2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全23件 (23件中 1-23件目)
1
武道家の南郷継正さんの『武道の理論』(三一新書)を読んだのはかなり以前のことなのだが、そこにたいへん面白い「しごき論」がある。「しごき」は、武道の上達のためには絶対的に必要であり、しかも有効に働くということを前提にしながらも、それは行き過ぎる可能性を常に持つものとして、経験主義的に把握するのではなく、いわば実体論的とでも呼ぶような理解の仕方が必要であると主張するものだ。今話題になっている相撲の時津風部屋の力士の死亡の問題は、行き過ぎた「しごき」の問題としても捉えることが出来る。外から見ている人間からすると、死んでしまうまでしごくような人間たちは鬼のようなひどい人間に見えてくるが、「しごき」という現象は、本質的にそのような危険性を伴うものであるという認識が必要だろうと思う。指導者としての賢さや資質がない人間は「しごき」を上達の手段として用いるべきではないのだと思う。少年力士を死に至らしめた人々は、鬼のような人非人ではなく、ごく普通の人だったのではないかと僕は思う。そして、そのごく普通の人を、通常では考えられないようなひどい行為をするところまでエスカレートさせるものが「しごき」の中にはあるのだと思う。「しごき」がなぜ行き過ぎてしまうかという構造的な部分を、南郷さんの言葉をヒントに考えてみようと思う。それは、いじめが行き過ぎて人を追い詰める構造に似ているのではないかとも思う。普通の人が、普通でなくなってしまうようなメカニズムを知って、それを自らの戒めにしたいものだと思う。南郷さんは、「しごき」の必要性・重要性に関して、それが「体力の極限状況において、その状態に打ち勝つ精神というものは、放っておいて出来上がるということはほとんどあり得ない」からだと、その理由を説明している。南郷さんは、武道というものをイメージしてこの説明を行っている。武道においては、真剣勝負において「生きるか・死ぬか」というような極限状況を描いて、その技を磨き上達への道を考える。もちろん、本当に生きるか・死ぬかという状況にすることは、現在の社会の中では無理があるが、少なくとも武道の頂点を目指す人間にとっては、それくらいの覚悟で武道の修行をするということになる。だから、「しごき」の必要性・重要性を語った上の言葉も、あくまでもそのような目的をもった人間に当てはまる意味での必要性・重要性ということだ。そこまでの主体性を持たない人間には、「しごき」は必要でもなく重要でもないものになる。スポーツを楽しみたいという人間には、「しごき」はまったく無用なものになり、害悪にさえなる。同じものが、まったく正反対のものになってしまうというこの弁証法性に気をつけなければ、「しごき」は取扱いが難しい猛毒のようなものになってしまう。人間というのは、心がその行動において非常に重要なものとなる動物だ。心が騒いで動揺していれば、普段簡単に出来ることが出来なくなってしまう。ギリギリの緊張した場面で勝負を争っている武道家は、その緊張した心の状態であっても、平常と変わらない動きが出来るように修行をする必要がある。しかし、平常の訓練というのは、やはり訓練という意識が働いてしまい、真剣勝負のようなギリギリの緊張感を生み出すのは難しい。そこで利用されるのが「しごき」というものだ。平常の訓練であれば、かなりたいへんだと思う場面でも、いくらかの余裕を残していつでもやめることが出来る状態にある。しかし「しごき」の中にいる時は、その苦しみが、もしかしたら永遠に続くのではないかとも思えるような恐怖心が生まれる。この恐怖心が、真剣勝負のときのギリギリの場面での緊張感に近いものを生み出す。スポーツを楽しみたいというだけの人間は、そこまで真剣勝負にこだわった体験はしない。だから、訓練としてそのようなものはまったく不要だ。そういう人間は、勝負は結果であって、それほど重要なものでなく、むしろその結果が出るまでの過程に楽しみがあればいいのだから、練習も試合もともに、それほどの緊張感を必要としない。だから、この種の人間の訓練・練習には、「しごき」は絶対に使ってはいけないだろう。「しごき」というのは、自らも頂点を目指すほどの覚悟を持っている人間、それもやはり武道家としての心構えを持っている人間にとって必要なものと心得るべきだろう。武道家としての心構えとは、単に勝負に勝てばいいという結果を追うのではなく、技としての見事さを完成させて勝利に至るという、過程をも大事にするような心構えを言う。これは、単に勝てばいいという気持ちだけでは、ギリギリの恐怖に耐えてそれを克服するということが出来ないからだ。その覚悟を作るためには、やはり武道家としての心構えが必要だろう。このような、武道家としての心構えを持ち、覚悟を決めている人は、「「しごき」自体を当然のこととして受け入れる意志があるせいで、「しごき」に耐えようとする心が「しごき」をさほど「しごき」と感じさせないものである」と南郷さんは語っている。しかし、このように覚悟した人間でも、「自己の目的とするものに疑問を感じ始めると、それに積極的に耐え抜こうとする心がなくなる結果、当たり前の「しごき」にも耐え切れなくなって、体よりも心が先に参ってしまい、結果的に死亡するという事態を招きやすくなることになりかねない」とも語っている。覚悟を決めたものでさえも、その覚悟にかげりが出れば危険であるのだから、ましてや覚悟が出来ていない人間に「しごき」をすれば、その危険性はもっと増してくるだろうと思う。このような観点で見てみると、死亡した少年力士は、大相撲というプロの道に入ったのだから、最初はある程度の覚悟は出来ていたのだろうが、それが果たして武道家としての覚悟になりきっていたかが問題になる。南郷さんは、この覚悟を自ら「創りあげる」という言い方をしている。「そういう目的を自己の意志とする思想が必要であり」「自らの意志で飛び込んだ武道の場合には」という二つの条件を挙げて、それが「創りあげる」ことになるという。単に経験を受け止めて受動的にしたがっているのでは「しごき」は苦しみにしかならない。それによって何が鍛えられているのかを自覚し、鍛えることを自己の目的とするような意志が必要である。そして、それは自らが望んでやっているのだという主体性に支えられて「覚悟」というものになる。時津風部屋では、このような目的意志や主体性を育てた後に、危険な「しごき」という訓練に踏み出したのだろうか。報道を見る限りではそのようには感じない。自らの責任を逃れようとするような、証拠を隠蔽するのではないかと疑われても仕方がないような行動さえ取っている。両親が来る前に火葬にしようとしたということなどは、そのように疑われても仕方のない行動だろう。もし、「しごき」の構造をよく了解して、それこそが武道としての相撲の上達には必要だと考える指導者だったら、「しごき」の指導でミスを犯したなら、そのミスに対して深い責任を感じるのが当然だろう。そのようなことが時津風親方の行動からはまったく感じられない。また、「しごき」の対象になった少年が、この春に相撲界に入ったばかりだったというのも、指導者の責任に疑いを感じさせる要素だ。「しごき」の危険性を考えれば、「しごき」が本当に有効に働く相手は、頂点を目指すような覚悟の出来ている人間ということになるだろう。果たして、入門したばかりの少年にそれがあったと判断したのだろうか。そういうことはまったく考えられない。結局時津風部屋で行われていた「しごき」は、有効な指導法を持たない、未熟な指導者が、手っ取り早い成果を出すために手段として利用した「しごき」に過ぎないのではないだろうか。「しごき」は、行き過ぎない程度にとどめておけば、一定の成果を生み出すことは確かなのだ。「しごき」を本当に有効にするためには南郷さんが語るように、「指導者は、その学ぶ目的をはっきり理解させ、進んで取り組む姿勢を生み出す努力をまずもってなさなければならない」ということが本質的なことなのだが、現象論的には、「しごき」によって上達したように見えるという「法則性」があるように感じてしまうときがある。南郷さんの武道の理論では、技はそれを「創る」段階と、「使う」段階とではまったく違う構造をもっているという。「創る」というのは、それが本当に自らの意志のとおりに身体を動かせるという、自由に操れるという段階にまで達することを言う。それはたいへん難しく、この段階で、単に勝てばいいという練習に明け暮れると、技は型が崩れてしまい「創る」という段階に達することができないという。本来の武道は、まず「創る」段階があり、それが十分行われた後に「使う」という段階がやってくる。しかし、勝負に勝つために、まずは使い方を覚えるという練習をすることも出来る。この「使い方」を覚える段階でしごくと、ある程度勝負に強くなるという。それは、技を「創る」段階にいるものは、実際の試合ではその技を「創る」段階が終わっていない時は、うまく「使う」ことができないからだという。そのような状況の時は、「使う」段階を「しごき」で訓練して身につけた人間が勝負には勝つということが起こるらしい。こうなると、勝つことが目的で、勝つことが評価の一番の基準になるような時は、未熟な指導者は「しごき」に頼るということになる。今の大相撲の状況が、何か南郷さんが語る、未熟な指導者の状況とよく重なるような感じがする。何とかごまかして勝つような力士はたくさんいるものの、本当の技の見事さで横綱に君臨できる力士が果たしているのだろうか。朝青龍はそのような技の見事さを見せられる可能性をもった数少ない力士だったが、いまや忘れられたような存在になっている。「しごき」は、行き過ぎなければ一定の効果をあげるとは言うものの、それを本当に理解している指導者は、軽軽しく「しごき」などはしない。だから、大部分の「しごき」をする指導者は、未熟な指導者といっていいだろうと思う。未熟な指導者が、果たして行き過ぎない「しごき」に止めて置けるということを信じられるだろうか。それは、常に行き過ぎる危険性をはらんでいると思ったほうがいいのではないかと思う。「しごき」は未熟な指導者が用いた場合には、常に行き過ぎる危険がある。だから、未熟な指導者の「しごき」の失敗は、厳罰に処するべきではないかと思う。軽軽しくそれを使うことを許すべきではないと思う。それにしても、「しごき」で上達させようとする指導者のほとんどが、相手の主体性や、訓練する内容についての合理的な理解というものを考えることがないというのはどうしてだろうか。たいていの「しごき」の指導者は、しごかれる相手に有無を言わせず、自分の指導どおりに訓練することを強制する。その訓練が何のために必要なのか、その訓練をすればどこがどのように上達するのか、それを説明できる指導者を見たことがない。もちろん、「しごき」指導に従うかどうかを主体的に問うことなどもしない。もし、そのような合理的な説明や主体性を大事にする指導が出来れば、平均的なレベルに達するには「しごき」などまったく必要なくなる。「しごき」を必要とするのは、あくまでも頂点を目指す人間だけに限られるようになる。「しごき」で上達したと思いたいのは、実は未熟な指導しか出来ない指導者が、その未熟さに気づきたくないためではないかとも感じてしまう。適切な指導さえあれば、平均レベルには誰でも達するものなのだ。このあたりの勘違いは、実は正義から生まれるいじめの構造にも見られるのではないかと思う。後日改めて考えてみようと思う。
2007.09.29
コメント(0)
今週配信されているマル激では、テロ特措法との関連で国防問題あるいは安全保障の問題が議論されている。そのときに宮台氏が語っていたのが「タダ乗り平和主義」というものだ。これは「タダ乗り」という言葉に、「払うべきコストを払わない」というニュアンスが込められている。これは、宮台氏が「祝 安倍晋三内閣終焉に寄せて」というブログエントリーで書いている「教条主義左翼」という言葉といっしょにして理解すると分かりやすいのではないかと思う。「払うべきコストを払わない」という姿勢は倫理的には間違ったものなのだが、その間違いに気づかないメンタリティというのは、「教条主義」というものがそれに気づくことを邪魔するからだろう。また、「教条主義」がなぜ生まれてくるかという過程を考えると、それは「法則性」の認識の仕方と深くかかわっているのを感じる。武谷さんが指摘するように、現象論が不十分なまま本質論にまで突っ走ってしまうと、認識が形而上学的になり、一つのドグマにとらわれる「教条主義」につながるのではないかと思う。これは自らの経験が現象論のすべてになり、他の経験があるにもかかわらず、そこには目が行かないということから現象論が不十分な状態が生まれるからではないかと思う。差別糾弾運動などで、差別というものは差別されたものでなければ分からないと主張して、自らの経験を絶対化して糾弾すべきという判断をしていた人々は、「教条主義左翼」の最たるものではないかと思うが、彼らは自らの経験から得た知識が絶対的に正しいという自信にだけはあふれていた。この過剰だと思える自信も、なぜ生まれてくるのかというのを考えるのは「教条主義」の克服のためには必要だろう。「教条主義」の訂正には、そのドグマがもしかしたら間違っているかもしれないというきっかけさえあればいいのだが、この自信にあふれた姿は、そのような発想を妨げる。フィージビリティ・スタディを困難にする。教条主義的なドグマに反することは、想像することさえ難しくなるのだ。さて、テロ特措法によって展開されている自衛隊の活動だが、その代表的なものはインド洋における給油活動だ。これは、直接戦闘行為をするものではないものの、戦闘行為の後方支援ということで、戦闘行為の一環として理解されているものらしい。つまり、日本の自衛隊は、直接武器を使ってはいないものの、すでにアメリカの戦争に参加していると解釈できるわけだ。「戦争に参加することはいかなる場合でも間違いである」という法則性を教条主義的に抱いていれば、自衛隊のこの活動は間違いであり、テロ特措法の延長は許されないということになる。テロ特措法の延長が間違いだという主張は、これ以外の理由からも語られることがあるが、もしもテロ特措法の延長が本当に間違っていたとしても、その理由を単純な平和主義に求めるのは間違っているのではないかという疑問をマル激では提出していたように僕は感じた。結論が正しくても、そこへ至る過程が間違っているのではないかということだ。そして、その過程が間違っていると、その後の対処の仕方を間違えるのではないかという指摘もあったように思う。「戦争に参加することはいかなる場合でも間違いである」という法則性は果たして普遍的に成立するものだろうか。これは、心情的な平和主義者には、「成立して欲しい」という願いは強いだろうと思う。だが、願いだけでは真理であるという証明にはならない。例えばアメリカが提唱する「テロとの戦い」は一つの戦争として遂行されている。これなども、アメリカが提唱する特殊・具体的な「テロとの戦い」への参加が正しいかどうかと、一般論としての「テロとの戦い」への参加が正しいかどうかは区別しなければならないのではないかと感じる。「いかなる場合でも」というような全称命題として法則性を考えれば、特殊・具体的な状況と一般的・普遍的な状況との区別がなくなってしまう。フィージビリティ・スタディが難しくなる教条主義的なドグマになってしまうのではないだろうか。僕は、全称命題として、「いかなる場合でも」というニュアンスで語られている法則性は間違いではないかと思う。むしろ、戦争に参加することが正しい場合という条件を求める思考へと進まなければならないのではないかと思う。コスタリカという国は、日本と同じように、国際紛争を解決する手段としては軍隊を持たないと決めている国だ。では、コスタリカという国は、まったく戦争というものと関係なく、それに参加せずに済ませている国かといえば、以前のマル激の議論を聞いた限りではそのようには感じなかった。コスタリカという国は、戦闘行為には参加しないものの、紛争当事国の調停役として、ある意味では積極的に戦争に関わっている・参加していると解釈できるのではないかと感じた。コスタリカは、第三者として利害当事者ではない、利害を離れた客観的判断が出来る調停者として国際的に認められるような努力をしている。コスタリカの平和主義は、単に平和を願うだけではなく、そのための具体的な行動で平和の状態を保つようにしている。コストを払った、タダ乗りではない平和主義だ。コスタリカは、平和を守るための戦争への参加の仕方という発想を持っているように感じる。これが、「いかなる場合でも」という全称命題的なドグマを持っていると、そういう微妙で複雑な行為の選択という発想がなくなる。「いかなる場合」でも戦争に参加するのは間違いなのだから、具体的な事情を考慮することなく、論理的な帰結として「戦争に参加してはいけない」というものが導かれる。これは論理的な帰結であるから、現実がどのような条件を持っていようとも、これが正しいのだという論理的強制をもって行動を支配する。法則性の恐ろしいところはこのようなところだ。法則性は、抽象的に考えている限りでは、その法則が成り立つような実体を設定して論理的な整合性を取っているので、それが成り立つことが当然であるような世界像をもっている。問題は、その世界が、現実の世界とよく重なるという、法則性の現実への適用・応用が正しいかどうかということにかかっている。この適用・応用が、教条主義的ドグマを抱いていれば、現実の重要な特殊性を捨象してしまって、一般性を押し付けて結論を導くということをしてしまうのではないかと思う。テロ特措法の延長問題では、その延長が間違っているとしても、それは特殊・具体的な状況のもとでの間違いだという判断なのか、一般論として間違っていると結論しているのかということが問題になる。特殊・具体的状況でいえば、日本の憲法の問題と整合性が取れないから間違っているという議論がある。民主党が主張するのはこのような方向ではないかと思う。それは、アメリカの個別的自衛権を根拠にして始められた戦争であり、国連が決議して制裁をしているものではない。だから、この形の下では、アメリカの自衛権の下にに「集団的自衛権」を根拠に参加していることになってしまう。これは、日本では憲法が認めていない行為になる。このような視点からは、テロ特措法によって行われている自衛隊のインド洋上での活動は、延長するのは間違いだということになる。しかし、この視点をちょっと行き過ぎると、他の形での平和活動も、戦争に参加しているという形のものはすべて認められないという主張も生じてくる。これは果たして正しいかという疑問がマル激では語られていたようだ。テロとの戦いというものが、どうしても戦争行為を伴うものであれば、その状況では何らかの戦争行為に参加することもありうるのではないかという発想が生まれることもあるだろう。テロとの戦いも、戦争である以上は否定されなければならない、と考えるかどうかでこの判断は違ってくるだろう。この判断で重要になるのは、戦争の相手と考えられているテロリストたちがどう考えるかということだろう。テロリストたちも、戦争はよくないことだと考えてくれるようなら話は簡単だ。だがそういう期待はほとんど出来ないのではないかと思う。こちらが平和を願っても、こちらの願う平和の下では、テロを起こそうとする側はまったく不幸な状況を抜け出すことが出来ない。願いだけでは実現しない平和がそこにはある。このような状況のとき、平和を実現するための有効な方法は、テロリストたちの攻撃を、もっと強大な武力で封じ込めてしまうことか、テロリストたちがそもそも不満や恨みを抱くようになった根拠になるものを修正していく方法を取ることだ。つまり、戦争をして相手を圧倒するか、富の再配分を適切にして、一部の金持ち国に富が偏在しないようにするかどちらかということになるだろう。今のところ、世界の金持ち国の最たるものであるアメリカの方針は、富の再配分をして自分の利益を削るよりも、強大な軍事力で相手を粉砕するほうを選んでいる。日本としては、これに同調して参加していくか、それともテロリストの側とも妥協を図って、平和共存への道を探るかどちらかということになる。今のところは、テロリストとは一切の妥協はせずという方針のようだから、基本的にはアメリカの世界戦略に乗っていくことになるのだろう。このとき、日本の進路が基本的にそのような方向を示しているのなら、やはりその方向でのコストを支払わなければ国際的な信用を失ってしまうのではないかということが、宮台氏などから疑問として提出されていた。テロ特措法の延長は間違っているかもしれないが、それに代わる何の方策も立てないとしたら、国際的には日本の姿は、平和の恩恵には浴しているのに、そのコストは何も払わない「タダ乗り平和主義」のように見えるのではないか、平和の行動へのサボタージュに見えるのではないかということが議論されていた。マル激では、神浦元彰さんという軍事ジャーナリストが、アメリカの対テロ戦争のやり方は間違っていると指摘していた。世界中の富を独占し、そのためには他国の自立を踏みにじったり、貧困で他国がどうなろうと知ったことではないというような態度で世界を支配してきていることを反省すべきだという主張だった。それを修正していかない限り、新たなテロリストが生まれるのは必然的なものであり、どれほどテロとの戦争を強化しても問題は解決しないという指摘だった。僕はこれは正しいと思う。だから日本が取るべき道は、アメリカの行う対テロ戦争に荷担していく道ではなく、偏在してる世界の富を、アメリカが不正に奪っているのだということを修正させていく努力をして、そのような方向でのコストを払うべきだろうと思う。それは非常に困難なのだろうが。このような行動でもっとも難しいのは、テロによって犠牲になるのは、富を集中させている利害当事者ではなくて、そうではない一般国民であるということだ。神保氏が指摘していたが、テロは、富を集中させている支配層にとっては、必ずしも困ったものではなく、うまく利用できるものになってしまっているということではないかと思う。平和を守るためにコストをどう払うかという思考は難しい。それは、平和という状態が、実は戦争状態が起こることが普通なのに、武力のバランスでその均衡が保たれているときに平和が訪れるのだと法則性を理解していると、コストの払い方の発想が違ってきたりするからだ。明治維新後の日本は、おそらくそのような発想で富国強兵を図ったのだろうと思う。そしてそれはある程度成功したが、第二次大戦の敗戦で手痛い失敗を経験した。そしてそのために、今度は武力による平和の維持という発想をまったくもてなくなってしまった。これがいいことなのか悪いことなのかは一概には言えないが、フィージビリティ・スタディにとっては障害となっているだろう。いずれにしても、タダ乗りではない、何らかのコストを支払う方向を考えるべきだというマル激の指摘は重要なものではないかと思う。法則性の認識と関連させて考えてみたいものだ。
2007.09.28
コメント(0)
野矢茂樹さんが翻訳したウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(岩波文庫)には、用語の索引がついている。その中から「法則」という言葉に関する命題を拾ってみて、ウィトゲンシュタインが「法則」という言葉をどのように使っているかを考えてみようと思う。「法則」というような、一般性の高い言葉は、日常的にも使われるし、比喩的にも使われたりして、その意味は非常に多様なものがある。文脈から決まってくる意味を読み取ることが難しいとも言えるものだ。ウィトゲンシュタインは哲学者であり、哲学者というのは非常に厳密な論理を展開する。しかもウィトゲンシュタインというのは、余計な説明を一切省き、その本質だけを凝縮して語るような文体を持っている。「法則」という言葉を用いるときも、僕のように無意識に使ってしまうということはないだろうと思う。吟味に吟味を重ねてその言葉を選んだに違いない。ただこの『論理哲学論考』は翻訳なので、日本語的なニュアンスと違うものがあるということが考えられるかもしれない。しかし、そもそも「法則」という言葉が、今のような使われ方をしているのは、明治以後に近代科学が輸入されてからのことではないかとも思われるので、もともとが翻訳概念だと言ってもいいかもしれない。ともかく、ウィトゲンシュタインが命題の中で語る「法則」という言葉が、その命題の中ではどのような意味で使われているのかを考えてみようと思う。まずは、次の命題が最初に索引ではチェックされている。3.031 かつて人はこう言った。神はすべてを創造しうる。ただ論理法則に反することを除いては、と。――つまり、「非論理的」な世界について、それがどのようであるかなど、我々には語り得ないのである。僕もときどき「論理法則」という言葉を使うことがある。これは、「法則」というものが自然あるいは社会というような、現実に存在するものを対象として認識されると考えると、ちょっと違和感を感じるものではないかと思う。「論理法則」と呼ばれているものは、僕の場合は「排中律」や「矛盾律」を指したり、「三段論法」を指したりする。これらは、現実の世界がどうであれ、論理として自立的に、それらの現実とは独立して成立する。論理の世界は、現実と無関係に完結している。論理の世界が完結しているというのは、例えば命題論理を公理的に展開すると、いくつかの基本命題を前提として、新たな命題を産むアルゴリズムを設定し、そのアルゴリズムによって生成される命題のみを真理であると規定すれば、その体系は無矛盾で完全であることが証明されるということだ。これが数学の世界にまで広がっていくと、論理ほど単純化された対象にならないので、ゲーデルが証明したように、無矛盾性と完全性が両立しなくなる。数学においては、もっとも単純だと思われる自然数論でさえも、無矛盾だと仮定するとそこからは証明できない命題が存在することが帰結される。形式論理では、矛盾した命題からはすべての命題を引き出すことが出来ることが、そのアルゴリズムから証明できる。だから、無矛盾ではない、すなわち矛盾している体系は完全性は保証される。しかし、その完全性は、あらゆる命題が定理になるという無意味な完全性になる。だから、数学にとっては無矛盾であることが本質的に重要だ。その無矛盾の体系では数学は完結しないということがゲーデルによって証明された。ただ、このことはそれほど数学にとっては危機ではないと僕は思っている。これは、人間が現実存在であることの条件から来ている制限であって、神にでもなってすべてをいっぺんに把握するという、実無限の認識を持たない限り数学は完結しないだろうと思うが、現実に生きている限りではおそらく矛盾には遭遇しないだろうから、現実の中で数学を展開している限りでは完全でなくてもかまわないのだと思っている。さて現実とは無関係な論理(形式論理)の定理あるいは原理をなぜ「法則」と呼ぶのだろうか。それは現実が合理的なものである・世界は合理的な存在として人間には見えるということからではないかと思う。形式論理は、公理論的に展開すれば、基本的な公理をルールとするゲームの展開のようなものになる。このゲームは、純粋に頭の中で行われる。それは言葉遊びのようなものといってもいいだろう。この言葉だけのゲームが、実は現実をよく表している、現実にふさわしいモデルになっているという主張が、上のウィトゲンシュタインにも見られるのではないかと思う。神が創造しうるものというのは、現実化しうるものという意味に受け取れる。つまり現実に存在するものは、論理に従っている。論理そのものは言葉の問題だが、現実がそれに従うという適用の問題がそこに含まれると、論理における正しい命題が、現実の「法則」として認識されるという理解が出来るのではないかと思う。神が創造した現実は、論理に従っているということが確認される限りで、論理は現実に「法則」として現れている。それを「論理法則」と呼んでいるのではないかと思う。全能の神でさえも「論理法則」に反する現実を創造することが出来ない。これは神という概念に矛盾するのかもしれないが、それくらい論理というものが世界を支配する力が強いということだろうか。ともかくも、自然に存在している対象について語ったものではなく、人間が頭の中で作り出したルールである論理も、現実とのつながりを持つ場合には「法則」という概念で捉えることが出来るのではないかと思う。論理法則は、現実の中にそれに反する事実を見つけることができないというほど強いもので、その確信がどこから生まれるかということは考えてみたいことだが、そのような原理としての法則として現実に適用されているのではないかと思う。次に「法則」という言葉が現れるのは次の命題である。3.0321 なるほど物理法則に反した事態を空間的に描写することはできよう。しかし、幾何法則に反した事態を空間的に描写することは出来ない。ここで使われている「物理法則」という言葉は普通の使い方なので問題はないだろう。問題は「幾何法則」という言い方だ。「幾何」は純粋な数学であり、それはやはり定理と呼んだ方がいいのではないかという違和感を抱くかもしれない。ウィトゲンシュタインは、何故にここで「幾何」における「法則」を語っているのだろうか。これもやはり現実とのつながりがあるからのような気がする。「物理法則」に反した事態というのは、例えば重力の法則に反するような想像をしてSF的な世界を描写することが出来るということではないかと思う。これがなぜ出来るかといえば、「物理法則」そのものは、空間という、それが成立する場についての記述をしていないからだ。空間が存在することは現実的な前提とされているので、その基礎に対して違うものを想像で作り出すことが出来る。しかし、幾何のほうは、空間そのものの記述をしている。だから、この記述が現実にふさわしいモデルになっている限りでは、それに反した描写は出来ないのだ。人間が実際に操作できる範囲の空間は、ユークリッド幾何のモデルとして考えるのがふさわしいだろう。幾何には非ユークリッド幾何もあるが、これもそれがふさわしい現実が見つかれば、その現実に対しては、それに反して描写することが出来ない「幾何法則」として機能するだろう。次に語られる「法則」は次のようなものである。4.0141 ある一般的な規則が存在し、それによって音楽家は総譜から交響曲を読み取ることが可能となり、人がレコード盤の溝から交響曲を引き出すことが可能となる。また、その規則によって、総譜から交響曲が読み取られたように、交響曲を聞いた人がそこから総譜を導き出すことが出来る。まさにこの点に、見かけ上まったく異なる形象における内的な類似性が存している。そしてその規則とは、交響曲を音符言語に射影する射影法則に他ならない。それは音符言語をレコード盤の言語に翻訳する規則である。ここで語られている「射影法則」というのは、ある種のルール(規則)だと考えられる。これは、自然に存在するものではなく、形象という姿・形が違うものの変換(コピー)を媒介するルールである。数学で言えば写像とか関数と呼ばれるような概念になるだろうか。ここで語られている音符は自然の中に発見するものでなく、ある目的にしたがって、その目的が実現するように人間が作るものだ。それすらも「法則」という呼び方をするのである。音符というのは、人間と関係なく自然に発生するものではない。どの音をどのように表現するかというルールを定めて、そのルールに従って表現し、ルールに従って読むことが出来たとき、音楽というものがコピーされて表現される。これは概念としては「法則」というよりも「規則」と呼んだ方がふさわしいようなものだろう。しかしウィトゲンシュタインはそれを「法則」と呼ぶ。それはなぜだろうか。それは言語との連想でそう語られているのではないだろうか。これは言語の翻訳のようなものとして語られている。この言語に関しては、そのルールは人間が作り出したものとはいえ、意識的に作られたものではなく、長い歴史を経て自然発生的に作られてきたように感じる。誰か個人の創造に帰するものではない。このような言語の規則に関しては、現象を集めて、何らかの共通のものが見つかればそれは「法則」として認識されるだろう。それを創造したものがはっきりしていれば、それは「法則」というよりも「規則」と呼んだ方がふさわしい。しかし、いつのまにかそうなっているという、言語ゲーム的な現象に関しては、「規則」というよりも「法則」として認識されるのではないかと思う。ここでは、言語のそういう「法則性」との連想で、音符を言語のように見立てて比喩的に「射影法則」と語っているように感じる。「法則」という言葉は、現実と何らかのつながりを持つ「規則」「ルール」と呼べるようなものに対して使われているように感じる。「法則」というのは、それが何らかの「規則」「ルール」であるが、現実に従わざるを得ないという必然性を感じるものとして捉えられているのではないかと思う。この必然性がどのようなレベルにあるかで、ことわざ的な「法則」があったり、科学の「法則」があったり、論理の「法則」があったりするのではないかと思う。僕も、無意識のうちではあったが、そのような「法則」という言葉の使い方をしていたように思う。
2007.09.27
コメント(0)
関さんから「数学的法則性とその現実への適用」のコメント欄に「法則」という言葉の使い方に対する違和感を語るコメントをもらった。これは、その違和感というのは十分理解できる。僕も、「科学的な」という修飾語を付した「法則」に関しては、仮説実験の論理によって証明されたものという意味を含めて使っていたからだ。このエントリーで「結合法則」という言葉を使ったのは、無意識のうちにそのような用語の使い方をしたのだが、よく考えてみるとやはり使うには使っただけの理由があったことに気が付いた。それは短いコメント欄では説明しきれないので、改めて一つのエントリーとして、どうして「結合法則」という言葉を使ったのかを説明してみたいと思う。僕が無意識のうちに「結合法則」という言葉を使ったのは、それが数学の中でもごく当たり前に使われているという習慣からくるものが大きい。ウィキペディアでも「結合法則」という項目があって、それが説明されている。これはおそらく「associative law」という英語の翻訳のようなものとして使われているのだろうと思う。これは、他には「結合則」・「結合律」とも呼ばれていることがそこでは説明されている。用語の正確さから言えば、「結合律」と呼んだ方がよかったかもしれない。しかし、僕はなぜ無意識のうちに「結合法則」という言葉のほうを選んでしまったのか。習慣として使っているからという理由が大きいものの、こちらのほうが文脈上ふさわしかったという判断もあったように感じる。数学では真になる命題は、関さんの指摘のように定理と呼ばれる。それは純粋に形式論理によって導かれる。仮説実験の論理は必要ない。このように導かれたものは、例えば「ピタゴラスの定理」とは呼ばれるが、「ピタゴラスの法則」とは呼ばれない。しかし、一方では「結合法則」という言い方もあり、「分配法則」という言い方はもっと一般的に数学の中で使われる。この両者にはどこに違いがあるのだろうか。一つの違いは、「ピタゴラスの定理」が、より基本的な命題から導かれる複雑な命題であるということが言える。これはユークリッド幾何で言えば、いくつかの基本命題である公理から導かれるもので、それが真であるという根拠を他の命題に持つ。つまりそれが真であることが形式論理によって確かめられるということをもって、それが定理であると呼ばれる資格をもつ。しかし、「結合法則」や「分配法則」のほうは、より基本的な命題から導かれるというものではない。その意味では、これは定理という呼び方は出来ない。むしろ、これがより基本的な命題だという意味で「公理」になる場合が多い。それでは、僕の「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーでも「結合法則」を公理として「結合の公理」あるいは「結合律」として語っておいたほうがよかっただろうか。これには、今度は僕のほうが違和感を感じてしまう。群とか体・環のような代数系と呼ばれるものを論じる文脈であれば、「結合法則」は公理として「結合律」と呼ぶのをためらわなかっただろうが、あのエントリーの文脈は、代数系という体系的な対象について論じたかったわけではない。むしろ、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるということの直感的理解を図るにはどのような方法があるかという、数学教育の問題として論じたいという文脈があった。「結合法則」は、どのような演算を設定しても満たされるというものではない。「結合法則」が満たされないような演算を設定することも出来る。それが満たされないときもあるという意味で、ある種の法則だという認識も生まれてくる。それが常に形式論理的に導かれるものであれば、法則だと呼ぶのはためらわれるが、満たされるときもあり、満たされないときもあるという認識の下では、満たされるときにはそれは法則として機能していると解釈することも出来る。あそこで論じていたのは、負の数の掛け算というものが、現実に表れる具体例を利用して(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという直感的理解に利用しようという、教育的な問題だ。これは直感的理解のためのものなので、具体性を持ってイメージできるものでなければならない。その意味で、現実とのつながりがあり、「結合法則」が成り立つような対象の下でその計算を考えるということになる。そうすると実は、現実の具体的な側面を考察することなく、「結合法則」とその他いくつかの法則性が成り立つことを確認できれば、これを前提として(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になることは形式論理で導けてしまう。つまり定理になってしまうのだ。それはいったい何を意味するかといえば、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるというのは、それを十分よく理解していなくても、丸暗記でこのことが正しいと思い込んでいても、正解を出すという点においてはまったく支障がないということを意味する。どんな対象であっても、「結合法則」その他が成立している対象(集合)であれば、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるのであるから、安心してそのように計算が出来るのである。もしこの計算で間違いを引き起こすとすれば、シカゴ・ブルースさんも語っていたが、(借金)×(借金)がプラスの答えになってしまうというような計算をしてしまうときだ。だが、この計算は計算そのものの間違いではなく、計算の現実への適用を間違えていることが、その間違いの原因だ。だから本来は、計算そのものの意味を教えることによって克服されなければならない間違いだが、丸暗記によって計算を覚えていると、このような間違いに陥る可能性は高くなる。それは、負の数のイメージを作るために、現実に存在する負の数の解釈から、負の数を抽象する過程において「借金」というのはとても分かりやすいのでよく使われるからだ。負の数というのは、普通に存在する正の数の反対のイメージを持っている。これは「存在する」ということに反するので、普通は「存在しない」ものだ。しかし「存在しない」というイメージは数学においてはゼロになってしまう。反対の作用として存在するというイメージはたいへん難しい。それが「借金」というものを考えると、借用書という形で、目に見えるものとして存在をイメージ出来たりする。「借金」が負の数のイメージとして強くなると、その具体性を捨象して純粋に負の数として抽象された後にも、その具体性のイメージが引きずられる。そうすると、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという場面で、もはや具体性を失った(マイナス)という数が「借金」としてのイメージを伴って想像されてしまう。そうすると(借金)×(借金)が(プラス)になるのはおかしいという違和感が生まれてくる。このような間違いは、数学教育においては必然的に生まれてきそうなものとも感じる。それは、数学教育においては、最終的には純粋に抽象的な対象の概念を持つことを目指すものの、最初の段階でいきなりそれは難しいので、まずは具体性を持ちながらもその具体性が捨象できるような・直感的に理解しやすいもので学び始めるということが必要になるからだ。そのようなもので最も優れたふさわしいものをシェーマと呼び、水道方式におけるタイルはそのようなものだろう。シカゴ・ブルースさんの負の数のタイルという発想も、具体性と抽象性とのバランスという意味から言えば、「借金」よりも、負の数の計算を学ぶにはふさわしいものになっているのではないかと思う。数学教育においては、(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるというのは、天下り的に公理として提示されるのではなく、最初は現実の法則性を導くように、現実の中に具体例を探していきながら、それがだんだんと抽象されていって数学的な定理となっていくことがふさわしいと思われる。そのような観点から言えば、数学教育という視点では「結合法則」と呼んだ方が文脈上もふさわしいのではないかという気がする。数学的世界においても、その世界の全体像が確立してしまえば、それは公理系として体系化される。そうなれば、そこに登場する真理は、公理であるか・それから導かれる定理であるかどちらかになるだろう。しかし、まだ全体像が確定しておらず、その数学的世界がどのような世界になるかを探っていかなければならない段階では、具体的な現象を見て法則性を見つけながら全体像を想像していく過程が必要だろうと思う。そのような時は、公理や定理と呼ぶよりも、一つの法則として捉えるという文脈で語ることがふさわしいのではないかと思う。そのようなことをいつも考えていたので、無意識のうちに「結合法則」という言い方をしたのだろうと思う。だが、これは「結合律」と言っても、あのエントリーでの論理の展開はまったく変わらない。だから、そう呼んでもよかっただろうとは思う。以上が、僕が「結合法則」という用語を使ったことの考察だが、より一般的に用語という言葉の問題としては、そこで何が論じられているかということで用語の意味が変わるということは大いにありうるという理解が必要だろうと思う。「言語」という言葉を使っていても、それが言語そのものを論じている「言語論」での言葉なのか、それとも社会の中で行われているコミュニケーションを語るときに提出されている「言語」という言葉なのかで、その意味が変わってきても仕方がないのではないかと思う。言語論としては賛成できなくても、コミュニケーションという言語よりも広い意味での現象を語るのに比喩的に設定された意味で「言語」という言葉を使うこともありうるのではないかと思う。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という言い方は、人間社会におけるコミュニケーションの現象のほとんどすべてを「言語」という比喩で捉えようとしているようにも見える。これは、言語論という観点から言えばかなり違和感のある用語の使い方だが、それによって人間に特徴的な現象の説明がよく出来るなら、この概念は有効性を持つといえる。そして、有効性を持つ限りにおいては、このような用語の使い方もまた許されるのだと僕は思う。また宮台真司氏の「社会学入門講座」では、意味というものを「行為の意味」として考察している。それは「示唆性」「二重の選択性」「否定性」「選びなおし」という機能的な側面で定義されている。意味を理解するというのは、このような機能において理解することだと語られている。これなども、言語論的な方向で「意味」というものを考えるとちょっと違和感を感じるものだ。しかし社会学的な観点で、コミュニケーションの連鎖という中で行為の意味を捉えようとすれば、この行為の意味の概念は有効に働くのではないかと思う。それは誰が判断しても同じような結果を導くという客観性を持った概念になっているのではないかと思う。言葉の概念というのは、それが使われている文脈によってふさわしいものがあるのだと思う。言葉には、言葉に本来備わっている意味はないのであって、それがどのように使われるかで意味が変わると捉えたほうがいいのではないだろうか。「差別」という現象に言葉が絡むときも、同じ言葉が「差別(いわゆる不当な差別)」にもなるし、そうならないときもある。だが、言葉は、表現したいと思ったことが、必ずしもそのとおりに受け取られるものではないので、何がふさわしい表現かは難しい。書き手としては、出来るだけ自分が表現したいことを正確に伝える書き方に努め、読み手としては、書き手が本当に表現したいことを正確に読み取ることに努めるしかないのだろうなと思う。
2007.09.26
コメント(0)
哲学者の野矢茂樹さんは『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(哲学書房)という本の中で、論理を「語りえぬもの」と書いている。論理というのは、ある事柄が正しいことを示すのに使われるが、論理そのものの正しさを問題にされることがない。むしろ論理そのものの正しさを示そうとすると、その難しさに困惑してしまうのではないだろうか。野矢さんは、論理は「語りえぬもの」で、ただ「示される」だけだと語るが、この正しさというものを拙いながらも語ってみようかと思う。論理というのは、法則性として正しさを確認できるものなのか、それとも自明の前提として、合理的思考を進めるにはどうしても従わなければならないものとしてアプリオリ(先験的)に正しさを受け止めなければならないものなのだろうか。まずは、論理も経験則を抽象化して得られた法則だという立場で考えてみようかと思う。論理は現実を反映した認識の中でも最高度の抽象であり、現実世界と一致することが論理の正しさを支えると考える立場だ。論理という法則性の、現象論的段階・実体論的段階がどういうものであるかを考えてみようかと思う。論理が対象とするものは何かといえば、それは人間がある事柄に対してする判断であり、それは「肯定判断」と「否定判断」というものに抽象される。論理は、肯定か否定かが明確になるような判断でなければ、その操作の対象とすることが出来ない。これは排中律の原理につながるもので、排中律というのは、論理が対象にするものを限定するという意味で「原理」として働いているのだと思う。この排中律の認識を「現象論的段階」として考えてみると、現実の現象を見て、そこでの判断が肯定になるか否定になるかどちらかであるという経験をたくさんつむということが想像される。これはありうる話だ。しかし同時に、無視できないくらいたくさんの判断が、肯定も否定も出来ない・現段階ではどちらとも決められないという経験もあるように思う。現象論的段階の経験では、排中律が成り立つということが特に顕著に見られるという想像がなかなか難しい。これは、科学的認識における現象論的段階と違う特徴ではないかと思う。科学的認識では、そこに法則性があることを強く予想させるような現象論的観測データが存在する。だが、論理の場合は、人間の判断一般という非常に広い範囲の対象を持っているので、ここに存在する法則性を現象として絞ることが出来ないように感じる。排中律というのは論理法則ではあるが、これは現実を反映したものというよりは、現実の判断一般を対象にしたのでは、その考察があまりにも複雑になるので、対象を限定するために設定した「原理」だと理解したほうがいいような気がする。これにより、論理は、論理が対象とする判断という実体を設定しているのだという受け止め方だ。このように考えると、論理において排中律が成立することは自明のことになる。何しろ排中律が成立する対象だけを集めて考察するのが論理だということになったのだから。これは、現実をよく反映しているかどうかはこの段階では分からない。排中律が成立しない判断は、例外として排除されているからだ。それを排除しない新たな「論理」を考えた人々もいるようだが、それは、排中律が成立する「形式論理」ほどの成果をあげていないように見える。その意味では、排中律は現実をうまく反映しているとも考えられる。矛盾した命題を真理ではないとして真理の体系から排除する矛盾律も論理法則の一つだ。だが、これも排中律と同様に、現実の現象を集めて法則性として抽出したというよりも、矛盾を認めるような体系はあまりにも複雑になりすぎるということから、矛盾した判断を排除するという原理として働いているのではないかと感じる。排中律・矛盾律は、法則というよりも「原理」として働いているように見えるが、論理の法則はすべてそのようなものなのだろうか。合理的判断に都合のいいように判断を選んで、合理的判断として正しいという定義に合うような判断を見つけるのが論理だとしたほうがいいのだろうか。しかしそうすると、どうして論理が現実に適用できて、しかも有効であるかということの説明がつかなくなる。現実への有効性を持っている論理は、やはり何らかの形で現実とつながっているのではないだろうか。排中律や矛盾律に比べもう少し複雑な構造をもっている三段論法と呼ばれる論理法則は、現実から抽出されてきたものになっているのではないだろうか。有名な例としては次のようなものがある。 (すべての)人間は死すべきものである。 …全称命題 ソクラテスは人間である。 …特称命題 ゆえにソクラテスは死すべきものである。…特称命題二つの前提から三つ目の結論が引き出せるこの論理を「三段論法」と呼んでいる。上の例では、「人間」「ソクラテス」「死」というような具体的な意味を持つ言葉を使って表現しているが、この形式だけを抽出すると次のようなものになる。 すべてのaはPの性質を持つ。 あるxはaの一つである。 ゆえに、あるxはPの性質を持つ。法則的認識の現象論的段階を考えると、この論理法則の現象は、二つの前提が正しいときに、結論が語っていることも常に正しくなるという現象によって、その正しさが支えられる。これは一見ありそうなことだ。人間は、永遠に生きている者を見つけることが出来ない。ソクラテスが人間であることは確かだろう。そして、ソクラテスが死んだことは歴史的事実として確認できる。上の三段論法が語る現象はすべて確かめることが出来る。それでは、そのことを基礎にしてこの三段論法の正しさを確認することが出来るだろうか。どうも違うような気がする。我々は、そのような事実の確認をするまでもなく、この三段論法が正しいことを言葉の意味だけから受け取ってしまう。これはどのような思考のメカニズムが働いているのだろうか。論理というのは、言葉の問題であって現実の問題ではないのだろうか。論理法則を現象論的段階から抽出してくることはどうも無理があるようだ。現在の形式論理学では、それを一つのアルゴリズムとして提出している。排中律や矛盾律が成立することはもちろんのこと、三段論法などもその前提に盛り込んで、一つの論理式から新たな論理式を生み出すアルゴリズムを設定しておく。そして、そのアルゴリズムに従った論理式のみを正しい論理式として認める。ここには現実とのつながりは一切ない。現象論的段階なしの実体論的段階とも言えるような感じだ。この形式論理は、現実がその前提にふさわしい特徴を備えていて、その前提の下に抽象できるような対象なら、うまく現実を反映して適用できるだろう。形式論理は、形式論理が成立するような世界を設定して、その世界の中での正しい命題を生み出すというモデルになっているような感じだろうか。このモデルは、現実がその前提とする排中律や矛盾律を満たしていると考えられれば、形式論理に従うことが合理的だということになる。そして、今のところ、その適用に反するような特殊な例外が見つかっていないということになるのではないだろうか。論理の正しさは、どうも科学的法則の正しさの認識とは道筋が違うようだ。野矢さんが言うように、やはり「語りえぬもの」であって「示すこと」しか出来ないのかもしれない。だが、どこかで正しいという認識が生まれることは確かなのではないかと思う。まったく論理的思考と関係のない赤ん坊の時代から、いきなり論理が使える大人になるというわけにはいかないだろう。どこかの時点で、論理の正しさを確信する分岐点があるはずだ。それはどのようなきっかけなのだろうか。人間が理屈というものを使い出したのはいつ頃からなのだろうか。あるいは、動物の中にも理屈が使えるものがいたりするのだろうか。現実を受動的に受け止めるだけでは理屈は必要ない。現実には目で見えないものを見たりする思考の際に、見えないけれど見えるという確信のために理屈(論理)が必要になる。誰も目撃者がいない犯罪に対して、誰も見ていないにもかかわらず、ある特定の犯人がその犯罪をしている姿を見るのは論理の力による。あるいは、アリバイのある人物が犯罪を犯していないことは、それを誰も見ていなくても論理の力によって結論付けることが出来る。この理屈の力は、人間はいつどのようにして身につけたのだろうか。論理は言葉の問題と深く関係しているだろう事は確かではないかと思う。ウィトゲンシュタインが、論理の問題を哲学として完成したと宣言した『論理哲学論考』の後に、言語の問題から、その考えを修正したのは、言語と論理との深いつながりを新たに発見したからではないかと思う。論理は人間の言葉の使い方の特殊な側面を取り出したものだと考えられる。その側面は、論理の世界だけで完結しうるものではないかと僕は思う。だからこそ、ウィトゲンシュタインは、論理の問題としては哲学は完成したと宣言できたのではないか。しかし、言語の世界には、論理の世界から抜け落ちてしまうものがまだある。そして、それを考察しないことには、人間社会の全体像がつかめないということがあるのではないだろうか。「言語ゲーム」という発想は、そのようなところから生まれたようにも感じる。論理がなぜ正しいのかはうまく説明が出来ないが、これが言語と深くかかわっているものであり、しかも社会でのコミュニケーションにも深くかかわっているのではないかという気がする。言語はもちろんコミュニケーションの手段の一つだが、論理というのも、実際の行動を起こす前に同意を取り付けるためのコミュニケーションの道具なのではないかとも感じる。合理的だと判断されたことに人は合意するのではないかと思う。この合理的には勘違いもある。しかし、言葉の判断だけで合意を与えた人間は、その合意の判断をした時点では、自らの判断を合理的だと考えているのではないだろうか。論理は、社会にも深くかかわっている。合意が必要な民主的な社会であるギリシアにおいて初めてその正しさが意識されたという歴史的な事実にもそれは現れているのではないだろうか。論理の正しさと社会と言語とのつながりというものを、いろいろな面から学びたいものだと思う。宮台真司氏の社会学や、ウィトゲンシュタインの哲学からは、多くの示唆を受けられるのではないかという感じがしている。そして三浦つとむさんの言語学からも、論理との深い関係が読み取れないかということを考えてみたいと思う。
2007.09.25
コメント(0)
数学教育で難しいものに、アルゴリズムが確立されているものを論理的に正しいということをよく納得して理解するということがある。それは、アルゴリズムが確立されているので、手順さえ覚えれば必ず正解を導くことが出来る。それが正解であるということを理解していなくても、アルゴリズムさえ間違えなければ正解を求めることが出来る。理解し、納得していなくてもとにかく正解が出せるからいいじゃないかという立場もあるだろう。数学を道具として利用する立場なら、そのアルゴリズムが正しいことが保証されていればそれを信用して、他の側面に思考を集中させるということがあるだろう。しかし、このような立場でも、そのアルゴリズムが正しいという信頼感は、単に信じているだけでは危ういのではないかと思う。せめて基礎的なアルゴリズムだけでも、それが正しいことをよく納得して受け入れなければ、かなり複雑になった難しいアルゴリズムの正しさを単純に信じることは出来ないのではないかと思う。特に、それを道具として他の側面で複雑で難しいことを考えようというなら、基礎的なアルゴリズムの正しさはよく理解しておいたほうがいいだろう。基礎的なアルゴリズムとしての筆算の加減乗除の理解に関しては、故遠山啓先生が発見した水道方式による教育が効果的だ。特に、教具としてのタイルは、その法則性の現実への適用としては、抽象性と具体性を適度に併せ持った「シェーマ」としての働きを有効に持っている。筆算のアルゴリズムは数学的・抽象的な論理法則であるが、それを理解するには具体的な現実への適用において常に成り立つという納得をする過程が必要だ。それがタイルを使うと効果的になされる。タイルは、分数や小数の計算のアルゴリズムの理解においても威力を発揮する。これらは、アルゴリズムとして手順を覚えてしまえば、形としては常に正しいことをしているように見えるが、その構造の理解をしてアルゴリズムを実践するのと、単に手順の記憶で機械的にやっているのでは、その人間の認識(理解)に大きな違いが出てくるだろう。手順を覚えているだけでは本当の法則性の理解とは言えない。基本的な筆算のアルゴリズムに関しては、このようにかなりうまい工夫が見つかっているのだが、これが負(マイナス:―)の数の計算になると手順の記憶以上の理解をしようとするとかなり難しくなる。特に(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという法則性の理解は難しい。これは数学においては論理法則であって、加減乗除の計算、より基本的には加法と乗法が定義されている集合においては、その基本定義から論理的に導かれる法則になる。(減法と除法は、それぞれ加法と乗法によって定義されるので基本的にはこの二つが定義される必要がある。)加法と乗法が定義されている集合Zにおいて、その要素をa、bなどという小文字で表すことにする。そのとき、単位元eと逆元xを次のような条件を満たすものとして定義する。 加法の単位元 a+e=e+a=a (これは通常0:ゼロと書かれる) 乗法の単位元 ae=ea=a (これは通常1と書かれる) 加法の逆元 a+x=x+a=e(=0) (これは通常(―a)と書かれる) 乗法の逆元 ax=xa=e(=1) (これは通常1/aと書かれる)この加法と乗法に関して、次の結合法則・分配法則が成立することを前提とする。 加法の結合法則 (a+b)+c=a+(b+c) 乗法の結合法則 (ab)c=a(bc) 分配法則 a(b+c)=ab+ac (a+b)c=ac+bcこれらの前提を置いて、マイナスの数を加法の逆元だと定義したとき、論理法則として(マイナス)×(マイナス)=(プラス)というマイナスの掛け算の法則が導かれる。それは次のような論理展開から導かれる。1 0 = a0 +(- a0)…加法の逆元の定義から = a(0 + 0) +(- a0)…単位元0の定義から、0+0=0 = (a0 + a0)+ (- a0)…分配法則の適用 = a0 + (a0 +(- a0))…結合法則の適用 = a0 + 0 …加法の逆元の定義から = a0 …加法の単位元0の定義から 逆も同様に0=0a2 a0 = a ( b + (-b) ) …加法の逆元の定義から = ab + a(-b) …分配法則より = 0 …上記1の結果より (これにより、ab と a(-b) は、互いに加法の逆元であることが分かる)3 0(-b) = ( a + (-a) )(-b) 加法の逆元の定義より = a(-b) + (-a)(-b) 分配法則より = 0 上記1の結果より (これにより、 a(-b) と (-a)(-b) は、互いに加法の逆元であることが分かる)4 逆元の一意性 xとyが、互いにaの加法の逆元であるとすると a+x=x+a=0…4-1 a+y=y+a=0…4-2 x=x+0…加法の単位元の定義より =x+(a+y)…上記4―2より =(x+a)+y…結合法則より =0+y…上記4-1より =y…加法の単位元の定義より逆元の一意性から、互いに a(-b) の逆元となっているabと(-a)(-b)は同じものになる。すなわち (-a)(-b)=abとなり、(マイナス)×(マイナス)は(プラス)になるという法則性が証明される。この法則性が論理的に証明されるということは、加法と乗法の基礎的な構造を持っている集合では、この法則を現実に確かめることなく、論理的考察だけでその正しさが保証されるということである。自然科学における実験のように、その真理性を証明する必要はないということだ。だから、手順を覚えさえすれば正しい結果が導かれるということになる。このことを論理的に納得しようと思えば、上のような考察を展開すればいいのだが、これは論理に慣れていない人には、かなりくどいように感じるのではないだろうか。直感的という意味では非常に分かりにくい。これはそもそも(マイナス)というものが、現実には存在しない想像上のものであるから、直感する(目で見るようにする・あるいは感覚で受け止める)ということが出来ない対象だからではないかと思う。直感できないので、ノーミソの目である論理で理解するように努めるということになるのだろう。この論理が、誰にでも分かるようなものであれば数学教育は苦労しないのだが、残念なことにそのような教育法はまだ発見されていない。水道方式におけるタイルのような、直感と抽象をつなぐシェーマのようなものが発見されれば、この法則性も理解しやすくなるのではないかと思う。マイナスでない、普通の数であれば、現実に存在するものを手がかりにして直感的に把握できる。掛け算も普通の数であれば、タイルを長方形に並べて、縦と横の掛け算でタイルの総数を求めるという理解のしかたが出来る。1当たり量というものを導入することで、掛け算の法則性を直感的に把握して筆算のアルゴリズムを理解する助けとすることが出来る。実際には存在しない負の数の場合は、存在しているタイルを目の前にして説明することが難しい。あえてこの方法を応用するなら、存在はしないが想像の中で見ている「負のタイル」というものを導入して考えることになるだろう。これは目の前に提示することが出来ない。提示できてしまったらそれは「正のタイル」になってしまうからだ。目には見えないが、頭の中(ノーミソの目で見る)に想像として存在するものとしてこれを捉える。そのような発想で負の数の掛け算を説明しているものにシカゴ・ブルースさんの「マイナス×マイナスはなぜプラスになるのか(2)」というエントリーがあった。この中で、シカゴ・ブルースさんは、正負の数が同数だけある状態の0(ゼロ)というものを設定して考えている。0(ゼロ)というのは、通常は何もないという状態をあらわすものとして考えられている。しかし、その概念は、負の数を導入する前のもので、正の数だけの世界の話になる。負の数を導入すると、0(ゼロ)というのは、常に負の数の想像を伴って頭の中に存在するものになる。これが、論理法則としての負の数の掛け算を、現実に適用した場合のふさわしいモデルとなる。数学的な論理法則というのは、論理だけでその正しさが証明できるのだが、初学者の段階ではその論理をたどるのがかなり難しくなる。だから直感的に理解できるような、現実の適用が正しくなるようなモデルを利用することが、教育においては重要になってくるのではないかと思う。水道方式におけるタイルは、そのモデルとしてもっとも成功したものではないかと思う。シカゴ・ブルースさんが提出する負の数の掛け算のモデルとしての想像上の「負のタイル」というのも面白いモデルではないかと思う。数学における法則性は、論理的な法則性なので、その理解のために現実の中にモデルを探して適用するということがあるのだが、実は法則性というのは原理的にはすべて論理法則として展開されるのではないだろうか。ある前提を置いたときに、その前提の下では正しいとされる論理を展開して求められるのが、ほとんどすべての法則性ではないのだろうか。法則性は論理によって求められるが、その理解のためには、現実のモデルが有効であるというのは、人間の世界理解の仕方を反映しているのではないだろうか。人間は、世界をただ受動的に受け止めているのではなく、まだ見ていない部分をも想像して考えるという世界理解の仕方をしているのではないだろうか。それが法則性の認識につながり、そしてそれは論理を使ってなされるのではないかと思う。それでは論理の正しさは何によって保証されているのだろうか。これはたぶん哲学的な問いになるのだろうが、パラドックスの考察とウィトゲンシュタインがそれを考えるヒントを与えてくれるのではないかと思う。論理が正しいというのはあまりにも当たり前のように感じるのでそれを考えることが難しい。果たしてそれは証明できるものなのだろうか。
2007.09.24
コメント(0)
法則性の認識(理解)を考えていたら、これは運動の認識(理解)とよく似ているのではないかということが頭に浮かんできた。運動というのは、変化という属性を本質としている。どのような形であれ、物質的存在に何らかの変化が認められれば、それは運動していると言われる。代表的なものは位置の変化を表す力学的な運動だろう。位置が変化せずとも、時間とともに何らかの変化をする物質は、外見は動いていないように見えても運動していると解釈することが出来る。このように、運動は平凡な出来事で、身の回りのあらゆるところに見出すことが出来る。しかし、運動そのものを提示することは出来ない。我々が目にすることが出来るのは、一瞬の静止画の状態だけだ。この静止画の状態を取り出して運動を表現することは出来ない。時間を隔てた二つの静止画を取り出して、それが経過する姿を想像して、この二つから運動を頭の中に作り出すことは出来るものの、現実にそれが運動だと呼べるものを一つだけ取り出すということは出来ない。いくつかの静止画をまとめて取り出すことは出来るものの、それはどれだけたくさん集めても運動そのものにはならない。運動は表現の段階では静止画になってしまう。これが運動の持つ弁証法性(矛盾)というものではないかと思う。板倉聖宣さんが言うように、運動を論理で表現しようとすると、それは静止画の表現になってしまうので、矛盾を含んだ表現にならざるを得なくなってくるのだろう。運動を、静止画である論理で表現するには、数学でイプシロン―デルタの論理と呼ばれる工夫がいるのだろうと思う。極限の表現は、「限りなく近づく」という運動状態を、静止画である論理を使って表現するものだ。このとき、その状態の断片を、どこで取り出してきても、常に近づいているように作り出せるということを示すのが、任意の正の数イプシロンというものを使った工夫だ。この「任意性」の中に、静止表現でありながら運動を表現するという工夫が見られる。運動というものは、現実の中にそれをそのまま取り出すことの出来ない対象になっている。それと同じように、法則性というものも、現実にそれをそのまま表しているような対象というのは存在しない。運動の認識(理解)が、頭の中の連想のようなもので、現実の静止画をつなぎ合わせたようなものになっているように、法則性の認識も、現実の具体的な対象ではなく、頭の中の「法則」として抽象されたものとしてのみ認識(理解)されているのではないだろうか。現実には法則性は存在しない。それは、法則性を認識した人間の頭の中に存在するものだ。では、現実の事実を指して、ここにある種の法則があると語るとき、それはどのような意味でそう語っていることになるのだろうか。それは、法則性の適用をして現実を解釈しているように感じる。現実の中のある部分を指して、これが法則性だと言っているのではなく、まず法則性の認識があって、その法則性を適用するとどのようにその現実が解釈できるかを語っているのではないかと思う。だから、何かが起こった後の事実の解釈としての法則性の適用は、それが解釈である限りでは、正しいとも間違っているとも判断しがたいものになるのではないかと思う。解釈であるなら、それはどのようにでも同等に解釈できるということがある。現実に存在している対象の、どの部分を重視するかで解釈が違ってくる。例えば、交通事故が起こった時の原因を解釈する場合などを考えると、「スピードの出しすぎ」だというようなものが浮かんでくる。これは、法則性としては、「一定以上のスピードが出ていた場合は、それを制御することが出来る能力の範囲を越えてしまって、制御できなくなる」というようなものを適用すると、事故を避けきれなくなってしまったと解釈できる。この解釈は、法則性の適用であり、そこに法則性が現れたということを意味するのではない。なぜなら、この法則性とは違う法則性で事故の原因を解釈することも出来るからである。例えば、「人間は疲労が限界以上に達すれば判断能力が鈍り的確な判断ができなくなる」という法則もある。また、疲労ではなく飲酒を原因とする法則もあるだろう。心の中の心配事などが原因だとする法則性もある。法則性は、その前提条件の違いによって多様なものが見出せる。実際に何かが起こった後の事実の解釈においては、法則性の適用という解釈はどれもが同等に確からしい、決め手のないものになる場合がある。仮説実験授業研究会の新居信正さんは「屁理屈と膏薬はどこにでもつく」というような格言をよく語っていたが、解釈というのは、後でどうにでも理屈がつけられるということだ。現実の解釈における法則性は、それが解釈である限りでは、その法則性が正しいかどうかはまったく保証がない。というよりも、むしろ、現実の解釈をある種の法則性にしたがって行う時は、その解釈をする人間は、その法則性の正しさを前提として解釈しているとも思える。解釈においては、法則性が正しいのは自明の前提であって、それが正しいかどうかの検証の必要性を感じていない。では、法則性が正しいかどうかの保証を与えるのはどのような思考の展開だろうか。それは、事実を後から解釈するのではなく、まだ起きていない事実を予測するときに法則性を適用し、その適用の結果得られた結論が、実際に後で事実として起こったときに、その法則性が正しかったと結論できることになる。目の前の事実は、あくまでも個別的な事実であって、それを観察したからといってそこから法則性は得られない。帰納的推論は論理的な正しさを保証しないということだ。それは常にそうであるとは限らない。たまたまその時はそうであったということに過ぎないのかもしれない。現象論的段階における観測・観察は、法則性のヒントにはなるが、それは法則性そのものの現われではない。法則性の認識(理解)は、現実からいったん離れて、論理的に対象を設定しなおして、設定しなおした実体の間にどのような論理的関係が生じるかを見るのが法則性の認識(理解)になるのではないだろうか。この法則性の認識の段階が「実体論的段階」と呼ばれるものではないかと僕は思っている。そして、この段階における法則性は、純粋に論理的なものになってしまうのだと思う。だから、この法則性が、現実にうまく適用できるかということは、また現象論的段階の解釈によって検証しなければならない。この解釈は、すでに知られた事実に対しては、ほとんどうまく適用できるものになり、一部適用が出来ないものに対しては、その対象が例外的なものであることが示されればいいだろう。だが、これだけで済ましてしまえば、それは科学として保証された法則性にはならない。科学は、既知の事実に対する解釈だけでなく、未知の対象に対してもその法則性の適用が正しいことが証明されなくてはならない。つまり、正しく未来が予測できてはじめて、科学法則としての資格を獲得する。経済学理論は、ほとんど数学の一分野だといわれるくらいに対象を抽象化している。これは、現実の複雑な多様な属性を持った存在そのままでは、論理によって展開するようなことが難しいからだろう。対象が単純化できなければ、複雑な場合分けによって論理を考えなければならないが、現実の多様性をより多く反映させようとすれば、経済学というのはまったく複雑なものになってしまうのだろう。だから、現実の経済現象ではあり得ないような前提をいくつか設定して、経済学で理論展開する対象は抽象的なものになっていくのだろうと思う。常に合理的判断をして行動する人間など現実にはあり得ないが、そのような設定をした方が論理的な展開としては、場合分けを少なく出来る。合理的な判断なら、よく考えれば誰もが同じ判断に達するが、もし不合理な判断もするのが人間だと考えて、不合理な判断も理論の展開に盛り込もうとすれば、それは論理の分岐が複雑怪奇なものになってしまうだろう。経済学が、理論としては非現実的な展開をしているといわれても、実体論的段階で、抽象的に設定された実体について論理を展開しようとすれば、それは仕方のないことではないかと僕は感じる。問題は、そうやって見出された法則性が、現実の適用においてどの程度有効性があるかということだろうと思う。現実の持っている本質的な部分までも捨象してしまえば、それの適用はあまり現実への有効性を持たないものになるだろう。ちょっと前のマル激の議論で面白いと思ったのは、経済学的な合理的判断をする人間は、企業の株価が適正価格を外れたら、それが適正価格に戻るような判断をするという前提があるということだった。そのような前提を持つと、株価が企業価値以上に上がってバブルになった時は、それを下げるような努力をするのが合理的判断をする経済人ということになるのだが、現実には、バブルで儲けようと思っている人間は、バブルがはじける前に売り抜けて、むしろバブルをあおってから儲けた後に売り抜ける方向を考えるという。そして、これが現実の合理的判断になってしまうという。現実の経済的な判断においては、人間の「儲けたい」という気持ちが判断を左右する大きな要素になっていて、これが普通の経済学では捨象されてしまっているようだ。だから、現実の経済現象は、経済学が語るような法則性に必ずしも従わなくなる。だが、法則性の適用がうまくいかなかったからといって、経済学の法則が間違っていることにはならないだろうと僕は思う。現在の経済学が捨象してしまっている部分を、捨てずに取り入れられる経済学ができれば、それはより現実への適用の有効性を持つものになるだろう。しかし、それ以前の経済学も、法則性としては十分に完結しているものだと僕は思う。そして、認識の発展においては、実体論的段階の充実という意味で、そのような法則性の追求は大事なことではないかと思う。それが十分になされた後で、本質論的段階と呼ばれる認識に達するのではないかと思う。非現実的だといわれて、すぐに現実の現象にべったりと張り付いた認識の方向へ行ってしまうのは、実体論抜きの本質論の展開になってしまいかねないのではないかとも感じる。マル激での株のデイ・トレードの話はそれなりに面白かったものの、それは経験と勘で儲けるタイミングをつかむことの出来るものではないかと思った。法則性として認識していなくても、経験をつみ、勘を鋭くさせた人間は、実践的に高い技術を持ちうるのではないかと思った。だが、その高い技術は、必ずしも法則性として認識されていないので、おそらく他者に伝えることが難しいだろう。法則性の認識は、おそらく教育において大事なものになるだろう。教育において伝えられるものは、基礎的な土台となるような知識と技術だ。経験をつんで勘を鍛えるというような内容のものではない。経験と勘を磨いて獲得するものは、本人の強い意欲と素質に依存している。それは、たとえ形の上では教育を受けたように見えても、高い能力を身につけたのは教育の成果と呼べるかどうかは難しい。それは、本人の努力と素質の賜物だと言った方がいいだろう。教育において保障されるのは、基本的なベースになる部分だけだと僕は思う。初心者が、ある程度の水準に達する中級程度までの段階に行くには、法則性の認識を基礎にした教育の方法の確立が重要なのではないかと思う。そして、法則性の認識は、抽象化された実体という過程の理解が必要ではないかと感じている。現実べったりの、現実をベタに受け取る経験だけでは決して初心者の段階を越えられないのではないかと思う。初心者を卒業するためのきっかけをどうつかむかを、現象論的段階を越える法則的認識の理解から見つけたいものだと思う。
2007.09.23
コメント(0)
仲正昌樹さんの文章には「不毛な二項対立」ということがよく出てくる。これは、お互いに相容れない主張(矛盾した主張)を展開していて、相互の間ではまったく話し合いにならないような状態を指していう。これは、どちらかが間違えていて、正しい結論に落ち着くようなら、まだ「不毛」だとは言われないだろう。間違えていた方は悔しい思いをするかもしれないが、間違いが正されることは結果的には多くの人の利益になる。しかし、どちらが正しいかが簡単に言えない場合、それはより正しい方・あるいは双方の正しさを取り入れた妥協点を見出すことが建設的な方向になるだろう。このような方向へ行くには、建設的な対話がどうしても必要なのだが、双方が、相手の主張を少しでも認めることは出来ないというかたくなな態度を取っていると、この二項対立は、どちらかが完全に否定されるまで続かなくてはならなくなる。そして、かなり難しい問題ではその決着がつくかどうかさえ分からなくなるので、延々と対立が続くことになり、その状態が「不毛」だと言われるようになる。この不毛さを克服するのはかなり難しい。なぜなら、自分の主張を下げない人は、自分の主張のほうが正しいのはほとんど自明なことのように感じているので、相手が間違っているということが前提になってしまう。こうなると、相手の主張を冷静に分析して、相手の立場に立ってものを考えるということは出来ない。相手がバカに見えてしまう人間には、不毛な二項対立を克服することが出来ない。この二項対立を克服するには、宮台真司氏が語るフィージビリティ・スタディというものが必要だろう。あらゆる側面から、考えられうる限りの可能性を検討して、たとえ結論として対立していることでも、条件によっては成立することもありうるということを理解することが大切だ。そして、現在の状況がその条件を成立させていないからこそ、自分はその主張に反対するという考えを提出すれば、不毛な二項対立ではなく、多様な可能性の下の議論が出来るようになるだろう。そもそも二項対立という概念は形式論理にとっては非常に重要なもので、これがあるからこそ形式論理のすばらしさや有効性が発揮されるといってもいい。二項対立によって矛盾が導かれた場合、それが本当の意味で形式論理的な矛盾であるなら、その前提は否定されなければならない。二項対立によって前提の否定が完全に証明されることになる。形式論理にとって重要で有効性を持つ二項対立が、実際の議論の場面で不毛なものになってしまうのは、本来は形式論理的な二項対立(矛盾)ではないものを、形式論理的なものだと勘違いするからだろうと思う。三浦つとむさんの言葉でいえば、敵対的矛盾と非敵対的矛盾の混同ということになるだろうか。敵対的矛盾というのは、克服され否定されなければならない矛盾で、形式論理的な矛盾といえる。それに対して非敵対的矛盾というのは、視点(前提)の違いから導かれた、文章表現として対立してしまうような二つの結論の間に存在する矛盾だ。これは、結論としての文章だけを取り上げて、それが「同時」に成り立つと考えてしまうと形式論理的な矛盾になる。しかし、実際は、視点(前提)の違いを持っているので、それが「同時」に成立することはない。だから、決して形式論理的な矛盾ではないのだ。結論だけを戦わせている二項対立は不毛なものになる。消費税を「値上げする」のが正しいのか「値上げしない」方が正しいのかと、その結論だけを戦わせていれば、その結論から導かれる双方の立場の対立を反映した、結論の出ない二項対立が生じる。消費税の負担を感じる側からは、その値上げの結果としての生活の苦しさが反対の理由になるだろう。また、消費税の値上げが必要だという、国家財政を担当する立場からは、値上げをしなければ、さまざまな税の支出が出来なくなるという理由が提出されるだろう。この双方の主張は、それぞれに合理的でもっともな主張であり、双方の立場に立つ限りでは「正当性」を持つ。しかし、その正当性は、立場が違えば捨象されてしまうもので、結論をぶつけ合っている間は妥協点が見出せない。このとき、あらゆる角度からものを見ることで、正当性を持つ判断をいくつも提出し、その選択肢の中から、双方の利益をもっとも高め、損害を最も少なくするものを選ぶという議論に進むならば、その時は不毛な二項対立ではなく建設的な議論になることだろう。このような建設的な議論というのは、論理的に考えればこのとおりなのだが、実際の議論の場面ではこのような方向は双方にとって評判が悪い。二項対立をしている当事者たちは、お互いに相手の主張が間違っていると思っているので、少しでも相手の立場を認めるような姿勢を見せると、それは自らの敗北を意味すると感じてしまうようだ。それは、主張の正しさを仮説的に受け取って検証するために、とりあえず相手の立場に立つのだが、相手の立場に立った瞬間に、相手の主張を受け入れたもののように解釈されてしまう。例えば、学校行事の入学式・卒業式における国家斉唱・国旗掲揚の問題などは、それに賛成する立場と反対する立場とでは、まったく妥協点を見出せない二項対立になっている。これが本当に形式論理的な二項対立なら、どちらか間違っているほうが否定されて正しいほうが残るということでいいのだが、問題はそう単純ではないだろうと僕は思う。双方に正しさと間違いがあるために、そのような単純な決着は見られないと思うのだ。愛国心の重要性の主張を全面的に否定することは出来ない。また、個人の思想・信条・良心の自由を否定することも出来ない。どちらも、ある条件からは正当性のある主張を展開していると考えられる。だからこそ対立が起こるわけだ。そしてこれが不毛なものになっているのは、双方がどちらの主張も、少しでも認めるわけにはいかないという、あらゆる可能性を検討するという立場に立てないからだ。だから、いろいろな可能性を検討して、双方の主張が正しいかどうかを、実験的に検証しようという提案は、なかなか双方から賛成を得るのは難しい。正しいことが自明だと思っている事柄を実験するとなると、その実験そのものに対する拒否感が生まれるだろう。もし、自分が正しいと思っていることが、実験で否定されたりすれば、そのときはその現実を受け止めきれなくてパニックを起こしてしまうかもしれない。日の丸・君が代問題に関していえば、行事におけるその実施は、愛国心を育てるものだという主張が、賛成者にはあるだろうと思う。僕は、これが正しいかどうかに大いなる疑問を抱いているので、この正しさを証明するような実験をして、正しくないという結論が出れば、他の方法での愛国心教育を考えるという建設的な議論ができるのではないかと思っている。愛国心そのものは否定することの出来ないものだと思う。それがなければ国家の存立そのものが危うくなる。国家を形成する以上、愛国心はあって当然であり、それを持たなくてもいいのだという議論は、国家を否定しない限り出来ないことだろう。学校行事における日の丸・君が代に反対する人々も、愛国心そのものを否定しているのではなく、そのような形で押し付けてくる愛国心教育に反対しているのだと思う。そうであれば、そのような愛国心教育に効果がないことが証明されれば、双方にとって妥協点を探ることが出来るのではないかと思う。そのためには実験をすることがいいのではないかと思うのだが、これはなかなかデリケートな問題を含んでいて難しいかなとは感じる。心の問題で実験をしてもいいのかという、倫理的な問題もあるだろう。また、愛国心というある意味では崇高な意識を、自然科学の実験のように気楽に扱ってもいいのかという感情的な問題もあるだろう。それでも、これは実験的に確かめなければ、効果があるかどうかというのを客観的に評価が出来ないだろう。一番単純な実験は、日の丸・君が代の実施を徹底させた学校と、それを個人の意志の自由に任せた学校とで、愛国心の現れに顕著な差が出てくるかどうかという実験をすることだ。しかしこれは抵抗感が大きいだろう。このような時は、仕方がないので、過去の事実から実験に相当するものを探して、未知なる事実に対する予想として愛国心が育つかどうかという事柄を見ることになる。このような方向で、日の丸・君が代の実施という教育が、本当の意味で、多くの人が期待しているような愛国心を育てることに寄与するかどうかを、客観的に評価することが出来れば、それを押し付ける側と、あくまでも徹底的に抵抗する側との、不毛な二項対立は新たな局面を見出せるのではないかと思う。しかし、このような発想は、双方にとって賛成してもらうのはきっと難しいだろうなと思う。それくらい、自分の立場を離れてものを考えるというのは難しいことだ。立場からくる主張としては、南京事件における虐殺された人の数としてのいわゆる「30万人説」がある。これは僕は中国共産党の立場からくる間違った主張だと思っている。これは、「ばかげた主張」だと僕は表現したが、ばかげているのは主張のほうであって、中国共産党ではない。むしろ中国共産党は、この主張をするだけの合理的な理由を持っていると思われるので、その意味ではまったく「バカ」という形容はふさわしくない。むしろ頭の良さを発揮していると解釈したほうがいいだろう。中国共産党にとっては、「30万人説」はあくまでもプロパガンダであって、プロパガンダとしての有効性がある間は、そう主張したほうが利益になる。それは、犠牲者のすべてが虐殺されたのだという感情的な主張に結びつくが、これは大衆的な扇動としては大きな効果を持つ。凶悪事件の報道などがあると、大多数の人々は、犯人に対する憎しみを掻き立てられる。犯人が何かで追い込まれていたり、犯行に至る何か必然的なものがあったかもしれないという発想は持ちにくい。しかし、それなしには本当は真相は分からないはずなのだが、憎しみの感情に駆られた大衆は、「吊るせ」というような感情的反応で対応するだろう。「30万人説」は、冷静な判断としてはまったくばかげたものだが、プロパガンダとしては大きな効果をもつ。しかも、国際社会でも、このようなイメージが固定してしまえば、外交的にはいつも日本が「悪」だというイメージを植え付けることが出来る。中国共産党にとっては、二重三重の利益が見込める主張になる。だから、頭がよければ、効果が期待できる間はこのような主張をするほうが合理的だといえるだろう。逆に言うと、この主張にもはや利益が見込めなくなれば、中国の指導者の頭のよさから言えば、他の効果が期待できるならばすぐに「30万人説」を修正するのではないかと思う。日本が、中国とアメリカの外交において重要な位置を占めることに成功すれば、いつまでも日本を「悪」にしたり、敵を作って国内のナショナリズムをまとめるという対象として日本を選ぶ必要がないということになり、この「30万人説」を劇的に撤回するという時代がくるかもしれない。「30万人説」はもともと根拠のない主張で、虐殺という概念はいくらでも恣意的に考えることが出来るからだ。中国は、南京事件において、不毛な二項対立の主張をしているのではなく、その二項対立が利用できるからこそ主張しているように見える。このような議論の仕方をすれば、たぶん不毛な二項対立というものを克服するのも容易だろう。不毛な二項対立の主張を本気で信じるのではなく・つまりベタに受け取るのではなく、それが利用できる時は利用するというドライな判断が、倫理的な反発はあるかもしれないが、二項対立を克服する道に近いのではないかと思う。不毛な二項対立は、本当の意味での矛盾ではないという理解が重要なのではないかと思う。
2007.09.20
コメント(0)
「正当性」という言葉は、辞書的には「社会通念上また法律上、正しく道理にかなっていること」と説明されている。本質は「道理にかなっている」ということで、論理的に正しいということが要請される。難しいのは「社会通念上」あるいは「法律上」ということだろう。これは、社会通念や法律そのものが「正当性」を欠くという場合も考えられるからだ。「正統性」を欠いた前提から導かれた結論は、たとえ論理的に正しくともその結論に「正当性」があるという保証が出来ない。「正当性」というのは現実にはそれが肯定的に語られていても、常に揺らいでしまう可能性を持っている。しかし我々は、社会的に決定される事柄に関しては、それが「正当性」を持つことで承認を与える根拠とすることが多い。この「正当性」というものが常に揺らぐことのある存在であるなら、どのようにして「正当」であることの妥当性を高めることが出来るだろうか。論理的に正しいこと・すなわち合理的であることが必ずしも「正当性」を保証しないとしたら、それ以上の重要な観点というものを見つけなければならない。そうでなければ、民主的な決定に際して、我々が選択するものが間違いである場合が多くなるだろう。いまは自民党の総裁選が争われているが、福田氏か麻生氏か、どちらかを選ぶ際に、その語ることに「正当性」があるかどうかを判断基準にすることは普通に考えられることだろう。だが、「正当性」の判断そのものが揺らいでいては、この選択も間違える可能性が高い。「正当性」というものを、正しいかどうかという側面・すなわち真理であるかどうかという点で見てみると、科学はその「正当性」の判断に客観性があるものだ。つまり、誰が考えても科学的に正しい事柄は、必ず正しい(真理だ)という結論に達する。どんなに観念的にそれに反対したくても、科学として確立された事柄に反するような思考の展開は出来ない。科学においては強固な「正当性」の判断が出来るが、科学でないものに対しては、そのような100%確実な判断は出来ない。科学と科学でないものの違いを考えて、「正当性」に関してより正しい判断に達するための方策がないかどうかを考えてみようかと思う。具体的な例でまず考えてみると、「消費税の値上げ」というような主張に正当性があるかどうかを考えてみよう。まずは合理性という観点からは、何らかの原因があって、これを仮言命題の前提とすると「消費税の値上げ」が導かれるということがあれば、それは合理的な判断といえる。よく言われるのは、財政の破綻ということだ。国家の財政においては、収入よりも支出のほうが多くなっているので、収入を増やさなければ借金が膨らんでいつかは破産するという破綻が訪れる。この破綻を逃れるには、収入を増やす道として「消費税の値上げ」が結論されるというものだ。この合理性だけで「消費税の値上げ」が正当だと判断してくれれば、国家権力にとっては、非常に従順ないい国民だということになるだろう。しかし、ここでその前提をもう少し具体的に検討したいとなると、この合理性だけでは正当だという判断が出来なくなる。国家の財政において、収入が少なくて支出が多いという状況は、現実の状況には違いないだろうが、この支出の項目に、それを出さなければならないという「正当性」があるかどうかを検討し始めると、その「正当性」が確立されないと、そこから論理的に導かれた「消費税の値上げ」の正当性は生まれない。その結論が論理的な合理性を持っていると同時に、「正当性」のつながりもなければならない。支出の部分で、利権を肥やして私益をむさぼっている人間がいれば、その私益を支えるために「消費税の値上げ」が利用されるということになる。そうすると、その私益を確保するためには合理的な判断となるだろうが、その私益は公益には反することになるため、多くの人にとっては「正当性」が失われる。「消費税の値上げ」は、そのような公的なお金の使い方に正当性があるということの証明とセットで主張されなければならない。科学においては、前提に関する「正当性」の問題は、抽象化(捨象)による単純化でうまくなされる。現実の対象は、存在する物質が複雑に絡み合っていて、相互の影響による状況の違いが見られる。万有引力の法則から落下の法則が導かれても、現実には空気中を浮かび上がっていくヘリウムガスの風船などがある。現実の状況にはそれぞれ個性があるので、その個性を考察の中に取り入れていたら、場合分けという論理的な処理が膨大なものになってしまう。これを単純化して、力学の場合でいえば、それが真空中ではどのように現れるかという、邪魔をするものをすべて排除(捨象)してしまって、場合分けをしなくてもすむように工夫してから論理を展開する。科学はこのような単純化をするので、誰が考えても同じ結論に達するような客観性を持つ。だが、この客観性は、狭い範囲の条件にかなうものだけを集めているようにも見える。これを克服するのは、科学が設定した抽象的情況が、対象の本質を抽出したものだということの妥当性だ。現実存在は、科学が設定する抽象的対象そのものではないが、現実存在の持っている個性は、本質的ではない部分は末梢的なものとして捨象され、誤差あるいは例外的なものとして処理される。だからこそ科学は、それを理解する人間からはすべて支持されるという「正当性」を持つ。科学でない対象に対しても、このように、科学が持つ「正当性」に近いものを解釈して判断するということが出来るだろうか。科学でない対象は、個性的な条件というものを完全には捨象することができない。どこまでも現実の個性というものが付きまとう。その中で、より本質的なものを拾い出して、末梢的だという判断ができるものを見出せるだろうか。もしそのような判断ができれば、本質的なものを優先して、末梢的なものを捨てるという処理で、科学に近い形の客観性を手に入れることが出来る。以前に山崎養世さんがマル激にゲストで出たとき、国債による借金というものを、一度は税金を使って処理しなければならないということを主張していた。それは、税金を使うことが「正当」だという主張ではなかった。税金を使う対象として、完全に公共性を持っていることにその金が使われているという前提で話したものではなかった。それは、ある意味ではいろいろな利権に利用されて膨らんだ借金であるから、本来はその利権を肥やした人間の責任で回復させなければならない借金だ。だが、それが誰であるかを特定することはきわめて難しく、法的な処置をすることも難しい。そのようなことをしている間にも、利子は払わなければならないし、借金は大きくなっていくだけだ。現在の状況という個性的な要素に関しては、借金をなくすのに税金を使うことの是非は細かいことを言えばいろいろ異論もあるだろうが、まずはそれを早く処理することが「本質的に」重要だということになれば、税金をつぎ込んで処理をしなければならないという主張だった。このことによって責任を逃れる人間が出てくるだろうが、「しょうがない」という判断だったようだ。これは一つの見識として僕は理解できる。科学の前提になるようなことがらほど、その捨象をすんなりとは受け取れないものの、そのような合理性があるということは理解できる。金融機関が破綻しかけたときに、税金を投入してそれを救ったのも同じような論理からではないかと思う。本来ならば、破綻するような経営をした人間の責任を問わなければならないのだが、まずは破綻を防ぐほうが時間的に優先されたという判断がそこにはあったのだろう。それは「正当性」の主張としては理解できる。その判断が正しかったかどうかは分からないが。科学と違って、現実の個性的な問題は、何が捨象されるべきかということの判断が難しい。だが、判断しなければならないということがあるならば、あえて何かを捨象して結論を出さなければならないだろう。それはいくつかの異論が生じるものになる可能性が多い。そして、異論があればその選択をどうにかしなければならなくなるだろう。この選択においては、より正しい判断をするであろう専門家にゆだねるという方法と、みんなで責任を分け合うという民主的な決定手続きとがある。専門家が、非専門家よりもはるかに正しい判断をするということが明らかな場合は、その判断を専門家にゆだねるべきだろう。しかし、複雑な利害が絡んで、どの決定が正しいかが容易には言えないような対象に関しては民主的な決定にゆだねたほうがいいと思う。そして、その判断が間違いだった場合は、その決定に関与した人間がすべて責任を負うべきだろうと思う。「正当性」の問題というのは、何らかの意味で社会的なものではないかと感じる。それは、まったく個人的な判断においては「正当性」ということは問題にする必要がなくなるのではないかと思う。個人の自由がかなりの範囲で認められる現代においては、その自由の範囲内での判断は、「正当性」のあるなしに関わらず、個人的な恣意的判断でもかまわない場合があるだろうと思う。芸術に関する評価というものが、社会的に賛同をもらいたいというものであれば、その評価の「正当性」(何をよりすぐれた芸術だと評価するかという判断)が問題になるだろう。しかし、その芸術を個人が楽しむ対象とする場合は、それをいいとおもう気持ちは、他人がどう思おうと、自分がいいと思えば高い評価をすることはかまわないだろう。他者とそれを共有したいと思ったときに、その評価の「正当性」が問題になる。もっとも、自分がいいと思った芸術作品は、誰か他の人にもいいものだと認めてもらいたいという気持ちが生まれるだろうから、多くの場合はそれは社会的なものになり、そうであればその評価の「正当性」が必ず問題になるとも言えるかもしれないが。結果的には、そのようになったとしても、可能性としては、個人が楽しむ範囲においてはあまり「正当性」は問題にならないだろう。「タデ食う虫も好き好き」ということになる。現実の「正当性」の判断は、いつでも対立する判断が生まれる可能性がある。これを、どちらが正しいか決定するのはきわめて難しい。複雑な判断であれば、ある意味では「分からない」と言った方がいいだろう。このとき、その判断を少しでも正しいほうへ向かわせる「センス」のようなものがあれば、それを磨きたいものだと思う。僕は、宮台真司氏の、この判断のセンスというものにいつも驚きを感じている。その現状認識の鋭さにいつも敬服する。おそらく宮台氏が語る本質が、その対象に関して本当に重要な要素になっているだろうということをいつも感じる。そこから判断される「正当性」は、複雑な現実を正しく把握して、何が本質的で何が末梢的であるかを正しく判断しているように感じる。妥当な抽象(捨象)がされているようにいつも感じる。このようなセンスは、知識や論理能力によって育てられるものだろうが、どのようにすれば高められるのかというのを教育の問題として考えたいものだ。一つ感じるのは、宮台氏にはドグマ的な前提というものが見られないところだ。いま懸案になっているテロ特措法の延長問題なども、ドグマ的なものを持っている人間は、その「正当性」を検討しようとする場合に、そのドグマに反するものを最初から排除してしまうだろう。最初から「絶対に認められない」とか、「絶対に延長させなければならない」というような結論を持って考察すれば、それは考察の前に捨象されてしまう要素を必ず含んでしまう。その要素が実は、現実には本質的で重要である可能性があるだろう。このような問題の考察のとき、宮台氏は、あらゆる可能性を検討するというフィージビリティ・スタディというものの考え方をする。論理でいうところの場合分けを徹底して行うわけだ。自分の感性からすれば反対したいようなことでも考えてみるという「センス」が、宮台氏の鋭い見方につながっているのではないかと思う。このようなセンスを磨く方法を得たいものだと思う。
2007.09.19
コメント(0)
板倉聖宣さんは、『科学と科学教育の源流』(仮説社)という本の中で、ではなくという言葉を使っている。「慣性」と呼ばれるものが現実世界の法則性を認識したものであれば当然「法則」と呼ばれてしかるべきなのだが、なぜこれを「原理」と呼んでいるのだろうか。板倉さんの語るところを考えてみようと思う。まずはその部分を引用する。「ガリレオの力学における最大の業績は何かというと、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>の確立ということが出来ます。彼が落下の法則や振り子の法則を発見しなくとも、ニュートンはその力学を完成させることが出来たでしょうが、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>なしには、ニュートン力学も何もあったものではありません。 いま私は<慣性の原理>と書き、<慣性の法則>とは書きませんでした。どうして、「法則」ではなくて「原理」なのでしょうか。そもそも「原理」と「法則」とはどう違うのでしょうか。私はその違いを、次のように考えています。 「法則」というのは、実験によってその真偽が決められるものだが、「原理」というのは個々の実験には関係なく「疑い得ない真理」とみなされるものだ、というのです。 そのことは、「実験的に慣性の原理を証明することは極めて困難だ」ということを考えてみると了解していただけるでしょう。」板倉さんが語ることを、そのまま素直に受け取ると、「法則」というのは実際の実験によって証明される真理であるが、「原理」のほうはその証明が極めて困難であって、「疑い得ない真理」とみなされるものだから真理なのだというふうに読める。これは、表面的に受け取ると、科学ではなく宗教的ドグマを語っているようにも聞こえる。板倉さんをはじめとする多くの科学者は、証明することが困難な「原理」をどうして真理だと認識できるのだろうか。疑い得ない真理だと思うだけで、それが「原理」であることを保証するなら、すべての宗教的な基本命題は「原理」になるだろう。宗教という体系を取らなくても、ある種の心霊現象を「疑い得ない真理」だと思い込んでいれば、それが「原理」になってしまうのだろうか。仮説実験の論理を提唱している板倉さんが、思い込みだけで真理の判定が出来ると主張するはずがない。「原理」が「疑い得ない真理」だと判断するのは、仮説実験の論理と深くかかわっているのだろうと思う。法則性が真理であることを証明する実験は、単にそれを経験したということでは足りない。経験を集積して後で解釈をするのは、いくらでも整合性を取れるように解釈できるので、それが間違った理論だったとしても、その時点で知られている経験にはよく当てはまるということは起こりうる。天動説がそれまでの経験をよく説明したというのはそのような例だろう。しかし「仮説実験の論理」では、未知なる対象に対する実験を要請する。それは未知なる対象であるから、今までの経験を整理した理論が当てはまるかどうかは実験の前の段階では分からない。その分からない状況のときにも、その理論が当てはまると主張して、確かにそうなったときに、その理論(法則)の真理性が証明されたと考えるのが「仮説実験の論理」だ。これは経験の整理とはまったく違う。慣性というものを「法則」だと捉えるなら、このような未知なる対象に対する実験を経てその真理性を証明しなければならない。しかしこれがいかに困難なことであるかはちょっと想像しただけで分かる。慣性の法則は、「物質に対して外部から力を加えなければ、その物質は永久に同じ運動を続ける」というものだ。その運動は、速度をそのまま変えずに動きつづける(等速直線運動)か、速度0(ゼロ)なら止まりつづける。この実験が困難なのは、現実の条件として「外部から力を加えない」という状況が作れないからだ。普通の運動ではどうしても摩擦力が働いて、どんなに摩擦を0(ゼロ)に近いものにしても、永久に動きつづけるということは出来ない。動いているものがいつかは止まってしまう。慣性は、法則としての証明が極めて困難で、それは不可能だと言ってもいいくらいだ。しかし<慣性の原理>を基礎に置かなければニュートン力学は構築できない。理論の整合性を取るために、証明できないのだがとりあえず受け入れておこうということで、慣性を「原理」として認めるのだろうか。それは科学的な態度とは言えない。<慣性の原理>は、法則性として証明は出来ないが、ある根拠を持って「疑い得ない真理」だと判断されるのだと思う。それは、信じているから真理なのではなく、客観的な理由があって真理だと判断されるのだと思う。慣性を完全な形で証明する実験を行うことは出来ない。それはいつでも不完全なものにとどまる。外部からの力を極力排除して0(ゼロ)に近いものにすれば、それは同じ運動をしつづけるという現象を作り出すことは出来る。それはいつかは止まってしまうが、その状況の極限を想定して、想像の中では<慣性の原理>が働いている様子を見ることが出来る。だが、これはあくまでも想像の世界の話なので、現実にそれが成り立っているという証明には、厳密に考えればなっていない。板倉さんは、天体の運動と原子の中の運動を、慣性のほぼ完璧な現れとして紹介している。天体は、人間がそれを認識するようになってからまったく運動を変えていない。それは永遠という時間ではないが、人間にとっては永遠と言ってもいいくらいのもので、現実的には誤差として処理できる・捨象できる時間の経過ではないかとも考えられる。慣性の一つの現れを天体の運動に見ることが出来る。これが、これからもほぼ永遠に近い時間同じ運動を続ければ慣性の「法則」の証明になるだろう。しかし、それは実際には確かめられない。永遠という時間は人間には体験できないからだ。それでは、人間に体験できるように「永遠」という言葉を取ってしまえばいいだろうか。しかしこの言葉を取ってしまえば、それは、いつかは成り立たなくなってしまうかもしれないものとして「法則」と呼ぶにふさわしいものにならない。「法則」であるなら、それは未来永劫にそうでなければならない。未知なる対象についてもそれが成り立つということが言えなければならない。人間に証明が出来ない事柄の真理性を認識するには、「永遠」という言葉を、経験する限りでは決して反対のことが起こらないという、これからの経験に対する信頼度の高さで見るしかないのではないだろうか。そのような想像が可能であるという信頼の高さだ。天体や原子の運動が永久に続いているというのは、経験を整理したものに過ぎないが、それは今後も裏切られずに続くという信頼の高い経験になっているのではないだろうか。現実の現象というのは、さまざまの特殊な条件の中にあり、それゆえに誤差というものが存在する。完全性を厳密に要求すれば、すべての法則性は証明できないことになってしまう。だから、現実に法則性が成り立っているということの証明には、誤差と例外的状況というものを常に考慮しなければならない。例外的状況でいえば、引力の法則からいえば、地上にある物質は必ず地球に引っ張られて落ちてくるはずだが、ガスを入れた風船のように上昇していくものもある。これは、現象的には引力の法則を否定しているように見えるが、空気の浮力というものを考慮に入れると例外的状況であることが判断される。現象としては法則に反するように見えても、その法則を保ちながら解釈する道を残している。そして、その解釈が正しいかどうかは、また仮説実験によって確かめられる。誤差に関していえば、<質量不滅の原理>は、消えてしまったように見える物質も形を変えて必ず存在しているというものになる。これは、その物質が拡散しないように注意深く重さを測れば、重さが保たれることによって証明される。しかし、この重さはどんなに厳密に測っても、現実の測定には必ず誤差が生じる。この誤差の範囲をあらかじめ設定できるようにしておけば、測定の結果が厳密にいえば違っていても、その法則性は証明されると考えることも出来る。<慣性の原理>は、誤差と例外的状況を考慮できるとはいえ、それを現実に示すことが困難な法則性だ。外部からの力がまったく加わっていないという状況は現実には設定できないし、どのような力が加わっているかをすべてあげることも困難だ。どのような誤差が生じて、どのような例外的状況があるかを具体的に示すことが困難だ。このような対象に対して、過度の厳密さをもってその証明を要求するなら、それは信用できないというものになってしまうだろう。過度の厳密性を要求して考察するのは哲学が得意とするところだが、人間の認識というものに対しても、その完全さを要求すると、完全に認識できるものは一つも見つからなくなる。そうすると、認識というものは本来出来ないものなのだという結論になりかねない。いわゆる不可知論というものに落ち込む落とし穴が待っている。過度の厳密性は、何一つ確かなものをもたらさないので、すべてが否定されるという結果を招く。科学は、そのような哲学に対して、一部分だけを明らかにすることは出来ないかということを考えて、「すべて」ではなく、「科」の性質を明らかにしようとする。すべては明らかにならないけれど、知りうる範囲を限定しておけば何事かは知りうるのだというのが科学の考え方だ。<慣性の原理>に関しても、完全な証明は出来なくても、その極限的状況を想像することが出来れば、我々の目の前の現象は、その不完全な現れとして理解することが出来る。そのようなものとしてこの「原理」を捉える必要があるのではないか。しかし、このような捉え方は、心霊現象を真理とする捉え方とどこが違ってくるだろうか。心霊現象も、その証明が困難なものである。それは、個人の特別な状況の下で生まれた、心の中にだけ存在する妄想(観念的存在)なのか、実際に存在する客観的なものなのかの区別がつかない。区別がつかないから、それを信じる余地も生まれてくる。だが科学者は、板倉さんも語るように、<慣性の原理>は信じても、<心霊現象>はばかげた妄想として否定する。これはどのような判断から生まれてくるのだろうか。<慣性の原理>は、完全な証明は出来ないものの、天体や原子という客観的存在の属性として考察の対象になる。しかし、<心霊現象>は、そのような客観的対象を持たない。<心霊現象>は、その名のとおり人間の心に関係しているもので、心を離れた<心霊現象>というものはあり得ない。そして、心というものは客観的に観察の対象になるものではないのだ。<心霊現象>は、たとえその体験が本当のものであったとしても、その体験をした人間の心を解釈すること以上のことが出来ない。<心霊現象>そのものの真理性は問題にすることが出来ないものだ。思い込みの範囲を越えることが出来ないという意味で、科学者はこれを考察の対象から除き、ばかげた妄想として片付けるのだろう。<慣性の原理>というのは、それを習った最初のころは、まったく言葉として記憶しただけではなかっただろうか。それは、現象論的段階を経て、実体論的段階へ至るというような法則性の理解の仕方をしていなかったように思う。それは、そのようなことを理解する実験が難しく、実際の現象を見ると、「動いているものはいつかは止まる」というような、<慣性の原理>に反するような現象論を通過してしまいかねないものになっていた。これは「法則」ではあるが、理解としては理論展開の出発点に置いた「原理」であるというものになっていたのではないかと思う。そして、これが「原理」としての妥当性を持っているという理解は、改めて考えてみるとかなり難しい感じがする。この難しさを克服しないと、教育においては、言葉の記憶だけになって、本当の意味での理解・認識になっていないということになるのではないかと思う。
2007.09.18
コメント(0)
萱野稔人さんは『権力の読み方』(青土社)という本で「権力」について論じている。それは、「権力」という概念について、ぼんやりとした不明瞭な状態がだんだんと明確になっていく発展の過程を綴っているようにも見える。これは、法則性の認識の発展段階である三段階論とよく似ているような感じがする。「権力」という概念は、その最初は、何か権力らしいものを現実に発見して、その現実の特徴を受け取っていくということから出発する。これは現象論的段階に相当するもので、世間で「権力」と言われているものの姿を具体的に観察したり、自分の中の「権力」のイメージに合致するような具体的な存在を観察したりして、その概念の中身を作っていく。それは、最初は具体性にべったりと張り付いた、まだ十分抽象化されない概念として理解されているだろう。ぼんやりした権力概念で浮かんでくるイメージは、まずは他者に命令をしたりして、自分の思い通りに他者を動かしている人間というものではないだろうか。自分の意志どおりに他者を動かすことの出来る人間は、なにかそこに「権力」というものがあるのを予想させる。そして、それが他者の意志に反すること・つまり他者が望んではいないことであっても、そうせざるを得ないように動かすことの出来る力であるなら、それはかなり「強い権力」だと言っていいのではないだろうか。我々は「権力」の概念を、まずはこのような経験(現象論的段階)から作り上げていく。それは、具体性を強くもったもので、まだ抽象化の芽生え程度のものしか見せていないが、この抽象化の芽生えがやがては実体化の方向へ進んで「権力」のより抽象的・一般的な概念へと進んでいくのではないだろうか。上の場合でいえば、抽象化の芽生えは、「他者一般という存在を操縦する力」というものに伺える。具体的なある人々を、具体的に動かすということを越えて、「他者」という一般的存在を実体として引き入れたとき、抽象化への一歩が進む。僕は、概念の出発として、「操縦する力」というイメージで捉えたが、萱野さんはハンナ・アレントを引いて「ある一定の数の人から彼らに代わって行為する権能を与えられていること」という概念を提出している。これは、僕の経験が、権力を振るう立場よりも、権力を振るわれる立場に偏っているためにこのようなイメージになっているのだろうと思う。僕にとっては、権力者は、多くの人の代表者というよりも、恣意的に好き勝手なことをしているように見えることが多いのだ。だが、民主的な社会においては、恣意的に好き勝手に振舞う権力というのは、原則的に成立しにくくなっている。民主社会というものを、現実的なものではなく、理想的なものとして定義すれば、その権力は多くの人間の代表として行使されなければならないだろう。ハンナ・アレントの定義のほうが正当であるように思われる。僕のイメージでの定義は、権力が振るわれる現象において例外的に、恣意的に振るわれる場合もあると理解したほうがいいかもしれない。あるいは、現実には恣意的に振るわれる場合のほうが普通で、むしろ代表としての権力のほうが例外であるなら、日本社会はまだ民主的ではないという判断をした方がいいのかもしれない。「権力」の概念の形成を考察しようとすると、それが民主的な社会の下でのものなのか、それとも民主的ではない・封建的な社会の下でのものなのかということが大きく関わってきそうだ。それは、現象論的な「権力」の姿を考察するときも、ある現象が「権力」の現れであるかどうかという判断を逆のものにしてしまうかもしれない。単純なイメージから出発した「権力」概念が、よく考えるとかなり難しい面をもっているということに気づくのは、現象論から実体論へと一歩考察が進んだ現われかもしれない。現象論的な考察では、単に他者が命令どおりに動いたという姿を見れば、そこに「権力」の存在を判断していたようだ。しかし、それは見かけのものであり、「権力」の基準に「一定の数の人に代わって行為する権能を与えられている」という要素が確認されてからその存在が判断されるなら、見たままの現象ではない・実体の属性からの判断で概念化しているといえるのではないだろうか。実体論的段階の概念形成のように見える。ハンナ・アレントの定義する概念のほうが一歩進んでいると思えるのは、見かけ上「権力」の現象のように見えないようなものも「権力」の現れとして理解できるところにある。その考察を応用する範囲が広くなり、より抽象度が高まったと考えられる。例えば、長野県政における田中康夫前知事の振舞いは、ハンナ・アレント的な「権力」の概念によく合致する。田中さんは、多くの県民から、彼らに代わって脱ダムの方向に舵を切ることを期待され、そのとおりに行為する権能を与えられた。その意味で田中さんの行為は「権力」的な行為と呼べるだろう。このとき、「権力」行為に関して、僕のようにそれを「恣意的に好き勝手に振舞われている」という経験を多く持っていると、「権力」行為そのものが何か悪いもののように受け取る傾向が出てくるかもしれない。そうすると、田中さんの行為を「権力」行為だと言われると気分が悪くなる人もいるかもしれない。何か非難されているように受け取るかもしれない。しかし、「権力」というのは、善悪の価値判断と結び付けて考えたら、科学的な判断の対象にはならない。あくまでも、科学的・客観的に何か正しい結論を得たいと思ったら、ある定義に当てはまればすべて「権力」と呼び、当てはまらなければ「権力」と呼ばないという論理的な姿勢が必要だ。それが実体論的な段階の概念形成ではないかと思う。「権力」行為は、すべて悪い結果を生むものではなく、利益をもたらすこともある。結果的に損害を与える場合にそれを「悪」と呼ぶなら、利益をもたらす場合を「善」と呼ぶことも出来るだろう。だから、「権力」は、善でもあり悪でもあるもので、それは、その存在条件によってどちらにも解釈できるものになる。どのような立場でも、それが「権力」であるかどうかが判断が一致するなら、その概念は客観的な側面を持っており、科学としての対象になる可能性を持つ。考察する前から、価値判断がどちらかに決まっているような対象は、おそらく科学にはなりえないだろう。このようなものの考え方は、かつて三浦つとむさんが「差別」について考察したときに、そのようなやり方をしていたように感じる。「差別」というのは、考察する前からすでに価値的には「悪い」ことだとされているのが普通だった。「正当な差別」というのは形容矛盾だった。しかしこのような発想では、「差別」そのものを深く考察することが出来なくなる。「差別」と判断されればそれは無条件に「悪」だとされるのであるから、「差別」と判断されないように気をつけるしかなくなる。ところが、「差別」であるかどうかは、かなり恣意的な判断がされることが多い。誰が判断してもそうだというような客観的な基準がないのである。それでどうなるかといえば、「差別」だと判断されそうな表現は一切行わないという、表現に対する自主規制が行われるようになる。三浦さんが「差別」を問題にしたのは、まさにそういうような状況のときだった。これは、「差別」という現象が、実は善悪とは関係なく、いつでも起こりうる普通の現象だからこそ、悪と結びついた価値判断的な「差別」の判断が恣意的になってしまうのだと思う。「差別」は善悪と関係なく普通に行われる表現行為であって、価値判断的な「悪」の部分は、むしろ「差別」とは直接関係ない部分によって判断されるべきだというのが、三浦さんが出した結論だったように思う。それは文脈から判断すべきであって、文脈から判断すれば、同じ表現が、ある時は「正当な差別」になり、ある時は「不当な差別」になる。そしてこの正当性と不当性にしたがって、価値判断的な善悪が決まると考えたほうが合理的であり、客観的な判断となる。経済的な自立度を考えれば、大人と子どものさまざまな料金を「差別」するのは正当な差別である。自立している大人から高い料金をとっても、それを「悪い」と受け取る人はいないだろう。これを平等化すべきだとは思わないだろう。しかし、知り合いかどうかで安くしていたりすれば、正規の料金を払っている人間から見れば、不当な扱いを受けたように感じるかもしれない。「差別」をする理由の正当性の判断が、善悪の判断につながってくる。同じように「権力」行為に関しても、その結果生じる事柄の正当性によって、「権力」の振舞いが正しかったかどうかが判断されるべきではないかと思う。「権力」そのものには善悪の属性はないと考えたほうが応用範囲が広くなる。正当性の判断や、善悪の判断などは多くの異論が提出されるものだ。誰もが認めるような客観的な判断を提出するのは難しい。もしそのようなものを「権力」概念の中に含めてしまえば、「権力」概念そのものが客観的なものにならない。議論の対象にするものでなくなってしまう。そこに「権力」が存在するかどうかは、誰が考えても同じ判断に達するという基礎を持たなければ「権力」を論じることは出来ないのではないかと思う。萱野さんの本は、そのような基礎を確立するための多くの説明をしているのだと僕は感じる。「権力」を振るった結果としていいことがあったのか、悪いことがあったのかという価値判断は、一応後ですることにして、まずは「権力」そのものがどういうものかということをはっきりさせようというのが萱野さんの姿勢ではないだろうか。それがはっきりした後で、その評価というものを詳しく考えようという感じだろうか。このような観点で「権力」を見てみれば、多くの権力を発見することが出来る。「権力」という点では、ヒトラーの「権力」も田中康夫さんの「権力」も同じだ。石原慎太郎東京都知事の「権力」も同じだろう。ヒトラーも、暴力によって人々を黙らせて「権力」を握ったのではなく、民主的な手続きによって、多くの人の代わりに決定する権能を与えられたことが「権力」の源泉になっている。「権力」行為の結果としては、ヒトラーは人々に悲惨な結果をもたらした。それが「悪」であることは自明なことのように思われている。しかし、それがなぜ「悪」の結果になったのかという、本当の理由が解明できなければ、「権力」が悲惨な結果をもたらす面だけが固定化されて残りかねない。ヒトラーは何を失敗したのかというのを深く考えた研究がないものかと思う。単に結果を捉えて、結果を非難するのではなく、ヒトラーのやったことの過程を分析したものを探したいものだ。板倉聖宣さんがヒトラーについて書いているというので、それがそういうものになっているのではないかという期待をしたいと思う。田中さんの「権力」行為の結果に対しては、立場によらない客観的な評価というものが出来るのかどうかを知りたいと思う。田中さんと利害が対立する立場の人が、その結果を「悪」だと判断するのは当然のことではないかと思う。だから、これらの人々が田中さんを「悪」だと非難してもそれをそのまま信用することは出来ない。同じように、田中さんと利害を同じくする立場の人が、田中さんがもたらしたものを「善」だと呼んでも、それをそのまま信じることが出来ない。「権力」というものが、客観的な対象として設定できるものなら、その行為の結果も、客観的な考察が出来るのではないかと思う。そうすれば、「権力論」もひとつの科学として確立することが出来るかもしれない。その一つの可能性は、宮台真司氏が語る「権力の予期理論」ではないかと思う。この科学は、「権力」概念の抽象の最高レベルに達したものだと思われる。それが、現実の「権力」とは似ていないものに見えても、本質を抽象したものだという理解が出来れば、その語ることも理解できるのではないかと思う。努力してみたいものだ。
2007.09.17
コメント(0)
三土修平さんの『はじめてのミクロ経済学』(日本評論社)という本から、経済学が設定する実体と、その実体が従う法則性というものを考えてみたいと思う。現象から実体が抽象され、その抽象的実体が従う論理法則を、現象に再び問い返すことによってその抽象が妥当かどうかを検証するという過程を経て、現象論的段階が実体論的段階へと発展していくように思われる。そしてまた、この実体が抽象のレベルを上げていくことによって、その法則性の範囲が広がり、経済学では社会全般という最高の範囲の抽象度に達したときに「本質論的段階」が訪れるようにも感じる。この本質論的段階は、実体の範囲がある条件の下に設定されている。ニュートン力学で言えば、目で見て観察できるような範囲にある実体なら、その観察の範囲にある現象に対してはすべて成立するという、その条件下での最高の抽象の実体に関して語る法則になる。だからこそ、この実体論的段階がそのまま本質論的段階に重なるのだと思う。本質論的段階に達したニュートン力学において、ここで対象としている実体の範囲を少し広げると、その新たな条件のもとでは、本質論的段階が現象論的段階として解釈される。我々が、目で見える範囲を越えたものを実体として設定すると、目で見える範囲では誤差として処理されていたものが、正確な計測の対象になってくる。そうすると、ニュートン力学の法則性は、現象論的に、そう見えただけだということになってくる。武谷さんも「一つの環の本質論は次の環から見れば一つの現象論として次の環が進むとゆう工合である」と語っている。この「環」と呼んでいるのは、三段階論の3つの段階が、円環的に発展していくという様子を「環」と表現している。ニュートン力学を現象論として新たに解釈した段階では、量子というさらに抽象度の高い実体が必要になるのではないかと思う。そうすることによって、肉眼では誤差として処理されていた範囲を問題にする精密な測定に対しても妥当になるような法則性が新たに打ち立てられるだろう。そして、さらに測定によっては決して知りえない「不確定」な範囲を持つ対象に対しても成立するような法則性が見つかったのではないかと思われる。この法則性に関しては、どのようにその妥当性を証明するのかが今はわからない。論理的な整合性は、現実と対照することなく、論理の範囲・すなわちその言語表現の検討だけで行うことが出来る。不確定性原理が、数学のベクトル表現によってその抽象性が正確に表されるなら、論理的妥当性は証明されるだろう。それが現実にも妥当だということは、不確定性原理が「原理」である以上は言えないような気もするのだが、多くの科学者はこれが真理だと理解しているようだ。これはどのような理解の道を進めばそう認識できるのだろうか。三段階論というのは、現実を観測する現象論的段階と、そこから抽象された実体を論理的に考察する実体論的段階の、相互に影響して発展する様子を語っているように見える。そして、その実体論的段階が、相互の発展で究極的に行き着いたところに本質論的段階があるように見える。本質論的段階とは、現象論的段階と実体論的段階の相互の発展の運動の極限のようなものとして僕は理解している。三土さんが語る経済学の法則性も、このような発展の段階として理解すると理解しやすくなるだろうか。学習の方法の一つとして、三段階論が利用できないかどうかを考えてみたい。三土さんが最初に提出する法則は、第3章「需要と供給」の冒頭に語られる「一物一価の法則」だ。これは、「市場」と呼ばれる場所では、「同種の財・サービスは単価がほぼ等しくなる」という法則だ。これを現象論として受け止めるとどういう理解になるだろうか。まず現象論的段階での理解には、細かい厳密な定義による理解よりも、目で見てそう感じる・だいたい語っていることが成立しているようだという認識から始まるのではないか。だから、「市場」というものも厳密に定義されるのではなく、まずは「商品が取引されている場」という程度の浅い理解で現象を見ることになるのではないだろうか。初学者にとってはそのようなものから出発しないと、いきなり厳密な定義をしても概念がつかめないだろう。そのような目で、「同種」だと見えるような商品(財やサービス)がだいたい同価格で取引されているかという現象を考えてみよう。これは、現在の日本ではかなり当てはまる現象のように感じる。商品によっては地域性があるので、多少の違いはあるかもしれないが、全国に広く行き渡っている商品はほとんど同じ価格ではないだろうか。もし多少違う価格がついたとしても、それは地域性からそうなっているとか、それが例外的であることの理由を見つけることが出来る。例外として処理できる対象は捨象できるものになる。このように現象を観察すると、それがだいたい当てはまりそうだということから「一物一価の法則」というものが成立しそうな法則として仮説になる。これが現象論的段階になるのではないだろうか。しかし、この現象論的段階は、あくまでも「だいたいそうなりそうだ」ということを基礎にした仮説の提出の段階ではないかと思う。この段階ではまだ科学としては成立しないので、この命題を短絡的に正しいと信じることは出来ない。また、この現象論的段階をもっと精密に観察することによって、例外的なものや誤差として現れてくるものに注目することになる。これが実体を抽象するときの判断に大きな影響を与えるだろう。「一物一価の法則」が、現象から何となくそうなりそうだという仮説が生まれてきて、次の段階では、この法則が成り立つ対象を実体化して、それを「市場」と呼ぶという概念の構築がなされる。この実体化によって、「一物一価の法則」は、現実の現象を語ったものではなく、論理的な前提となり、「市場」という言葉の概念を定義するものとなる。それはいったんは現実の法則であることを否定される。これは論理的にはトートロジー(同語反復)の形を取る。次のような形式だ。 市場=(定義):一物一価の法則が成立する範囲 命題:市場では一物一価の法則が成立する ↓ 「一物一価の法則が成立する範囲」では一物一価の法則が成立する市場という実体を抽象化した後では、「一物一価の法則」が市場で成立するというのは、論理的にはトートロジーであり、証明抜きに成立する自明なことになる。つまり、これは論理の出発点として設定された「公理」のようなものになる。この公理から、どのような論理的な結論が導かれるか。その結論を現象と突き合わせて、この公理の妥当性を見るのが実体論的段階と言えるのではないかと僕は思っている。さて、「一物一価の法則」が成立する市場では、いったいどのような論理的な帰結が見出せるのだろうか。その一つは、「需給均衡の法則」と呼ばれるものではないかと思われる。社会における需要と供給は、価格をパラメーターとする関数だと考えられている。価格の上下によって需要も供給も増えたり減ったりするという現象を、関数という数学で捉えるわけだ。これは一つの法則性であり、どちらもまったく無関係に現れるということでない限り、この両者は関数として捉えることが出来る。実際には、価格が上がれば、それを供給することに利益が生まれるので供給が増えると考えられ、価格が下がるとそれを買い求める人が増えて需要が増えると考えられる。論理的な整合性を持って関数関係があると考えられる。実際にも、安い商品を売る店(100円ショップなど)の繁盛を見ると、価格が下がると需要が増えるというのは正しいように見える。また、かつて「ほかほか弁当」がブームになった時は、僕の住んでいる近所にもたくさんの弁当屋が出来たが、これなどは利益が上がると見たら供給が増えることの現象ではないかと考えられる。他よりも安い商品を売るというのは、「一物一価の法則」に反するように見えるが、特別の状況ではありうるものとして、例外的なものと判断されるだろう。技術革新によって製造コストが劇的に下がったとか、流通革命によって流通コストが下がったとかいう場合がそうだろう。しかし、それは一時期の例外的な現象で、基本的に「一物一価の法則」が成立しているなら、やがてはすべての供給者がふさわしい価格に落ち着くだろう。また、特別の事情で需要が一時期増えるということが考えられる。農作物の不作などだ。これは、例外的なものとして処理されるので「一物一価の法則」を否定するものではない。しかし、需要が急激に増えて供給が追いつかない時は、その価格は一時的に上昇するだろう。そして、上昇した価格で利益をあげられると考える供給者が新たに参入してくるに違いない。そうすると、供給が増えて、やがては同じ価格に落ち着いて「一物一価の法則」が成立するようになるだろう。「一物一価の法則」は、市場の外の偶然的な原因で、それが例外的に崩れた場合にもやがては元に戻るという原理だと考えられる。したがって、論理的な帰結として需要と供給は、「一物一価の法則」を守る均衡点で落ち着くという法則が導かれるのではないか。「一物一価の法則」が完全な論理法則で、論理的な前提としての意味しかないなら、この前提が崩れるような例外的なことは起こらない。これが論理の範囲だけでなく、現実の現象にまた戻って対照されるからこそ、前提を崩すような価格の乱れを考察に引き入れることが出来るのではないかと思う。「一物一価の法則」が成立する範囲を「市場」と呼ぶという定義が、それ以外の一切を排除する定義だったら、価格の乱れという現象は論理の中に入ってこない。数学は、定義されたこと以外の命題を論理体系の中に入れないが、経済学は現実の経済に規定されて、定義されたこと以外のものを徐々に取り入れて、概念を立体化させていかなければならないのではないだろうか。現象論と実体論との往復運動のようなものを感じる。ここは数学と違うところだ。数学は、定義されたこと以外は決して言及しない。完全に論理の範囲だけの考察にとどめる。現実を対象にした科学では、現実と論理の世界との相互浸透が重要になってくるのではないかと思われる。「一物一価の法則」が現実の条件によって乱されるとしたら、その現実の条件は、この法則性にとっては例外的なものであることを「市場」の概念の中に取り入れる必要があるだろう。そうでなければ、この法則がいつでも成立するとは限らないものとして、経済学は科学ではなくなってしまう。ことわざ的な発想法に過ぎないものになってしまうだろう。正しいかもしれないし、正しくないかもしれないというものになってしまう。市場の概念がだんだんと豊かになってくれば、その概念が、現実を妥当に表現しているかどうかも検討の対象になってくるだろう。また、現実の市場が、抽象化された市場と重ならなければ、それを重ねたほうがいいのか悪いのかという、実践の指針を立てるという問題も起こってくるだろう。それを重ねたほうがいいという指針が出されるのは、論理的な帰結として、経済学が提出する市場の方がより利益をもたらすという結論が導かれたときになるのではないか。これらも、現象論と実体論の相互作用によって結論が導かれるだろう。この相互作用の理解が、法則性の理解でもっとも難しいポイントではないかと感じる。
2007.09.17
コメント(0)
武谷三男さんは、三段階論を説明するとき、「現象論的段階」としては天体の観測の精密な記録を行っティコ・ブラーエを例にあげて、ティコの段階を「現象論的段階」として提出している。そして3つの法則を発見したケプラーを「実体論的段階」として例にあげている。単純に考えれば、現象の観測をしてそれを記述したからティコは「現象論的段階」であり、実体である太陽系の天体の属性として、その法則性を提出したのでケプラーが「実体論的段階」と呼ばれているように見える。しかし、そのような単純な見方で、法則性の認識の発展というようなことが言えるのだろうか。天体の運動に関しては、地動説と天動説の争いもあり、目で見えるような現象と、それの本来の姿との間にずれがある。すでに太陽系のさまざまな法則性を知っている我々が、後づけで法則性の発見の過程を考えるのと、まだ法則性が確立されていないときに、手探りでそれを見つけていく実際の過程とではどこかが違うような感じがする。実際には、単純できれいな発展の仕方はしていないのではないかと思う。それまで信じられていたものの考え方を捨てて、新たな方向で理論を組み立てなおすというのは、そう簡単なものに見えない。単純に現実の実体を見て、それについて考えたからといってケプラーの段階が機械的に訪れるものではないのではないか。また、ティコが「現象論的段階」だからといって、ティコが現実の実体をまったく考えていなかったとするのも単純すぎるのではないかと思う。現実の実体は、ティコにとっても、ケプラーにとっても、見えるようには見えていたのではないか。ケプラーが「実体論的段階」と呼ばれるのは、現実の実体が、見えるような側面を越えて、目では見えないような面までも考察の対象に入れることが出来たからではないだろうか。武谷さんは『科学入門』(勁草書房)という本の中で「ケプラーが遊星の運行の法則をつかむまで」という文章を書いている。この中でプトレマイオスの天動説についても言及しているが、目で見える惑星の現象としては、それが軌道を逆行しているように見えるものがある。真っ直ぐ進まないので「惑う」星として惑星という名前がつけられているわけだ。この「惑う」現象を、天動説という原則を守りながらうまく説明するには「周点円」という工夫がいる。地球の周りを回る軌道のほかに、逆行するときの位置を示すような軌道上の円運動を考えるわけだ。プトレマイオスは、地球を中心にして、近い順に月・水星・金星・太陽と並べた。月は逆行しないので周点円はない。これは、本当に地球の周りを回っているので逆行をしない。しかし、水星・金星は本当は太陽の周りを回っているので、地球との速度の違いから見かけ上は逆行するので周点円が必要になる。この周点円は、観測の結果からは太陽と地球を結ぶ直線上に現れる。これは当然のことで、水星と金星の軌道は、地球よりも太陽に近いので、それを観察する時はいつでも太陽に近いところにしか観測できないからだ。これは、太陽系の本来の姿をすでに知っている我々には当然のことであるが、それを知らない昔の人々にとっては、「これはどういうわけか、理由はないので、まったく不思議なことだったのです」と武谷さんは書いている。現実の実体についてすでに知識を持っている我々には簡単なことでも、その実体の知識を持っていない人間にとっては「不思議なこと」がたくさんある。この実体は、観測しさえすればその知識が得られるというものではない。観測では、惑星の惑う状況だけが観測される。太陽系の全体を外から眺める観測は我々には出来ない。我々には地球の上から惑星が見える姿だけが観測できるのみだ。天動説は、見えるままの観測によく当てはまるように・地球が中心であるという原理を保つように、現象をうまく解釈する方向で発展した。太陽系の本当の姿は、実際に見ることは出来ないので、現象論的には、天動説が正しいか間違っているかは確定しないように見える。地動説にしても、その仕組みは天動説よりも簡単になるものの、それは構造を単純化できるというだけのことであって、それが本当であるかどうかは、現象論的には決定出来ない。ただ眺めているだけでは、天動説が正しいか地動説が正しいかは決定出来ない。どちらが正しいかを決定するには、ただ眺めているという現象論を超えなければならない。その、現象論を超える実体論は、何をもって実体論と言えるのだろうか。現象を解釈して、うまく現象を説明する方法を見つけるだけなら、それはいつまでたっても何らかの解釈を見つけることが出来る。天動説であっても、地動説であっても、経験を整理するということでは差が出てこないだろう。現象の解釈にとどまる限りでは現象論的段階を超えられないとしたら、実体論的段階は、もう一歩進めて、現象だけではない未知の現象を予測するということで現象論的段階を超えるのではないだろうか。ケプラーの段階が「実体論的段階」と呼ばれ、「現象論的段階」を越えたものとして判断されているのは、それが、現象の記述だけにとどまらず、未知なる天体(まだ発見されていない太陽系の惑星)についても正しい予測を提出したからではないだろうか。この予測の正しさによって、直接現象からその正しいことを引き出せない「地動説」が、最終的に正しいものとして認識されるようになったのではないだろうか。地動説の完全な証明も、実体論的段階のケプラーによってなされたのではないだろうか。地動説というのは、地球から見える天体の運動に関して、実体論的段階に至らなければ見出せない法則性ではないかと思う。現象を観察するだけではどうしても天動説になってしまうのではないかと思う。これを越えるためにこそ実体論的な視点が必要になるのではないかと思う。そして、この実体は、現存する地球という実体ではない・抽象のレベルが一段上がったものではないかと思う。現存する地球という実体について観察・考察するのであるなら、これはまた現象論的段階になってしまうのではないかと思う。地動説を発想するには、周点円の不思議さでも出てきたように、地球以外の天体の水星や金星などを考察しなければならない。これらは、まだ具体的な対象であるが、天動説の不思議さを考えると、次々と他の天体のことを考えなければならなくなってくる。例えば、武谷さんは惑星の周点円の周期がどれも1年になることをあげて、どの惑星(一般的な「すべて」の対象)でも、地球の公転周期である1年というものが周点円の周期になっていることの不思議さをあげている。また、星の明るさについても、それが太陽と反対側にくる真夜中の方が光度が大きくなることの不思議さをあげている。天動説ならば、真夜中の方が太陽よりも遠いはずなのだが、太陽の光を反射する惑星の光度が、遠いほうが大きいということの整合的な説明が難しい。これらの不思議さの疑問に答えるには、個別の天体を具体的に観察するだけでは出来ない。どうしても、天体一般に関わる法則性を考察する必要が出てくる。日食や月食が、この次いつ起こるかという法則性は、天体一般に関わる法則性ではなく、時間的な周期性にかかわる法則性になる。それは、天体一般の属性を知ることが出来なくても、「周期的に起こる」という前提が揺らがない限り、正しい予測を与えてくれる。しかし、周点円や光度の疑問は、何らかの前提を置いて、その前提のもとに考えれば何とかうまくいくというものではない。天体一般はどのような法則性を持っているかという抽象度の高い視点からもう一度考え直さなければ、それを整合的に説明することが出来ない。このような考察を進めるための、天体一般という抽象的な対象こそが、実体論的段階における「実体」ではないだろうか。観測という現象は常に具体的な現実存在に対してするものであるが、それを考察する時は、現実存在のイメージはあるものの、その背後に一般化された「天体」という実体が張り付いて考察が進められるというところに実体論的段階の特徴があるのではないかと思う。例えば、太陽と地球の実際の大きさという実体的な属性を考えるときも、個別の太陽と地球の大きさの違いが、大きい太陽が中心で小さい地球がその周りを回ると考えたほうが整合性があると考えるのは、一般的に天体として、大きいものが中心で小さいものがその周りを回るという考えがあって、そこから導かれる連想ではないかと思われる。それなしに、具体的な地球と太陽の大きさだけを見て、そこから地動説の発想が生まれてくるとは考えにくい。地球は特別な天体なのだと考えれば、一般的な法則性などは発想から消えてしまう。ケプラーは、地球の公転の速さを観測した結果から次のような考察を行っていたことを武谷さんは書いている。「また地球の運動の早さも非常に正確にわかりました。(中略)ケプラーは、かねてから、遊星の運動は、ギリシア人が考えていたように、それぞれの遊星がそれ自身の本性に基づいて行っている運動ではなく、中心にある太陽の作用に基づく運動である。その証拠に、太陽に近い遊星ほど速く、遠い遊星ほど遅い運動をしている。もし、天体のそれ自身の本性としての円運動なら、遠い遊星ほど遅く動く理由はないであろうと考えました。また、太陽の作用で遊星が動いているのだから、太陽以外の点に特別にイクアントなどを見つけたって、それは無意味なはずだと考えました。」ここでは、中心にある太陽と惑星というものが考察されているので、具体的な現象論的な事実を語っているように見えるが、その背後には、天体一般の運動として恒星とその周りを回る惑星という認識が伴っているのではないだろうか。この運動は、太陽系だけに成立する法則性を求めているのではなく、天体一般に成立するからこそ、太陽系という具体的存在でも成り立つのだと考えられているのではないだろうか。それは、「それぞれの遊星がそれ自身の本性に基づいて行っている運動ではなく」という言葉から伺える。遊星が、それ自身の本性に基づいて運動しているなら、そこには一般的な法則性はない。固有の特別な存在としての遊星の属性があるだけだ。太陽の作用が及ぶからこそそのような運動をしているという認識の背後には、その太陽として、太陽と同種類の恒星を置けば、それは太陽だけに限らず成立する法則性として成立するだろうというものがあるのではないか。実体論的段階においては、個別具体的な存在である現実存在だけではなく、一般化・抽象化された対象である実体が必要ではないかと思う。そして、そのためには、一般化・抽象化できるだけの実体に関する知識が必要だろう。地球以外に太陽系の惑星が知られていなかったり、太陽以外に恒星が知られていなかったりすれば、実体論的段階へ行くことは出来ないのではないか。そのときには、現象を集めることが重要で、現象論的段階を徹底させなければならないのではないかと思う。ティコの段階でも、具体的な実体としての意識はあったように思う。しかし、それを抽象化して一般的な考察の対象として設定することはなかったのではないか。一般化しなかったので、論理としての展開ができず、現象の解釈は出来るが、論理的に未知なるものを予測するという理論にならなかったのではないかと思う。この一般化・抽象化がさらに進み、天体という対象に限らず、物質的な存在全部を対象にしたとき、本質論的段階といわれるニュートン力学につながるのではないだろうか。ニュートン力学は、天上の運動も、地上の運動も一つの法則として認識することが出来た。月は、地球に永遠に落ちつづけていると考えれば、地上でりんごが落ちてくるのと同じ法則性として理解できる。物質的存在というのは、観察できる対象としては、最高の抽象度を持った実体になるだろう。これ以上の実体は想定出来ない段階として、この実体論的段階が本質論になっているのではないかと思われる。
2007.09.16
コメント(0)
牧衷さんの『運動論いろは』という本には、表題のような「反対のことは せず させず」という格言のようなものが載っている。これがもし格言として提出されているなら、それは発想法のようなものとして理解できるだろう。格言というのは、ことわざのようなもので、それが正しいときもあれば正しくないときもあるというものだ。それが正しいのは、現実の諸条件によるので、その諸条件が分からないうちは、一般的な法則として受け取ることが出来ない。諸条件というのは、具体的な現象に対して、その具体性に深くかかわる条件として登場する。だから一般化することが出来ない。例えば、「大は小を兼ねる」ということわざがある。これは、道具の大きさについて語っている。普通はそれぞれの使用条件によって道具の大小が決まってくる。大きさが違えば道具が使えないということがある。しかし、時と場合によっては、大きいものが小さい道具の代わりに通用することもある。このことわざは常に成立する法則性を語るものではない。形が似ているからといって、お玉は耳掻きの代わりにはならない。耳掻きにとって、その大きさは道具としての有用性に決定的な意味を持っている。そのような場合は、「大は小を兼ねる」とは言えない。このことわざが正しくなるのは、その道具の使用の場面という具体性が深く関わってくる。一般化した法則性として解釈することが出来ない。このような法則性は発想法として機能する。道具の大小が固定的なイメージとして、小さいものがない時はどうしようもないと考えがちの時、大きいものでも代用できるかもしれないということを、ちょっと考えてみるためのきっかけとしてこのことわざが機能する。それは、考えてもだめかもしれない。その法則性は成り立たないということが分かるかもしれない。しかし、発想法の有用性は、きっかけとしての考えの展開をもたらすところにある。ことわざや格言は、そのような意味を持っている。牧さんが語る、「反対のことは せず させず」という法則性が、時と場合によっては、そのほうがうまくいくよというものであれば発想法として理解できる。これは、民主的な決定のことについて語っているのだが、その決定の状態・組織の状況によっては、その決定に反対のものは、その決定した行動をしなくてもいいということだ。普通は、民主的な決定というのは、その決定に関わった人間のすべてを拘束する規範になる。たとえ反対であっても、民主的な討論の結果であるならそれに従わなければならないと考える。しかし、そのような決定が、反対者を巻き込んだ行動になったときにうまくいかなくなることがある。このような時は、その反対のこと・つまり「反対のことは せず させず」というやり方を考えたほうがいいよ、ということであればこれは格言であり発想法になる。しかし、牧さんによれば、運動をする組織という限定を置いた場合は、「反対のことは せず させず」という命題は、常にそのようにした方が運動として結束力が高まり、必ずうまくいくという。それは現象論的には、牧さんの経験のすべてがそのようなものだったらしい。逆に言えば、民主的な決定を反対者に押し付けるような運動は、常に運動の停滞・分裂を招き、運動としての力は失われていくという経験があったらしい。「反対のことは せず させず」という命題は、そうしたほうが組織の運営がうまくいくのだという解釈をすれば、一つの法則性を語るものとして受け取れるが、一般的な組織の場合はこれは格言になってしまう。反対のことはしなくてもいいということになれば、そこには秩序が失われ、自分勝手に好きなことをしてしまうだろう。常にうまくいくとは限らなくなる。むしろうまくいかない場合のほうが多いかもしれない。条件によって正しかったり・正しくなかったりする。しかし、これを運動組織という対象に絞って考えれば、その条件のもとでは一般的にこの法則が成り立つとも考えられる。それが証明されれば、この命題は、運動における科学として常に成立する命題になる。果たしてどうなるだろうか。僕は、自分の感性的認識としては、「反対のことは せず させず」の方が好みに合うので、この命題が正しいものであって欲しいと思う。だが、僕の好みに関わらずに、この命題が客観的な正しさを獲得できるものでなければ科学としての真理性を獲得することが出来ない。現象論的には牧さんの経験を信用して、そのようなことが確かに起こると思う。それでは実体論的に、この法則性を理解しなおすことが出来るだろうか。この考察のためには、まずは運動体としての組織というものがどのような実体であるかという設定が必要だろう。これを、現実に存在する運動体のイメージそのままで考えると、捨象されない具体的な属性が考察の邪魔をする。例外的なものが法則性を脅かすだろう。だから、この実体を抽象的に設定しなおさなければならない。それは、民主的な原則を守り・行動の方針を民主的な手続きで決定するような組織だ。一人のカリスマ的指導者が言うことに、組織の成員のすべてが無条件に従うような組織は、この考察からは排除される。それは、運動組織としては、この命題の法則性を考察するものとして例外的なものと判断する。このように設定しなおした実体について考察しないと、論理的な展開が出来なくなる。現実には、カリスマ的な強引に引っ張っていく指導者というのはたくさんいるだろうと思う。その組織は、その指導者が正しく指導している限りでは問題は生じないだろうが、正しくない方向へ一歩でも踏み出せば組織は崩壊する。このような組織では、指導者に反対するものは一人もいないので、「反対のことは せず させず」という原則は守られる。しかし、運動は失敗するということが少なからず起こってくる。このとき、この原則が間違えていたという論理的な結論は出来ない。このような組織では、そもそも反対のことというものが存在しないのだ。だから、条件としては、現実がどうであろうと論理的にいつでも成立するトートロジーの命題を語ることになってしまい、現実の事実からその命題を証明するということに意味がなくなる。だから、このような対象は、考察する実体からは除かなければならない。実体論的段階では、その実体がどんなものであるかは、論理の展開を見据えて設定するものであって、現実に運動をしているように見える実体を、実体として持ち込んでくるのではない。さて、民主的な決定をする組織というのは、それでイメージが持てるような感じがするが、これだけでは論理の展開としては不十分だ。反対のことをさせるかどうかという対象である、組織の構成員としての個人という実体についても設定しなおさないとならない。そうでなければ、組織だけを抽象化しても、その成員は現実の運動をしている人々の多様性を持った対象になってしまう。この実体についても抽象化しなければ論理展開は出来ない。現実の存在そのままを実体として捉えれば、現実の特殊な属性が論理的な考察に矛盾を引き入れる恐れがある。それでは、その構成員はどのように抽象化されるか。それは、民主的な組織においては、そこに加入するのも離脱するのも個人の意志で自由に行えるという条件を持っている個人として抽象される。現実には、いろんなしがらみで意志に反して加入していようとも、それが民主的な組織であるなら、このような原則・属性を持っているものとして対象化する。むしろ、このような原則を持たず、意志に反して加入・離脱がされているような組織は、民主的という点では不十分なのだと捉えるのである。また、その加入・離脱を自分の意志で自由に選び取るということは、個人としての自主的判断ができる人間を想定している。他人の意見に左右されたり、どんな決定がされてもそれを判断するだけの能力がないという人間は、この考察の対象からは排除される。そのような人間は、そもそも運動というような主体的な活動を担うにはその資格が問題になる。そのような人間に必要なものは、運動そのものではなく、自覚を促す教育のほうになるだろう。このように抽象化された運動体組織とその構成員からは、どのような論理的な帰結が得られるであろうか。まず、運動における反対が起こってくるというのは、一般的な状況設定としては、行動の指針を決定することが難しい問題を討議しているときであり、しかもその討議に参加している人々が、主体的に判断して自分の意見として賛成・反対を選んでいるときだ。このとき、最終的に多数決で決定したことを反対者に押し付けたらどういうことになるだろうか。牧さんは次のように語っている。「考えても御覧なさい。そもそも反対意見の人が、自分の反対している行動を組織したり、先頭に立ってやったりして、事がうまく運ぶでしょうか?運ぶはずがない。 だって、反対だった人間が、本気になって、自分の反対している方針で運動なんか出来ますか。本気にならずに(なれずに)やってうまくいくほど運動というものは甘かありません。」多数決で意見が分かれて決定したことは、それだけどちらの方針を選ぶかが難しかった・困難な行動である。その行動を、熱心さの欠ける人間がやったとして成功する確率はどれくらいあるだろうか。しかも、最後の多数決で賛成に回ったのならまだしも、最後まで反対だったら、熱心さに欠けるのが当然だと論理的には帰結できるだろう。このように実体化された対象に対しては、反対のことを押し付ければ、それはまったくうまくいかないということが論理的に結論されるだろう。牧さんはさらに次のように語っている。「物事を多数決で決めなきゃならないときというのは、意見が分かれて、かなり有力な対立意見があるときです。ですから、多数決でどの意見に決まったにしても、かなり「そうじゃないかも知れんな」と考えている人たちがいるわけです。そんな状況の中で「多数決の結果だから、多数意見の俺たちと同じ事をしろ」と言ったんじゃ少数派の人たちが押し付けと思わないほうがおかしい。 それで運動が分裂しちゃうんです。反対のことはさせなきゃいいんですが、日本の組織はみんな「多数と同じ行動をしろ」型です。そんなこと一緒にやらされるくらいなら、俺たちは別の組織を作って、俺たちの思うように運動をする、ということに必ずなる。日本の運動は、そういうことを際限もなく繰り返してまいりました。原因は何か?もちろん「多数決原理」!」実に明快な論理で、この実体論的段階では、反対のことを押し付けるということは、組織の分裂を招くということが論理的に帰結される。民主的な組織に、主体的な人たちが集まっているとき、この「反対のことを せず させず ならうまくいく」という命題が常に成り立つなら、実体論的段階においては、この論理展開はうまくいくといっていいだろう。そこで、科学として正しいかどうかは、現実の運動体という組織が、ここで考えたような実体としての属性を持ったものとして、具体的な属性を抽象できるかどうかにかかってくる。現実の組織が末梢的な属性を排除して、このような民主的な組織と考えられるとき、この命題が常に正しいことを示してくれるなら、牧さんが語る法則性は科学になる。僕は、これは科学になりうると思っている。そして、このこととの関連で浮かんでくるのは、民主的でない組織では、反対者への押し付けが正しくなるときがあるだろうかということだ。例えば、学校現場への日の丸・君が代の押し付けが正しくなる条件というのは想定出来るだろうか。このことと関連させて考えると何か新しい発見があるかもしれない。
2007.09.14
コメント(0)
関さんから「モデル理論としての経済学の法則性」のコメント欄に、たいへん興味深いコメントをもらった。このコメントに答えるには、コメント欄の短い文章では真意が伝わらないのではないかと思い、改めて考えをまとめてみようと思う。それは三段階論の実体論的段階をどう捉えるかという問題であり、ある命題の真理性と、その命題を真理だと認識する人間の理解の違いを考える問題ではないかと感じている。エンゲルスの言葉だったか、「最初の素朴な見方は真理に近い」というようなものがあったように記憶している。最初の素朴な見方というのは、まさに現象論的段階における法則性の認識に相当するものだと考えられるだろう。エンゲルスは、摩擦が熱に変わるという現象を取り上げて、この素朴な認識が「運動エネルギーが熱エネルギーに変換される」という真理に近いものとして考えられるということを語っていた。物をこすり合わせるとそれが熱くなるというのは、簡単に経験できるものであり、現象としてはすぐに確認できる。しかし、その法則性は、その経験が裏切られることはなかったという経験からきているもので、もし一度でも裏切られるような経験があれば、すぐに真理性が揺らいでしまうような法則性の認識だ。この段階が「現象論的段階」と呼ばれるものではないかと僕は思っている。熱エネルギーの問題は深入りすると難しいので、もう少し考えやすい対象で論理的な段階について考えてみようと思う。地球が丸いという「大地・球形説」について考えてみようと思う。地球が丸いというのは、今や誰でも知っている真理なのだが、実際に地球が丸いというのを自分の目で確認できるのは宇宙飛行士だけだ。我々に出来るのは、せいぜい彼らが撮影してきた映像で間接的に丸いことを確認することくらいだろう。この、見たままの事実として地球が丸いことを確認するのは、三段階論で言えば現象論的段階だと僕は思っている。そこには、法則性として現れているのは、目で見たときにはいつも丸かったという経験が法則化されているだけだからだ。論理的な考察はそこにはない。実体としての地球は、現実存在としては目で見ている(写真などで)が、それがなぜ丸いかという理屈(論理)のほうはまったく認識されていない。この理屈を認識する段階が「実体論的段階」だと僕は理解している。この地球が丸いという真理は、地球を直接見ることができなかった時代には、現象論的段階としての真理としても認識されていない。地平線あるいは水平線という言葉に象徴されるように、現象論的段階としては、「いつも」地球は平らだという姿を見ていたことだろう。そこからは、地球の形に関する一般的法則性として、大地は平らだというものが現象論的段階として提出されるのではないかと思う。もう少し細かく眺めれば、山があったり谷があったりするので、例外的には凸凹になっているが、それを誤差として捨象できれば平らだという法則になるだろう。この現象論的段階にとどまる限りでは、大地が丸いという認識は生まれてこない。大地が平らだという経験が裏切られることがない。しかし、より広い世界に関心が向くようになると、大地が平らだということが裏切られるような経験が訪れてくる。板倉さんが紹介していたのは、アリストテレスが説明していることだと語っていたが、船などで帰ってきたとき、高い山の頂上からまず見えてくるという事実だ。これは、陸のほうで沖の船を眺める経験とは違うという。沖の船はどれほど大きいものであろうとも、人間が自分の目で確かめられる大きさになって見える時は、その全体が目に入ってくる。決してマストの先から徐々に下のほうが見えてくるというような経験はないという。船の大きさは、地球の大きさに比べればはるかに小さいので、地球の丸さを確認できるだけの視覚的な経験はできないというのだ。ところが高い山くらいになると、何千メートルもあったりするので、このくらいの大きさなら地球の丸さを感じるような経験ができるという。もし地球が平らであれば、視野で確認できるだけの距離に入れば、山の全体が見えてきていいはずなのだが、山の頂上付近から徐々に下の方が見えてくるような経験があったという。この経験は、大地が平らだという法則性を脅かす。もう一つの経験は、月食における地球の影の経験だという。これは、月食が、本当に月が欠けるのだと認識していたらそういう理解は出てこない。月が欠けるというのを、現象論的に受け取るだけでは、それを大地が丸いという法則性に結びつけることは出来ない。あれは、地球の影が月に映って、欠けているように見えているだけなのだという理解があって初めて、大地が丸いということが認識として生まれてくる。沖の船が陸に近づく時は、高い山という「実体」は、もし地球が平らだとしたらその全体が見えるはずだと考える発想は、山が見える前に予想を立てることが出来る論理的な考察に当たる。この論理的考察は、単に目で見たものをそのまま受け取るという現象論的な段階では生まれてこない。山という実体(これは具体的な山ではなく、「高い山」という一般的・抽象的な対象としての実体だ)が、地球という実体とどのような関係にあるかという実体同士の関係を考察することが必要だ。さらに月食の認識にまで至るようになれば、地球と月という天体と呼ばれる実体が考察の対象に入ってくる。これはさらに一般化されて、地球や月以外の、観測される天体一般の存在と結びついて、それが丸いということが地球が丸いということの考察に関わってくる。実体の導入というのは、単にそれが現実に存在しているということを眺めてなされるのではない。もしそうであるなら、それは現象論的段階にとどまるだろう。実体を導入することによって、今までの視点とは違うものがそこに現れる。その実体が、このような属性を持っていれば、論理的な結論としてこうなるはずだという「予想」が生まれてくる。その予想が、今までの経験を裏切るような新たな経験をうまく説明するものであれば、さらに新たな経験を求めて、その未知なる経験もうまく説明できるようなら、これは法則性として高い信用度を持っていると考えられる。そのような未知なる対象に対する検証こそが、板倉さんが言う「仮説実験の論理」における実験だと言っていいだろう。ケプラーの段階が、三段階論における実体論的段階として重要なのは、太陽系という実体が実際に存在することを事実として発見したことではないと思う。それは、その実体を基礎にして論理を展開すれば、未知なる事実に対して正しい予想が立てられるという論理的な側面こそが重要なのだと思う。そのような論理展開ができるからこそ、法則性の認識として「実体論的段階」だと言われるのだと思う。大地が丸いということを、現象論的段階として確認するには、現代のロケット技術を待たなければならなかった。それまでは、誰もそれを現象として確認した人はいない。目で見える範囲の地球は丸くなどないのだ。その曲線の範囲は、人間の視野という条件のもとでは誤差として捨象されて平らになってしまう。地球が丸いという真理は、実体論的段階に至らなければ発見できなかった真理だっただろうと思う。また、その真理は、地球は平らだということを法則性として認識した現象論的段階があったからこそ生まれたとも考えられる。地球が平らだということを法則性として認識しなければ、平らに見える時は平らだし、平らに見えない時は平らにならないという、経験をあるがままに受け入れるだけで、世界はそうなっているのだという理解しか生まれないだろう。どうしてそうなっているかは分からないけれど、たぶん神様がそうしたのだろうというような認識になるだろうか。大地は常に平らなのだという認識があればこそ、平らに見えないときが気になってくるし、平らに見えないときが例外的な誤差として捨象できるのか、それともそれこそが本質に向かう認識なのかということが気になってくる。誤謬があるからこそ、その誤謬を基礎にして考えた論理を元にした予想を立てることが出来る。そしてその予想こそが認識を深め、三段階論の次の段階への発展の契機になる。これが板倉さんが発見した仮説実験の論理ではないかと思う。地球が丸いという実体論的段階は、さらにその対象が地球にとどまらず、天体一般が丸い形をしているという普遍的な側面が考察の対象になると、天体が出来るときの運動というものが問題にされるだろう。そして、すべての天体が従うような法則性が発見されたとき、地球が丸いという実体論的段階は本質論的段階を迎えるのだと思う。地球の属性として考察された丸いという特徴は、天体一般の必然的運動の結果としての普遍性を獲得したときに、それが本質論的段階と呼ばれるのではないか。関さんが語る経済学における新古典派の理論というものは、僕は詳しく知らないのでその理論の段階が三段階論のどこに当たるのかははっきりしたことは言えない。だが、単に現象を見たまま語るのではなく、論理の展開によって未知なる事実を予想できるのであれば、実体論的段階に来ていると言っていいのではないかと思う。未知なる事実の予想をせずに、すでに起こってしまった事実に対して、後から解釈するだけであるなら現象論的段階にとどまっていると言えるのではないだろうか。また、実体論的段階にいて、未知なる事実を予想できる段階であっても、その予想が外れてしまうような実体論的段階もあるだろう。その時は、予想が外れたものが例外的な対象であったのかどうかの判断が問題になる。例外であることが確認されるなら、その実体論的段階の理論は理論としての正当性を保つだろうと思う。例外ではないのなら、その理論は大切な要素を捨象してしまって、抽象化に失敗したのではないかと思われる。武谷三男さんは、「ニュートン力学の形成について」の中で次のように書いている。「実体論から本質論への移行において3つの形態が存在する。第一は実体の導入が直ちに本質論に導く場合であって、それはその実体が新たなる性質のものでない場合、すなわち海王星の導入、立体化学、物質構造論などである。 第二に、実体がまったく機能的なものに解消される場合、それは逆に言えば機能を実体として捉えていた場合であって、これはフロギストンやエーテルなどがよい例である。 第三に、まったく新たなる実体であって、新たなる論理を要求しているものである。ニュートン力学の運動方程式や、原子における量子力学等である。後に述べるように原子核物理学の新たなる諸素粒子もまたそうであろう。」ここでは、フロギストンやエーテルなどの、間違った実体・現実には存在しなかった実体も、実体論的段階の考察においては評価されている。間違った理論であっても、認識の発展における三段階に相当することもあると僕は理解した。人間の認識の発展において、誤謬も重要なものとして見なければならないということではないかと思う。また、三段階論における実体論的段階の「実体」とは、対象として抽象化された「実体」だからこそ、現実に存在しないものでも実体論的段階の「実体」として設定できるのだと思う。実体論的段階の「実体」とは、発見するものではなく、設定するものではないかと思う。
2007.09.13
コメント(0)
心理学や精神分析は科学ではない、ということは僕もそう思っているのだが、そのように宮台氏なども語っていたように記憶している。宮台氏の言い方では、人間の心というのは、その当人は自分で感じることが出来るが、それを他者が客観的に観察することが出来ないと語っていたように思う。他者にとって他人の心というのは、あくまでも想像の域を出るものではなく、客観的対象として実体化することが出来ない。行動主義と呼ばれる心理学では、客観的存在ではない心に対して、観察可能な「行動」のほうを記述して、行動の属性としての心を考察するという方向で科学としての心理学を構築しようとしたように見える。これは、心というものを、実体ではなく機能として捉える発想ではないかと思う。心の存在は確かに自分では感じるのだが、それはどこにあるかというのは言うことが出来ない。それは人間の脳の働きだと言ったほうが本当らしい。しかしこの発想は、実体論が不十分なまま本質論へと向かっているような感じがして、科学の発展としてはどこかに欠陥があるような気もする。心という実体が本当はなかったにしても、そこにフィクショナルに設定した実体として、まずは実体論的段階における論理の展開が十分になされる必要があるのではないかとも感じる。故河合隼雄さんは、カウンセリングの実践を理論化するときに「魂」という実体を設定することを提案していたが、「魂」というのは本当に存在するかどうかはわからないけれど、それがあると思って現象を解釈するとうまく論理が展開できるというものだった。人間の心というものも、それを実体としてつかみ出してくることは出来ないけれど、人間が何かを感じたり・考えたりするするとき、その働きを司る何かとして設定できるのではないかと思う。つまり、認識の主体としての心というものを、フィクショナルな実体として設定することが出来るのではないかと思う。この実体について、その属性を設定して形式論理が展開できるなら、これが実体論的段階になるのではないだろうか。人間の心は、認識の働きとして、外界の存在を感じてそれが何であるかを判断するということをする。そしてその判断を元に、その対象にどのように行動するかという「行為」の決定をするという作用をする。人間の心は、このような判断をするという認知の作用と、その判断を元に行動をするという実践の作用をするという属性を持っている。この認知と実践の間に関数的な法則性が存在するなら、それは心の法則性として捉えることが出来るのではないかと思う。この法則性にとって、行為を選び取る選択肢が複数存在するとき、その選択の自由(どれを選ぶかという意志の自由)の問題が重要になってくる。ある認知のときに、必然的にこのような行動を選び取るはずだという法則性を考えても、最後の行為の選択において、どの選択も同等に選びうるという自由があった場合、それは法則性として確定しなくなる。意志の自由は法則性を否定してしまうのか、それとも人間の意志に関わらず、それとは独立して客観的な法則性が成立するのかどうか。イズムと呼ばれる思想的な背景は、意志の自由を否定して客観的法則性が成立することを前提として発想しているようにも見える。マルクシズムは、階級意識というものが究極的には人間の行動を規定するものとして捉えていたようだ。階級意識に反するような行動をする人間は例外的なものとして解釈されていたのではないか。だから、労働者階級ではないと判断された人間が弾圧されるような文化大革命的なものも起きたのではないかと思う。フェミニズムでは、男はその支配的な社会での立場というものが、個人の資質に関わらず男の心を規定していると考えているようにも感じる。男は暴力をふるう者、男は権力欲に駆られている者、というような属性が考えられ、そうでない男は例外的なものとして解釈されているように感じる。僕は、意志の自由というものが選択の自由として考えられているとき、それをあくまでも個人の具体的な選択として考えるなら、そこには法則性に反したと思えるような自由が存在すると思う。例えば、現代社会では「人を殺さない」という法則性が働いているように見える。これは、人を殺したいという衝動が生まれるほどの憎しみの心を抱く人はたくさんいるにもかかわらず、実際に殺人という行為に至る人は少ないように現象論的には感じるからだ。もし殺人という行為が確率的に発生するものなら、もっと多くの殺人行為があるほうが普通ではないかと思う。それがあまりないというのは、社会においては「人を殺さない」という法則性が働いているために、数が少なくなっていると考えられる。この法則性はどのようなメカニズムで社会の中に成立しているかは分からないが、現象論的には法則性として働いているように解釈できるだろう。ところがこの法則性は、個人としてはいつでもそれに反する行為を選択できる。少なくとも可能性としては、いつ殺人行為がおきても不思議はない。物理的法則として殺人行為が抑えられているわけではない。人を殺してみたかったという願望を持っている人間が、実際に殺人を犯す事件が起こるが、それは最後の意志の選択において、「人を殺さない」という法則性に反することが出来るからだ。「人を殺さない」という法則性を支えるものは、「人を殺してはいけない」という規範意識であって、人間が自らの意志の自由を自らの意志で制限するような働きによっているとも考えられる。これが、意志と独立している自然科学的な法則性では、水に沈みたくないという意志が働いても、水よりも比重の重い人間の身体は、水の浮力の法則を合理的に処理しない限り、意志の選択だけでは水に浮いていることは出来ない。人間が意志の選択の自由によって法則性に反することができるのは、規範というものに支えられた社会における法則の場合だけかもしれない。人間の心の法則性を考えるとき、規範という実体は実体論的段階へと発展するときの重要な要素となるものではないかと思う。人間は、意志の自由の選択の幅を縮めるような規範というものをなぜ自らに課するのだろうか。それはそのほうが合理的な行動が出来るからだと思うのだが、そうすると、人間は合理的な行動のほうが、生きていくという戦略の上では有利なのだという法則性も考えることが出来るのではないかとも思える。心の法則性を考えるとき、その心があくまでも個人のものであるなら、それは抽象化・一般化が出来ないので、事後に解釈は出来るが事前に予測するということが出来なくなる。事前に予測をしても、それが規範が関係するような意志の選択であれば、その予測にすべて反する選択も出来てしまうので、個人の行為の法則性は打ち立てることが出来ない。法則性が考えられるのは、個人を捨象した、その個人を含むある集団における選択の確率的法則性というものになるのではないかと思う。どのくらいの割合の人が、どのような選択をするかということには法則性が考えられるだろうか。個人としては、例外的にその選択の法則性から外れる人間がいたとしても、高い確率で一つの選択肢が選ばれるようなことがあれば、そこに法則性があると認識できるだろうか。二つの選択肢が、どちらも50%の確率で選ばれるという時は、これは法則性(必然性としての)はないと考えられるだろう。必然性がないということを一つの法則性と捉えれば、法則性がないという法則だとも言えるが、普通は、複数の選択肢の一つが他の選択よりも圧倒的に大きい確率で選ばれるときだけを法則があると呼んだ方が自然だろう。現象論的には、このような現象はよく目に付くものだ。マル激で小幡さんが語っていた、「他の人間がその株を買うかどうかということを考えて、他の人間が買いたがるだろうと思える株を買いに出る」という行為の選択肢は、かなり高い確率で選ばれるように感じる。そのような行為だと観察できるような現象が株式市場ではよく見られるというからだ。この選択肢は、その株価の正当な評価を考えて株を買いに出るという人よりも、株の売買で儲けようという人が増えた現在では、人々の行為の選択肢としては圧倒的に確率の高い選択肢になっているようだ。まともな人は、株の値段よりも会社の業績のほうを重視するかもしれないが、その人のほうが例外的存在になりつつあるのが今の株式市場ではないかと思う。また萱野稔人さんが語る権力に関する現象でも、選挙において自分たちの不利益になるような政策を選ぶ候補者に投票するという人々の選択行為をもたらす心の法則性というものがある。よく考えて合理的な判断をすれば、小泉さんの政策では自分たちに不利益になるはずなのに、なぜかあえて小泉さんを選んでしまうということが先の選挙では繰り返された。ここにはある種の法則性があるのを感じる。また、仮説実験授業研究会の牧衷さんが語る運動論には、運動におけるその構成員の行為の選択に関して、ある種の法則性が語られている。運動が盛り上がったときの選択行為と、それが衰退したときの選択行為の間には大きな違いがあるが、傾向としては同じようなものを示すのでそこに法則性があるのを感じさせる。牧さんは、「先が見えるとき」という前提を置いて考察している。先が見える時は、人間は積極的な前向きの行為の選択肢を選ぶのだが、先が見えなくて不安が広がると、安全な現状維持的な消極的な選択肢のほうを選ぶ。これは、かなり普遍的に言える法則性のように感じる。小泉さんが大きな支持を集めたのも、それが正しいかどうかには疑問があるものの、明確に先が見えるような政治の方向性を打ち出すことに成功したからだというふうにも感じる。今の安倍さんの不人気は、そういう意味では小泉さんの反対で、まったく先が見えない不安をかきたてるような存在になっているからではないかとも感じる。社会の法則性を考えるとき、人間の心の法則性との結びつきは重要になると思われる。それは、個人の心に関しては、法則性を抽象化することは出来ないだろうが、集団の中のどのくらいの割合が、どの選択肢を選ぶかという確率的な観点では法則性を考えることが出来るのではないか。牧さんが語る運動論には、このような法則性が考察されているように感じる。人間は、どのような運動の状況のとき、運動の行為としてどのような選択肢を選ぶか。牧さんは、運動というものを人間の行動の全般に広げてかなり広い範囲の行為を運動として捉えている。他人への働きかけはすべて「運動」として解釈できるという見方だ。牧さんの語る観点で運動論を見ると、社会での対人関係というものの法則を捉えることが出来るのではないかと思う。対人関係というのは、学校では学習できないものだが、社会で生きていくのにこれほど重要なものはないというくらい学習が必要なものだ。ここにある法則性を正しく認識することが出来れば、その法則に従って合理的に生活を処することが出来るだろう。そして、何かトラブルが持ち上がったとき、その原因を合理的に理解できるようにもなるだろうし、例外として処理できれば心の安定にもなるだろう。牧さんの運動論から、そのようなものも学び取ってみたいと思う。
2007.09.10
コメント(0)
今週配信されたマル激では、小幡績さんというゲストを招いてバブルの現象というものを分析していた。この分析では、人間が意志の自由によって行動を選択する際、自由によって無秩序に選択されるように見える行動の中に、ある種の法則性を解釈する余地があるということが説得的に説明されていた。バブルでは、適正価格以上に値が上がった株に対して、それを買い求める人が殺到するため、さらに適正価格以上に値が上がるという現象が起こる。それは永久に続くような現象ではなく、いつかはそれが高すぎることに誰もが気づき、突然それが買われなくなる。そうするとバブルがはじけることになり、高値でそれを買った人は大きな損をするということにもなってくるわけだ。僕は、この現象については、欲に目がくらんだ人が判断を間違えたために、いつかは必ず値が落ちる株に殺到して損をしただけなのではないかと思っていた。率直に言えば、損をした人たちは「頭が悪かった」だけなのではないかと感じていた。しかし、このマル激を聞く限りでは、ことはそう単純な理解ではすまないとも感じた。頭がいい・悪いに関わらず、バブルが起こったときには、儲けようという目的があればそれに乗るというのが法則性として働いているのではないかと思った。バブルの時代に僕が不思議に思ったのは、物質的・客観的な資産価値以上の株価がついた会社というのは、調べればすぐに分かるのではないかということだった。ライブドアは事件を起こして株価がほとんどゼロになってしまったが、その最高値の時代には本来の資産価値の何倍の値段がついていたかわからないくらいの高値だった。これは、ライブドアの業績などを調べれば、高すぎるというのは専門家でなくても分かりそうな気もした。その高すぎる株を買うということの危険性は理解するのはたやすいのではないかと思う。しかし、その危険性があってもあえてライブドアの株を買うほうが儲かるという計算が成り立つということが、小幡さんの説明を聞くと説得的に理解することが出来る。キイワードは「リスク・テイク・バブル」という言葉だった。誰もがリスクを取る(テイクする)ならば、リスクがリスクにならずに利益として返ってくるというのだ。資産価値以上の株を手にするということは、いつかその株が資産価値に見合うようになったら、その差額の分だけ損をするということだ。だから、当然最後までその株を持ちつづけていたら損は免れない。しかし、最後まで持ち続けることをしなければ、十分望んだだけの利益を得るような買い方をすることも出来る。それは、まだ高値が続いている時期をはずさずに、自分が買った値段よりも高い値段で売り抜けて逃げるということで利益を得るという目的を達成するということだ。資産価値以上に高い株に人々が殺到し、バブルの熱が高まるのは、熱病に浮かされたように異常な状況なのかと思っていたのだが、小幡さんの説明を聞くと、かなり頭のいい人の、儲けを得るという目的のための合理的行動なのだなということが納得できる。頭の悪い行動ではなかったのだ。むしろ頭のいい人は、儲けたいという希望があればバブルに乗るのが当然で、儲けたいと言う希望があるのにバブルに乗らないのは、そのほうが頭が悪いともいえる。僕は、儲けたいという希望がなかったために、結果として大損をする人々を見て、第三者として、バブルによって損をする人間が出るのは必然的なことなのに、わざわざ損をする人間になるなんて、頭が悪いんじゃないかと感じていたわけだ。だが、儲けたいという願いを持っている人間は、頭のよさと悪さは違う面で現れてくる。儲けたいという人間で一番頭のいい人間は、バブルがはじける直前まで我慢して売りぬける人間だ。それは最高値で売ることになるので、儲けがもっとも大きい。バブルがはじけた後まで株を持ちつづけた人間は、運が悪いということと頭が悪いということが紙一重で一致するような状況になる。だが、この頭のよさと悪さは、まさに紙一重の差であって、「運」と呼びたくなるもののような感じがする。小幡さんによれば、バブルに乗って儲けるために株を購入するのは一種のギャンブルだと言う。それは、確実な予測が出来ないのでギャンブルになってしまう。資産価値以上に株価がつくのは情報として知ることは出来る。だから、それがいつかは資産価値に落ち着くまで下がるというのは、法則性として予測が出来る。「いつかは」株価が落ちるというのは、確実に予測できることだ。しかしそれが「いつ」になるかという具体的な計算は出来ない。科学法則は、一般的・抽象的法則性は確実に予測できるが、個別・具体的な予測は出来ない。それがいつになるかを予測するのはギャンブルになる。運がよければ当たるし、運が悪ければ外れる。それは、どんなに頭がよくても、確率計算が出来るほどの確実性を持たない。この、ギャンブルが絡む法則性は、どうしても個別・具体的な対象の個別性・具体性を捨象することが出来ないので、おそらく科学の法則として打ち立てることは出来ないだろうと思う。つまり、三段階論的な発展をするような法則性は求められないのではないかと思う。バブルという現象がなぜ起こるかという解釈は、小幡さんの説明を聞くとよく納得できる。バブルが始まれば、客観的な資産価値など関係なく、買値よりも売値のほうが上がると信じられるので、儲けを得ようとする人は買いに出てくる。さらに、バブルを感じたもともとその株を所有する人たちは、もっと値が上がると信じられればあまり売りには出さない。そうすると、買いたいという需要がさらに高まるのでさらに株価は上がることになる。みんなが欲しがる株は、それがどのような実態を持っていようと、欲しがるということで値が上がる。この現象の法則性は、人々が何を信じているかということに深く関わる。だから、人々が急にその株に価値を感じなくなると、バブルはいっぺんにはじけることになる。その時期を敏感に悟った人が勝者として利益を得ることになる。この、人々が何を信じるかというのは、確率計算をすることの出来ない対象ではないかと感じる。個々の人がどのようなことを信じていても、それが一定量集まれば、統計的に確率計算が出来るようになるのだが、バブルにおける株価の予想に関しては、人々の意志や希望などを計算する基本データを得るのは難しいのではないかと思う。最後の決断は、自分の経験から得られた勘とギャンブルに賭けるという心がそれにつながるのではないだろうか。ギャンブルは、対象が個別的・具体的なものになるので、やはり科学にはなりえないだろう。それは事前に予測することが難しく、後から解釈するしかない対象になるのではないかと思う。今週のマル激を聞いて感じたのは、小幡さんが語るような、現実的な実践を具体的に考える際は、科学法則よりも「発想法」のようなものが役に立つのではないかということだ。現実的な実践は、対象が現実の具体的な存在になるので、科学法則をそのまま当てはめることが出来ず、対象を抽象・捨象というステップで一般化して法則性を適用しなければならない。そうすると、本当に具体的な、今何をしようかというような実践においては法則性を使いようがないということが出てくる。対象の具体性をどうしても捨てきれないということが出てくるだろう。このような時は、法則性を適用したつもりでも、必ずしも期待通りの結果を得ることが難しくなる。そんなとき、実践の方向を少し変えるための「発想法」というものが便利に働くのではないかと思う。ことわざや弁証法というのは、実際に具体的にそのような考え方を適用した経験が、新たな経験の際にも同じような例として適用されて、違う方向からそれを見るということを教えるのではないかと思う。「押してもだめなら引いてみな」ということわざがあるが、これは、実践的に押してだめだったというとき、他の方法として「引く」ということを試してみたらどうだというような指針を与える発想法として捉えることが出来る。弁証法なども、今はある側面から対象を見て、その解釈の元に実践をしているけれど、一度全然別のほうからそれを見て、その解釈の元で実践をやり直してみたらどうだというような発想を与える。ことわざが科学法則なら、押してだめなとき、引いたら必ずうまくいくというような法則でなければならない。しかし、ことわざというのはそのような法則ではない。ある時はそれがうまくいくけれど、ある時はうまくいかないということが前提としてあって、具体的な今の状況は、それがうまくいくかどうか分からないので、とりあえずは試行錯誤してみなさいというときに役立てることが出来る。弁証法も、常に成り立つ法則ではない。小幡さんが語るバブルの解釈も、具体的な結果を解釈するには説得力があり、これからの経験では、うまくいかなかったときの発想の転換に役立つような法則性ではないかと感じた。人間の意志が関わる法則性の中で、小室直樹氏が語るような「疎外」という現象が抽象できるようなものは、科学としての考察の対象になるだろうと思う。つまり、それは個々の人間の意志の多様性はあるものの、全体として集団的意志は法則性を持つ・個々の人間の意志からは独立してその法則性を考察できるものになるだろう。しかし、「疎外」という形に抽象できない、個々の人間の意志の自由の具体相が捨てられないものについては、それは科学の対象にはならず、一つの発想法として抑えたほうがいいのではないかと思った。それは、現象論から実体論への抽象が出来ない法則性なのではないかと思う。小幡さんが語っていたことの中で、「バブルは避けられない」ということが印象に残った。バブルは、結果としては最後に売り抜けなかった運の悪い人が大きな損害を受けて終わる。そして、運が悪かった人の多くは、まじめで善良な人が多いようだ。まじめで善良であるがゆえに、権威ある情報をそのまま信じ、バブルがはじける直前にそれに参加してしまうようなことがある。人が損をしても、その分自分が儲けようとする人間は、バブルのはじける時期を敏感に感じ取って逃げ切るのではないかと思う。少しくらい悪人であるほうがバブルで儲けることが出来るだろう。最も頭がよく悪い人間は、バブルを仕掛けて儲けようとする人間だろう。バブル現象は、それを望む人間が多数いるので、おそらく今後も繰り返し起こるだろうと小幡さんは語っていた。これは、個別・具体的な対象に関する言明ではないので、科学的な法則性として考察できるのではないかと思う。そして、バブルの必然性がもし法則性として成立するなら、バブルをなくすための制度的工夫をしても「しょうがない」ことになるだろう。必要なのは、バブルが大きくならないようにするための歯止めと、バブルが起きてしまった時は、それはいつかはじけるのではじけた後の救済が重要になるという。バブルが大きくならないための歯止めが可能であれば、被害が生じたとしてもそれを小さいものに抑えることが出来るだろう。そして、運悪くバブルが生じた時は、もっとも善良でまじめな人々が一番の被害者になるという点では、やはり救済が必要だろうと思う。このような歯止めと救済は個人で出来るものではない。制度を担う、権力をもつ側の人間が行うことになるのではないかと思う。これらの人間には、個別・具体的な対象を越えた、一般的・普遍的な科学的な真理というものの認識が不可欠になる。そうでなければ、社会一般の秩序に関わるような問題の解決が出来なくなるだろう。科学は、個人的な利益を超えたところで、その有効性が発揮される。法則性の認識においても、それが自分の利益につながっている法則性なのか、社会一般の利益なのかという観点が重要になるのではないかと思う。
2007.09.09
コメント(0)
小室直樹氏は、モデル理論としての経済学について『資本主義原論』(東洋経済新報社)の第2章で説明している。このモデル理論というのは、現実の経済現象を単純化して、本質的であろうと考えられる部分を抽象(末梢的な部分を捨象)して、現実の対象そのままではない抽象化された実体を対象にして理論を構築するものだ。本質的なものと末梢的なものを現象を集めた現象論的段階から判断し、抽象的な実体を立ててそれを考察するので、三段階論で言えば実体論的段階に当たるものではないかと思う。ただ、この本質の抽象に関しては、理論展開を容易にするための単純化という要素も入っているので、現実にはよく見られるような部分でも、それをそのまま取り入れて理論化しようとするとあまりにも複雑になる場合は、理論構築のためにあえて捨象するということも出てくる。これは数学によく似ているようだ。幾何学などでは、その対象としての直線は幅を持たないものとして抽象化されている。これは現実にはあり得ないのだがそのほうが理論構築が容易だということで、そのように実体化されている。この数学が現実に応用される場合は、直線の幅が実際にはあったとしても、それが誤差として捨てることが出来れば何ら問題なく応用できることになる。モデル理論としての経済学も、捨象した部分が例外的なものとして処理されるなら、理論そのものは抽象的で現実にはあり得ないものであっても、現実への応用が十分有効になるだろうと思われる。モデル理論としての経済学は、理論展開のための前提条件をいくつか持っている。その前提条件によって、このモデル理論が対象にする実体を抽象的なものとして設定する。その前提に合致するもののみを対象にするわけだ。これは、ある公理系を満足するものだけを対象にして展開する、数学における「ペアノの公理的自然数論」などによく似ている。このような理論の展開によって導かれる法則性は、現実の現象から得られるものと言うよりも、その前提条件から論理によって導かれるものと言ったほうがいいだろう。つまり、モデル理論における法則性は、現実を対象にした科学的法則性ではなく、数学のような論理法則であると理解したほうがいいだろう。現代経済学が数学の一分野のように感じるのは、このような特徴があるからではないかと思われる。論理法則と科学法則の違いは、現実を対象にした「仮説実験の論理」による証明が必要かどうかにかかっている。論理法則は、「仮説実験の論理」なしに、論理の基本原則に反しないのであれば、論理的に正しいということは個人の頭の中で考えるだけで普遍性を獲得する。論理的に正しいことは、誰が考えても正しいことが保証される。言葉を変えれば、論理的に正しい考え方をしない限り、合理的に思考を進めることが出来ないということだ。非合理に、つまりそれが現実に合っていようがいまいが、自分の都合に合うように考える限りでは論理は必要ない。論理は、現実が合理・すなわち因果関係の説明がつくように解釈できる理解をするときには絶対的に必要なものになる。そして、論理がそのように現実の因果関係を説明できるということは、論理が最も高いレベルの抽象による対象の捉え方における本質論を展開しているからだろうと考えられる。論理も、現実の合理性を語っている限りでは、現象論的段階を持っているはずなのだが、論理の対象は実体として設定する段階で現実の個性をすべて捨象してしまう。論理の対象とする実体は、それが存在しているという属性を持っていればなんでもいい。そして、肯定か否定かという言明だけが問題になり、その内容の個性は捨象される。論理は、出発点においては現実を対象とするにもかかわらず、実体論的段階で現実を捨象できるので、現実との対照抜きにその真理性が問題にできる。三段階論における実体論的段階とは、対象の一部を現実的な属性としては捨象するために、その限りで論理学の一部のように展開できるということなのではないかと思う。そこでは、とりあえず現実を無視して、論理のみに注目して考察を進められるのだろうと思う。そして、完全に現実を無視したまま最後まで行けるのが形式論理であり、その一部になる数学なのだろうと思う。現実性をすべて捨象できない諸科学においては、捨象できない現実性が関係する部分で「仮説実験の論理」によって、現実との結びつきが証明されたとき、その法則性は科学的真理としての資格を獲得する。その法則性が主張する命題において、現実の対象が本質的にその命題の条件を満たす・つまり現実的には条件を揺るがすような要素があったとしてもそれが例外的なものとして誤差として処理されるというとき、まだ未知なる現象であったとしても、その法則が成立して予測が正確に当たるということが見られるようになる。未知なる対象に対して、その法則性が成立することを見る実験を行うことが、「仮説実験の論理」として科学的真理の証明をすることになる。小室直樹氏は、この本の中で資本主義の法則として「需要・供給の法則」を挙げているが、これが完全に実現するのは「自由市場」という条件が満たされているときであることを指摘している。「自由市場」は、現実にはまだ実現されていないもので、その意味では抽象的モデルとしての経済学の中でのみ見られる実体で、現実にはあり得ないものとして設定されている。この「自由市場」が、現実の市場においても、その個性の一部分が捨象されて誤差として処理できるなら、自由市場としての性質だけが本質として残ると考えられる。そう捉えることが出来れば、このモデル理論は現実に対する有効性を獲得する。「需要・供給の法則」というのは、論理的な側面だけを考えると簡単な法則性だ。需要が大きくなれば、物は売れるのであるからそれを供給しようとする人が増える。しかし、供給が大きくなると、それを買いたい人の数を上回ることになり、売れ残りを抱えた人が供給から撤退するということが起こる。そのように需要と供給の変化をした後に、需要と供給が一致する点で経済的な交換の現象が落ち着くという法則だ。これは「自由市場」という条件がなければ完全には実現されない。小室氏が語る「自由市場」の条件は次の4つだ。1 同質性2 多数性3 完全情報4 参入・退出の自由これは、細かく見ていくと難しい問題なのだが、これらの条件がすべて満たされなければ、そこに市場の個性が出てきて、その現実の市場を「自由市場」として抽象することは出来なくなる。そうすると法則性として、「自由市場」ならいつでも成り立つ「需要・供給の法則」は、その個性を持った市場では、その個性ゆえに成り立たないことが考えられる。例えば、「同質性」で説明されているものは、客の差別をしないということなのだが、ご贔屓の顧客を持っているという経済状況では、そのご贔屓の客のみを対象にして商売をするということも考えられる。このような経済現象では、必ずしも「需要・供給の法則」が成り立たなくなるかもしれない。また、多数性という条件では、商売人も客も十分多数であることが前提とされているが、独占的に商売をしている場合では、その独占者が商品を調整することによって、需要と供給の法則が成り立たなくなる。完全情報というのは、客のほうが商品を選ぶときに、その選択に関する情報が完全に与えられているということだ。だまされてひどい商品をつかまされると言うことがない状況だと言えるだろう。そうであれば、客はよい商品を常に選ぶことになり、需要と供給の法則が成立することになるだろう。逆に言えば、情報が操作されるところでは、本来は需要が生まれないところに需要が生まれ、法則性が壊れる・あるいは他の法則性によって経済法則としての「需要・供給の法則」が阻害されるということが起こるだろう。参入の自由がない場合などは、そこに需要がたくさんあったとしても、独占的に提供しているものを消費者は選ばざるを得ないため、需要はあるのにそれを消費しないということも起こるだろう。「需要・供給の法則」が成立しなくなると思われる。マル激などでは、放送業界の参入の自由のなさがよく語られるが、これによって質の高い放送が生まれる可能性が低くなり、放送の消費者である視聴者は、どんどんテレビから離れていくということが起こるのではないだろうか。あるいは、仕方なく見させられている状態が続くということになるのだろうか。この前提条件は、現実に満たされることはなかなか難しい。そこで、モデル理論としての経済学は「非現実的」だという非難を受けることが多いらしい。しかし、この条件を設定して、理論の対象を実体化すると、理論の展開は形式論理としては容易になる。これが実体論的段階においては大切なのではないかと思う。まずは原則的な理論を立てておいて、現実の具体的な対象に関しては、その原則的な理論の実体からどの程度はずれているかを考察して応用を考えるという方向こそが、理論の発展の健全な姿なのではないかと思う。小室氏に寄れば、インターネットの発達が、現実の市場を、上のような経済学のモデル理論の実体である「自由市場」に近づけつつあると言う。市場の個性が、「自由市場」が語るものにだんだんと近くなっているそうだ。「自由市場」の条件から外れる部分が、例外的なもの・誤差として処理できるような段階になりつつあると言う。もしそうであるなら、経済学理論はようやく実体論的段階の理論の証明が現象論的段階で行えるようになってきたと言えるのではないだろうか。経済学という科学において、「仮説実験の論理」による検証ができそうな時代がやってきたということだろうか。資本主義社会において正当に金儲けをするには、経済法則に従って利益となるように行動しなければならないだろう。しかし、「自由市場」の4つの条件を隠して、どこかに不当な利益が生まれる要素を残して金儲けをするなら、経済理論はまだ現実に完全に適用される段階にはならないだろう。経済理論の正当性が大衆的なものになるような教育が実現すれば、「自由市場」も現実化するかもしれない。しかし、そうでない間は、どこかの頭のいいやつが現実の盲点を突いて、人をだましながら(悪いことをしながら)儲けるという時代が続くのかなと思う。果たして、経済理論の正しさを万人が納得できるような教育が実現する日がくるのだろうか。来て欲しいとは思うが、大きな困難も抱えているだろうなというのが率直な感想だ。
2007.09.07
コメント(0)
小室直樹氏が『資本主義原論』(東洋経済新報社)という本で、資本主義に関する法則性を語っている。これは、今まで考えてきた三段階論的な意味での法則性とややニュアンスが違うのを感じる。この違いをちょっと考えてみたいと思う。小室氏は、見出しとしてもそのものズバリの「経済には法則がある」という第一章の文章で、「市場には法則がある」ということでこの法則性を語っている。今まで考えてきた法則性は、具体的な現実存在の属性として観察できるものを出発点として、現象論的段階から実体論的段階を経て本質論的段階に発展していくというものを見てきた。法則性としては、具体的に対象がどうなるかということを語るものだった。しかしここで小室氏が語る法則性は、具体的な存在がどうなるかということを語るものではない。むしろ具体性が捨象されて、法則性そのものが「存在する」か「存在しない」かということを語るものになっている。対象に関する法則性ではなく、法則性そのものに対する言及になっていて、「メタ法則性」とでも言いたくなるような一段高い視点からの法則性の捉え方になっている。このメタ的な視点というのは、具体的な法則性を考察する際の前提として確認されるものになるだろう。法則性が存在するからこそそれを考察することに意味が出てくるわけだ。もし法則性が存在しないのなら、存在しない法則性について、それが成立するかどうかなどと考えるのは、矛盾を出発点にして展開する形式論理と同じことになる。そのような前提のもとでは、形式論理はどんな命題であっても証明可能なものになる。存在しない法則性について語ることになれば、どのように荒唐無稽な結論であろうとも、論理的に引き出すことが出来てしまう。小室氏が語る法則性の存在は、理論展開の基本に据えなければならないものだが、存在すると判断するためにはどのようなことが必要だろうか。これが意外と難しいのではないかと感じる。例えば、法則性が持つ「必然性」という性質に対して、それと対立する「偶然性」という性質があれば、そこには法則性がないと判断できるかといえば、そこには「確率法則」という法則性を見つけられるとも考えられる。確実にこのようなことが起こる、ということは一つの法則性として容易に捉えられるが、そのようなものはなく、絶対的に偶然であるということも「絶対的」という点では一つの法則性として捉えられる。10本のくじの中に当たりが3本あるとき、これが、誰かに絶対に当たるという法則性はない。しかし、どの人にも等しく3/10という確率で当たるという法則性はある。偶然性というのは必然性と対立する概念ではあるが、そこから「法則性がない」という判断は出来ない。偶然性の中にも法則性があるとすれば、法則性はあらゆるところに見つけることが出来て、ことさらそれを主張するほどのことではないのではないかとも思える。しかし、法則性が存在しない対象というものもよく考えれば見つかる。だから、法則性の考察をするには、その対象の特徴をつかんで、法則性が存在する対象のみを考察の対象にしなければならない。小室氏が判断の基準にしているのは、その対象が、人間の意志の自由によって恣意的に操作できるものになっているかどうかということだ。恣意的に自由にできるものであれば、そこには法則性はないと判断する。しかし法則性が存在すれば、それは人間が自由にどうにでもできるというわけにはいかない。どれほどある方向に行って欲しいと望んでも、どの方向に行くかが法則性によって決定される時は、人間の願いは裏切られる。恣意的に自由にできるかどうかに、法則性の存在の判断の基準を置いていると考えられる。この基準で「市場」というものを見ると、それはどれほどこのようになって欲しいと人間が働きかけても、その願いを裏切って市場が展開するということが、現象論的にいくらでも観察することができる。「市場」は人間の自由になる対象ではない。だからそこには法則性があるのだという判断をするというのが小室氏が語る法則性だ。人間の意志の自由にならないものとしては、意志から独立に存在すると考えられている客観的な物質的存在というものがある。これを対象にするのは自然科学と呼ばれるもので、この対象に法則性があると考えられるのは、それが人間にとって、恣意的に自由に操作できないということから判断される。恣意的ではなく、ある法則性に従って操作しなければ役立てることが出来ない。恣意的な自由ではなく、ヘーゲル的な意味での自由の獲得に法則性というものが関わってくる。自然科学の対象は、意志から独立していることが現象からはっきりしているので法則性の認識も持ちやすい。しかし、人間の行為が関わってくる対象では、人間の恣意的な意志が現象を左右するような感じも受ける。意志から完全に独立しているわけではない社会的な現象が、なぜ人間の意志の自由にならずに法則性の存在が主張されるのか。そこに「疎外」という考え方の重要性を小室氏は指摘する。対象に対する実践的な影響が、完全に個人的なものであれば、それは恣意的な自由の下に操作できるものになる。例えば、ある芸術作品に感動するかどうかは、まったく恣意的に自分の心の従うままに、感動したと思えれば感動するし、そうでなければ感動しないというふうに、どちらを選ぶのも自由だ。個人という個体の振舞いに関しては、どのように振舞うか結果を見なければ分からない。その意味で個人の振舞いに関しては法則性を立てることが出来ない。常に同じ振舞いをする習慣を持っている人間であっても、その習慣を破る意志を持って、実際に習慣に反する行為を行う自由をもっている。だから、習慣という、法則性に似たような現象も、個人の行為というものにおいては法則性として認識することが出来ない。それは予測が確定しないという意味で法則性にならないのだ。個人的行為に関しては恣意性を入れる余地がある。しかし、この個人が大量に集まったときに、その集団的な現れ方は、個人の恣意的な自由では集団的な動きを思い通りには出来ないことがある。ここに「疎外」というものを見る視点が存在し、「疎外」として個人の意志とは独立して動くように見える社会現象は、意志の自由にならないという点で法則性が認識される。小室氏が語る「市場には法則がある」というときの「市場」は、多くの人が集う集団的なもので、個人の振舞いには法則性を見つけられないものの、集団として個人の自由にならない面を持っていることから、その側面に法則性を見つけることが出来る。一定量の集団が法則性を持つということは一つの「確率法則」として捉えることも出来るだろう。それぞれの個人が恣意的に振舞っていても、それが一定量の集団になると、集団としてはある法則的な動きをするという認識だ。小室氏に寄れば、日本の経済官僚は「市場には法則がある」ということを理解していないために、さまざまな政治的な規制をして、市場をコントロールすることが出来ると考えているように見えるらしい。しかし、このコントロールは、法則性を理解して、それに従ったものではないので、たいていは願いを裏切られる。法則性の認識を高めるには、現象論的段階の情報をたくさん集めて、まずはそこを徹底させなければならないのだが、規制をかけて市場をコントロールしようとすれば、ある条件の下での市場の情報しか得られない。これは、市場一般の法則性を求める現象論としては不十分である。実体論的段階に発展するような現象論的段階を通ることは出来ないであろう。市場の現象論的段階を通り抜けるには、ある程度の自由を認めて、市場の現象を出来るだけ多様な側面から集める必要があるだろう。市場の法則性を確立するには、市場に集う個人が自由にふるまうということも重要になる。資本主義が自由主義と呼ばれる所以もこのようなところにあるのだろう。また、日本経済が社会主義的だと言われてきたのも、市場をコントロールできると考えて、国家権力がそれを規制してきたからではないかと思われる。日本経済は、高度経済成長を見せて一時期成功した時代があった。これは、ある種のコントロールがたまたま法則性に一致して利益をもたらしたと解釈したほうがいいのではないかと感じる。その後の衰退を見ると、たまたま法則性を捉えた日本経済のコントロールは、条件が変わってしまったために、法則性に反した方向へ行っているようにも見える。これを深く分析すれば、もしかしたら経済法則の一つが解明できるかもしれない。実践的な有効性というのは、経験と勘でかなりうまくいく場合がある。それは、法則性の認識がまだ弱い時は、たまたま自分が取った方向が法則性と一致していたということで成功をもたらすことになるのだろう。個別的な行動においては、それが成功するかどうかは偶然性に左右されることが多い。うまくいったときというのは、それがなぜうまくいったかということを完全に説明することは難しい。どの要素が最も重要かという解釈はどのようにも出来てしまう。うまくいっている時は、その法則性は迷信のようなものでも信じられてしまうだろう。たまたま家を出るとき右足から出たときにいつもヒットが出ていたという野球選手は、右足から家を出るとヒットが出るという法則性を信じてそうするかもしれない。これは、実体としては何の関係もないものを結び付けているので、おそらく間違った法則性だが、成功しているときはその法則性が信じられる。しかし、その法則性で失敗をしたときには、法則性の認識としては一つ進歩していく。なぜ失敗したのかという考察のほうが、法則性をもたらす要素に対して正しい評価が出来るようになる。小室氏が「失敗学」というものを重要なものとして指摘するのは、法則性の認識は、成功した経験よりも失敗した経験のほうから深いものが生まれるという理解からそう主張しているのではないかと思う。小室氏は、市場の法則性として「淘汰」というものを語っているが、それに伴って「失業」や「倒産」の必然性についても語っている。「失業」や「倒産」は、結果的には個人にとって悲惨なものをもたらすので、それがないように工夫しようという発想が生まれる。しかし、「淘汰」というものを法則性として捉えると、「失業」や「倒産」によって淘汰の法則性を変えようとすれば、市場の法則性に反した行為になる恐れがある。「失業」や「倒産」は、その結果として起こる悲惨さを防ぐような工夫が必要なのであって、それが起こることそのものをコントロールしようとすれば、市場そのものの健全さが失われる。これは、法則性というものを認識していなければ出来ない判断だろう。短絡的な理解では、「失業」や「倒産」は、資本主義の下では「しょうがない」という判断のように聞こえる。失業者や倒産した企業は見捨てられるような言い方に聞こえるかもしれない。しかし、それはある程度想定済みで、その結果に対してセーフティネットを構築するということで市場に対していなければならないのではないかと思う。「失業」や「倒産」は悲惨だから、そのものをなくしてしまおうと考えるのは、法則性そのものの判断からは間違いなのではないかとも感じる。悲惨だからないほうがいいと考えるのは、法則性の判断と言うよりも、恣意的な願いからくるものだと言える。法則性が存在する対象においては、このような願いという主観を優先させた判断は間違いに結びつくのではないかと思う。悲惨であっても、その存在が法則性から導かれるものは、存在は「しょうがない」ものとして受け止めなければならない。そして、対処すべきは、その悲惨さが現れたときに、結果的にどうするかということだ。それが生じないようにする工夫は、法則性に裏切られて、さらに大きな悲惨をもたらすことになるのではないかと思う。法則性が存在する対象が、結果的にもたらす悲惨さというものを、法則性という観点から考えてみたいものだと思う。
2007.09.06
コメント(0)
僕は以前には左翼だと思われていたので、権力に対しては悪だと決め付けているのではないかと思われていたふしがある。いわゆる左翼にはそういうイメージがあるのだろう。しかし、僕は左翼的なものとのかかわりはあるが、それと深くコミットしたことはない。組合は左翼といえば左翼だが、僕はその活動からはいつも一歩引いて眺めるような人間だった。左翼的な活動は、社会主義国家がそうであったように、全体主義の匂いを感じるのである種の生理的な嫌悪感があったからだ。その活動を正しいと思っている人間は、他人がどう感じようとその活動を押し付けるのが正しいというような雰囲気を感じていた。状況によっては、その判断が必ずしも正しいと思えないようなことであっても、個人のそのような判断を認めず、組織が決定したことには無条件に従うことを求めてくるのは、体制的な組織よりもずっと強い押し付けがあって、全体主義的な傾向が強いと思ったものだ。これは、正義を実現しているという自信からくるもので、その自信が、論証抜きの形而上学になっているところが、一歩引いて眺めたくなる要因だった。この左翼にとって「権力は悪だ」という命題はほとんど自明だともいえるものではないかと思う。これは、左翼にとって権力は常に弾圧するものとして登場してくるからだ。左翼を大切にして仲良くしてくれる権力というのは形容矛盾になってしまうだろう。左翼という立場にいれば、権力は常に損害を与える存在であり、損害を与える相手を「悪」と呼ぶなら、権力は常に悪であることは確かだろう。左翼にとって権力は悪だということは例外のない常に正しい判断になる。これはある種の法則性のように見えるのだが、三段階論で考察できるような法則性ではないように僕は感じる。「悪」という概念には客観性がないと思うからだ。左翼にとってという一つの視点・立場から見れば常に悪かもしれないが、その視点をずらして他の視点から権力を眺めると、その「悪」という判断が必ずしも成り立たなくなる。例えば警察権力というものを考えると、左翼でない人間にとっては警察というのは、犯罪に巻き込まれたときに助けてくれる存在として現れるのが普通だ。決して日常的に弾圧する存在として現れたりはしない。これをもっと深く考察すれば、その本質は「悪」なのだという判断があるかもしれないが、現象論的には必ずしも「悪」ではないという現象はいくらでも見つけることが出来る。この現象を例外として処理することは難しいだろう。むしろ損害を与える「悪」として権力が対峙するという方が例外的なものになるのではないだろうか。左翼にとっては一般的だった、弾圧するものとしての権力は、一般民衆にとっては必ずしも弾圧する主体ではない。そもそも「悪」という判断は、その判断をする主体のほうに判断の要因があるもので、対象にそのような属性があるのではない。権力が「悪」という属性を持っているのではなく、権力に対峙する立場や状況が、それをどう受け止めるかという判断をする主体に、「悪」であるかどうかということを感じさせるものだ。だから、当然個体が違えば、その判断が違ったものになる可能性がある。立場が違えば視点が違うので、「悪である」という判断と「悪でない」という矛盾した判断が、二つとも成立するという弁証法的な性質を見つけることが出来る。同じ個体がこの二つの判断をすれば形式論理的な矛盾になるが、違う個体の判断であれば、これは形式論理的には矛盾せず両立する。「悪」という判断は客観的なものではなく、主観的なものであるから、客観的法則性の発展段階を語る三段階論の考察の対象にはならない。それは主観としては、どう感じようとその人の自由だということになる。思想・信条の自由の部類に入るものだろう。左翼的立場というのは、運動という観点では非常に重要なものだと思う。運動というのは、損害を受けているという当事者が立ち上がって主張しない限り、当事者でない人・すなわち直接的な損害を受けていない人は、わざわざその損害の回復を訴えるということはしないだろう。左翼的立場は、ある種の損害が社会の中に存在するということを知らない人々に、それがあることを知らせるという運動を起こすという点で重要なものだと思う。だが、これは客観的真理を語る立場ではないということを自覚しなければならないだろう。それは、あくまでも自分がよって立つ立場からの主張であって、誰もがそれに賛成するような客観的な真理を語るものではない。左翼的立場は、一般通念に対するカウンターとしての意味はあるが、それがそのまま真理だと思い込めば、それは形而上学的になるだろう。萱野稔人さんは、「権力は悪だ」という立場からの判断をする前に、権力そのものがどんなものであるかという客観的な対象としての属性を考えることがまず必要ではないか、とマル激で語っていたように記憶している。萱野さんも左翼だと言われているそうだが、これは左翼としては画期的な発言ではないかと思う。自分たちの立場をとりあえず括弧の中に入れて、より普遍的な判断のほうをまず求めようという姿勢だ。このような姿勢を少しでも見せようとすると、かつての左翼陣営では「敗北主義」などと呼ばれたのではないかと思う。しかし、今の時代は、かつて左翼全盛だった時代ほど、人々の立場は単純な二項対立に還元されるものではなくなった。自分たちの立場を押し付けるだけでは、運動の支持そのものがもはや伸びなくなってきているともいえるのではないかと思う。同じ立場に立つものは共感するけれども、そうでない人間にとってはまったく無関係なものとして運動が見えてきてしまうだろう。このような時代は、単純でわかりやすい主張がポピュリズムを獲得すると、運動などまるで無関係に人々はそちらのほうへ流れる。小泉劇場と呼ばれた一連の政治的な現象はそのようなものを表しているだろう。左翼的な運動が衰退したのは、多様性を帯びてきた社会のさまざまな立場を受け止めることが出来ず、旧態依然的な全体主義で運動を強引に推し進めようとしたことを変えられなかったことにあるのではないかと思う。「権力は悪だ」という命題は、客観的判断にならないので三段階論的な発展をしない。これは、現象論的段階を徹底させて、「権力は悪ではない」という現象をたくさん集めて深く検討することで、これを先入観として判断するという形而上学を免れることが出来るだろう。三段階論は、その法則性が発展をしないということも教えてくれるのではないかと思う。三段階論が発展の方向を示唆するような法則性は、あくまでも客観的な法則性で、対象そのものの属性として考察することの出来るものでなければならないだろう。自分の感性による判断から導かれる法則性は、現象論的段階で否定され、実体論的段階への発展はないに違いない。「権力は腐敗する」という命題もよく聞くものだ。これは「腐敗する」という判断が、主観に依存する判断になるかどうかで、客観的法則性として成立するかどうかが決まってくる。腐敗すると感じたから腐敗する、という判断をしていればそれは客観的法則性にならない。腐敗するという状態が、誰が判断しても同じ・つまり肯定判断も否定判断も、個人の感性に寄らずに判断できるような定義が出来れば客観性を獲得する。今の自民党政権を見ていると、閣僚の不祥事があまりにも続くので、その腐敗ぶりは自明のように見えるのだが、この「腐敗」は客観的に定義できるものになるだろうか。お金の問題にしろ、選挙違反の問題にしろ、共通するのはある種の不正を働いたということだ。この不正は、個人的に自分がそう感じたから不正だというよりも、やはり客観的に不正であることに誰もが賛成するということが言えそうだ。この不正は、公と私の混同というものになるのではないだろうか。権力を行使する立場にいるものは、現代民主主義社会では公の立場に立つ者たちだ。かつての封建主義社会であれば、そんなものを考えることなく、恣意的に権力を振るうことが出来ただろうが、現代民主主義社会ではそういうわけにはいかない。公の立場と私の立場とを区別する基準を立て、私の立場の利益のために公の立場を利用するということが不正ということの定義になれば、公と私の立場の区別いかんが客観的に出来るかどうかが、不正という判断の客観性を支えることになるだろう。そして、この客観性が成立するようなら、「権力は腐敗する」という命題が、法則性として成立するかどうかが三段階論的に考察できることになる。権力は、そのシステムの中に、腐敗を育てるような実体を含んでいれば、この命題を実体論的に考察することも出来る。とりあえずは、現象論的に見ると、どんなに優れているように見える人物でも、権力の座に長くいると必ず腐敗が見られるように現象を整理できるのではないかと思う。スターリンや毛沢東も、革命の初期にはその優秀性が誰にも認められていたのではないだろうか。しかし、晩年にはその腐敗ぶりが語られていたようにも感じる。板倉さんが語っていたことだと思うが、社会主義国の腐敗の象徴のように言われたルーマニアのチャウシェスクという人も、権力の座についた最初はおそらく有能な人だったのだろうと思う。その有能な人が腐敗していくのは、有能ゆえに権力に座について、その権力が周りの人間の追従を招くというふうに、板倉さんは解釈したように記憶している。本人がよほど厳しく自分を律しておかなければ、周りが、権力の座にいる人間にいろいろな利益を持っていくように働きかけてしまうということだ。この利益が、公の立場を離れたものになれば腐敗が始まる。封建主義の時代である江戸時代には高い役職にいる人間が賄賂を取ることは普通のことで、むしろ役得は正規の収入の一つのように考えられていたという話を聞いたことがある。権力が上の立場にあると、下の立場の人間が、自分の利益のために権力者に利益を提供するというのは、システム的に必然的に発生してしまう要素があるのかもしれない。この場合、実体としてその運動をまわしているものは何になるだろうか。教育の世界でも、出世あるいは何らかの利益のために、権力のある側に付け届けをするという習慣はかなりあったようだ。このような習慣は、個人が主観的にそれが大事だと思って行動しているだけなのか、それとも個人ではばかばかしいと思いながらも、そうせざるを得ない何かの力によって行われているのか。何かの力がそうさせているなら、その何かが実体として立てられるものになるだろう。「権力が悪だ」というのは客観的法則性としては成立しないように見えるが、「権力は腐敗する」というのは、客観的法則性として成立するように見える。「権力が悪だ」といって非難するのは、理論的にはあまり意味がないように見える。しかし、「権力が腐敗する」といって、腐敗の具体的実態を批判し、どうすればその腐敗が防げるかを考えるのは理論的に意味があるような感じがする。理論的ということを考える際には、三段階論的に展開できるかどうかを考えることがいいのではないかと思う。今週のマル激では、マイケル・ムーアの「シッコ」という映画をめぐって、そのプロパガンダ性が議論されていた。この映画は、プロパガンダとしては意味があるだろうが、ドキュメンタリーというある意味での芸術性を考えると、それは低い評価にならざるを得ないという議論だった。これは、「権力は悪だ」といって非難することで、気分をすっきりさせるという溜飲を下げるという効果を評価するかということでもある。ドキュメンタリーとして評価するなら、「権力の腐敗」という普遍性の面を見させるような工夫が必要だということでもあるのかなと感じた。
2007.09.05
コメント(5)
萱野稔人さんの『権力の読み方』(青土社)という本は、読み方によっては法則性をたくさん読み取ることが出来る、法則性の宝庫のような本だ。だが、この法則性をよく見てみると、それは法則性を利用してある言葉の定義をしているようにも見える。この法則性を語っていると思える文章を、ある言葉の定義と考えると、その法則性は実は論理法則としてのトートロジー(同語反復)を語っていると解釈することも出来る。萱野さんは、話の出発点として「権力」の概念について語っている。これは、「権力」というものを論じようとしたとき、その意味(概念)が違っていたら、論理的な帰結が違ってしまうので、それをまずはっきりさせようということだ。萱野さんは、ハンナ・アーレントを引いて「権力を手に入れる」ということを「一定数の人たちから、彼らに代わって決定したり行為したりする機能を与えられるということである」と語っている。これは、「権力」の概念として、多数を代表する行為が出来る源泉というもので捉えていることになるだろう。これは「権力」の概念を語るという受け取り方をすると、「権力」という言葉の定義をしていると解釈できる。しかし、その定義を支える・定義の正当性を保証するものとしての、ある法則性を語っているとも解釈できる。その法則性は、「権力をもつものは、一定数の人たちを代表して、彼らの代わりに決定する機能・権限を持っている」という命題で語れるだろう。ここで語っている命題を法則性として捉えた場合は、「権力」という言葉は、この法則性で語るものではない何らかの属性で定義されなければならない。もし、「権力」という言葉の定義を、この法則性と同じ表現をして、しかもこれが一つの法則性であることを主張すれば、それはトートロジー(同語反復)を語ることになるだろう。それは「はである」という表現と同じものになる。という言葉の定義が、例えばとされていれば、その暴力が、何らかの因果性を持って「一定数の人々を代表して、彼らの代わりに決定する」という行為を導き出すなら、それは法則性として解釈できる。トートロジーではなくなる。この場合は、現象論としては、が、確かにそのような機能・権限を実現しているかを観察することになる。そして、であるにもかかわらず、そのような決定に関与していない現象があった場合、それが捨象できるような例外であるかどうかを判断して、これが法則性として成立するかどうかの判断がされる。トートロジーであれば、それは現象を観察して判断をするというような、現象論的段階の考察は必要なくなる。トートロジーは論理法則として、言葉の上だけでそれが正しいことが直ちに知られる。同じ文章表現であるのに、ある視点からは定義と判断され、その場合は法則性を語るものとしては受け取られない。しかし、違う視点からは、それは法則性を語ったものとして、現象を観察することによってその法則性が成立するかどうかが考察される。これは、数学における公理と定理の関係によく似ているように感じる。数学における公理は、理論の出発点になるもので、証明の対象になるものではなく、他の命題の主張を証明するための基礎として設定されるものだ。ユークリッド幾何の公理は次の5つのものとして提出されている。1 勝手な点と、これと異なる他の勝手な点とを結ぶ直線は、一つ、そしてただ一つ引くことができる 2 勝手な線分は、これを両方へ望むだけ延長することができる 3 勝手な点を中心として、勝手な半径で円をかくことができる 4 直角はすべて相等しい 5 一直線が二直線に交わるとき、もしその同じ側にある内角を加えたものが二直角より小さかったならば、二直線はこの方向へ延長してゆけば、必ず交わる これらは、現実の観察抜きに・証明なしに正しいものと前提して、理論の出発点とするものである。1などは、観察によっても2点間を通る直線はただ一つしかないようには見えるが、それが「どんな場合であっても」そうなるかどうかは、原理的には確かめようがない。人間が経験するどのような場合でも、おそらくそうであろうが、これから経験するであろうすべての場合を含めて、完全にこの1の命題が成り立つかどうかは確かめようがない。その完全さを設定するのが数学だということになるだろう。しかしそれでも1などは、蓋然的にこの命題が成り立つとして、成り立たない場合がたとえ見つかっても、それは何かの間違いであるか・誤差として処理できると考えられる。つまり何らかの法則性を語っているとも考えられる。しかし、5の命題に関しては、その蓋然性を確認するのも難しい。後になってこの5の命題は、これと違う視点で平行を定義した場合、ユークリッド幾何とは違う幾何の世界が構築できることが分かった。つまり、非ユークリッド幾何と呼ばれる世界では、ユークリッド幾何とは違う法則性が成り立つことが知られるようになった。言葉の定義が違うと、その定義によって構築される世界は、法則性の違う世界として認識されるのである。萱野さんの「権力」の概念も、それを定義として理論の出発点にすれば、数学的な論理の世界が一つ構築され、そこでは論理的な法則性が導かれる。数学のように、形式論理の中での完結性を求める理論であれば、完結して矛盾さえなければこの「権力」論は完成だと言えるだろう。しかし、この「権力」論が、現実の「権力」現象を語ったものであると主張するためには、論理法則として展開された(これはある意味で実体論的段階といえるのではないか)理論が、現象論的段階でも妥当であると証明されなければならないだろう。数学ではない、現実を対象にした科学においては、それが社会科学でも自然科学でも、定義を支える法則性の認識が、現象論的段階に妥当するものであり、それが妥当するがゆえに現象論的段階を越えて実体論的段階という論理による展開が可能になるということが証明されなければならない。さて、萱野さんが語る「一定数の人たちから、彼らに代わって決定したり行為したりする機能を与えられるということである」という「権力」現象が現象としていつでも妥当だと主張できるものになるだろうか。これはかなり難しい問題のように感じる。その難しさは、「権力」という概念そのものを決定することの難しさに伴うものであるように感じる。ある現象が、「権力」の現れであるというのは、何か漠然と考えることが出来るが、それは誰が判断してもそうだと言えるほどの客観性を持っているかどうかという判断は難しい。表向きはまったく権力をもっていないように見える人が、実は強大な権力を持っていたということは、自分自身の経験でも思い出すことが出来る。「権力」の現象というのは、そのような場合「現象」として捉えることが難しい。しかし、そこに「権力」があるように見えないのに、その人物の言動は他の人々を拘束し、「彼らに代わって決定している」ように見えることがある。それは、解釈をすれば、正しいことをいっているから、他の人々は自らの意志でその正しさを理解して、その人間に言われたからそうするのではなく、自らの意志でそうしているだけだと解釈することも出来る。だが、その言葉に従うことに何か釈然としないものを感じ、それが自分にとっては不利益になるという判断もあるのに、それに従うというのは、そこにある種の「権力」を感じるのも確かだ。いやいやながらそれをしなければならないのは、それが正しいからだということで理解できるものになるだろうか。このような場合、その決定に、自らの意志で進んで従おうと、いやいやながらそれに従おうと、誰かが代表して決定するという機能を担っていて、その誰かが「権力」を持っているのだ、といつでも理解することが出来れば、論理としてはすっきりしてくる。「権力」とはそういうものなのだと解釈することにすれば、その解釈の元に「権力」の現象を構造化することが出来る。その世界での法則性の考察が出来る。萱野さんが語る「権力」の定義を、定義として妥当だと理解するのも、実は「権力」の現象がいつでもこの定義が語るような観点から解釈できるという現象論的段階を通ることによって本当の理解になるのではないだろうか。ただし、この場合は、「権力」という言葉の本当の意味が分からないままに現象を解釈することになる。何しろ、本当の意味は、萱野さんの定義を確定した後に初めて分かるものになるので、現象論的段階を観察している間は、何となく「権力」の現象だと思えるものは全部考察の対象にしなければならない。その現象の観察において、萱野さんが語るように「一定数の人たちから、彼らに代わって決定したり行為したりする機能を与えられるということである」ということがいつでも確認できるなら、これは「権力」の法則性としての妥当性を持っていると言えるだろう。また、これはどうも違うケースのように見えるという時は、それが例外として処理できるかどうかで、その法則性が確立するか、法則性としては否定されるかということが判断される。正しいがゆえにその決定に従うという人々の判断は正当なものだと思われる。しかし、それは現象的に見れば、その正しい決定を下す人の代表的な意見に従うようにも見える。そうすると、萱野さんが言う意味での「権力」がそこに働いていると考えなければならないのではないだろうか。これすらも「権力」と呼ぶことに何らかのためらいを感じる人は多いのではないだろうか。例えば、専門家が語ることはたいていの場合は正しいことを語っている。だから、専門家というのは、その専門家としての振舞いによって「権力」を行使していると言って納得できるだろうか。これは、そう捉えたいという気持ちも湧いてくるし、それも全部「権力」だと捉えたら、人間社会での現象は、ほとんど「権力」が絡んでしまうので、ことさら「権力」を考えることに意味があるのかという疑問も浮かんできてしまう。人間の行為が、ほとんどすべて「権力」の行為であるなら、その「権力」行為の正当性は果たして判断できるのだろうか。また、「権力」が人間にとって普遍的なものであるなら、誰かが誰かを支配するということは、人間にとって避けられない運命になってしまうような気がする。久間元防衛相ではないが「しょうがない」と言わなければならないものになってしまうのではないか。「権力」の現象論的段階は、現象論的段階としてもかなり難しいのではないかと感じる。しかし、それを正しく捉えられなければ、萱野さんが語る定義の意味を本当に理解することは難しいのではないかと、そんな印象を持ってこの法則性を僕は読んだ。
2007.09.04
コメント(0)
マルクスは、『資本論』冒頭の部分で商品の価値(=交換価値)を分析している。そこには 1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄という等式が書かれている。これは、板倉聖宣さんが語っていた等号(イコール)の弁証法性で解釈すると分かりやすい。等号というのは、形式論理で言うところの同値律(A=A)を表すのではなく、違うものであるが、ある視点からは同じとみなすことができるという<A=B>を表すものとして受け取るのが正しい。違うものが同じだという弁証法性を理解することが等号の正しい理解になる。マルクスの等式では、使用価値としてはまったく違う、物質的存在としては違うものである小麦と鉄が、その価値の量(大きさ)においてイコールになるということを表している。ここで同じとみなされているものをマルクスは「価値」と呼んでいるといってもいいだろう。ここで語られている法則性は、価格という形で現象が観察される商品に対し、「同じ価格の商品は同じ「価値(=交換価値)」を持っている」と言い表せるだろうか。それは、物質としては違うが、価値という尺度では同じものとみなすことができるという法則性になる。この法則性は、「価値」という言葉が、価格とは独立に定義されている時は法則性として意味を持つ。しかし、同じ価格で表現されている、商品の属性をまさに「価値」と呼ぶというような定義をすると、「同じ価格を持った商品は同じ価値をもっている」という法則性は、同じ意味の言葉を繰り返しただけのトートロジー(同語反復)になってしまう。それは、論理法則ではあるが、現実の具体的存在に関する科学法則ではなくなる。法則性の理解をするとき、言葉の定義は非常に重要なものになる。その法則性が論理法則になってしまうと、それは三段階論として理解することが出来なくなる。論理法則には現象論的段階も実体論的段階もない。形式論理が提出する基本法則から推論という手順を経て生成されるものであれば、それは正しいものと判断される。論理法則においては、本質論的段階しかないと言ってもいいのかもしれない。トートロジーは、もっとも基本的な論理法則なので、推論を経ずともその正しさは保証される。さて、マルクスは、価格によって表現されるこの商品の価値に対して次のように語っている。「交換価値は、さしあたり、ある種類の使用価値が、他の種類の使用価値と交換されるところの、量的関係すなわち比率――時および所とともに絶えず変動する関係――として現象する。だから交換価値は、何か偶然的で純粋に相対的なもののように見え、かくして、商品に内的な・内在的な・交換価値なるものは、形容矛盾のように見える。」交換価値は、他の商品との相対的な関係から決定されるもので、商品の個体に内在するものとして捉えられていないという指摘だ。しかしこのすぐ後で、マルクスは商品に内在する固有の属性として、その商品に注ぎ込まれた抽象的・人間的労働という実体的なものを想定する。この労働の量が、商品の価値を決定するという法則性を提出する。商品に注ぎ込まれた労働の量が多ければ、商品としての価値・すなわち交換価値が大きくなるという法則性は、「価値」と「労働」という、まったく独立に定義できる二つの概念が結びつく法則性になるので、これはトートロジーにならずに、現実を対象にした科学的な法則としてその法則性を考えることが出来るだろう。抽象的・人間的労働という実体は、抽象化されたものであることを自ら語っている。これは、三段階論で言う実体論的段階の法則を考察することになるのではないだろうか。高い価値をもった商品を観察すると、それは質の高い労働が多量に注ぎ込まれた結果であることが多いのではないかと思う。簡単にすぐ出来るような商品は安くなるように見える。職人が長い間腕を磨いて作り上げたものは、大量生産できる、簡単な単純労働で作り出したものよりも高い。しかし、この法則の現象論的段階を考えてみると、この法則に反するように見える現象もあるのではないかと思う。ある種の商品は、信じられないくらい高かったり、信じられないくらい安かったりする。これらは、この法則性には反するように見える。注ぎ込まれた労働の量が少ないのに高い商品になったり、膨大な量の労働が注ぎ込まれているのに、それに見合った価格を持たない商品もある。これらは、例外的な現象として捨象することができるだろうか。これが捨象できなければ、マルクスが語るような法則性を、実体論的段階に進めることが出来なくなる。現象論的段階において、その段階を進めるための捨象ができなければ、その法則性はいつまでも現象論的段階にとどまる。注ぎ込まれた労働の量以上の価格がつくというもので頭に浮かんでくるのは、ある種のマニアを対象にした商品だ。切符マニアは、その番号に特殊性があれば、それぞれが同じ労働の生産物である切符でも、特定の切符の価値が高くなる。注ぎ込まれた労働の量は同じであるのにそのような現象が見られる。これは、一般化すると、特定の需要に応えるような商品は、それを手に入れたいと望む気持ちが強い人間にはいくらでも高い価格で売れるということになるだろうか。ダイエット食品などは、原価よりもかなり高い価格で取引される場合があるという。特効薬的な薬も、それを必要としている人間は、価格に関わらず手に入れたいと思うだろう。これらの特質は、一般的な「価値」を考える際には捨象できるものだと思う。法則性を考察する対象の「価値」とは、特殊な事情にある商品ではなく、社会に普通に流通している、ありふれた商品の価値を問題にする。特定の需要に応えるような商品は、普通にありふれたものではないので、それは例外的なものとして捨てることが出来るだろう。法則性にとっては誤差として処理できる。もう一つ、注ぎ込まれた労働の量に見合わないほど低い価格で取引される商品については、この法則性はどう解釈したらいいだろうか。例えば、今は衣料品はほとんどが中国製が日本へ入ってきている。それは、中国製のほうが価格が安いからだ。交換価値が、日本で生産したものよりも低くなる。それでは、この衣料品に注ぎ込まれた労働の量は、日本製のほうが質・量ともに大きいもので、中国製を上回っているのだろうか。かつては日本製のほうが、確かに製品としての価値が高いと判断されただろうが、今では遜色ないくらい、同じレベルの商品が中国からやってきているのではないだろうか。それでも価格が低くなるというのは、この法則性の例外的なものとして解釈することが出来るだろうか。これは、商品の価値を決定する労働というものが、抽象的・人間的労働だという点に解釈の余地を求めることが出来るのではないかと思う。具体的な労働としてみれば、中国製を作る労働も、日本製を作る労働も、質・量ともにそれほど変わりがなくなっただろうと思う。しかし、これが抽象化された人間労働になると、労働そのもののその社会における価値というものが、注ぎ込まれた労働が作り出す価値に関係してくるのではないだろうか。つまり、中国と日本では、労働の具体相は同じでも、その労働そのものの価値(これは労働者の価値=価格・値段と言ってもいいかもしれない)が違うと考えられるのではないだろうか。現象的には、中国と日本では、同じ仕事をしていても賃金が違うということだ。日本のほうが労働そのものの値段が高いので、それが注ぎ込まれた商品の値段も高くなると考えられる。このように解釈すると、労働賃金の低い国で生産したほうが、同じ商品であっても価格を低くすることができるという現象を、この法則がうまく説明できているように感じる。現象論的段階のさまざまな観察を、このように例外的だと思えるようなものの例外性を説明できるなら、実体論的段階で立てられた法則性は、現象論的段階を越えて一段高い法則性の認識になるのではないかと思う。この他、現象論的段階の観察で、この法則に合わないようなものが見つかれば、その時はまたこのようにその現象が例外として処理できるかどうかを考えることになる。例外として処理できれば、それは捨象できるものになり、実体論的段階の法則性は抽象度を高めてますます確実なものになっていくだろう。そして、その抽象度が最高のレベルに達したとき、「すべて」を対象にした法則性が得られ、それが本質論的段階へ進むのではないかと思う。商品に注ぎ込まれた労働の量が商品の価値を決定するという法則性は、現象論的段階を超えて確立できるものだと思われる。だが、この労働を、具体的な・実際に行われている労働だと解釈すると現象論的段階に戻ってしまう。この労働は、抽象的・人間的労働という、現実の世界には存在しないけれど、理論を進める上でフィクショナルに設定したものとして実体的な把握の対象になると考えたほうがいいと思う。ここで言われている「抽象的」という言葉の意味は、時間だけに還元される・量的な側面のみを抽象したという意味ではないかと思う。具体的に、どのような商品を作るかという、具体相を考察に入れるとそれは抽象的労働にならない。具体層は捨象されて、どのくらいの時間を注ぎ込んだかという、時間だけが問題にされる。多くの時間を注ぎ込んでいればそれは価値が高くなるというわけだ。また、「人間的」という言葉の意味は、個人とかかわりがあるという意味での「人間的」ではないと思う。むしろ、人間は社会を作って生きているので、「社会的」という意味での「人間的」ではないかと思われる。特定の個人の技量を考察に入れた労働ではなく、社会の平均的な労働者がこなすことの出来る労働という意味で、社会が大きく関わってくるのではないかと思う。だから、実際にはある量の労働を注ぎ込んだにもかかわらず、それが社会的な意味での労働の価値を失っていれば、ひどいときには商品の価値が0(ゼロ)になってしまう、ということも起こるのではないかと思う。そのような現象も、この法則性の例外的な現れとして考察できるのではないかと思う。この出発点の法則性が、資本主義の重要な法則性である、「失業」「倒産」「恐慌」などというものと、どのように複雑に絡み合って構造が認識できるかということが、資本主義を分析した『資本論』の理解につながるのではないかと思う。小室直樹さんの資本主義論では、「失業」や「倒産」は、資本主義の健全な法則性として捉えられていた。これを悪いものとして無理やりなくそうとすると、かえって資本主義の健全性を破壊するものとして、法則性を無理やり動かそうとするものになるという指摘があった。マルクスは、共産主義的な発想で、これらをコントロールしてなくそうとしたように見えるが、小室さんは、コントロールすることはできないし、そんなことをするとかえって資本主義の健全性を失うと考えているようだ。いずれにしても、「失業」や「倒産」といったものは、資本主義に必然的に伴うものとして捉えられているようだ。これらが、基本的な法則性とどのように絡み合って、その必然性を語っているのか、三段階論的な観点で理解できるかどうかを考えてみようかと思う。
2007.09.02
コメント(0)
数学的な法則の一つにアルゴリズムと呼ばれるものがある。これは計算手順が定まっていると考えられるもので、その手順で計算を進めればある種の数学の問題の解答が自動的に得られるというものになっている。その手順が固定して定まっているという点で、これはその手順が法則として理解されていると考えることが出来る。代表的なものは筆算のアルゴリズムで、これは初等教育で誰もが習うものだ。筆算の仕組みというのは、どれほど数の桁が大きくなろうと、一桁の数の加減乗除を繰り返すことで、どんなに大きな桁の数の計算も出来るというところにある。繰り上がりや繰り下がりを一つの法則として捉えることが出来るだろう。また少数や分数の計算では、小数点の位置を決定するアルゴリズムがあり、分数の場合は通分や約分のアルゴリズムがある。これらのアルゴリズムがもう少し発達すると、方程式の解法のアルゴリズムへとつながったりする。そして、関数の分野へ行けば、1次関数のグラフを書くためのアルゴリズムがあったり、2点間を通る直線や曲線の式を求めるアルゴリズムがある。これは、その式を方程式だと思って考えれば方程式のアルゴリズムと同じになる。さらに難しい数学になると、複雑な公式がアルゴリズムとして登場してくる。三角関数のさまざまの公式や、微分や積分の公式なども一つのアルゴリズムと解釈することが出来るだろう。数学の計算の答を出すというのは、アルゴリズムで定められた手順を間違いなく行えるかどうかということに帰着する。数学は、公式さえ暗記しておけばテストで点が取れるということが言われている。これは本当のことで、どんな問題が出るか分かっていて、しかもその問題にはどの公式を使えば答が出せるかということが分かっていれば、公式の記憶で数学はいくらでもテストで点が取れる。しかし、この「法則性の認識」は、現象論抜きの本質論を言葉だけ記憶しているのと同じで、本質的な理解にはなっていない。公式の記憶だけの学習で数学の点数を取ってきた人間は、一度解いたことのある問題は解答が出来るが、まったく初めてぶつかるような問題に対しては、どう公式を適用していいかという方針を見つけることが出来ない。本質論的な理解が出来ていないので、問題の構造を分析して、その構造にふさわしいアルゴリズムを自分が発見するということが出来ないのだ。この問題にはこの公式を適用するという記憶に従って解答してきた人間は、一度経験した問題の解決しか出来ない。そしてそれは、答がどんなものかがあらかじめ分かっている問題になっている。日本の数学教育では、だいたい表面的には問題が解けるように見えるけれども、大部分がアルゴリズムの記憶だけで、与えられた問題にふさわしいアルゴリズムの適用も記憶できたかどうかが評価の中心になる。自分でそれがふさわしいという判断をほとんどさせない。どのアルゴリズムがふさわしいかは、問題の提供者があらかじめ分かっているので、それを発見する必要がないのだ。問題はそれをちゃんと覚えているかどうかということになる。これは、数学本来の特質から言えば、まったく数学的ではない教育がされていることになるのだが、自ら考えて試行錯誤的にアルゴリズムの発見をしていくようになると、とてもじゃないが複雑なアルゴリズムを正しく適用するということは教えられなくなる。僕は、数学教育において複雑なアルゴリズムはほとんど教える必要はないと思うので、2次方程式や微分・積分などは、一般的な大衆教育からは排除してしまえばいいとおもうのだが、単純なアルゴリズムの構造を正しく教える教授法がないために、本当の意味で、本質論的段階の単純なアルゴリズムの教育が出来ていないのではないかと感じる。加減乗除の筆算などは小学校で習うので、この単純なアルゴリズムは記憶するだけで、それ以上の適切な教育があるというイメージが浮かんでこないのではないかと思う。故遠山啓先生は、このアルゴリズムを「水道方式」という体系にまとめて、アルゴリズムを、単なる手順の記憶ではなく、数の構造の理解を背景に理解するという教育方法を考案した。これが日本の初等数学教育の主流にならなかったことが、数学教育において、アルゴリズムが単に手順の記憶の教育になっている原因ではないかとも感じる。この筆算のアルゴリズムが、単に手順の記憶になっているので、いわゆる文章題と呼ばれる応用問題がひどく難しいものになっている。計算は出来るのだが応用問題が解けないという子どもが圧倒的多数を占める。これは数学教育の失敗を意味するのだが、日本の数学教育では、このことを失敗だと感じている人が少ないのではないだろうか。応用が出来ない数学などは、本来の意味での数学の理解ではない。計算は出来るが応用が出来ない子供たちというのは、現象的には、単純なアルゴリズムの記憶は、覚える手順が少ないので何とか記憶できるが、応用問題に関してはそのバリエーションが膨大になるので、記憶する量が許容量を越えるのだろうと思う。そもそも応用問題というのは記憶して対処しようとするものではない。その問題の構造を分析して、その問題の現実的な数量関係を把握できたとき、それを数式として表現して、その後はアルゴリズムで処理するということが正しい解答だ。応用問題の構造の分析をおろそかにして、国語的な文章の意味から記憶を手繰り寄せて、その文章にはこのような公式の適用ができたという記憶で応用問題を解いているのが現状ではないかと思う。これは、言葉の正しい意味では、まったく応用ではない。正しい数学教育が行われているなら、応用は出来るけれど、計算は面倒なのでうっかり間違えるという子どもたちがいておかしくないのだが、それはたぶん圧倒的少数派だ。板倉聖宣さんはそういう子どもだったらしい。加減乗除の計算において、加法は現実の合成という構造と結びつけ、減法は削除や分離などという操作に関連し、乗法は1当たり量との関連から、その計算が妥当する場面を判断し、除法は逆に1あたり量で整理するというような操作をする場合に適用できると判断する。これは、問題で提出されている現実の構造に、量的関係を分析するという判断をすることによって、どの計算がふさわしいかということをまさに応用するということがあるわけだ。ここで頭が使われているのは、現実の対象を把握するということに絞られている。そして、数学の応用では、数量的な対象の属性を把握した後には、その後はあまり頭を使わなくても、手順さえ守れば答が出てくるようなアルゴリズムに任せるということになる。アルゴリズムの確立というのは、頭を使う対象を絞り込み、効率よく頭を使うということのために行われる。これはある種のパズルを解くときの頭の使い方にもよく似ている。単純なパズルにおいては、アルゴリズムに関係なく、その問題の解法を最初から最後まで頭を働かせて解くということが出来る。しかし、論理的に複雑になってくると、そのパズルはそのまま全体を受け取っていたのではまったく解答が見えてこない。このときは、アルゴリズムを発見して、ある程度まで頭を使わなくても解答できる部分を処理しておいて、ポイントになる部分だけに思考を集中させるということが必要になってくる。複雑なパズルは、そのようにして解かなければおそらく解決しないだろう。かつて、保険会社などで論理学の専門家が働いているということを聞いたことがある。それは、論理というものが、あまりにも複雑になりすぎると、それが矛盾していないかどうかというのを日常言語の範囲で判断するのが難しくなるからだと言われていたようだ。形式論理は、日常言語で書かれた命題を数式化できれば、後はアルゴリズムによって矛盾が推論できるかどうかの判断ができる。保険におけるさまざまな補償の間に、論理的な矛盾があったりすれば、訴訟などがあったりしたときに過失として判断されてしまうだろう。それがないように企業としては細心の注意を払いたくなるだろうと思う。そのために形式論理が応用されるのは十分考えられることのように思う。アルゴリズムというのは、このように複雑化した問題の、複雑な構造の解決に的を絞るために、対象の把握に思考のすべてを集中させるために有効に働く機能をもっている。その他の「法則性」と呼ばれる認識も、このような有効性を持っているのではないかと思われる。法則性という公式は、この問題の時はこのように使うということが、数学のアルゴリズムほどきちんと定まっていない。だから、応用という面では、より本質論的な理解が必要になるものだ。しかし、法則性を言葉の記憶だけでしか知らない人間は、おそらくこの応用はほとんどどうやったらいいかという方向性さえ見出せないだろう。法則性を本質論的段階で理解している人間は、どこまで対象の構造を把握すれば、後は法則性に任せて自動的に解答を引き出せばいいかという、自分の思考の段階を正しく把握できるだろう。現実の応用問題に、法則性を正しく適用して解答を引き出せるかどうかは、その法則性の本質論的段階の理解に達しているかどうかのバロメーターになるに違いない。僕は、宮台真司氏というのは、かなり膨大な量の法則性を、記憶だけではなく本当の意味で、本質論的段階で把握している人間ではないかと感じている。それは、宮台氏の現実解釈というものがいつも適切なもののように見えるからだ。どの段階までの現実を正しく把握すれば、それ以後はこの法則性の適用をすることで、現実の問題が解決されるということをつかんでいるように思う。もちろん、宮台氏の理解でも現実の把握が難しい問題は世の中にたくさんあるだろうが、たいていの問題には、宮台氏が持っている法則性の理解で問題の解決の方向が見出せるという自信があるのではないかと思う。ただ、法則性というのは、社会全体に関わるものであったり、客観的な自然を対象にしていたりと、個別・特殊な対象ではないものを考察するものになる。だから、個別・特殊な状況を考える際には、法則性の認識はあまり役立たなくなる可能性はある。その時は、法則性を有効にするための問題の設定を変える必要があるだろう。連日ワイドショーを賑わせている朝青龍問題は、個別・特殊な問題なので、このことを対象にした法則性の認識の応用は難しいだろうと思う。しかし、この問題も設定を変えれば、法則性の応用が出来る面白い方向もあるのではないかと思う。元力士の龍虎が、相撲界の「利害関係」と絡めてこの問題を語っていたが、この問題を朝青龍個人の問題と捉えるのではなく、相撲界一般、ひいては日本社会一般との関連で考察の対象にすると、ある種の法則性を応用して構造を把握することが出来るかもしれない。個別・特殊な問題であれば、個人の感性によってどう感じるかということを語ることしか出来ないが、法則性の応用が出来る部分があれば、それは客観的な認識として「真理」がつかめるかもしれない。それにしてもばかばかしいと思うのは、ワイドショーが朝青龍の帰国の際に、彼が乗った車を成田までヘリで追いかけたということを聞いたときだ。この問題が、社会的に見て、そこまで大げさにして報道する大事件であるはずがない。ヘリを飛ばす金があるのなら、もっと大事な報道に金を使ってもらいたいものだと思う。この現象は、たぶん日本のテレビ報道というものが、ジャーナリズムではまったくなく、映像として売れるという商業主義を第一の判断材料としているという「法則性」が現れたものとして解釈することが出来るのだろうと思う。
2007.09.01
コメント(0)
全23件 (23件中 1-23件目)
1
![]()
