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野矢茂樹さんの『論理トレーニング』(産業図書)という本で改めて論理について考えている。野矢さんは、この本の冒頭で「「論理」とは、言葉が相互に持っている関連性に他ならない」と述べている。論理とは、極めて言葉に深いかかわりのあるものなのだ。だから、論理を学ぶということは言葉を学ぶということでもある。しかし日本の学校教育では、論理の一端を数学で学ぶものの、文章を学ぶ国語においては論理というものはほとんど顔を出さない。国語において学ぶのは、ほとんどがその文章の味わいを感じる鑑賞の側面に限られている。題材としても文学的作品(文章による芸術作品)が圧倒的に多い。たまに説明文が題材にされることがあっても、その説明文がどのような論理構成で説得力をもっているかということは話題にされることがない。僕は論理に強い関心を持っていて、言語学などにも惹かれるものを感じていたが、高校までの国語で学習した内容はほとんど関心がなく、むしろ嫌いだった。その文章読解は、ほとんど感性の範囲でなされており、なぜそのように読まなければならないのかという解釈に合理性を感じていなかったからだ。ほとんど感性でそのように感じなければならないという押し付けを感じ、自分の感覚で自由に読むということを邪魔されている感じだった。自分は何故に模範解答と違う読み方をするかということが気になっていた。それは自分の感性を否定的に受け止めなければならないことなのかと不満に思っていたものだった。後に論理を学習するようになって、論理というものの「流れ」が読めるようになると、その流れによって解釈が違ってくるということはむしろ合理的なことなのだということが分かってきた。文章の読み方が人によって違うのは、そこに受け止めている論理の流れが違うのであり、その流れは、言葉のもつ意味の二重性から、どの意味でその言葉を受け止めているかという自分の主体性によって違ってくるということが分かった。そしてそれこそが論理的に合理的なのだということが分かった。人間は、勘違いでさえも論理的に受け止めているのだ。国語的な文章読解は、感性がどう受け止めているかということがその解釈の基礎になっているので、感性の違う解釈は理解の仕様がなかった。そう感じることもあるんじゃ仕方がないか、という受け止め方だった。だが、論理的な解釈は、その論理の流れになっている前提を理解することが出来るなら、そう解釈することの合理性を理解できる。その前提にたとえ自分では賛成できなくても、その前提を認める限りではその解釈の合理性を理解できる。感性の違いは埋められないが、論理の違いは埋められる。この意味で、民主主義の社会を生きる人間には「論理トレーニング」は非常に役に立つものとなると思うのだが、日本の学校教育ではそのような発想が取り入れられたことがない。ほとんどの学校で行われている教育は、知識を効率よく覚えるということに偏っている。野矢さんはトレーニングを、論理的な流れを作り出す接続詞を適切に選ぶという訓練から始めている。それは、感性で語調というようなものを頼りに選ぶのではなく、前後の主張の論理の流れを受け止めて、その流れにふさわしい表現をただ一つ選び出すという訓練をするものになっている。これは感性で選ぶのではないから、どうしてその接続詞を選んだのかという理由を、他者に分かるように説明できなければならない。その説明が合理的に出来るというのが、この訓練の合格基準になるだろうか。野矢さんは次のように書いている。「そこで、こうした問題では、単に適切な接続表現を選ぶだけではなく、どうしてそれが適切であると考えられるのか、そしてまた、そこで選ばれなかった接続表現はどういうところが不適切なのかを、説明して欲しい。その際、あなたと違う答えを出した人を想像して(実際にそのような人がいればその人に向かって)、その相手に納得してもらえるように説明を試みて欲しい。形だけの説明ではなく、どう説明すれば人に分かってもらえるのかをかなり本気で考えて欲しいのである。単に適切な接続表現を選べるようになることよりも、そのような説明がきちんとできるようになることのほうが、論理トレーニングとして、はるかに大事なことである。」この野矢さんの姿勢は、野矢さんのどの著書にも感じるもので、野矢さんは論理学の専門研究者であると同時に優れた教育者であるということを感じるものだ。野矢さんがこの本で提出している問題について、野矢さんが語る解答を僕自身がちゃんと納得できるかどうか、そしてその解答は、僕以外の誰もがそのとおりに合理的に理解できるかどうかを考えることは、論理のトレーニングとして非常に有効なものだろうと思う。論理というものをまったく考えずに、自分の感性だけで文章を受け止めている人に対しては、論理的な説得は効かないかもしれないが、論理的側面に関心を持っている人にだったら、論理的な正しさがきちんと伝わるものなのかということにも興味がある。それは、論理の専門知識があるなしに関わらない。論理というのは、デカルトも語ったように、万人に平等に分けられている理性の働きとして見られるものだから、理性を持った相手にだったら論理的正しさが伝わらなければならない。理性的な対話において論理が伝わらないのであれば、それはその論理のどこかが間違っているということになる。人間は、ある種の問題に関してはそれがあまりにも自分に切実過ぎるために理性の働きが鈍ることがある。そのような問題では論理的な流れを自覚するのが難しいが、それほどの切実さがない問題であれば、たとえ自分とは違う感性からの出発であっても論理の流れを捉えることが出来るだろう。もし野矢さんが提出するトレーニングの問題の論理の流れと違う流れを捉えている人がいたら、その流れを理解したいものだと思う。自分では発想できない論理の流れを知ることが出来たら、自分の論理の技術が一歩進歩するのではないかと思うからだ。さて野矢さんは次のような問題を提出して論理のトレーニングを始める。問題 次の文章において適切な接続表現を選び、どうしてそれが適切であり、他方が不適切なのかを説明せよ。「ルドルフ・ブルトマンは「キリスト教が始まったのは、イエスの弟子たちが、「十字架上に死んで復活したイエスは救世主(キリスト)である」という宣教を開始したときである」と言う。 (a)キリスト教は、イエスをキリストと告白する宗教のことである。 (b)イエスはクリスチャンではないし、イエスの宗教は--若干の留保をつけてではあるが--なおユダヤ教の枠内にある。イエスの教えは、換言すれば、キリスト教成立の諸前提のひとつに過ぎないのである。」この問題において、(a)および(b)の位置での接続詞は「だから」と「すなわち」のどちらがふさわしいだろうか。これを、口調のような感性で選ぶのではなく、前後の論理の流れから、その流れの読み取りにおいてはこれでなければならないというのをどちらか選ぶのが論理トレーニングになる。さてそのようなものは選べるだろうか。答えを先に言ってしまえば、(a)は「すなわち」であり、(b)は「だから」になる。これは、「すなわち」と「だから」の接続詞を、論理的な流れのつながりとしては、どのように解釈しているかという概念によって決まってくる。「すなわち」という言葉は、同じレベルでの言い換えに際して用いられる。 A すなわち Bと語った時は、Aで語られた内容とBで語られた内容は、意味的に同じものになっている。しかも論理的なレベル(抽象性など)がほぼ同じであるという特徴を持っている。上の問題の文章では、イエスの弟子たちが「宣教を開始した」という言明と、「キリストと告白した」という言明は、同レベルで、同じ意味を語っているものと解釈される。このとき、「キリストと告白した」という一般的な言い方ではなく、誰か具体的な個人が具体的な行動をしたというような言明が続くようなら、それは同レベルではなく、抽象から具体へというレベルの違いが生じる。そんなときは、「すなわち」よりも「たとえば」という言い方のほうが論理的にはふさわしくなる。だが上の問題の場合は、次の文章とのつながりを考えると、論理の流れとしては「すなわち」がふさわしい。(b)の解答が「だから」のほうがふさわしいというのは、「だから」というのは論理的な根拠を示す言葉であり、後に続く言明がどうして成立するかという理由を、その前の文で語っているという論理の流れがそこにあることを示していることから得られる。「イエスがクリスチャンでない」というのは、イエス自信がキリスト教という教えを持っていたのではないということから帰結されるものだ。それは、キリスト教の発生が、イエスの死後に始まったという前の文章を根拠にして得られるものになる。イエスの死後にキリスト教が生まれたのだから、生きているイエスがキリスト教徒(クリスチャン)にはなれないというのは論理的な帰結である。野矢さんは、このような論理的帰結は、そのままでは容易に認められない主張を、より認めやすい主張を元にして導くというような言い方をしている。そのような論理の流れがあるときに、「だから」という論理を示す接続後が使われる。野矢さんが解説するように、この問題の接続詞は、その論理の流れを考えると上の正答以外には選べない。だが(a)の接続詞を「だから」だと勘違いする論理の流れも想像することが可能だ。それは、その前の言明を根拠にして「だから」でつなぐ論理の流れを読んでいる場合だ。そのような論理の流れでは、ブルトマンが語っていることを根拠に、それだから、キリストだという告白がキリスト教だという論理の流れになる。このような論理の流れは、権威ある人が語ることは正しいという前提のもとでの論理の展開になるだろう。権威ある人が語ったことを言い換えて「すなわち」というのではなく、「だから」でつなぐ人は、権威主義的な論理の流れをしやすいのかもしれない。論理の流れを考える上で戒めとしておかなければならないだろう。野矢さんが提出するトレーニングをしばらくよく考えていきたいと思う。
2008.01.31
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マル激トークオンデマンドに『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の著者の福岡伸一さんがゲストで出ていたときに、福岡さんが語っていた「解像度」という言葉が印象に残っている。解像度の高い画像では、より細かい部分が鮮明に表現される。福岡さんは、「解像度を上げた」という言い方をしていたが、それは、今までは目に見える範囲の見方で直感的・素朴に捉えていたものを、よりミクロの世界のメカニズムにおいて解明したというふうに僕は解釈した。その解像度を上げた表現は「動的平衡」というもので、これは福岡さんの著書のタイトルにもあるように、生物と無生物のあいだを分かち、それを区別する指標となる。動的平衡の素朴な表現は、弁証法の教科書にもよく載っているように、生物に対してそれを「同一のものであって同一でない」と表現するものだ。この弁証法的矛盾を実現しているものが生物だという捉え方は、古代ギリシアの時代からあっただろうと思われる。生物が同一のものであるという捉え方は、個体としての全体は他の生物から識別される同一性を持っているという判断がなされるからだ。私は私であって、他の人間になることはない。ポチと呼ばれる私の犬は、昨日も今日もポチであり、明日もポチと呼ばれる同一の個体であるだろう。ある日突然ポチが、まったく別の個体であるタマになったりはしない。しかし今日の私は、昨日の私に比べて体重が変化していたり、怪我をしたり老化・成長したりしているだろう。そこにはある種の変化が見られる。この変化を捉える観点からは、今日の私は昨日の私と違うという判断が導かれる。つまり同一の存在ではないという主張が得られる。部分を見る観点からは変化しており、個体としての全体性を見る観点からは変化がないという、観点の違いからもたらされる判断の違い(対立)を、その結論だけを並べて書けば矛盾しているような表現になる。すなわち「同一であって、同一でない」という弁証法的矛盾が得られるというわけだ。この表現が素朴であるといわれる理由は、この観点が、目に見える範囲の分かりやすい現象を元にしてされているからだ。部分の変化である怪我・老化・成長というようなものは、すべて目に見える変化として捉えられている。それは確かに変わっているというふうに見えるところだ。しかし、その個体全体に対しては、昨日も今日も同じ固有名で呼ぶし、それで不都合が起こることはない。それは個体としての存在は変わりないと判断される。このような弁証法的矛盾が生物(生命)というものの本質であるという指摘は、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)からの孫引きになるが、エンゲルスも次のように指摘している。「生命とは、何よりもまず、ある生物がおのおのの瞬間に同一でありながら、しかもある他のものであることである。したがって、生命もまた諸事物と諸過程そのものの中に存在するところの、絶えず自己を生み出し、かつ解決する一つの矛盾である。そしてこの矛盾が停止すれば、直ちに生命もまた停止するのであって、死が始まるのである。」(エンゲルス『反デューリング論』)この素朴で単純な見方は、生命現象というものの全体像を本質的に捉えているが、それがどのようなメカニズムで同一性を保ち、変化しているのかという具体的なところを説明することは出来ていない。この説明をするにはどうしても「解像度」というものを上げなければならない。解像度を上げて、直接目に見えない世界に踏み込んでいくことで、そのメカニズムがより具体的に細かく解明できていくのだろうと思う。福岡さんの説明によれば、同一性の原理を導くのはDNAの構造が固体によって確定しているということになるだろうか。DNAは、正確に自己と同じ複製を作っていく。この同一性が固体の同一性を保つメカニズムを受け持っている。単に見た目が同じということではなく、目に見えないDNAのレベルで同一性が確認できる。そこまで解像度が上がったのだと解釈できる。そして変化のメカニズムを受け持つ解像度の上がった概念が「動的平衡」というものだ。これは、生物における食物の摂取と排泄という、外界を取り入れて内部を排出するというメカニズムにおける変化を語るものだ。外界を取り入れるのだから、取り入れた部分は、取り入れる前と当然変化している。この変化は、目に見える範囲では、何らかの栄養素を取り入れて、使い終わった不要物を排出するように見えていただろう。だから、体の部分でも、出来上がっていると思われていたところは、その細胞の内部に外界が取り入れられることはなく、それは老化して不要物になってしまうか、まったく新しい細胞が形成されて取って代わるかするのではないかと思われていたのではないだろうか。脳細胞などは、生まれた後に新たに作られることはないといわれていたので、それは老化して不要物になる運命だけを持っていると僕なども思っていた。素朴な直感では、人間を始めとする生物体は、全体像としての固体は同一性を保ち、その部分である細胞が入れ替わるという「動的平衡」状態を保つという見方をされていたのではないかと思う。しかし、福岡さんによれば、目に見えない細胞内部の現象でも、細胞自体が「動的平衡」という状態を保っているということだった。生物の基本単位である細胞そのものが「動的平衡」にあるのであれば、これこそが生物の本質を語るものだと思えるだろう。動的平衡のたとえとして福岡さんは、砂浜の砂に混じった色のついた砂(珊瑚)の観察を語っている。砂浜の砂はどれもまったく同じ色・形をしているので、それを素朴に眺めているだけでは変化の様子は分からない。それはいつまでも同じものとして目に映る。しかし、その砂の中に色の違う砂が入ると、その砂は他の砂と区別できるので、その色の違う砂がどのように動くかが観察できる。その位置が変化し、やがて波にさらわれて海へと消えていくかもしれない。そこにはその色のついた砂の「流れ」が見える。この「流れ」を持った同一性こそが「動的平衡」と呼ばれる現象の本質を物語っている。生物体の食物の摂取と排泄の流れの中に「動的平衡」を見るには、食物の中に同位体元素というのをもぐりこませるらしい。これが色のついた砂と同じように、他のものと区別される指標を持った対象になる。だから、これが生物体の身体の中をどう流れていくかがわかるというのだ。福岡さんによれば、「重窒素で標識されたロイシンというアミノ酸を含むえさが与えられた」ねずみを使って観察が行われたようだ。その結果は「流れ」というものがどういうものであるかを具体的に教えてくれる高い解像度の見方を教えてくれた。福岡さんは次のように書いている。「重窒素で標識されたアミノ酸は三日間与えられた。この間、尿中に排泄されたのは投与量の27.4%、約三分の一弱だけだった。糞中に排泄されたのはわずかに2.2%だから、ほとんどのアミノ酸はねずみの体内のどこかにとどまったことになる。 では、残りの重窒素はいったいどこへいったのか。答えはたんぱく質だった。与えられた重窒素のうち何と半分以上の56.5%が、身体を構成するタンパク質の中に取り込まれていた。しかも、その取り込み場所を探ると、身体のありとあらゆる部位に分散されていたのである。特に、取り込み率が高いのは腸壁、腎臓、脾臓、肝臓などの臓器、血清(血液中のタンパク質)であった。当時、最も消耗しやすいと考えられていた筋肉タンパク質への重窒素取り込み率ははるかに低いことが分かった。 タンパク質はアミノ酸が数珠玉のように連結して出来た生体高分子であり、酵素やホルモンとして働き、あるいは細胞の運動や形を支える最も重要な物質である。そして一つのタンパク質を合成するためには、いちいち一からアミノ酸をつなぎ合わせなければならない。つまり、重窒素を含むアミノ酸が外界からねずみの体内に取り込まれて、それがタンパク質の中に組み込まれるということは、もともと存在していたタンパク質の一部分に重窒素アミノ酸が挿入される--ちょうどネックレスの一ヶ所を開いてそこに新しい玉を一つ挟み込むように--、というふうにはならない。そうではなく、重窒素アミノ酸を与えると瞬く間にそれを含むタンパク質がねずみのあらゆる組織に現れるということは、恐ろしく速い速度で、多数のアミノ酸が一から紡ぎ合わされて新たにタンパク質が組み上げられているということである。 さらに重要なことがある。ねずみの体重が増加していないということは、新たに作り出されたタンパク質と同じ量のタンパク質が恐ろしく速い速度で、バラバラのアミノ酸に分解され、そして対外に捨て去られているということを意味する。 つまり、ねずみを構成していたからだのタンパク質は、たった三日間のうちに、食事由来のアミノ酸の約半数によってがらりと置き換えられたということである。もし重窒素アミノ酸を三日間与えた後、今度は、普通のアミノ酸からなる餌でねずみを飼いつづければ、一度は身体のタンパク質の一部となった重窒素アミノ酸がほどなくねずみの身体を脱して体外に捨て去られてゆく様子が観察されることになる。つまり、砂の城はその形を変えず、その中を珊瑚の砂粒が通り過ぎていくのとまったく同じ事がここでは行われているのだ。」長い引用になったが、ここで語られている「流れ」というのは、まさに外界から取り入れた物質が生物体の身体を「流れている」という現象になっている。外界から取り入れた新たな物質が流れているということは、そこはそれ以前とは違うものになったということである。しかし、それが流れているにもかかわらず、生物体という固体の全体性は変わらない。この流れが止まってしまうと生物体は生きていることが出来なくなってしまう。流れを保ち、流れの中で同一性を保つという「動的平衡」状態こそが生物が生きているということになるわけだ。この流れは、肉眼で直接見ることの出来ないレベルにまで解像度を上げている。そして、そうすることによって、動的平衡というメカニズムが鮮やかに・具体的に我々に浮かび上がってくる。「私たちは、自分の表層、すなわち皮膚や爪や毛髪が絶えず新生しつつ古いものと置き換わっていることを実感できる。しかし、置き換わっているのは何も表層だけではないのである。身体のありとあらゆる部位、それは臓器や組織だけでなく、一見、固定的な構造に見える骨や歯ですらもその内部では絶え間のない分解と合成が繰り返されている。」と福岡さんは語っているが、このような見方が「解像度を上げた」見方ということになるだろう。この「解像度を上げた」見方からは、「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」という弁証法的矛盾として表現される判断も導かれる。そして、この弁証法的矛盾は、宮台氏も指摘していたように、あらゆる有機体的なシステムに共通する矛盾だろう。解像度を上げたミクロな視点が、最高の抽象性を持ったマクロな視点である弁証法に通じるというのは、それこそが物事の本質を捉えているということを予想させる。解像度を上げて物事を見るということを方法論として考えたいものだと思う。
2008.01.29
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三浦つとむさんは、『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の中で、ヘーゲルは「ゼノンの詭弁(パラドックス)」に正しい解答を与えたとして、次のヘーゲルの言葉を引用して運動における矛盾の説明をしている。「この矛盾はあちこちに見受けられる単なる変則とみなすべきでなく、むしろその本質的規定において否定的なるもの、あらゆる自己運動の原理であって、この自己運動は、矛盾の示現以外のどこにも存しない。外的な感性的運動そのものはその直接的定在である。あるものが運動するのは、それが今ここにあり、他の瞬間にはあそこにあるためばかりでなく、同一の瞬間にここにあるとともにここにはなく、同じ場所に存在するとともに存在しないためでもある。人は古代の弁証法論者とともに、彼らが運動の中に指摘した矛盾を認めなければならないが、これは、運動はそれゆえに存在しない、ということにはならない。むしろ反対に、運動は存在する矛盾そのものである、ということになるのだ。」(ヘーゲル『大論理学』)三浦さんがゼノンのパラドックスを「詭弁」と呼んでいるのは、そこに矛盾が表現されているからで、その言説が間違っている・あるいはでたらめだということから「詭弁」と語っているのではないだろうと思う。むしろ、現実の運動の持っている矛盾を指摘した言葉として論理的な重要性を持っているからこそそれはパラドックスという呼ばれ方をしているのだと思う。運動における矛盾に関しては、僕は板倉聖宣さんが語っていたように、それは運動そのものの属性として観測されるのではなく、運動を論理的に表現しようとするときに、表現の中に入り込んでしまうものとして捉えたほうがいいと思っている。矛盾というのは、論理的に考えれば、肯定表現と否定表現とが両立してしまうことを指す。肯定判断と否定判断とがともに正しくなるような現象は、厳密に考えればあり得ない。もしそのようなものが現実に存在してしまえば、論理法則は根底から崩れてしまい、人間は論理的にものを考えることが出来なくなってしまう。論理的に正しいというのは、たまたま現実がそうなっていたからであって、現実がそうなっていない時は、論理といえども正しくないのだとされてしまう。そうなれば、論理的判断によって正しいという結論を導くことは、人間にとっては信頼のおける判断ではなくなってしまう。すべての真理の判断は現実にあるのであって、形式論理の真理性が形式にあるというのは間違いだと考えるなら、僕の主張とは相容れなくなるのだが、僕は現実を超えた観点から、形式論理の真理性を論じることが出来ると思っているので、現実の中に矛盾を直接見出すことは出来ないと思っている。もし、現実の中に矛盾を取り出すことが出来るなら、それは形式論理の法則を否定しなければならなくなることにつながってしまうと思う。そして、それは考えるということの枠組みをなくしてしまうことを意味するだろうと思う。ある笑い話にこんなものがあった。プロ野球の試合を実際に観戦した人がいて、彼はその観戦した試合についてはどちらのチームが勝ったかを確かに言うことが出来た。それは彼が実際にその試合を見ていたからで、経験したからこそ真理が言える(分かる)という判断だった。しかし、彼に他の球場でやっている試合の結果を、そのスコアを教えて聞いたところ、「それは明日の新聞を見なければ分からない」という答えだったというものだ。普通は、スコアを聞いて点数が多いほうが勝ったと判断するのだが、彼は、経験したことを信じるだけで論理的判断をしないので、経験的事実が書かれている新聞を見なければ勝敗の結果がわからないという判断をするのだ。それが笑い話になるというのは、実は誰もが論理的判断が正しいと分かっているからで、その試合を見ていなくても、あるいは見ている人の報告を聞かなくても、スコアさえ分かれば勝敗は判断できるというのが、論理的な判断になる。点数が多いほうが勝つというルールがあれば、そこから論理的にどのチームが勝ったかが結論される。勝ったと同時に勝っていないというチームは現実にはあり得ない。実際のプロ野球では、試合は1対0で勝ったけれども、相手のミスで1点を取っただけで完全に相手投手に押さえられていた時は、「試合に勝って、勝負に負けた」などという言われ方をするときがある。こんな時は、勝ったと同時に勝っていない(負けた)と言えるわけだが、これは、実際の試合でそのような結果が出ているのではなく、勝ち負けというのをどのような観点から見るかということの違いから、論理の中に矛盾したような表現が入り込んでくることを意味する。これこそが弁証法的矛盾であるというのが板倉さんの指摘であり、僕もそう思う。運動における矛盾も、僕は現実の運動が矛盾していると見るのではなく、現実の運動を論理的に記述しようとすると矛盾した表現が入り込んでこざるをえないような観点があるという捉え方が正しいと思っている。そしてその観点は、実は運動を記述するときに大きな有効性を持っているので、運動の分析において弁証法が役立つことが出てくるのだと思う。ヘーゲルが運動そのものを矛盾と呼んだことを差し引いて、それが運動の表現に関わることだと考えて、運動の記述を考察してみたいと思う。運動の記述において、たとえば物理的な位置の移動に関する運動を記述するときのことを考えてみると、一定の時間にどれだけの変位を持ったかという記述をする限りでは、そこに矛盾した表現は入り込んでこない。一定の時間の幅を持って運動する物体を観察するなら、それが今はここにあってしばらく後にはあそこに行ったというような記述が出来る。この一定の幅の時間をどんどん短くしていくことを考える。これはどんなに短くして0に近づけようとも、それが一定の幅を持っているのであれば、「今はここにあってしばらく後にはあそこに行った」という記述になり、そこには矛盾は生じてこない。しかしこれを究極的な値である0にしてしまうとそこに矛盾した表現が生じてくる。一定の時間の幅があれば、どんなに短い時間であろうともそこに変位というものを観察することが出来るのが運動である。一定の時間の中で変位がなかったら、その物体は運動しているとは言えなくなるだろう。ところが、時間0の世界では、時間が0であることによって、そこには変位を観察(計算)することが出来なくなる。時間0の世界では物質は静止している(変位が0)と考えざるを得ない。これは論理的な要請となる。時間0の世界を考察の中にいればなければ運動における矛盾は生じないだろうと思われる。しかし、この時間0は、運動の分析においてはどうしても避けられない現象のようにも思われる。なぜなら、我々が観察できるのは、たとえ一定の時間の幅の存在する対象の姿であろうとも、視覚的映像としては瞬間を写したと受け取るしかない静止画像ではないかと思うからだ。もし我々が、静止画像ではない運動の画像を認識しようとすれば、それは手ぶれをして取ったような写真と同じように、何かぼんやりとボケた画像が見えるだけだろう。そこでは位置の確定が出来なくなる。位置の確定が出来るようにはっきりと写った写真にしたければ、一定の幅を持ったというシャッタースピードを誤差として受け取って、そのピントの合った写真画像は瞬間を写したものだと考えることになるだろう。我々が運動を正確に捉えようと思えば、そこに静止を持ってこざるを得ないというのが論理的な要請ではないかと思う。だから、運動を論理で表現しようとすれば、そこに矛盾したような表現が入り込むことが必然になるのではないだろうか。数学における微分という考え方は、運動の記述を極限という概念を使って表現しようとするものだ。この極限では、0であって0でないというような矛盾したと思える表現が生じてくる。極限は限りなく近づくのであるから0ではないんじゃないかと感じる人もいるだろう。確かに、それが「限りなく近づく」という運動を表現しているあいだは、それは決して0にはならない。しかし、微分の計算を行うときには、その計算において瞬間という1点における係数を計算する必要が出てくる。そのときには、限りなく近づくのではなく、極限値と一致する0の世界を設定しなければ計算が出来なくなる。微分係数というのは、微分可能な関数のグラフの1点における傾き(接線の傾き)を与える。もし、この傾きを計算するときに、1点しかないのであれば、1点を通過する直線は無数に存在するので、傾きは一つには決まらない。しかし、それが微分可能なグラフであれば、その1点の周りに無数の連続な点が存在し、その点で運動しているという捉え方で、その点における微分係数が決定する。1点では微分係数は決定しないが、その点における極限を考えれば微分係数は決定する。1点を通る直線は無数に存在するが、それが運動をする通過点の1点であれば、微分係数の傾きを持った直線は1つに決定する。1つであって1つではないという矛盾した表現が、そのグラフで表現される運動の様子を決定する。これは、その矛盾を排除してしまえば、各点における観察をしなければ運動の経過を決定出来ないことになる。つまり、経験しなければ結果としての運動について何も記述できないということになる。経験せずとも、その運動について何らかの言及が出来るようにするためには、運動を論理で捉える必要がある。論理的記述に成功すれば、経験していないことでも論理的帰結としてその運動に対して正しい記述をすることが出来る。だからこそ論理によって運動を捉えることには大きな意味がある。だが、論理的な記述をしようとすればそこに矛盾したような表現が入り込む。これこそがゼノンが素朴な直感で指摘したことだろう。ヘーゲルはその素朴な直感を、現実の属性として捉えてしまったのではないかと思われる。それが観念論者として批判される部分なのだろう。正しくは、表現の中に矛盾が生じると捉えることが大事なのではないかと思う。運動が矛盾である。運動の中に静止を見るというのは、そこに瞬間という時間0の状態を見て、それを記述するからではないかと思う。そして、それこそが運動を正確に記述することになるというところが、弁証法の有用性の不思議なところなのだろう。
2008.01.25
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宮台真司氏が「昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)」という文章で「携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしいんです。情緒的な機微が描かれていない作品、単なるプロットやあらすじの如き作品が望まれる。「文脈に依存するもの」を語らず、「脊髄反射的なもの」だけを描く作品です。」と語っている。文脈というのは、前後の文章の関係や、それが表現する現実とのかかわりから、見ただけの視覚的世界を越えた意味を読み取ることを指す。単に見たものから直接引き出される感情に寄りかかるのではなく、それが意味するもの・隠された伝えたいものを読み取ることが文脈を読むということになる。したがって文脈というのは、そこに書かれた文章に関するある種の予備知識を必要とし、しかも論理的につながりのある事実を想像できなければ読めないものとなる。すぐに分かるものではなく、何度も読み返してやっとほのかに見えてくるようなものになる。このようなものに対して、若い読者は「自分が拒絶された」と感じるのは、自分の知らないことを元に話されていることに対して排除されていると感じるのだろうと思う。そのような感性は誰でも感じるもので、知らないことばかり話されていると自分が拒否されていると感じるのは自然である。しかし文脈というのは、合理的思考が出来る人なら、すぐには分からなくてもじっくり考えれば何とかつかめてくるものだ。そのじっくり考えることを拒否して、文脈を少しも考えなくてもよいような表現に流れるというのは、大衆の意志(多くの人がどう考え・どう感情を抱くかということ)が社会の意志を決定する民主主義社会では非常な危険を感じる要素となる。どうしてそのような傾向になってしまったのだろうか。これは、分からないことを我慢して何時間も聞いていなければならないという学校教育に大きな責任があるのだと思うが、このような拒否感があるにもかかわらず、昨年の流行語にもなった「空気」というものに対しては、若者は非常に敏感でそれをとても気にするように見える。(なおこの「空気」は、カギ括弧付きで書いているように、それまでの山本七平氏の「空気の研究」などに書かれていた「空気」とも若干の違いを感じる。)「空気」は文脈以上に拒絶されたという感じがあると僕などは思うのだが、空気に抗ってそれを拒否する人は少ないようにも思う。拒否されなければならないのは、文脈よりもむしろ「空気」ではないかと思うのだが、なぜそうならないのだろうか。「空気」は、表現されていないにもかかわらず、その裏の意味を読み取らなければならないものとして、文脈と似ているにもかかわらず本質的な部分での違いがあるように感じる。内田樹さんが「恐怖のシンクロニシティ」で、この「空気」についても語っているが、それはある種のゲームにおいて、ルールを知らない人間が、そのルールに従って行動している自分以外の他者から感じる排除感に通じるものとして描かれている。これこそが、昨今言われる「空気」というものの本質を表す面ではないかと僕は感じた。的確な表現というのは、自分が何を考えていたかを正確に教えてくれるものだなと思う。内田さんに表現してもらって「空気」というものの意味がよく分かったような気がする。内田さんが紹介するゲームでは、はさみを開いて渡すか閉じて渡すかという動作がなされるのだが、そのときに言葉としても「開いて渡す」「閉じて渡す」という言語表現がなされる。しかし、動作とこの言葉とはまったく連動していない。言葉と連動しているのは、「ハサミを渡すときに脚を開いているか閉じているかによるのだ」というのがルールになる。このルールを知らないものは、はさみの状態と言葉を連動させて動作しようとするが、まったく関係ない足の動作と連動していなければ間違いだといわれる。これはルールを知らないものにとっては深い排除感を伴った衝撃となる。このようなルールは、すでに知っているものでなければ、よほど頭がいいか偶然その事に気づかない限り分かるものではない。このゲームは、ルールに従って楽しむゲームではなく、「ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである」ということになる。これはたわいない遊びだといえるかもしれないが、排除される人間にとっては、カフカの小説に出てくる主人公のように、どれほど努力しても共同体に受け入れてもらえない深い絶望感のようなものが湧き上がってくるのではないかとも感じる。カフカの『城』などでは、主人公がこう思うというような行動が、その共同体においては常に非常識とされて否定されてしまう。そういう経験を繰り返していれば、人はやがて何が正しいのかまったくわからなくなり、他者を真似て行動しているのに、それが真似になっていないことから、行動そのものができなくなるという状態にまで追い込まれる。このような絶望感を与える要素が「空気」にはあるのではないかと思う。「空気」は、あらかじめルールを知っている人間でなければ読めないのだ。文脈は違う。文脈は、そこに表現されているものを合理的に理解すれば、ある意味では誰でも同じ結論に達することが可能なものとして読まれている。もちろん、意味の読み取り方には多種多様なものがあるが、その多様性は、「そういう読み方も出来るね」ということで理解できる多様性だ。「空気」のように、何がなんだか分からないけれどそういう読み方をするというようなものにはならない。内田さんが語るはさみのゲームのように、「空気」というのは、合理的なつながりがない、まったく無関係なものを恣意的につなげたルールに従っているように見える。知っているかどうかだけが重要で、合理的に考えるということはどうでもいいことになる。文脈の場合は、努力して勉強すればだんだんと読み方が上達し、その意味を深く読めるようになる。だから初歩の段階でよく分からないとしても、そこからの排除感は少ないだろうと思う。だが「空気」のほうは、どんなに考えても誰かが教えてくれなければ分からない。誰かが教えてくれるというのは、仲間として迎えてくれるということになり、仲間として受け入れてくれるかどうかが「空気」が読めるかどうかに関わってくる。だが、どのような基準で仲間として迎えてくれるようになるのだろうか。普通は、気があうとか、同じ境遇にいるとかいうことで仲間になったりするのだが、仲間になるかどうかが恣意的に決められて、仲間になれば「空気」によって排除されることがないが、仲間でなければいつまでも排除されるという感じになる。これは非常に恐ろしいプレッシャーを受ける世界ではないかと思う。文脈よりも切実に気になるプレッシャーとなる。「空気」がこのようなものであれば、それは文脈よりも気になるものになるだろう。だが、文脈を読み取ることにはあからさまな拒否感が示され、「空気」を読み取ることにはこのような大きなプレッシャーがかかって常に気にしなければならないというのは、まったく健全なこととは思われない。このような社会の中では、暖かみのある人間関係を築くなどというのは不可能になってしまうのではないか。「ALWAYS 三丁目の夕日」を改めて振り返ってみると、そこでの登場人物に「空気」を読むという意識は薄いように感じる。誰もが自分がそうしたいという感情に従って行動しているようにも感じる。そうしてその行動が、ある意味では場の雰囲気を壊したとしても誰も非難するものがいない。何もなかったかのように明日はいつもの日常が過ぎていく。これがファンタジーである意味は、現実の日常では常に「空気」を意識していなければならないのに、ここでは「空気」を無視して自由に生きられるという憧れのようなものがあるからではないかという気もしてきた。それが多くの人に受け入れられる要素になったのだろうか。携帯小説や、それを元にした映画では、脊髄反射的で短楽な表現が連続するという。これも、ある意味では「空気」を読むことなく伝わる表現となっているのではないだろうか。それは読む必要もないくらい明確で単純な表現になっているので、「空気」が読めないというような理由で排除される恐れがないのではないだろうか。安心して見られる表現として、そのような表現が好まれているのではないかとも感じる。文脈と「空気」には似ているところがある。隠された意味を読み取らなければならないというところだ。そのために、文脈から排除されたときに、まるで「空気」が読めなくて排除されたときと同じような感覚が生まれてしまうのかもしれない。人々は「空気」というものが本当は嫌いなのではないかと思う。だがそれを避けて通ることが出来ないので、嫌でありながらもプレッシャーを受けてそれを気にせざるを得ないというのが現代社会の特徴なのかもしれない。しかし、流行語になった「空気」と文脈は本質的に違うものだと僕は思う。山本七平氏が指摘したかつての「空気」と文脈には重なるものがあったと思うが、今流通している「空気」という概念は重ならない。それどころかまったく正反対とも言えるような要素まであると思う。恣意的で無関係なルールで人を支配するような「空気」には抗うことが必要ではないかとも感じる。この「空気」の概念が分かってくると、ウィトゲンシュタインが言う「言語ゲーム」の概念も、そのゲームという観点が内田さんが語っていたような意味でのゲームではないかという気がしてくる。それは、ルールを知らないものにとっては、それがゲームであることすらわからないゲームだ。そしてそのルールが、いつどのようにして知られるかということが分からない。ルールの獲得に法則性を発見することが出来ない。現代社会というのがそのような社会になっているのではないかということを思わせる。カフカの時代やウィトゲンシュタインの時代には、優れた文学者の直感や、優れた哲学者の論理的思考でしか捉えられなかったこの種の「ゲーム」が、いまや普通の人まで巻き込まれるほど日常化してしまったのではないかと思う。我々はどのようにして「空気」に抗い文脈を取り戻すことが出来るのか。文脈を拒否し、「空気」に振り回される社会はひどいものになると思う。論理や合理性への関心を取り戻し、教育によってこの現代社会の傾向を変えたいものだと思う。
2008.01.22
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2回ほど前のマル激トークオンデマンドでは、生物学者の福岡伸一さんがゲストに招かれていた。そこでなされていた議論の中心は生命についてなのだが、それ以上に印象に残った言葉は、福岡さんがスキーを習ったときのエピソードだった。そこに、教育というものの最も大切な要素である「他者への伝達」の本質が語られていたように感じたからだ。福岡さんがスキーのインストラクターについて習ったときに、まずは見本のように滑って見せて、さあこのようにやってくださいというようなことを言われたらしい。しかし、自他ともに認める運動音痴の福岡さんにしてみれば、「見たように身体を動かす」ということがいかに難しいことであるかが、インストラクターには伝わらない。だから、もちろん見たような動きでは滑れないのだが、それを見てインストラクターは、「どうしてこんな簡単なことがあなたにはできないのですか?」というような目で福岡さんを見ているように感じたという。ここにある「他者への伝達」の難しさを、福岡さんは次のように解説していた。インストラクターになるような人は、子どものころからスキーがうまくて、おそらく基本的なことはそれほど苦労せずに習得してしまったのだろうと思う。つまり、どのような過程を経れば、基本的な動作が合理的にうまくいくかという過程を自覚することが出来ないのではないか。無自覚に過程を通過した人間は、その過程を他者に説明することが出来ないのだ。その事をやって見せることは出来るのだが、それがどんなメカニズムで動いているかということは説明できないのだ。教育において重要なのは、他者に分かるように伝達するということだ。そして他者に分かるように伝達するためには、そのメカニズムを理解し、ステップを踏んだ合理性をつかまなければならない。いきなり全体を提出して、その全体を模倣せよといっても、どこを模倣しているかが違ってきてしまうのではないかと思う。だから、実際には習得したい技術が習得されず、まったく本質的ではないところが模倣されて、目的どおりの成果が上がらなくなっているのではないかと思った。見本を示して、「このとおりにやって見なさい」というような教育は、僕自身の経験でも音楽教育の場面で多く経験したように感じる。どの音楽教師も、自分で歌って見せた後に、どのような声の出し方をし、どのような音の聞き方をすれば、目的の音程に近い声を出せるような技術を身につけられるかということを教えてくれなかった。腹に力を込めろとか、頭の後ろから声を出すような感じとか言われたことはあったが、腹に力を入れるというのはさまざまな力の入れ方があって、音楽教師がやるように正しく模倣することは難しい。ましてや、声を出すのは物理的にはのどなのだから、頭の後ろから声を出すなどというのは、分かる人間には分かるのだろうが、分からない人間にはどのようにして模倣すればいいのか永久に分からないのではないかと思った。今の音楽教育は少しは変わっているのかもしれないが、かつて僕が受けた音楽教育は、まったく教育と呼べるものではなく、出来る人間は出来ることを確認し、出来ない人間には出来ないことを自覚させて、自分には音楽的才能がないのだということを思い知らせるものになっていたと思う。自分が教師になって数学を教えるようになってからは、このような音楽教育のように、単に生徒の数学的能力を選別するだけの教育もどきにならないようにしようと、かつて受けた音楽教育を反面教師として受け止めたものだった。他者への伝達を考えるとき、見たとおりにやってみろといわれても、それは最初から出来る人間にしか出来ない。つまり、映像的な表現というのは、伝達の正確さから言えばまったく効率的ではないといえるだろう。それは、受け取る側の人間にとって、最も印象的な視覚部分が、受け取る側の基準による解釈で受け取られてしまう。表現者が伝えたいことが正確に伝わるということは極めて稀なことになる。仮説実験授業では、という極めて優れた美術教育の方法がある。このでは、単に絵を描く姿を見せて、そのとおりにやってみろというようなやり方はしない。あるモデルを描くときに、そのモデルのどこを見て、どこから書き始めるかを、言葉によって細かく指定して指示するところに特徴がある。自由に描かせるということはない。これは技術を教えるということではとても合理的な教え方ではないかと思う。では、生徒の中にある芸術的感性を表現させようとはしていないと僕は感じる。むしろ、芸術的感性を表現する基礎になるような技術の伝達に重点を置いているように感じる。その技術を習得した後に、初めて、自分が何を書きたいかという問題から絵を描くことを考えるという芸術の問題が生じているような気がする。これは芸術教育というものがどんなものであるかということを考えるのに重要な視点ではないかと思う。芸術教育は、自由に自分の芸術的感性を表現させることが重要なのか、表現の基礎となる技術の習得が重要なのかという問題だ。僕は教育において重要なのは、感性よりも技術ではないかという気がしている。それは感性のほうは他者への伝達が難しいが、技術なら何とか伝達が出来ると思えるからだ。その伝達の際に、最も正確で効率的な手段は、言葉による表現による伝達ではないかとも感じる。映像的な伝達は、細かい部分を、そこだけを取り出してみることが出来ず、いつでも全体像としてそれが目に飛び込んでしまう。だから、どこが重要で、どこが末梢的なのかということがうまく伝わらない。だが、言葉による伝達は、その全体像を、全体のままで表現することが出来ない。言葉に表現するということは、現実の像を部分に切り分けて、しかもその部分をどの順番で語らなければならないかを考えなければならない。その語り方が合理的で正確であれば、表現者が伝えたかったことが、最も正確さを持った表現として伝わるのではないかと思う。教育は、伝えたいことをどれだけ正しく言葉に置き換えられるかで、その教育の効果が左右されるのではないかと思う。宮台真司氏が「昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)」という文章で映画について語っているのだが、これは映画という映像表現に対して、それが何を伝えたかったかというのを、宮台氏の言葉にして伝えようとしているものだ。これがたいへん面白かった。「ALWAYS 三丁目の夕日」にも言及しているのだが、この映画の印象がどのようなものであるかが、言葉にすることによって自分にも、自分の感じ方がよくわかるという経験が出来た。僕は、この映画にある種の違和感を感じていたのだが、その違和感を言葉に表現するのは難しかった。僕と同じ感覚を持っている人は、映画という映像を見れば、同じように感じてくれるかもしれない。その時は僕が表現したいことも、映画を見てもらえば伝わることが期待できる。しかし、同じ感性を持たない人には、言葉によって伝える以外に、その感じ方を伝達することが出来ないのではないかと思われる。その部分を宮台氏は次のように言葉で表現していた。「『ALWAYS』は前作を含めて、昭和30年代を舞台にしているのに、昭和30年代の時間が流れていないんですね。これは驚くべき錯誤です。理由を分析すると、「死に落ち」映画と同じ構造が底辺に見えてきます。すなわち「遠いやつが勝ち、近いやつが負ける」という図式です。 あの映画では、ヒロインから遠く離れた主人公の貧乏作家が、ヒロインの近くにいるタニマチに勝つ。昭和30年代の時間の流れではあり得ません。あの時代、正妻と妾でいえば、正妻が勝ちます。、いつも一緒にいて、すべて知っているからですね。石原裕次郎の奥様だった北原三枝みたいなものです。 今の若い人たちの時間性はまったく違います。長く一緒にいても、時間が少しも積み重ならないので、必ず「遠いやつが勝つ」んですね。それは「妾が勝つ」ことであり、「出会い系で知り合った間男が勝つ」ということです。年長世代から見れば、あり得ない逆転でしょうね。 僕は取材を通じて若い人たちの「時間が積み重ならない」という感覚を知っているので、なぜ「死に落ち」映画が作られるのかは分かります。近くにいる人間が死んでしまったとき、「もし近くにいたらどうなっただろう」と反実仮想することで、ある種の濃密さを獲得する。そういうドラマツルギーです。 出会い系で知り合った中年男も、死んだ彼氏の思い出も、都合が良いときにオンデマンドで呼び出せるという共通性があります。そうした時間性は今日的なもので、昭和30年代のものじゃない。その意味で、善し悪しは別に、『続・3丁目の夕日』は昭和30年代を描いた映画じゃないんです。」 ポイントになる言葉は、「遠いやつが勝ち、近いやつが負ける」という言葉だ。これは現在の感覚であって、昭和30年代ではないということだ。これが現在の感覚であるからこそ、この映画は今の時代に多くの人に見られるという要素を持つわけだ。しかし、その反面で、あの時代を知っていて、それを振り返りたい人間には、何かしら違和感が生じてしまう。僕は、この映画に流れている「暖かさの感覚」も、どうも昭和30年代が持っていた共同体的な暖かさと違うという違和感を感じていた。出演者がみんないい人であるにもかかわらず、その暖かさがうそ臭いものに感じて仕方がなかった。すべて演技(これはフィクションだから演技には違いないのだが、演技であることが見え透いてしまうような演技という感じだろうか。感情移入してリアリティを感じるような演技ではなかった)のように感じてしまう違和感があった。これは「時間が積み重ならない」という言葉でぴったり表現されるのではないかと感じた。他者への伝達という観点で、この映画の表現をもう一度考えてみると、この映画の作者は、必ずしも昭和30年代を知る人のためにその再現を考えたのではないのだろうという解釈も感じる。むしろ、今の映画の観客層に、昭和30年代という舞台を借りて、いかに受け入れられる映像表現を作るかということが、映画作家あるいはプロデューサーの最大の関心事だったのではないかとも思う。この映画は昨年の一番のヒット作だったというから、そのような意図を作者が持っていたら、その目的は充分達成されたのではないかと思う。その芸術性の評価は別にして、商業映画としての成功という面からは高く評価されるものになるだろう。だが、このような商業的意図は、映画から伝達される要素としては、それに感動する観客には見えてこないのではないかと思う。大衆受けするために工夫しているな、と思いながら映画の中に感情移入して感動することはおそらく出来ないだろう。それに感動できるということは、そこに描かれているものが自分の感性にフィットするものであって、批判的なまなざしを失うことによって感動が呼び覚まされるのだと思う。言葉による表現は、作者の意図が伝達されたかどうかを見るのは比較的分かりやすい。伝達されなかった意図はたいていは理解不可能なものとして感じられるからだ。しかし、映像表現は、作者の意図が全面的に押し出されるのではなく、一部に託されることになるので、その一部をどのように見るかで、作者の意図はいろいろな読み方が出来ることになる。正確な伝達が難しいかわりに、何かに引っ掛けてだますことも出来たりするだろう。何が伝達されているかという面から映画表現を見るのは面白いのではないかと思う。
2008.01.20
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評判になった映画がようやくケーブルテレビにも回ってきたので、年末年始にかけていくつか映画を見ていた。このところ「同じものを見ているか」というテーマでいろいろなことを考えてきたので、その応用として、ノーミソの目で見る映画というものを考えてみようと思う。目に入ってくる映像が同じでも、その映像が何を意味しているかということは、それを見るそれぞれのノーミソの目に映る像によって違ってくる。そんな観点から評判になったいくつかの映画を考えてみようかと思う。ただ、映画鑑賞としては、まずはその映画に入り込んで登場人物に感情移入し、その映画を主体的に味わうということが前提になって、その後で振り返ってノーミソの目で見てみればということになる。主体的に味わうことが出来なければ、映画そのものの評価がかなり難しくなるのではないかと思う。その時は、なぜ主体的に感情移入ができないのかということが問題として現れてくることだろう。以前に夜間中学を舞台にした、山田洋次監督の映画「学校」というものがあった。これは当時の日本映画ではかなりの大ヒットになり、多くの人に感動を与えたものだった。しかし、実際に夜間中学に通っていた生徒の大部分は感動をする人は少なかったようだ。僕は夜間中学に転勤して2年目くらいだったので、一般の鑑賞者と変わらずこの映画を感動して見ることが出来たものだった。映画に描かれていたのは夜間中学の日常だった。これは実際にあった出来事をベースにして山田監督が脚本を書いたものだった。それは、夜間中学に初めて接する人にとっては非日常であり、そこに人間のコミュニケーションの暖かさを感じることが出来ると大きな感動を与えられ、涙を誘うようなうまい演出がされている。しかし、夜間中学の生徒にとってはそれは日常であり、ごくありふれた出来事のひとつに過ぎないものだった。提出されたからといって特にそれに感動してはいられないというものだったようだ。同じような感覚を「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画を見たときに感じた。この映画もそれなりにうまい作り方をしているし、泣かせどころというものもふんだんに盛り込まれている、人情喜劇の定番に近いような部分も感じた。しかし、なかなかほろりとさせられることがなく、細かい部分が気になって映画の中に深く感情移入することが出来なかった。僕は昭和31年の生まれなので、昭和30年代の後半からは記憶がある。映画に描かれていたのはある意味では日常であり、非日常ではなかった。人によっては、昭和を再現した映像技術のほうにノスタルジーを感じてあの映画に懐かしさを感じていたようだが、僕は逆に、あまりにも本物の映像を、見た目の見事さを強調するために使ったために、映像以外の部分のニセモノ性が際立ってしまったように感じた。映像が本物であればあるほど、そこに登場する人物にも本物性を期待してしまうのだが、残念ながら登場人物の誰もが、自然体ではない演技による過剰な表現が目に付いてしまった。これはフィクションであり、喜劇なのだからある程度の過剰な演技は、笑いを誘うためには必要なのかもしれないが、そうすると映像のリアリティと演技のリアリティがうまく合致せずにちぐはぐな印象を受ける。あれほど細部まで当時の本物性を再現する必要は、劇映画の場合は必要なかったのではないかと感じる。あの映像技術によって、映画はかえってドラマ性を失ったように僕には見えた。映画の中の子どもたちと同じように、僕も小学校2年生くらいのときに迷子になって泣いて歩いていたときがあった。その時は、ガソリンスタンドに止まっていたトラックの運転手さんが、ちょうど僕が通っていた学校の近くを通るというので乗せてもらって家に帰ってきたことがあった。子どもが泣いて歩いていると誰かが声をかけてくれるような時代だった。映画の中の子どもたちはしっかりしていて泣いて歩いているのではなかったから、誰も声をかけなかったのかもしれないが、主要な登場人物以外にあまりコミュニケーションの場面が見られないのは、当時の日常からするとちょっと違和感を感じるところだった。子どもたちが迷子になったときも、「誰か声をかけてやれよ」というふうに感じて見ていた。当時を実際に知る人間としてなぜこの映画に違和感を感じてしまうのかを考えると、この映画は当時を再現するのに計算されすぎているという感じを受けるからなのではないかと思った。映像技術による、見た目の本物性もそうだが、登場人物の演技も、その意図が見え透いてしまうような、当時の人情厚い家族的な関係の人々はこうするであろうという期待を完全にこなそうとしているかのような感じを受けてしまう。自然体という感じがせず、どうしても演技をしているようにしか見えない。これが、まったく記憶も知識もない世界の物語だったら、このような違和感を感じることもなかっただろうと思う。だから、この映画は昭和30年代を直接知らない人にとってはかえって人情喜劇として面白かったのではないかと思う。ちょっと前の出来事を再現するのに、それを知っている人が鑑賞しても鑑賞に耐える映画を作るのは本質的に難しいのではないかと思う。映画はフィクションであるからどうしても作り話が入ってくる。本物を直接知る人間は、どうしてもそのフィクションに嘘を感じてしまうだろう。劇映画はフィクションによる表現だが、そのフィクションが、現実をそのまま表現したのでは表現しきれない「意味」を伝えるものであるなら、フィクションとしてのニセモノ性を越えて、それとは違う本物性を伝えてくれるものだろうと思う。残念ながら「ALWAYS 三丁目の夕日」は、映像の見た目の本物製が際立つ分、フィクションとしてしか伝えられない本物性がかすんでしまったように感じる。人情喜劇としての泣かせどころも、かなりステレオタイプのありふれたもののように感じた。水戸黄門的に、同じ事の繰り返しであっても、その繰り返しの心地よさで楽しめるというものもあるが、物語として無理やりに設定した情況で、喜劇的に振舞う瞬間の場面で笑わせるというちぐはぐさを感じてしまった。現在の笑いはほとんどが瞬間的な場面設定の面白さで笑わせる傾向をもっているので、そのような要素を入れなければ映画がヒットしないと判断したのかもしれないが、物語の進行はステレオタイプで、笑いの場面は現在的な要素を取り入れて、それがうまくいっていないように感じた。バカなことをしている人間を笑うのに、それが嘲笑になってしまうかどうかは紙一重のところがある。山田洋次監督が描くフーテンの寅さんは、いつでも馬鹿なことをしているけれど、映画を見ている人は誰も寅さんを嘲笑しない。努力や誠意が空回りをしている意外さが笑いを誘うが、それは暖かみのある笑いであり、ちょっとした同情を含んだ笑いになっている。「ALWAYS 三丁目の夕日」の笑いも、そのような笑いであれば、僕ももっと映画の中に感情移入できただろうと思うが、残念ながらそのようには感じなかった。自然に涙や笑いを誘われるというよりも、そのように誘導してやろうという演技や演出を強く感じてしまった。フィクションであることを強く意識しながらも、そこに深く入り込むことが出来た映画もあった。キムタク主演で話題になった「武士の一分」という映画は、細かい部分で気になるところはあったものの、主人公である武士に感情移入することが出来て映画の観賞としては気持ちよく見ることが出来たものだった。江戸時代の男女の愛の表現が、現在に近いものがあるというのには違和感を感じるが、男には守らなければならないギリギリのものがあるという感情は、時代を越えて共有できる真理ではないかと思えた。それが、フィクションであるにもかかわらず、フィクションを通じて表現できる真理のように感じて、この映画の登場人物に深く感情移入することが出来たのではないかと感じる。「武士の一分」という映画は、男のもつ感情の普遍的な面を捉えて表現されているのではないかと思う。そして、これはナショナリズムというものにも通じるものではないかと感じた。僕は、去年自分のナショナリズムを強く感じることがあったのだが、それは北京オリンピックの野球の予選で、日本が韓国に勝ったときだった。このときの僕の感情は、まさに選手と一丸になって日本の勝利を願っていたというものだった。そして勝利した瞬間における喜びは、およそスポーツ観戦での勝利という感情とは違うものだった。まさに「日本が勝った」という「日本」という感情に力点が置かれるものだった。ナショナリズムというのも、また男の持つ普遍性の一つではないかと感じた。「武士の一分」やナショナリズムに関して女性がどう感じるのかは想像することしか出来ないが、少なくとも男にとっては、それは自分の人生と引き換えにしてもいいくらいの重要なものになっているのではないかと思う。「硫黄島からの手紙」と「父親たちの星条旗」も見ることが出来たが、ここで表現されているのも、男たちのナショナリズムではないかと感じた。戦争という非日常の極限で、男たちは自分のナショナリズムと鋭い対峙をする。そこに「武士の一分」を見つけることが出来た男たちは、死をも恐れぬ英雄的な男になるだろう。戦争時の国粋主義的な考えは、今ではすべてばかげた愛国主義として否定されている。しかし、それをバカで愚かな行為として受け取るか、バカであっても愛おしいものとして同情的に見るかは、そこに「武士の一分」と同じ感情を見るかどうかにかかっているような気がする。今の僕はもうすべてを否定する気にはなれない。これは年を取って思想的に保守化したのかどうか分からないが、日本人として、あるいは男としての感情というものが自覚されてきたからではないかとも感じる。そして、それはどうしようもないものではないかとも感じている。「ALWAYS 三丁目の夕日」も、笑いと涙のネタとして昭和30年代を利用するのではなく、人と人との暖かいコミュニケーションの元でこそ人間は幸せになれるというような普遍性を伝えるような表現がそこにあれば、あの時代を知っていようとも違和感を感じることなく、フィクションでしか表現できない真理を受け取ることが出来たのではないかと思う。僕にとっては、あの映画で描かれていた昭和30年代という舞台は、すべてネタとして、単に背景に利用されていただけという印象しか受けなかった。ネタとしてではなく、本当に昭和30年代を味わうには、その当時に作られた日本映画を見るほうが、フィクションとして描かれた本物の昭和30年代に出会えるのではないかと感じる。以前に購入した、テレビシリーズの「泣いてたまるか」の映像のほうが、僕には強く昭和30年代を思い出させてくれるものだった。同時代的な表現だったから、もちろんこれにはまったく違和感はなかった。
2008.01.07
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