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メンデルの法則は、学校教育でも学習されるくらいなのでよく知られている法則性ではないかと思う。これは、「メンデルの遺伝法則」で紹介されているものを見ると、次のような特徴で語られていると考えられる。生物のある外形的特徴が、親から子どもへと受け継がれるとき、受け継がれる特質に優劣があると考える。例えばここではモンキチョウの色について考えている。モンキチョウには黄色いものと白いものが観察されるそうだが、このとき黄色という特質のほうが優性の遺伝になる。優性というのは、そちらの方が優れているという意味ではなく、表に現れる形質としては、両方の可能性を持っていたときにそちらの方がもう一方よりも出やすくなるということだ。つまり、黄色という特質と白という特質の両方の可能性を持っているモンキチョウがいた場合、黄色という特質のほうが必ず現れて、白という特質のほうが隠れているというのが、黄色のほうが優性であると考えることになる。メンデルは、この外形的な特質という現象論を、遺伝子という実体によって説明する方向を取って、この法則性を実体論的段階に高めたのではないかと感じる。それは、優性である黄色のほうの特質を伝える遺伝子を大文字のアルファベットAで表し、劣勢のほうの白という特質を小文字のアルファベットaで表すと、その数量的法則性が順列組み合わせの確率的法則性として解釈できる。遺伝子の組み合わせは4種類あるのだが、その組み合わせのときに現れる色という外形的特質は、3対1の割合で計算できる。父親から受け継ぐ遺伝子を先に、母親から受け継ぐ遺伝子を後にして書くと、それぞれの組み合わせは次の4種類になり、そのときの色は次のように解釈できる。 Aa……Aという優性遺伝子があるので色は黄色 AA……Aという優性遺伝子があるので色は黄色 aA……Aという優性遺伝子があるので色は黄色 aa……Aという優性遺伝子がないので黄色は現れず色は白になるこの3対1という数字の表れ方は、メンデルが観察した現象によく合うものになる。この法則性は、細かいことを言えばもう少しいろいろな条件を考慮しなければならないのだが、そうしているとポイントがずれてしまうので、この法則性と三段階論での段階における理解との関係に絞ってちょっと考えてみたいと思う。上で考えたような順列組み合わせの結果というのは、現実とは無関係な数学的考察の結果であり、その法則性は現実の対象から抽象されたものではなく、論理から導かれた形式論理としての法則になっている。Aやaを遺伝子と考えなくても、とにかく2種類のものの組を考えると4種類になり、大文字のAを含んだ組が3種類あり、それを含まない組は1つしかないというのが計算の結果になる。この法則性は、数学として考える限りでは少しも難しくない。すべての組み合わせを具体的に数え上げれば分かる。それは数が少ないので数えるのも易しい。そうすると、この法則性に関しては、数学という形式論理としてはすぐに理解できてしまうので、それが現実の対象に成立する法則性であるという認識を伴わずに、数学として成り立つのだという理解にとどまる可能性があるのではないだろうか。これを数学的な組み合わせの数の計算だと受け取った場合、それが生物の遺伝に関する法則の理解(認識)の本質論的段階だと、果たして言えるかどうかに疑問がある。それは確かに本質論的段階を記述した文章になっている。しかしそれの理解は、現象論も実体論も経ない、論理法則として受け取っているだけにならないだろうか。メンデルの法則自体の記述の意味を理解するのはそれほど難しくない。しかし、これが自然を対象にした客観的認識だという意味で理解するのは、案外難しいのではないだろうか。ここに教育あるいは学習という現象の難しさを感じる。言葉として受け取っている限りでは、それが本質論的段階として理解しているかどうかはわからない。メンデルの法則を言葉として語ることが出来れば、つまりそれを文章として記憶していれば、何となくそれが分かったような気分になるが、それは本当に「分かった」と言っていいものになるだろうか。テストで正解を書くことが出来れば、その言葉が記憶されていればそのことを理解したことになるかどうかという、教育と学習における大問題がここにあると思う。これは、本質論的段階の法則性を後から学ぶ学習者にとって大きな問題として現れるのではないだろうか。先駆者的な研究者であれば、十分な現象論を基礎にして実体を導入しなければ、その論理の展開の方向さえ見えてこないということがあるので、現象論をおろそかにして進むことは少ない。しかし、すでに本質論的な法則性が確立されているものを後から学ぶ時は、現象論を抜いて本質論の言葉だけを、国語的に意味を理解するような学習をしていても現実には大きな問題は生じない。まったくタイプの違う新しい問題にぶつかったときに応用ができないということがあるだけで、そのような問題にぶつからなければ問題を生じさせずに、浅い理解の下でも気づかずにすんでしまう。後から学ぶ人間が、先駆者的な研究者と同じように本質論的段階の理解が出来るように学習するには、同じ経路を通って学習する必要がある。それを実現したのが仮説実験授業であると僕は思うのだが、すべての学習にわたって仮説実験授業があるのではなく、またこれは独学ではやりにくいものでもあるので、独学においても本質論的段階の理解に達するための何らかの方法を見出したいものだと思う。メンデルの法則を、メンデル自身が発見した経緯においては、膨大な量の観察という現象論的段階があったことは確かだろうと思う。これは、後から学ぶものたち、特に専門家ではない一般的な教育を受ける素人にとっては、膨大な量の現象論的段階の観察は出来ないだろうと思う。だから、ほとんどの素人は、権威ある人が語る事実を観察抜きにそのまま鵜呑みにして、限定された現象論的事実からのみ実体論・本質論へと進んでしまうだろう。こうなると武谷三男さんが指摘するように、形而上学的になる恐れが出てくる。理論にとって都合のいい事実だけを拾ってきて、結果としての法則性(それは最初から分かっているもので形而上学的に設定されているようなものだ)を証明するものになる。これは、実際には仮説実験の論理になっていないので、その科学的真理としての資格は証明されていないのだが、気分的には証明されたように感じてしまう。だが、自分にとって都合のいい事実だけでなく、あらゆる事実をかき集めたといえるほどの現象論を見るには、専門家にでもならないと出来ない相談になる。そうすると素人にはこのような認識は出来ないのだと言いたくもなってくる。本質論的段階の認識は、専門家だけのもので、素人には出来ないのだろうか。これは、仮説実験授業というものがその可能性を語るものになるのではないかと思う。仮説実験授業では、法則性の認識を深めるためにさまざまの実験をしてその現象論的段階を見るのだが、この実験には理解を深めるための順番という、ここにもある種の法則性がある。ある実験が最初に来て、ある実験は最後にくるというような順番が、授業実践という実験を経て決められている。現象論的段階の、今まで発見されているすべてを経験することは素人にはとても出来ない。だから仮説実験授業では、すべてを象徴するような、特定の実験ではあるけれども、それが抽象化されて一般化されるような代表的な実験を繰り返すことをしている。そして、何回目かの繰り返しで、その法則性が現象論的につかめるようにしてあるのだ。そして、その現象論的につかんだ法則性を仮説として次の実験に行くことによって、その仮説が科学的な法則性として高まるように工夫してある。その途中で、仮説の正しさを論理的に解釈できるような実体の導入もされるようにしてある。法則性の認識を後から学ぶ人間にとっては、その現象論の全体像を把握するのに効率のよい現象(事実)をピックアップしてもらうということが有効なのではないかと思う。ここに専門家の、教育への協力というものの有効性を見ることが出来るのではないかと思う。専門家でなければ、何が現象論の全体像を把握するのに象徴的なものになるかの判断が難しいだろう。素人は、言葉で表現されている法則にとって都合のいい事実だけを最初から拾ってくる可能性がある。これは、現象論的段階の徹底にはならない。いつまでもそこにとどまるか、あるいは現象論的段階においてさえ間違えるということになりかねない。日本の学校教育は、言葉による表現を記憶させるということに偏りすぎたために、素人が本質論的段階を言葉の意味だけで理解するという間違った方向に行っているような気がする。これは、「専門家を大事にしない」という最新のマル激での指摘にも通じているのではないかと思う。「専門家を大事にする」のであれば、専門家の語ることを、それは深い理解の下での発言であり、単に現象をそのまま語っているのではなく、本質論的理解の下で現象を解釈してある種の判断を語っていると受け取るだろう。ところが、本質論的段階の理解を言葉の意味だけで受け取っていれば、それが現れてくる現象を、自分が見たままをうまく解釈していると思える、感性で判断したものを正しいと受け取る可能性がある。専門家が、表には見えない裏の意味を語っていても、単純に表を解釈しただけの素人の言葉のほうを信じてしまうということが起こるだろう。マル激でよく語られていたものなどは、衝撃的な子どもの凶悪犯罪が起こったときに、「子どもの犯罪が凶悪化した」と現象を語るような言葉が専門家からはしばしば否定されるというような指摘があった。また、性的な暴力などが、ビデオなどの影響で引き起こされるという言い方も、素人には現象をうまく語っているように見えるが、専門家の見方ではそう単純なものではないという指摘もされていた。宮台氏的な表現では「俗情に媚びる」というような言い方になるのだが、多くの人がそう思いたい方向の説明が正しいと受け止められる。これは、日本の教育において、法則的認識が現象論的段階にさえ至らず、感性的にそう思えるということが言葉として記述されていれば、その言葉だけで理解した気分になってしまうことに問題があるのではないかと思う。メンデルの法則に関して、その現象論的段階の理解に重きを置いた説明を探したのだが、それは見つからなかった。いずれも本質論的段階の記述が先行しているように感じる。これはすでに確立された法則なので、現象論を語ることが難しいのだろうと思うが、それなしに本質論の本当の理解は難しいのではないかと思う。メンデルの法則の現象論的段階をどう乗り越えるのかというのを考えてみたいものだと思う。
2007.08.31
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ことわざが語ることというのは、ある種の法則性を語っているのだが、これは科学的なものではない。経験から得られた教訓のようなもので、以前もそうだったからこのようなことが起こるかもしれないというような感じの法則性になる。これが科学の持っているような法則性にならないのは、三段階の発展をして本質論的段階に至ることがないからではないかと僕は思っている。ことわざの法則性というのは、実体論的段階にも行くことはなく、現象論的段階のものにとどまっているのではないかと思う。ことわざの特徴を三浦つとむさんは、具体性の張り付いた抽象性というものに見ていた。具体性を完全に捨てることがなく、具体的なイメージを持ちつづけることによって、その内容の理解をしやすくしている。この具体性は、ある特殊な経験を語るという表現に現れている。ことわざでは、経験したことを一般化して表現することはなく、特殊・具体的な表現のまま、一般化は比喩として理解するようにしている。例えば「猿も木から落ちる」とか「弘法も筆の誤り」ということわざがあるが、これは、「木登りに関しては専門家である猿も木から落ちる場合がある」、という特殊な経験を語っていたり、「書道の達人である弘法大師でも書き間違えることがある」という具体的な状況を語っている。これを文字通りにその具体性を読み取ったのではことわざの理解にならない。「猿も木から落ちることがあるなんて不思議だなあ」とか、「弘法大師も間違えるなんてうっかりしていたのかなあ」、というふうに考えたのではことわざの正確な理解にはならない。ことわざというのは、このような具体性を越えて、「その道の専門家でも、なんでもない簡単なことを間違えることがあるのだから、細心の注意を払って間違えないように気をつけなければならない」というような教訓を読み取るのがことわざの正確な理解になるだろう。ことわざの理解(認識)は、一般化した法則性にあるのだが、表現は特殊・具体的になっているというのが特徴だ。仮説実験授業の実践・研究をしていた庄司和晃さんは「表の意味」「裏の意味」というような表現をしていた。「裏の意味」を読み取ることがことわざの理解になる。ことわざの「表の意味」の理解にとどまっていたのでは、法則性の認識としては現象論的段階にも至っていない。それは、個別的な事実を、そのあるがままに経験として受け取っているだけだ。法則性の認識はないのだ。ただ単に、そのようなことが起こったという事実を受け取っているに過ぎない。「裏の意味」を読み取ることでことわざに含まれている法則性を認識することが出来る。そして、この法則性は、象徴的な一つの事実で他の多くの事実を代表させていることになるので、多くの事実(現象)から法則を帰納的に導き出したという意味で「現象論的段階」と呼べるだろうと思う。これが現象論的段階にとどまるのは、そこから実体として考察を進める実体を抽象化していないからだ。猿や弘法大師という特殊的な存在を、単に象徴として選ぶだけでなく、ここから「その道の専門家」「エキスパート」というような実体的存在を抽象して、それを考察の中心において論理を展開していかなければ実体論的段階へ至ることができない。このことわざは、ある種の誤謬論を語っているのだが、それはこのような実体を設定することによって、この「エキスパート」という実体的存在の属性として考察することが出来る。そして、「エキスパート」という実体を設定すれば、「エキスパート」の内容をもっと細かい実体に分けて分析へと進むことが出来る。「エキスパート」は、普通の人が知らないような細かい知識や技術を持っている。普通は、そのようなものがあれば、正確な判断や実践が導かれると考えられる。しかし、板倉聖宣さんが「知りすぎているから間違える」というような表現を使うように、ある種の法則性を適用範囲を広げて適用してしまったりする間違いを犯す場合がある。これは、そのような法則性を知らない、「エキスパート」ではない人間が犯すことのない間違いだ。知識がたくさんありすぎるために、それがかえって邪魔をして間違いを犯すというのは、実体論的な観点から得られた法則性になるだろう。ことわざの認識の段階を超えるには、抽象的に設定された実体の導入が必要になるのではないかと思う。そして、この実体が、人間の思考のメカニズムという、実体を離れた構造の部分にまで及ぶことになれば、誤謬論は本質論的段階を迎えるのではないだろうか。この本質論的段階は、単に誤謬の現象の外の状況だけが考慮されるのではなく、人間の内面でもある心理的な側面もパラメーターに入って、あらゆる側面が抽象化されて判断に結びつくという段階にくるのではないかと思う。このようになって誤謬論が科学的な認識として、本質論的な法則性を語るものになるのではないかと思う。弁証法の法則性もことわざとの連想で捉えることが出来ると、板倉聖宣さんはよく語っていた。三浦つとむさんは、弁証法の法則性を次の3つにまとめていた。・対立物の相互浸透の法則・否定の否定の法則・量質転化の法則ここには具体的な対象が何も語られていないので、一見すると対象が抽象化されているように見える。ことわざとの類似性はどこにもないようにも感じる。しかし、ここで対象にされているものを考えると、ことわざのちょうど裏返しになっているのを感じる。ことわざでは「猿」とか「弘法大師」とか、具体的な現実存在が語られていたが、上の弁証法の法則では、逆に現実の存在は何も想像できないような、純粋な抽象として弁証法の対象が語られている。それは、「あらゆる存在」と言い換えてもいいような対象になっている。「対立物の相互浸透」が見られる対象は実は限定することが出来ないのだ。限定することが出来ないので、それを実体として設定して論理を展開することが出来ない。対立物の相互浸透という法則は、現実を観察したときにいつでも「そう解釈できる」という法則性として現れる。これは、現象の観察から、いつでも成立するという法則になっている。いつでも成立する法則というのが、はたして「法則」という名に値するのかという疑問もあるのだが、弁証法の法則というのは、まず法則性の認識があって、その法則を現実に適用して現実の対象の個別性を理解するという形になっていない。対立物の相互浸透というのは、どんな対象でも見られるのだから、何とかそう解釈できるような視点を見つけるというのが、弁証法の法則の適用になる。法則が適用できる対象と、適用できない対象を区別するというような、普通の法則の適用のしかたとは違う特殊性がここにはある。ことわざは、具体性を捨象して抽象化された実体へと進むことがないので現象論的段階を脱することが出来なかった。弁証法は、逆に具体性が何もなく、あらゆる存在が対象になってしまうので、実体として特定できる対象がないために実体論的段階を考察することが出来ない。実体論的段階を経ない弁証法の法則を「本質論的段階」だと呼ぶのはためらいがある。しかし、弁証法の法則は抽象的過ぎるので「現象論的段階」だというのもためらいがある。それは、経験から得られたものだという意味では、帰納的な法則であり、現象論的だと言っていいかもしれない。だが、現象が少しも語られていないだけに、これを現象論的段階だというのはどうもしっくりこない感じもする。ことわざも弁証法も、実は法則を語ったものとして理解するのではなく、このような経験があるということから、実は今経験している事柄も、同じような面をもっているかもしれないからそれを考えてみようという「発想法」として捉えることが、最も有効性を発揮するような理解になるのではないだろうか。ことわざも弁証法も、科学的認識のように本質論的段階へは至っていないので、いつでもそれが普遍的に成立するという保証はない。ことわざには例外がたくさんあるし、時には相反する矛盾した主張を持つようなことわざもある。「善は急げ」と「急いてはことを仕損じる」というのは、「急げ」と「急ぐな」という反対の主張を語ることわざだが、我々はこれが両方とも正しいという理解をしている。これは、条件が違うときに「急げ」という対処と「急ぐな」という対処が、その条件に従った場合に正しくなるという、視点が違うときの真理を語るという点で弁証法的なものになっている。ことわざと弁証法の共通点はこんなところにも現れているだろう。ことわざは具体性を持っているので、このような矛盾したものが表面化するが、弁証法は具体性がないために矛盾はこのような表面化はしてこない。対立物の相互浸透というのは、それがあるという主張のみが正しくて、ないという主張は出来ないのだ。それは、具体的な「対立物の相互浸透」を考えているときに、それが「対立物の相互浸透」だという判断が間違えていたということはあるかもしれない。しかし、その判断を間違えていたということから、「対立物の相互浸透」そのものがどこにもないという結論は出せない。これは、見つけようと思えばどこかに見つかる、というのが弁証法が語ることなのだ。本質論的段階にまで達する法則性の認識は、科学においてのみ成立すると言っていいだろう。そのような理解の下では、やはり弁証法は科学ではないと言うしかないだろうと思う。だが、弁証法は科学でなくても発想法として十分有効性を持っているものだと思う。名探偵が、ある難事件の捜査で、何をしていいか皆目見当がつかないときに、とりあえず一歩踏み出すことの出来る何かことわざ的な発想法を持っていると、それをきっかけとして捜査が進むということがあるそうだ。「事件の裏に女あり」とか、「犯罪者は現場に戻ってくる」とかいうことわざ的な発想法だ。科学の研究においても、今まで知られていないような新たなものを考えたり、乗り越えられない壁になっているようなものを考察する時は、今までの発想ではうまくいかなかったのだから、一歩踏み出すための違う発送が必要になる。そのとき、視点をずらすという弁証法の発想は、正しいかどうかは分からないけれど、とにかく一歩踏み出すために役に立つというものになるだろう。ことわざや弁証法の法則性を、科学的な法則性との対比で理解することで、それが本当に有効になる条件を見つけることが出来て、正しく位置付けられるのではないかと思う。弁証法は科学ではないが、科学がもつ限界を超えることの出来るものとして、科学でないところが貴重なところなのだと思う。
2007.08.29
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宮台真司氏の社会学入門講座の「連載第二回:「一般理論」とは何か」では、「一般理論」というものが語られている。これが「理論」と呼ばれているのは、何らかの法則性を語っているからだと思われる。しかも「一般」であるということからは、これが本質論的段階にあたるものだというのを予想させる。一般理論においては、「特定の文脈に拘束されないことです」ということが特徴として語られる。高度に抽象化されているので汎用性があるということだ。対象が、現存するもののある範囲の「すべて」を含むものになる。この「すべて」に言及するというのは、本質論の特徴の一つでもあるだろう。宮台氏は「一般的購買力」という抽象的概念で、経済学における一般論について語っている。これは、「貨幣があれば、物物交換の如き、交換当事者が互いに相手の持ち物を欲しがり、相手が欲しがる自分の持ち物を欲しないという「欲求の相互性」という文脈が不要になり、代わりに、誰もが貨幣を欲しがるとの前提で振舞えば済むようになります」というふうに説明され、ここに「文脈に拘束されない」という特徴を見ている。もし「貨幣」という概念がなければ、経済行為における「交換」というものを考えた場合、誰が何を欲しがるかという具体的・特別な文脈を考える必要が出てくる。これは現象論的段階に当たるような考察になるだろうか。ところが、貨幣というものを導入すると、誰が何を欲しがるかという特定の文脈を考慮する必要がなくなり、これが捨象されて一段高い抽象の世界に入る。誰もが貨幣を欲しがるという前提を立てることが出来るわけだ。この貨幣は、現象論的段階を越えるために導入された実体と考えることも出来るだろう。そうすると、「誰もが貨幣を欲しがる」というのは一つの法則性として認識できるものになるだろうか。この法則性の認識は、ある種の微妙な難しさを持っているような気がする。貨幣経済の中で生まれて育っている我々にとっては、「誰もが貨幣を欲しがる」というのは、現象論の段階でも自明だと思えるような法則になっている。しかし、貨幣経済が生まれる以前を想像すると、まだ生まれていない貨幣を「誰もが欲しがる」という前提で考えるのは無理があるようにも思われる。貨幣経済誕生後に限定した法則性としてこの法則性を捉えれば問題はないのかもしれないが、そう考えると「一般性」というものに引っかかりが出てくる。物々交換の段階の特定の文脈が、貨幣の誕生によって必要なくなったと考えるなら、貨幣誕生以前の段階も考えの中に入れての「一般性」ではないかという気もする。貨幣がまだなかった状況を考えの中に入れなければ、貨幣しかないという条件での交換の一般性になる。そうすると、「誰もが貨幣を欲しがる」というのは、法則性というよりも、貨幣しかないのだからそれ以外に選択肢がないというトートロジー(同語反復)的なものになってしまうのではないだろうか。法則性というのは、現象論的段階という現実の観察を経て、その因果律を説明できるような実体を導入することで実体論的段階を迎える。しかし、最初からそれ以外に法則性がないような実体の定義をしてしまえば、現象論的段階なしに法則性が、論理だけで設定されてしまう。それは、科学というような現実を対象にした法則性ではなく、頭の中で論理的整合性が取れるように設定した論理法則になってしまう。貨幣という「一般的購買力」がそのような概念になっていないかという引っ掛かりをここで感じた。そもそも交換行為の起源というのは、誰もその現象を見ることの出来ないもので想像するしかない。現象論のない対象になる。その意味では法則性を立てることができないものではないかとも考えられる。そのような意味では、交換行為の現象論は、貨幣経済の段階にある現在の状況を見て考えるしかないかもしれない。だが、宮台氏の文章では、「一般的購買力」という考え方で、貨幣経済以前の状況も含んだ一般論としてこの概念が導入されているようにも感じる。これはどのように整合的に理解したらいいだろうか。現象論的段階の知識が不十分なまま実体論へ行って、形而上学的になる恐れはないだろうか。交換の起源で面白いと思った想像は、内田樹さんがどこかで書いていたが、人間は過剰に生産してしまう性質を持っていたと考えるものだ。自分たちで必要な量以上のものを生産する性質があったために、余ったものを放置するという行為がまず行われたと想像するものだ。これは誰かとの交換を意図したものではなく、それが欲しいと思ったものがいれば取っていけばいいというような感じだろうか。面白いのは、それをとっていった人間が、ただ消費するだけでなく代わりのものを置いて行くという習慣があったのではないかと想像するところだ。人間の意識の中には、何かを与えることと何かを得ることとが一対の行為として切り離せないものとしてあったのではないかという想像だ。だから、最初の交換は、交換として意図したものではなかったが、結果的に交換になってしまったというものではなかったかと想像するわけだ。契機というのはいつでも偶然性を持っているものかもしれない。それは現象論がわからないのだから、はっきりしたことは何もいえない。ただ、今の確立した交換行為と同じものではなかっただろうということは言えるのではないかと思う。契機は偶然に訪れた。そこには法則性はない。しかし、一度契機をつかんだものが習慣化してくると、それはだんだんと一つの文脈に収斂されて法則性を帯びてくるのではないだろうか。交換というものが習慣化してくれば、それはやがて相互に欲しがるものが交換されるということが多くなるのではないかと想像できる。自分たちが生産したもので余ったものを勝手に置いたとしても、相手が欲しがるもののほうがなくなるということが多くなると想像できる。これは現象を観察しての結論ではなく、交換という行為において、相互に欲しがるものという実体を導入して論理的に考えた帰結になる。起源が分からないものに対して論理を展開しようとすれば、その起源をフィクショナルに設定して、その下で論理を展開するという方向しかないのではないかと思われる。これは極めて数学的なやり方のように感じる。数学では、現象論がないというよりも、現象論を空想的に設定して制限できるので、そこから展開できる論理が単純化されて純粋なものになるという特徴があると思われる。ユークリッド幾何学が、現実の我々が住んでいる世界を記述していると考えれば、現象論的には我々の周りの空間を観察してそれを出発点に出来る。真っ直ぐの線として定義される直線も、現実にはそのようなものはあり得ないが、現実を誤差として抽象することで現象論から実体論へと移る。完全に真っ直ぐな線として実体的な直線を導入するわけだ。この実体の導入によって展開された幾何学が、現実の我々の周りの空間を記述する本質論だというには、それが未知なる空間に対してもいつでも正しいことがいえるということが証明されなければならない。それが仮説実験の論理を通して得られる科学的真理というものになる。しかし数学はその道を取らずに、フィクショナルに設定した公理だけを基礎にして論理的整合性が取れる体系というものを打ち立てた。現実との整合性という仮説実験の道を取らなかった。だがそのことによって、数学の論理的整合性はより完全なものになったといえるだろう。現象論が見つからないものに対して実体を設定して論理展開をしようとすれば、現象論から導かれる法則性を説明する実体が導入できなくなる。そのとき、数学のように、現象論的段階をフィクショナルに設定して、実体を公理的に導入するというやり方があるのではないかと思う。それが「一般的購買力」という概念としての貨幣になるのではないだろうか。貨幣という実体を導入することで、フィクショナルに設定された経済空間での論理的整合性は、現実の具体的な文脈が作り出す誤差を排除して単純化されるのではないだろうか。つまり、論理的整合性はより完全なものを求められるという数学的な効果がもたらされるのではないかと思う。問題は、この法則性が論理的なものであることを忘れないことではないかと思う。それは、論理的なものであるから、現実の具体性は捨象されていて、現実に応用しようとする時はいつでも誤差を生じるということを忘れてはならないのではないかと思う。数学なども、例えば直線は真っ直ぐの線だといっても現実にはいくらでもゆがみが生じて真っ直ぐでなくなる。しかし、それが実用という面で無視できる範囲であれば誤差として処理できる。100mについて1cmの狂いであれば問題はない誤差として処理できるかもしれない。しかし、この誤差が10km先では1mの狂いになれば、これは影響を与える誤差として無視できないかもしれない。ユークリッド幾何では狂いはないはずだから、そのように設計しようと言っても、現実にはそれが危険である状況も生まれるだろう。論理的な法則性を現実に応用する時は、それが現実のある側面を捨象していることを忘れてはならないと思う。一般的購買力としての貨幣も、それが抽象化されたものとして、具体的な側面を捨象してもいい誤差として処理できるなら、この一般論は現実にも通用するのではないかと思われる。その意味では、具体的側面を無視できない個人の行為に対してこの論理法則を適用するのは間違いを起こすだろう。「一般論」と呼ばれるものは、対象が個人ではなく、不特定多数の人間という一般的対象を設定したときに、論理法則として捨象された面が誤差として無視できるのではないかと思われる。一般理論には、数学的な公理を立てて展開するような論理が含まれているのではないかと思われる。これは、ある意味では現象論的段階を無視して、それを捨象してしまうようなことになる。この、無視した現象論が、一般論として打ち立てられた本質論が完成した後には、具体的にどこがどのように無視されているのかが解明できていなければならない。そして、無視した部分が、その本質論では確かに誤差として処理できるということが明らかになって初めて、本質論は本当の意味での正しい本質論として認識されるのではないだろうか。本質論は、現象論から実体論を経て展開されなければ到達しない。しかし、現象論と強く結びついている実体論と違って、本質論は現象論をいったんは完全に離れてしまうのではないだろうか。そこでは数学的な論理が使われるのではないかと思う。現象論から完全に離れたところで完成するのが数学であって、それ以外の実証科学と呼ばれるものは、もう一度現象論に戻って、それを誤差として処理できるということが確定したときに、科学としての本質論が完成するのではないだろうか。現象論に関しては、弁証法的な否定の否定を経た復帰があるように感じる。マルクスは、貨幣についての一般論として『資本論』を書いたように思う。この一般論も、現象論からどのように実体論が生まれ、それが数学的な公理的な展開になり、そして最後にまた現象論に復帰するという視点で見てみるとまた理解が違ってくるのではないかと思う。今度こそ最後まで読みとおせるように改めて挑戦してみたいと思うものだ。
2007.08.28
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宮台真司氏の「連載第一回:「社会」とは何か」という文章の中には、「不透明な全体性としての社会の秩序は、いかにして可能か」という問いかけがある。社会の中のさまざまな出来事が、確率的な偶然性だけに従って起こるなら、その秩序というものは単純なものになるだろう。しかし、実際の社会の出来事は、確率的にはあり得ないと宮台氏が語るような秩序を持っている。確率的にはありえないということは、そこには確率以外の要素による法則性があると考えなければならないだろう。この法則性は社会科学的なもので、人間の意志に深くかかわっている。人間がそのようにしようという意志を持たなければ、この法則性は成り立たなくなるだろう。自然のままに放っておいても成り立つ法則性は、自然科学的なものであり確率的な要因に帰着される。人間の意志に関わって成立する法則性の認識は、どのような三段階を経て本質論的段階に達するのか。単に「秩序」という言葉では、その内容が抽象的過ぎるので、法則性そのものの考察までは進まない。もう少し具体的な法則性としては、宮台氏は「政治主導的な思考では「集団成員の全体を拘束する決定を導く政治共同体の秩序は、いかにして可能か」」というふうに語っている。これは言い換えれば、「社会の中では、個人の意志の自由があるにもかかわらず集団的な決定を経たものは個人を拘束する」という法則性を持っているといえるのではないかと思う。この法則性は現象論的にはよく目にするし、自分でもいろいろと経験するものではないかと思う。民主的な手続きを経て決定したことは、たとえそれに反対だとしても従わなければならないという意思が生まれる。これは、生まれついてからすでに民主主義社会の中で生きてきたために、そのような習慣として身についているとも言えるかもしれない。このように考えるのは、個人という実体の属性としての考察になるので実体論的段階といえるだろうか。現象としては、民主的な決定は個人を拘束するという法則性を見ることが出来る。このとき、例外的に決定に従わない・それに反する行為をする個人がいるときもあるだろう。だが、これは「例外的」であり、ほとんど大部分は決定に従うという現象を確認できるので、この例外的な個人は捨象することができて誤差として処理できる。従って、集団的意思決定の現象論的な法則性は、「民主的な手続きを経て成立した事柄は、その民主的な手続きに参加した成員の全員を拘束する」という法則性として理解(認識)される。板倉聖宣さんが仮説実験授業を展開した「禁酒法」というものは、それが民主的な手続きを経て成立したものであるにもかかわらず、多くの人がそれに反する行動を取っている。これは例外的な誤差として処理できる範囲を越えているように思われる。「禁酒法」という決定そのものが、「集団的決定に従う」という法則性に反する結果を出しているようにも見える。これはどのように理解すれば論理的な整合性が取れるだろうか。「禁酒法」そのものを例外的なものとして誤差として処理すればいいのだろうか。これは現象論的段階では理解できない対象ではないかと思われる。人間の意志という実体を設定して、意志の働きを深く考えなければこの問題は解決しないのではないだろうか。三浦つとむさんは、このような矛盾した存在が思考を発展させる契機になるとよく語っていた。弁証法的な契機が、物事を深く知ることのきっかけになるということだ。「禁酒法」という存在は、一見法則性に反する矛盾した存在のように見えるが、これが本当に形式論理的な意味での矛盾であれば、それは現実には存在することが出来ないだろう。「禁酒法」のような矛盾したように見える存在が現実に存在しているというのは、それは実は形式論理的な矛盾ではなく、視点をずらしたことによって生じた弁証法的な矛盾であるという理解をしなければならないのではないかと思う。そのことによって、この矛盾と見える現象は整合的に理解(認識)されるのではないかと思う。実体論的に考えた場合、人間の意志には「選択の自由」というものが存在すると考えなければならないのではないかと思う。自然科学的な法則性では、「選択の自由」が存在しない法則性が見られる。どんなに空中に浮かんでいたいと思っても、質量を持った物体は地球の引力によって地上に引き寄せられる。空気の浮力が、地球の引力を上回らなければならないという法則性に従わなければ、空中に浮かんでいることは出来ない。これに反して、社会の法則性のように人間の意志が関わってくるものは、法則性が立てられていても、その法則性にあえて反するような選択を行う自由を、人間は意志することが出来る。この意志の自由を制限するものは、規範と呼ばれる、これもまた意志の中に存在するある実体的なものだ。これは、頭の中にある存在なので、物質的存在ではないが、自分とは独立に存在していると捉えるので、主観的なものではなく客観的なものになっている。その意味で「実体的」と呼べるものになるだろう。自分の外に存在しているように感じるものだ。フィクショナルに実体として存在していると考えられる。この規範はフィクショナルに設定しているので、その設定の中身というものにある種の恣意性がある。時には矛盾するような規範が存在したとき、それをどちらを選択するかというのは、完全に客観的には決められない。個々の人間の状況によって、規範の重さが変わってくるだろう。ここに例外的選択をする個人という、法則性から外れる誤差が生じる可能性がある。禁酒法の場合の、禁酒をするという規範は、社会の中で表明する規範と、個人がたとえ一人でも守りつづける規範として自らに課するものとの違いを見せるのではないかと思う。社会の中で表明する規範に関しては、その社会で通用している道徳というものが考慮されて、それからの制限で禁酒をしなければならないというものが出てくるだろう。そうすれば、民主的な決定の下では、禁酒に反対するという行動は取りにくい。公の決定に関しては、誰も禁酒法に反対しないという行動がこれで整合的に理解できそうだ。ところが、個人の行動が誰にもわからない場面での規範としては、道徳的な規範はどうしても弱くなる。公の場ではないところでは、禁酒をしなければならないという規範は、酒を飲みたいという欲望にしばしば負けるのではないだろうか。そうすると、法律的には取ってはいけない行為である飲酒というものも、誰にも見られていない・外に知られることがないということがあれば、あえてその行為を選択するという自由が人間にはあると考えられる。道徳がもっとも強固になるのは、誰も見ていないという場面でも、神という絶対的存在がそれを見ていると意識できるかどうかだといわれるときもある。この神は、形を変えた自らの意志に他ならない。結局は道徳が守られるかどうかは、自分がその行為を意志するという選択が出来るかどうかにかかっている。道徳にとって主体的な意志は決定的に重要になる。それを法律という外部の圧力によって規範化するようになれば、公にならない場面ではそれが破られるという道徳の堕落にもつながるだろう。板倉さんが発見した社会の法則は、このような人間の意志の働きという実体論的段階での理解(認識)が出来るのではないかと思う。禁酒法という民主的決定が守られなかったことの整合的理解は、本来は道徳的に主体的に守らなければならない規範を、法律として強制的に守らせようとしたところにあると理解できそうな気がする。これは、道徳と法律という実体論的段階の理解で、現象論的には矛盾するような事柄が理解できるのではないかと思う。このような理解があれば、「民主的に決定されたことが、民主主義社会では個々の成員を拘束する規範として働く」という法則性を認識することが出来るのではないかと思う。これは、この法則に反する事柄を例外的なものとして理解することが出来るので、社会の法則として成り立つのではないかと思う。なお社会の法則性の実体論的段階を考える上で重要だと思われる事柄に、その実体の定義というものがあるように感じる。それは実体論的に扱うためには、抽象化した実体として設定する必要があるのではないかと思う。これが抽象化されずに、いつまでも現実存在としての対象の属性を引きずっていると、それは現象論的段階にとどまるのではないだろうか。現象論的段階を抜けるには、実体という対象の抽象化というものが必要なのではないかと感じる。宮台真司氏は、この文章の中で「政治が集団全体を拘束する決定を導く機能だとすると、経済は集団全体に資源配分する機能のことです」と語っている。これは、「政治」と「経済」を定義していることになっているのだが、ここで語っている「政治」と「経済」は実体論的な意味での抽象化された定義のように思われる。つまり、現実に「政治」や「経済」の現象として現れている、現実存在をそのまま語っているものではない。理論が一つ上の段階に発展するには、このように言葉の定義というものが重要になってくるのではないかと思う。現実の政治がまったく機能していない状況を見て、集団全体を拘束するとは限らない、とこの定義に文句を言いたくなる人もいるかもしれないが、これは実際の政治の現象論を語ったものではなく、抽象化したものと受け取らなければならない。むしろ、現実に機能していないような政治があったら、それは例外的なものとして処理するという暗黙の前提があるというふうに受け取るのが正しいだろう。そうでなければ、実体論的段階の論理が進められないのではないかと思う。なおこの定義で面白いと感じるのは、「政治」の定義は、意志決定に関するものとして社会科学的な要素が強いのに対して、「経済」の定義は意志の介入が少ない資源配分として定義されているように感じるところだ。資源配分は、もちろん誰かがその決定権を持っていれば、決定権のある人間の意志が反映するだろうが、個人が決定権を持っていなければ状況のメカニズムで記述することが可能になる。これこそが現代経済学の姿ではないかという気もしてくる。現代経済学は、人間の意志を経済現象から追い出すことによって、極めて自然科学に近いものにすることが出来たのではないだろうか。それは、現実の経済現象を扱っているという意識がなければ、ほとんど数学の一分野だと呼んでもいいようなものになっているという。自然科学的な法則性は観察によって得られる。しかし、社会科学的な法則性は観察だけでは例外的なことが目に入ってきて、現象論の段階でさえも法則性だと認識することが難しいかもしれない。そこに秩序を発見するということが、ある意味で法則性の認識になるのではないかと思う。この秩序は、その社会の中で普通に育った人間にはわかりにくいかもしれない。あまりにも自明性が強すぎて、それが法則であるというよりは、形而上学的に「そうなっているからそうなのだ」という感覚を持ちやすいかもしれない。その意味では、自明性が壊れたときが法則性に気づくきっかけを与えるかもしれない。現在の社会状況は、まさに自明性がさまざまなところで壊れているようにも感じる。そこから社会の法則性(秩序)というものを、三段階を経て本質論的段階として理解したいものだと思う。
2007.08.27
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法則性は言葉で表現しただけでは、それがどの段階にあるかは分からない。認識の段階として、どのように理解していれば三段階論におけるどの段階に相当するのかという問題を考えてみようかと思う。題材としては、宮台真司氏の社会学入門講座から拾ってみようかと思う。まずは、その「連載第一回:「社会」とは何か」の中に書かれている法則性を考えてみようと思う。ここには、「マルクス主義は、恐慌を含めた社会の不透明な暴走は、市場の無政府性と、それを自らの利権ゆえに維持したがるブルジョア階級が支配する国家という暴力装置がもたらすものだと考え、プロレタリア独裁による市場の無政府性克服が処方箋だ、と考える思想です。」という記述が見られる。ここで語られている法則性は、宮台氏自身の認識としての法則性ではなく、マルクス主義が捉えた法則性を語っているのだが、これがどの段階として理解できるかを考えてみようと思う。まず「恐慌を含めた社会の不透明な暴走」というものの現象論的な現れ方を考えると、その現象を観察できるときにいつでも「市場の無政府性」が観察できるという現象論的データがあった場合、それは現象論的段階の仮説として、その原因は「市場の無政府性」だという法則性を捉えることが出来るだろう。この帰納的に得られた法則性は、必然性として認識できるのは時間的な過程がつながっているということだけだ。経験として、常にそれが見出されるということのみが現象論的段階では理解できることに過ぎない。ある種の現象を観察したとき、いつでもそれに伴って見出されるものがあった場合、現象論的にはそれが原因だという仮説を立てることが出来る。これは、内的な必然性ではなく、常に見出されるという偶然性が根拠になっているものとして理解されるので「現象論的段階」と呼ばれるのだと思う。これは、以前にマル激で議論された狂牛病に関する議論で、プリオンというものが本当の原因なのかという問題に通じるようなもののように感じる。プリオンは、狂牛病にかかった牛からは常に見出されるそうだ。だから、現象論的には、プリオンが狂牛病の原因だという仮説を立てることは出来る。しかし、このプリオンという実体が、狂牛病という病気を引き起こす原因を持っているという属性に関してはいまだに証明がされていないようだ。だから、プリオン説というのは、三段階論で言えば、まだ現象論的段階にとどまっているといってもいいのではないかと思われる。さて、マルクス主義の「市場の無政府性」という法則性は、現象論的段階を越えているだろうか。これは、市場という実体的存在が、コントロールを失った無政府状態にあった場合、恐慌をはじめとする何らかの問題を必ず引き起こすということが、論理的に展開できるかどうかにかかっているような気がする。論理的に展開できるということが、単に時間的な経過として常に観察できるという現象を越えるものになっているのではないだろうか。市場にある種の秩序があれば、無政府状態とは呼ばれないが、この秩序というのは無制限の自由を認めるのではなく、犯してはならない原則を守るという意味での秩序ではないかと思われる。もし原則を認めず、完全な自由の元に市場参加者が恣意的にふるまうことが許されていれば、そこに何らかの問題が引き起こされるのは論理的に必然性を持っているのではないかと思う。完全な自由の元に選ばれる行為に関しては、それが論理的に矛盾しているかどうかは判定されないと思うからだ。「市場の無政府性」が完全な自由という意味であれば、論理的にはこの法則性は成立するのではないかと思われる。だから、その意味では現象論的段階を越えて実体論的段階には達しているように思われる。しかし、その理解をしようとする学習者が、論理的な理解に進まずに、現実の現象を見ただけで、「市場の無政府性」がやはり問題だと短絡的に理解するなら、これは法則性が実体論的段階にあったものとして記述されていても、その理解は現象論的段階にとどまるのではないかと思われる。経験主義的に法則性を理解しようとすれば、それはすべて現象論的段階の理解にとどまるのだろうと思う。この「市場の無政府性」という法則性を、完全な自由な状態の無秩序という理解をすると、もう一つ別の問題も起こってくる。この理解で現象を見直してみると、現象論的には「完全に自由な市場」というのは見つからないからだ。どんなに発達した資本主義国であろうとも、無制限の自由を持っている国家は経験的には存在しない。そうすると、この法則性は、論理の範囲では正当性を主張できるが、まったく現実には見つからないどこか空想的な抽象的な世界の話をしていることになってしまう。現実の「市場の無政府性」というのは、市場のどの部分が無秩序になっている「無政府性」なのかということを考えて、もう一度現象を見直さなければならなくなってくるのではないかと思う。実体論的段階が現象論的段階に影響を与えて、また新たな現象論的段階の認識を求める必要があるのではないかと思われる。ここからはあまり詳しいことは分からないのだが、大雑把に言うと、市場における「需要」と「供給」の無政府性というものが、マルクス主義で問題にされたものではないだろうか。資本主義の考えでは、これは自由に任せなければ、合理的に正しい水準に落ち着くという運動が壊れてしまうと考える。マルクス主義では、これこそがコントロールされなければ恐慌やインフレという問題が生じるという法則性が捉えられているのではないだろうか。新たな現象論に対しては、「需要」と「供給」という実体が設定されて、この実体の属性として論理展開がされることにより実体論的段階へと発展していく。この実体論的段階では、資本主義的な考え方のほうが、産業の発展・物質的な豊かさという点では正しかったことが証明されたのではないかと思う。マルクス主義的な考え方で市場をコントロールした国は、すべて経済的には破綻してしまったという現象が見られるからだ。さて、この「需要」と「供給」に関しては自由にすることが正しかったという結果が出ているような気もするのだが、ここでも「完全な自由」にはなっていないようにも感じる。ある種の公共財に関しては、自由競争によって発展させるよりも、その需要と供給をコントロールして、過不足がないように社会的に流通させるということが図られているようにも感じる。市場のすべての部分をコントロールしようとするマルクス主義的な法則性は否定されたが、一部はコントロールされたほうが正しいという法則性は否定されていないようにも思える。そうすると、この視点でまた現象論的なデータを集めるということが行われる。そして、その上でまた新たな実体が導入されて、新たな実体論的段階が展開されることになる。法則的認識は、このように円環的に現象論的段階と実体論的段階を回るのではないだろうか。人間の生存に関わる福祉的な部分では、自由競争に任せて、敗者は退場すればいい・すなわち死んでしまっても仕方がないという判断は出来ないのではないかと思う。このような部分では、何がコントロールされるべきかという法則性が問題になるだろう。マルクス主義的な発想も、すべてが否定されるのではなく、極論が否定されて一部が正しいものとして取り入れられていくというのが、理論の発展としては正しいのではないかと思う。現象論の捉え方からある種の実体が導入されて実体論的段階で論理が問題にされる、ということがこの二つの段階で重要ではないかと思う。そして、この考察からは、現象の捉え方の別の視点が発見されて、再び現象論に戻って、新たな視点で現象を見ることによって新たな実体がまた導入されるという、この二つの段階の繰り返しがあると思う。そして、この繰り返しが十分に行われ徹底されて後にようやく、現象と実体をすべて包含するような、高度な抽象のレベルの対象に関する法則性として本質論的段階を迎えるのではないだろうか。社会の秩序に関する本質論的段階は、今の僕にはまだ分からない。それが宮台氏が説明するシステム理論というものにあるのではないかという気はする。少なくとも、マルクス主義の捉え方は、本質論的段階に達することには失敗したのではないかということは言えるのではないかと思う。それは、マルクス主義を基礎にした社会主義国家の崩壊という現象が、そのような判断に結びつくのではないかと思う。マルクス主義的な「市場の無政府性」という考え方は、一つの実体論的段階を提唱はしたが、その円環的な論理の発展によって本質論的段階に進むことは出来なかった。これは、実体論を徹底することなしに、現象論的段階の知識が不十分なままに本質論的段階の認識(理解)に一足飛びに行こうとして、形而上学的に、先入観として抱いている法則にしがみついてしまったのではないかとも感じる。宮台氏のシステム理論に関しては、この社会学入門講座を見ながら、どの点で本質論的段階に達しているのかを考えてみようかと思う。システム理論は、現存する社会だけでなく、可能性として想定されている未知の社会に対しても成立するような法則性のようにも感じる。非常に抽象度が高い記述にそのようなイメージを感じる。もし、そのように対象に対する普遍性があるのならば、本質論的段階であるといえる可能性もあるのではないかと思う。法則性を問題にしない、個別的な事実に対する判断であれば、現象論的段階にとどまっても害はない、あるいは問題はない場合もあるかもしれない。好き・嫌いという感情的・感性的判断でもかまわないという対象もあるだろう。だが、法則性が関わってくるような対象・問題に関しては、出来れば現象論的段階から実体論的段階へ、そして最後は本質論的段階の認識(理解)が出来るようにしたいものだと思う。個別的な問題として朝青龍問題に関して言えば、当事者としては利害関係もあったりして、正しい解決を求めるなら本質論的段階の理解が必要だろう。しかし直接利害関係がない僕のような立場では、それほど深く考察することも必要ないだろうと思っている。勝手な放言でも、ある意味ではかまわない。しかし、放言することにもたいした意味はないので、まあ朝青龍が気の毒だなという感想を語る程度だろうか。反対に、朝青龍が嫌いだという人は、朝青龍の行動すべてが批判的に思えてくるだろうと思うが、それも利害関係のない僕には、まあどう思おうとその人の自由だという受け取り方だ。別にそれに反論したいという気も起こらない。個別的ということでは、歴史的な事実に関しては、これが社会的に大きな意味を持つものであれば、利害関係に関係なく法則性を本質論的段階にまで高めて理解したいと思う。広島・長崎への原爆投下は、個別的な歴史的事実だが、久間発言に見られるようにその正当化をめぐる理論は、社会の法則性と密接な関連を持ったものだと思われる。このような問題に関しては、自分がその正当化の論理を気に入るか気に入らないかとは関係なく、法則性の認識として正しく理解したものだと思う。それは、三段階論という観点を使うと今よりもうまく出来るのではないかという気がしている。
2007.08.26
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三段階論において現象論的段階で言われる「現象」や、実体論的段階で言われる「実体」というもののイメージは、多少の差異はあっても大筋では同じものであることが多いのではないだろうか。「現象」は、表に現れ・目に見えたそのままのものを記述すればいいのだという受け取り方が出来る。また、実体は現実の物質的存在を指すのだと理解できる。これは、理論の発展段階においては、仮説としてフィクショナルな実体という形を取ることもあるが、それを現実の物質的存在として扱うという点では、フィクショナルであっても同じである。これに対し「本質」と呼ばれるものは、そのイメージがなかなか難しい。つかみ所がなく、人によってはそれを「本質」だと呼ぶことに異論が出てくる場合もあるのではないだろうか。「本質」というのは辞書的には、「物事の根本的な性質・要素。そのものの、本来の姿」というふうに説明されている。ある事柄を「本質」と呼ぶには、それが「根本的」なものであるという判断が伴うわけだ。それではその判断はどうやってなされるのか。根本というのは、そのものが寄って立つ基盤であり根っこになっているものだ。それなしには、その事物は事物としての個性を失ってしまう。このような判断は、対象が何であっても簡単にはできないだろう。試みに、何かある対象を思い浮かべてその本質を考えてみても、なかなかぴったりする説明を見つけるのは難しいだろう。特に対象が複雑になればなるほど、その本質が何であるかを見るのは難しい。国家の本質を暴力装置の機能による運動に見るという、萱野稔人さんの本質論は、それが本質であることを真に認識するのはかなり難しいことであるように思われる。本質論的段階が、確かに本質を語っているのだと認識できるためにはどのようなことが必要だろうか。三段階論は、法則的認識を語るものであるから、この「本質」も、法則的認識としての本質に達したものと見ることが出来る。これは、現象とは違うものとして、現象の背後に隠れたものとして発見される本質なので、段階を経て発展していくものではないだろうか。もし、現象の背後に隠れていない、現象がそのまま本質を体現しているような単純な対象だったら、何も三段階の発展を経なくても、見たままのものをそのまま本質だと認識すればいいことになる。三段階論で言う「本質」は、現象の背後に隠れているからこそ三段階が必要なのだと思う。また、この本質は実体論的段階とも違うものだということは、哲学的な意味で「実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの」という定義に対応するような「本質」ではないかと思われる。この「本質」は、個別的な現実存在の属性として認識されるようなものではないということだ。現実存在から抽象された、これまた哲学的な意味で「偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質」と言われるものになるだろう。武谷三男さんは、ニュートン力学を運動の法則性の本質論的段階として説明している。運動というのは、運動そのものを表現することは出来ない。出来るのは、瞬間の姿の記述であり、現象論的には、ティコ・ブラーエの段階がそうであると指摘されているように、天体の位置情報と時間の情報の記述が、間接的な天体の運動の表現になる。いつどの場所にどの天体が存在していたかの記録だ。これは、天体が運動しているというそのものの記述ではなく、このデータの集合体が天体の運動を連続的に想像させるときに運動として認識されるものになる。そして現象論的段階では、このデータの間に数学的な法則性が発見されるということになる。これは、偶然そう計算できるのか、必然的にそう計算できるのか分からないが、とにかくブラックボックスとしての関数の発見が出来る段階だ。この現象論的段階では、ニュートン力学で登場してくる質量・加速度といったものは影をひそめている。位置情報は記述されているものの、それは孤立した数字として登場しているだけで、ちょうどパズルを解くときのように、法則性も偶然見つかるという感じになるだろうか。これが実体論的段階になると、単なる数字の計算が合うだけでなく、運動の主体としての天体という現実存在が考察の方向性を決めてくる。観測の数字だけなら、何月何日の何時にどこの方向にある天体が観測されたということを考えるだけだが、それが実体として考えられると、周期的に見えるのは、それがある軌道のもとに回転運動をしているからだという考察が生まれてくる。そうすれば、その軌道がどのようになっているかも考察の対象になってくる。実体の導入によって、単なる計算の数字あわせから、その実体が従う法則性として法則性の認識が変わってくる。これが実体論的段階ではないかと思う。この実体論的段階はまだ本質論的段階とは呼ばれていない。それは、この段階が、現象の背後までも解明していることになっていないからではないだろうか。実体は、いまだに現象を引きずって、現象に密着した法則性の認識になっているのではないだろうか。それは、天体の場合でいえば、天体という個性を持った具体的な対象の属性として、現象した観測の具体的な因果律を導くような法則性になっていて、本来の意味での普遍性に達していないのではないかと思われる。ニュートン力学において、具体的な天体として捉えられた対象が、物質という普遍的な抽象的対象になり、すべての物質において成立する法則性が捉えられたと考えられるのではないだろうか。この物質は、もはや具体的な現実存在ではないので、「実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するもの」として捉えられるのではないだろうか。そして、ある物質が天体であるか、あるいはそのほかありふれたものであるかは偶然のことであるが、物質であれば必ず成立する法則性としてニュートン力学が理解されれば、「偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質」を捉えたともいえるのではないかと思う。さらに、ニュートン力学では<F=mα>という、力が質量と加速度に比例しているという法則性が重要になってくることを考えると、これが現象の背後に隠れた本質を現していると見ることも出来る。加速度というのは、直感的には捉えにくい概念なので、現象として直接見ることが困難だと思う。そういう意味で、この本質は現象の背後に隠れているものではないかと思う。力を物質に作用させるとその物質は運動を始める、すなわち動き始める。これは、速度0(ゼロ)の静止の状態から、ある速度を持った運動の状態になったのだから、力を与えることで加速度を生じたと理解しなければならないのだが、動いたという現象は、ある速度を持ったという受け取り方をするほうが易しいので、力を加えると速度が生じるというイメージになって、その速度を保つために力を加えつづけるというイメージが生まれてくる。力は、加速度よりも速度と結びついてイメージされやすい。これを加速度との法則性として捉えたところがニュートン力学のすばらしさだというのを、板倉聖宣さんがよく話していた。この法則性を技術に応用したのが、名南製作所というところが作っていたベニヤ板を作る機械だったといっていた。ベニヤ板を作る機械では、木を削るのにモーターの動力を金属製のベルトで伝えていたそうだが、機械の始動のときにこのベルトがよく切れたという。これは、始動のときに非常に大きな力がベルトにかかるからだった。それはニュートン力学の法則性によって捉えられる。機械の始動の時は、ベルトはまだ動いていない速度0の状態から、いきなり速度が大きなトップ状態の運動になる。このときの加速度は非常に大きなものになるので、加速度に比例する力は当然のことながら大きなものになる。この力にベルトの強度が耐えられなければ、ベルトは切れてしまうということになる。そこで名南製作所では、スピードがいきなりトップ状態になるのではなく、少しずつ加速度が加わるように徐々に速度を上げていくような工夫をしたらしい。それは連続的にスイッチを切り替えるようなメカニズムだったらしい。始動させてすぐにスイッチを切って、惰性で動いている間に次のスイッチで加速度を加えていく。そうすれば、小さい加速度を連続的に加えていくことになり、かかる力は小さなものに出来る。見事なニュートン力学の応用だと思う。名南製作所では工場の壁にという文字が刻んであるらしい。これがすばらしいアイデアを生み出して会社が発展したからということだった。本質論的段階の法則性は、ニュートン力学の場合で言えば、「すべて」の物質的存在に対して成立するという普遍性を持っているので、その応用の豊かさをもたらしていると考えられる。「すべて」の対象に適用できる法則性ということが、また本質論的段階の特徴の一つではないかとも思われる。なお、ここで「すべて」という言葉に括弧をつけたのは、この「すべて」はある種の限定された意味での「すべて」を指すだろうと思ったからだ。ニュートン力学でいえば、現象として記述できる「すべて」の物質的存在の運動に対しては成り立つ法則性という理解をしているからだ。ニュートン力学は、位置情報・質量・速度(運動量といってもいいかもしれない)というものが観測可能で、現象として捉えられるという条件のもとで語ることが出来る法則性だと思うからだ。この前提が成り立たなくなった対象においては、もはやニュートン力学は本質論的段階の法則性だとは言えなくなるのではないかと思う。量子力学的な世界では、位置情報と運動量の両方を同時に決定することは出来ないという。不確定性原理というものが働く世界になる。このような世界では、この両方に基礎を持つニュートン力学では運動の記述が出来ない。ニュートン力学の本質論的側面において、この対象は「すべて」の中から除かなければならない。だから、「すべて」は括弧つきとして考えている。ニュートン力学は、「すべて」として捉えている対象の範囲を限定した場合、その「すべて」の対象に対して本質論的段階を語る。しかし、この「すべて」の範囲が広がってしまうと、もはや「すべて」に通用する本質論的段階ではなくなる。このとき、ニュートン力学としては同じものであるのに、視点が変わったために、このニュートン力学は「現象論的段階」になってしまったと考えられるのではないだろうか。極微の世界までも対象にしてしまえば、ニュートン力学が成立するのは、その極微という条件が影響を与えない、それが誤差として捨象できる範囲の現象を扱うものになってしまうのではないかと思われる。世界を捉える視点がより広くなると、本質論もそれに対応してより広く深いものになっていかなければならないのではないかと思う。萱野さんの国家論や、宮台氏の権力論は、個別具体的な国家や権力だけでなく、「すべて」の国家や権力を対象にしてもなお成立する普遍性を持っているであろうか。それは、現実に存在する国家や権力だけでなく、想定しうるあらゆる国家・権力の姿に応じてもなお成立する法則性を語っているものでなければ本質論的段階とは呼べないのではないかと思う。そういう観点でも、両者の理論を考えてみたいものだと思う。
2007.08.25
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武谷三男さんの三段階論というのは、法則的認識というものが、本質的な段階にまで高まっていく発展の様子を三段階のものとして解明したものである。これは、板倉聖宣さんによれば三つでなければいけないものらしい。二つになったり四つになったりすることはなく、三つの段階であるということを武谷さんが発見して、これが客観的な法則として確立したという解釈をしている。もう新たな「段階論」を見つけようとしてもだめだということだ。板倉さんが「武谷三段階論と脚気の歴史」で語るように、三段階論の段階は、そこでもうこれ以上は深められないというところまで行って、次の段階へと飛躍しなければならない。最も高い段階である本質論のほうがすばらしいからといって、現象論や実体論をそこそこにして、一足飛びに本質論へと飛躍は出来ないのだ。武谷さんも「ニュートン力学の形成について」という論文で、「現象論的な知識が十分でなくて直ちにその原因を思惟するとき形而上学に陥るのである」と書いている。この言葉の意味を正確に受け取るためにも、各段階の特徴というものを知り、その段階を徹底させるということがどういうことなのかを考えてみたいと思う。言葉の上だけで実体論や本質論を語れば、その言っていることは正しいはずなのに、なぜ認識が形而上学的になってしまうかということも考えてみたいと思う。現象論的段階は、武谷さんによれば次のように説明されている。「すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行われる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。」現象論的段階では、見たままの事実を、それが見えるように記述するだけであって、そこに法則性が見つかったとしても、その法則性がどこからくるものかというのはまだわからない状態だといえる。天体観測の場合で言えば、そのデータの周期性というものは数字の上からは見つかるものの、それがなぜそのような周期性を持つのかという原因・理由の面はまったくわからない。現象としてとにかくそのようになっているという認識が「現象論的段階」と呼ばれるもののように思われる。現象論的段階では、そこで認識される法則性というのは仮説の域を出ないものであるように見える。それは、事実から帰納的に引き出される法則性であって、武谷さんは「個別的判断」という言葉も使っているが、その法則性は法則であるにもかかわらず、今見た事実に関する個別的なものとして現れているだけなのだ。つまり、法則性があるように見えるけれど、次の観測をしてみなければその法則性が正しいかどうかはまったくわからない。ある種の論理的な帰結としての法則性ではなく、今までもそうだったから、次もそうだろうというような習慣の繰り返しによる予想のような法則性だ。これは、確実にそのとおりになるという主張は出来ない、いつ間違えるかも分からない、個別的な事実を一般化したような帰納的法則になっている。この段階の知識が不十分であると、法則性だと思ったものが次の観測によって裏切られることにもなるのではないかと思う。このような時、あくまでも法則性があるはずだと考えると、「現象論的な知識が十分でなくて直ちにその原因を思惟するとき形而上学に陥るのである」ということになるのではないかと思う。天動説の歴史は、観測によって裏切られる理論を、形而上学的な前提である「地球が中心である」というものを守るために展開された実体論的段階なのではないかという感じもする。権力という社会的な存在に関しても、その現象論的な知識が不十分だと、自らの立場からくる経験を権力のすべての姿だと思い込んで形而上学的な判断になりそうな気がする。僕は、若いころから左翼的な気分と言説に慣れていたせいか、権力が民衆を弾圧するという面が権力の現象論的段階としてよく目に付く。しかし、これだけが権力の姿だと思うと、その法則的認識は形而上学的になりそうな気もする。権力は、民衆を弾圧するだけでなく、民衆にとっての利益ももたらす。その面の現象論的知識を十分に集めないと、権力に対する正しい法則的認識は持てなくなるだろう。「権力は常に民衆を弾圧する」「権力は悪である」という見方は、形而上学的なもののように感じる。もちろん、これが一方的な見方であるのと同じように、権力が民衆を正しく導くとしか見ないのも、裏返しの形而上学になるだろう。いずれの面も現象として観察できると解釈しなければならないだろう。さて、この現象論的段階では、個々の事実は観測された結果でしかなく、それを構成する要素としての実体も事実を媒介するものとしては捉えられていない。実体論的段階というのは、この実体の構造に対してある種の仮説を設定して、現象をもたらす媒介となる構造・属性を論理的に解明しようとするものになる。ここではもはや事実を集めることは問題にされておらず、事実は十分にあるので、その事実をもたらす「媒介」になる項を求める論理が要求されている。関数のパラメーターがほしいという段階と考えられるだろうか。武谷さんは、ケプラーの段階を実体論的段階と呼んでいるが、これはどこが実体論的なのかということがけっこう難しいのではないかと思う。ケプラーは、実際の天体という「実体」を基礎にしたから実体論的だというと、何か分かったような気がするが、ティコ・ブラーエが天体を観測した時だって、その観測の対象は天体という「実体」だったのではないだろうか。現実の「実体」を対象にしたというだけのことで「実体論的」だと言われるなら、これは現象論的との区別がつかない。現象論と実体論の決定的な違いはどこにあるのだろうか。それは、法則性の原因という因果律において、実体の構造に求めているというところにあるのではないだろうか。ケプラーの第一法則では、「惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く」と記述されている。惑星と太陽という実体が、このような構造をもっていることが原因となって、ティコ・ブラーエが観測したような数値がもたらされるのだという法則的認識が、ケプラーの段階を実体論的段階と呼ばせているのではないだろうか。ティコ・ブラーエが観測したのは、確かに実体としての天体だっただろうが、その数値として現れる法則性は、天体の実体的側面とは関係なく、数値の上で法則性が認識されていたのではないだろうか。それが現象論的段階と呼ばれる所以ではないだろうか。現象論的段階で求められた法則性(仮説としての帰納的帰結としての法則性)は、実体論的段階において初めてその因果律が論理的な主張として表現されるのではないだろうか。ケプラーの法則ではさらに「惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である」「惑星の公転周期の2乗は、軌道の半長径の3乗に比例する」ということが語られる。これは、観測結果が数値として法則性を持っているという主張を越えて、「惑星」という一般化された・抽象化された対象に対して成立する法則として述べられている。この太陽と惑星は、太陽系においては有限個の存在として特殊性を持っているものの、もし同じような天体が存在するなら、それらも同じように抽象的対象として「太陽」と「惑星」として捉えられる。そのような意味で、ケプラーの法則における実体は抽象化された実体だといえるのではないだろうか。この実体論的段階が、ニュートン力学において本質論的段階に到達するという。これは、実体として導入された天体という抽象的対象(これは、個別的・具体的な天体を越えたということで抽象化されているが、それが具体的な物質的存在だという意味では完全な抽象ではなく、具象性を持った抽象と言える)が、質量を持つすべての物質的存在という完全な抽象的対象にまで高まり、その抽象的対象の間に成り立つもっとも一般的・不変的な法則性として捉えられる。このような高度な普遍性を持つ段階を本質論的段階と呼んでいるのではないだろうか。ニュートン力学においては、天体であろうが、我々の身近に存在する普通の物であろうが、どちらも同じ法則性に従うということが主張される。この段階においては、実体というパラメーターは、法則性という関数においては不要になってしまう。実体が捨象されてしまうということも本質論的段階で重要なものではないだろうか。ニュートン力学では、物質的存在という実体は、質量と位置情報・速度というような属性が知られれば、それによって運動の状態が完全に記述出来てしまうというような対象になっている。それは具体的な物としてイメージする必要はなくなる。これらの情報さえ持っていれば、それは空間の点であってもかまわないという扱いになる。またこの本質論的段階では、実体論的段階では解明できていない因果律を説明することも出来る。ケプラーの法則は、現象論的段階の数値の法則性を、天体の間にこのような法則性があるから、そのような観測結果になるのだということで因果律を説明できた。しかし、その天体の法則性はなぜあるのかという因果律の説明は、実体論的段階では出来ない。実体論的段階の法則性を、実体論的段階の論理で説明することは出来ないのだ。だがニュートン力学では、初期状態の質量・位置情報・速度などが分かれば、その値に関する法則性によって天体の運動が行われるのだという因果律の説明が出来る。しかし、この法則性がなぜ成り立つのか、ということまではニュートン力学そのものではやはり説明しないだろう。このとき、さらに上の段階があれば、その上の段階によって因果律の説明が出来るだろう。それでは、本質論的段階よりも上の段階が存在するのか?それは板倉さんによればないということだ。これは、運動に関する法則性において、ニュートン力学は本質論的段階に到達したが、このニュートン力学が実は現象論的段階として解釈できたりする見方というものがあるだろうというのが、武谷さんの解釈らしい。法則的認識は、やはり三段階であって、この三段階が円環的に発展していくのだと見るのが武谷三段階論だということだ。本質論的段階というのは、実体が捨象されてしまうので、それが機能に解消されていくようにも見える。しかし、実体は捨象されても、それが捨象されているというところに、実は完全になくなってしまったのではなく、内に含まれながらも否定されているという弁証法的な面を見ることが出来る。本質が機能に求められるというとき、内に含まれて否定されている実体という側面を忘れないようにしなければならないだろう。国家論や権力論において、実体論的段階で導入される実体とは果たしてどのようなものになるのだろうか。そして、本質論的段階では、その実体がどのように捨象されて、内に含まれた形で否定されるだろうか。それはどのような機能として本質的な面を見せてくるのだろうか。社会科学では、自然科学ほどすっきりとした形で三段階論が成立しないかもしれないが、法則的認識という共通項で捉えられないか考えてみたいものだ。萱野さんの国家論や宮台氏の権力論を、三段階論の観点で理解を図ってみようかと思う。
2007.08.23
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板倉聖宣さんは「武谷三段階論と脚気の歴史」の中で、武谷三段階論は「法則性」の認識の発展の段階を語ったものだと指摘している。重要なのは、その認識が「法則性」の認識であるということで、科学としての認識と言い換えてもいいだろうと思う。ところで科学は、自然科学と社会科学という違いを持ったものが存在する。人によっては、科学として認められるのは自然科学だけで、社会科学は科学として認めないという人もいるようだが、一般理論における法則性を語ったものとして、その正しさが確認されているものであれば社会科学と呼んでもいいのではないかと思う。対象が自然であるか社会であるかということは、その法則性の現れ方に違いが出てくるように思われる。自然科学の対象は、人間の意志とは独立に存在している物質的なものである。それは、人間がこのようであって欲しいと願っても、願いがそのまま実現されるのではなく、つまり主観的に都合よく操作できるのではなく、客観的な法則性というものを見つけることが出来る。自然科学の法則性は、ほぼ100%の科学者が、そこに客観的な法則性が存在するのなら、最終的にはその法則性を認識するようになる。板倉さんは、このことを「真理は10年にして勝つ」と表現していた。どんなに発見が難しい法則性であっても、それが本当に正しいものであれば、10年くらいの時間をかければ、だいたい本当の意味での科学者であればそれを理解する(認識する)ということだ。自然科学の場合は、対象が人間の意志では操作できないので、ある意味では自分の判断を信用することが出来て、他者への信頼を基礎にして判断するのではなく、その真理性の判断は言葉の本来の意味での客観性を持つことが確認できる。ところが、社会科学の場合は、ある法則性をそこに発見しても、人間の意志の自由を働かせることによって、その法則性に逆らうことが出来てしまう。人間の意志によって法則性が揺れ動くということが社会の法則の場合は起こってくる。このようなものを「法則性」と呼んでもいいのだろうという疑問が湧いてくることだろう。自然科学的な法則性こそが法則性の本来の姿だと思ったら、このような不純な法則性はなかなか容認しがたいと思うだろう。意志の自由によるこの誤差を誤差として認識して、社会科学の場合の法則性を打ち立てることは可能だろうか。板倉さんは、「生類憐れみの令」と「禁酒法と民主主義」という授業において、次のような社会科学的な法則を主張している。それは、「道徳のような、自由意志を基礎にして確立しなければならない規律を、処罰を含む暴力装置の機能によって強制するような法的なものにしてしまえば、本来の道徳としての意志による規律という面が破壊され、かえって道徳的には堕落する」というものだ。法的な規制が必要なものというのは、それに違反すれば社会の混乱を招き、社会の秩序維持が困難になるような規範に関してでなければならない。少しばかり迷惑がかかろうと、それが社会の秩序を維持困難なほどに破壊するものでなければ、社会全体で規制するというよりも、個人であるいは小集団でその害に対処するというほうが正しいだろう。つまりそれが道徳ということになる。道徳は、あくまでも主体的に従う規範でなければならないのであって、処罰されるからという、権力が規制するものであってはならない。権力は、道徳規範にまで介入してはいけないのである。そんなことをすれば、道徳規範そのものが堕落してしまうというのが、板倉さんが主張する社会の法則だ。この法則性に個人で逆らうことは可能だ。法律のあるなしに関わらず、自らを厳しく律するような人なら道徳的規範を守ることが出来るであろう。それが法律化されようと、その人個人の道徳性は堕落しない。意志によってこの法則性に反することが出来る。しかし、個人の道徳性は守れても、社会の道徳性はどうだろうか。個人と社会は違うということの中に、この個人の意志の自由による法則性のゆれが、誤差として処理できる可能性があるように感じる。板倉さんは、この社会の法則性の認識の現象論的段階として、さまざまの統計データを持ってきて説明している。個人としては道徳を守る人がいたかもしれないが、社会全体としてはどうかということが統計的なデータに表れると見たわけだ。禁酒法の場合は、それが実施された場合に、社会全体での酒の消費量がどうなったかということを見ると、その効果というものが知られるだろう。生類憐れみの令では、野良犬の数がどうなったかということを見れば、人々が犬を哀れんで大切にしているかが伺えるかもしれない。これらは、本当に正確な数字というのを出すのは難しく、推定に頼るほかないが、法律が道徳性を確立したと言えるほどの効果があったという結論を出せるような数字ではないようだ。江戸では野良犬が増えすぎて、政府が野良犬を集めて養っていたそうだが、その数の多さにたいへんな負担があったそうだ。これは、下手に野良犬などに関われば法律に触れてしまうので、誰もが野良犬にかかわらないようにしたという、まさに目的と逆の効果が生まれた結果らしい。個人というのは、意志の自由による行為の選択によって、さまざまな法則性を越えてそれに反することが出来てしまう。しかし、社会全体を統計というめがねで見てみれば、個人がどれほど努力しても、個人ではどうにもならない結果が出てしまうということがある。大塚久雄さんが『社会科学の方法』(岩波新書)の中で語っていたように、「疎外」という現象で、個人の意志では自由にならない法則性が社会に現れると考えることが出来る。これこそが社会科学の対象として、客観性を持った法則性として捉えられるものになるのだろう。社会科学においては、個人は捨象されることによって意志の自由という法則性のゆれが誤差として処理される。個人を捨象した統計としての社会、確率現象としての事象が社会科学の対象となる。つまり、社会科学の対象は、具体的な現実を見ているように見えながら、実はそこから統計的・確率的な事柄を抽象して対象にしていると考えられる。そうでなければ、社会を対象にして科学を設定することは出来ないのではないかと思う。確率法則における社会の法則性に関しては、板倉さんが紹介している「誕生日の法則性」というものがある。これは、40人ほどの集団で、同じ誕生日の人がいるかを調べるとほぼいつでも誰か同じ誕生日だという人が現れるという法則だ。すべての人が違う誕生日になるということはまったく例外的なことでほとんど起こらない。誕生日は365種類の日があるのに、わずか40人ほどが集まれば、その中に必ずといっていいほど、同じ誕生日だという人が現れる。これは、確率を計算すると90数%の確率で同じ誕生日の人が少なくとも1組は現れるということが言える。これは、社会の法則性として理解することが出来る。例外はあるもののそれは誤差として処理できる。そしてまた、この社会の法則は、人間の意志の自由に左右されない法則性でもある。誕生日がいつかというのは、意志によって自由に選ぶことが出来ないからだ。確立法則として現れる社会の法則性は、意志とは独立に現れる自然科学的な法則性と同じになる。宮台真司氏の社会科学が確率論を基礎にしているというのもこの意味で納得が出来るものだ。その社会学が科学と呼ばれるのは、確率論という客観的な基礎を持っているからではないかと思う。確率法則が、社会においてどのように現れてくるかを考えるのが、宮台氏が語るシステム理論の核心でもあるのではないかと思う。社会科学においては、確率・統計的なデータが現象論的段階においては法則性の認識にとって重要なのではないかと思う。それが、自分の感じ方という主観で判断した法則性ではなく、確率と統計という客観性を持ったものであれば、現象論的段階として徹底させることができるのではないかと思われる。ただ、統計データというのは、読み間違いを起こしたり意図的な捏造が出来るので、現象論的段階の徹底の際には細心の注意を払わないとならないだろう。捏造されたデータによる法則性を認識していたら、その後の実体論的段階の方向を間違えるだろうと思う。特に、社会科学の場合は、人間にとっての利害関係が深刻に関わってくる分野もあるので、そのような分野の考察の際には捏造されたデータの問題は重要だと思う。自然科学・社会科学と並んで、人文科学などという言葉もときどき使われたりするが、これは言葉の意味から言って「科学」と規定することは難しいのではないかと思う。人文科学と呼ばれるものは、人間が深くかかわってくるものを対象としている。それが個人の判断と深くかかわっていて、意志の自由による法則性のゆれが捨象できなければ科学として確立することは出来ないだろう。人文科学には「歴史」「言語」「哲学」などの分野が含まれているらしいが、一度きりの事実の羅列を「歴史」と捉えてしまえば、それは科学にはならないだろう。統計的、確率的な処理ができなければ科学の対象になりえないように思う。同じように、「言語」の分野でも、個人の具体的な言語現象を対象にしてしまえばそれは科学にはなりえない。どのようにして個人を超えた、一般的現象としての言語現象を設定できるかが科学になるかどうかの分かれ目になるのではないか。この他、科学に成りえないのではないかと思えるものに、心理学などがある。これも、心理学が解明するのは、個人の具体的な心理現象なので法則性を捉えることが難しいように思われるからだ。教育も、個々の教育実践が対象になっている間は科学にするのは難しいだろう。どのようにして抽象化が出来るかが、教育科学の確立というものに重要な要素となっている。心理学や教育の分野のこれらの実践家は、必ずしも科学が確立していなくても優れた実践は出来る。経験と勘によって正しい方向を見つけることは可能だ。しかし、科学として確立することが出来れば、最低水準というのはいつでも確立することができる。僕は、社会的な職業としては、最低水準が確保されたほうが望ましいのではないかと思っているので、公教育においては、やはり一定のレベルの教育科学は確立したいものだと感じる。まだ科学への歩みが難しい分野においては、実はまだ現象論的段階さえ徹底されていない、その克服などまだまだだというものが多いのではないかと思う。それを無理やり本質論的段階に飛んで行こうなどというのは無理なことなのだろうと思う。現象論的段階の徹底と、その次にくるべき実体論的段階がどのような姿になるのかということを深く考えたいものだと思う。
2007.08.22
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板倉聖宣さんによれば「武谷三段階論と脚気の歴史」で語っているように、現象論的段階というのは、それを越えて実体論的段階に行こうと決心したからといって、主観でそれを克服できるものではない。客観的状況によってそれは決まる。どれほど自分が願っていようとも、客観的条件が整わない限りは、現象論的段階にとどまってそれを徹底させなければならない。板倉さんは、具体的には次のように語っている。「自分の願いに関わらず,自分は本質論的な法則を見つけたいと願っても見つけられない段階,見つけるべき段階でない段階がある。実体論的認識を目指したくたってだめだ。現象論的認識をきちっとやらなくては駄目だ。あるいは現象論的認識にとどまっていてはいけない。実体論的認識に進まなくてはいけない。あるいは本質論的認識に進まなくてはいけない。そういう情勢の時もある。その情勢は自分の気持ちとは関係ない。「俺は肝が小さいから本質論はできない。俺は現象論でいきたいよ」と言っても駄目。その時の情勢。つまり,その時の研究段階があってそれに併せて本質論的認識を進めなくてはいけない。」自分の認識がどの段階にいるのかというのを、客観的に決められるということが三段階論においては重要なことのように感じる。それはいったいどのようにして判断できるのだろうか。本質論的段階というのは、言葉で表現すればあっけないくらいに単純になってしまう。しかし、その簡単な言葉を記憶しているだけでは認識は本質論的段階に達しているとはいえない。これは、学習において勘違いしやすいところだ。知っていることと理解している(認識している)こととは違う。では、どのようにすれば、単に言葉として知っているだけではなく、その内容までも理解しているという状態に至れるのか。現象論的段階というのは、現象をただ受動的に受け止めているだけではそう呼べないのではないだろうか。板倉さんが語るように、三段階論というのは「法則的認識」の発展を語るものであるから、現象論の段階でさえも「法則性」というものの発見を伴う認識でなければならないのではないだろうか。単に、今の時点で自分にそう見えたという認識ではないように感じる。それは、板倉さんが語っている「感性的認識」という「おっちょこちょい的」なものになってしまうのではないだろうか。現象論的段階における法則的認識とはいったいどのようなものになるだろうか。現象論的段階では、その法則性がなぜ引き起こされるかという理由についてはまったく知られていないのではないかと僕は感じる。板倉さんは脚気の原因を追求した明治の医学について語っているが、現象論的段階では、単に麦飯が効果があるという現象のみが知られていて、それがなぜ効果があるかという理由についてはまったく分からなかったという段階になっているのではないかと感じる。現象論的段階というのは、データが直接法則性を語るという段階のようにも感じる。天体観測の場合など、なぜ周期性があるのかは分からなくても、実際の天体観測に周期性があることが知られるのではないだろうか。太陽は毎日同じように東から上がってくるし、長い間の記録を取れば、日食という不思議な現象でさえも周期性があることに気づく。その周期性は、なぜそのようになるかは分からなくても(つまり関数でいえばブラックボックスとして存在していても)、ある種の入力に対して法則的に出力が計算できるという関数が存在していると理解できるのではないだろうか。これが現象論的段階の概念ではないかと思われるが、現実の現象には必ず例外というものも伴う。しかし、例外というのは、その名前が示すように、本質から外れているという意味で「例外」とされる。それは本質からどのように外れているかが知られるので、例外と判断され、例外ならば誤差として処理できる。現象論的段階というのは、法則性の理由は分からないものの、法則に従わない存在は例外として処理できるので法則性が確立するという段階ではないだろうか。この現象論的段階が克服されて実体論的段階に行くことができるというのは、どのような過程を経ることになるだろうか。現象論的段階の克服というのは、具体的にどのようにしてなされるのか。仮説実験授業がそれを教えるヒントを与えてくれるような気がする。「ものとその重さ」という授業では、重さが変わらないという実験をいくつか行う。最初にやるのは、体重計に乗ったとき、両足で普通に立つ場合と、片足で立つ場合・かなり力を入れて踏ん張って立つ場合とを比べてみる。感性的な認識で、自分の経験を動員してくると、力を入れると精神力というようなもので大きな力を出せるような気もする。また、両足よりも片足に力を集中すると、より強い力で押すことが出来るような感じもする。このような感じを基礎にした感性認識では、どれも正しく見えてきて、それぞれに予想をする人間が必ずいる。しかし、実験をすると、いずれも体重は変わらないということが分かる。このときに、あまりに細かく測ることの出来る体重計を使うと、その細かい値が違ってきてしまうことがあるが、これは誤差として例外的なものという処理が出来る。このような誤差が出ないようにするには、あまり細かい数字が出ないような体重計を使うという配慮もしたりする。この他、せんべいを細かく砕いたものと、そのままのものとを比べたり、水に浮かべた木片は、軽くなったように見えるけれど、水と木片の合計の重さが軽くなっているかどうかを調べたりする。これらの現象の一つ一つは、いずれも「物は何らかの原因でその部分が消滅しない限りは重さが変わらない」という現象論的認識をもたらす。これは、法則的認識なので、何となくそういう感じがするという感性的認識ではなく、現象論的認識と呼ぶにふさわしいだろうと思う。この法則的認識の段階は、それがどうしてそうなるかは分かっていない。とにかくいくつかの実験の結果はそういうものを示しているということが分かるので、法則として解釈するだけだ。これが法則として確実に言えるという段階に来たときが、現象論的段階が徹底されたときだといえるのではないだろうか。このときに、「たまたまそうなっているけれど、他のもので実験したらまだ分からないぞ」というふうに思っているうちは、まだ現象論的認識になっていないように感じる。それは法則性を確立していないからだ。任意の対象で必ず予想通りの実験結果が得られるとしたら、これは現象論的段階が最終段階に来たと言えるのではないだろうか。これがなぜ起こるか、という理由を求める段階に来たとき、ここにその理由にふさわしい実体が導入されて実体論的段階に行くのではないだろうか。これがどのように導入されるかということに関しては、まだあまりアイデアを出すことは出来ないが、「ものとその重さ」の場合は、原子という実体を導入して、物は原子の集まりだという実体的イメージが法則性を説明するものになる。ものが原子の集まりであるなら、その一つ一つの原子がなくなったり増えたりしない限り、総数としての重さに変化が出てこないということが論理的な結論として導かれることになる。このとき、その物を構成している原子一つ一つの重さは常に同じものだという前提も置かれて考えられている。原子という実体を導入した理論は、現象として、理由はわからないけれどそうなっていたということに対して、論理的な説明をうまく立てることが出来る。これが実体論的段階ということになるのではないだろうか。実体論的段階から本質論的段階へ至る道についてはまだうまくイメージが出来ないが、現象論的段階を克服して実体論的段階に行くには、このような過程があればいいのではないかという気がする。この過程をうまく構成しているのが仮説実験授業であるような気がする。萱野稔人さんの国家論は、「国家は暴力装置を機能させて自らの活動を合法化(正当化)する運動体である」というような言葉の説明が出来るような気がする。これは、言葉としては簡単なもので、イメージもしやすい。これはおそらく国家論という法則的認識の最終段階である本質論的段階の表現ではないかと思う。しかし、これを言葉の上だけで理解しても、本質論的段階を獲得したことにはならないのではないかと感じる。萱野さんの国家論の核心をつかむためには、その現象論的段階を深くつかむ必要があるのではないかと思う。そして、現象論的段階を克服した後に発展していく実体論的段階を経てようやくこの本質論的段階が本当に理解されるということになるのではないだろうか。また、宮台真司氏の「権力の予期理論」において、権力の本質を人々の「予期」というものに基礎を置くものとして捉えるのも、権力論の本質論的段階ではないかと感じる。この本質論は、権力は、暴力装置という実体を捉えるだけでは足りないという、実体論的段階の克服という面も見せているのではないかとも感じる。国家論にしても権力論にしても、その結論だけを文章として覚えるのはそれほど難しくはない。しかし、それが本質であるということの認識を作るのはきわめて難しいものであるように僕は感じる。この国家論や権力論における現象論的段階はどのようにして克服されるだろうか。その克服を経ない限り、本質論の理解は出来ないように思われる。軍隊と警察を持たない国家は、現在も歴史上も見つけることが出来ない。それをもって、国家論の現象論的段階の克服といえるだろうか。何かが足りないように感じるのだが、それが何かということがはっきりとつかめない感じがする。どのようにして現象論的段階を徹底することが出来るだろうか。国家の持つ暴力装置が、感性的には、正義を実現し国民を守るために働いているように見えても、現象として必ずそれは国家の利益を優先させて動いているのだということを一つ一つ確認することが必要なのではないかとも感じる。その現象をはっきりと捉えることが現象論的段階の徹底になるのではないだろうか。権力の場合はどうだろうか。権力が民衆を弾圧したり、その意志を押し付けようとする場合、現象的には暴力装置を利用して脅したりしているように見えるが、実は権力の作用としては、人々がそのようにすることが自らの利益だと考えることが権力にとって有利なようにいつも働いているのだという現象を確認することが現象論的段階の徹底になるのではないだろうか。難しい理論(法則的認識)の理解には、現象論的段階の徹底とその克服ということが役に立つのではないかと今感じている。現象論的認識というのは、本質論的認識につながっているものとして捉えることが出来る。感性的認識は、現実を自分に都合よく受け取って自分の主観に従って判断したものになるが、現象論的認識は主観よりも客観の要素が大きいものになるだろう。対象によっては法則性を持たないものもあるだろうが、世の中の出来事をまずは現象論として捉えるということで理解してみたいものだと思う。それが対象の本質理解へとつながっていくのではないかと思うからだ。
2007.08.20
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板倉聖宣さんが、「武谷三段階論と脚気の歴史」という文章の中で武谷三段階論に関して語っているのだが、その中の「法則的認識」という言葉が気になった。武谷三段階論というのは、科学的認識の発展段階を三段階に分けて、その必然的移行について語ったものだが、それはあらゆる認識について語ったものではなく、「科学的認識」について語ったものだ。それは、板倉さんが指摘する「法則的」ということが重要な要素を占める認識になる。人間の認識は、外界を捉えて理解する心の働きを指すのだが、それはすべてが法則的であったり科学的であったりするわけではない。むしろそのような高度に抽象された認識は難しく、たいていは感覚的・感性的な理解にとどまることが多い。人間の認識の中でも、限定された「法則的」なものとしての科学の発展が三段階という特徴を持って発展していくというのが武谷三段階論であって、法則的でない認識は、たとえそれがどのように対象の深い特徴を捉えようと、三段階論とはまったく無関係なものになると理解したほうがいいだろう。武谷三男さんは、三段階論を研究の指針を示すものとして、自らの研究段階がどこにいるのかを客観的に理解するための道具として提出した。板倉さんがこの文章で注意しているように、主観的に「本質を目指すのだ」と決意しても、その決意ではどうにもならないのであって、本質論的段階に至るには、実体論的段階を克服して越え出るという条件が必要だ。また、実体論的段階も、現象論的段階を越えるということがなければそこに至ることが出来ない。ところが、現象論よりは実体論のほうが、実体論よりも本質論のほうが何となく価値が高いような気がするので、決意だけはそこを目指したくなる感情が生まれる。この決意をすることを板倉さんは強く戒めている。この決意は、すべて武谷三段階論を間違って理解させるきっかけになるというのだ。現象論的段階よりも、実体論的段階のほうが発展段階が上だからといって、そこを目指したいという気持ちを持てばそこにいけるのではなく、むしろ現象論的段階を徹底させることでそれを越えるきっかけがつかめるのだと板倉さんは言う。現象論を徹底させずに言葉の上だけで実体論に進み、本質論の法則だけを覚えても、認識は少しも上の段階に行っていないのだ。武谷さんは、研究者として三段階論を発見したが、教育に携わる人間としては、法則的認識の教育に当たって、本質論的段階の認識にまで学習を高める方法としてこれを利用できないかと思う。本質論的段階というのは、文章で表現してしまえばまったく単純で簡単なものになる。弁証法の法則にしても、この三段階論にしても、言葉の上ではまったく単純化される。ニュートンの運動方程式も簡単な数式になる。本質論的段階の結果だけを記憶するのはそれほど難しいことではない。しかし、それを本当に本質論的段階の認識として受け取るというのはたいへん難しい。この学習の発展の段階も、三段階論のようなものをヒントに得られないかと思う。板倉さんは、脚気の歴史を引いて「現象論的段階」というものを説明している。森鴎外を始めとする東大のエリート医師団が、現象論としての、脚気に有効な麦飯というものを最後まで認識できなかったのは、現象論に徹底できずに、現象論を飛ばして本質論に行ってしまったことにあると僕は理解した。麦飯が脚気に有効だというのは、軍隊での経験やさまざまなデータを見ればすぐに分かることであるのに、その有効性は、偶然他のことが重なり合ったことの結果であって、麦飯そのものに脚気に有効な性質があるのではないというのが、東大エリート医師団の認識だったらしい。そこには法則的認識が現象からは捉えられていなかったのだ。東大エリート医師団は、病気は何らかの病原体が原因として起こるものだというのを、医学の本質論として持っていたのではないかと思う。この本質論の解釈が、現象がそれに反する結果を出していても、その現象を現象論的に法則として認識できなかったのではないかと思う。現象論的段階というのは、また自分の感覚を大事にする段階でもあると思う。まだ本質論的認識が出来ていないものにとっては、理由はわからないけれど、現在目の前に見える現象をそのまま理解することからまず考察を出発させるということが大事なことなのだろう。その理由が本当に分かるのは、現象論的段階を克服し、実体論的段階も克服して、本質論的段階に至ったときに出来るのだという見通しを持って考えることが大事だろうと思う。また、板倉さんは、武谷三段階論における法則的認識ということの重要性も語っているように感じる。三段階論は、法則的認識における発展を問題にしているのであって、法則的でない認識については、三段階論はまったく無関係であると理解したほうがいいのではないかと思う。板倉さんは「感性的認識」という言葉を使っているが、これは現象論的認識とは、対象の捉え方が違うように感じた。現象論的といった場合は、あくまでも対象は、意志とは独立に存在する客観的対象であって、その記述も、それをどう感じたかという自分の主観を語るのではなく、対象の客観的属性がどうかということを語らなければならない。感性と言うと、自分の主観というか、個性というものが深くそこに反映してしまう。つまり、誰もが同じように判断できるものではなく、自分にはそう見えた・感じられたというようなものを語ることになってしまう。板倉さんは、これを「ちょっとおっちょこちょい的な感じ」と表現している。早飲み込みというか、表面だけを捉えて即断するようなところが見られるからではないかと思う。感性的認識では法則性を捉えることが出来ずに、現象論的段階にさえも至らないということではないかと思う。この感性的認識というのは、科学の研究を発展させたり、科学の理論を理解するという学習においては、それをうまくこなすことが出来ずにかえって邪魔をすることになる。しかし、目的が科学の研究や学習でなければ、感性的認識にとどまることは少しも悪いことではない。自分の感性に素直に従って芸術鑑賞などは行われるべきだろうと思う。どんなに有名で高い評価を得ている芸術でも、自分の感性に合わないものは「つまらない」と表現してもかまわないのだと思う。現象論的段階を問題にするのは、あくまでも法則的認識の発展においてであり、そうでない時は価値がないとして否定する必要はない。しかし、本質論的段階というものが何か価値が高いもののように思われていると、すべての認識が三段階論的に発展しなければならないような気もしてくる。これは、そういう気がしてくるのが間違いであって、感性的認識で済ませていい場合と、法則的認識を求める場合とを分けて自覚しなければならないのだと思う。このような観点で考えると最近気になるのは世間で騒がれている「朝青龍問題」だ。朝青龍についてどう判断したらいいかというのは、法則的認識の問題ではない。誰もがよく考えれば同じような判断に落ち着くというところはない。誰もが自分の感性に従って、「けしからん」と思ったり「かわいそう」だと思ったりするだけだ。あるいは、利害関係のある人間たちは、どう転んだほうが自分の利益になるかということを考えるだけだろう。日本の伝統である相撲の価値観から言ったら何が正しいかというような判断が出せる問題ではない。立場が違い、感覚が違えば違う結論が出るのはしょうがない問題だ。結果的には、相撲界において力を持っている人間たちの多数がどう判断するかで落ち着くような問題だろうと思う。それが、テレビのワイドショーなどを見ていると、いかにも朝青龍が相撲の伝統にもとる行為をして、相撲を貶めているかということが客観的な事実であるかのように語られていることに違和感を覚える。これは、いろいろな意見があって当然の問題であるし、どれか一つに決められるものではない。自分の感性に従ってもいいし、理屈として納得できるものを求めてもどちらでもかまわないだろうと思う。とにかく朝青龍が嫌いだからけしからんと思う人がいてもかまわない。問題は、それが客観的に正しいのだという認識を持たないことだと思う。僕自身は、朝青龍が気の毒だと思う。横綱が一人しかいない時代は、彼の活躍で散々儲けさせてもらった相撲界が、彼に代わる横綱の白鵬が出てきたら、用済みとして捨てられているように感じるからだ。朝青龍に横綱の品格を要求する前に、このような姿勢は、人間としての品格においてはどうなのかという感じがするからだ。現在の相撲はビジネスであり、もはやスポーツとも呼べないようなショーになっているのであり、それに武道としての品格を要求するほうが時代遅れだろうと思う。こんなものを武道だと認めるのは、武道の品格を貶めることにもなるのではないかと思う。武道であれば、かつて南郷継正さんが『武道の理論』の中で語ったように年6場所では多すぎると思う。武道として精進する余裕がなく、勝負だけにこだわるような相撲になってしまうだろう。また、巡業といえば聞こえはいいが、それは武道とは程遠い見世物であり、まさにショーではないのか。そんなことをするよりも、体を休め、武道として精進する鍛錬に時間をつぎ込んだほうがいいのではないかと個人的には思う。いずれにしても、このようなものも僕の感性的認識であり、いわば個人の勝手な放言に過ぎない。だから、それを何か権威ある真理を語っているのだと捉えない限りでは、何を言おうと自由だろうと思う。それが感性的認識というもので、法則的認識とはまったく違うものになるだろう。朝青龍問題については、それが何か一つの正しい結論を出せるというような対象でないことはすぐに分かるので、それが感性的認識という「おっちょこちょい的な感じ」であることはすぐ分かるだろうと思う。しかし、「正義」というようなものが絡んでくる対象では、これが滑稽さを隠して感性的認識が理性的認識(法則的認識)のように感じられる場合が出てくる。その最たるものは、「南京大虐殺」と呼ばれる対象ではないかと思う。あの歴史的事実に対して「大虐殺」という言葉で表現するのは、それが「感性的認識」であることを告白しているのではないかと僕は思う。感性的認識が、それが客観的な真理と呼べるものではないという自覚があれば、それは感性に従って語るのは自由である。しかし、それが反論を許さない真理だと主張するなら、感性的認識であっては困る。小室直樹氏は、「大虐殺」というような情緒的・感性的な言葉を、「違法に殺されたもの」と定義しなおして、法解釈という論理的に結論を出せる事柄で判断して、「違法ではない」すなわち「虐殺ではない」という主張をしようとしているように僕には見える。このことを感性的認識にとどまって、「虐殺だ」「虐殺でない」と議論するのは意味がない。感性である以上、そう感じる人間がいても仕方がない。そして、「虐殺」という言葉は、感性で捉えることしか出来ない言葉だろうと思う。この歴史的事実を「虐殺」という言葉で語っている間は、どちらの主張が語られても仕方がないだろうと思う。問題は、これを感性的でない認識で捉えられるかということだ。小室氏の試みはその一つだろうと思う。僕は、小室氏の論理を受け入れながらも、これを「虐殺」という言葉で語る限りでは、感性的認識を免れないのではないかと思っている。感性という主観を、どのようにして客観に転換するかが課題だと思う。
2007.08.17
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萱野稔人さんは『国家とは何か』の中で、マックス・ウェーバーの次の言葉を引いて論理を展開している。「国家とは、ある一定の領域の内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」この言葉は、「国家とは」という主題の対象を、「人間共同体である」という述部が受けるという形になっている。つまり、国家という対象の内容は、人間共同体というものであるということを語っている。この命題を論理的にどう受け取るかということは、けっこう難しいのではないかと感じる。上の命題を単純化して書けば 国家とは 人間共同体である。という、主語と述語だけの文章になる。この文章は、どのように読み取るかによってその内容が違ってくるのではないかと思う。読み取り方には次のような種類のものがあるのではないかと思う。1 国家=人間共同体(両者は本質が重なる、同じものと見ることが出来る)2 国家の属性の一つが「人間共同体」という側面である。3 国家は、人間共同体と呼ばれるものの中の一つである(国家という対象は人間共同体という集合の中に含まれる)国家という抽象度の高いもので考えるとちょっと分かりにくいので、りんごという実体についての表現を上の1から3の視点で考えてみると次のようになるだろうか。1 りんごとは 「バラ科の落葉高木。また、その果実。葉は卵円形。4、5月ごろ、葉とともに白または淡紅色の5弁花を開き、のち球状の赤色などの実を結ぶ。甘酸っぱく白い食用部は、花托の発達したもの。ヨーロッパ中部から南東部の原産。日本には明治時代に欧米から紅玉・デリシャスなどの品種が導入され、青森・長野などで栽培。古くは、在来の和林檎などをさした」ものである。2 りんごとは 「赤い」ものである。3 りんごとは 「果物」である。1のように、りんごと等号で結ばれるものを述部にする時は、かなり長い説明が必要になる。それは、りんごという特定の対象を限定するための説明が必要だからだ。りんご以外の対象がその説明の中に入ってきてしまえば、それは等号で結ぶことが出来なくなる。等号で結ぶためには、その説明がりんごだけに該当するということを説得的に証明しなければならない。その意味では、1のように等号で結ばれる説明をしたい時は、原理的には1 りんとごは 「りんご」のことである。というようなトートロジーによる以外に論理的には方法がないのではないかと思う。同じ言葉を使わない、トートロジーではない言い方で等号的な表現をするには、そこで語られている属性以外は捨象されて、たとえ異なる面が見えようとも無視するということで論理的な正当性を保っているのではないかと思われる。2は、りんごには「赤い」という属性があることを語っている内容で、これはりんごを観察することによって得られる。これは、その属性があることが肯定的に判断されればよいのであって、他に赤くないりんごがあっても、りんごと呼ばれる対象に赤いものがあればこの命題は正しい命題として理解される。この属性判断の時は、対象がりんごであるということがあらかじめ分かっていることが必要だ。りんごそのものがどんなものであるか分からない時は、この命題の真偽を決定することが出来ないので、そのような時はこの解釈の内容は、明確な意味を持たないと論理的には言えるだろう。3のような判断の場合も、りんごが果物の一種であることを判定するには、りんごというものがあらかじめ知られていることに加えて、果物というものについても知っていなければならない。両者について知っているので、このような肯定判断が正しいことを主張できる。もし、りんごや果物についてそれが何であるかが分からなければ、この命題の意味もやはり論理的には意味を持たないものと理解するしかないだろうと思う。さて、萱野さんが語るウェーバーの国家の定義については、どのような内容で受け取ればいいだろうか。萱野さんの文脈では、国家というものがどういうものであるかというのがそもそも問題にされている。国家というのは、はっきりとこういうものだというふうに共通理解されているのではなく、さまざまの側面を考えていきながら、その概念を構成していこうとしている。つまり、国家というものはまだ明確にどんなものであるかがつかまれていない。その国家という対象に対して、それがある属性を持っているとか、何かの集合に含まれるという判断は出来ないだろう。りんごのように実体的につかまれている存在は、それを言葉で説明するのは難しいが、ある物質的存在を見て、それがりんごであるかどうかが判定できるなら、りんごを概念的につかんでいることは確かだ。だから、りんごという実体を見て、その属性を判断したり、より大きい種類という集合としての果物を考えることが出来る。この場合、果物という概念は抽象的なもので、実体としての果物そのものが名付けられてどこかにあるのではなく、種類としての把握の仕方が果物という概念を生み出すと考えられる。国家は、実体に対してそう名付けられたものではなく、ある種の全体像という抽象的対象を呼んだものである。これは、実体そのものではないので、観測の結果として属性を判断するというよりも、まずは抽象概念として設定して、その抽象概念から、ある意味では天下り的に属性が導かれるという形に論理的にはなるのではないかと思われる。従って、ウェーバーの言葉の理解としては、国家という、まだ概念が明確になっていないものを「人間共同体」とイコールのものとして、他の属性を捨象することで概念を作り上げようとしていると受け取ることが正しいのではないかと思う。ただ、「人間共同体」というだけでは、国家としての限定が出来ないので、どのような人間共同体かという説明が必要だ。それを国家に限定するために、「正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する」という説明を付け加えなければならないのだろう。この属性を持つからこそ、それが国家として限定されるというふうに論理的に受け取らなければならないのではないか。この属性は、現実の国家の観察から得られたものではなく、抽象的にそう設定して、概念としての国家をこのように定めるという宣言ではないかと思う。理論展開の出発点となる言葉の定義においては、このような抽象概念の設定というものが必然的に伴うのではないかと思う。国家というものを論理的に考えて、何らかの理論展開をしようと思ったら、このようにまずは抽象概念をどうするかを宣言して、それに従って論理を展開していくことが必要ではないかと思われる。現実に存在する「国家らしきもの」を見て、そこに何らかの属性を発見して理論を修正していくような方法では、最初の時点での設定に何らかの「矛盾」が入り込んでいても、複雑化した展開になってしまえばそれに気づかなくなる。そのようなことを考えさせる言葉としては、萱野さんの次の指摘が重要だと思われる。「最後に、ウェーバーが国家を、暴力の独占を要求する「人間共同体」として定義している点についても注意が必要だろう。というのもそこから「国家とは人間共同体における政治機構である」というテーゼを導き出すことは出来ないからだ。」政治というのは、宮台真司氏に寄れば「集合的意思決定、すなわち集団成員の全体を拘束する決定を導く機能のことです」(「社会学入門 連載第一回:「社会」とは何か」)ということになる。この「政治」の定義についても、国家の定義と同様に、概念的に明確化されていない、曖昧さの残る対象に対して、限定的に抽象して理論の出発点におくという問題が見られるが、とりあえず、このようなものとして「政治」を捉えれば、「人間共同体における政治機構」ということが、ウェーバーの定義からは論理的に導かれないということが萱野さんが主張することだ。これはある意味では当然のことであって、ウェーバーの定義は、政治については何も語っていないのだから、論理的にそれが導かれないというのは当然のことであるように思う。しかし、表面的には政治が語られていなくても、どこか深いところでつながりあっていて政治とのつながりが見つかるかもしれない。特に、暴力による効果として命令を押し付けることができるということが導かれると、それが集合の意思決定に影響を与えるという政治的な側面を見せるかもしれない。だが、国家が「人間共同体」であるからといって、その人間共同体の成員に対するという意味での「人間共同体における」という表現は、ウェーバーの定義からは必ずしも導かれることはない。なぜなら、暴力による脅しという政治的な影響は、同じ共同体の成員だけではなく、征服し支配した相手に対しても成り立つという指摘がなされているからだ。萱野さんは次のように書いている。「これに対して、ウェーバーの定義からは、ある人間共同体が他の人間たちに対して暴力行使の独占を要求するという事態が導き出される。つまり、ある集団が他の人々に対して「我々が行使する暴力以外はすべて不当なものである」と要求するという事態を、その定義は決して排除しない。このとき、暴力の独占を要求する人間共同体(集団)と、それを要求される人々との関係は、必ずしも共同体的である必然性はない。例えば、ウェーバーの定義からすれば、ある人間共同体が別の共同体の人々を征服して、彼らに対し暴力行使の独占を実効的に要求する場合でも、国家は成立する。」「人間共同体における」という限定は、肯定的にも否定的にも、どちらでもウェーバーの定義からは成立する。つまり、肯定的な判断は、ウェーバーの定義からは論理的に導くことは出来ないのだ。それは、定義とは独立した、別の前提から導かれることになる。しかし、このテーゼは正しいと信じられているようだ。それは、現実の国民国家という存在が、まさに共同体における政治機構として機能しているからだ。現実の国民国家は、国家一般の姿ではなく、歴史的経過を通じて形成された特殊な存在である。しかし、我々にとっては日常のごくありふれた存在であるがゆえに、それが普遍性を持つ一般的な存在のように映る。この特殊性を無批判に一般性と考えると間違えるだろう。それが本当に一般性を持つものかどうか、深い吟味が必要だと思われる。この特殊性を一般性と思い込むことは、一見アプリオリな前提を置いているように見えて、アプリオリズム的な間違いにも見えるが、これはやはり特殊性と普遍性の混同という誤謬として捉えたほうがいいだろうとおもう。アプリオリズムというのは、肯定も否定も出来ない前提のどちらかを、無批判に前提してしまうものをさしたほうがいいのではないかと思う。具体的な特殊性と普遍性は、肯定できるか否定できるかの判断ができそうに思う。そういうものは、アプリオリズムとして考えないほうがいいのではないかと僕は感じる。
2007.08.01
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