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萱野さんの国家論というのはたいへんユニークで面白いものだと思う。国家論というのは、どちらかというとこれまではマルクス主義的な観点から論じられたりすることが多く、イデオロギー的な前提を強く持っていたように感じる。国家というものが民衆にとってどのような存在である「べき」かという「べき」論の観点から語られることが多く、対象の客観的認識よりも価値判断のほうが先行してきたように感じる。マル激で宮台氏が語っていたが、「べき」論で考えてもいいのだが、それが現実にそうなっていなければ、いくら「べき」論を主張してもあまり意味がないということが出来る。価値判断的に、そのような方向である「べき」だと考えたとしても、現実には客観的法則性を認識して、その法則に従う方向で変革を考えなければ「べき」も実現しないと考えなければならない。価値判断よりも客観的認識のほうを優先させて、まずは対象理解を徹底させるというのは、理科系にとってはごく当たり前の科学的な発想だ。それは、理解系の対象が自然科学的なものを基礎にしているので、価値判断をせずに考察の対象に出来るということもあるのだが、社会科学に関しても、それが「科学」と呼ばれるのなら同じような発想をするというのは、理科系にとっては極めて分かりやすい。萱野さんの論説に心惹かれるものを感じるのはそのせいだろう。萱野さんは『国家とは何か』(以文社)と『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)の2冊の本で国家について論じているが、後者は前者の続編のようなものだという。出版の期日を見ても前者のほうが先に発行されている。また、その内容も、前者が基礎的な理論を語っているのに比べて、後者は具体的な「カネと暴力」というものがどのように社会に現れているかという現象の解釈を語っている。だから順番としては『国家とは何か』から読んだほうがいいのかもしれないが、僕はたまたま『カネと暴力の系譜学』のほうを先に手に入れてこちらから読んでいる。これは、理解の仕方としてはこちらのほうがよかったかもしれないと思っている。基礎理論というのは、かなり抽象的な議論をしなければならないので、一度そのことをある程度理解してから行きつ戻りつしながら読んだほうが理解が深まるような気がする。それに比べて、具体的なものに沿って解説したものは、その具体的なイメージが理解の助けになって分かりやすくなる。具体的なものを助けとしてイメージを作りながら理解し、その理解の下で基礎理論的なことを見た方が理解としてはしやすいのではないかと思われる。理論を展開する人間にとっては逆の方向が、理解という教育面ではかえって有効になるというのは、これもまた面白いことではないかと感じた。教育の方法論としても、萱野さんの本は読めるのではないかと感じた。さて、考察を進める方法として、国家についてどのように考えていくかという観点で、『カネと暴力の系譜額』に書かれた文章を読んでみようと思う。萱野さんは、国家が税金を徴収する面を見て、それを「他人から金を奪う」現象であると捉えて考察を進める。このような捉え方に対して違和感を感じる人もいるだろうと萱野さんは予測している。税金の徴収というのは、多くの人にとって正当な行為のように映り、「他人から金を奪う」という、どちらかというと犯罪的なものだというような言い方に違和感を感じる人が多いだろう。この違和感は、価値判断が認識に先行しているために起こると思われる。しかし、価値判断を抜いて、税金が徴収されるという現象だけに注目して、その本質を抽象していけば国民が所持している金の一部が国家のものになるというものが見えてくる。これを「徴収する」というか「奪う」というかは表現の問題であって、同じことを語っている。「奪う」という言い方が、道徳的な価値判断の観点から見て認められないというのは、認識の方法としては問題があるだろう。このような観点を認めることに免疫性をつけるためにも、「徴収する」といわずに、あえて「奪う」という表現を使っているようにも見える。そして、この「奪う」という表現を使うことによって、国家でないものが同じように「奪う」という行為をしたときの違いを考察するきっかけをつかむことも出来る。これを「徴収する」という表現を使えば、国家以外に「徴収する」行為をすることが出来るものが見当たらないので、国家の特性を抽象することが難しくなり、考察の方向が展開するようなものになりにくいのではないかと思われる。あえて「奪う」という表現を使うというのは、方法論的にも受け止めることが出来るだろう。これは、税金の徴収という行為を、さらに上位の抽象をしたときに得られるものではないかと思われる。その行為が正当であるかそうでないかということが捨象されているのだと受け取ったほうがいいのではないかと思われる。税金について、国家がそれを徴収するという見方から、我々がそれを納めるという国民の側からの見方に変えていくと、多くの国民はそれが大切なものであるという考えから自発的に納めているのだと考えられる。国家は、国民のためになるような政治を行うことによって、社会に貢献し・国民に貢献しているという正当性があるからこそ税金を納めるということの正当性が出てくるというわけだ。自発的に税金を払うという、国民一人ひとりの意識が税金の徴収ということの考察で一つの要素として取り上げられていると思われる。この「意識」というものを考察の中で取り上げる(抽象する)か、無視する(捨象する)かは、方法論として重要ではないかと思われる。「意識」を取り上げることが価値判断の先行にかかわってくるように思われるからだ。萱野さんは、国家の考察においては、この「意識」を捨てて考える方向で考察を進めている。『カネと暴力の系譜額』では次のように書かれている。「もちろん、気持ちの上では自発的に税を納めている人はたくさんいるだろう。しかしそれはあくまでも、納めることが強制されているという枠内での自発性でしかない。 社会の中には喜んで税を納める人もいれば、いやいやそれをする人もいる。そうした各人の動機の違いを超えて税の徴収を可能にしているのは、それが強制的なものだという事実である。」税の本質にとって動機を重視すれば、自発的に支払うものこそが税だという発想になるだろう。いやいや取られるようなものは税ではない、あるいは不純な税だという捉え方になってくるだろう。価値判断が認識に先行していることになる。しかし、自発的だろうとそうでなかろうと、税として徴収された金の使い方が変わることはないだろう。どちらも結果的には税として機能する。そうであれば、この意識の違いを重視する必要が果たしてあるだろうか。その意識の違いは本質とはかかわりのない、偶然的な属性ではないのだろうか。税の徴収の本質を見ると、それが強制的なものだから徴収できるということが見えてくる。強制的なものでなければ徴収が出来ない。自発性という意識よりも、強制的かどうかということのほうが、税の徴収にとってそれが可能かどうかの判断にかかわってくる。つまり、そこで行われている行為が「税の徴収」という正当な行為なのか、単に「金を奪う」という不当な行為になっているかの判断にかかわってくる。そうであれば、このことこそが本質にかかわっているといえるのではないだろうか。このあたりの考察を、萱野さん自身の言葉では次のように書いている。「税が徴収されるのは公共のためだ、としばしば言われる。税金を自発的に支払っているという人は、おそらく、税は公共のためのものだという理由からそうしているのだろう。国家が税の徴収を正当化するのも同じような理由からだ。 しかし、どのような理由で根拠付けられようとも、税が強制的なものであるということ自体は変わらない。君主のためであろうと、公共のためであろうと、さらには国民自身のためであろうと、そうである。 税を成り立たせているのは理由ではない。強制的にカネが持っていかれるという点に税の基盤はある。」最後に語られている「税の基盤」というものが萱野さんのここでの主張のポイントだろう。気分的には、税が徴収されることの正当性を納得しなければ、単にカネが持っていかれることだけに注目するのは、国家に不当な仕打ちを受けているように感じてしまう。だから、その気分をすっきりさせるために、税の徴収の正当な「理由」が欲しくなる。その「理由」は、自分の価値判断という心の問題として生ずるのであって、税という現象に付属している属性として客観的に観察されるものではない。客観的に観察できる現象は、「強制的にカネが持っていかれるという点」であり、この事実性こそが「税の基盤」である、すなわち税の本質なのだという主張だというふうに僕は読んだ。この考察は、方法論的にも面白い。価値判断が先行して、客観的な認識が価値判断を揺さぶるようなとき、価値判断を守るために「理由」を探さなければならないという「論理的強制」が働くように見えるからだ。「論理的強制」というのは、三浦つとむさんがよく使った言葉で、ある種の前提を無意識のうちに持っていながら考察を進めると、その前提から論理的に導かれる結論が、考察の全体を支配してしまうというのが「論理的強制」だ。経済学における自由主義のように、自由こそが正しいという前提を持っていると、どのような問題が生じようとも、それは自由が侵されているからだという発想で対象を見るようになる。それは、自由こそが正しいという前提から導かれる「論理的強制」のように思われる。税の徴収が強制的になされるのは、国家に何らかの正当性が存在して、その正当性ゆえにという「理由」で税の徴収が肯定されるのではない。むしろ、事実として税の徴収が強制的になされるというものがあって、それが強制的になされなければならないという現実性が、それを正当化する理由を要請するのだと考えるほうが、客観的に正しい見方だといえるだろう。萱野さんは「国家はもともと「軍事的捕食者」であった」と書いている。つまり、もともとは強盗と変わらない犯罪的な起源をもっているのが国家なのだ。しかし、それが強盗のような犯罪者ではなく、「カネを奪う」ことの正当性を見つけることが出来て国家となっていく。価値判断を先行させない国家の認識はそういうものだろう。このように国家を捉えると愛国心の問題も簡単になる。とてもじゃないが、このような単なる機能に過ぎないものを愛せよといわれても困ってしまう。愛する対象は国家ではないのだ。パトリとも呼ばれる郷土などの精神的対象こそが愛の対象になるものだろう。価値判断と認識を区別するというのは、イデオロギー批判の方法論として有効なのではないかと感じる。その区別を混同してしまうと捨象と抽象にゆがみをもたらすというのは、方法論的に一般化できるのではないかと思う。マルクシズムやフェミニズムという「イズム(主義)」の批判に有効性を発揮するのではないかと思う。応用してみようと思う。
2007.05.31
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イデオロギーとは、「政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態」と辞書的には定義されている。ということは、イデオロギー的なものに影響された思考というのは、その帰結が「歴史的、社会的立場に制約された」ものであると捉えられている。本来ならば、その時代の特殊性に縛られているはずなのに、それを捨象してしまって普遍性があるかのごとくに勘違いするところに、イデオロギー的な誤謬の本質があるような気がする。これは、人間の思考がパラダイムという枠組みの影響を免れないということから言えば、そのパラダイムでさえも思考の対象に出来るという、時代の制約を超えた視点を持たなければ克服できない誤謬だ。これは、再帰性というものを反省の対象にすることが出来た近代になって初めて気がつかれたものではないだろうか。近代以前の社会では、どれほど優れた人間であろうとも、時代の制約そのものを反省の材料にして自分の思考の結果を検討した人はいなかったのではないか。マルクス主義というイデオロギーが人々を支配した時代も、そのイデオロギーそのものが前提として正しいものかということは発想することが難しかったのではないかと思う。おそらく、その時代には、マルクス主義を成り立たせていた条件がほぼ自明なものとして受け取られるような時代的制約があったのだろう。近代成熟期に入り、マルクス主義的なイデオロギー的前提が、現実に成り立たなくなってきたことから、それに疑いの目を向けることが出来るようになったのではないかと思う。マルクス主義では「階級」というものを自明の前提のように設定していた。しかも、本質的にはブルジョアジーとプロレタリアートという二つの階級に抽象されていくものという前提が自明なものとして考えられていた。しかし、近代成熟期になると、人間の社会的存在というのは多様性を増し、単純に二つの階級に区分できなくなり、階級という考えそのものさえ成り立たなくなるような現実がやってきたのではないかと思う。物理的条件としてはまったく同じように見える人間が、社会的にはその思考も行動もまったく異なっているというような多様性が生じたのではないかと思われる。このように、自明だと思われていた時代性さえも再帰的に思考の対象になることによって、その帰結が一段高い普遍性のレベルに到達してきたのが現代のさまざまな主張の帰結なのではないかと思われる。今までは特殊性を普遍性と取り違えていたが、本当の意味での普遍性を求めようとしているように見える。あるいは、今までは時代に制約されてはいるが、その時代には一般的に成り立つ事柄を「普遍性」と捉えていたが、時代を超えてもなお成立するようなものを新たな「普遍性」として捉えなおそうとしているように見える。これは、我々の思考のレベルが、かつての人々よりも優れているというよりも、時代が変わったおかげで、今まで見えなかったものが見えてきたということだろうと思う。我々の思考がパラダイムを超えることが出来るほど進歩したというより、事実性がパラダイムを変えてしまったので、思考もそれを受け取らざるを得なくなったといったほうが解釈として妥当なのではないかと思う。このような時代に萱野さんが「~の思考~」というコラムで、「第6回 価値判断と認識」を綴っているというのは象徴的なことではないかと思う。ここで萱野さんは、「価値判断から認識を区別するということがとても重要になる」ということを語っているが、これはイデオロギーを排した思考を進めなければならないということと対応すると思った。イデオロギー的な帰結というのは、実は論理の展開の結果として得られるものであるにもかかわらず、それが普遍化されてしまうと、次の論理の出発点に置かれてしまうものになる。それが論理の帰結であることが意識されていれば、論理の前提となる条件を忘れずにいることが出来る。しかし、帰結ではなく、普遍性を持った論理の出発点ということになってしまえば、それは数学的な意味での公理と同じものになり、検討するまでもなく真理性が保証されているものとして捉えられる。このようにイデオロギーが論理の出発点になってしまうのは、そこに価値判断が先行しているからではないかと思われる。萱野さんは、「国家はそもそも存在すべきものなのか」という問いを価値判断として捉えている。これは、その肯定判断・否定判断が普遍的なものにはなりえず、信念の表明のようなものになる。だから、本来は論理の出発点にはなりえず、ある条件の下で考えれば、「国家はそもそも存在すべきものなのか」ということに対する肯定判断・否定判断のいずれかが出てくるものとなる。だが、自分の感情として、どちらかの価値判断が正しいものだと思いたいと、その価値判断を正当化する条件を自明に成立するパラダイムとしてしまう傾向を持つ。これは、それが自明に成立すると仮定すれば、自分が望む帰結が正当化されるので、このパラダイムから逃れるのはかなり難しいだろう。そして価値判断が先行して打ちたてられた現実の前提は、論理の帰結として得られたイデオロギー的な主張を、今度は論理の出発点として要請してくる。イデオロギー的な主張を論理の出発点にしても、論理的な整合性を取ることはいくらでも出来る。だから、そこに誤謬が入り込んでもなかなか分からない。論理的な誤謬は見つけるのは簡単だが、事実性の間違いは、それが明らかに分かるような形で出現してこないとなかなか分からない。むしろ、事実性の間違いを隠蔽するような論理のつじつまあわせのほうが出来てしまうことがある。経済学における自由主義は、自由こそが正しいという命題を論理の出発点にするそうだ。それが正しい根拠というのはどこにもないのだが、それを論理の前提に置いて、つじつまが合うように論理を展開する。この命題は、本来なら、ある条件の下にこれが正しくなるという論理的帰結であるべきなのだが、自由主義ではこれが論理の出発点になる。これが論理の出発点になると、経済において何らかの問題が生じたときは、自由が侵害されたことが原因で問題が生じたという論理の展開をするようになる。例えば、市場において失業だの恐慌だのという問題が生じるのは、どこかで自由が侵害されているからだという発想をする。自由さえ実現されれば、市場のメカニズムによって、その問題は解決されるはずだというのが論理的な帰結になる。自由主義の経済学者が注目したのは、自由を阻害する存在としての労働組合だったということだ。賃金というのも市場において自由競争にさらされるべきだとしたら、他の価格が下がっているときに、賃金だけを下げないというのは自由を阻害することになる。賃金は適正な価格まで下げられるべきであり、その自由を阻害する労働組合は、資本主義的自由にとって害悪になるという結論になる。これは、自由主義を論理的な出発点に置けば、論理的なつじつまは合わせられるだろうと感じる。しかし、現実の事実としては何が見えてくるかといえば、下げられた賃金では食えなくなった労働者の生活の困窮がまず見えるだろう。そしてその生活の困窮から逃れる方法がなければ、犯罪的な方法を使ってでも生き延びようとする人々も出てくるに違いない。経済学的にはつじつまが合って、経済の問題は解決できたとしても、それ以上に深刻な問題を社会に引き起こす結果を招くのではないかと思う。その事実を見て、人々はこのイデオロギー的間違いに気づくのではないかと思う。イデオロギーが価値判断と結びつき、自分にとって価値あるものを正当化しているなら、そのことからそれを論理的前提として設定することに、ナイーブに同意してしまうことはイデオロギーに支配された誤謬を招く。それは、現実の条件が、イデオロギー的主張を成り立たせている間は表面化しないが、時代が変わって条件が変化すると、その間違いが事実として見えてくる。価値判断と認識とを区別せよというのは、方法論としても、誤謬論としても重要なことではないかと感じる。萱野さんがコラムで語っていることと同じことを、内田樹さんの「2006年04月25日 非人情三人男」という文章の中にも見ることが出来る。「非人情」というのは、人情という感情に流されないで、対象を突き放してみることを意味する。つまり、感情的な価値判断を離れて、対象の認識のみに精神を集中することができるということを「非人情」と呼んでいるわけだ。ここで内田さんは夏目漱石の『草枕』について書いている。三浦つとむさんによれば、漱石というのは、文学を科学として確立するために四苦八苦した人だということだ。漱石は極めて理科系的な人だったという。文学という、文章を味わう行為を、感情から切り離して科学化できるかということに疑問はあるものの、価値判断と認識を切り離して、まずは認識のほうに重きを置いたのが漱石の「非人情」という考え方のようにも見える。内田さんは、「「非人情」とは畢竟「距離感」のことである」と語っている。距離感を大きく取ることが出来れば、感情に流されることが少なくなり「非人情」になれるということだろう。当事者意識が強くなれば距離感が取れなくなり「非人情」になれない。つまり、価値判断と認識を切り離すことができないということだ。ある対象の認識を深めたいと思ったら、その対象に対しては第三者的に振舞うことが正しいのだと思う。内田さんは、「非人情」の人としてラカンについても書いているが、そこでは「ラカンの非人情もメルロー=ポンティを失うことの欠落感には耐えられなかったのである」と語っている。ラカンにとってのメルロー=ポンティというのは、第三者的に他人事として見ることの出来ない存在だったのだろう。ラカンは、メルロー=ポンティに対しては「非人情」になれなかったので、価値判断抜きに認識することは出来なかったに違いない。しかし、それはある意味では幸せなことだったと思う。価値判断抜きに認識することが出来ない対象を持つということが、幸せの一つの現れだと思うからだ。普遍的な真理を得たいという対象に対しては、価値判断と認識を切り離さなければならない。そのためには、普遍的な真理を自分の個人的な幸せとつなげないほうがいいだろうと思う。萱野稔人さんは『カネと暴力の系譜学』の中で、国家の本質を「他人から金を奪う」ことに見、資本主義の本質を「他人を働かせて、その上前をはねる」ことに見ている。これを、価値判断として「何とひどいことをしているのだ」と考えると、認識のほうが曇ってしまう。むしろ、そのひどいと思われるようなことが、国家の行為としては肯定され、企業の行為としては肯定されるところに、それが価値判断的に無条件に悪だとはいえないという認識を持たなければならない。つまり、これらが価値判断として悪(不当)だとされたり、悪ではない(正当)とされる条件はどこにあるかという認識の方向に行かなければ、現実を正しく解釈することが出来なくなる。資本主義における搾取が必ずしも悪ではないなどと言うと、イデオロギー的に同意できない人もたくさんいるだろうが、搾取がない・利益をすべて労働者に配分するような資本主義が、資本主義としては衰退することが論理的に帰結できるのではないかと思う。資本の増殖のためのストックは、搾取という行為からしか得られない。もっとも、このような行為を「搾取」と呼ぶことに価値判断的に反対されると、やはり認識を深めることはできなくなるだろう。このような現象を搾取と呼ぼうと、あるいは資本蓄積・増殖などと呼ぼうと、本質的には違いはない。と考えることが価値判断と認識を切り離すことになるのだと思う。問題は、現象を妥当に認識することであって、それがいいと思えるか、悪いと思えるかという自分の感情の問題ではないのだ。
2007.05.29
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都知事選での石原慎太郎氏の圧勝を考えたとき、あるブログで見た「治安問題」への取り組みが大きな要素だったということに頷いたものだった。他の候補に比べて、石原氏が主張する治安対策のほうが、多くの人の信頼を勝ち得たという指摘は正しいものだと感じた。治安対策というのは強権的な警察権力を有効に発揮しなければならない。その意味では石原氏の強い姿勢のほうが何となく安心できそうな感じはする。萱野稔人さんの指摘にもあったが、他を圧倒する強い暴力でなければ、暴力を制圧するという治安は保てない。弱い暴力では治安問題の解決には不安が生じてしまうだろう。治安問題を主張すれば一定の支持が得られるというのは石原氏だけにとどまらず、保守政治家は気づいているような感じがする。自民党を離れた亀井静香氏も、今度の参院選での争点を治安問題に求めているようだ。多くの人が不安を感じている時代は、その不安をあおることによって、不安を鎮めることが出来る強いイメージを持った政治家がポピュリズムを獲得する。小泉さんがそうだったし、フランスにおけるサルコジもそのようなイメージがあるのではないだろうか。しかし、この治安の不安というのは、本当に深刻に迫っているものだろうか。最近の事件報道というのは、確かに理解を超えるようなものが多い。母親を殺害してその頭部を持って自首した高校生のニュースなどは、その猟奇性が理解を超えている。また、拳銃を持って立てこもった暴力団員の事件は、拳銃所持が違法であるにもかかわらず、日本ではかなり多いことを予想させる。横浜で幼児が刺された事件では、外見からは人を刺すように見えない人が突然そのような行為をしてしまうという怖さを感じさせる。精神的な問題があって行動の予測がつかない人間は、外見からはまったくわからない。これらの事件が、それは特殊なケースで平凡な日常においては稀にしか起こらないのだと理解できれば、それはさほどの不安は生まない。しかし、いつ自分の身に降りかかるか分からない、どこにでも起こり得ることだと感じれば不安は高まるだろう。現在の社会は流動性が高く、周りに生活している人々がどのような人々であるかが見えなくなっている。自分の周りにいる人がどんな人であるかを知らない。そういう意味で、誰がこのような事件を起こすかということが分からず、分からないからこそ、いつ自分の身に降りかかってくるかという不安が生まれてくる。「人を見たら泥棒だと思え」ということは、他人がよく分からない社会では、そのような感覚が起こってくるだろう。都市伝説と呼ばれる噂話は、そのような不安が物語になったものだ。得体の知れない、よく理解できない他者が、何かとんでもなく悪いことをしたり考えたりしているのではないかという憶測は、他者を知らない不安から生まれてくる。このような不安が高まるのは現代社会ではある意味では仕方のないことであろう。それでは、その不安は、治安の強化によって静めることが出来るかどうかをもっとよく考えなくてはならないのではないかと思う。気分的には、治安が強化されれば不安は静まるだろうが、それは実質的にも不安の根源を取り除くことに効果を持っているのか。治安の強化は、気分的に不安を静めるだけで、実質的には危険は少しも減っていないのではないだろうか。萱野稔人さんの指摘では、国家の持つ強大な暴力は、他に暴力を行使しようとする私的な存在を抑止し、合法的な暴力として唯一認められることで他の暴力を抑えることができるという。これは整合的な考え方だ。治安維持にとって強大な暴力は必要不可欠なものだ。しかし、ここで抑圧される他者の暴力は、違法な暴力を使えば合法的な暴力によって押さえ込まれるのだと自覚しているような暴力だ。つまり、確信犯的に暴力を用いる人間は、それが露見しないように使うことに注意を集中するということで暴力の抑止になる。あからさまに恣意的に暴力がふるえないようにするという意味で、警察権力の治安維持の効果が生まれる。この抑止力は、暴力を使ってある種の支配をもくろんでいる人々に対して有効に働く抑止力だ。暴力による支配は、国家以外には許さないという国家の意思が、恣意的な私的暴力の抑止になる。昨今の治安の不安を引き起こしている暴力事件は、どうもこのような確信犯的な暴力の行使には見えない。誰が、いつ引き起こすか予測が出来ない、そのような暴力に対して強大な暴力を用いて抑えることが出来るだろうか。国家による強大な暴力で抑えられる暴力というのは、意図的に暴力をふるって自分の利益を引き出そうとする人間にしか有効に作用しないのではないだろうか。その暴力行使が意図的なものでなく、追い詰められ暴発したことによって表れてしまったものなら、どれほど強大な暴力で、その発生後にそれを取り押さえたとしても、次に同じような事件が発生する可能性があったとき、その事件を引き起こすものに抑止力が働くだろうか。現在の諸事件に対しては、事件が発生した後に事後的に対応するしかないのではないかという感じがする。そのために治安の強化がどれほど必要なのかはよく考えたほうがいいことではないかと思う。今東京の学校では監視カメラの設置が進められている。これは、治安強化の一つの現れだろう。これによって学校の安全はどのくらい強められることになるだろうか。実質的にはほとんど安全を高めることにはならないのではないかと思う。監視カメラは、何か事件が起こったときに、その事件の目撃証拠としては役立つだろうと思う。だが、役立つのは事件が起きた後であり、事件が起こる前にはさほど役に立つとは思えない。監視カメラがあることで、どれほど抑止になるかということは未知数だ。現在不安を大きくしている犯罪事件は、それが発生した後に取締りを強化することで次の事件の抑止にはならない種類のものになっているのではないだろうか。それは、発生の原因が確定されておらず、どこで誰が起こすか分からないというものになっている。このような事件に対して治安を強化するというのは、実質的な対策としては的外れなのではないだろうか。自分の家に放火して母親と兄弟を死なせてしまった高校生について、父親の存在が彼を精神的に追い詰めたという報道があった。医師である父親が、自らの後を継ぐことを期待して、厳しく勉強に追い立てたという。この報道を見ると、何とひどい父親だと思う人が多いだろう。しかし、この父親が特にひどい父親なのだろうか。子どもに期待をして厳しく接するなどというのは、「巨人の星」などのスポコン漫画の世代には、むしろ美談として語られていた時代があったのを思い出す。野球なら美談で、勉強なら悪として語られるのだろうか。この父親が恣意的な暴力をふるって虐待していたというのなら非難されても仕方がないと思う。しかしそこまでひどくなかったのなら、むしろ高校生の息子が、それがいやだったらいやだという意思表示をして逃げ出すのではなく、いきなり家に放火するという行為になってその意思が現れてしまうことを問題にしたほうがいいのではないかと思う。家に放火するという行為に至るまでは、おそらく長い間の行為の蓄積があったのだろうと思うが、その間じっと我慢して、いやだという意思表示がまったく出来なかったという状況にこそ問題があるのではないかと僕は感じる。どこかで、それがいやだということを主張してぶつかり合うことがあれば、いきなり放火をするというカタストロフ(破局)の発生は避けられたのではないだろうか。そのような小さな軋轢を許さない絶対的権力を父親が振るっていたとしたら、その点は非難されるべきだろう。資本主義的には成熟社会になっているのに、そのような封建的な支配関係で自由を縛ってしまえば、今の時代には何らかの問題が発生するということを大人である父親は知らなければならなかっただろう。僕は、この父親が特にひどいとは思わないが、現代社会の特徴に関しては無知だったのではないかと感じる。地震というのは、小さな地震でエネルギーを放出しておけば、いきなり大きな地震で被害が起こることはないという。それまでまったく地震がなかった地域に地震が起こると、溜め込まれた大きなエネルギーの地震になるために破局的な被害になるという。人間の精神的な危機もそうではないだろうか。不満や恐怖というのも、小出しに出していることによって大きく溜め込まれることが防げるのではないだろうか。それをいつも押さえ込んで我慢していれば、それは大きなエネルギーを溜め込んでいくのではないだろうか。先の高校生は、もう父親を殺すしか自分が救われる道がないというほど大きなエネルギーを溜め込んでいたようだ。それが一気に噴出すれば放火をするというカタストロフになってしまうのだろう。この犯罪事件を抑止するには、治安の強化は効果がないのではないかと思われる。むしろ、どうすれば小さなエネルギーの間に不満を吐き出して、それが大きくならないようにコントロールするかということが抑止の効果になるのではないだろうか。現在の、原因が特定できない犯罪事件の抑止には、それがカタストロフになるような大きなものになる前に、小さなうちに露見するような工夫をすることこそが大事なのではないだろうか。このような効果を生むには、治安の強化に金を使うよりも、人間の心の研究に金をつぎ込んだほうがいいのではないかとも思うのだが、それはすぐに目に見えるような成果が現れないので、気分的には治安の強化のほうが安心できるように見えるかもしれない。それが治安問題で強いと思われる政治家のポピュリズムにつながるのだろう。さらに、治安強化の方向が大衆的な支持が得られるとなれば、そこに金が流れるということで利権が発生する。学校に設置される監視カメラのことを考えれば、監視カメラ業界の利益はかなりのものになるだろうと思う。そうなれば、それが実質的には有効でなかったとしても、業界としてはどんどん監視カメラが設置されることを望むだろう。一度発生した利権を抑えて、無駄な金を使うのをやめるというのは、長野県の脱ダム宣言が、利権を持っている人たちの大きな反発を呼んだように、とても難しいことだろうと思う。鶏と卵のようなジレンマを感じるが、今の治安強化の方向は、実質的には余り効果がない的外れな対策のように僕には見える。もっと実質的に有効な対策を考えることで、治安強化の方向がポピュリズムを失う方向を僕は望んでいる。治安強化の方向は、実質的には本当の意味で大衆的な不安を除くことには効果を生まないが、監視カメラの設置に見られるように、我々の監視や管理の強化には役立つだろう。国家権力が必要以上に肥大化する恐れがあると思う。萱野さんの指摘によって、国家が強大な暴力である警察権力をもつことの必要性は理解できる。しかし、それが必要以上に肥大化することは弊害も生むのではないかとも感じる。その弊害は自由の制限に向かうのではないかと思う。治安問題は誰もが関心を持つものだが、気分的な不安を静める方向ではなく、実質的な安全を確保する方向はどちらなのかをよく考えたいと思う。それは、単純な警察権力の強化ではないと思う。
2007.05.28
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萱野稔人さんが『国家とは何か』(以文社)という本を書いている。この本の前書きに当たる部分の「イントロダクション」というところで、この本が目指しているところの全体像について書いている。それは、タイトルにあるとおり、「国家とは何か」ということなのだが、その中に物事を考える方法論のようなものがあるのを感じた。「国家とは何か」という問いに対して、こういうものだという答を提示するのがこの本の目的ではない。そもそもこの問いは、国家というものがいかに捉えにくい複雑なものであって、単純に答が出せるような対象ではないのだということを自覚させるためにあるような気がする。国家の捉えがたさは、国家というのは直接目で見ることが出来ないものだからだろうと思う。つまり、実体としての国家そのものはどこにも見出せないのだ。国家を構成するであろう要素や機能は見ることが出来る。国民一人一人という存在は、現実の我々自身であり、これは幻ではなく実体的に存在する。国家を構成するであろう政治的な装置(国会・議員・地方議会など)もその存在を見ることが出来る。国家の機能である法的拘束力も日々感じることが出来る。外国との間にトラブルが発生すれば、それを解決するための国家の働きを見ることが出来る。パスポートを使って海外旅行をするときは、そのパスポートによって外国での身の安全や自由が保障されていることを感じれば、国家の機能を感じることが出来るだろう。だが、そのときにも国家の姿は見えてこない。このように捉えどころのない、眼に見えないものを考察する出発点になるのは、「国家とは何か。国家などというものがなぜ存在しているのか。そもそも国家が存在しているというのはどういうことなのか。」というような発想だ。これが方法論的な側面を考えさせる。国家に限らず、目に見えない捉えどころのないものを考えるときは、このような出発点から始める方法があるだろう。「国家」という言葉を「言語」に置き換えると次のようになる。「言語とは何か。言語などというものがなぜ存在しているのか。そもそも言語が存在しているというのはどういうことなのか。」このような発想で言語論を展開すると、三浦さんが語るような言語論になるのではないかと思う。方法論的に見て、この出発点はいろいろなものに応用できる。法律・道徳・教育などという単純ではない対象に対しては、いつでも上のような問いが立てられるだろう。しかし、これは問いを立てただけでは問題は解決しない。この問いに答えうる方法がまた見出されなければならない。問いを立てただけでは問題の解決にならないのだ。その問いが答えられうる方向を見出せるような仕方で問われなければならない。萱野さんが解説する解の方向は、「いわゆる経験科学的なアプローチ」ではない。概念的な考察として提出される。これはどういう意味かといえば次のように考えられるのではないだろうか。経験科学的アプローチとは、現実に国家と呼ばれる対象を観察して、その属性を記述し、その属性から国家の特徴を抽象していこうとする方法だ。これは、対象の概念がはっきりとしていて、ある存在が考察している対象であるかどうかが明確に判断できるときに正当性をもちうる方法だ。経験科学が科学であるためには、あらかじめその対象の範囲が明確に定められていなければならない。つまり、経験科学として国家を考えるなら、すでにその時点で「国家とは何か」がもう決まっていなければならないのだ。「国家とは何か」を決めるために経験科学的なアプローチをすれば、今まで対象にはしていなかったまったく新しい形態で、しかも国家のように見えるものをどう扱うかということが判断できなくなる。経験科学は、それが国家であれば国家として扱うことが出来るが、経験科学を用いてそれが国家であるかどうかを証明しようということは出来ない。このように考えると、経験科学で国家を考える場合は、その経験科学で明らかにしたい法則に関して、なくてはならない部分を抽象して、例外的なものとして捨象してもいいものを捨てて国家の概念を作るだろう。つまり、経験科学では、その取り扱う範囲によって国家の概念は違ってくる場合もある。そして、それが違ったとしても、その抽象の下での法則性が論理的整合性を持っていれば科学としては合格点なのである。それが、現実をよく反映しているものであれば、科学としての有効性も持っているといえるだろう。概念というのは、対象の持っている属性を抽象して作り上げるのだが、どれだけ多くの部分を捨象するかで抽象のレベルが上がっていく。属性のほとんどすべてを捨て去れば、ほとんどあらゆるものがその概念に入ってくるがその代わりに、対象固有の属性の考察は出来なくなる。他と区別される対象固有の属性を残しながらも出来るだけ高い抽象をしていくというのが、萱野さんが国家の考察に関して取っているアプローチのように感じる。「人間の思考の対象になるもの」という抽象はレベルの高い抽象であり、ほとんどすべての存在がそこに入ってくる。当然のことながら、国家と他のものを区別する指標は、この概念からは得られない。だから、有効な概念を作るには、国家と似たような機能を有するにもかかわらず、それが国家にならない・国家と呼ばれないのはなぜかということが整合的に説明されるような概念が求められなければならない。萱野さんは、暴力の行使という面から国家を捉えて、その概念を作り出そうとしているように見える。同じように暴力を行使して人々を支配しようとする集団が人間社会には他にもある。これとの違いや、これらが暴力の行使で不当だと判断されるのに、国家の暴力の行使は正当化されるのはなぜかが整合的に説明されるなら、この概念は役に立つ・有効だと言えるだろう。萱野さんは、イントロダクションの段階では「国家について言えば、しばしば次のように問われてきた。それは実体なのか、それとも人々の間に打ち立てられる関係なのか、と。 しかし国家は実体でもなければ関係でもない。さしあたってこう言っておこう。国家は一つの運動である。暴力にかかわる運動である。」と書いている。僕は、この本をまだ全部読んでいないので、この主張をこの段階で理解することは難しいが、実体的に眼に見える国家の現れの中で、偶然的なものを捨てて本質を抽象すると、「運動」という側面こそが本質として残るのだという説明だと思う。これは、機能的な側面を静的に捉えるのではなく、動的に捉えることによって「運動」だという見方をするのではないだろうか。本質を機能に見ているのではないかと感じる。僕は、眼に見えない存在は関数的に捉えることがその本質をつかむことになるのではないかと思っている。関数は機能に注目することになり、機能を本質として捉えることになる。ある意味で「機能主義」と呼んでもいいだろう。「機能主義」というのは、すべての存在は機能こそが本質であると主張するもので、対象の属性を考えることなしに結論付けているので、「主義」と呼ばれ、間違ったものとして扱われている。だが、対象が目に見えない存在であり、見えるのは機能・働きとしての入力と出力の関係だけであれば、それは機能こそが本質だと捉えてもいいのではないかと思う。対象が実態的なものではないという属性を持っているとき、機能主義が真理となるのではないだろうか。萱野さんは、国家の有効な概念を見出すことでどんな問題を解決したいと思っているのだろうか。経験科学的アプローチでは、対象の持っている法則性を明らかにして、それを人間にとって有効に活用できるようにすることを目的にしているように感じる。法則に従った扱いをすれば、対象は人間の自由になる。そのために役に立つ概念を設定して出発点にしているように見える。三浦さんが確立した言語学も、言語の法則性を明らかにすることによって、言語による伝達の正確さを高めたり、誤謬の可能性を分析することが出来るという有効性があるように感じる。三浦さんが言語を表現として捉えるのも、その概念把握の中には、言語が伝えるものは人間の認識であり、それを正確に伝えることが言語の有効な使い方だと考えるものが入っているのではないかと思われる。言語を表現として捉えるのは概念把握としてはレベルが高く、絵画や音楽との区別がつかなくなる。それを区別がつくレベルにするには、表現把握のときに捨象された認識の区別の部分で、一般的・抽象的な認識に対応する部分が言語表現と結びつくというのが三浦さんの言語特有の概念だった。これによって、言語表現の正確な理解は、一般化・抽象化の過程を理解することに対応することになる。これは、言語表現の理解と創造において有効に働く法則になる。萱野さんが語る国家の概念は、それが明らかになったとき、どのような有効性を持つだろうか。それは萱野さんの本を読み終えなければ分からないかもしれないが、目次を見る限りで予測するのは、国家にとっての暴力の必然性と正当性を理解することが基礎になるのではないかと感じる。暴力がまったく存在しない社会というのはユートピア的な想像の中にはあるかもしれないが、現実にはあり得ないだろう。そうであれば、マル激の中でも語っていたが、「管理されない暴力」と「管理された暴力」とではどちらがいいかという話になる。萱野さんは、もちろん「管理された暴力」のほうがいいに決まっているというようなことを語っていた。そのとおりだろうと思う。「管理されない暴力」とは、その行使の正当性があるかどうかはどうでもいいような暴力になる。暴力を持っているものがそれを恣意的に使うというものが「管理されない暴力」だ。その恣意性を、不十分とはいえ、正当性を認められたものだけに限るというのが「管理された」暴力だ。素朴に暴力のすべてに反対する、あるいは戦争のすべてに反対するという運動が、現象的にも成立しなくなってきているが、これは理論的に成功し得ないのではないかという気が今はしている。暴力のすべてに反対するのではなく、「管理された暴力」の管理の仕方について意見を言うという方向こそが、現実的な運動の方向なのではないかと感じる。国家にとって暴力が不可欠の要素であるなら、それをなくそうという運動は国家を解体しようという運動になってしまうだろう。暴力をなくすために暴力を使うのは不合理だし、暴力なしに強大な暴力をなくすようなことも出来ないだろう。どちらにしても、国家にとって暴力が不可欠なものなら、暴力そのものを消滅させようとする運動は、理論的に不可能になる。理論的に不可能な問題ならば、その問題の解決の方向を捨てて、他の問題を設定して解決の方向を見出したほうがいいのではないかと思う。オイラーは、一筆書きが出来るか出来ないかの条件を見出した。その条件から考えて、一筆書きが不可能な図形に対して、いつまでも一筆書きの答を探しつづけるのはばかげている。萱野さんの思考は、無駄な努力から人間を解放してくれるような有効性を持っているのではないかと思う。そのような予想を持ってこの本を読んでみよう。
2007.05.27
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久しぶりにすごい人間に出会った。マル激のゲストで語っていた萱野稔人という人物だ。その明快な論理展開は、宮台真司氏の文章を初めて目にしたときと同じ印象を感じた。この人は優れた専門家だと思える人はたくさん見つけることが出来る。マル激にゲストで登場する人々にはそのような専門家としての優秀性を感じる。しかし、全体的な印象として「すごい」という感覚を受ける人は少ない。萱野さんにはそのような印象を感じた。これは宮台氏に感じて以来久しぶりのことだ。その萱野さんが「~の思考~」というコラムで、「第6回 価値判断と認識」という文章を書いている。ここで語られていることは、非常に分かりやすいものであるのに、そこに込められている知の深さと豊かさを感じるものだ。単純なことを語っているからわかりやすいというのではないのだ。非常に難しい深みのあることを語っているにもかかわらず、これほど分かりやすい言い方をしているというところにまず目を引かれた。これは、三浦つとむさんにも共通していたことだが、ある事柄に本当に通じている人は、それを全体的な把握の下で細部を語ることが出来るので、細部に難しさがあるにもかかわらず易しい語り方が出来る。それは、単に用語を易しく言い換えたのではなく、概念の構造を正確に語ることが出来るので易しい言い方になっている。用語を易しく言い換えただけでは、正確な概念が伝わらないが、正確な概念を伝えてかつ易しく語るということが出来る人が、ごく稀にだがいる。僕はそういう人にすごさを感じる。さて、ここで萱野さんが語っている「価値判断から認識を区別するということがとても重要になる」ということは、言葉だけを読む限りではそれほど難しいことではない。主観と客観とを正しく区別することが重要だということだ。ある判断をするとき、それは自分という個人がそう思っているだけなのか、それとも、自分ではない平均的な他者(これを任意の他者という)が、誰でもそう思うのかということを区別せよということだ。これは、科学的に物事を捉えるときの基本になるものだ。価値判断を述べるものは科学にはならない。どのような絵画がいいものか(言葉を変えれば好きかということ)は、人によって判断が違ってくる。このようなものは科学にはなりえない。つまり条件つきの絶対的真理とはなりえない。だが、人はしばしば、自分の個人的感情を真理だと思い込みたいときがある。そういう時は、価値判断と認識を区別することが難しい。つまり、「価値判断から認識を区別する」というのは、言葉として、命題の意味としてこれを理解するのは易しいが、それを実際に実践するという行為にかかわる部分ではたいへんな難しさがあるものなのだ。絵画の批評を無理やり科学として成立させることも出来る。それは、批評の基準というものを客観的にまず設定しておいて、実際の絵画が、その基準を満たしているか客観的に判定できる方法を確立しておくことで達成される。しかし、この場合は、客観的基準に照らして判断をするので、それがいいと思えるかどうかという感情は捨象される。感情に関係なく、基準に合致しているかどうかが論理的に判断される。この論理的に判断されるということが客観性にとっては重要であり、科学として成立するかどうかのカギになる。科学はいったん確立してしまえば価値判断が入る余地はなくなる。そこにあるのは論理的判断の正しさがあるかどうかだけだ。しかし、このようにして確立された科学は、それが人間社会で重要な意味を持つものか、面白いものであるかという判断においては価値判断であることを免れない。それは科学にならない。絵画の批評においても、それが面白いものになるかどうかは、まったく個人の価値判断にゆだねられるだろう。多くの人が高く評価している絵画が、科学として展開した絵画の評価とよく一致していれば、そこに僕は面白さを感じる。それはおそらく、絵画という芸術の本質を捉えるような科学的な基準が立てられているのだろうと感じる。しかし、多くの人が高く評価しているものを低く評価し、つまらないものを高く評価するようなものであれば、その評価基準は、論理的には整合性があるかもしれないが、現実をよく反映したものではなくつまらないものと感じるだろう。最も面白さを感じるものは、感覚的にはその良さがすぐには分からないが、その基準に照らして対象作品を捉えてみると、それが優れていることがよく分かり、絵画の鑑賞をより深めることが出来るような科学的な基準があれば、僕はそれをとても面白いものだと感じるだろう。絵画の評価などは、ある意味ではセンスの問題になってしまうのだが、このセンスというのは訓練で身につけることが出来ず、素質や偶然の発見などで身につくようなものになる。しかし、科学であれば、手順を踏んだ教育によって大多数の人は身につけられると考えられるからだ。科学の確立は、教育にとって非常に大きな意味がある。さて、萱野さんは上のページの文章で、国家について、これの価値判断と認識とを区別して捉えようとしている。それは「国家はどうあるべきか」という問題と、「国家とはなにか」という問題を区別して考えるということだ。これは実践的には非常に難しい。なぜなら、国家の存在が自分の人生にとって利害関係を持ってくることが多いからだ。国家から利益を得ている人にとって、その利益をもたらしてくれる国家像が、国家としてあるべき姿に映るだろう。そして、それが国家本来の姿であるという「認識」の問題でもあると思いたくなるのではないかと思う。逆にいえば、国家が自分を圧迫しているという感じを受けている人は、国家というのはそのような欠陥のある存在であることが本来の姿のように映るだろう。出来ればないほうがいいもの、百歩譲っても必要悪くらいの認識になるのではないだろうか。これを価値判断を括弧に入れておいて、まずは客観的な存在としての国家がどういうものかを認識することからスタートさせようとするのが萱野さんの方法であるように見える。これは科学として正当なやり方だ。萱野さんは『カネと暴力の系譜学』という本で、国家にとって暴力が必然的かどうかを論じているらしい。これは、「暴力はあってはならないもの」という価値判断を持っていると、考えることがそもそも難しくなる。その価値判断が、ある種のパラダイムになって、あってはならないものが現実に存在することに不当性を感じてしまう。正しい認識をすることが難しくなる。あるいは、国家の存在そのものが不当であるという、反国家的なイデオロギーを持ちたくなるかもしれない。国家にとっての暴力の必然性を考えるには、価値判断から区別された認識の確立という意識がなければならないだろう。萱野さんは、この本のある書評に対して次のようなことを書いている。「おそらく立岩さんは、私が国家を一方的に糾弾していると考えているのだろう。国家は、結局はヤクザと同じで、暴力のうえになりたっている悪の存在だからダメだ、と私が言いたいのではないか、と。」価値判断と認識とを区別する習慣がないと、認識として国家の暴力の必然性を結論したことが、国家を非難しているという受け取り方をされてしまうと感じているのだと思う。しかし、国家が暴力を伴うというのは、それは現実の国家の属性を客観的に語ったものであって、それがいいか悪いかという基準はどこにも提出されていないので、価値判断はしていないのだ、いいとも悪いとも語っていないのだと受け取るべきだというのが萱野さんの主張ではないかと思われる。萱野さんは、上の文章に続けて次のようにも語っている。「さて、こうした立岩さんの指摘に対する私の反論だが、まず言いたいのは、私はなにも「暴力は悪だ」という自明性を議論の出発点にしているわけではない、ということだ。私が国家とヤクザ組織を比較するのは、べつに国家の本性が悪だということを暴き立てたいからではない。あくまでも認識のレベルで国家を理論化するためである。国家を価値判断することは『カネと暴力の系譜学』の目的ではない。だから、立岩さんも指摘しているように、私はこの本のなかでは「暴力はいいのか悪いのか」「暴力はどこまで必要か」といった議論をまったくしていない。」萱野さんの目的は、あくまでも国家という存在の理解なのである。それも客観的科学的な理解だ。それは、価値判断に優先されなければならないという考えがそこにはある。なぜなら、客観的に確立された国家の概念は、個人的な思いにかかわらず、客観的なメカニズムで展開をする。つまり、人間の思いに関係なくそうなってしまうという現象がそこには現れる。それを正しく捉えることが出来なければ、人間がどんなに願っても、その願いは実現されなくなる。願いが強ければ神がそれを聞いてくれるということはないのだ。客観的な法則性を正しく捉えて行動しなければ目的は達成されないという科学のメカニズムがそこにはあるのだ。萱野さんは次のように書いている。「たとえば、立岩さんがそうしたように、「暴力は必要か」あるいは「他人の労働の成果を吸いあげることはいいのか、悪いのか」と問うとしよう。こうした問いは、価値判断にしたがって暴力や吸いあげの運動をどうこうできる、という前提のもとでなされている。実際、もし「暴力は必要でない」という結論がでたときに暴力をなくすことができないのなら、暴力は必要かどうかを問うこと自体が無意味となるからだ。」僕が科学や理解にこだわるのも、実はこのような理由からだったのだというのを、萱野さんが明確に書いてくれたおかげでよく分かった。科学的に見て「暴力をなくすことが出来ない」のなら、それを考えたって意味がなくなるのだ。そして、単に願いの強さを増すことを考えるよりも、対象の認識を深めることが出来れば、その可能性を見つけることも出来る。つまり、可能性がゼロであればあきらめるしかないが、ゼロでなければ、どこに可能性があるかを科学は教えてくれる。単に願うだけではなく、科学として問題を捉えることが問題の解決につながるのだと思う。このことを一般的にまとめると次のようになる。萱野さんの言葉を引用しておこう。「こうした問題に答えを見いだすためには、まず価値判断をカッコに入れて認識を深めていくしかない。当為(べき)が存在(ある)を規定するのではなく、存在が当為を規定する。社会を組み立てている要因について、価値判断をおこなうまえに、どこまでが人間の意によっては動かすことができなくて、どこからが動かすことができるのかを、まずは理論化しなくてはならないのだ。価値判断はそのうえではじめて有効となる。」誰もが感じていることだがなかなか正確に表現できないことを適切な言葉で表現する。そして適切な表現によって、その問題に対する理解が深まっていく。価値判断と認識を区別することが正しいことは誰でも考える。しかし、それが正しい価値判断をするための認識の優位性からするのだというのは、世界の全体像を把握している広い視野と、世界のつながりを正しく捉える深い論理性を兼ね備えている人間だから言えることだろう。普通の人間は、自分の感情に流される思考をしてしまう。それを越えているところに、萱野さんのすごさを僕は見る。
2007.05.26
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以前どこかで、資本主義は永遠の発展を運命付けられているというようなことを聞いた記憶がある。語っていたのは宮台真司氏だっただろうか、小室直樹氏だっただろうか。現在の日本は低成長時代になっているが、資本主義というのは、安定成長という現象はありえないというような話だったと思う。すべての人が豊かになって、その豊かさが維持できるということはなく、豊かであってこれ以上もう物はいらないという状態でも、なお大量生産・大量消費によって資本主義は発展させなければ、安定そのものも失われていくというような論理展開だったように思う。資本主義は、大量生産によってそのコストを下げて、物を安くすることで大量に消費することを可能にし、大量消費によって儲けを大きくすることで発展してきた。豊かさを実現するということでは、社会主義は資本主義にはまったくかなわなかった。社会主義は、計画経済によって必要量を生産しようとしたのだが、社会にとっては必要量というのは予測することが難しいもので、しかも、需要はある種の刺激によって高めることが出来る。資本主義は、需要を高める手法によって大量消費の方向を打ち出し、それによって儲かる部分にさらに投資をして、コストを下げることを可能にし、さらに儲けることが出来るようになる。しかし、この循環は永遠に回ることは考えられない。大量に生産されたものが市場に行き渡る状態がやがてはくるからだ。物が市場に行き渡れば、大量生産されたものが売れなくなり、当然のことながら大量消費によって儲けていた部分がなくなる。そうなれば、低いコストで生産していた状況が変化し、大量生産が出来なくなる。そうなると、その企業は市場から淘汰されていくようになる。このような状況を回避するには、新たな市場を獲得するか、新たな需要を開発して別の商品を大量生産・大量消費できるようにしていかなければならない。いずれにしても、もう十分豊かになったのだから、生産を制限して豊かさを維持する方向に社会の動きを変えようと思っても、資本主義の元ではそれは出来ない相談になるような気がする。豊かさを維持しようと思っても、大量消費が出来なければ資本主義は尻すぼみになり、その豊かさもなくなっていくのではないかと思われる。資本主義という体制を維持しようとすれば、大量生産・大量消費というものを避けることが出来ない。つまり発展することを運命付けられているというのはそういうことだ。そうであるなら、資本主義を続ける、つまり資本主義がもたらしてくれる豊かさをいつまでも享受したいと考えるなら、環境破壊も止むを得ないという受け取り方も必要になってくる。豊かさと環境破壊とどちらを選択するかという問題の立て方をするしかなく、豊かでもありたいし、環境も守りたいというのは、論理的には両立しない空疎な願いになってしまうのではないかと思われる。環境を守れという運動は、どこかで資本主義的な発展を拒否するという姿勢を見せなければ、非現実的な空論を唱えるだけのものになるのではないだろうか。九州で生活していた作家の故松下竜一さんは、火力発電所の建設に反対する運動を続けていたが、松下さんは、たとえ電気のない生活になったとしても、火力発電所によって環境が破壊されることには反対だというような主張をしていた。松下さんは、電気を大量に消費するような贅沢な生活とは無縁な人で、電気の消費が減ったとしても、豊かさが失われたというような不満を感じるような状況にはなかった。しかし、多くの人は、すでに電気の大量消費による恩恵を受けており、その豊かさを捨ててでも環境を守るという意識は薄かったのではないかと思われる。松下さんの崇高な考えと努力にもかかわらず、その運動は大衆的な広がりを持たなかった。資本主義社会の下での環境問題の取り組みの難しさというものを感じる。資本主義にとって環境破壊の問題は不可避なもので、これが将来的にどれほど深刻になるかが正確に予測できなければ、今その豊かさの恩恵を受けている人々が、自発的に資本主義の恩恵を手放すということは難しいだろう。共産党の内部から、共産党を解体するゴルバチョフのような人物を生み出すことの難しさと同じものを、大衆運動の中で作り出さなければならないという難しさを感じる。優れた人間がそろっていると思われる共産党幹部でさえもゴルバチョフは一人しか生まれなかった。それを大衆的にたくさん生み出すことが可能かどうか。この種の難しさと同じものを、萱野稔人さんを招いて議論していた今週のマル激の放送で宮台氏が語っていた。萱野さんの「の思考」というコラムの中の「第11回 戦後体制からの脱却にひそむジレンマ」にも書かれていたのだが、資本主義の発展にとっては戦争が不可避のものかという話題があった。資本主義には不況・失業などという、その発展を阻むような問題が時に生じる。マルクス主義では、これは市場の無秩序から生まれるもので、市場をコントロールするような強大な権力によってこれを避けるという考えから、企業の私有を認めないような共産主義の考え方が出てくる。しかし、自由主義的な考えからは、これは市場の自由を制限するところから生じる問題だという発想をする。市場の自由が本当に実現されていれば、需要と供給のバランスが自動的に調整されて(「神の手」とも言われているようなメカニズム)、この問題が解消されると考える。自由主義者にとって、市場の自由を阻むのは、不況のときに労働者の賃金を下げたくてもそれを邪魔する労働組合が諸悪の根源のように映ったらしい。不況であれば需要と供給の関係から、労働者の賃金が下がるのは当然のことで、そこで自由競争によって賃金が需要と供給のバランスを保つ水準に落ち着けば、資本主義の問題は解決されると、論理的にはそう考えられる。しかし、これは物の値段が自動的に調整されて一定の水準に落ち着くということとは、賃金の問題は本質的な違いがあるようにも感じる。物は、競争に負けて売れなくなればそれが捨てられるということで処理される。もったいないとは思っても、それがある種の法則であれば仕方がないとあきらめられる。しかし、人の場合は、競争に敗れたからといって捨てられることが正しいといえるのかどうか。ここには、物の法則のメカニズムと違うものがあるのではないだろうか。労働者の需要は物の法則とは違うのだから、それを自由競争に任せて敗者を見捨てるのではなく、国家権力を介入させて経済の回転に影響を与えてこの問題を解決させると発想させたのがケインズではないかと思う。ケインズは国家が需要を作り出すことによって経済を刺激して資本主義を発展させるという方向を主張したのではないかと思う。そして、その作り出された需要によって、労働の需要も生まれるので、労働者を見捨てることなく不況や失業の問題を解決できると考えたのではないかと思う。小室直樹氏によれば、ケインズの考え方は、それまでの資本主義的な自由を制限するようなものだったので最初のころは支持を得られなかったらしい。それによって本当に、現実の問題が解決するかということが信じられなかったようだ。しかし、ケインズの考えが正しいことを証明してくれたのが、ヒトラーとルーズベルトだったと小室氏は指摘する。ヒトラーはケインズの理論を知らず、経済学についても専門家ではなかったが、天才的な直感によって公共事業という国家による資本の投入がドイツの不況と失業を解決すると発想したようだ。ヒトラーがそのような政策を実現するためには、反対者をすべて黙らせるだけの強権がヒトラーには必要だっただろうと思う。それまでの常識を覆すようなことをしようと思えば、そのときは独裁的に振舞う必要も出てくる。そう考えると、ヒトラーの独裁はその評価が違ってくるかもしれない。そして、ヒトラーは自分の考えが正しいことを、ドイツの経済の回復と発展で証明して見せた。ドイツ人は、ヒトラーの政策が輝かしい成果を見せることに驚き、その結果を見てヒトラーに全面的な信頼を置くような全権委任というようなこともしてしまったのではないだろうか。ヒトラーは高速道路の建設などの公共事業でケインズの理論を証明したようだが、その後の公共事業として、さらに戦争というものが大きな影響を与えたというのが、宮台氏が語ったことであり、萱野氏が指摘していたことだ。戦争こそが、資本主義においては最も効率のいい公共事業だというのだ。それは、第二次世界大戦に突入したアメリカがそれによって経済を立て直したことや、朝鮮戦争によって戦後復興を成し遂げた日本が、やはりそのことを証明していると語っていた。資本主義の発展にとって戦争は不可避のものなのだろうか。戦争という公共事業がなければ、資本主義にとっては不況や失業が訪れるのを避けられないのだろうか。冷戦構造というのは、直接の戦争をしなくてすんだのだが、いつでも戦争に突入する可能性を見せていたという面では、常に戦時体制を組むことが出来る都合のいい状況だったようだ。冷戦構造の時代にこそ資本主義の最も輝かしい発展があったというのも皮肉なものではないだろうか。その冷戦構造がなくなってから資本主義にかげりが出てきたようにも見える。そう受け止めると、イラク戦争に対する見方もまた変化してくる。アメリカの侵略という不当性の意味に加えて、資本主義の維持・発展という意味での、公共事業としての戦争という意味も考えなければならなくなる。もし、資本主義にとって戦争が不可避のものであるなら、資本主義国家における反戦・平和運動の意味というのが、素朴に善意によって正当性が見出せるものではなくなる。資本主義的な豊かさは、実は戦争という公共事業によって資本主義が発展することによってもたらされているなら、その豊かさを享受することと戦争を否定することとは、矛盾してしまうのではないだろうか。どのように整合性を取ればいいのだろうか。戦争は否定したい、しかしそのことを本気で考えるなら、資本主義的な豊かさも否定することが必要なのではないだろうか。豊かな資本主義国において、その豊かさを保ったままで反戦・平和運動をすることの論理的な矛盾というものを、反戦・平和運動をする人々は深刻に受け止めなければならない。これはたいへん難しいことだ。素朴に、人が殺されるところを見ることが出来ない、というような善意だけで、資本主義国家の内部で反戦・平和運動をすることは欺瞞ではないかという感じがする。これが欺瞞だからということで、多くの人が犠牲になるような戦争が正しいという主張をすることも出来ない。しかし、戦争の是非は、素朴な感情だけでは結論は出せないということだけは確かだ。この種の難しさは、無駄な公共事業といわれている、日本の地方の土木工事の問題にもある。公共事業が資本主義の発展をもたらすというのは、日本の土木工事の多さがそれを証明しているとも言えるかもしれない。これは、破産するような自治体が出てきたために、無駄な公共事業をなくせという声が高まっているが、無駄を排したときに資本主義の発展も止まるともいえるのではないかと思う。無駄な公共事業を無くしたとき、それに代わる新たな公共事業が見つからなければ、資本主義は尻すぼみになっていくのではないだろうか。それでもいいという人が多くなれば、資本主義に代わる新たな社会が生まれればいいと思う。しかし、資本主義的な豊かさを維持したいという人が指導者層にいれば、もう一つの公共事業である戦争のほうに目を向けるかもしれない。資本主義は、マルクスが予想したような階級闘争という根本矛盾ではなく、ケインズが見出した公共事業の必要性という根本矛盾によって曲がり角にきているのかもしれない。
2007.05.25
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社会主義国家に誤りがあったというのは、それが崩壊したという結果からほぼ明らかだろうと思う。前回の指摘が正しいかどうかは異論があるかもしれないが、社会主義という考え方に間違いがあったのは誰もが認めるだろう。もし、そこに間違いがなかったのなら、国家が崩壊するなどという結果を招くはずがないからだ。国家の崩壊は具体的な事実であり、目の前でソビエトという国がなくなってしまったのを我々は目撃した。しかし、マルクス主義という理論は、ある意味では具体的な存在である国家とは相対的に独立していて切り離すことが出来る。だから、マルクス主義理論そのものは、そこに誤りがあるかどうかというのは解釈に違いが出てくるだろう。マルクス主義の主張には多くの正しさがあったと思うが、根本的なところで間違っていたのではないかと僕は今では考えている。マルクス主義の場合も、理論は正しかったのだが、その適用においてみんな間違えたという解釈をすることも出来る。しかし、ほとんどすべての状況で適用を間違えたマルクス主義というものは、たとえそれがとても難しいものであったとしても、適用した個人だけに責任があると考えるのはどうも整合的ではないように感じる。社会主義国家の基礎にあったのはマルクス主義であり、これはほとんど崩壊した。生き残っている中国はもはやマルクス主義に従って思考しているとは思えない。また、日本における大衆運動では、マルクス主義を基礎にして進めようとしていたものについては、ほとんど成果を生むことがなく、今は影響力もまったく無くなってしまったように見える。マルクス主義が現実の指針において正しい指導が出来なかったというのは、未来を予測することに失敗したのであり、科学としての資格を持ち得なかったことを意味するのではないかと思う。科学にはなりえなかったというのは、どこかに認識の誤りがあったと思うのだが、それがどこにあるかを突き止めるのはたいへん難しい。マルクス主義は左翼的な人々を魅了して、最も優れた人々をその信奉者とした。この人々が論理的な間違いをすることはあまり考えられない。マルクス主義は、論理においては完璧に近い整合性を持っていたものと思われる。つまり、論理的な誤りを指摘することは出来ないのではないかと思われる。僕も若いころは、三浦つとむさんが語るマルクス主義の、論理的な完結性が非常に魅力的でそれに惹かれたものだ。現実的には、矛盾したと思われる現象が存在することを目にすることがある。不合理を感じるような現象は、論理の上では存在してはいけないはずなのに、現実には存在する。これは形式論理の範囲では解釈が出来ない。それを弁証法という見方を使うことで、見事に論理的な整合性を確立することが出来た。そこにマルクス主義の理論的な正しさを僕は見ていた。現実に存在する弁証法的な対象が弁証法性を持っていることはある意味では当たり前のことだ。そして、それは現実の矛盾の存在が合理的であることも語っている。自分が考察している対象が弁証法的な捉え方をすることが正しいのかどうかが、弁証法論理を考えるうえでは重要になる。三浦さんが語るマルクス主義は、この対象の捉え方を正しく行っていたように僕には見えた。三浦さんは、形式論理で捉えなければならない対象を、弁証法論理で捉えることの間違いも正しく指摘していたからだ。ある対象の視点を変えれば、それに対して正反対の解釈をすることが出来る。板倉さんが「ビリっけつ、向きを変えれば一番だ」と語る事柄は、「向きを変える」というふうに視点を変えて、評価の基準を変えれば、「ビリ」が「一番」になるという弁証法性を持っている。これは、「評価」という事柄が、もともとそのような弁証法性を持っているので、弁証法的に考えることが正しいと言えるのだ。それに対して、ある人間が「男」であるか「女」であるかを考えるとき、視点を変えればどちらの解釈も出来るということはほとんどない。一般的には必ずどちらかに決定できる。つまり、この対象は形式論理的な性質を持っているわけだ。これを弁証法的に考察しようとすれば論理的に破綻する。ここで「一般的には」と断ったのは、稀にどちらとも決められない人が存在することがあるからだ。しかし、その存在は本当にごく稀なもので、特殊な存在と考えることが出来る。だから、理論の構築の上では(対象を抽象して一般化するとき)、このような特殊な対象を捨象することが出来る。これは、現実にそのような人々を無視しろということではない。理論の構築においてそのような対象は捨象しなければ一般化することが出来ないので、理論そのものの展開ができなくなるから捨象するだけのことである。生物学的な判断において、「男」か「女」かは確定的に決定できる。だからこそ形式論理でそれを展開できるので、理論の構築ができる。弁証法は対象の捉え方において注意を促すが、理論の構築と展開においては形式論理を使わなければならない。だから、対象が形式論理に従うような抽象と捨象が必要なのである。理論の展開における形式論理的扱いに際しては、弁証法性を持っている対象は捨象されなければならない。「男」と「女」という対象を社会的に考察しようとすると、途端に弁証法性が顔を出してくる。生物学的には「男」であるが、社会的には「女」として存在しているように解釈できる対象が見られる。そして、それは捨象すると社会の実態を正しく把握できなくなる場合がある。このような時は、対象の構築においてその弁証法性を保った上で、形式論理的展開が出来るように「男」と「女」の定義を変えなければならないだろう。三浦さんが語るマルクス主義というものは、対象の捉え方においても、その弁証法性を正しく受け止めて、形式論理的な論理展開をするときには、その対象を正しく抽象していたように僕には見えた。マルクス主義においては、理論的な間違いは見つけられなかった。少なくとも、論理的な整合性は完璧に近いのではないかと思っていたのだ。しかし、宮台真司氏を知ってからは、マルクス主義理論のどこかに間違いがあるのではないかという気もしてきた。宮台氏が、社会学が誕生のときからマルクス主義と対立している面を持っていたというのも気になっていた。だが、それがどこを指しているのかはよくわからなかった。それが、このあたりなのかなというのを知らせてくれるようなヒントを「連載第一七回:下位システムとは何か?」の中に見つけた。そこでは次のように書かれている。「■後に詳しく説明する通り、社会システム理論では、政治とは、共同体の全体を拘束する決定を産出する機能(集合的決定機能)を果たす装置の総体のことであり、経済とは、共同体の全体に資源を行き渡らせる機能(資源配分機能)を果たす装置の総体のことです。 ■これらを前提にすると、ソキエタス・キウィリスの概念は「政治優位」であり、ビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフトの概念は「経済優位」です。近代の社会概念と違い、前者は集合的決定機能において、後者は資源配分機能において、共同社会の全体性を把握します。 ■前者は、血縁原理が支配する原初的社会を離脱して一定の階層分化を達成した高文化社会において、部族的範域を大きく超えた単位(コイノニア・ポリティケ)の決定に各部族的単位(オイコス)が従わなければならない理由を、主題化するところに生まれました。 ■後者は、近代初期に勃興した産業ブルジョアジーが、集合的決定にそぐわないコミュニケーションの領域として市場経済を見出す(政治からの自由)と同時に、かかる自由を担保するべく市場の担い手の政治参加(政治への自由)を願望するところに、生まれました。 ■前者を象徴するのがアリストテレス政治学で、共同体の営みを人体に擬えた上で政治的コミュニケーションを「頭」と見做します。後者を象徴するのがマルクス経済学で、下部構造たる経済的営み(生産関係)が、残りの営みを上部構造として支えていると考えます。 ■因みにマルクスはビュニガーリッヘ・ゲゼルシャフト(市民社会)を、市場の無政府性が一人歩きする怪物だと捉え、この無政府性を克服するために社会主義革命を構想しました。この構想に従って、二十世紀には「東側」と呼ばれる社会主義国家群が生まれました。 ■社会システム理論の鼻祖パーソンズは、東側のような政治の肥大した体制(後述)が生まれたのは、古典派経済学からヘーゲルを経てマルクスに至る「経済優位」の社会把握に問題があるからだと考えました。社会システム理論の構想は実はそこから生まれたのです。」長い引用になったが、マルクス主義における理論的な問題としては「古典派経済学からヘーゲルを経てマルクスに至る「経済優位」の社会把握に問題がある」という指摘が重要だ。経済は優位しているのではなく、宮台氏がここで説明している下位システムの一つとして他のシステムと共存しているものだというのが社会学の理解だということだ。それは特別なものではなく、他のシステムと同等なのだという。これはマルクス主義が前提としているもの、数学でいえば公理を否定して、別の公理系を立てようとするもので、確かに対立する考え方になる。しかも、この考え方を基礎にして整合的に理論を構築することも出来る。それが「東側のような政治の肥大した体制(後述)が生まれた」原因を正しく説明しているようなら、マルクス主義よりも、むしろこの考え方のほうが正しいといえるのではないかと思われる。「政治の肥大した体制」を持つ国家は、現実的な失敗であり、事実として間違いを語っているものであるように見える。この指摘は、マルクス主義の理論的誤りを指摘したものではないかと僕は感じた。経済優位の考え方は、「存在が意識を決定する」というテーゼにもつながってくるもので、僕はこのテーゼが正しいと思っていただけに、マルクス主義の基本的設定も正しいと思っていた。しかし、人間の意識を決定するのは、経済という要素が大きいものの、他のシステムによって左右されることを捨象できないのではないかと今では思っている。それが捨象できないものであれば、経済だけを優位にあるものとして抽象し、それを理論の前提にすることには問題があるのではないかと思えてきた。それを前提にして形式論理を展開すれば、形式論理的には何ら問題がない理論が構築できるであろうが、捨象したものが強く影響をしてくる現実においては、その理論は実効性を持たなくなる。「政治の肥大した体制」が現れる現実は、まさにそのようなものだったのではないだろうか。「政治の肥大した体制」では個人の自由が失われる。マルクス主義がこのような結論を必然的に生み出すものであれば、日本の政治体制がマルクス主義によって変革される前にこのことが分かってよかったと思う。宮台氏は学生のころから、システム理論によってマルクス主義を批判していたという。その時代は、マルクス主義が全盛のころだったのではないかと思えるだけに、ここにも宮台氏のすごさというものを僕は感じる。
2007.05.24
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社会主義国家が崩壊したとき、その現象をどう解釈するかというのはマルクス主義の陣営にとっては深刻な問題だっただろうと思う。これが、マルクス主義の理論的な誤りを証明する実験と捉えるのか、理論には誤りがなかったが、その現実の適用において失敗した実践的な誤りと見るのかは大きな違いがあるだろうと思う。マルクス主義を信奉して、そのパラダイムで自分の思想を形作っていた人々は、その理論が間違っているという前提そのものの否定はなかなか出来なかっただろうと思う。目に付くのは、現実の社会主義国家の指導者たちの具体的な失敗のほうだ。スターリン主義に見られるような大衆の弾圧と強権的な政治に失敗を見たり、特権的な指導者層の物質的な贅沢さに個人的な堕落を見たりすることのほうが多かったのではないかと思う。マルクス主義理論そのものの間違いを認識するというのはかなり難しいことだったに違いない。理論が間違えているのではなく、人間の認識の中に誤りがあったと思いたくなるのではないだろうか。しかし、社会主義国家が例外なく倒れ、生き残った中国などは、もはや社会主義とは呼べないような国になっている。むしろ資本主義国家以上に資本主義的な生産が浸透し、国家が巨大な資本家になって資本主義を運営しているようにも見える。社会主義国家として唯一残っているように見える「北朝鮮」にしても、資本主義化して生産を発展させなければ国家の存続が危うくなっている。具体的な実践がすべて失敗しているときに、それでもなお理論には誤りがなく、それを適用している人間に間違いがあるだけだと解釈していられるだろうか。これは、理論に誤りがあるために、どんなに優れた人間がそれを実践しようとしても、必ず失敗をするようなメカニズムがあるのだと解釈したほうが整合的だろうと思う。社会主義国家の指導者は、その時代の最高の優秀性を持っていた人々だったと思う。その人々たちがすべて間違えたのなら、やはり理論そのものに誤りがあったと理解したほうがいいだろう。この点ですごいと思うのは中国の指導者の優秀さだ。中国は、共産主義というパラダイムそのものを捨てたように僕には見える。中国は、経済においても政治においてももはや共産主義ではないように見える。むしろ資本主義を取り入れ、政治においても資本主義において不可欠な民主主義を少しずつ取り入れようとしているように見える。パラダイムの転換を、パラダイムによって利益を得ている特権的な階級の中から行えるというところに、中国の指導者のすごさを僕は感じる。中国ではゴルバチョフが多数派を占めているのではないかと感じる。僕は、師と仰ぐ三浦つとむさんがマルクス主義であったにもかかわらず、マルクス主義の信奉者にはならなかった。これは、僕が左翼的な指導者、特に共産党に対してあまりいいイメージを持っていなかったので、マルクス主義を信奉する気にならなかったことがある。三浦さんは、共産党のマルクス主義を「官許マルクス主義」と呼んで、本当のマルクス主義ではないのだと批判していたが、僕は、マルクス主義に本当のものとニセモノがあると考えるよりは、理論そのものにそのような誤りを呼び起こすような原因があるのではないかと感じていた。三浦さんの「官許マルクス主義」批判を読んでいると、そのようなものを信じている共産党の指導者はみんなバカではないかと思えてくる。しかし、実際に自分の身近にいる組合の指導者である共産党関係の人々は、むしろ仕事に対して熱心で能力の高い人々だった。もちろん、三浦さんが指摘するような欠点には気づいていないところがあったが、それはパラダイムに影響された人間には仕方のないことだとも思っていた。つまり、間違いは能力の問題ではなく、パラダイムそのものにあるのだというのが、僕の仕事の日常から感じる実感だった。社会主義国家が倒れたとき、僕はその間違いの根本にあるのは「プロレタリアート独裁」という理論ではないかと思った。僕は自由を信奉する人間で、自由の価値に対しては無前提に、一つのパラダイムとして捉えているところがある。だから、「独裁」という言葉には、そのイメージだけで拒否反応が起こるようなところもある。これこそが間違いの究極的な原因となるものではないかと思った。独裁というのは、何もかも独り占めすることで批判を許さないものだ。スターリン主義に見られるような、反国家的な人間に対する弾圧というのは、おそらくその徹底ぶりに関しては、戦前・戦中の日本の軍国主義的弾圧よりもひどかったのではないかと思う。それは、思想的な基礎があるだけに、人々が善意を持って弾圧が正しいと思ってしまうだけに、よりひどいものになるだろうと感じる。三浦さんは、この「プロレタリアート独裁」は、過渡期には必要なものとして考えていたようだ。人々の熱狂で革命が成功した時は、革命そのものは人々の感情の高まりで動員した力(ある種の暴力)で成功することがある。しかし、その人々は、革命後の国家の建設までは考えていない。とにかく現状が絶望的なものであれば、破壊して新しいものが生まれるという希望だけで、破壊に賛成する心情が生まれてくるものだろう。革命後の国家建設に対しては、そこまでよく考えている指導層が独裁的に国民を引っ張っていく必要がある。そうでなければ、国家はその歩む道を間違えるだろう。そして、指導者層が正しい指導をしている間に国民を教育して、独裁を民主主義にゆだねても正しい判断が出来るようになったときに、過渡的な「プロレタリアート独裁」は終わりを遂げる。理論的にはこんな展開だったと思う。これは論理的には間違っていないだろうと思う。しかし、この論理には隠された前提がいくつかある。一つは、革命後の指導者が、独裁的に指導をするだけの能力があるということだ。つまり、間違いのない判断ができるという前提がなければ、上の論理展開は狂ってしまう。共産党の無謬神話というのは、それがなければ「プロレタリアート独裁」を正当化できないので、どこの社会主義国家でもそのようになっていったと考えられる。また、その優秀な指導者層は、「プロレタリアート独裁」が過渡的なものであり、その間に国民を賢く教育できるという前提がなければならない。ところが、この両方ともに現実には困難な要請だった。権力を握った人間が、それが過渡的なものであるから、過渡期を過ぎれば権力を離れるということを自発的に考えるということはまったく期待できなかった。むしろいつまでも権力にしがみつくということのほうが普通だということを人々は悟った。当然のことながら、そのような指導者は優秀性も失うことになった。さらに困難だったのは国民を賢く教育するということだった。これは、利害関係がなくてさえ、本当の意味で進歩するような教育が困難であることは、教育という営みに本気で携わったことのある人間だったらすぐにわかるだろう。ましてや利害がある相手に対する教育で、本当に優れたものを作り上げるのは困難だ。ジョン・テイラー・ガットさんの指摘を待つまでもなく、権力を維持したい人々にとっては、国民は賢くあるよりも愚かであったほうが都合がいいのである。三浦さんのように論理を考えれば、「プロレタリアート独裁」は論理的には正当化しうる。しかし、その前提はまったく非現実的なものであり、実現不可能なものであるように僕は感じる。「プロレタリアート独裁」の社会主義国家がすべて倒れていったというのは、やはりこの理論には根本的な欠陥があったのではないかという感じがしている。「プロレタリアート独裁」であるにもかかわらず中国がいまだに倒れないのは、中国の「独裁」は、「独裁」といいながらも、共産党の決定において指導者層の判断だけではなく、民意をそれなりに評価して判断しているからではないかとも思われる。中国の「独裁」は、指導者層の優秀さが、その生き残りをまだ可能にしているといえるのではないかと感じる。この指導者層が、優秀さの発揮よりも、自己の権力の維持のほうを重視するようになったら、ソビエトのように崩壊への道を歩むのではないかと思う。しかし、中国の指導者層の優秀さは、ソビエトの失敗に学んでいるとも思えるので、権力の維持のためにはむしろ権力の独裁を避けたほうがいいということも考えているのではないかと思う。僕は、「プロレタリアート独裁」という過程を経ずに共産主義へ至る道はないのではないかと思っている。独裁なしに、人々が自己決定で共産主義を民主的に選ぶというのは想像できないのだ。それはある意味では人々がみんな自分のエゴを捨てて、社会全体の利益のほうをこそ優先するという社会の実現を意味すると思う。それは、理想ではあっても実現不可能ではないかと思う。人間が多様性を持っているなら、それぞれの人の希望や幸せは分岐してしまう。エゴをすべて捨て去ることは出来ない。何が価値あるものかという合意は、多様性を認める限りでは不可能だ。つまり、共産主義の実現は、多様性を否定し、一つのイデオロギー的な価値観の下での合意にゆだねるしかない。「プロレタリアート独裁」や、そのためのイデオロギー的統制が社会主義国家にとって必要不可欠なものになる。社会全体の利益というのは、何か一つに決まるのではなく、多くのものが並存するものになり、何を優先させるかという決定は出来ないだろう。「プロレタリアート独裁」がなくてはならないものであることが、共産主義体制の論理的帰結なら、共産主義社会に民主主義はあり得ない。人々の多様な考えを保障し、たとえ間違っていようとも、その意見の表明の自由を保障する民主主義社会は、共産主義体制の破壊をもたらすだろう。中国が共産主義国家という体制を続ける限りでは、中国には民主主義の実現はないだろう。これは、中国に対して非難をしているのではない。民主主義が何もかも優れているすばらしい政治体制ではないからだ。民主主義にも根本的な欠陥がある。中国が民主主義国家でないということは、そのような欠陥からは免れているということでもある。今までは、民主主義を実現しているアメリカ的な社会が人々を幸せにすると思われてきたが、中国の行く末によっては、民主主義ではない国のほうが幸せだということも可能性としてはありうる。物質的な豊かさにおいては、資本主義体制が社会主義体制よりも優れているというのは、社会主義国家の崩壊で結論が出たと思う。また、資本主義体制のためには民主主義が不可欠なので、物質的な豊かさのためには民主主義は必要だ。だから、中国でさえも一部の民主主義は取り入れている。国家は、もはや民意を無視して政策の決定が出来ないようになっている。物質的な豊かさという点では勝負がついた。それでは精神的な豊かさという幸せ感においては、やはり民主主義が勝ったと言えるだろうか。これは結論を出すにはまだ早いような気がする。中国の行く末を見なければならないだろう。日本においては、共産主義の実現は、もはや進歩ではなくて後戻りになってしまうのではないかと僕は感じる。中国のような方向が、国民に幸せ感をもたらしたとしても、そうでない感覚を身につけてしまった日本人には、いまさら民主主義を捨てることは出来ないだろう。資本主義でもない、共産主義でもない新しいパラダイムを我々は発見することが出来るだろうか。それは困難な発見ではあるだろうが、もし見つからないときは、幸せ感という点では、中国をうらやみながらも、それを真似できないフラストレーションを感じる時代がくるかもしれない。多くの人々が幸せを感じられない日本の資本主義と民主主義は、確実に曲がり角にきているのだと思う。
2007.05.23
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僕は、マル激で紹介された『論座』の「赤木論文」なるものを読んでいないのだが、この赤木氏がネット上で公開している他の文章を見つけて読んでみた。「なぜ左翼は若者が自分たちの味方になるなどと、馬鹿面下げて思っているのか」と題された文章だった。このテーマは、以前から僕が関心を持っているもので、それが不思議だとは思いながら、僕自身がそのような感覚を持っていなかったので、実感的に考察することが難しいと思っていた事柄だった。宮台真司氏が、以前にアメリカの民主党と共和党について、大多数のアメリカ国民にとって、政策的には民主党を支持する層が多いほうが合理的なのに、結果的には共和党支持のほうが多くなり、民主的な制度のもとに共和党政権が誕生すると語っていた。それは、共和党のほうがマスコミ操作がうまく、宣伝によって非合理的な判断をするように働きかけるからだとも語っていたが、それが成功するのはなぜなのかということに関してはよくわからなかった。日本においても、合理的に考えれば右翼的なネオリベ政権は、大多数の国民にとってはむしろ不利益になるような政策を展開するだろうことが合理的には予測できる。それが、どうして合理性から眼をそむけて、マスコミの大量宣伝とはいえ、逆の主張が正しいというトリックが成功するのかということの理解がよく出来なかった。このような興味深いテーマを扱った赤木氏の文章を読んで、なるほどこのように考えると、僕が不思議に思っていた事柄の整合性を理解することが出来るかもしれないと感じた。赤木氏の主張に全面的に賛同するわけではないが、論理の展開としては、このように考えれば、自らの不利益になることを選択する人々が、例外的にごくわずかではなくてなぜこうもたくさんいるのかということの理解が出来そうな気がした。特になるほどと思ったのは、「「左翼は我々の敵」なのである」と主張するその、左翼に対する恨みの感情の深さが逆の行動に走らせるのかもしれないという指摘だ。直接的に不利益をもたらすのは左翼の側ではない。むしろ統治権力を握っている保守の側であり、右翼の側ではないかと思われる。ところが、虐げられている若者の恨みは、右翼のほうへは向かわずにむしろ左翼に対して深いルサンチマンが積み上げられる。これは左翼の側にとってはいわれのない非難を浴びているようにも感じてしまうだろうが、左翼の善意というものが、実は非常に深い欺瞞のもとに提出されている、ある種の免罪符としての意味しか持っていないことの鋭い指摘なのではないかと思った。左翼は言葉の上では虐げられた人々(彼の主張の中では社会からはじき出された若者たちを指すのだと思うのだが)に対して、彼らの状況を改善するべきだというきれい事を並べる。しかし、実質的には左翼が達成したことは何一つないということが、当の虐げられた人々の実感であることを語る。左翼は、言葉で語ることで自分たちの善意を吐露しているが、そこで責任が終わっていると考えているならば、それは欺瞞ではないかという指摘がここにあるのを感じる。もちろん、左翼の側からすれば、現実の改革は難しく、理想どおりにことは運ばないのだからたとえ失敗したとしても、その努力は評価されるべきだという反論があるかもしれない。しかし、自民党の政治は、国民を物質的に豊かにするという目標を掲げて、実際にそれを達成したのではないかということを考えると、言葉だけで何も出来なかった左翼に対して、結果的に何も達成されていないという批判をすることはある意味では正当ではないかとも感じる。もちろん、物質的に豊かになることが本当にいいことかどうかという議論はある。しかし、それを目標に掲げて、国民の多くもそれに賛同して、結果的に豊かになったのであれば自民党の政治は結果において成功したと評価できるのではないかと思う。自民党あるいは保守勢力の主張が、ネオリベ路線の自助努力を言うものであっても、本当に実力のある人間が成功するような現実があれば、たとえすべての若者が成功できるのではなくても、それが嘘だとは感じないだろう。ホリエモンの成功に多くの人が喝采を浴びせたのはそのような気分があったのではないかと思う。ところが、言葉の上では虐げられた人々を救うべきだと語っていても、現実には誰も救っていないとしたら、それは言葉だけいいことを言って支持を得ようとしているが嘘を言っているだけではないかと思われてしまうのではないだろうか。この場合、言葉がいいものであればあるほど、そのきれい事の言い方に反発が強まっていくのではないかと思われる。しかも、この実現不可能なきれい事を言うような人間が、社会的にはある種の成功者で、その立場が虐げられた人々とは決して重ならないと思われていれば、その欺瞞性と、嘘だという感覚はさらに強まるのではないかと思われる。このように考えると、バックラッシュ現象として見られるいわゆる「左翼たたき」の基礎にある社会的要因というものが整合的に理解できるような気がする。左翼に対する深い恨みというのは、実現できないきれい事を語って、人々に希望を持たせながらもそれを裏切るということから生まれる。しかも、言葉の上では自分たちの側のことを語っているように見えるのに、その存在の仕方においては実は自分たちの側ではない、既得権益を維持しようとする勢力の側のように見えるということが、その感情の増加にさらに拍車をかける。赤木氏が『論座』で語ったといわれる「戦争こそが希望だ」という主張は、その主張だけを聞くとまったく整合性のない感情的な主張のように見える。しかし、赤木氏のこのネット上に公開された文章を読むと、彼が合理的思考に優れた人間で、むしろ徹底的に論理的に考えを展開しているように感じる。しかもその論理能力はきわめて優れているように感じる。カタカナのウヨという言葉で揶揄された若者たちが小泉さんを支持したことについても、赤木氏は、小泉さんが論理的には自分たちに利益をもたらさないことを十分承知した上で、その破壊という面を支持したのだと指摘している。この指摘は、左翼が欺瞞性を持ち、むしろ既得権益の上に乗っかっている腹立たしい存在であるという恨みの気持ちを前提にすれば、小泉さんの押し進める破壊によってその存在も壊れていくことを期待したのだと受け止めれば整合的に理解できる。現実の破壊をこそ支持するという気持ちは、深い絶望と恨みの気持ちから生まれてくる。そう理解することが、一見非合理的だと思われる主張の底に潜んでいる合理性なのではないかと思った。「戦争こそが希望だ」という主張も、自暴自棄の放言というよりは、もはやそれ以外に、既得権益のシステムを壊す方向が見つからないということの主張だと理解できる。すべての基礎にあるのは、規制のシステムの下では絶望しかないということだ。まったく希望のない状況にいる人間にとっては、破壊こそが希望になる。破壊というのは社会のシステムにとってダメージを与えるものだ。社会を維持したいと思う人間は、その破壊のエネルギーが例外的なものであって、まだ小さいうちに手当てをしないとならないと、合理的思考をするなら考えなければならない。今の状況は、この破壊のエネルギーが、例外的な少数ではなくなり、一定の影響力をもつような多数派を形成しているように感じる。既得権益を守るために社会の秩序を維持しようというのではないが、一般論的に社会にとってある種の秩序は必要だという観点からも、この破壊のエネルギーは手当てされるべきだという感じがする。それを、赤木氏のように感じる若者の利益を図れという方向で主張するのは、赤木氏が今までの左翼に感じていたような、実現不可能なきれい事を語っているようにしかならないのではないかと思う。これは非常に解決が困難な問題ではあるが、赤木氏が抱いているような破壊のエネルギーの感情を、社会秩序をただ壊すだけではなく、壊した後に建設するような方向に結びつけるようなものとして転換する方向を見出すことが本当の意味での解決に向かうのではないかと思う。これも、きれい事のように聞こえるだろうが、単なる破壊だけの行為ではテロリズムとして非難されるだけに終わってしまうが、その後により整合的なシステムの建築が出来れば、これは「革命」と呼ばれる進歩をもたらすのではないかと思う。明治維新というのはまさにそういうものだったのではないかと思う。黒船がやってきたとき、当時の指導者にとっては絶望しか見えなかったのではないかと思う。圧倒的な武力の差は、他のアジア諸国と同じように日本も植民地化されるのではないかという不安を抱かせただろう。とにかく、既存の幕府体制は壊さなければならないというのが多くの人間の意識だっただろう。この明治維新が、単に旧体制の破壊だけに終わったなら、日本はすぐに植民地化されたのではないかと思う。しかし、明治維新が「革命」になったのは、それまでの旧体制を破壊しただけではなく、新たに近代国家として出発することが出来たので、結果的に植民地化されなかったと解釈したほうがいいのではないかと思う。明治維新によって日本が近代化されたというのは、まだ異論が多くあることだろうが、そのように解釈したほうが整合性があるように思う。赤木氏が語る破壊のエネルギーが、単に破壊しただけで終わるのか、それとも新たな社会の創造の出発点となれるのかは、最終的な行動において非合理的な感情の発露を選ぶのか、整合的な論理的判断の下に行動するほうを選ぶかで決まるのではないだろうか。赤木氏の論理的能力の優秀さは、その文章から随所に感じるところがある。出来れば整合的に納得できる方向を見出して欲しいものだと思う。それが可能かどうかは、小室直樹氏が『硫黄島 栗林忠道大将の教訓』で語っている教訓を生かせるかにかかっているような気もする。栗林氏の状況は、まさに絶望以外のものがないというほど深刻なものだった。勝つ見込みはまったく0(ゼロ)であり、どれほどがんばっても死は免れない。自らの死による破壊という道しか選択肢はない。このとき、感情の発露だけに終わるのであれば玉砕という道になる。少なくとも自分の思いは達成されたということの満足のうちに死ぬしかない。しかし、栗林氏は玉砕の道を選ぶのではなく、この絶望的な状況の下でも、最後まで整合的に作戦を組み立てて、味方の犠牲を最も少なくし、敵の犠牲を最も多くする方向を選んだ。それは、直接的に破壊の後の建設をしたものではなかったが、小室直樹氏のような読み取りをして、その教訓を生かすことが出来れば、栗林氏の破壊は建設的なものにつながる。絶望的な状況の下でも、破壊のあとの創造にいかに貢献するかを考えたいと思う。僕の場合でいえば、学校教育の絶望的な状況と、それが破壊された後にくるべき新しい教育像の創造への貢献ということを考えることになる。これは難しい考察ではあるが、それが出来ない限り破壊は単なる感情の発露のカタルシスになってしまう。テロリズムで終わってしまうのだ。赤木氏は、その後の『論座』の論文では、フリーターとしてつまらない死に方をするよりも、戦死して靖国に祀られたほうが、国家からの承認を得た死に方として名誉が得られるというような論理を展開しているらしいとマル激で語っていた。この展開は、残念ながらあまり建設的な方向ではなく、承認を得られなかったルサンチマンを満足させるための感情的なカタルシスのように見える。人間の尊厳を育てる際の承認の不足というのは教育の問題でもあるだけに、このことについてはより考えを深めたいと思うものだ。
2007.05.22
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郵政民営化問題をマル激で議論していたとき、小泉自民党が提出していた「郵政法案」が論理的にいかに間違っているかということを荒井広幸さんや山崎養世さんの話を聞いているとよく分かった。郵政省に限らず、役所の改革が必要だということは分かるのだが、このとき提出された「郵政法案」がそのような構造改革にはならずに、結果的には郵貯や簡保が持っている国民の財産を外資に提供するだけのものになるだろうというのは説得的な論理展開だった。表面的には改革のように見えるものが、よく考えてみれば一部の利権に奉仕するだけのものになっているというのが「郵政法案」に対する合理的な判断ではないかと思った。しかし、選挙では郵政改革を訴える小泉自民党が圧勝し、どう見ても合理的判断では改革になっていない「郵政法案」が、その欠点を指摘されることなく成立してしまった。合理的判断で正しいと思われることと反対のものが選ばれてしまうというのは、その問題が難しいために、人々がトリックにだまされているのだというのが僕の理解だった。どうすれば人々が合理的判断の正しさを理解できるようになるか、というのが教育に携わる人間としても、教育という面で社会に貢献するという一つの問題意識として感じていたことだった。小泉政権や安倍政権のような右翼的な政府が多くの支持を集めるというのも、合理的な判断の間違いではないかという感じもしていた。両者ともに「構造改革」の方向へ向かっている政権だと思うが、この「構造改革」は、肥大してお荷物になってきた福祉的な部分を、政府の責任から切り離して自助努力にゆだねることで、政府負担を減らして改革しようとする方向だ。いわゆる「小さな政府」というものだろうか。この路線は、虐げられた部分を救い上げるのではなく、完全に切り捨てることで生き延びようとするものなのだが、切り捨てられる対象ではないかと思える人々が、むしろこの路線を進める政権を支持するという、これもまた合理的判断からは逆の現象が起きている。これは、最近のフランス大統領選の結果などを見ると、右翼的な政策を進めるサルコジ候補が当選するなどということからも、日本だけの傾向ではなく世界的にその方向へ向かっているのかもしれない。サルコジの政策によって切り捨てられる人々がむしろサルコジを支持するという結果は、どのようにして整合的に理解できるのだろうか。彼らが間違った判断をしているということだけでその理解が終わったようには見えない。間違った判断に対しては、正しい批判がそのカウンターパンチとなるはずだ。だが、荒井さんや山崎さんの正しい批判が、必ずしも力を持ちえていない。それはマスコミの動因という宣伝力が違うからだということも出来るだろうが、正しい判断というものに最初から関心を示さない人々が生まれているのではないかと思わされるところもある。マル激では、たとえ正しい論理であっても、その展開が絶望的な方向しか見せてくれないなら、そんなものはもういいという意見が寄せられるそうだ。希望を見せてくれないのなら、そんなものは教えてくれないほうがいいというメンタリティだ。「どうせ世の中はそんなものだ」というあきらめの気分だろうか。このような気分は、たとえ正論であっても、それが実現不可能な空理空論にしか見えないようなものなら、きれい事を主張して何もしてくれないという勢力に対する怒りと恨みを生み出すようだ。一時期の行き過ぎたとも思える左翼たたきの裏には、このようなメンタリティが隠れていたように考えると整合的に理解できるのではないだろうか。そして、この左翼たたきが、その反動として右翼的なものの支持に結びつくとも考えられる。マル激の議論では、近代成熟期が再帰的に社会の存在の前提を反省させる方向で進んだために、どのような思考展開も、究極的な基礎には恣意性が潜んでいるということを明らかにしてきたというようなことが語られていた。これは、批判の視座を失わせる。ある事柄を論理的に正当に批判したとしても、その前提としている基礎は恣意的に選ばれたものであり、ある立場からの批判をまぬかれないというのだ。批判をしている当人も、その批判の論理が再帰的に適用されて批判されてしまう場合がある。誰もが同じ穴の狢になりかねない。このような時代は、批判が力を失い、正論を吐くことが現実離れをしたばかげたことのようにも見えてしまう。今週配信されたマル激では、このような社会状況が象徴的に語られていた。ゲストの萱野稔人氏は、客観的な状況を述べるだけで自分の考えを語っていないと批判されることが多いそうだが、それは扱っている問題が難しくて自信を持って断言できる部分がないからだといっていた。それに対して、自信過剰とも思えるくらいに断言的に語る宮台真司氏は、断言する分だけ矛盾したことを語ってしまうのだという。宮台氏に言わせると、ある前提を持って論理的に展開をすれば、その前提のもとで正しいことを断言することはできるということだ。しかし、その前提が選ばれたのは恣意的なものであり、他の前提を選ぶことも出来る。そして、他の前提を選べば、その結論はまったく違うものになり、正反対になることさえある。だから、いくつかの前提が可能な選択肢として存在する場合は、それぞれの前提の場合について論理を展開していけば、語ることが、結論において矛盾してしまうということだ。現在の時点において、正しいことを語るということは、この二つの方向しかないのではないかと僕は感じた。一つは、断言することを控えて、客観的な状況を深く分析するような言説だ。そしてもう一つは、宮台氏がフィージビリティ・スタディと呼ぶような、あらゆる可能性を吟味して、その可能性の下での結論を列挙することだ。どちらも、かつてのように、これが正しい意見だというものを一つ提出するということは出来ない。結論が一つに決まらないことのもやもやした気分に耐える必要がある。もはや正しい結論というのは、ある立場から提出した一つの見解ではなくなってしまっている。それは、人々が社会の中で立っている位置というものが、一つに決まるような単純なものではなくなったということを意味しているのだろうと思う。誰もが同じ立場に立っていると信じていた時代、かつてのマルクス主義が人々を魅了していた時代には、誰もが同じ陣営の仲間として一つのイデオロギー的な結論を信じることが出来ただろう。しかし、今はそのような立場はない。僕は、どちらかというと萱野稔人氏のように、状況を客観的に記述するほうに関心が高い。出来るだけ価値観から離れて、客観的に正しいと思えることが何かという認識を深めることに関心を持っている。それが、最近では自分と反対の発想をするような小室直樹氏の影響などから、宮台氏が提出するような、フィージビリティ・スタディ的な、多角的な視点から問題を捉えてみようという方向に行きつつあると思っている。しかし、多様な視点を持つことは難しい。価値観から離れることはそれほど難しくはない。自分の好みや個性というものをいったんどこかに棚上げして対象を見ることで何とか解決できる。しかし、多様な視点というのは、好みや個性を棚上げしただけでは出来ない。ある意味では、自分がもっていない感性を、それがあたかも自分のものであるかのように振舞って、ロールプレイの元で考察するということがなければ実感として考察を進めることが出来ない。僕は右翼的な感性にはかなりの拒否感を持っていた。だから、その立場に立ってものを考えるというのはとても難しい。山本七平氏を評価するというのもかなり難しいことだった。かつては、小室直樹氏に対しても、天皇制主義の右翼ということで、その主張を読む前に、そのイメージから拒否感を抱いていた。宮台氏に出会って、宮台氏の師であるということがなければ、おそらくその文章を目にすることはなかっただろう。気分的な拒否感がありながらも、小室直樹氏のすごさは今ではよく分かるようになった。天皇制主義の右翼という面はまだ共感は出来ないが、その論理展開の見事さは十分感じることが出来る。天皇制というイメージに関しても、かつてのようにそれを日本の後進性の現れだと素朴に感じることはなくなった。現天皇に関する気持ちとしては、時に尊敬の念さえ生じることもある。今までの自分が信じていたこととは違う立場へ立つことの、ある意味での拒否感はかなり薄れてきたことは確かだ。その代わりに、今までは疑いもせずに信じていたことがほとんどなくなってきたことも感じている。本当の意味で、すべては疑いうるという感じになってきた。しかし、今週のマル激で語られていた、合理的判断を拒否するメンタリティに関しては、その立場に立つことはもしかしたら永久に出来ないかもしれないと感じてしまった。小室氏にしても、山本七平氏にしても、その語るところが整合的に理解できるので、たとえ自分とは違う立場であっても、それを理解してその立場で考えることを実感としてロールプレイできるという気がする。だが、合理的判断ではないことを、ある立場からの考えを実感をもって追体験するということは難しい。それは、ある意味では合理性ではなく、感情的な判断になっているのだが、そもそもその感情をもっていないので、ロールプレイにしろ、そう振舞ってその気持ちになることが出来ないのだ。それは、一部で話題になっていたということで紹介されていた「赤木論文」というものだった。それは「戦争こそが希望だ」と主張するものとして紹介されていた。すべてに見放されて、絶望的になっている人間にとって、それが逆転されるかもしれない戦争にこそ一つの希望を見出せるという主張として僕は受け取った。僕は深い絶望は必要だと思うのだが、その絶望から生まれた破壊を望む気持ちが、破壊後の新しい道を少しでも考えるものでなければ絶望の淵にいるだけでは、感情的な共感が出来ない。ここで紹介されていた赤木氏の主張というのは、とにかく何もかも行き詰まって、何かが変わらない限り、そのどん詰まり状態が変わらないという絶望が感じられた。つまり、破壊後にこうなってほしいという希望を伴った絶望ではなく、とにかく何でもいいから破壊されてしまうことを願っていて、その後はどうなろうと、今より悪くなることはないだろうというような、そのような感情の表れを感じた。徹底的に持たざる者は、将来の希望などという発想をもてないのではないかと感じる。むしろ、今より悪くなることはないのだから、変化があったほうが楽しいという気分になれるのかもしれない。どん詰まりの状態でいつまでも虐げられていればルサンチマンがたまるばかりだという感じになるのではないかと感じる。しかし、僕はこの感情に自分を重ねて実感としてロールプレイすることが出来ない。僕は裕福な人間ではないが、ある程度は満足して毎日の生活を送れる、社会の中では既得権益に預かっている「持てる者」の一員なのかもしれない。徹底的に持たざる者に、本当の意味で共感することが出来ないのを感じている。徹底的に持たざる者の絶望感というメンタリティが生まれてくるメカニズムについては、宮台氏が主張する、教育における承認の不足が原因しているのではないかと感じている。僕は、幸いなことに自分が育てられた過程で、いろいろな面で自分が承認されたことを感じてきたので、徹底的に持たざる者の絶望感を育てずにすんだのではないかと思える。このことは、メカニズムとしては理解できそうだ。しかし、このようなメンタリティが、民主的な決定に影響するくらい増えてきたとき、それがどのような結果をもたらすかについてはまったく予想が出来ない。それは、僕自身がこのメンタリティを実感的に考察することが出来ないからだ。コメント欄に続く
2007.05.21
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クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」は、僕はまだ見ていないのだが、それを見た多くの人は映画の主人公とも呼べる栗林忠道という軍人に大きな魅力を感じたのではないかと思う。その人間性の豊かさと頭脳の優秀さには感嘆するばかりの感じを受ける。まさに尊敬に値する人物と言えるのではないだろうか。僕は、映画ではなく、小室直樹氏の『硫黄島 栗林忠道大将の教訓』(WAC)という本で詳しく知った。そして、知れば知るほど、この人物の魅力を強く感じるようになった。これは僕にとってかなり衝撃的なことだった。僕は、日本の軍隊というのは腐敗している組織であって、優秀な人間が指導的立場につくことが出来なかったがゆえに多くの過ちを犯したのだというイメージを持っていたからだった。硫黄島の戦いで指揮をとった栗林中将(この戦いの時点ではまだ中将だったと思う)は、おそらく日本の軍隊史上で最も優れた指揮官だったのではないかと僕は感じる。そして、軍人として優れていたというだけではなく、その他の分野の人間と比べても、その合理性・先見性・視野の広さ・人間的な懐の広さなど、どれを取っても最高の人物のように感じる。この最高の人物とも思える人間が、戦闘の最高指導者だったというのが僕には驚きだった。日本の軍隊が腐敗した組織だったというのは、実は敗戦前の数年間に特徴的なことであって、実は実力主義の優れた組織だった時代もあったのではないかとも考えるようになった。敗戦というイメージがあまりにも強烈なものであり、しかも、戦争の歴史といえば、日本の軍隊のマイナス面ばかりが強調されてもきたので、そのイメージが全体を覆ってしまったような気がする。もし、日本の軍隊が最初から腐敗していたひどいものであったなら、先の大戦で敗戦する前に、すでに日清・日露の時代で負けているのではないだろうか。日本が、他のアジア諸国と違って、明治維新後に植民地化されなかったのは強大な軍隊を持っていたおかげだといわれている。それは、歴史を振り返ればほぼ明らかなことではなかったかと思う。日本の武士たちは戦争のプロだから、たぶん1対1の戦闘では負けないという自信を持っていたであろう。しかし、近代の戦争は重火器を用いた集団の戦闘になっていた。これでは刀で1対1の戦闘をする武士は、その武力の圧倒的な格差のために、敵に切りつける前にやられてしまう。西欧近代の武器を知れば知るほど、指導的立場にいる人間たちは、外国を追い払うという単純な攘夷思想では日本は守りきれないということを痛感したという。明治維新は、攘夷思想から始まった改革の動きが、開国をして外国文明を取り入れ、武力において対等に近いものを確立して国を守るという方向へシフトしていったと考えられる。富国強兵という考え方や、そのために「産めよ増やせよ」と掛け声をかけたというのも、すべては、植民地化されて国が滅びるのを防ぐという目的からだったのではないかと感じる。このような時代は、危急存亡の時代ではあるが、逆にいうと本物の実力を持たない人間は敗北によって消えていき、生き残れるのは本当の実力を持った人間だけだとも言える。明治維新期に、日本にいた最も優れた人間たちが指導者として登場したのは、そのような時代だったからだともいえるのではないかと思う。日本は、この明治維新期の偉人たちの努力によって、植民地化されることなく、西欧の先進国と肩を並べるくらいの国力を誇る国へと成長していった。宮台氏によれば、この時期に唱えられた「亜細亜主義」というものが、実は日本と同じように近代化の道を歩むことによって、アジア諸国が西欧の食い物になるのを防ごうという、アジアの共同体を構想するものだったということだ。この精神は、明治維新後の一時期は、おそらくそのとおりの崇高なものだったのではないかと思う。だからこそ、日本は世界に大国として君臨するだけの力を持ちえる国になったと思うのだ。日本の軍隊も、このころまでは他国に優位する強い軍隊であり、優秀な軍隊であったに違いない。その指揮官も優れた人間だっただろうし、兵士たちの規律も、統制の取れたものだったのではないかと思う。日露戦争のころの、日本軍の捕虜の扱いに関しては、最も尊敬されるべき手厚いものだったといわれている。この優秀な日本軍がどの時点で、腐敗した組織になり、規律を守った指揮系統を保てなくなり、歴史に汚点を残すといわれるような事件を起こすようになったのか。このあたりのものは、小室氏が「失敗学」と呼ぶものの研究を深めることが必要なのではないかと思う。何が原因で、取り返しのつかないところまで行かなければ、その誤りを正すことが出来なくなってしまったのか。硫黄島の戦いのように絶望的な状況のときにこそ、栗林中将のような優れた指揮官が登場したというのは、ある意味では象徴的なことではないかと思う。それは絶望的な戦いであり、本当に優れている人間でなければ、そこからは逃げ出したいと思いたくなるような場所ではないだろうか。実際には逃げ出すことが出来なくて、無駄死にとも思えるような玉砕に走ってしまうのではないかと思う。優秀でない指揮官がみな逃げ出した場所だからこそ、たまたま最後に残った指揮官が、栗林中将のように優れた人間だったのではないかと思う。栗林中将の優秀さを感じるのは、相手の裏をかくその作戦のすばらしさだ。米軍との戦力の格差においては圧倒的なものがあるので、正面からぶつかれば、相手に何の損害も与えずに玉砕するだけだ。特に、直接地上戦をすることなしに、外から、艦隊あるいは飛行機による攻撃で島を破壊してしまえば、米軍はほとんど損害を受けずに戦闘は終わってしまっただろう。硫黄島の日本軍としては、どうしても米軍を上陸させてから戦うしかない。栗林中将は、硫黄島のあちこちにトンネルを掘って、地下からの攻撃で米軍を苦しめたということが有名だが、それ以上に、米軍が上陸してくるまでじっと待っていたということがすごいと僕は思った。もし、沖にいる艦船に応戦していたら、どこに潜んでいるかを発見されて、そこを攻撃されたら日本軍の全滅は早かっただろうと思う。それをじっと待つということは、あのような極限状況の中でのことだけに、非常に難しいに違いない。硫黄島の日本軍にそれが出来たのは、死を恐れない気概が彼らにあったのではないかと思う。これこそが、おそらく日本の軍隊の優秀さと強さの根本にあるものではないかと僕は感じる。死を恐れる気持ちは、じっと待っていることの不安に耐える気持ちをくじくだろう。どう戦っても死は免れないという戦闘に臨むとき、合理的な判断をする人間だったら降伏するだろう。そこで死んでしまえばすべては終わりだからだ。そのときに、たとえこの身は死んでも、戦い抜くことに意義を見出して死んでいくという気持ちはどうやって育てることが出来るだろうか。それは、戦前の軍国主義教育によって育てられたと、僕も素朴に信じていたが、それで果たして育てられるのだろうかという疑問もどこかにある。日本人の価値観として、どこかに、このような死生観を受け入れさせる資質があったので、そのような教育が割合に容易に受け入れられたのではないだろうか。僕は戦争を賛美する意図はないのだが、栗林中将の物語を知れば、そこに深い感動を覚えるし、死を恐れずに、米軍に対して少しでも大きな被害をもたらすということを目標に、可能な限り最大限の戦果を挙げたことに尊敬感を抱く。栗林中将の行為も、結局は戦争行為ではないかということで否定する気にはなれない。戦争行為というものが、かなり複雑な評価を持っているものだとは感じているが、戦争だからすべて悪いのだと考えるのはあまりにも単純すぎるのではないかと感じている。小室氏は、先に上げた本の中で、栗林隊が硫黄島であれだけの戦闘をしたおかげで、その後の戦争の推移においてアメリカの譲歩を導き出しているのだと評価している。この評価に関しては賛否両論あるかもしれないが、栗林中将が、軍人としてアメリカでも深い尊敬を抱かれているというのは、小室氏の解釈に整合性をもたらしているのではないかとも感じた。アメリカは、硫黄島での戦闘において日本軍の強さをいやというほど知らされたので、それが可能であったにもかかわらず本土への直接の攻撃はしなかったという解釈を小室氏はしている。沖縄でも日米は激しい戦闘を行ったが、ここでも米軍は予想以上の自軍の犠牲に驚いたという。武器の質量ともに圧倒的に上回る米軍が、日本軍には簡単に勝てないということに驚いていたという。そのため、飛行機の空襲や原爆によって日本軍をあきらめさせるしか敗戦へ至る道がなかった、というのが原爆投下の肯定にもつながるのだが、ある意味ではアメリカの論理でもあるということだ。その国の人間を皆殺しにしなければ終わらないような戦闘というのは、おそらく西欧的な合理主義から言えば、まったく信じられないような戦いだろうと思う。ことの是非はともかく、まったく質の違う軍隊を相手にしているという怖さがアメリカ軍にはあったようだ。小室氏は、栗林中将のような優秀な人間が、戦争の総指揮を取っていれば、勝てないまでも負けない戦が出来ただろうと書いている。講和に持ち込むことくらいはできただろうということだ。アメリカにとって、もう日本との戦争はいやだと思わせれば、一定の条件で停戦協定を結ぶことが出来ただろうと書いている。この種の考察の方向は、ある種の違和感を感じる人もいるだろう。僕もそうだった。僕は、日本が戦争に負けたことは、結果的にはいいことだったように感じていたからだ。あのまま戦争に勝ってしまえば、非科学的な精神主義が支配する社会がそのままの形で残ることになる。そうなるとたまらないから、むしろ負けたことによって精神主義が否定されるなら、そのほうがいいと思っていた。しかし、学校現場の様子を見ても、社会のいろいろな現象を見ても、実は精神主義というのは少しも消えていないことに気づく。あの敗戦がまったく反省の材料になっていない。そういうものを見ると、敗戦が果たしてプラスに働いたのだろうかというような気もしてくる。日本が戦争に負けたのは、栗林中将のように優秀な人間が、本当の意味での最高指揮官にならずに、硫黄島で犬死させたようなところに原因があるのだと思う。もし、本当に優秀な人間が指揮をとるような組織だったら、戦争に勝利していたかもしれない。そうすれば、ばかげた精神主義ではない、合理的精神で勝利したことになり、もっとよい方向に社会は変わっていたかもしれない。戦争や軍隊というものは無条件に悪いものだというイメージが強いが、それが存在するのは、そこに合理的に理解できる理由があるのだろうと思う。実際には、これらのものも価値的にはニュートラルなもので、立場によって良いものになったり、悪いものになったりするだけのものかもしれない。暴力という現象も、犯罪者の暴力は悪であるけれども、犯罪者から市民を守る警察の暴力は善として肯定される。それを、暴力はすべて悪だとして、警察の暴力を制限してしまえば、犯罪者の暴力が横行するような社会秩序の乱れが出てくるだろう。軍隊や暴力の問題を、善悪という道徳から離れて科学的・合理的に理解する道を見つけたいものだと思う。栗林中将が遭遇した軍隊の暴力は、実態としては非常に悲惨なものではあっただろうが、とても感動的なものだっただけに、そのような考えが浮かんできた。
2007.05.19
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表題にあるような質問に答えようとするとき、普通は、肯定的に答えるか・否定的に答えるかという対立した答を思い描く人が多いのではないだろうか。近代社会というものに対してある種のイメージを持っていて、そのイメージに合致するなら肯定的な答が結論として出てくる。合致しないなら否定的な答になるわけだ。これが単純な判断なら、その肯定判断も否定判断もそれほど問題になることはない。ことさら異論が出てこないだろうと予想される問題では、細部にこだわって答を求める必要はない。例えば、ある動物を見て、それが「犬」であるかどうかという質問をしたとき、それが肯定的に答えられるか否定的に答えられるかで違う答が出る場合はほとんどないだろう。「犬」であるかどうかを判断するのが難しいという動物は見たことがない。しかし、対象が単純でない場合は肯定判断なのか否定判断なのかが見解が分かれる場合がある。脳死の判定などの場合、ある人物が脳死なのかどうかということは、専門の医師であっても見解が分かれるのではないだろうか。身体が死んでいるというのは心臓停止の状態が蘇生しないということで、ある程度の共通の了解があるようだ。しかし、身体は死んでいない・すなわち心臓は停止していないが、脳は死んでいるという判断は、脳死の定義によって判断が違ってくる。単純な事象においては、その判断の根拠になる前提や定義に異論が出ることは少ない。しかし、複雑な事象については、何を捨象しているかが違ってくると、定義そのものが違うものになり、その定義の元で判断をすれば結論が違ってくるということがありうる。これは、論理的には正しい場合がありうるので、正反対の結論がどちらも正しいということがありうる。複雑な事象について判断するときは、単に結論について議論するだけでは正しい判断が出来ない。むしろ、論理の前提になるような定義がどうなっているかが重要になる。近代社会というのも非常に複雑な事象である。これに対して単純なイメージで判断していれば、その複雑性を十分反映したような判断にはならないだろう。どのような要素を「近代」の本質と見るかということでその定義が違ってくる。そして、定義が違えば、「日本は近代社会である」という肯定判断も、「日本は近代社会ではない」という否定判断も、その定義の元では論理的には正しいといえる場合が起こりうるだろう。つまり、結論としての肯定判断や否定判断そのものを問題にしてもあまり実りはない。近代社会の考察には、「近代」をどう捉えるかということが重要になる。それを考えるヒントになるものが宮台真司氏の社会学入門講座の「連載第一七回:下位システムとは何か?」に書かれている。宮台氏は、近代社会というものを「機能的分化を達成した社会」というふうに定義する。「機能的分化」という定義がまた難しい概念ではあるのだが、この概念を使えば、考察する人間の立場・イデオロギーにかかわらず同じ結論が出てくる。つまり、客観的な結論として考察を進めることが出来るので、それが科学となる可能性が期待できる。上記の宮台氏の定義に対して、「産業化」という概念を使って近代を定義することも出来る。宮台氏は次のようにも書いている。「近代化とは何か。一つには産業化を意味する用法があります。産業化とは規模の大きな生産設備を必要とする第二次産業が発達することです。故に産業化は第一次産業を通じた資本蓄積を前提とします。この意味では東側の一部が近代化を遂げていることになります。」この定義を使えば、日本はもちろん近代化されているし、東側と呼ばれた社会主義国も近代化されていることが結論付けられる。これも、産業化という概念が、立場やイデオロギーにかかわりなく誰もが同じ判断が出来るようであれば、客観的な判断になり、客観性という点では「機能的分化」を用いた定義と変わりはない。科学になりうる可能性としては同じだ。しかし、両者の定義は対立する結論をもたらす。「産業化」を基礎にした判断は、日本も東側諸国の一部も近代化されていると肯定的に結論付ける。だが、「機能的分化」という面を見て判断すると、日本は近代化されているが、東側諸国は近代化されていないという結論が出てくる。この対立した結論は、結論としてどちらが正しいかということを考えても仕方がない。むしろ、どちらの定義で考察することが、現実を妥当に解釈したことになるのかということを考えたほうがいいだろう。それを考察する前に、もう一つの近代化の定義を考えておこう。東側諸国は、国民がイデオロギー的に統制・支配されている状況があったので、思想・信条の自由がないという点では近代化されているとは言い難いというイメージを持つ人もいるだろうと思う。市民的自由の確立、あるいは市民の存在というものを近代化において重要な要素だと考えて定義するやり方もあると思う。この点について宮台氏は次のように書いている。「■市民社会化とはビュルガーリッヘ・ゲゼルシャフトになること。人がゲマインシャフトリヒ(共同体的)な存在からゲゼルシャフトリヒ(市民社会的)な存在になること。つまり家族共同体や地域共同体に埋没することのない、自己決定的主体=市民になることです。 ■かつての枢軸国や少し前までNIES諸国と呼ばれた後発近代化国では、例外なく「産業化は遂げたのに市民として振る舞えないこと」が問題視され、この意味での近代化が奨励されました。例えば共同体からの自立の困難が「近代的自我」の問題として議論されました。」この「市民」という概念を使った近代化の定義では日本もまだ近代化されていないという結論になる。この定義は、「共同体的」「市民社会的」という概念が難しく、誰もが同じ結論に導かれるかという点で心配はあるものの、それが抽象された概念であって、現実の存在をそのまま(ベタに)指しているものではないということが了解されるなら、抽象されるということで立場やイデオロギーを捨象することが出来るだろう。つまり客観性を持ちうる可能性があり、科学になりうる可能性を持つ。この3つの定義は、いずれも客観性をもち、論理的には並立共存するものとして現れる。結論が対立するものであるにもかかわらず、どれも正しいと理解できるものとして両立しうる。まとめると次のようになるだろうか。・機能的分化による近代化の定義 日本社会は近代化されている(肯定判断)。 東側諸国は近代化されていない(否定判断)。・産業化による近代化の定義 日本社会は近代化されている(肯定判断)。 東側諸国は近代化されている(肯定判断)。・市民社会による近代化の定義 日本社会は近代化されていない(否定判断) 東側諸国は近代化されていない(否定判断)。この3つの定義のどれを選んで考察の出発点とするかは、立場やイデオロギーが影響してくるかもしれない。近代化というものを価値が高いものと感じていれば、日本が近代化しているか、東側諸国が近代化しているかを、価値観と結び付けて判断したいという動機が働くと、その動機に都合のいい定義が選ばれる可能性はある。日本は、先進民主主義国家である欧米社会よりも遅れていると考えたいイデオロギー的前提があれば、日本は近代社会ではないと結論付けられる、「市民社会」というものを基礎にした定義を使いたくなるのではないだろうか。逆に、日本も進んだ社会になったと思いたいときは、産業化を基礎にした定義を用いるのが手っ取り早い。日本は近代化されたが、東側諸国は近代化されたと思いたくなければ、機能的分化を基礎にした定義を用いることが都合がいいのだが、これは考察としては非常に難しい。この難しさを避けたいと思うと、東側諸国が近代社会に入るのは気に入らないけれど、日本が近代社会だと言えるほうを定義として選びたいという気持ちが生まれるかもしれない。どの定義を選びたいと思うかという気持ちの揺れにおいては、立場やイデオロギーが影響してくると思われる。しかし、そのような立場やイデオロギーから選ばれた定義は、定義そのものは客観性を持っていたとしても、それを前提にした考察は、立場やイデオロギーに支配されたものになり客観性を失う。究極的には、人間の考察には客観性などあり得ないのだと考えることも出来るだろうが、そのような究極の方向は不可知論的な結論を導くだけだと思う。究極ではなく、妥当性というものを考え、客観性というものが蓋然的に成り立つと考える方向を求めることが科学の方向ではないかと僕は思う。それでは、この3つの定義のうち、機能的分化を基礎にした定義が何故に宮台氏に選ばれ、それが科学的な考察だと考えられるのはどうしてだろうか。宮台氏は、他の定義の仕方について「単なる用語法なのでそのように使っても構わないと言えますが、社会システム理論家のように近代化を「社会システムの機能的分化」として捉えれば、従来の用法にはなかった発見的な知見が得られます」と自らの定義との違いを語っている。発見的な知見とは例えば次のようなものだ。「社会システム理論家は、近代社会、即ち機能的に分化した社会システムを達成するのに、キリスト教的な個人性をベースに自己決定的主体化を経由する西欧先進国的ルートと、それを経由しない日本的ルートがあるのだと考えます。日本的ルートの実態は論争の的です。」近代化というものを、開拓者的なルートと、それを後追いしたルートに分けて、両者の違いと同等性を考察することで発見的な知見が求められる。この違いは、現象的には次のような現れ方もする。「■社会システム理論家ルーマンが述べた通り、西欧先進社会では、政治権力が介入してはならない市民の行為領域としての人権概念が、分化退行を抑止します。かかる行為領域として、貨幣や真理や信仰や参政のコミュニケーション領域が憲法に書き留められています。 ■歴史的経緯ゆえに自己決定的主体観念の未成熟な日本では、国民が憲法的命令に基づいて国家を制御するという立憲政治の発想が乏しく、人権概念に基づく分化退行の抑止機能が期待できません。下位システムへの機能的分化の概念はこうした観察にも適用できます。」日本で抱えている問題が、近代化のルートの違いから論理的に導かれるものであれば、その解決の方向も論理的に考察可能ではないかと考えられる。それは、同じ問題が、開拓者的な西欧の近代化では解決されているように見えることから、どこで違いが現れたかということに注目できる。機能的分化という視点を持つことによって、この考察が進めやすくなるのではないだろうか。機能的分化ということを基礎にした定義のほうが、産業化や市民社会化を基礎にした定義よりも、現実を理解するのに有効で、現実の変革の方向も考察できると言えるのではないかと思う。だからこそこの定義のほうが妥当性が高く、科学として正しい方向を向いているのではないかと思う。
2007.05.18
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母親を殺害した高校生のニュースに比べると「社保庁汚職:指導医療官、東京歯科大同窓会から現金」で伝えられるニュースは、日本社会ではよく見られる現象であり平凡なもののように見える。しかし、衝撃的なニュースのほうが、その内実は案外と抽象しやすく理解するには易しいかもしれない。犯行を行った高校生個人が特別な存在だと考えるのではなく、その背景となる社会のゆがみが理解できれば、誰がそのような犯罪を行うかというのは偶然的なことであるが、誰かがそのようなことをしてしまうというのは、現代社会の必然性として理解できるのではないだろうか。社保庁の汚職に関する事件は、よくある平凡なものだけに我々はよく理解している気になっているが、その論理性を把握している人は少ないのではないかという感じがする。論理性よりもむしろ日本社会における経験において、よくあることというのは、日本社会はそういうものだというような運命的というかもともとそういうものだったということを言語ゲーム的に了解しているだけなのではないかという気がしている。報道を見ると、汚職によって逮捕された社会保険庁指導医療官、佐藤春海容疑者(57)は、その汚職(収賄)によって私服を肥やそうとしていたとは考えにくい。そもそも保険診療を行う医師や医療機関を指導・監督する権限を持つ指導医療官というものは、開業医や勤務医であった容疑者の収入よりも低かったということが報道されている。つまり、指導医療官になることは、利益になるのではなくむしろ損になることだったのだ。だから、低くなった収入を補填する意味で、同窓会からの資金提供が行われていたということだ。そのまま開業医や勤務医を続けていれば、汚職などという危ない橋を渡る必要はなかっただろう。しかも、その汚職によって開業医や勤務医であったころをはるかに上回る利益があるのならまだしも、減った分を補填するくらいのものしか得られないとしたら、佐藤容疑者にとってどのような動機からこのような危ない橋を渡ろうというものが出てくるのだろうか。「東京歯大同窓会汚職、社保庁医療官を収賄容疑で逮捕」というニュースによれば、「調べによると、佐藤容疑者は、指導医療官として東京社会保険事務局などに勤務していた2002年11月~05年7月、同大OBの歯科医らとの勉強会の場で、社会保険事務局から監査や指導を受けた時の対処法を教えるなどした見返りに、内山、大友両容疑者から現金2百数十万円を受け取った疑い。」とも報道されている。この教えた内容に違法性があったかどうかは報道されていないが、テレビのニュースなどでは内部情報を伝えたというような言葉もあったように記憶している。教えた内容に違法性がないのなら、常識を超える謝礼を受け取ったということに収賄の容疑があるということになるのだろうか。しかし、指導医療官にならなければ、つまりそのまま開業医や勤務医を続けていれば、そのような違法性のある金を受け取らずに安全に医者として過ごせたはずなのに、なぜそのような危険まで冒して指導医療官にならなければならなかったのか。このような悪事を働いたというニュースが報道されると、単純に受け取る人は、悪意を持った人間が悪いことをしたとすぐに思うかもしれない。そうであれば、論理的な了解はしやすいからだ。悪いことをするのは悪意をもっているからだ、というのは原因-結果の因果関係としては分かりやすい。しかし、この事件の場合、悪意を持っているならもっと不当な利益を得ていていいはずだと思うのだが、そのような報道が見られない。僕は、この佐藤容疑者という人物は、非常に善意にあふれた人間だったのではないかという感じがしている。危ない橋を渡ったのも、同窓会の仲間を助けるためのものであって、自らの利益のためにそのような行為を行ったのではないような感じがする。このように考えたからといって、善意があるからこの行為が許されると主張したいわけではない。むしろ、善意からの行為がこのような反社会的なものに結びつくことに、日本社会のゆがみを見て、社会そのものの変革に向かうという思考の方向が必要なのではないかという感じがしている。善意が社会にとっていいものへ向かわずに、むしろ社会にとって損害を与える方向に進むというところに、日本社会の特徴を見なければならないのではないだろうか。社保庁の汚職事件を論理的に理解するには、それが私服を肥やすというような悪意から発したものだと解釈するのではなく、同窓会を中心とする同じ仲間たち、すなわち佐藤容疑者が所属する「共同体」全体の利益のために働いたという善意から発したものだと解釈したほうがいいのではないかと思う。そう解釈することによって、この事件は個別特殊なものではなくなり、日本社会の普遍性を象徴するものとして抽象されるのではないかと思う。この、日本社会に見られる普遍性の面を、小室直樹氏は『日本資本主義崩壊の論理』(カッパ・ビジネス)という本で、「共同体主義」という言葉で指摘している。「共同体」というのは、社会という大きな集団の中に存在する小さい集団の一つだが、個々の成員の結びつきが強く、個人の尊厳がその共同体への所属感によって保たれているものだ。社会の規範と共同体の規範が調和的に存在している場合には問題は何も起こらない。共同体の利益はそのまま社会の利益になるので、共同体を大事にすることは社会を大事にすることにつながる。しかし、両者の利益が相反するものとして出現する場合は、論理的に正当にものを考える人間なら、社会あっての共同体なのだから、社会の利益のほうを優先させるように考えるだろう。そういうものを現代的な意味での「市民」と呼んでいる。しかし「共同体主義者」と呼ばれる人間は、社会の利益が共同体の利益に反する場合、常に共同体の利益を優先させる。社会あっての共同体ではない。共同体が存在し得ないようであれば、社会があっても仕方がないのである。共同体の存続のためには社会は、ある意味ではどうなってもかまわないというのが「共同体主義」を徹底した考えだろう。これは日本社会における普遍性の一つだ。内輪の人間には非常にゆるい規範を適用し、外の人間には厳格に規範を適用するということは、日本中どこにでも見られる現象だ。そして、その基準は論理的正当性ではなく、共同体の存続というものが最も重要なものになる。論理的な不当性を持っていても、それが共同体の存続に役に立つならそれが選ばれる。小室氏が挙げている例では、旧軍隊の内務班のリンチというものが書かれていた。軍隊におけるリンチは、映画などでも描かれていて普通にどこでもやられていたのだと僕はイメージしていたが、小室氏に寄れば当時の東条英機陸軍大臣がリンチを禁止していたという。つまり広い社会での規範ではリンチをしてはいけないことになっていた。だが、内務班ではそんな規範がないかのようにリンチがやられていたという。このリンチの実態を調べたことがあったそうだが、内務班では、リンチをしたほうもされたほうも一切その実態を外にもらさなかったそうだ。外の社会の規範よりも内務班の規範が優先したものであって、リンチの存在は内務班という共同体の存続に必要だと誰もが了解していたことを意味する。共同体というのは一つの集団であるには違いないが、社会と比べれば小さいものであり、その利益は一つのエゴとして全体を傷つける可能性がある。共同体主義が社会にとっては害になるといえるのは、それがエゴとして全体を傷つける可能性を免れないからだ。また、このエゴを守るため秘密主義になる恐れもある。小室氏によれば、日本の軍隊は個々の兵隊の強さは世界一だと誇れるものだったという。それは、死を恐れない、ある意味では武士道的な思想が基礎にあったからだという。普通の兵士であれば、負けると分かっているような戦争では戦意が衰え、全滅する前に降伏するのではないかと思う。それが合理的な考え方だ。しかし、たとえ全滅するような局面を迎えようと、日本軍は降伏するというようなことを考えなかったようだ。これは、相手をするほうとしては恐ろしいことだったに違いない。しかし、軍隊という全組織の問題として考えると、それぞれの軍隊が共同体をなしており、一つの組織として統制の取れた指揮形態が取れなかったそうだ。陸軍の内部情報は海軍へは伝わらず、それ以外でも同じだった。このような組織では、全体の戦略を立てるときに、情報の誤りから決定的な失敗をする恐れがある。小室氏は、先の戦争について、日本軍のそのような失敗を数多く指摘しているが、これは共同体主義の弊害の現われではないかと思われる。日本というのは、敗戦前までは、おそらく国全体が一つの巨大な共同体として機能していたのではないかと思う。これは、共同体の規模としては大きすぎるものだったのだろう。しかし、国をまとめるということを目標とした当時の統治権力にとっては、共同体的な資質を持った国民にはそれが有効だと考えたに違いない。だが、この共同体主義の弊害は、内部の小さな共同体の利益と、国全体の利益とが対立したときに、指導性の欠如として露呈した。戦後しばらくの間は、国民全体の利益や目標が重なるものがあったので、この共同体主義の弊害は現れなかったが、その共通の目標が失われた現在、その弊害があちこちに現れているのではないだろうか。今週のマル激では社会保険庁のでたらめさが指摘されていたが、これなども大部分の国民にとっては有害無益な存在であるのに、社会保険庁から利益を得ている共同体にとっては、国民に損害を与えようとも自分たちの利益を守るほうが優先されるという共同体主義が現れているように見える。小室氏は、資本主義というのは合理的・目的的な思考の元に利益を追求するという原則がなければ、存続・発展し得ないと指摘する。合理性と目的性に最も反するのが「共同体主義」だろう。これを克服しない限り、日本資本主義は崩壊への道を歩むというのが小室氏の本で展開している論理だ。共同体の利益を守るために合理性が否定されるようなことがあれば、共同体主義の克服は難しいだろう。共同体の理不尽な規範が押し付けられているような場面を一つずつ正していくというような、気が遠くなるような努力を続けることが克服への一歩なのかと思う。そのためにも賢い市民がひとりでも多く出現しなければならないと思う。共同体を超える視点を持つことが出来る視野の広い市民が賢い市民となるだろう。
2007.05.17
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宮台真司氏は「社会学講座 連載第15回:人格システムとは何か?」の中で次のように語っている。「■心理学は、現行の制度や文化を「前提にする」学問です。社会学は、現行の制度や文化を「疑う」学問です。社会学によれば、「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的前提の総体で、非自然的前提の総体を明るみに出すのが社会学の目標です。 ■ゆえに「個人が治ればいい」という心理学と、社会学の対立は避けがたい。現行の制度や文化を前提とする限りで「こうしたらいい」という心理学の提言が理に適っていたとしても、そもそも現行の制度や文化を維持するべきかどうかに疑問を呈するのが社会学です。」心理学と社会学とは、問題の捉え方のレベルが違うという主張だ。ここで宮台氏は「かつては狐憑きや神降ろしの媒体として珍重されていた心的喪失者が、近代初期には犯罪者や涜神者と同様なノイズとして隔離され、19世紀以降は治療対象として見出されます」とも語っている。心的喪失者が、社会にとって問題にされていなかった時代は、彼らの心を治療して正常に戻すという問題は生まれなかった。しかし、彼らが社会にとっての正常値からは離れている、つまり異常だという判断をされると、彼らは「治療対象」になる。社会にとっての正常値とは、現行の制度や文化を「前提にする」ことから判断される。だが、この問題を別の視点から捉えることも出来る。心的喪失者が、確かに社会にとって問題視されたとしても、それが個人レベルの解決されなければならない問題として捉えられるのではなく、社会の変革を伴った問題解決の方向が考えられる場合がある。社会のほうに、より大きな解決の方向を見出すのが社会学的な視点のように感じる。この視点のシフトは、心理学的な解決方法に限界を感じているときは、ある種の救いが見えてきたりするのではないかと思う。宮台氏は、「例えば、家族の中に居場所が見つからない人に、なぜそうなるのか、どうすれば見つかるかを心理学者は語ります。でも社会学者から言えば、家族の中に居場所を見つけなければならない理由はないし、そもそも家族を営むべきなのかどうかさえ疑わしいのです。」とも語っている。居場所を見つけるのに多大な努力を払いながらも、なおそれが見つからなくて絶望的になっている人にとって、それを見つける必要がないかもしれないと発想するのは、とても気持ちが楽になるのではないかと思う。あるパラダイムの範囲で問題解決をしなければならないと考えると、そのパラダイムの中ではもはや不可能だと思われる場合もあるのではないだろうか。そのときは絶望があるだけだ。しかし、パラダイムを超える発想があれば、その絶望から新たな出発が出来る。しかし、この発想は、徹底的に絶望した後でなければうまく行かないような気もする。絶望が中途半端に終わるようだと、パラダイムを乗り越えてまで解決を目指そうという気持ちが生まれないのではないかとも感じる。まだ絶望しきることが出来なければ、そのパラダイムの範囲内で解決が出来るのではないかという希望も持ってしまうのではないだろうか。宮台氏は『絶望から出発しよう』というタイトルを持った著書もあるが、これは、絶望から出発しなければパラダイムを乗り越えることができないということを語ってもいるのではないだろうか。深い絶望の後に、もはや現行のパラダイムにはまったく希望がないと判断できたとき、現行のパラダイムを否定する、その思考の前提である社会的現実を否定するような発想が生まれてくるのかもしれない。社会学的な視点というのは、そのようなパラダイムの変換を見出すのに役立つものではないかと感じる。母親を殺害してその首を切り落とした衝撃的な事件を起こした少年については、心に問題がある、あるいは人格に問題があるというふうに、心理治療の対象であるように捉えたい人が多いかもしれない。彼は特殊で、普通ではないからあのような事件を起こしたのだと考えれば、自分のことを普通だと思っている人は安心できるのかもしれない。だが宮台氏の次の言葉を見ると、そのような安心感が吹っ飛んでしまうのではないだろうか。「■同じく、精神医学(広義の心理学の一部に数えます)は最近“病気(神経症や精神病)ではないが変な人”を「人格障害」と呼び、矯正教育の対象とするようになりました。しかし社会学は、治すべきが人の心なのか社会の在り方なのかは、自明ではないと考えます。 ■社会学の立場では「人格障害」は郊外化現象への合理的適応です。「人格障害」はむしろ正常性の証です。これを矯正教育の対象とすることで、合理的適応として「人格障害」を生み出すような社会そのものの矯正が、埒外に置かれる可能性を社会学者は危惧します。」「人格障害」と呼びたくなるような、普通ではない人が、実は「郊外化現象への合理的適応」だとしたら、そのような人間はこれからもたくさん生み出されると予想される。治療すべきは人間ではなく、社会なのだと考えなければならない。だが、この社会学的な視点から得られた発想は、まだそれを信じられない人が多いのではないかと思う。今の社会で、人々が努力をすれば、そのような普通ではない人間の問題を解決できるはずだと希望を持っている人が多いのではないだろうか。まだその希望がまったくないというほど深い絶望を持っている人は少ないのではないだろうか。直すべきは人間ではなく社会なのだ、と考えられるためには、そんなことでは問題は決して解決されないという絶望が必要なのではないかと思う。それでは社会はどのように変革されなければならないのだろうか。前回紹介した「承認のコミュニケーションによる尊厳の獲得」というような教育が浸透している社会というものが一つの理想となるものかもしれない。絶望から出発して問題のレベルを変えるというのは、教育においての問題でも有効ではないかと思う。今の教育は、現行の制度の中で努力すれば、個々の問題が解決していくと考えるのか、もはや今の制度の中では問題の解決は絶望的で、表面的によくなったように見えても、その奥にはさらに深刻な問題が隠れていてやがてそれが表面化してくると捉えるのかは、問題解決のレベルを考えるのに非常に大きな要素となってくる。宮台氏は、『教育「真」論』の中では、「学級崩壊」について次のように語っている。「ちなみに、学級崩壊はたいした現象ではありません。高岡先生の言葉に寄り添って言うなら、たとえば、クラスを集団行動的に運営すること自体がいいのかどうか、です。80年代に、プロ教師の会の人たちは、「教師側が弱くなって、子どもたちが言うことを聞かなくなった以上、クラスを維持する上で管理教育は不可欠なのだ」と言っていました。そのときから僕は言っていましたが、他国のようにクラスを廃止すればいいだけの話です。一斉カリキュラムとクラス制度は、都合のいい工場労働者を安く早く栽培するためのメカニズムだったわけで、ファクトリー・オートメーションとオフィス・オートメーションが一般化した成熟社会では用済みです。」「学級崩壊」は問題だ、と考えたとき、それを現行の学校制度の中で解決を図ろうとすれば、プロ教師の会の人々のように「管理教育」で崩壊を防ぐという方向が考えられるだろう。このとき、管理能力に優れた教員がいれば、現行の制度の中でも「学級崩壊」という問題は解決してしまう。そして、プロ教師の会の人々は、「管理教育」の能力においてはきわめて優れていたといってもよかっただろう。彼らは、この問題に関しては絶望しきるということはなかったに違いない。だが、彼らほどの管理能力のない教員にとっては、おそらく「学級崩壊」は絶望的な状況だったのではないかと思う。そして、この絶望的状況を、本当に絶望だというとことんまで深めることが出来たら、宮台氏が語るようなパラダイムの変換が出来るのではないだろうか。さらに言えば、パラダイムの変換が出来るなら、宮台氏が言うように「学級崩壊は大した現象ではありません」と思えるのではないかと感じる。それはパラダイムの変化によって、このような捉え方が出来るのである。現行の学校制度が大事なものであれば、クラスを維持することも大事になり、「学級崩壊」は解決しなければならない問題になる。しかし、そもそもクラスなどというものがなくなってしまえば、崩壊する対象の「学級」がなくなるのだから、「学級崩壊」という問題もなくなってしまうのである。クラスをなくしてしまえば、都立の単位制高校のように、自らが何を学ぶのかを選択するような学校制度にならざるを得ないだろう。そうすると、今度は教員の側のパターナリズムというパラダイムが絶望を迎えるかどうかという問題が生じる。子どもには、何が自分にとってよいことかを間違いなく選ぶ判断力はないと考えるなら、そこには子どもを導いてやらなければならないというパターナリズムがパラダイムとして存在することになる。パターナリズムによって子どもを指導しようとしても、教員の判断が必ずしも正しくはならない、むしろ子どもを誤解して間違えることが多い、という絶望を教員の側が自覚するかどうかでこのパラダイムが崩れるかどうかが決まるだろう。現行の制度を支えるパラダイムは、このように多くの絶望を経てようやく変えることが出来るのだろうと思う。それに少し早く気づくには、社会学的な視点を学ぶことが有効ではないかと思う。暗黙の前提にさかのぼって考察するという、社会学の再帰的思考は、パラダイムとして無意識のうちに前提としていたことに気づかせ、それに対する疑問を育てることによって問題のレベルを変えていくのではないかと思う。そして、時代の変わり目においては、おそらくそのような発想が問題の本当の解決を教えてくれるのではないかと思う。なお自己決定による子どもの選択という問題は、それがたとえ間違っていたとしても、教育的にプラスの方向に生かすことも出来る。自分の決定の判断のどこが足りなかったのかを自覚することが出来れば、子どもは次の決定の判断ではより正しい方向を選べるようになる。進歩することが出来る。子どもの選択というものを、間違いなく選ぶということを目的にするのではなく、選ぶということの経験の中で、判断力を育てるという目的に変えれば、より教育的になってくる。間違えてはいけないというパラダイムは、実は教育的ではないのだ。むしろ間違いから何を学ぶかというパラダイムこそが教育的に正しいと僕は思う。
2007.05.16
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主観と客観は対立するものとして現前する。主観は、ある個人の頭の中に存在するもので、その個人を離れて外に飛び出すものではない。それに対して、客観と呼ばれるものは、個人との結びつきを断ち切って、個人とは独立に存在するものとして対象化される。だからこそ、個人の単なる思い込みではなく、誰もがそれを同じように対象として認識できるので、その属性を誰もが認めうるような一般性を獲得することが出来る。個人の好き・嫌いに関する感情は、客観性をまったく持たない主観だけの範囲で語られてもかまわないものだ。好き・嫌いという感情は、そのこと自体が悪いというような価値判断は出来ない。その感情が生まれてくるのはある意味では仕方のないものとして受け止めなければならない。例えば、ある芸術作品が自分の好みに合っているという、好きという感情は自分の主観である限りでは、誰も間違えるということはないだろう。この、好みの感情は、個人の生育暦などに影響されて決まってくるものだと思われるが、かなり偶然性の高いものだ。同じ環境で育っているように見える個人でも、その好みはまったく違うということがありうる。好きか嫌いかという感情は自分にはよく分かるが、自分が好きな芸術作品が、芸術として水準の高いものであるかという判断は難しいものがある。好みのものは優れたものであってほしいという願いは誰にでもあるだろうが、優れているというのは、主観を離れた客観性も欲しいと思うからだ。主観を離れる一つの方法は、判断の基準を、人間の意志とは独立に存在する物質的存在の属性のほうに見出すことだ。芸術として優れているかどうかを、それを鑑賞する人間の感性の方に依存するのではなく、芸術そのものの物質的属性として捉えることで客観性を獲得しようという方向だ。芸術の優秀性を、鑑賞者の感性に依存すれば、感性が優れている人間が高く評価する芸術は優れたものであるという結論になる。そうすると、芸術作品の優秀性が、鑑賞する人間の感性の優秀性に置き換えられるだけで、優秀性を判断する基準そのものは何も解明されていないことになる。極端なことを言えば、優れていると「思った」ものが優れているということになる。それは、誰がそう「思うか」ということで優秀性が判断されることになり、そう「思う」人間自体の鑑賞能力の優秀性には客観性はない。言語ゲーム的に、みんながそう認めているから、鑑賞能力が高いと評価されているだけかもしれない。もともと芸術の評価自体に客観性がないのだ、と割り切って考えるなら、すべては主観的な判断に過ぎないと受け止めて済ますことが出来る。たまたま多くの人に気に入られた芸術が、その時代に高く評価されるに過ぎないのであって、時代が変われば評価も変わったりする。そのように割り切って、考えれば、芸術の評価というのは科学にはなりえないのだと受け止めればいいだけの話かもしれない。主観の範囲で判断して差し支えない対象・客観的基準が見出せる対象・客観的基準が見出せないので主観的にしか捉えることの出来ない対象、等々を意識して自分の周りを眺めることで、科学的な認識を高めていくことが出来るのではないかと思う。自然科学の対象は、主観をほぼ完全に排することが出来るので、100%客観的な科学が成立するといえるのではないかと思う。社会科学の対象は、人間が作る社会という存在にかかわってくるので、100%主観を排することが出来ない。これが、科学という客観性を獲得するというのはいったいどういう意味を持っているのだろうか。これは、自分の主観ではない、他者の主観というものを、あたかも自然科学の対象であるかのように客観的対象として取り扱うことが出来るかどうか、ということが科学性としての意味を持っているのではないだろうか。大塚久雄さんの『社会科学の方法』(岩波新書)では、マルクスの疎外概念についての記述があったが、そこでは人間の集団の行動が、個人の主観ではコントロールできないもの、あたかも人間の意志とは独立して存在する自然のような存在になることが語られていた。これが、まったく予測不可能な偶然性だけの対象なら、科学の対象にするのは難しい。客観的に成立する法則性がない対象は、結果を解釈するしかないので、科学として未来を予測するような認識にならない。しかし、人間は確率論というすばらしい道具を見つけたおかげで、個人の主観としての予測は、その偶然性から言ってまったく予測が出来ないが、それが大量に集まった集団になった場合は、偶然性が法則を持つという認識を獲得することが出来た。確率論においては、主観がまったく働かないような対象においては、いわゆる場合の数が最も多いと考えられる現象こそが、確率的に実現されるという風に考えられる。場合の数というのは、起こりうる現象のすべてを考察の対象として、可能だと判断された現象のすべての数を言う。これが確率的な事象だということは、それが起こりうる可能性がすべて同じ頻度で起こると考えられることを意味する。同じ頻度で起こるなら、その数が最も多いと考えられる現象が現実には起こるはずだと、論理的に結論されるわけだ。しかし、現実は確率論にしたがって現れるのではないから、確率的には起こりうる可能性が低い場合が実現される。社会学は、そこにあるシステムが存在して、普通(確率論的)には起こりえないことが、システムの機能として定常的に実現されているのだと捉える。そして、人間社会がそのような機能を持っているということは、そこに主観というものが働いていることを予測させ、多くの他者がどのような主観を抱いているかということが、確率論的にもシステム的にも重要な考察となってくるのではないかと思われる。人間の主観というものが、自分の主観である限りではそれは客観性を持つことは出来ない。どこまでも、自分個人の主観としてしか存在し得ない。また、他者の主観であっても、それが具体的な誰かの主観である場合は、それもまた客観性というものを持つことが出来ない。それはいつでも特定の主観にならざるを得ない。主観が客観性を持つというパラドックス的な言い方は、個人性・具体性を捨象した、一般的・抽象的な他者の主観という対象を立てられる時に言えるのではないかと思う。昨日のニュースでは、母親を殺害して、その頭部を持って自首してきた高校生についての衝撃的なものがあった。この高校生の主観を、この高校生個人に則して理解しようとすれば、それは解釈以上のものは出てこないだろう。なかなか客観的な理解というものは出来ないのではないかと思う。それこそ、理解を超えた行動だということで、「狂っている」と思いたくなるかもしれない。おかしな人間がおかしな行為をしたという理解は、それが正しいかどうかにかかわらず、論理的には納得できて落ち着くことが出来るからだ。心を静めて落ち着くことが目的ならこれでもいいかもしれない。しかし、今後そのような事件が起こらないようにしたいと考えるなら、この事件を客観的に理解するカギを探して、その処方箋を客観的に正しいと思える解答として見つける必要がある。それは出来ることなのだろうか。この高校生個人の主観を、多くの他者の主観として抽象することが出来るだろうか。その一つのヒントになるようなものを、『教育「真」論』(ウェイツ)というシンポジウムをまとめた本の中の、宮台真司氏の発言の中に見つけた。そこでは、「なぜ我々は人を殺せないように育つことが出来るのか」について語られていた。それは、「結論から言うと、自己形成の過程で、他者との社会的なコミュニケーションを通じた試行錯誤によって、「承認」を獲得することが必要不可欠な生育環境で育つことが、大切なのです。そうすれば、人は「自分が自分であること」「自分が価値を持った存在であること」と、「他者の存在」「社会の存在」が分かちがたく結びついたものとなるわけです。」と解説されている。一般的には、このような生育環境で育てられた「主観」が、「人を殺せないように」働くことになる。この「主観」がなければ、ある意味ではランダムに「人を殺せるような」人間が生まれてくることが予想される。どのような確率値でそのような人間が存在するかはわからないが、システムとして、そのような人間を排除できるという保証はなくなる。「承認のシステム」があれば、確率的には起こりえない、「人を殺せないように育つ」ということが定常的に実現するのだという論理だ。この論理は、主観というものを見事に抽象して客観的対象にしているように見える。また、この考察からは、「人を殺せるように」育ってしまうシステムの変化というものも論理的に導くことが出来る。これは、意図的には、戦争を行う兵士の教育において「日常的なフレームを書き換えることで」意識を変えてしまうということが行われる。社会においても、日常的なフレームが知らないうちに変わってくると、どこかで意識が変わる可能性が出てくる。宮台氏の指摘は次のようなものだ。「こうした育ちあがり方が、我々が営んできた社会における通常的な生育のプロセスだったとするならば、最近になって、その一部ないしは大半がスキップされるようになっている可能性があります。それが処方箋を考える上でのポイントになると思います。自己形成のプロセスで、他者との社会的な交流が必要不可欠ではないような生育環境。むしろ、他者との社会的交流とは無関係な尊厳を獲得できるような生育環境。そうしたものが広がることにより、「自分が自分である」「自分が自分としての価値をもつ」ことにとって、他者の存在や社会の存在が無関連なものになっていく、ここにポイントがあります。」このように抽象された「主観」の形成過程において、人を殺すということに対してブレーキとなっていた「主観」が育たなくなっていれば、確率的な現象として、何人かが「人を殺せるように」育っていくことになる。つまり、このような理解の元では、理解を超えていると思われた高校生のような存在は、まったく特殊な「おかしな」存在ではないと言わなければならない。今の社会システムの元では、そのような人間が生まれてくるのは整合的に理解できてしまう。人々は、社会システムそのものに目を向けて深刻に受け止めなければならない。もし、このような考察が客観的に正しいものなら、今後いくらでもこのような人を殺せる人間が出現してくるだろう。おかしな人間を主観的に切り離して問題が解決するのか、社会システムの手当てという方向で問題が解決するのか、この後の方向を見なければならないだろう。社会システムの手当てという方向を取るならば、多くの人がそのことに関心を持って社会を変えていかなければならない。民主主義制度のもとではそうしなければならないだろう。主観を客観的に理解するというのは大切なことだと思う。自分の好む方向、自分の主観的判断と世の中の動きが違った場合は、特にこのことを理解することが大切だろう。世の中の多数は今右傾化をしている。これに対して主観的な反発を感じる人もいるだろうが、右傾化している多数派の主観を、他者の主観として抽象化して、それが存在する整合性を理解することは、それを変えていく努力にとっても必要なことだ。そうでなければ、右傾化している人間が判断を間違えている、端的に言えばバカだという表面的な判断に陥るのではないかと思う。
2007.05.16
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教育を手段か目的かと考えるとき、それを自分にとってのもの・あるいは自分の子供にとってのものというふうに個人的な立場で考えると、個人にとっていいものという価値判断的な要素が入ってくる。そうすると、手段というのは何か価値的には貶めてしまうように感じるので、教育そのものが価値をもつような目的的なものとして捉えたくなるのではないかと思う。しかし個人を基礎にして物事を考えると、個人によって感じ方の違うものは主観に左右されてしまい、客観的な判断というものが出来なくなる。科学的に扱うことが難しくなってしまう。教育を目的として捉えた場合、ある個人にとってはいいものが、別の個人にとっては最悪のものになる可能性もある。特にイデオロギーに支配された思考から目的が決まってくるような教育はその傾向が強くなるだろう。これは右でも左でもそれほど違いはない。右にとっていいものである日の丸・君が代も、その押し付けを最悪の教育と捉える個人がかなり存在する。逆にいえば、左の側から正しい歴史だと思われるものも、それを自虐史観と呼んで、それを押し付けられることに大きな恨みを抱く個人がたくさんいる。これは、現象的には押し付けることが間違いなのであるが、何故に押し付けが生じてしまうかといえば、それは教育を目的と捉えるところから出てくるのではないかという気がしている。教育が単なる手段に過ぎないものなら、そういう考え方もあるという程度でこのことを流してしまえる。そうすれば押し付けによる弊害もかなりなくなるだろう。教育というのは、社会的認識を高めるために多様な考え方を紹介しているに過ぎないのであって、このことを学ぶこと自体が目的ではないと捉えればいいだけのことになる。教育を手段として捉えた方が、より客観的で科学的な捉え方だと感じたのは、『教育真論』(ウェイツ)という本の最後に書かれた「シンポジウムを終えて」という宮台真司氏のあとがきのようなものを読んだからだ。ここで宮台氏は、教育が手段か目的かという考察をしているのだが、それは二つに分岐する捉え方を重ねることで考察を展開している。まずは教育が1 手段である2 そこで生じること自体が目的であるという二つの分岐があるが、もし教育を目的だと捉えるなら、考察はそこで停止してしまう。教育において生じること自体がいいものである・人を幸せにするという価値判断が出来れば、それは全面的に肯定され、それ以上のことを考える必要はなくなる。日本において人々に感動を呼び起こす学校ドラマは、たいていがこのような発想で教育を捉えていたのではないかと感じる。映画「二十四の瞳」や昔の学園ドラマは、僕もそれを面白いものとして見ていたものだった。感動する場面もたくさんあった。しかし、「金八先生」のころには、僕もそれなりに大人になっていたので、そのドラマ構成にはちょっとした違和感を抱いていた。この舞台は、何も学校でなくてもいいだろうという思いを感じた。人間同士の深い結びつきを描くのに学校という舞台が便利だというのは分かる。しかし、学校においてそのような深い人間関係が作られることが理想だというのは、現実の学校を見ている限りでは嘘ではないかという感じがしていたのだ。内田樹さんは、かつて、「二十四の瞳」の大石先生は教師としては無能であり何一つ出来ない先生だったと書いていた。しかし、ここでの大石先生と生徒たちとの心の結びつきの深さは大きな感動を呼ぶ。金八先生も、その授業の場面をあまり見たことがないが、その国語の授業は必ずしも上手なものには見えない。生徒との心の結びつきがあるから、つまらない説教でも耳を傾けてもらえるが、もしその前提がなかったら平凡なつまらない授業をする国語教師に過ぎないだろう。日本では、学校で幸せに過ごすために、教師との深い関係が必要で、それさえあれば学校での目的が達成されたとも言えるのではないだろうか。そして、教師の影響によって学習のモチベーションも上がる。しかしこれは教育としてはどうも変な感じがする。個人的な相性が合うかどうかはまったく偶然性に支配される。たまたま相性の合う先生と出会えばいいが、そのような幸運はまれではないのだろうか。むしろ、学習する内容との相性で学習のモチベーションが高まるというほうがはずれが少ないのではないか。学習する内容は、長い歴史を経て絞り込まれていく可能性があるからだ。仮説実験授業は、学ぶに値する対象があれば、必ず仮説実験授業として楽しい授業が実現できると自信を持って主張している。それは、個人的な資質というあたりはずれではなく、論理と歴史という客観性を基礎にしているからだ。宮台氏は、考察の止まってしまう「目的としての教育」ではなく、「手段としての教育」をまた二つに分岐させて考察を進めている。それは、1-1 子どもの幸せのための手段としての教育1-2 システムの回転のための手段としての教育これも価値判断的には、1-1のほうが価値が高いような気がして、そちらのほうを選びたくなってくるが、子どもの幸せというものが客観的に決定できないので、これもそちらのほうは客観性がなく、科学的に扱うことが出来ない。また、子どもの幸せのためという手段は、ここから分岐する考察の方向に問題がある。それは次の二つの方向が考えられるのだが、「かつては両者が重なることが暗黙の前提だったが、今は通用しない」と宮台氏は指摘する。子どもの幸せの場による分岐1-1-1 学校での幸せのための手段としての教育1-1-2 社会での幸せのための手段としての教育学校での幸せが、例えば学校で高く評価されることであれば、その評価がそのまま社会でも通用したのがかつての時代だった。だから、その幸せは学校卒業後も続き、両者が重なっていたといえる。しかし、今の時代は、学校優等生が社会ではむしろ通用しなくなってきている。学校で過剰適応するような学校優等生は、社会では使い物にならない、幸せになれない人間になってしまっている。これは、「子どもの幸せのための手段としての教育」が破綻していることを意味しているのではないかと思う。これは、幸せというものがもともと主観的なものであり、時代とともに変わっていくものであれば、ある時代に適合した幸せ観が今の時代では通用しなくなるということは十分ありうることである。主観にはそういう面がある。ある程度の時代を通じて通用するような普遍性をもったものにするには、主観ではなく客観性を基礎にした観点が必要になるだろう。この普遍性を持った客観的な観点、すなわち科学としての教育の捉え方は、次のようなものになるだろう。1-2-1 学校的な合理性の手段としての教育1-2-2 社会的な合理性の手段としての教育宮台氏は、「社会システム理論家である私」すなわち科学者である自分としては、「1-2-2の立場。すなわち「教育を、社会システムにとって合理的な人材を生み出すための手段とみなす立場」から教育を論じると語っている。この二つの観点は、それが矛盾しない限りではどちらも合理的であり、問題を生じないだろうと思う。しかし、学校的な合理性が、社会にとって害悪になる場合が存在する。必要のない末梢的な知識を詰め込むという教育は、子どもたちに勉強を嫌わせるという効果を生ずるという点で社会にとっては害悪となる。勉強を嫌いになった子どもたちは、大人になってから物事を深く考えることをしなくなり、衆愚政治に荷担することになるからだ。しかし、学校的な合理性から言えば、各教科の教員にとっては、自分が教えることが末梢的で必要のない知識だと判断することが難しい。それは、専門家にとっては大事だろうが、専門家でない人間にとってどれほど大事であるかということが難しい判断になる。学校的合理性からは、たとえ末梢的だと思えるような知識であろうとも、教えることが大事だと結論付けられるかもしれない。このような時、どちらの合理性が優先するかという原則があれば判断が客観的になる。これは、もちろん社会的な合理性が優先されなければならないだろう。社会の存在があってこそ学校の存在があると考えられるからだ。学校が社会に先行して存在することはあり得ないからだ。科学的・客観的に教育を捉えるには、それが「社会的な合理性のための手段」であると定義したほうが有効な定義になる。主観的には、この定義に違和感を感じる人がいるかもしれないが、それはこの定義に価値観を含めるからではないかと思う。科学的・客観的という方向性は、価値判断を離れなければならない。この定義は、統治権力が資本主義の存続・発展のために都合のいい人間を育てるということを「社会的な合理性」と捉えれば、ジョン・テイラー・ガットさんが批判するような学校になる。しかし、自分の頭で考える人間を作ることを「社会的な合理性」と捉えれば、むしろガットさんが主張するような教育こそが正しいと主張できる。この定義は、価値判断からはニュートラルなので、どちらの価値を実現するためにも役立つ。ある立場のために貢献するということはない。立場を越えているという点で、この定義は客観的だといえるのだと思う。宮台氏は、「しばしば組合系の教員たちが掲げる「心の理解」や「一体化」」が教育において生じること自体を目的とみなす態度の典型だと指摘している。このことが、何かの手段として捉えられていれば弊害は少ないのだが、このこと自体が役に立つ・立たないにかかわらず、そこでの幸福感として作用することが目的になれば、金八先生的な教育が理想となる。しかし、このようなものが実現するというのは、今は妄想に過ぎないのではないだろうか。妄想を理想とするのは、必ず大きな弊害を生むのではないかと思う。心は、もはや理解や一体化が出来ないほど多様化しているのが、現代社会の特徴ではないだろうか。それを教員に求めるのは、教員への無用な圧力であり、子どもたちにも絶望感をもたらすだけではないのだろうか。宮台氏は、社会に何に役立つのかとは無関係に「教育を、子どもが学校で幸せに生きてもらえるための手段とみなす立場」ないし「教育において生じる理解や一体化を先見的に価値あるものとみなす立場」を「時代錯誤的な宗教臭」と断じている。そのような教育は、おそらく師弟関係という特殊な関係が生じるような教育では生まれるのだろう。しかし、公教育という大衆教育においてはないものねだりであり、そのようなものを理想として掲げれば、誰もそれが実現できないという妄想に過ぎないものになってしまう。教育は手段で十分だ。しかし、それが手段に過ぎないものであっても、フィクションの世界では「陽の当たる教室」という映画で、現実にはジョン・テイラー・ガットさんの教育で、深い感動を与える実践を見ることが出来る。僕は、手段として役立つ技術を伝える能力を持った教員のほうが、人間的に深い付き合いが出来る教員よりも、教育の能力は高いと思う。教育というのは、あくまでも普遍的・抽象的な営みであり、個人的な心情の世界の物語ではないと思うからだ。
2007.05.15
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僕は、山本七平氏に対してはあまりよいイメージを持っていなかった。最初に山本氏を知ったのは、イザヤ・ベンダサンというユダヤ人が書いたと言われている『日本人とユダヤ人』を批判したものを見たときだっただろうか。今では、このイザヤ・ベンダサンという人物は山本氏が作り出した架空の人物で、これは山本氏の著書だといわれている。イザヤ・ベンダサンという著者を山本氏だと知らないとき、僕は『日本人とユダヤ人』という本を面白く読んだ記憶がある。それは、日本人が持っている常識的な発想に疑問を投げかけているもので、日本人ではないユダヤ人だからこそそのような見方が出来るのかな、と素朴に感じていたものだった。しかし、その後本多勝一さんを知り、本多さんとイザヤ・ベンダサンの論争を『殺す側の論理』という著書で読んだとき、イザヤ・ベンダサンという人の論理の展開が詭弁のように見えて仕方がなかった。この論争においては、本多さんの側に確実に論理的正当性があると感じたものだ。後に、このイザヤ・ベンダサンが山本氏だと知り、面白く読んだ『日本人とユダヤ人』に関しても、そのユダヤ学に関する部分がほとんど間違いだということを浅見定雄さんという専門家の指摘で知って、山本氏に対するイメージがかなり落ちたのを感じた。山本氏が書くことのかなりの部分は信用できないという思いになったのだ。素人の放言ではないのかという感じで受け取っていた。ところが、この山本氏に対して宮台真司氏がしばしば高く評価するようなことを言うことがあった。何回も語っていたのは、日本社会における「空気の研究」というものに対する評価だ。小泉さんが、以前に記者から質問を受けたときに、「その場の空気によって決める」というような答えを言ったことがあり、日本社会は「空気」というものによって行動が決められるという認識は、かなりの人が共有するものになったのではないかと思う。宮台氏が山本氏を評価するというのは、その「空気」というものの意味を、最初に指摘したのが山本氏だということの評価なのだろうか。どこが高く評価される点なのかというのが僕にはよく分からなかった。それが、小室直樹氏の『日本資本主義崩壊の論理』という本を読んで、少し見えてきたところがある。この本の副題は「山本七平“日本学”の預言」となっている。小室氏は、この本で山本氏のどこが評価に値するかを細かく論じている。それは論理的にすっきりと分かるものだ。この小室氏の評価を受け継いで、弟子である宮台氏も山本氏を高く評価しているのだろうと思った。大雑把に抽象的な言い方をすれば、素人が偉大さを発揮するのはの変革に貢献するときだと言える。専門家は細かい知識をたくさん持っている。そしてその細かい知識は、それまでの伝統的なによってすべて説明がつくようになっている。かなり確立されていると思われるが支配している分野では、その根本に疑問を呈するような問題意識は、専門家であればあるほど持てなくなる。専門家はあまりにも細かいこと(いわば末梢的なこと)を知りすぎているために、それが本質を曇らせて、本当に大事なことが見えなくなっているという欠点を持つ可能性がある。実際には、革命的な大転回が必要であるのに、それまでのを維持し守る論理を構築する方向に行ってしまう。そんなときには、細かい末梢的な知識を捨象できるほどの天才的な人間か、あるいはそのような知識を持たない(捨てる必要のない)直感に優れた素人の発想が時代の変化をもたらす。「いつの世でも、偉大なる発見は、方法的に未熟な素人の独創から始まる」と小室氏は指摘する。これは論理的に正当な考えだと思う。独創というのは、それまでと同じ伝統的な思考をしていたのでは生まれてこない。専門家でありながら、伝統に反する発想ができるというのは、よほどの天才でない限りできるものではない。むしろ、可能性としては、それまでの伝統をまったく知らない素人こそが伝統を打ち破る可能性を持っていると考えるのは正当である。仮説実験授業などでも、誰もが間違える難しい問題では、そのことを本当によく知っている優秀な生徒か、ほとんど知識を持たない劣等生か、どちらかが正しい予想をするということがよくある。そして、優秀な生徒でさえも出来ないような発想を必要とする問題では、まったくの劣等生こそが正しい発想を見せるということがある。まさに科学史での偉大なる素人ということの再現が仮説実験授業においても見られる。小室氏が評価する素人の偉大性というのは、斬新な発想で新発見をするという面だったのだ。これは、どのくらい優れたことであるかというのは、素人である本人にはわからないし、専門家にも、伝統に縛られているから離れることが出来ない人間には分からない。山本氏が評価されないということから、小室氏は、日本の学者の専門家としての水準も低いものだという批判をしている。山本氏は、素人としての欠点を多く持っていたと思う。素人であるがゆえに、本多さんの主張を、文脈を正確にたどったり、他の本多さんの著書を参照して正確に読み取ろうという努力をしなかったのではないかということが伺える。だから、イザヤ・ベンダサンとしての山本氏が指摘する本多さんへの批判はほとんど的外れのものになっている。自分の主張に都合のいい解釈と引用がされている詭弁にしか見えない。さらに、『日本人とユダヤ人』に語られているユダヤ学に関する部分も、自分が発見した日本学にとって都合のいいものとしてつまみ食い的に並べているだけのように感じる。それは、専門家である浅見定雄さんから見れば、ほとんどでたらめを並べているだけと批判されるようなものになっているのだろう。このような山本氏に対して、斬新な発想で、これまでのを崩すような新発見をしたのだと評価するのはかなり難しい。僕も、本多さんと浅見さんの批判を読んだ限りでは、山本氏というのは、ご都合主義の右翼評論家のようにしか見えなかった。まず、自分の感情的な思いからくる結論があって、その結論が正しいことを、ご都合主義的に事実を拾ってきて証明しようとする詭弁家のようにしか評価していなかった。山本氏に対して、主観的結論を証明しようとする論理の面を見るのではなく、日本社会を見る視点の提出という発想の面で評価をすれば、小室氏のように高い評価が出来るだろうか。小室氏は、山本氏の視点は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を書いたマックス・ウェーバーと同じものだという指摘をしている。マックス・ウェーバーは、いかにして西洋社会・アメリカに資本主義が生まれたかを、その精神的基礎から解明しようとしている。それと同じように、日本に資本主義が生まれた理由を、その精神面から解明しようとしたのが山本氏だという評価をしている。山本氏は素人であるから、マックス・ウェーバーの仕事を正確に把握して日本社会に応用したのではなく、似たような発想から日本社会を見たら見えてきたものが、マックス・ウェーバーが指摘するものと構造的に同じだったと小室氏は評価している。これは、構造的には同じだったが、その社会的背景には大きな違いがある。したがって、日本の資本主義というのは、本来のスタンダードな資本主義の発達と比べるとかなりゆがみがあるという。それが後に「崩壊」につながるだろうというのが山本氏の預言であり小室氏が高く評価しているところのように感じる。マックス・ウェーバーの「資本主義の精神」という視点は非常に難しい視点であると感じる。唯物論的に考えれば、物質的条件の成立が必然的に資本主義社会を生み出すように、素朴に僕は感じていた。日本が明治維新を経て、江戸時代の封建主義から資本主義へと転換したのも、国家が成立して、生産部門に資本を投入するという物理的条件が成立することによって社会が変革されたように素朴に考えていた。しかし、社会というのは人間が構成するものであり、その人間に資本主義というものの理解がなかったら、資本主義社会は実現しないのではないかとも思える。では、どうやって人々は資本主義的な認識というものを身につけていったのであろうか。その基礎となったのは何だったのだろうか。西欧社会においては、それが「プロテスタンティズムの倫理」であるとウェーバーが指摘しているのだろう。これも難しいものだ。その倫理は非常に強い道徳意識であり、現在の資本主義が持っている金儲けのイメージが、この強い道徳意識と整合的に結びつくようにすぐには感じないからだ。この精神が、なぜ資本主義につながっていくのだろうか。小室氏が語るキーワードは「行動的禁欲」というものだ。強い道徳意識は禁欲的に働くのだが、禁欲というのが「悪いことをしてはいけない」という消極的な面だけに働くのではなく、「他のことを忘れて一心にあることに専念する」ために働くとき、それは「行動的禁欲」と呼ばれる。この禁欲は、他のことをするひまがない、あるいはするということを考えもしないということで言えば、快楽を求めることがないので「禁欲」と呼んでもいいだろうと思う。しかし、この禁欲で大事なのは「行動的」という側面だ。あることをしない代わりに、そのエネルギーを他の面に全面的に注ぐことができるということが、資本主義にとって非常に重要だったという指摘がウェーバーが主張していることらしい。資本主義が生まれ、成長・発展するためには、労働こそが貴重で価値あるものであり、人生の大部分を労働することに注ぐことが出来る人間がたくさん生まれなければならない。労働が生きがいになり、価値あるものとして社会に通用していなければならない。それを保障するものが「プロテスタンティズムの倫理」になるのではないかと思う。このように考えると、ウェーバーの主張は論理的に理解できる。そして、日本社会を見てみると、かつての高度経済成長の時代は、確かに労働こそが男の生きがいという時代があったように感じる。それが、日本資本主義を支えていた精神的基礎だったのではないかという感じもする。日本には「プロテスタンティズムの倫理」はない。それでは、この考えはどこから生まれてきたものだろうか。それが山本氏の「日本学」が指摘するものなのだろう。山本氏の「日本学」が、論理的に整合性を持って理解できるものなら、その視点や発想はやはり優れたものだといえるだろう。それを補強するために、ご都合主義的に事実を持ってきたりする詭弁があったとしても、それは評価においては末梢的なものになるのではないかと思う。基本的な発想において、それが本質的に重要な部分を見ているのであるかということを考えて、山本氏の評価というものを考えてみたいものだと思う。
2007.05.12
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板倉聖宣さんは、『子どもの学力 教師の学力』という本で、「パラダイム理論」というものに触れている。板倉さんによれば、パラダイムというのは、という言葉で説明されている。これは、抽象された結論だけを語っているので、捨象された過程を知らなければ、この用語の本質的な意味を理解するのは難しいが、この用語をまったく知らない人は、まずはこのようなイメージからの理解を図ることになる。の概念については、「パラダイム 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」に詳しくかかれているが、そこでは「クーンの提出したこの概念は、本来は限定された専門分野において用いられることを想定していたにもかかわらず、時としてビジネス書にすら登場するほど一般的な言葉となった。そうした場合、最大公約数的に言うと、パラダイムは“時代の思考を決める大きな枠組み”などと解されていることが多いが、これは誤った解釈であり、そのような“大風呂敷を広げて”いる概念ではないことにまず注意しなければならない。こうした誤謬、また、パラダイム概念の発表とともにクーンが巻き込まれた激しい論争の位置付けを理解するためには、そこまでに至る前史と文脈をおさえておく必要がある。」と書かれている。の概念は、それを正確に知るには科学史などの知識を元にして、この概念が抽象されてきた過程を理解するということが必要で、それなしに、現実の現象にすぐに当てはめて解釈しようとすると、捨象されたものを含めてしまったり、抽象したものを捨てたりする間違いをするのではないかと思う。最初の理解の段階では、科学に対して、それも自然科学に対して考察することに限ったほうがいいのではないかと感じる。板倉さんは、というものについてここで書いている。天体の運動の捉え方について、長い間が人々の常識を占めていた。天体の運動を考察する上で、地球が中心にあり、太陽を始めとする天体が地球の周りを回っているという「考えの枠組み」がだ。実際にはこのパラダイムを揺るがすような事実はいくつか発見されている。惑星の運動などは、このでは十分整合的な説明が出来ないので「惑星」という「惑う星」と言われるようにもなったのだろうと思う。これは、後になってによって、あらゆる事実が整合的に説明されるようになるのだが、整合的でない事実が見つかっても、それによってすぐにパラダイムが変えられるということがなかった。にとって都合の悪い事実が発見されても、それを何とか解釈することによっては維持されるように工夫されてきた。コペルニクスの地動説は、理論としてはほぼ完璧であったにもかかわらず、その当時のパラダイムを変革することは出来なかった。後に、パラダイムがすっかり変わってから、その偉大な業績が評価されるということになった。そのパラダイムの変化が、「コペルニクス的転換」と呼ばれて、非常に大きなものであったと捉えられている。パラダイムという考えで非常に重要なのは、「新しい事実が発見されたからといって、科学者たちはその事実を元にすぐに古い理論を乗り越えることが出来ない」ということだというのを板倉さんは指摘している。思考の枠組みを変えるというのは、とても難しいことなのだ。だから、教育においても、「子どもたちに新しい事実を示しただけで、それまでも常識的直感的な考え方を覆すことが出来るのか」ということが重要な問題になる、ということも板倉さんは指摘している。板倉さんは、の問題に取り組んで、このパラダイムの変換がどのような段階を経て行われたかを考える中から、「真理(科学)はいかにして確立するか」を求めることが出来た。それが仮説実験の論理であり、これを応用したものが仮説実験授業ということになる。パラダイムという枠組みは、それまで発見された事実に対してはよく合致するような説明をしているのではないかと思う。だから、それは新しい事実に対しても、有効な枠組みになるのではないかと思って、ある種の前提として設定される。それはある種の先入観であり、物事を考える仮説として設定される。これを仮説として意識できていれば、それに反する事実が見つかったときに違う仮説を思いつくことが出来る。しかし、この仮説が真理にまで高まってしまうと、それはイデオロギーとして人間を支配してくる。人間の目には天が回っているように見えるので、天動説が正しいに決まっているというイデオロギーを持てば、それに反するような事実が見つかっても、天動説そのものを変えていこうとするのではなく、その解釈を工夫してつじつまを合わせようとしていくようになる。これがの問題としてあるということが、の概念として最も重要なものではないだろうか。パラダイムを乗り越えるには、それを仮説として意識できなければならない。イデオロギー的な真理だと思い込んではならない。そのような認識をもたらすために、板倉さんは、実験の前に仮説を闘わせるという「仮説実験の論理」を考案したのだと思う。実験前に仮説を闘わせることによって、そのパラダイムが、もしかしたら違うんじゃないかという気持ちを1%でも持つことが重要だというのだ。という概念が提出された当初は、それの支配がいかに強いものか、それから逃れることがいかに難しいかということが強調されたようだが、それを超える方法については発見されていなかったという。板倉さんの仮説実験の論理がそれをはじめて提出したと、板倉さん自身も語っているが、僕もそのとおりだと思う。板倉さんの次の指摘は、人々の考えが変わらないことの理解を深めることに役立つのではないかと思う。「人々は、「自分たちの持っている常識的直感的な考え方は疑い得ない。百パーセント確かだ」と思っているときは、公平な立場から見てそれがということを示す事実を示されても、そのことだけで自分の考えを変えることが出来ないのです。そんなときには頭が空白になって、ただただ「これは何かの間違いだ」と思うだけなのです。そこで、その後さらにいくつかの実験問題を繰り返すことによって、「従来の考え方では正しいと思えない予想・仮説にも、1%くらいは正しい可能性がある」と認めることが出来るようになって、その考えを改めさせることが出来るのです。」言語ゲーム的に、社会で流通しているということだけを根拠に信じられている「真理もどき」が、実は間違っているという事実が発見されても、その言語ゲーム的真理があまりにも深く信じられているときは、事実のほうを人々は否定したくなる。それは、事実を認めたときの自分の混乱に耐えられないからだ。宮台氏ならそれを「アノミー」と呼ぶのかもしれない。板倉さんは、社会主義国家の崩壊によって「これで社会主義の間違いは誰の目にも明らかになった」という例を挙げているが、「それまで「社会主義が正しいことは疑い得ない」と考えていた人々は、そうは考えられませんでした」と指摘している。これは、「社会主義の間違い」ではなく、社会主義の正しさをうまく展開できなかった、「社会主義国家の指導者」の間違いだと解釈できる。このような解釈での維持を図った人々は、この実験結果からだけでは、を変えることは出来なかっただろうと思う。板倉さんの次の指摘も、深い教訓として心にとどめておきたいことだ。「「1%でも可能性がある」と思う人々は、その1%の可能性が事実として現れると、「やっぱり」と思うことが出来るのです。0と1%の差はそれほど大きいのです。仮説実験授業がほとんど一切の押し付けを排除することが出来たのは、その違いに着目して、科学上の最も基本的な概念を教えるのに、一つの実験問題だけでなく、一連の問題を系統的に取り上げる手順を取ってきたことによるのです。」イデオロギーに支配されていると、1%の異論を認めることが出来ずに、反論の成立の可能性を0にしてしまう。ポパーの反証可能性の理論を適用すれば、このような主張は科学にはなり得ないことになるだろう。科学にはなりえないということは、それは客観的な視点での真理ではなく、利害対立のあるときの、ある利益を代表する願望に過ぎないということになる。これは、ある種の運動をするときに、指導的立場にいる人間が忘れてはならないことではないかと思う。利害対立から言って、異論を肯定することは出来ないということがあるだろうが、客観的な理論として考えた場合、その異論の可能性が0であるという判断をしてはならないだろう。主観的には、利害関係から言って異論を否定したとしても、それは客観的判断ではないということを自覚していなければならない。運動において、長期的な戦略を立てるには、客観的に正しい事柄に沿ったほうがよい結果を生むと思う。短期的には、客観的な判断よりも、利害を第一に判断してもいい場合も出てくるだろう。利害が一致する人が圧倒的大多数を占めるといえるときだ。そのときは、民主主義制度を利用すれば、多数の利益を実現する運動が出来るだろう。だが、そのときも、その利益の実現が、長期的に見れば客観的に正しいかどうかは、異論の可能性があるということを常に忘れてはいけないだろう。指導者であれば、そのような長期的な見通しをいつも考えて、それを間違えたときには、修正が出来るような手立てをうっておかなければならないだろう。そうでなければ、パラダイムにとらわれて、イデオロギー的な妄想による失敗をするだろう。最近の問題で言えば、憲法9条が「世界平和」に貢献したというのは、間違ったパラダイムではないかと感じている。それが貢献したのは、日本が戦争を起こさなくてすんだという、日本人にとっての利益に貢献したのだと理解したほうがいいのではないかと思っている。憲法9条の主張は正しいに決まっているのではなく、ある条件のもとで日本に利益をもたらしたと理解したほうがいいのではないかと思う。もし、この主張を客観的に正しいものと受け取ったら、社会主義を疑うことが出来なかったものと同じ失敗をするのではないだろうか。憲法9条も一つのパラダイムであり、状況や視点が違えば変えなくてはならなくなるものではないだろうか。その変える可能性を0にしてはならないのだと思う。具体的にはどのようなときに変える可能性が生じるのかを、憲法9条を守ろうとする人々も考えなければならないのではないかと思う。
2007.05.11
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仮説実験の論理とは、仮説が科学になるという飛躍をもたらす論理のことである。僕はこの論理を板倉聖宣さんを通じて知った。科学というのは、一般的・抽象的な意味での真理のことを指すのだが、これは全称命題の形を取る。したがって厳密に考えれば、それが現実に成立することはあり得ないと考えられる。だから、科学というのはどこまでいっても仮説に過ぎないもので、真理とは呼べないという主張も出てくる。だが、このような認識で科学を捉えてしまうと、例外的な事実が一つ見つかっただけで科学の信頼性は失われてしまう。もし科学が語る命題に反するような事実が見つかったとしても、それが捨象と抽象を経て得られた命題からは例外的なものだと判断できれば、例外であるがゆえに捨象できるはずだ。そうすれば、その事実は科学を否定するものではなく、科学の適用の限界を知らせるものとして役立てることが出来る。仮説を科学として理解するというのは、論理的には飛躍が存在する。現実の世界というのはすべてを把握することは出来ない。いつでも知られない側面・未知の側面というものが存在しうる。新たな発見がなされる可能性があるという点で、現実は無限に多様なのである。だから、その現実に対してベタに「すべて」を主張することは間違いになる。「すべて」を確かめる手段がないからだ。では、全称命題としての科学は何故に真理だと主張されるのだろうか。それが成立しない可能性があると理解されているのに、仮説ではなく真理だといわれる理由はどこにあるのだろうか。それは科学的命題は、一般化・抽象化の過程を経ているからである。現実をベタに表現したものではないのだ。エンゲルスの『反デューリング論』にも書かれている有名な「ボイルの法則」という科学的命題がある。これは温度が一定のときの、気体の圧力と体積の関係を語った命題になっている。「ボイルの法則について」というページによれば、「シリンダーの中に空気をいれ、栓をします。空気が漏れないように栓を押していくと、シリンダー内の空気の体積は小さくなります。これは、まるでバネのように押せば縮み、離すと元に戻るのです。どうしてでしょうか。ボイルは、空気は分子とすき間で構成されていて、押せばそのすき間が狭くなると考えました。そして、すき間が半分になれば分子の衝突回数も2倍になり、衝突によって圧力が大きくなると考えました。つまり、ボイルによるとこの時の気体の圧力と体積の間には反比例の関係があると結論付けました。これを、ボイルの法則といいます。」と説明されている。ボイルの法則には、温度が一定という前提がある。温度が一定ということの中には、気体中の分子のエネルギーが一定で変わらないという前提が含まれている。また、気体は個体や液体のようにその構成分子がくっつきあっているのではなく、自由に空中を運動していると考えられている。そして、圧力というのは、この自由に運動している気体分子の衝突によって生じる力だと解釈されている。これはランダムに確率的に起こる現象であり、個々の分子の運動は不定だが、全体としての気体の圧力としては安定したものとして観測される。この前提の中に、すでにいくつもの捨象と抽象が含まれている。そして、この捨象と抽象を経て捉えられた気体という対象は、この前提の下に論理を適用すれば、「すき間が半分になれば分子の衝突回数も2倍になり、衝突によって圧力が大きくなると」考えられる。これは論理によって導かれた結論なので個々の事象に制限されることなく、全称命題として成立するものになる。科学としての命題における、全称命題の側面は、このように抽象化を経て得られた対象に対する全称命題なのである。だから、この全称命題は、抽象的な対象に限って主張する範囲では、論理的に正しい命題として真理だということを主張できる。これは数学とまったく同じである。数学は、その対象が抽象的なものであると最初から断っているので、現実とはまったく関係なく全称命題としてその真理性を、論理の範囲だけで主張できる。科学的真理としての科学の命題は、数学のように論理的な意味での真理なのである。しかし、これが自然科学と呼ばれる場合は、現実の自然に対してもその真理が妥当に適用できるという主張を含んでいる。自然科学においては、論理と自然との結びつきにおいて、それが妥当であることが言えなければ、それは自然科学としての真理だという主張は出来ない。論理の範囲だけでの真理性を考えるなら、それは自然科学ではなく論理学で判断すればいい。だが自然科学だという主張をするには、仮説実験の論理で、それが現実の自然を対象にしても成立するという論理の飛躍が必要なのである。抽象的な論理的命題が、実験によって現実にも成立することを言うというのは、個別的な確認の範囲を出ないのであれば、いつまでも仮説の範囲にとどまる。ある気体に対してボイルの法則が確かめられたという実験がなされたとしよう。このとき、この実験から直ちに「すべての気体」に対してボイルの法則が成り立つということは言えない。その気体という特称命題に関しては成立したことが確かめられたのだが、個別的な事実だけでは全体に関する言明は主張できない。この飛躍をもたらすのが、「未知なる対象」というものだ。「未知なる対象」に対する実験でも、その命題が成り立つならば、「未知」であるという属性が「任意性」を保証し、それが「すべて」という全称命題への飛躍をもたらす。ボイルの法則の証明には、その法則が成り立つかどうかまだ確かめられていない未知なる気体に対して、温度が一定のときに体積と圧力が反比例するかということを実験的に確かめるということが、仮説実験の論理によって科学であるかどうかを確定することになる。そして、未知なる気体に対して、常にボイルの法則が成り立つならば、ボイルの法則は、ある段階で仮説から科学へと飛躍する。未知なる気体は、いつでも見つかる可能性があるから、それをすべて確かめることは出来ない。だから、それをいくつ確認すれば、「すべて」と言ってもいいかは数量的には確定できないが、ある程度確認すれば十分だと言えるということは確かだろうと思う。この科学的命題は抽象的なものだから、現実には例外的なものが存在しうる。それは、精度が高すぎる実験を行うときに生じる誤差の問題などに現れる。ある事象が反比例をするというような単純な法則として現れるのは、誤差を無視しうる測定をするときである。もし、無視しうる範囲を超えて精密に測定できてしまったりすると、正確には反比例という結果は出なくなる。「ボイルの法則 典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」では、「ただし実在気体の体積とこの法則で計算される体積との間にはわずかながら差ができる。これは理想気体ではその分子自身の大きさや分子間力がないものとして考えているが、実在気体ではそれらの影響が完全には無視できないからである。」と記述されている。これは、分子自身の大きさや分子間力などというものが影響を与えるほど精密な測定が出来てしまうと、それを捨象して成立している科学的命題が、その捨象したものが影響を与えるという例外によって結果がずれてしまうということが起こる。だが、これはそのような捨象が出来るような測定をするならば無視できるので、これは例外的なものと理解することが出来る。科学を現実に適用するときは、このように例外を例外として正しく認識することが必要だ。捨象したものが影響してくるような条件があれば、それは例外として判断できるのである。ウィキペディアでは、「またボイルの法則では、気体は温度一定で圧力を上げればいくらでも体積が小さくなることを示しているが、実際にはそのようなことはありえない。なぜならある程度の圧力を超えると気体は液化(もしくは昇華して固化)し始め、さらに圧力を増加させると最後には全て液体(または固体)になってしまい、もはや気体の性質をもたないからである。」ということも記述されている。これは例外として排除できる現象ではない。分子自身の大きさや分子間力については、対象が気体であるから、気体に関する法則という点で例外として扱うという判断が出来た。しかし、液化する状況においては、その対象はもはや気体ではないのだから、それを気体の法則として記述することは出来ない。そこではもはや捨象した一般的な命題が成立するという状況ではないのだ。これは、気体の法則であるボイルの法則の限界を示したものとして理解すべきものだろう。このような状況ではボイルの法則は成立しないのである。だが、これは対象がボイルの法則で考察すべきものではないということを示しているのであって、ボイルの法則を否定しているのではない。ボイルの法則はあくまでも気体の法則として科学的命題として成立するのである。それが、エンゲルスが『反デューリング論』で語ったことなのだ。自然科学においては例外の存在はきわめて低い確率で生じる。しかし、社会科学においては、例外が生じる確率は高い。それは、社会科学の対象は人間行動であり、人間には意志の自由があるからだ。社会科学の場合は、どの程度を例外だと考え、どの程度当てはまれば科学として認めるかという判断は重要になるだろう。板倉聖宣さんは、『子どもの学力 教師の学力』という本で、仮説実験授業が子どもたちに歓迎されるということを社会科学的真理だという判断をしている。それは、仮説実験授業の後に子どもたちに感想文を書いてもらってそう判断しているのだが、「仮説実験授業がよかった」という感想文だけを集めて、その主張をしているのではない。感想文を実際に読む前に、つまりまだそれが「未知」な段階であるときに、「子どもたちに歓迎される」という仮説が、どの程度確認できるかという予想を持ってそれを公表するという実験を行って、その結果によって科学だという主張をする。未知である段階で、予想を持って結果を問い掛けるということが、仮説実験の論理における実験という考え方なのである。板倉さんは、この社会科学における妥当性を、90%以上の確立というものにおいている。9割主義と呼んでいるものだ。仮説実験授業を知らない子どもたちが、それを歓迎するという感想を書く確率が90%を超えていれば、それは一般化して主張できる社会科学的真理だと捉えるのだ。もし歓迎されないようなときがあっても、それが10%以下であれば、例外的なものと捉える。そして、なぜ例外が生じたかが正しく理解できれば、それは仮説実験授業の限界を知らせるものとして、貴重な知識になると判断するのである。僕は、この科学の捉え方に大いに共感するものだ。
2007.05.09
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ジョン・テイラー・ガットさんは、義務教育学校の欠陥を鋭く指摘し、それ以上ないくらいの悪口でそれを批判している。しかし、ガットさんは最優秀教師として表彰されてもいるのである。日本的な感覚では、たとえ欠陥がある制度であっても、その制度の下で最優秀だと評価されるなら、ある意味ではその精度の維持に貢献しているのではないかとも考えられる。口を極めて学校の悪口を言っているガットさんは、その欠陥に協力したという悔恨からこのような批判を展開しているのだろうか。しかしそれは考えにくい。もしガットさんが、その制度に貢献したということで高く評価されたのであれば、それを批判している姿勢から言って、その評価をそのまま受け取るのは誠実さに欠けることになるだろう。表彰されたとしてもむしろ返上することが正しい態度になる。また、そのような人間に対して、もし制度への貢献を宣伝したいのなら、始めから表彰などの対象にしないだろう。『バカを作る学校』には「私はこうして教師になった」とガットさんが語る章がある。これを読むと、ガットさんは教師としては、ガットさんが批判する制度をそのまま維持するために貢献したのではないことがよく分かる。むしろその制度がおかしいことを告発するような仕事を数多くこなしている。このような面が評価されて最優秀教師として表彰されたということは、アメリカという国の懐の大きさと社会に通用する論理性の健全さを物語るものだろう。僕も教員になってすぐに、ここは灰谷健次郎や林竹二の理想が実現する場所ではないということを悟った。それは僕の非力というものも原因していたのだが、制度的にこれをひっくり返すのは無理だという絶望感もあった。このまま学校にとどまって仕事を続ければ、もし有能な教員として生き残っていけば、制度の欠陥の維持拡大に貢献するような教員になるだろうと思った。制度の欠陥に貢献したくなければ有能な教員であってはならないとも思った。無能な教員ですごす覚悟をしなければならないと思った。しかし、1年目にはあれだけ苦労した仕事が、2年目はかなり楽になっていた。3年もするころには、このまま何年でも仕事が続けられるのではないかという感覚さえあった。同期に教員になった人間で、僕よりも志に忠実な人間は一番早いやつでは半年で学校現場を去っていった。僕は、意に反して有能になりつつあると感じていた。少なくとも仕事にならないほど無能な教員であることには耐えられなくなっていると感じていた。そこで、無能ではなくても自分の評価と生徒の評価が重なってくれる学校はないかと思って探したのが養護学校だった。ここでは、僕はことさら制度の欠陥を意識することなく、人間としてほぼ常識的なふるまいをしていれば生徒に受け入れられるという経験をした。僕は特別に優秀な養護学校教員ではなかったけれど、ひどい教員でもなかったので子どもたちに嫌われずにすんだ。そして、養護学校で嫌われないですむというのは、それは子どもたちに好いてもらえるということでもある。僕はここで幸福な教員生活を送れた。自分の仕事を喜んでくれる人間(生徒)がいるということはとても幸せなことだ。夜間中学でも僕はごく普通の教員だ。無能ではないが特別優れているわけではない。ごく普通に仕事をし、常識さえわきまえていれば生徒は教師として尊敬してくれる。こんなありがたい学校はない。制度の維持、あるいは抵抗に多大なエネルギーを使わなければならない普通の学校と比べればうんと楽な仕事が出来る職場だ。しかし、学校は本来そのような場であるべきではないかと思う。特別有能な教員でなければ勤まらないところであっては、それは大衆教育の場ではないのだ。そこにも制度の欠陥が現れていると思う。僕は青年期には人間嫌いのところがあったので、コミュニケーション能力という点で劣っていると感じていた。だから、教員としては必ずしも有能ではないと感じていた。学問的な思考力については自信があったものの、臨機応変な人間的付き合いには失敗することが多かった。今教員になる若い人たちは、僕よりもはるかにコミュニケーション能力があり、教員の資質としては高い人がいるだろうと思う。しかし、その人たちが、ガットさんのように、本来の教育の世界で優秀さを認められて評価されるということが今の学校制度では難しいのではないかと思う。そのコミュニケーション能力の大部分は制度の欠陥の維持に使われているのではないだろうか。どうすればガットさんのような能力が高く評価されるようになるだろうか。アメリカと日本の社会の違いが大きく反映しているのだと思うが、教育本来の意味からいえば、ガットさんがしてきたことのほうが価値が高いというのは、論理的には明らかなような気がするのだが。教育というのは、資本主義の拡大発展に貢献することが目的ではなく、教育される生徒自身が成長したと感じられることが本来の目的だと考えれば、ガットさんがした次のような仕事は一つの感動的なエピソードとして理解できるだろう。ガットさんは代用教員としての仕事からスタートしたようなのだが、「教職員のほぼ100%が非ヒスパニック系であるのに対し、生徒の99%はヒスパニック系だった」という小学校である女生徒に出会った。「そのクラスは特にレベルが低く、数語以上の文をすんなり読める生徒はひとりもいなかった」らしい。「しかし、ミラグロスという女子生徒だけは、選集を最後まで間違えずに読んだ」という。アメリカでは生徒のレベルに応じてクラス分けがされているらしく、ガットさんは、この生徒がそのクラスにいるのはふさわしくないと思ったようだ。そこで校長にそのことを告げたのだが、校長は、代用教員が学校の方針に口を出すなというようなことを言って、専門家でもないガットさんの判断を信用しなかった。そこでガットさんは、公平を来たすためにミラグロスをテストしてくれと頼んだ。ガットさんの判断を信用しないのはかまわないが、実際に自分の目で見て能力を判断して、確かに駄目だとなったら仕方がないが、それもせずに判断を下すのは公平ではないと言ったのだった。これはごく普通の常識的な対応だろうと思う。ガットさんが特に優れた教師だったからこのような対応をしたというのではなく、普通に民主主義的な平等ということを考えれば、このような対応をすることが常識ではないかと思う。その意味では、ガットさんは特別優れた資質をもった教師ということではなかったのだと思う。むしろ経験の中で資質を膨らませていったと考えたほうがいいのではないかと思う。ガットさんのもっと古いエピソードでは、混乱した教室をうまく静めることが出来ない若いころの姿も語られている。つまり、その時点ではかなり無能な教師であったことも語られている。だが、ガットさんの教師としてのセンスはかなり優れていたと感じる部分もかかれている。それは、校長からこのように言われたときに、ガットさんが「自分でも意外だったが、、私は自分にミラグロスを守る義務があるように感じた」と書いてあるところだ。このようなセンスを持っている教師は、経験から学ぶことが出来、経験をつむことによって教育本来の意味で有能だと評価されるような教師に育っていくだろう。ミラグロスは見事にテストをクリアして上級のクラスに移っていったようだ。ガットさんがミラグロスにしてやったのはこれだけのことだった。上級のクラスに移ったので、それ以後はガットさんの手を離れて他の教師の教育にゆだねられることになった。校長からは、少々意地の悪い目で見られてうらまれたようだ。しかしガットさんは、ミラグロスからある一枚のカードをもらったことで、気分の悪いことのすべては帳消しになった。そのカードには「先生のような教師は他にいません。あなたの生徒、ミラグロスより」と書かれていたそうだ。「この飾らない言葉のおかげで、教師は私の一生の仕事になった」とガットさんは語っている。おそらくそのような経験をした教師は、教師という仕事がいかに幸せなものかを味わうことが出来るだろう。感動的なエピソードだと思う。リチャード・ドレイファス主演の「陽の当たる教室」という映画でも、本当は作曲家として生活したかった主人公が、生活費を得るために就いた音楽教師という仕事で、生徒からこのような心からの感謝と尊敬をささげられる場面で、「片手間に始めた教師という仕事が私の一生の仕事になった」と語る感動的な場面がある。アメリカという国のすごさは、このような感動を高く評価できる国民性にあると僕は思う。このミラグロスは、後にニューヨーク州教育課から特別教師賞を授与されてガットさんの記憶を呼び起こすことになる。ガットさんは、このときの喜びを「ああ、ミラグロス、私は君にとってのモノンガヒーラになれたのだろうか。いずれにせよ、君のような教師は他にいない」と語っている。これもすばらしく感動的な表現だ。モノンガヒーラというのは、ガットさんの故郷で、ガットさんが今日ある基礎を築いてくれたところ・ものとして感謝をささげている象徴のことだ。モノンガヒーラという象徴を持っている教師がそれを伝えることで、教育の持っている本来大切なものが受け継がれていくのではないかと思う。ガットさんからミラグロスへとそれは着実に伝わったのではないかと思う。かつてのマル激で、ケン・ジョセフさんが、ボランティア活動で最も大事なものは「常識を届ける」ということだと語っていた。何か物質的なものを届けるということは、第二義的な問題で、混乱した現場において、エゴが剥き出しになるような状況が生まれかねないとき、常識的な判断で一つずつものをこなしていくような冷静さを届けるのが本来のボランティア活動だと語っていた。これは眼から鱗が落ちるようなすばらしい指摘だった。何かいいことをしなければボランティア活動ではないということではないのだ。平凡なごく当たり前のことが、冷静に行われることこそがすばらしいのだという指摘は大事なことだと思った。ガットさんの教師としての活動も同じだと思う。欠陥を多く含んだ学校という現場で、常識を取り戻し、冷静にごくあたりまえの事をすることこそが最も有能な教師なのだと思う。そして、それがまったく困難な状況に陥っているのが現在の学校なのだろう。我々は有能さというのをちょっと間違えてしまったのではないかと思う。自分にとってのモノンガヒーラを取り戻さねばならないのではないかと思う。
2007.05.08
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ジョン・テイラー・ガットさんは、『バカをつくる学校』の中で「アメリカの伝統的な教育制度には、建国当初から次のような明確な目的があった」と語って、次の3つの目的を挙げている。1 善良な人間を育てること2 善良な市民を育てること3 生徒一人ひとりの能力を最大限に伸ばすことこれはまことに理想的な目的で、1と2は社会のために有用な教育という面での目的であり、3は個人のために有用な教育という面を語っている。個人と社会の両方にとって利益となる、調和的な存在となるような理想的な目的である。この目的が本当に実現されるような学校ならば、学校も混乱することなく、社会の腐敗堕落も招かなかっただろう。しかし、「1890年以降に導入された新しい集団教育には、さらに第四の目的が加わり、先の3つの目的を脇へ追いやった」とジョン・テイラー・ガットさんは語る。「この第四の目的とは、ドイツの学校のように、子どもたちを企業や政府のために奉仕させるというものだった」という。1から3までの3つの目的が、社会と個人の利益を調和させるものだったのに、この第四の目的は、企業や政府という社会の一部の特殊な利益のために働くようなものになっている。これは民主主義としては問題があるものの、社会を支配している権力を握っている人間たちがそう望んだものになっているために、特殊利益が実現するような状況が生まれてしまっている。この目的の達成のためには「マインドコントロールによって、子どもたちの購買意欲を刺激し、学校を消費拡大のための精神的訓練の場にする」という方法が取られている。これがあるために、実際には社会と個人の利益には反する面があるにもかかわらず、この第四の目的は、多くの大衆の希望を集めることが出来、民主主義的な手続きによって正当化されていってしまったのだろう。大衆は学校教育によってマインドコントロールされているため、大衆の中からこの学校教育に反対し、建設的な改革案が生まれてくるのを期待することが難しい。支配する階級は、かなり安心してこの学校教育の成果を享受できただろう。しかし、資本主義は無限に発展していくものではないということが、この第四の目的の問題を浮かび上がらせてきたのではないかと思う。資本主義には安定成長というのはあり得ないそうだ。商品の大量生産が行き渡って飽和状態になってしまえば、その産業はもはや成長することが出来ない。そうなると、今まで作った分で生き残っていけるということはなく、肥大化した生産施設を維持することが出来なくなり、そうなれば当然安い製品を大量に作るということも出来なくなり利益率も下がる。資本主義的大量生産は、製品がまだ市場に少ない間は高度成長を続けるが、それが市場に行き渡ればその産業が衰退して新しい産業と入れ替わるということがなければならない。だがそれはそう簡単なことではない。資本主義というのは、それが発展した頂点で衰退が始まると理解しなければならないのだ。だが、頭のいい資本主義者は、この衰退を避ける手立てを見つけた。それは、必要のない製品を、購買意欲を刺激することで大量に売りさばくという方法だ。まだ使える製品を捨てて、新しい製品に飛びつくような付加価値(これはたいていは本質とは関係ない、使用価値とは無関係な価値であることが多い)をつけて新しい商品を送り出すということを考案した。これによって資本主義は衰退を免れることが出来た。もし大衆が自分の頭でものを考える賢い人間ばかりだったら、その付加価値が本当に自分に必要かどうかを考えて、すぐにそれに飛びつくようなことはないだろう。賢い消費者は、資本主義の生き残りにとっては邪魔な存在となる。資本主義が生き残るには、ぜひとも大衆をバカにするような学校制度が必要だったわけだ。しかしこれは諸刃の剣としてわれわれの社会に影響を与えたようだ。確かに資本主義は永遠の発展を約束したかのように豪華絢爛な豊かさをもたらした。しかし、この豊かさは、無駄な商品を作りつづけるということをしなければならない豊かさだ。これは、地球環境に対して予想していなかった負荷をかけることになる。昨今の温暖化などは明らかにこの影響が出ているものだろうと思う。資本主義を発展させつづけることが本当に正しいことかどうか疑問が提出される時代になった。だがそのときに、自分の頭でものを考える大衆が少なければ、民主主義が行き渡った資本主義社会は、その歯止めをかける意見というものが多数派を占める可能性を低くしてしまった。衆愚政治がほぼ完成した社会において、民主主義の弊害が最も大きくなって露呈しているのが現在のアメリカや日本の状況なのではないだろうか。ジョン・テイラー・ガットさんは、マインドコントロールの具体的な方法として「学校はまず退屈な場所でなければならなかった」と語っている。これは、学校制度を作った人々がどれほど意図的にそうしようと思っていたのかは分からないが、無駄な知識を詰め込むという教育をすれば、それが退屈なものになるのは避けられないだろう。そして、退屈になった学校は、そこに適応すればするほど生徒はバカになっていくということに役立った。板倉さんが提唱した仮説実験授業は、楽しい授業の実現ということが一番の目的だった。仮説実験授業を考えたのも、それをすれば生徒にとって楽しい授業が実現するからだった。だから、必ずしも仮説実験授業の範疇に入るものではなくても、楽しい授業が実現するものであればそれを広めることに努力したものだった。もの作りの授業などはそういうものになるだろう。楽しい授業をすれば生徒は自分の頭でものを考えるようになる。単に知識を覚えるよりもそのほうが自分が賢くなることを発見するだろう。だが、道徳的にまじめな教員は、自分の頭でものを考えるよりも、忠実に与えられた知識を覚えることを要求してきたのではないだろうか。まじめな教員にとってそこには悪意は存在していないものの、学校を退屈にするという第四の目的にとっては有効な方法になることに荷担してきたのではないかと思う。勉強は楽しいものだというイメージを抱いて学校生活をしてきた人はどれくらいいるだろうか。勉強は我慢してやるものであり、学校が終わればそれから解放されるので、学校にいる間は忍耐してそれをするものと感じていた人が多いのではないだろうか。そして、忍耐してそれをしていれば、成績が上がることによって得る利益があると教えられたのではないだろうか。僕にとっては、勉強というのは数学の勉強以外には考えられなかった。それ以外のものは勉強ではないのだ。それはつまらなかったからであり、単に知識を詰め込むということは無駄なことだという感覚しか抱いていなかった。だから、僕にとって勉強は楽しいものだった。言葉を変えれば、楽しいこと以外は勉強しなかったといっていいだろう。僕は勉強することを嫌いになることはなかった。数学を考えることは、漫画を読むよりも面白かったのだ。僕が三浦つとむさんの本に出会って、すぐに三浦さんを好きになったのは、三浦さんが勉強の楽しさを語っていたからだ。三浦さんは独学の人だったが、なぜ独学が続けられたかといえば勉強が楽しかったからだという。勉強することによって今まで分からなかったことが分かるようになり、自分が成長したことが感じられ、世界が広がったことを感じることが出来るから勉強は楽しいのだと語っていた。今の学校教育は勉強を嫌わせるために役立つ。それは、自分の頭でものを考えない人間を育てるには最も有効な方法だ。だがそれは学校優等生にはわからない。学校優等生は、そのような勉強の競争の中で勝ち抜いてきた人間だから、その欠陥を理解することは、ある意味では自分の尊厳の基盤を揺るがすことになるからだ。中途半端な学校優等生が多い教員の世界では、退屈な学校が悪いという主張が多数派を占めることはかなり難しいだろう。退屈であろうとなんだろうと、勉強するのが生徒の勤めだという思考をするものが多いのではないかと思う。それが民主主義社会の欠陥を助長することにつながるという自覚を持たなければならないと思う。学校教育が画一的な教育内容をもっているということの理由も、ジョン・テイラー・ガットさんは明快に論じている。それは、人間を規格化することを目的にし、「規格化された人々は数学的な公式によって厳密な予測が可能だからだ」と喝破する。規格化するということは、個性を殺し、一般的な性質を持った消費者として抽象できることを意味するのだ。画一化された同じ内容を教育するということは、平等主義の立場からは肯定される。すべての子どもたちが同じことを学ぶなら、少なくともその点では差別はなく、自らの努力によって自己責任で成果を見出すことが出来ると考えられるわけだ。しかし、これは、誰もがそれを身につけることが出来るという基礎段階に限って言えることであり、個性が分かれて勉強に差が出てくる段階でもなお同じ内容の学習を押し付けるなら、それは悪平等になってしまう。形式的に平等にすることが結果的には不当な差別に結びつくというパラドックスがここにはある。学校において子どもたちを「人的資源」という呼び方をする人たちもいるが、このような呼び方の中には、上に語ったような抽象的な規格された人間として子どもたちを扱おうという意図がうかがえる。学校教育の弊害は、ジョン・テイラー・ガットさんが語るように、それが資本主義に奉仕する人間を作り出そうと意図したときから生じているのだろうと思う。しかし、その弊害がこれほどひどい形で目に見えるようになったのは最近のことではないかと思う。以前は、弊害を持っていたとしても、完全な管理が出来なかったためにその網の目から落ちこぼれた人間は、学校の害に影響されずに何とか学校生活を切り抜けることが出来たのではないかと思う。しかし、今ではそこから逃れることが不可能なくらいに管理する技術が発達してしまった。学校を改革するには、もはや制度を根本的に改革する以外にはないということに多くの人が気づいてほしいと思う。制度を改革するには、個人ではなんともしがたいからだ。優れた文部官僚だった寺脇研さんが、ゆとり教育の導入によって学校制度の改革に取り組んだが、寺脇さん個人の努力だけではそれは成功しなかった。制度を支える人々がゆとり教育本来の目的などの理解が浅く、制度としての変革に結びつかなかったからだ。制度の改革をするには、多くの人が自分の頭で考える賢い人間として活動しなければならない。しかし、制度を改革しなければそういう人間が育たないという、鶏と卵のようなパラドックス的な面がある。大人こそが、自らの頭で考えることの楽しさに気づき、目から鱗が落ちるような経験がいかに楽しいものであるかを体験して、子どもの教育を変えることを考えてほしいものだと思う。
2007.05.07
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仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、『子どもの学力 教師の学力』(仮説社)の中で次のようなことを書いている。「私はもともと自然科学のほうを中心にやっておりますが、先ほど言いましたように、自然科学では「どうしても子どもたちが知らなければいけない」ということは、全然ないといっていいほどないと思うんです。でも、社会的認識のほうは、自分の生き方に直接跳ね返ってきますからそう簡単にいかないところがあります。自然科学者になるとか社会科学者になるとかは関係なく、自分たちの権利とか利害とかは、「読み・書き・そろばん」と同じように必要なところがあるわけです。 仁徳天皇なんかの知識は要らないかもしれないけれども、憲法とか、その他の諸法律については必要かもしれない。いや、私はそういう個別な知識よりも、「社会というものが人間の善意・悪意を超えて、そういうものと関係なく法則的に動いているものだ、人間が善意を持って何かをやればよい結果になり、悪意を持ってやれば悪い結果になるというふうな単純なものではなくて、良かれと思っても悪いことになるということが少なからずある。悪しかれと思っても良くなることもある」というふうな社会科学的な認識を持つことによって、私たちははじめて社会科学を本気で学ばざるを得なくなると思うんです。私はそっちのほうが気になる。」善意の結果はよいはずだと思うのは、希望を事実だと思ってしまうような希望的判断だと思う。希望と関係なく、結果として現れた事実のみを見て、客観的にその評価が出来なければ科学的とは言えない。科学を学ぶときに、大切な知識というものもあるだろうが、基本的にはこのようなものの見方こそが最も大事なものではないかと思う。似非科学というものを考えるときに、わざわざポパーの理論を持ち出すこともなく、このものの見方さえあれば、たいていの似非科学は見破ることが出来る。まだ科学が未発達のころには、「昔は「こうあってほしい」とお祈りすると何かうまくいくという考えがありました」と板倉さんは書いている。これは、希望を事実だと思っているわけで、科学的な真理ではない。だから、そのようなものは、この時点ですでに科学ではないという取扱いが必要だろう。そして、科学ではない以上、常に正しいという主張は出来ず、いくらでも間違っている可能性があると理解しなければならない。板倉さんは、「今でも家建てるときにオハライなんかしていますね」と語り、オハライをすればうまくいくという希望的判断について、そう思いたくなる原因を考えている。それは、「万一オハライをしないで工事がうまくいかなかったらたいへんだ」と思ってしまうのでしょう」と言っている。オハライに効き目があるとはそんなに信じていなくても、もしうまくいかなかった場合に、それを納得できるかどうかが心配でオハライをしてしまうという心理が語られている。実際には、うまくいかなかったときに客観的に正しい原因を突き止めることが出来れば、その失敗の責任を問うべき相手を見つけることができるようになるだろう。また、その責任が自分に帰するのなら、次は決して失敗しないようにという深い反省が出来るようになるだろうと思う。オハライというような迷信に頼らないほうが結果的には賢くなるはずなのだが、失敗そのものが怖くて不安なのでお払いをしたくなってしまうのだろうと思う。だが、オハライに頼る心情は、客観的判断という点で邪魔をするに違いないと思う。希望的判断としては、オハライをしたのだから希望がかなえられないのはおかしいという、希望の持続を望む気持ちが生まれてくるだろうと思う。そうなれば、失敗を失敗として正しく認識することが出来なくなる。科学的認識が、人間のこのような主観とは関係なく成立するという客観的なものだという理解は、現実の正しい捉え方にとって必要不可欠なものとなるだろう。主観は、あるときは党派性やイデオロギーという形を取って個人を規定してくる。それが希望的判断と結びついてくれば、個人が認識を間違えるということだけでなく、社会のある集団が間違った認識を持つことにつながる。これが言語ゲーム的な、間違いであるにもかかわらず真理として通用してしまう言説を生み出すのではないかと思う。希望的判断からの間違いが生み出す弊害は、教育の現場では深刻な形であらわれることがある。板倉さんの次の指摘は、教育に携わる人間は深く考える必要があるだろう。「社会のことに関しては、多くの人たちは道徳主義的にものを判断します。社会的な問題についての善意というものに甘い考え方をするわけです。「まずい結果になったけれども、私は善意だったんだから何もやましくはない」という言い方が通用する。学校の先生方は「私は子どもたちのために一生懸命やっているのだからやましいことはない」と思ったりする。しかし、それは大間違いです。学問なんて全然したことがない人はそんなふうに甘ったれてもいいかもしれません。でも、子ども自身がちゃんと伸びなければ、教える側に善意があればあるほど子どもは傷ついてしまいます。例えば「お前!こんなこと出来ないのか。二次方程式も出来ないのか。二次方程式が出来なければ人間のくずだぞ」とカッカして、先生が善意を持って一生懸命教える。ところが、二次方程式がどれほど大事かなんて全然根拠がなくて「何となく世間で言われてるから自分もそう思う」程度のはずなんです。それなのに、「あの先生があんなに夢中で教えて、かつ、自分はついていけなかった」となったら、実に悲惨ではなかろうか、と私は思うんです。」善意があればどのような行為も正しくなるのではない。その行為に、客観的に正しさがあると考えられるときに、善意を持って行動することが報われる可能性があると理解しなければならない。仮説実験授業は、授業のメカニズムを解明して、その方法を使えば子どもたちがその授業を楽しむことが出来、しかも自分たちが成長したということを感じることが出来ることを客観的に明らかにした。その客観的な事実があるからこそ、子どもたちを成長させたいという善意が報われる授業を実践することが出来る。このような方法なしに、子どもを成長させたいという願いだけで、良かれと思って試行錯誤的な実践をしても、結果的に子どもを成長させられるかどうかは分からない。試行錯誤は失敗するものだという自覚をしていなければならない。それが、科学的認識というものの基本姿勢なのである。しかし、自分の考察が客観的なものなのか、希望的判断に落ち込んでいるものなのかを自覚するのは難しい。その間違いを出来るだけ避けるには、自分が利害当事者である対象を考察しているときは、常に希望的判断が入り込んでいるのではないかと疑って見なければならないだろう。ある意味では、利害当事者が語ることはそれほど信用してはいけないといってもいいかもしれない。どれだけ利害から離れて、第三者として眺めることができるかということが客観性の確保につながっている。それでも立場や利害というのは、無意識のうちに影響を与えてくる。それから離れるためには、ロールプレイであってもいいから反対の立場に立って考察を進めることが必要かもしれない。ディベートというものを僕はあまり高く評価していないのだが、そのようなロールプレイとしての反対の立場の体験としてならディベートもそれなりの有効性を持っているかもしれない。板倉さんは、希望をそのまま判断に結び付けないようにということで、次のような指摘をしている。これも深く心にとめておきたいことだ。「教えられないことを宝物のようにするから、善意があればあるほど傷ついちゃうんですね。そんなことだったら、いいかげんに扱ってくれたほうがずっとましだと私は思うんです。「善意を持ってやれば、結果は自分にはかかわりがない」ということは、少なくとも、社会科学というものを学んだ人間としては落第の考え方です。だから、私たちは自分の善意に甘えることなく、「この世の中はどういう法則性で成り立っているか、教育の論理がどう成り立っているか」ということを勉強しなくてはいけないと思うんです。」善意を持って間違ったことをするほうが、悪意を持って間違ったことをするよりも悲惨な結果に結びつくということは考えなければならないことだろう。これは戦後民主主義教育の欠陥にもつながっているのではないかと思う。このような認識は、社会を科学的に捉えるときに忘れてはいけないということでは、歴史的な失敗を考えるときもそれが悪意から生じたものばかりだと考えるのは単純すぎる解釈ではないかと思う。日本は戦争の歴史において、侵略行為で悲惨な結果をたくさん引き起こした。しかし、それがすべて悪意からのものであるかどうかは、主観的にそう思うのではなく客観的によく考えたほうがいいのではないかと思う。もちろん、主観的に、侵略ではなくアジアの発展のためにやったのだと、善意を肯定するだけの解釈でもまずい。善意がありながらも、その善意が結果に結びつかないで、むしろ悲惨な結果になったのはなぜかと考えることが大事なのではないかと思う。今週のマル激のゲストの山崎養世さんが語っていたように、明治維新のような革命を中国でも起こすようにと孫文を応援した明治の日本人の善意が、なぜ欧米先進国と同じ侵略主義・植民地主義になってしまったのかを考えなければならないのではないかと思う。板倉さんは、この本の中でヒットラーのことを調べていると語っている。ヒットラーは悪い心の持ち主だったからあのようなひどいことをしたのだ、と考えるのは単純すぎる理解だという。板倉さんは、「ヒットラー自身が悪い心を持った人だとすると、その悪い心の持ち主を9割ものドイツの国民が支持するでしょうか?そういうのはちょっと信じがたい。だけど、ヒットラーは悪い結果をもたらしたことは間違いないのです。」と書いている。ヒットラーが悪人であれば、悪人が悪いことをしたということでは、理解が単純なので人々は安心するのだろう。しかし、そうであればヒットラーを支持したドイツの人はみんなバカだったと考えないとつじつまが合わない。自分の心を安心させるのか、客観性を持った解釈の仕方を見つけて合理的に納得するのか。これも、希望的判断と客観的判断の問題ではないかと思う。ヒットラーの優秀性を理解することは客観的判断のために必要だと僕も前々から思っていただけに、板倉さんのヒットラーの研究には大きな期待をしたいものだと思う。
2007.05.06
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表題の本の著者である鄭大均氏は、「在日コリアンには、強制連行による被害者やその子孫であるというイメージや印象がある」と、この本の冒頭で語っている。しかし僕は、どちらかというと「強制連行」という強いイメージはあまり持っていなかった。それこそ、犯罪者のように突然官憲に引っ張られていったりとか、わけもわからずに意志に反して連れて行かれるというイメージはあまり持っていなかった。朝鮮戦争を描いた韓国の映画「ブラザーフッド」では、主人公の青年が訳も分からず徴兵されていく様子が描かれていた。本人はなぜ連れて行かれるかまったく分からず、意志に反して兵隊になることを強要されてしまったという描かれ方をしていた。「強制連行」というイメージからは、そのような扱いをされたという姿が浮かんでくる。僕は、夜間中学で仕事をするまでは在日の人と直接接する機会はなかったのだが、このような「強制連行」のイメージは持っていなかった。むしろ、日本の併合政策によって、土地を奪われ仕事を無くした人々が、食うために仕方なく日本へ渡ってきたというイメージを抱いていた。それは強制とはいえないが、「やむを得ず」という原因を作ったという点で日本政府の責任があるものだというイメージを持っていた。このイメージに対して、宮台真司氏が、日本へ渡って来た朝鮮半島の人々は、ほとんどが日本で一旗あげようという目的で来た人たちだったと語ったとき、僕の抱いていたイメージとまったく違っていたので驚いた。もちろん戦後日本に残った在日一世も、大部分が自分の意志で日本へ来た人たちだったと宮台氏は語っていた。これはよく考えてみれば論理的には当然の帰結ではないかとも感じる。まず、食うに困るほど貧しい人たちであれば、そもそもその土地を離れるということが出来ないのではないかとも考えられる。もし離れる可能性があるとすれば、人身売買的な形で日本へ売られるということが考えられるが、日本へ渡ってきた人々のほとんどは知人や親戚を頼ってきているようなので、そのような人身売買で来ている人が大部分だとは考えにくい。西欧諸国が難民を受け入れるのは、自国を脱出できる人たちは、それなりの能力と資産を持っていると考えられるからだそうだ。そのような人々は、受け入れる国に対してプラスをもたらすと期待できるから難民として受け入れるのだそうだ。そう考えると、日本での在日朝鮮人たちの、芸能界あるいはスポーツ界・闇の世界などでの高い実力を考えると、それなりの能力を持った人々が来たと考えたほうが合理的なのではないかと思う。僕は、在日の人々に対して、やむを得ず祖国を捨てさせられた気の毒な人々というイメージで考えていたが、むしろバイタリティあふれる野心的な人々と考えたほうがいいという、宮台氏の指摘には、それまでの思い込みをひっくり返された驚きがあった。だが、世間の常識では、鄭さんが語るように、「強制連行」というさらにひどい状況で日本につれてこられたということが流通しているというのはまた一つの驚きだった。宮台氏は、専門家の間では在日の人々が、自らの意志で日本に来たことはほぼ確立されていると語っていた。「強制連行」などではまったくないということだ。「強制連行」で日本につれてこられたというのはまったくの間違いだという。しかし、それならばなぜそのような間違いが日本では最も流通している常識になってしまったのだろうか。事実ではないことが真理として流通しているという、この言語ゲーム的な現実はどのようにしてつくられたのか。僕は、宮台氏が語るように、学校教育の影響が大きいのだろうと感じていた。宮台氏は共産党の革新首長がいたころに京都で教育を受けていたという。そのときに「在日の人々は強制連行で連れてこられた」という教育を受けたという。週刊ミヤダイという番組で語っていた。そのときに相手をしていたTBSのアナウンサーも同じような教育を受けたと語っていた。この二人で日本の教育を代表しているわけではないが、そのようなことが日本の各地で教育されていたのではないかということはあったのではないかと僕は感じている。残念なことにそれを証拠立てる資料は見つかっていないが、可能性としてはかなりあったのではないかと感じる。書店でぱらぱらとめくった『マンガ 日狂組の教室』という本にもそのような表現があった。「「強制連行」という嘘を認め始めた在日朝鮮人達 ~新たな局面を迎えた在日という存在~」というブログでは、次のような表現があった。「「在日朝鮮人・韓国人は全て戦時中に日本が労働や兵役の為に強制連行をした結果に発生したかわいそうな人達であり、在日という存在があるのは全て日本の責任であるのだから、日本が在日に対して様々な便宜を図るのは当然である。」これが彼らの主張であり、在日朝鮮人・韓国人が自らの存在を正当化する唯一のよりどころでした。実際に我々日本人もその認識を持っており、常識の如く学校で教えられました。」ここで語られている「常識の如く学校で教えられました」ということが、このブログの作者個人の体験を語ったものなのか、一般的な学校教育に対してそういわれているのかは、文脈だけからでは分からないが、学校で教えられてそういう知識を持ったという人もかなりいたのではないかと予想させる。「京都セミナー講演(2003年3月21日) 社会科教科書における在日韓国・朝鮮人関係記述 -中学校教科書を例にして- 京都大学人文科学研究所 水野直樹」というページに書かれている「強制連行に引きつけた記述の問題」の中には、次のような指摘も見られる。「例えば、帝国書院の公民教科書ですけれども、「在住外国人の多くが、現在日本に住んでいる外国人の多くが、戦時中に我が国に強制連行されてきた人々とその子孫である在日韓国・朝鮮人です」と書かれているわけですね。「強制連行されてきた人々とその子孫」という表現は、やはり歴史的な事実とは食い違う。このようにあまりに強制連行のことに結びつけての記述になってしまうと問題があると感じます。」かなりはっきりと「強制連行」と在日朝鮮人の関係が記述されている。これがそのまま教えられると、学校教育において、「在日朝鮮人のほとんどが強制連行によって日本に来た」という知識が伝えられたのではないかとも感じる。実際の授業実践では次のようなものもあった。(「日本と朝鮮 4 ~日本にたくさんの朝鮮人がいるのはなぜか~ 森竹高裕」)ここでは、「日本にたくさんの朝鮮人が住んでいるのはなぜだろう。班ごと考えてみよう。」という問いかけのまとめとして次のように書かれている。「日本人で朝鮮に住み続けている人はほとんどいません。朝鮮の人たちは昔無理矢理に日本に連れてこられて、帰ることができなくなったのですね。朝鮮の人たちと同じように、自分の国に帰りたくても帰れなくなってしまった人たちがいます。」このまとめから、在日一世の大部分の人が「強制連行」によって連れてこられたのだと勘違いしたりしないだろうか。そのような人がいたかもしれないが、それが一般化できることなのかどうかは慎重に取り扱わないと誤解するのではないだろうか。この間違いが、政治的プロパガンダとして語られるのであれば、それが語られる理由というのはある意味では理解できる。「これは本当ですか??」というエントリーによれば、在日特権としてのいくつかの利権があることが指摘されている。これらの利権が、利権として存在しつづけるためには、「強制連行」という神話はプロパガンダとしては役立つだろうと思われる。この利権が解消されたとき、政治的プロパガンダとしての嘘も消えるだろうとは思う。学校教育における間違いは、このようなプロパガンダとしての嘘とはちょっと質が違うだろうと思う。おそらく、この間違いを教えた教員たちは、それが間違いであるということを知らずに、善意からそのような教育をしたのだろうと思う。問題は、どの程度の割合で、このような善意からくる間違いがあったのかということだ。鄭さんの本でも、「在日・強制連行の神話」が間違いであるという指摘は丁寧に書かれているものの、それがどのように日本社会に流布されていったかの記述は少ない。教科書や辞書、その他の著書に書かれた例が紹介されている。それは今の日本社会に、この神話がいかに流布されているかという証拠にはなるが、それがどのようにして広まったのかということは書かれていない。それはおそらく証明することの難しいことなのではないかと思う。実際に授業の中でどのような教えられ方をしていたのかという統計を取ることは難しい。僕のようにまったく記憶に残っていない者もいるだろうし、間違って覚えている者もいるだろう。幾つか、そう教えられたというものは発見できても、それがその当時の一般的な現象だと言えるかどうかが難しい。しかし、一般にはこの神話が流布しているのだから、どこかでこれが蔓延するきっかけがあったことは確かだろう。それはいったい何だったのか。学校教育なのかマスコミなのか。これはどちらが先かというのにはあまり意味がないかもしれない。マスコミがそれを流布させたとしても、そのようなことがあれば学校教育で取り上げられないということは考えにくい。また、なぜマスコミがそれを取り上げるかということを考えると、マスコミが主導して反体制的な言説を取り上げるとは思いにくい。世論がまずそのような方向に行っていたのを追随するのが、今も昔もマスコミのやることだろう。マルクス主義が日本社会を席巻していた時代に、学校教育でもマスコミでも、この神話が取り挙げられていたのではないかと思う。どのようにしてこの神話が広がっていったのかを、これからも探していこうと思うが、その一つのヒントは日教組の教育研究にあるのではないかと思っている。日教組の教育研究で、ある時期にこの神話が取り上げられたのではないかと僕は予想している。そうであれば、学校教育においてこの神話がかなり教えられていたということが言えるのではないかと思う。そのような資料がないか探してみようかと思う。
2007.05.06
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我々の社会にはさまざまな問題がある。学校の問題もその一つだが、その問題を生み出した原因が個人に帰するのか・制度に帰するのかは重要な問題だ。もし学校の問題が教師という個人に帰するのであれば、それは現政府や文科省が言うように、教師の資質の向上で解決する問題になるだろう。しかし、それが個人ではなく制度に帰する原因を持っていれば、制度を改革する以外に問題を解決することは出来ない。ジョン・テイラー・ガットさんは、学校の問題は制度の問題であり、個人の問題ではないということを主張している。実際に教師個人というのはまじめで誠実であり、善意にあふれているのは同僚として働いている人々を見るとよく分かる。そして、彼らはそれなりに有能な人間たちばかりだ。しかし、このように優れた人材がそろっていても、学校が持っている問題の解決には程遠い。ジョン・テイラー・ガットさんも「優しく、思いやりのある多くの人々が、教師として、助手として、管理者として働いているにもかかわらず、彼らの努力は学校の抽象的な論理に押しつぶされている」と書いている。「抽象的な論理」というのは、システムの問題であり制度の問題であるということだ。個人の努力では解決不可能な要素があるということをこの言葉で表現している。「義務教育という形態は、1850年ごろ、マサチューセッツ州で考案された」そうだ。「その目的は大衆を厳しく管理することだった。つまり、学校は公式どおりに行動する人間、コントロール可能な人間を生み出すためにつくられたのである」とジョン・テイラー・ガットさんは語る。この目的が学校の問題を生むのだと主張している。これがまさに制度の問題として生じてくる。そうであるなら、ガットさんが言うように、「それは教師の質や予算不足とは関係ない」だろう。「同じ年齢、同じ階級の人々をまとめて監禁するような制度に従うことは、人生を台無しにすることに他ならない。それは人間のあらゆる可能性を奪い、人々を過去や未来から切り離して、ただ連続する現在にとどめようとするものだ。 チャイムの音で教室を移動させ、個人のプライバシーどころか、家庭という聖域にまで踏み込んで「宿題」をやらせようとする学校--そんなところで子ども時代をすごすのは、実に愚かで、不自然なことである。」とジョン・テイラー・ガットさんは語っている。この学校がいかにして子どもを駄目にしていくのか、子どもの成長を阻害するのかを見ていこう。ガットさんはここでは8個の指摘をしている。最初のものは次のようなものだ。1 大人の世界に無関心になる。 昔の子どもにとって、大人が何を考えているかを探るのは実に刺激的な行為だった。しかし、最近では、誰も子どもが成長することを望まず、何より子どもたち自身がそれを望んでいない。彼らを責める資格は誰にもない。大人はただのおもちゃになったのである。大人はいつまでも子どもを支配していたいのだろうか。支配するためには、子どもが成長しないように邪魔をするのが一番効果的だ。社会における大人の態度を見ていると、そのようなことを感じないではいられないのだが、それでも昔の子どもたちは、その邪魔を乗り越えて成長していくだけのバイタリティーがあったようにも感じる。今は、子どもたち自身も成長したくないように見える。なぜ彼らは成長することを望まないのだろうか。大人に支配され邪魔をされることが、彼らを幸せにするとは思えないのに、なぜそこにとどまろうとするのだろうか。かつての子どもたちには、たとえ身近の大人が邪魔をする存在であっても、理想となるようなロールモデルとしての大人があったような気がする。子どもの邪魔をするような大人は昔はひまをもてあましているような大人だった気がする。そのようなひまがなく、自らの仕事に没頭している大人は、子どもの成長の邪魔をするようなことはまったく関心がなかったようだ。そのような大人がかつてはたくさんいたように思う。今は、子どもに関心を持った大人が増えてはいるのだろうが、残念なことに、子どもにかかわるときに成長の邪魔になっている大人が多いのではないかと思う。これなら、忙しく仕事をしていてくれたほうがまだましだったのではないかと思う。映画「鉄道員」に描かれたように、かつての大人たちは自分の仕事に誇りを持っていたが、今は、内田さんが指摘するように仕事は不快さを示す記号になってしまったのかもしれない。大人になることは、その不快を受け入れることであり、子どもたちはそのような成長を拒否しているのかもしれない。2 集中力がほとんどなく、あっても長続きしない。 今の子どもは、自分で選んだことに対してさえ、集中力が持続しない。これはチャイムによる強制的中断と関係があるのではないだろうか。このジョン・テイラー・ガットさんの指摘には僕は賛成だ。夢中になるというのは、回りのものから関心が離れて、まさにそのものだけが見えてくることに他ならない。そして、その状態を集中というのだが、そうしたいときに必ず中断されるような生活を繰り返していたら、集中しないほうが心を乱さずにすむようになると学習するのではないかと思う。集中したいときに集中できるような環境というのが子どもの場合には絶対に必要だろうと思う。子どもの集中力を阻害しているのは大人であり、学校の制度なのだと思う。3 未来に対する認識が乏しく、明日が今日とつながっているという感覚がない。 先にも言ったように、彼らは現在の連続の中で生きており、その瞬間、瞬間が彼らの意識の境界になっている。未来の予測を正しく行うためには、合理的な論理的思考というものが必要になる。それは、刺激を単純に反応に結びつけるのではなく、原因と結果の連鎖というものを、必ずしもすぐに結びつかない対象にも広げて考える能力が必要だ。それは過去から現在へのつながりを正しく受け止めて学ぶことから、これからの未来へのつながり方も正しく予想できるようになる。現在の快不快の感覚に縛られているだけでは、このようなことの正しい認識は学習できない。このような単純な刺激-反応のメカニズムの中に子どもたちがいるのはなぜだろうか。それは、未来への失望の繰り返しの中で、期待がかなうのは現在の感覚だけだというあきらめの学習から身につけたものなのだろうか。この感覚は、未来の成長した姿を期待するという、モチベーションのための基礎を作ることの邪魔をするだろう。このような感覚の子どもに学習意欲を持たせるのは不可能に近いのではないかと感じる。4 歴史に関心がない 彼らは過去が現在をどう運命づけ、自分たちの選択にどう影響し、価値観や生活をどう形成したかということに興味を示さない。未来への期待が乏しければ、歴史に対してはこのような無関心になってしまうだろう。子どもたちに、未来への期待を取り戻させるにはどうすればいいのか、大人はよく考えなければならないだろう。5 他人に対して残酷になる 彼らは不幸な人への思いやりに欠け、弱い人や助けが必要な人を馬鹿にする。これは、子どもたちを少々弁護したい部分も感じる。なぜなら、今の日本社会では、マスコミの報道のあり方がひどいので、本当に不幸な人や気の毒な人が誰なのかが分かりにくくなっているからだ。社会の嘘の部分をあまりにも露骨に見せられているところがあるのではないだろうか。不幸な人や弱い人には助けが必要だが、マスコミではそこに見栄えのいいドラマを設定する。その方がより売れるニュースが出来るからだ。そうなれば当然嘘が混じることになる。そしてその嘘はたいていはやがてばれるものになる。子どもたちは、弱い人々というものが、実は同情を集めて利権を肥やす、弱い人を演じているだけの人々だというイメージを小さいころから植付けられる。同情心やいたわり・思いやりの気持ちを持つことが損だという気分を経験する。むしろ馬鹿にすることで溜飲を下げるという歪んだ喜びを味わったりする。6 親しさや正直さを拒絶する。 彼らは他人と親しくすることが出来ない。それは、テレビの影響による偽りのイメージや、教師を操るための見せかけの態度の中に、本当の自分を隠してきたからだ。他人の親しさに触れると、その見せかけのイメージが崩れるため、彼らは親密になることを避けようとする。宮台真司氏が、今の子どもたちの「親友」という感覚は、昔の子どもたちの「友達」という感覚に近いと語っていたときがあった。昔の子どもたちは、「友達」の中のごくわずかの、本当に親しい相手を「親友」と呼んだが、今の子どもたちには、本当に親しいという感覚自体がないので、「友達」が「親友」になるという。偽りの自分や、偽りの人間の姿ばかりを見せられていると、本当の自分をさらけ出せる相手の「親友」というのは持てないのかもしれない。7 物質主義的になる。 彼らはあらゆることに成績をつける教師や、なんでもかんでも商品にしてしまうテレビの影響で、精神的なものを無視する傾向がある。他者にも「心」があると思えるようになるには、自分の「心」がよく見えるようにならなければならないだろう。あらゆることに成績をつける行為は、子どもの心を消させる効果を持っているのではないだろうか。心を無くした子どもは、他者の心にも鈍感になるのではないだろうか。アイデンティティーや自尊心というものを持ちにくい人間になるのではないかと思う。8 依存的で、受身で、新しい挑戦に臆病になる。 彼らはしばしばこの臆病さを、強がりや怒り、攻撃的な態度によって隠そうとするが、その下には無防備な弱い自分がいる。臆病な人間ほど攻撃的になるというのは、子どもに限らず人間に共通している現象ではないかと思う。犬でも、弱い犬ほどよく吼える。この8つの性質は、学校教育によって育てられ大きくなっていく。学校に適応すればするほどこの欠点は助長される。学校は通過点であり、適当に付き合うところだと自覚しなければならない。学校に影響されることの少ない人間ほど、その子自身の個性を殺さずに成長することが出来る。このことに一人でも多くの人が気づくことが学校制度の根本的な改革につながるように僕は願う。
2007.05.05
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メーデーの帰りに寄った書店では、もう一冊面白い本を購入した。板倉聖宣さんの最新刊で『子どもの学力 教師の学力』(仮説社)という本だ。板倉さんの論理と主張はますます明快ではっきりしてきている。ここまですっきり言ってくれると爽快な気分になる。子どもの学力が下がってきたと言われている昨今だが、学力というものの本質を見直すことによって、本当に下がったのかということに疑問を呈している。下がったということを主張するには、以前の学力が今よりも高かったということを言わなければならないのだが、実は以前だってたいしたことはなかったというのであれば、下がったという表現はふさわしくないだろう。子どもの学力は下がったのではなく、そもそも学力そのものがたいした能力を測ったものではなかったのに、以前はそのことが隠蔽されていて、今はたいしたことないということが明らかになっただけなのではないだろうか。理解などしていなくても、暗記さえしていれば点数が取れる学力などは、実はまったくたいしたものではなかったのだ。暗記しようという動機さえあれば、その程度の学力はいくらでも上げることが出来る。だから、今は単に動機が失われただけのことではないのか。学力というものを、テストの点数というふうに単純に規定すれば、これは下がっているのは明らかなようだ。共通一次の点数は、毎年1点ずつ平均点が下がっているらしい。だから、30年前の高校生に比べて、現在の高校生は30点分だけ学力が落ちている。この落ちた学力を取り戻すために取り組んでいる努力は、少なくなった学習時間を増やすということで行われているが、これはまったく成果を生んでいないように見える。テストで点を取るためだけだったら丸暗記してしまえばいいというのは、自分の経験からも分かる。そして、そのためには学習時間を増やしさえすれば十分だともいえる。僕は、高校までは試験前の勉強をまったくしなかった英語で、大学では1週間かけて丸暗記したらほとんど満点に近い点が取れた。今の学校の学力においては、学習時間の問題だけが重要だともいえる。しかし、この学習時間というのが、実は単に時間さえかければいいという時間ではない。このときの僕は、丸暗記すればどれくらい点数が伸びるのだろうかというのを実験しようという気持ちがあった。つまり、丸暗記することに非常に高いモチベーションを持っていたのだ。単にそれが自分のノルマだからというような消極的な動機ではなく、実験の成果がどの程度現れるかという期待を込めてせっせと丸暗記に励んだわけだ。このように高いモチベーションの下に学習した時間と、やらされていると感じながら勉強している状況では、物理的な時間は同じでも、学習成果としての時間はまったく意味が違ってくる。昨夏の東京都葛飾区の中学校は、夏休みを削ってまでも授業の時間を確保した。学習時間を増やして学力を高めるための努力をしたのである。しかし、結果は悲惨だった。その前年には23区中の最下位ではなかったのに、そのような努力をして学習時間を増やした年は、学力テストで23区中の最下位に落ちてしまった。増やした授業時間が、単に物理的に時間を増やしただけで、学習意欲というモチベーションの点ではかえって下げてしまったのではないかと思う。いやいや勉強をしていたのではないだろうか。そのために結果的には逆の効果が出てしまい、テストの点という学力がますます下がってしまったのだろう。学習の成果におけるの問題は、この板倉さんの本でユニークな説明がされている。理科系的発想としては実に見事だと思うようなものだ。ととを関数として捉えて、それを抽象化して単純化するとどのように表現されるかを考えている。それは次のどちらの表現がふさわしいかを考えていた。1 加法的表現 <学校教育の成果>=<学力>+<意欲>2 乗法的表現 <学校教育の成果>=<学力>×<意欲>もしこれらが、1のように加法的な関数として存在するなら、多少意欲がなくなっても、時間さえかけて学力を上げれば学校教育の成果は高まるということになる。しかし、2のように乗法的な関数として存在するなら、意欲が0(ゼロ)に近づいていくと、成果も0(ゼロ)になってしまう。いくら時間をかけて学力を高めようとしても、意欲がなくなれば成果はまったく期待できなくなる。どちらが現実を表現する関数としてふさわしいだろうか。日本の子どもたちは、学校や塾以外で、自発的に自分で学習する時間が世界中で最も少ないということを聞いたことがある。学習に対するモチベーションという点では、世界で最低なのではないだろうか。つまり、昔学力が高いといわれていた時代でも、その学力は単にテストの点数が高いだけのことで、学習意欲はまったく低かったのではないだろうか。だいたい、大学まで行って、自分が何を勉強したいのか自覚をしていないというのは、大学生としての学力が著しく低いことを物語っているのではないだろうか。板倉さんのこの関数的発想がすばらしいのは、さらに<学力>と<意欲>の関係も関数として結びついているのではないかと考えているところだ。<学力>が高まれば<意欲>も高まるのか、逆に<意欲>が高まれば<学力>が高まるのか。関数としては抽象化して正比例関数として考えられている。1 <学力>=a×<意欲>2 <意欲>=b×<学力>これはどちらのケースも考えられる。問題は比例定数がどうなるかだろう。比例定数が0(ゼロ)に近ければそれは影響は少ない。だが、かなり大きくなれば影響も大きくなる。どちらの比例定数が大きいものになるだろうか。板倉さんの考えでは、「エリート効果」あるいは「優等生効果」と呼べるようなものが働けば、2の比例定数のbのほうが大きくなると考えられている。その学習をしているものがごく小数に限られているときは、そこに「エリート効果」が働く。日本中で大学生の数がわずかだった時代は、大学生であるというだけで学習意欲を持つことができた。オタク的な現象でも、そのことを知っている人間が少数であれば、多分その分野での「エリート効果」が働いて、オタク的な知識を持とうとする学習意欲が高まるのではないかと思う。「優等生効果」は、学校での評価が高まることで学習意欲が高まるというものだ。「エリート効果」は、オタク的に分野が細分化すれば、かなりの人間が「エリート意識」を持てる可能性があるが、「優等生」になれるのは限られているから、これが生じるのは影響としては少ない。誰もが同じことを学習するという平等主義的な教育では、2の効果を期待してもそれはせいぜい「優等生効果」にとどまるのではないだろうか。1の、意欲を高めてその影響で学力を高めるというのは、普通によく見られる現象だが、意欲を高めるということが偶然に任せられているので、これを意図的に行うことが難しい。僕は数学に対する意欲が非常に高かったのだが、これはかなり偶然的なものだと思う。誰かが教育してくれたおかげでそうなったのではない。偶然のきっかけは、子どものころによく家にきていたおじさんがくれたパズルの本だった。そのパズルが僕の興味・関心にぴったり来たのだろう。それに夢中になって、まずは論理的に考えることの楽しさを知った。それから、そろばんを習っていたこともあって、計算に関しては技術としてかなり高い段階にあり、計算に意識をあまり向けることなく論理的な処理に向かうことが出来たので、数学においても計算よりも論理性のほうに関心を向けることが出来た。僕は数学においては誰かに教わって習得したという感覚を持っていない。教科書はだいたい読めば内容が理解できた。数学の解釈は、国語などと違って論理的にたどりさえすれば、誰が考えても同じ解釈に到達する。自分にぴったり合うレベルで説明してくれさえすれば必ず分かると思っていた。だから僕の数学勉強方は、自分にぴったり合う参考書を見つけることが自分の方法論だった。図書館などを回って50冊くらい入門書を探すと、そのうちの一つくらいは自分に合うものが見つかった。意欲というのは偶然生まれるものだ。だから、偶然生まれた意欲を見逃さずに拾い上げて、それを学力に結び付けていくということが教育的には大事だろうと思う。その点では、時間割とチャイムで細切れにされてしまう学校教育は、意欲を殺すことに役立つのではないかと思う。子どもの意欲を殺さずにすむような学校制度の改革は、根本的な発想の違いから考えるしかないのではないだろうか。意欲は意図的に喚起することは出来ないと僕は思っていたのだが、それを実現したのが仮説実験授業ではないかと思う。仮説実験授業は、科学史の中の大発見をした科学者と同じような思考の過程を経て、科学の基礎的な概念を学ぶというものだ。それは、常識をひっくり返すような斬新な内容を持ち、驚きとわくわくするような好奇心を喚起する。仮説実験授業は、その内容を学ぶことは誰もが意義のある面白いものだと思えるようなものを探し、実際に授業をして楽しさを提供できたものが授業書として残っていく。学校教育の中で、学力の問題をまったく考えずに意欲を引き出すことに成功したまれな現象ではないかと思う。遠山啓先生の水道方式も大きな意欲を引き出すことの出来た学習法だが、これはどちらかというと、結果的に出来るようになるということの方に楽しさが見出せるものだった。仮説実験授業は、出来る出来ないにかかわらず、それが面白い(特に知的な意味で面白い)ということに基礎をおいた意欲の引出しが出来たものだった。板倉さんがまとめのところで提出している関数は、学力を考えるうえでたいへん面白いものだ。次のように書かれている。 <学力>=b×<意欲> ……………………………………………(4)学習意欲を0にして卒業させた場合は、 <教育効果>=<学力>×<意欲、0>……………………………(5)成績が上がったために、エリート効果を生じた子どもの場合 <教育効果>=<学力>×<意欲、エリート効果>………………(6)学習の途中で、自分でその学習そのものの楽しさを発見した子どもの場合、 <教育効果>=<学力>×<意欲、内発的興味>…………………(7)今の学校教育は、学習意欲をほとんど0にして卒業させる。学校を普通に出た子どもたちは、学校と関係なくなるとほとんど学習意欲を持たない。これは困ったことだ。仕事の現場では、その仕事に必要な技術や技能を学ばなければならないのだが、学習意欲を失った人間は、どのように学習すればいいのか、誰かに導いてもらわなければ自分では出来なくなってしまう。エリート効果と内発的興味を持つことが出来た幸運な子どもは、それによってその後も学習を続けることが出来る。しかしこの両者には大きな違いがある。板倉さんが指摘するのは次の点だ。「上の(6)と(7)は、似たところがありますが、根本的に違うところがあります。それは(6)の場合の学習意欲は競争的に支えられていることです。そこでその後、競争で勝てなくなったり、競争相手が見出せなくなったりして<勝つ面白さ>がなくなると、その意欲は極端に低下するようになります。日本の学校優等生は、そのようにして研究意欲も研究能力も持たなくなって社会に出ているように思えてなりません。」遠山先生も競争原理には反対していた。競争などしなくても学習意欲は高められると思っていたからだろう。僕は、競争にはもう一つの弊害があるように感じる。宮台氏が語っていた二流性の問題だ。二流の亜インテリは、本来の学問の競争では勝てないので、勝てる分野を探して、政治的な権力闘争に向かうのではないだろうか。競争による学習意欲の問題は、田吾作の足の引っ張り合いという問題も生み出すのではないかと思う。
2007.05.05
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義務教育学校の6つ目の弊害は「条件つきの自尊心」という言葉で語られている。ジョン・テイラー・ガットさんはまず次のように書いている。「六つ目の教育方針は「条件つきの自尊心」である。親から無条件に愛されている子どもは、自尊心が強く、従わせるのが難しい。しかし、こういう自信家が大勢いては、社会は維持できない。そこで私は、子どもたちに、自分の価値は専門家の意見に左右されるということを教える。つまり、彼らは常に教師に評価され、審査されるのである。」僕は子どものころから、人間の正しい評価など誰にも出来ないと思っていた。だから、たいていの評価は間違っていると思っていたので、ある意味ではどのような評価をされようともそれに驚くことはなかった。的外れな評価をする人間は、まあ「見る目がないんだな」と思っていた。僕の両親も、教員の評価よりも自分の目で見たほうを信じていたので、学校がどのような評価をしようともそれに影響されることはなかった。もっとも僕の評価はずば抜けていいものでもなく、ずば抜けて悪いものでもない平凡なものだったからそれほどの影響を与えなかったのかもしれない。とにかく、僕は正しい評価というものは難しいということを心得ていたので、評価によって自尊心を傷つけられることは少なかった。例えば、僕は高校3年の1学期までは英語の勉強というものをしたことがなかった。授業のときに話を聞いてはいるけれども、ほとんど関心がなかったのでまったく覚えなかった。僕にとって英語は必要のない知識だと思っていたのだ。そのために定期テストでは常に平均点の半分以下で最下位をさまようという結果だった。国語や古文も似たようなものだった。数学ではほとんど満点以外はとったことがなかったが、他の教科で点が取れたのは、物理や化学のような理科系科目だけだった。世界史はテストがなく、レポート提出だけで成績がつけられたので高い評価をしてもらったが、後はほとんど赤点ぎりぎりの成績で高校3年間を過ごした。そんな評価に対しても、僕はそれらの教科は必要ないから勉強しないのであって、評価される必要もないと思っていたので気にしたことはなかった。大学受験をするときに、英語だけは必要になったので、100点満点の30点くらい取れば、あとは物理と数学で合格点に達するだろうと思い、30点を取るだけの英語を習得するために勉強したことがあった。夏休みの勉強でそのときのテストでは平均点をわずかに越えることが出来たので、これで30点は取れるだろうと思い、安心してまた学校の評価を無視することが出来た。大学へ入ってからは、教科書を丸暗記したらどれだけ点が取れるだろうかということを試すために英語の教科書を覚えたことがあった。そのためには1週間くらいの勉強が必要だったが、丸暗記さえすれば、ほとんど理解していなくても満点に近い点が取れることが分かった。そのときに丸暗記した内容は、試験の数時間後にはほとんど忘れたが、試験の時間内だけ記憶に残っていれば、テストの評価を高めるには十分だ。また、すぐに忘れるような覚え方をしなければ、おそらく丸暗記などは出来ないのだろうと思う。印象深く、理解するような覚え方は、きっと丸暗記には向かないだろうと思う。僕は、ひたすら教科書をノートに写して、5回ほど書いたときにほぼ完全に丸暗記できたと感じたものだった。このように学校の評価の本質を見ることが出来れば、そんなものに自尊心を揺さぶられることはないだろうと思う。しかし、学校は、巧妙にそれがさも大事であるかのように思わせてくる。ジョン・テイラー・ガットさんは、その方法を次のように語っている。「実際、生徒の家庭には月に一度、通知表が送られ、テストの点などが報告される。点数が一桁だったりすると、親は我が子にがっかりするだろう。学校の存在意義をアピールするためには、そうした不満を持続させることが重要である。」学校で教えていることは一貫性がなく、本当に重要なことなのか分からない。だから、そんなものが出来なくても少しも心配はないのだが、それが出来ないのは頭が悪いからではないかという迷信が、このような方法を有効にする。がっかりすることはないのだが、そのような気持ちが浮かぶような思い込みが刷り込まれていると、学校の評価は、生徒を支配する便利な道具になる。ジョン・テイラー・ガットさんの次の指摘はまったくそのとおりだと僕は思う。「これは、企業が消費者に不満を抱かせ、そこから需要を掘り起こすのと似ている。教師は通知表を作るのに手間も時間もかけないが、こうした客観的(に見える)データの積み重ねによって、子どもの自尊心は大きく左右され、自分の未来は他者の評価にかかっていると考えるようになる。自己評価は、哲学の世界では重要な要素でも、学校教育ではまったく問題にされない。 通知表の目的は、子どもたちに自分や親を信じさせるのではなく、資格を持った専門家の評価を信じるように教えることである。自分にどれだけの価値があるのか、それは他人が決めることというわけだ。」さて、最後の弊害として指摘されているのは「監視」というものだ。これは、日本の学校においては最も害悪の大きいものではないかとも感じる。フーコーの理論を借りるまでもなく、監視による支配こそが、秩序を維持させるためには最も有効だというのが学校の長い歴史のうえで証明されているのではないだろうか。ジョン・テイラー・ガットさんは次のように指摘している。「7つ目の教育方針は「監視」である。私は生徒たちに、彼らがいつも見張られていて、教師の監視から誰も逃れることは出来ないと教える。子どもたちには、プライベートな場所もなければ、プライベートな時間もない。5分間の休み時間は、彼らをさりげなく接触させ、お互いにスパイさせるためである。生徒はお互いの秘密や親の秘密を聞き出し、それを密告するように奨励される。もちろん、教師は親にもそれを促し、我が子の反抗的な態度を学校に報告させる。密告が徹底されている家庭では、どんな秘密も筒抜けだ。」5人組だとか、連帯責任という伝統がある日本では、このような相互の監視体制というのは、まさに放っておいても機能するような社会となっている。これがいかに地獄のような世界を作り出すかは、これこそが悪質ないじめの元凶だと指摘する内藤朝雄さんの主張が正しいと思わせてくれるだろう。いったいこのような世界でまともな大人に成長することが期待できるだろうか。夜間中学には、子どものころに学校にいけなかった年配の人がたくさんきていたが、それらの人々は、学校で教える知識は知らなかったけれど、すべてまともな大人として生きてきた人たちだった。大人として自分の判断を持ち、礼儀正しく、思いやりがあり、奉仕する精神を持っていた。なかったのは、学校的な知識だけだった。しかし、僕にはその人たちのほうが、学校で育った普通の日本人よりもはるかに立派な社会人に見えたものだ。夜間中学に行く前に普通の昼の中学校にいたとき、教員などより道徳的にはるかに立派な女生徒が一人いた。まじめで公正心が高く、思いやりのある、尊敬すべき生徒だった。しかし、残念なことにこの生徒が、クラスの中では浮いた存在になってしまうのだ。他の生徒が彼女の持っている大人としての長所が理解できないのだ。そのときに、僕はやはり日本の学校はどこかおかしくなっているのだと感じた。そのときは、それが学校の原理的な欠陥からくるものだとはわからなかった。しかし、今なら学校というのはそもそもそういう存在だったのだと考えることが出来る。自分が生徒だったときもそうだったのだから。日本人の描く学校神話には、心の通い合う教師と生徒との暖かい関係というものがあるのではないだろうか。古い映画の「二十四の瞳」に描かれた大石先生と生徒たちや、金八先生と中学生たちとの熱いドラマなどが、学校に対する日本人の理想を語っているのではないかと思う。僕も、教師になった当初は、灰谷健次郎さんが描く『ウサギの眼』に表されているような、生徒との深い結びつきこそが教師としての喜びであるという思い込みがあった。ところが、現実にはそのような深い結びつきに感動する前に、学校という監獄に収容されている子どもたちの醜さのほうが強いインパクトを持って見えてきてしまった。それは当然のことだろう。このような環境でも、なお美しい自分を保っていられるなどというのは、フィクションの物語の世界でなければあり得ない。本多勝一さんの『アメリカ合州国』という本には、善意にあふれた人が実際に黒人の世界に入ってきたとき、そのうそや犯罪性に驚いて、黒人がそもそもそのようなひどい性質を持っているのではないかという偏見まで持ちかねないことがあると書いていたことがあった。僕も、あのまま昼間の中学校にとどまっていたら、子どもは本来そういうひどい性質を持ったもので、弾圧して抑えなければ管理できないものだと思ったかもしれない。そういった考えを抱かずにすんだのは、すぐに養護学校に転勤したからだ。ここでの子どもたちは、率直に言えば社会から見捨てられていた。資本主義を担う労働者や消費者として期待されていないのだ。だから、学校に見られる7つの弊害がここではかなり薄められていた。子どもたちは、教師に嘘をついて評価されたい面を見せる必要がなかった。彼らは率直に、教師としての存在の僕ではなく、人間的な面を好いてくれた。そこで僕は、教師として再生させてもらったという思いがある。学校らしくない学校こそに本来の教育の喜びがあるというのが僕のそのときからの思いだ。だから、学校らしくない学校として夜間中学校で仕事をすることを選んだ。最近は、この夜間中学が、とても学校らしくなってきたので心配をしている。学校の持つ弊害が生徒たちに現れるのではないかということを心配している。大人ばかりの学校であった時代には少しもその傾向がなかったのに、最近10代の子どもが増えてきたことによって夜間中学校はかなり義務教育学校らしくなってきた。夜間中学校が学校らしくなることを少しでも押しとどめたいと思うのだが、もし学校らしくなったときに、ジョン・テイラー・ガットさんが語る弊害のいくつかが際立ってくるようなら、やはりこの指摘は正しかったのだなと証明できるのかもしれない。ジョン・テイラー・ガットさんが主張するように、日本の学校は、学校らしさを捨てたときに再生するのだと僕は感じる。
2007.05.04
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ジョン・テイラー・ガットさんの『バカをつくる学校』で語られている義務教育学校の3つ目の弊害は「無関心」というものだ。ジョン・テイラー・ガットさんは、「私は、たとえ子どもたちが何かに興味を示しても、あまりそれに夢中にならないように教える」と語っている。それは、学校というものが、一貫性のないカリキュラムを持っているので、満遍なく全部をやらせるには、偏った関心を持たせることはまずいからだ。この「無関心」は学校においては制度的にそうなるように工夫されている。ジョン・テイラー・ガットさんの授業が子どもたちを夢中にさせていても、チャイムがなればその気持ちをすぐに切り替えて別の学習に気持ちを振り向けなければならなくなる。そのときにいつまでも夢中になった気持ちを引きずっていれば、次の学習に支障が生じて落ちこぼれることになるだろう。天才といわれたエジソンのエピソードなどには、そのような気持ちの切り替えが出来ずに学校で落ちこぼれる姿というものがうかがえる。この弊害の最も大きなところは、ジョン・テイラー・ガットさんが語る次のような点ではないだろうか。「それどころか、子どもたちはチャイムを通して、やり遂げるだけの価値のある仕事はないと教えられる。そのため、何かに深く興味を持つこともない。何年間もチャイムに従って過ごすうち、一部の耐性のある子を除いて、もはや社会にはやるべき重要な仕事はないと思い込むようになる。 チャイムは時間割の隠れた原則で、その原則は絶対だ。チャイムは過去も未来も打ち壊し、どの時間も均一なものにしてしまう。それは、自然の山や川が実際にはそれぞれ違うのに、地図上ではどれも同じように抽象化されるのと似ている。チャイムによって、授業はすべて無意味なものになるのだ。」何かに深く興味を持つことがないと、真に深い学習は出来なくなる。本当の実力が身につくことはないだろう。これは、被教育者のための教育としては間違っている。しかし「バカをつくる教育」としてはまことに効果的な方法である。価値のある仕事がないと思った人間は、公的な道徳心も育たないだろう。世の中に価値があるものなどないのだから、自らの感性を満足させるだけの対象があれば、それを求めるのは自然な流れになる。公共性などは顧みられることがないだろう。学校における時間割とチャイムは、あまりに当たり前に存在するので、それがこのような大きな弊害をもたらすという主張はにわかには信じられないかもしれない。こじつけや屁理屈のように聞こえてしまう人が多いかもしれない。しかし、学問に対する関心を持続させるためには、チャイムや時間割にとらわれない学習が重要だと自分の経験からも僕は思う。僕は、大学を卒業するまで、その時間割に設定されたものを勉強するのだという意識が乏しかった。時間割に設定されているので、とりあえず教師が来てその学習についていろいろと話をする。その話を、自分が理解できる間は聞いているのだが、理解できなくなると僕は勝手に自分がそのときに勉強したいと思うものを勉強し始める。僕はいつも教科書に別の参考書をはさんで授業を受けていた。時には、授業の最初から話を聞く気が起きなかったときは、最初から別の勉強に没頭することもあったが、そのときはうっかり指されたりすると困ったものだ。しかし、このような勉強のおかげで、僕は学問に対するモチベーションを下げることはなかった。いくつになっても、学問は僕の最大の関心の対象となっている。それは授業と関係なく、自発的に学習してきたからだ。さて4つ目の弊害は「感情的な依存」として語られている。学校は決して自立した大人を育てる場所ではないのだ。「バカを作る」ためには、むしろ依存的な子どものままに留め置いていたほうがいいという考えがそこからは伺える。ジョン・テイラー・ガットさんは次のように語る。「子どもたちは、教師に褒められたい、あるいは怒られたくないと思うように条件付けされる。私が生徒の答案に○や×をつけたり、特別な褒美や罰を与えたり、優しい顔や怖い顔を使い分けたりするのは、彼らの感情的反応を私に依存させるためである。つまり、教室の中では教師が支配者であるという感覚を植え付けるのである。」これは、日本の学校では当たり前のことだと感じていたが、アメリカでもそうだったのかというのを知って驚いた。アメリカ人はもっと大人だと思っていたのだ。しかし、教師の側に立てば、このようにシステムが作られていれば、少なくとも仕事はやりやすくなるということはいえるだろう。ジョン・テイラー・ガットさんが指摘するように、学校で行われている教育活動にはあまり正当性というものがない。つまり、変に大人になった生徒が出てきて、その不当性を突かれたら教師はまともな答えができないのだ。教師にとっては、生徒が大人にならずに子どものままでいてくれたほうが都合がいい。特に支配にとってはそのほうがいいのだ。日本の学校では、「子どもになめられないように」ということを教員の側がよく言う。この感覚は、子供の抗議にはまともなものがないという感覚で受け取っているのを物語っている。ごろつきやチンピラの言いがかりと同じもののように受け取っているので、なめられたらその言いがかりを通してしまうのでなめられないようにしようということになる。これは学校が子どもを成長させないから、教師もそのような受け取り方しかしないのだと思う。もし子どもが成長して、子どもなりの理解の範囲で正当な異議申し立てをするのなら、教師の側もそれを正当に判断できるような能力が必要だ。どちらも成長しなければならない。しかし、どちらも成長しないなら、子どもの依存性を助長して支配していたほうがずっと楽なのである。子どもが教師の指導によく従うことが、ある意味では教育の効果であるように語られるときがあるが、これは同じ現象であっても意味的には違うかもしれないと疑ったほうがいい。生徒の側が自主的に判断したことと同じ方向の指導があるから、積極的にそれに従うことが出来ているのか、依存性のゆえにただ言われたことにしたがっているだけなのか。同じ現象であっても、後者のような現象であれば、それは子どもが少しも成長していないということを意味するのである。5つ目の弊害として語られているのは、依存性の中の「知的な依存」というものだ。4つ目の弊害ですでに依存性が語られていたが、それはどちらかというと行動の判断に対する依存性だった。ここでは知的な面での依存性の弊害が語られている。行動は生活の実際面を指すが、知的な部分は抽象的な判断におけるものとして考えられているようだ。それは「彼らが何を学ぶべきか」「彼らの人生に何が必要か」などという言葉で語られている。これらは、本来は子どもたち自身が考えることで成長が促されるものだ。このことにはただ一つの正解が見つかるというものではない。しかし、このことを考える過程で子どもは成長し大人になっていく。ところが子どもにはこのことを考えさせることはなく、これは専門家と呼ばれる人間が解答を与え、子どもたちはその専門家に知的に依存させられる。それは、ジョン・テイラー・ガットさんが「影の雇い主」と呼ぶ存在の代弁であることが指摘されている。ジョン・テイラー・ガットさんは、「「優等生」とは、教師が示した考えにほとんど抵抗せず、適度な熱意を持って、それを受け入れる生徒のことである。何をいつ学ぶのか、「影の雇い主」が決めたことに従順で、他のことには興味を抱かない。」と、「優等生」という存在についても実に的確な分析をしている。これを見ると、「優等生」というのは、アメリカでも日本でもその本質は変わらない存在なのだと思う。学校優等生というのは、学校においては最も高く評価される生徒なのだが、それが最も知的な依存度が高いというのが、学校という存在の欠陥であり大きな弊害を生み出す元になっている。「劣等生」に対する次の記述も、快哉の拍手を送りたくなるほど見事なものだ。「一方、「劣等生」とは、教師の示した考えに抵抗し、何をいつ学ぶのか、自分でそれを決めようとする生徒のことだ。教師としては、そうした生徒を野放しにしておくわけにはいかない。そこで、彼らの意思を砕くため、親に連絡するという効果的な手段を使う。」劣等生は、主体性はあるがその能力については評価するのが難しい。板倉聖宣さんなどは、「びりっけつ、向きを変えれば一番だ」などという格言を語っている。評価の基準によって、びりは一番にもなるのである。そういう評価が難しい生徒を評価するなどという行為は、かなり危なっかしくて教員にとってはやりたくない仕事になるだろう。アメリカで感動を呼んだ教師の映画の多くは、このような一見劣等性に見える生徒を正しく評価して、その才能を見出し開花させた教師が尊敬に値するという描かれ方をしている。リチャード・ドレイファス主演の「陽の当たる教室」という映画がそうだった。この点、学校が同じような欠陥を持っていながらも、アメリカでは尊敬を受ける教師像というものが日本とはやや違うのではないかという感じもする。日本で人気のあった金八先生は、生徒に寄り添い生徒ともに歩むという姿はうかがえるが、生徒の隠れた資質を発見してそれを伸ばすために寄与したというイメージが浮かんでこない。教師としての指導性よりも、道徳的な人間性のほうが尊敬の対象になるような感じがする。最後にジョン・テイラー・ガットさんの次の指摘を引用しておこう。学校の弊害が、社会を支配したい人間にとっては実は有用な結果を導いているというのがよく分かるだろう。「「優等生」は、大人になっても専門家の指示を待つ。今日の経済社会は、そうした人々によって成り立っているといっても過言ではない。もし子どもたちが従順であるように訓練されていなかったら、すべては破綻してしまうだろう。社会システムは機能せず、カウンセラーやセラピストは休業を余儀なくされる。人々が自分で楽しみを見つけるようになれば、テレビなどの商業的娯楽も衰退する。 また、他人のつくった食事に頼らない、自給自足の生活が見直されれば、レストランや加工食品といった飲食産業も衰える。学校教育が無力な人間を生み出さなくなれば、学校はもちろん、現代の法律や医療、工業なども衰退するだろう。 つまり、職を失いたくなかったら、学校改革に賛成票を投じるのは軽率だというわけだ。私たちの社会は、自分で考えることを知らず、ただ言われたことをするだけの人間によって成り立っている。それは、学校教育の最も重要な方針の一つなのである。」
2007.05.04
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メーデーの集会の後に寄った書店で、買わなかったのだが手にしてぱらぱらとめくってみた本が『マンガ 日狂組の教室』という本だった。これは、日の丸君が代に反対し、自虐史観の歴史を教える日教組教員を揶揄しているような漫画だった。この漫画の表現はあまり公平な感じがせず、日教組に対する深い恨みがこもっているように感じた。右翼的な勢力の、極端な日教組批判を知るには役立つ本かなと思った。批判としては的外れで説得力がないと感じたが、このような恨みを抱かせた事実はやはりあるのではないかとも感じた。この漫画で描かれた学校は、まるで洗脳されたかのような左翼思想の生徒が登場するのだが、極端な左翼思想の押し付け教育がされる場面が描かれている。実際にこのような学校があるのか、という批判もあるだろうが、漫画の場合にこのような批判をしてもあまり意味がないように感じる。漫画はフィクションであり事実を描いているわけではないからだ。むしろ、このようなイメージを抱かせた反日教組の感情というものがどのような事実から生まれたものかを考えたほうがいいのではないかと思う。この漫画は高校が舞台になっているのだが、そこには通称名として日本風の名前を名乗っている在日朝鮮人の少女が出てくる。その少女に対して、日教組の教員と、その教員に洗脳されたクラスメイトは、通称名ではなく本名を名乗れと言って迫ってくる。その背景があまり描かれていないので、通称名と本名との本当の問題というのがここには描かれていないのだが、無理やりに価値観を押し付けてくる教員によって少女が不登校になってしまうように描かれていた。漫画の描き方としては、イデオロギーに凝り固まったまるで新興宗教的な狂信的な教員によって、生徒が毒されていくというイメージを与えるように感じた。このような教育が学校の荒廃を招き、人生を狂わせたのだと考えている右翼的な人々はけっこう多いのではないだろうか。これは日教組に対する正しい批判になっているようには感じないのだが、感情的な恨みの気持ちとしてはよく分かる。僕も、押し付けに対しては抵抗したい人間だったからだ。本編とはあまり関係がないかもしれないが、この少女に対して、教師が「強制連行で日本に来た在日朝鮮人の子どもたち」と呼んでいたのが印象的だった。日教組的な左翼歴史観ではそのように教えられたのだと、この漫画の著者は考えているのだろう。それはどこからきているのだろうか。著者自身の体験なのか、それともどこかにそういう教育実践があるのか、知りたいものである。僕は、日教組の間違いは、このような反体制的なところにあるのではなく、本来は党派性のある組織であるのに、そこが教育という客観性を持った営みに対して正しい方向を提出できると考えたところにあるのではないかと思う。教育研究を日教組がリードできると考えたところが、最も大きな間違いであり、そここそが批判されなければならないのではないかと思う。日教組という組織の本来の存在意義は、教員という労働者の労働条件を守ることにある。それこそが本来の役割であり、そこにとどまる限りでは、日教組は大きな間違いはしなかったのではないかと思う。教師は労働者かという議論がかつてはあったが、働いて給料をもらっているのだから労働者であることが当然で、組合があるのなら、その組合は労働者としての教員の条件を守るためにあるのが当然であると思う。しかし、教育という仕事の内容に関しては、労働組合がかかわる問題ではなかったと僕は思う。それは、なにが正しいかということが問われるべき問題であり、何が利益となるかという問題とは本来は関係ないはずだ。それに、正しい教育なら、組合員であるかないかにかかわらず、教員の財産として共有すべきものになるだろう。自由な研究・研修というものがなかったので組合がかかわらざるを得なかったという歴史的背景があるにしても、組合は教員の利益を代表しているので、中立的な組織ではないという自覚は忘れてはならなかっただろうと思う。組合はしょせん利害代表組織であり、難しい深刻な問題では、利害当事者として判断を間違える可能性があることを忘れてはならなかっただろう。最初は組合がかかわらざるを得なかったとしても、それはやがては中立的な組織による運営を目指し、客観性を持った研究をする方向にいかなければならなかっただろう。それが、組合的な党派性の歯止めがないまま研究が進んだために、必ずしも客観的に正しいとはいえないような教育が無理やり押し付けられたということがあったのではないかと僕は感じる。僕がかつていた養護学校では「発達保証論」という理論が正しいものとして、学校全体の実践にそれが押し付けられていた。僕は少人数で担当できるクラスを担当することにして、その押し付けから逃れることを考えたが、この理論は、障害児教育としては間違っていたと今でも僕は思っている。党派性というイデオロギーは客観的判断を曇らせる。そういう意味では、行政側という統治権力が押し付けてくる教育も客観性はない。それは、現在の支配勢力の意向を反映した、利権の維持に役立つような教育に都合のいいものを提出してくると考えたほうがいい。それと同様に、反体制の組合的な発想の教育は、やはり反体制的なイデオロギーに都合のいい教育が提出されてくると考えたほうがいいだろう。両者が歩み寄って協力すれば、どちらにもいいものができるかというと、これはそれほど単純ではない。たいていの場合は、両者が歩み寄ると、両方にとって都合が悪いと思われる部分を切り捨てることに同意したものが結果的に現れてくるようだ。毒にも薬にもならないものが出て、利権の維持に役立つということになるのだろう。本当に客観的な科学的な研究をするには、どちらからも一定の距離をおいた、党派性を越えた存在が必要なのだが、これがおそらくたいへんな難しさを持っている。どちらからも距離をおかなければならないので、それをしたいという人間が自発的に、自分の金で参加してくるようなシステムでなければならないのだが、組合的な発想では、研修は教員の権利であり仕事であるからそれに金を出させるのは当然だという発想になり、行政の側は金を出しているのだからそれを管理統制するのは当然だという発想になり、ここには研究にとって最も重要な自由というものがなくなる。ひも付きにならず、どちらにも縛られない自立した人間として研究をするというのは、日本社会では意外なくらい難しい。研究というのはノルマに従ってするものではない。それを必要とする人間が、自分の関心の強さにしたがって進めるものだ。日教組の大きな罪を告発するなら、教員の中から、そのような自発性をそぐようにシステムが働いてしまったことではないかと僕は思う。日教組批判の最も肝心な部分は、日教組の活動は、教員の仕事を楽にしてはくれたけれど、それと引き換えに教員の仕事の魅力を捨てさせたことではないかと思う。自虐史観の問題や日の丸・君が代の反対は、日教組批判としては、学校に混乱をもたらせた現象としても的外れの批判なのではないかと感じる。日教組は労働者としての面を代表しているに過ぎない。それは重要なことではあるだろうけれど、教育の中身に関しては、自由で自立した教員が自主的に研究して確立しなければならない。教育の中身まで組合に任せてはいけないのだと思う。教育研究の中身にまで干渉してくるようなら、相手が行政であろうと組合であろうとも、それに客観性があるかどうかの批判をしなければならない。少なくともそれが教員の専門性というものだろう。以前から右派勢力の日教組批判はピントがずれていると思っていたのだが、それがかなり深い恨みから生じているのではないかというのが、この漫画をぱらぱらとめくっているとわかった。このような恨みを抱かせたというのは、やはり教育の内容としては間違っていたのではないかと思う。妥当性のある日教組批判というものを内部からも考えていきたいものだと思う。僕は、昔も今も日教組組合員だから。
2007.05.03
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『バカをつくる学校』(成甲書房)からジョン・テイラー・ガットさんの主張を細かく見ていこうと思う。まずは最初の章から「7つの大罪」として断罪されているものを見ていこう。前回の最後に紹介した、「一貫性のなさ」がその第1番目なのだが、これは、教育の全体を見渡す人間がおらず、それぞれが専門分化された自分の狭い利権の範囲で重要性を主張することによってこの「一貫性のなさ」が現れていると僕は思っていた。しかし、よく考えてみると教育の全体を見渡すなどということができるものかという疑問も湧いてくる。もともと教育というのは単純なものではなくとても難しいもので、計画的に全体を設計してもそのとおりにいかないものではないだろうか。むしろ、計画どおりに行かないものだからこそ、偶然遭遇したすばらしさを的確にキャッチしてそれを生かすことのほうが大事になってくるのではないかと思う。そういう意味では、全体を把握していないことによる「一貫性のなさ」の弊害よりも、「一貫性がない」にもかかわらずそれがあるかのように装って押し付けてくることのほうが害が大きいのではないだろうか。正しい捉え方は、学校で教えていることが必要不可欠のものであると考えるのではなく、かなり無駄も多いんだけれど、興味と関心が強ければものになるかもしれない、という捉え方ではないだろうか。必要不可欠なものはごくわずかなのではないだろうか。実際ジョン・テイラー・ガットさんは、読み書きと計算は100時間もあればものになると言っている。つまり必要不可欠なものはごくわずかの時間で身についてしまうのだ。それもそれほどの苦労をせずに身についてしまう。板倉さんも、仮説実験授業の基礎になるのは、日本語が理解できるという言語能力だけで十分で、科学の知識などはまったく要らないと語っていた。必要不可欠な知識がごくわずかのものであると、実は学校に利権がある人間にとってははなはだ都合が悪い。それなら学校などはそれほど必要ではなくなるからだ。ジョン・テイラー・ガットさんは、まさに学校などいらないという主張をしているのだが、それは余計なことをすることによる害が大きすぎると考えているからだ。この余計なことは、ものを考えない、刺激に対して快感を求める資本主義社会の維持に都合のいい大衆を育てるのには役立つ教育となる。一貫性のない学校に対する次の批判は痛烈で爽快なものである。「まともな人間が求めるのは、バラバラの事実ではなく、意味である。教育とは、生のデータから意味を引き出させることなのだ。パッチワークのような時間割や、事実と理論ばかりを優先する授業の中では、意味を模索することなど出来ない。これは小学校ではもっと難しい。そこでは、子どもに出来るだけ多くの体験をさせることが望ましいとされ、親たちはまだその嘘に気づいていない。 そもそも物事には自然な順序というものがある。人間がまず歩くことを覚え、それから話すことを覚えるように、日の出から日没までの太陽の動きや、鍛冶や農作業といった昔ながらの手仕事、あるいは感謝祭のご馳走の準備など、どんなことにも流れというものがある。そこでは、一つ一つの動きに正当な理由があり、前後との結びつきによって、全体が完全に調和している。ところが、学校教育においては、一つの授業にしろ、一日の時間割にしろ、常に順序がめちゃくちゃである。教師も教師で、学校の方針には逆らえないため、批判の手段になるようなことは決して教えない。生徒が何かを「学ぶ」とすれば、それは宗教の教理問答を暗記するようなものだ。」時間割というものは、あまりにもそれに慣れすぎているので、あるのが当たり前だと思っているが、実はそれが一貫性のなさを象徴するものだという指摘は目から鱗が落ちるように感じる新鮮なものだ。なぜその教科の学習が選ばれているのか。理論的な妥当性は多分ない。どうして好きな教科に専念してはいけないのか、僕は中学生のころからそう思っていたが、それが教育的に間違っているということの理由をいまだに見つけられないでいる。満遍なく何でもやらなければいけないということの弊害はきわめて大きいのではないかと僕は感じる。批判の手段になることを教えない教員という指摘もまったくそのとおりだと思う。個人主義が徹底しているアメリカでさえそうなのだから、日本ではさらにこれは深刻だ。日本では、教員がそれを教えないというよりも、教員自身が批判ということをしたことがないので、批判そのものがどういうものかというはっきりした確信をもっていないように思う。多くの場合教員の批判は的外れだと思うからだ。教員が語ることは批判ではなく要望であることが多い。それをすることが正しいという主張ではなく、自分は困っているからこうしてほしいという言い方のほうが多い。要望がかなえられていないという文句は多いが、それはこうあるべきだという正当な主張は少ない。真理を主張して批判するということの経験が多分少ないからだろう。アメリカの教員は自分に不利になるから批判の方法を教えないが、日本の教員は、批判そのものを知らないので教えることが出来ないように僕は感じる。もちろん、どちらの国でもまともな批判が出来る人は育たない。しかし、エリート教育が行われているアメリカでは、エリートの間では正しい批判が行われているようでもある。日本では、学校エリートには正しい批判が出来ていないような感じがする。宮台氏のような、学校エリートからはみ出した人間が本当の意味での批判を行っているように見える。次にジョン・テイラー・ガットさんが指摘するのは「クラス分け」の弊害だ。これも、学校においてはまったく当たり前に存在するものだけに、これがどれほど悪いものであるかはまったく気づかない。ジョン・テイラー・ガットさんが指摘するのは次のようなことだ。・クラス分けは、生徒が望んだものではなく、学校が勝手に決めたもので、生徒の自主性を破壊する。・クラスでは生徒に番号をつけ、彼らを管理することを目的にする。逃げ出してもすぐに連れ戻せるようにする。(自由を脅かす)・クラスは同年齢のものだけを集めて、同質の集団を作る。そこでのコミュニケーションは特殊なものであり、一般社会のモデルとしての人間関係を築くことが出来ない。このようなクラスの特徴からどのような弊害が生み出されるかといえば、ジョン・テイラー・ガットさんは次のように語っている。「いずれにせよ、私の仕事は、生徒を番号によってクラスへ閉じ込め、それに順応させることだ。上のクラスは厳しいもの、下のクラスはダメなものという先入観を植え付ければ、彼らは自分の地位に満足し、クラスは軍隊のようにびしっとまとまる。」つまり、この特徴が最も生かせるのは、生徒を支配する道具として働くときなのだ。どこかに気の合った友達がいても、クラスを越えてその友達と過ごすことは出来ない。また、年少者の扱いがうまいものがいても、同年齢集団には入り込めない。年長者の手伝いがあればうまくいくようなときもそのような助けは得られない。一般社会であれば、指導したりされたりという役割が演じられるが、同質集団であるクラスではそのようなことはうまく運べない。クラスでは、指導の役割はすべて教員が独占し、生徒の役割としては、教員の意思をうまく伝えることが出来る優等生になったり、指導に従う従順な生徒として、未来の有能な労働者への道を歩む生徒になることだ。自立して自分の頭でものを考えるような子どもは、それが出来ない優等生からは憎まれ、足を引っ張られることだろう。ジョン・テイラー・ガットさんは、「クラス分けの目的は、子どもたちに自分のレベルを自覚させ、そこから脱出するには、点数を上げるしかないと信じ込ませることである」と語っている。これはアメリカのことであるのに、僕には妙にリアリティを持って、日本の学校のことだと思えるから不思議だ。クラス分けを子どもの自由にしたらどうなるだろうか。おそらく混乱し秩序を破壊するだろう。その中で教員はあたふたして困るに違いない。しかし、混乱するからそれは駄目なんだろうか。秩序がないから間違っているのだろうか。教員が困るからそれはやってはいけないことなのだろうか。クラス分けをすることで、教育的にどれだけの意味があったのか。それは積極的に教育を進める意味はまったくなかったのではないか。管理という面で役立つだけで、それは本来の意味での教育ではないのだ。教育的に意味がなくても、それが害悪として働かないのであれば、どうでもいいんだよという意味で偶然そういうクラス分けになっていると受け止めればいい。しかし、明らかに害悪として働いているときは、それはやはりなくしたほうがいいのではないかと思う。内藤朝雄さんや宮台氏は、いじめをコントロールするためにはクラスをなくしたほうがいいという提言をしている。東京の単位制高校では、実際に制度的にクラスを無くして成功している。クラスは、今の時代はもはや無用の長物になってしまっているのではないだろうか。学校がある種の混乱を経て、その反省の結果としてより建設的な方向へ向かうという可能性はあるだろうか。日本社会ではこれはきわめて難しいように感じる。学力観を変えることで学校を変えようとした「ゆとり教育」は、ある種の混乱を学校にもたらし、学力低下を招いているということで非難された。このとき、その混乱を経てもなお、「ゆとり教育」が目指している方向が正しいのだという確信があれば、混乱の回避のために昔に戻るという選択は取らなかっただろう。ゆとり教育で減った分の時間をまた増やすことで学力低下に歯止めをかけようという動きが学校には見られる。昨夏には、東京都葛飾区の中学校が夏休みを縮めて授業時間を確保するということをした。しかし、その年の学力テストでは葛飾区は23区の最下位に落ちてしまったという笑えない結果になった。前年は最下位ではなかった。時間だけを増やしても中身を変えない学習は、少しも学力低下をとどめることはできないということを証明したようなものだ。残りの5つの指摘に対しても細かく考えていこうと思う。
2007.05.03
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少々古くなってきた話題だが、ようやく考えがまとまってきたのでそれを記しておこうと思う。この話題が出始めたころ、マル激の中で宮台真司氏が、この非難決議案のひどさというのを語っていた。それは全く歴史的事実に基づいたものではなく、ある意味ではでたらめなでっち上げに近いもので日本を非難しているもので、これに正しく反論しなければならないものだと語っていた。もしこれに反論しなければ、そのでたらめを受け入れたことになってしまうので、いわれのない非難に対して反論することは外交的にも必要だというのが宮台氏の主張だった。そして、そのときの安倍首相の発言として、日本が国家として、あるいは軍として組織的に強制連行したと取られるような言説に反論したものとして、その主張を一定の範囲で支持していたことを思い出す。僕も、この問題は歴史科学の問題として捉えるのではなく、外交の問題として考えるべきではないかと感じていた。それは、日本の戦争責任を正しく告発したものではなく、ある種のプロパガンダとして、反日的なイメージを高めるために提出された外交問題として処理すべきだろうと感じていた。だから、この問題で戦争責任を告発しているとか、正しい歴史認識をもつべきだというような議論をするのは間違っているのではないかという違和感を抱いていた。宮台氏の言葉を借りれば、この問題で重要なのは、すべての責任を国家に帰するのではなく、どの程度の責任なのか、どの部分の責任を国家が負うべきなのかという、具体的な責任の帰属の問題を議論すべきだという点を確認することなのではないかと思った。そういう意味では、強制連行というような事実も、どの程度までが軍の組織的関与と言えるのかという、具体的な分析が必要なのではないかと思う。宮台氏によると、この種の議論が日本で行われると、100%軍が悪いか、あるいは軍にまったく責任がないという0%の議論になってしまう。結論が両極端に分かれてしまうのだ。しかし、現実というのはそれほど単純ではないので、実際には曖昧な部分がたくさんあるはずだ。軍が正式な命令を下しているかという問題では、おそらくそのようなものは見つからないだろう。慰安所を建設するということは、本来の軍の任務とは関係がないからだ。それでは、正式な命令がないから責任はまったくないという話になるかといえば、これもそう単純ではない。慰安所を軍が利用して役に立てたことも確かな事実だろうと思う。ストレスを抱えた兵士のガス抜きにもなっただろうし、明らかな犯罪行為に流れるのを防いだということもあるだろう。それなりに利用価値があったのであれば、何らかの関与があっただろうことは確かだと思う。便宜を図ったり、その利権を握って私服を肥やした人間もいたことだろう。これらの責任がどこに帰属するかというのは単純な話ではない。宮台氏の「連載第一三回:「行為」とは何か?」によれば、行為は意味的なものであり、物理的な現象として外見は同じであっても、その文脈的な意味は違うものでありうる。そして、その意味の違いによって、責任の帰属する先も違ってくる。何らかの犯罪行為が行われたとき、その犯罪行為を、その実行者である個人が主体的に判断して行ったのなら、その行為の責任はその実行者個人に帰するだろう。売春行為というものが犯罪行為ではなくても、強制連行のようなものは犯罪行為として当時でも告発できるものだと思われる。その犯罪行為の際に、主体的に判断したのが、その連行をした個人であったのか、連行をするように命令したほかの個人であったのかで責任の帰属先は異なる。そして、命令の系統をたどったときに、軍に到達すれば日本軍の責任が問われなければならないし、国家に到達するようであれば日本という国の責任が問われなければならない。強制連行に関しては、それの責任を国家に問うのはいろいろな背景から言って蓋然性がないということを宮台氏は語っていた。これは僕もそう思う。慰安所の設置を国家が計画するということ自体はやはり考え方としては無理がある。国家に責任があるとすれば、その設置に際して違法行為があったのにそれを取り締まらなかったという面に絞るべきではないかと思う。もしこのようなことさえも国家に責任を問うならば、道徳面でも国家は国民を管理すべきだというような間違った方向の議論に発展しかねないのではないかと思う。強制連行に関する「狭義」と「広義」という考え方は、本来はこのような観点から議論されるべきだっただろう。責任の重さを測る見方として提出されるべきだった。しかし、安倍首相の言い方が、何か言い逃れをしているように受け取られたり、日本はまったく反省していないのではないかという、0%の責任の主張のように受け取られたのは外交の失敗ではないかと思う。その後マル激のゲストに出ていた首相補佐官の世耕議員も、最初のミスを取り戻すために、責任の部分を認めるような方向を取ることを語っていた。しかし、それが今度は逆の失敗につながりかねない様相を呈してきた。責任が0%ではないということを語っているはずなのに、今度は100%日本が悪いという受け取られ方をしかねないような印象を与えている。これもまた困ったことだと思う。相応の責任を負うことは僕も賛成だが、いわれのないことにまで責任を背負わされるようなら、それは不当な非難ではないかと感じる。宮台氏が語っていたが、そんなときに自らを左翼だと思っていた人間も、自分の中のナショナリズムという愛国心に気づくようになる。いわれのない非難というのは、一時のプロパガンダとしては大衆動員的な成功をもたらすかもしれないが、長期的には、正しい判断をする人々を離反させるようなマイナスとして働くのではないかと思う。田中宇さんの「日米同盟を揺るがす慰安婦問題 2007年4月3日」によれば、「今回の騒動の最大のポイントは、なぜアメリカの側が、今のタイミングでこの問題を持ち出してきたのかということである」そうだ。そして、それを考えると、これは明らかに政治的な意図があり、外交的な処理として対処することが正しいと思われるものだ。田中さんによれば、「日本では、下院で対日非難決議の提案を主導した日系のマイク・ホンダ議員が、戦争犯罪問題で日本を非難する市民運動を続けている自分の選挙区の中国系アメリカ人から政治献金を受けていたことから「中国政府が日本を陥れるために在米団体を使ってホンダ議員を動かした」「これは中国の陰謀だ」といった見方が出ている」という。ホンダ議員にはこの決議案を提出するだけの政治的な意味があったということだ。そして、「米下院の外交委員会では、2月中旬に慰安婦問題を審議したが、その際に証人として呼ばれた元慰安婦らは、いずれも以前から反日運動を展開してきた活動家として知られている人々だった」ということも報告されている。これらの事実から伺えるのは、この決議案による告発は、政治的運動の一環として行われているということだ。民意の反映というよりは政治的プロパガンダとして出されている可能性が高いものと思われる。日本政府の外交問題として最も大きなものは、この決議案に対して当然米政府の側は、日本との親密さから言っても一蹴してくれるくらいの扱いをしてくれるものと思ったらしいところだ。ところが、これがそうはならずに議会を通りそうになったところから、日本の外交の迷走が始まったようだ。田中さんは「米議会で審議されている日本非難決議を見ると、その内容は、左派の人々の主張の中でも過激な方のトーンを採用していると感じられる。決議案は、慰安所での日本軍の行為について「ギャング的な強姦、強制堕胎、性的暴行、人身売買など、多数の非人道的な犯罪行為が、20世紀最大の規模で行われた。前代未聞の残虐さと広範囲を持った犯罪だった」と書いている」と語っている。そして、これを翻訳したものとしても、「honyakushaの日記 2007-04-16」を見ると、・1930年代および第二次世界大戦の間、若い女性を性奴隷(一般には「慰安婦」と呼ばれる)にした責任を日本政府は公式に認めるべきである」という意見を表明する。 日本政府は「性奴隷」にする目的で慰安婦を「組織的に誘拐、隷属」させた。 ・慰安婦は家庭から誘拐されたか、または嘘の勧誘によって性奴隷にされた」 日本政府の慰安婦制度は慰安婦に対して「人道に反する数え切れない犯罪」という苦痛をもたらした。 ・史家は20万人もの女性が「性奴隷にされた」と結論付けた。 ・本の歴史教科書の中の慰安婦制度に関する記述を縮小または削除しようと日本政府は努力してきた。 ・本政府は「この人道に反する恐ろしい罪」を現在および将来の世代に教育するべきであり、慰安婦への支配と隷属はなかったという主張を公式に否定するべきである。 ・本政府は慰安婦に関して国連とアムネスティ・インターナショナルの勧告を受け入れるべきである。 というような記述が見られる。慰安婦の問題が国家の責任がどの程度かというのは議論の余地のあるものであり、「「組織的に誘拐、隷属」させた」と主張したのでは、かえってそのようなことはなかったと反論されるのではないだろうか。ここで語られている告発は、日本の国家的イメージを引き下げるには大いに役立つだろうが、それが本当のことなのかということにはかなり疑いを入れざるを得ない。プロパガンダとしては短期的には役立つかもしれないが、それが嘘だとわかったときには、取り返しのつかないダメージを左翼の側に与えるだろう。特にこのような主張が日本国内で受け入れられるとは到底思えない。むしろ、今まで左翼だと思っていた人間にさえナショナリズムの高まりを感じさせるようになるだろう。アメリカの一議員の選挙対策のために日本のイメージダウンが利用されるなんて我慢がならないと思う人間のほうが多いのではないだろうか。日本政府にとって困ったのは、米政府の立場が必ずしも日本を守るほうへと向いていなかったことだろう。そこで安倍首相も、ブッシュ大統領と直接会った時にこの話を持ち出したのだろう。謝罪の意を語るなら、ブッシュ大統領ではなく被害者である慰安婦のほうではないかという主張も見られたが、これが外交問題であるという捉え方をすれば、ブッシュ大統領に謝罪の意があることを語るのは、外交的には当たり前のことではないかと思われる。被害者である慰安婦個人に対してそのように言った場合、100%の責任を認めていると受け取られかねないので、むしろ言わないほうが普通ではないだろうか。外交的には、日本政府はこの問題では大きな失敗をした。米政府に大きな借りをつくり、有効な外交カードを与えたというのがこの問題の妥当な解釈ではないだろうか。歴史科学としての戦争責任の問題は、この決議案の問題とは切り離して考察しなければ間違えるのではないかと思う。この外交的失敗を取り戻すには、田中さんが「改善しそうな日中関係 2007年4月12日」の中で報告しているように、中国との関係改善によってアメリカに対して有効な外交カードを作る道ではないかと思う。そういう意味では、今年の8月に安部さんが靖国神社へ行かないと決断すれば、日本の外交は中国との関係改善に向かっているのだなと判断できるのではないかと思う。
2007.05.03
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昨日のメーデーの集会の帰りに寄った書店で刺激的で面白い本を見つけた。『バカをつくる学校』(成甲書房)という本で、著者はジョン・テイラー・ガットという、ニューヨーク州で最優秀教師として表彰された人だ。ここではアメリカの義務教育学校が批判されているのだが、その批判がそっくりそのまま日本の学校に当てはまるのを見て驚いた。僕は、小室直樹氏の指摘によって、戦後民主主義教育の欠陥というものを考えるようになったのだが、それは日本だけの特殊な状況ではなかったのだ。実は、日本が手本にしたアメリカの民主主義教育にそもそも欠陥があったために、その忠実なコピーとしての日本の教育にもそっくりそのまま欠陥が移されてしまったというのが、戦後民主主義教育の正しい理解ではないかと感じた。ジョン・テイラー・ガットさんの、教師としての体験からくる欠陥の指摘は実に的確で、僕も教育の現場にいてそれを常に感じていたので、この本が非常に説得力を持っていると思った。しかし、この指摘は教育の現場にいる人間からはおよそ出てくることのないものではないかという思いも抱いていた。僕は、このような感覚を持っている人間は現場では圧倒的少数派だと思っていたのだ。教育現場をよく知っていて、外からそれを眺めている人間にとっては、この指摘は実に見えやすい・分かりやすいものではないかと思う。教育現場にいる人間にとって見えにくいのは、自らがその欠陥の維持のシステムの中にいて、それを指摘することは、自らの仕事の価値を否定することになるからではないかと思う。善意の努力が、実は地獄への道を敷き詰めているのではないかというのはなかなか悟れるものではない。日本では現場の中からこのような主張が出てこないのに、アメリカでは最も優秀な教師がこのような革命的な指摘を行っている。最も優秀だからこそ指摘しているのかもしれないが。アメリカという国のすごさを感じるところだ。日本では今、学力低下が本当にあったのかどうかという論争があるようだ。これはおそらくデータを取るだけでは結論が出ないのではないかと思う。内田さんのブログには、共通一次試験の平均点が毎年1点ずつ下がっているというような記述があった。このデータを元にすれば、学力低下は明らかではないかとも思われる。しかし、一方では世界的なレベルでの学力試験の比較ではそれほど日本は落ちていないという声もあがっている。必ずしも学力低下の傾向を示していないデータもあるようなのだ。教育の現場にいると、テストの結果に現れる学力面よりも、子どもたちの学習に対するモチベーションの低下が著しいのを感じる。これを学力の要素に組み入れるなら、明らかに学力は低下しているという感じもする。しかし、これは板倉さんが指摘しているように、大衆教育の時代に入ったのに、かつての古臭いエリート教育と同じシステムで教育をしていることの欠陥であって、子供たち自身の能力が低下したわけではないという解釈も出来る。時代遅れのエリート教育ではなく、新しい時代にふさわしい教育の創造に失敗したとも言えるだろう。ジョン・テイラー・ガットさんの指摘を見ていると、そこで語られているのは義務教育学校の欠陥だ。これはより抽象化して言えば、大衆教育の欠陥ということができるだろう。アメリカという国の統治権力が、大衆に期待している資質を教育する学校として義務教育学校を考えた場合、大衆がバカであってくれたほうが都合がいいという意図がかなり見えるようなのだ。アメリカにおける「バカをつくる学校」は、努力したにもかかわらず結果的に間違った教育をしてバカをつくってしまったというのではなく、かなり意図的にバカをつくっているようなところがあるのを感じる。そもそもアメリカの民主主義というのが、実は資本主義の繁栄を支えるような社会を維持することを目的としているのではないかいう感じもする。資本主義の繁栄のためには、自分の生活を反省して自分の頭でよく考える人間よりも、刺激に対して単純に反応して気分的に快感を得ることを好むような消費者が多くいたほうが、資本主義的な大量消費のためには都合がいい。民主主義教育の欠陥は、資本主義の物質的豊かさを維持しようとする意図を単純に捉えるところから生じるのではないかと思える。おそらくその欠陥を埋める部分がエリート教育の中にあるのではないかと思う。それは、かつて先進国に追いつこうとして暗記教育に偏った日本の古いエリート教育ではなく、先駆者としての意識と実績を正しく反映したエリート教育にならなければならないのではないかと思う。資本主義的な豊かさを単純に肯定すれば、「バカをつくる学校」としての大衆教育にならざるを得ないのではないだろうか。資本主義の発展と維持のためには、少数のエリートと大多数のバカな大衆をどうしても必要としているのだろうか。もしそうであれば、資本主義的な豊かさというのは、必ずしも人間を幸せにはしないといえるだろう。イタリアの古い映画の「鉄道員」に描かれていたのは、貧しいながらも自分の仕事に誇りを持ち、心の通い合った仲間とのひと時を楽しみ、毎日の生活の中で互いに尊敬しあう家族が存在するというものだった。それは、「貧しいながらも楽しい我が家」と呼べる姿が理想的に描かれていた。最新のきれいな家に住んで、物質的にはるかに豊かな生活をしている先進資本主義国の人間よりも、映画「鉄道員」の中の人々のほうが明らかにはるかに幸せそうだった。資本主義的な豊かさはシステム的に再生産されている。その再生産の過程で、「バカをつくる学校」がその基礎をまた再生産するというシステムを担っている。このシステムに抗うのはとてつもなく難しいだろう。まさに革命を必要としている。どこかで豊かさの追求をやめない限りこのシステムを変えることは不可能ではないかとも思える。奇妙な符号として、「バカをつくる学校」の構造は、崩壊した社会主義国家の社会体制とそっくりだというのを感じる。崩壊した社会主義国家でも国民は自分の頭で考えることが出来ないような社会システムを持っていた。自分の頭でものを考える人間は、反体制・反国家的な人間として弾圧されてきた。このような国民は、一見統治権力にとっては実に都合のいい国民のように見える。しかし、社会主義国の末路を見ると、このような国民が国力の低下を招き、もはや国家として存続不可能なくらいに疲弊して、これ異常ないくらいひどい状態になってから革命的に国家が倒れるという過程を経て社会主義国は崩壊した。社会主義国の社会構造にそっくりな「バカをつくる学校」の構造は、それをどこかで変革しないと、社会主義国の末路と同じ状況を作り出すのではないだろうか。一握りのエリートでコントロールできると高をくくっていると、カリスマ的な指導者に酔った大衆が、エリートの指導など顧みずに破滅への道を進むというのは、かつてのファシズムの道が示していたのではないだろうか。バカをつくる大衆教育は変えられなければならないと思う。大衆の中にもスペシャリストをつくるようなエリート教育が必要なのではないだろうか。かつて、貧しいながらも自分の仕事に誇りを持っていた人々がいたように、特別の分野では指導的立場に立てる大衆を育てるという教育が、今の「バカをつくる学校」を克服するためには必要なのではないだろうか。日本の教育制度のように、単一のモノサシで序列化して、そのモノサシで評価されたもののみがエリートになり、落ちこぼれたものは大量の「バカな大衆」になるように運命付けられた教育は、未来においてはかえって資本主義を衰退させるようになるのではないだろうか。この本は実に刺激的で面白い。書かれている内容のすべてが考察に値すると感じる。これから細かく一つずつ取り上げて考えていきたいと思うが、まずは冒頭に書かれている義務教育学校の欠陥としての「一貫性のなさ」の指摘を紹介しよう。この本では次のように書かれている。「実際、私の教えることにはまったく脈絡がない。何もかもがバラバラで、めちゃくちゃである。惑星の軌道、大数の法則、奴隷制、形容詞、設計図、ダンス、体育館、合唱、集会、びっくりゲスト、避難訓練、コンピューター言語、保護者会、教員研修、個別プログラム、ガイダンス、実社会ではあり得ない年齢別のクラス……。いったいここにどんな一貫性があるというのだろう。」ここでの指摘は、学校で教えていることの全体を把握して、その横のつながりを考える人間がいないということの指摘だと思う。それぞれの教科は、その教科にとって大事なことを教えようとする。これは、教科に携わる人間の利権でもある。教員はまさに当事者としてそうだし、教科書を執筆する人間や、問題集を作成する会社なども大きな利権を持っているだろう。その利権を小さくするようなことはあまり行われない。そのため、かなり無駄な知識だと思われても、学校教育からそれが削られることがない。僕は、中学校数学の大部分はいらないと思っている。義務教育の学校が大衆が学ぶ学校という意味で考えるなら、専門的な知識は要らないと思う。むしろ基本的なものの考え方をもっと深く知るべきだろう。それこそが大衆の中にエリートを作り出す基礎になるものだ。基本的なものの考え方を深め、それを基礎にして自分の個性にあった専門分野に進むというのが、大衆教育を基礎にしたエリート教育と呼べるのではないだろうか。もしそのような過程を経て誕生した大衆が増えれば、専門教育分野においては、誰が真に優れた人間かを判断することも出来るようになるだろう。見かけにだまされるのではなく、本当の実力を持った人間が指導的立場につくようなシステムが誕生することが期待できる。今の大衆教育では、まったく専門を持たない、ものの考え方の基礎訓練がされていない大衆を生み出しているので、見かけにだまされた見栄えのする指導者に酔いしれてしまうような状況が生まれる。ファシズムにとっては実に都合のいい状況だろう。民主主義教育は本質的な欠陥を持っている。すばらしいものでもなんでもない。学校がいやだった自分の気持ちは正しかったと、この本を読んでそれに確信が持てた。さらに批判の細かい部分を読み込んで、抽象論としての民主主義教育の欠陥が、現実の日本の戦後民主主義教育にどのように現れているかを考えてみようかと思う。
2007.05.02
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