2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全27件 (27件中 1-27件目)
1
核兵器の是非を考えるときに、「北朝鮮」の立場からこの問題を考えることに論理的な違和感を感じる人がいるかもしれない。それは「北朝鮮」を擁護することになり、「北朝鮮」の核兵器開発を承認することにつながるのではないかという疑問を生むのではないかと思う。核兵器の是非を論じるなら、個別の国家の立場は捨象して、一般論として是非を論じるのが論理的ではないかと感じる人もいるだろう。しかし、この問題は一般論として論じたら、あまり面白い結果は求められないのではないかと思う。人類にとって核兵器が使われるような事態が起きたら、その悲惨さは計り知れないものであり、下手をすれば人類滅亡という結果になりかねない。一般論としては、核兵器は絶対に使ってはならない、使う「べきではない」というような結論が導かれるだろう。だが、「べきではない」という主張は、現実的な有効性を持たない。一般論として核兵器をなくすべきだと考えても、この「べき」という倫理に従って行動する核保有国はないだろう。むしろ、今核兵器を持っていない国が、核兵器を開発しようとする動機の方が強くなるのではないかと思われる。「北朝鮮」に刺激されて、日本でさえも核武装論が出てくるのだから、きっかけさえあれば核を持つ方向にシフトしたい国の方が多いのではないかと思う。「べき」という倫理的主張は、脱ダムのことを考えても、未来の子どもたちのためには脱ダムをするべきだという結論が出るはずだが、現実にはその方向を選ぶことが難しい。それは、「べき」という考えが理解出来ないからではなく、今現在の利益を考えるという合理的思考から、脱ダムが拒否されるという結論が出てくるからだ。この今現在の利益という方向が変わらない限り、合理的思考からは脱ダムが拒否されるという結果が出てしまうのではないかと思う。「北朝鮮」の核開発についても、それがケシカランものであり、開発すべきではないと主張しても、合理的思考の下に核開発をした方が国益にかなうという結果が出るのであれば、「北朝鮮」の核開発を止めることは出来ないのではないかと思う。核兵器の是非というものが道徳的な問題として一般論で考察されるときは、それは現実に適用することが難しい抽象論になるだろう。現実に適用して、現実の問題をもっと深く理解するために論理的な考察をするなら、「北朝鮮」という国家の特殊性を捨象することが出来ないのではないかと思う。だからこそ、「北朝鮮」にとって核兵器開発がどのような意味を持つか、それは国益になるかということを合理的に理解することが大事だと思う。合理的考察の結果として、核兵器開発が「北朝鮮」にとっては国益にかなうという結論が出るなら、「北朝鮮」は合理的思考の下に行動していると理解することが出来る。これは大事なことだと思う。「北朝鮮」がケシカラン国で、何をするか分からないとんでもない国だというのではなく、よく考えて行動する国だと言うことが分かれば、「北朝鮮」のこれからの行動も予測出来るものになり、それに対処するのに不安を静めることが出来るのではないかと思う。合理的な思考をするからといって、それが倫理的に正しいということを言っているのではない。合理的思考の下の行動に対しては、こちらも合理的思考で対処することが出来るので論理的に考えることに有効性が出てくると言うことを意味するだけだ。合理的思考の下に行動しない人間は、こちらが論理的に理解しようとしても、論理に反する行動をするのだから、論理的な対処に意味がなくなってしまう。相手が合理的に行動しているかどうかを考えるのは大きな意味があるだろう。推理小説には、完全犯罪を計画する頭のいい犯罪者が登場する。この犯罪者は、完全に合理的な思考の下に行動する。しかし彼は犯罪者であるから、倫理的には「悪い」ことは確かだ。むしろ、感情的に突発的な犯罪をする人間よりもずっと「悪い」だろう。だが、そのように合理的な行動をする人間は、同じくらい頭のいい名探偵には、その行動の合理性を見破られてしまう。「北朝鮮」が極めて合理的に頭の良さを発揮して行動しているなら、同じくらいの頭の良さを発揮して、その論理を受け止めていかなければ合理的行動を読みとることが出来なくなるだろう。現実的な問題として、「北朝鮮」の核兵器の是非を考えることは、その核兵器開発が合理的思考の下に正しいと考えられないかどうかを論理的に考察することが、有効な結果をもたらすのではないかと思う。「北朝鮮」にとってもっとも大事なことは、体制の維持であり、国家の崩壊を防ぐことだと言うことは合意してもらえることになるだろうか。緊急の危機としては、アメリカの軍事力によって国家崩壊の危機を招くことを避けることが,今の「北朝鮮」にとっての最大の課題と言うことになるのではないかと思う。この課題を解決するために、核兵器開発が役に立つと言うことが論理的に帰結出来るのであれば、今の「北朝鮮」の行動は合理的思考の下に選択されているのだと言えるだろう。イラクは、実際には大量破壊兵器を持っていなかったのに、それを持っているという理由で武力攻撃されて国家が崩壊した。「北朝鮮」が核兵器を持てば、これ以上の大量破壊兵器はないのだから、イラクと同じように武力攻撃されるという恐れはないのだろうか。合理的思考からすれば、核兵器開発をすることはむしろ国家の崩壊を招くことにならないのか。そのあたりのことを「北朝鮮」はどう考えているのだろうか。「北朝鮮」は、核兵器開発をしても武力攻撃を受けないという見通しの下に、今の核実験などの行動の選択があるのではないだろうか。実際に、アメリカが武力攻撃をしようとする気配は感じられない。この見通しはいったいどう言うところからもたらされるのだろうか。一つには、イラクが攻撃を受けたのは、決して大量破壊兵器を持っていると疑われたことが理由ではないのだと解釈したのではないかと言うことだ。それは表向きの大義であって、攻撃された本当の理由は別の所にあると考えたのではないかと思う。それは、これが真相だと明確に言うことは出来ないが、少なくとも大量破壊兵器が原因ではないということだけは言えるのではないかと思う。むしろ、実際には大量破壊兵器を持っていなかったことが、アメリカが安心してイラク攻撃が出来た理由だったのではないかと考えたのではないだろうか。大量破壊兵器を持たない国であれば、抵抗されたとしてもその被害は少ない。イラクの現実の姿を見ると、そのことがよく分かる。もしイラクが何らかの大量破壊兵器を持っていたら、アメリカ軍そのものの被害は防げたかも知れないが、イスラエルが狙われた場合の被害は甚大なものになっていただろうと思う。イラクの抵抗によってイスラエルが大きな被害を受けると予想されたら、アメリカはイラクへの攻撃に踏み切っただろうか。「北朝鮮」にとって、イラクのイスラエルに当たる存在は、隣国の韓国であり日本ではないかと感じる。韓国や日本に甚大な被害が出ると予想されるとき、アメリカは「北朝鮮」への武力攻撃に踏み切ることが出来るだろうか。イラクは全く武力的にアメリカの敵ではなかったが、「北朝鮮」が何らかの有効な武力を保有していることが分かれば、アメリカが安心して攻撃することが出来ないことは確かではないだろうか。イラク攻撃の本当の理由が大量破壊兵器の所有ではないということが分かれば、核兵器を持っただけで攻撃されるとは限らないと言うことが結論出来るだろう。むしろ、核兵器を持った方が攻撃される可能性が薄れるということさえあるかもしれない。しかし、核兵器がなくても、韓国や日本は近くにあるのだから通常兵器でも十分に対抗出来る可能性がある。それなのに、なぜ核兵器に手を出す必要があるのか。威嚇という意味はあるかも知れないが、そのコストを考えるとそれだけでは国益計算として見合うのかどうかは疑問に感じるところもある。核兵器開発をしても、この時点ではまだ武力攻撃は受けないだろうと言うことは予想出来る。しかし、それは核兵器開発を積極的に行うという選択肢を選ぶ理由としては弱い。なぜ今核開発なのかという、積極的な理由は見つけられるだろうか。消極的な理由は見つけることが出来る。「北朝鮮」が今の閉塞状況を打破する手が何もなく、とにかくアメリカに対して何らかのアクションが必要だと考えて、ある意味ではアメリカに追い込まれてここに至ってしまったというものだ。特に経済制裁の解除というものに何らかの反応を引き出したいということで行った行動と理解することも出来る。本当に追い込まれているのなら、体制崩壊が近いと言うことになるかも知れない。その際には、暴発的な行動に走らないかどうかに気をつけなければならないだろうと思う。しかし、体制崩壊が近いと言われながら、今現在も持ちこたえていると言うことは、このような追い込まれたことによる行動なのだという解釈に疑問を感じるところもある。むしろ、追い込まれているのだと言うことを見せかけたいという計算はないのだろうか。本当に追い込まれているのではなく、そう思い込ませておいた方が有利なので、そう見えるように行動していると言うことはないだろうか。韓国では世論調査によれば、「北朝鮮」が核実験をしたことの原因として、アメリカが悪いと答えた人が一番多かったそうだ。これは、「北朝鮮」がアメリカによって追い込まれて仕方なく核実験をしたと解釈している人が多かったと言うことを意味する。韓国の一般国民にそう思われているということは、「北朝鮮」にとっては有利なことではないだろうか。そのように思わせるという計算が働いているとしたら、これは合理的思考の下の行動であり、しかもこのことから核兵器開発の積極的な理由が生まれてくる。マル激の議論は2周続いて「北朝鮮」の核実験の問題を論じているが、今このタイミングで行ったことについては、アメリカの中間選挙をにらんでのことではないかという指摘があった。アメリカ国民の中にも、「北朝鮮」が核実験までいってしまったのは、ブッシュ政権が追い込んだからだという認識が広まっているそうだ。つまり、ブッシュ政権の「北朝鮮」対策は失敗だったという世論が多くなっているそうだ。そうなれば、イラク統治の失敗に続いて、この失政によってもブッシュ政権の支持率は下がり、中間選挙で民主党が勝利するという可能性が生まれてくる。これは、直接交渉の相手にしてくれないブッシュ政権に対する、何らかの政策変更を促す可能性も生み出す。この時期に核兵器実験をすることは、そのような追い込まれたというイメージを持たれることで、何をするか分からない国というイメージとともに、アメリカの政策にも影響を与えるという有効性を持つと考えたかも知れない。マル激ではこのほかにも、核兵器開発の有効性をいくつか指摘している。それが合理的思考の下に整合性を持つと考えられるのであれば、核兵器開発の積極的な理由になるだろう。それを一つずつ詳しく考えてみようかと思う。「北朝鮮」という国は、合理的思考の下に戦略的に行動を決定していると受け止めた方がいいのではないかと僕は感じている。「北朝鮮」にとっては、核兵器開発が国益になるのだと考えているから、その方向へ進んでいるのだと受け止めた方がいいのではないだろうか。そして、その考えには論理的な正しさがあるのではないかと僕は感じている。
2006.10.31
コメント(0)
msk222さんと一緒に、ワインオフ会の二日目を利用して脱ダムの現場を見てきた。ワインオフ会そのものの報告は、他の参加者がしてくれると思うので、それには触れずに、この脱ダムの現場について語ろうと思う。この現場を見たからと言って、素人が分かることは少ない。検証というような大げさなことは出来ない。しかし、現場を歩くことで感じることのいくつかが、今まで気づかなかったことに気づかせてくれることもある。だから、検証と言うほどのことは出来なかったが、そこを歩いたと言うことは意義深いものだったと思う。この現場で浮かんできた発想は、脱ダムの考えというのは、極めて論理的な問題で遠い未来を見るものだと言うことだった。直接自分たちにその選択の結果がはね返ってくるものではなく、後の世代の子どもたちにその選択の結果が影響となってかぶさってくると言うことだ。永井俊哉さんの「脱ダム宣言は間違いだったのか」という文章によれば、ダムは環境を守るという観点からはコストのかかるものであり、恩恵よりも負担の多いものになる。利益よりも不利益が大きいと言うことを論理的に判断出来る。msk222さんによれば長野の大多数の人も、そのような一般論はほとんどが理解しているという。しかし、この遠い未来の話と、近未来のダム工事が来ることによる経済効果を秤にかけて考えると、近未来の利益の大きさに選択の迷いが出てくるという。経済的な利益という判断は、確証が出来ない環境問題と一緒に判断の秤に載せるのは難しいと言うことをこの現場を歩いて感じたものだ。経済的利益には確信がある。ダム建設がスタートすれば、それによる利益の大きさは計り知れない。ダムが出来るだけではなく、その資材の調達や、建設に必要な道路の整備など、直接ダムに関わる工事だけでなく、その他の工事もたくさん発注されることだろう。さらに、補助金によって他の施設の建設も出来るようになるという。公的な温泉の施設や、老人医療のための施設などが補助金で作られたという。その隣を通過して脱ダムの現場に向かった。環境破壊の問題は、一般論としては理解出来るものの、具体的にどこがどう破壊されてどの程度の影響が出るかは、実際に未来になってみないと分からない点がたくさんある。そのことを切実に受け止めるにはやや弱いと言うことがある。脱ダムの方が抽象的には正しいと分かっていても、その抽象的真理だけでは人々は動かないと言う現実がここにはあるかも知れない。抽象的真理は外部にいる人間には分かりやすい。しかし当事者にとっては、抽象的真理よりも毎日の生活の方が大事だという感覚的・感情的な部分があるだろう。環境を守り、子どもたちの未来にツケを残さないという意識が、ダム建設が来ることによる利益を放棄してもなお大事だという意識を持つのはかなり大変だろうと思う。ダム建設を放棄する利益に対して、他の利益を代替するというものがなければ人々はその利益を放棄することに同意しないかも知れない。だがmsk222さんの話を聞くと、その代替案としての利益をもたらすだろうビジネス計画は、ことごとく議会の反対によって否決されてしまったという。代替案が一つもなければ、ダム建設による利益を選択せざるを得ない状況にもなる。脱ダムの方向を選択すると言うことは、そこに抽象的な利益があるというだけでは、現実の社会は動かない。現実の社会は、その内部の要素が複雑に絡み合っているシステムとなっている。そのシステムが、行為の選択肢としての「脱ダム」を選ぶというのは、システムの変更というものが必要になってくる。田中さんが知事選で敗れたというのは、ある意味ではシステムの変更と言うことが挫折したことでもあるのかと思った。あまりにも急激な変更を迫ったので、それについていけない人が拒否反応を起こしたのではないかという、現地の長野の人の見方もあるようだ。しかし、急激な変更という革命的な出来事がなければ、いつまでも脱ダムの方向への舵切りは出来なかったかも知れない。その評価も難しいものがあるだろう。田中さんは選挙に敗れたとはいえ、得票率ではほぼ二分された結果が現れたと言ってもいいのではないかと思う。その意味では、システムの変更に賛成した人が半分くらいはいたと言うことになるのだろう。代替案が軌道に乗っていたら、システムの変更に賛成した人ももっと多かったかも知れない。msk222さんから聞いた話で興味深かったのは、かつてゴルフ場建設でmsk222さんが反対運動をした人が、今ではmsk222さんたちの代替案が成功して経済的に成功していると言うことだった。かつてゴルフ場建設を計画していたときは、おそらく日本が景気がいい頃で、ゴルフ場の経営が経済的に見合うという計算があったのだろうと思う。しかし、今の状況を見ると、今ゴルフ場経営をしていたらかなり苦しい経営になっていたのではないかと思う。それがゴルフ場経営ではない環境を守る事業で、地元の人々にも良いイメージの会社になり、今の状況としてはむしろ経営が安定した優良企業になっているという。ゴルフ場経営をしていれば、その当時は利益を生み出しただろうが、長い目で見たら利益は少なかったかも知れない。このような事実は、脱ダムの方向を考える上で教訓的なものではないかと思った。脱ダムの方向を選択するというのは、難しい選択ではあるだろうけれど、その選択という「行為」に伴う「責任」を考えると、未来の子どもたちへの「責任」をもっと考えなければならないだろうと思った。この前の考察で、「責任」の主体は、「行為」の主体にある、つまり自由意志による選択行為をした主体こそが「責任」の主体だという考察をした。長野県の未来の子どもたちに、ダム建設による不利益がもたらされるようなら、それは今ダム建設を選択した大人たちが責任を感じなければならないだろう。大人たちはその時にはもう死んでいるかも知れない。そうであれば、今この時点でその責任を重く受け止めてもっとよく考えてみる必要があるだろう。利益享受の当事者が、この考察を客観的に行うのはとても難しいだろう。利益から全く関係のない第三者なら、この判断をするのは容易だが、当事者はどうしても感情的・主観的な見方が生まれてくる。これをどう振り払って客観的な判断をするかということを、我々は考えなければならないと思う。そうでなければ、人間が賢くなると言うことに期待を抱くことが出来なくなるだろう。当事者が客観的判断を持つと言うことの難しさは、ダムの論議とともに雑談で話が出てきた教育の問題について感じたことだった。教員という職業に就いていて、子を持つ親という当事者でもある立場である僕は、なかなか客観的な判断が難しいと思った。msk222さんと寄らせてもらった場所では、今の子どもたちがなかなか主体的に動くことが出来ないという話題が出た。これは、しつけの問題であり教育の問題だと言うことでは誰もが同意していたが、どこに原因があって、誰に責任があるかということではなかなか判断が難しかった。家庭や学校の問題だと言ってしまうには、どうも家庭や学校に重い責任をかぶせているように僕は感じてしまう。もちろん、他にも責任があるのであって、どこの責任が一番重いかという議論になったのだが、それを家庭や学校にするのは酷だというのが僕の感想だった。これは、当事者感覚から来る主観的な受け止め方であって、客観性が薄いかどうかということは考えなければならないことだろうと思う。僕の感覚としては、特にここが悪いと具体的に指摘出来るような家庭や学校があれば、しつけや教育が低下したのは家庭や学校に原因があるとしても納得出来る。しかし、一般的に子どもたちがどうもしつけや教育がされていないようだと言うことが社会に蔓延しているなら、それを個々の家庭や学校の責任とするのは、社会というものを軽く見すぎてはいないだろうかという疑問がわいてくる。個人の努力で解決することが出来なくなった問題が発生したなら、それは社会がもっとも重い責任を負うべきなのではないかと僕は感じる。社会が責任を負うというのは、社会のシステムが何らかの選択を迫るようなものとして機能している部分を、変更していくことによって社会の変革をさせると言うことではないかと思う。全ての子どもたちがどうもおかしくなっているのなら、それは個人の意志を越えた社会の選択肢がどこか間違っているに違いない。それを変更しない限り、個人の努力は、部分的には成果を上げるかも知れないが、根本的な解決はもたらしてくれないだろう。社会の選択肢は、大多数の大人の選択肢でもある。これを変更するためにどのような努力が出来るか。それは、大多数の大人たちが、今のままではどうも駄目らしい、何とか他の可能性を考えなければならないと気づくことが必要ではないだろうか。それは、早急には同意が得られないだろう。システムの変更をもたらすような革命的な考えがすぐに賛同を得られるはずはないと思うからだ。だが、国民的な議論が巻き起こることが、その変更の方向へ向かう一つのきっかけにはなるだろう。家庭や学校の責任が重すぎるのではないかと考えるのは、当事者としての主観的な見方なのか、それとも客観的に見て本当に、家庭や学校の責任は今の時代ではそれほど大きくはないと言えるものなのか。立場を離れた第三者で、当事者にとっても納得がいくような論理を展開してくれる人がいれば、それは客観性のある論理展開だと言えるだろう。優れた学者は、そのような立場にいる人間だと思う。学者は、問題の考察においては当事者であってはならないのではないかと僕は感じる。永井さんが語る脱ダムの論理は、客観的な真理として非常に説得力があるものだと思う。おそらくその範囲では、長野で当事者として存在している人も、その客観性を理解してくれるのではないかと思う。問題は、主観的な問題に関する感情の問題だ。それを解決するのが政治なのかも知れない。優れた政治家は、学問的に正しい抽象論を、多くの人々が心から納得出来るように、感情面の配慮をすることが出来る人間ではないかと思う。そういう意味では、田中さんはその感情面の解決に失敗したと指摘されるかも知れない。だがこれは評価が難しいだろう。放っておけば大部分の人が感情に流されたかも知れない当事者たちに対して、少なくとも半分近くの人は客観的な判断の方向を選んだとも言えるからだ。これは政治家としてとてもすごいことだと評価出来るかも知れない。ここで、だがしかしともう一度考えてみると、ダムによって利益を享受する当事者というのは、長野県民の全てだとは言えないかも知れないと言うことがある。つまり、脱ダムの方向を選んだ人々は、ダム建設に関しては当事者ではなく第三者だということが言えるかも知れない。そうであれば、当事者でない人が客観的な判断をすることはある意味では当然と言えることになってしまうかも知れない。当事者でない第三者の客観的判断というのは、判断によって不利益を被ることのない富裕層だという考えもあるから、強者の論理だという指摘も出来るかも知れない。斯様に、当事者であると言うことには難しい問題が伴う。脱ダムの一番の解決は、今当事者である人たちを、当事者でなくしてしまうことなのかも知れない。この問題の困難さを再確認したのが、現場で感じたことだった。
2006.10.30
コメント(4)
宮台真司氏が「連載第一三回:「行為」とは何か?」(社会学入門講座)で説明している「行為」と「体験」という言葉は、「責任」というものを考える上で役に立つ抽象概念になっている。「責任」という概念は、自然科学的に、対象に存在すると言うことを証明することが難しいものだと思われる。昭和天皇の戦争責任に対しては、多くの異論があり、誰をも納得させるような客観的な判断が提出されていない。それは、感情的なバイアスが客観的な判断を邪魔しているのか、そもそも原理的な問題として、「責任」は客観的な判断が出来ないものなのかということが確定していないのではないかとも思ったりする。このような概念的な難しさを持っている「責任」という言葉を、少なくともこの範囲までなら多くの人の合意が得られるだろうと思われるものとして提出するのが、その概念を抽象化して論理的整合性を持った範囲での概念を確立することではないかと思う。抽象的な言葉として「行為」「体験」というものを定義し、その範囲内で「責任」を、論理的整合性を持ったものとして抽象的に定義する。その論理的な関係が納得いくものであり、理解を得たなら、「責任」の所在は抽象的に確認出来る。そして、その抽象論を現実に応用するときは、現実の中の様々な個性という差異を捨象出来るかという判断で、この抽象論の妥当性を考えることが出来るだろう。抽象的な命題として提出すれば、宮台氏の主張は、<「行為」の主体(帰属処理される主体)に「責任」が帰属される>ということになるだろうか。「責任」を問われるものは、「行為」という判断をされた現象が帰属する主体と言うことになる。「責任」と言うことを客観的に判断するためには、「行為」というものが客観的に判断出来るかということにかかっている。「行為」というものは抽象的にはどう捉えられているのだろうか。宮台氏によれば、「行為」は意味的なものとして定義されている。そして、「行為」の意味とは次のように説明されている。「意味とは、刺激を反応に短絡せずに、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールし、選び直しを可能にする機能でした。これを踏まえると、行為の意味とは、行為の潜在的な選択接続の可能性の束によって与えられます。選択接続をコミュニケーションと呼びます。」意味の本質は、「選び直しを可能にする機能」として語られている。これは、自然科学的な法則とは違って、選択の余地のある、選択可能性が複数存在すると言うこととして理解出来る。選択の余地のないものは、上の定義に照らして考えれば、「行為」としての意味を持っていないと考えなければならない。「行為」というものは、人間が意志の自由によって選択すると言うことを前提として、それが「行為」であるかないかを判断すると言うことが抽象的な定義ではないかと思われる。意志の自由によっていくつかの選択肢を持っていれば、実際に選ばれなかった選択肢をプールして選び直す可能性を保ったまま選択していると考えることが出来る。それこそが「行為」という対象なのだと言うことだ。刺激に対する反応として決まり切ったものだけしかないときは、そこには選択肢がないということから、「行為」としての意味がないと判断され、そのような現象は、人間が行うことであっても「行為」とは判断されないと言うのが論理的な帰結になる。そのような現象は、個人の「行為」ではないということになり、個人の外に選択肢があると考えられる。だから、それは個人を越えたシステムの「行為」と言うことになり、「責任」はそのシステムに帰属されることになる。個人の外のシステムというのを、より一般的には、外部のシステムという意味で環境というふうに宮台氏は呼んでいる。そして、環境の行為として判断される現象を「体験」という言葉で呼んでいる。これをまとめると、<「行為」が個人の「行為」であれば(個人に選択肢が帰属する場合)、「責任」も個人に帰する><「行為」が環境(個人を越えたシステム、組織など)のものとして帰属するなら、「責任」も環境のものとして帰属する>その選択肢を自らの意志で選んだ「行為」であるなら、その「行為」に対して「責任」が帰するというのは、論理的には納得出来る判断である。そして、それが自らが選んだものではなく、ある意味では仕方なくやらされたという面があるなら、それは「行為」ではなく「体験」というものになり、責任は、それをやらせた環境(これが「行為」の主体になるから)に帰するというのも納得出来るものだ。「行為」「体験」「責任」の抽象的な関係は、論理的にすっきりしているように感じる。これを現実に適用出来れば、それは客観性を持ったものとして受け取ることが出来るだろう。宮台氏は次のような例を挙げている。「法実務の場面を考えれば分かります。男Aの強盗行為と見えたものが、裁判過程を通じて、ボスBの脅迫行為によって「強盗させられる」という男Aの体験だったと分かり、罪を免じられることはよくある話。そこにあるのは、判事Cによる認定(帰属)行為です。 さらに判事Cの認定行為に見えたものが、後になって別の男Dの脅迫行為によって「認定させられる」という体験だったと分かることもあり得ます。「分かる」と言いましたが、分かるという私の体験が、観察者の観点から行為として帰属処理されることもあり得ます。」「強盗行為」であれば、それは個人に「責任」が帰属されるが、それが選択肢のない「体験」であれば、「体験」させたボスBの「行為」としてボスBに「責任」が帰属して、男Aの「責任」が軽減されることになる。この現実への適用は納得出来るものだ。難しいのは、「行為」と「体験」を判別する根拠を確立することになるだろう。宮台氏も「つまり何かが行為であるか否かはいつも議論の余地があると同時に、何かが行為であると言うときには必然的に「帰属処理されるシステム/帰属処理するシステム」のペアが前提とされています。その際、帰属処理されることは体験で、帰属処理することは行為です。」と、この難しさを語っている。この判断は、「いつも議論の余地がある」のである。自然科学的に、ほぼ100%誰もが同じ判断をすると言うことが、原理的にあり得ないのではないかと思う。最近のニュースで「責任」というものを考える対象になるものに、公立高校での世界史の履修の問題がある。必修科目である世界史を履修していない高校生がいるため、場合によっては卒業を認められない恐れが出てきた。この「責任」はどこに帰すると判断することが妥当なのだろうか。まずどこからも異論が出ない判断は、高校生自身には「責任」はないということだろう。それは、履修するという選択肢が存在していなかったのだから、選択肢のないものに対しては「行為」という判断が出来ない。それは純粋な「体験」であって、全く責任がないという判断は、上の抽象論の現実への適用としては妥当だろう。問題は、履修科目を設定しなかったという「行為」がどこに帰属するかと言うことだ。これは今のところ各高校にその「責任」が帰属しているように見える。各高校組織が、このことに関して、「体験」的な面が全くなく自由な選択の下に「行為」をしていたのなら全面的に「責任」を負わなければならないだろう。果たしてそのあたりの事実はどうなのだろうか。ここが「議論の余地のある」部分かも知れない。イーホームズの藤田東吾氏が耐震偽装事件について語る映像や記事がインターネットでは話題になっている。この問題に関しても、「行為」の主体として「責任」が帰属するのは、果たしてどこなのかという問題が提起されているように感じる。「行為」という現象の物理的側面を宮台氏は「行動」と呼んでいたが、「行為」の判断の難しさは、「行動」を現実に行っている主体が「行為」の主体と同じでない場合があると言うことだ。「行動」の主体に選択肢があるかどうかが、その主体がそのまま「行為」の主体になるかどうかを決める。耐震偽装事件に関しては、それを実行した「行動」の主体である建築士や建築会社社長に「責任」が帰するように一般には思われている。しかしこれもやはり「議論の余地がある」ことなのだろうと思う。彼らの選択には、「体験」的な、選択させられていたという面は全くなかったのだろうか。それが「責任」の所在を決める本質的なことになるだけに、慎重な議論が必要だろうと思う。開戦の責任という戦争責任の問題も、日本にはああする以外に選択肢がなかったのだという判断があれば、それは「行為」という面よりも「体験」としての面が強いことになる。つまりそれだけ「責任」は軽くなると言うことになるだろう。これは問題があまりにも大きいものなので、大いに「議論の余地がある」ものになるだろう。「北朝鮮」の核実験に関しては、マル激の情報によれば、韓国での世論調査では「アメリカが悪い」すなわち「アメリカに責任がある」と答えた人が一番多かったそうだ。ということは、あの核実験は、「北朝鮮」にとってはそうせざるを得ないものとして選択させられた「体験」的なものだと受け止めている韓国人が多いと言うことではないかと思う。この世論の判断が正しいかどうかも「議論の余地がある」ものだろう。「行為」と「体験」という抽象概念は、現実への適用として役立つものではないかと思う。現実的な判断としては難しさがあるが、現実のどこを見ることによって判断が正しくなるかという示唆を与えるという面で、大いに役立つものではないかと思う。
2006.10.27
コメント(0)
ひよこさんから「「妨害」という判断は正しいか?」のコメント欄で核兵器の是非の議論について呼びかけられた。これは、極めて論理的な対象ではないかということで呼びかけたようだ。確かに、これが議論の形をなすなら、それは論理的なものになるだろう。核兵器の存在というのは、すでにそれを持っている国がいくつかあると言うことから確認出来るが、その使用はもしかしたら未来永劫に渡ってないかも知れない。核兵器というのは、持っていることにのみ意味があるので、決して使用しない最終兵器というものかも知れない。核兵器の使用はいつでも可能性の問題であり、現実になっていない未来の想像というものになるので、これは論理を駆使して予想するしかない問題になるだろう。だがこの議論は非常に難しい。「是非」というものが、道徳的な「善悪」と結びついた「良いか悪いか」という判断になってしまえば、その結論は信念を語るだけのものになってしまう。どのような信念を持とうと、実際の行動に結びつかなければそれは自由なのであるから、信念の問題になれば議論の余地はなくなる。信念の表明をして終わりということだ。それに賛成出来ないときは、見解の相違と言うことで受け止めなければならない。論理の問題というのは、真偽という問題で最終的な結論が出せなければならない。「善悪」ではなく「真偽」であるということは、「良いか悪いか」ではなく「正しいか正しくないか」と言うことで議論しなければならない。「善悪」の議論は信条の表明になり、どんな結論が出ようとも、それは尊重されなければならない。しかし、「真偽」の議論は、どちらか一方は「真」であり他方は「偽」であると判断されたり、視点が違えばどちらも「真」であると判断されたりする。あるいは、「真偽」の判定は出来ないという結論もあり得る。原理的に出来なかったり、現在の情報だけでは判断出来ないと結論されたりする。論理的な意味での議論をするには、その準備をいくつかしなければならないと思う。核兵器の是非について論理的に考えるなら、その前提(真理というのは、常にある条件の下での真理であって、条件が違えば真理は誤謬に転化するというのは、三浦つとむさんの貴重な教えだ)がどんなものであるかを確定しなければならない。個人的な信条や感情を越えた結論を導くためにはどのような前提がふさわしいだろうか。平和の選択というものを、他の選択肢を持たない自明の前提のように考えると、核兵器を持つ「べきではない」というような倫理的な結論が導かれる。しかし、これは現実にはほとんど何の有効性も持たない信条(心情?)の表明なる。もちろん、これに賛成する人が圧倒的多数であれば民主主義の下では有効な力となりうる。だがそういうことはないだろうと予想されるので、現実の有効性は薄いと考えられる。信条だけでは人々は圧倒的多数が賛成すると言うことはないし、そうであればその信条を現実行動に移す人も少なくなる。この議論には、自明な前提というものは無い。その前提でさえもが選択肢として議論されなければならない問題になる。これは議論の際にかなり難しい問題となるだろう。ある前提の下での「真偽」を考えているときに、いや実は、前提そのものが正しいのかどうかも考えなければならない、というようなことを議論しなければならないから混乱するだろうと思う。「北朝鮮」の核実験に対して、それがケシカラン行為だという前提で議論をスタートさせれば、その出発点にすでに結論が含まれているような議論になる。また、この核実験をきっかけに、日本が核武装するかという議論が始まろうとしているが、議論をすることがそもそも核武装をするという前提をしていることになるから、議論そのものが駄目だというような考え方もある。これらは、論理的と言うよりもやはり倫理的な方向での考察になっているのではないかと思う。核兵器の議論は、これを論理的な考察の対象にすることがまず難しい。どのようにすれば、感情や倫理を抜いて、純粋に論理の問題として設定し直すことが出来るだろうか。それは仮言命題としてのとらえ方を常に忘れないようにすることが肝心ではないかと思う。仮言命題は、ある条件の下で、その条件から導かれる結論を問題にする。その導き方の論理性というものを評価の対象にする。倫理面・信条面での評価は、どうしても結論に対する受け取り方で違ってくるが、結論よりも、そこに至る論理の流れの方にこそ注目するという態度が大事だろう。そういう意味で、論理の流れを考える材料としては、「核兵器の保有」という判断が正しいかどうかに絞って考えることが、何とか論理的な考察の対象になりうるのではないかとも考えられる。そして、その際に判断の材料になるのは、自国の国益のプラス・マイナスの判断の考察から、「核兵器の所有」がプラスになると判断されたとき、保有することが正しいと論理的には考えられると結論しなければならないのではないかと思う。「北朝鮮」は保有しつつあるのか、すでに保有しているのかは分からないが、核を持つと言うことが、「北朝鮮」自身の国益にとって、「北朝鮮」の立場から考えたときにプラスだと判断されれば、核を持つことは論理的には正しいと判断する。それは、日本の立場から見て、どんなにケシカラン行為だと見えても、論理的にはそれが正しいと判断することにする。あくまでも「北朝鮮」にとって、自国の立場から見た国益の計算から結論を出すと言うことが論理的な議論の方向になるだろうと思う。同じように考えれば、日本が核武装すると言うことの「是非」も、日本の国益の立場から見て、それがプラスの結果として計算出来るなら、論理的には核武装することが「正しい」と判断する。マイナスの計算になれば、核武装することは「正しくない」と言うことが論理的な結論になる。これは、議論の前提としては、どんな場合に核兵器を持つことが正しくなるかという観点で議論を進めるということになるだろう。核兵器を持つことは、どんな場合であっても正しくないという前提があれば、この議論は全く無駄なものになる。だから、可能性としては、核兵器を持つことが正しい場合もあるという前提の下での考察だと言うことになる。その正しい場合は、国益という観点から見てプラスになると計算出来ると言うことだ。だから、判断としては、プラスだという計算が正しいかどうかと言う判断を考察すると言うことにもなる。これは、はっきり言って素人には難しい。論理的な流れはこのようなものになるだろうが、現実にいろいろな情報を集めて、現実の条件の下での国益計算をするのは、専門家でなければ出来ないだろう。素人では知り得ない情報があって、国益計算の際にそれが抜け落ちる可能性がある。だから素人に残された道は、実際の具体的な考察ではなく、想像出来る限りでのあらゆる可能性を考えると言うことになるだろう。その想像からもれる出来事が現実に存在すれば、その考察は失敗と言うことになるだろうが、素人が現実を考えるには、論理的にはそのような道しかないだろう。神保哲生・宮台真司両氏のマル激トークオンデマンドでは、武貞秀士氏(防衛研究所主任研究官)をゲストに招いて、「金正日は核で何をしようとしているのか」という議論をしている。これは、専門家の立場からの論理的な考察になっている。素人がこの問題を考える際に参考になるだろうと思う。ここでは、金正日の戦略というものをかなり高く評価している。「北朝鮮」が核を持つという選択は、ケシカラン行為をしているのではなく、かなりの細かい国益計算から、それがプラスになるという判断がもたらされることから導かれていると評価しているようだ。これは、論理的に正しいと感じられるような判断になっている。また日本の核武装に関しては、「日本が通常戦力で攻撃をすれば、北朝鮮は無事ではないと言える能力をつけることは可能だし、その議論の方が合理的」と武貞氏は語っているようだ。つまり、日本の国益計算では、核を持たない方がプラスだという判断をしている。これも論理的に正当な判断だと感じる。核兵器の是非については、このマル激での討論をヒントに、自国の利益にとってプラスかどうかという観点で評価すると言うことを、論理的な正しさの評価にして考えるという前提を立てたいと思う。この前提の下で、論理的な結論を提出し、その論理の流れが正しいかどうかを考えたいと思う。マル激の討論をもう何回か聞いて、その論理の流れを読みとってみようと思う。
2006.10.26
コメント(0)
ヤフーのニュース「<君が代>卒業式で斉唱妨害 教諭の処分取り消し 道人事委」というのは、具体的な現実の出来事に対する判断、つまり命題の真偽に関する判断についてなかなか面白い考察を与えてくれる。この見出しを見る限りでは、卒業式で君が代の斉唱を妨害した教員の処分について、それを北海道の人事委が取り消したという報道のように聞こえる。先日都教委の君が代強制の通達については憲法違反であるという判断が出たが、これは、式の妨害をするというような行為に及ばないにもかかわらず、「思想・良心の自由」の表明である「歌わないという行為」ですら処分されることに対して、それは行き過ぎであると判断されたと僕は理解していた。しかし、上の記事によれば、「式の妨害」という行為があったように報道されている。これは、単に君が代を歌わなかったために処分されたのではなく、式を妨害するという行為に対して処分されたのではないかと思わせる報道だ。そうすると、この処分の正当性は、「思想・良心の自由」を侵害したかというよりも、式の妨害があったかどうかということにかかっているのではないだろうか。式の妨害があれば、それは服務違反で処分されても仕方がないと思う。本来の教員の職務は式を妨害することではないからだ。それが処分の理由であるなら、「思想・良心の自由」を侵していないと思う。都教委の通達における裁判で違憲判断が出たために、批判を恐れた道人事委が、君が代で処分したと見られることを恐れて勇み足をしたのだろうかと想像させるような見出しになっている。この見出しからだけ想像してしまうと、処分は正しかったけれど、世間の非難を恐れてそれを取り消した道教委の行為はいかがなものか、というようなニュアンスを感じてしまう。しかし、本文の内容を見ると、このようなニュアンスが違うものであることを感じる。まずは <卒業式の「妨害」があったかなかったか>という判断において、これが「妨害」という言葉の定義の問題や、「行為」というものをどう捉えるかという意味の問題が複雑に絡んでいるのを感じる。ニュースによれば、肝心のこの部分は次のように報道されている。「同中では、卒業式の式次第には国歌斉唱がなく、卒業式の事前練習でも君が代の斉唱を行わなかった。しかし、当日になって、校長が一方的に君が代のカセットテープをレコーダーから流した。このため、教諭はテープを抜き取って斉唱を妨害した。その後、校歌斉唱に移ったが、大きな混乱もなく式は終了した。」果たして、この教員の行為は「妨害」と呼べるものなのだろうか。「妨害」という言葉を、何かの事実の流れを意図的に遮断したという、物理的な現象に関わる面だけで判断すれば、「テープを抜き取った」という行為は、「君が代斉唱を遮断した」と言うことにつながって、「妨害」という判断になるかも知れない。しかし、この判断は、「妨害」という現象を、人間の意図という心の動きを無視した判断になっている。このように、人間の意志を無視した判断をすれば、行為における過失ということの判断が出来なくなる。うっかり間違えて何かの流れを遮断してしまったときでも、それは全て「妨害」という判断をされてしまう。故意であるか、過失であるかは、判断の難しいところではあるが、その区別をつけなければ行為の責任ということも正しい判断が出来なくなるだろう。また、妨害という行為がいつでも悪いと判断されるとは限らない。「北朝鮮」が日本を狙ってミサイルを発射するという想像は余りしたくない想像だが、もしそのようなことが起きたとき、ミサイル発射を「妨害」することは日本の国益にこそなれ、何ら非難されることにはならないだろう。相手が不当なことをしているのだから、その不当なことを防ぐための妨害は「正当防衛」とも言えるものになる。報道からうかがえる教員の行動は、二重の意味で「妨害」になっていないように僕には感じられる。まずは、この教員には「卒業式の妨害」という意図はなかったと考えられるからだ。もし、卒業式への「妨害」の意図があるのなら、「その後、校歌斉唱に移ったが、大きな混乱もなく式は終了した。」という記述とつじつまが合わなくなる。式を「妨害」したなら、その後は混乱するのが流れとしては当然なのではないか。この教員の行為は「卒業式の妨害」ではなく、「卒業式の式次第には国歌斉唱がなく、卒業式の事前練習でも君が代の斉唱を行わなかった」にもかかわらず、校長が恣意的に「一方的に君が代のカセットテープをレコーダーから流した」ことを「妨害」したのである。校長の行為が正当なものであるなら、この「妨害」は非難される「妨害」になる。しかし、校長の行為に正当性がない場合は、不当な行為を押しとどめたものとして、「妨害」の方に正当性があると判断されなければならないのではないか。式次第にもない、練習もしない君が代斉唱を、いきなり当日持ち出すのはどう見ても不当な行為だ。それを卒業式の中に盛り込みたいのなら、職員会議で正当に議論して通すべきだし、場合によっては職務命令という手段だってあっただろう。歌うことを強制することは「思想・良心の自由」を侵害するが、式次第に盛り込むことは指導要領を根拠にすれば主張出来るだろう。いずれにしても式次第にも入れられなかったというのは、校長の側の失敗なのだから、それを合意なしにいきなり持ち出すのはどう見ても不当なことになると思う。だから、この教員に対する処分の取り消しというのは、元々が処分をするだけの行為をしたという「卒業式の妨害」という判断が間違えていたから処分を取り消すのだと理解するのが正しいと思う。処分の根拠となった判断が間違えていたのだと僕は思う。しかし道人事委の見解はちょっと違うようだ。報道によれば次のように書かれている。「(道人事委の)裁決では、日の丸の掲揚・君が代の斉唱の趣旨や目的は憲法や教育基本法に反するものではないとしながらも、「強制することは教職員の思想、良心への不当な侵害として許されない」として、憲法に違反すると指摘。さらに、校長が君が代斉唱の根拠とする、学習指導要領については、「大綱的な基準とはいい難く、法的拘束力は否定せざるを得ない」としている。」この文章を読むと、採決の間違いは、君が代の強制をしたことが間違いであって、それに対して抵抗の意志を見せたことを処分することは出来ないと判断しているように見える。強制が間違いであり、指導要領についても「法的拘束力」を否定したと言うことは、画期的な判断であり歓迎すべきものだとは思うが、どうも釈然としないものが残る。問題は、校長が君が代を強制したというものではなく、式次第にもない君が代斉唱を勝手に持ち込もうとした、いわば校長による式の妨害を防いだという行為をどう判断するかと言うことなのではないか。式の妨害行為で裁かれるべきは、この校長なのではないかと僕は感じる。校長を告発したり裁くような立場にいる人間はいないのだろうか。この問題の解釈は、言葉の定義が狂っていると今後の判断に影響を与えるのではないだろうか。この教員の行為を「式の妨害」だと受け止めるような「妨害」という言葉の定義を持っていると、たとえ「式の妨害」をしても、それが「思想・良心の自由」の侵害に対する抵抗であれば許されるというような解釈になりかねない。しかし、「思想・良心の自由」を表現する行為において、君が代を歌わないという行為は穏健なものであり式を妨害するわけではないから、表現としては許されるのだと考えるのが正当なのではないだろうか。それを、「式を妨害」するという行為に及ぶならば、それは逆の意味での行き過ぎではないだろうか。「思想・良心の自由」としての内面の自由は保障されなければならないが、その表現は何をしても自由だと言うことにはならないだろうと思う。表現することによって他者に不利益を与える場合は、その表現は制限されるべきだと思う。人間は滅びるべきだと心の中で思うだけなら、それは裁かれるようなものにはならない。しかし、その思想を実現するべく、多くの人が犠牲になるような事件を起こせば、その行為に対して責任をとらせるという裁きを受けるだろう。それは「思想・良心の自由」に対する裁きではなく、実際の行為に対する、それが他者の権利を侵害するという面での裁きになる。「式を妨害」しても、それが「思想・良心の自由」の侵害に対する抵抗であれば許されるという論理は、どこかおかしいのではないかと思う。「思想・良心の自由」の侵害は許されないが、「式の妨害」も許されないと言うのが原則ではないだろうか。もし、教員の行為が本当に「式の妨害」に値するなら、その面では責任をとるべきなのだと思う。そして、「式の妨害」をする以外に、「思想・良心の自由」の表現が出来ない状況にあるのなら、その責任をその身に引き受けてでもあえて「妨害」をするという覚悟をして表現をするというのが誠実な人間のあり方だろう。このニュースの見出しは、おかしなことが行われていると語り、「思想・良心の自由」というものに対する疑問を人々の間に生じさせるようなニュアンスを持っている。しかし、本当の内容は、間違った判断を訂正させたと言うだけのことではないかと思う。原則として「思想・良心の自由」を確認し、指導要領には法的拘束力がないことを確認するのは正しいと思う。しかし、それが何か変な事実から、仕方なく導かれているというようなニュアンスを持たれるのは、多くの人々が正しい判断をするということに依拠する民主主義社会にとっては、ちょっと心配な傾向ではないかと、僕はこのニュースを読んでそう思った。
2006.10.24
コメント(0)
三浦つとむさんがマルクスについて語った部分だっただろうか、抽象的思考の上り下りというようなことを言っていた。上りというのは、具体的な対象からある属性を抽き出し他の属性を捨てる(捨象)ことを意味する。抽象とは同時に捨象であるということを新たな発見として感じたものだった。本質を抽象し、抹消を捨象することで対象を深く捉えるということが出来ると思ったものだ。下りというのは、一度抽象した概念を、今度は具体的対象に適用してみることを意味する。ソシュール的な発想で言うと、現実を言語によって切り取るという理解になるだろうか。このような上り下りを繰り返すことによって、我々は世界の理解を深めていくのだというのが思考というものの本質ではないかと思われる。三浦さんの言語学では、言語というのは対象の概念を表現するもので、語彙としてはその内容は概念という抽象的なものを指す。しかし、現実の言語の利用においては、目の前の具体的対象が、その概念の範囲に入っていると言うことから、それを呼ぶのにある言語を適用するという、抽象からの下りの現象が見られる。言語を実際に使用することが出来るというのは、それが抽象の上り下りの能力を持っていると言うことを示しているだろう。仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、科学を理解する前提条件として言語の理解が出来るということをあげていた。それは、三浦さんと同様に、言語を使うと言うことの中に抽象の上り下りを見ていたのだろうと思う。抽象過程の上り下りを経て理解すると言うことが、科学の理解の本質になるのだろうと思う。通常の言語を理解するという段階が、抽象の上り下りのもっとも初歩的な段階だとするなら、ある理論体系の全体像を把握して、それを現実に応用出来るという段階は、最も高いレベルの抽象の上り下りになるだろう。初歩の段階から、高いレベルへと発展していく学習の過程というものを解明したいと思うものだ。三浦つとむさんの言語学における抽象の上り下りは、言語とは何かという言語本質論において見られるのではないかと思う。現実には「言語現象」と呼ばれるものがたくさん見られると思う。これは、具体的なある言語、日本語なら日本語を使っている場面というのが現実にはたくさん見つかって、抽象として抽き出す対象になるものはたくさんある。この現実の言語現象から、何を捨てて何を抽き出すかが抽象の上り下りの過程になる。三浦さんが抽き出したものは「表現」と呼ばれる属性を持っているものだった。つまり、心の状態を表に現すものとして言語を捉えた。それは表に現れるという属性を持たなければ言語ではないという抽象だった。これはほとんど大部分の言語現象に当てはまるので、抽象としては妥当なものだっただろう。言語=表現としてしまうと、言語でない表現との区別がつかなくなるので、言語として抽出するもう一つの属性を、三浦さんは、表に現れる何かを「概念」として抽出した。言語表現は、概念と対応してそれを表現しているときに、他の表現と区別されて言語だと判断される。また、社会的な存在である言語規範との対応も、言語であるかないかを決定する大事な抽象になった。この言語本質論から考えると、音声や文字という属性は、言語本質論においては捨象されている。それが音声で表現されていても、文字で表現されていても言語としては変わらないと言う判断をするからだ。それはどちらも概念を表現しているという点では同じものだと判断をする。それらの違いは、言語の中の違いとして考察される。一度このように抽象への上りが行われると、今度はこの抽象概念を使って、現実の現象を「言語であるかないか」という判断に適用するという下りの段階がやってくる。言語現象として見られる現実の対象の中の、どの部分が言語なのかという判断を、抽象の適用として考える段階だ。オウムや九官鳥が人間の言葉を真似る現象は、オウムや九官鳥に概念としての認識があり、それを表現していると判断されれば言語だと認められる。これは、100%断定するのは難しいかも知れないが、多分三浦さんが定義する意味での言語ではない。言語という言葉を抽象によって定義することで、この現象が言語であるかないかという判断が行われる。そこまで深く考えなければ、日常用語的にはこの現象を、「オウムや九官鳥が言葉をしゃべっている」と捉えるだろう。人間が言葉を使うときに、社会的な規範である言語規範を使って表現するという言語現象も平凡に見られるものだ。言語規範の存在は、それがなければ、個人が使っている言語の意味が確定せず、社会的なコミュニケーションが行えないと言うことから、その存在が前提されなければならないと言うことが導かれる。これは頭の中にある実体のない存在なので、それを直接取り出して観察することは出来ない。ある言葉の意味を説明出来るという、語彙を知っていると言うことからその存在が類推されるものだ。これは、三浦さんの抽象からすると、頭の中に存在はするが、表には出てきていない存在だから、言語ではないということになる。しかしソシュール的な発想では、これこそが言語と呼ばれる対象であると語られているようだ。三浦さんの抽象過程から作られる理論においては、このソシュール的な判断は間違いだ。しかし、抽象過程が違っていれば、言語が持つ条件にも違いが生まれ、ソシュール的なとらえ方が妥当だという理論体系が生まれる可能性もあるのではないだろうか。ソシュールは、言語という対象を捉えるに際して、何を抽き出し何を捨象したのだろうか。その抽象の上りの過程は、論理的な妥当性を持っている過程なのだろうか。三浦さんが、言語を表現だとした抽象は、コミュニケーションの実際の場面で使われている言語という面を抽象していくと、そのような結論が得られる可能性が理解出来る。言語はコミュニケーションの道具だという点を抽象していけばいいのだと思われる。逆に言うと、言語がコミュニケーションの場面で使われているという実際の言語現象を捨象しなければ、言語の表現の面を捨てることが出来ないのではないかと思う。ソシュールは、実際の言語が使われる場面を考察の対象から切り捨てたというように僕は理解しているのだが、この捨象によって、表現ではない何かが言語として捉えられるという抽象がもたらされるのではないだろうか。ソシュールが、コミュニケーションにおける言語活動を切り捨てたのは、そこにはランダムな要素が含まれすぎており、理論的な対象にするための抽象がしにくいと判断したのではないかと思われる。例外だらけの現象は、法則性を考察することが出来なくなるからだ。確固とした抽象が出来る対象として言語規範の方を選び、それが言語学の対象であると考えたので、それを自らの言語理論においては「言語」だと規定したというのが、ソシュール的な発想での抽象の上りではないだろうか。三浦さんの言語理論の前提を正しいものと認めれば、ソシュールが言語規範を言語と呼んだのは間違いだと言えるだろう。しかし、三浦さんの前提がない状態でソシュールの抽象を考えた場合、それを間違いだと言えるだろうか。これは定義の違いであり、本を正せば抽象の過程の違いであり、両立しうるものではないだろうか。宮台真司氏は「連載第四回:秩序とは何か?」の中で「複雑性」という言葉の定義について語っている。それは「与えられたマクロ状態に含まれる、ミクロ状態によって区別さた場合の数を、「複雑性」と呼びます」と語られている。たいへん抽象的な言い方なのでこの理解はなかなか難しい。感覚的には、ありふれた現象の場合には「複雑性が高い」と判断される。それに対して場合の数が少なく、確率的に低いと判断される、あまり起こらないと言う現象は「複雑性が低い」と判断される。秩序というのは、「複雑性が低い」状態を指すのだが、これは、普通放っておいたらなかなか起こらないような状態が実現しているので、「秩序がある」と感覚される現実と良く一致する。この「複雑性」については、宮台氏は「お分かりのように、複雑性概念は日常的語感とは正反対です」と語っている。我々は、日常的な語感としては、ありふれたものは単純で複雑ではないという感覚を持っている。しかし、場合の数が「多い少ない」に対応して、複雑性が「高い低い」を考えた方が、抽象理論の展開においては論理的な整合性を取りやすいと思われる。それで、あえて日常的感覚とは反対の定義をするということになる。この定義に対して、日常的感覚に反しているからこれは間違いだと言うことは主張出来ない。もしそのような主張をするなら、それは抽象理論というものへの無理解を表明しているようなものになるだろう。言葉の定義というのは、ある範囲内ではかなり恣意的に行うことが出来る。だが、それは無条件に恣意的ではない。その定義をすることで何らかの全体像把握に役立つと言うことがなければ、やがてそのような恣意性を持った定義は捨てられてしまうだろう。隠語のようなものでさえ、ある狭い世界の中で長く生き残るのは、その言葉が普通の言葉の使い方と違っていても、その狭い世界を理解するのにはふさわしいと思われるから生き残るのだろうと思う。ソシュール的な言語の定義は、多くの優れた学者によって引き継がれ発展してきている。この定義は、どのような面でもっとも役立っているのかというのが今の僕の関心だ。抽象の過程を上っていくとき、ソシュールは何をもっとも解明したいと思ってその抽象を行ったのだろうか。ウィキペディアの「フェルディナン・ド・ソシュール」の項目によれば、ソシュールは「言語の共時的な構造を重視したことで知られる。すなわち、言語の起源や歴史ではなく、ある一時点における言語の内的な構造が、言語を理解する鍵だと考えた」と記述されている。この目的に役立つ抽象として、ソシュールの言語の規定があるのではないだろうか。ソシュールがこの問題を解明しているかどうかは僕には分からないが、この目的ならば、何が抽象されて何が捨象されているかを理解することが出来るのではないだろうか。「共時的」と言うことが、個人的な体験が同じ時に起こると解釈すれば、そこから抽象されることは少ない。それは千差万別で個性の違いにあふれているだろう。現実のコミュニケーションの場面の考察は「共時的」というものの抽象にはふさわしくないのではないか。「共時的」な場面で、個性の違いに左右されない、法則性を求められる対象としては、言語規範がもっともふさわしいと言えるのではないかと思う。それは社会的な対象として抽象出来れば、誰もが同じものを持つと言ってもいい。個性の違いは捨象される。ソシュールの抽象は、論理的な整合性のあるものとして理解出来るのではないかと思う。その抽象が、目的にかなったもので、理論の構築に成功しているかとは別に、抽象の過程としては納得出来るのではないかと思う。理論の構築に成功しているかどうかは、その抽象が下りてきて現実に適用されたときに、現実に妥当性を持った解釈として受け止められるかどうかではないかと思う。抽象の上り下りを考えることは、その抽象理論の理解に役立つと思う。学習の技術として考察に値するのではないかと思う。
2006.10.23
コメント(0)
命題の真偽を判断すると言うことは、その主張が正しいか正しくないかを判断すると言うことである。普通は、両方の判断が両立すると言うことはない。ある命題が正しいと判断されれば、それは同時に正しくないということは言えない。肯定と否定が同時に成り立つと言うことは論理法則では認められない。例えば1 高市早苗氏は「夫婦別姓」である。2 高市早苗氏は「夫婦別姓」でない。という二つの命題は、互いに否定になっており、これが両方とも正しいと言うことは論理的にはあり得ない。しかし、1と2の「夫婦別姓」の意味が違っている場合は、この二つの命題は互いの否定にならない。そうであれば、この二つの命題は形式論理的な意味での矛盾ではないから両立する命題になり、両方ともに正しいと言うことが出来る。実際に、次のような意味で「夫婦別姓」という言葉を理解すると、両方の命題はともに正しいものとなる。1 世間で流通している名前として夫婦の姓が違っている。2 民法改正案としての「選択的夫婦別姓」という意味で、戸籍上の姓(つまり氏)が夫婦別のものになっている。言葉というのは、同じ形式(同じ文字・発音)であっても、それが使われる関係性の違いで意味が違う場合があり得る。文脈によって意味が変わりうる。その時は、意味が違えば形式が同じでも違う命題だという解釈をして、形の上では「A」と「Aの否定」のように見えても、実は「A」と「B」という二つの命題であると判断されることがある。上の二つの命題をこのように解釈すれば、それは定義の違いによって真偽が違うものになるという命題になる。普通は「夫婦別姓」という言葉の意味を、現象的に世間で通用している夫婦の姓が違うという意味に受け取るので、現実の事実と照らし合わせると、1が正しくて2が間違えているという判断がされるだろう。このような紛らわしい表現の命題の場合は、意味をよりハッキリさせるためには次のように書き換えた方がいいだろう。1 高市早苗氏は「夫婦別姓」である。2 高市早苗氏は「夫婦別氏」でない。 (高市早苗氏は「夫婦同氏」である。)こうすれば1と2の意味の違いがはっきりするし、互いに矛盾しないので両立する命題となる。この命題の場合は、定義そのものに妥当性があるのか、まだ民法改正が行われていない状況では、法的な婚姻が成立していれば2の主張は常に正しいものになるので、それをわざわざ主張することに意味があるのか、という他の問題もあるが、定義との関係で言えば、定義を明確にすれば論理の曖昧さは消える。命題の真偽の判断において、定義そのものを明確にするのが難しいケースというのもあるだろう。「南京大虐殺」の存在に関して、「大虐殺」という言葉の定義などはそのようなものではないかと感じる。「大虐殺」という言葉の定義が難しいのは、「虐殺」というやや情緒的なニュアンスのある現象を客観的に定義することの難しさをまず感じる。誰もが「虐殺」だと判断するような客観的な定義が出来るかという問題だ。さらに「大」という判断についても、量的なある限界を超えれば「大」なのかという定義の難しさがある。「大」という判断は、相対的・比較的なもので、あるものと比べて「大」だと感じるときにそう判断されるように思う。だから、これも客観的に定義することが難しい。「南京大虐殺」という言葉に関しては、客観的な定義が難しいのを感じる。客観性を持たない概念は、それを使って命題の真偽という判断をするのは原理的に不可能ではないかというのを感じる。南京で何らかの事件が起きたと言うことは同意出来ても、それが「大虐殺だ」という判断においては異論が出てきてしまうのは、本質的には言葉の定義の曖昧さにあるように思う。そして、その曖昧さは原理的に取り除くことが出来ない曖昧さではないかと僕は感じる。命題の真偽を決定するのに、定義の問題と並んでもう一つ気にかかるのは事実情報の問題だ。現実の記述をした命題においては、事実情報が曖昧なときも命題の真偽が決定出来ないように感じる。和歌山毒カレー事件と呼ばれるもので死刑判決が出された林被告に対して、僕は事実情報だけでは、彼女が犯人であるという命題の真偽が決定出来ないのではないかと感じる。事実情報としてもっと確実なものがなければ、「犯人だ」という積極的な肯定判断は出来ないのではないだろうか。その事実情報は、いずれも「犯人らしい」「犯人の可能性がある」と言うことを示しているだけのことではないだろうか。このような場合、近代社会では、「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪の原則をとる。これには感情的に反発する人が多いようだが、感情的な反発でこの論理を拒否するとしたら、その人は自らを、近代的な人間ではないと宣言しているようなものではないかと思う。たとえ感情的な反発を感じようとも、犯人と断定出来なければ被告人は「無罪」にするべきだというのが近代的な原則ではないかと思う。現実を記述した命題の真偽を考えるとき、定義の問題と事実情報の確認の問題は複雑に絡み合っている。ある命題が正しいか正しくないかという判断が、対立するものが出されているときは、両者の問題を解きほぐして考え直してみることが必要だろうと思う。都教委が、都立高校の教員に対して、卒業式等で君が代斉唱の時に歌わなかったら処分するという通達を出した問題で、これが「思想・良心の自由」を侵害するという憲法違反だという判断に対しては異論が存在する。都教委が、この裁判所の判断に対して控訴をするということは、判断が間違いだという否定が正しいと考えていることを意味する。同じ命題の肯定と否定は同時に成立しないから、これはどちらかが間違っているのだと普通は考えるだろう。しかし、定義の問題が食い違っていたら、その判断が違ってもそれは定義の違いを反映しただけのものだと言えるかも知れない。「思想・良心の自由」に対して、裁判所の定義と、都教委が考える定義は果たして一致しているのだろうか。また、君が代斉唱の強制については、具体的には、歌っているかどうかをいちいちそばまで行って確認して、歌っていなかったときには処分をするという、何とも行き過ぎた行為のもとに行われていたと言うことも聞いている。これなどは、事実情報において、そこまでやって強制することに、「思想・良心の自由」を侵害するという判断が含まれているのだと思う。だから、定義の問題とともに、具体的にどのように強制されていたかという事実情報の確認も判断においては重要だろうと思う。定義の問題が一致していないときは、ある命題の真偽を議論していても、それは水掛け論になるだけで議論は無駄になる。議論の前提として定義が一致するというのは、論理的な展開をするには最重要とも言える前提になるだろう。普通は常識的な範囲がその前提としての一致をもたらすのだが、残念なことに世間の常識というものがだんだんと崩れてきているようにも感じるので、異論を戦わせるときには、特にこの定義の一致という前提は拘って議論しなければならないだろう。定義の一致で議論をして、そこで合意出来ないときは、それ以上の議論は一切無駄になるので、後の主張は全て見解の相違と言うことで理解した方がいいだろう。そういう人は、相手に議論をふっかけるよりも、自分で自分のブログを作って自分の主張を発信した方がいいだろう。僕自身も、定義の違いが理解出来た段階で、それ以上の議論はしても仕方がないと思うので終わりにするだろうと思う。自分の主張を発信している人間は、定義の問題を考察することで、何らかのコメントに答えるかどうかを判断すると良いのではないかと思う。事実情報の確認の問題は、情報源を持たない人間は、それを正確にすると言うことには限界がある。そういう状況にいるときは、判断というものを、常に仮言命題の形で考えておくことがいいのではないかと思う。もしあることが事実であるとしたら、論理的にはこのように考えることが出来る、という形で判断しておくことがいいのではないかと思う。「北朝鮮」という国については、国が疲弊しているとか、国民生活は飢えで大変なので権力者は支持を失っているとか、放っておいても崩壊するのだというような言説が言われる。圧力をかけて追い込めば音を上げて降参するのだというような意見もある。しかし、これは本当だろうかという疑いもある。これは事実情報をつかめていないので断定することは出来ない。最新のマル激では武貞秀士氏(防衛研究所主任研究官)をゲストに招いているが、武貞氏によれば、「北朝鮮」が大変な状況にあるということにはかなりの嘘があるということだった。それは、「北朝鮮」自身がそう宣伝することによって援助を手に入れられるという利益があって、大げさに言っているような所があるということだ。これは僕もそう感じるが、事実情報としては確かめようがない。だが、放っておいても崩壊するのだと言われているのに、なかなか崩壊の兆しさえ見せないと言うような所はぼんやりとではあるが事実情報としてつかめる。そうすると、大変だという状況とはどうもつじつまが合わないと言う論理的な疑問を感じる。武貞氏の情報の方が正しいのではないだろうかという思いもわいてくる。そこで、この情報がもし正しいのなら、という思考を進めてみようかとも考えたりする。事実情報を確認することが難しいときは、このように仮言命題として考察を進めることがいいのではないかと思う。純粋に論理の問題だけであれば、論理法則に従う人間は、誰が考えても同じ結論に達する。しかし、現実の問題を考察するときは、論理だけの判断ではなく、定義の妥当性や事実情報の確認という問題が出てくる。現実の問題に対しては、このような視点からその命題の真偽を考えてみようかと思う。関心を持っているのは次のような命題だ。・愛国心の教育は人間の倫理性を育てるか。・いじめという行為を社会から駆逐することは可能か。・いじめの駆逐が不可能であるなら、それの告発が簡単に出来るメカニズムを作ることは可能か。・「北朝鮮」は、追い込まれて思考停止状態になって非常識な行為をしているのか、それとも、優れた戦略的思考によって挑発行為を繰り返しているのかどちらなのか。・教育基本法の改正をすることで荒廃した教育が立ち直れるか。・家族の絆はすでに壊れているのかどうか。・もし家族の絆が壊れているとしたら、そのもっとも大きな要因はどこにあるか。・「夫婦別姓」にすることで家族の崩壊はますます拍車がかかるのかどうか。・アメリカに対する依存と追従は今後も日本に幸せをもたらすかどうか。・アジアにおいて日本は信頼を築いているのか、あるいは今後築いていけるのか。・民主主義的に優れたリーダーを選出することと、そのリーダーに依存しすぎないようにすることは両立するか。・神のような超越的絶対者を立てることは、自己を失って依存的になるのか、自己を肥大化させずに謙虚になるのか。・世界の全体像を(抽象的に)把握することは可能か。
2006.10.22
コメント(0)
沈思黙考さんから、「ウィトゲンシュタインの「世界」」へのコメントで、大変興味深いものをいただいた。とても短い文章のコメント欄では答えられないくらい多くの内容を含んでいるものなので、新たなエントリーで自分の考えをまとめておきたいと思った。沈思黙考さんが自分のブログを持っていたら、そこで是非まとまった主張を論じてもらいたいものだと思う。彼の主張の内容も、正確に伝えるには、コメント欄では難しいだろうと思う。このコメントが興味深いと思ったのは、「超越」というものをどう受け止めるかで世界の枠組みが違ってくると僕が感じているからだ。そのようなことを強く意識させられるものとして上祐氏の宗教的な人格陶冶というものを知ったこともある。様々な出来事や抽象的理論が「超越」というキーワードでつながってくる不思議な一致を見たことが、このコメントに関心を引かれた原因ではないかと感じる。コメントで触れている事柄は多岐に渡っているので、まずは「超越」ということに絡んで、それを象徴する「神」という考え方と、論理の関係について考察してみようと思う。上祐氏の宗教観というものを知って、僕は論理的に信仰を築きうるのではないかということも感じ始めている。信仰というのは、非論理的に、まず信じることから始めるというイメージを今までは持っていたが、論理的な帰結として信じることが最後に確認出来るという形の信仰もあり得るのではないかと今はぼんやりと感じている。沈思黙考さんは、世界を「内在」と「超越」に分けて理解する考え方として、「超越論哲学」というものに言及している。これを論理的に考えるなら、「内在」とは我々が知りうる経験によって構成される世界ということになる。これは、個人の特定の「内在」というものにはいろいろなでこぼこがあるだろうが、人類一般の体験としての「内在」という抽象化をすることで、人間の知りうる世界全てという概念を作ることが出来るだろう。そして、「超越」とは、その世界を越えているという意味で「超越」というとらえ方をするのだろうと思われる。だから、「超越」とは、「超越」という名詞で呼ぶことが出来るものの、その言葉の内容は語ることが出来ない。それは人間にとっては経験の範囲を超えているのだから、ある意味では想像も出来ない世界へ踏み込むことになる。想像というのは、経験を加工して行うものであるから、経験をしていないことは想像も出来ないだろうと思う。論理的には、「超越」という対象は、その概念を作ることは出来るが、その内容は決して知り得ないものという対象になるだろう。これは、まさに抽象の究極としての「神」に重なるような対象になる感じがする。「超越」という対象が語り得ないものであるというのは、「超越」という言葉の概念から論理的に帰結されるように僕は感じる。それは、「内在」ではないということから、人間にとっては経験出来ないものであり、捉えられないものなのであるから、それについては内容は何も語ることは出来ない。従ってその実在に関しても、そのことについては何も言えないので、信じるか信じないかという問題になってくるだろう。「超越」が語り得ないものであるから、それに対しては哲学は沈黙すべきだということなら、ウィトゲンシュタインの言説をそのように解釈すれば、それはごく当たり前のことを語っているように感じる。しかし、この言説だけであるなら、何も哲学的な考察は必要ない。簡単な形式論理の適用さえ出来ればすぐに分かる。難しいのは、ある対象の考察をしているときに、それがどこかで「超越」の領域に踏み込んでしまっているかどうかということを具体的に判断することではないだろうか。見かけは「超越」を考察しているように見えても、実際には「超越」の概念を象徴するような「内在」を対象にしている場合は多いだろう。キリスト教的な「神」を考察しているように見えても、実は「神」を象徴するようなイエスや奇跡の数々を考察していると言える場合は多いのではないかと思う。「超越」そのものを考察することは人間には不可能だというのが論理的な帰結ではないかと思う。ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』が解明しているのは、「超越」が何かということではなく、人間の思考においては、思考するということそのものが対象を「内在」にしているという構造を持っているのだということではないかと僕は感じる。ある対象を思考の対象にしたとき、それはその時点ですでに「内在」としての属性を持たざるを得ない対象になっているのだという構造を、人間の思考というものが持っているのではないかと思う。それでは「超越」というのは、無用の長物としてよけいなものだと言っていいものだろうか。何の役にも立たない、人間の思考を迷わせるだけの誤謬と言っていいものだろうか。沈思黙考さんのコメントを読むと、デカルト的懐疑を究極にまで押し進めると、「超越」は無用の長物になり、確かなことは何もないという「懐疑論」に陥ってしまうことになるのではないかと思われる。「内在」の世界での経験はどこまでも疑いを差し挟むことが出来る。究極的には、人間には認識出来ない「超越」である「神」が、人間が認識しようとするときに必ず間違った認識をするように設定していたら、その間違いを間違いと認識することは人間には出来なくなる。「懐疑論」においては、人間の認識の真理性は証明し得ないものになってしまう。デカルトは、このような懐疑論を、「神はそのような不完全なことはしない」という信仰で乗り越えたように感じる。神は、そのようなことも出来るという、神にとっては出来ないことはないという完全性を持っているが、わざわざそのようなことをする必要がないという、神は「内在」の世界の調和を望んでいるというような信仰で、懐疑論の落とし穴に落ち込むのを防いでいるように感じた。「内在」世界の中の論理だけで、「内在」の真理性を証明することが出来ないと言うのは、数学において具体的な理論である数論の範囲内で数論そのものの正しさを証明出来ないという、ゲーデルの不完全性定理に似たような構造を感じる。「内在」世界の真理性を証明出来ないとき、懐疑論に陥って全ては不確かだと絶望するのか、何らかの信頼を保つたために「超越」を利用するかという思考の方向が存在するような感じがする。「超越」の利用を信仰と呼ぶならば、人間にとって信仰というのは、弱い人間がすがりつく依存と言うだけではない、何か本質的な、人間が人間であるために必要な何かが含まれているのではないかと言うことを今は感じている。「内在」世界の真理性が、「内在」世界の中では証明し得ないという問題は、「新聞社説に見る「日の丸・君が代強制」に関する考え方」へのコメントで紹介されている『涼宮ハルヒの憂鬱』という若者向けの小説にも同じようなテーマが書かれていた。このコメントは、「通りすがり」という名前であればはじかれていたところだったが、ちょっと名前が違っていたので反映することが出来た。書かれている内容には問題がないので、書き込むときの名前をもっと当たり障りのないものにしてくれればと思う。これは若者向けの小説ではあるが、その面白さは僕にも分かった。エンタテインメントとしてはなかなか優れているのではないかと思った。若者向けの文学賞で大賞を受賞するのも理解出来るという感じがした。論理的な興味としては、「内在」世界の正しさを「内在」世界で証明する論理がないということを主張しているように感じて、そこに面白さを感じた。映画「マトリックス」でもそうなのだが、「内在」世界が、確かに存在しているリアルな世界であるという証拠は、「内在」世界の中だけにいるのでは確かなことは何も言えなくなる。マトリックスの世界がマトリックスであると知っているのは、マトリックスの世界の外に出られる人間だけだ。その世界を越えて外に出ることが出来れば、「内在」世界が本当にある世界なのかどうかが分かる。『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説では、世界が3年前に生まれたかも知れないと言うことが語られる。これは、「内在」世界の論理では否定出来ないと言うことが語られる。現実には、そのような荒唐無稽なことが言われたら、ほとんどの人はバカげた考えだと思うだろう。しかし、論理として考えた場合はどうだろうか。世界が3年前に作られたのであれば、それ以前の記憶があるのは矛盾ではないかという指摘があるだろう。だが、それ以前の記憶というのは、マトリックスのように、あらかじめ作られた記憶としてインプットされただけで、実在はしていないがそういう観念を持たされていると考えることも出来る。それは荒唐無稽なことではあるが、論理的なつじつまを合わせることは出来る。論理というのは、実はつじつまを合わせることが出来るだけであって、そこで語られている命題そのものの正しさについては何も語れないのだと言うことを深く知る必要があるだろう。論理にそのような限界があるとき、命題そのものの正しさ、「内在」世界の記述の正しさを確信させてくれるものはいったい何になるのだろうか。それが「超越」という枠組みなのだというのが、沈思黙考さんがコメントで説明していることなのではないだろうか。『涼宮ハルヒの憂鬱』という小説では、涼宮ハルヒという主人公が神であるという枠組みが、世界が3年前に創造されたと言うことの真理性の根拠になっている。この「超越」があるがゆえ「内在」の存在の真理性が保障される。実際には、常識的な考え方としては、世界が3年前に創造されたと考えることは、あらゆる「内在」的存在との関連で、その必然性があるかどうかということで信じられるかどうかが決まるだろう。3年前に創造されることにどんな意味があるのかということだ。それが3年前である必然性はない。3年前に創造されたということが正しいと考えることも出来るが、同じような論理でそれは10分前だっていいはずだし、1億年前だっていいはずだ。それは確率的にランダムにどれでもいいことになってしまう。どれでもいいことは、我々の「信仰(確信)」の対象にはならない。つまり、「超越」としての枠組みにはふさわしくない。だが人間は真理の認識において、枠組みとしての「超越」を必要としているような感じがする。しかし、その「超越」は、どのような「超越」が真理にふさわしいものであるかは確定出来ない。それを人間はどのように解決してきたのだろうか。宗教と哲学の歴史はそれを教えてくれるだろう。ウィトゲンシュタイン、上祐氏の宗教観、『涼宮ハルヒの憂鬱』と、この3つのランダムに登場した対象が、僕の中の「超越」という見方と全てつながってきたというのは不思議な現象だと思う。これも「超越」の作用なのだろうか。これが宗教的体験になり、信仰に目覚めると言うこともあるのかも知れない。僕の場合の信仰の対象の「超越」は、具体的などこかにいる「内在」的な「神」ではなく、あくまでも究極の抽象としての語り得ない「超越」になるだろうとは思うが。
2006.10.21
コメント(0)
上祐氏がマスコミに華々しく登場していた頃は、「ああ言えば上祐」と揶揄されたように、屁理屈をまくし立てる詭弁家としてのイメージが強かった。上祐氏はディベートの専門家で、相手を言い負かす理屈の立て方には長けている人間だった。しかし「ああ言えば上祐」といわれていたと言うことは、その理屈をきっぱりと否定は出来ないものの、正しいと受け止めがたいといううさんくささを多くの人々が感じていたと言うことを意味していた。その上祐氏が、神保哲生・宮台真司両氏が司会するマル激トーク・オン・デマンドの「マル激トーク・オン・ディマンド 第289回(2006年10月13日) 麻原の神格化は大きな過ちだった ゲスト:上祐史浩氏(アーレフ代表)」でゲストとして招かれていた。そこで聞いた上祐氏の話は、穏やかな語り口とともに、屁理屈に流れない真っ当な論理としての明快さを感じた。その語る内容からは、上祐氏の誠実さも感じられ、10年あまりの時を経て大きな成長を遂げたのだなという印象を受けた。かつて無理な屁理屈でディベート的に教団の正しさを主張していた頃についても、なぜそのような状態だったのかを冷静に分析しており、その結論にも納得出来る論理があった。特に印象に残ったのは、人間の心の弱さと関連して、絶対的な神を求めそれにすがろうとすることと、そのことによって自らを神にしてしまうことの間違いを語っていたことだ。この宗教的な理解の境地は、宗教性と無関係に考察する僕にもよく分かるものだった。つまり論理的な説明になっていた。上祐氏がオウム真理教に惹かれて、麻原代表に接した最初の頃は数々の宗教的な神秘体験をしたらしい。この神秘体験というのは、それが客観的なものとして存在していると証明するのは難しい。神秘体験をしたと思っている当事者と、それを外から観察している人間とでは、体験の意味が違ってくるからだ。しかし、体験したと思っている当事者にとっては、客観的にはどういうメカニズムかは分からないが、体験として感じるということは確かだということは言えるだろう。唯物論的に考えれば、人間の心がそのまま伝わることはあり得ないと考える。心は、何らかの物質的存在を媒介にして表現されることによって他者に伝わる、と考える。言語はそのもっとも便利な道具だと言うことになる。しかし、体験としては、自分が何も表現していないのに心を読まれるということがある。しかも、その心が自分としては「読んで欲しい」と願っている内容ならば、心を読んでくれた相手が神秘的な大きな力を持っていると思いたくなるだろう。自分のことを本当に良く理解してくれたと思うかも知れない。これは、唯物論的に考えれば、心を直接読んだのではなく、表に現れた微細な変化から深層心理を読みとったのだと解釈することも出来る。シャーロック・ホームズの小説にはよくそういう場面が出てくる。鋭い観察力と推理能力を持った人間は、しばしば「超能力」ではないかと思えるくらいの洞察を見せることがある。このような力が本当に「超能力」だと証明することは難しい。しかし、「超能力」らしき現象を体験したと言うことはいくらでもあるだろう。それが信仰を強めると言うことは納得出来る論理だ。オウム真理教という組織で中心の位置を占めていた頃の上祐氏は、そのような神秘体験を基にして、麻原代表に対する信仰を強め、麻原代表を神に近い存在として絶対的に正しいと考えていたのではないかと思う。麻原代表とオウム真理教が絶対的に正しいという前提で論理をスタートさせれば、どこかで間違ったことをしていたときに、その間違いを認められずに無理な論理を展開しなければならなくなる。そこが「ああ言えば上祐」と揶揄されるような詭弁になったのだろう。上祐氏がディベートに高い能力を持っていなければ、その詭弁も笑い飛ばされ軽蔑されるようなものになったのだろうが、ディベートの専門家として高い能力を持っていたために、詭弁とは感じていてもすっきりとは否定出来ないもどかしさが揶揄となったのではないかと思う。その上祐氏が、オウム真理教という教団が起こした犯罪と、それを裁く裁判を通じて、麻原代表の間違いとそれを見抜けなかった自らの間違いを真摯に見つめるようになったように感じる。誤謬を誤謬として深く理解することが、上祐氏の人間的成長をもたらしたのではないかと僕は感じた。上祐氏の至った結論というのは、宗教として非常に重要な視点を持っているものではないかと感じる。それは、かつて釈迦が到達したという「悟り」の境地を、現代的な解釈の基に言い換えたものではないかとも感じた。それは、宗教的に感じるようなものではなく、論理的にも理解出来るような説明にもなっていて、これが宗教というものの新しい形なら、僕自身も信仰を持てるかも知れないと感じるものだった。その本質は「人間を神にしない」という一言で言えるものではないかと僕は感じた。神という存在は、絶対的な存在として到達し得ない神秘的な信仰の対象として存在しうる。それは、理想とかイデアとでも言えるような存在と似たようなものだ。究極の抽象的対象と呼んでもいいだろう。それは論理的に理解すれば、抽象的対象だから、そのままの形では現実に存在しない。しかし、抽象であるからには、現実存在の中にその片鱗を見ることが出来る。その片鱗を見ることが「神秘体験」というものになる。その神秘体験によって神の概念がよりハッキリしていくものになれば、そこで信仰が強まっていくようになるのではないだろうか。この神は理想であり優れた存在であるから、その影響を受ければ人間的な成長が期待出来る。完全な神を感じることによって、自分の中の不完全さをよりハッキリと自覚し、それを埋めるために努力するという意識も生まれてくるだろう。人間は感情の生き物であり、自然のままに感情にまかせていれば、確率的にはランダムな判断の中にいることになるだろうが、神を意識すると言うことで自分の中に理想に近づくというメカニズムを持ったシステムを作ることが出来るだろう。ここまでは宗教の建設的な側面であり、宗教のいい面が個人の成長に役立つことを教えている。だが、宗教の負の側面が、人間の間違いを増幅させると言うことがある。それに気づいた上祐氏の思考は、非常に優れたもののように感じた。それは、負の側面の極端な一面を見せたオウム真理教という教団の犯罪を、上祐氏が当事者として体験したと言うことがそれに気づいた大きい要因ではないかと思った。上祐氏が悟った間違いは、究極の抽象として遙か彼方にあった神を自分の中に引き入れてしまったという、人間を神にしてしまったことだという。神は、あくまでも遠くにいる存在としてあがめるものであって、人間がそのまま神を体現出来ると考えてはいけないというのが、上祐氏が語る宗教的な「悟り」の境地ではないかと僕は思った。しかし、人間を神にするという誘惑は、宗教においてはいつでも可能性が存在するものではないかと思う。神というのは、完全さを抽象したものであり、悪の面は一つもない。全てが善であり、だからこそ完全だと言える存在だ。素晴らしい存在であることは確かなものだ。その素晴らしいものを見つけることが出来た自分は、また神に近い素晴らしい存在であるという感覚も生まれやすい。ただ、神が抽象的存在にとどまる限りでは、自分の中に神を取り入れる危険性もまだ少ない。自分が神の生まれ変わりだと信じるほどの強さを持っている人間は少ない。しかし、そういう人間が登場して、人間の姿をした神を見つけたと思ったとき、その人間の姿をした神を見つけた自分という人間も神に近づいてしまうと言うことは起こりやすいだろう。オウム真理教における間違いは、麻原代表を神にしてしまったことだと上祐氏は語る。麻原代表を神にしてしまったために、麻原代表が間違えると言うことは論理的に考えられなくなった。神は完全な存在として抽象されているからだ。しかし、神ではない人間は間違いうると言うことが現実にはある。それを上祐氏は体験し、そこからこのような神の概念を学び取ったと言えるのではないかと思う。完全な神はあくまでも彼岸の彼方にあり、人間という存在は、それを感じ取ることは出来るが、神になりきることは出来ない。麻原代表という存在も、神の存在を様々な現実存在の中に感じ取ることの能力は高かったが、それだからといって神そのものにしてはいけないのだ、というのが上祐氏が至った結論なのではないかと思う。人間を神にする弊害は、その人間に現実に敵対する存在があったとき、敵対する者たちを悪魔にしてしまうことだ。敵対する者たちが悪魔であるなら、それを抹殺することが正しい行動となってしまうだろう。それがオウム真理教が取り憑かれた間違いだったと上祐氏は語っているが、この解釈は納得出来るものだ。人間を神にしない宗教というものは現実には難しいと思う。神は抽象的な存在であり、現実に姿を持たないものであると言うことを、感情的にも納得するのは難しい。長い歴史を持っているキリスト教やイスラム教は、形の上では神となった人間はイエスだけだ。もはや今では存在していない。しかし、イエスの生まれ変わりを称する人間は出てくるし、最も高い地位を持つ聖職者が神のように信仰の対象になる可能性もある。しかし、だからといって宗教を否定して宗教なしに生きようと思っても、それほど人間は強くない。僕は既存の宗教に対する信仰は持っていないものの、現実世界では論理的に正しいことが実現して欲しいという宗教的な願いを持っている。このような願いが裏切られたときに、どう心の平静を保つかという問題は、既存の信仰がなくてもやはり宗教的な問題になるのではないかと思う。世の中には理不尽や不条理がたくさんある。その中で、自暴自棄にならずに心の平静を保って生きるには、この理不尽や不条理が存在する論理をある意味では納得して、それが解決されるということを信じて生きていく必要がある。狂信は人間を不幸にするが、正しい信仰は人間の弱さを埋める力がある。狂信に陥らない戒めとして「人間を神にしない」という上祐氏の「悟り」は、宗教的に大きな意味があるのではないだろうか。このような考えに至った上祐氏の優れた知性に大きなリスペクト(尊敬)を感じる。始めに結論ありきというディベート的な思考ではなく、真理とは何かを求める論理的な展開が、上祐氏の知性を優れた方向に導いたという感じがする。そして、そのことによって上祐氏の誠実さというものがはっきりと現れてきたと言えるだろう。かつて屁理屈を弄していた頃は、誠実さは影を潜めていたが、真っ当な論理を展開することによって誠実さも表に現れてきたという感じがする。上祐氏は、「こんな悪いことをした我々でも変わることが出来る」ということを示したいというようなことを語っていた。人間は誰でも良い面と悪い面を持っているのだろう。それは宗教的な真理かも知れない。そして、良い面が現れるか、悪い面が現れるかは、ある種のメカニズムによって決まる。弱さの克服において、人間を神にすれば悪い面が現れ、人間を神にしないという戒めを持てば、良い面が現れてくるのではないだろうか。そんなことを感じさせる上祐氏の話だった。
2006.10.19
コメント(1)
宮台真司氏の「連載第五回 社会システムとは何か」によれば「社会システム」というものは「行為」というものを要素とする。システムの要素であるとは、それが互いの同一性の前提となっているようなループを構成していると言うことだ。つまり、ある行為を前提としている行為があって、そのような行為の連鎖が一つのループをなしていると言うことが要素の間の関係としてみられる。これがループをなしていると言うことから、このような行為の連鎖の繰り返しが起こることが論理的に帰結される。従って、繰り返される行為によってある安定した状態が起こる。そのような定常の状態こそが「秩序」と呼ばれるものになる。この「秩序」は、それがあるからといって道徳的な価値が高いというものではない。どのような状態であろうとも、定常的な安定性があれば「秩序」と呼ぶわけである。価値観を伴わない事実的な判断として「秩序」というものを定義している。判断のポイントになるのは確率的な見方だ。あらゆる可能性の間に、その起こりやすさを同等なものと仮定して、生起確率の低い場合が定常的に実現されていれば「秩序」があると判断する。自然状態がランダムに起きるのであれば、生起確率が高いものが実現されるはずだ。それが生起確率が低いもの(エントロピーが低い)が実現されるというのは、システムの中にそれを実現する要因があるということだ。それが、起こりうる可能性の幅を縮める、要素の間のループの構造だと考えるのが「定常システム」の考え方である。システムにおいては、自然状態がランダムに起こるのではなく、要素の間に存在するループによって、内部作動的に選択肢の幅が狭められて生起確率が低いものが実現される。さて、社会システムの要素である行為は、物理的な現象としては同じ(物質的な位置情報・動き・測度などが同じ)でも、意味的な違いがあれば違う行為として分類される。つまり、生起確率を考える際のあらゆる可能性を拾い出すときに、意味的な問題を考慮しなければならないものになる。この意味に関しては、宮台氏は上記の講座で1 示差的2 二重の選択性3 否定性4 選び直しの4つの性質を本質的な属性としてあげている。生起確率との関連でこの4つの性質を考えてみると、ある行為と、その行為の選択に関わる別の行為の可能性というものが、この4つの観点から得られるのではないかと思う。例えば、卒業式において君が代が演奏されるときに起立するという行為の意味を考えてみると、物理的な行動としては、それは座っている状態から立ち上がった状態になるということを意味する。この行動で、外から見れば全く同じように見えても、意味的には違うと言うことが起こりうる。それは、意志の面から言えば、積極的にその行為をやろうという意志を持っている場合もあれば、あまりよく考えずに従っているときもあり、本当は拒否したいのだがある圧力によっていやいやながら従っているという場合もある。これらは、行動としては同じだが、内面の状態に違いがあるという示差性によって区別される。また、起立するという行為の選択においては、それが学校における卒業式という前提を選択したときの行為の選択になる。これが、スポーツの前などの君が代演奏だったら、観戦している観客には起立する義務はないし、起立するかどうかは自由な選択になる。ある行為の選択が、すでに選択された前提のもとに行われていると言うことが二重の選択性に当たるだろう。3番目の否定性は、生起確率を求めるに当たっては重要になる属性ではないかと思われる。行為の選択が、「起立する」「起立しない」という、肯定と否定の二つだけに単純に分けられるなら、その生起確率は1/2だと言えるだろう。しかし、否定性の中にいろいろな選択肢が見出せるなら、その数の分だけ「起立する」という生起確率は低くなる。つまりエントロピーが低くなり、抽象的な意味での「秩序」の度合いが高くなる。より「秩序」があると言えるようなものになる。「起立しない」という行為の中に、・そのまま座っている。・何か他の仕事をしている。・会場から外に出る。・最初から式に出席しない。などのような選択肢が含まれている場合は、上のような場合なら、「起立する」という選択肢の生起確率は1/5になると考えられるだろうか。これらは、さいころを投げるときのように単純に同じ確率で起こるものではないが、生起確率の低さを考察するために、同じ確率で起こると仮定している。細かい事情は捨象して考えている。選択肢が増えれば生起確率が低くなり、それだけエントロピーが低くなって「秩序」が高くなると言う判断をするために末梢的だと思われる部分を捨象している。最後の選び直しの性質は、システムの作動を考えるときに重要になってくるだろう。選び直しが出来ると言うことは、ループの分岐の構造が見出せると言うことになるだろう。単純に同じループを繰り返すのではなく、あるところで分岐する選択肢があり、そこで分岐することによって「秩序」に変化が起こることが考えられる。安定した定常状態が一つではなく、選び直しをすることでもう一つの安定状態も考えられるのではないかと思う。さて、卒業式の君が代斉唱で、全員が起立して歌うと言うことは、君が代に敬意を持っている行為として非常に「秩序」あるもののように感じる人が多いかも知れない。しかし、抽象的に定義された意味での「秩序」を考えると、これが果たして「秩序」があると判断されるものかどうかには疑問を感じる。抽象的に定義された「秩序」はエントロピーの低い、生起確率が低いという判断がされる。そして、行為の場合の生起確率は、どのような行為が選べるかという選択肢の数に関わっている。その選択肢の数は、4つの属性を考えることであらゆる可能性を見出すことが出来る。もし完全な自由が保障されていれば、どの選択肢を選ぼうとも自由なのだから、「起立して歌う」という行為を選択する生起確率は極めて低いものになる。つまり、選択前提としてかなりの数の選択肢が許されているという状況にあるとき、一つの選択肢を選ぶことが圧倒的に多くなれば、そのシステムはその状態で安定していて「秩序」を持っていると判断出来る。このような意味で「秩序」をもっている社会システムは、その社会の成員が自由な判断によって「秩序」を保っているので、近代社会としては非常に安定したものになっているだろうと思う。そのシステムの安定性を維持することに価値が見出せるのではないかと思う。しかし、選択肢がほとんどない状態で、その選択肢を選ばざるを得ない人々がその行為をすることで、同じ状況が全ての学校で実現されているという場合は、抽象的な意味での「秩序」があるとは言えないのではないだろうか。それは、その選択肢しか選べないのであるから、生起確率としては非常に高いものになるだろう。つまりエントロピーが高い状態なのだから、「秩序」があるとは言えなくなるのではないか。原始的生活をしていた人間は、例えば日照りが続いたときには、雨を降らせるのは神の行為であるから神に懇願をするという行為によって雨が降ると考えた時代があっただろう。ほとんどの人が、神というものをこのように考えて、神に懇願をするという「雨乞い」の行為を選ぶとしたら、その行為を選んでいる安定した状態というのは「秩序」があると言えるだろうか。これは社会システムにおける抽象的な「秩序」ではないと思う。これは、誰もがそう考えていた時代に、常識的な行為を選んでいたと考えれば、むしろ自然状態がそのようなものなのであって、ランダムな確率として最も高い生起確率が実現されているだけのことなのではないかと思う。選択前提として、選択の地平と呼ばれる選択肢の数がない状態なのだと思う。前近代においては、安定しているように見える状態がむしろ自然であって、それは近代以後の「秩序」とは違うものだと理解した方がいいのではないだろうか。近代以後では、自明の前提というものがなくなり、前提そのものさえも選択の前提になるという再帰性が問題になっているのではないだろうか。近代以後の「秩序」は、選ぼうと思えば「秩序」の否定である混乱を選べるのに、あえて「秩序」を保つ方を選ぶというシステムが存在することを問題として考えるのではないだろうか。卒業式における君が代斉唱やその時の起立という行為については、愛国心との関係から考えれば、それを通達や法律で、選択肢を奪った状態で実現しようとするのは「秩序」をむしろ破壊するのではないかと思う。それは「秩序」ではなく、自明の前提という前近代性を復活させようとしているだけではないだろうか。それは、全く愛国心とは関係のないものではないかと思う。愛国心というのを、社会システムとしての、行為の選択のループに影響する要因として「秩序」を保つためのものとして育てようとするなら、自由な選択を許した状態でなお愛国心に従って君が代の斉唱の時に起立して歌うという行為を自ら選ぶような「秩序」を実現するために努力すべきなのではないかと思う。愛国心の押しつけで選択させようとするのは、近代的な意味での「秩序」は育てない。前近代的な自明な前提という先入観を植え付けるような教育になるのではないだろうか。ほとんどの学校で卒業式の時に、君が代斉唱があり、そこでほとんどの人が起立して歌うという今の状況は、本当の意味での「秩序」ではなく、近代的な意味から言えば何ら「秩序」ではない。むしろ、近代的な「秩序」を否定する、時代遅れの封建的な意味での「秩序」を実現しているだけではないか。僕はそんな感じがする。この考察が正しいものであれば、抽象理論の応用は役に立つなと思う。
2006.10.18
コメント(0)
宮台真司氏の「連載第四回:秩序とは何か?」に書かれている「秩序」という概念の理解に努めてみようと思う。ここで説明されているのは抽象概念としての「秩序」である。具体的な、日常生活の中で見られる「秩序」という現象の説明ではない。具体的な「秩序」現象から、具体的な要素をいくつか捨象して、その本質だと思われる部分を抽象して作り上げた概念だ。具体的な対象は、実際にイメージを浮かべやすいので分かりやすい。だが、そのイメージの中にある種の価値観が入り込むと、その価値観という視点からの判断が入り込むために、人によって判断が違ってきてしまう恐れがある。そこに秩序があるのかないのかという判断が、秩序があるということが良いことであるという価値観を持っていると、それが良いことのように見えないと「秩序がない」という判断をするようになるだろう。価値観というのは、どれが正しいという決定が出来ないものだ。だから、それを基礎にして判断をすれば、その判断からは客観性が失われる。学術用語として抽象的な概念を作るのは、その概念を基にした判断に客観性を持たせるためである。つまり、誰が判断しても同じ判断になるような定義を作るために抽象化をする。「秩序」という言葉をそのようなものとして理解して、社会現象における「秩序」の理解を深めようと思う。抽象的な意味での「秩序」を理解すれば、その「秩序」を支える条件が分かり、それが変化する要因も理解することが出来るだろう。未来に対してより正しい方向の予測が出来るに違いない。さて、抽象的な意味での「秩序」の定義は、宮台氏は次のように語っている。「統計熱力学では、秩序とは相対的にエントロピーの低い状態です。エントロピーとは、与えられたマクロ状態に含まれる、ミクロ状態の違いによって区別された場合の数の、多い(マクロ状態の生起確率が高い)/少ない(生起確率が低い)を表します。」「エントロピー」という言葉には価値観が含まれていない。純粋に対象の事実的な記述になっている。だから、「エントロピー」という言葉が分かっている人間にとってはこの記述で、価値観を離れた「秩序」の概念がすぐにつかめるだろう。しかし、この「エントロピー」という言葉は、「秩序」という言葉に輪をかけて理解が難しいものになっている。ここでの理解のポイントは、確率的なとらえ方にある。生起確率が高いというのは、要するにありふれたというものだ。確率的な考え方では、いくつかの生起する現象を拾い出し、そのどれもが同じ程度で現象するという前提で考察をする。コインを投げると、表が出るか裏が出るかの二種類の現象が起こると考える。コインが立つなどという現象は起こりえないもの、つまり確率的にはゼロだと考える。このとき、表が出やすいとか、裏が出やすいと言うような前提は置かない。どちらも同じ程度に現れるという前提で考える。これが確率的な前提であり、ランダムと言うことの意味になる。コインを投げるという試行の場合、それが1回だけなら、表が出るのも裏が出るのも確率が同じだから、そこにはどちらがエントロピーが高いと言うことはないから、より秩序があるという判断は出来ない。しかし、これを何回も続けて試行する場合を考えると、表の出方と裏の出方の分布がどうなるかは、確率的に高いものと低いものが考えられる。どちらもほぼ同数出るという状態が確率としては最も高いものになる。もっともありふれた状態で、この場合は生起確率が高いので「秩序は低い」という判断になる。表ばかりがたくさん出る、あるいは裏ばかりがたくさん出るという生起確率は低い。そうすると、もしそのような現象が見られるなら、この場合は生起確率の低さから、「秩序が高い」あるいは「秩序がある」という判断が出来る。これは、確率という客観的な情報から得られる判断なので、誰が判断しても同じものになる。このように、確率と結びつけられた抽象概念の「秩序」で社会現象を見てみると、そこに現れる「秩序」はどのようなものになるだろうか。例えば、現在の日本の学校ではほとんど100%に近いほど、入学式・卒業式では日の丸掲揚と君が代斉唱が実施されている。しかし、かつてはそうではなかった。僕がいた養護学校でも、僕がいた時代には式典における日の丸・君が代はなかった。日の丸・君が代に対して、それが「ある」「ない」という二者択一は、単純に確率的に半分だとは言えないが、ランダムと言うことの意味をそう解釈すれば、ほとんど100%「ある」と言うことは、確率的には低い状況が現実化していると言えるだろう。つまり、これは「秩序が高い」「秩序がある」という判断が出来る。日の丸・君が代に反対する人にとっては、この現象を「秩序がある」などというと、感情的な反発を抱きたくなるかも知れないが、抽象的な意味で理解すれば、そう判断するしかないという客観性があるだろうと思う。いいか悪いかという価値観を捨象して、事実としてどうかという判断が抽象されていると考える。さて、この状況が「秩序がある」と判断されるからには、その「秩序」を支えている条件が求められるとするのが抽象的な理論の展開になる。それが、宮台氏が説明する「定常システム」という考え方になるだろう。抽象論の応用というのは、現実をこのように解釈するとうまく理解出来ると言うときに有効性を発揮するだろう。定常システムというのは、「連載第三回:システムとは何か?」で説明されている概念だ。定常というのは、辞書的には「一定していて変わらないこと」を意味する。これはいつまでも「A=A」という状態を保つと言うことではない。システムを構成する部分は常に変化しているが、全体としては一定の状態を保つという「同一性」を持つものを定常システムと呼んでいる。その同一性は、確率的にはありそうもないものなので、秩序がその同一性を支えているとも考える。学校の式典における日の丸・君が代の問題で考えれば、その式典に参加する人は常に変化していると考えられる。だから、人々の思想に多様性があると考えるならば、日の丸・君が代に賛成の人も反対の人もランダムに登場すると考えられれば、常にそれを式典で登場させるという秩序は、定常システムとして同一性を保っているものと考えられる。ランダムなものなら、やったりやらなかったりがランダムに起こるはずだからだ。日の丸・君が代を登場させると言うことは、人々の行為に関わるものなので、この定常システムは、行為を要素とする「社会システム」であるとも考えられる。行為というものは人間的な性質を持っているもので、その行為を選び取るという判断が、意志を介在して行われる。それが、意志の自由が完全に保障されているものなら、確率的にはランダムな状態になる。しかし、その意志が何らかの規定を受けていると、そこにはその規定による制御が働き、システムとして何らかの行為が常に選ばれるという「秩序」が見出せる。宮台氏によれば、システムというのは、互いに影響を及ぼし合う部分がループを構成している要素を持っているものと定義されている。それはループを構成しているので、それが作動した状態を繰り返して、その繰り返しが安定した「定常」の状態を作り出すと考えられる。日の丸・君が代が式典で存在するという定常状態は、どのようなループの基に安定した秩序となっているのだろうか。かつてはこのような定常状態はなかった。だから、自然的にランダムの状態では起こりえない秩序だ。人々の行為に働きかけて、他の選択肢を選ばせない要因となっているのはどういうものなのだろうか。日本人的な感覚としては、「他の人がみんなそうしているから」と言うことの影響がかなりあるのではないかと思う。ランダムに自分の意志で行動が選べるとしても、他の人がしていることとかけ離れた行動をするというのは、日本人にとってはしにくいことだろう。その行為の規範が、ループとなって個人の行動を規制し、その通りに行動する人をますます増やして秩序を形成すると考えられるだろう。しかし、それは現在のようにほぼ100%日の丸・君が代が実施されているという状況で推測されるシステムの構造だ。それがまだこのようなシステムになっていなかったとき、そのきっかけになった、それまでのシステムに変化をもたらすような原因としての変化はどこにあったのだろうか。システムは、部分は変化しても全体としては変わらないという秩序を保つように働く。しかし、部分のある変化は、全体の変化につながるようなものがある。その時は、システムそのものが変化を起こすと考えられる。それを正しく捉えることが出来れば、システムが壊れることを防ぐことが出来るだろう。システムを抽象的に捉えれば、このようにその成立条件であるループを守ればシステムが維持され、ループに変化をもたらせばシステムそのものが変化する(壊れる)と考えることが出来る。だが、実際の具体的なシステムについては、どこを抽象してループと捉えるかに難しさがあるため、抽象論の展開ほどすっきりとは考察出来ない。学校というシステムに関しても、どのような変化が望ましいかは、価値観が関わってくるので、正しく捉えたとしてもその変化を望んだ方がいいのか、変化しない方を望んだ方がいいのかは難しい。日の丸・君が代の実施は、おそらく国旗国歌法の成立が要因として大きいのではないかと思う。しかし、それに対する価値観としての判断は異論がたくさんあるだろうと思うので、あくまでも事実としての秩序という面だけの考察にとどめたいと思う。現在の学校というシステムにおいて、日の丸・君が代の実施という秩序は事実として存在している。この秩序は、学校というシステムの部分として、教育全体の中でまた一つのループとしての役割を果たすだろうと思う。この秩序は、他の秩序にどのように関わっているか、それはシステムという考え方で理解を深めていくことが出来るだろうか。この秩序が影響を与えて、学校というシステムの他の秩序の安定に寄与していることが分かれば、学校というシステムが将来的にどうなっていくかの予想も出来るかも知れない。そういう考察の方向に向かえば、宮台氏が提出する抽象理論としての社会学が応用出来たと言うことにならないだろうかと思っている。
2006.10.17
コメント(0)
数学というのは、それ自体は抽象化された世界を記述する理論になっている。ある意味では現実とは全く関係のない世界を独自に創造しうる。しかしそれは、ある条件の下に現実に適用され応用される。応用を考えられていない、理論のための理論という抽象論はあまり価値を置かれていないようにさえ思われる。抽象というものが、現実を基礎にして、現実の属性を捨象する過程を経て抽象されるということを考えれば、捨象に適応した条件を設定することにより応用が可能だと言うことは論理的に理解出来る。この応用の論理構造を考えることで、抽象論の意義を再確認してみようと思う。数学は高度に抽象化された理論であるが、それが現実とかけ離れて展開されているので、応用の側面を取り出して考えるにはかえって考えやすいと思う。その違いが際立っているからだ。また、数学の理論は抽象の程度に従っても、易しい段階から難しい段階へと発展していくことが見えやすい。易しい段階の応用というものも考えやすい。考察の最終目標は、宮台真司氏が提出している社会学の難解な理論を応用することを考えたいと思っているのだが、これは理論そのものが難解なので、応用の前に理論を理解することが難しい。易しい段階の理論をどう応用するかを数学で確認しておいて、その類推でこの難解な理論の応用も考えてみたいと思う。まずは方程式の応用というもので抽象理論の応用というものの論理構造を考えてみようと思う。方程式というのは、数量関係が等しいと言うことから、最初は未知であった量が、手順を踏んだ数式の展開によって既知の量として求められるという構造を持っている。方程式において重要なのは、それが等式という関係で表現されると言うことがまずある。つまり均衡しているという現象を記述するのにふさわしいと言うことがある。簡単な例として、一定の速度akm/時で直進運動をしている物体が、bkm進むに要する時間xを求める方程式を考えてみよう。この場合等しい量として想定されるものは、一つには距離が考えられる。計算された距離の量と、測定された距離の量が均衡していると考えて ax=bという方程式が得られ、その解としてx=b/aというものが得られる。この応用の場合に捨象されている現実の属性にどのようなものがあるかを考えてみよう。それは次のようなものが浮かんでくる。・現実には一定の速度というものはあり得ないが、数学では常に同じ速度であるという等速運動として抽象化している。・現実には正確にbkmだという測定は出来ないが、数学ではこれはぴったりbkmだという抽象化をする。・現実には完全な直進運動というものは無いが、数学では完全にまっすぐな運動として抽象されている。これらの捨象された属性は、「誤差」という言葉でひとくくりに出来るのではないかと思う。「誤差」として無視しうると判断された属性は捨象され、対象は抽象化された完全なものと同一視されて、抽象理論の応用として現実への適用が妥当なものと判断される。方程式の応用においては、現実の属性としての「誤差」が重要であるという感じがする。それと同時に重要なものに、方程式そのものが持っている性質と現実との対応で、均衡の表現に関わるものがある。方程式の場合 ax=axという「A=A」という形のものは解が決定しない。「A=B」という形の ax=bという方程式でないと解が求まらない。つまり、均衡状態の表現において二種類の違う表現が見つからないと方程式にならないのだ。「A=A」というのは、論理的にはトートロジーと呼ばれるもので、Aが何であろうとこの命題は真になる。ということは、現実とは無関係に真になる命題だと言うことだ。現実とは無関係なのだから、現実については何も言えない命題になる。現実とのつながりを持つためには、トートロジーでない命題を基にして考察しなければならない。「A=B」という命題は、正しい場合もあるし、正しくない場合もある。現実を反映して正しい場合に、正しく解が求められるという対応をしている。方程式の現実への応用に対しては、トートロジーでない命題が、現実的に正しい場合があるということが確かめられている必要があるだろう。「誤差」の問題と「トートロジーでない命題」という観点で、宮台真司氏が語る社会学講座の一部の応用を考えてみたいと思う。宮台氏は「連載第三回:システムとは何か?」の中で定常システムについて語っている。これは全く抽象的な理論として提出されているのだが、現実に存在するある対象を、定常システムとして捉えられるかどうかと言うことでその応用を考えてみたい。定常とは、辞書的な意味では「一定していて変わらないこと」を意味するのだが、定常システムの場合は、「変化するにもかかわらず変わらない」というシステムが対象になっている。これは、形容矛盾という感じもするのだが、変化の側面は部分であり、変化しないという側面は全体を指す。つまり、変化の判断の視点が違うので、これは矛盾する主張のように見えながら両立するという弁証法的な性質になっている。方程式の応用の場合は、未知なる量が既知になるという利得があり、それを目的として応用すると言うことが分かりやすかった。ある現実の存在を定常システムであるかどうかという判断をするという応用は、どのような利得があるだろうか。何を目的としてそのような応用を考えるのだろうか。ある対象が定常システムであると判断されると、そこには「秩序」が維持されていると考えることが出来る。この「秩序」という言葉も、抽象理論では、日常用語としての秩序と少し意味が違うのでまた応用が難しいところがある。これは日常用語とは違う意味で使っている。つまり「秩序があるから価値がある」というような価値観とは無関係に、事実として「秩序」という現象が見られるという程度の使い方で理解しておく。その上で、定常システムというものを考えると、その「秩序」の維持や限界というものが、定常システムという考えを使うことで見えてくる。つまり「部分として変化しているだけで、全体としては変化していない」と判断出来るのか、「部分の変化が全体にも及んで、システム自体が変化してしまった」と判断されるのかという問題が生じる。これは現実理解のためには役に立つものになるのではないかと思う。学校というシステムにおいて、日の丸・君が代の強制と言うことが、システムの変化に対してどのような影響を与えているかを考察することは意味のある結論を導き出せるだろうか。これは、明らかにシステムの一部に変化をもたらす。それが一部の変化であって、学校全体のシステムにとっては変化をもたらさない、秩序を維持するものであるのか。学校というシステムそのものが、ある理念とは違うものになってしまうという根本を変えるものなのか。その判断はかなり深刻なものになるのではないだろうか。「選択的夫婦別姓」の問題でも、法的に別姓(別氏)が認められた場合、この部分的な変化は、全体システムとしての「家族」あるいは「国家」にどのような影響を与えるのか。それは秩序を保つ部分的な変化にとどまるのか、秩序を破壊して「家族」や「国家」をまったく違うシステムにしてしまうのか。こちらも、どう理解するかというのはかなり深刻かも知れない。ただシステムの応用の考察においてはかなりの難しさを感じる。方程式の応用であれば、初歩的な段階から高度な段階へのレベルの違いを意識して学ぶことが出来るのだが、システムの応用に関しては、どのようなレベルで理解していくことが理解を深めるかと言うことが見当がつかない。問題を意識出来る対象はかなり難しい困難なレベルであるように見える。しかし、易しい段階の対象には、問題意識を感じることが難しい。このギャップをどう埋めることが出来るだろう。難しいレベルの対象は、システムの初歩を応用するだけではすまず、システムに関するかなり多岐に渡る考察をして初めて、それをシステムとして理解出来るようになる感じがする。学校というシステムを捉える際の、「誤差」に相当する部分はどのようになっているだろうか。学校というのは、具体的に存在する対象にはそれぞれに個性的な違いがある。その個性の差がありながらも、その差を捨象して、学校という対象で抽象的に語ることが出来るのは、何が「誤差」として捨てられているのだろうか。それを考察することが、システムの初歩の理解としては妥当なものになるだろうか。また、システムの抽象論においてトートロジーに当たる部分はあるのだろうか。必ずしもいつも成立するとは限らないような言説によって、その理解が進むというような部分があるだろうか。学校というシステムは、システムの初歩を理解するにはあまりふさわしい対象ではないかも知れない。ちょっと複雑すぎるシステムかも知れないが、とりあえずよく知っている対象ではあるので、これで何とか初歩の段階を乗り越えられないかを考えてみたいと思う。システムという考えを学校という対象に応用することによってどのような帰結が得られるのか。新しい発見がもたらされれば、応用の意義も深まるのではないかと思う。
2006.10.16
コメント(0)
「夫婦別姓」の問題と「日の丸・君が代強制」の問題は、全く別の問題のように見えるが、そこには共通した構造も見ることが出来る。それは、どちらも選択の自由がなく、自己責任による自己決定権を持たないと言うところだ。法的に認められた結婚をしたいと思えば、今の日本では同氏にしなければならず、戸籍上の氏を旧姓のまま夫婦で別々にして婚姻届を出すことが出来ない。そこで、戸籍上の姓(法的に認められた姓)において、選択の自由の幅を広げるために民法の改正を提案しているというのが現在の状況だ。これに対する反対は、民法の改正によって直接的な被害を受ける人々から出されているのではない。家族の絆が壊れるという論理も、それは姓を変えた家族について言われていることで、反対者自身は姓を変えていないのだから、反対者の家族の絆が壊れるわけではない。自分の責任で選択した夫婦別姓で、その選択をした家族が絆を壊しても、それは自己責任なのではないだろうか。それに家族の絆が壊れるというのは、必ずそうなるという科学法則のようなものではなく、反対者からはそう見えるという予期に過ぎない。そうなるかどうかは、夫婦別姓にしてみなければ分からないことだ。夫婦別姓にしても家族の絆が壊れることなく、むしろ温かい思いやりによって結びついた家族も存在する可能性は大いにあると思う。家族の絆を結びつけるのは、具体的な関係性であり愛情だからだ。姓だけが絆を決定する要因ではない。絆が壊れる恐れがあるからという理由で、それを望む人の要求をはねつけるとしたら、それはパターナリズムの弊害になるのではないだろうか。なぜ自己責任による、自己決定権というのを認めないのだろうか。「夫婦別姓」を認めない方が社会的には正しいのだと言うことは、100%正しいと証明されることではない。それなのに、その要求を持たない、それを必要としない人々の反対でその願いが潰されると言うことに僕は違和感を感じる。それは、単純に、自分が気に入らないからそのことの邪魔をしているように映らないだろうか。パターナリズムというのは、ものをよく知っている大人が、経験の浅い子どもに対して、深い知識と洞察の下に正しい判断をアドバイス出来るときに正当性を発揮する。しかしどんなときでも大人の判断の方が正しいとしてしまえば、パターナリズムの弊害が生まれるのではないかと思う。大人は知識も経験もあるが、それでもなお世の中というのは複雑なもので、全く経験したことがない新しい局面というものに遭遇することがある。そんなときには、大人の判断も子どもの判断も、どちらも不確かという点では変わりがない。子どもの判断にあまりにも無謀な点が含まれているなら、それは拒否される理由になるだろうが、結果的にどうなるか分からないが、たとえ失敗したとしても自己責任でその失敗を引き受けられると判断出来るなら、自由を望む人々の願いを実現する方向へ行くことが、民主主義社会としては望ましいのではないかと思う。「選択的夫婦別姓」の提案は、別姓を望む人にそれを選択する自由を与えて欲しいというものだ。望まない人に押しつけるというものではない。だから、このことによって被害を受ける人が出てくることは想像しにくい。「夫婦別姓」を選択したことによって、結果的に不都合に遭遇したとしても、それは自分で選択したことなのだから、自分でその不都合を引き受けるという自己責任の原則を持てばいいのではないかとも思える。どうして願いを潰してまで反対するのかという理由がすっきりとは分からない。民主主義の発展は自由の拡大とともにあると僕は思っている。だから、自由を制限するには、制限するだけの確かな理由が必要だと僕は思っている。この確かな理由というのが、「選択的夫婦別姓」という民法改正に反対する人からはどうもすっきりした論理が提出されていないように感じる。パターナリズムの弊害を強く感じるものだ。「日の丸・君が代強制」の問題の本質にも、パターナリズムというものを僕は強く感じる。日の丸・君が代に敬意を表すと言うことが無条件に大事なことであると言うことが前提とされて、それを拒否するという態度などあってはならないものだと考える人がいるようだ。しかし、それが正しいというのは、論理的にも現実的にも証明出来ることではない。無条件にそう信じる人が圧倒的多数を占めたときに、社会的な雰囲気として、「日の丸・君が代に敬意を払わないことはケシカラン」という道徳が成立するのである。「日の丸・君が代に対する敬意」というものに疑念を感じて、それを拒否しようとするものに対して、その判断が間違っていて、敬意を表す方こそが正しいというのは、よく考えてみればどちらが正しいか分からない問題だ。それを自分の方が正しいとして押しつけようとするのは、悪しきパターナリズムであり、その弊害だと言えるだろう。パターナリズムが、反発を感じるような押しつけになるのではなく、素直にしたがっていけるようなものになるには、アドバイスを受ける方がそのことを正しいと感じ取って、むしろ自らの選択でパターナリズムによるアドバイスを受け入れることが必要だろう。仮説実験授業研究会などでは、子どもが押しつけだと感じないことはどんどん押しつけてしまえ、ということを言っている。自己決定でパターナリズムを受け入れるときは、パターナリズムの弊害が出てこないと言うことだ。しかし、それを不当な押しつけだと感じる心情が生まれるようなら、そこにはパターナリズムの弊害が生まれてくる。不当な押しつけだと感じることは、自己責任を感じる心情もなくなるだろう。まずい結果が起これば、それは押しつけた方が悪いのであると恨みを持つようになるのは自然な感情だ。受験勉強の圧力だけを感じていた子どもたちが、勉強で挫折したときに、「人生を返せ」と叫ぶのは、人生を壊した原因はパターナリズムの押しつけをした方にあるのだという主張だろう。日の丸・君が代に敬意を払うということは自明な前提ではない。「敬意を払わない」という選択肢も存在しうる、選択肢の分かれたものなのだ。もし「敬意を払う」と言うこと以外に選択肢がないものなら、それは選択肢になるのではなく、「選択前提」として決定しているものになる。ほとんど全ての人がそう合意しているのであれば、敬意を押しつけても、それを押しつけと感じる人はほとんどいない。押しつけは問題にもならないだろう。「選択前提」というのはそういうものだ。しかし、それを押しつけだと感じる人が一定の数を占めるなら、それは単に変人だと言うことで無視(捨象)出来る存在ではなくなる。その時は、「選択前提」が選択肢の一つになるという、再帰的な思考が必要になる。この再帰的思考は、「選択前提」を当たり前だと信じている度合いが強ければ強いほど難しくなる。しかし、かつてはみんな同じ感情を有していたという前近代的社会から、個が確立して、個人が個性を持った存在になってきたことが民主主義の発展であると理解するなら、再帰的思考によって「選択前提」が壊れて選択肢が増えることは、自由の拡大だとして歓迎することが出来るのではないだろうか。この自由の拡大の論理展開に間違いが含まれる場合もあるだろうが、それは論理展開を批判すればいいのであって、自由の拡大自体が間違っているとは言えないだろう。それは歴史を逆に戻すことになりかねない。日の丸・君が代に対して敬意を払うと言うことは、必ずしも「選択前提」ではなく、そうでない場合も考えうると言うことは、「選択前提」を自明だと思っている人にとっては感情的反発を感じるだろうが、それは感情だけで拒否するのなら論理的には間違いになる。日の丸・君が代が戦後の豊かさと平和だけを象徴しているのなら、それに敬意を払うと言うことの現実的な理由があるので、信念ではなく論理で敬意を感じることも出来る。しかし、それが戦前の存在と変わらない姿を持っていることから、戦後だけの豊かさと平和を象徴しているのではなく、戦争の暗い歴史をも象徴していると考えることが出来る。戦争中に軍国主義的教育がされて、思想的な弾圧があったことは確かだから、それに対して憤りを感じる人は、日の丸・君が代を拒否する心情が出てきても仕方がないだろう。また、戦争の遂行というものが、心情的にはどれほど崇高な理念を持っていようとも、具体的な展開においては悲惨で残虐な行為を伴うものであるかは、かつても今も変わらない。この戦争に対する拒否感から、それを象徴すると考えられる日の丸・君が代を拒否する心情も出てくるだろう。日の丸・君が代が、戦後全く別のものになっていたら、それが象徴するものは全く別のものになったので、式典での国旗・国歌の問題も、思想・良心の自由に関わらなかったかも知れない。だから、これは日の丸・君が代だからこそ起こっている特殊な事情でもあると言えるだろう。日の丸・君が代が連続した存在であることは、天皇制が連続したものであることとも関係していると思う。天皇制が、存在としては連続しているものであるにもかかわらず、その意味が戦前と戦後では全く変わっているのだと、日本国民が深く理解したとき、連続した存在である日の丸・君が代も、戦前の歴史から断ち切られるときが来るのかも知れない。なお、君が代・日の丸を、さらに抽象化した「国旗・国歌」の問題にして、これに敬意を払うべきかと言うことも僕は再帰的な問題だと思う。無条件に「選択前提」として「敬意を払うのが当然」とは思わない。これは、国家という存在をどう認識するかという問題と関わって現れてくる問題だろうと思う。国家によって弾圧されるマイノリティという存在であるときは、「国旗・国歌に敬意を払わない」という選択肢は正当なものとなりうる。むしろ、「国旗・国歌」が象徴する国家というものの欺瞞を暴くために拒否する態度を鮮明にすると言うことも許されるだろう。それをもっとも鮮やかに感じたのは、1968年のメキシコオリンピックの際の星条旗に拳を突き上げる拒否の行為だ。これは、オリンピックの場に政治性を持ち込まないという建前によって処分はされたものの、国家の欺瞞を暴くものとして幅広い支持を集めた。「国旗・国歌」を思想・良心の自由から拒否すると言うことはいくらでもあり得る。それに対して、お互いに敬意を示し合うというのは、両者に拒否する理由が存在しないからである。拒否する理由が存在しないのに、それに対して失礼な態度をとればマナーが悪いと言うことになるだろう。しかし、拒否する理由が存在し、その理由に正当性があると理解出来れば、拒否をすることはマナー違反ではない。むしろ、その理由を理解することに努めることが、民主主義者としての正しい態度だろうと思う。理由の如何を問わず、それをケシカランと思うのは、「選択前提」を再帰的に考えることが出来ないからだと自覚した方がいい。「選択前提」を再帰的に捉えられない人間は、そのことによって「アノミー」というパニック状態に陥る。そうなれば、ますます論理的な判断は難しくなるだろう。そのような面からも、「夫婦別姓」と「日の丸・君が代強制」の問題を考えてみたいとも思う。
2006.10.14
コメント(0)
安倍新総理の人気の要因の一つにナショナリストであるということが言われている。ナショナリストというのは、いろいろなイメージを持った言葉で、僕などはあまりいい印象を持っていない。だから、人気の源泉がナショナリストであるということにあると言われると、何か違和感を感じて仕方がない。ナショナリストであるということが、どうしてそれほど人気を高めることになるのだろうか。ナショナリストとポピュリズムの間には論理的なつながりを見つけることが出来るのか。それとも、確率的につながる可能性が高いと言うことなのか。歴史的なことを考えると、ナチスがドイツで権力を握ったのも、圧倒的な人気というポピュリズムによるものであると言えるだろう。ナチスのように、ある意味では間違った行動をしたナショナリストでさえも、人気という面ではとても高いものがあった。ナショナリストであることは、政治的には高い人気を得る必然性があるのだろうか。安倍さんの人気が高まったきっかけは拉致問題での行動だったと言われている。断固として強い姿勢を示すことが大衆的な共感を呼んだといわれている。これは、ナショナリズムの言説について書かれた次のような言葉とよく符合する。「(ナショナリズムは、)民族意識が文化的な段階から政治的な、したがって『敵』を予想する意識と行動にまで高まったときにはじめて、出現する。丸山眞男「イデオロギーの政治学」(1954年)より」(「はてなキーワード「ナショナリズム なしょなりずむ」より孫引き」)憎むべき悪・敵としての「北朝鮮」に敢然と立ち向かう正義の味方としてナショナリストである安倍さんは人気を博したという感じはする。明らかな悪を体現する敵がいるとき、その悪に立ち向かうナショナリストは、立ち向かうことによって善を意味し、正義の味方であることが分かるので、人々の賞讃の対象になるということは、論理的な必然性があるものに感じる。逆に考えれば、明らかな敵がいないときは、ナショナリストの人気はそれほど高まらないと言うことになる。世界中が平和で、人々がみんな友好的で仲がいいときは、ナショナリスティックな個別的な民族の結束などは必要なくなる。ナショナリストがポピュリズムを獲得する、人気を博すと言うことの必然性はこのあたりにあるような気がする。ナチスドイツにとって悪であり敵であったのはユダヤ人だったのだろうと思う。ユダヤ人に対してあれだけ残虐な迫害を行ったのも、それが憎むべき悪であり敵だったと言うことを前提にすれば、そのような行為に結びつく可能性も理解出来る。問題は、そのように相手を過大評価する判断が間違いだったのだが、それはどこから来るのだろうか。ナチスが登場してきた頃のドイツは、国として疲弊が激しく、国民は誰もが日常生活にも苦労するくらいの不満を鬱積していた。その不満の原因が正しくつかめないまま、不満だけが大きくなったところに、不満のはけ口としての「ユダヤ人」という存在があったのではないだろうか。確かにユダヤ人の一部は大金を儲けていて、ドイツ人民が苦しい生活をしているのに、なぜユダヤ人だけが豊かなのかという、妬みの気持ちから来る不満もあっただろう。自分たちの苦しさの原因が正しくつかめない人々は、現象的に豊かに見えるユダヤ人と、みじめに見える自分たち自身の姿を直結して、悪いのはユダヤ人だという思いを狂信的に持つに至ったのかも知れない。そのような社会的雰囲気があふれていたときに、過激にユダヤ人を攻撃するナショナリストが大衆的人気を博すのも理解出来る。冷静に考えればナショナリストの間違いは明らかであるにもかかわらず、誰もが冷静ではいられない時代的雰囲気が、その間違いを増幅させて大衆的に受け入れる素地を作ってしまう。ナショナリストがポピュリズムを獲得する構造というものがだいぶ見えてきた。それは、大衆の間に、理解が難しい苦しみや不満が蔓延していると言うことが第一に見られる。そして、その苦しみや不満をぶつける敵が見つけられる。この敵を激しく非難して、不満の溜飲を下げるという精神的な効果をもたらしてくれるので、ナショナリストは大衆に歓迎されるのだろう。日本社会は年間の自殺者が3万人を超えると言われている。大企業は空前の大もうけをしているにもかかわらず、中小の企業は倒産の危機にあり、労働者の大部分は、派遣労働者であり不安定な非正規雇用の状態にある。低負担高福祉だった政策は、財政の破綻によって低負担低福祉になった。これからは、高福祉を求めるならば、高負担になるという方向に向かうことになる。大衆にとって現在の状況は、かなり大きな不満を感じるものだろう。このような苦しい状況を抜け出るには、本質的には、現状を深く正しく分析して、問題を解決可能な形に設定し直して正しく対処することが必要だ。しかし、それをすれば、今まで利権構造の中にいた人たちの利権を壊すことが必要になる。長野県で田中康夫さんがやろうとしていたことは、そのようなことだったのではないだろうか。しかし本質的な解決はかなり難しい。このようなときに、気持ちだけでもすっきりさせるようなことが出来れば、問題は解決しなくても溜飲を下げることが出来る。そのためにちょうど都合のいい悪・敵として「北朝鮮」という存在がある。中国もその中に入れることが出来そうだ。そう考えると、現在という時はナショナリストにとってはかなり都合のいい時なのかも知れない。ナチスが犯した失敗は、ナショナリストの暴走と言えるものだろう。これは、悪・敵としてのユダヤ人を過大評価しすぎたために起きたように思う。日本のナショナリストが暴走しないように、「北朝鮮」を過大評価しすぎないように気をつけなければならないと思う。そのGNPは、日本の都道府県一つ分に過ぎない国力しかない「北朝鮮」が、どのように極悪非道に見えようとも、どれだけのことが出来るかと言うことは冷静に見つめておいた方がいいと思う。核実験にしてもその内実はそれほど大したものではなかったように言われている。核という言葉に敏感になるよりも、現状の通常兵器の段階でも、「北朝鮮」にとってはどれだけのことが可能なのかと言うことにもっと敏感になった方がいいのではないだろうか。核の危機を過大に評価することの方が危険ではないかとも思う。通常のミサイル攻撃でも、すぐ隣の韓国はもちろんのこと、地理的に近い場所にある日本にもかなりの被害を与えるのではないかと言うことの方を重視した方がいいのではないだろうか。核兵器を使う(使える)可能性は極めて低いと思う。だが、通常兵器は使いうる状態にあるだろう。核実験は単なる挑発だが、追いつめすぎて通常兵器を使用する暴発だけは避けたい。「北朝鮮」を、ポピュリズムのために、極悪非道な強大な敵として描くことには気をつけなければならないと思う。ナショナリストが人気を博す時代にいるだけにそのことが気にかかる。極悪非道で強大という属性だけを考えれば、アメリカなどはぴったりの相手のように感じるが、アメリカは敵ではないのでそのようなイメージを作ることは難しい。しかし、反米保守の正統派右翼は、アメリカの極悪非道さというのがよく見えているのではないかと思う。東京大空襲や広島・長崎の原爆によって、非戦闘員である一般大衆を警告なしに大量虐殺したという事実をとれば、極悪非道であることは明らかなのだが、なぜか日本人の一般感情の中には、アメリカに対する恨みというのはあまり感じられない。それは、戦後からの復興でかなり世話になったという恩を感じるところもあるからだろう。ナショナリストにとっては、悪や敵が本当の悪や敵でなくてもかまわない。大衆がそれを悪や敵と感じてくれれば、それに立ち向かうことで人気を得ることが出来る。ナチスドイツのような間違いを起こさないためにも、それが本当の敵なのか・悪なのかに敏感でいたいと思う。しかし、感情が高ぶった状態で、それを冷静に見つめようとするのは難しいだろうと思う。自分一人が冷静になったところで、多くの人がそのような冷静さを失っていれば、時代の流れを押しとどめることは出来ないからだ。どのようにすれば、感情に流されない冷静さを、社会の財産とすることが出来るのだろうか。安倍さんは、「北朝鮮」に関してはまだ断固として対処するナショナリストとしての面を見せているが、中国や韓国に対しては、敵対よりも友好の姿勢を見せ始めている。これは小泉さんとは違ってきた面だろう。安倍さんは、自らの信念よりも、外交的な判断を優先して靖国には行かないのではないかとも感じる。あるいは、誰にも分からないように行くというような行為を選ぶのではないだろうか。これは、安倍さんのナショナリスト性を薄めているという行為に見える。これは一時的には安倍さんの人気を落とすことになるかも知れないが、長い目で見れば正しい選択だったと評価されるのではないだろうか。安倍さんは、思ったよりも賢明な人なのかも知れない。安倍さんの友好な姿勢が、中国の外交政策に踊らされているだけなのか、国益を冷静に見つめた上での利害の判断によるものなのか。今後の結果で、安倍さんが本当に賢明な総理なのかどうかが分かるようになるのではないかと思う。安倍さんが、賢明な人であれば、ナショナリストを演じたのも、総理になるための手段としてポピュリズムを獲得するためのものだったと言えるだろう。そうであれば、安倍さんのナショナリズムはそれほど危険なものではないと思うのだが、果たしてどうだろうか。
2006.10.13
コメント(0)
山陰中央新報の「国旗掲揚・国歌斉唱/自然体で定着させよう」という社説には共感出来る事柄が多い。ここでは、東京地裁が示した判断で、「国旗に向かって起立したくない教職員や国歌を斉唱したくない教職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想良心の自由を侵害する」というものを妥当なものと受け止めている。ここで重要なことは、「懲戒処分をしてまで」と言うことで、このような処置が伴うことによって選択の自由を奪うことが問題なのだと考えられるわけだ。しかし、「国旗・国歌を敬うのは当然」と思っている人は、その前提の方が「内心の自由を尊重する」ことよりも上位に来てしまうので、反対をするという拒否の意志を示しただけで何か悪いことをしているかのような判断をしてしまう。だが、内心の自由を尊重することこそが民主主義の財産だと思えば次のような判断をするようになるだろう。社説では「問題は、それを強制することの是非についてだ。判決が指摘したように個人の自由を尊重する民主的な社会では宗教、思想、信条など各人の心の中に国や自治体のような行政機関が安易に踏み込むべきではない。行政上の権力を背景に処分や強制をするのは行き過ぎというべきだろう。」と語っている。また、この社説では公権力が内心の自由を侵すことの問題を指摘して、憲法によって公権力を規制することの正当性もよく分かるように説明されている。次のような記述だ。「ここでの問題は地方自治体という公権力が自ら決めた一定のやり方だけによって敬意を外部に表現するよう、法的に強制することについてだ。国旗や国歌への愛着は国民の間で長年かけてはぐくまれていく。それを強制するのは本末転倒ではないか。」「たとえ少数者であっても、心の自由は尊重されなければならない。それを多数者が踏みにじってきた歴史の教訓があるからこそ、憲法一九条は「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」と為政者を縛っている。」軍国主義下での日の丸・君が代の存在は、まさに内心の自由を「多数者が踏みにじってきた歴史の教訓」というものを持っている。その日の丸・君が代が、再び内心の自由を脅かすものになっているというのは象徴的な意味を持っている。現代日本では、日の丸・君が代は、内心の自由を制限しなければ人々の心に安定した価値を持つような存在にまだなっていないのである。これこそがいちばんの問題であって、その問題をそのままにして日の丸・君が代に対する敬意だけを強制すると言うことは、まさに本末転倒と言うことになるだろう。内心の自由を基に、自発的に敬意を持つように努力すべきなのだろうと思う。そのためには、敬意を持てない部分をなし崩し的になかったことにするのではなく、正当な方法で克服することこそが必要だろう。日の丸・君が代の強制が、未だに軍国主義の復活とともにイメージされることにこそ問題を感じるセンスが必要だ。そのイメージがあるということは、未だに日の丸・君が代には軍国主義の影が引きずられていると言うことを意味しているのだ。その影を白日の下にさらして、払拭する努力が必要なのである。忘れ去って、なかったことにするのは正しくない対応だ。他の新聞の社説でも基本的な論調は同じようなものが多い。次のようなものがある。「懲戒処分までして迫る都教委を「行き過ぎ」と厳しくいさめたものであり、この問題をめぐる他の訴訟にも、大きな影響を与えずにはおかないだろう。」「ただ、過去の歴史的な経緯から日の丸、君が代になお抵抗感をもつ人がいるのも現実だ。強制によって教育現場にとげとげしい対立が生まれている状況を見れば、式典の妨害などにならない限り、少数者の思想良心の自由は尊重されるべきとした判断には説得力がある。」(「神戸新聞 国旗国歌訴訟/「行き過ぎ」が指弾された」)「見解が想定するのは君が代、日の丸に対する異論の存在だ。それをどう見るかが問題になるが、判決は生徒に同調を求めないことなどを条件に、教職員の思想良心の自由は認められる、とする。少数意見を容認しつつ社会の多様性を保持する民主主義の理念に基づいている。」「国旗国歌の強制はしないが、教えることの大切さは認める。そんな姿勢から導き出されるのは「自然のうちに定着させる」ことへの強い期待感である。」(「高知新聞 【国旗国歌判決】教育に強制は要らない」)「個人の自由を尊重する民主的な社会では、宗教、思想、信条など各人の心の中に国や自治体が行政上の権力を背景に安易に踏み込むべきではない―という考えであり、今後の国旗、国歌の在り方を明確に示した判決といえる。」「しかし、ここでの問題は、国旗と国歌に敬意を払うべきかどうかということではない。地方自治体という公権力が、自ら決めた一定のやり方だけによって敬意を外部に表現するよう強制することの是非だ。」(「沖縄タイムス 思想良心の自由は侵せぬ」)「民主的な社会では、個人の自由が尊重されるべきで、宗教や思想、信条など、個々人の心の中に国や自治体が安易に踏み込むべきではない。 判決は、行政上の権力を背景に、職務命令によって「強制」と「処分」を繰り返してきた東京都教委の行き過ぎを戒める画期的な判決だと言える。」「判決については、国旗国歌法がある以上、それに敬意を払うのは当然で、拒否した場合、処分を受けるのも当然だと言う意見もあるだろう。 しかし、問題は地方自治体が自ら決めた一つのやり方だけで、敬意を法的に強制しようとすることへの是非だ。 憲法は19条で「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」とし、多様な世界観や相反する主張を互いに理解し、尊重することを求めている。このことから、例え少数であったとしても内面の自由は尊重されなければならない。」(「琉球新報 国旗国歌判決・異なる意見も認めるべき」)これら地方紙の社説は、ほとんど判決の趣旨を支持するもので、民主主義の観点からその判断が正しいとするものだ。しかし、全国紙の大マスコミである読売の論調はちょっと違う。読売の社説は次のように書いてある。「「教職員は、指定された席で、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」。今年の卒業式を前に、都教委が都立高校などに、そう通達したのは、式に国旗、国歌を正しく位置づけるためだ。」「教師が卒業式で起立を拒否するのは、高校野球の開会式で、運営に当たる大会役員が国旗に背を向けるのと同じだ。許されることではない。」「ワールドカップでも、日の丸を振る若者が目立った。国旗や国歌に対する自然な態度が育っている。 学校だけが社会の意識とかけ離れている。当たり前の姿に戻すべきである。」(3月31日付・読売社説 [国旗・国歌]「甲子園では普通のことなのに」 )この社説では内心の自由の問題は全く考えられていない。高校野球やワールドカップなどのスポーツの祭典と、学校における式典・教育の問題が同列に論じられるかという問題もある。また、同じ全国紙の産経でも次のような主張がされている。「朝日は「国旗・国歌の強制」は「憲法が保障する『思想及び良心の自由』を侵す疑いが強い」とする。一般社会の私的な場なら、この考え方も許されよう。しかし、学校は子供に知識やマナーを身につけさせる公教育の場だ。それを怠る先生には処分を伴う強制力も必要である。朝日の主張を推し進めると、教育は成り立たなくなる。」「日本の公教育を担う教員には当然、国旗・国歌の指導義務がある。通常の社会人以上に、子供の模範となるような行動を心がけねばならない。まして、公的な学校行事である卒業式において、生徒の面前で起立しない行為は到底、許されるものではない。」(4月3日 産経新聞社説 国旗・国歌 本質をそらした朝日社説)読売や産経は国粋的な右翼思想を代表しているのだという判断もあるだろうが、真っ向から対立するこの考え方に、どちらに論理的な正当性があるかを考えるのは意義のあることだろうと思う。なお読売と産経の社説は、直接見つけられなかったので「都教委処分問題の新聞の対応」というページから引用した。対立する社説の二つの論理を考えるとき、重要になるのは、どのような考えを原理・原則的なものとするかということだ。どのような価値観をもっとも尊いものだと考えるかという基本的な姿勢だろうと思う。判決を支持する社説においては、内心の自由を尊重する憲法的な価値観を、民主主義においては最も重要なものと考えている。それに対して、処分を伴う処置をしてでも国旗・国歌として日の丸・君が代を式典で位置づけたいと言うことを正当化する考えの基礎には、内心の自由よりも、そのような敬意を教える教育の方が大事だという考えがある。この観点は、果たして民主主義としての正当性を持っているのかどうか。かつて歩んだ軍国主義の道を反省せずに再びたどっているだけではないのか。内心の自由の問題や民主主義の歴史などをもう少し調べ直してから、この疑問をもっと深く考えてみようと思う。
2006.10.12
コメント(2)
民法改正によって、「選択的夫婦別姓」という行為を法的にも正当な行為にしようという方向は、「姓(=法的な氏)を自由に選択する」という行為が、自由の行使として正当性を持っていると考えられるならば、そこには反対する理由は何もなくなる。自由として認められるべきであるなら、どのような技術上の困難があろうとも、それをクリアする方法を考え出して自由を保障しなければならない。それは自由の保障の方が重いものになるだろう。これが基本的人権のようにほとんど制限のないものではなく、その自由の行使が何らかの公共の福祉に触れる恐れがある自由なら、その不都合をもたらさない範囲での制限を設けて自由を認めるか、あるいは、どうしても不都合が解消出来ないのであれば自由は認められないと結論するしかない。いずれにしても自由の主張の根拠が非常に重要なものになる。姓を選択することが自由なのかどうかというのは、かなりの異論があるようなのでいきなりこのことを考えるのではなく、自由に対してあまり異論がないと思われる基本的人権として認められている自由のことをまず考えてみたい。基本的人権において認められている自由が、何故に自由としての正当性を持っているかを考えることで、そのアナロジー(類推)で姓の選択の自由も考えてみたいと思う。本質的に同じものだと考えられるなら、姓の選択は自由であるべきだと思うからである。さて、日本国憲法で基本的人権として認められている自由を拾い出してみると次のようなものがあるだろう。自由権(国家からの自由、恐怖から免れる権利(前文)) 1 精神の自由 (ア)内面的精神の自由 ・信教の自由(政府による国教指定の禁止、政教分離 (第20条第3項)) ・思想・良心の自由(特定の信仰・思想を強要されない、また思想調査をされない権利 (第19条、第20条、第21条)) ・学問の自由―大学の自治保障 (イ)外面的精神の自由 ・表現の自由 ・集会・結社の自由 ・通信の秘密 2 経済の自由(経済活動の自由) ・居住・移転の自由 ・移動・国籍離脱の自由―外国移住の自由(第22条第2項) ・職業選択の自由―営業の自由(第22条第1項) ・財産権の保障―財産権 3 人身の自由 ・奴隷的拘束及び苦役からの自由、刑罰執行以外の意に反する使役禁止(徴兵の否定)(第18条) ・法定手続の保証(第31条) ・現行犯逮捕以外での、令状なき拘束・逮捕の否定(第33条) ・令状なき捜索・押収の否定(第35条第2項) ・住居の不可侵(第35条) ・公務員による拷問・残虐な刑罰の絶対禁止(第36条) ・黙秘権の保障 ・自白の強要禁止とその証拠能力否定(第38条) ・刑事裁判の公開原則と刑事被告人の権利(第37条) ・弁護士依頼権 ・証人審問権(「人権 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」)さて、これら憲法によって保障された自由は、当たり前に我々の生活にとけ込んでいるので、今さらその根拠を求めるというのはなかなか難しい。当たり前じゃないかという感覚が強くて、論理的な正当性(もっとも原理的な根拠から演繹される)というものがあるのかどうか分からなくなる。それは存在するから存在するという同語反復しか言えないのではないかという心配もある。上記のウィキペディアに寄れば「ホッブズの最初に唱えた社会契約説によれば聖書に記述されている楽園(原始社会)においても(自然に)存在した権利である生命権と自由権が自然権とされる」と記述されている。つまり、もっとも原理的な根拠はまずは「聖書」の記述におかれていたということだ。「聖書」に反対する人がいない時代は、この根拠で十分だっただろう。しかし、自然科学的な方向の思考が進めば、「聖書」を根拠にすることは、誰もが賛成するというわけにはいかなくなる。キリスト教の神を信じない日本人にとっての根拠は、次のように記述されている。「かつては、人権の根拠は自然法つまり神に求められていた。しかし、世俗主義の現代においては人権そのものが根拠・命題と自然法論では主張される。これが日本においては個人の尊厳に求められる。日本国憲法第13条の「個人の尊厳」は、この意味に解される。この場合人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられる。一方で法実証論においては人権の根拠は単純に法律(殆どの国では憲法)にあるとされる。」法実証論における、法律が根拠というものだと考えると、「選択的夫婦別姓」という法律が成立していない時点では、自由の根拠はなくなってしまう。それが自由であるという理由から、法律の正当性を主張することが出来なくなる。だから、「選択的夫婦別姓」において、姓の自由の根拠を求めるなら、「個人の尊厳」というものに求める方向しかないだろう。これは論理的にはどうなっているのだろうか。「尊厳」というのは、辞書的な意味では「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと」と書かれている。自由の根拠を、この辞書的意味のままで解釈したら、またそれは同語反復になってしまう。「自由が保障されなければならないのは、個人の尊厳が保障されなければならないから」 ↓「その自由は侵害されてはならないから守られなければならない」「なぜ守られなければならないのか」という問いに対して、この方向の思考では、「それは守られなければならない存在だからだ」としか答えられない。「守られなければならない」という属性は、証明抜きで前提されてしまう。これでは論理的な根拠にならない。「尊厳」という言葉を、辞書的ではない、根拠としてふさわしい意味を持つものとして考え直さなければ、根拠を考えることが出来なくなる。「尊厳」という言葉の意味には、「気高く犯しがたい」というものがある。これを逆に考えると、「尊厳がある」と判断されるものに対しては、それを侵した場合の弊害があまりにも大きくなるので、そのことから「尊厳がある」と判断される可能性もあるのではないかと考えることが出来る。保障されるべき自由については、その自由が侵されるときには、個人の尊厳をも侵すのだと言うことが演繹されるのではないだろうか。もしこのことが演繹されるなら、その対偶として 「個人の尊厳が侵されない」 → 「自由が侵害されない」ということになり、個人の尊厳が侵されない(=守られる)と言うことが保証された範囲内での自由に限り、それが侵害されないということが正しくなければならないと言えるのではないかと思う。この場合の「個人の尊厳」は、抽象的な「尊い、厳か」という意味よりも、「気高い、犯しがたい」という、「人間的であるということを守る」という意味で解した方がいいだろう。前出のいくつかの自由を見る限りでは、この自由が侵害される、つまり自由ではなくなるという、選択肢を認めないという状況があったとき、「人間的である」ことが侵されると考えられるのではないだろうか。日の丸・君が代の強制との関連で考えた「思想・良心の自由」に関しては、その自由を認めないと言うことが人間的に生きると言うことを否定することになると考えられる。それは複雑化して発展した社会においてそう言えるのではないかと思う。誰もが同じような生き方をしている時代だったら、「思想・良心」の選択肢の幅も狭く、そもそも自由だといってもそれほどの違う選択をするものはいなかっただろう。しかし現代社会のように複雑化した社会では、「思想・良心」の対象になるものもたくさんあるに違いない。日の丸・君が代が戦争の歴史を背負い、その戦争においても、侵略戦争だったかどうかという議論が多岐に渡り、犯罪的行為の是非についても異論がたくさんある状態では、これが「思想・良心」の自由を巡る考察の対象になるだろう。異論があるものに対して、異論を考えることそのものまで否定することになれば、「人間的な生き方」の否定につながり、これが「思想・良心の自由」の侵害が、個人の尊厳の侵害につながるという論理になるのではないか。憲法で保障された自由は、その侵害があったときに、人間的な生き方にまでもその害が及ぶと言えるのではないだろうか。だからこそ守られる必然性があるということが、それが自由であるという根拠になるのではないだろうか。それは時代と関係のない自然科学的なものではないと思う。時代の変化とともに、自由の幅が変わってくると思う。選択肢が増えるとともに、選択出来る範囲も増えていかなければならないと思う。姓の選択についても、今の時代の要請が、その自由を認めなければ人間的な生き方を侵害するものになるといえるなら、その自由は認められるべきだろう。その時は、どのような困難があろうとも自由は認められなければならない。しかし、そこまでの強い要請がないときは、一定の制限の下に、認められるかどうかが考察されなければならない。姓の選択に関しては、果たしてどのような判断が出来るだろうか。賛成論・反対論を精査して考えてみたいと思う。
2006.10.11
コメント(0)
家族という面から「選択的夫婦別姓」に反対している考え方を論理的に検討してみたいと思う。エントリーのタイトルは反語的に使ったもので、僕の直感としては「そうではない」という結論を導きたいと思っているものだ。その論理展開のポイントは、「選択的夫婦別姓」によって壊されるのは、「制度としての家族」であって、「現実の関係の中の家族の絆」が壊されるのではないと言う判断だ。「制度としての家族」にとって「氏」が変わることは決定的な変更になる。特に子どもの「氏」がどうなるかは、「家名」というものの相続に関しては重要な問題だろう。そのような制度についての思い入れが強い場合は、戸籍上の「氏」が自由に変えられるというのは、「家族制度」というものを破壊すると映っても無理はない。しかし現実の愛情関係から生まれる「家族の絆」というものは、「氏」が同じという根拠からそれが論理的に帰結出来るものではない。「氏が同じ」という形式には、「家族の絆」が生まれるという内容は含まれていない。その形式に含まれているのは、「家名が続く」という「家族制度」の継続なのである。だから、「氏が同じ」という形式は、「家族の絆を守る」という内容とは、論理的には無関係だ。この内容に関しては、それは形式だけだという批判が成り立つ。「家族の絆」が守られるには、家族相互の間に愛情や尊敬の暖かく細やかな感情を持つという関係があるという前提がなければならない。これは「同姓」という形式とは関係なく、現実の状態こそが「家族の絆」を形成する根拠になる。たとえ姓が同じでも、家族双方の存在を疎ましく思い、家族から解放されることこそが自分の幸せだと思っていたら、そこには「家族の絆」は存在しないだろう。実際に「家族の絆」を強く感じるのは、自分の経験から行っても、同じ姓を持っていることよりも一つの大きな事件を乗り越えたときに感じることが多い。僕の妹は20代の最初の頃にB型肝炎に感染し、それが劇症肝炎という病気にまで進行した。この病気の場合、生還するのは4人に1人だと言われた。危篤状態と言ってもいい、意識のない状態が一週間ほど続き、幸いにもこの病気を克服することが出来た。この事件を乗り越えた一週間ほど、家族の絆を強く感じたことはなかった。「選択的夫婦別姓」への反対論者が、「家族制度を壊すから反対だ」と言うのなら、それは論理的に理解出来る。しかし、「家族の絆を壊すから反対だ」と言われると、それは論理的におかしいのではないかと感じる。「家族制度」と「家族の絆」では、その意味するところである内容が違うと思うからだ。戸籍上の「氏」と関係あるのは「家族制度」の方であって「家族の絆」ではないからだ。しかし、「氏」は家族としての象徴であり、この象徴作用が壊れることの影響で「家族の絆」が壊れるのだという、直接的な論理の帰結ではなく、間接的な関係から「家族の絆」が壊れるという論理を展開しているように見えるものもある。林道義さんが「姓は「単なる形式」ではない、家族統合の象徴である」というページで展開している論理はそのようなものに見える。ここでは、「同姓制度が家族の一体感を強める(別姓は家族の一体感を弱める)という我々の主張」に対して「同姓は「単なる形式」であり一体感とは関係ないと反論する」人々への再反論というものが述べられている。「家族の一体感」は「家族の絆」と呼んでもいいものだろう。これは直接的な論理関係としては、「同姓は「単なる形式」であり一体感とは関係ない」という帰結しかない。だから、そうではないと主張するには、直接的ではない関係としての意味を証明しなければならない。林さんの再反論の一つは、「単なる形式」であるということへの反論で、「単なる形式ではない」という主張するものだ。「単なる形式」では「一体感とは関係ない」としか言えないが、「単なる形式ではない」と主張出来れば、「一体感と関係ある」とも言えるだろうという論理の展開だ。林さんは、この論理の展開で、「形式」と「内容」という一般論を根拠に、「単なる形式ではない」と言うことを証明しようとしている。僕は、これは論理的に間違っているのではないかと感じる。林さんは、まず「まず強調しなければならないのは、世の中に「単なる形式」などというものは存在しないということである。形式は内容を補強し、内容は形式を必要としている。形式と実質は不即不離の関係にある。堕落や腐敗した場合にだけ形式と内容が乖離するにすぎない。」と語っている。これは抽象的な一般論の範囲では正しい主張だろうと思う。「内容のない形式は存在しない」というのは、抽象論としては正しいだろうと思う。これは、集合論的に言えば、その集合を特徴づける記述(内容)がない場合は、物の集まりとしての具体的な集合は決定出来ないと言うことにも通じる考え方だろうか。内容のない形式というのは、言葉としては表現出来るが、実際にそのようなものを考察の対象にしようと思っても、考察出来ないのではないかと思う。内容を持たない形式は、形式としても決定しない。だから考察の対象にならないので、存在という判断が出来ない。これは原理的に出来ないのであって、そのようなものは存在という属性を考えることも出来ない、世界の外の存在だと言えるのではないだろうか。なおこのときに「世界の外の存在」と語るときの「存在」はメタ的に語った意味での「存在」であって、存在しないものの存在を語っていると受け取ると論理が混乱するだろう。林さんの上の主張は、具体性を捨象した、抽象した意味での「形式」と「内容」に関しては成立する一般論としての真理になる。しかし、これは論理のレベルではあくまでも一般論としての正しさをもっているだけなのだ。捨象された具体性の段階では、この一般論がそのまま適用されるのではない。そのままベタに現実にこの一般論を適用すれば、それは論理の間違いになる。「形式」が常に「内容」を伴うというのは、一般論としては正しい。しかし、具体的な存在の「形式」が、ある具体的な「内容」を伴っているというのは、その具体物の意味という関係性を検討しなければ、その「形式」の現実的な「内容」なのかというのは、この一般論からは帰結出来ないのだ。ある種の「内容」を伴うと言うことは一般論からは帰結出来る。しかし、その「内容」が具体的にどのようなものかというのは、具体性が捨象された一般論からは出てこないのである。同姓であるという形式からは、そこから生まれる何らかの「内容」が引き出せるだろう。同姓が同氏と同じであれば、その「内容」は「家族制度を守る」というものになるだろう。しかし、その「内容」が「家族の一体感を強める」「家族の絆を守る」というものになるかは、「内容」の存在だけからは言えないのである。現実の「形式」つまり同姓であるという状況が、どのように「家族の一体感」や「家族の絆」と関係しているかという意味を考察しなければ何も言えないのである。林さんは、「夫婦同姓は決して「単なる形式」ではない。それは家族統合のための大切な象徴であり、また日本文化の基本の型である。」と主張しているが、この主張の正しさは、一般論からは証明されない。だから、具体的な側面からこのことの正しさを結びつける論理を林さんは提出している。それは次のようなものだ。「どんな集団や組織にも必ず統合のための象徴があり、たとえば学校や会社には記章があるし、どの国家にも象徴としての国旗と国歌がある。宗教も神社や卍(まんじ)や十字架といった象徴を持っている。それらは同じ集団に属するという意識を高め、きずなを強める働きをしている。」これは帰納的推論の一つで、現実の事実として「必ず統合のための象徴」があるので、「夫婦同姓」もそのようなものだろうと帰結するものだ。しかし、帰納的推論というのは、仮説の提唱に関しては意味があるが、それはあくまでも仮説であって検証された真理ではないというとらえ方をしなければならない。だから、このことだけでは、「夫婦同姓」は「家族統合のための象徴」である可能性はあるが、それはまだ可能性を言えると言うだけのことで、断定ができる真理ではない。林さんが語る「どんな」の意味が、数理論理的な「任意の」という言葉と同じ意味を持っていれば、林さんの主張も論理的に導かれると言うことになるのだが、数学と現実は違うので、これは「任意の」という意味に受け取ることが出来ない。林さんの帰納的推論には別の帰納的推論を対置することが出来る。それは、「統合されている組織こそが、その象徴としての何らかの存在を持っている」とする推論だ。つまり、象徴があるから統合されるというのではなく、論理的な順序としては逆なのではないかという推論だ。組織が統合されているという、組織として機能している状況があれば、その統合を象徴する存在が見つけられるというのは、現実解釈としては論理的なつじつまが合うのではないだろうか。家族がお互いに細やかな愛情を持っていい関係を作っているとき、このように家族の絆が強いのは、お互いに血がつながっているからだと象徴的に考える思いが生まれてくる。これは、現実に家族の強い絆があると言うことから、血のつながりが尊いという象徴的な考えが生まれてくると解釈することが出来る。これを逆にして、血のつながりがあるからこそ愛情が生まれ、家族の絆があると考えることも出来る。「血縁主義」と呼ばれるような考え方はそういうものになるのではないだろうか。これは、どちらが正しいと考えるのが妥当だろうか。自然科学的な唯物論を基礎にすれば、現実の条件があるからこそ、思想としての「家族の絆」が生まれると考えるのが妥当だろう。しかし、観念論的に「血縁主義」というようなイデオロギーが、血のつながりのある家族への愛情を生み出す可能性はある。しかし、それはイデオロギーがそのような考えや気持ちを生んだのであって、物質的な意味での「血のつながり」が、人間の心に影響してそのような考えや気持ちを生んだのではない。論理的にはそのような主張は出来ない。「夫婦同姓」が家族の一体感を強めるというのも、「夫婦同姓」という形式から生まれるものではなく、そのようなイデオロギーを持っているときに、社会的にそのような考えや気持ちが生じる可能性が高まるのだろう。そのようなイデオロギーが弱まった現在は、同姓であったり、血のつながりがあったりするだけでは、なかなか家族の一体感が強まらないと言うのが現実ではないかと思う。このイデオロギーを復活させて強めたいというのが、「夫婦同姓」論者と言うことになるのではないかと思う。僕は、これは極めて困難だと思う。新しい価値観の創出に努力した方が、現実的には有効なのではないかと思う。「選択的夫婦別姓」は家族の絆を壊すものではないと思う。それは、権利として認められるものであるかどうかという判断の方が、本質的に重要なのではないかと思う。姓というものが公共的存在であるかそれとも私的存在であるかどうかという問題がより本質的ではないかと思う。姓というものが、個人の持ち物であるのか、個人を越えた「家族」あるいは「家」のものであるのかということだ。今度はそれを考えてみたいと思う。
2006.10.09
コメント(0)
「思想・良心の自由」というものをひどく勘違いして理解している人がいるような気がする。「思想」と「良心」というものを、辞書的に解釈すると平たく言えば次のようなものになる。・「思想」=「心に思い浮かべること・考えること・考え」・「良心」=「善悪・正邪を判断し、正しく行動しようとする心の働き」「思想」の方は、哲学的なものになれば、もう少しまとまった体系的なものになるが、要するにどちらも心の問題であって、人間の内面の問題である。それが直接的な行動に結びつかない限りでは他人に迷惑をかける種類のものではない。これらが自由を保障されなければならないということは、心に思うだけなら、その思ったことに対する責任は生じないと言うことなのである。責任は、具体的な行動とその結果としての事実に対して発生するのである。この自由を勘違いする人たちの中には、「間違った思想」や「間違った良心」は持ってならないと考える人がいるようだ。戦争中に弾圧された共産主義思想などは、このように解釈された「間違った思想」だったのだろうと思う。本来の「思想・良心の自由」というのは、その「思想」や「良心」がたとえ間違ったものであろうとも、思うだけなら自由だという考えから保障されているのである。自分から見て間違ったと思うしかないような言説を見ると何かむかつく気分になることは分かる。しかし、それは思うだけなら自由であり、言論として発表するだけなら全くの自由なのである。それが具体的な行動に結びつくときに、その内容の間違いというものが影響を与えてくるのである。言説の間違いというのは簡単に判断出来るものではない。人間は罪深い生き物であり、全てが滅んだ方がいいという思想が間違ったものであるかは簡単には分からない。宗教的な終末思想というのは、そのような考えを抱くことが多い。これが間違いであるなら、宗教の多くは間違った思想だと言うことになってしまうだろう。この思想に対しては間違っているかどうか分からない。だから、正しければそれを認める・間違っていればそれを認めない、などとすればそれを認めるかどうかは決定出来なくなる。全ての思想に対して是非を判断することなど出来ないのだ。だから、心に思うだけで、まだ実害を出していないのであれば、それは、たとえ何を思おうとも自由だとすることが正しいのである。この心の自由を侵害すると言うことは、心に思う選択肢を認めないと言うことである。ある物事を考えるときに、一つの結論しか認めず、他の考えを選択させないとしたら、それは意志の自由を剥奪したことになる。日の丸・君が代の強制を指示した都教委の通達が、このような選択肢を認めない、自由を侵すものであったかどうかが、「思想・良心の自由」を侵害するかどうかの判断で大きく関わってくるものになるだろう。日の丸・君が代に対して、どのような思想を持とうと、それは思うだけなら自由である。それを、「侵略戦争のシンボルとして、忌まわしい軍国主義を象徴するものとして理解する」のも、思想の自由においては十分あり得る受け止め方である。逆に言えば、「日本の国の象徴として敬意を示す対象である」と考えるのも、思想の自由から十分あり得る考え方である。問題は、どちらか一方の思想だけしか許さないとすれば、これは思想の弾圧になるのだと思う。自由を侵害することになる。戦争中に共産主義が弾圧されたのは、その考えを持っただけで罪に問われたのだから、これは正真正銘の弾圧であり思想の自由の侵害であると思う。都教委の通達においてはどうだろうか。教員自身が、日の丸・君が代に対して戦争の記憶を想起して、それが侵略戦争のシンボルだと考えること自体を弾圧するものになっているだろうか。それはさすがにないようだ。今は軍国主義の時代ではないから、本当はそうしたかったかも知れないが、あからさまにはそうはできない。つまり、思想そのものは弾圧の対象になっていない。しかし、判決では「思想・良心の自由」の侵害だと語っている。これは、「思想」から生まれる「良心」に従った行動において自由を奪ったと判断しているのだと僕は思う。日の丸・君が代が侵略戦争のシンボルだと思えば、それを賛美するような行動は、「良心」から来る善悪の判断による行動からは拒否せざるを得ないと考える人間がいても仕方がない。この拒否の行動は、「良心の自由」の範囲内であると裁判官は判断したのだろうと思う。しかし、通達では、拒否の行動を認めていない。拒否をした教員には処分を科すことが結果的に行われている。「思想」から生まれた「良心」によって拒否の行動を示すことを認めなかったことが、「思想・良心の自由」を侵害したことになると判断されたのだろうと思う。歌わない・礼をしないということは、「良心」を表現する行動だと考えられる。これは、侵略戦争のシンボルとしての日の丸・君が代という思想の下にそうなるのであって、一般的に「歌わない」「礼をしない」と言うことが「良心」の表現であるといっているのではない。論理に慣れていない人は勘違いするかも知れないので、ここで断っておく。そのような行動が実質的な被害をもたらしていないと言う判断が、「掲揚や斉唱に反対する教職員の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」ということにつながっているのだろう。もし、拒否することが処分に値するのなら、それは実質的に教育において害悪がもたらされたと言うことが証明されなければならないだろう。人間が何を思っているかという、心の内面で裁くことは出来ないのだ。責任というのは、その行動において実際に現れてくる実害について問われなければならない。心に思う内面で裁くような処分は、憲法に保障されている「思想・良心の自由」を侵害するのである。なお「思想・良心の自由」は憲法で保障されているものであるが、憲法というのは、国家権力に対する制約として設定されているものである。だから、これで違反が問えるのは、基本的には国家権力に対してであると考えられる。東京都教委は、直接的には国家の機関ではないけれど、地方に移譲された国家権力の一部を担う機関として、憲法違反が問われたのではないかと考えられる。大臣の発言などが時に憲法違反を問われるのは、大臣は国家権力を個人で体現する存在と考えられているからではないかと思う。いずれにしても憲法違反を問える対象は国家権力以外にはない。国家権力という公的な対象ではない、私的な対象が行っているように見える憲法違反的な行動に対してはどのようなことになるだろうか。それはそのような行動をしている私的対象を取り締まる法律の制定を国家の義務として科すると言うことで憲法が関わってくる。国家は憲法を守るために法律を整備しなければならないのである。mechaさんが語っていた、不当解雇を許さない労働基準法などは、そのような憲法の意思を守るための法律なのではないかと思う。この問題に直接関わっているものではないが、夫婦別姓の問題も、基本的人権として保障された「自由の権利」と関わる考え方が出来ないだろうかと思う。夫婦別姓の問題は、究極的には、そのような要求が個人の権利として許されるものであるかどうかという問題になってくるのではないだろうか。いくら制度変更が難しかろうと、今よりコストがかかるようになろうと、個人の権利として保障されるべきだと判断されれば、法律は改正されなければならないだろう。夫婦別姓の問題は、心に思うだけのものではなく、実質的な制度改革を伴うものである。だから、その制度改革が、どのような弊害をもたらすかと言うことで、正当な権利として認められるかどうかが判断されるのではないだろうか。「他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する」という判断がされれば、むしろ「選択的夫婦別姓」という法律を制定することこそが、憲法の意思を実現することになるのではないかと思う。考えてみたいことだ。
2006.10.07
コメント(0)
PPFVさんが「[毎日新聞]靖国神社遊就館:米が批判の記述修正 アジア関連は変えず」というエントリーで紹介している毎日新聞の「靖国神社遊就館:米が批判の記述修正 アジア関連は変えず」という記事に、非常に興味深い内容が書かれている。この修正に関しては、僕は「アメリカに言われたから変えるという態度は、愛国的ということから見ていかがなものか」という印象を持ったのだが、「アメリカから言われたから」という批判は当たっていないという意見もあったようだ。特に時間的な問題を指摘してそのような主張をしているものがあった。アメリカの批判や岡崎氏の文章が発表された直後に、遊就館がその修正という対応をしたのは、時間的に早すぎるというのだ。もしそれが影響したのなら、少なくとも何らかの検討をする期間が必要であり、すぐに対応出来たのは、そのことを以前から考えていたからだという推論でそのような主張をしている。例えば「おやびっくり、昨日の今日ですから、でも「君子の過ちや、日月の食の如し…」」というブログ・エントリーでは、次のような主張をしている。「偶然でしょうが、きのうの今日のことなのでくりさんもびっくり。ちょうど夜中にブログを書いてアップし、朝起きたら寝ぼけまなこにこの紙面ですから。岡崎氏も知らずに「正論」を書いたようです。ニュースを産経記者から聞いて「早急に良心的な対応をしていただき感動している」とコメント。4月ごろから見直しの検討を始め7月ごろから本格的に見直し作業に入ったというのでウィル氏の批判や岡崎氏の「正論」が影響したわけではありません。別の批判があちこちからあったのでしょう。要するに、誰が見てもチョットおかしい部分だった訳だと思います。」これは理屈としては通っているようだが、ここで推論されているのは、「アメリカから言われたから」と言うことの否定ではない。「ウィル氏の批判や岡崎氏の「正論」」の記事が直接的に影響して修正したのだという主張を否定しているに過ぎない。4月頃から見直しの検討をしていたということだが、それがアメリカに言われたからであって、他の国から言われたときにはそのような対応をしていないと言うことがあれば、やはり「アメリカに言われたから修正したのだ」という批判の可能性は残る。毎日新聞の記事は、そのような疑問に答えてくれるような面白い記事だった。そこでは、「靖国神社の最高意思決定機関である崇敬者総代会が5日開かれ、神社内の戦史博物館「遊就館」の展示のうち、米国から批判が出ていた第二次世界大戦の米国関係の記述を見直すことを決めた。10月中に修正文を作成し、年内をめどに展示を変更する。一方、中国や韓国などアジアの国々から「侵略戦争の認識が欠けており、アジアの独立を促したと正当化している」などと批判されている展示については、今のところ見直さない方針だ。」と報道されている。アメリカから言われた部分だけを修正するに際して、「アメリカに言われたからだ」と理由を述べれば、これはアメリカ追随主義であり、主体性のなさを批判されるだろう。だが、これは間違いを修正しただけだというなら、アメリカ追随主義にはならない。しかし、その時は、アメリカ以外のアジアの国々から批判されている部分に対しては、間違っていないから修正していないのだと言わなければつじつまが合わない。つまり遊就館は客観的に正しいことを展示するのであって、愛国の精神を示すために展示しているのではないと言わなければならない。これが本当なら、僕は素晴らしいことだと思うが、その時は、アメリカの指摘のどこに適切な間違いの指摘があったのか、アジアの国々の指摘のどこに適切でない指摘があったのかを明らかにする必要があるだろう。そして、客観的に正しい歴史的事実が判明したなら、将来的には、アメリカの指摘でない部分も修正していくと言うことでなければならない。将来的にどうなるのか注目していきたいと思う。僕は、遊就館が展示内容を修正したのは、基本的にアメリカに言われたことが大きいと思っている。時間的な問題があるにしても、岡崎氏の文章などの影響もあるのではないかと感じている。それは、毎日新聞の記事の中に「国内でも首相参拝支持の代表的論客である岡崎久彦・元駐タイ大使が8月24日付産経新聞に「遊就館から未熟な反米史観を廃せ」と寄稿。南部利昭宮司らは即日、岡崎氏を招いて意見を聞いた。」という記述があるからだ。もし、岡崎氏の文章が大した影響を与えないものであるならば、それに対する回答をどこかに発表するだけですむのではないか。なぜ「即日、岡崎氏を招いて意見を聞いた」というようなことになるのだろうか。見直そうとは思っていたが、踏ん切りがつかずにぐずぐずしていた靖国に対して、最後通告のように「この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなるとまであえて言う」と言われたためにあわてて意見を聞いたのではないかと勘ぐりたくなる。「今のところ具体的な指摘がない」と靖国の側が語る中国関連の展示は、「実際は昨年11月、劉建超・中国外務省報道官が同館を「軍国主義を美化する靖国史観の中心施設」などと批判している」そうだ。これに対しては、この指摘が客観的に正しいかどうかを考えなければ、アメリカの指摘に対して、単に間違いを修正しただけとは言えなくなるのではないだろうか。このことに関しては、「侵略行為を認めるのは英霊顕彰にふさわしくない」という回答がされているようだ。これは客観的な歴史を求めるとは言い難いのではないだろうか。「侵略行為」というものが、「英霊顕彰にふさわしくない」と考えられようとも、それが歴史事実として正しいと判断されればそう結論しなければならないのが、客観的な歴史を求める態度だろう。それを最初から「侵略行為」がないものとして考えるのは、愛国の精神から歴史を見ることになるのではないか。僕は、愛国の精神から歴史を見る立場を靖国神社がとるのは悪いことではないと思っている。それをきちんと表明すれば、そのような観点なのだと言うことが誰にも分かるし、そのような観点を持つことも、思想・信条の自由から許されると思っている。人に不当に押しつけない限りでは何ら問題はないと思う。僕は、靖国の歴史観をそういうものだと思っていたので、客観的な間違いを正すと言われると違和感を感じてしまうのだ。反米愛国の歴史観からすれば、戦争の原因がアメリカの謀略によると解釈するのは理解出来る。無差別爆撃による空襲で、非戦闘員が何十万人も虐殺されたり、広島・長崎の原爆での悲惨な虐殺を受けたり、沖縄戦では、イラク戦争やベトナム戦争と変わらないような住民虐殺が行われたアメリカとの戦争が、反米的な思想を生まない方がおかしいと思う。反米愛国こそが正当右翼の歴史観となるのは無理はないと思う。この歴史観から生まれた遊就館の展示が修正されると言うことは、歴史観が、反米愛国から親米愛国にシフトしたのだろうと僕は感じた。だから、この展示の修正は、歴史観の転換という大きなものではないかとも思ったのだ。だが内田樹さんが語る「2006年10月06日 これで日本は大丈夫?」という文章の後半を読んでみたら、靖国の歴史観は、元々親米愛国だったのだとも解釈出来るのではないかと思った。アメリカの靖国に対する姿勢というものを内田さんは次のように解釈する。「繰り返し申し上げるように、東京裁判を仕切ったのはアメリカである。アメリカ人将兵29万人の死について有責であるとしてA級戦犯たちを告発したのはアメリカである。そのアメリカがどうして同盟国の首相がそのA級戦犯たちを祀る靖国神社に公式参拝することにきびしく抗議をしないのか、その理由は一つしかない。アメリカが抗議しないのは、もし首相の靖国参拝に国務省が正式に抗議して首相が靖国参拝を中止した場合、それがきっかけで日中日韓の歴史問題が「解決してしまう」かもしれないからである。アメリカにとっては同盟国首相が東京裁判の判決を不服としているという心情的な不快と、東アジアに日中韓ブロックが形成されるという地政学的な損失を比較考量して、後者を優先したのである。だから、アメリカは「アメリカについての記述」についてのみ限定的に削除を求め、中国についての記述は放置したのである。」アメリカの意志は、「中韓にはどのような失礼を言っても許すが、アメリカにはふざけた口をきくなよと釘を刺したのである」と内田さんは考える。いくつかの事実は、確かにそれが正しいことを物語っているように見える。そして、「中国韓国の言い分には決然として耳を貸す気のない靖国神社はアメリカのこの抗議にはただちに頭を下げた」と言うことが現象として読みとれる。反米愛国を思わせる記述は、本来は親米愛国の靖国がうっかり間違えたために表れてしまったのだとも解釈出来る。だからこそ、「アメリカのこの抗議にはただちに頭を下げた」ように見えるのだろう。こんなものが真の愛国と呼べるだろうか、というのが僕の大いなる疑問なのである。
2006.10.07
コメント(0)
永井俊哉さんが「脱ダム宣言は間違いだったのか」という文章を書いている。このタイトルは反語的な意味を込めて使っているもので、結論としては「間違いではない」と言うことを主張している。永井さんは結びの言葉で、「洪水対策、給水、発電といったこれまでダム建設を正当化してきたダムの諸目的を、ダム以外の手段によって実現することができるとするならば、水と栄養の循環を阻み、生態系を貧しくするダムは不要ということになる。今後とも私たちは、脱ダムの方向に向けて、代替策を模索するべきだ。」と語っている。この結論に至るまでの論理の流れに説得力があり、これは「脱ダム宣言」の正しさの見事な論証になっているように僕は感じる。この論理の流れを詳しく追いかけてみようと思う。先の長野知事選挙で田中康夫さんが敗れたのは、その直前に起きた洪水被害が、田中さんの脱ダム宣言が間違いだったことを示すものであり、それを理解した長野県民が田中さんを選ばなかったのだとも言われた。しかし、永井さんは、この洪水被害が脱ダム宣言のためにダムを造らなかったことにあるのではないと言うことを次のように説明する。「日本でダムを建設する主要な目的は治水である。大雨で洪水や土砂災害が起きるたびにダム建設の必要性を叫ぶ人がいるが、しかしながら、岡谷市の豪雨災害では、現場の山の上にゴルフ場が造られており、森林伐採による土壌の保水力低下が災害の第一の原因と考えられる。他方で、田中氏が 建設を中止させて、物議をかもした浅川ダムでは、被害はなかった。」僕は、永井さんを優れた理論家だと高く評価し、その主張を信頼しているので、ここに書かれていることも正しいと確信しているのだが、一応他の情報を見て確認を取ろうと思った。しかし、なかなか確認が難しい事柄もあった。岡谷市の地理的状況で、豪雨災害の原因として近くにゴルフ場があるということを確かめようと思った。だが地図検索をしても、このことを直接確かめることは出来なかった。この情報には間違いはないと僕は信じているが、地元の人で詳しい人がいたら、この確認が出来ると言うことを教えてもらえれば嬉しいと思う。「森林伐採による土壌の保水力低下が災害の第一の原因と考えられる」というのは、論理的な判断としては正当性があると思う。森林の保水力だけでは足りないと言うことでダムの必要性を主張する論理もあるようだが、森林の保水力を低下させておいてダムの必要性を言うのであれば、それは本末転倒と言うことになるだろう。森林を十分に確保しておいてもなおかつそれでは不十分であるというなら、論理としては理解出来る。ダムの必要性ということも論理的に帰結出来るだろう。しかし、森林が不十分な状況でダムの必要性を論じてもあまり説得力はない。むしろ、まだ森林が十分にあった時代の災害はどうだったのかということを調べる必要があるだろう。自然の状況を破壊しておいて、その破壊された自然が災害をもたらすから、穴埋めをするためにダムを造るというのは論理として無理がある。そのような論理でのダム建設ならば脱ダム宣言が正しいと言えるだろう。永井さんの論理の展開は基本的にそのようになっているように僕は感じる。「田中氏が 建設を中止させて、物議をかもした浅川ダムでは、被害はなかった」という事実に関しても、確かめたいことがいくつかある。これは「被害はなかった」という事実はおそらく間違いないことだろうと思う。この被害がなかったことの要因がどこにあったのかというのをもっと詳しく知りたいものだと思う。まず豪雨の規模が、浅川ダムの地域ではどうだったのかということがある。これもなかなか情報が見つけられなかったので、地元の方で教えてくれる方がいたら嬉しいと思う。もし豪雨の規模があまり大きいものでなかったら、ダムの問題と関係なく「被害はなかった」と言える可能性もあるからだ。また、森林の保水力が、浅川ダムの地域ではどうだったのかということも気になるところだ。豪雨の規模が大きかったにもかかわらず、その被害が大きいものにならなかったとしたら、それがダム建設を中止したからだというのは無理がある。中止しただけでは、何ら積極的な災害対策にはなっていないからだ。もし災害を防ぐ要因を見つけるとしたら、その地域では元々森林の保水力が高かったか、脱ダム後の努力によって、森林の保水力を高めたのだと言うことがなければ論理的な理解が出来ない。このような事実があったのかどうか確かめるすべがなかったので、何とか知りたいものだと思う。もし、浅川ダムの地域で、ダム建設を中止したにもかかわらず、いろいろな要因で災害の拡大を防げたのであれば、それは脱ダム宣言の正しさを事実によって証明するものになるだろう。果たしてどうなのだろうか。永井さんは、ダム建設に対して「自然破壊から生じた問題を自然破壊で解決しようとしても、抜本的な解決にはならない」という基本的な考え方で、脱ダム宣言が正しいという論理を展開している。特に長野県では、オリンピックなどのために環境破壊が進み、元々災害に弱い体質を作っておいて、それをダムで何とかしようとするという逆の対策をこれまでしてきたという指摘をする。だから、脱ダムを考える際も、現在の状況をそのままにしておいて考えるのは間違いだと言うことになる。脱ダムとともに、環境の再構築も合わせて考えなければ、単にダムをやめて財政支出を減らせばいいのだと短絡的に考えるだけでは、環境破壊によって生まれた弊害が残ってしまう。むしろダムの必要性を感じさせる結果にもなってしまう。永井さんが考える、自然環境の再構築とともに脱ダムをしていくという方向は素晴らしいものだと思う。これは多くの面での問題を解決し、将来的な見通しとしては、もっとも利益が大きくなる方向ではないかと思える。「もちろん、植林をしたからといって、洪水がなくなるわけではないが、シュメール文明のように洪水を害悪視して、ダムや堤防で堰き止めるのではなくて、エジプト文明のように自然の恵みとして農業に利用するべきだろう[永井俊哉:シュメール文明の遺産]。 田中氏も「氾濫受容型の治水」を主張していた[田中康夫:脱ダム宣言議会発言]。」と永井さんは語っている。洪水を単に被害として受動的に受け止めるのではなく、それを建設的に共存していける、恵みとして変えていく方向を目指そうというものだ。それが出来たときに、本当の意味での脱ダム宣言が完成するときになるのだ。脱ダム宣言というのは、単に無駄な公共事業を減らして財政支出を減らすという問題ではないのだ。将来に渡る、人間の生活の形という大きな理念を伴ったものだったのだ。このことと、ダムによる弊害を合わせて考えると、脱ダム宣言が正しいという確信がますます高まってくる。永井さんは、ダムによって水をせき止めると言うことが、自然に反すると言うことからいくつかの弊害を指摘している。・「川を 堰き止めると水質が悪化するという問題がある。堰き止められてできるダム湖底には、上流から流れ込む有機物がダム湖底に堆積し、 水流による撹拌の行われない、酸素が少ない条件下でヘドロとなり、貯水も懸濁する。水質を悪化させないためには、流れている水を活用した方がよい。」・「ダムで堰き止めた河川の水を高い所から低い所まで導き、その流れ落ちる勢いにより水車を回して電気を起こすことができる。落差が大きいほど、水量が多いほど発電量が大きくなるので、これまで巨大ダムが好んで造られてきた。しかし、水力発電のコストは火力発電のコストの約二倍である[NEDO:一般水力発電のコスト]。 ダムには他にも機能があるからということで、この高コストが容認されてきたが、他の機能が必要ないなら、発電も不要ということになる。 水力発電は「二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギー」と言われているが、ダムが環境を破壊している以上、ダムの発電がクリーンなどと言うことはできない。」・「ダムを建設して川の流れをせき止めることは、栄養分が山から川を経て海に流れ、漁業資源を育み、魚を食べる鳥や動物の糞や死体となって再び山に還元されるという自然の循環を遮断するという意味で、たんに水没する地域だけでなく、山と海を含むより広範な自然の生態系を破壊する。川の流れを堰き止めるということは、人体において血液の流れを止めるのと同じで、有害である。ダムが河川の流れを遮断すると、水生昆虫、魚類、甲殻類などの生物が、上流から下流の間を行き来して生活史を全うすることができなくなる。サケ・マス・アユのような回遊性の漁業資源を守るために魚道を作るという方法もあるが、完璧を期そうとすればするほど、建設費用が高くなる。」この指摘は、全くその通りだと納得出来るものだ。脱ダム宣言というものは、パブリックな面から考えれば、それが正しいことは疑い得ないほど確実なのではないかと思う。公共性を体現する公人としての田中元知事が提唱するにはもっともふさわしい政策だっただろう。特にオリンピックで環境が破壊された長野県にはふさわしい政策だったのではないかと思う。パブリックな面で正しい脱ダム宣言が捨て去られて、再びダム建設が始まるというのは、そこにエゴイスティックな利害が絡んでいるのではないかという疑念を感じる。そのようなパブリックでない政策を新知事が推進しようとしているなら、それは田中県政の時に培ってきた民主主義の土壌を破壊するものとなるだろう。脱「脱ダム宣言」の公共性というものを長野県民は注視して欲しいと思う。そこにパブリックを破壊する要素を見たときは、田中県政の時に育った民主主義のマインドを見せて欲しいと願っている。私的利害という私益を越えた公益を考えることが出来るものこそ民主主義のマインドだと思う。
2006.10.06
コメント(7)
高市氏の行為の意味というものを考えてみようと思う。それは、現象として見た場合には、誰もが同じ記述をするような客観的な側面を観察することが出来る。宮台氏が定義した「行動」という側面で言えば、次のような記述は誰も反対しない事実と言うことになるだろう。1 高市氏は自民党の山本拓議員と結婚した。2 高市氏は戸籍上は山本姓になった。3 戸籍上は山本姓になったが、世間では高市姓で通用している。4 高市氏は、夫婦で違う姓を名乗っている。この4つの行動の面では誰もが同じ判断をするにもかかわらず、これを「行為」として受け取った場合は、・高市氏は「夫婦別姓」である。・高市氏は「夫婦別姓」でない。という二つの対立する判断が出てきてしまう。これは「行為」の意味が違うのだと考えられる。しかも肯定判断と否定判断という、形式論理の中では両立し得ない二つの判断が出てきてしまう。高市氏の行為の意味を読みとるときに、形式論理的に読みとるのが妥当だと考えるなら、これはどちらかを捨てて一方を正しいとしなければならない。だが、弁証法的に視点が違うのだという受け取り方をすれば、対立する判断であっても両立する可能性があり得る。行為の意味をどちらの論理で受け取ることが妥当かも考えてみたい。高市氏の行為の意味を判断するに際して、大きく分かれることの根拠は「夫婦別姓」という言葉の定義の違いに寄っている。それを「夫婦別姓だ」と肯定的に判断するのは、行動の4の側面が「夫婦別姓」の定義だと考えることから帰結される。「違う姓を名乗ることが夫婦別姓だ」という定義だ。それに対し、高市氏自身が「夫婦別姓でない」と判断する根拠は、2の行動において、戸籍上は同じ姓になっているので、「戸籍上も違う姓になることが夫婦別姓だ」という定義に従えば、戸籍上は同じ姓なので「夫婦別姓でない」という結論が導かれる。これは本来の辞書的な意味から考えれば、高市氏の定義は明らかにおかしい。しかし、高市氏に対して、「言っていること(夫婦別姓に反対)と、やっていること(夫婦別姓にしている)が違うではないか」という批判をするときは、この定義に従えばその批判は妥当ではないと反駁出来る。通常の解釈であれば、普通の辞書的な意味で行為を判断すればいいだろうが、高市氏の場合は、「夫婦別姓(法律的な意味での)に反対している」という特殊な条件の下での考察になるので、定義が違ってくると考えられる。意味の違いは、直接的には、言葉の定義という言語規範の違いから導かれてくる。現実の対象は同じであるにもかかわらず、人間の思考の結果が違ってくる。これは、言語規範というものが思考の方向性に影響を与えてくると言うことの一つの証拠になるものだろう。言語規範が、現実の対象を切り取って一つの判断をもたらしてくる。高市氏の定義の問題は、現在の段階では、法的に戸籍上の姓を違うものにすることが出来ないという現状があることだ。それこそがまさに「選択的夫婦別姓」と言うことで提案されているもので、それはまだ実現されていない。高市氏が定義するところの「夫婦別姓」は、今のところ誰一人として実現していないと言わなければならない。そうすると、高市氏個人については、この定義を認めれば、高市氏の行為は、自身が反対している「夫婦別姓」ではないとする理屈が成立するように見えるが、同じような行動をしている人の全ても「夫婦別姓」ではないと語らなければならないのは何か変な感じがする。「選択的夫婦別姓」を進めたいと思っている人が事実婚を選んだとき、戸籍上で違う姓になっていないと言うことから、これは「夫婦別姓でない」と判断されてしまう。何かおかしいのではないかと感じる。定義の妥当性に疑問が生じる。高市氏にとって、「言っていることとやっていることが違うではないか」という批判に反駁するには、その行為が「夫婦別姓でない」と主張することがどうしても必要だ。普通の辞書的な意味でその行為を判断すれば、「夫婦別姓だ」と言うことになり反駁が出来ない。しかし全ての夫婦が「夫婦別姓でない」という判断が出来るような定義であれば、高市氏夫婦も、安心して「夫婦別姓でない」と主張することが出来るだろう。この定義は、自分が望んでいる結論を出すために、結論から遡って理屈としてのつじつまを合わせるようにしただけのご都合主義的定義ではないのだろうか。視点を変えればその正当性を主張出来るという、弁証法的な矛盾になるかどうかに疑念を感じる。意味というのは関係性のことであるというのは三浦つとむさんの卓見である。高市氏の行為の意味も、その言葉の定義という言語規範との関係から読みとることが出来る。そして、この行為が関係しているものは、言語規範に限らず他にも様々ある。それを考察することで、行為の意味がより深く理解出来るのではないかと思う。高市氏の行為は、戸籍上は同じ姓にして通称名を使うという、ある意味では高市氏が提案している修正案を実践していることになっている。高市氏は、夫婦が違う姓を持つことを、法的に公認して戸籍上も変えられるということに反対していた。しかし、通称として違う姓を名乗ることはかまわないとして、通称名にもその不都合がなくなるような便宜を図って、戸籍上の姓はあくまでも同一のものを記載することを主張していた。高市氏は、自らの主張を実践しているように見える。そうすると、この実践は、自らの主張の正しさを証明するようなものになるだろうか。そのように判断してもいいだろうか。高市氏の行為を、その自らの主張との関係において意味を読みとってもいいだろうかという問題だ。高市氏は、本当は戸籍上の姓である山本姓を名乗ってもよかったのだが、自らの主張を実践するためにあえて高市姓を名乗っているということも考えられているようなので、この論理に妥当性があるかどうか、意味を考えるのは重要だと思われる。高市氏が山本姓を名乗っていれば、何の問題もなく、「言っていることとやっていることが違う」という批判も出なかっただろう。それをあえて、批判が出るかも知れない曖昧な行為をなぜ行ったのか。それは、自身の主張の正しさを説得するのに役立つものになるのだろうか。結論を言えば、高市氏の行為は、自らの主張の正しさを証明するのには全く寄与しないと言わなければならないだろう。これは論理的にそう結論出来る。「選択的夫婦別姓」を提唱している人たちが、戸籍上の姓も違うものを記載出来るようにして欲しいのは、通称名の使用ではまだ不十分だと感じているからだ。何らかの不都合を生じる事情を抱えているからこそ、通称名を認めるだけでは満足しないのである。それに対して、通称名を認めれば十分であるというのが高市氏の主張になるだろう。もし高市氏の主張が正しいものであれば、それで不十分だと感じている人たちが、通称名を使うことで、その不十分さを感じていることが解決出来るという可能性を示さなければならない。不十分だと主張している人たち自身の行為で、それが不十分ではない、つまり通称名を使えば問題がクリア出来ると言うことを示さなければならない。高市氏は、通称名で不十分だと感じている人ではない。実際に高市氏は、通称名で違う姓になっていれば、戸籍上の姓は夫と一緒でも何ら不都合のない人だ。だから、戸籍上の姓が同じで、通称名として違う姓を使ったとしても、これは通称名で十分だというような証明には何らなっていない。ここで証明されるのは、高市氏は、現行法を変えずとも何ら不都合を感じない条件の下にいる人なのだという、高市氏自身が持っている属性が証明されただけのことなのである。つまり、現在の日本の状況は、「夫婦別姓」を法的に改正しなくともいいという層の人々が存在すると言うことを、高市氏は自らの行為で証明したということになる。もし高市氏の行為が、「選択的夫婦別姓」の法律の成立に何らかの意味を読みとれるとしたら、自らはその法律の成立を必要としない人たちがその法律の成立に反対している、という意味が読みとれる。自らが提出する改正案の法律の正当性の主張とは全く違う意味が読みとれることになる。自らは必要でないからその成立には反対するという姿勢は、エゴイスティックな立場であり、公的な立場ではない。もし高市氏の行為がこのような姿勢に結びついているとしたら、「夫婦別姓ではないと言われても」というエントリーで語られているように、「それに高市案とは、通称使用を希望している人のためというよりは、夫婦別姓を希望している人の要望を根絶するためのものだったと理解しています。通称使用における不都合を解消し、民法改正の必要性を無くす目的があったのでは。」という印象が正しいものになるだろう。しかしこれは早急な結論は避けなければならない。高市氏は、「戸籍上の姓も変えると言うことを自分は必要としていないからそんなものは要らない」と、あからさまに主張しているのではないからだ。そのようにエゴイスティックに主張してくれていたら判断も楽なのだが、実際には、戸籍上の姓を変えることによって家族の絆が壊れると言うことなどの公的な側面も語っている。高市氏の改正案の主張が、エゴイスティックなものから出てきているのかどうかは、公的な立場を持たなければならない国会議員としての資質に関わってくるものだ。行為の意味はそのようなものにつながってくる。このことを正しく判断するためには、高市氏の主張というものに含まれている公的側面を評価する必要がある。いよいよ細かい知識が必要になってきたと言うことになるだろうか。
2006.10.05
コメント(0)
高市早苗氏が、結婚して山本性になったはずなのに、未だに高市姓を名乗っているのは「夫婦別姓」ではないかという素朴な疑問を考察している。高市氏は、「夫婦別姓」を法的に認めるという法案に反対していたので、この行為は、反対していたことを自ら行うことになるので「言っていることとやっていることが違う」のではないかというのが僕の素朴な疑問だった。この「言っていることとやっていることが違う」というのは、僕の疑問であって、神保哲生氏が語った言葉ではない。神保氏は、ジャーナリストとして「夫婦別姓」の問題を聞かなかったのがおかしいという語り方をしていた。つまり、問題を広く知らせる必要が、ジャーナリストの使命としてあるだろうという指摘だ。これは正当な指摘だと思う。「夫婦別姓」についての議論は、それが話題に上った時期もあったが、今ではすっかり忘れられてその内容が正確に多くの人に伝わっているようには思えない。高市氏の入閣をきっかけに、その問題を改めて考える機会とするのは、ジャーナリズムにとっては重要ではないかと思う。神保氏のジャーナリストとしてのセンスは鋭い嗅覚を持っていると思う。僕が「言っていることとやっていることが違う」と思ったのも、「夫婦別姓」というのを、現象として夫婦が違う姓を名乗るという行為を指すものだと思っていたからだ。もし「夫婦別姓」をこのように定義して理解したなら、高市氏が語る、自らの行為が「夫婦別姓」ではないという命題は、 <「夫婦別姓」は、「夫婦別姓」ではない>と言うものになり、これは<Aであり、かつAでない>という矛盾律を表明するものになってしまう。これは形式論理の範囲では許されないものであり、このような主張であれば、「言っていることとやっていることが違う」という批判は正当なものになる。しかし、mizoreさんの指摘による、「「~ 毎日新聞社に抗議します。夫婦別姓ではありません ~ 2004年9月23日」と言うページを読んでみると、高市氏が定義する「夫婦別姓」は、僕が考えていた「夫婦別姓」とは違うものであるようだと言うことが分かった。高市氏によれば、 夫婦別姓 …… 戸籍上も別の姓にすることを公認する考えのもとに行われるという定義になる。これは戸籍上に記載されたものを「氏名」と呼んで、「夫婦別氏」と呼んだ方が普通の感覚には合うかも知れない。これに対して、高市氏の行為は、戸籍上はすでに山本性になっているものを、単に通称名として高市姓を名乗っているだけなので、戸籍上の「氏」を変えたものではないという解釈をしている。このような定義を認めるならば、高市氏の行為は、「夫婦別氏」ではないから「夫婦別姓」ではないということになる。「夫婦別姓」ではないということが理屈の上では成立するように見える。しかし、これは何か釈然としないものを感じる。その原因は、通常我々が抱いている「夫婦別姓」の概念と、高市氏がここで定義しているその概念とに大きなずれがあるからだ。通常の概念からは「夫婦別姓」という判断がされるのに、高市氏の定義からは「夫婦別姓」ではないという判断がされる。この言葉の定義の曖昧さに、その主張の理解の難しさが含まれている。これをもっとすっきりと理解出来るように、通常の用語とのずれを埋める工夫をしてみようと思う。高市氏が定義するような意味での「夫婦別姓」は、上に書いたように戸籍上の「氏」を変えるものだと解釈して、「夫婦別氏」と呼ぶことにしよう。そして、「夫婦別姓」の方は、通常の意味のように、見かけ上夫婦が違う姓を名乗っていれば「夫婦別姓」と呼ぶことにしよう。そして、戸籍上の「氏」が違えば、当然夫婦は違う姓を名乗るものと考え(そうでなければ戸籍上の「氏」を変える必要がなくなるだろう)、また戸籍上の「氏」が同じでも、夫婦が違う姓を名乗る通称名の場合もあると考えることにする。このように考えると、妥当な命題は、 <「夫婦別氏」は「夫婦別姓」になるが、「夫婦別姓」は必ずしも「夫婦別氏」にはならない>つまり <「夫婦別氏」の集合は、「夫婦別姓」の集合に真に含まれる>すなわち <「夫婦別姓」の中には、「夫婦別氏」ではないものが存在する>高市氏は、通称名の使用には反対していなかった。しかし、戸籍上の「氏」を変えるのには反対していた。だから、その行為の正当性を言うには、 <「夫婦別姓」ではあっても、「夫婦別氏」ではない>ということが言えれば一応の理屈は立つ。そして、実際に高市氏の行為は、上の命題に合致するので、この限りでは一応の理屈は立ち、「言っていることとやっていることは違わない」と言える。「違うのではないか」という疑念は解消されることになるだろう。しかし、何か釈然としないものがまだ残る。この気分はどこから生まれてくるものだろうか。この複雑怪奇な定義に正当性があるのかということにまだ疑念が残るので釈然としない気分が生まれるのだと思う。「夫婦別姓」という言葉を両義的に使用して、自分に都合のいいような定義の方を採用するというふうに見える。そもそも「夫婦別氏」というのはまだ法律として成立していない。これは、そのようにしたくとも出来ない行為なのだ。だから、現実に法的な意味での結婚をしている人間は、全てが「夫婦別氏」ではなく、同一の「氏」として存在している。つまり <「夫婦別氏」ではない>という命題は、現時点においては、法的に結婚している夫婦については絶対的に正しい命題になる。これが正しい命題である限りでは、前提にどんな命題を置こうとも、その仮言命題は正しい命題になってしまう。つまり、前提を語ることに意味がない命題になってしまう。そのような命題で行為の正当性が証明されると考えるのには、論理的に無理があるように僕には見える。高市氏が「夫婦別氏」ではないというのは明らかな事実だ。だから、高市氏は「夫婦別氏」に反対していたのであって、それの実践にはなっていないので、「言っていることとやっていることとは違わない」、何も問題はないのだと言えばよかっただろう。それをなぜ「夫婦別姓」ではないと言う無理な論理を構築したのだろうか。「夫婦別姓」を高市氏が言う「夫婦別氏」の意味で使うのに無理があるのは、それに両義性が出てきてしまい、しかもその区別がつかないからだ。「夫婦別氏」の方は、まだ法律として成立していないので、今のところは現実には存在していない。夫婦が違う姓を名乗ることは、法的に公認されたことではない。だから、この意味とそっくりイコールで「夫婦別姓」という言葉を定義するとしたら、それはまだ現実には存在していない理念だけのものだと言うことになる。行為がどんなものであろうとも、その行為を「夫婦別姓」ではないということが、現実の事実から帰結されてしまう。これは論理の問題ではなくなるので、この定義は不当な定義といえるだろう。これを論理の問題にするには、まだ現実には法制化されていない、「夫婦別姓」を推進する側の人が心に抱いている、「夫婦が違う姓を名乗ることを法的に公認して欲しい」という願いを持って、現象的に「夫婦別姓」という行為をすることと解釈するしかないだろう。このように解釈すれば、高市氏の行為が「夫婦別姓ではない」という判断が論理の問題となってくる。しかし、この定義にも大きな問題を感じる。現象的に外から見える姿では、それが「夫婦別姓」なのかどうか客観的に決められないという問題がある。それは心の問題になってしまうからだ。客観性のない定義で何らかの判断をするということには大いなる問題を感じる。高市氏が「言っていることとやっていることとが同じかどうか」という問題は、「夫婦別姓」という言葉の定義に大いに関わってくるものだと思われるが、その定義には問題が重なっているように見える。高市氏の説明をそのまま素朴に信じるには、どうも複雑な問題が絡んでいるように思う。百歩譲って、高市氏の定義をとりあえず認めたとしても、前回紹介した「夫婦別姓ではないと言われても」というエントリーで語られているように、「それに高市案とは、通称使用を希望している人のためというよりは、夫婦別姓を希望している人の要望を根絶するためのものだったと理解しています。通称使用における不都合を解消し、民法改正の必要性を無くす目的があったのでは。」ということの疑念が生まれてくる。これは自由と権利の侵害につながって来かねない問題で、ある意味では日常的な行為よりも、国会議員としての行為に重大な影響を与えかねないものになる。しかし、このことについては、「夫婦別姓」問題の本質についてもっとよく考えないと、うかつなことを言えば間違えそうな気がする。少し時間をかけて「夫婦別姓」について考えたいと思う。ここまでの考察は論理の範囲内で進めることが出来たが、これ以上のものは、やはり基本的な知識が必要になってくると思う。この問題は、思った以上に社会的に重要な問題だと思う。それに気づかせてくれた神保氏は、ジャーナリストとしてはやはり優れたセンスの持ち主だと思う。
2006.10.04
コメント(2)
昨日のエントリーの「「知られていない重要な情報の集め方」のコメント欄」で、mizoreさんから貴重な情報をいただいた。高市氏の言動に関する情報で、高市氏が結婚しているにもかかわらず、夫婦で違う姓を名乗って活動しているのは、「夫婦別姓ではない」と言うことの根拠が紹介されたページには記されている。それは、「「~ 毎日新聞社に抗議します。夫婦別姓ではありません ~ 2004年9月23日」と言うページに書かれたもので、その趣旨はこういうものだ。高市氏が定義する「夫婦別姓」というのは、戸籍上も夫婦別姓を選択できるようにする法案で語るところの「夫婦別姓」であって、高市氏は、戸籍上は夫の姓になっているので、違う姓を名乗っていても「夫婦別姓」ではないと言う。確かに、高市氏の定義に従えば、高市氏の行為は、高市氏の言う意味での「夫婦別姓」ではないだろう。その意味では、言動は一致している。しかし、<違う姓を名乗っていても「夫婦別姓」ではない>と言うことには大きな違和感が残る。この違和感は、当事者からの意見としても「夫婦別姓ではないと言われても」というエントリーで語られていた。ここでは、「高市氏は通称で旧姓を名乗るのは夫婦別姓ではないと考えているようです。確かに本来の夫婦別姓とは本名での話ですが、呼称のみの夫婦別姓もあると私は考えています。実際に通称で夫婦別姓を実践する人も大勢いますし。 それに高市案とは、まさに現状の高市氏のように通称の範囲内で夫婦別姓を実現する人に対して便宜を図るための法案だったと理解しています。夫婦別姓の政府案や野田案の対案でもありました。なのにそれを実践している自分は夫婦別姓ではないと公言されても、理解は得られにくいと思います。」「それに高市案とは、通称使用を希望している人のためというよりは、夫婦別姓を希望している人の要望を根絶するためのものだったと理解しています。通称使用における不都合を解消し、民法改正の必要性を無くす目的があったのでは。しかし、通称使用での夫婦別姓には限界があるからこそ、民法改正を望む人がいることを無視されては困るのです。それに公的書類に通称を記載すれば、それはもう通称という性質は失われていきます。要望は満たせず、制度として意味不明だなんて、なにもいいことはありません。」と語られている。高市氏は、実質的に「夫婦別姓」による利益を享受しているのに、それは「夫婦別姓」ではないと語るのは、「夫婦別姓」による利益を求める人の願いを潰すことになるのではないかという指摘だろう。僕は、これはもっともだと思う。高市氏の定義に対する違和感というのは、その定義に従って考えると、実質的には「夫婦別姓」になっているのに、定義の上では「夫婦別姓」ではないと主張出来てしまうところにあると僕は感じている。高市氏の定義を認める限りでは、高市氏は言っていることとやっていることは一致する。しかし、その定義に妥当性があるかどうかが疑問の時、定義に従っているから矛盾はないのだと主張出来るだろうか。定義の妥当性に問題があるとき、その定義に従って出した結論が変なことになると言うことの例をいくつか考えてみよう。まず数学の場合を一つ考えてみようと思う。数学の定義というのは、天下りに現実と無関係にされるように見えるので、どんな定義をしてもかまわないように一見感じる。しかし、恣意的にされた定義は、数学の世界では認められない。足し算の定義においても、それが固定的で不変な対象に対して、集合の合併という操作に従って定義される。そしてその際、表記として10進法を使うという条件の下では「1+1=2」という結論が出てくる。この定義が、数学では許された範囲内の定義で、これ以外の恣意的な定義は、数学の世界では認められない。条件を変えるというようなことなら、表記を2進法にすれば「1+1=10」という結論も導けるが、これは条件を変えたのであって、定義を変えたのではない。しかし、定義そのものを恣意的に変えてしまうと、「1+1=0」というような結論も出せてしまう。それは、羽仁進さんが語ったように、馬を1頭ずつ連れてきたときに、結果的に何頭残るかと言うことを定義にしたときにこのような結論が導かれる。馬は神経質な動物なので、なかなか一緒にじっとしていないそうだ。だから、時間がたつと両方ともどこかへ行ってしまうので、結果的に「1+1=0」となると言うことだ。これは羽仁さんの定義によれば正しい結論になる。しかし、これが正しいと言われて同意する数学者はいないだろう。それは数学ではない他の世界で通用する論理なのだ。数学が「1+1=2」が正しい結論になるように定義を工夫するのは、それによって数の世界の全体像を把握する論理が構築出来ると思うからである。羽仁さんの定義は、ファンタジックで文学的には美しいかも知れないが、数学としては意味がなくなる。数学としての妥当性がないので、羽仁さんの定義に従って論理的に正しく導かれた結論は、論理的に正しくても数学としてはそれはおかしいものとして排除される。恣意的に「空を飛ぶ動物を鳥と呼ぶ」という定義を考えた場合、「ダチョウは鳥ではない」という結論が論理的に導かれる。ダチョウは実際に空を飛べないからだ。しかし、生物学的にはダチョウは鳥であることになっている。「ダチョウは鳥ではない」と言うことを認める生物学者はいないだろう。それは、「空を飛ぶ動物を鳥と呼ぶ」というような定義が妥当性を持たないと考えられているからだ。恣意的で妥当性を持たない定義は、たとえ論理的にその定義に従って判断して、論理的には間違いがなかったとしても、その結論が正しいことを信用することが出来ない。それは、恣意的で妥当性を持たない定義は、定義そのものが間違っている可能性が大きいからだ。論理学の法則では、間違った前提からはどんな結論でも導くことが出来る。つまり、前提が間違っているときは、正しい論理を使ったとしても結論の正しさを保証しないのだ。正しい推論が正しい結論を導くのは、前提にも正しさがある場合のみなのである。高市氏の行為が言動一致しているという正しさを持っていると言えるのは、高市氏の語る「夫婦別姓」の定義が、恣意的ではなくちゃんと妥当性を持っていると言えなければならない。そうでなければ、定義に合致していることが論理的に確かめられても、それは言動一致している正しい行為だとは判断出来なくなる。高市氏が提出している「夫婦別姓」の定義をもっと深く検討しなければならないだろう。「~でない」という言明でもう一つ気になるのは、「自衛隊は軍隊ではない」というような言い方だろう。これは、「軍隊」というものの定義によって、この言明が正しいかどうかが決まる。諸外国では、自衛隊は「日本軍」であると見られているようだ。紛れもない軍隊という判断をされているようだ。しかし、自衛隊が軍隊と言うことになれば、それは「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とした憲法9条に違反することになる。だから、現時点で自衛隊を軍隊と呼ぶことは、統治権力である政府にとっては言えないことになる。政府としては、「自衛隊は軍隊ではない」という結論が正しくなるような「軍隊」の定義が必要だと言うことになるわけだ。このように結論から、その必要性が演繹出来る定義というのは、恣意的・ご都合主義的な定義である。その状態をすっきりさせるために、改憲派というのは軍隊の保持を認める憲法を作りたいのだろうと思う。そうなれば、晴れて真っ当な定義の下に自衛隊の存在を主張出来る。「自衛隊は軍隊ではない」という主張は、この結論だけを取り上げれば、恣意的な定義から導かれたご都合主義的な結論である。推論における論理的なつじつまは合わせているが、結論の正しさは全く信用出来ない主張だ。現に、「自衛隊は日本軍という軍隊である」と受け取っている諸外国が圧倒的に多いと言うことは、政府見解の「軍隊」の定義が、世界標準ではないと言うことを物語るものだろう。しかし「自衛隊は軍隊ではない」という主張は、日本の平和のために貢献してきたと考える論理も成立する。そうなると、この結論は、恣意的な定義から導かれてきたという論理的な問題はあるものの、現実においては定義と関係ない考察からその存在の妥当性を導くことが出来る。内田さんの論理などは、そのようなものに近いのではないかと思う。「自衛隊は軍隊ではない」という主張が認められていたからこそ、自衛隊は実際の戦闘行動に巻き込まれることがなかった。自衛隊員が犠牲になることも、自衛隊員がどこかで敵と見られる人間を犠牲者にすることもなかった。この主張があったからこそ、日本の戦後の平和は保たれたと見ることも出来る。間違った主張であっても、平和の維持のためには大きな利用価値があったとも言えるだろう。論理的にすっきりさせるためには、最初から自衛隊を持たなければよかったのだろうが、時代的な制約・世界情勢の動きなどからそれが難しかったと言うこともあっただろう。また、国内的なナショナリズムの気分からは、何らかの自衛の姿勢を見せる必要があったかも知れない。それらの微妙な関係の中で、軍隊ではない自衛隊を創出した人々は、ある意味では平和を守るために非常に賢い選択をしたとも言えるのではないかと思う。高市氏の定義の妥当性とともに、高市氏の主張が、何らかの価値を守るためには必要不可欠のものだったのかも知れないと考えることも必要だろう。全ての可能性を考察しないと不公平になると思うからだ。高市氏の「夫婦別姓ではない」という主張が、「ダチョウは鳥ではない」という主張に近いものなのか、「自衛隊は軍隊ではない」という主張に近いものなのか、よく考えてみたいと思う。これは考えてみる価値のあることだと思う。しかしこのことは、高市氏に公に質問がされなければ、考える人は少ないのではないだろうか。高市氏を攻撃するという面から質問するのではなく、多くの人が現実の判断というものの妥当性を考える対象として、質問されるべきだったのではないかと思う。それを誰も聞かなかったというのは、神保哲生氏が指摘するように、ジャーナリズムとしてはやはり不十分ではなかったかと思う。
2006.10.03
コメント(0)
僕は、神保哲生・宮台真司両氏の「マル激トーク・オン・デマンド」で新しい情報に接することが多い。ここで接する情報を新しいと感じるのは、それが他の媒体では得られないからだ。特にマスコミのニュースでは決して流れてこないような種類の情報がここにはあふれているのを感じる。今週のマル激は無料放送をしているので、関心のある人は聞いてみるといいと思うが、山口二郎さんをゲストに招いたその放送で、遊就館の展示が、アメリカの要請で変えられると言うことを語っていた。これは知っている人は知っているのだろうが、僕はマル激を聞いて初めて知った。この情報が正しいというのは、神保・宮台両氏それから山口二郎さんに対する信頼感から、まず間違いはないと思ったが、インターネットで検索をして一応確かめてみた。そこでヒットした情報は次のようなものだ。1 「遊就館 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」2 「【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 遊就館から未熟な反米史観を廃せ」3 「靖国・遊就館 米戦略の記述変更 第二次大戦 「誤解招く表現」」1の記事によれば「また最近では、外交評論家の岡崎久彦が遊就館の展示説明文に疑問を呈した(「【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 遊就館から未熟な反米史観を廃せ」)ところ、何ら反論することなく直ちに修正(「社会 靖国・戦史博物館、展示内容変更へ 歴史観が一面的と」)した。」と書かれている。遊就館の「反米史観」というのは、2の記事によれば次のようなものだ。「遊就館の展示によれば、『大東亜戦争』は、ニューディール政策が大不況を駆除できなかったので、資源の乏しい日本を禁輸で戦争に追い込むという、ルーズベルト大統領の唯一の選択肢として起こされたものであり、その結果、アメリカ経済は完全に回復した、と言う。これは唾棄(だき)すべき安っぽい(あるいは、虚飾に満ちた、不誠実な=dis-gracefully meretricious)議論であり、アメリカ人の中で、アンチ・ルーズベルトの少数ながら声ばかりは大きい連中が同じようなことを言っていた」このような反米史観に対して、この記事を執筆した岡崎久彦氏は、「戦時経済により、アメリカが不況の影響から最終的に脱却したことは客観的な事実であろうが、それを意図的にやったなどという史観に対しては、私はまさにウイル氏が使ったと同じような表現-歴史判断として未熟、一方的な、安っぽく、知性のモラルを欠いた、等々の表現-しか使いようがない。 私は遊就館が、問題の個所を撤去するよう求める。それ以外の展示は、それが戦意を鼓吹する戦争中のフィルムであっても、それは歴史の証言の一部であり、展示は正当である。ただこの安っぽい歴史観は靖国の尊厳を傷つけるものである。私は真剣である。この展示を続けるならば、私は靖国をかばえなくなるとまであえて言う。」と書いて、この展示内容を変更するよう主張していた。そして、靖国側はこの主張に応えて「何ら反論することなく直ちに修正(「社会 靖国・戦史博物館、展示内容変更へ 歴史観が一面的と」)した」とウィキペディアには書かれている。間違えていたから修正したと言われると、それは正しいように思われるかも知れないが、何か釈然としないものを感じる。それは、アメリカから言われるとすぐに変えるというふうに見えるような所だ。今までずっと主張していたことに関して、靖国神社側は、それが正しいという確信を持っていなかったのだろうか。岡崎氏に指摘されたくらいで、簡単に変えることが出来るほど、その間違いは明らかだったのだろうか。間違いだったと靖国側が判断したのなら、それを今まで正しいと思って展示していたことについても説明する必要があるのではないだろうか。なぜ間違っていたことを正しいと思ってしまったのか、その説明がないのに、簡単に修正してしまったら、ご都合主義的に何か都合が悪かったから変えたのだと疑われても仕方がない。宮台氏は、これが本当に愛国的な態度なのかと批判していた。強いアメリカに批判されたら、それにしっぽを振るようにしたがってしまうというのは、ヘタレ保守であり、真の愛国とは似ても似つかない国粋に過ぎないと言うのが宮台氏の見方だったように思う。国粋というのは、国という権威に寄りかかって吹き上がるだけの弱者の思想だと言うことだ。自分たちが寄りかかっている日本が、さらに寄りかかっているアメリカに言われたことだから、何も反論出来ないと言うわけだ。アメリカの指摘が正しいとしたら、論理的に整合性を取らなければならないことが他にも出てくるだろう。日本がやむを得ず戦争に突入したのは、アメリカからそうし向けられたからだと言っていたことを、アメリカはそういう意図はなかったとするのなら、なぜ日本は戦争を開始する国になったのかと言うことを論理的に整合性があるように解釈しなければならなくなる。アメリカが日本を追いつめたのでなければ、日本が拡大の道を取ったのだとしなければ、論理的なつじつまが合わなくなるのではないだろうか。拡大の道を取る思想的な背景は二つ考えられる。一つは、利権拡大の侵略という道だ。しかし、これは靖国神社として主張することは出来ないだろう。だからもう一つの道である亜細亜主義こそが戦争拡大の思想だったと考えなければならないのではないかと思う。アジア全体を欧米の侵略から守るための、大アジアで統合するという目的を持った亜細亜主義があったからこそ、日本はアジア各地で欧米の侵略者を追い出すために戦争を開始したと言わなければならないだろう。これが現実の事実と整合性を持つかという、別の意味での論理的整合性の問題はあるものの、アメリカの陰謀説を否定するなら、こちらの方向へと解釈を変えなければならないのではないだろうか。現実との整合性が取れないとき、つまり亜細亜主義が日本の思想の本流ではなくなったりしていたとしたら、その思想がどこで変節したかという問題も考えなければならなくなるだろう。いずれにしても、戦争の原因がアメリカの陰謀説にあるという記述を取り外したら、それで歴史問題が解決するのではないと言うことは覚えておいた方がいいだろう。今後靖国がどのように、他の出来事に論理的な整合性を取っていくかに注目していきたいと思う。この情報は、マル激で聞かなければなかなか気づかなかった情報だと思う。貴重な情報を伝えてくれる媒体として、マル激が優れたものだというのを感じる。それから高市早苗氏に関する情報も面白いものだった。安倍内閣で入閣した高市氏は、夫婦別姓への反対者として有名だった人物だ。その高市氏が、自民党の山本拓衆院議員と結婚したというニュースが流れたのは2004年のことだったらしい。「高市早苗&山本拓、結婚」というブログ・エントリーに書かれていた。このエントリーでも最後に「なお、記事中にあるように、高市は議員時代に有数の「夫婦同姓」論者として知られていたが、政治活動上の名前については「今後、検討する」とのこと。おいおい、とツッコミを入れたくなる。そこは即答しろよ。いまさらになって、選挙活動に不利になるってな理由だけはしないでいただきたい。」と書いている。ここで指摘しているように、高市氏は、「夫婦同姓論者」が、同性を名乗らないことに対してつじつまが合わないと言うことを説明しなければならないと思う。「安倍内閣 閣僚名簿」にも「高市早苗」と記述されているのだから。夫婦同姓論者であれば「山本早苗」と名乗るか、夫の方を「高市拓」と名乗らせるかどちらかでなければならないのではないかと思う。推測では、「高市早苗」という名前の方が知名度が高いので、議員活動をするにはその方が有利であるという判断が働いているのだと思う。しかし、これは自身が反対した「夫婦別姓」の理由になるのではないだろうか。高市氏は、言っていることとやっていることとの違いがあることを説明する責任があると思う。公人として当然果たすべき説明責任があると思う。高市氏が、自らの名前を夫婦同姓にしなければ、論理的には「夫婦別姓」に反対する正当性はなくなると思う。神保氏が言っていたが、このことを誰も高市氏に質問しなかったそうだ。だから、このことを知らないで、安倍内閣の閣僚名簿に載った「高市早苗」という名前を、何気なく眺めていた人が多かったのではないだろうか。これは、政治家の倫理の問題として非常に重要なものだと思う。それを知らせなかったマスコミはやはりジャーナリズムとしては信用出来ない。マル激のように、真のジャーナリズム精神を持ったメディアを一つ知っておいた方がいいだろう。そこからこそ貴重な情報が得られる。
2006.10.02
コメント(0)
三浦つとむさんは『言語学と記号学』(勁草書房)の中で「「差別語」の理論的解明へ」という論文で、文脈を理解することの重要性を語っている。これは、三浦さんの言語学からすれば当然の主張ではないかとも感じる。「差別語」であるかどうかを判断するのは、その形式である文字の形で判断するのではなく、語の内容である意味から判断すべきである。同じ形式を持った言葉が、ある時は「差別語」になり、ある時は「差別語」にならないと言うことがあり得る。これを、いつでも同じ形を持った語が「差別語」になると考えてしまえば、それは形式論理になり、現実の言語活動をそれで理解すると間違いになる。三浦さんの言う「意味」は、言葉そのものに張り付いている実体ではなく、その言葉が表現する対象と、表現者の認識の間に関係づけられているものとして存在している。だから、関係が違えば意味が違うし、関係が違えば差別性も違ってくると言うのが、三浦さんの言語学からは論理的に出てくる結論だ。三浦さんは、可能性としては全ての言語が、差別性と関係づけられる可能性を持っていると主張している。これは、言葉というものが、ある特定のもの(実体的な対象であることもあるし、観念的なものであることもあるし、抽象的なものであることもある)を他のものと区別するために使われるものなので、区別が差別につながる可能性が常にあると言うことから論理的に導かれる。だから、ある文章に表れたある言葉が「差別語」であるかどうかは、それが書かれている文脈を読みとって、意味の関係づけを正確にした上で、差別性を持っているかどうかを判断しなければならない。文章の意味を読みとる上での文脈の重要性は、強調する必要があるだろう。しかし、この文脈を読みとるというのは非常に難しい。書き手が間違って表現している場合もあるので、その間違いさえも正確に読みとる文脈理解が理想的ではあるのだが、その間違いも認識に間違いがあるのか、表現の技術に間違いがあるのかという区別もあって、それがまた難しい。文章の書き手の方は、それが誰かの翻訳や伝達の文章でない限りでは、実際に自分で認識した具体的な対象について、自分の考察や思いなどを綴っている。これは、対象が具体的だけに、認識を間違えていたり、表現を間違えていたりした場合、その対象そのものが分かれば間違いも理解しやすい。だが、誰かが書いた文章についてその内容を云々するときは、対象が実際の存在ではなく、文章で表現されたものから生まれるイメージになるので、考察がメタ的なものになる。現実の対象ではない、メタ的なイメージが対象になった場合は、最近考察しているような、語彙(言語規範)の違いによる「意味のずれ」が文脈の理解にも影響してくるだろう。本来は文章を言葉として理解するのではなく、そこに書かれた内容を具体的にイメージして理解する必要があるのだが、これを2段階に渡って行うことを意識するのは難しそうだ。たいていの人はそれを忘れて、言葉の意味として知っていることは、その語彙の意味の方を受け取って文章を理解したようなつもりになってしまうだろう。三浦さんの言語学は、辞書的な意味ではなく、現実の関係性としての意味の方が重要だと言うことを教えてくれるのだが、いつもいつもそれが出来るような感じがしない。頭にイメージが浮かんでこない言葉の時は、仕方がないので辞書を引いて、辞書のイメージでとりあえずすますと言うことをしてしまうだろう。それは、辞書のイメージであって、本当のイメージではないと言うことを最後まで意識していなければならない、と言うことが三浦さんの言語学が教えてくれることだと思う。このことは、しばしば忘れてしまうことに気をつけなければならないが。このようなことがあるから、同じ文章を2度、3度と読むうちに、だんだんと理解が深まっていくと言うこともあるのだろうと思う。最初は、曖昧だったイメージが、だんだんと作者が見ているものに近づいていけば、それは正しい理解に近づいていっているのだと思う。逆に言うと、この語彙理解の段階で、意味がかぶっていないのに、その意味だと思って文章を読んでいれば、間違いはいつまでも気づかれないままになるだろう。この間違いを強く意識して、間違いを訂正する技術を身につけるには、語の意味がかぶっていたり、かぶっていなかったりする言語規範の違いを意識することが有効なのではないかと思う。それに注目するような発想を、僕はソシュール的だと思っているのだが、これは役に立つ発想ではないかと思う。三浦さんは、誤謬論についても、人間の認識は間違いうるものである、つまり誰でも間違える可能性から逃れられないと言うことを論理的に示した。それは、人間の認識が、時間的・空間的・能力的に限界を持っているものであるのに、対象である世界は、無限に豊かな多様性を持っていると言うことから帰結されるものだ。人間は生きている時間が制約されている。生活している空間も制約されている。視覚・聴覚・触覚などの感覚器官の能力も制約されている。捉えきれない対象がたくさんある。しかし、生きていくときに、それらの捉えにくい対象でも考察の範囲に入れなければならないときもある。限界を超える必要がある。その限界を超えるときは、いつでも判断を取り違える可能性というものがある。人間にとって誤謬は本質的に逃れることの出来ないものなのだ。文脈理解というのも常に間違える可能性があるものだ。だから、間違えたときに、それに早く気づき修正出来る技術を身につけることは大事なことだ。また、人間は間違えることが本質だとすれば、公にされた文章を誤読されることは、覚悟しておかなければならない本質だと言うことにもなるだろう。自分が意図していなかった意味を読みとられたときも、これは人間の認識の本質であると理解しなければならないだろう。もちろん表現を間違えているときもあるのだが、どちらが間違えているかは、なかなか決定が難しいから、間違えて受け取られることはあらかじめ覚悟しておいた方が心的な免疫性が高くなるだろう。同じ対象を同じ視点から見ている人からは誤読されることは少ない。論理的に判断すれば、たいてい同じ結論に達するからだ。しかも面白いことに、そのように視点が重なる人とは、使っている言葉の意味が同じ場合が多い。言語規範も重なるのでコミュニケーションがかなり正確に出来る。しかし、違う視点から見ている人は、その視点から文脈を理解すればたいていは誤読してしまうだろう。視点が違うから、そこで使われている言葉が関係づけられている対象を見誤ることが多い。意味を取り違えることが多くなる。この意味の取り違いは文脈理解の違いから生まれる。また、困ったことに、視点が違う人は言語規範による意味のずれも大きいものがあるようだ。視点の違う人と、お互いに語っていることを正確に理解し合うと言うことはかなりの困難を感じる。仲正昌樹さんが語る「言葉が通じない」という状態が生まれる。その状態は、かつてよりも今の方が多いのではないかと思う。かつては、コミュニケーションの土俵とも呼べるものがあったが、今は、土俵がなくなってしまったと語られる場合が多いようだ。僕は、土俵の違いを埋めるものが論理ではないかと思っていたが、実は論理そのものが一つの土俵であった可能性が大きい。論理的な思考を重視する土俵と、感情を優先する土俵があるのかも知れない。宮台氏は、感情のロジックと呼んでいたが、僕が呼んでいるロジックと、違う意味でのロジックを持っている人もいるようだ。その土俵の違いは、論理では埋めきれないかも知れないと今は感じている。視点の違う人間の視点を変えるような影響力を持つというのは大変難しい。だから、僕は誰かの考えを変えようと言う期待はもう持っていない。それは、何かとてつもない大きな出来事を経て変わるようなものだろうと思う。期待出来るのは、お互いに違う視点を持っていると言うことを理解し合うことだと思っている。それが出来ればコミュニケーションとしては充分だろうと思っている。誰かに影響を与えることを目的としているのでなければ、何を目的としてこうして文章を公開し続けるのだろうか。それは僕の場合は教育という観点からだ。自己教育と言えばいいだろうか。僕の目的は、優れた言説を見たときにそれを正確に理解するというものだ。特に、宮台真司氏の文章は難しいので、それが正確に理解出来ればとてもいいだろうと思っている。文章に限らず、学習したことが正しく自分のものになっているかを見るには、それを他人に正確に説明出来たかどうかを見れば分かる。数学が本当に理解出来た生徒は、それを正しく他の生徒に教えることが出来る。ただ答が出せるだけの生徒は、答を出してみせることは出来るけれど、それを他の生徒に伝えることが出来ない。自分の言葉に直して、理論を構築し直すと言うことが出来ない。僕は共感するような言説を目にしたときは、それをただ引用するだけではなく、自分の言葉でそれに解説を付けるようにしている。それは、解説を付けることで、気分的にそれを了解しているのではなく、論理的に理解していると言うことを確かめるためだ。僕がある言説を了解した文章を書いたとき、同じように賛同してくれるコメントがあれば、自分の理解と表現が一応の正しさを持ったのだなと確認出来る。それが、僕が文章を公にすることの目的かも知れない。もちろん賛同してくれないときや、僕が意図していないことまで読み込まれてしまうこともある。しかし、それは仕方のないことだと思う。その時は、自分の理解が足りないのか、表現が不十分なのか、相手の視点が全く僕とは違うのか、きっとどれかだろうと思う。その時は、また勉強し直して理解を深めたり、表現の手直しをしたり、違う視点を了解することで、自己学習の確認をしている。違う視点を了解すると言うことは、その視点に賛成すると言うことではない。その視点を持って眺めると違う結論が出てくるということを了解することだ。僕は、宮台真司氏や内田樹さんと同じ視点で対象を眺めたいと思う。しかし、小泉さんや竹中さん・安倍さんと同じ視点で対象を眺めたいとは思わない。でも、その視点から見れば、小泉さんや竹中さん・安倍さんと同じ結論が出ると言うことは理解したいと思う。それを理解した上で、なおかつその視点には反対するという姿勢を持ちたいと思う。
2006.10.01
コメント(0)
安倍さんは所信表明演説(全文は「読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」」)の中で「美しい国、日本」について次のように語っている。「一つ目は、文化、伝統、自然、歴史を大切にする国であります。 二つ目は、自由な社会を基本とし、規律を知る、凛(りん)とした国であります。 三つ目は、未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける国であります。 四つ目は、世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップのある国であります。」今度は、これの論理性を考えてみようと思う。これは、真理を考察する対象の命題の形をしていない。だから、これだけで論理性を考えることは出来ない。これは、安倍さんが目指す目標のようなものとして語られている。安倍さんは、「解決すべき重要な課題」をいくつか語り、それを解決するために「今後のあるべき日本の方向」を示すべくこの「美しい国、日本」を語っているようだ。つまり、目標であるこの「美しい国、日本」の実現が出来れば、「解決すべき重要な課題」も解決の方向へ向かうという主張がここには込められているように感じる。その論理性を考えてみたいと思う。安倍さんは、「美しい国、日本」の実現が課題を解決するという根拠を直接には語っていない。ここでも、直接の論理性は見あたらない。「美しい国、日本」をどのようにして実現するかについては語っている。だが、これを実現すれば、課題は解決されるのだと言うことの論理は語っていない。そこで、これは読み手の方で想像しなければならないだろうと思う。それを想像するために、「美しい国、日本」がどのようなものになるかを具体的に想像してみた。しかし、それは全くうまくいかない。安倍さんが具体的なことを何も書いていないからだ。安倍さんが描く「美しい国、日本」は次のような属性を持っている。・文化、伝統、自然、歴史を大切にする・自由な社会を基本とする・規律を知る、凛(りん)としている・未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける・世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップがあるここには具体性が何もない。まあ、これはスローガンのようなものであるから、ここには具体性が表現されていなくても、他の所に書かれていればいいかも知れない。しかしそれは全く見あたらない。「文化」「伝統」「自然」「歴史」というのは、広い対象を含む複雑な概念を持っている。それを「大切にする」というのは、どうやって達成されたと判断したらいいだろうか。例えば、国旗を掲揚し・君が代を歌うことは「文化」や「伝統」を大切にしていると判断するのだろうか。宮台真司氏は、「伝統」というのは、それを意識して守らなければならなくなったときに、すでに崩れてしまっているのだと喝破した。「伝統」が本当に生きている世界では、それを守るという意識なく、自然に生活の中に浸透しているという状態があるのだという。僕もその通りだと思う。「伝統」というのは、教育や努力によって回復するものではなく、それが自然に存続していく条件が社会の側にない限り、死んでいくのを防ぐことが出来ないのではないかと思う。大切にするというのは、スローガンとして言葉としては美しく響くかも知れないが、実現可能性のない空虚な言葉なのではないか。実現可能性のないことに努力を捧げても、「解決すべき重要な課題」が解決するとは思えない。論理としてはつながりを作れないのではないかと思う。大切にするという情緒的な言葉で了解するのではなく、それらの実体(実態)の本質が何であるかを論理的に理解すると言うことを目標に掲げないと、その実現は出来ないのではないか。かつて教職員組合が、「体罰の一掃」というスローガンを掲げたことがあった。「体罰」を教育だと勘違いしている人もいるが、これは全く教育としては反対の効果しか持たないものだと僕は思っていたので、僕はこのスローガンに賛成だった。そこで、どのような具体的手だてで「体罰の一掃」を図るのかと言うことを質問したことがあった。だが、それに対する回答はなかった。具体的な手だては何もなかったのだ。もちろん「体罰の一掃」というのはとても難しいことだ。体罰が、生徒の行動を支配するのにどれだけ大きな効果を発揮するかと言うことも分かる。その効果抜きに、生徒を教員の思い通りに動かそうとすることが出来ないことがあるのも分かる。しかし、それでも、その特効薬である「体罰」に手を出さずに、地道な苦労を重ねていくことを宣言しなければ、このスローガンは絵に描いた餅になってしまうと思った。今のところ具体的な手だてはないが、たとえ失敗の繰り返しがあっても、体罰を使わない教育を作っていこう、というような回答を期待したのだが、そのような答はなかった。「体罰一掃」という美しい言葉に酔うのではなく、「体罰」というものがどういうものであるかという論理的理解を正しくするのだというふうに具体的な目標を立て直した方が良かったと思った。安倍さんが語る「美しい国、日本」にも、その時に僕が感じた、組合の「体罰一掃」のスローガンに似た印象を受ける。言葉としては美しいが実効性がないと言う感じだ。これはやはり論理性がないと言わざるを得ないだろう。安倍さんの「美しい国、日本」は、どの文章も曖昧な表現で、具体的な内容を持たないので、それを判断することも批判することも出来ないような内容になっている。これもまた論理性を欠いていると指摘出来るところだろう。内容が曖昧なので、どうなったらこの目標が達成されたことになるのかが確定しない。だから、目標が達成されたときに、「解決すべき重要な課題」も解決されるのかと言うことを推測することが出来ない。何が達成されるのかの具体的な指摘が出来ないので、それを出発点にして、「解決すべき重要な課題」が解決されるかどうかを検討出来ないのだ。この曖昧さに目をつぶり、曖昧な部分を強引に解釈して、この目標達成が「解決すべき重要な課題」の達成を論理的に導いてくれるかを考えてみようと思う。これは、かなり強引な設定での論理展開になるので、論理の帰結の信頼性は低いが、何も信頼出来ない状況よりはましになるかも知れない。それぞれが論理的につながりそうに見える部分を図式化すると次のようになるだろうか。1<文化、伝統、自然、歴史を大切にする> ↓ <家族の価値観、地域の温かさが回復する>2<自由な社会を基本とし、規律を知り、凛(りん)とした姿勢をとる> ↓ <企業活動にルール意識が確立する>3<未来へ向かって成長するエネルギーを持ち続ける> ↓ <都市と地方の間における不均衡や、勝ち組、負け組が固定化することを防ぐ>4<世界に信頼され、尊敬され、愛される、リーダーシップを持つ> ↓ <世界の新たな脅威を解決する>これらの課題の解決の前提となることは、「美しい国、日本」のスローガンを好意的に解釈すれば、論理的なつながりを見ることが出来るかも知れない。しかし、すでに1の考察に見たように、その前提が実現可能かどうかと言うことに大いなる疑念がある。前提が成り立たないときは、その結論で何を言ってもほとんど無意味だというのが論理の法則だ。無意味だというのは、間違った前提から得られることは、結論の正しさを保証しないからだ。前提が間違いであれば、結論は正しくても間違えても、どちらでも論理的には推論としての整合性を持つからだ。安倍さんの4つのスローガンは、いずれも言葉だけの空虚なきれい事のように見えてしまう。だからほとんど信頼感は持てない。安倍さんが、この言葉を空虚なスローガンではなく、実効的な言葉にするには、もっと確かな具体性を持たせた言葉を語らなければならなかっただろう。しかし、具体的な言葉で語ることは、もう一つのリスクを背負うことでもある。具体的な言葉で未来を語れば、未来が実際に訪れたときに、その言葉の正否についての責任をとらなければならなくなる。曖昧な言葉で語っておけば、もし未来が言葉どおりになっていないように見えても、曖昧さの幅で、その予想が当たったかのように強弁することが出来る。曖昧であることは、一つの有効性もある。安倍さんが、これから何かを語るとき、信頼性を高めるために具体的に語るようになれば、僕は政治家としての安倍さんを信用するようになるだろう。だが、責任回避が出来るような曖昧な言葉で語り続けるようなら、僕は政治家としての安倍さんを信用しなくなるだろう。この所信表明演説の語り方では、今のところは安倍さんはあまり信用出来ないと言うのが僕の印象だ。その言葉は曖昧すぎる。論理性が感じられないからだ。
2006.10.01
コメント(0)
安倍新総理の所信表明演説の全文が「読んでみる?安倍首相・所信表明演説の「全文」」と言うページで読むことが出来る。この演説の論理性というものを検討してみようと思う。論理性を検討するというのは、そこに書かれている主張が正しいかどうかを検討するものではない。そこに書かれている主張が、どのような前提から導かれているのかを考えて、その前提から結論へ至る展開が、論理的な整合性を持っているかどうかを考えてみようとするものだ。論理的な整合性というのは、前提の中に結論を見出すような可能性が含まれているかどうかを判断しようというものだ。全く関係のないものを、表面的に似ているからと言うことで結びつけたものは論理的な整合性を持たない。もちろん、前提抜きの結論だけというような主張も、論理的な整合性を持たないと判断出来る。恣意的に選んだように見える結論も論理的な整合性を持たない。好き嫌いで選ぶようなものが恣意的に選んだものに当たるだろうか。論理的な整合性は、それだけで主張の真理性が確定するものではない。主張の真理性は、それに加えて、前提とする事柄が事実であるかどうか、前提の真理性というものを確定しなければならない。この真理性というものはなかなか確定が難しい。だから、ある主張が正しいかどうかはなかなか決定出来ない。しかし、論理的整合性が得られた主張は、論理的整合性がない主張とは違い、それが真理である可能性が高くなるだろうと思う。信頼性が高い主張になるだろうと思われる。論理的整合性がない主張は、たまたま結論が正しい場合が、偶然にはあり得るが、信頼性という点では全く信頼出来ないと言ってもいいだろうと思う。さて、安倍新総理が、命題の形で主張している判断はどのようなものがあるだろうか。それをまずさがしてみよう。「わが国は、経済、社会全般にわたる構造改革と、国民の自助努力の相乗効果により、長い停滞のトンネルを抜け出し、デフレからの脱却が視野に入るなど、改革の成果が現れ、未来への明るい展望が開けてきました。」と安倍さんは語っている。これは、事実として提出されているのだが、どのような根拠からこの判断がなされたのかは何も書かれていない。つまり、前提なしの結論がここに書かれている。その意味では、この主張に論理性はない。この文章を細かく分けてみると、<経済・社会全般に渡る構造改革>と<国民の自助努力> ↓<相乗効果><デフレからの脱却>(これは「視野に入る」という判断で、まだ脱却はしていないと言う判断のようだ)<改革の成果が現れた> ↓(このことから導かれるものとして)<未来への明るい展望が開けてきた>と言うような論理の流れを見ることは出来る。しかし、ここに論理的整合性を見るには、<経済・社会全般に渡る構造改革>と<国民の自助努力>と言う前提の中に、<デフレからの脱却><改革の成果が現れた>と言うことが、すでに含まれていることを、具体的な分析によって明らかにしなければならない。「構造改革」や「自助努力」の中身を具体的に語らずに、この論理の流れが正しいとすることは出来ない。つまり、この論理の整合性を判断する材料はここには何も書かれていないことになる。従って、ここには論理性はないとしか思えない。ここに論理の流れが書かれていなくても、それが想像可能であれば、この主張の論理的整合性を確認することは出来る。フランスの天才数学者のガロアは、入学資格試験において、ある数学の定理の証明を求められたときに「明らかだ」と答えて試験に落ちたらしい。ガロアの天才性からすると、説明するまでもなく明らかだと思われることだったのでそう答えたのだが、この答は、ガロアの天才性を伝えることは出来なかった。安倍さんの認識が、上の主張において論理的な判断をしているにもかかわらず、それを書かなかったという可能性はある。しかしこれは政治家としては間違いだろう。ガロアの場合は天才性のエピソードになることでも、丁寧な説明で、国民の一人一人に分かるように表現しなかった安倍さんは、政治家としては間違いだろうと思う。しかし、とりあえずこのことの論理性を自分なりに考えてみると、構造改革の中にデフレ脱却という景気浮揚の要素があることには、論理的整合性よりも疑問の方が大きい。小泉さんがやった構造改革の中には、官僚の天下りというような大きな弊害をもたらしたものの改革はなかった。不当な利権の構造は温存したままだった。小泉さんが改革したのは、低負担に対する高負担であった、福祉や教育を切り捨てて、国民の「自助努力」と呼んだ、国民の痛みの方を大きくするような構造改革ではなかったのか。構造改革の結果明らかになったのは、富める者はますます富を増大させていって、貧しいものますます貧しくなるという格差の拡大ではなかったのか。富める者が富をためたおかげで、デフレ脱却と表面的には見えるような景気浮揚があったのではないか。このように論理を展開すると、<未来への明るい展望>というのは、これからもますます富を増大させられるという層にしか感じられないのではないかと思う。安倍さんが、この一握りの階層のために、<未来への明るい展望>を語るのであれば論理的には整合性があるかも知れない。しかし、この整合性は、この主張の具体的な中身を語らなければ判断が出来ない。少なくとも、大多数の国民が<未来への明るい展望>を持つという、この主張が正しいと言うことは、論理的に理解することが難しい。やはり、ここには論理性がないと受け取った方がいいのではないだろうか。それは結論だけが語られているだけで、願望を表明しているのだと受け取った方が良さそうだ。もっと好意的な見方をすれば、目標を設定しているだけだと言うことだろうか。目標を設定すること自体は悪いことではないが、それが達成可能かどうかを、どれだけ信じられるかで、政治家としての主張の信頼性が判断出来るのではないだろうか。「一方、人口減少が現実のものになるとともに、都市と地方の間における不均衡や、勝ち組、負け組が固定化することへの懸念、厳しい財政事情など、わが国の今後の発展にとって解決すべき重要な課題が、われわれの前に立ちはだかっています。家族の価値観、地域の温かさが失われたことによる痛ましい事件や、ルール意識を欠いた企業活動による不祥事が多発しています。さらに、北朝鮮のミサイル発射や、テロの頻発など、国際社会の平和と安全に対する新たな脅威も生じています。」と語る言葉の中には、現状認識が語られていて、何を事実と見ているかという判断が語られている。事実だけが語られている部分は、それを事実だと考える根拠は語られていないので、その部分に関しては論理性はないと判断出来る。例えば、「都市と地方の間における不均衡」「勝ち組、負け組が固定化する」「厳しい財政事情」というような事柄は、それがあるという判断はしているが、これが何から生まれてきたのか、これがどんな根拠の基に存続しているのか、ということは語られていない。論理抜きの結論が語られているだけだ。安倍さんはこれらを「解決すべき重要な課題」と呼んでいるのだから、考えるまでもなく明らかな事実として提出しているのではないだろう。むしろ、解決の方向を示して、それに賛成してもらいたいなら、その存在する必然性を論理的に明らかにし、その論理から、解決の方向も求められるという書き方をしなければならないだろう。しかし安倍さんは「今後のあるべき日本の方向を、勇気をもって、国民に指し示す」と語り、それが「美しい国、日本」だと言う展開で語っている。これは全く論理性を持たない。どのように解決するかという論理が全く語られていないからだ。「美しい国、日本」については、いくつか語ってはいるが、このことが「解決すべき重要な課題」を本当に解決するかどうか、論理的に考えなければならない。しかしそこには論理的な説明はないように感じる。あとでもう一度よく考えてみたいと思う。「家族の価値観、地域の温かさが失われたことによる痛ましい事件」「ルール意識を欠いた企業活動による不祥事が多発して」という文章には若干の論理性を感じる。ここでは「痛ましい事件」の原因として「家族の価値観、地域の暖かさが失われた」と言うことを挙げているからだ。これは論理的整合性を考えることが出来る。また企業活動の「不祥事の多発」に関しては、「ルール意識を欠いた」ことが原因だとされている。これも論理的整合性を考えることが出来るだろう。だが、この二つの判断は、果たして論理的につながってくることが示せるだろうか。「痛ましい事件」は、家族や地域の他にも原因がないのだろうか。また、家族や地域を復活させることは果たして可能なのだろうか。ここには複雑な関係があると思われるのに、あまりにも単純化して理解してはいないだろうか。企業の不祥事が、「ルール意識を欠いた」と言うことが主たる原因であれば、ルール意識を確立すればその大部分は解決するものになるだろうか。ライブドアや村上ファンドの問題は、そこで厳しい対応がされれば、これからの企業の不祥事は減るのだろうか。ライブドアや村上ファンドは、むしろルールの範囲内での抜け穴を狙っていたのではないだろうか。ルールを破ってまでも儲けようとしていたのではなく、抜け穴だと思っていたことが、実はルール違反だったのだと指摘されているのが、今の状況ではないのだろうか。ルール意識は持っていたのだが、むしろルールそのものに、抜け穴を狙わせるような落とし穴があったとは考えられないのだろうか。安倍さんは論理性を語らないので、何を根拠にそのような結論を導いているかが分からない。こちらが想像するようなことを安倍さんが考えているかどうかは分からない。また、こちらの想像によっては、安倍さんの論理展開と違う結果さえ出てきてしまう。同じような論理レベルを持った人間にさえ伝わればいいのだという前提で語ることも出来るだろうが、政治家としては、大多数の国民に分かるような語り方をすべきではないかと思う。論理的に考えるという要求を持たない国民が大多数であれば、安倍さんの語り方も政治家として間違いではないと言えるかも知れない。その前提なしの結論を信じる人が多ければ、民主的な多数は獲得出来るだろう。安倍さんに、もっと論理的に語ってもらうには、論理性を求める国民が多いという前提も必要だろうと思う。
2006.10.01
コメント(0)
全27件 (27件中 1-27件目)
1
![]()

