を出すことは正しい。しかし、問題意識が実践ではなく、あくまでも論理にあるとしたら、その解決はやはり論理の問題として解決しなければならないのではないかと思う。運動を否定する「アキレスと亀」のパラドックスの論理的解決は、一つは、運動を静止で表現するという論理の本性から来るものだと捉えることではないかと思う。そして、もう一つは時間の問題だと思うのだが、こちらはまだ難しさを感じるので、哲学的に「時間」を問題にした論理を今一度調べてから考えてみたいと思う。
2006.01.20
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「携帯電話の社会学的機能分析?コミュニケーション変容の社会的意味(連載第三回)」という文章を、宮台氏が「トラックバックへの返答」の中で「なお好機会ですので、読者の方々に『NANA』における(初期の)ハチのような女性(の成れの果てとしての主婦)がどんな男性政治家に惹かれるかを考えていただくのがよいでしょう。都市型保守についての豊かなイメージが得られるでしょう。 この件についてはhttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=281の「携帯電話の社会学的機能分析?コミュニケーション変容の社会的意味(連載第三回)」をお読み下さい([続きを読む]も忘れずに)。回答が明示してございます。」と書いたように女性の都市型保守の豊かなイメージを得るために読んでみようと思う。上記の文章は、表題にあるように、本来は携帯電話について分析したものだと思われるが、その分析の過程で都市型保守について言及している部分があると思われる。その部分を、都市型保守のイメージを作るという観点で読解してみようと思う。これは、宮台氏が「明示」と書いているが、必ずしもすぐに分かるほど明らかではないと僕は思う。解釈としてはほぼ一つに決まるだろうと言うことで「明示」と語っているのではないかと思う。その一つの解釈を求めてみたい。ここでは、監視社会化との関連で携帯電話の位置情報のことが語られている。監視社会というのは、常に見張られているというイメージがあるのだが、見張るという行為そのものよりも、その本質は「監視社会化=データベース管理社会化」にあるというのが宮台氏の分析だ。普通は、監視というのは、何かこれから起きるかも知れないというトラブルを防ぐために行われる。原発などの施設にトラブルが起きれば深刻な問題になるので、それが起きたときに速やかに対処するためには、24時間四六時中監視する必要があるだろう。監視というのは、元々はそのように、何か困ったことが起こることを防ぐための防衛手段として考えられていたと思う。しかし、現在の監視社会における監視は、そのようなものとは違い、むしろ人々の不安を鎮める作用のためにされていると宮台氏は指摘する。必ずしもトラブルを防ぐための役に立つわけではないのに、四六時中監視することが求められているという。宮台氏が、「「監視社会化」といっても事後に犯人を機動的に追尾できるだけ。捕まるのを恐がる社会成員への犯罪抑止効果はあっても、逮捕を恐れぬ確信犯に効果がないからです。でも社会の流動性が高まるほど、不安と不信が上昇し、監視カメラを要求する世論が高まります。 ここには重大な逆説があります。一方で、社会が流動的になるほど、不安と不信から監視化が要求されるのですが、他方で、社会が流動的になるほど、社会にコミットにしたがる意欲を持つ者が減って、「捕まろうが死のうが知ることか!」というふうになるのです。 最近の日本では、性犯罪にせよ、拉致監禁にせよ、「おいおい、それじゃすぐ捕まるぜ」という類の杜撰な犯罪ばかりが目立ちます。この杜撰さは、犯罪者の頭の悪さというよりも、捕まって社会的制裁を受けることを恐れる気持ちが希薄化していることの、表れです。」と語るように、いくら監視を強めても、その監視によって防げないトラブルが発生するということが起こってくる。しかし、他に有効な手段がない場合は、有効でないと分かっていても、何かをせずには不安が静まらないので、トラブルが発生すればするほど人々は監視を求めることになる。監視が行き渡り、それが大量のデータベースとしてためられると、何かトラブルが発生したとき、そのトラブルの原因を作った者、犯罪の場合で言えば犯人がすぐに特定出来る。不安に駆られた人々は、この犯人を諸悪の根元のように考えて、自らの不安を鎮めるために、犯人を感情的に叩くことによって安心を得ようとするだろう。厳罰を要求し、犯人が人間でない極悪人のようだと言うことを証明しようとするだろうと思う。しかし、それは感情をすっきりさせるというカタルシスをもたらしても、不安の根源が除かれたわけではないので、依然として不安は続き、監視を求める声は大きいままになる。このような状況が「監視社会化」という言葉で呼ばれているものだと思われる。何となく不安だから監視社会を求めるという気持ちが一方にあれば、その監視社会化に何となく不安を感じるという気持ちも他方にある。しかし、これはハッキリと意識されていない。プライバシーによって監視社会化に反対する意見があったり、犯罪抑止を求めて監視社会化を求めるなら、「犯罪抑止効果がどれほどのものかが議論の焦点になります」と言うはずなのに、議論はそちらの方へは向かわない。宮台氏は、「民主主義社会で大多数が「安心のために監視カメラが欲しい」というなら、仕方ないでしょう」と語りながらも、もっと大事なものに目を向けて欲しいと指摘する。「とはいえ私は皆さんに実態を見てほしいと思います。実効的なのか気休めなのか。気休めの代償は何か。代償が高いのに気休めを欲しがるほど不安が蔓延するのはなぜか。背後に過剰流動性があるんじゃないか。過剰流動性を制約する社会的施策が要るんじゃないか。」自らの主体的な不安を、客観的に見ることによって、その不安が生まれてくる背景を理解した方がいいという指摘だと思う。この背景を見ることが出来るかどうかで、不安に煽られて気分だけ不安を鎮めたいと思うヘタレ保守である都市型保守になるか、不安の根源を手当てして、「不安よりも内発性(意欲)をベースに生きる。不信よりも信頼をベースに人と関わる」都市型リベラルになるかが分かれてくるのではないだろうか。単に不安を鎮めたいという都市型保守にとっては、それが見えなくなれば不安の種も解消出来ると言うことで、汚れたもの(トラブルの原因になるようなもの)が表から消えて、それがなくなったことを監視によって確認することは、一定の支持を取り付けることになるだろう。その汚れたものは、決して本当になくなったのではなく、裏に隠れてしまったのだが、その裏が見えなければ不安は抱かずにすむというわけだ。「断固」「決断」を標榜する政治家は、汚れたものを表から一掃するという荒療治をすることが多いのではないだろうか。それは、都市型保守にとっては期待に添った方向になるのではないだろうか。そうなれば都市型保守は、このような政治家に心を惹かれ支持をするということが帰結出来そうに思う。このような社会的施策は「見える場所はきれいにして、見えない場所は、浅い所から深い所まで複数レイヤーに分けて管理します」というものになる。このことに関して、宮台氏は、「そういう社会が良いか悪いかを、先験的には言えません」と語っている。良い・悪いの判断をするには、その条件がすべては確認出来ないと言うことだろうか。不安を抱いても、真実に目をつぶらずに生きるのがいいのか、不安を解消して幸せを感じて生きていた方がいいのか(知らぬが仏の方がいいのか)は、絶対的には決められないと言うことだろう。それは、自らが選び取らなければならない実存に関する命題のように思われる。民主主義の下では、多数が「知らぬが仏」を選んでしまえば、それはそれで仕方のないことにもなる。しかし「むしろ「こうした動き」は、民主主義を前提としたポピュリズムの帰結です。とはいえ、「こうした動き」が良いか悪いか、本来なら民主主義的にメタ合意しなければなりません。しかし現状では、合意すべき民衆が、合意の材料となる社会的文脈を「知らない」のです。」と宮台氏が語るように、「合意すべき民衆が、合意の材料となる社会的文脈を「知らない」」と言うことは重大な問題だと思う。熟慮した上での合意ではなく、単に感情的に不安を鎮めるために「不安のポピュリズム」に乗せられただけの合意であれば、その合意は信頼出来るものではなくなる。都市型リベラルの成長によって、この社会的背景を理解する人々が増えることを望む気持ちが出てくるのも頷けるものだ。宮台氏は、フリーターの問題も、「単純労働に耐える苦痛を、「夢を追っているから」と言い訳できるシステム」という観点で捉えている。これも、一種のヘタレ保守であり都市型保守の現れ方ではないかと思う。現実を直視せず、現実の不安や苦痛を忘れるために、「夢」というものを求めると言うところに、感情的なカタルシスを求めるヘタレ保守の特性が見られると思う。しかし、都市型保守の問題の難しさは、現実を直視したからといって、すぐに問題が解決されて都市型リベラルのように「不安よりも内発性(意欲)をベースに生きる。不信よりも信頼をベースに人と関わる」ことが出来ないことにある。現実を直視せず、夢を抱くことが「イケナイなら、人々の生の大半は否定されます」ということだ。生きていても幸せになれない社会を人々が望むとはとうてい考えられない。不安が蔓延した社会では、都市型保守が大半を占めるのは、論理的な帰結であるようにも思われる。都市型保守は、抽象的には「過剰流動性と生活世界空洞化で不安になり、「断固・決然」に煽られるヘタレ保守」として定義されていた。それが現実には、どのように現れてくるかというのを、監視社会化との関連でここでは語っているように思う。監視を強めることによって、表はきれいになっていることを確認し、汚いもの・不安を感じさせるものが見えなくなることによって不安を解消し、安心を得るというその心性がここでは語られている。それは本質的な解決ではないにも関わらず、本質的解決の方は、あまりにも難しいので、考えるのさえ放棄してしまっているのが都市型保守だとも言えそうだ。それをあくまでも考えていくのが都市型リベラルなのだが、それは難しい。考えるのを放棄して、現実の安心と満足を与えてくれる、夢を見させてくれる政治家を求める方向が、都市型保守の支持する方向だろう。この考察に、男女の差異を入れる必要性を僕は感じない。男であろうと女であろうと、不安を客観的に処理出来ない人間は都市型保守になってしまう。しかし、その現れ方には、男女の差異が出てきそうだ。男は、大いなるものとの一体を求めてマッチョなヒーローに憧れ、女の方は、一体を求めるのではなく、不安の種を見せなくしてくれる、それを消したと思わせるような男に惹かれると言うことになるのではないだろうか。それが「ハチのような女性(の成れの果てとしての主婦)がどんな男性政治家に惹かれるか」と言うことの内容なのではないだろうか。
2006.01.19
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宮台氏が書いた「選挙結果から未来を構想するための文章を書きました」にトラックバックをした、さいとうさんの「都市型保守と都市型リベラルでは説明できない」も再読して考えてみようかと思う。何か新たな発見があるかも知れない。さて、宮台氏は、「選挙結果から未来を構想するための文章を書きました」では、前半部分で選挙前の分析と予想を、後半部分では、選挙後の未来を見通した構想を語っていた。その表題から察すると、主要テーマは後半部分の未来の構想にあると思われる。そういう読解を前提としてさいとうさんのトラックバックを再読してみよう。さいとうさんは、「選挙結果の全体的な傾向を自分の今までの理論体系の中でどう位置づけるかという分析なので」と、宮台氏の文章を読んでいるが、これは主要テーマを見誤ったのではないだろうか。宮台氏は、選挙結果を後追い的に解釈して「農村型保守と都市型保守と都市型リベラルという3つの政治軸」を提出したのではなく、すでに選挙前に現状分析として、この3つの傾向を現実の中に見ていたのである。そして、農村型保守が崩壊して都市型保守にシフトすることも、選挙結果から導いたのではなく、共同体の空洞化や過剰流動性というものから論理として導いている。宮台氏は、選挙前にすでに都市型保守の成長を語っており、自民党が小泉支持層としてそれを取り込むことも予想していた。「不安のポピュリズム」という論理がそれを導いている。これは、選挙の結果そうなったから、自民党の支持層が地殻変動を起こしてシフトしたと解釈しているのでは決してない。むしろ、選挙の結果というのは、自分が提出した論理の正しさを証明する実験として捉えているのだと僕は思う。これに対しさいとうさんは、「ただこの3つの政治軸と都市型保守における「ヘタレ保守」の隆盛などの地殻変動が、70年代の欧米のような新自由主義の勝利をもたらしたとする説には説得力に欠けるものがあるように思います」と語っている。この部分を僕は「疑問」だと解釈した。なぜなら、ここでの主張が、宮台氏の主張に対する反対ではなく、「説得力に欠ける」という表現をされているからだ。もう少し説得力があれば、宮台氏に賛成しようと言うことだと解釈して、僕は「疑問」だと受け取ったわけだ。さいとうさんが「説得力に欠ける」と思ったのは、「特にヘタレ保守の部分に関しては、女性の中では「つくる会」や「2ちゃん右翼」に相当するような地殻変動は起きていないように思います」と語っているように、女性の支持層が、宮台氏が提出したような図式に当てはまらないのではないかという、現実認識から出てきたものだ。男ならば、「つくる会」や「2ちゃん右翼」など、ヘタレ保守が目に見えるので、都市型保守という図式に良く当てはまるように見えるが、女性ではこのような象徴的な存在が見あたらないので、女性には地殻変動は起きていないのではないか、何か他の要素が小泉支持の原因としてあるのではないか、と言う「疑問」を提出しているものとして僕は受け取った。これも、「疑問」だと思うのは、明確に表現されていないからだ。他の要素があるようだが、それは「何か」という感じでしか捉えられていないから、これは反論ではなく「疑問」の領域をまだ出ていないと僕は感じる。宮台氏は、選挙前に理論展開として、選挙の背景の分析から選挙の結果を予想した。ところが、さいとうさんは、これを選挙結果から現状を分析するものとして読んでしまったように僕には見える。この部分を指して、宮台氏は、「トラックバックへの返答」の中で、「残念ながら初歩的な読解ができていません」と指摘したのではないだろうか。なお、さいとうさんが、このような読み方をしてしまったのはなぜかと想像してみると、それはさいとうさんの中にある「ヘタレ保守」という都市型保守のイメージが、「つくる会」や「2ちゃん右翼」などに代表されるものというタイプとして強く先入観としてあったのではないかと感じる。そのため、そのようなものが女性の中に見つからないと、女性にはヘタレ保守がまだ育っていないのではないかとも思えてしまうのではないだろうか。そのようなイメージで宮台氏の文章を見ると、宮台氏が、女性に対しては説明が不足しているのではないかと感じてしまうのではないだろうか。つまり、さいとうさんの現実認識から抽象されてきたヘタレ保守が、宮台氏が抽象的に語っているヘタレ保守と重ならなかったことが、宮台氏の文章の意味を取り違えた、すなわち「誤読」をしたことにつながったのではないかと思う。それを、僕は以前の文章では、抽象の方向性を間違えたのではないかと書いた。宮台氏は、現実を具体的に語る前に、「過剰流動性と生活世界空洞化で不安になり、「断固・決然」に煽られるヘタレ保守」と、ヘタレ保守を抽象的に定義している。そして、その象徴として「新しい歴史教科書をつくる会」「2ちゃん右翼」などをあげている。この具体的な両者から、ヘタレ保守という概念を抽象してきたのではなく、ヘタレ保守という概念が先にあって、その概念に該当する存在として、象徴的なものとして両者をあげていると考えられる。ところが、この両者がヘタレ保守の概念を作るイメージだと思うと、この両者に似ていないものは、ヘタレ保守だと思えなくなってくる。しかし、条件によっては、「過剰流動性と生活世界空洞化で不安になり、「断固・決然」に煽られる」という特性はさまざまな出現の仕方をする。だから、「新しい歴史教科書をつくる会」「2ちゃん右翼」などの存在が、女性の中に見つからなくても、ヘタレ保守としての存在は、他の現れ方をするのではないかと考えなければいけない。その、他の現れ方として宮台氏は、「『NANA』における(初期の)ハチのような形を取るのだと書いてあるではありませんか」と答えている。つまり、女性にとっては、「ハチのような形」こそが象徴として現れてくるのだと語っている。さいとうさんが、この言葉をどう受け取ったかを想像することは興味があることだ。さいとうさんは、「自分も『NANA』に関する記述は投稿前に読んでいましたが、この事例を象徴とした都市型保守やヘタレの論述には懐疑的でした」とトラックバックのエントリーのコメントで語っている。つまり、この記述を読んではいたが、それが女性におけるヘタレ保守の象徴だという読み方はしていなかったと言うことだ。これは、「見えても見えず」というような現象と同じ構造を持っている。我々は、視覚映像という点では、光を発するものを「見ている」はずだが、それをすべて記憶にとどめるわけではない。「注意」を向けていないものは、それが映像として網膜に達していても、認識としては見えていない。同じように、文章を読んでいても、それが注意を引かないものであれば、深く意味を考えずに読み飛ばしてしまう。このことを指して、「読み落とし」だと解釈することも出来る。「見えても見えず」の「見えず」だと解釈すれば、「読み落とし」だ。しかし、「見えても」の見える方の解釈を取れば、これは「読み落とし」ではない。一応は読んでいたと解釈することも出来る。どちらに解釈するのも、その視点の違いを伝えるだけのことである。どちらに解釈したからと言って、その解釈だけで何かが分かると言うことはない。むしろ、「見えても見えず」という矛盾の方にこそ注目し、なぜそうなったかを考えるところに、いろいろと勉強になる教訓が発見出来る。強い先入観を持って物事を眺めるというのは、我々には避けられぬことだ。そして、その先入観が、注意を向ける対象を限定することも良くあることだ。そうすれば、表現されたものの本当の意味を、先入観によって違う意味に受け取る可能性も出てくる。それを避けるためには、先入観をなくして眺めるという考えもあるが、これは単純ではあるが難しいことだ。我々は先入観を逃れることは出来ない。だから、むしろ違う先入観で物事を眺めるという訓練をした方が有効だと僕は思う。仮説実験授業における討論では、他人の先入観による見方を、討論において学ぶ。これが自分の先入観を修正する働きを持つ。このような教訓を、「誤読」という現象からも学ぶことが出来るのではないかと思う。宮台氏は、「トラックバックへの返答」の中で、「下の下の文章「選挙結果から未来を構想する文章…」に対する[次世代情報都市みらいblog]さんからのトラックバックありがとうございます」という文章を書いている。ここで語られている「ありがとうございます」は、率直な意味での感謝の気持ちだと思う。「ありがとうございます」といいながら、その意見を門前払いするというようなことは、宮台氏はしないものと僕は思っている。宮台氏には、その天才性を感じる。そして、多くの天才たちはまた、非常に尊大な面も見せたりもするのだが、僕は、宮台氏というのは非常に誠実な人間だと感じている。「ありがとうございます」と語りながら、相手を馬鹿にするようなイヤミな人間ではないと思っている。これは、率直に感謝を述べているのだと僕は受け取る。それは、多くの人が陥りやすい誤りを説明するのに、ちょうどいい材料を提供してくれたという感謝の気持ちではないかと僕は感じる。ここでは、最後に「なお私がどんなにおっちょこちょいだとは申しましても、今回のご指摘のような素人レベルでの分析ミスはあり得ないものとご承知おきください。ずっと高いレベルでのコメントをお待ち申し上げております。」とも語っている。この文章に多少の尊大さを見たい人もいるかも知れないが、これも僕は、単に率直な事実を語ったものと、好意的に受け止めている。「素人レベルでの分析ミス」の内容がどういうものであるか、具体的に語るのは難しいが、論理的に単純な穴があるような分析ミスはしないという意味かなと思う。この文章は、宮台氏以外の人間が語ると、尊大な感じを受けてしまうかも知れないが、宮台氏が語る限りでは、僕には率直な言い方のように感じてしまう。この「トラックバックへの返答」では、「なお好機会ですので、読者の方々に『NANA』における(初期の)ハチのような女性(の成れの果てとしての主婦)がどんな男性政治家に惹かれるかを考えていただくのがよいでしょう。都市型保守についての豊かなイメージが得られるでしょう。 この件についてはhttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=281の「携帯電話の社会学的機能分析?コミュニケーション変容の社会的意味(連載第三回)」をお読み下さい([続きを読む]も忘れずに)。回答が明示してございます。」と書かれている。今度は、このことを考えてみたいと思うが、「明示してございます」と書かれているにもかかわらず、その内容はすぐにはわかりにくい。宮台氏にとっては「明示」なのだろうが、大部分の人間にとっては必ずしも「明らか」ではない。それを、少しでも明らかにすべく解釈してみようかと思う。
2006.01.18
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宮台氏が書いた「選挙結果から未来を構想するための文章を書きました」の前半は、選挙前に選挙の結果を予想するような分析を語っていた。社会的流動性や共同体の空洞化によって不安となった人々が、農村型保守から都市型保守へと変化していき、その増大した都市型保守層を支持者として取り付けた小泉自民党が選挙で圧勝するという構図の分析だった。その支持は、不安を煽って「断固」「決断」を見せつけるという、「不安のポピュリズム」という手法で得られたものだった。これが短期的には効果的であることは、理論的にも証明されているし、事実としても歴史がそれを証明している。この「不安のポピュリズム」の理論的考察には、本質的に男女の違いという要素は入ってこない。性差というものは捨象されている。だから、基本的に男であろうと、女であろうと、「不安のポピュリズム」によって支持層として取り込まれてしまうことが予想される。それが、実際にどういう形で現れるかには、男女の違いがあるかも知れないが、「不安のポピュリズム」に取り込まれるという点では同じだと結論出来る。さて、農村型保守の崩壊と、それに変わる都市型保守の台頭は、ある意味では歴史的必然性として避けられないものとして宮台氏は論理的に語っているように見える。しかし、このまま都市型保守が続けば、それは基本的にネオリベ路線を歩むことになり、次のような弊害が起こってくる。「「都市型保守」のみでは、ハリケーン騒動で支持率3割に落ちたレームダック(死に体)ブッシュ政権に象徴される「新米国病」を回避できず」「既得権益破壊にだけ注意が向くのも自然だが、それが長く続き過ぎると国はむしろ荒廃する。」この問題を解決するには、大きなコストを必要とする。「この回避不可能なコストを、しかし出来る限り低く抑えるべく、「都市型リベラル」の成長を促す必要がある」と宮台氏は語る。現状分析に続く「未来の構想」として、中心となることが、都市型リベラルの成長と言うことではないかと僕は感じる。都市型リベラルが成長しなければ、都市型保守のネオリベ路線によって国は疲弊する。しかし、都市型保守が、諸条件によって必然的に生まれてきたのと違い、都市型リベラルは、待っていれば成長してくるという対象ではなさそうだ。成長のための条件がなければ、それは育ってこないもののようだ。だからこそ「構想」として、どのような方向を取っていくかが語られているのではないだろうか。都市型リベラルに関する必然性としては、「各国同様に「都市型保守」を通過せずして、「都市型リベラル」は育たないだろう」という言葉に見ることが出来そうだ。都市型保守がいかに気に入らない思想であろうとも、これを通過しない限り、大部分の人は都市型リベラルに向かうことがないという判断だ。これは、論理的にどう受け止めたらいいだろうか。都市型リベラルというのは、弱者を切り捨てるのではなく、相互扶助のメカニズムで農村型保守にあったような依存体制を乗り越えようとするものだ。この依存体制は、宮台氏の表現では「くれくれタコラ」と言っていたが、とにかく自らの利益を誘導するような政治家を支持するという、何でももらえるものはもらうというメカニズムが働いていたのが農村型保守の体制だった。これは、容易に腐敗していくので否定されなければならない。この否定が、すぐに都市型リベラルに向かうのではなく、間に都市型保守というものが入り込むのは、弁証法論理で言う「否定の否定」として解釈することが出来る。相互扶助のメカニズムは、一見、利権を持ってくる「くれくれタコラ」のやり方と同じように見えてしまうのではないかと思う。それが、否定という面を強く打ち出せるのは、都市型保守の切り捨てというものになるのだろう。腐敗した談合的体質は、一度明確に切り捨てるという都市型保守の否定がないと、人々はその腐敗が否定されたという風に見ることが出来ないのではないだろうか。また、都市型リベラルを装って、農村型保守の談合体質を温存しようとする人の、だましのテクニックを見破れないのかも知れない。腐敗した談合ではなく、弱者の生存も保障されなければならないという、正当な意味での「談合」という都市型リベラルは、その理解が難しいのではないかとも感じる。優勝劣敗は、適者生存の進化の法則だ、と言うことで弱者切り捨てを正当化する考えに対して、都市型リベラルが対抗するのはかなり難しいだろうと僕は感じる。しかし、弱者を切り捨てて強者だけを残すという思想は、その強者が今度は弱者になると言う、尻すぼみの方向へ向かうだろうと思う。弱者の生存を保障してこそ、強者も強者として生き残れるのだ。物事の発展は、一直線に進むのではなく「否定の否定」という構造で発展していくというのが弁証法の考え方だ。都市型リベラルも、本物になるためには、都市型保守を通過しなければならないと言うのは、論理としてそう理解することが出来る。都市型リベラルは、単に言葉で覚えただけで実現出来るものではないと言うことだ。数学に限らず、いろいろな学習において、結論を言葉だけで覚えていても、それを本当に理解したことにはならない。その結論を否定するような対象の理解を媒介として、つまり否定を媒介にして、もう一度否定することによって本当の理解に達する。そのようなものが、都市型保守と都市型リベラルにはあるのだろうと思う。さて、都市型保守の否定が都市型リベラルへと向かう、そのきっかけとなるものを宮台氏は「サブカルチャーのコミュニケーションが支えるだろう/べきだ」と語り、サブカルチャーの中にロールモデルを見出すことによって、都市型リベラルへとシフトする民度の上昇を見ようとしている。都市型保守のロールモデルというのは、基本的に不安を抱いて生きている。だからこそ「不安のポピュリズム」に乗せられてしまうことになる。このような不安を抱いた人間は、ロールモデルとしての魅力に乏しい。不安でおたおたしているのに、見かけだけマッチョマンのようにカッコつけるだけの強がりを尊敬しろと言われてもなかなか出来ない。言葉で強がるだけなら誰でも出来るが、本当に深刻な場面に遭遇したときに、恐怖でおたおたしてしまう人間は、歴史上でもかなり見つけることが出来る。このような人間が、基本的には都市型保守の本質になると僕は思う。それに対して都市型リベラルの基本は、「不安よりも内発性(意欲)をベースに生きる。不信よりも信頼をベースに人と関わる」というものだ。このようなロールモデルの方が、圧倒的に魅力が大きい。このようなロールモデルは、かつての時代なら、歴史上の偉人にしか見られなかった資質だろうと思う。坂本竜馬であったり、西郷隆盛であったりと、それなりの偉人でなければ持てなかった資質ではないかと思う。それが、サブカルチャーの発達により、このような資質がようやく大衆的なものになったという感じがする。平凡な一市民であっても、このような素晴らしい資質を持ちうるというロールモデルが存在する。このことが、多くの人が都市型保守を通過して、その否定を経て都市型リベラルへとシフトするきっかけになるのではないかと感じる。田中康夫長野県知事やフランスのミッテラン大統領は、まだ有名人なので、歴史上の偉人に近いだろうが、宮台氏が紹介する「大谷健太郎監督『NANA?ナナ?』(05)」「ゴスロリ界での映画『下妻物語』(03)」に表現されているロールモデルは、「不安に振り回されず、圧倒的にポジティブに生きるロールモデル」でありながら、偉人ではなく普通の人間なのではないだろうか。ここで紹介されているロールモデルが女性であるというのは、一つ象徴的なものかも知れない。田中康夫氏や、ミッテラン大統領のように、男は偉人的でないと「不安に振り回されず、圧倒的にポジティブに生きるロールモデル」になりにくいのかも知れない。それに対して、女性の方は、ごく身近にそのようなロールモデルが存在し、それを見出すことが出来るようだ。ここには、男女の違いを感じる。しかし、否定されるべき都市型保守の方は、男女の違いなく同じような姿が見えるのを感じる。それは、自分の観点というものが乏しく、他人が自分をどう見るかと言うことにおびえるという感性だ。「大谷健太郎監督『NANA?ナナ?』(05)」で描かれているのも「ハチはやりたいことが何なのか分からず、男の視線が不安で右往左往するヘタレ」として、都市型保守の女性が表現されている。このような都市型保守にとって、「断固」「決断」を体現しているように見える小泉さんと一体化することは、「どう見られているか」という不安をいくらか解消してくれるだろう。小泉さんと同じように見られていると感じることが出来ればいいわけだから。このように考えると、小泉さんのニセモノ性を批判して、小泉さんを否定するような言説に対して、都市型保守の人間が大きな抵抗を示すのも理解出来る。小泉さんの否定は、自分自身の否定につながってきてしまうからだ。しかし、「断固」「決断」の姿というのは、本当にギリギリのところで「断固」「決断」出来るかは分からない。主体的な判断が必要なときに、「周りの空気を読んで判断する」というのが小泉さんの「断固」「決断」の正体だ。ニセモノ性はいくらでも見つけることが出来る。同じように、歴史上の大いなるものと一体化して自尊心を保とうとするタイプの都市型保守は、大いなるものの批判を許さないだろう。そのニセモノ性を暴くことは、自らのニセモノ性を見つめることになるからだ。しかし、そのニセモノ性を直視しなければ、都市型保守を否定して都市型リベラルに移行することは出来ない。そのためには、圧倒的に魅力的なロールモデルが必要だ。宮台氏は、この映画について「この体裁は映画に継承される。主人公はロールモデルの観察を通じて、自らのヘタレぶりが、自己愛に基づく鈍感さに由来すると知り、ロールモデルのタフぶりが、他者に感染し得る敏感さに由来すると知る。鈍感だから右往左往し、敏感だから動じないという逆説。 この逆説をシステム理論の枠組で記述することもできるが、それはともかく、映画は「観察」による逆説への気づきまでを描き、原作はそれに続いて「行為」の変化を描く。即ち「鈍感だから右往左往するヘタレ」から「敏感だから動じない威丈夫」へ。実に象徴的だ。」のように語っている。「敏感」「鈍感」と言うことが理解出来たとき、ロールモデルの魅力が、自らの行為に結びついていくことが示唆されているようだ。このような意味でのロールモデルとしては、宮台氏というのは、実にタフな敏感さを持っている圧倒的な魅力を持つロールモデルのように感じる。しかし、宮台氏は、まだ偉人に近い天才にも感じるので、もっと普通の人間で、このようなロールモデルになりうる人間が、男にも出てくる必要があるだろうと思う。そうでなければ、ヘタレ右翼の都市型保守は、都市型リベラルに移行出来ない。ハリウッド映画的な、マッチョなヒーローが男のロールモデルである間は、男はなかなか都市型リベラルへ移行出来ないだろうなと思う。女性の方が都市型リベラルへの移行は早いのではないかと感じる。
2006.01.17
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宮台氏が書いた「選挙結果から未来を構想するための文章を書きました」を再読してみた。同じ文章を2度、3度と繰り返し読むことによって、その理解が深まっていけば自分の進歩を感じられるのだが、果たしてどうなるだろうか。また、宮台氏の文章は、対象を深く捉えたものになっているので、何回読んでも新たな発見が出来るという優れた文章になっているだろうと思う。そのようなことも確認したいと思う。まず、宮台氏は、「圧勝の 背景については後追い的な分析がなされているが、私が選挙前に公開した分析の枠内だ」と語っていることに注意したい。「後追い的な分析」というのは、物事の結果が分かった後に、その結果を解釈することである。解釈というのは、知られた事実のつじつまが合うような説明が出来ればいいのだから、どのようにも出来るというのが僕の印象だ。後追いではなく、結果が分かる前に、未来を予測するようなことを述べると言うことはどう受け止めればいいだろうか。それは、まさに科学であるか、占いであるかということになるのだろうと思う。占いというのは、「当たるも八卦当たらぬも八卦」というもので、当たった場合も、たまたま当たったという偶然の出来事になる。しかし、科学というのは、法則性の認識を基礎にしているもので、これはほぼ100%確実な予想として提出されるものだ。(「ほぼ」としたのは、現実にはいつも誤差の範囲があるからだ。)僕は、宮台氏は科学を語っていると思うので、宮台氏が語る科学の部分がいかなるものであるかを理解する努力をして、この文章を再読してみようと思う。宮台氏は、どのような理論の基に、正しい見通しを語り、選挙結果の分析を、選挙前に提出することが出来たのか。宮台氏は、「選挙のキーワードは農村型保守=旧保守、都市型保守=新保守(新保守主義ではない)、都市型リベラルの、三つだ。小泉支持層のメインは旧保守でなく、新保守=都市型保守だ。 」とまず語っている。これは、選挙の結果で小泉支持層を分析したものではない。選挙前に、すでに小泉支持層を予測して提出した分析だ。この分析はいかなる根拠の元に提出されているのか。現状分析として、政治的な政党の支持母体である3つの層を割り出したのだろうか。それとも、これは、直接的な現状分析をすることなく、理論的な帰結として、この3つの層が生まれることの必然性から予測されたものなのだろうか。宮台氏は、「小泉支持層のメインは旧保守でなく、新保守=都市型保守だ」ということを「90年代を通じて前者から後者へと地殻変動した」と語っているが、これは事実を見て、そう判断したのだろうか。それとも、何らかの原因がすでに存在していたので、その原因の結果として論理的に、このような結論が導かれているのだろうか。論理的に導かれた結論が、現実にもそのようになって、理論の正しさが証明された、という認識になっているのだろうか。宮台氏は、「地域共同体の空洞化が土建屋的動員を弱々しくしたのと同様、会社共同体の空洞化が組合的動員を弱々しくした。」という表現もしている。これは、「地殻変動」の原因として、「地域共同体の空洞化」というものを提出しているように感じる。宮台氏は、「地域共同体の空洞化」の結果として、論理的な帰結を次のように述べている。「地域共同体の空洞化も会社共同体の空洞化も、社会的流動性を高め、不安な浮動層を生む。田舎の住民であれ、彼らは広義の都市民だ。地域共同体のブン取り(バラマキ政治)も会社共同体のブン取り(組合主義)も彼らに関係ない。故に彼らを都市的弱者と呼べる。」これが論理的帰結だと僕が判断するのは、「不安な浮動層」の誕生が、現状を観察して得られた結果ではなく、論理として次のようなつながりを判断したのだと思うからだ。 地域共同体の空洞化(会社共同体の空洞化) ↓ 社会的流動性を高める ↓ 不安な浮動層を生むこれは、単に時間的な経緯としてつながっているのではなく、内的な要因でつながっていると考えられる。内的な要因があるということが、論理的に導かれると言うことでもあるから、これは、観察の結果得られた解釈ではなく、論理によって導かれた帰結だと思うのだ。そして、論理によって得られた帰結は、単なる現実の解釈ではなく、未来をも予想出来る科学となる。「空洞化」というのは、辞書的には「都市の中心部の発展に伴い、その居住人口が減っていくこと」と理解されている。穴があいたように、今まであった部分が失われていくことが「空洞化」と言うことのイメージだと思われる。今まであった部分が失われると言うことは、消滅してなくなってしまうということもあるが、居住人口は、その人々が死ぬと言うことでもない限り、消滅するのではなく、どこか他の場所で生活すると言うことになる。これは、人口の流れを生むことであり、とりもなおさず「社会的流動性を高める」と言うことになる。この帰結は、論理のみによって導かれ、現実の状況を考慮に入れなくても出てくる。唯一つ論理的に気になるのは、「社会的流動性」が高まったから、「地域共同体の空洞化」が起きたとも解釈出来る点だ。つまり、どちらが原因なのかというのは、鶏と卵の関係にあるようにも感じる。これは、果たして論理的に決定出来ることかどうか、あるいは現実分析から決定出来ることかどうか。宮台氏が語るシステム理論的な発想から言うと、相互に影響し合うことがループの関係にあって、この進展をさらに進めるという作用をしているのかも知れない。論理的には、この両者のさらに根源的な原因があるかどうかを求めることが必要なのかも知れないが、ここの宮台氏の文章には、そこまでの言及はないようだ。「地域共同体の空洞化」という事実がとりあえずの出発点になって論理が展開されているようだ。さて、「地域共同体の空洞化」と「社会的流動性の高まり」は、論理的な帰結として「不安な浮動層を生む」ということはすぐに理解出来る。共同体というのは、長年習慣化してきたことが繰り返され、そこに存在する人々の帰属意識を高めて、アイデンティティーを安定させるだろうと言うことは想像出来る。しかし、空洞化して価値観が崩れてくると、自分の存在の価値そのものが揺らいでくる。当然そこには不安が生まれてくるはずだ。これも、現実観察と言うより、論理的な帰結として得られることだ。都市というのは、元々地域共同体が存在しないところだったので、田舎である地域も共同体が空洞化してしまえば、すべての人々は都市型の不安層になるとも考えられる。これが地殻変動と言うことの意味になるのではないかと思われる。なお地殻変動を押し進める要素として、共同体的な共通感覚の元に正当化されていた「談合的」な再配分が否定されていることも重要だろう。一方では、その不当性(つまり「談合」の腐敗性)が指摘されて否定されているという面と、もはや再配分するだけの余裕がなくなって、現実的に再販分が出来なくなったという物理的理由から否定されているという二つの側面があると思う。このような現状を踏まえて、「小泉氏はバラマキ政治に未来はないと主張してきた」と言うことと結びつけて考えると、自民党支持層・すなわち小泉支持層は、増加してきた都市型保守層の支持を取り込むことによって選挙に勝利するという方向を取ったのではないかと解釈出来る。つまり、小泉支持層は「地殻変動」を起こしたという判断が生まれるのではないかと思う。これは、論理的判断と現状分析の両方を総合して生まれてくる認識だろう。現段階では、農村型保守は、地域共同体の空洞化によって壊滅し、それに替わって都市型保守層が主流になったと考えられる。都市型リベラルはまだ育っていないので、主流はやはり都市型保守と言うことになるだろう。その都市型保守の支持を小泉さんは獲得することが出来た。これが小泉自民党の選挙での圧勝を生んだと、宮台氏は選挙前に予想していたように感じる。では、小泉さんは、なぜ都市型保守の支持を獲得出来たのか。それは、宮台氏の次の記述を読むことによって理解出来そうだ。「鬱屈した彼らを吸引するのが、不安と男気のカップリングだ。不安を煽って、鎮められるのは「断固」「決然」の俺だけだと男気を示す。20年前の英米ネオリベ路線でも石原都政誕生でも見られた、都市型保守の定番的動員戦略だ。「不安のポピュリズム」と呼べる。」この判断も、現実を観察して、そうなってきた経過を時間的に理解して解釈したからそうだと言っているのではない。不安を煽って鎮めるというメカニズムの中に、論理的な内的な連関性があるからこそ、このような方法で都市型保守を動員出来るという帰結が、論理的に生まれる。つまり、小泉さんがたまたま男気を示したから支持を得たというのではなく、意図的に男気を示すことによって、予想どおり支持を獲得したと見た方が正しいだろう。さらに、勝利の要因として宮台氏は次のような指摘も行っている。「只でさえ流動性の高まる後期近代。都市型保守の「不安のポピュリズム」は動員コストが安価で、公示期間の勝負なら「不安のポピュリズム」に勝る戦略はない。」このような予想を選挙前に提出していた宮台氏は、現実を正しく把握していた上に、正しい論理的な見通しも持っていたと言えるだろう。その予想は、決して占い的な、ひらめきを元にした予想ではない。論理的に本質だと思える内容を抽象して、その内的連関性から判断を導き出している。これは、ちょうど仮説実験授業において、実験前にその結果の予想を正しく言い当てている予想の根拠のようなものを感じる。仮説実験授業の場合は、教材の多くが自然科学のものなので、自然科学を元にした予想こそが、占い的ではない本当の正しい予想というものになる。宮台氏の、選挙前の予想にも、僕はそのようなものを感じる。この前半までが、「選挙結果」に関する宮台氏の文章の理解と言うことになる。あとは、「未来の構想」という部分を理解することが残っている。宮台氏は、「現実化し得る選択肢の豊かさ」を「ケイパビリティ」と呼んで、これが空洞化を克服し、都市型保守を都市型リベラルの方向へと導く鍵のように考えているようだ。「日本は、多様な仕事、多様な趣味、多様な家族、多様な性、要は多様な人生を、選べそうで選べない。制度的に選べない(規制だらけ)のみならず「主体の能力が低いから」選べない。だから鬱屈が拡がるばかりだ。」と言うのが、今の日本の現状だと指摘している。これを変えていくためには、「不安よりも内発性(意欲)をベースに生きる。不信よりも信頼をベースに人と関わる。それがリスペクトに値する生き方だと感じる」ことが必要だと語っている。このような方向にシフトしていくためにどうするかというのが、「未来の構想」というものになるだろう。改めてじっくりと考えて理解を図りたい。
2006.01.16
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仮説実験授業の討論を考えると、実りのある議論というイメージが分かってくる。それは、ある種の真理と結びついて、真理を確認するための議論というものになっている。そして、その際に感じるのは、その真理がいかなる真理であるのかということが明確で、「論点」がハッキリしていると感じることだ。「ものとその重さ」の授業では、体重計で測るという実験があったが、このときに何が真理かということを考えているその「何か」は、体重計の目盛りが変化するかどうかと言うことだった。つまり論点は、体重計の目盛りの指し方であり、最初から最後までここから議論がはずれることがない。実りある議論では「論点」がハッキリしていてそれがずれることがない。それは実りある「論点」だと呼んでもいいだろう。それに比べて、ディベート的な議論では論点が定まらない。それは、最後に決着をつけるべき実験がないからだと考えられる。もしかしたらそのような決着をつける実験が最初から存在しないかも知れないものを議論している場合もある。僕は、ディベートというものをある種のゲームだと思っているので、勝つためには相手の弱いところを攻めるという戦略が当然あるものだと思っている。そうすると、論点を絞って議論するのは不利な場合もあるだろう。自分の主張に理がないときは、論点を絞ったらそれが明らかになってしまう。出来るだけ論点をぼかして相手の失策を待つのが戦略として有効だ。自分に有利な論点にずらすのはディベートの戦略としては当然一つのテクニックだ。だから、ゲームとしてディベートを楽しんでいる人に対しては、それに対して何も言うことはない。勝ったり負けたりするのは運によるのであって、議論の中身が正しいからではないからだ。スポーツと一緒だ。サッカーにおいて、どんなに相手が強くてもゴールが入らなければ負けることはない。運良くゴールの中に転がれば1点だけでも勝てることがある。審判が見ていなければ反則をしても見逃される。ディベートはゲームである以上、そのようなことがいくつもあるはずだ。このゲームによってある種の論理能力も育つだろうが、僕には関心がない。そんなもので育つ論理能力は、他の練習で伸ばした方がいいと思っている。むしろ相手を論駁することが目的のディベートというゲームでは、論点はその目的のみで選ばれるもので、そこからは実りのある議論は出てこないと僕は思っている。これは、実りのない「論点」だと言ってもいいかも知れない。神保哲生氏のマル激の話を聞いていて、ディベートにもその使い方を工夫すれば有効性もあり得るという点を一つ発見した。それは、議論をしている双方の違いを確認するという作業においてディベートを利用するというやり方だった。ディベートは、一見正しさを争って議論しているように見えるが、実は、双方の立場の違いや視点の違いというものが、論点の選び方や論理の展開の仕方から伺うことが出来る。それを一つずつ細かくチェックしていけば、対立している両者の違いの構造を浮かび上がらせることが出来るという。ディベートというものを、このような自覚を持って行えるなら、その弊害はかなり薄れるだろうと思う。しかし、そのためには優れた審判と、ディベートをする双方が、それがディベートだという深い理解があって、お互いがルールに従っているという信頼感がなければならないだろう。インターネットで展開される、ルールなし・審判なしのディベートごっこでは、おそらく神保氏が語るようなディベートの有効性は現実化しないと思う。ディベートごっこをしている掲示板を眺めていると、双方が論点のすり替えを主張していたりするが、僕から見ると、元々論点があるようには見えなかったりする。それぞれが勝手に自己主張しているだけで、相手に応じて論理を展開しているようには見えない。そこで改めて「論点」というものを自覚するためによく考えてみたいと思う。これは、果たしてどのようなものを指すのだろうか。「論点」は、辞書的な意味では、「議論の中心となる問題点」という意味だが、これでは同語反復のような意味なので、その概念はつかめない。「議論の中心」というのが、何を指すのかが同じように難しいからだ。議論というのは、Aであるという主張と、Aでないと言う主張とが交わされているときは、その対立点が明確でわかりやすい。それが「論点」というものであろうと思われる。しかし、一見対立しているように見えながら、実は両立するようなことを言い合っているときは、まったく「論点」がないとも言えるのではないかと感じる。例えば、リンゴの属性を巡って、ある者は赤いと主張し、ある者は丸いと主張したとしよう。このとき、赤いという主張の中には「丸くない」という主張も含まれていると考えられるケースがある。同様に、丸いという主張には、「赤くない」という主張も含まれていると考えられるケースもある。それは次のように考えるのだ。色なんて関係ないという立場なら、赤なんてどうでもいいという見方になる。この「どうでもいい」という見方が、「赤なんて属性は大事じゃない」という意識につながり、それが短絡的に「赤じゃない」という意識につながる。これは、色そのものを否定しているのではなく、色を重視する立場を否定しているのだが、「大事なのは」赤じゃない、という意識が「大事なのは」という条件を落としてしまうと「赤じゃない」という相手の主張の否定だけが見えてきてしまう。こうなると、対立的ではない「赤である」と「丸い」という主張が対立的になってくるわけだ。これは結果的に対立した主張を展開していることになる。しかし、これはリンゴの属性を巡る論点にはなっていないと僕は思う。赤いという主張に対して、それは赤くない、丸いのだというのは、正反対の主張を対置しているのではなく、単に違う観点からの見方を対置しているに過ぎない。形を見るという観点を捨てて、色を見る観点に移行すれば、それはすぐに赤いという主張も成立することが見て取れる。双方の主張は並立するものであり、排他的な関係にあるのではない。色という観点で見たいのなら、どうぞご自由にと言うことでいいのだと思う。そうも解釈することも出来ますね、ということですむ。しかし、自分は色という観点を無視するのだという観点を取れば、違う解釈が成立することはごく当たり前のことになる。このときに、色が大事か形が大事かと言うことが論点になりそうな気もしてくるが、それは論点になったとしてもあまり実りはないだろうと思う。どちらが大事かと言うことの根拠がこの場合は客観的にはないだろうと思うからだ。こういうつまらないことを論点にしてディベートごっこをするよりも、世の中には面白い問題がたくさんあるのだから、そちらの方を考察した方がいい。このように、一見対立的な意見で議論をしているように見えても、その対立が、排他的なものでなく両立するものであるならば、それは本当の意味では論点になっていないと考えることが出来る。相手の前提を確認して、その前提であれば、そう見えても仕方がないですね、ということが確認出来ればいいのである。ただ、自分がその前提を持たないのであれば、結論に賛成することは出来ないし、それが本質的なことではない末梢的なことだと考えるのなら、わざわざ深い考察をすることでもないといえる。論点が本当の意味での論点になり議論が成立するには、それが排他的なものでなければならないだろうと思う。究極的には、「Aである」という主張と「Aでない」という主張の対立が、論点としては明確なものだろうと思う。すべての論点が、この形に還元出来るものであるならば、論点があるかないかの判断は簡単になるだろう。仮説実験授業の場合は、必ずしも二つの意見を巡る討論ではないが、一つが成立すれば、他の意見は成立しないという関係があるようにも思う。体重計の問題で言えば、いずれかの場合が他よりも重い数字を指せば、「どれも同じ」という主張は否定される。両立する主張ではなくなる。これが、論点としての明確さをもたらしているのだろう。しかし、ここで注意しなければならないのは、条件付きの命題である仮言命題「AならばB」という主張において、結果のBが排他的に対立しているからと言って、それが論点になると単純には判断出来ない場合があるときだ。Aという前提の元に結論したBと、Cという前提の元に結論したBでないと言う結論が、排他的に対立していても、それは十分両立しうる場合がある。同じAという前提の元で、Bであるという主張と、Bでないと言う主張が生まれたならば、これは排他的な論点になるが、その前提が違えば排他的ではないかも知れないのだ。議論における前提の重要性は、それが論点であるかどうかという判断にも関わっているのだと思う。南京大虐殺の議論が不毛な議論になり、論点が定まらないのは、「大虐殺」という言葉の定義の問題が大きいと僕は思っている。言葉の定義が違えば、議論の前提が大きく食い違ってくる。だから、南京で起きた事件について、それが「大虐殺である」という主張と「大虐殺ではない」という主張は、一見対立した論点であるかのように見えるが、実はまったく論点になっていない、違う解釈のぶつけ合いである可能性が高い。対立した主張に論点が含まれているかどうかを、排他的に成立する主張かどうかという点で判断をしてみたいと思う。その主張が排他的に成立しないのであれば、十分両立しうると言うことになる。両立するのなら、それは単に解釈の違いに過ぎないのである。僕は、このような議論らしきものには、実は論点は存在せず、形として議論らしくなっているだけで、僕がイメージする議論ではないと考える。最後に蛇足ながら付け加えておくと、論点が存在して議論になったとしても、それが実りあるものになるとは限らないと考えられる。実りあるものになるためには、さらに他の条件が必要だろう。仮説実験授業の場合は、その議論が最後に実験で決着がつくということがある。このように決着がつけられる方法が存在する論点は、実りある議論につながるのではないかと、僕は考えている。決着をつける方法がない議論は、お互いの解釈の違いを理解し合うことが最大の目的になるべきだろうと思う。もっとも、議論などしなくても、実りある対話はいくらでも出来るのだから、僕はそういうコミュニケーションを楽しみたいと思う。
2006.01.14
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仮説実験授業は、科学の法則を教える過程で、科学における基本的な概念を教えたり、科学的な思考というものがどういうものであるかを教える授業だ。科学というのは、書かれた文章を解釈することによって決して分かるものではなく、科学が生まれる過程を理解してこそ科学の何たるかが分かる。そのような基本的な考えによって、科学者が科学を生んだ過程と同じものをたどって、同じような経験をすることによって科学を学ぶことが考えられているのが仮説実験授業だ。仮説実験授業ではその方法として、実験前に予想を立て、その予想を元にした討論を行うという形を取っている。この討論の過程を経て実験を行うことにより、表題にあるように「解釈(仮説)から事実(科学)へ」という経験をする。このあたりの概念を説明することはなかなか難しいのだが、「ものとその重さ」という授業を例にして、どのように討論がなされ、どのように科学的認識が育っていくのかを考えてみようと思う。「ものとその重さ」という授業は、究極的には原子論的な発想を学ぶもので、ものの属性である重さを決定する本質的な要因は何かということを考えさせるものである。授業の形としては、ある実験を提示して、その実験の結果がどうなるかを予想させる。例えば体重計に乗って体重を量るという実験があるのだが、それは、体重計に違う立ち方をすることによって、体重計の目盛りに違いが出るかどうかと言うものだ。違う立ち方は次のようなものだ。1 普通にまっすぐ立つ(二本足で立つ)2 片足で立つ3 力を込めて踏ん張って立つ予想としては、このどれかが、他と比べて重い目盛りを指すかどうかと言うものになる。もちろん、どれも同じだろうという予想もある。その他の突拍子もない予想もあるかも知れないので、仮説実験授業は、いつでも選択肢の中に「その他」というものもある。このように、予想はいくつかの選択肢を作っておいて、そのうちの一つを選ぶ。この予想は、後に実験によって何が正しいかが決定される。そして、この予想に何らかの根拠があれば、それを討論という形で表明し合うのが、仮説実験授業における討論というものになる。この討論が、認識の成長において大きな貢献をするものなので、実りある討論が出来たクラスでは、その科学の理解はより深いものとなる。この実験前の予想に結びついた根拠というのは、ある意味では現実への解釈を元にしているとも言える。例えば、何かを押すという圧力を加える運動をしたとき、その接地面が小さい方が圧力が強いという経験は良くあるものだ。そういう経験がイメージとして頭に残っていれば、片足で立った方が秤の面を強く押すという解釈が生まれてくる。強く押せば、それは重い方へ目盛りが動くのではないかという解釈も生まれてくる。もし他の観点を抜いて、接地面が小さければ大きな力を与えると言うことしか見ていなかったら、この前提からは、片足で立った方が目盛りは重い方に動くと結論したくなるだろう。これは、解釈として十分理解出来るもので、これが解釈である限りでは、間違っているとは言えない。理屈としても通っている。しかし、観点が違うと、他の要素が根拠に入り込んでくるので、この解釈に賛成するとは限らない。例えば、片足にした方が力が倍になったとしても、両足で立っていれば、二つの足から同じだけの力がかかっていると解釈することも出来る。そうすると、片足で倍の力になっても、その半分の力で二本で立てば、結果的には秤を押す力は同じになる。だから、目盛りが指す数字は同じだと解釈することも出来る。これは、二本の足に同等に重さがかかるという視点を持つことから来る解釈で、その視点がないと、片足の方が強い圧力で押すように感じてしまう。またもう一つの力を込めるという立ち方の解釈は、「精神力」とでも言うものが、実際に秤の目盛りに影響を与えるかという解釈の問題が入ってくる。「精神力」という力は、実質的な力なのか、それとも比喩的に力と言っているだけなのかという解釈でもある。これは、このような解釈を取る人間と、それに反対する人間とではまったく意見が分かれる。精神力が影響を与えると解釈する人間は、当然秤の目盛りはより大きな数字を指すと考えるだろう。しかし、精神力は単に比喩的に力と語っているに過ぎない、それは物理的な力ではない、と解釈する人間は、どんなに力を込めても秤の数字は変わらないと解釈するだろう。以上の解釈は、実験によって何が正しいかはハッキリしてしまう。しかし、実験をする前には、それは何が正しいかは分からない。もちろん実験の結果を知っている人間は、何が正しいかを判断出来るだろうが、結果を知らない人間にとっては、何が正しいかは分からない。それが解釈というものだ。解釈は、それが正しいかどうか決定出来る手だてがない限りは、すべて同等に、正しいかどうかは分からないと言う存在なのである。実際の実験の結果をここに書くと実験の面白みがなくなるので、結果を知らない人はぜひ試してもらいたいと思うが、実験の結果が出た後は、これらの解釈は、ある「事実」に照らして判断される。実験は一つの「事実」と考えられる。そして、「事実」が確認された解釈は、解釈の段階を抜け出て、正しいか正しくないかが決定される。これは簡単な形式論理の法則だ。 A ならば Bということで根拠になるAを主張したとき、予想どおりのBが起こらなかった。つまり、Bでないと言うことが事実になったときは、対偶の法則により Bでない ならば Aでないということから、Aの否定こそが正しいと言うことになる。つまりAは正しくないわけである。予想が、現実的に可能なすべての場合分けを行っているときは、唯一つだけBが起こったのなら、その根拠は正しいと結論していい。場合分けによって他の可能性がないと判断出来るからだ。しかし、その場合分けにはまだ抜けているものがあると解釈されると、まだAの正しさは完全には保証されない。その時は、また新たな実験を考えて、Aの正しさを証明出来るように工夫していくことになる。仮説実験授業は、そのような予想と実験の連鎖によって、正しい科学的思考というものを身につけようとするものだ。上の体重計の実験に関するものは、個別的な出来事に関するものなので、そこで決定されるものは「事実」と呼ぶのにふさわしい。具体的な出来事に関する言明だからだ。これが、具体性を離れて抽象されると、一般論としての「仮説」が生まれてくる。「ものとその重さ」の授業で言うと、そこで中心のテーマになっている仮説は、<もの(物理的存在)は、すべて原子によって出来ている>というものだ。これが正しいと言うことが確認出来たとき、この「仮説」は「科学」という真理になる。しかし、一般論である「仮説」を確認する実験は非常に難しい。実験というのは常に具体的なものなのに、一般論というのは頭の中にしかないので、それをそのまま実験にかけるわけにはいかないからだ。このとき「仮説」が「科学」になるきっかけの一つは、実験の「任意性」というものだ。その実験が、何か具体的な特別な対象に関する実験ではなく、任意の存在一般の中から、たまたま選んできた対象について行っているという、任意性を持っているかどうかが「科学」の判断に関わってくる。この任意性は残念ながら客観性を示すのは難しいと思う。だから、科学という真理は、常に誤謬と隣り合わせの面を持つ相対的真理だという存在になる。しかし、相対的に誤謬になる部分が見つかると、真理であるための条件を設定することが出来るので、誤謬が見つかることで真理性が大きくなると言う弁証法的な面も持っている。条件が明確になれば、その条件の下では「絶対的真理」であると主張することも出来るだろう。エンゲルスは、『反デューリング論』の中で、<科学は、相対的真理の連鎖の究極において絶対的真理の資格を獲得する>というようなニュアンスのことを語っていた。(正確な引用ではないので「」付きにしなかった)そのことは、このような内容ではないかと僕は思っている。仮説実験授業における討論に実りがあるのは、解釈が実験によって「事実」として決定されると言うことがあるからだと思う。精神力が秤に影響を与えるのだと解釈しても、実際に影響を与えなかったら、その解釈は「事実」ではない。精神力は秤に影響を与えないと言うことが「事実」として確定することになる。しかし、解釈が解釈にとどまり、実験によって「事実」の確定が出来ないようなときはどうなるだろうか。そんなときに、あくまでも解釈の正しさを争うような討論を行っていれば、それは、いつまでたっても結論の出ない水掛け論をするようなことになるだろう。実りのある討論(議論)のためには、「事実」に決着をつけられる実験が存在するかと言うことが必要であると僕は思う。そうでない討論は、白黒決着をつけようとすれば、実りのない議論になることだろう。芸術の評価を巡る議論などで、それがいいとか悪いとか決着をつけたいのではないかと思われるような議論を見ることがあるが、それは、要するにその芸術が好きか嫌いかと言うことに過ぎないものと思われる。芸術の評価は、実験によって「事実」が決定出来るものではない。だから、それは常に解釈にとどまる。しかし、これは欠点ではない。芸術の場合は、この解釈にとどまることにこそ長所があると僕は思う。芸術の解釈には正しさはない。しかし、それが深いか浅いかという違いは考えることが出来る。深い理解の元にされた解釈は、あらゆる可能性を含んで解釈されている。つまり視点が豊富で多面的だと言える。そして、その豊富な視点のどれが本質的に大事かという比較がされて解釈されている。これこそが芸術の解釈でもっとも大事なことだろう。ある意味では、一つの解釈しか許さないような芸術など、表現としては薄っぺらでとても鑑賞する気にならない芸術ではないだろうか。その鑑賞において、常に新鮮な視点を教えてくれる芸術こそが、僕には優れた芸術のように思える。正しいか正しくないかが決定出来る芸術などつまらない芸術だと思う。解釈においても、芸術性と論理性を分けて考えるのは、両方の長所を理解する上で大事なのではないかと思う。
2006.01.13
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冬休みは、撮りためたビデオをいくつか見たのだが、その中でも特に印象に残ったのは韓国映画の「ブラザーフッド」だった。この映画は、芸術の鑑賞として、登場人物に深く感情移入することが出来たし、その結果として大きな感動を覚えた。同時に、論理的な理解として引っかかる部分もいくつか感じ、芸術的な鑑賞と論理的な理解との両方を考えることが出来て、その点でも特に印象に残った。感動の中心にあったのは、兄弟の絆を描いた兄弟愛だった。だから、物語のすべての設定は、この兄弟愛の感動を深めるために存在していたというのが、芸術としての鑑賞における僕の感覚だろうか。これはフィクションとしての物語だから、感動を大きくするための設定が随所に見られる。それをご都合主義的な作り話だと解釈することも出来るが、実際にはないことであっても、そう設定することによってより感動が大きくなるということが、物語としての特徴でもあると思うので、たとえフィクションであっても、そこに込められた感動が伝わるという点では、僕にはこの映画は優れた芸術に思えた。チャン・ドンゴン演じるジンテという兄の、弟ジンソクに対する愛の深さは、まさに純粋な美しさに満ちている。このような純粋さは、現実には見られないとも思うが、もし現存するならこれほど美しいものはないだろうと思えるようなものであることに、理想を描いた芸術としての素晴らしさを僕は見ることが出来た。それは現実にはあり得ない理想だといわれても、それが本当の理想であるなら、それこそが芸術としてのリアリティではないかとも思う。現実にありそうなことは、現実的なリアリティだろうが、それは決して芸術的なリアリティではないような気がする。芸術的なリアリティは、本物の理想の中にこそあるのではないかと思う。弟の成功こそが家族の夢であり、家族の夢が実現することが自分自身の夢であると信じて疑わないジンテの夢は純粋で美しいものだ。ジンテは、その夢のために自分のすべてを犠牲にしても悔いがないほど気高い思いを持っている。このような強い愛を抱くことが人間としての理想であり、本当の幸せだろうと思えるところに、この映画が理想を描いていると思えるところがある。このような強い愛の対象を持てること自体が幸せなのだという感覚だろうか。そう思えるだけに、随所で主人公のジンテに感情移入することが出来た。この中心のテーマに沿って、さまざまの状況設定がなされ、その状況の中で、この思いがさらに強まって伝わってくることで、また感動が大きくなっていくのを感じる。特に、状況設定としては、極限状況ともいうべき生死が関わる重大な場面として、戦争というものが選ばれている。この状況設定に関しては、僕は、芸術の鑑賞をする限りでは、戦争であることの意味をそれほど感じなかった。それは、極限状況の一つとして選ばれた場面に過ぎないのであって、それがもっと他のことでふさわしいものであれば戦争でなくても感動を覚えるのだと思う。ただ、朝鮮戦争というのは、韓国の多くの人にとっては生の歴史としてよみがえってくるものだろうから、状況設定としては、表現せずとも伝わるものがたくさんあるだろうと思う。その意味では、今作る映画としては、朝鮮戦争が選ばれたのはそれなりの必然性があるのではないかとも思う。僕にとっては、朝鮮戦争はそれほど深刻に自分自身の問題として迫ってくるものではないので、いくつかある極限状況の一つという感覚にしか過ぎないが、それでも大きな感動を覚えるということにこの映画の優れた芸術性を感じることが出来る。感動を感じて鑑賞するには、自分が登場人物の誰かと一体になって、感情移入して、あたかもそこに一緒にいるような感覚でそれを見なければならない。しかし、この映画にすべて入り込むことなく、ちょっと外からこの内容を眺めるという立場も映画の鑑賞には存在する。この場合は感動よりも、論理的な整合性の方が気になって来るという見方になる。僕が気になったシーンは、ジンテの婚約者ヨンシンが共産主義者だという嫌疑をかけられただけで処刑されてしまうシーンだった。感情的な問題でいえば、このような理不尽な運命にさらされた主人公のジンテに、その後の精神の異常につながるような強い怒りの感情が生まれてくるのは、感情移入して同じように自分の中にその怒りが生まれてくるのを感じる。この物語設定自体は、このような運命にさらされればあのようになるのも無理はないと思えるという点で論理的な整合性は感じる。生きるための食料を得るために、共産主義側の署名簿に名前を書いただけというヨンシンの言い分の方が理があり、それをまったく聞かずに処刑しようとする側に権力の恐ろしさを見るという点では、戦争というものが持つ暴走の恐ろしさが描かれているとも感じる。このこと自体が、物語の過程で持つ論理的整合性というのは感じたのだが、引っかかったのは、これほどひどいことが本当に行われていたのだろうかという、歴史的な事実だったのかという点だった。もし、ここで描かれていたようなことが、歴史的事実ではなく、感動を大きくするためのフィクションであるなら、その感動が少々薄れてしまうような気がしたのだ。果たしてこのようなことは本当にあったことなのだろうか。学生のころに、ロバート・デ・ニーロ主演の「ディア・ハンター」という映画を見た。これにも僕は大きな感動を覚えた。感動の中心にあったのは深い友情だ。好きな俳優のロバート・デ・ニーロが出ていたこともあり、長い間僕の中では好きな映画の一つだった。このときは、ベトナム戦争についての知識はあまりなく、それは物語の背景を構成する状況の一つに過ぎないという受け取り方しかしていなかった。しかし、後に本多勝一さんを知り、ベトナムで、解放戦線の側が映画に描かれたようなロシアン・ルーレットのようなことをする可能性はゼロだということを知った。つまり、あの物語の設定は、感動を無理やり強めるためのフィクションであり、しかもそのフィクションは、決してあり得ないことを描いた本当の作り物のフィクションだったというのを知った。それを知って以来、僕は映画「ディア・ハンター」の感動をもはや味わうことが出来なくなった。素晴らしい友情を描いた映画だという感情移入が出来なくなったのだ。ベトナム戦争の嘘を描いた作品だとしか思えなくなった。フィクションなんだから、何を描こうと勝手だとも言えるが、その勝手の中に、あり得ない作り物を描くことは、芸術としての感動を薄れさせるのだと感じた。SF映画などは、あり得ない現実を描いて感動させるではないかと思う人もいるかも知れないが、SF映画の感動は、あり得ない現実を下にした感動ではなく、例えば「E・T」などでは、友情が感動を呼ぶのであって、SFであるという設定から、客観的な場面については作り物だという前提で鑑賞者も見る。本物だと思ってそれを見るのではなく、はじめから作り物だと思って見ながら、それでもなお感動するような物語に作り上げるのがSFなのだろうと思う。「ディア・ハンター」では、実際のベトナム戦争を描いておいて、それが本物であるかのように装って嘘を使うというところに問題がある。嘘を使うなら、最初から嘘であることが明らかなSFにすればいいのだと思う。そうすれば、「ディア・ハンター」は、あれほどの感動を呼ばなかっただろう。現実のベトナム戦争という極限状況が感動を呼ぶための装置であるにもかかわらず、そこに嘘を入れたところに僕は感動が薄れるのを感じた。「ディア・ハンター」でのこのような経験があっただけに、「ブラザーフッド」でも、あの場面が引っかかった。果たして、戦争とはいえ、単に署名をしただけのことで有無を言わさずに処刑されてしまうようなことがあったのだろうか。このような事実があったかどうかインターネットで検索したのだが、なかなか見つからなかった。ようやく発見したのが「保導連盟事件」というものだった。ここには、「保導連盟事件とは、1950年夏、朝鮮戦争で敗走していた韓国軍が、保導連盟員や政治犯ふくめ二十万人あまりを殺害したとされる事件である。日本からの独立後に大韓民国政府は共産勢力を大弾圧した。元来、抗日パルチザン勢力はほぼ全てソ連や中国の支援を受けていたのでメンバーのほとんどが赤化していたのも当然の成り行きであった。そこで韓国政府は、「保導連盟」という思想改善組合を組織し、そこに登録すれば共産主義者として処罰しないと宣伝した。「共産主義者に騙されていただけだ」と釈明すれば許す、と甘言で誘ったとする見方が強い。しかし、1950年6月25日に北朝鮮が侵攻してくると、韓国軍は釜山にまで後退しながら、保導連盟に登録していた韓国人を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。韓国当局は彼らが北朝鮮軍に呼応して反乱することを恐れたのだという。これは韓国史最大のタブーとされ、現在でも韓国では口に出すのも憚られるという。」と書かれている。ここに書かれている状況は、映画で描かれた状況とは若干の違いも感じるが、ここには最後に「一方で、2004年公開の韓国映画「ブラザーフッド」には、保導連盟署名者の凄惨な処刑シーンが描かれており、韓国人の意識も変化しつつあるともいえる」という記述も見られ、映画との関連性も指摘されている。これを読む限りでは、映画のあのシーンも、歴史的事実として似たようなことがあったのではないかと感じられる。芸術におけるフィクションは、感動を大きくするためにこそ設定される。しかし皮肉なことに、本物を装った嘘は、それが嘘であることを知ってしまうとかえって感動が薄れる。それはフィクションである嘘だと分かっていても、なおフィクションだからこそかえってリアリティを感じると言うとき、感動はより大きくなるのを感じる。三浦つとむさんが、芸術におけるフィクションを論じた文章があったのを記憶している。これは、芸術の論理的な理解において非常に重要な感じがする。探して、もう一度読み返してみたくなった。
2006.01.11
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msk222さんから、川柳の解釈を褒めてもらって嬉しく思ったが、このことをきっかけにして、論理的な理解と芸術的な理解との違いについて考えてみたくなった。msk222さんの川柳の例でいえば、論理的な理解とは、msk222さんがその川柳を作ったときの状況をすべて把握して、その上でmsk222さんの心理状況(つまり認識)についても正しく把握出来ることを意味すると僕は思う。これは、三浦つとむさんが語る言語論での<対象-認識-言語(表現)>という過程的構造を理解するということになる。これが正しく理解出来るようなら、たとえその言語表現に間違いが含まれていようとも、その間違いがどこで発生したかという構造さえも理解出来るようになるだろう。つまり論理的な理解というのは、言語表現に対する客観的な理解というものを意味すると僕は思う。間違いを間違いとして正しく受け取ることは論理的な理解なのである。これに対して芸術的な理解というのは、三浦さんの言葉を借りるなら、芸術というのは<鑑賞>の対象になるものがすべて芸術だから、<鑑賞>として受け取るときの理解が芸術的な理解ということになる。<鑑賞>の主体性は作者ではなく、鑑賞する人間の方にある。その表現が<鑑賞>の対象であるなら、ある意味ではどう受け取ろうと自由なのである。例えば自然の風景に対してそれを「美しい」と思う人もいれば、ありふれた「陳腐」なものだと思う人もいるだろう。これはどちらが正しいと結論出来るものではなく、<鑑賞>であればどちらも正しいのだと思う。受取手がそう感じたのであれば仕方がない。どんなに有名な芸術作品であろうとも、受取手に感動を与えないのであれば、その受取手にとっては「陳腐」な作品なのである。受取手の鑑賞者としてのセンスは論理的に論じることが出来るだろうが、<鑑賞>そのものが間違いだとは言えない。それが<鑑賞>だと思う。論理的な理解には、正しいか正しくないかが結論出来る。しかし、芸術的な理解は、自分がどう感じ・どう思ったかが重要になる。正月に、ロビン・ウィリアムスが、保守的な進学校の教師を演じた「いまを生きる」という映画を見た。その学校は、名門大学に合格することが究極の目的で、そのために邪魔なことはすべて排除して、ひたすら受験勉強に打ち込むように生徒を追い込むような学校だった。そこに、自分の感性を大事にして、今を充実感を持って生きることが大切なのだと教える教師が登場する。印象に残ったのは、詩に関しての授業だった。教科書で語られていたのは、詩を物理現象のように扱う理論だった。詩を二つの側面に分けて、その二つの領域で点数をつけて評価する。そして、その二つの評価点を掛け合わせて、点が高いものをよりすぐれた詩だと判断するような理論を学んでいた。これは、一見すると理科系的で、科学的な詩の理論のように見えるが、物理現象でない対象に対して、物理的な評価をするような形式だけを取っている、ある種の詭弁のような理論だ。これに対してロビン・ウィリアムス演じる教師は、これをきっぱり否定して破り捨ててしまう。受験のためには、たとえ正しくない理論だと思っても、丸暗記して点を取る方が合理的だ。しかし、詩というような芸術の<鑑賞>では、自分の感性こそがもっとも大事なものだということを、彼は教えた。授業の一シーンでは、机の上に立って上から眺めるということを教える場面があった。これは、物事を違う視点から眺めてみて、新しい発見をすることを教えていた。<鑑賞>というのは、まさに違う視点を学び取ることでもあるということを教えたかったのではないかと思う。受験勉強のように、誰もが同じ読み方をするのではなく、芸術には違う読み方がいくつもあるのだということを教えたかったのではないだろうか。msk222さんの川柳について僕は、それを論理的に理解することは難しいと書いた。それは情報をつかんでいないからだ。しかし、芸術として読むことなら出来るとも書いて、僕が感じたことをそのまま書いた。論理的に理解するには、あらゆるデータを基にして、そのデータからは、誰が考えても同じ結論が出るような判断が出来ることを示さなければならない。しかし、芸術の<鑑賞>は、そこに表現されたものだけから、読み手のイマジネーションを頼りに、読み手の頭の中に浮かんだ世界から判断出来るものを読めばいいと思う。しかし、優れた芸術に関しては、やや矛盾したことをいうように感じるかも知れないが、作者の観点に近づければ近づけるほど、作者の目でその作品を見ることが出来るようになる。優れた芸術は、さまざまな読み方を読み手に許すものではあるけれど、読み手のセンスが上がっていくと、作者がまさに表現したいものを読みとれるようになっていく。なぜなら、優れた芸術作品は、作者が捉えた感動を、もっともふさわしい形式で表現しているものだと考えられるからだ。優れた芸術作品は、受取手が同じくらいに優れているなら、それは必然的に一つの読み方を決めてしまう。論理的な文章と同じことが起こる。優れた文芸作品を何度も読み返したくなるのは、自分が成長するにつれて、その<鑑賞>が作者に近づいていくのを感じるからだ。何度読み返しても面白い作品こそが優れている芸術だとも言えるだろう。逆に言えば、一度読んだだけで二回読みたいとは思えないような作品は、あまり優れているとは言えないだろう。作者の認識や考えの深さを伝えてくれるような作品は、その深さを自分が理解するために、何度も繰り返し読みたいと思うのではないかと思う。芸術作品ではないが、学問的な著作も、著者の考えの深さを感じるものは何度も読み返したいと思うものだ。僕にとっての三浦つとむさんの著書はそういうものだった。今では、宮台氏の著書にそれを感じている。論理的な理解と芸術的な理解には明らかな違いがあるにもかかわらず、究極では一致するというのは面白いものだと思う。これは、三浦さんが弁証法を語るときによく言っていた「両極端は一致する」ということの現れだろうと思う。さて、ここで学校における国語の読解について考えてみると、それは芸術的な理解を求める、芸術作品の読解に偏りすぎているように感じる。論理的な理解を求める「論説文」というものもあるのだが、これも文脈の理解の方に偏っていて、それがどのような対象について記述しているかという、記述に関する情報を豊富に与えて読みとるという形を取っていない。国語では、書いてある内容そのものが正しいのかどうかということを考える論説文はない。そこに書かれている内容はすべて正しいという前提で、その意味を読みとる訓練だけがなされる。批判精神はまったく教えない。これは、論理の理解では片手落ち(一方的な理解であって、全面的な理解になっていない)なのではないかと感じる。論理の理解のためには、対象に関するデータは必要不可欠なのである。その上で、書かれている内容が、その対象を記述する表現としてふさわしい形式を取っているかを考えるのが、論理的な理解というものだ。国語の読解が、芸術的な理解を求めるものであるにもかかわらず、その理解が誰もが同じ理解であるように求められるというのは、教育的に問題が大きいと思う。芸術の理解は、究極的には、作者と同じくらいの深い認識・深い対象理解があれば、同じ理解に達するのであるが、未熟な学生がそのような深さに達するのは困難だ。優れたセンスを持っていれば到達するかも知れない理解に対して、未熟な間はさまざまな違う理解があって当然だ。教育というのは、その未熟さを未熟だと理解させて、それを少しでも高めていく方向付けをするものであるべきだ。しかし、その方向付けもなく、優れた読み方をすればこう読みとらなければならないという結論だけを押しつければ、機械的にそれを丸暗記するしかなくなる。優れた国語教師なら、生徒の未熟なさまざまな読み方を、芸術の<鑑賞>として受け入れて、それをさらに優れた<鑑賞>にするための方向付けをすることが出来なければならないだろう。しかし僕が生徒として接した国語教師には、そう言う発想がないように僕は感じた。今の同僚の国語教師には授業を受けたことがないので、そういう発想があるかどうかは分からないが、受験に偏った指導をしている教師にはそのような発想があるとは思えない。受験では、正解を導くテクニックがどうしても必要だからだ。正解を出すためだけなら丸暗記をした方が手っ取り早い。これは、教師にまつわりつくジレンマのようなものだろう。深い認識と深い考えを育てるような教育は難しい。丸暗記して正解を出せるようにすれば、その成果も認められやすい。数学でも、本当の理解をするよりも公式を覚えた方がテストでの点は取れる。両極端は一致するから、究極の丸暗記は、究極の論理的理解に近づいていくだろうと思う。宮台真司氏はそう語っていた。しかし、誰もが究極の丸暗記をなし得ることは無理だろう。かつても今も、学校教育の内容は丸暗記に満ちているが、今はそれが受け入れられなくなってきている。かつてもそれを拒否した人間がいくらかはいたが、今では拒否する人間が大部分になっているようにも感じる。拒否しながらも、その押しつけがきつくなっているようにも感じるのだが、一般にはどう受け取られているのだろうか。かつては、丸暗記の押しつけも、今ほど役に立たないということが明らかではなかったので、仕方なく受け入れるものが多かったのだろうか。今は、本当に役に立たないということが明らかになってきているので、見切りをつける人間が増えたのだろうか。しかし学校教育の不幸は、丸暗記が見切りをつけられたにもかかわらず、それに替わるものがないことだ。本当の理解を育てる教育はあまりにも難しく、なかなか成功しない。仮説実験授業がわずかながら実績を積み上げてきたのだが、これも世の中の主流とはならなかった。論理的な理解と芸術的な理解という二つの観点を意識するということは、物事の理解を進める上で有効なのではないかと今僕は感じている。論理的な理解はあくまでも正しさを追求する。芸術的な理解は<鑑賞>としての自由を保障して、これは正しさよりも、より深くより多様に対象を受け取ることの上達を目指すものとして位置づければ、自分の成長というものも自覚出来るのではないだろうか。<鑑賞>には正しさはない。そこには多様さがあるという理解が大切なのではないかと思う。
2006.01.05
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