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夜間中学には日本語学級という、日本語を勉強するクラスがある。今でこそ、そこは外国から日本へ来た人々(結婚で来たり、再婚の母親に呼び寄せられたり、仕事で来日した父親の家族として来たり、その理由はさまざまである)が、日本語の授業を受けるために必要な日本語の会話を学習するためのクラスになっているが、発足のころは違っていた。日本語学級が発足したころは、戦後長いあいだ戦地になっていた中国などから、さまざまな事情で帰れなくなっていた人々が引き揚げてきたことがきっかけだった。いわゆる「中国残留孤児」という呼び方をされていた人々は、幼いころに中国に取り残されてしまったため、日本人でありながらまったく日本語が話せない・理解できないという状況にあった。これらの人々が日本へ引き揚げて、日本で生活を始めたときに、生活のために必要な日本語を学ぶ場所がなかった。そこで、夜間中学がとりあえずそのような日本語の教育機関として選ばれ、日本語学級というものが設置された。だから、夜間中学の日本語学級は、そもそもの発足のきっかけは、引揚者の日本語学習の問題からであり、教科学習のための基礎的日本語を学習するという問題ではなかった。そのような特殊な事情のある夜間中学校の日本語学級では、中国からの引揚者がたくさん学んできた。その関係者の一人であるNさんの体験談を聞く機会が先日あったのだが、その中で旧満州における「集団自決」の問題が語られていた。「集団自決」という現象を、単純に多くの人が「集団」で「自決」をしたという現象だと理解するなら、それは単純な「事実」の問題になるだろう。それは多くの人に語られ、しかもそれが「事実」であろう事は疑いがないと判断されている。しかし、それを単純な現象と捉えるのではなく、そこに含まれている意味を考えるなら、目に見えるものだけではなく、直接は見えないけれど、何らかの関係があるものを関係の糸をたどって、そのつながりというものを考えなければならない。なぜそのような悲惨な出来事が起こってしまったのか。その必然性や因果関係などは妥当性のあるものが見つかるのだろうか。また、そのような行為が、自決した人々の主体的な選択ではなく、追い込まれて選ばざるを得なくなってしまったものだと理解されるなら、その追い込んだものの責任はどうなるのか、という問題もある。単純な目の前の「事実」を単に受け止めるだけでなく、このような思考を進めるには、その「集団自決」というものに関係するあらゆるディテール(細部)を見なければならない。しかし、ディテールという英語には、「末梢的なこと」という意味も含まれているらしい。目に見えない深いつながりを見るには、細部というディテールを見る必要があるが、それはもしかしたら本当にはつながっていない末梢的な細部であるかもしれない。ディテールにこだわることは、末梢的なものを本質的なものと勘違いする誤謬に陥る危険性はあるものの、まずはディテールを見ないことには考察がスタートできないということもあるだろう。だが、ディテールというのは、いざ調べてみようとするとなかなか語られていないものだ。ディテールではない、ある種の結論めいた主張は巷にあふれているものの、その結論を導く材料としてのディテールは少ない。これは論理的にはそのような難しさがあることは十分予測できる。ディテールとして語られる細部の「事実」は、直接結論めいたことには結びつかないので、論理的には、ディテールをたくさん集めて、その構造をまずは再構築して結論めいたことを導く論理を構成しなければならない。それに比べて、まずは結論めいたことをぽんと提出しておけば、実はその結論がある種の前提になって、他に言いたいことがその前提から論理的に導かれてしまうということがある。実は、その結論として提出された前提は、そこから本当に導きたいもう一つの結論を含みこんでいるものになっていて、論理的には証明すべき当の事柄が前提にされているというトートロジー(同語反復)的なものになっていることが多い。日本の戦争責任において、軍隊は諸悪の根源のように言われ、軍隊のイメージをそのように設定しておけば、あまりディテールに言及せずとも、日本軍ならそのくらいの事はやるだろうということが演繹的にそのイメージから導かれることが多い。これは、その判断が正しいときもあるだろうが、「事実」の確認のためには、演繹的な思考だけではなく、ディテールを元にした帰納的な判断も一度はしておく必要があるのではないかと思う。「集団自決」に関しては、沖縄の場合は軍の強制(これは直接の命令と解釈されているように僕は感じる)があったのかどうかというディテールが問題にされている。しかし、このディテールは単純な「事実」として確認されることがたいへん難しいので、日本軍というものの本質的性格から、そのようなことがあってもおかしくないというイメージで語られているように僕は感じる。確実な物的証拠が出てくれば、単純な「事実」として確定するだろうが、それはきわめて難しいのではないかと思う。日本軍が直接命令を下したというのは、「事実」としては単純に思われる。命令をした個人や、命令書というような客観的存在があるならば、それを見出すのはた易いと思われる。しかし、そのような単純な「事実」はいまだに発見されていないので、直接的な命令が「あった」のか「無かった」のかは決定していないのではないだろうか。だから、軍の「関与」あるいは「強制」という問題を、直接の命令の有無という問題にしてしまえば、その証拠がなかなか見つからないことからその存在が疑わしいということになり、「関与」「強制」ということまで疑わしいということになってしまう。沖縄の集団自決における「強制」の問題は、「新しい歴史教科書を作る会」が主導しているらしいが、戦術としてはなかなかうまいところに目をつけたという感じがする。なかなか単純な「事実」が見つからず、単純な「対象」の発見が難しい問題は、複合命題として考察しなければならないのに、それを単純な「要素命題」の問題にしてしまえば、そのような「要素命題」を構成する「対象」はないというような論理展開に持っていくことが出来るからだ。沖縄における集団自決の問題は、「関与」あるいは「強制」という言葉の定義の問題が一番大きな問題だと僕は思う。しかし、巷でされている議論を見ると、軍の直接的命令が存在したかどうかということになってきているように感じる。「関与」あるいは「強制」が、その言葉の定義の問題であれば、その定義という条件の違いから、結論としての「あった」「無かった」は、前提の違う仮言命題の結論として両立しうるものになる。つまり弁証法的な「矛盾」の現れと解釈できる。もし「作る会」的な定義の元で論戦をするなら、それに反対する立場の論理は極めて不利なものになるのではないかと思う。旧満州における「集団自決」では、幸か不幸か、軍の直接的命令という強制がなかったことが明らかになっている。それは物理的にそのようなことが出来ない状況にあったからだ。軍が住民に命令したくとも、その軍がすでに満州にはいなかったということが「事実」として確認されている。そこに存在しなかった軍が命令を出すことはできないという物理的な理由で、満州における「集団自決」には、軍の命令があったか無かったかという問題は生じていない。それは「無かった」ということしか言えない。これは論理的な判断であるからこそ「無かった」と断定できる。いくら探しても見つからないという、経験的・帰納的な結論は断定することは出来ない。「無いかもしれない」という主張にとどまる。「無かった」という断定は、という法則性を認めるなら、この命題と、そのときに日本軍が満州ではないところにいたという肯定判断との二つの命題から、形式論理の結論として「無かった」という断定が出来る。単純な「対象」があるということは、それを指し示すことで言えるが、無いということは、論理的な結論でなければ断定することは出来ない。「集団自決」というのは、一般民衆が直接地上戦に巻き込まれるという、沖縄と満州という特殊な地でのみ起こっている。地上戦に巻き込まれなかった日本本土の人々は、空襲の恐怖は味わった人がいるが、「集団自決」に追い込まれることは無かった。それを命令する軍人もいなかった。「集団自決」という現象に関しては、このような特殊な状況にあった人々の心の動きを整合的に説明しうるようなディテールを求めることが必要ではないかと思う。「集団自決は、軍の直接的命令が無ければ起こらなかった」という判断にはあまり説得性が無い。なぜなら、軍の命令が無いことがはっきりしている満州で「集団自決」が起こっているからだ。軍の命令という直接的なきっかけが無くても「集団自決」は起こる。それでは、「集団自決」が起こってしまう、最も本質的で重要な要素はどこにあるのか。末梢的でない、本質的なものを示すディテールはどんなものであるのか。そのような本質が求められたとき、軍の命令というものが、その本質に対してどのような位置を占めているのかが分かるだろう。それが判断されたとき、軍の責任というのももっと明確になるのではないだろうか。満州では、たまたま軍が命令する可能性が無かったが、もしその可能性が存在したら、軍は「集団自決」の命令を出すだろうか。そしてまた、軍が「集団自決」の命令を出せば、さらに悲惨な結末を迎えると言えるだろうか。そのような考察に肯定的に答えるか、否定的に答えるかで、日本軍の責任というものの判断も違ってくるのではないかと思う。さて『集団自決 棄てられた満州開拓民』(坂本龍彦・著、岩波書店)という本には、満州における「集団自決」のディテールがいくつか語られている。そのディテールからいったいどのような意味が読み取れるかというのを考えてみたいと思う。具体的な記述は次のエントリーで考察してみたいと思うが、記述にはいくつかの種類があるように思われる。一つには主観と客観の違いがあるように思われる。状況や事実を忠実に記述している客観性の高いものをディテールとして選び出して考えたいと思う。そのときに、どのような感情を持ったかという記述も貴重なものではあるだろうが、それに共感あるいは反発することで、ディテールの受け取り方が違ってくる可能性がある。ディテールは、感情抜きにその事実性だけを見ることが重要ではないかと思う。また、ディテールの内容も、集団自決の現場そのものを語るディテールと、それ以外の背景を語るディテールに分かれるのではないかと思う。現場そのものを語るディテールには、おそらく軍隊の影は見えないのではないかと思う。軍隊は、直接にその場にはいないからだ。その背景を語るディテールから軍の「関与」という問題が読み取れるのではないかと思う。ディテールというのは個別的な事実であるから、ここから一般的な結論を引き出すのは論理的には危険性があるものの、ウィトゲンシュタインが展開したように、現実世界の理解は、まずは個別的な経験という「事実」から出発して、そこから論理の世界を構築してまた現実に戻っていくという道筋を歩む必要があるのではないかと思う。これは、弁証法的にいえば、現実を否定して論理の世界に向かい、それをもう一度否定して現実に帰るという「否定の否定」を実現することなのではないかと思う。そうしたとき、本当に深い認識に到達することが出来るのではないだろうか。
2007.10.30
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「『論理哲学論考』が構想したもの8 複合的概念が指し示すものの存在」のコメント欄に、Kさんという方からのコメントが送られてきた。僕は、このコメントを見たとき、最初は「揚げ足取り」をしてきたのではないかという印象をもった。だから、このコメントを反映させる必要はないかなとも考えていた。しかし、よく読み返してみると、「揚げ足取り」という最初の印象を示すような直接の言葉というのが見つからなかった。「揚げ足取り」というのは、辞書によれば「《技を掛けようとした相手の足を取って倒すところから》人の言いまちがいや言葉じりをとらえて非難したり、からかったりする。」と説明されている。これは単純な対象を指し示して、実体として指摘できるような「名」ではない。その現象を分析して、このような性質を持っているという判断がされたときに、「揚げ足取りだ」と表現される複合概念になっている。だから、「揚げ足取り」というのは、直接これだといって言葉を指し示して判断できるものではなく、「言い間違い」や「言葉尻」というものを分析して判断しなければならないものになっている。それを僕は、読んだときの自分の印象から最初は判断した。これは、その前のコメントに「罵倒」を表す言葉が含まれていたので、それとの関連から、「存在」という言葉の意味の二重性を捉えて「揚げ足取り」をしに来たのではないかという印象を持ったからだ。だがよく考えてみると、この印象は確証の持てるほどのものではなかった。もしかしたら単純に疑問を提出しているだけかもしれないという可能性もある。どちらか決めかねるというところに、「揚げ足取り」という「事実」つまり「存在」の問題の難しさを考えることができるかもしれないという気もしてきた。ここには、「揚げ足取り」という現象は「ある」のか「ない」のかということだ。このことの考察を元に、沖縄の集団自決において軍の強制ということが「あった」のか「なかった」のかという判断の難しさを、同じ構造を持つものとして理解しやすく出来るかもしれないとも感じた。そこで考察の材料として提出するために、このコメントをコメント欄に反映させることにした。これが「揚げ足取り」であれば対話は生まれないが、もし単純な疑問ということであれば対話が生まれる可能性はある。それは、今後のKさんの発言が、そのような対話の可能性に向かうものであるかどうかということに関わっているだろう。このコメントだけでは文脈が判断できないが、他の表現があれば、総合的に判断できるかもしれない。以前送られてきたコメントに込められていた「罵倒」という判断は、コメントに書かれていた文字を具体的に拾い出すだけで示すことの出来る単純性を持っていた。そこには「不勉強な馬鹿者」「馬鹿者」「卑怯者」「恥知らず」「バカ」というような言葉がちりばめられている。これらの言葉は、この言葉自体に「罵倒」という意味がこめられていて、この文字列を示すだけで、この言葉を使った人間が、「罵倒」しているという判断の正当性を示すことが出来る。「罵倒」の意図の存在を示しているといえるだろう。このような「罵倒」の言葉を使えば、普通はまじめな返答など返って来ないと思うだろう。もし、このような言葉で相手に呼びかけておきながら、それでも相手が何らかのまじめな返事を返してくると、本気で思っているとしたら、そのメンタリティには興味がある。僕は、そのようなメンタリティを抱いたことはないので、どのようにしてそのような考えが浮かんでくるのかということの、論理的正当性のようなもの、納得できるだけの理由があるのかが知りたいものだと思う。Kさんの言葉には、「非難」や「からかい」を直接示している言葉はなかった。それにもかかわらず、最初の印象が「揚げ足取り」ではないかというものを僕が持ったのは、このコメントが登場した状況という、コメント自身の問題ではないほかの関係との判断のつながりがあったことが原因だろうと思う。もし、これが「揚げ足取り」ではなかったら、それは僕の判断ミスということであって、単純な存在の、存在のしかたを取り違えたということになるだろうと思う。「軍の強制」という問題に関しても、同じように単純な存在の仕方の解釈を間違えるという可能性が、その問題の難しさを語っているのではないかと思う。そこには弁証法性が横たわっているのを感じる。「あった」と「なかった」というまったく正反対の主張が、それなりの論理的な正当性を持って主張されているからだ。その両方の主張は、ある条件のもとではどちらも正しくなるという、弁証法的な「矛盾」の現われではないかと思える。まず原理的に、物質の存在は証明できないということの確認をしておく。我々は、物質が持っている具体的な属性は観察によって見出すことが出来る。我々の感覚に反映したものとしてそれを語ることが出来る。しかし、存在そのものは感覚できない。これは、「水槽の中の脳」という想像が、感覚によって外界を知ることができるだけだという人間の限界からは、肯定も否定もできないということから来る。「水槽の中の脳」の存在を外から眺める目(感覚)があれば、それが「水槽の中の脳」であることが言えるが、そのような外の世界が感覚できなければ、世界内の感覚だけでは、その感覚が電気信号だけなのか、本当に存在を受け止めて感覚しているのかという区別はつかない。だから、徹底的な懐疑論的視点では、存在の完全な証明は出来ない。存在は、感覚を通して我々が感じているだけだという観念論的な言い方も出来る。カント的な物自体は捉えられないともいえる。しかし、完全な証明が出来なければ、すべて存在は否定しなければならないとしたら、それは何もものが考えられなくなる世界になってしまう。すべては幻覚になり、「事実」は一つもないことになってしまう。「事実」と「可能性」との区別はつかなくなる。だから、単純な存在という「対象」に当たるものだけに限って、その存在をア・プリオリな前提として論理空間を構築するというウィトゲンシュタインの構想が生まれてくるのだろう。単純な「対象」について語ることが出来れば、その存在は示されていると考え、その存在は思考の前提とされる。問題は単純でないものの存在の仕方についてだ。それは直接指し示すことが出来る「対象」という実体を見つけることが出来ない。複合的な命題を一つ一つほぐしていって、単純なものだけで構成されている「要素命題」を論理語でつなぎ合わせたものに還元しなければならない。そうしたときに、その要素命題が語っている「対象」の存在が示されているなら、ようやく複合命題の「事実」性という「存在」の問題が主張できるという関係にある。複合命題の「存在」の問題は、要素命題の「存在」の問題に還元され、単純な「対象」を現実に探し求めなければならない。「沖縄「集団自決」をめぐる事実と政治」というエントリーには、「住民の証言では、当時の村長が「軍の命令だから自決しろ」と言ったというのだが、当の元村長は「私は巡査から聞いた」という。その元巡査は、赤松大尉から逆に「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてください」といわれた、と証言した。」と書かれている。単純な対象としての音声言語には、「自決しろ」という命令とは正反対のことも語られていたという「存在」も指摘されている。これは、命令を音声言語として聞いたという証言もあるので、証言だけではどちらが本当かは分からない。より確証を得るためには、もっと確実な単純な「対象」が必要になるだろう。例えば、命令文書というような紙切れが残っていれば、指し示すことの出来る単純な「対象」として、それは確実に、「強制」という複合命題の「事実」性を示すものになるだろう。だが、これは絶望的に難しいのではないかというのが僕の考えだ。軍が、たとえそういう意図を具体的に持っていたとしても、それを証拠が残るような形で文書のようなものに残すだろうかという疑問がある。それが残ってもまったく非難されるようなものでなければ、残っている可能性はある。しかし、残ったものによって責任を問われるようなものであれば、それは直接示すのではなく、相手がそう受け取るように隠された形で示されるだろう。そうなれば、直接の単純な「対象」は、最初から残らないように配慮されているので、これを見つけることは絶望的に難しいと思われる。そのような意図があった場合でさえ証拠を発見することが難しい事柄であれば、そのような意図がない場合は、証拠など残るはずがないと思える。また集団自決させることに何の問題もないということが当時の共通感覚として蔓延しているものであれば、そのような証拠を残すことにためらいはなかっただろうと思う。しかし、この場合は、共通感覚の元に行動したのであるから、ことさら軍だけを非難するという理由が見つからなくなる。現時点で、軍の命令があったかなかったかが議論されているということは、当時としても共通感覚としては、軍が命令することではないと思われていたのではないかと思う。むしろ、そのようなことが起こったとしても、住民の自発的な意志で行ったものだという解釈がされたのではないだろうか。戦争末期には、「鬼畜米英」というような宣伝がされ、国民すべてが玉砕するという考えも、社会的には普通に流通していたのではないかと思う。そうであれば、そのようなことを示す証拠がたくさん残っていたとしても、それをすべて想像のものだということは出来ないだろう。当時の社会にどのような考えが蔓延していたかということが、その事とつながる「事実」があったかどうかの証拠を求めるときに重要になるのではないかと思う。軍の直接の命令ということを示す単純な証拠は見つけがたいが、当時の社会が、玉砕という形での自決を求めていたという精神的な圧力があったということを示す単純な証拠は見つけやすいのではないかと思う。それは、玉砕ということが、当時は必ずしも非難されることではなく、むしろ愛国心の現われとしてたたえられているようなところも見られるからだ。自決を命令することが、愛国心の現れとしてたたえられる事であるのなら、その証拠はたくさん見つかるだろう。しかし、当時も今もそうではないのではないか。軍の直接の命令というのは、おそらく状況証拠としてしか見つからないだろう。状況証拠は、その解釈によって判断が違ってくる。これにこだわるということは、その証拠がないと軍の責任が追求できないという方向に行く恐れがないだろうか。ひどいときには、軍隊という組織の直接の関与が証明できなければ、命令を下したと言われる個人の責任が問われることにもなるのではないだろうか。この問題を、単に個人の判断の間違いとして解釈するのは、歴史の意味を読み違えたりもするのではないだろうか。先に紹介したブログのエントリーでは、「赤松大尉を「屠殺者」などと罵倒した大江健三郎氏の記述が誤りであることは明白だ」というような指摘も見られる。この問題では、たとえ直接的な命令があったとしても、それを命令した個人の責任に帰するのは間違った判断ではないかと思う。軍隊という組織の責任の問題として考えるには、個別的な命令の有無の問題ではなく、当時の日本社会全体を覆っていた、軍隊による支配という観点が必要なのではないかと思う。絶望的に難しい証拠探しをしていれば、その観点がぼやけるのではないかというのが僕の主張だ。
2007.10.25
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野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示すことが出来る単純性を持った「対象」に当たるものだけだったように思われる。この真に存在するものが示す事実から切り出されるものが「対象」であり、それを表現する言語が「名」と呼ばれた。「名」は対象の像として存在するので、それが「名」として存在するためには、本体である「対象」の存在を必要とする。この「対象」の存在は、「名」の前提となるもので、存在そのものを何らかの方法で証明したりすることが出来ない。存在そのものに関しては、ウィトゲンシュタイン的な表現を使えば「語りえぬもの」ということになるのではないだろうか。野矢さんの表現を借りれば、それは「示されるもの」と捉えなければならないのではないかと思う。存在が証明されないものであるなら、それは経験的なものではなくなる。つまり経験を越えたものとして、ア・プリオリ(先験的)に所与のものとして我々の前に現れていると受け取らなければならない。このア・プリオリ性を直感的に納得するのはかなり難しいのではないかと思う。思い込んでいれば存在することになるのかという問題があるからだ。『反デューリング論』の中だっただろうか、エンゲルスが、「プディングの証明は、それを食うことにある」というようなことを書いていた。これは、プディングがあるということを確かめるには、それを食うという実践を行うことによって示されるということだと思う。プディングが見えるということは、そこに存在していることを示すことでもあるのだが、それはもしかしたら幻覚かもしれない。しかし、食うという実践は、視覚のほかにもさまざまな感覚を動員して、プディングに関する事実を見出すことが出来る。そこに事実が存在するということが、プディングの存在を前提としていることなので、事実の存在がプディングの物質としての存在を示していると考えられるのではないかと思う。僕は、この実践が存在の証明ではないかと以前は考えていた。しかし、デカルト的な徹底した懐疑論の観点からは、すべての感覚には錯覚が起こりうる可能性がある。その可能性を消せない限りは、感覚から得られた事実は、感覚が正しい限りという条件を付した仮言命題に依存する真理ということになる。証明と呼ぶにはある種の弱さを感じる。それは証明ではなく、前提である存在を示すものと受け取り、存在そのものは「語りえぬもの」だと理解したほうがぴったり来るような感じがする。『パラドックス大全』(青土社)という本には、「水槽の中の脳」という想像が語られている。我々の感覚というのは、すべて外部の刺激を電気信号に変えて脳に送ることによって認識される。だから、どのような電気信号がどのような、脳における像をもたらすかが分かれば、電気信号を送ることで脳に幻覚を見させることが出来る。物質的な存在は何一つなくても、それが存在しているような感覚を持たせることが出来る。これは、映画「マトリックス」の世界のような想像だが、このような世界に我々が住んでいるとすれば、我々にとっては何が存在するかという問題は、問題として立てようがなくなってくる。そこには、そもそも存在というものが物質的な意味ではないのである。存在しているのは、脳と電気信号のみと考えられるが、それは外から眺めている人間にはわかるが、その「マトリックス」的な世界にいる人間には分からない。「水槽の中の脳」という想像は、論理的には肯定も否定も出来ない。その証拠となるものが何もないからだ。まさに、存在が確かめられないので論理的な判断が出来ないということになるだろうか。論理的な判断の前提としても、何らかの存在があることが絶対的に必要なのである。まったく存在というものがない世界というものも想像することは出来る。その世界では、「対象」になる物がないのであるから、「事実」として捉えられるものは何もなくなる。従って、そのような世界を基礎とした論理空間には何も見つからず空集合になる。「事実」のない世界には可能性すらない。思考を展開しようにも、そこでの思考というものがどういうものであるかも分からない。僕が、このように思考を展開できるということは、実は何らかの存在があることが前提とされて、それがあるからこそ思考が展開できるともいえる。まさに、存在を基礎として実践がされるのだというエンゲルスの言葉が実感として感じられる。実践は、存在の証明としては弱さがあるが、存在を示すものではあるだろう。「対象」について何かを考えることが出来る・思考を展開できるということは、「対象」の存在を示すものであるが、それはウィトゲンシュタインによれば、単純なものである「対象」の存在を示すものであって、複合概念として定義されたものの存在を示すものではないのではないかと思う。もし、複合概念として定義されたものまでも実体として存在していると考えると、それは観念論的妄想・観念論的幻覚ということになるのではないか。複合概念の思考は、存在を示すものではなく、論理による思考の展開を示すもの、すなわち論理を示すものとして現れるのではないだろうか。野矢さんは、論理というのもまた証明されるものではなく・語りえぬものであって示されるものだという指摘をしている。科学の歴史ではフロギストンという実体が想像されたことがあった。これは、現象を分析して、そこに何か指し示すことの出来る物質を見つけて、これがフロギストンだというふうにして発見されたものではない。物が燃えるという現象を観察したとき、物質の中にフロギストンというものが含まれていて、燃焼の際にそれが放出されるという想像から生まれてきたものだ。つまり仮説として提出されたものであり、それが存在するかどうかを確かめてから名付けたのではなく、フィクショナルに設定された実体だった。後に、燃焼は、酸素との結合の現象であることが論理的に整合性を持って説明され、フロギストン説は否定された。これは、フロギストンというものの存在を否定したものになるだろうか。もしそうであれば、存在が否定できたということは、存在も証明できることになってしまう。これをどう解釈すれば、ウィトゲンシュタイン的な世界の構造と折り合いがつけられるだろうか。僕の解釈は、フロギストンというのは、現実の実体を指し示して得られた概念ではないので、「対象」を表す「名」ではなく、複合概念として定義されているのだというものだ。複合概念として定義されているので、それが否定されても存在そのものの否定にはならないという解釈を僕はしている。だから、フロギストンの存在そのものは、それを考察して思考が展開できたからといって、そこに存在が示されているとは考えない。単純なものである「対象」のみを実体的な存在として捉えるというのは、ここに論理的な整合性があるからではないだろうか。フロギストンは、あくまでも想像の中で作り出したものだ。現実に存在していると感覚が捉えて、その属性を見つけたものではない。想像の中で作り出したフロギストンは、もしフロギストンであればこういう性質がなければならないという設定が論理語「かつ」「または」「ならば」などによって作られる。そのような定義がされるものとして、複合概念として捉えなければならないのではないかと思う。フロギストンが単純なものである「対象」であれば、フロギストンと呼びたい物質を持ってきて、それをさまざまな角度から眺めて、このように見えるということを拾い出して「事実」を見つけることが出来る。その際は、フロギストンというものの存在は、それが「対象」であるということで前提されている。それに対して観察し、属性を見つけることができるということでフロギストンの存在は示されている。しかし、フロギストンはこのような「対象」という存在ではない。フロギストン説が否定されたというのは、フロギストンの概念を語る複合命題を構成する単純な「要素命題」(単純な「対象」を語ることのみで成り立つ命題・「名」の結合によって得られる命題)の一つが事実ではない、という解釈がウィトゲンシュタイン的なものではないかと思う。そして、その解釈が妥当だという気が僕にはする。フロギストン説の否定は、命題の否定という論理の範囲のものであり、存在の否定ではないという解釈が出来るので、ウィトゲンシュタイン的な世界の構造と折り合いがつけられると思う。フロギストン説の否定は、存在の否定ではなく、説という命題の否定なのだから、命題を作り変えることで正しいものに到達する。それが酸素説というものではないかと思う。これによって燃焼という現象が正しく説明できる命題になったのだと思う。もしフロギストン説の問題をあくまでも存在の問題として捉えようとすれば、燃焼という現象の存在までもが疑わしくなって来たりしないだろうか。フロギストンがないのであれば、燃えるという現象も存在を基礎に持たないものになり、ただそう見えるだけのものであって幻覚に近いものだと思われたりしないだろうか。沖縄における集団自決の問題も、それが存在の問題であると捉えれば、どうしても単純な存在である「対象」という実体の存在に言及しないわけにはいかない。そうすると、フロギストンと同様に、そのような単純な「対象」を見つけられないということになってくるのではないか。存在の問題として思考を展開すれば、「沖縄「集団自決」をめぐる事実と政治」というエントリーで語られていることが正しいという感じを持ちたくなるのではないだろうか。だが、これを存在の問題ではなく、複合概念の定義の問題だと捉えれば、「軍による強制」という概念をどう定義するかという問題に問題を転回できる。これは、思考を展開するには、僕は「強制」という概念を使うよりも「責任」という言葉を使ったほうが正確になるのではないかと思っている。たとえ直接的な「強制」がなかろうと、当時の政治・教育・情報における主導権をすべて握っていた軍が、アメリカ軍の攻撃に際して絶望的になっていた沖縄の人々に、玉砕という自決の意志を促したということは十分考えられることである。陸軍大臣を軍が拒否すれば内閣が総辞職しなければならないような政治情勢の下では、政治に関する軍の責任は重くなるだろう。軍国主義的な教育が行われているか強い監視の元に教育の統制をしていた軍は、教育に関しても大きな責任がある。そして大本営発表として情報を統制した軍は、情報の管理に関しても大きな責任がある。このような責任を合計して考えれば、沖縄で、たとえ軍の強制という直接的な証拠がなかろうとも、集団自決に住民を追い込んだということに対して軍が大きな責任を負うものだということは、論理的な帰結として得られるのではないかと思う。それはかなり明らかな論理的帰結であると思われるのに、なぜことさら「強制」ということにこだわるのかというのが僕の疑問だ。これは、むしろ大きな観点からの軍の責任をぼやけさせるのではないか。「強制」というのは、それがもしあるのなら、それだけから軍の責任を帰結できるので責任追及としては分かりやすい。プロパガンダとしては有効性を持っている。しかし、「強制」という複合概念を作るときに、一つでも否定できそうな命題が入り込んでくるようなら、それは命題として否定される可能性が高くなる。証明すべきは、「強制」の有無という存在の問題ではなく、軍がどれだけの責任を負わねばならないかという、責任という判断の問題ではないだろうか。それならば、存在の問題も、より単純な「対象」に還元できるのではないかと感じる。
2007.10.24
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沖縄の集団自決という深刻な問題についてちょっと触れたので、何らかの反応が返ってくるかと思ったが、それにちょっと疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてきた。このコメントについては、論理的な対話など出来ないと判断したので反映させるつもりはない。しかし、少しの疑問を差し挟んだだけで罵倒するようなコメントが送られてくるというメンタリティは考察に値するものだと思う。僕は、宮台真司氏や仲正昌樹氏の左翼批判に共感するところがあるのだが、特に宮台氏が語る「左翼の嘘」という指摘に重要なものを感じている。これまでの左翼の言説には、プロパガンダとして役に立つのであれば、少々疑わしい「事実性」であってもそれを宣伝して言語ゲーム的な「事実」にしてしまったものがあるという指摘だ。もっとも分かりやすい例が、今日本にいる在日朝鮮人と言われる人々の大部分が、強制連行された人たちの関係者だというものだ。これは、専門家の間では完全な間違いであるということが言われているようだ。戦前に日本を訪れた多くの朝鮮人たちは、強制連行という形で来た者たちよりも、日本で何とか一旗上げようという気持ち出来た人々が多かったと宮台氏は言う。それは、本国での産業が廃れてしまった国内では食っていくことさえ困る状態だったので、何とか食うことだけでもできないかという気持ちで訪れたという人々が大部分だったということだ。戦前の日本が移民を多く排出したのと同じ状況だ。「強制連行」という状況を、国内で食えなくて、日本に来ざるを得ない状況を作り出した日本に責任があるのだという解釈で、上のような自らの意志で来た者たちもそこに含めてしまうという解釈をする人たちもいるようだ。だが、これは解釈としてはあまりにも強引過ぎる。「強制」ということを言うためには、何らかの日本国家の権力の直接の関与が証明されなければならないだろう。必然性という面から考えても、日本に来た大量の朝鮮人たちを「強制」してまで連れてくる必然性というものを感じない。むしろ、来ざるを得ない者がたくさんいたのでそれを利用したと捉えたほうが論理的な整合性が取れるだろう。現在の不法滞在をしている低賃金の外国人労働者と同じような位置にいたのではないかと思う。現在の不法滞在の外国人は、その地位が不安定で低賃金に抑えておくことが出来る。これを、低賃金で働かせることを目的に、外国から不法に入国させようとしたら、そのブローカーまがいのものたちが不法行為を犯すことになりリスクを引き受けなければならないだろう。ましてや、法を取り締まる国家がそのようなことをするはずがない。自然にそうなってしまうものについて目こぼしをすることで利権を作ることはするだろうが、不法行為を元に利益を得ようとするのは、国家権力にとってリスクが大きすぎる。戦前の日本国家は、そのような普通の法治国家にあるまじき行為をするようなひどい国だった、という前提があれば、大部分の在日朝鮮人を「強制連行」で引っ張ってきて、低賃金労働者として利用したということも論理的な整合性が取れるだろうが、その前提には大いなる疑問を感じる。戦前の日本がそれほどひどい国家だったのだろうか。確かに敗戦というひどい結果をもたらしたので、国家としてもひどかったのだという解釈をしたくなるかもしれない。しかし、ひどい結果というのは、何か一つでもひどいものがあってももたらされてしまうもので、他の部分では正しいことをしていたにもかかわらず、ある一点で間違ったためにひどい結果になるということがある。それは、戦前の日本について言えば、精神主義的な思考があまりにも強かった点に求められると思う。それは現在の日本でも続いているように思われるので、現在のように産業が発達して豊かになり、それなりに民主的な意識が高まったように見えても、なおこの一点で間違いがあるために、社会のいろいろな部分にひどい結果を生み出しているところがあるように思う。学校のいじめや、膨大な量の自殺者の問題、うつ病の蔓延など、ひどい結果はたくさんある。それでは、この結果から、現代日本は国家としてもひどいものだという解釈が出来るかといえば、日本よりひどい国はたくさんあるし、国家としての犯罪的な行為の責任という点では、アメリカよりましではないかとも思える。戦前の日本が何から何までがひどくて間違っていた、特に日本の軍隊は非人間的で評価できるところはどこにもないという解釈は、本質を見誤るような思考の展開を見せるのではないかと思う。日本は、国家として何が間違っていたのか、日本の軍隊には具体的にどこに問題があったのかを、細かく部分に渡って理解する必要があるのではないかと思う。何から何まで正しかったという国粋主義的な考え方が間違いであるように、評価できる部分など一つもないという「左翼的」な捉え方も間違いではないかと思う。「解釈」というのは「事実」からもたらされる。「事実」をある側面から捉えることによって「解釈」は生まれる。ある人間Aの行為がBの死をもたらしたという「事実」があったとき、そのAに殺意があったという「解釈」があれば殺人行為だという判断になり、殺意がなければ事故だという「解釈」が生まれる。これは、「解釈」であって、「殺人」や「事故」という現象がそこに存在しているわけではない。多くの解釈も論理の構造としては同じものだが、一般性のある抽象的な解釈は、その一般性ゆえに次の解釈の前提になることがある。科学的な法則性という「解釈」はそういうものだ。科学が語る命題は、「すべて」の対象に関わるもので、一般的にそういえるという「解釈」になっている。だから、次に同じような現象を見たときに、その「解釈」が前提となって論理的な判断が引き出される。万有引力によってすべての物質は質量に比例する引力を持っているという「解釈」が出来る。そうすると、地球を離れていくように見えるヘリウムガスを入れた風船も、「解釈」としては、地球に引っ張られるという前提で考えなければならない。ヘリウムガスの場合は、地球の引力よりも、空気から押される浮力のほうが大きくなるので結果的に地球を離れるという現象が見られるという「解釈」になる。この「解釈」によって、万有引力と形式論理的な矛盾を起こさないように、論理的な整合性が取られることになる。万有引力の場合は、科学的真理として確かめられているので、これを前提にして思考を進めることに問題は生じない。しかし、このように確実な真理として確定したものでない「解釈」を前提にして思考を進めれば、その「解釈」に間違いがあった場合に、そこから展開された思考の全体が崩れてしまうということが起こる。戦前の日本の軍隊および日本という国家は、世界に冠たるひどいものだったのだろうか。その前提が正しければ、さまざまな日本軍の行為というものの「解釈」も論理的な整合性が取れるものになるだろう。しかし、この前提が違っていた時は、そこから導かれたように見える判断はすべて疑わしいものになってしまう。「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」「沖縄の集団自決」の問題などは、旧日本軍と日本という国家のひどさを象徴する「事実」だと言いたい人がいるかもしれない。しかし、日本がひどい国だったからということを前提として「解釈」すれば、これらのことが起こったということが論理的整合性を持っているという「解釈」になっていると、その信憑性は、旧日本軍や国家としての日本がひどいものだったという「解釈」の妥当性に依存することになる。これに疑問を差し挟むならば、そういう「解釈」を前提としない「事実」性から、上のような事件の姿を確定する必要があるだろう。例えば、「沖縄の集団自決」の問題では、多くの証言が得られているというが、証言だけでは証拠としての能力は弱いと考えなければならないだろう。裁判においても自白だけで判断すれば間違えることが多い。「解釈」を前提としないのであれば、どうしても物的証拠を求めなければならなくなるのではないかと思う。もちろん、物的証拠を求めることが難しい場合があるだろう。そのような時、裁判であれば基本的には、犯罪を確定する証拠がないのであるから、疑わしくても被告は無罪になるのが正しいと思う。歴史的「事実」の場合は、裁判のときほど割り切った感覚にはなれないだろうから、問題の設定を変えて対処するのがいいのではないかと思っている。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「沖縄の集団自決」といった問題が、本当にあったことであれば、日本軍や日本という国家はいかにひどいものだったかがよく分かるようになるだろう。しかし、日本がそれほどひどい国家だったということを証明することにどれだけの意味があるだろうか。しかも、その証明は困難を極めているとすれば、なおさら意味を失うような気がしてならない。証明が困難であればあるほど、この「解釈」は自明の前提として設定されているだけのようにも見える。以前の国家や軍隊がひどいものだと分かっても、今のそれは違うのだという意識があれば、そのひどさは過去のものになり、現在それに気をつけるという意識は薄れる。過去の「解釈」がイメージだけであって、その内容まで理解してされているのでなければ、昔はたいへんだったけれど今はいいという「解釈」にもなるのではないだろうか。原因と結果を考える因果律も一つの「解釈」に過ぎない。日本軍と日本という国家がひどいものだったから、戦争においてひどい行為が行われたという因果関係も一つの「解釈」だ。この原因の位置に置かれているひどい国であるという「解釈」が、原因として置かれるのではなく、もっと根本原理的な、別の原因があるのではないかという問題の設定が、現在にもつながる思考の展開を見せるのではないかと思う。小室直樹氏は、目的と手段が逆転してしまって、手段が目的化してくるようなメンタリティの問題性を、日本社会の問題として指摘していた。戦争行為というのも、そもそもの目的は、日本が外国の植民地にされないようにという自衛の目的を遂行するための手段だった。だから、その目的が達成されるなら、どこまでも戦争をする必要はなかったし、目的が達成されたと判断した時点で停戦協定を図ることも出来ただろうと思う。しかし、いつしか戦争をすること自体が目的化し、そのために退却も捕虜になることも許さないというようなおかしな規定さえ生まれた。たとえ玉砕してでも戦争を遂行するというのは、戦争を手段として考えた場合には起こりえない発想だろう。目的と手段を混同することは、高度経済成長期の企業での労働にも見られたと小室氏は指摘する。働いて物を生産することは、自分の生活を豊かにするための手段に過ぎないのだが、いつしか働くこと自体が目的化し、何のために働くかではなく、働くこと自体が幸せという転倒した意識を生み出すことによって、日本の猛烈サラリーマンが生まれた。このような目的と手段の混同は、日本社会のあらゆるところに見られるのではないかと思う。大学受験は、学問をするためにどこかの大学へ入るための手段に過ぎないのだが、かつても今も受験生にとっては人生の目的のようになってしまっている。単純なものの存在は、単にそれを指し示すだけで理解できるが、複合概念の存在は、指し示すことが出来ない。それは「解釈」によって「ある」とも「ない」とも言える弁証法的なものになる。だからこそ、複合概念の問題を、単純な存在の問題にしてはいけないのだと思う。僕は「ない」ということを主張しているのではない。「ある」ということへの疑問から思考をスタートさせようとしているだけだ。単純な「対象」であれば、「ある」の否定は「ない」なのだが、複合概念の場合は、「ある」の否定は、「かつ」という論理語で結ばれた命題の一つを否定することに過ぎないのだ。
2007.10.22
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ウィトゲンシュタインの世界においては、「事実」から切り出されてくる「対象」は単純なものに限られていた。それは、その「対象」の像として設定される「名」という言語表現が、論理空間を作る要素として取り出されるからだ。現実世界から論理空間を作り出すとき、それが一定の手順・アルゴリズムとして確立していなければ、全体像を把握することが出来なくなる。論理空間は、全体像を把握できなければ、その思考の展開の限界を見ることができなくなる。全体像の把握という目的からは、「対象」の単純性は不可欠の要請のように思われる。ウィトゲンシュタインの世界においては、存在するものは単純なものに限られている。言葉を言い換えれば、単純なものとしての「対象」の存在は、世界の前提として設定されていると言えばいいだろうか。これに対して、複合的概念(論理語によって定義される概念)が指し示すものは、それが存在するように見えても、存在とは判断しないというのがウィトゲンシュタインの考え方なのではないかと思う。この捉え方は、かなり直感と対立する違和感を感じるものではないかと思うので、直感とうまく調和するような理解のしかたを考えたいと思う。あまり厳密な言い方ではないが、「対象」というのは、現実に直接指し示すことが出来る存在を表現したときに、「名」として登場するという感じがする。それに対し、論理語のように「名」ではないものは、直接指し示すのではなく、状況を解釈したときに認識の判断として表現されるもののように感じる。野矢茂樹さんは、「N夫妻が動物園へ行く」という命題を考察して「夫妻」という言葉が複合概念を表現したものであることを指摘している。これは、「夫妻」という言葉の意味の考察のみから、「夫妻」を構成する複数の命題を引き出すことが出来、それを論理語「かつ」で結んでその概念を表現できるからだ。現実に存在する「対象」は、「夫妻」を構成する太郎と花子という二人の男女で、それは太郎が誰か、花子が誰か、直接指し示すことが出来るだろう。この直接指し示すことが出来る「対象」こそが、本当に存在しているといえるものだというのが、ウィトゲンシュタインの世界・論理空間の考察の前提としてあるのではないかと思う。「夫妻」というのは、目の前に太郎と花子がいれば、この二人を指し示しているように見えるが、実はそうではなく、この二人の存在している状況を総合的に判断した結果として、認識の中に「夫妻」という判断が見えてくると捉える。このような考え方に違和感を覚えるのは、「N夫妻がいる」というような、「夫妻」というものが存在しているというような言語表現が日常的にはよくされるからだ。しかし、これは、存在としては「太郎がいる」「花子がいる」ということが語られているのであって、二人の関係が「夫妻」であるという判断がそれに伴って、複合概念が短縮されて表現されたために、「N夫妻がいる」というような言い方になっていると解釈できる。複合的概念を直接現実世界の存在としては捉えないというやり方は、判断の対立という弁証法的な矛盾が起こったときに、その弁証法的矛盾の発生を形式論理的に納得するのに役立ちそうな気がする。例えば、「N夫妻がいる」という判断をしたいとき、これを肯定する人と否定する人が現実にいる可能性を想像できる。弁証法的に対立した判断が両立しうる。それは「夫妻」という概念が複合的概念であって、論理語「かつ」でつながれる際に、その命題の作り方に違いがあれば、当然それが真であるという判断にも違いが出てくるだろうということが想像できるからだ。単純な存在である「対象」は、それを指し示すことである程度の共通概念をつかむことが出来る。しかし、複合概念を表す言葉は、その論理語の結合がすべて同じものになるとは限らない。僕は、前回のエントリーで、単純化のために「婚姻関係を結んでいる」というものを「婚姻届を出している」というふうにした。これは形式だけを問題にしていて、この形式が成立していれば「婚姻関係がある」という肯定判断になり、この形式が成立していなければ「婚姻関係がない」という否定判断になるという、単純化した判断を元にして考察した。だが、現実には、この形式だけで「婚姻関係」という複雑な現象を表現するのは無理だろう。現実には、論理語「かつ」で結ばれる条件というものが、「婚姻関係」の判断にはたくさんあるのではないかと思う。そうすると、捉え方が違えば、この論理語「かつ」の結合にも違いが出てくるだろうと思う。日常の共同生活というものが「婚姻関係」にとって不可欠だという考え方もあるだろう。そういう人には、たとえ形式的には婚姻届が出ていても、別居状態にあるカップルは「婚姻関係にある」とは判断されないかもしれない。複合概念は、定義の違いによって肯定判断も否定判断も可能になる。それでは、その判断に従って「存在している」「存在していない」という言い方も出来たりするだろうか。「N夫妻」という捉え方が、ある定義からは出来ないとなったとき、「N夫妻は存在していない」といえるだろうか。「夫妻としては存在していない」かもしれないが、太郎と花子という個人は存在しているかもしれない。「として」という存在の言い方は、存在そのものを指し示していないのではないだろうか。「夫妻」というものは、存在を議論できるものではなく、そのような関係・状況にあるかという判断を議論できるものなのではないだろうか。もし、「夫妻」という複合概念の定義が誰でも同じものになっていれば、論理に従った判断をしている限りでは、「夫妻」という判断は誰でも同じものを出すだろう。しかし、定義が違えば、判断に違いが出てくるのは、弁証法的な矛盾の現れと捉えることが出来る。それは視点が違うので判断が違ってきているのである。同じ視点で、肯定と否定が同時にされるという形式論理的な矛盾が生じているのではない。弁証法的な矛盾は、形式論理的には少しも矛盾していないのである。複合的な概念の存在を議論してしまうと、このような弁証法的な矛盾が形式論理的な矛盾に重なって誤謬が展開されそうな気がする。存在というものを、ウィトゲンシュタイン的に単純な「対象」にだけ関わるものと考えると、指し示すことが出来ればそれは存在していることになり、視点の違いによって「存在している」「存在していない」という対立した判断が出てくることにならないからだ。これは、形式論理的に、「存在している」か「存在していない」かどちらか一方だけが成り立つ排中律に従うものと考えられる。そして、論理空間の設定には、「対象」が存在していることが前提とされている。何が存在しているかということは、個人の経験から違いが出てくるが、何かが存在しているということは前提されている。複合的な概念は、その存在を議論するのではなく、その判断が妥当なものであるかという認識の問題として設定すべきではないかと思う。そのように考えると、深刻な対立が生まれている議論も、ある程度冷静に対応した議論が出来るのではないかとも考えられる。例えば「南京大虐殺」と呼ばれる歴史的「事実」に関して、それが「あったか」「なかったか」というような存在に関わる議論をすれば、それは弁証法的な矛盾が形式論理的な矛盾にかぶさってくるのではないかと思われる。それは、「大虐殺」というような判断が妥当であるかどうかという認識の問題として議論されるべきだろうと思う。かつては「あったか」「なかったか」という議論だったが、今ではそうではないのだと言いたい人もいるかもしれないが、何人が虐殺されたのかという人数を議論している段階にとどまっているのであれば、これはやはり存在の問題として、間違った議論に陥っている可能性があるのではないかと思う。「虐殺」という言葉が、単純に対象を指し示して誰もが納得できるような言葉ではないことは、かなり明らかなことではないかと思う。さまざまな条件を設定して論理語によって結合される定義の複合概念であると思う。ある現象を見て、それが「虐殺である」と肯定判断する人もいるだろうし、「虐殺でない」と否定判断をする人もいるだろう。それは、「虐殺」という複合概念の定義が違うからだ。このような複合概念を基礎にして、その人数を議論するのは、違う視点の元での結論だけを切り離して議論していることになる。この議論の中でも、犠牲者の中には一人も「虐殺」されたものがいないという「虐殺0人」という考え方と、すべての犠牲者が「虐殺」されたものだという、中国の「虐殺30万人説」は、どちらも両極端としてばかげた言説として退けられなければならないだろう。「南京事件」を冷静に議論の対象にしようと思うなら、異論の多い「虐殺」の定義に妥当な線を見つけなければならないだろう。それが見つからない限りは、この議論は常に不毛な結論に導くに違いない。複合概念の存在を議論するのは不毛な議論になると思う。存在するものは単純な「対象」に限ったほうが論理的な判断には間違いが少なくなるだろう。最近の話題でも議論が危うい方向に行っているのではないかと感じるのは、沖縄における集団自決の軍の関与の問題だ。これは、教科書の中から、それが「あった」という記述が削られたことに端を発した議論だ。しかし、これを「あったか」「なかったか」という存在で議論してしまえば、それは不毛になるとともに、形式論理的に間違った議論になりそうな気がする。軍の関与というのは、単純に指し示せる単純概念ではないだろう。どのような条件が整ったときに、軍が関与したという判断ができるかという定義には、それぞれの立場で大きな違いが生じてくるものと思われる。軍隊の存在が大きな圧力として無言のうちに自決に導いたのだというのなら、これはそういうことが「あった」という想像はしやすい。しかし、軍が、その地方の命令権限を持っている人間の判断として明確に命令という形で自決を指示したということが、軍の関与だという定義だと考えると、そのようなことがあったと想像するのは極めて難しい。軍が、兵士以外の民間人に直接命令を下すということは、よほど特別な状況でないと考えられないからだ。もちろん、沖縄戦は特別な状況だという判断も出来るだろうが、アメリカ軍と絶望的な戦いに出て行く日本軍が、わざわざ武器をアメリカに向けずに、民間人の自決のために使わせるということを命令するということの必然性が僕にはどうも違和感が生じる。実際には、渡嘉敷島の集団自決の問題においては、今までは軍の直接命令があったとされていたが、それは嘘であったということが確かめられているという。(「沖縄・渡嘉敷島の集団自決」)もし、軍の関与というものが、直接命令をしたものだという定義になってしまえば、正式の命令書でも残っていなければ、つまり単純に指し示すことが出来る「対象」が存在しなければ、「あった」ということが証明されなくなるのではないだろうか。沖縄の集団自決の問題が、教科書の記述の中で、軍の関与があった・それも直接の関与があったということの問題にされていると、それは存在の問題になってしまい、とても証明が出来そうにない問題になってしまうのではないかと思う。集団自決の問題は、日本軍の非道性の問題というよりも、集団自決しなければならないという圧力を人々に与えた、精神主義的な問題として捉えたほうがいいのではないかという感じがする。国民がみんな死んでしまえば、国が残っても仕方がないのに、国のために国民全部が死んでもかまわないというような精神的な圧力が存在したことが問題なのではないだろうか。軍の位置も、そのような圧力との関係で理解しなければならないのではないか。集団自決の問題が、存在の問題に傾いているように感じるのは、論理的には間違いではないかという気がする。存在は単純概念の問題であり、複合概念に対しては、その判断が妥当かどうかが問題にされなければならないと思う。
2007.10.21
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ウィトゲンシュタインが「対象」の単純性について語っていることを理解するのは案外難しいのではないかと感じる。それは、存在という属性をどう捉えるかということと深く関わってくる。「対象」というのは、世界を構成する「事実」から切り出されてきた要素として登場する。「事実」としての世界の現れがまずあり、それを捉えた人間が、「事実」を分析してその中から構成要素としての「対象」を取り出す。そして、その「対象」を表現する言語を「名」と呼んだ。この「名」が、現実の「対象」の像として働くことになり、これを言語表現としてつなぎ合わせて命題を作り、それが言語的に意味を持つものであるとき、それを「事態」と呼んで可能性を表すものとした。「名」の結合によって作り出された「事態」を集めた集合は「論理空間」と呼ばれ、これこそが思考の限界を考察するためのベースとなるものになった。このとき論理語については、否定の「ない」や接続詞の「または」「かつ」「ならば」などは「名」ではないという理解の仕方をした。「名」ではないというのは、それと直接結びつく「対象」という実体がないということを意味する。つまり、実体としてこの言葉を体現するようなものは存在しないと考えている。このような考えは、言語表現の概念について、例えば名詞のすべてが「名」になるわけではないという考察をもたらす。もしその概念が、いくつかの「名」を論理語で結びつけたものになっていれば、それは「名」ではない論理語による結合なのだから、「事態」にはなりえず、従って論理空間の要素ではないことになる。論理語で結び付けられた概念を複合概念と呼べば、複合概念を表す言語表現は「名」ではなく、それが表す内容も現実に存在する「対象」ではないということになる。これは、直感的に理解するのは少々ややこしい。野矢茂樹さんが出している例は、「夫婦」というような複合概念だ。これは、基本的には「婚姻関係を結んでいる」ということが重要になるのだが、「婚姻関係」という言葉もまた複合概念となるので、ここでは単純に「婚姻届を出した」ということで「婚姻関係を結んだ」ということだと解釈する。事実婚のようなややこしい概念は捨象して考える。この捨象は、単純性のための捨象であって、別に僕が事実婚に反対しているからそれを無視するということではない。この単純化で「夫婦」という概念を分解してみると次の3つの命題を「かつ」で結んだものだと考えられる。「夫婦」を構成する二人を太郎と花子と呼んでおく。1 太郎は男である。2 花子は女である。3 太郎と花子は婚姻届を出した。この3つの命題に登場する「太郎」「男」「花子」「女」「婚姻届」「出す」という言語表現が、これ以上分解の出来ない単純性を持っているなら、それは「名」を表すことになり、上の3つの命題は論理空間の「事態」となる。しかし、分解可能なら、その言葉はさらに論理語の結合に分解され単純なものが求められることになる。この分解は、あくまでも論理的・言語的になされる。太郎という個体が、現実の世界では頭があり手があり足があるというふうに、実体として分解できるとしても、太郎という言語表現が、論理的に分解できないならそれは単純な「対象」を表していると考える。「夫婦」という言葉は、言語としてその意味を分解できるということから、それが単純なものではなく複合的なものであるという判断をしている。だから、「婚姻関係」などという言葉で命題を作れば、これはまた意味の上から分解されることになるだろう。「婚姻届」という紙切れを指すことばを使ったのは、これならこれ以上の意味的な分解をすることなく、実体としての紙切れを指すということで単純化されるのではないかと考えたからだ。「対象」に対するこの単純性の要請というのは、現実の世界では何が存在しているのかという考え方と密接に関係してくる。「対象」として捉えられる「太郎」や「花子」は存在しているが、「名」ではない「夫婦」として表現される言葉に対応する「対象」はないので、「夫婦」は現実には存在しないと捉えるしかない。これはおそらくかなりの違和感を感じるだろう。「夫婦」などという存在は、そこいら中にいるのではないかと考えるのが普通の感覚だ。しかし、そこに本当に存在しているのは、つまり実体として「対象」になっているのは、「太郎」や「花子」であり、「夫婦」という言葉で指し示されているものではないと考えるのだ。「夫婦」というのは、論理語によって構成された、頭の中の概念として存在している。「夫婦」を構成する要素としての実体は存在する。しかし、「夫婦」そのものは、実体としては現実には存在していないと捉えるのが「対象」の単純性ではないかと思える。これは非常にややこしい。現実には、「夫婦」という言葉で語られる存在がいるように感じるのに、それが複合概念であると判断したときには、本当に存在するのは「夫婦」ではないと考えなければならないことになる。それでは、本当に存在する単純な「対象」と、それを論理語で組み合わせた複合概念とを区別することが出来るのだろうか。これは絶望的に難しいと野矢さんは語っているが、一つの方法として次のようなものを提出している。その言葉を含む命題が、もし「対象」として考えているものが存在しないということがわかったとき、その命題は命題としての意味を失う、つまり論理空間から排除されるなら、そこで語られているのは「対象」であり、言語表現は「名」であると判断する。例としては サンタクロースがプレゼントをくれる。という命題が挙げられている。この命題における「サンタクロース」という言葉は、それが空想的なイメージの中のものであれば現実には存在しないので「対象」ではないことになる。このとき、上の命題は、「事実」として存在していないのだが、論理的な間違い・つまり偽という判断はされない。もし上の命題が論理的に偽であるなら、その否定 サンタクロースがプレゼントをくれない。が真である・つまり正しくなければならないのだが、サンタクロースがそもそもいないのであるから、これも正しくなりようがない。単純性を持っている「対象」として捉えられているものが、もし存在しないのなら、その「対象」で作られる命題は意味を失うのである。サンタクロースということばで指されているものが、具体的なデパートの前にでも立っているおじさんを指している、つまり本当に存在している「対象」なら、上の命題は、真であるか偽であるかがはっきりする。つまり、現実世界の「事実」であるかどうかが判断できる。単純性を持つと考えられる「対象」は、それが現実に存在しているなら「対象」として捉えられる。存在していないなら、それは「対象」でもない。「対象」の判断には存在というものが深く関わっている。だが、この存在は、存在を証明するということが出来ない。存在は、論理空間の前提になっているもので、存在を基礎にして論理空間は構成される。しかし、そこで存在を前提される「対象」が本当に存在しているかどうかは論理によっては証明されない。存在は論理の前提であり、ある意味ではア・プリオリに前提されているとしか考えられない。従って、何が存在していると前提するかによって論理空間が違ってくる。神の存在を前提とする論理空間と、神は空想的なものであり現実には存在しないと前提する論理空間では、論理空間そのものが違うものになる。当然のことながらそこで展開される論理操作も違うものになり、思考の限界も違うものになる。存在するものは「対象」になり、それを言葉で表現すれば「名」になる。「名」の基礎には存在がある。しかし、この存在は確認のしようがない。これを逆に考えると、複合概念として論理的に分析できる言葉は「名」ではないという判断がまずできる。それは、論理操作によって作られた概念となる。そして、それは「名」ではないから、現実にはそれに直接対応する実体は存在しない。「名」ではないものについては、それが現実には存在しないという判断ができる。存在するという判断は出来ないが、存在しないという判断は出来る。これは「実体として」という意味だ。「夫婦」という言葉は「名」ではない。それは複合概念として表現される。だから「太郎と花子は夫婦だ」というような命題を考えたとき、それは1 太郎は男である。2 花子は女である。3 太郎と花子は婚姻届を出した。という3つの命題が「かつ」で結ばれている命題だと解釈できる。この3つの命題のすべてが真であるとき、「太郎と花子は夫婦だ」という命題も真になり、1つでも偽になれば、「太郎と花子は夫婦だ」という命題も偽になる。複合命題においては、命題の真偽はどちらかになり、無意味になって排除されることはない。つまり、論理空間に直接の影響を与えない。論理空間は、「名」の結合による命題の可能性のすべてを網羅したものになるので、ある「対象」が本当は存在しないもので「名」から排除されれば、当然論理空間の範囲が狭くなる。しかし、それが「名」でないなら、つまり実体として存在するものでなければ、論理空間そのものは変わらない。論理空間の全体像を捉えるということでは、「対象」の単純性というものが重要になってくるものと思われる。複合概念による表現は、単純な「対象」を表す「名」の結合による表現の論理操作に還元することが出来る。これは、それが「事実」であるかどうかという判断を容易にすることにつながるような気がする。単純なものを表面的に観察すればすむのが「名」の結合による表現ではないかと思う。これはデカルトが考えた分析の方法にも通じるような捉え方ではないかと思う。これ以上ないくらい細かく分解することによって「名」に到達し、現実世界のもっとも単純な存在である「対象」に達するのではないだろうか。また「名」の結合を論理操作によってたくさんつなぎ合わせてしまうと、今度はその全体像をつかむことがたいへん難しくなる。一つ一つは分かりやすくなっても、全体が膨大な量になるために分かりにくくなる。そんな時、全体像のイメージとして複合概念が役に立つような気もする。だが、複合概念は全体像をつかむには便利だが、それが正しいかどうかを判断するのは難しくなる。このあたりに、思考の限界や間違いに陥るきっかけが潜んでいるような気もする。そのような考察のために、ウィトゲンシュタインは「対象」の単純性というものを考えたのではないだろうか。
2007.10.20
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論理語「ならば」について野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』で語っているのは、その真理領域の関係についてだ。「AならばB」という命題があったとき、Aを真理とする状況である真理領域が、Bを真理とする状況であるBの真理領域にすべて含まれているなら、Aが真理であることからBが真理であることも帰結する。つまり、AとBの真理領域が、集合としての包含関係にある時は、この「ならば」の命題は特別な事情にあることになる。Bの真理性は、それを直接確かめることなく、Aの真理性を確かめるだけで成立する。つまり、Aが成り立つなら「必然的」にBも成り立つという関係になっている。あるいは、Aを原因としてBが結果的に起こるという因果関係を語るものにもなっている。野矢さんは、この真理領域の関係以外のことについては「ならば」については語っていないので、これ以上のことについて考えようとするのは、ウィトゲンシュタインが直接考えたことかどうかは分からない。必然性や因果関係については、僕が考えることなので、ウィトゲンシュタインがこのように考えたかどうかは分からないので、ウィトゲンシュタインが構想したことという考察からははずしておいた。「ならば」の解釈については、形式論理的には非常に難しいところがあるので、僕の関心のある部分を自分なりに展開してみようと思う。形式論理的に難しいと思われるのは、「AならばB」という命題は、普通Aが真であるときを前提にして我々は受け取っているということだ。つまりAが真ではない・すなわち偽である時は、この命題をどう受け取るかということが難しくなる。Aが真ではないときに、「AならばB」という命題が意味を持たないと解釈すればすっきりするのだが、形式論理ではその形式を重んじるので、Aが真でないときも、この命題全体が真であるか偽であるかを決定しなければならないという要請がある。Aが真でないとき、「AならばB」という命題は全体としては真であると規定するのが形式論理の考え方だ。これは直感的にはたいへん違和感があるのではないかと思う。間違った前提からは、どんな結論を引き出そうとも、推論自体は形式論理では正しくなるというのが、この解釈になっているからだ。「ならば」で語られる仮言命題は、前提が正しければ結論の正しさを保証するが、前提が正しくなければ結論が正しいかどうかは保証されない。正しいときもあるだろうが、正しくないときもある。それは、前提とはまったく無関係になる。だからむしろそのような二つの命題を仮言命題で結びつけるのが間違いではないかという気がしてくる。結びつけるのが間違いであるなら、全体としてのこの仮言命題も間違いではないかという気もしてくる。だが、形式論理では、仮言命題の前提Aが真ではない・つまり間違いであれば、仮言命題そのものは真になってしまう。この、直感に反する解釈を受け入れるにはかなりの違和感があった。これは、直感に反する(マイナス)×(マイナス)が(プラス)になるという計算を受け入れるときと同じような違和感ではないかと思われる。形式論理でも、「ならば」の解釈を上のようにしなければ、「ならば」を論理計算の中に機械的に組み込むことが出来なくなる。(マイナス)×(マイナス)を考えるときに、(借金)×(借金)というイメージを持っていると、借金に借金を重ねることがプラスになってしまいそうな違和感が生じて、この計算を素直に認めることが出来なくなる。だが、これは借金に借金を重ねることが掛け算の計算ではないということを理解することで、何とか違和感を解決することが出来る。仮言命題「ならば」の真理値については、そのような違和感を解消するような解釈が見つかるだろうか。「AならばB」は、基本的にはAが正しいときのみが、推論の展開にとっては重要なもので、Aが正しくない時は、この命題を設定して推論することには意味がない。それでは、Aが正しくないときに、なぜこの推論全体を真理であると規定するのか。それは真理ではないと受け取るとなぜまずいのか。それは真理領域の包含関係において例外的な存在が生まれてしまうからではないかと思う。真理領域の包含関係が、Aの真理領域がBの真理領域に含まれるという関係にあれば、Aが正しいときには必ずBも正しくなるという関係が成り立つ。しかし、このとき絶対的に偽になる矛盾した命題を考えると、その真理領域は空集合になる。この空集合は、すべての集合に含まれると考える。これは、0(ゼロ)が、他のすべての正の数より小さいと考えるのと同じ発想である。そうすることで0(ゼロ)を数の中に大小関係で位置付けることが出来る。集合における0(ゼロ)に当たるものとしての空集合も、包含関係で、すべての集合に含まれるとすることで0(ゼロ)として位置付けることが出来る。空集合がすべての集合に含まれると考えるなら、その包含関係から、矛盾した命題からはどんな命題でも仮言命題が成立する。「矛盾ならばB」という命題のBには任意の命題を置くことが出来、しかもこれは仮言命題としては真であるということになる。このように形式を決めなければ、真理領域が空集合である矛盾した命題を形式論理の中に位置付けることが出来なくなり、これを例外として処理しなければならなくなる。「AならばB」という命題を、Aが真でない時は機械的に全体としては真であると規定すると、これは「Aでない、またはB」という否定の「ない」と「または」の組み合わせの命題と真理値が同じになる。形式論理では、「Aである、またはAでない」という排中律が成り立つことを前提としている。だから、場合分けとして「Aである」と「Aでない」とを考えれば、すべての場合を考えたことになる。そこで「Aでない、またはB」という命題を場合分けで考えてみると、 「Aでない」場合 … 「Aでない、またはB」は真になる 「Aである」場合 … 「Aでない」は成立しない(矛盾律) だから「Aでない、またはB」は、Bが成立しないと真にならない「Aでない、またはB」という命題は、「Aである」場合・すなわちAが真である時は、必ずBが成り立つときに真になる。「ならば」の性格とよく対応する。実際の論理的考察の場合は、「AならばB」という命題の考察では、Aが成立しないときのことは考えないので、この形式が影響を与えることはないのだが、論理全体の整合性と機械的な操作という点から考えると、この形式を設定しなければならないということになるのだろうと思う。さて、「AならばB」という命題を上のように考察すると、これは否定「ない」と「または」の組み合わせであり、この両者は「名」ではない・すなわち現実にその「対象」を持たないものであるということがウィトゲンシュタインによって主張されている。野矢さんは、「ならば」という論理語が「名」ではないということを直接書いていないが、結論としては、「ならば」もやはり「名」ではないということになるのではないだろうか。つまり、これも現実に、それを属性として取り出せるような「対象」はないということになるのではないだろうか。「ならば」も他の論理語と同様に、論理空間に対する操作として規定されるのではないかと思う。そうすると、必然性や因果関係というのも、それが現実に客観的に存在するというよりは、人間がそのような見方をしたときにそう解釈できるというものとして捉えた方がいいものになるのではないだろうか。これは、少々違和感がある解釈だ。「ならば」の例としてちょうどいいものを思いつかないのだが、真理領域が含まれるかどうかが経験的に決定して、世界の中の「事実」としてそれが得られたとき、それを必然性あるいは因果関係として受け取るのは、人間の側の認識の働きによるのではないかと思われる感じもする。例えば迷信だと言われるような事柄について、不吉な言葉を口にしたときに必ず悪いことが起きるという経験しかしなければ、不吉な言葉が必然的に悪いことにつながる、あるいは不吉な言葉が原因で悪いことが結果として起こるというような因果関係の認識が生まれるのではないだろうか。このとき、不吉な言葉を口にしたときに悪いことが起こらなかったという経験が一回でもあれば、この必然性は崩れる。真理領域の包含関係が崩れるからだ。だが、そのような経験がなければ、この必然性・因果律の認識は保たれるのではないだろうか。科学における必然性の問題は、誰がその経験をしても、また任意の対象に対しての経験においても、その真理領域に変化が起きないことが確かめられるということを前提にしている。真理領域の包含関係は常に成り立つ。だからこそ法則性として認識されることになるわけだ。だが、これはまだ経験していない事柄に対しても、そうなるといわれているのだから、現実には論理の飛躍を伴うものだ。必然性や因果関係については、我々が経験できる現象は、時間的なずれを伴った経験だけだと考える考え方もある。Aという現象の後に、必ずBという現象を観察できるなら、この時間のずれが必然性と因果律の認識を生むとする考え方だ。それは、現実に存在するのは、基本的には時間的な前後関係だけであって、必然性あるいは因果関係として認識されるのは、我々の側の認識の問題だとするものだ。僕は、今はこの考えにかなり傾きつつあるのだが、そのときに科学の持つ客観性をどう解釈したらよいかというのが難しくなるのを感じている。科学が語る必然性は、観察者の個性に寄らない客観性を持っている。この客観性は、「対象」が持っているものであって、主観にだけ存在するものではないだろう。それでは、やはり必然性や因果律は客観的に存在するとも言いたくなる。この対立を解決する道は、弁証法的に考えることで見つけることが出来るだろうか。必然性や因果関係は、経験によらないものも見出せる。数学におけるものがそういうものだ。論理の世界に見られる必然性・因果関係と言ってもいいかもしれない。これは、本質的には言葉の問題になるのかもしれない。ループ・コース、ナンバー・プレイスといったパズルでは、あるルールを設定して、そのルールの元で考えると必然的にこうでなければならないということが論理的に導かれる。そのルールは、仮言命題の形で語られる。つまり、最初から必然性が設定されている世界が数学の世界であり、論理の世界だと言ってもいいかもしれない。現実を対象にする科学では、このルールに当たる法則性が、現実の観察から得られる。数学や論理のように、あらかじめこうだと、ある意味では恣意的に設定することが出来ない。現実の観察に規定されて、その法則(ルール)が設定できるかどうかが制約される。しかし、それが設定できると考えれば、そこに必然性を見出したと言うことが出来るのだろう。このルールは、現実に制約されるというところに客観性があるものの、ルールを設定するという意識の面では、人間の認識の働きと捉えることも出来るのではないかと感じる。必然性や因果関係は、人間がある程度恣意的に設定できるところがあるので、それを間違えるということも起こるのだろう。つまり、真理領域の包含関係を見逃すということも起きるのではないか。また、信仰のように、その必然性を信じるという態度も生まれてくるのではないかと思う。人間の行為の妥当な解釈を得るには、必然性や因果関係を人間の認識の働きとして見た方がより正しいのではないかと今は感じている。
2007.10.19
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shさんという方から「『論理哲学論考』が構想したもの6 論理語は「名」ではない」のコメント欄に、弁証法における矛盾という概念に対する違和感を語るコメントをもらった。僕も形式論理からスタートした人間だけに、若いころは弁証法が語る矛盾に大きな違和感を感じていた。形式論理における矛盾は現実に存在することはあり得ない。それは、存在を否定する形でその定義がされているからだ。ある命題の肯定と否定というのは、ウィトゲンシュタイン的に言えばその真理領域が反転している。同時に現れるような真理領域になっていない。もし、これが同時に現れるようなら、形式論理ではそれは矛盾とは呼ばない。弁証法では、この矛盾が現実に存在することを主張する。形式論理に反したこの主張は、合理的思考を放棄したものとして若いころの僕には感じられたものだった。つまり、弁証法というのは、理屈っぽい言い方で相手を丸め込もうとするような詭弁に過ぎないというのが最初の印象だった。それが変わったのが、三浦つとむさんの弁証法の解説を読んでからだった。弁証法における「矛盾」と形式論理における「矛盾」は同じ音声・文字を使った言葉ではあるけれど、その概念はまったく違うと言っていいほどの大きな違いのあるものだと今では理解している。単に音声と文字が同じだけで、それを同じものだと勘違いすると、弁証法的な矛盾に大きな違和感を感じるだろうと思う。そういう意味では、僕は弁証法的な矛盾は、矛盾と呼ばないほうがいいのではないかとも感じている。それは「対立」といったほうがぴったりくるような気がする。特徴を表すには「弁証法的対立」と言った方がいいだろうか。形式論理的な矛盾とは、ある命題Aが肯定と同時に否定されるときに矛盾だと言われる。これは、まったく同じ内容を持つ命題Aの肯定と否定ではなければならない。形が似てはいるけれど、違う命題Bを持ってきて、AとBという二つの命題を両立させようとするなら、ある条件のもとではそれは両立する可能性がある。それは形式論理的にはまったく矛盾ではない。弁証法における矛盾というのは、見かけ上結論として提出されている命題が、肯定と否定の形をしているので矛盾のように見えてしまうが、形式論理としては仮言命題の形をしたものと理解しなければならないと思う。つまり、 形式論理における矛盾 命題C(肯定) かつ 命題Cでない(否定) 弁証法における矛盾 命題A(前件) ならば 命題C(肯定) かつ 命題B(前件) ならば 命題Cでない(否定)ということになる。これは見かけ上、どちらも命題Cの肯定と否定を主張しているように見える。だが、形式論理的な矛盾は、前提抜きに、あるいはすべての前提のもとでのCの成立と否定が同時には起こらないことを語っている。それに対して弁証法における命題Cの肯定と否定は、ある条件のもとでの主張であり、条件が違えばそれは違う結論になる可能性はいくらでもあるのだから、形式論理的には必ずしも矛盾してはいないことになる。具体的な例で両方の矛盾の違いを考えてみよう。まずは「矛盾」という漢字の表現の元になった肯定と否定の命題を考える。ここでは矛(ほこ)と盾(たて)について次のような主張がされている。 矛 … どんな盾でも貫いてしまう 盾 … どんな矛でも貫けない。防いでしまう。もしこのような矛と盾が存在すると、矛に関する次の肯定命題と否定命題が同時に成立することになる。 肯定命題 … すべての盾を貫くことが出来る(貫くことが出来ない盾は存在しない) 否定命題 … すべての盾を貫くことは出来ない(貫くことが出来ない盾が存在する)この矛と盾は矛盾した存在になる。このような時、形式論理では、このような矛と盾は現実には存在できないと結論する。両方の主張を同時に満足させるような「対象」は現実世界にはないのである。真理領域にまったく共通部分がないのが形式論理的な矛盾になる。これに対し、弁証法的な矛盾は、三浦つとむさんが『弁証法はどういう科学か』で提出している例を見てみると、例えば親子関係での「父である」という矛盾の例については次のように考えられる。3代に渡る父と子の家族がいたとき、中間に位置する2代目の男に関しては、 (前件)1代目との関係においては (結論)「子である」 (前件)3代目との関係においては (結論)「父である」すなわち「子ではない」結論において、「子である」という肯定判断と「子ではない」という否定判断が得られる。これは一見形式論理的な矛盾のように見えるが、前件が違うということを考えると、この結論を対立させる必要はない。どちらも仮言命題としては正当なものであり、形式論理的な矛盾は起こしていない。つまり、このような「子である」「子ではない」という主張は十分両立しうるのである。これを矛盾と呼ぶかどうかが、矛盾の定義によっていると考えられる。僕は矛盾と呼ばないほうがいいと思っているのだが、今までの伝統的な使い方からすると、いまさらそれを変えることは難しいのだろうと思う。ベルトコンベアを使って、前進しながら前進しないという矛盾を作り出す場合については次のように考えられる。これは、前件としては相対的な位置関係というものが条件の違いになって結論として「前進している」という肯定判断と「前進していない」という否定判断が得られると考えられる。 (前件)前方へ向かう運動をしている人間とベルトコンベアとの位置関係においては (結論)「前進している」 (前件)その運動を外から眺めている人間においては (結論)人間が前進している分ベルトコンベアが後ろに引き戻しているので相対的な位置は変わらないことから「前進していない」という二つの仮言命題が得られる。結論の対立は、現実における対立ではなく、条件の違いによる結論の違いに過ぎない。形式論理的な矛盾ではないのである。弁証法的な矛盾と言われるものは、すべてこのように仮言命題の形に直せるものになると僕は思う。なぜなら、弁証法における矛盾と呼ばれるものは、現実世界における対立を表現するものだから、それが形式論理的な矛盾と同じものになってしまうと、現実に存在するはずがないからだ。現実に存在する、矛盾のように見える対立はすべて弁証法的なものなのである。ただ、上の例で引いた弁証法的な矛盾は内容的にはそこから何ら発展的な思考が展開できるようなものではないので、つまらないものだと言える。これは、三浦さんの本が入門書的な形のものなので、いきなり難しい分析を必要とする矛盾の例を出すことが出来なかったので、初学者のための分かりやすい例として、ある意味ではつまらない矛盾の例が語られているのだと思う。実際には、ある先入観の元での一面的な見方による結論しか持っていないときに、現実がどうもその見方に反するような現象を見せているという経験を持ったときにこそ、弁証法的な矛盾は大きな威力を発揮する。それは、それまでの認識が一面的だったことを教えてくれるからだ。人間というのは、その見方がたとえ一面的なものであったとしても、それが常識であり・あまりにも自明だという感じが強すぎると、それと違う見方をすることが出来ない。違う視点を教える発想法として弁証法を役立てるということが、弁証法にとってはもっとも有効性を発揮することになるだろう。例えば、運動というものを考えたとき、われわれが直接知覚出来るのは運動している姿ではなく実は瞬間の静止した姿だけだ。だから、これが常識となり一面的な見方として定着する。そうすると運動は静止になり、静止は変化しないということが結論として得られる。だが、運動している物体は位置が変化するのだから、ここに「変化する」とともに「変化しない」という矛盾が見られるような気がしてくる。これが、形式論理的な矛盾であれば、世界の中に運動が存在しないというゼノンの主張が正しいことになるが、これは弁証法的な矛盾であり、違う視点を教えているものだと受け止めれば、それを形式論理的に矛盾しないように取り扱うことが出来る。 (前件)運動を位置情報という観点から見れば (結論)その位置で静止していると見る(つまり、空間のある位置に存在する) (前件)運動を変化しているという運動量的な観点から見れば (結論)静止はない(つまり空間のある位置に存在するということが言えない)最初の見方に対応する数学は、代数方程式的な均衡を表現するような、静止を計算する数学になる。もう一つの見方に対応する数学は、極限の計算を含む微分積分的な、関数の数学になるだろうか。極限というのは、そのどこかの時点で止めてしまえば極限にならない。常に無限の運動をして、ある地点に近づいているという状態が極限だ。それはどこかの位置に存在しているということが言えない。どこにもないのだが、全体として運動を表現していると捉える。だから、 0.99999999999999999………という表現が、極限を表す限りでは、これは1に等しいのである。これが1になるというのは、弁証法的な矛盾であり、形式論理的な矛盾ではない。だから、数学においてもこれを正確に1と同じものとみなして計算をしても、その全体系が論理的におかしくなるということがないのである。弁証法的な捉え方が出来ないと、微分積分学というのは、単なる計算のアルゴリズムになってしまう。一面的な見方があまりにも強固で、現実がどうもそれでは違和感があるというような認識を持った時は、弁証法的に考えて理解することが、その違和感を解消するのに役立つのではないかと思う。(マイナス)×(マイナス)に対して、どうしても(借金)×(借金)というイメージが浮かんでしまうときなど、その一面的な見方を反省するために、(マイナス)の弁証法的な捉え方を考えてみるのもいいかもしれない。僕は最近派遣労働の問題を強く感じているのだが、これなども、企業にとっては利益になるという見方と、派遣される個人にとっては不利益だという、利益と不利益の弁証法的矛盾が見られるように感じる。この弁証法的矛盾が現実に存在しているというのは、存在するだけの条件が現実にもあるからで、その条件が変わらなければ存在を変えることが出来ない。派遣労働者個人にとっての不利益が、企業にとっての利益になるのではなく、同じように企業にとっても不利益なのだということが証明されれば、ここでの「矛盾」は解消される。どちらにとっても不利益なのだから、その不利益は回避される方向へと向かうだろう。僕は、派遣労働などという形は、将来的には企業にとっても不利益になると思っているのだが、それは弁証法的な発想で考えることからそう結論されるのではないかとも感じている。弁証法は、このようなときに有効性を発揮するので、つまらない例でそれを見限るのではなく、本当に役に立つ例を見つけることが大事ではないかと思う。優れた仕事をした人の仕事の中には、たいてい見事な弁証法的発想が見つかる。弁証法は、発想法として活用したときが、もっとも有効性を発揮するだろうという板倉聖宣さんの指摘が僕は正しいと思う。弁証法の学習はそのようにして進めるべきだろう。
2007.10.17
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野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』の中で、否定を表す「ない」について、それが現実に「対象」を持たないことを指摘していた。これは現実に「対象」を持たないので、「対象」の像として定義されている「名」ではないこともそこで指摘されている。「ない」は、「名」の結合として作られる論理空間の中の「事態」を作らないというわけだ。論理空間の中の「事態」は、現実の「事実」から切り出された「対象」の像である言語を結合して作られる可能性を指す。これは、現実の「事実」から切り出されるのであるから、存在しているという肯定判断を前提としている。否定判断というのは、そのような肯定判断を、像としての言語の結合で作り出したとき、現実にそれに対応する「事実」が見つからなかったときに、その可能性が現実性でなかったということで否定判断として提出される。否定判断においては、その真理領域が現実に見出せないという「ない」が本質的なものになるだろう。ないものを「対象」にすることは出来ないので、否定語「ない」には「対象」が存在しないという判断になり、「名」ではないという判断になる。否定語「ない」は論理空間の真理領域に対する操作となり、命題の真偽を問題にする「論理」としての顔をあらわしてくる。これが操作にあたるものだということから、そのア・プリオリ性(先験性)も引き出される。この操作を2回行うことは、真理領域を反転させることを2回行うことに等しく、それは経験によらず、もとと同じ真理領域を示すことになるので二重否定は肯定と等しくなる。これが形式論理的な法則になる。否定語「ない」のほかにも論理語としては「または」「かつ」「ならば」というようなものがある。これらも、形式論理的には経験によらないア・プリオリな判断をもたらす。その意味では、命題の内容に関わらない判断をもたらすともいえる。内容に関わらず、それが捨象されてしまうなら、否定語「ない」のときと同じように、「対象」を見出すことが難しくなるのではないかと思う。なぜなら、もし「対象」があるのなら、その「対象」が持っている属性によって判断の内容が変わってくるのではないかと思うからだ。「対象」の持っている論理形式が、その象である「名」の論理形式を決定するからだ。従って、「ない」の他の論理語も「名」ではないということになるのではないだろうか。実際、野矢さんは次のようなことを書いている。「真理領域に対する操作は、命題のレベルで考えるならば、否定詞や接続詞といった、命題全体に働きかける語彙で表される。先に否定詞は名ではないことを示したが、今見たような真理領域を操作する働きを持つものとしての接続詞もまた、名ではないことが示せる。例えば、「(pまたはq)かつp」の真理領域を考えてみよう。 「pまたはq」の真理領域は、{W2,W3,W4}であり、pの真理領域は{W2,W4}であるから、その共通部分を取り出すと、{W2,W4}となる。つまり、これは命題pの真理領域に等しい。ということは、「(pまたはq)かつp」は命題pに等しいのである。もし「または」や「かつ」が名であるとするならば、「(pまたはq)かつp」は明らかに命題pとは異なる名の配列から成り立っている。それゆえそれは異なる像であるはずである。しかし、実のところ両者は等しい。ということは、「または」や「かつ」といった接続詞もまた、名ではない。」ここで語られている論理空間は、野矢さんが点灯論理空間と呼ぶもので、二つの明かりaとbと、それが「点いている」という属性のみを「対象」とする論理空間を指す。従って、その論理空間は次のようになる。W1 空集合W2 a-点灯しているW3 b-点灯しているW4 a-点灯している、a-点灯しているこの論理空間は、「名」のa、b、という3つのものの結合で可能性のすべてを表している。否定の「ない」に対応するものとして空集合も設定されている。このときpとqを次のような命題として設定して考えたものが上の文章だ。 p:aは点灯している q:bは点灯しているこのとき命題pの真理領域は、その肯定判断の結合が含まれている論理空間になるので、{W2,W4}ということになる。同様にqの真理領域は{W3,W4}ということになる。従って「pまたはq」の真理領域は、「または」という言葉が、真理領域の操作を表すと理解すれば、その集合としての合併になるから、{W2,W3,W4}という事になる。「かつ」というのは、集合としての共通部分を取る操作で定義されるので、 「(pまたはq)かつp」の真理領域:{w2、w4}ということになり、これがpの真理領域と等しくなる。つまり、「(pまたはq)かつp」の真偽値は、pの内容に関係なく、pの真偽値と一致する。野矢さんは、論理空間というものを像として捉えている。もし現実の「事実」というものが確かめられたら、それを写している象が論理空間の中に見つかる。論理空間の中には、「事実」になっていないものもあるので、現実を写していなければ「事態」にとどまり、それは可能性を語るものになる。この可能性は像である「名」の結合で語られる。だから、もし「名」が違うものであったり、「名」の配列が違うものであれば、それは像として違うものを写していると考えられる。つまり、論理空間が違ってくると考えられる。しかし、「または」「かつ」で結合された命題が同じ真理領域を持つということは、その結合の仕方が違うのに違う像の反映になっていないことを意味する。このことから野矢さんは接続詞としての「または」「かつ」が「名」ではないと判断しているように見える。これは、論理語が操作を表すという定義から必然的に導かれる結論のように感じる。操作は、現実の「対象」として見出せるものではなく、ある種の運動として見出せるものではないかと思う。運動は、運動そのものの存在を語ることは出来ないのだと思う。運動するものの存在を語ることによって、運動が示されるという関係にあるのだろうと思う。ウィトゲンシュタインは、論理語を論理空間の操作として規定することにより、それが経験によらないア・プリオリな決定をするものであることを、その正当性を示したのではないかと思う。論理がなぜ正しいかということの解答は、それが操作として規定されていることで示されているのではないかと思う。野矢さんは論理におけるトートロジーについても語っているが、これは同語反復などとも訳され、結局は同じことを言っているのだという解釈が出来る。上で考察した「(pまたはq)かつp」とpは、命題としては同じものだとみなすことが出来る。つまり 「(pまたはq)かつp」=pというものがトートロジーとして見出せる。このトートロジーという形が、論理の正しさを物語るものになる。論理は、複雑に絡み合った「名」の結合による命題を解きほぐして単純化していく。この操作は、トートロジーというもので真理領域の同じ命題にするということで行われるのではないかと思う。これは、命題の内容に関わらないので、純粋に論理の範囲だけで行ってもその正当性が確保される。そして、単純化された命題において、最終的には現実の「事実」としてその命題が語る「対象」が見出せるかということが問題になる。この時は、「対象」の持つ現実的な内容が真偽に関わってくるのだが、単純化されていればその判断がやりやすくなり、判断の信頼度も増す。そのような論理空間と世界(「事実」の総体)の全体像から、思考の全体像というのもつかめてくると考えられているのではないだろうか。ウィトゲンシュタインの考察は、この後「対象」の単純性と複合性に進んでいるように見える。「対象」をあくまでも単純なものに解体しようという目的があるようだ。複合的な「対象」は、実は論理語によって説明されるという発想に立っているようだ。例えば、太郎と花子という二人の男女が「夫婦」であるという「事実」が見出せたとき、「夫婦」というのは、そのままでは「対象」にせず、これを単純化することを考えているようだ。「太郎と花子は夫婦である」という命題は、「太郎は男である」「花子は女である」「太郎と花子は婚姻関係にある」というようなものに分解し、これを「かつ」という論理語で結べば「夫婦である」という命題と等しくなると考える。このことによって、「夫婦である」という命題の真偽は、3つの命題の真偽に還元されるのだが、これは「夫婦」であるという命題の真偽を決定する複雑さに比べれば単純化されると考えられる。「婚姻関係にある」という言葉がまだ複雑であれば、これをさらに分解することになる。「婚姻届を出している」とか、「実際に共同生活をしている」などという命題に分解される。これが、論理という操作の持つ大きな威力・あるいは有効性とでもいうものになるのではないだろうか。難しい理論というものを見ると、複雑な内容を一言で語ったような法則性を見ることが多いのではないだろうか。それは実は単純なものの論理語による結合に還元されるのではないかと思う。そして、単純なものを一つずつ理解することが出来れば、複雑な命題が語ろうとしていることも理解できるようになるのではないかとも思う。論理を受け止めるということは、学習においても大きな有効性を持っているのではないかと思う。論理語は「名」ではないということは、論理がなぜ正しい思考をもたらすかという本質に関わる重要な指摘ではないかと思う。そして「名」の持つ単純性というものが、またもう一つの論理の本質を見せてくれる指摘ともなっているようだ。野矢さんの解説もその方向へ向かっている。今度は、「名」の単純性というものを詳しく考えてみようと思う。
2007.10.16
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野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』では、否定の「ない」という言葉は「名」ではないという考察がされていた。つまり、否定表現に相当するような「対象」が現実に存在しないということが指摘されていた。否定は、「事実」から「対象」が切り出され、その「対象」の像である言語を結合させて作った可能性が現実に見出せなかったときに、論理的判断として否定判断の「ない」が生じる。可能性を考察できなければ否定判断も出来ないという関係にある。この否定判断の特徴をもっと際立たせて考察するために野矢さんは「点灯論理空間」というものを設定する。それは二つの明かりaとbだけが実体として存在する空間で、可能な「事態」としては、その明かりが「点いている」「点いていない」という二つの状態のみが語られる空間だ。可能な事態は次の4つに絞られる。1 aが点いていて、bが点いている。2 aが点いていて、bが点いていない。3 aが点いていなくて、bが点いている。4 aが点いていなくて、bも点いていない。上の4つは、普通に否定表現を使って「事態」を表現しているが、否定表現というのは、それに対応する「対象」を現実の中に持たないので、現実の「事実」から切り出された「対象」から構成される論理空間にはそのままの形で否定を持ち込むことが出来ない。「事実」として切り出される「対象」は、aとbという実体的な明かりと「点いている」という属性のみになり、これらを組み合わせて論理空間を作れば、上の4つに対応した「事態」の集まりは次のようになる。W1 <aが点いている> <bが点いている>W2 <aが点いている>W3 <bが点いている>W4 空集合(「事態」は何もない)「ない」という判断は、「点いている」という「事実」が現実に見つからなかったとき、可能性として論理空間に設定された「事態」としての「点いている」が否定されるという理解の仕方をする。現実には、いかなる形であれ、「事実」の否定そのものが現れることはないという理解の仕方をする。現実に現れるのは、我々にとっては存在を確認できる肯定判断だけなのであると解釈する。論理空間を上のように設定すると、「ない」という判断に対応する「真理領域」という概念を考えることが出来る。肯定判断の「点いている」に対しては、論理空間にそのままの表現があるので、例えば「aが点いている」という判断の真理領域は、それを含んでいるW1とW2を合わせたものになる。これに対して、「aが点いている」の否定である「aが点いていない」の真理領域は、「aが点いている」の真理領域を除いた残りになる。それはW3とW4を合わせたものになり、「事態」として「aが点いている」というものを含まないものになる。論理空間の中に、その「事態」を含まない部分集合を設定することによって否定というものが論理空間の中に示される。これは形式論理的な否定をよく表現するものになる。肯定判断における真理領域の補集合を論理空間の中で取ることを否定の操作だとすれば、それをもう一回行えば、補集合の補集合ということで最初の集合に戻ってくる。つまり二重否定が肯定と等しくなるというのは、その真理領域が同じものになるということで示される。なおこの論理空間の考察の際に、そこに何の「事態」も含まない部分集合として空集合が考えられているが、これはそこに何もないのであるから、実体としては捉えられないものだ。しかし、空集合という設定をすると、数学(=論理)の中ではそれをフィクショナルに実体化して扱うことが出来る。つまり操作の対象として取り扱えるようになる。空集合というのは、集合としての合併や共通部分の計算をしたり、含む・含まれるという関係を考えたりすることが出来る。この操作は、論理で言えば「または」「かつ」「ならば」というような言葉に対応したりする。空集合を設定することで、論理は論理空間における操作になり・演算となる。現実には何もないのだが、「ない」ということを実体化すると、論理・数学の世界では非常に役立つものになるというのは思考の展開ということでは面白いことではないかと思う。さて、上の論理空間は形式論理をよく表現し、二重否定が肯定判断に戻るという姿もよく直感することが出来る。この二重否定の「否定の否定」というものは、形式論理ではない弁証法という違う論理では単純に肯定判断に戻ってはこない。弁証法では「否定の否定」は、最初の肯定判断を越えた発展をした形で戻ってくる。この違いは、論理空間を使ってうまく解釈できるような気がする。つまり、弁証法の「否定の否定」も、形式論理に反するものではなく、形式論理に従ってはいるが、その操作に形式論理との違いがあるため、論理空間が少し食い違ってくるのではないかと思う。それが形式論理と弁証法の二重否定の操作の違いに現れているような気がする。種粒としての麦が否定されて穂が実り、それがまた否定されて種粒に戻るとき、最初の一つだった種粒が、多くの種粒として発展した形で戻ってくるのを、弁証法的な「否定の否定」の形だとして、これが形式論理の論理空間ではどのように解釈されるかを考えてみよう。まずは、「種粒である」という一つの「事態」を持った論理空間の部分集合が、「種粒である」という判断の肯定を表す真理領域となる。これをTとしておこう。従って、これを否定した「種粒ではない」という判断に相当する真理領域は、Tの補集合ということになる。形式論理では、このTの補集合には、種粒が必ずしも発展するということではない「事態」もたくさん含まれている。「つぶれてしまう」「食べられてしまう」「乾燥して壊れてしまう」というような「事態」も含まれているだろう。それは論理空間なのであるから、可能なあらゆる組み合わせが想定されている。ところが弁証法的な考察では、発展した形で戻ってこないような「否定の否定」は排除されている。形式論理では真理領域の中に入ってきたような「事態」が弁証法では真理領域に入ってこない。穂が実り、豊かな収穫をもたらすという形での「否定の否定」のみが弁証法では「否定の否定」として捉えられている。ここに形式論理と弁証法との違いを見ることが出来る。弁証法においては、どの視点で「否定の否定」を見るかが重要になってくる。それは限定された否定の方向であり、形式ではなく、「対象」の持つ内容に深く関わった判断になってくる。形式論理では、そのような内容をすべて捨象して、まさに形式のみで否定を考えるために、否定を操作と規定して「否定の否定」は元に戻ると判断するのだろうと思う。弁証法における「否定の否定」は、「対象」の内容を考察して、それが発展する方向で否定の方向を見なければならない。これは、内容に関わってくるので、どの対象に対しても一律にどのようにするかということが明確にはならない。常に現実に問い掛けて、それが発展の方向を向いているかを検証しながら進まなければならないだろう。つまり、弁証法は、そのように考えただけでは真理であるかどうかは分からない。麦粒の否定を、鳥に食べられて鳥の胃の中で消化されてしまうという方向で考えれば、これはもう発展の形で戻ってくることはない。このような方向で「否定の否定」を考えると、それは弁証法的には正しい考察にはならない。単純でない「対象」に対しては、この種の視点の間違いが起こる可能性は高いのではないかと思う。何となく理屈は通っていそうな気がするけれど、なんか変だという現実に対する考察は、弁証法の視点を間違えていることが多いのではないだろうか。形式論理による考察は、その形式に関する限りでは、どのような視点を持つかというような個別性はなくなっている。だから、考察する「対象」の個性に関わらず、それは形式については正しいということがア・プリオリ(先験的)に得られるのではないだろうか。弁証法における「否定の否定」から、発展の方向を見るという視点を除いて捨象してしまえばそれは形式論理になり、「否定の否定」は単純に元に戻るということになるのではないかと思う。また、発展の方向というのは、そう単純には決められないこともあるような気がするので、その視点を間違えるということもあるだろう。その時は、発展すると思ったことが間違いだったのだから、発展ではなく逆に退化することもあるのではないかと思う。日本の政治状況では、長い間「改革」ということが叫ばれている。「改革」というのは、今まで続いてきた現状をまずは否定することを意味する。この否定が、将来的には発展の方向を向いてもう一度否定されて戻ってくるというのが弁証法的な思考の展開になる。果たして、今叫ばれている「改革」はそのような視点を持っているだろうか。また、「否定の否定」で戻ってくる必要はなく、悪いものを否定していいものになるのであれば、そのまま否定の状態でいいのではないかということも考えられる。だが、これでは「改革」にはならないような気が僕にはする。否定するだけで足りて、もう一度否定の必要がないというのは、論理空間的に言えば、それはすでに論理空間の中に存在していたもので、何ら新しいものではないということになるのではないだろうか。つまり、それはすでに知られていた「事態」で、単に現実化していなかっただけだという解釈になりそうだ。本当に改革が必要な事柄というのは、すでに知られている「事態」ではまったく現実への有効性がなくなってしまったのではないだろうか。そこには新たな「事態」が構築されなければならないのではないかと思う。そして、新たな「事態」の発見のためには、実は弁証法的な「否定の否定」が必要になるのではないかと僕は感じる。否定したものの視点を限定することによって、そこでのもう一度の否定が、元に戻った最初の出発点に新たな「事態」を付け加えるのではないだろうか。単純に元に戻らない二重否定としての「否定の否定」は、本当の意味での「改革」にとっては必要不可欠ではないかとも感じる。形式論理は、まさに形式を語ることによって、そこに何一つ新しいことを付け加えることが出来ないのではないかと思う。その代わりに、形式論理は、個性に関わらない真理性というものが得られている。個性に応じた思考は弁証法が有効性を発揮するという住み分けがあるのではないかと思う。論理空間は、形式論理と弁証法との有用性をもたらす関係を考察するのにも役に立つのではないかと感じる。
2007.10.15
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ウィトゲンシュタインが語るラッセルのパラドックスの解決は、数理論理学を勉強してきた人間にとっては実に意外な展開での解決になる。ラッセル自身は、タイプ理論というものを創設して、パラドックスの原因となるものを排除することでこのパラドックスを解決している。数理論理学的には、この方が「解決」という感じがする。しかし、ウィトゲンシュタインの方法は、野矢さんの解説を読む限りでは「解消」と言ったほうがぴったりくるような感じがする。ラッセルのパラドックスは、論理を、パラドックスが生じるように解釈したことに原因があるのであって、そのように解釈しなければ、パラドックスではなくなってしまうというのがウィトゲンシュタインの発想のように感じる。このような発想は、『論理哲学論考』の全体を貫いている基本的な発想のようにも見える。『論理哲学論考』では、哲学問題を思考の限界を越えたことにまで解答を見出そうとするものだと指摘することで、そもそもそれが問題にもなり得ないという事を示そうとしている。人間は、解答が得られるような問題にのみ思考を展開させるべきだというのが基本的な発想のように見える。ラッセルのパラドックスは、「自己言及」というものに深く関わってくる。この種の有名なパラドックスには、「クレタ人の嘘」というものがある。「クレタ人は嘘つきだ」という言明がそのパラドックスになるのだが、このときの「嘘つき」は、語ることのすべてが嘘だというふうに解釈しておく。論理的な考察をするためには、真か偽かがはっきりしていなくてはならないので、臨機応変に嘘や真を語っては考察が出来ないからだ。クレタ人でない人間が「クレタ人は嘘つきだ」と語っても、これは少しも問題はない。その言明が正しいか間違っているかの判定は難しいだろうが、それを現実に問い掛けて判断するということは可能だ。つまりこの言明はパラドックスにはならない。しかし、この言明を語ったのがクレタ人自身だとしたら、自分で語ったことが自分にまで適用されるという「自己言及」が起こってくる。そうすると、この言明は、現実のクレタ人が嘘つきかどうかに関係なく、いずれの場合であっても矛盾を引き起こすというパラドックスになってしまう。1 クレタ人が嘘つきだった場合 「クレタ人は嘘つきだ」と語ったのがクレタ人だったら、これは嘘(偽)になり、「クレタ人は嘘つきではない」ということが正しくなる。クレタ人は、嘘つきだったら嘘つきではないことになってしまう。これは矛盾だ。2 クレタ人が嘘つきではなかった場合 「クレタ人は嘘つきだ」という言明は、クレタ人が語ったときに嘘ではなくなるので、クレタ人は嘘つきでないときに嘘つきだということになる。これも矛盾した結論になる。上記のいずれの場合にも矛盾が生じるということは、現実のクレタ人が嘘つきであるかどうかに関係なく、この「自己言及」は矛盾を引き起こす。このような命題を論理学ではパラドックスと呼んでいる。ラッセルのパラドックスも基本的には「自己言及」によって引き起こされるパラドックスだ。ラッセルのパラドックスでは、述語が自分自身に妥当するかどうかということを問題にして言明を立てる。例えば、「曖昧だ」という述語は、何が曖昧なのかその範囲が厳密には決まっていないので「曖昧だ」と判断される。すなわち 「曖昧だ」は曖昧だ。という判断がされる。しかし「厳密だ」という述語も、その範囲が厳密に定義されているわけではないので、 「厳密だ」は曖昧だ。すなわち、「厳密だ」は厳密でない。という判断がされる。「曖昧だ」は自己妥当的で、「厳密だ」は自己妥当的でないということになる。ラッセルは、自己妥当的な述語を、自分自身に述語づけられるというような表現を使っているようだ。さて、「自己妥当的だ」という性質は、あらゆる述語について調べることが出来る。しかし、これを自分自身について調べようとする「自己言及」を考えると、「クレタ人の嘘」のようなパラドックスが生じる。「自己妥当的でない」は、果たして「自己妥当的」かどうかという問題を考えてみる。これが「自己妥当的だ」とすると、 「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。という言明は矛盾した命題の両方を主張することになってしまう。そこで 「自己妥当的でない」は自己妥当的でない。としてみると、今度は、その意味から考えて「自己妥当的でない」という言葉が妥当しないのだから、「自己妥当的だ」ということになってしまう。この場合も、 「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。という結論になってしまう。このように自己言及することで生じてしまうパラドックスを避けるには、自己言及に制限を設ければいいという発想はすぐ生まれてくる。これは実際に論理として正当性を持たせるには細かいところにまで配慮をしなければならないという難しさはあるものの、基本的な発想は分かりやすい。自己言及しない限りでは何ら矛盾は生じないのであるから、自己言及さえ避ければいいということになる。これに対し、ウィトゲンシュタインの解決法は、自己言及のように見えるものが実は自己言及ではないのだと解釈することによっているようだ。このあたりを正確に理解することはかなり難しいと思われるが何とか努力してみよう。ウィトゲンシュタインの解釈は、現実世界をまず「事実」として捉え、「対象」は事実からのみ解体されて求められるという発想からきているようだ。ウィトゲンシュタインは、この「対象」の中に、実体的な名詞に当たるものだけでなく、属性としての動詞や形容詞も含めて考えている。そして、「対象」の像となる言語表現をすべて「名」として統一している。この「名」は、論理形式として、その結合の仕方が決まっている。意味のある結合の仕方がされているとき、その「名」による表現が、現実に成立していることが見られれば、その「事態」(可能性として語られた命題)は「事実」となり、論理的に真であると言われることになる。この「事態」の命題が、現実に成立しているかどうかわからない時は、命題の真偽は決定しない。それは可能性のままにとどまる。また、それが成立していないことが明確である時は、その「事態」は「事実」ではないということになり、「事態」を表す命題は偽であると判断される。命題の真偽は、あくまでも現実世界の「事実」によって決まる。「曖昧だ」や「厳密だ」という述語は、それが現実に成立している「事実」であるかどうかを見ることが出来る。「事実」から解体される「対象」であり「名」であるということになる。また、この言葉自身の自己言及である 「曖昧だ」は曖昧だ。 「厳密だ」は厳密でない。という命題も、現実世界の「事実」として真偽が確かめられる。そして、「自己妥当的だ」という述語は、それが自分自身以外の述語を考える限りでは、現実世界の「事実」からその言明の真偽を判断することが出来る。 「曖昧だ」は自己妥当的だ。 「厳密だ」は自己妥当的でない。しかし、「自己妥当的だ」という述語に対して、それが自己妥当的かどうかを判断するような「事実」は現実世界にはない、と解釈できるのではないだろうか。「自己妥当的だ」という述語(=名)に関しては、自己に対する言及はその論理形式としては排除されていると考えられるのではないかと思う。つまり、 「自己妥当的だ」は自己妥当的だ。あるいは 「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。という言明は、そもそも意味を持たない命題として「事態」の中に入ってこないのではないか。だから、その真偽を考察することも出来ないのではないか。無意味な命題は、そもそも真偽の決定も出来ないのであるから、矛盾を生じるようなパラドックスにもなりえない、というのがウィトゲンシュタインの結論なのではないだろうか。 「自己妥当的だ」は自己妥当的だ。あるいは 「自己妥当的でない」は自己妥当的だ。という命題が無意味だと受け取るのはかなり難しい感じがするが、その真偽が現実世界の「事実」を元にして決定出来ないという根拠から「意味がない」と解釈するのは納得できる部分もある。あくまでも現実世界を出発点にしたウィトゲンシュタインにとっては、現実から離れない限りではラッセルのパラドックスは生じないとした結論は妥当なものであるような気がする。現実に自己言及が出来る表現であればそこにはパラドックスは生じない。現実に自己言及が出来るかどうかわからないが、とにかく何でも結合の対象にして文法的な意味さえ解釈できるなら、そのことで自己言及を作ってみると、現実がどうであろうとおかしな主張が出来上がるときがある。これは、現実と無関係に言語だけで結合が出来るとしたところに問題がありそうだ。言語の論理形式も現実から獲得されるものだと考えれば、現実を記述する限りでは自己言及のパラドックスは生じないのだといえるかもしれない。現実から出発するということが、『論理哲学論考』における本質的に重要なものではないだろうか。
2007.10.14
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ウィトゲンシュタインは、現実の「事実」というものから出発して、まだ現実化してはいないが、その可能性があるものを見るということを思考の働きとして想定しているように感じる。人間の認識の積極面を思考というものに見ているようだ。そして、思考の限界を考えるということは、我々がどのくらい正しく現実を捉えられるのかということを求めることを意味するだろう。現実を出発点にするというのは、あくまでも現実の世界がどうなっているかに我々の関心があるのだという意識ではないかと思う。この、現実の世界を出発点にするというのは、一般論としては納得がいくものだ。空想的な出発点を置いても、それが現実に有効かどうかは分からない。現実が出発点だというのは、現実に有効性を持ち、それが現実の我々の指針になるという点で重要なことだ。しかし、一般論としてはよく分かることではあるが、実際に現実を出発点にして思考の展開を探っていくというのは、具体的にどうしたらいいかというのは難しい。現実には、目の前に見ている事柄が「事実」であるのか、それとも空想的な観念の中だけに存在する「可能性」であるのかを決定するのは難しい。いや、それは「可能性」すらも否定される「非存在」であるかもしれない。視覚的という条件をつければ、太陽が地球の周りを回るというのは、人間にとって「事実」として記述されていた。しかし、今では地球が太陽の周りを回るというのが「事実」だということが知られている。だがこの「事実」は、人間が直感することは出来ない。人間にとっての「事実」とは、現象的に「そう見える」という形で記述されることが多い。まだ知られていない、はっきりとは分かっていない「事実」はたくさんあるのではないかと思われる。そのような全体像のはっきりしないものを出発点とすることに、考察の問題が生じることはないのだろうか。ウィトゲンシュタインの考察の進め方は、まずは手持ちの「事実」から出発して、その「事実」をどう操作して「解体」していくかということを考えているようだ。そして、「解体」して得られた「対象」というものをまた操作して、そこから新たに可能性の世界としての「論理空間」を作り、その操作の過程が思考の全体像を予想させるという展開をしているように思われる。ウィトゲンシュタインは、「事実」にしても、可能性の考察の対象として設定している「事態」というものにしても、その全体をいっぺんに把握するというふうには考えていないようだ。まずは把握できる世界として、知られている「事実」を寄せ集め、その「事実」から「対象」を取り出し、「対象」を可能性という視点で展開して「事態」をつくり、その全体を「論理空間」と呼ぶという流れになるだろうか。この流れにおいては、すべての「事実」を把握したり、すべての「事態」を作り出したりということを前提にはしていないようだ。「事実」は、その時点で把握できるものが前提にされているだけで、まだ知られていないものまで含むような実無限の把握を前提にしたものにはなっていないようだ。知られているもののみを出発点にするという発想が「独我論」というものにつながっているのではないだろうか。世界は、私の「事実」を出発点とする私の世界以外ではありえないという考えではないかと思う。また、世界の中に集められた「事実」から「対象」を取り出すのも、その論理形式をつかんだものという限定がされ、取り出した対象を、可能性を考察するために結合するという操作も、どのように結合されるかが記述され、その操作に従った範囲でのみ「論理空間」が構成されるという点では、「論理空間」もすでにその全体像がいっぺんにつかまれているのではなく、操作の結果として得られたものがそれに属するという可能無限の範囲での把握がされているように感じる。「論理空間」での結合という操作は、現実の「事実」から解体された「対象」の像としての言語が使われると考えられている。現実の「対象」そのものが結合されるのではない。もし、現実の「対象」そのものの結合をするとなれば、それは具体的な現実経験になり、可能性ではなく現実性になり、「事実」となってしまう。「事態」というのは、あくまでも可能性にとどまり、「事実」になっていないものを指すので、「事態」は、現実の「対象」の代替物である、像としての言語の結合にとどまるというのが野矢さんの解説だ。この像としての言語を結合させるときに、「名」という概念が用いられて考察されている。「名」というのは、「対象」という現実の像として、代替物としての言語に当たるものとして、「対象」の代替物のすべては「名」というもので一括して表している。これは、名詞的な「実体」としての「対象」だけではなく、「属性」に当たる動詞・形容詞なども区別せずに「名」と呼ばれている。野矢さんによれば、空間的な関係を表す言葉「~の上にある」というようなものも「名」と呼ばれて同等に扱われているということだ。これは、像としての結合が問題になる限りでは、それら品詞の区別が必要ないと考えたのではないかと思う。むしろ「名」として同等に扱うことにより、結合という面がいっそう際立って取り出せるようになるのではないかとも考えられる。目の前に「赤いリンゴがある」と言う「事実」が語られたとき、「赤い」と「リンゴ」という対象は、それぞれ形容詞であり名詞であるが、これらは「事実」として現れる時は不可分のものとして登場する。リンゴと関係なく「赤い」だけがどこかに取り出されることはない。「事実」においては対象は結合されている姿で現れる。この「赤い」や「リンゴ」が単独で取り出されるのは、言語という像になったときだけである。そして、この言語という像が結合されて、例えば他の対象である「バナナ」と結合されると「赤いバナナ」という「事態」が作られる。これは、像の結合として作られた時点では可能性のみを表す「事態」であって、現実とのつながりはない。しかし、現実に「赤いバナナ」が発見された時は、この「事態」は「事実」であったことが確認されて現実性を持つことになる。このとき、「赤いバナナ」は、可能性を語る「事態」になりうるが、「リンゴバナナ」あるいは、助詞を付け加えて「リンゴはバナナ」という結合は、言語の意味として確定しない意味不明なものになるので、「事態」という可能性を語る命題にならない。これが「リンゴ」あるいは「バナナ」の論理形式を予想させるもので、代替物としての像である言語が意味のある表現になっているということが論理形式として重要になる。野矢さんは、言葉の意味としての面を「名」の論理形式と呼んでいた。「対象」という実体の論理形式は、「名」という言語の論理形式と構造が同じものとみなすことが出来る。こうすることによって現実の実体的な「対象」を考察することが、「名」という言語の中での考察に変わり、これを言語論的転回と呼んでいるのかなとも思った。「名」という概念は、可能性を語る「論理空間」の考察においては重要になるものだが、以前に考えたように、論理操作としての否定「ない」は、「対象」として「事実」から解体することが出来ない。「事実」は、「ある」という面を捉えて表現することしか出来ない。「ない」という判断は、人間の頭の中にしか存在しない。論理の操作の結果として得られる命題になる。「ない」という否定は「名」ではないのだ。これは感覚的には非常に分かりにくい。「名」ではないということは、「対象」がないということであり、「事実」ではないということになる。否定的に判断されるような対象は、現実にそこに見ているような気もするのだが、現実に見ているのは肯定判断であり、否定判断そのものは実は見ていないのだと考えるしかない。それは、可能性が現実化されていないということから、可能性の否定として「論理空間」にのみ存在する「事態」と考えなければならないのではないかと思う。否定判断の「ない」が「名」ではないということと同じくらい重要なことに、肯定判断の「ある」もしくは存在という「対象」(性質)の「名」である「ある」という言葉は、「対象」の中でも特異の位置を占めるものではないだろうか。例えば「赤い」という「対象」であれば、その「対象」(属性)を持つ実体もあれば、持たない実体もある。肯定判断も否定判断も出来る。しかし、「事実」として現れている現実から「対象」を取り出したとき、それが「ある」と判断されないことがあるだろうか。実際に「事実」として記述されているものが「ない」ということは出来ない。「事実」として記述されているということが、それが「ある」ということを表してしまっている。これは、勘違いして「ない」ものを「ある」と判断しているときがあるかもしれない。しかしその時は、「事実」だと思ったものが「事実」ではないとわかるわけだから、「事実」ではないものは、現実のものではないということで「ない」という判断も出来る。だが、「事実」だとして提出されている限りでは、それは「ない」とは言えないのだ。「事実」だということが間違いだということがはっきりしない限りでは、「事実」は「ある」としか言えない。「ある」という「名」で示される属性は、「対象」であればどれもが持っている属性ということになる。「ある」の論理形式は、すべての「対象」について、その命題を作ることが出来るというものになっている。「ある」ということは、「事実」を解体して取り出される「対象」というよりは、世界の全体像の前提として横たわる特別なものという位置を占めているのではないかと思う。「ある」という属性を持たない「対象」は、そもそも「対象」ではないということになるのではないだろうか。数学においては、「ない」という判断につながる0(ゼロ)やマイナスの数が、計算という操作の対象になる。この存在は、「事実」や「事態」との関係からいうとどうなるのだろうか。これらは、「ない」という判断がその概念の基礎にあるので、「事実」として「対象」を切り出せるようなものは現実世界には見つからない。しかし、数学の世界では厳然として存在しているように見える。数学の世界は現実ではないと言ってしまえばそれまでなのだが、0やマイナスの数をノートに書くという行為は現実のものになる。0やマイナスの数を、実体的な表現として考察の対象にするというのは、「事実」や「事態」という範囲のどこに位置付けたらいいのだろうか。数学は、0やマイナスの数を、フィクショナルに実体化して、それがあたかも「事実」の中の「対象」であるかのように扱うというところに特徴があるのではないだろうか。数学は現実の世界そのものではない。しかし擬似的に世界を構築し、その中で現実化されたフィクションを考察するという思考の運動をしているのではないだろうか。これは、フィクショナルなものであるから、現実のものと違って完全化することができる。現実には把握が出来ない無限も、フィクショナルな世界として設定されることによって数学の中で取り扱うことが出来るのではないかとも感じる。 0.9999999999………という表現は、小数点の数字として9が無限に続くことを表している。これを現実の世界で捉えて考えてしまえば、これが1に等しくなるということは判断としては得られない。どんなに9をたくさん書き連ねてもそれはちょうど1にはならないからだ。しかし、上の「………」は、ただ点が書かれているのではなく、実は無限に9が続くことを表している。それは現実にはそれを書くことが出来ないので、フィクショナルに想像の世界でそう思うしかない。このとき、そのフィクショナルな世界では、この無限の極限というものが想定されている。そしてその極限においては、これは正確に1と一致すると判断するのが数学の世界、数学的現実とでも呼ぶ世界になる。数学の中の「事態」と「事実」の現れを考えてみたいものだ。
2007.10.13
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ウィトゲンシュタインは、現実世界を出発点として、そこから思考の原理を引き出そうとする。この現実世界は、「事実」を集めたものとして想定され、物という「個体」を集めたものとは考えられていない。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、「我々はただ物や性質に出会うのではない。性質を持った物たちに、つまり事実に出会っているのであり、そうでしかあり得ない」と書いている。物や性質を切り離すことが出来るのは、それらを思考の対象にした後であり、原初的な体験としては、物と性質は不可分のものとして・「事実」として目の前に現れる。だからこそ現実世界を出発点にするなら、世界を「事実」として捉えなければならないということになるのだろう。目の前に現れた現実世界は、我々に見える一側面を「事実」として記述することが出来る。しかし、我々に見えている「事実」だけが世界のすべてになるかというと、事はそう単純ではない。小さすぎるものや大きすぎるものは、我々には「事実」としては感じられない。空気の存在や地球が丸いことなどは視覚で感じることが出来ない。これは直接感じることの出来る「事実」ではない。しかし、今では誰もが空気が存在していることや、地球が丸いことを知っているし信じている。直接体験できないことでさえも「事実」(=真理)として認識してしまうことが出来るのはなぜだろうか。それは、我々が思考をすることが出来るからではないかと思う。思考によって、我々は直接経験できないことでも捉えることが出来る。経験を越える方法を獲得している。この経験を越える思考が、ある時は新たな「事実」をもたらし真理を教えるときがあり、ある時は限界を通り過ぎて「事実」でないものを勘違いして「事実」だと認識してしまう。そのメカニズムを『論理哲学論考』は明らかにしようとしたのではないかと思う。思考は、現実と無関係に、思考だけが運動して生成発展することはない。あくまでも出発点は現実の「事実」に置かれる。しかし、思考が現実を離れられなければ、思考は経験を越えることが出来ないし、その時は思考も存在しなくなる。思考が現実を離れ、それを越えるメカニズムを説明するものとして「論理空間」なるものが設定される。目の前の「事実」を記述する世界から、その「事実」を構成する「対象」が切り離される。同時に対象という実体から属性としての性質(動詞や形容詞で表現される事柄)が切り離される。この切り離されたものは、もはや世界という現実ではあり得なくなる。それは、切り離されたものだけでどこかに宙に浮かんで存在することが出来ないからだ。この切り離されたものたちで再構成されるのが「論理空間」というものになる。「論理空間」においては、「事実」から切り離された「対象」や「性質」が結合される操作が定義される。この操作によって再構成されるものが「論理空間」になる。その結合は、「事実」と同じ記述になるものもある。だから、「論理空間」は「事実」の世界を含みこむことになる。だが、「事実」としては記述されない新たな結合もそこでは構成される。これが可能性として認識されるものになり、思考によって得られたものと解釈される。可能性の総体としての「論理空間」は、それこそが思考されたものの全体だと解釈することも出来る。つまり思考の限界を見せてくれるものと考えることが出来る。「論理空間」の全体像をつかむことが、『論理哲学論考』の目的である、思考の限界を設定するということにつながるのではないかと思う。「対象」や「性質」の結合ということをより細かく考えてみると、これを、現実に存在する実体的なものを結合するということを考えると、それは可能性ではなく現実性になり、新たな「事実」の経験になってしまう。野矢さんは、家具の配置を変えるという例で説明しているのだが、本棚を部屋の左から右へ移すというのを考えてみる。これは、現在の「事実」としては左にあるということになるのだが、右に移すことを可能性として捉えるなら、それはまだ実現していないものでなければならない。しかし、この結合は実際にやってみることも出来る。その際に、部屋の右にはスペースがなくて、本棚を移せなかったとしたら、可能性が否定されるという「事実」が生まれることになる。もし移すことが出来たら、可能性が現実性になり、それは実は「事実」であったということにもなる。この可能性と「事実」の関係は、正確に記述するにはどうしたらよいのだろうか。野矢さんは、可能性というのは、実際の実体において結合されるのではなく、代替物である「像」と呼ばれるもので結合されると説明する。本棚を部屋の左から右へ移す可能性は、本棚と部屋の大きさの関係を正確に反映するような模型(これが現実の本棚と部屋の「像」と考えられる)によって結合されるという。実際に本棚を動かしてしまえば、それは可能性ではなく「事実」になってしまう。それを可能性の範囲に止めておくには、実際に現物を動かすのではなく模型としての「像」を動かすことに止めると考える。この「像」としてもっとも有効に活用されるのが言語だという。言語を「象」として捉えるのが『論理哲学論考』では重要な考えだという。また、野矢さんは「像」として捉えることの出来る代替物をすべて言語と呼んでもいいだろうということも語っている。これは、言語学的な理論から見れば、言語という対象の範囲を曖昧にするものとして違和感を感じるだろうが、思考の限界と言語表現の関係を考察することが目的の『論理哲学論考』においては、新たな述語として「言語」をこのように定義しなおして理論展開することは、その定義を忘れない限りでは問題ないだろうとも語っている。僕もそう思う。ここでいう言語は、言語学的な意味での言語ではなく、「像」としての性格こそが本質として捉えられているからだ。さて、「像」としての言語は、「対象」や性質を切り離した概念に対応して、それらの代替物として思考の中で働くことになる。思考において言語が必ず使われることの理由もこれで納得できるような気がする。これらは、現実の「事実」としてのつながりとは違うつながり方を、言語の中で行うことが出来る。そして、このつながり方が、どのようなものが許されるかを把握することが、「対象」の論理形式をつかむということになる。「対象」の論理形式は、それを可能性の記述として展開するときに、許される結合を作り出すときに必要になる。思考の展開においては、論理形式の把握は必要不可欠なものになる。目の前に、机の上にあるリンゴを見ていたとする。このとき、リンゴは空間上のある位置を占めるという論理形式を了解しているなら、その位置を表す言葉をこれに結合して、「机の上にリンゴがある」という「事実」から、「箱の中にリンゴがある」「冷蔵庫の中にリンゴがある」という可能性の世界を開くことが出来る。それは目の前の事実ではないから、実際にその「事実」に合致するように行動するか、その「事実」が成立しているかどうか調べない限りでは可能性の範囲にとどまる。この可能性の範囲にとどまる命題の表現こそが思考の正体であるとウィトゲンシュタインは考えたのだろうか。そのように捉えると、思考の正体というものがかなり具体性をもって見えてくるような気がする。また、このような思考で捉えられた仮説が、「事実」という真理であると確認されるメカニズムも一般的に展開できそうだ。それこそが、板倉さんが語る「仮説実験の論理」であるとも感じる。「論理空間」は、このように代替物の結合ということで「事実」以上の可能性という記述を含んだより広い範囲のものを語ることになる。そして、この「論理空間」は、そのような結合以外にも論理的な「操作」によって、さらに広い範囲の記述を含みこむのではないかと思う。否定という表現は、「対象」の属性としては見つからなかった。否定こそは、現実の世界に見つかる「事実」ではなく、可能性としての「論理空間」で、思考によってしか捉えることの出来ないものではないかとも思える。否定のような論理操作を施すことの出来る思考を、人間は見つけたことによって世界をより深く正確に捉えることが出来るようになったのではないだろうか。否定とともに思考にとって重要なのは、矛盾の存在を許さない「矛盾律」だ。これを用いることによって、思考の範囲で、「背理法」という証明を行うことが出来る。思考の中に矛盾を生み出すような「論理空間」での結合と操作を発生させることが出来れば、その出発点の可能性を否定することが出来る。これこそが、直接見ることの出来ない「事実」を、「事実」として確認するための有効な方法にしたのではないだろうか。地球が丸いということを知る思考は、それがもし平らだったらという可能性の言明から出発して、さまざまの矛盾を導くことによってなされる。そして、その矛盾は、実際に現実の中に観察される「事実」に反するということで現実化したものになる。人間は、思考をすることによって現実をさらに深く知ることが出来る。目の前の「事実」を、ただあるがままに眺めて受け入れるだけではなく、そこに直接見えないことでさえも認識することが出来るようになってくる。そのメカニズムは「論理空間」というものの構造に示されている。「論理空間」をよく知ることが、人間の思考を解明することにつながる。これはすごい発見ではないかと思う。人間は、「言語」という「象」を手に入れたことによって、目の前の現実にべったり張り付いた認識だけではなく、可能性の世界である「論理空間」を開くことが出来た。「言語」の重要性は、人間の思考においてどれほど強調してもしすぎるということはないだろう。そしてまた、論理的な操作という方法も、「論理空間」を豊かにするものとして大切なものだろうと思う。この論理的な操作は、何故に「論理空間」を豊かにし、可能性の世界を広げて、「事実」の世界である現実を深く認識することが出来るのであろうか。それは「言語」の問題と深くかかわっているのだろうが、何故に論理的に考えることが正しいのか。正しく考えるには、必ず論理に従った展開を何故にしなければならないのか。それ自体は、思考によっては正当性が確認できない問題なのだろうか。思考の限界を越えることになるのだろうか。それを『論理哲学論考』は論じているような気もする。もっとよく考えてみたいものだ。
2007.10.11
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野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本を頼りに、ウィトゲンシュタインが構想した世界の全体像の把握というものを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインのような天才と同じ考えをもつというのは、かなり無謀な目標のように思われるかもしれないが、先駆者に対して2番手としてそこについていくというのは、難しさは半減どころか数十分の一になってしまうのではないかと僕は思う。一度つけてくれた道筋をたどるのは、道のないところを開発していくのとは難しさがまったく違うのである。僕は数学を勉強していた学生時代に、すでに確立された数学を勉強するなら、時間はかかるかもしれないが必ず出来ると思っていた。そのための有効な方法として数理論理学を見つけた時はとても喜んだものだった。これさえあれば、既存の数学の理解は必ず出来ると思ったものだ。新しい数学を開発するには天才的な能力が要るけれども、出来上がった数学を学ぶのであれば、論理的に正しいと確信できる手順を根気よく丁寧にたどっていけばいいだけだと感じていた。僕は、子どものころは数学の研究に従事して生活することが夢だったけれど、研究・開発するだけの天才性はどうやらなさそうだということに気づいてからは、それを学習することはかなりうまく出来ていたので、その経験を教育に生かせないかと思い、教師になったというところがある。実際には教育もたいへん難しい営みで、うまくいかないことのほうが多いのだが、うまくいったという確信をもてるような時は、その論理構造が相手にうまく伝わったときだというのを感じることが出来る。単に表面的に記憶が出来たというのではなく、「理解」が出来たという結果を信じることが出来たとき、教育の成果が見られたなと思う。野矢さんの本を読み、ウィトゲンシュタインが考えた世界を理解するのは独学に当たるものだが、独学は自分で自分を教育するようなものだ。これがうまくいくようなら、また自分の仕事である教育に新たな方法を付け加えることが出来るのではないかと思う。それは、理論の全体像の把握をどうするかというようなものだ。細かい部分の理解は形式論理による翻訳によってその意味するところを受け取ることでかなりできそうな気がする。しかし問題は、その部分をつなぎ合わせただけでは全体像が浮かんでこないということだ。ウィトゲンシュタインが語る一つ一つの部分を野矢さんの導きでたどっていき、それをうまくつなぎ合わせて全体像を構成するということで学習がうまくいくかというのを考えてみようと思う。導きが適切であれば、それは全体像につながっていくのではないかと思われる。もし全体像の把握がうまくいくなら、その導きの方法から学び方の法則を考え、教育に生かしたいものだと思う。さて、まずはウィトゲンシュタインが現実の世界を「事実」と捉え、それをその要素である「対象」に解体していく過程が、どのように全体像と結びついているかを考えてみたいと思う。ウィトゲンシュタインが、世界を「事実」として捉え、物質的存在という物として捉えなかったというのは、その全体像の把握から見てはじめて納得のいくものとなる。その意味では、ウィトゲンシュタイン初心者は、世界を「事実」の集まりとしてみる見方を、まずはウィトゲンシュタインを信用して、それがどのような意味・価値があるのかは分からないが、とりあえずはそうしてみようと思わなければならない。野矢さんの本を一通り読み終えて、どこに何が書かれているかが分かって、改めて出発点に戻ってきたときに、世界を「事実」の集まりとして捉えることの意味と価値がわかってくる。優れた本というのは、何度も読み返したくなるし、読み返すことによって理解が深まり、その本が語る世界の認識が深まっていくものだと思う。世界の出発点を、もし物の集まりだとしてしまうと、物というのは、実は自分が知らない物もどこかにたくさんあることが考えられる。この、まだ自分に知られていない物を、世界の構成要素として認めるか認めないかというのが、世界を考察する出発点においては問題になってくる。これを認めた場合、まだ知られていない物というのは、可能性としては無限に多く存在することになり、それを世界の全体像として把握することになれば、実無限の把握を前提としてしまうことになる。それでは、物を私個人の経験の範囲に限ってしまえば、それは有限の範囲にとどまり、実無限の把握にはならなくなるので、そのような制限を設ければどうだろうか。ウィトゲンシュタインの場合は、「事実」に関して、私の世界というものを設定して、私の経験による「事実」の総体としての世界=私の世界を構想しているように感じるところもある。それが独我論と呼ばれる考えにもつながっているのではないかと思う。では、物の場合も独我論的に考えれば実無限の問題がうまく解決するだろうか。物を出発点とする発想は、実無限の問題でやはりうまくいかない点が出てくるように思われる。それは、物を個人の経験の範囲に限ったときに、新たな経験で新たな物に出会った場合の処理の仕方の問題だ。その物はどうやって世界に位置付けられるのだろうか。また、それは本当に物であるということがどうやって確かめられるだろうか。それは空想の産物であって実は物ではなかったということにならないだろうか。世界の全体像を把握するためには、新たな物を世界に付け加える手順というものを明らかにしておかなければならない。それがうまくいくだろうかという疑問がある。それに対して、ウィトゲンシュタインが考える「事実」を出発点にすると、それを「対象」に解体する手順がはっきりと考えられているのを感じる。物を出発点として、それを組み合わせて「事実」を作っていくと考えると、まずは出発点においてその世界全体が曖昧なものになってしまうということが起こる。現実世界をまずは出発点にしたいと思ったら、目の前に現れてくるのは「事実」であり、人間の目にどう見えたかという記述になる。そこにどのような物があるかは、「事実」を分析して解体しなければはっきりしない。ウィトゲンシュタインは、まず現実世界を出発点にし、そこから論理の世界を構築し、論理の世界で思考の展開というものを位置付ける。そして、そこからまた現実世界へと戻ってきて、現実世界に対してどれだけのことが思考できるかという問題に解決を与える。これが『論理哲学論考』が論じる理論の全体像であるように感じる。「事実」を出発点にする考え方も、新たな経験から得られた新しい「事実」を世界の中にどう位置付けるかという問題が生じてくる。これに対してウィトゲンシュタインは、「事実」から「対象」を切り出してくる手順を操作として語ることによって解決しているように感じる。物の場合はその操作を明確にすることが出来なかったが、「事実」の場合はそれが出来るということで、「事実」を出発点にすることが出来ると考えたのではないだろうか。「事実」において、人間は対象がどのようであるかを記述する言葉をもつ。そのとき、ウィトゲンシュタインは、その記述される表現に対して対象の「外的性質」と「内的性質」という解体をまず考える。これがまず操作の第一歩といえるだろう。「外的性質」というのは、偶然性によってそれが変わってくる性質を指す。例えばりんごという対象が示す「事実」がいくつかあった場合。それが「どこにあるか」「色はどうか」「大きさはどうか」というような性質は、「対象」によって違ってくる。これは偶然によって決まる性質で、そのような性質を「外的性質」と呼んでいるようだ。それに対して、そのような個別的・具体的なりんごの個性ではなく、どのりんごにも共通に考えられうる性質というものがある。例えば、「それは空間のある場所に位置を持たなければならない」という性質であったりする。空間のどこにも位置を占めないりんごというものがあった場合、そもそもそれがりんごという「対象」が示す「事実」だといえるかどうか。これは、りんごという存在に対しては、絶対的な条件となるものだと考えられる。野矢さんは、「その対象に対して適切に問うことの出来る質問のレパートリー」という言い方で、この内的性質がどういうものになるかを語っている。これは、もっとイメージしやすい言葉にいいなおせば、対象の「論理形式」と呼ぶほうがいいのではないかとも書いている。対象の「論理形式」である内的性質を把握できれば、偶然性によっている外的性質を持った新たな対象に出会ったときも、それを思考の展開の要素として取り入れた世界は、論理の展開に関しては同じものにとどまる。つまり、思考の展開においては対象の「論理形式」を把握することが重要で、それが出来れば、世界に新たな物が付け加わっても世界は曖昧にならずに、全体像を保持できる。この操作によって、新たな事実との出会いの一部の処理は解決できる。それでは、まったく新しい「論理形式」をもった「対象」に出会った場合はどうなるだろうか。それは世界を変えてしまうと考えるしかないのではないかと思う。だから、「論理形式」の把握によって世界は変わってくるとも言える。より多くの「論理形式」を把握している人間は、世界を広く深く理解して思考を展開できる。これはかなり常識に近い考えではないだろうか。だが、そうであるからこそ独我論というものも考えなければならなくなるのではないかと思う。世界が個人によって異なるのなら、世界は「私の世界」以外ではあり得なくなる。独我論という発想は、出発点を「事実」という個別的・具体的なものにしたことから生じる必然的なものではないかとも思われる。「事実」は、個別的・具体的なもの以外にはあり得ない。それを解体して「論理形式」を求める段階で、対象の個別性・具体性が捨象されて一般性・普遍性が抽象される。現実世界は、このような一般性・普遍性が取り出された世界ではない。これが取り出された世界は「論理空間」と呼ばれる論理の世界になるのだと思う。この「論理形式」を捉える方法には手順がない。「事実」を「対象」に解体し、「対象」の「論理形式」に注目するというのは、操作の手順として記述できる。しかし、いざ「対象」の「論理形式」を把握しようとすると、それは記述できない。それは「対象」の「論理形式」というものが、入れ子のようにつながりあっていて、ある「対象」の「論理形式」の把握に、別の「対象」の「論理形式」の把握が前提とされていたりするからだ。男の論理形式の把握には、区別される女の論理形式の把握が必要だし、男を含む人間や動物の論理形式の把握も必要だ。このように多くの「対象」が複雑に絡み合っている現実世界で、その「論理形式」の把握の手順を操作として記すことは出来ない。そこで、ウィトゲンシュタインは、「論理形式」の把握をある意味ではア・プリオリな前提として設定しているようにも見える。思考の限界は、思考できるという前提を持っている、すなわち「対象」の「論理形式」を把握している人間の思考について考えるとしているように見える。これは理解に戸惑うようなところもあるが、そうしなければ思考の限界の設定などが出来そうにないことも感じる。「対象」の「論理形式」を把握していなければ、その時点でその人はもう思考の限界がきているとも感じるからだ。だから、この前提はそれほど無謀ではないような気もする。目的はあくまでも思考の限界を考えることだ。その観点で、ウィトゲンシュタインが語りたかった全体像を想像してみることにしよう。
2007.10.09
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僕は以前は、論理の正しさといえどもそれはやはり経験から得られるものだと思っていた。論理は、この世界の捉え方として、最高度の抽象ではあるが、それは現実を捉えたものであることは確かだから、論理は現実との一致を究極の目標として展開されるものだと思っていた。ヘーゲルが言うように、「理性的(論理的)なものは現実的であり、現実的なものは理性的(論理的)である」と思っていた。現実と論理の一致は確認できるものであり、論理の正しさの源泉も現実の存在にあると思っていた。しかし、論理の正しさの確信は少しも揺らぐことがないものの、その正しさの根拠を現実に求めるという考察はなかなか説得力のあるものにならなかった。論理が現実と一致するから正しいというよりも、論理に従って考察したことが現実との一致を見て、その正しさを示すといったほうが感覚にぴったり来る。論理の正しさが現実によって証明されるというよりも、現実を捉えた認識の正しさが、論理に従うことによって示されるという感じだろうか。論理の正しさは、考察に先立ってすでに前提されているという感じがする。野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本の中で、論理を語りえぬものとしている。それはあることを考察する中で示されるものであり、その正しさは語りえぬものとしてア・プリオリに受け入れなければならないものと語っている。論理というのは、本当にそのようなものなのだろうか。論理は、その正しさを証明する対象になっているのではなく、論理に従って考察することが、合理的で正しい思考なのだと、逆転した発想で捉えることが正しいのかもしれない。では、なぜ論理に従って考えると正しく考えられるのか。それは語ることができないと野矢さんは言っているように感じる。それが正しいということは分かる。だが、なぜ正しいかは分からないのだ。我々は、正しく思考しているときは常に、正しい論理に従っていることを確認することが出来る。我々は、正しく思考するとき、正しい論理に従わないではいられないのだ。このどうしようもない必然性がどこからもたらされるかは、なかなか説明しにくい。論理の正しさが、現実世界の考察からは証明されないということは、野矢さんの次の文章がヒントになるかもしれない。「論理語が名ではないならば、論理語は対象を表さない。それゆえ、論理語に関わる理論は世界のあり方についての理論ではない。これがウィトゲンシュタインのポイントである。例えば「パンダ」という語はパンダという種を表している。それゆえ、パンダについての研究が世界のあり方を調べる科学として成立する。あるいは「ウィトゲンシュタイン」という固有名はウィトゲンシュタインという対象を表す。それゆえ、そこにはウィトゲンシュタインという対象のあり方についての探求が成り立つ。「ウィトゲンシュタインは第一次大戦に従軍した」「ウィトゲンシュタインは1951年62歳で死んだ」等々、「ウィトゲンシュタイン」という名を用いた真なる命題が集められれば、それがウィトゲンシュタインについての我々の知識を表している。他方、論理語についての理論はそのような意味で世界のあり方についての知識を形成しない。論理学は自然科学とは異なるのである。論理学のこの独特な性格が、「論理語は名ではない」という一言に集約される。だからこそ、これはウィトゲンシュタインにとって根本思想となった。」論理語というのは、否定の「ない」であったり、「かつ」「または」という言葉を指す。これらの論理語が扱う対象は、現実に存在している固有の何かではない。個性はすべて捨象されてしまい、それが何らかの肯定判断を表しているということのみが、論理の操作の対象になる。これは、世界についての何かを語るものではない。だから、世界がどうであろうと論理語の正しさとは関係がなくなる。世界のあり方と論理語の正しさとは関係がなくなる。関係がなくなるのだから、いくら現実世界を考察しても、そこからは論理の正しさが引き出せない。ウィトゲンシュタインが語る「名」という概念は、世界を事実の総体として捉えたとき、その事実の要素となるような対象を表現する言語のことだった。この言語によって現実の対象を表現できたとき、それは事実の表現としての真なる命題になる。そして、この事実から分析された(解明されたと野矢さんは語る)対象の一つを表現する言語が「名」と呼ばれる。論理語は「名」ではないから、事実の要素となる対象を見つけることが出来ない。現実に対象が見つからないのであるから、現実を正しさの根拠にはできないというのがここでの考察だった。現実を正しさの根拠に出来ないのであれば、それは経験によらない先見的なア・プリオリな正しさであるとするしかない。これは、まさに論理に従った展開だが、それはどうしようもなく正しいものに見える。野矢さんは、論理語を、対象を表すものではなく、事実として与えられた世界に対してある「操作」を施すことが出来るものとして捉える。論理的な「操作」をするものとして論理語を位置付ける。事実として与えられた肯定判断から、その否定が論理語「ない」によって導かれる。これは、現実にはそのような事実が見つからなければ、可能性の世界の話として「事態」と呼ばれる。そして、「事態」を含む命題の集まりを「論理空間」と呼んでいる。論理語は、論理空間を生み出すための操作として位置付けられる。この操作によって、例えば否定判断「机の上にパンダがいない」が導かれると、この命題の真偽は、現実の机を観察してそこに「いない」という状態が見られると、それは真であると判断される。論理空間の具体的な命題に関しては、それが現実の対象に関係しているものであれば、現実を観察して真偽が決定される。だが、論理語で発生する命題の中には、現実との照合をすることなしに真であることが結論されるものがある。それは先験的に真であることが分かる論理的必然性を語るものになる。論理法則と呼んでもいいものになるだろう。この必然性・真理性はどこから得られるものなのか。野矢さんは、それは「操作」という特性からア・プリオリな必然性・真理性が求められるという。例えば二重否定と呼ばれるものが論理(形式論理)にはある。これは肯定判断と同じものになる。その内容を現実世界の中で照合することなしに、二重否定は肯定になるというのが形式論理の法則だ。ここで、わざわざ形式論理と断っているのは、弁証法では「否定の否定」が単純に肯定判断に帰るとは解釈していないからだ。それは最初の肯定判断と同じものではなく、らせん状に発展するものと捉えられている。だが、形式論理では二重否定は最初の肯定判断と同じものになる。これは、現実の出来事と照合してそのように判断するのではなく、否定を「操作」として捉えたときに、否定の操作を二回続けて行うことが、論理の判断として最初の肯定判断と同じになるという意味で否定という概念を作るからである。これは、形式論理においては、肯定判断をしたときの対象の領域というもので真偽を考えるという構造があるからだ。否定の論理操作というのは、この真理領域を反転させるものとして定義される。肯定判断において真理領域に入っていた対象が、否定判断においてはすべて真理領域から追い出され、逆に肯定判断の際に真理領域に入っていなかった対象がすべて真理領域に入ってくる。そして、もう一度否定することは、その真理領域が再度反転して最初と同じものになることを意味する。だから、この操作は、経験によらず言葉の意味として先験的に、論理的には同じものとして判断される。「この花は赤い」と肯定的に判断されたものを否定して「この花は赤くない」といった後で、もう一度否定すると「この花は赤くなくはない」というような表現になる。これは形式論理では「この花は赤い」と同じ命題を意味する。だが、この命題を形式論理的に受け取るのではなく、微妙な心理状態までを含んだニュアンスとして考えると、「この花は赤い」と「この花は赤くなくはない」とは同じ命題に見えなくなってくる。「赤い」と言い切ってしまうのも、「赤くない」と言い切ってしまうのも、どちらもためらわれるというニュアンスが、「この花は赤くなくはない」という表現から読み取れる。この微妙なニュアンスは形式論理においては捨象される。それを含んだ考察をするのは弁証法という別の特性を持った論理になるのではないかと思う。このニュアンスを捨象することで、形式論理はまさに形式を取り扱うことに成功したのだろうと思う。そして、その形式は、合理性という有効な特性にも結びついている。二重否定が肯定になってしまう形式論理の世界は、そういう仕組みを持ったものとして世界を規定しているとも言える。だが、この規定は、単にそういうルールでいきましょうという合意をして出発したものではなく、誰もがそれに従わないわけにはいかないという、何か客観的なものも感じる。この客観性はどこから来るものだろうか。このあたりの考察を始めると、論理の正しさと現実世界の合理性が、鶏と卵の関係のような循環したものになってくるのを感じる。論理が正しいものであるから現実の合理性を正しく考察できるのだといいたくなるし、逆に、現実の合理性というものが基礎にあって、それが論理の正しさを支えているのだとも言いたくなる。これはまさに循環していることが現実のあり方としてあり、そう受け止めなければならないものになっているのではないかとも思われる。野矢さんによれば、ウィトゲンシュタインが、世界という事実の集大成を分析して、それを対象に分解し、対象の一つ一つに「名」という呼び方を与えていくとき、それを解明と呼んでいる。ところが、実はそのような解明が出来るのは、すでに世界のあり方と言語の表現との結びつきがよく分かっている人間だけだという指摘もある。つまり、解明が出来るのは、解明が出来る人間だけだ、と同語反復を語っているようなところがある。ここには、鶏と卵のような関係が、解明という現象には循環した要素として捉えられている。論理の正しさを示すことが出来るのも、すでに論理を使って、論理の何たるかを把握している人間だけだということになるのだろうと思う。そのような意味でも、論理の正しさはア・プリオリなものと言わなければならない。だが、そのように論理の操作に習熟した人間になるにはどうしたらよいのだろうか。ここでもまた循環の迷路に入り込みそうな感じがする。正しいこと、真理であることの判断には、このようにどうしようもない循環が存在するようだ。この循環を断ち切るには、どこかでア・プリオリな設定を設けるしかないのだろうか。我々は真理をどのように判断するのか。『論理哲学論考』のウィトゲンシュタインは、真理の判断をした後の命題の集まりである論理空間の全体像の把握を語った。後期の「言語ゲーム」におけるウィトゲンシュタインは、真理の判断そのものがどのように行われるかを語っているのではないかと思う。循環を断ち切るア・プリオリなものの設定という考え方と、循環そのものを積極的に認めてしまって、循環こそが真理の根拠としてのア・プリオリなものだという主張が、「言語ゲーム」という考えに含まれているのではないだろうか。ア・プリオリ性というのは、このような循環と関係させたときにのみ使ったほうが有効な概念となるのではないだろうかと思う。
2007.10.08
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シカゴ・ブルースさんから送られてきた「0の概念・マイナスの概念」と「概念は「言語」に先立つ(5)」というトラックバックを読み返すと、どうも議論がかみ合っていないなというのを感じる。おそらくシカゴ・ブルースさんも同じように感じているのではないかと思う。たぶん、どちらも自分が論じたい側面・あるいは視点というものが相手に伝わっていないのだろうと思う。だから、これから述べることは、シカゴ・ブルースさんが語ることへの批判や反論ということではなく、僕がいったい何を論じたかったのかということを伝えるものにしたいと思う。シカゴ・ブルースさんが書いたエントリーについての理解と評価はすぐには出来そうにないので、まずは自分が語りたかったことをまとめてみて、その後でじっくりとシカゴ・ブルースさんの文章を読ませてもらいたいと思う。だから、シカゴ・ブルースさんの文章への直接の言及をこのエントリーは含まないのだが、一連の流れの中にある一文ということでトラックバックを送らせてもらおうと思う。なお、僕が複数のブログで同じエントリーをアップしているのは、一つには記録のようなものという意識で行っているものだ。また、トラックバックをlivedoorのブログで送るのは、ここのブログでのみ、コメントやトラックバックを受け付けていることに理由がある。読みづらいという点については、改良できるところは努力していきたいと思う。僕は、「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーの中で「これはそもそも(マイナス)というものが、現実には存在しない想像上のものであるから、直感する(目で見るようにする・あるいは感覚で受け止める)ということが出来ない対象だからではないかと思う。」という主張をした。ここで僕が語った「マイナス」の存在というものは、それが数学の中に存在しないということではなく、「現実の世界」の中で、属性の帰属先の実体として、「マイナス」を体現しているような物質的存在はないということだった。数学の世界ではもちろん「マイナス」は存在するし、「マイナス」だという解釈が出来る現実存在の一側面は、もちろん実体的に存在している。直線を引いて、原点を0にすれば、右側は「プラス」に左側は「マイナス」にして解釈することが出来る。しかし、これは解釈が出来るということであって、僕はこれを「マイナス」の存在だとは受け取っていない。借金が「マイナス」で表されるというのも、それは解釈による表現の問題であって、借金が「マイナス」という属性を持った実体として現実に存在しているとは僕は思わない。「マイナス」というのは、あくまでも現実のある状態の解釈をしたときに、フィクショナルに想像で設定されるものだという理解をしている。それは状態であるから、それを属性として体現するような実体はない。しかし、これをあたかも実体であるかのように扱えば、加法や乗法という演算の操作の対象にすることが出来る。状態を記述できるフィクショナルな実体というのは、形式論理にとってたいへん重宝なものなのである。「マイナス」や0(ゼロ)の概念に通じる否定判断について、野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』という本で面白い考察をしている。ウィトゲンシュタインは、事実という現実世界に成立する事柄を記述する命題から出発して、その命題の構成要素として登場する現実存在を対象と呼び、対象の表現を「名」と呼んでいる。「名」は、現実存在として実体的なものであり、野矢さんはその実体の属性も含んで「名」と考えている。単に名詞的な表現だけを「名」とするのではなく、客観的にそこに存在していると考えられるものは、動詞的な表現も・形容詞的な表現もすべて「名」として捉えている。位置的な「上にある」というような関係なども「名」の中に入れている。「名」の中に入ってこないのは、対象を観察する観察者という主体の主観になるような部分だろうか。「名」というのは、観察するものが自分ではない他者になったとしても、そこに存在することが認められるものとして提出されている。「名」は、論理空間を構成する要素として重要になるもので、論理空間は、「名」の組み合わせによる命題によって構成される。野矢さんによれば、否定語の「ない」は、論理空間の要素を操作する演算子としては導入されるが、それは「名」ではないという。「ない」には、それに相当する実体が見つからないのだ。野矢さんは、「机の上にパンダがいない」という言語表現を例に出して、否定判断について考えている。もし、単に客観的に存在している机を見せただけで、この否定判断を導こうと思ってもそれは出来ないだろう。このような否定判断を導いてくる人間は、「机の上にパンダがいる」という肯定判断をすでに抱いていて、その期待(仮説とでもいおうか)で机を眺める人間だけだ。「いると思ったのにいなかった」という過程を経て、「机の上にパンダがいない」という否定判断が生まれる。否定判断には、このように仮説としての肯定判断が、現実によって否定されることによって生まれるという構造がある。否定されるのは、自分が抱いている予想の方であって、現実の存在が否定されるのではない。現実の存在には「否定」という属性はない。存在を否定して、そこに何もないという状態を表現するのが0(ゼロ)という数字だ。何もないというのは状態であって実体ではない。そして、その状態は、実際には何か具体的なものがないということで理解される。数学教育において0(ゼロ)を教える時は、何も入っていない空っぽの入れ物を示して、そこから何もないという状態の理解を図り、その状態の記述としての0(ゼロ)を教える。0(ゼロ)のタイルというのはない。タイルがないことを0(ゼロ)と呼ぶのだから、それを現実に指し示すものがあっては形式論理的な矛盾になってしまう。そこで、タイルを使って0(ゼロ)を教えるときも、そこにタイルを乗せる皿のようなものを用意して、タイルがないということを強調するような工夫をする。そこにはタイルがあるはずだという予想を持っているものだけが、何も乗っていない皿を見て0(ゼロ)を感じることが出来る。そこには0(ゼロ)があるのではない。何もない状態を0(ゼロ)だと感じる解釈があるだけだ。もし、皿の上に必ずタイルを乗せるという了解がない者が、何も乗っていない皿だけを見たら、「そこには皿がある」という肯定判断を導くだけだろう。客観的に言えるのはそれだけだ。そこには0(ゼロ)の概念はない。そろばんが0(ゼロ)を表現できるのも、玉の数が、そこに置かれた位置によって数を表すという前提があるからだ。そこに玉が置かれていないという状態が、そろばんにおいては0(ゼロ)を表現する。もし、このそろばんの約束が了解されていなければ、そこに0(ゼロ)を読み取ることは出来ない。単に「玉が下がって下に4つある」というような肯定判断が下されるだけだ。0(ゼロ)でさえもこのような認識の過程を持っている。ましてや「マイナス」の数は、さらに空想的なものになる。借金の借用書がそこに1枚あるとしても、それは単にそれだけでは「借用書が1枚ある」という肯定判断に過ぎない。その借金は、実はお金がなかったときに誰かに借りたという状態を、「ない」ということを記述するために、現実に確認できる「ある」を否定して、その否定に「マイナス」の意味を関係させて解釈したものに過ぎない。そこにあるのは1枚の借用書の存在であって、マイナスのお金がどこかに浮かんでいるのではない。借金を「マイナス」だと受け取るのは解釈に過ぎない。これが、その存在の空想性がもっとはっきりしている「虚数」になれば、おそらく誰もそれが現実に存在しているとは言わないだろう。だが、「虚数」も解釈によって現実に結びつけることが出来る。だからこそそれが現実の解析に利用されて有効性を発揮することも出来るのだと思う。虚数は、複素数という形にすれば平面上の点と対応させることが出来る。複素数は、実数と虚数の1次式で表現されるが、二つの実数の組で対応させられる。したがって、平面状の点と複素数は1対1に対応付けられる。そうすると、平面上の点を定義域とする関数は、複素数を定義域とする関数と同じものとみなされる。複素数は現実には存在しないが、現実存在をある視点から見れば複素数と同一視できる。このとき、この状態が複素数を表し、しかも状態として現実に存在すると考えられる点を取り上げて、複素数が「存在する」と呼んだら、何か違和感を感じないだろうか。0(ゼロ)や「マイナス」を、解釈されたフィクショナルな実体ではなく、現実に存在すると考える思考法は、それを進めるなら、複素数の存在も主張しなければならなくなるのではないだろうか。僕はそこに違和感を感じるので、0(ゼロ)や「マイナス」は現実には存在しないという判断をする。それから、概念と言語とどちらが先かという話は、僕はどちらかに決定させようとして考えているのではない。これも、論理の一般論として、三浦さんがよく語っていたが「真理はその前提条件によって変わってくる」ということを語りたかっただけだ。条件によって、概念が言語に先行することもあるだろうが、逆に言語が概念に先行することもあるのではないかということを言いたかっただけだ。どんな条件であろうとも、概念が言語に先行するということには疑問があるということだ。シカゴ・ブルースさんが語っていることの前提条件が具体的にどのようなものであるかは、それをまだよく理解していない。理解できれば、その条件においては概念が言語に先行するということについて同意するかもしれない。そういう場合があっても当然だろう。むしろそういう場合がほとんどかもしれない。しかし、ある条件のもとではそれが反対になり、しかも、現実の言語現象にはその絡み合いが見られるために、鶏と卵のような現象になり、どちらが先とはっきり言えない循環の中にある場合もあるだろう。ウィトゲンシュタインの言語ゲームという概念はそういうものとして理解したほうがいいのではないかと僕は感じている。人間は、具体的な体験のみから学ぶだけではなく、言葉を通じて多くのことを学ぶ。なぜ言葉が学習の助けになるかといえば、その言葉で現実を解釈しなおして、仮説的な問いかけが出来るからだ。現実に存在しないものも言葉を通じて学ぶことが出来る。「虚数」を数学記号という言葉なしに学ぶことは出来ないだろう。このような場合を、僕は言語が概念に先行している場合として解釈している。これは、シカゴ・ブルースさんが語ることの前提からは外れているかもしれないが、一般論として前提に着目するという意味でこのような考えを提出している。シカゴ・ブルースさんが提出する前提とそれから導かれる結論に反対しているというのではなく、前提に着目するためには、そのような方向からの考察も必要ではないかと考えている。いずれにしても、シカゴ・ブルースさんが語る主張の前提をよく考えて、それが明らかになるような理解の仕方をしたいと思う。そうしてから、シカゴ・ブルースさんのエントリーの内容そのものに関して何か書いてみたいと思う。
2007.10.08
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今週配信されているマル激では貧困の問題が議論されている。現代日本の深刻な問題は、「格差」ではなくて「貧困」だという指摘がそこではされている。この指摘は非常に説得力のあるもので、問題が「格差」ではなくて「貧困」だと設定しなおされれば、それは僕にとっても深刻な自分の問題として迫ってくる。「格差」であれば、そんなものはあまり関心のない現象に見えてくるが、「貧困」というものは、今はその中に落ち込んではいないものの、将来的・あるいは子どものこれからの人生を考えた場合、それに直面する恐れというのは深刻に感じるところがある。マル激の中では、「貧困」と「貧乏」は違うということも話されていた。「貧困」は、人間にとって基本的な衣・食・住の問題で、生活困窮に陥るほどの窮乏生活に陥ってしまうことを意味するものとして語られていた。それに対して「貧乏」というのは、単に金がないという現象を指すだけのものとして語られていた。「貧困」というのは、必然的に人間性を破壊するものとして捉えられていた。だからこそ、「貧困」で幸せはありえないという判断も生まれてくる。それに対して、「貧乏」は、たとえ金がない状態であろうとも、それを補う社会的なネットワークさえあれば、「貧乏」の中にいても幸せだということがありうる。この指摘は論理的にとても面白いものだと感じた。「貧困で幸せはあり得ない」あるいは逆に、「貧乏でも幸せになりうる」という命題は、現実の現象から帰納的に得られることもあるだろう。また、「貧困」や「貧乏」の意味の定義から論理的に導かれる判断としても語られる。この命題が語られる文脈がどのようになっているかで、その主張する意味が違ってくるだろうと思われる。現実の経験からこのような主張がされる時は、その経験に対する個人の見解・感想というものとしてこれが主張される。それは、他者が同感したり賛成したりするのは、同じような感性を持っているという条件が必要だ。違う感性を持っている人間は、この主張に賛成しなくても、文脈上はかまわないだろう。「経験した人間にしか分からない」と言われるような感性は、誰もが賛成するような普遍的なものではなく、特殊・個別的なものになるだろう。だが、これが経験を超えた論理によって主張されるという文脈の中では、その論理の前提を認める人間であれば、たとえ自分の感性とは違っていようともその結論を受け入れないわけにはいかない。「貧困」と「貧乏」の場合は、論理の前提となるのは、それがどのような意味で使われているかという定義の問題を認めるかどうかということになるだろう。ある運動をしている人が、自分の運動の支持を訴えたいと思うとき、それを経験から来る感性として訴えるという文脈で語れば、それは同じ感性を持っている人間にしか支持されないだろう。分かる人間にだけ分かればいいのだと思っているならそれでもかまわないと思う。しかし、運動という形で他者に訴えかけている人間が、分かる人間にだけ分かればいいという姿勢でいるのは、運動としては間違えているのではないかと感じる。かつての差別糾弾主義者の運動はそのようなものに感じた。運動をする人間は、感性に訴えるのではなく、普遍性を持った論理によって賛同を得るような方向を取るべきではないかと僕は感じる。あくまでもその主張が、論理によって導かれる結論であるような文脈で語るべきではないかと思う。それは普遍性のある真理であるべきだ。差別に問題があるのは、自分がそう感じるからではなく、論理的に根拠のあることとして訴えなければならないだろう。他の問題も同じで、平和の大切さを訴えるときも、自分の感性でそれを訴えるのではなく、平和の状態こそが多くの人間にとって利益となることを論理的に帰結できるような文脈で訴えなければならないだろう。平和が現象として無抵抗につながるような主張になっていれば、論理的には疑問を感じる人がいても仕方がないだろう。現象的に経験としてそう帰結できるような主張と、経験とは離れて論理的に結論できる主張との区別をすることで、その主張の信頼性を判断するという考えが、マル激での「貧困」で幸せはありえないという言葉を聞いたときに浮かんできた。「貧乏」でも幸せだという現象は、かつての昭和30年代から40年代にかけての日本ではよく見られた現象ではないかと思う。渥美清主演のテレビドラマ「泣いてたまるか」で描かれていた日本の風景にはそのような経験が描かれていた。また、古いイタリア映画の「鉄道員」などでも、安い給料で貧しい生活をしていた鉄道員としての労働者が、仕事が終わったあとの仲間との団欒がいかに和やかですばらしいものであるかが描かれていた。その連帯感が、明日からの仕事の活力としての幸せ感を運んでくる。これら、貧しいながらも幸せな人々が、幸せだと感じられるのは、人間関係のコミュニケーションが包摂的で暖かいものとして存在するからだ。そこでは、誰もが個人として尊重され、人間性という個性が認められ評価されている。仲間としての連帯感にあふれている。そこでは、誰かが困った状態になった時は、今はまだ余裕があるという人々が、必ず救いの手を差し伸べるだろう。「困った時はお互い様」という意識が誰にもあり、それが深い連帯感を生み出す。「貧乏」というのは、金がないという状態のことであって、それによる問題の発生を防ぐような社会的セーフティ・ネットがあれば、「貧乏」であっても幸せを感じることが出来る。それが「貧困」の場合には難しいというのは、「貧困」という概念の中には、これらのセーフティ・ネットがもはや機能しなくなっているという前提が含まれているように思われる。「貧困」というのは、そのようなものとして定義されているようだ。「貧乏」であっても幸せだということは、経験としてはありうる。もちろん、これは経験であるから、「貧乏」で不幸だという経験もあるだろう。論理的な帰結ではないものなら、正反対の主張が生まれても仕方がない。論理的でないものは、「矛盾律」という正反対のものが両立しないという法則に従う必要はないからだ。同じように、「貧困」というものも経験主義的に受け止めているだけなら、問題に感じる人は問題だと思うだろうけれど、感じない人にとっては問題ではないということになってしまう。しかし、マル激での主張のように、論理的な帰結として「貧困」では幸せになり得ないということであれば、そのような社会でいいのかという問題を提出することが出来る。「貧困」の中にいる人たちは必然的に幸せから排除される。そのような人を見捨てるような社会であっていいのかという問いかけは深刻なものだ。「貧困」を自己責任で見捨てていいのか、いや見捨てていいはずはないというのがマル激での主張であるように感じた。「貧乏」というのは、かつての日本が全体として「貧乏」であったように、現象としてはそれがどうにもならない状態がある。しかし、「貧困」というのは、社会全体としては豊かであっても、さまざまな福祉から見捨てられることによって生じる可能性がある。豊かであるのに「貧困」になる、あるいは、豊かであるからこそ「貧困」が際立ち、それが生まれてくると考えることも出来る。世界で一番物質的に豊かな国であるアメリカが、「貧困」という問題では日本よりもっと深刻だというのはその現れのような気もする。豊かな国において「貧困」が生じるのに対処する問題は、それを問題だと感じて論理的に捉える人がどれくらいいるかで違ってくるのではないか。マル激では、ゲストの湯浅誠さんという人が「五重の排除」ということを語って、その特徴を指摘していた。このような特徴を持ったものが「貧困」というものであるという定義をしているように僕は感じた。湯浅さんが指摘した排除は次のようなものだ。・教育課程からの排除・家族福祉からの排除・企業福祉からの排除・公的福祉からの排除・自分自身からの排除家族福祉・企業福祉というのは、家族や働く仲間の包摂姓を持ったネットワークがなく、困窮したときに支援してくれる人が誰もいないことを意味する。このようなネットワークがあれば、かつての「鉄道員」の映画のように、「貧乏」でも幸せだと感じることが出来るが、そうでなければ、金がないということがすぐに深刻な生き・死にの問題に直結するということが論理的な帰結として得られる。家族や企業の助けが当てに出来なければ、公的な社会的な制度としての援助を求めなければならなくなる。しかし、「貧困」を自己責任の問題にしてしまえば、公的な福祉も最低が引き下げられて、それを受けられない人間が出てくるだろう。また、これらの人々が、十分な教育を受けられなければ、どこに助けを求めたらいいかということがまず分からなくなってしまうだろう。その意味で、教育からの排除は、他の排除の問題を解決することを難しくするという意味で深刻な問題だ。教育からの排除は、必ずしも学歴や学力の問題と一致しない。「貧困」に陥る層が、相対的に学歴が低いとしても、問題は、公教育(義務教育)の中で、そのような困窮に陥ったときの処方箋がまったく語られていないことにもあることがマル激では指摘されていた。どのような状況になったら生活保護を受けたほうがいいのか、どうにもならないくらい困窮した状態になった時は、最後の手段としてどのようなものがあるのか、そういうものがまったく教えられていない。学校で教えられている内容は、生活とはほとんど関係のない偏った知識が多い。しかも、そのような勉強をがんばれば、その結果として成功や幸せがもたらされるという、努力第一主義がとられることが問題でもあるという宮台氏の指摘もあった。この努力第一主義を支えるのは、「自己実現幻想」でもあるとも語られていた。自己実現をしてがんばれば、包摂的なネットワークがなくても、暖かい人間関係を築くことがなくても、成功という報酬で幸せになるのだというのが「自己実現幻想」だ。実際には、成功する人間は少なく、従って自己実現で幸せになれる人間は少ない。多くの人間は、暖かい人間関係の中でこそ幸せを感じることが出来る。それなのに、成功もなく、暖かい人間関係もなくなれば、がんばっても幸せになれなかったという結果だけが残る。公教育の中で自己実現幻想で競争するようになれば、友達関係の中で豊かな子ども時代を過ごすことが出来なくなる。暖かな人間関係を経験することなく、挫折の中で幸せになれない人間が増えていくだろう。夜間中学が人々に感動を与える要因は、そこには包摂的な暖かい人間関係が見られるからだ。かつての山田洋次監督の「学校」という映画もそれを描いていたし、森康之監督のドキュメンタリー「こんばんは」も、夜間中学の持つ暖かな人間関係の姿を描いていた。近年それが失われつつあるのを感じるのはさびしい限りだが、かつての夜間中学には、その暖かさがあっただけで、そこに通ってくることが喜びであり幸せに感じたということがあった。夜間中学には、最新の設備があるわけでもなく、飛びぬけていい授業が行われているのでもない。いつでも脱線して、授業が知識の伝達であるなら、あまり成果が上がらないものであるのに、それでもそこに来ることが幸せだったという雰囲気が確かにあった。「貧乏」は、そこから抜け出す道があり、再チャレンジということも可能だと思う。しかし、「貧困」は、再チャレンジどころか、最初のチャレンジからさえも排除されているのではないかと感じる。僕は今のところまだ安定した仕事を持っているので「貧困」に陥ってはいないけれど、深刻な病気になったりした後や、あるいは自分が死んだ後の子どもたちが「貧困」に陥る可能性がないとは言えない。「貧困」は一度そこに沈んだら抜け出ることが不可能ではないかとも感じるだけに、「貧困」は、社会がそれを援助するようなことが絶対に必要なものではないかと思う。それは論理的な帰結として主張できるのではないだろうか。
2007.10.05
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野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本によれば、『論理哲学論考』におけるウィトゲンシュタインの論理空間というのは、意味を持つすべての命題を寄せ集めたものというイメージで読み取れる。ウィトゲンシュタインは、これらの命題を「事態」と呼んでいたようだ。この「事態」は、まだ現実化されていないものもたくさんあり、そのイメージが人間には想像可能だということで「意味がある」とされているように思う。この、想像可能な「事態」の中で、実際に現実化されているものを「事実」と呼んで、これこそが「世界」であると定義されている。「世界」というのは、現実と対照されて、その主張する事柄が現実に発見されるものだ。つまり、その命題が真理であることが確認される命題が「事実」と呼ばれる。「世界」は、物の集まりではなく、「事実」の集まりであって、それは真なる命題の集まりであるというのが『論理哲学論考』の主張だ。この「世界」の定義は、思考の限界を定めるためにウィトゲンシュタインが設定したもので、そう考えなければならない強制はない。「世界」を物の集まりだと考える見方もあってもいいだろう。しかし、そのときはウィトゲンシュタインがやったような、思考の限界を言語の限界として考察するということがうまくいかなくなるだろうと思う。定義というのは、そのようなもので、「世界」をあらかじめそのように設定しているからといって、先験主義(アプリオリズム)に陥っているわけではない。これは、考察の目的を達成するための設定であり、仮説としての出発点だと意識されている。先験主義というのは、この「仮説」としての出発点という意識が消えうせて、それがあたかも自明の真理のように受け取られて考察が展開するところに間違いが生じるのではないかと思う。この出発点を、仮説として意識することを忘れなければ、その理論展開で得られた体系的知識が、現実に妥当に当てはまるかどうかで、その理論が現実に適用可能かどうかの判断ができる。理論そのものは論理によって展開されるので、論理が正しい限りにおいて正しいといえる。しかし、正しい理論であっても、その適用の仕方を間違えれば、現実を適切に説明(解釈)することは出来ず、適用において間違いだといわれるだろう。理論そのものの論理的な間違いなのか、それとも現実に適用されたときの、適用条件の受け取り方の間違いなのかは、理論の正当性を判断する上では大切な区別になるのではないかと思う。さて、ウィトゲンシュタインが語る論理空間というものは、それがあらゆる意味のある命題を含んでいるという前提が確定的に確かめられるものであるなら、現実への適用というものの妥当性を考えることが出来るだろう。また、現実の「事実」というものが確定可能であるなら、その「事態」の中から「事実」を拾い上げて、真なる命題を決定することも出来るだろう。しかし、この二つのことが本当に出来るかどうかには確信が持てない。ある命題の真偽の確定は、それが意味のある命題である限りでは必ず出来るものだろうか。現実には、真であるとも偽であるとも今のところは確定しないという命題がたくさんあるだろう。しかし将来的にはそれが確定できるということもあるだろう。問題は、すべての命題について、その真偽が確定し、「事態」の中から「事実」を選別できなければ、ウィトゲンシュタインが語る思考の限界というものが確定しないのではないかということだ。個々の具体的な「事態」については、それが「事実」になるかどうかを考えることは出来る。例えば、円周率が本当はどのような数になるのか、誰もそれを知ることは出来ない。それは無限に続く数字の列であり、しかも繰り返しが現れることがないので、そのすべての数字を把握することは出来ない。だが、「1万桁目が1になるか」という具体的な質問に関しては、それを計算することが出来るので、確定的に真偽を答えることが出来る。円周率の数字のすべてを把握することは出来ないので、「円周率の数字は、計算する前から確定している」というような命題の真偽を知ることは出来ない。数字は、計算することによって確定するので、計算する前は分からないとしか言えない。だが、ウィトゲンシュタインの論理空間においては、命題のすべてを考察の対象にしなければならないので、すべてをいっぺんに把握した実無限として、この命題の真偽が確定的でなければならないような気がする。もし命題の真偽が確定しないが、どう見てもそれは意味がある命題であるとしか受け取れないものがあれば、それが現実に成り立つかどうかが決定出来ない。つまり、「事実」であるかどうかが決定しない「事態」としての命題が存在することになる。この命題は、思考においては排除されるのだろうか。このような命題は、思考をしても堂々巡りの展開になり、まさに思考できないという限界を示すものになるのだろうか。上の命題が、「事実」という「世界」に関わるものではなく、数学だけの中でのものならば、数学は現実との関係を切り離すことが出来るので、「計算によって確定できるものは最初から確定しているものとみなす」というふうに、命題の真偽の判断を定義してしまえばすむことになる。数学は、実無限的な把握を定義によって逃げるということが出来ると思う。実数の連続性の問題なども、現実にそれを確かめることは不可能だ。実数を無限に分割して、隣同士が確かにくっついているという「連続性」を確かめるのは、有限の存在である人間には不可能だ。しかし、実数の連続性をそういうものと定義して、理論の出発点にすることは出来る。数学ならばそのような処理が出来る。円周率の問題も、計算すれば確定するものは、最初から確定するものとみなしてしまえば、それはある一つの無理数を指すものになり、円周率を実数の中に位置付けることが出来る。問題は、ウィトゲンシュタインの場合は、あくまでも現実とのつながりで「事実」というものを考えているということだ。この「事実」が世界として確定していると考えるなら、ウィトゲンシュタインは、実無限の把握を前提としているように見える。しかし、「世界」が確定していないものなら、思考の限界を引くことが出来なくなる。それは、「思考の対象にならないものは考えることが出来ない」という、平凡でつまらないトートロジーを語ることになってしまいそうな気もする。思考の対象にならないものを確定することが、思考の限界を確定することにもなるのだが、「考えられないものは考えられない」と言ったのでは、何も語っていないに等しくなる。すべての意味のある命題の真偽は確定しているのだが、今の段階ではそれが技術的な問題で確定できないだけだと解釈することは出来る。しかし、この解釈が正しいかどうかは保証できない。この解釈は、すべての命題に対するものになっているので実無限の把握を要請する。経験的に確かめることが出来ない。科学のように、その対象を絞り込んで、任意性を元に可能無限の範囲で「すべて」を確定しようとすることも出来ない。「すべて」の範囲があまりにも広すぎるからだ。これが、そのような「世界」を設定するという仮説として提出されているのならば、数学と同じように、理論の出発点であるという意識だけで処理できると思う。しかし、ウィトゲンシュタインの主張は、あくまでも現実に我々が生きている「世界」について語っているようにも思われる。不確定性原理と呼ばれる量子力学の問題は、命題の真偽が、世界を把握する前にすでに決定しているものかどうかに疑いを持たせる。不確定性原理によれば、一つの光子と呼ばれる存在が、2つのスリットの穴のどちらを通過したかということにおいて、それは観察によって初めて決定されるという解釈をする。観察をする前には、どちらを通るかということが決定出来ない、ということが不確定性原理の「不確定」たる所以だという。これは、人間には決定出来ないので「原理」という呼ばれ方をしているのだと思われる。この、決定出来ない命題に関しても、それは人間の能力の限界を示すだけであって、本当は決定されているのだと考えるのかどうかは、世界観の問題として大きいのではないだろうか。そして、ウィトゲンシュタインの「事実」と「世界」の概念は、これが決定されていると考えなければうまくいかないのではないかとも感じる。命題の真偽は、それを実際に確かめることが出来るのなら確定する。その確かめる方法を持たない命題に関しては、その真偽がわからないときでも、それはすでに決定しているという前提を立てられるだろうか。それが純粋に技術的な問題であるなら、それはそのように考えてもよさそうな気がする。将来確かめることが出来るようになれば、それは本当に確定するのであるから、それは知られる前からすでに確定していたのだと考えてもよさそうだ。しかし、不確定性原理のように、分からないということが原理的なものである対象については、永遠に知る方法がないことになる。どれほど技術が進歩してもそれは確定できない。そういうものも、果たして、本当は確定しているのだという前提で考えてもいいものになるだろうか。不確定性原理が、永久に知りえないというのは、観察することが光子の運動に影響を与えてしまうからである。つまり、観察したという条件のもとでの光子の運動は確定するけれども、観察しないときの動きは、計算によっては知りえないということだ。それは、確率的に知ることしか出来ない。確定はしないのである。観察しない時は、人間が認識していないときなのであるから、考察の対象を、認識しうるものに限るということにすればこれは処理できる問題になるかもしれない。ウィトゲンシュタインの「世界」を、認識しうるものに限れば、「世界」は確定するだろう。しかし、その際は、何が「認識しうるもの」なのかという問題が起きてくる。「認識しうるもの」に思考の対象を限定すれば、思考の限界を引くことも出来るが、その時は、やはり「認識し得ないもの(考えることの出来ないもの)は考えることが出来ない」というトートロジーになってしまう。ウィトゲンシュタインの哲学テーマは、どこまでも堂々巡りしていきそうなものになってくる。そういうものは、思考しても無駄だということなのかもしれないが、それに一つの決着をつけるのが先験主義(アプリオリズム)というものかもしれない。経験によって決定出来ない事柄(すべての命題の真偽が決定しているというようなこと)を、すでに成り立っているものとして設定してしまう先験主義がもしうまく現実を説明するものになっていれば、究極的なテーマにおいては先験主義が正しいこともありえるのではないかという気もしてくる。現実経験を元に判断しなければならないような、具体的な現象を語るときには、無前提に正しいとされるような前提を置くことは「先験主義的」な間違いになるだろうと思う。しかし、具体性を捨てた、究極の抽象世界の哲学テーマに関しては、先験主義でなければ展開が出来ないテーマもあるのではないだろうか。カントの哲学には先験主義が現れてくるらしい。カントが扱っているテーマが、究極の哲学的テーマであり、先験主義によってしかそれが解決できないようなものであれば、先験主義というものの一つの側面をもっと深く考えることが出来るのではないかと思う。先験主義というものも、それが先験主義であるというだけで否定されるものであるのかどうか、究極的な哲学的テーマとの関連で考えてみたいものだと思う。
2007.10.04
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シカゴブルースさんから「マイナス概念の形成」というトラックバックをもらった。この中で、シカゴ・ブルースさんは、僕の「数学的法則性とその現実への適用」というエントリーの中で語っている、「マイナスというものがそもそも想像上の対象である」ことと、それを現実の中に探しても、それが「存在しない」ので、直感的な把握が難しいのだという主張への反対の見解を語っている。シカゴ・ブルースさんは、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」ということの判断から、僕が「マイナス」という言葉の意味から上のような結論を引き出したことを、現実の経験を媒介にしない、何か先験的な判断のようなものという受け取り方で、「先験主義(ア・プリオリズム)的な解釈」と呼んでいるように思われる。しかし、先験的な判断は、「主義」にまで徹底されてしまうと間違えるだろうが、個々の場合においては、経験するまでもなく確かだと判断できることもある。それが論理的判断であり、論理的判断をすることは、決して先験主義という「主義」ではない。また、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」というものも、無条件にそれを肯定することは出来ない。もし、このことを無条件に肯定してしまえば、それこそ間違った「先見的判断」として「先験主義」に陥ってしまうのではないかと思われる。「ことば」はそれがまったく新しい実体に対する命名であった場合は、もちろん現実がまず第一にあって、そこから概念が引き出され、それに命名されるという順番になるだろう。しかし、「ことば」の洪水の中で育っている現代の我々においては、まず「ことば」の意味が先行して後に概念が形成され、その概念に合致する現実を発見するという逆のコースも存在する。「神」という概念は、大昔は、人知を超える現象に対して、それがなぜ起こるかという説明をしたいという人間の欲求から、神という概念が形成されたという歴史が想像できる。つまり、現実の現象がまずあって、その現象を説明するために概念が出来上がったという順番が正しいだろうと思う。だが、その言葉が生まれた後に生きている人々は、まずは言葉の意味としての「神」の概念があり、その神の概念の現れを現実に発見することで信仰を深めていくということになるのではないだろうか。それこそ、「神」の意志の現れを現実に体験して、そこから「神」の概念を創っていく人は、現代人には皆無ではないかと思われる。言葉が形成される過渡期に生きてきた人間の認識と、すでに言葉が十分行き渡った社会に生きている人間の認識とでは、その概念形成の構造が違ってきているのではないかと思う。そうであれば、「「ことば」に対する概念の先行性と、概念に対する現実の先行性」ということも、その条件によって判断が違ってくるのではないかと思われる。常に成り立つ法則性あるいは原理ではない。現代社会を「言語ゲーム」として捉えるウィトゲンシュタインの思想は、この原理が、もはや現代社会では変わってしまったという捉え方ではないかとも思われる。さて、論理における先見的判断の特徴は、例えば三段論法における、述語の内容に関係なく成立する形式論理の問題がある。aやxを個々の対象として考え、Pをその対象に対する言明と考えると、Pの内容に関係なく、次の推論が成立する。 すべてのaはPである。 あるxはaの一つである。 ゆえに、xはPである。これは、Pで語られていることに関係なく、ということは、Pという経験をすることなく、対象xがPであるという結論を導くことが出来る。その意味で先験的な判断である。しかし、この判断が成り立たないようなら、人間は論理的な判断をすることができなくなり、合理的な思考というものが出来なくなる。これは、三段論法という場面で限定された先見的判断なので、他の条件のときにも先見的判断が正しいと主張するような先見「主義」ではないので、間違いを免れていると思われる。また「丸い三角」というような、形容矛盾の対象を想像するときも、それが現実には存在しないということを、経験によって確かめるのではなく、我々は言葉の定義から論理的に判断して結論する。「丸い三角」という対象は、その定義に形式論理的な矛盾が含まれているので、そんなものは現実には存在しないと結論できるのである。「丸い」というのは、数学で言えば「円」のことであり、定点から定距離にある点の集合を指す。「三角」というのは、3つの直線で囲まれた閉じた図形のことであり、2つの直線が交わることによって出来る角が3つあることから「三角」と呼ばれる。定点から等距離にあるということと、それが直線であるということは両立しない形式論理的矛盾になる。だから、そんなものは、言葉の意味から推論して、現実には「存在しない」と結論付けることが出来る。マイナスの数が現実には存在しない想像上の産物であるというのも、その定義・言葉の意味から引き出される論理的な結論だ。だからこそ経験に関わらず、「存在しない」という主張が出来る。もっとも、経験を根拠にしていたら、「存在する」という証明は出来るが、「存在しない」という主張は出来ないのだから、この主張は常に論理的なものに限られるだろう。マイナスというのは、普通の数をプラスと捉え返したときに、その属性が正反対になるようなものとして想像されたことから設定されたものだ。そして、普通の数は、それが1対1対応を基礎にして自然数として把握されたという生成の過程から考えれば、存在するという属性を持っていることが重要なことになる。存在しているからこそ1対1に対応づけることが出来る。もし、何も存在しないときにそれでも1対1に対応付けようとしたら、そのような経験が成立しないことに、人間は途方にくれてしまうのではないだろうか。シカゴ・ブルースさんは、「3-5」という引き算の場面を想像して、これが2つ「不足」しているという事実が存在しているのだから、という理由からマイナスの数の存在を引き出そうとしているように見えるが、これは、「不足」という事実(すなわち状態)の存在を示すものではあるが、それがマイナスの概念を属性として持っている実体の存在を示すものではない。実際には、3つしか存在しない対象に対して、5を取り去るという引き算は出来ないのである。この引き算は、実際には出来ないにもかかわらず、不足という概念をマイナスの数として想像上でフィクショナルに実体化することによってその状態を保持する表現を得たということになるのだと思う。マイナスの数が現実に存在しないと僕が語るとき、それは、マイナスを示すような状況が現実に存在しないという意味ではない。状況や状態というものは、その解釈によって捉え方が違ってくるので、マイナスが適用できるような解釈をすれば、状態というものは十分存在しうる。しかし、状態ではなく、それを実体の属性として確認できるような存在は、マイナスの場合はないのだというのが僕の主張だ。シカゴ・ブルースさんが提出する「負の数のタイル」にしても、それはどんなに努力して発見しようとしても、現実には見つからない。頭の中で想像するだけしか出来ない。実際に存在するタイルは、黒い色を塗っていようと、1つの黒タイルは、1つというプラスの数で捉えられる現実存在にしかならない。それは決してマイナス1という属性をもっている「負の数のタイル」が現実に存在しているのではないのだ。なぜなら、普通の白いタイル(プラスの数を表す)と、この黒いタイルをいっしょにして、足し算を示すような合成の操作をしても、それによって二つのタイルが「消滅」することはないからだ。現実には、消滅したことにして取り除くことによって0(ゼロ)を示すことになる。それは、すべてそのように解釈して扱うことによって、正負の数の加法の原理を実感させようとする教育的な配慮に過ぎない。実際には、合成したとたんに存在そのものが0(ゼロ)になるような、プラスの数を消滅させるような属性を持った「負の数のタイル」は存在しない。それは想像上の産物なのだ。我々は、余剰と不足があったとき、余剰のほうをプラスにし、不足のほうをマイナスにする。その逆を想像することは出来ない。これは、プラスの数に本質的に、存在するという属性が伴っているからである。それでは、不足そのものはこの世に存在するのであろうか。不足という概念は存在するが、不足という対象は存在しない。不足は、まさにそこに「ない」ということを語るものであるから、不足が存在するといえば、形容矛盾になり、形式論理的な矛盾になってしまうからだ。昔見た映画で、題名もストーリーも忘れてしまったのだが、印象的なシーンを覚えているものがある。それは、一つ目の巨人の目をつぶして退治する英雄が現れる映画だった。ギリシア神話を題材にでもしていたのだろうか。その英雄は、一つ目の巨人と戦う前に、自らの名前を「Nobody」と語っていた。そこで、一つ目の巨人が目をやられたときに、誰にやられたのかと、一つ目の兄弟から聞かれたときに、 Nobody did.と答えたのを覚えている。これは非常に印象的だった。たしかに、「Nobody」という固有名詞をもったものがやったのだから、このような答えになるのだが、この答えは一般的には「誰もやっていない」という意味になってしまう。つまり、「Nobody」という対象は、ことばの意味の中に、それが存在しないということを含んでいるのである。「Nobody」というのを、固有名詞と考えれば、それを持っている存在があることが前提される。しかし、この言葉を一般的に概念として捉えれば、それは、言葉の意味の中にそれが存在しないということを含んでいる。これは、「Nothing」というような言葉についても言えるだろう。 There is nothing.という言葉は、「Nothing」というものの存在を主張しているのではない。そこには「何もない」ということを語っているのだ。「無」は存在しないのだ。「無」が存在すると主張することは形式論理的な間違いなのだ。それでは、0(ゼロ)は数学においてなぜ存在するのか。それは、フィクショナルに実体として設定するからだ。このフィクショナルな実体は、計算の体系を完結させるのに役立つ。筆算における体系を完全なものにしてくれる。0なしには、筆算は成立しない。筆算が行われていたインドで0が発見され、そろばんが発達した日本では、数としての0の概念は生まれなかったというのは象徴的だ。そろばんにおいては、0は状態として目に見えるものとして存在させられる。だから、それを実体としてフィクショナルに設定する必要がなかった。0は、何もないということで認識していればよかったのである。だが、筆算においては、ないということでは位取りの原理が確実なものにならない。ないということを示すフィクショナルな実体がなければならないのだ。このフィクショナルな実体が、言葉の概念を発展させて、現実には存在しない0が存在するような錯覚を起こさせる。例えば、車を持っていない人が、車が0台あると表現することで、ないという状態を実体的に表現することが出来る。これは、現実をそのまま表現したのではなく、現実の解釈に0の概念を適用しただけのことだ。0台の車が存在しているのではない。車は1台もないのである。マイナスの数が現実には存在しないのだという僕の主張も、これと同じような意味で語っていることなのだ。
2007.10.03
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微分という数学の計算が運動の表現であることは、ある意味では自明のことだとも思われる。それは、ニュートンが自らの力学の解析に利用するために発明した計算であり、ニュートン力学は、動力学として運動の解析をするものだからだ。だから、その生まれてきた過程を見れば、微分が運動を表現している、それは位置情報の関数を微分することによって速度が得られ、速度を微分すれば加速度が得られるというように、運動を表しているものと受け取ることが出来る。だが、微分が運動の表現であるということをこの意味で知っているというのは、知識としてそれを把握しているということにしか過ぎないのではないかと僕は感じる。マルクスは、エンゲルスが「数学に通じた人」と呼んでいたが、マルクスが残した数学に関する論文が「数学手稿」(大月書店)として本になっている。これを見ると、微分が運動の表現であるということを、実感として述べようとしていたのではないかと感じるところがある。以下、それを考えてみようと思う。板倉さんが指摘したように、運動というのは、論理の言葉で記述しようとするとどうしても矛盾したような表現が入ってしまう。ゼノンのパラドックスは、その矛盾した点を鋭く突いたものになっている。この、ゼノンのパラドックスの表現との類似性も微分という計算が持っているのではないかと僕は感じる。まずは、「限りなく近づく」という極限の表現の中に、運動する状態というものが記述されているのを感じるが、これを静止の表現である論理・数学の世界で表現するとどのような矛盾が現れるかを見てみたい。マルクスが考察の対象としているのは、簡単な1次関数<y=ax>の微分についてだ。この関数において、xとx1という二つの異なった値を考える。それぞれの値のときのyはであり,<y1=ax1>であると考える。このとき、x1をxの方へ近づけると、それに伴ってy1もyに近づいていく。この過程の途中の一瞬を静止したものとして表現すれば、 y1-y=a(x1-x)というものになる。このx1は近づいていく過程ではxに一致することはないので、<x1-x>は0(ゼロ)になることはない。そこで、この<x1-x>で両辺を割ってやると、 (y1-y)/(x1-x)=aという表現を得る。これは、 △y/△x=aという表現としても書かれる。これは、「限りなく近づく」という極限の運動を、ある一瞬の静止画像として表現したものだが、この表現自体は運動ではない。「限りなく近づく」ということが表現されていないからだ。だから、この静止だけでは運動にはならないが、運動を静止としてしか表現できない論理では、ゼノンが語るように「運動」というものは、「止まっていると同時に止まっていない」という矛盾した表現として語ることになる。この矛盾が微分の表現にどのような形で現れるかを見てみたい。上の表現で極限に到達した状態を想像すると、そこではx1がxに一致した姿が得られる。極限に到達した時は、そこで運動が終わったことを意味し、静止した表現になるからだ。そこでは、 x1―x=0になり、それに伴ってy1-y=0になる。このとき、上の表現は、 0/0=aと書かれることになり、0で割り算をするという、数学法則に反する矛盾が現れる。ゼノンがその表現において形式論理学上の矛盾を引き出したように、微分の表現は、数学上の矛盾・すなわち形式論理学的な矛盾の表現を導く。この矛盾を数学はどうやって処理しているだろうか。形式論理的な矛盾を許容すれば、数学はまったく無用の役立たないものになる。その真理性はまったく信用できないものになるのだ。矛盾した数学体系では、あらゆる命題が定理として導かれてしまう。つまり、正しいか正しくないかという区別が意味をなさなくなるのだ。この「0/0」という表現に対して、それは限りなく近づくという過程を表しているのだから、本当は0ではないのだという考えを、マルクスは「気休め」だとして排除している。極限というのは、x1とxが一致した状態を想定して、そこまで運動をしつづけるのだと考えているのである。つまり、極限まで考えれば、計算は0にしないわけにはいかない。実際に微分の計算では、最終的な答えを出す段階では<x1-x>を0にしなければ導関数を決定することが出来ない。上の1次関数では分かりにくいが、x^2をxの2乗の表現として2次関数を書いてみると、 y1=x1^2、y=x^2において、x1がxに近づいていき、その極限を考えると、 y1-y=x1^2-x^2 =(x1+x)(x1-x)従って、 △y/△x=(y1―y)/(x1―x) =x1+xこの微分の計算において、x1とxを一致させなければ、2次関数「Y=x^2」の導関数が2xになるという計算を導くことが出来ない。この計算においては、x1はxと一致しなければならないのだ。極限に至る過程を静止画像で切り取れば0/0という表現にはならない。しかし、極限にまで至った運動の表現では、どうしても0/0という矛盾した表現が必要になる。マルクスは、この0/0の表現を「否定の否定」として理解すべきであるという書き方をしている。つまり、単純に0の割り算として出てきたのではなく、ある考察の過程として、否定の否定を経て、導き出されたものとして過程の違いを見なければならないということだ。これはたいへん難しいということを感じる。だが、この表現を「否定の否定」として理解しなければ、微分が運動の表現であるということを実感することが出来ないのではないかと思う。「否定の否定」の過程をもっと判りやすく見ることが出来ないかと思う。それには、次のような例を利用するといいのではないかとも感じる。無限小数の表現において、9が無限に続くような次の表現を考えてみる。 0.9999999999999………上の「…」の部分は、9が無限に続くことを表現しているのだが、実際には無限に書くことは出来ないので、点を書くことによって象徴的な表現にしてある。これは、実は極限を表現していると考えることが出来る。そうすると、上の数は、極限としては正確に1と一致すると考えるのが数学的な形式論理の考えになる。これは、見た感じからする直感とはかけ離れるような印象を与える。上の数字はどうしても1と同じには見えないのだ。上の数字が無限に続くものではなく、どこかで止まってしまったらそれは1と一致することはない。どんなに9がたくさんあっても、それは1に近い数ではあっても、決して1ではない。しかし、9が無限にたくさんあれば、それは極限を表していると解釈でき、極限であるならばそれは正確に1と一致するのである。極限の最後までの過程を人間が見ることは出来ない。これを見ようとすると、ゼノンが語ったようなパラドックスが起こる。無限の過程を有限の存在である人間が把握したという前提が必要になってしまうからだ。人間が見ることが出来るのは、極限の果てに静止した状態だけで、無限の過程を見ることは出来ない。有限の、運動がどこかで静止している状態は、上の数字は1と一致することはない。1との一致は否定される。しかし、運動の極限の果てでは、この否定が再び否定され、1との一致が結論される。微分の計算において無限の果てで、その差が0(ゼロ)になるという状態は、単にその場で0の割り算をしたという、過程なしの状態ではない。ある過程の果てに到達した結果として「否定の否定」が隠されているものとして受け止めることによって、形式論理的な矛盾ではありながらも、弁証法的な矛盾として生かされることになるのではないだろうか。運動は、その過程を把握しなければ運動として理解することが出来ない。しかし、過程を表現することは形式論理では出来ないのだろうと思う。形式論理では、運動の一瞬の姿の静止画像か、運動の結果としての静止か、どちらかでなければ表現できないのではないだろうか。微分における極限の運動の表現は、その過程を象徴的に表現しようとすれば、表現の中に矛盾が入り込んでくるのではないかと思う。これは、板倉さんが指摘したゼノンのパラドックスが持っている特長とよく似ているものではないかと思う。過程の表現は、正確には出来ない。それは象徴的に表現するしかないのではないかと思う。正確に表現できるのは、一瞬の静止画像と、極限が行き着いた果ての静止だけではないかと思う。それが、数学におけるイプシロン―デルタの論理と呼ばれる工夫になっているのではないかと思う。任意の正の数イプシロンで極限の運動の過程の一瞬の姿を表現し、究極的な運動の結果としては、正確に=(イコール)で結ばれる関係として記述されるのではないだろうか。数学におけるイプシロン―デルタの論理での表現は、あくまでも静止の状態の表現であり、だからこそ数学としては正確な表現になるが、運動を表現したものではなくなる。運動という要素が入り込むのは、イプシロンにおける任意性というものだ。それが任意のものであるということで、運動の過程のすべてを含んでいる。これをいっぺんに把握することは実無限の把握になって、現実に可能かどうかが問題にされるが、もしある具体的な正の数を設定すれば、その時はいつでも可能だという解釈をすれば、可能無限の範囲に入り、それは有限の存在である人間にも把握が可能だという考え方も出来る。数学的な論理の世界と現実の世界には、表現におけるずれがいつも存在しうる。運動の表現はその最たるものだろう。それでも数学が現実に適用されて有効性を持ちうるというのは、数学が現実の世界とのつながりを持つものであることの証拠でもあるだろう。この現実の世界とのつながりという点も、弁証法性を持っているものだと思われる。数学は現実を離れて論理の世界に入らなければ、絶対的な真理性というものを持ち得なくなる。しかし、現実とまったく無関係だといってしまえば、それが現実に適用できるということが、その正当性を語ることが出来なくなってしまう。このあたりの、現実世界と数学との関係は、シカゴ・ブルースさんのトラックバックとの関連で考えてみたいものだと思う。
2007.10.02
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