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麻生さんの所信表明演説があった。その内容については、専門家が詳しい解説をしてくれるだろうと思う。そこで、内容そのものには立ち入らずに、その主張の論理的側面に注目して、ある種の前提から論理的に導かれた帰結ではないかと思われる部分を探してみたいと思う。論理的な語り方をしている部分というのは、その論理をはっきりと自覚して、相手を説得しようという意図があれば、自明だと思えることでも明確に記述して説明することが多い。しかし、そのような意図があまりなく、これは自明なことで言うまでもなく誰もがそう思う、という思い込みがあれば、そのことの前提をわざわざ言うことはないだろう。そのようなところが麻生さんの演説の中にないかも探してみたいと思う。前提を語らないことは、何か論理的でないように見えるかもしれないが、論理的でないというのは、その導出の仕方が論理法則に反しているときに指摘できることで、自明の前提を置いていたとしても、そこから正当に導かれる論理を使っているのであれば、前提を語らずとも論理的であると言える。このように、麻生さんが語ることの論理的な側面を評価するという読み方をしたいと思う。もし麻生さんが論理的におかしなことを語っていれば、それは結論として主張されていることが信用しがたいということを意味する。しかし、麻生さんが正当な論理を使っているのであれば、あとはその前提となっていることが正しいのなら、その結論を確信を持って信じてもいいということになるだろう。さて、麻生さんの演説は「第170回国会における麻生内閣総理大臣所信表明演説」というページで全文を確認出来る。ここから、論理的な匂いを感じるところを抜き出していこうと思う。まずは「就任に当たって」と題をつけられた部分では、麻生さんの決意・べき論・願いを語ってはいるものの、それがどのようなものから生じたかということについては触れられていない。だから論理的な語り方ではないといっていいだろう。あえていえば、この部分は麻生さんの感情を語っているのであって、その感情に共感する人はこれを肯定し、共感できない人は疑問を持つというような部分になっているだろう。僕はこの部分には共感できない。日本が「強くあらねばならない」「明るくなければならない」という<べき論>はどうも好きになれない。結果的に強くなったり明るくなったりするのはいいのだが、それを目指してがんばるというのは、すでに戦後否定された精神主義の復活を思わせるような気がするからだ。気持ちだけ強くなったり明るくなったりしても、それは大いなる勘違いだというときもある。これは、結果としてそう感じられるような社会を建設することに政治家が努力すべきという<べき論>として語るのが正しいのではないかと感じている。「国会運営」に関する部分では、次の主張が論理的側面を持っているように見える。「先の国会で、民主党は、自らが勢力を握る参議院において、税制法案を店晒しにしました。その結果、二か月も意思決定がなされませんでした。政局を第一義とし、国民の生活を第二義、第三義とする姿勢に終始したのであります。」これは、「民主党が税制法案を店晒しにした」ということを前提として「二か月も意思決定がなされなかった」という結論を導き出していると考えられる。そしてこのことからの帰結として、民主党の姿勢というものへの批判も生じている。これも論理的に導かれているように見える。しかし、これは論理としては中途半端である。「店晒しにした」ということが、この言葉の概念から直ちに「2ヶ月も意志決定がなされなかった」という結論に結びつかないからだ。意思決定がなされなかった理由が他に存在しないのであれば、この論理は正当性を持つ。しかし他の可能性が一つでもあるのなら、その可能性を否定しなければ論理的な正当性はない。ここで主張されている論理的正当性は、「店晒しにした」という事実のあとに、時間的な前後関係で「二ヶ月も意思決定がなされなかった」という観察された事実があったということだけではないかと思われる。観察による事実の記述というのは、そこに論理的なつながりを観察することが出来ない。論理的なつながりは、あくまでも言葉の上での関係から判断される。観察で得られるのは、個々別々の事実がどのように集まっているかということだけだ。「その結果」という論理を展開するのなら、これは、確かにその結果だと言葉の上でもそのつながりが見られるように前提を集めなければならないだろう。ここでは論理的正当性が不十分だ。「店晒しにした」結果が意思決定にかかわっているということをいうためには、論理的にはそのほかの原因は否定されなければならないから、たとえば税制法案の正しさも証明されなければならないだろう。それが正しいにもかかわらずまともな議論をしなかったなら、「店晒し」という表現の正当性も出てくる。しかし、その正しさは証明されたのだろうか。これは、自然科学と違って絶対的な正しさを主張することは出来ないだろうが、反対を押し切るためにはかなりの高い比率で正しい蓋然性を主張できなければならないと思う。また、「店晒し」と「意思決定」の関係が論理的に成り立ったとしても、そこから民主党への批判が論理的に導かれるためには、その「店晒し」の責任が民主党にあるということも証明されなければならない。これは税制法案が正しいものであれば、それに反対する民主党に責任があるという論理が成り立つだろうが、それは十分証明されているか。もしそれが十分証明されているのであれば、国民は先の参議院選で民主党の方を選ばなかったのではないか。税制法案に限らず、その正当性を吟味する時間もなく、自民党が強行採決という手段に出たことが、法案の正しさに疑いを抱かせたからこそ参議院選では民主党の方が支持されたのではないだろうか。ここの論理展開には疑問を感じるところが多い。論理的には説明が不十分であり、レトリックとしては民主党のイメージを落とし、選挙におけるネガティブキャンペーンに利用しているのではないかと思わせる。これに共感する国民が多ければ、麻生さんの作戦は成功だと言えるのだろうが、果たしてどうなるだろうか。国民は、麻生さんが言うように、国会の空転は民主党が悪いのだと理解してくれるだろうか。この主張は、福田さんの辞任会見の時にも語られていたのだが、対立する相手が反対するから意思が通せないというのは、逆の視点から見れば、反対する相手を説得するだけの能力がないのだということを自らが語っているとも言える。論理的にはそう理解した方がいいのではないかと感じる。ここでは、「与野党の論戦と、政策をめぐる攻防は、もとより議会制民主主義が前提とするところです。しかし、合意の形成をあらかじめ拒む議会は、およそその名に値しません。」という一般論的な論理も語られている。この論理は、一般論として考える限りでは正しいのではないかと思われる。具体的な主張においては前提の不足を感じたが、一般論では、「議会制民主主義」という言葉の定義の中に、そもそも合意によって政治を運営していくということが含まれている。誰か権力者の恣意的な判断によって物事を決定するのではないということは、具体的な現実を観察することなく前提されている。だから、「合意の形成をあらかじめ拒む議会は、およそその名に値しません」という主張は正当だろう。しかし、この一般論が正当だからといって、これがすぐに民主党に当てはめられると考えるのは、論理的判断としては短絡的すぎる。一般論を具体的現実に適用するには、その条件をよく吟味しなければならない。民主党の現実が、「合意の形成をあらかじめ拒む」ということに値するのだということが、具体的な事実によって証明されなければならない。そのような印象があるというだけでは論理的に正当な展開にならない。麻生さんの演説に、そこを論理的に結びつけて語っているような部分は見つからない。ここは、レトリックとして民主党の非難をすることを印象づけるために語られていると受け取った方がいいだろう。その効果があったかどうかは、今後の世論調査などで、民主党の支持率が下がって、自民党の支持率が上がるなどの結果が出てくれば評価できるだろう。そのときは、論理的な正当性には不足があって不十分だが、選挙のための戦術としては効果を上げたというような評価が出来るのではないかと思う。この「国家運営」の部分は、論理的に語られている部分が見られるものの、そこで主張されているのは民主党への非難であり、政治の空白を作った責任の大半は民主党にあるということをイメージづけることにあるように見える。論理を語った部分も、それはレトリックとしての論理であり、何かを正当づけるための論理ではないと僕は評価する。麻生さんが、選挙対策のために生まれた総理だということを象徴的に物語る言説の部分ではないかと思う。福田さんもそうだったが、うまくいかないのは対立する相手が悪いという主張は、子供の言い分ならまだしも、一国の首相というリーダーの中のリーダーが言うことだろうかという思いが僕にはある。どれほど相手がずるく立ち回ろうとも、それを上回る正しさで相手をねじ伏せるだけのものを見せるのがリーダーにふさわしい資質ではないだろうか。選挙というのは、真理よりもイメージが大きく影響して勝敗が決まるところがある。誰が見ても力量的に不十分だったブッシュさんが二期も大統領を務めたというのが選挙の持っている怖さだろうと思う。だから、麻生さんが論理的な真理よりもイメージ戦略の方を選んだというのは、選挙対策としては正しいのかもしれない。しかし、ここまでの演説は、その選挙対策が見え見えの内容を持っていて、かえってそのイメージもむなしい幻想のように見えてこないだろうか。麻生さんが民主党の方を非難すればするほど、そのようにたいしたことのない民主党を、なぜ自民党は凌駕して正しさを示せないのかということの疑問の方がふくらんでくる。この部分までの麻生さんの演説の印象は、僕には論理性がひどく少なく、むしろ民主党のイメージをおとしめることに最大の努力を払っているように見える。麻生さんに期待されていることというのは、果たしてこのようなことなのだろうか。自民党の議員は、選挙が心配だからこのような麻生さんに期待を抱くかもしれないが、国民は、生活のことを心配せずに選挙のことを心配しているように見える麻生さんに、果たして信頼を寄せられるだろうか。もし、この演説を聞いた国民が、総選挙で自民党を支持するようなことがあれば、国民の論理的判断というものにも僕は疑問を持たざるを得ない。自民党の思惑通りに国民が動かないことを願うのだが、果たしてどうなるだろうか。麻生さんの残りの演説の内容を見て、さらに考えてみたいと思う。
2008.09.30
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いくつか気になっていることがあって、いろいろと資料を調べているのだが、なかなか考えがまとまらず資料も集まらないので書けないでいることがある。それを忘れないうちにちょっと記録しておこうと思う。1 民主党の政策が財源の裏付けがないということについて民主党が掲げている政策については、ばらまきだという批判が多く、しかもその財源の裏付けがないということが多く語られている。それが本当だろうかと思っていろいろとデータを探したのだが、あまり説得的に語っているものが見あたらなかった。何となくそうなのかなとは感じるが、世間で叩かれているほどひどいという感じがしなかった。あれだけ世間で叩かれているのだから、もっと確信を持って主張できるだけの材料がすぐに見つかると思ったのに。どうも説得力に欠けるのは、民主党が主張しているような財源の移動が非現実的だということを具体的に語っていないことだ。そんなのは無理だという結論はたくさん見かけるのだが、このような具体的な問題があって出来ないとか、もっと具体的に語っている人がいないものかと思う。高速道路の無料化などは、山崎養世さんが語っていたことには説得力があっただけに、それに対してもどのような批判があるのかを探したのだがあまり見あたらなかった。山崎さんは、高速道路を無料化して出口をたくさん作ることを提唱していた。そうすれば、地方のあちこちからちょっと下に降りて、その地域で買い物をしたり食事をしたりということも出来る。素通りするだけの今の高速道路よりも地方の活性化になりそうだ。あちこちに出口を作るなら、無料化をした方が合理的だろう。道路特定財源を使ったり、無駄が多い道路公団などを整理すればどのくらいのお金が出来るのかということも、あまり具体的な数字が聞こえてこない。これは民主党自身もあまり説明していないのだろうか。それともマスコミがそれを伝えないのか。マル激では近いうちに民主党を取り上げて議論をするらしい。そこで具体的な問題を聞いて、このことに関する考えもまたはっきりしてくるかもしれない。2 ゲーデルは何を証明したのか「ゲーデルの不完全性定理に関する疑問」という、先日見かけたブログ・エントリーにちょっと気になる記述があった。そこでは公理系の完全性ということに関連して、数学における真理性というものが語られていた。ゲーデルの定理は、「自然数論において、真でありながらもその公理系では証明不可能な命題が存在する」という言い方をされることが多い。しかし、数学ではその命題が真であるという判断は、証明されて初めて確立するのではないか。証明とは独立に真であることの判断が出来るのだろうか。しかしそれが出来なければ、ゲーデルの定理におけるこのような言い方は出来なくなる。真であることと証明できることとの明確な定義はどうなっているのだろうか。この疑問にうまく答えることが出来ないので、ちょっと気になっている。今持っている基本的な考えは、真であるという判断は、やはり証明できるということにかかっているのだが、公理系の中の証明と、それを超えたメタ的な証明とがあり、真であるという判断に、証明のレベルの違いが入り込むのではないかということだ。証明という言葉の持つ意味に違いがあるのではないかということを漠然と感じている。ゲーデルの定理に関してちょっと調べてから考えをまとめたいと思う。3 「福岡小1男児殺害事件」について障害があると思われる息子を殺害した事件について、その母親への同情心というものを感じている。なぜ同情心を感じるかといえば、そのような母親は、彼女個人の問題ではなく、同じような状況に置かれた場合に、かなりの多くの人が同じような行動をするのではないかと感じるからだ。彼女が罪を犯したのはいわば偶然だった。何かのきっかけで取り返しのつかないことをしてしまった。そのきっかけさえなければ、彼女はこのようなことをしなかったかもしれない。この母親が罪を犯したのは、ある確率現象の中の一つにしか過ぎないと思える。しかし、この確率現象は、それを存在として語る命題にした場合、誰がそのような罪を犯すかは分からないが、必ず誰かがそのような状況に陥って罪を犯すと言えるのではないか。そのような境遇に追い込むような要素が今の日本社会にあると言えるのではないか。そうであれば、彼女の罪を追求することよりも、そのような日本社会の問題を見つける方が大事ではないかと感じる。子供に障害があり、普通だと思われるような育ち方をしていないときの母親への過度のプレッシャーという問題はないだろうか。また、そのような追い込まれ方をしているときに、孤立せずに相談できる包摂的な社会でなかったということに問題はないだろうか。新聞報道では「「第三者の犯行を装ったとなれば、障害のある子を疎ましく思い、愛情を向けられず厄介者扱いをしていた可能性もある」とみるのは専修大の森武夫名誉教授(犯罪心理学)だ」という記述もある。同情だけの見方は一面的かもしれないが、感情的には、今の僕には同情する気持ちの方が強い。これから報道される事実を見てもっと深く考えたいものだと思う。4 個人の自由と社会の影響について僕が子供の頃を過ごした昭和30年代というのは、映画でも表現された、懐かしいいい時代として想像されている。僕もあの頃はいい時代だったと思う。人々が、主観的には自分のやりたいようにやって、しかもそれなりに幸せを感じて生きていけた時代だった。仮説実験授業研究会の牧衷さんは、「何をやっても食えた時代」というような表現でその頃を語っていた。寅さん映画を見ても、妹の桜の夫のヒロシは、町工場の印刷工だった。それでもまじめに働けば、曲がりなりに家が持てて、子供の成長を楽しんで過ごすという庶民の幸せを持つことが出来た。渥美清のテレビシリーズ「泣いてたまるか」でも、タクシー運転手の渥美清が、それなりにまじめに働くことで、ささやかな家庭と子供のために生きるという幸せを手にしていた。あの頃と今との違いを、端的に感覚で受け取ってみると、かつては個人の自由の範囲が今よりもあったという感じがする。それなりの夢を持てた。今の方が物質的には豊かだが、そうさせられているという感覚は、あの頃の方が少ない。今は、何か世の中がそうなっているので、よく考えずにみんなそうしているようにも見える。かつても同じようだったが、人々がそれを受け入れていただけだとも言えるかもしれない。今は、人々の個性が分かれてしまっているので、他のことをやりたいにもかかわらずそうさせられているという感覚が強い。しかし、あの頃は、だいたいがみんなが同じ目標を見ていたので、実際はそうさせられているにもかかわらず、そのように感じていなかったとも言えるかもしれない。近代過渡期と近代成熟期の違いだろうか。かつては、清く・貧しく・美しくなどという生き方が出来たし、それが賞賛されていた。しかし世の中がグローバル化して、個人でそう生きたいと思ってもそうできない時代になったようにも見える。それは自分の感覚から来るものなのか。それとも客観的にやはりそう言えるものなのか。みんなが同じになってきた世の中で、社会の圧力が増しているのか。それに抵抗したいという気持ちがわいてくるだけに、そのようなことを詳しく考えてみたいものだと思う。5 建設的で暖かい対話が出来るかインターネットでは、かつて他者を罵倒し鬱憤を晴らしているのではないかと思われるような言説があふれていた。今ではかなり減ってきているのかなとは思っているが、どこの言説を見ても、共感するものよりも批判的なものの方が目につく。政治家のように、いろいろな立場の人をまとめる大きな仕事をしている人間が、それぞれの立場から批判されるのは仕方がないと思うが、個人の言説を提出している庶民のブログに、時に過激とも思える非難が書かれているのを目にすると、もったいない頭の使い方だなと感じる。たとえ反対の意見を持っていても、もっと建設的な対話が出来る言い方が出来ないものかなと感じる。ある程度の有名人であれば批判されることがあっても仕方がないとも言える(かなり多くの人に閲覧されるので、それだけ多くの異なる意見の持ち主の目にさらされることになるから)が、相手が対話をする気を失わせるような言い方で語るというのは、何とかならないものかと思う。今のところ対応策としては、コメントの書き込みを制限して、対話の可能性を減らしてしまうことくらいしかなさそうだ。建設的な対話が出来る相手の幅を狭めるというのは、せっかくのインターネットの機能の大きさを考えるともったいないものだと思う。これは、インターネットの草創期からいわれていたことだが、インターネットでは建設的な議論というのは不可能なのだろうか。僕は、今のところブログは、自分の考えの記録くらいにしか考えていないので、あまり対話への期待はない。それでも数少ない、建設的な対話が出来る人とは、細々と対話を続けたいものだと思う。僕は、4つのブログで同じエントリーをアップしているが、どこのコメント欄にも制限を設けている。これは、対話が出来そうだと思った相手とだけ対話をするつもりだからだ。かつては、そのように制限を設けていることを閉鎖的だと非難するものもいたが、今はそのような言説をあまり聞かなくなったのはいい傾向だと思う。攻撃的な人間からは逃げる、あるいは防衛するというのは、正しい戦術ではないかと思う。
2008.09.28
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内田樹さんの「私の好きな統治者」というブログ・エントリーがようやくパソコンで読めるようになった。記憶にあるように、ここに書かれた内容は「宰相論」に関する一般論がほとんどだった。その一般論を語る過程で、現実の「宰相」に当たるかもしれない麻生氏について少し言及しているというのがこのエントリーの印象だ。ここに書かれている一般論に関しては僕はだいたい共感してその通りだと思う。しかし、麻生氏を評価しているように見える部分、「麻生太郎は総裁選挙前はずいぶんと言いたい放題のことを言っていたが、選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある。私はこれを彼が「公的責務」の重さを思い知った徴候だと思って、頼もしく受け止めている。だから、各新聞の社説が「もごもご言うな」といきり立つことに少しも同調する気になれないのである。」に関しては、この受け取り方(理解の仕方)によっては、自分とは反対の判断をしているのだろうかと思ってしまう。だが一般論からの論理的帰結としては内田さんが語ることが論理的には正しいようにも思える。自分は、論理的な判断ではなく、感情的な好き嫌いから麻生氏の曖昧さに対してマイナスの評価を与えているのだろうか。そのあたりの論理と現実の整合性についてちょっと詳しく考えてみたくなった。また、マスコミが麻生氏の曖昧さを批判する論調と僕の感じ方がちょっとニュアンスに違いがあるのも感じる。このあたりのことも、内田さんの主張をヒントに、そこにある違和感を説明できるのではないかとも感じている。さて、内田さんの「宰相論」の一般論としての部分で、まずは共感する部分を確かめておこう。それは論理的な前提としては次のようなものを設定するところだ。・「政治家といえども人間である。個人的信念があり、価値観があり、審美的好悪がある。これはその人の「私」の部分である。」・「政治家には「民意を代表して、国益を最大化する」という義務がある。」・「「民意」のうちには政治家個人の信念や価値観や嗜好とあきらかに異質なものが含まれている。」・「自分自身の政治的信念と背馳するような政治的信念をもっている人間であれ、その人が法制上の「国民」である限り、政治家はそのような人の意向をも代表せねばならない。」この4つの前提は、いずれも正当だと思える。どの前提も否定することが出来ない。この前提を全部認めるとしたら、そこから論理的に次のような結論が導かれるだろう。「どういう政治家が指導者として望ましいのかについて考える。「葛藤に引き裂かれている人」というのが私のとりあえずの希望である。」自分を持っている政治家は、彼が政治家であるが故に、その個人的信念に反するような「民意」も受け止めて配慮しなければならないという義務を持っている。当然ながら反対の主張(命題)を同時に持たなければならないのだから、どちらか一方にすっきり決めるというような分かりやすい・気持ちのいい決定が出来ない。これは論理的な帰結であって、好むと好まざるとにかかわらず、政治家はそういう存在でなければならない。どちらか一方に決めてしまえば、上の4つの命題の内のどれかを否定することになってしまう。上の4つの命題を保持するなら、その葛藤に引き裂かれる。だから、望ましいのは「葛藤に引き裂かれている人」だということだ。これはきわめて論理的であり共感するものだ。もし葛藤を感じずに、問題をクリアカットにどちらか一方を正解として提出するような人間が統治者になったらどう考えられるだろうか。内田さんは次のように書いている。「「葛藤のない」のは私的な信念・心情を公的な責務に優先させることに抵抗を感じていないか、自分の私的利害と公的利害とが一致している(だから自己利益の追求がそのまま国益の増大に結実する)と思い込んでいるか、どちらかである。前者であれば悪人であり、後者であれば愚者である(その両方である場合もある)。」これもきわめて論理的な判断だろう。葛藤がないということは、もしその判断が反対のものであるなら、どちらか一方がより優先されて選ばれているということになる。そうでなければ葛藤が起きるだろう。この場合、公的なものを優先させるなら偉いということになるが、たいていはそうならない。たいていは、公よりも私を優先させるだろう。また、公私が一致していると判断すればそこにも葛藤は起きない。しかし公私が一致しているという判断は、普通の人間には出来ないだろう。「前者であれば悪人であり、後者であれば愚者である」という判断は正しいものだと思われる。このように一般論の段階では、内田さんが語ることの論理性が納得できるので、その主張にほぼ賛成できると僕は感じている。この一般論への賛成が、麻生さんへの評価においては、どうして食い違いが起こるのか。それは一般論を具体的現実へ適用するという点で、適用条件の判断に若干の違いが生じているからではないかと思われる。内田さんは、麻生さんの「言いたい放題のことを言っていた」面が「選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある」というふうに変化していったところを捉えて、一般論的な結論である「宰相は葛藤に引き裂かれている人が望ましい」という命題を適用しているように見える。麻生さんの「葛藤」という面を評価したと考えられるだろう。これが一般論の適用だということを考えると、ここには一般論を適用するために具体的な条件が捨象されているのを感じる。麻生さんが、どうして持論をきっぱりと言わずに、曖昧な表現になったかというような具体的な条件は考慮の外に置かれているのを感じる。むしろ、きっぱりした言い方が曖昧になったというその結果(事実として現れている現象)を捉えて、そこに一般論を適用しているように見える。しかし、僕は麻生さんが曖昧な言い方をすることの条件が、今このときの麻生さんの立場という、きわめて具体的な条件の下では正しくないと評価している。今はきっぱりと言うべきだと思うのだ。これは「宰相論」の一般論からは抜け落ちてしまう、捨象されてしまう現実を前提に入れての論理展開になる。だから、内田さんの一般論の展開に論理的に賛成したとしても、その前提に違いが入ってくれば、論理的な帰結が違ってくるということになる。僕は、宰相の葛藤の判断の中に、科学的に「絶対的真理」が確定できるような内容についてはきっぱりと言うべきだろうという条件を盛り込んだ方がいいと考えている。科学的な判断が出来ない事柄については、どちらが正しいかは「葛藤に引き裂かれている」べきだ。しかし、その帰結がほぼ明らかに主張できるという事柄については葛藤するのではなく、それが正しいことを説得すべきだと思う。麻生さんが語ることの中にそういうものがあると思うから、そこについて曖昧に言葉を濁していることにマイナスの評価を与えざるを得ないと思う。年金の破綻の問題をはじめとして、構造的に抱えている欠陥というものは、それが現れるのが先送りにされているだけなのだから、それは明確に語るべきだろう。その解決にどのような方法がふさわしいかということは、これは絶対的にこれが正しいというようなものはないから、その点では葛藤すべきだが、欠陥の存在は明らかに語るべきだと思っている。麻生さんは、持論である年金の全額税方式の問題などを封印したという。これは、どのような解決がふさわしいかということであるから、葛藤に値するものだろうと思う。だからこのことを明確に語らなくなったからといって、それ自体はさほど非難すべきものではないかもしれない。しかし、年金が、何らかの方法で解決を図らない限り、破綻が明らかになるということは明確に語らなければならない。すでにそれは破綻しているとも言われている。これを語らずに、解決方法だけを主張するから葛藤せざるを得なくなるのではないか。明らかに問題があることを語り、どの方法での解決がふさわしいかを問うのが、政治において民意を問うということになるだろう。麻生さんは国連会議では、集団的自衛権についてはかなりきっぱりと、その可能性を肯定したようだ。これなどは、本来は葛藤してもらいたいことであるのにきっぱりと言いすぎたのではないかと感じる。麻生氏がきっぱりと言うべきことは、集団的自衛権そのものについて曖昧にしたままでは問題があるということの方ではないだろうか。その解決には、憲法そのものを変えるとか、解釈を変えるとかいろいろあるが、集団的自衛権について何も考えず、何も言わずに国際社会で責任ある国家としては振る舞えないのだという問題そのものはきっぱりと語るべきだろう。その問題について語らずに、いきなり解決の方法について(憲法解釈を変える)語るのは、語る内容を間違えていると感じる。内田さんの「宰相論」からいえば、総裁になった後の麻生さんは、きっぱりと言うべきことと葛藤することを間違えているのではないかという気もする。一般論からの帰結で葛藤することを評価した内田さんも、最近の麻生さんのきっぱりとした言い方には「きっぱりとした政治的信念を持ち、一歩とて譲歩することなく、持論への反対は黙殺し、百万人と雖も我往かんというような統治者なんか私はごめんである」という一般論で評価し直したいのではないかと思う。なおこの一般論を、引退表明した小泉さんに当てはめると、何でもきっぱりと言い切ってしまう小泉さんは、内田さんの「宰相論」からいえば、最も望ましくない宰相ということになるだろう。僕自身の評価は、小泉さんがきっぱり言い切ったことが、科学的な意味での真理に近いものであれば評価できるが、郵政民営化などのように、評価が分かれる問題ではやはり葛藤してもらいたかったと思う。葛藤がなかったことについて、そこに負の遺産が生じてしまったのではないかと思う。最後に、マスコミと僕のニュアンスの違いを考えてみると、マスコミは麻生さんがきっぱりと語らなかったこと自体を非難しているように見える。持論の展開を総裁選では語らなかったこと自体を批判していたようだ。だが、僕は、語るべきことを語らずにいたことを批判的に見ていた。マスコミが要求したようなことをきっぱり言わなくてもいいから、問題の所在が明らかに分かることについてはきっぱりと言って欲しかったということを批判的に見ていた。その部分は、おそらく河野太郎氏などの有能な若手政治家はきっぱりと言える部分だと思うからだ。
2008.09.27
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毎日新聞の社説では、その表題に「理念も政策もなき勝利」と書かれているように、総裁選に対する評価はかなり明確に出ているものと思われる。冒頭にも次のように書かれている。「内閣支持率低迷が続き、福田氏は自ら衆院を解散して総選挙に臨む自信がなかった。そこで総裁選をにぎやかに実施して国民の関心を自民党に引きつけ、その勢いで総選挙に突入する--。再三指摘してきたように、総裁選はこんな演出を意識したものだった。 だが、福田氏や自民党が期待したように「わくわくする総裁選」だったろうか。そうは思えない。」これは、もしも「わくわくする総裁選」だったら、そこには国民を引きつける魅力ある要素があるはずで、それこそが理念や政策に通じるものだという論理的な展開があるのだと思われる。理念や政策が明確に語られなければ、今まで利権を握っていた人物の不透明な私益は改革されずに残るだろう。そうであれば、その利権に関係ない人々はどうして「わくわくする」ことなど出来るだろう。自民党がこのような思惑で福田首相の辞任を歓迎し、麻生氏の総裁選の圧倒的勝利を歓迎したのなら、その思惑を実現するには理念と政策の論議が必要だったはずだ。それは、私益の利権に目がくらんでいない政治家なら誰でもそう考えただろう。利権とは関係ない若手政治家の多くは政策論争で総裁選を盛り上げていこうとしていたように見える。だが、そのような道を大多数の自民党議員はとらなかった。自らの利権が削られるのをいやがったのだろうか。しかし、このことは結果的に自民党の思惑が外れたということになるのだろう。このことは支持率の調査にも現れているようだ。今朝のニュースでは次のように報道されている。「麻生内閣の発足を受け、読売新聞社が24日夜から25日にかけて実施した緊急全国世論調査(電話方式)によると、内閣支持率は49・5%、不支持率は33・4%だった。 内閣発足時の支持率としては、福田内閣の57・5%を下回った。」内閣支持率は発足時には高いのが普通だということから考えれば、この数字はやはり期待よりも低いものだろう。自民党の思惑は外れたと考えざるを得ないのではないかと思う。この支持率が、今後時間がたつにつれて上がるものなのか、それとも下がっていくのかは、理念と政策にかかっていると思われるのだが、それが語れない内閣なら下がっていくと予想せざるを得ないだろう。今後民主党の方に決定的なマイナスとなるスキャンダルが暴露されるということでもない限り自民党が総選挙を有利に戦えるという要素が見あたらない。しかし自民党にもスキャンダルの種はかなりあるだろう。すでに閣僚の何人かはスキャンダルのにおいがするようだ。自民・民主が暴露合戦をするようならこれもまたひどい状況になるのではないかと思う。毎日の社説では、理念と政策がない総裁選になった理由をいくつか挙げている。一つは「多くの議員の判断基準は「だれが首相になれば自分が選挙で当選しやすいか」であり、麻生氏の政策に共鳴したのではないと思われる。麻生氏を選んだのは麻生氏が最も人気がありそうだからだろう」というふうに語られている。選挙で当選するということが第一で、考え方はどうでもいいということになれば、やはり理念はないと判断されるだろう。また「政策論争が深まらなかったのは当然かもしれない。特に麻生氏の発言は具体性を欠いた。「基礎年金は全額税方式に改め、財源は消費税を10%に引き上げる」が持論だったにもかかわらず、総裁選では「一つのアイデア」と後退し、22日の総裁就任後会見でも、消費税をどうするのか、筋道は明確にならなかった。 外交もそうだ。東欧や中央アジア諸国との連携強化を目指す「自由と繁栄の弧」構想を従来打ち出していたのに、「中国やロシアとの対立を深める」との批判を意識してか、総裁選ではほとんど触れなかった。 総裁選出が確実だから、余計な波風を立てぬよう持論は言わないというのでは本末転倒だ。今後、所信表明演説などでは、この国をどうしたいのか、具体的に語らなければならない。」というふうに書かれている部分を読むと、麻生氏があえて政策論議を避けたという評価をしているように見える。政策論議を避けたのだから、政策がないという評価ももっともだと思う。この場合は、政策論議を避けたことのメリットを麻生氏がどう考えていたかを想像してみることが重要だろう。政策論議を活発にすれば、当然のことながら利害で対立する人たちには都合が悪い流れになるだろう。麻生氏を支持している人たちが、選挙のための麻生人気という点で共通して支持しているのであれば、この対立を鮮明にして支持の基盤にひびを入れるのは、総裁選ということに関しては得策ではないだろう。総裁選に勝利するという短期的な利益の見通しでは、あえて政策論議をしないという選択は正しいように思われる。問題は、これが長期にわたっても正しいかということだ。上の社説で語っているように、これは「本末転倒」な考え方と指摘されても仕方がないだろう。対立を出さずにそれを温存するということは、そこでの利権をそのまま温存するということに等しい。これが国民の目にはどう映るかということだ。麻生内閣には景気対策を期待する声が最も高いという。だが、景気が良くなっても生活感覚は苦しいというのがこのところずっと続いていることではないかと思う。景気が良くなるということは、大企業とその利益に預かる金持ち層にとっては重要なことだが、一般庶民にとっては景気が良くなったからといって、それが直接自分の生活の余裕に反映することは少ない。何となく気分的に良くなったように思えるだけではないだろうか。むしろ「年金問題」と「食品安全対策」、「高齢者医療」といった問題の方が一般庶民にとっては生活に直結する重要な問題だろう。だがこの問題は、利害が対立した人々が、その利害を鮮明にせずに、対立を隠蔽していればその解決は先送りにされる。今度の総裁選での、政策なき姿が、この問題の先送りにつながらないと期待できるだろうか。選挙対策用に、ここになって急に「高齢者医療」について見直すという発言が自民党から出てきたようだ。これなども、選挙対策ということが見え見えで、そのままでは信用できないと受け取るのが正しいだろう。この理念と政策のない麻生新内閣について、この毎日の社説とは正反対の評価を語っているように見えるのに内田樹さんの「私の好きな統治者」というブログ・エントリーがあった。残念なことに現在、内田さんのブログが僕のパソコンでは見られない状態になっているので、その内容を正確に引用できないのだが、ちょっと前に見たことの記憶で考えると、内田さんは、きっぱりと明確に語る統治者よりも、いろいろなところに目配りをして配慮した結果、曖昧な言い方になる統治者の方を好むというようなものだったように覚えている。これは、上の毎日が批判している麻生さんの曖昧さを、内田さんは逆に評価しているように見える。これは論理的にはどう受け取ればいいだろうか。毎日か内田さんのどちらかが間違えているのだろうか。この正反対の主張は両立しないようにも見える。つまり矛盾しているのではないかとも思えるので、どちらかが正しくないようにも感じてしまう。しかし僕には、両者は形式論理的には矛盾していないように見える。この矛盾の現れのように見える部分は、両者の視点が違うことによって生じたもので、弁証法的な矛盾として捉えられると思う。内田さんが語る視点はあくまでも一般論としての「統治者」に関するものであって、直接具体的な統治者になる麻生さんを語ったものではないと受け取れる。内田さんは一般論的な視点で見ていると解釈できる。それに対して毎日は、あくまでも具体的な麻生氏の総裁選に対する評価をしているのだと受け取れる。一般論としての統治者に関していえば、その統治に正当性がある、あるいは正統性があると考えられるなら、その統治者は誰か特定の人間の利益を明確に打ち出してそこに偏るのではなく、正当性・正統性を守るためにこそ、多くの利益を総合して包み込む必要が出てくるだろう。そのために曖昧になるのはやむを得ないとされるのではないかと思う。しかし、今の自民党には統治そのものに対する正当性・正統性というものが見つからない。利権を温存し、構造改革とは名ばかりで、年金問題をはじめとして腐敗構造からの破綻はますます目に見える形で現れている。そこには正当性がない。そして、小泉さんが獲得した郵政改革の選挙で得た圧倒的多数を背景にして、郵政改革とは全く関係のない問題に関してもその数で押し切っていく、正統性のない国会運営が続いている。このような正当性も正統性もない統治が前提となっている、現在の自民党という具体的な存在に対しては、曖昧さを許せばその正当性も正統性もどちらもともに回復することはない。具体的な今の自民党に対しては毎日の判断が正しいのではないかと思う。麻生氏の総裁選出に関しては、内田さんが語る一般論は適用できないのではないかと思う。内田さんの主張が、正しいと思えるような一般論を、この総裁選にも適用して麻生さんの曖昧さを肯定することが正しいと結論しているようなら、それにはちょっと疑問を感じてしまうのだが、残念なことに今のところ僕のパソコンでは内田さんの文章を見ることが出来ない。内田さんの文章が読めるようになってから改めて考えてみたいとは思うのだが、表題を見る限りでは、「私の好きな」という言葉が入っているので、正しいことの主張というよりは、一般論を元にした自分の感想(感情)を語っているだけなのかなとも思える。そうであれば、どのような感想を持とうとも、感想を持つことは自由なのだということにもなるかもしれない。それが自分が抱く感情とは違うものであっても、他人と自分は違うのだから仕方がないという結論に落ち着くかもしれない。いずれにしても、早くブログの表示が出来るようになって欲しいものだと思う。
2008.09.26
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朝日新聞の社説では、麻生新総裁誕生についての評価は、慎重に断定を避ける言い方をしているように見える。「耐用年数が過ぎたか」というふうに疑問文の形で語っている。これは反語的に、「耐用年数は過ぎた」のだという断定的な評価だと受け取った方がいいのだと思うが、反語的なレトリックを使うことによって、ベタに受け取る人は「どっちなのだろう」と迷うかもしれない。朝日新聞の基本的姿勢からいえば、もはや「耐用年数は過ぎた」のだと判断してもいいと思うのだが、ちょっと中途半端な言い方のように聞こえる。本文の内容では、「自民党は政権政党としてもはや耐用年数を過ぎたのではないか。そんな批判が説得力を持って語られている」と書いている。説得力があるという判断をしているのだから、もう自民党ではだめだと言い切ってもいいのではないかと思われるのだが、中立の立場を守らなければならないということなのだろうか、そういう言い方をしていない。過去に対する認識については「官僚との癒着、税金の巨額の無駄遣い、信じられない年金管理のずさん、薬害エイズや肝炎の隠蔽(いんぺい)……。効率的で有能と思われてきた日本の行財政システムが機能不全を起こしたかのように、不祥事が止まらなくなっている。 国土を開発し、豊かな生活を育むはずだった公共事業は、いまや800兆円の借金となって国民の肩にのしかかる。人口が減り、経済はいずれ縮小に転じるかもしれない。そのなかで格差を縮め、世代間の公平を保ちつつ豊かで平和な暮らしを守ることが本当にできるのか。」という文章から伺えば、日本をこのようにどうしようもなくガタガタにしたのは自民党政治の責任だと主張しているように見える。だから当然のことながら、このような自民党にはもはや政権担当能力はないと判断しても良さそうなのだが、「自民党に政権を託し続けていいのだろうか」という問いかけをするだけでやはり断定的には語らない。左翼的立場を自他共に認めるのならば、ここはきっぱりと断定するべきだと思うのだが、基本的にはポピュリズムに従い、左翼的言説が人気があるときはそのように振る舞うというだけなのだろうか。小泉改革の影響によって後から噴出した問題に対しての対処には次のような言葉が語られている。「社会に痛みも強いた小泉流からの脱皮を目指すというのなら、それもいい。だが、景気対策の名のもとに改革を先送りするだけでは、自民党が長年積み上げてきた矛盾をそのままにしようということにならないだろうか。」これなども「ならないだろうか」などと中途半端に語るのではなく、「なる」と断定できそうな気もするのだが、この弱気とも見えるようなレトリックはどうしてだろうかと思う。締めくくりに語られている「行政の無駄をなくすと言っても、半世紀もの間、官僚とともにその無駄を作り上げてきた自民党にできるのか」という言い方も、最後まで中途半端だなという印象を与える。「出来るのか」ではなく、これまでの実績を考えれば「出来ない」と判断するのが自然な論理の展開であるように見えるのだが、100%確実なことでなければ言わないということなのだろうか。「出来ない」と断定して、うっかり出来たように見えた場合の言い訳が難しいということがあるのだろうか。しかし、小泉改革が改革をしているように見えても、その実質としてはほとんど根本的な改革は何一つなかったことが今明らかになっているように、改革が出来たように見えても、それは何かを見誤っているからそう見えるということもある。そのような批判を展開していけば、断定的に語ることも出来そうに思うのだが、それをしない朝日新聞の論調は、オピニオンリーダーとしては頼りないような感じがする。愛媛新聞の社説では、麻生氏が獲得した地方票の大きさ(95%)に対する評価として「地方における麻生氏の高い人気は、明るいキャラクターのほか、企業経営者や日本青年会議所会頭を経験するなど地方経済に詳しいという期待もあるからだろう」ということが書かれている。これは地方新聞であるが故の視点ではないだろうか。しかし、この評価は都市浮動票を獲得した小泉さんとの違いを印象づけるものでもある。民主党の小沢さんも都市浮動票にはあまり関心がなさそうだと宮台氏が語っていたが、自民・民主両党ともかつての自民党政治と同じように地方の弱者重視という政策へ回帰するということになるのだろうか。愛媛新聞では最後に「華やかな家系と恵まれた境遇を考えると、どれほど弱者の立場を理解できるのか心配もつきまとう」という指摘もあり、それはうわべだけのものではないかという疑問も提出されている。これはほとんどそのようであるように僕には感じる。そもそもが選挙のための人気を当て込んで選ばれた総裁なのだから、それが地道に地方を考えて来たとは思えない。人気取りのために今だけ地方を語っているだけなのではないか。自らも岩手という地方の出身である民主党の小沢さんとの違いが現れてきそうな気もする。宮台氏は、マル激の中で、小沢さんも麻生さんもともに都市浮動票に関心がないという評価を語っていた。両者が地方票を取りに行って、地方の人気の獲得の競争に走れば、愛媛新聞でも危惧している「ばらまき財政出動」になるのではないかという心配もある。小沢さんの改革の方向も、かつての保守本流に回帰する道のようにも見えるが、自民党の麻生さんがそれをやるのでは、自民党にはやはり改革の能力はないということになるのではないかと思う。同じようなことをやるのであれば、政権が変わって民主党がやった方がいいと僕は思う。そうなれば、これまでのやり方を主張していても、それでは自民党はだめなのだということを自民党もようやく自覚できるのではないかと思うからだ。そうなれば、本当の改革派である若手が自民党の中でその実力を発揮できる時代が来るだろう。昔に戻る自民党がまだ政権をつかんでいるようなら、真の改革派である若手がいつまでもその能力を発揮できない自民党がまだ続くのではないかと思う。高知新聞の社説には次のような記述がある。「小泉構造改革の見直しにつながる麻生氏の主張を多くの国会議員が支持したわけだ。現状を踏まえ柔軟に対応するのは政治の役目ではあるが、小泉改革がもたらす負の側面を見通せなかった点は批判されても仕方あるまい。」小泉改革には、改革のように見えながら本質的には改革になっていない面があったので、その効果が十分に出ずに弊害が目立つようになってきている。その弊害を修正するには、いろいろな方法があるだろうが、長期にわたって効果を上げるためには、やはり本質的な部分に光を当てて、不十分だった改革をさらに推し進めるという方向が必要だろう。それをやらずに、弊害が出てきた部分を緊急に手当てするだけで済ませるなら、改革が必要になった原因をそのまま温存することになる。そうなれば、今度は改革を先送りすることによる弊害が目立つようになるだろう。緊急の手当というのは政治にとっては必要なものになるだろう。長期にわたって正しいことをするからといって、今の犠牲を捨てておくだけで済ませることは出来ない。しかし、緊急避難的に今困難にあえいでいる人を救いながら、長期の見通しも立てるという難しい舵取りが、首相というリーダーには求められるだろう。この難しい仕事を、そもそも「小泉改革がもたらす負の側面を見通せなかった」自民党に出来るのかという疑問がある。麻生さんを救世主のように期待する前に、自民党はこの危機を見通す能力がなかった、あるいは小泉人気に乗っかるだけで、小泉さんのやり方が、改革を推し進めると同時に破壊をも伴う諸刃の剣であることを提言できる人が自民党にはいなかったのだという事実も忘れてはならない。麻生さんは、小泉政権の時も、その後を引き継いで政権を投げ出してしまった安倍・福田両政権の時も権力の中枢にいた人間だ。この弊害を見通していたとはとても言えないだろう。危機の原因を作った人の一人である人間が、その危機を解決できると期待できるとは思えないのだが、世間ではどうして麻生さんに人気があるように見えるのか不思議だ。西日本新聞社説では、出来レースと言われたこの総裁選の評価が簡潔にまとめられている。「安倍晋三前首相に続く2代連続の政権放棄に、国民があきれ、憤っている間もなく、自民党は総裁選へなだれ込んだ。麻生氏を含む史上最多の5人が名乗りを上げ、「無投票で党首を選ぶ民主党とは違います」とばかりに、派手な劇場型の総裁選を演出した。転んでもただは起きぬ。そんなしたたかな戦略は、成功するかに見えた。 しかし、当初から本命視された麻生氏が予想通りの圧勝で幕を下ろし、「筋書きのないドラマ」とはならなかった。肝心の政策論争も盛り上がりを欠き、終始「麻生氏優勢」が伝えられる中で消化試合の様相すら深めた。」他の社説でもしばしば使われたが「消化試合」という言葉がキーワードになるような、この言葉が象徴するような雰囲気を感じさせたものだった。この雰囲気の原因となったものを西日本新聞は「政策論争が盛り上がりを欠いたのは、軸となる麻生氏が持論を封印し「優位を守る」総裁選に徹したためだ」と判断している。この判断は正しいだろうと思う。これは、麻生さんが総裁選を有利に戦うという、権力闘争を行う政治家としては正しい判断だったかもしれない。それがあまりに有効に働きすぎたために麻生さんは予想以上の圧勝をしてしまい、これが出来レースだという見方に拍車をかけた。もう少し長期の利益構想があれば、持論の封印をもう少し解いて、あえて反対を呼び起こすようなポーズをとる方が政治家としてはうまい戦略だったのではないかと思う。それをやらなかった麻生さんは、今後の政権運営でもあまり長期にわたるビジョンの提出は期待できないのではないかと思う。このまま自民党が総選挙に勝つようでは、結果的に長期のビジョンは語られず、今人気がある事柄だけが語られるようになるだろう。破綻は先送りされるだけで、その解決はより困難になる。今度の総選挙では、民主党に期待するから投票するというのではなく、自民党が今の政治感覚ではもはや日本は破滅の道を歩むしかないのだと、自民党にも自覚させるために、自民党を負けさせる選択が正しいのではないかと思う。そうでなければ、自民党はいつまでもこのひどい状況を認識できないのではないかと思う。本当に有能な政治家が表舞台に出てくるために、自民党を下野させる選択こそが正しいのではないかと思う。
2008.09.25
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自民党総裁に麻生氏が選ばれて、新聞各紙はそのことについての社説を書いている。出来レースと言われ、総選挙用のパフォーマンスに過ぎないと言われていたこの総裁選だが、予想以上の大差で麻生氏が勝ったことによって、その出来レースぶりとパフォーマンスだけの内容があからさまに分かるようになってしまった感じがする。そのせいかもしれないが、各紙の社説では「こうあるべき」というべき論と、「こうして欲しい」という願望を語る論調が多かった。この二つは確かに大切な要素ではあるが、主張としてはリスクの少ない平凡な一般論ではないかと思う。「べき論」は、その政策を具体的に語り、民主党との違いを明確にすべきというものが多いが、これは誰が考えても「そうすべき」と言える内容であまり目新しいものはない。願望にしても、べき論で「そうすべき」だということを実現して欲しいという語り方が多い。誰もがそう考えることを主張するのであれば、そこに間違いが入り込むリスクは少ない。そして、現実がその願望通りにならないときは、そのような主張をした方に間違いがあるのではなく、希望を実現しなかった方が非難される。論説による主張としてこれほど安全なものはないだろう。それに対して、この麻生総裁誕生を評価するという主張になると、その評価は今後の動向によって正しいか間違っているかが判断される。間違った評価をすれば、主張としては批判されるリスクがあるだろう。だが論説をリードする立場の新聞の社説では、あえてこのリスクを冒すべきだろう。そのような評価を語っている部分を社説の中から探し出し、その評価の論理的正当性というものを考えてみたいと思う。産経新聞の社説には次の記述が見られる。「一方、小沢代表が争点として投げかけている官僚主導政治打破について、麻生氏の立場は鮮明といえない。総裁選の論戦でも「霞が関をぶっ壊す」と唱える小池百合子氏との議論はかみ合わず、経済政策に比べれば小さな問題と位置付ける姿勢がうかがえた。」これは、民主党との違いを明確にしているかという点に関して、そう見えないという評価を語っているものと受け取れる。その根拠は、具体的に語っている部分は小池百合子氏との議論について語っているだけだが、「小さな問題」という受け取りは、それをしなくても問題解決が出来るという主張にも受け取れる。そうであるなら、麻生氏が首相になったときには「官僚主導政治打破」は期待できないという評価にもなるのではないかと思う。これは民主党との違いになる争点になるのではないかと思う。民主党がこの問題を解決できるかどうかは、麻生氏がこれを問題として受け止めないこととは直接の関連はないが、問題として想定しないという前提に賛成できるかどうかは自民党政権を選ぶかどうかに大きく関わるのではないかと思う。また、この産経新聞の評価が実際の選挙の際の自民党の主張を正しく言い当てているかが結果から判断できるだろう。もし自民党が政権を取ったときに、官僚機構に関してはやはり自民党は手をつけなかったということになれば、産経新聞のこの主張は当たっていると判断できるだろう。次のような記述もある種の評価を語っているものと受け取れる。「麻生氏は「日本経済は全治3年」とし、景気対策を重視する積極財政論者である。構造改革の継続を表明してはいるが、財政出動の必要性を強調し、2011年度の基礎的財政収支黒字化目標まで先送りする意向だ。 これは小泉改革のひずみ是正という域を超え、その対極にあると言ってもよい。かつての古い自民党に戻るのではないかという懸念を拭(ぬぐ)えない。」これは控えめな言い方ではあるが、麻生氏の経済重視の政策は、改革という面から見ればマイナスではないかという評価を語っているように見える。確かに小泉改革によって日本経済が疲弊し、その問題を是正する必要が生じたのだが、この是正の方向としては麻生氏のやり方は「域を超え」ているという批判がされている。域を超えれば「古い自民党に戻る」という予想もされている。この予想が当たることが懸念されるなら、それに反対の人間は総選挙で自民党を選ぶかどうかという判断にこのことが一つ関わってくるだろう。果たしてこの評価は当たっているかどうか。経済政策を重視するという姿勢は、結果的にそれ以外を軽視するということを招く。これは論理的結論になるだろう。経済政策を重視して、経済がうまく回れば種々の問題が解決する可能性があるが、もし経済が予想通りにうまく回らないときは、軽視してしまった問題の方が重大な欠陥として露呈する恐れがある。経済重視の方向が結果的に招く改革の軽視(これまでのように利権による無駄を放置していると感じられるような部分)が、国民生活にさらなる苦しみをかぶせないものか、僕も懸念の方を感じる。次のような記述はどう解釈できるだろうか。「麻生氏は消費税に対しても、引き上げの必要性は認めても、景気回復後とするだけで時期を明示していない。だから2011年度の黒字化目標を先送りする意向なのだろうが、財政出動による赤字を拡大し続けたらどうなるか。 2011年は団塊世代が年金の本格的受給年齢に達する直前だ。それまでに黒字化しておかないと大増税以外に社会保障制度と財政の持続可能性は確保できまい。市場の信認も決定的に失う。 これで総選挙が戦えるとは思えない。小沢民主党は黒字化目標を先送りする方向で、消費税も据え置くとしている。一方で、高速道路の無料化や子ども手当、農家の戸別所得補償、揮発油税の暫定税率廃止などを打ち出している。 つまり、ばらまき度でははるかに上だ。その財源は特別会計見直しに求める荒唐無稽(むけい)さだが、国債という借金をあてにする麻生自民党も、安易さでは五十歩百歩だから、これを論破できまい。」この部分は、麻生氏の政策に対する評価というよりも、レトリックとしては民主党のばらまき政策がいかに非現実的な人気取りになっているかということの主張のように見えるが、民主党の言い分が非難できるのと同じように、麻生氏の言っていることも非難できるという評価を語っているとも受け取れる。これは、論理的には、今すぐに対処しなければならない破綻を、民主党は非現実的な財政政策で、自民党は表面化するのが後になる借金政策で何とか逃れようと宣伝しているという指摘になっている。民主党の場合は、非現実的なやり方なので、政権を取ればすぐにその破綻が表面化するだろう。しかし、自民党の方は借金で当面は乗り切っても、その借金は何年か後にはもっと深刻な破綻として国民に被さってくる。果たしてどちらの方が国民にとっていいことなのかは難しい問題だろう。破綻することが明らかなら、破綻が出来るだけ早く目に見える形で我々に自覚された方がいいと僕は思う。先送りされて、もうどうにもならなくなってから破綻するようでは、もう手の施しようが無くなる。年金制度に関しては実はもうそのようになっているということを、専門家はかなり感じているのではないだろうか。破綻は、それが避けられないのなら、出来るだけ早く分かった方がいいと思う。この点でも、民主党が問題を解決しないとしても、破綻を明らかにしてくれるというだけでも政権交代をする意味があるのではないかと感じる。産経新聞の社説では最後に次の言葉で締めくくっている。「このままでは総選挙は人気取り競争に陥る。国民に安心を与える社会保障制度と税財政改革を正面から議論しないのでは政治の役割は果たせまい。」これは、レトリックとしては、何か他人事のような語り方なので、あまり評価をしているようには見えないかもしれない。だが、麻生氏率いる自民党では「政治の役割を果たせない」という評価を語っているのだとも受け取れる。社会保障制度と税財政改革は、今の時点でほとんど破綻が明らかになっているにもかかわらず、それをはっきりと語っていない部分ではないかと思う。それが曖昧になっているのは、それをはっきりと語れば、誰がこの破綻に責任があるかという責任問題が浮上してくるからだろう。責任を回避するためには、破綻は出来るだけ先送りにされ、もはやその原因を作った人間は誰一人としていないのだが、破綻という現実だけが残るということにしておけば、今の時点で責任を問われる人間にとっては安心だ。日本は今いろいろな問題で曲がり角に来ているだろう。食の安全が脅かされる事件が相次ぎ、信じられないような犯罪の報道も数多い。社会が疲弊し、破綻があちこちで噴出している。食品偽装の問題も、あくどいやり方で儲けることに問題があることは確かだが、そのようなやり方をしてでも儲けを出さなければ生き残れないという論理的必然性がないかどうかも考えなければならないのではないだろうか。もしそのような構造が近代社会にあるのであれば、近代社会そのものが構造改革しなければ、この問題はいつまでも解決されずに我々を脅かすのではないだろうか。本当に責任ある人間が責任をとるような制度になっていないと、権力のある地位に優秀な人間がつくということが無くなる。エゴによる利権をあさる人間が、国家全体の利益よりも私益を優先させて国の財産を奪っていくのではないかと思う。国民にとっては、こちらの構造改革の方が重要な気がする。経済がうまく回れば種々の問題が解決されるほど、近代社会というのは単純なものではないような気がする。それは宮台氏が語る、近代過渡期の構造なのではないだろうか。もはや近代成熟期に入ったと思われる日本社会は、経済ではなく、根本的な構造改革の方にこそ目を向けなければ、表面に現れている問題は一つも解決しないのではないだろうか。考えれば考えるほど、麻生自民党にはプラスの評価が出来なくなりそうだ。
2008.09.24
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ウィトゲンシュタインが考えたような命題の集まりである世界の全体が、どのようにして広がっていくかという過程を考察しようとして哲学史を調べている。哲学に革命的な進歩をもたらした発想は、ほとんどの場合それまで自明だと思われていたことを疑い、世界像というものを新たに作り直すことによって哲学というものを革新しているように見える。特に、方法的懐疑というものによってすべてのものを疑い、確実な真理を求めたデカルトに関心を持って調べている。調べているいくつかの哲学史の書物の中で、入門書的な『初めての哲学史』(竹田青嗣・西研:編、有斐閣アルマ)という本の中にちょっと気になる記述があった。板倉聖宣さんは、良い入門書は根源的な問題について書いてあるので、専門書のような細かい記述を求めるのでなければ、その分野の最も大切な本質が学べるようなものが入門書の中にこそあると語っていた。内田樹さんも、入門書の中にこそ誰も扱わないような、しかも誰もが疑問に思うような大きな問題が語られているといっていた。竹田さんと西さんのこの入門書も、板倉さんや内田さんが語る良い入門書の性格を持っているもののように感じた。これは単に、専門的な細かい知識を、ちょっと薄めて分かりやすく並べただけの入門書ではないように感じる。ここには、哲学というものに潜む根源的な問いが込められているように感じた。そこでデカルトに関する記述についてもちょっと気になるようなものが目についたというわけだ。デカルトについては、「我思う、故に我あり」と訳される言葉によって知られている。すべてを疑ったデカルトも、その疑いを抱いている自分自身の存在については疑いようのない真理として確立できると考えたというふうにこの言葉は解釈されている。すべてのことを疑った末に残った、これだけが確実な真理であり、これを出発点としてデカルトは哲学を構築し直したというのがいわば一般的な理解ではないだろうか。だが、このことを出発点としてどのような論理展開が出来るかを考えてみると、実は一歩も論理が進んでいかないのを感じる。自分の存在を自分が認識しているという主観については、自分には確実性を伴って感じられているものの、それは他の人間には全く分からない。他者の思いは経験することが出来ない。そして、自分の意識はこのように確実だとしても、その意識が映し出している、自分ではない存在(客観的存在と言われているもの)の確実性は、このことから論理的に導くことが出来ない。哲学史の上では簡単に説明されている事柄が、よく考えると全く理解できない難しいものに思えてくる。このデカルトについて前述の本は、まず方法的懐疑について次のように説明している。「自然科学の知識の正しさを誰もが信じていた中で、自身が優れた数学者・物理学者でもあったデカルトは、あえてそれらが正しいと言える理由を説明しなければならないと考えた。<学問が単なる習慣や信念と違うとすれば、それは学問が一歩一歩きちんと論証され積み上げられている点にある。しかし数学や自然科学といえども、最も根本的な土台から積み上げられているとは言えない>と考えたデカルトは、少しでも疑わしいことはすべて疑った上で、絶対に確実な知識の基礎を見出し、そこから積み上げていって学問的知識の正しさを論証しようとしたのである。」ここまでは一般的に知られていることと同じだ。そして、通念では、デカルトは確実な真理である「我思う、故に我あり」を手に入れ、ここに近代哲学の出発点があると理解されている。つまり、デカルトは方法的懐疑によって提出された問題を解決したと思われているのが通念ではないかと思う。しかしこの本によれば「デカルトは、結果的に、近代哲学最大の難問をむしろ提出してしまった」といわれている。問題を解決したのではなく、提出したことにデカルトの偉大さを見ているのだ。それは次のようなものだと書かれている。「彼は疑わしいものはすべて疑う、という「方法的懐疑」を遂行して、<目の前にあるものの存在すら疑わしい、それはひょっとして「夢」かもしれないし、「悪い霊」が私を欺こうとしているかもしれないからだ>と言う。ではどこにも確実なものはないのか。<こうやって疑ったり考えたりしている私の存在、これだけは疑い得ない。我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)>。私の目の前にあるコップはひょっとすると夢かもしれないが、しかし私がコップがあると思っているという事実、これだけは疑い得ないはずだ、と言うのである。 しかしこの「我あり」は、私に少しも客観的な知識を保証しはしない。むしろ、この懐疑と我ありの証明が意味するのは、私にとっていかにリアルだと思えても、それが客観的にもそうである保証はどこにもない、ということである。デカルトは、「私にとってのリアリティ」と「客観的な現実」との間に裂け目を入れてしまったのだ。」意識と実在、あるいは主観と客観の問題はデカルト以後の哲学の最重要問題となったように思われる。それは未だに明確な解決に至っていないのではないかとも感じる。このように重要でしかも解決の難しい問題を提出したというところにデカルトの偉大さを見るのは、何か問題を解決したことを偉大だと言うよりも、もっと大きな偉大さを評価していることになり、デカルトにふさわしい理解の仕方になるのではないかと思う。主観の存在は自分自身にとっては自明とも思えるくらい確実なことだ。それがなければ自分という存在を自分が感じることも出来ないだろう。しかし、これが確実であればあるほど、客観的に存在していると感じられる物質的なものがどうして我々に認識できるのかということの確実性は失われていくようだ。それまではその存在を自明に前提として考察を進めていた世界が、もしかしたらその存在は客観的なものではなく、主観の中の幻想かもしれないという世界の可能性を常に考慮した命題を必要とするようになった。主観がどのようにして客観を認識し、それが一致すると言えるかという問題は、デカルト自身の解決は信用するに足るものではなかったようだ。それは神の存在証明を基礎にして、神の力によって人間は正しく客観を認識できるという命題の正しさを保証しようとしたものだった。論理によってその正しさを証明することは出来なかった。神の力を借りてそれが正しいことを主張するしかなかったのだ。だからデカルトが問題を解決したという理解をしていると、そこにはあまり偉大さの実感はわいてこない。むしろ、その後まだ誰も解決していないような問題で、しかも誰もがそれに取り組まざるを得ないほどの重要性と関心を呼ぶような問題を提出したと理解すると、その偉大さが実感として感じられる。デカルトのような方法的懐疑を行わず、客観的存在を自明の前提として素朴に信じていれば、これは主観と客観の不一致に苦しむこともないかもしれない。それこそ素朴な信仰として、我々の五感に感じられるのだから、客観的存在は確かにあるのだと信じることも出来る。デカルトが証明した、神の力を基礎にした考えは、素朴な実在論を突き詰めていけばそうならざるを得ないところかもしれない。この素朴な実在論はどうしてだめなのだろうか。素朴な実在論は、やはり確実性という点でどうしても絶対的な真理には結びつかない。方法的懐疑を経ていないので、それは五感に頼ればやはり幻想である可能性を否定できないのだ。確実でなくても、蓋然的であればいいというプラグマティックな目的での判断ならそれも役に立つだろう。しかし、絶対確実な真理の体系として学問を築きたいと思ったら、素朴実在論では誰をも納得させるような論理体系として構築することが出来なくなる。このデカルトが提出した問題は、未だに説得的な解決には至っていないような気もする。素朴実在論の延長である神を持ち出す思考は、現在では全く顧みられなくなっていると思われるが、その反対の極であるウィトゲンシュタイン的な言語ゲームの考え方は多くの人の支持を得てきているようだ。だが、これは反対の極に当たりそうな気がするので、これもそのままではどうもうまくいかない面があるのを論理的に感じる。言語ゲーム的な考え方では、数学的な真理でさえもが、人間がそのような習慣を持っているからという、人間の主観の反映が世界を形作るということにすべての現象を持って行ってしまっているように感じる。確かに、人間だけが作っている「社会」というものの現象は、人間の主観の反映で成立しているような、言語ゲーム的に正しさが判断されている事柄が多いように感じる。しかし、論理の世界もそうであるかということにはどうもまだ納得しがたいものを感じる。ソシュール的な言語のとらえ方も、主観と客観の乖離というデカルトが提出した問題の流れで見てみると、その一つの解決として提出されているようにも感じる。言語なしに、存在を五感で感じるだけでは、その存在は論理的思考の対象としては見出せないのではないかと思う。論理的対象にするには、その存在を言語で表現できるという必要があるような気がする。そして、対象を言語で表現できたとき、我々はその存在を、人間に対する認識の対象として客観的存在だと捉えているのではないだろうか。言語は、人間に対して、客観的存在を見せてくれる機能を果たす。これをソシュールが語っているのではないかと思う。この言語の機能は、三浦つとむさんが「実践」という言葉で説明した概念に似ているような気もする。実践というのは、実際に人間が行動を起こし、行動の対象にすることで対象を認識していくことを指す。プリンの存在は、それを食べてみるという「実践」で確かめることが出来る。これは、板倉さんが語る「実験」概念にも通じるものだ。実験をすることで対象の存在が主観の中にもたらされる。決して目で見ることが出来ない、五感で直接感じることの出来ない原子というものの存在が、適切な実験によって存在そのものが確認できると考えるのが自然科学における「実験」という考え方だ。客観的存在は、適切な方法を使えば主観に確実に認識できるものであるのか。それとも、存在そのものは決して知り得ない、カント的な「物自体」であるのか。それはまだ解決していない問題のように見える。言語ゲーム的な発想では、存在そのものはもはや問題にされず、「物自体」として語る必要もないものとして扱われそうな気がする。板倉さん的な科学の考え方では、科学として「仮説実験の論理」を経たものは、その存在も確実に認識されたのだと理解できるような気もする。存在の認識に神の力を必要としなくなったのは人間の進歩だろうと思うが、それはまだ解決していない問題のように見える。このように未だ解決されない根源的な問題を提出したデカルトは、その問題を解決した人よりも、その世界を広げる超越的な思考を展開しているという意味でより偉大なのではないかと思う。
2008.09.21
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二十歳前後の学生の頃、自分の教養を高めたいと思い、そのためにはどのような学習をすればよいかを考えたことがあった。とにかく優れた人物が語ることを理解して、それを通じて教養を高めるということがいいのではないかという結論に達した。しかし、どの人物が優れているかというのは、その時点ではどうにも判断が難しかった。そこで世界の名著と言われているものを片っ端から読んでいこうと思ったものだ。手始めに手に取ったものが文学全集だった。数学科だったにもかかわらずと言おうか、あるいは数学科だったからこそ教養と言えば文学かなと思ったのか、世界や日本の文学全集から手当たり次第に読み始めた。世界の方では、ホメロスやダンテから始めて、ゲーテやシェイクスピア、バルザック、ロマン・ロランなどを読みあさっていた。最も気に入ったのはドストエフスキーで『罪と罰』は何度も読み返したものだった。日本の作家では夏目漱石が気に入った。それまでは数学や自然科学系の本しか読まなかったので、最初は小説を読むのが苦痛だったが、一冊なんとか読み通すことが出来ると、後はそれほど苦に感じず読むことが出来た。最初に読んだ小説は志賀直哉の『暗夜行路』だったが、これは読み終えるのに一ヶ月くらいかかっただろうか。『罪と罰』を読む頃にはかなり慣れてきたのでこの分厚い本も2,3日で読むことが出来た。小説を読み込んだ結果が教養として定着したかどうかは分からないが、最初は何が優れているかが判断がつかなかったものが、ある種の文章が気に入るという判断が出来るようになった。これは優れているものに違いないという前提で読んでいる間は、それが気に入ろうがつまらなく感じようが、とにかく読み通すことに価値があると思って読んでいたが、世間の評価がどうであれ、この文章は気に入ったというものが見つかるようになった。その最初のものは、遠藤周作さんが書いた一連の純文学作品と呼ばれるキリスト教の信仰を扱った小説だった。信仰を持ちたいと思いながらも、自らの心の弱さに挫折する主人公の姿というものに共感し、ある種の自己嫌悪に結びつきそうな感じを抱きながらも、そのような主人公を肯定してやりたいという思いも強く感じてその小説に心惹かれていった。遠藤周作さんが日本文学史の中でどのように評価されているのかは分からないが、自分が心惹かれた人が優れた人であって欲しいという思いは強い。気に入ったということと優れているということは短絡的につなげることが出来ない特徴ではあるが、自分の教養が高まっているなら、それは重なる部分があるのではないかという期待もしていた。小説の分野ではこのときに他に心惹かれたのは前述のドストエフスキーに加えてカフカやソルジェニーツィン、フレデリック・フォーサイス、ダニエル・キースなどといった人たちだった。このようなときに、三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本にも出会った。論理学は自分の専門であったこともあり、三浦さんが優れた人だという判断は、文学が専門外のことで判断に自信がなかったのとは違い、かなり自信を持ってそうだと思っていた。しかし、三浦さんは世間ではあまり知られていない無名な人のようだったので、どうしてこれほど優れた人があまり知られていないのだろうと思ったものだ。むしろ三浦さんが批判していたソシュールの方が世間では高く評価されていて優れていると言われている面が語られていた。世間ではソシュールの方が多く語られているのに、僕は長い間ソシュールのどこが優れているのかということが分からなかった。それを分かりやすく説明してくれる人がいなかったのだ。内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』という本でようやくソシュールのどこが優れているかを納得することが出来た。そのときに、若い頃に優れた人の優れたところを学ぶために、評価がある程度定まった古典的な名著を学ぼうと思ったことを反省的に振り返ることが出来た。自分の中にまだ判断力がない時代は、ある程度評価が定まった人から、何が優れているという判断の基準になるかというのを学んだ方がいいと思う。しかし、自分の中にある程度の判断力が育ったときは、実は真摯に一つのことを極めようとしている人ならば、必ずその人の語ることの中に貴重な優れた言葉を見つけることが出来るものだということに気づいた。問題は、その人が真摯に真理を求めているかということにかかっているのだ。そうであればその人からは何か学び取るものを見つけることが出来る。今の自分の中にある思いは、世の中には実に優れた人物が多いということだ。見つけようと思えばどこにでも優れた人は見つかる。だがその優秀さを見つけるきっかけは、偶然そのときに自分が何に関心を持っていたかで決まってくる。関心がない分野では、その人がいくら優れた人であろうが自分にはなかなか見えてこない。だが、関心を持って調べている分野では、誰かそのように優れた人に出会えば、それこそ最初の数行の文章を読んだだけで、その人のすごさが伝わってくるのを感じる。宮台真司氏の文章を最初に読んだときも目眩がするほどの激しい衝撃を感じたものだった。宮台氏は、そのような感覚をミメーシスという言葉で表現していたが、教養を高めるということはこのミメーシスの感覚を育てることになるのではないかとも感じる。僕は、ミメーシスを感じた人の書いたものを手に入る限り探し求めて読むというような読書をしていたが、そのような人を思いつくままに書き出してみると、次のようなリストができあがる。僕がその人のどこに最もミメーシスを感じたかも思い出す限りで記録しておこう。三浦つとむ…弁証法の優れた解説者、特に初学者が難しい概念を理解することに優れた解説をしていた。本多勝一…世の中に見られる様々な社会現象に対し、短絡的に感情的な反応を語るのではなく、その意味を社会の全体性や人間の原理(最も大切な面)から見るということを教えてくれた。河合隼雄…カウンセリングという行為が、人間の心のナイーブな面に対する深い配慮からのものであることを説得的に語っていた。人間の心という分かりにくいものをきわめて論理的に説得力のある説明をしていたように感じた。鎌田慧…社会を見る視点が、常に権力とは反対側から見ることが、表面に現れない真理を見つけることであることに共感していた。本多さんに比べれば、全体性という点ではやや不足しているかなとも思ったが、ある立場を徹底させることが社会において忘れられている真理を見逃さないために大事だということを語っていたように思う。佐高信…読書から得られる教養というものが、自分独自の判断に結びつくものであり、そのまま他人の知識を受け売りしているだけのものではないということを、佐高さんの書評から学んだ。佐高さんを通じて知るようになった著者は多い。千葉敦子…佐高さんを通じて知った。自分の生き方に厳しく、絶対に筋を曲げないその強さに敬服した。論理展開の見事さも感じた。この論理展開の見事さというのは、僕がミメーシスを感じる一つの要素のように思う。佐藤忠男…映画に対する深い愛情が、映画評論家という職業に結びついた幸運な人で、その文章から感じられる映画への愛に共感した。また、専門的な教育を受けていないのだが、素朴な直感から結びついたその論理の展開は分かりやすく、論理の進め方のお手本として学ぶことが出来るのではないかと思う。自分の感性を、何とか論理的に正しいものとして説明したいという意欲がいつもその文章からは感じられる。板倉聖宣…仮説実験授業の提唱者。科学史を専門としており、その深い教養から科学というものに対する洞察の見事さを学んだ。三浦さんの直系の弟子でもあり、その発想には、僕は三浦さん以上に大きな影響を受けた。板倉さんの発想こそが、僕の発想にも重なるものであって欲しいと思っているくらいだ。宮台真司…その論理展開の見事さに衝撃を受けて以来、その書くもの・語ることに注目している。現代社会に対する解釈としての現状認識では最も信頼が置けると思っている。内田樹…構造主義というものを初めて分かるように解説してくれた人として印象的な人だ。その語ることはかなり難しいにもかかわらず、何か分かりやすく書いているような印象がある。三浦つとむさんに近い感じだろうか。曖昧で不正確な表現だと批判する人もいるが、専門的ではない語り方で難しいことを語ろうとするとそのような限界があるのは仕方がないのではないかと思う。仲正昌樹…いつも一歩離れた位置から物事を見るというその姿勢に共感する。僕もそのような傾向がある人間だからだ。客観的で、相対的な観点から物事を見ることで、先入観で論理的判断を誤るという傾向に注意を向けてくれている感じがするので、その指摘にいつも納得するものを感じる。野矢茂樹…ウィトゲンシュタインを学ぶには最も分かりやすい解説者だと思った。論理学に関しても、その技術的な部分の解説も、原理的な思想の部分の解説もともに面白く分かりやすく語ってくれる。論理学の分野では最も優れた人だと感じる人だ。戸田山和久…論理学を学び直そうと思ったこの夏に出会った。論理学の全体像をこれほど細かく解説する人を見たことがない。しかもそれが面白いというのはすごいことだと思った。これからさらに注目していきたい人だ。このほかにもその時々に注目して読みあさった人が何人かいる。宮台氏を通じて読むようになった社会学者の小室直樹氏などは、もし宮台氏の師でなければその著書を手に取ることはなかっただろう。極右の思想の持ち主ということで敬遠していただろうと思うからだ。しかし、その論理の見事さはさすがに宮台氏の師だということはあると感じさせてくれる。またこの小室氏と宮台氏が高く評価している人に山本七平氏がいる。以前は山本氏に関しては本多さんが批判していたこともあってほとんど僕自身は評価していなかったのだが、優れている面を探せばあるものだということを最近は感じている。実は僕は高校生くらいの時だったろうか、山本氏が書いたといわれていた『日本人とユダヤ人』という本をとても面白く読んだ記憶がある。このときはまだ本多勝一さんの批判を知らない頃で、後にその批判を知ったときに、子供の時に面白がったのはまだ判断力がなかったからだろうかと思ったりしたものだ。しかし、今では、山本氏の文章にもやはり優れたところがあって、そこを面白がったのだろうと思っている。自分が優れていると判断している人は、何か基準があって判断しているというよりも、ミメーシスを感じた直感的なものになっている。だからその判断をある種の技術にすることは難しいだろう。むしろ、誰にでも見つけられる優れた面を、どのように発見していけばいいかということの方が技術としてまとめられそうな気がする。人間は誰でも優れた面を持っている。それはどのようにして発見できるだろうか。自民党の総裁候補や民主党の小沢さんは、そのあらを探して叩くということが今はマスコミなどでは多いようだが、彼らの中のどこに優れた面があるかを発見するような発想で見てみたいものだと思う。そして、その優れた面の比較で積極的に、誰がリーダーにふさわしいかを判断する評価というものもしてみたいものだと思う。果たしてそのような発想が出来るだろうか。
2008.09.19
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世界というものを命題の集まりであると考えたとき、最も基礎的な命題から他の命題が論理的に導かれるという構造になっていたら、つまり公理的体系になっていたら、その世界は全体像の把握が容易に出来るだろう。数学というのはユークリッドの幾何学を第一歩として、そのような公理的体系を作り出して発展してきた。このような公理的体系は、その全体像の把握が容易ではあるが、そのことは逆にその世界が完結したものであることも示している。それは完結した世界であるから、もはやそれ以上の広がりを持つことはない。まだ定理として真理性が確定していない事柄であっても、それはまだ確定していないだけであって、それの発見によって世界が広がっていくことはない。それはすでに世界の中にあったものだがまだ知られていなかっただけというものになる。そうでなければ全体像の把握というものにならないだろう。ゲーデルの定理によって、自然数の公理系にはそれが真理であっても証明することの出来ない命題が存在することが証明された。そのような命題は、未知なるものとしてその発見が自然数の世界を広げることにはならないだろうか。これは、ある特定の命題が、いろいろと調べている内に証明不可能であることが発見されたということなら、その知識が世界に新たな特徴を加えてその広がりをもたらすかもしれない。しかしそれは今ある公理系の世界を、全く違う新たな公理系として違う世界を考えることになり、世界の拡張として捉えるかどうかは微妙なものになるだろう。世界の拡張というものを、今ある世界の中での可能性の広がりとして考えると、数学的な完結した論理の世界ではもはやそのような広がりは望めない。世界を広げるためには、一度その世界から外に出て世界の境界を眺める必要がある。世界の内側にいるだけでは、その世界のどこをどう広げていけばいいのかが分からない。完結した閉じた世界では、その境界は内側にいる人間には見えない。どのようにして外側の世界を想像できるかが世界を広げる鍵になるのではないかと思う。数学の世界は、人間が人為的に設定した世界なので、それを作った人間には境界が見えている。だから、その世界内だけで生きているのではないということが言える。そうであればこそ、公理は単なる前提の一つであって、自明な真理ではないという自覚があって、それが公理的体系以外の他の世界の認識をもたらし、より広い数学的世界に飛び出せることになる。もし公理を自明な絶対的真理だと捉えてしまうと、その公理の世界から外に抜け出せなくなり、その公理的体系の世界だけが世界だと思ってしまうだろう。ユークリッドの幾何学は、長い間そのような存在で、そこでの公理は自明な絶対的真理として考えられ、それゆえに幾何学の世界はユークリッドの幾何学だけであるという状況が長く続いた。この自明さに疑問が提出され、その自明さを破る他の公理系を見つけたとき、つまり違う公理による違う幾何学の世界が発見されたことによって、幾何学の世界はユークリッドの幾何学の境界を越えて世界を広げることが出来た。自明さに対する疑問というのは、世界を広げるきっかけを与える発想かもしれない。ユークリッド幾何学はギリシアがその発祥の地だが、ここでは哲学も生まれたといわれている。哲学というのは、その定義を簡単にすることは難しいが、一つの特徴としては、それ以前は神話的な物語として説明されていた世界の多くの事柄について、合理的な理由を見つけ出し、論理的に説明しようとしたと言えるのではないだろうか。哲学誕生以前の世界では、世界を説明する命題は宗教が与えたが、哲学はそれに疑問を提出し、合理的という論理によってその説明をしようとしたと考えられる。このような疑問がなぜギリシアで生まれたかという歴史的経緯は難しいと思うが、結果的にそうだったという観察は出来るのではないかと思う。万物は神が作ったという説明で安心していた人々の中に、それでは納得しない人間が出現し、最初の哲学者といわれるタレスのように、万物は水で出来ていると語る人間が出てきたのではないかと想像できる。タレスの偉大さは、万物の根源を説明する答えを求めたことにあるのではなく、自明だと思われていた事柄に異を唱え、合理的に考えて自分が納得するような答えを求めようとしたということにある。いつの時代においても、そのような発想をする人間は貴重な少数派になるものだと思う。タレスはおそらく自らの経験を反省して、生物の存在には水が欠かせないものであり、自分が知りうる存在のどこにでも水が発見されるという事実を見出したのだろう。この経験した世界がタレスの世界のすべてであり、その経験を合理的に説明する原理として、万物の根源に水を見たのではないかと思う。神話的世界の宗教では、人間に知り得ないような事柄というのはすべて神のなしたことと解釈され、昔からそう言われているからという理由で人々はその説明を信じただろう。それは合理的思考の対象になるものではなく、まさに宗教だからこそはじめに信じるという行為が来なければならないものだったと思われる。この自明性の影響というのはきわめて強いものではないかと思う。自明なものを疑うことがいかに難しいかは、共産主義思想の失敗に端的に見られるのではないかと思う。マルクスとエンゲルスが提唱した共産主義思想は徹底した合理的なものであったように思われる。しかし、それを受け取った多くの人は、それを合理的思考の対象として見るよりも、偉大な真理を信じるという態度で受け入れたように感じる。本来はその真理性を納得して信頼するべきであったのに、あまりにも偉大さの方が大きくて、自明な真理として人々の間に流通してしまった。その結果として、明らかに変だと思われるような論理的帰結であっても、それが論理的帰結であることから真理性が否定できなくなった。それでも、三浦つとむさんなどは、神話的になっていた当時のスターリンやレーニン・毛沢東などを批判して、その言説を合理的に受け取るべきだという警鐘を鳴らしていた。しかし、その三浦さんであっても、レーニンまでは疑うことが出来たが、マルクスやエンゲルスにまでさかのぼって疑うことは出来なかったという批判をされることがある。これは残念ながら批判としては正しいように思われる。それだけマルクスとエンゲルスが偉大であり、間違いが少なかった人だったと言えるのだと思うが、時代の限界から来る間違いはどこかにあったという発想がなければ、その真理性を信じる宗教に転化してしまうかもしれない。自明性を持った命題が公理的に作用している世界において、その自明性を持った命題を疑うことは、世界の境界を自覚させ、その外に出て世界を眺めるきっかけを与える。そしてそのことによって世界そのものを広げることが出来る。世界広げるための発想というのはおそらくそのようなものだろうと思われる。だがこの発想は、このように簡単に抽象的にまとめられるほど簡単なものではないような感じがする。三浦さんのように優れた人でさえも、後の時代の人から見るとやはり限界となる部分を乗り越えられなかったように見える部分がある。時代が変わって振り返ってみればその自明性の壁が分かるものの、時代のまっただ中にいるとその壁は疑問を提出することさえ難しい。どのようにしてそれを克服できるだろうか。かつて日本が戦争をしていた頃は極端な精神主義が自明な命題として君臨していた。そのおかしさは今の時代から過去を眺めれば容易に分かる。だがその当時にその世界のおかしさを理解した人は少なかった。国家こそが個人の人生にとって最重要なもので、国家のために働くことを目的とすれば、他のすべてを犠牲にしてもかまわないということが自明の命題として、その世界にはあった。この命題は今の時代にはない。それは敗戦という価値観の大転換をする事柄を経てそうなったのだが、三浦つとむさんなどは、戦争当時からその自明な命題は全く信じていなかった。これは当時の言葉で言えば、三浦さんは「非国民」ということになるのだが、そう言われたとしても揺るがないだけの自分に対する自身が三浦さんにはあったようだ。このような発想が世界を広げるためには必要だが、それはどのようにすれば身につくのか。内田樹さんがあるときに書いていたことだが、マルクスの優秀さに対して、マルクスがなぜあれほど賢かったかという理由を、エンゲルスはマルクスが天才だったからということに求めていたというものがあった。これは確かに説明としては成り立つかもしれないが、その説明は全く無内容なものになる。天才だったということは、なぜそうなったのかという理由を説明するものではなく、結果として優秀だったということを語っているに過ぎない。だから、マルクスの優秀さを天才だったということで説明すれば、マルクスは「優秀だったから優秀だった」というトートロジー(同語反復)を語っていることになってしまう。三浦さんの世界を広げる発想も、なぜそれが出来たかを説明するのに、三浦さんの優秀さを持ち出せば、それは他の人がまねの出来ることにはならなくなる。しかし、欲しいのは、そのような発送を可能にするための技術なのだ。三浦さんと同じくらいに優秀でなければ発想できないのであれば、大多数の凡人はその発想をあきらめなければならない。世界を広げる発想そのものを自分一人で作り上げることはかなりの優秀さが必要かもしれないが、誰かが発想したものを理解し、それが確かに世界を広げるものであることを納得して支持することが出来れば、それは多くの人にとって利益となるだろう。誰が優秀であるかを判断する技術というのは、誰にでも身につけることが出来るものにならないだろうか。今自民党総裁には5人の候補者が出ているが、彼らの内の誰が最も広い世界を見ることが出来ているだろうか。自分が利益を代表している狭い世界の判断しかできていないとすれば、そのような人間を日本全体のリーダーとして仰げば失敗をするだろう。誰が最も優秀であるかを判断する鍵はどこにあるか。彼らの見ている世界の全体像は果たして説明できるかどうか。また民主党の小沢さんと、これら自民党の総裁候補とを比べると、どちらの方がより広く・深く世界を認識しているだろうか。民主党にとっては、目先の選挙での勝利というものと、政権を担ったときの長期の日本の統治のプランとの整合性はどうなっているだろうか。その世界が今の時点で考えられ得るあらゆる可能性を含んだものになっていれば、その言説の信頼性は高まるだろう。普通の人々である庶民に、そのような判断が出来るだろうか。公教育という大衆教育が配慮すべき最重要な面は、このような判断力を持った大衆を作り出すことではないかと思う。世界を把握する命題の認識という面から、論理をどのようにして学ぶかということとあわせて考えてみたいものだと思う。誰がより広い・深い・正しい世界を見ているのか。それが判断できるような論理的能力を身につける学習を考えたい。
2008.09.18
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第388回のマル激では飯尾潤氏(政策研究大学院大学教授)をゲストに招いて、自民党政権の評価をしていた。その中で面白いと思ったのは、自民党政権には構造的な欠陥があるということだった。たとえば、自民党政権のもとでは赤字がふくらんでいくという現象が見られたのだが、それは与党というシステムの欠陥がもたらしたものであると飯尾さんは説明していた。自民党は長期にわたって政権党だったことによって、内閣における大臣職というものが、その専門的な能力によって指名されているということになっていなかった。大臣職は、当選回数によって、その功績に報いるために与えられるものとなっていった。当然のことながら大臣になったからといって、その省庁を指導し国家全体の利益の正当性を第一の基準にして判断するなどという能力を持つ人間が大臣になるということは稀だった。結果的に、官僚をコントロールして省庁の仕事をまっとうに進める大臣ではなく、官僚にコントロールされて、その省庁の利益を代表する存在となっていった。大臣がこのような存在になっていくことによって、実は各省庁がその力を恐れて意向を伺うような存在が、大臣ではなく「族議員」と呼ばれるようなある種の力を持った議員になっていった。この「族議員」というのは、省庁に不祥事があったときに責任をとる立場にはない。責任をとるのは大臣であり、「族議員」は、省庁に影響を与え、その決定に関与するにもかかわらず責任をとらなくてすむ。このような存在がその力を行使し、自らの望む方向に各省庁の動きをコントロールしようとすれば、国家全体の観点から考えるよりも個人のエゴからの視点で考えるようになるだろう。この与党体制は、エゴが横行するようになれば、それを押さえるような権力が見あたらないので偏った利益の配分が起こることになる。そして結果的に赤字がふくらみ一部の利益のために全体が損害を受けるということになる。この説明は論理的な結びつきがあるように感じられ、自民党が政権党になり、与党というシステムを続けている限りでは財政赤字は解消できないという結論になりそうな気がする。小泉さんは自民党をぶっ壊すといって登場したが、このようなシステムをこそ壊さなければ本当の意味での構造改革にならなかったのではないかと思う。現状を見ると、自民党の政治力は低下し、権力を持つ組織としての自民党は壊れたけれど、破滅への道を歩む元凶としてのシステムはそのまま残っているのではないかと思える。道路特定財源の問題は、明らかに一部の利益のために温存されたエゴのシステムのように見えるが、自民党政権ではこの改革が出来ていない。民主党については、自民党に比べてその能力が必ずしも高くないという批判があるものの、エゴのシステムについても、自民党に比べて弱いのではないかとも思えるので、とりあえず破滅への必然性を持つこのシステムに終止符を打つためだけにも政権交代という道を国民は選んだ方がいいのではないかと、僕は飯尾さんの説明を聞いてそう感じた。小泉さんでさえ壊せなかったこの与党というシステムは、これをうまく運用する能力のない民主党を与党にすることによって壊すきっかけがつかめるのではないだろうか。このシステムを早く壊すことが出来なければ、もはや取り返しのつかない破滅状態にならなければシステムの変換が出来ないという厳しい結果が出てしまうのではないかと思う。飯尾さんが指摘する自民党のシステムとしての欠陥のもう一つは、福田首相が辞任をしたくなった原因ともなったねじれ国会の処理についてのものだ。飯尾さんが語っていたのは、ねじれ国会を決して不正常なものとは考えていなかった。それは選挙の時期が違ったりするのであるから、そのときの状況の違いによって衆議院と参議院の多数派が違ってくるのは可能性として十分あり得ることであり、今まで自民党が両院の多数派を握っていたことがむしろ稀なことであると受け取った方がいいということだ。衆議院で多数派を占めている自民党は、そもそもが郵政民営化を巡っての議論の時に当選した議員が多数派を占めているものだ。確かにあのときの議論では、小泉さんの郵政における改革を国民は支持したが、その支持はその論点に関する支持であって、その後の国会で議論された様々な政策に対しても支持しているとは言えない。だから、本来は総選挙をやって、自民党が決定した様々な政策が国民に支持されているかを問わなければならないはずだった。それがなされなかったために、参議院選挙では自民党に対立する民主党に支持が集まったと解釈しなければならないだろう。ねじれの現象は、正当な支持を集めていない衆議院が無理な決定をしてきた結果が現れているだけなのだ。飯尾さんは、このねじれ国会の解決は、衆議院で正当な政策決定をして、それを総選挙で国民に問いかけることで、参議院が「何でも反対」という姿勢ではいられないようにすることだと説明していた。正しい政策をすることによって国民の支持を得ることが出来れば、それに対して参議院が反対するというのは簡単にはできなくなる。国民に支持されている政策に反対するということは、政治家として間違った行動であると国民に映ってしまうからだ。総選挙で、自らの政策が正しいということを問いかけることなく、郵政問題での選挙で得た圧倒的多数という数を頼りに強行採決などの方法でエゴを通すことが続けば、参議院で多数派を占める民主党が自民党の政策に反対しても、その理由が正当に成り立つ。このエゴを通すという無理を押し通そうとするのも、責任をとるべき人間が責任をとるシステムになっていない「与党体制」というものが大きな影響を与えているという指摘はなるほどと思えるものだ。今のねじれ体制は、民主党が衆議院でも多数を占めればねじれ自体は解消する。これは総選挙で自民党が負けるということだが、この負けは長い目で見れば大きな勝ちに転換できる負けになるとも飯尾さんは指摘する。今の自民党がだめであるということは、かなりの部分明らかになってしまったので、これ以上自民党に政権を任せておけないという空気はかなり広がっている。また自民党自体にこれを自力で何とかする能力は今のところありそうにない。だが今の日本の政治状況は、民主党が政権を担ったとしてもうまく運営していくのはかなり難しい。民主党自体も、国家全体の利益を第一に優先して、長期的な観点から利害を図るという能力を持った政治家が少ないように見えるからだ。民主党もまた、支持母体のエゴを代表するような政治家がたくさんいるように見える。自民党と同じような欠陥を民主党もまた持っているように思われる。民主党がこのような政党であれば、自民党としてはこの難しい状況の時に民主党に政権を渡して、民主党が明らかな失敗をしたときに復活できるように、自民党自体は欠陥を修正していくためにあえて政権を手放して下野した方がいいと飯尾さんは語っていた。将来の大きな勝ちのために、目先の小さな負けをあえて選ぶという賢さが必要だという指摘だ。しかし、今の自民党にはこのような発想は見られないようだ。かつての自民党はこのような発想が出来たという例として、飯尾さんは吉田茂首相の時のことをあげていた。吉田首相の時は、自民党は当時の社会党に政権を渡して、社会党が政権運営がうまくいかないのを見て、やはり自民党でなければ政権担当が出来ないのだというイメージを強く与えたという。それがあまりに強かったので、その後自民党以外の政党は政権担当が出来なくなってしまった、そういう体制がずっと続いたと飯尾さんは指摘していた。自民党の総裁選の論議を見ていても、そこに本質が語られていないという指摘は多い。議論しているように見えるだけの茶番だという評価がほとんどだ。この姿も、もはや自民党には今の状態を改善する能力がないのだということをさらけ出しているようだ。飯尾さんは、ごまかしという言葉を使っていたが、結局正しい日本の進路というのを示すことが出来ずに、目先の利益をごまかしてでも守りたいという、国家の政治という大きな問題を考える人間にはふさわしくない姿勢が政治家に蔓延しているのではないだろうか。原産地偽装問題に続いて、不良品とも言える汚染米が食用で売られていたという一連の問題も、目先の利益を得るためにごまかしをするという発想から生まれたもののように見える。この目先の利益は、不正がばれなければぼろもうけともいうべきものが得られるが、不正が明るみに出れば、すべての利益がゼロになるどころか、賠償責任などを考えれば、マイナスの利益になるようなものが長期的なものとしては見えてくるだろう。日本の各部署において、長期的な利益よりも目先の短期的な利益だけを見る指導者が増えているようだ。政治家の忍耐力のなさも、長期的な利益が見えないので、今の困難な状況が我慢できないのではないかとも感じる。このような時代において、指導者でない庶民はどのような期待を抱けばいいのだろうか。長期的な視点を持った優れた指導者の登場を待ち望むのが、とるべき方向だろうか。それは期待できる願望になるだろうか。小泉さんというのは人気の高い指導者ではあったが、その能力の大部分は、小泉さんが語っていることに注目させ、何かすばらしいことを言っているように見せかけるというエンタテイナーとしての部分に集中していた。何をやったかという結果を見ての検証をしてみると、小泉さんがやったことで日本が長期的な観点で良くなったように見えるものは何もない。その方向に行く可能性があった改革もあったものの、肝心の部分ではエゴを守る勢力がうまくその利益を守ったように見える。小泉さん以上に優れたように見える指導者というのは、今後期待することは難しいのではないかと感じる。その小泉さんが出来たのがあの程度のことであれば、現代日本というのは、もはや一人の指導者の正しい判断に期待するには、あまりにも複雑で難しい問題を抱えすぎているのではないかと思う。優れた指導者に判断をゆだねることはもはや期待できそうにない。だが、庶民がすべてのことに対して正しい判断を持つということはもっと期待できそうにない。指導者ですらすべての判断において、大きな観点から正しい判断を下すのは難しい。そうすると期待できることは何もなさそうに見えてくる。しかし、個々の判断がたとえ間違っていても、それをフィードバックして新たな判断に組み入れるシステムの構築は出来るのではないだろうか。もし判断が間違っていたときに、その判断がそのまますぐに反映するのではなく、一つのクッションが置かれ、その評価がフィードバックされるようなシステムが構築できないものかと思う。個人の判断はもはや絶対の信頼は出来ない。だから、それが間違いがあるかもしれないという前提で、間違いの影響が大きく出ないようなシステムを作らなければ、今の日本の政治状況が抱えている問題は解決できないのではないかと思う。かつて、テープレコーダーの録音をするときはボタンを二つ押さなければ録音できなかった。テープレコーダーでは、録音をすると、前に録音された音声は消えてしまう。だから、大事な録音を間違えて消してしまうということを防ぐために、録音の手順をわざわざ面倒にしていた。それによって間違いの可能性を下げようとしていた。このようなシステムの配慮によって、間違いの可能性を下げることが出来ないだろうか。誰かそのような発想をしている人がいないだろうか。探してみたいものだ。
2008.09.17
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「<事故米転売>太田農相、事態軽視?「じたばた騒いでない」」という9月12日20時14分配信の毎日新聞の記事によれば、太田農水相は「「(汚染米から検出されたメタミドホスは)低濃度で、人体への影響はないと自信をもって言える。だから、あまりじたばた騒いでいない」と言ったそうだ。これは、太田農水相が言った言葉でなければ、たとえば農薬の専門家が解説したものであれば、ある意味で安心を与える言葉になっただろう。だが、これを太田農水相が言えば、それは結果的に影響がないのだから責任はないのだという、責任逃れの言葉にしか聞こえないだろう。太田農水相がこのような発言をするというのは、政治家の責任というのをあまり自覚していないのだということを自らが語っているようなものになるだろう。農水省を監督するような立場にありながら、農水省が行ったミスを正しく追求できないことを伺わせるようなものだ。政治家としての資質を疑わざるを得ないと思う。このことから、以前の事務所費問題にしても、その責任の重さを自覚することは難しいのではないかと思われてしまうだろう。未だに説明責任を果たしていない。このようなことで話題になるよりも、まずは事務所費問題をきちんと説明することが大事だと思うのだが、それを国民も忘れずに注視していかなければならないだろう。さて、汚染米問題は、食品会社が悪質であることはたくさんの報道からはほぼ明らかで、それを見抜けなかった農水省の責任も問われている。どこに最も重い責任があるかは、明らかにしなければならない問題であり、再発防止のためには重要だと思われる。だが、その責任の根幹にあるシステムの問題があまり報道されていないのに違和感と疑問を感じる。大分県の教員採用において不正が発覚したとき、その採用試験の結果の採点の改ざんがあまりにも簡単にできることにマル激では宮台氏が驚いていた。誰もいない深夜に、パソコンを一人で扱ってその点数を改ざんしたらしいのだが、そのアクセス記録も残らず、何重ものパスワードで保護されているということもなかったらしい。もし不心得者がいたときには、その不正はいとも簡単に行えるようなシステムになっていたというのだ。つまり、そこで不正が行われないということは、ひとえに職員のモラルに依存していたというのだ。まさかそのような不正はしないだろうというような、根拠のない信頼だ。だが、現実には、不正をしようと思えば出来るというシステムでは、その不正はかなりの高い確率で、ほぼ必然的に引き起こされる。今度の汚染米問題でも、そのようなシステムの問題があるのではないかと感じていたのだが、それに関する報道がほとんど見あたらない。それはどのようなシステムかというと、汚染米を工業用に処理するというシステムだ。このシステム自体には一定の合理性はある。汚染された米であっても、食用には使えないかもしれないが工業用に糊として加工するなら十分使えるからだ。ちょうど教員採用試験の採点が必要なように、工業用に転売すること自体にはそれが存在する合理性はある。問題は、必要だから存在しているシステムが、その目的を正当に果たしていないという点だ。僕が疑問を感じていたのは、工業用に使用する目的で処理された汚染米が、どうして食品を扱う会社に売られたかということだ。その食品を扱う三笠フーズという会社は、糊を作る事業もしていたのだろうか。そうであれば販売に合理性は出てくるものの、もし三笠フーズ自体が糊を作っているのでなければ、その汚染米は、どこかの糊製造業者に転売されなければ処理できないだろう。糊製造業者は、直接自分で汚染米を購入するのではなく、三笠フーズなどという会社を媒介して買う合理性というものが果たしてあるのだろうか。三笠フーズという会社が汚染米を、糊を作るという工業用に処理する目的で購入することの合理性というものがどこにも語られていない。これが僕の論理的な疑問だ。このことがマスコミのどこにも語られていないというのは、そもそも僕と同じような疑問を持つ人間が少ないのを意味しているのだろうか。疑問自体を語ったものも僕が見つけた限りでは二つだけだ。一つは日経新聞の9月10日の社説「「事故米」、食の安全意識が低すぎる」だ。ここでは「そもそも工業用のコメを食品会社に売っていたこと自体が疑問だ。見かけが普通のコメと変わらないなら、不届きな業者が食用に転売する可能性は十分予想できたのではないか。工業用に限るなら最初からそうした企業に売ればいい。遅ればせながら販売方法の見直しなどを検討しているようだが、事故米を購入した他の業者に不正はなかったのかも徹底糾明してもらいたい。」と書かれている。しかし、この疑問に答える記事はまだ見つけていない。どこかに報道されているのだろうか。どうして「工業用のコメを食品会社に売っていたのか?」。信濃毎日新聞の9月11日の社説「汚染米転売 農水省はお粗末すぎる」では「三笠フーズは事故米を大量に買い付けた。農水省の“お得意さま”ともいうべき存在だ。だが工業用のコメを食品メーカーが大量に買うこと自体、不自然である」と書かれている。この不自然は説明される必要があるだろう。理由を想像させる記述はある。それは北海道新聞の9月13日の社説「汚染米転売 農水省の責任は重大だ」の中にある「輸入米は全量がさばけるわけでなく、膨大な在庫の保管費用が重荷になる。そこから出てくる事故米は農水省も扱いに困るのだろう。 食用に回せない事故米を買ってくれる業者は都合のいい存在だ。」という記述だ。そもそも、輸入米という存在自体が、農水相にとっては都合の悪い存在で、あって欲しくないものらしい。これは「1993年のウルグアイ・ラウンド合意で、国産米を保護する代わりに輸入を義務付けられたミニマムアクセス米だ」そうだ。日本は米に関しては自給できていて、実際には輸入する必要はない。しかし、国際的な合意で輸入が義務づけられている。その余った米としての輸入米に、さらに余分な汚染米が見つかっているというのが現状のようだ。これを処理してくれる業者であれば、たとえ不自然であろうとも、工業用の糊製造業者でなく食品会社であっても売っていたというのが実情だったようだ。つまり、食品会社が汚染米を買う合理性というのは、農水省の側にあったということだ。農水省にとっては保管と処理に金のかかる汚染米を金を出して引き取ってくれる会社であれば、どのような会社であろうともその存在はありがたいものであり合理性があるということになる。だが、買い入れる会社の方に合理性があるのかという問題を考えるとこれが奇妙なものになる。もし合理性があるとすれば、買い入れた汚染米を工業用に転売してももうけが出るという合理性がなければ買う必然性は出てこないだろう。そして、もし転売してももうかるなら、工業用糊の製造業者が、なぜ直接買い入れないかという疑問も生じる。合理性の連鎖が築けないのだ。むしろ矛盾の連鎖が目についてしまう。このような疑問の中で、農水省はその検査の甘さも指摘されているが、農水省の側に、買ってもらうことの合理性があるのなら、その検査の甘さもそのメリットから論理的に導かれてしまいそうな気もする。信濃毎日新聞の社説では、「農水省は過去5年間に100回近く工場に立ち入り調査してきた。不正を指摘する内部告発は昨年1月に農水省に届いていた。にもかかわらず突き止められなかった。 立ち入り調査は抜き打ちでなく、事前に日時を伝えていた。農水省は不正を見抜く気が初めからなかったのではないか。そう疑いたくもなる。」という記述が見られる。農水省が不正を見抜く気がなかったのは、三笠フーズが余計な米である汚染米を買い続けてくれることを願っていたからだと考えると一定の合理性を見つけることが出来る。今回の不正な転売の報道を結果的に見れば、三笠フーズにとっての合理性は、安く仕入れた汚染米を高く売ることが出来るということで、その大きな利益が稼げるということで考えることが出来る。そのようなことがなければ、わざわざ汚染米を買うような食品業者はいないはずだ。だが、これはその利害をあまりに短絡的に考えた発想ではないかと思える。食品会社が汚染米を買うことの不合理・不自然は、ちょっと考えれば誰でも思いつく。そうしたとき、今回も内部告発によってこの不正が発覚したそうだが、誰かが告発すればこの不正はすべて明るみに出てしまう。隠し通せるものではない。そのときには、会社がつぶれるほどの打撃を受けるのは必至だ。短期的には、その価格差で大きなもうけを得たとしても、長期的にはむしろ損害の方が大きいと判断すべきだろう。実際多くの常識ある人は、そのような危険を冒してまでも不正な利益を稼ごうとはしない。だから多くの人は、まさかそんなことまではするまいと思っているだろう。だが現代社会というのは、「まさかそんなこと」というものが実際に起こってしまう。これは不心得者の倫理的な問題だろうか。僕には、どうもシステムの問題の方が大きいのではないかという感じがしている。今は沈静化している感じがするが、狂牛病の問題の時も、それが発症するのは早くても15年、遅ければ20年から30年は発症しないといわれてきた。だから、年配の人であれば、たとえ狂牛病の疑いがあっても発症せずに死んでしまう可能性が高い。それが問題になるにしてもまだずっと先のことだ。だから、今稼げるなら稼いでしまえというような風潮をそこに感じる。アメリカ産牛肉の危険性は、あと20年たったときに深刻になるかもしれない。それまではどうせ発覚しないだろうと思って行動する人間がいても不思議はない時代になった。三笠フーズの問題も、汚染米で健康被害が実際に起こったというニュースはまだない。それが出てこないならば、汚染米であることを隠すことが出来れば何とかなると思う人間が増えてきたのではないかとも思える。耐震偽装問題の時も感じたのだが、実際に地震で倒壊した建物がまだないので、実際に何かが起きるまではごまかせるという風潮がどうも現代日本では多いような気がする。このような時代背景が、今回の汚染米問題を引き起こすシステムの問題になっていないだろうか。システムの問題の解決を図らなければ、三笠フーズをつぶしただけではこの問題の本当の解決にならないのではないかと思う。自民党総裁選の立候補者は、この問題をどう考えるのだろうか。この問題を、三笠フーズという会社のモラルの問題だと短絡的に捉えるなら、それだけでその候補者の政治センスを僕は疑いたくなるだろう。どこかで語っているならぜひ聞きたいと思うものだ。
2008.09.13
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「世界」という言葉は非常に抽象的でありながら日常的にもよく使われる平凡な言葉だ。だがそれは高度に抽象的なので、それがどのような過程を経て具体的属性が捨象されているかに様々な違いが生じるだろう。ある人が考える「世界」と他の人が考える「世界」が概念において全く一致するということは少ないに違いない。自分が今考えている「世界」というものが、いったいどのようなものであるかを明確にするような表現がどの程度出来るだろうか。自分が考えている「世界」はどうやらこのようなものらしいということを表現してみることで、それに至る思考や論理が見えてくるようにならないだろうかと思う。野矢茂樹さんのウィトゲンシュタインの解説を読んでいると、論理というものはそれについて直接語ることは出来ず、論理を使って思考したものを述べることによって示すことが出来るだけだという指摘がある。論理の正しさは論理によって説明することが出来ない。それは循環した説明になってしまう。論理的に正しいということは合理的に考えたことだと言える。だが、合理的な思考というのは論理に従った思考のことを指す。我々は論理の正しさをア・プリオリに認めなければならないのではないかとも思える。かつての僕は、論理の正しさを何らかの現実との結びつきで語ることが出来ないだろうかということを考えていた。現実の存在の反映として、その存在構造が論理として捉えられるのだという考えだ。しかし、存在の多様性は、論理をそれと結びつけてしまうと、存在と無関係に成立するように見える命題論理の正しさが説明しきれない。野矢さんは、論理の正しさは言葉の使い方の正しさの判断だと語っている。しかしそれが何故正しいかは、言葉の使い方の正しさを、言葉で語るという自己言及的な循環したものがまた見えてくる。論理そのものの正しさはやはり語り得ないものになるのだろうか。「世界」をどう捉えるかということは言葉によって表現できる。そしてそれが正しいかどうかをおそらく判断できるのではないかとも感じる。そうすると、それが正しいと判断できるとき、そこには正しい論理が示されているのではないかと思う。そのような論理を示すような言い方で「世界」について語ることが出来ないかと思う。まず「世界」と呼ばれるものは、自分の周りの存在の全体像を把握した言い方であるように僕は考える。存在の一部を語ったときはもはや「世界」という言い方をしないのではないかと思う。「世界」とは人間が認識することの総体を語ったものとしてその意味が定義されているのではないかと思う。そうすると、この「世界」は認識する人間によって違ったものとして現れてくる。すべてのものが見えてくる人間というのはいないからだ。ある存在を見たときに、その存在の属性の中で人間には見えないものが存在する。それは肉体的な限界というものもあるし、内田樹さんが紹介していたソシュールの指摘にもあるように、語彙を持たない・すなわち概念を持たない対象はそれが見えてこないということがある。「devilfish」という語彙を持たない日本人には、その存在が見えてこない。日本人の「世界」にはそのような存在が入ってこない。そうすると「世界」の認識の一つの特徴は、それが認識する個人の認識能力に関連した「私の世界」としてまず登場するという考え方だ。これは正しいように僕には感じられる。だが、「世界」はこの「私の世界」だけだとする独我論的な判断は、このような単純な現象だけから導くには論理的には弱い感じもする。「私の世界」としてまず登場する「世界」が、どのようにして共通了解の一般化された「世界」へと結びついていくのか。その論理的な展開を考えなければならない。このとき「私の世界」を集合的に考えることがその一般化の論理展開を助けるのではないかと思う。「世界」を集合として捉えるということは、それが他者の「私の世界」との比較を可能にする。集合として同じかどうかは、その外延(どのような要素が集まって集合を構成しているか)ということで判断できるからだ。有限な存在である個人は、その「世界」という集合も有限集合にとどまるだろう。この集合化された「世界」をすべて寄せ集めてまた集合を構成すれば、その「世界」は、誰かの「私の世界」に属する要素を持ったものの全体として捉えられる。これが個人とは違う、人間一般における「世界」だと定義すれば、「世界」という対象をレベルによって捉えることになるだろう。これは、「世界」は「私の世界」だけだとする独我論的な考えよりも論理的に正しいように見える。さて、問題は「世界」をこのように定義して捉えたからといって、それが本当に全体像としてつかめるかということが解決できるかどうかを見ることだ。それが出来なければ「世界」という言葉は空虚な抽象であって、結局は周りにある具体的な何かを指しているだけとしか言えないかもしれない。「世界」は全体像として抽象できるだろうか。このとき、ウィトゲンシュタイン的な「世界」の要素として「事実」という命題の集合を考えるということが役に立つような気がする。ウィトゲンシュタインの「世界」は、物という物質的存在を要素に持つものではなく、「事実」という命題を要素に持つ集合になる。命題が要素であるということは、それは表現の集合であり、具体的には言語の集まりだという考えになる。これは論理的には、このような考えしかないという決定的なものではないと思う。「世界」を物の集まりとして捉える考え方もあってもいいだろう。私に見えている物こそが「世界」だという考え方もあるかもしれない。しかし、そのような「世界」は、思考の内容として論理の展開に関しては発展的な考え方をもたらしてくれない。静止した今という瞬間の内容を語ることが出来るだけだ。物の存在だけでは、過去から未来への時間の流れを捉えることが出来ない。また、そのものがどのような関係にあるかということは存在しているだけでは表現できない。構造は物質の陰に隠れているものであって、直接目で見ることが出来ない。それに対し、「世界」を命題として捉えるウィトゲンシュタインの考えは、「世界」を論理的に捉えるということを可能にする。命題として捉えられた「世界」は、その命題をさらに結合することによって新たな「世界」の広がりを思考によって展開できる。それは、今直接目には見えていないけれども、可能性として「見えるかもしれない」という思考の展開をさせてくれる。さらに、命題として捉えられた「世界」は、その命題を部分に解体して「対象」という命題の構成要素を取り出すことが出来る。そして、その対象がさらに組み合わされて新たな命題としての可能性を開く。命題こそが「世界」だというとらえ方は、思考の展開という方向での「世界」の解釈をもたらす。思考の限界を考察しようとしたウィトゲンシュタインにふさわしい「世界」の定義になるだろう。僕も自分が見ている「私の世界」をどのくらい正しく評価できるかということに関心が強い。だから、僕の「世界」もやはり命題の集まりとして定義することがこの目的にかなうだろうと思う。自分の「世界」の命題の集まりが、果たして矛盾を引き起こすようなものが入り込んでいないだろうか。もし矛盾を引き起こすような判断があったら、それを解釈し直すことで矛盾を回避できるだろうかというようなことに関心が強い。このように考えた一般論としての抽象的な「世界」は、実際の具体的な日常では、そこに現れる様々な「事実」をどう解釈して評価するかという点でどのような影響を与えるだろうか。日々新たなことを発見し、学ぶことで「私の世界」はその命題を増やしていく。その命題が、もしもかつての命題と矛盾を起こしそうなときは、「私の世界」を安定させるために、その整合性を図るようになるだろう。たとえば、かつての僕はどちらかというと権力に対しては、それが民衆一般を弾圧するものであるという先入観を表現する命題が「世界」の中にあったようだ。しかし、年をとったせいもあるが、かつて不自由を感じたいろいろな規制に関して、それが何故必要なのかという理由を説明する命題も自分の「世界」の中には増えてきた。権力というのは、すべてが悪なのではなく、社会の秩序を安定させ、社会を守るために働く部分があることが命題として認識の中に入ってきている。かつての「権力は悪だ」という単純な命題は「世界」の中から消えたと言ってもいいだろう。これからは、どのような条件の時に権力は弾圧の力として働くかという、より対象に切り込んだ命題を求めるようになるだろう。マル激の中でよく語られるニュースで、沖縄密約事件と呼ばれるものがある。これは、かつての日本政府という権力の嘘が、アメリカの公文書によって暴かれたという命題を僕の「世界」の中に生じさせた。この命題の中で不思議だったのは、日本政府とともに、アメリカも嘘をついていた共犯者なのだが、そのアメリカはちゃんとその嘘を公開しているということだった。嘘だということは自分にとって不利益なのに、何故それをわざわざ公開して批判を呼び起こすようなまねをするのだろうか。事実としてこの命題が「世界」の中に入ってきたとしても、この疑問が解消できなければ、自分の「世界」の中での矛盾は解消されない。これは宮台氏が語っていたことだが、政治的判断というのは「嘘も方便」というものが入り込んでくるということだ。政治的判断としては、嘘が正しいというものがあり得るという論理的な可能性を語ることが出来る。アメリカは、沖縄返還の際に日本との密約があって、それをたとえ隠したとしても、アメリカの国家にとってそれが利益となるのであれば嘘をつくだけの理由を持つことが出来る。それがたとえ嘘であっても、政治的にはそれが正しいという判断をして動くことが出来る。それを支えるのは、政治家が個人的な利益で動いているのではなく、国家の利益のために行動したのだと言えるかということの証明が出来るということだ。アメリカで公文書が公開されることが義務づけられているのは、どのような行動をとるものであれ、公的な行動ではそれに理由があれば理解が得られるという原則があるからではないかと思う。むしろ、公開されずに密約がばれてしまえば、それにどのような理由がつけられようとも、それが公開されずに秘密にされていたということで不正だという判断をされるのではないだろうか。それが不正でなければむしろ積極的に公開した方がいいとも言えるのではないかと思う。嘘であることが絶対的に不利益であれば、それを公開することに論理的な矛盾が生じるが、そうでない原則があれば公開そのものは決して矛盾を引き起こさない。それに対して、日本ではアメリカで公文書があるにもかかわらず、未だにそれを否定するという矛盾した「世界」を作っている。この矛盾は解消される必要がある。形式論理的な矛盾だからだ。この矛盾を放置したままでいれば、政治的には大きな不利益を招くのではないかと思う。アメリカでは、たとえ嘘があったとしてもそれが国家の利益を守るためであれば、むしろその嘘が賞賛されることもあり得る。それが日本では公開できないということであれば、その嘘は国家の利益をもたらすような嘘ではなかったということを自らが語ってしまうことにならないだろうか。国家の利益ではなく、ある個人の・あるいはある組織のエゴとしての利益だからそれはどこまでも秘密にされなければならないのではないか。そうすると、しらを切り続けることで、実は政治家が国家の利益のために働いていないのだという命題を「世界」の中に付け加えているのではないかとも思える。この「世界」の矛盾は解消されるべきだろう。政治の信頼を取り戻すためにも。沖縄の密約を正しく評価して、責任をとるべきは責任をとらせないとならないだろう。そうでなければ、権力さえあれば嘘も許されるという、やりたい放題だという命題が日本人の「世界」には書き込まれることになる。このような「世界」は修正されるべきだろう。
2008.09.11
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山本一太氏が総裁選立候補を断念したというニュースがあった。残念なことだ。立候補に必要な20人の推薦人が集まらなかったという。以前に河野太郎氏が立候補を表明したときも20人の推薦人が集まらずに立候補そのものが出来なかった。そして、河野氏の時には、立候補が出来なかったことによってその主張をマスコミが取り上げることがなかった。今回の山本氏の場合もその二の舞になるのではないかという可能性が高いので残念だ。自民党の総裁選が、単なるパフォーマンスではなく有意義な論戦を展開してくれるのではないかというわずかな期待が裏切られるのではないかという落胆を感じる。果たして他の候補だけで、現在懸案となっている本質的な問題が議論に上るだろうか。本質を論じれば、そこには利害の衝突が鮮明に現れる。そのような議論において、いろいろな立場から推薦された人間たちが、その立場を越えて本質を議論できるかどうかに疑問を感じてしまう。河野氏のように、はじめから特定の立場ではない、大きな観点から物事を発想する人間が議論に加わる必要があったのではないかと思う。河野氏がブログで書いていたように、道路特定財源の一般化という問題がどのように総裁選の議論に登場するかに注目していこう。それが全く登場しないようであれば、そこに利害を持っている誰かの意向が、それを議論しない方向に働いたのだと解釈するしかないだろう。果たしてどうなるであろうか。山本一太氏の立候補断念で自民党総裁選の報道がつまらない方向に行ってしまいそうな感じがするが、この報道が目につくような政治パフォーマンスを煽っているように見える中で、そのほかの注目していた事柄が全く報道されなくなってしまった。太田誠一氏の事務所費の問題はどうなったのだろうか。太田氏の説明では全く不十分であることが共通の理解ではなかったのだろうか。太田氏の説明責任を追及するニュースはもはや見られなくなった。このままこの件はうやむやの内に消されていくのだろうか。福田首相が辞任表明した今となっては、福田首相の任命責任を云々する声も出にくくなっているが、派閥の力学によって選ばれたのではないかという太田農水相は、福田首相の指導力の問題とともに、政権を途中で放り出したことの原因の一つではないかとも思われる。また、太田農水相が入閣するに際しては、麻生氏の影響力というものがあったという記事もどこかで見かけた覚えがある。太田氏と麻生氏の関係というものも、今度の総裁選に絡むだけに重要なものではないかと思う。全く関係がないというのであればそのような報道がされるべきだと思うし、何らかの関係があるのなら、麻生氏の政治センスというものを問う一つの問題となるのではないだろうか。民主党を離党した二人の議員についての続報も見られなくなった。論理的には議員辞職をするのが当然だと思うのだが、まだそのような報道はない。二人の議員は参議院議員だけに、たとえ解散総選挙となっても自動的に議席を失うわけではない。今でも議員をやり続ける根拠について、この二人の議員は説明責任があると思うのだが、マスコミは何故それを追及しないのだろうか。議員を続けることに、いったい論理的に正当な理由がつけられるのだろうか。マスコミは目の前に人目をひくようなニュースがあれば、商業原理(売れるニュース・視聴率を稼げるニュースに飛びつく)からそちらの方ばかりを報道するということがあるのは論理的な理解が出来る。しかし、それはマスコミがニュースを売って商売をしている資本主義的な会社であることを示していることになるのであって、そこにはジャーナリズムとしての本質はどこにもないことをさらけ出していることになってしまっている。それは正しい判断をしたい人間には不利益となっている。重要なニュースが、マスコミでは得られないのであれば、どこから得られるかを捜さなければならないだろう。神保哲生・宮台真司両氏のマル激トークオンデマンドでは本編の議論の前にその週のニュースを取り上げて解説するコーナーが出来たが、そこで語られているニュースは、派手で人目をひくことを第一に考えられているものではなく、ジャーナリズムの視点から重要だと思われるものを優先的に取り上げている。だから、マスコミ報道ではほとんど触れられていない点を細かく解説するときもある。このようなニュースの取り上げ方をするところをさらに見つけたいものだと思う。そして、それがマスコミをしのぐほど大きなものとなって人々が知るようになれば、見せかけだけの報道は駆逐されていくだろう。果たして見せかけだけのマスコミ報道に、少しでも本質を垣間見るだけのニュースが登場してくるだろうか。あまり期待は出来ないが注視していくことにしよう。今マスコミが夢中になっている自民党総裁選にどのようなニュースが登場してくるかを見ることで、その本質を考えることが出来るかもしれない。本質的に大事なことを取り上げないことが、自民党総裁選の本質であるなら、それは全く国民の生活とはかけ離れたものになるだろう。マスコミが夢中になっている報道に関しては、大相撲の大麻疑惑というものがあるが、これにはちょっと変な違和感を僕は感じている。確かに検査では陽性反応というものが出ているので、いかにも大麻を吸引したということが事実のように報道されているが、警察の家宅捜査では何も出てこなかったという報道も一方ではなされている。証拠不十分ではないかという気がするのだが、そのような議論はどこにも出てこない。もしも日常的に吸引していたのであれば、すでに解雇された力士のように何かが証拠として出てくるはずであるし、少なくとも痕跡が発見できるだろう。ドーピング検査で発見されるような状態で、実際の大麻自体はうまく処分したのだと考えるのは、どうも論理的にすっきりしない。もし大麻吸引が事実で、その結果として検査で発覚したのであれば、そのような不用意な態度でいれば、何らかの痕跡がその生活する場から発見されてもいいと思うのだが、その報道は全くない。検査で発覚した以上大麻吸引は事実であるという前提で事が運ばれている。大麻吸引ということがどれほど重い罪に値するかということにも議論の余地があるそうだ。解雇という重罰に値するかという議論だ。反省してやり直す機会を与えてもいいのではないかということは考えられないのだろうか。大麻はたばこほどの常用性がないという意見もあるそうだ。センセーショナルに報道されたので引っ込みがつかないということから重罰化しているのであれば、何とも気の毒なことだと思う。この一度の失敗が、相撲界でのすべてを失うに値するほどの罪であるかは議論の余地があるのではないだろうか。検査によって陽性反応が出た力士については、それがえん罪である可能性は本当にないのだろうか。また、家宅捜索によって何も出てこなかったのであるから、それはもしやっていたとしても日常的なものではなく、たまたまそのときだけだったかもしれない。しかし、今の状況であれば、発覚すれば解雇される。そのようなときに、あくまでも否定するのは罰が重いだけにそうしたくなる心理は理解できる。解雇という重罰でなければ、その失敗を取り返すだけの機会が与えられるなら、もし本当にそのようなことをしていたのであっても素直に反省することも出来たのではないかと思う。いずれにしても、相撲界を叩くだけのマスコミの報道には、売るためにセンセーショナルに煽るという姿勢を見てしまう。もっと冷静に、本質的な報道がどこかにないものかと思う。マスコミが語ることには注視をするが、それを鵜呑みにするようにはしないで、ほとんどを疑ってかかるような、そのような先入観を持って報道を見る必要があるのではないかと思う。
2008.09.09
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民主党の代表選挙が小沢氏の対抗がなく、無投票で当選が決まりそうになったとき、マル激の中で宮台氏が元代表の前原氏に立候補を促したという話をしていた。それは形だけでも対立候補を出して民主主義の形態をとっているように見せるというパフォーマンスとしての立候補というものではなかった。民主党がどんな政党であるかを、有権者の前に明らかにするために、意見表明を広く知らしめる機会としてそれを利用すべきだという理由からのものだった。宮台氏の提言は、前原氏個人の利益のためというものではなく、小沢氏の無投票当選で、民主党が具体的にどのような政策を持っている政党であるかが見えにくくなった時にこそ、それを明確に示すために強い主張を持っている人間が立候補すべきというものだった。それは、前原氏個人の主張が民主党の主張とイコールであるというわけではない。だが前原氏が強く主張することで、対立候補がその主張に答えなければならない義務が生じる。それを通じて民主党という政党が本来どのような政党であるかが明らかになることが重要なのだという考え方をしていたように感じた。長い目で見れば、それが民主党の利益になり、ひいては民主党で中心をしめる人間としての前原氏にとっても利益となるだろうという計算だ。結果的には民主党の代表選は誰も小沢氏に対立する候補が出てこなかった。宮台氏はこれをたいへん残念なこととして捉えていたようだった。せめて小沢氏が代表として民主党がどのような政党であるかを明らかにするような分かりやすいマニフェストを出してくれることを願うだけだ。党内の融和を優先するあまり、はっきりしない曖昧な言葉遣いでマニフェストをまとめるようであれば、派閥に遠慮して明確な政策を打ち出せなかった福田内閣とどこが違うかという批判を浴びてしまうだろう。さて、福田首相の辞任による自民党総裁選は、民主党の代表選と違って候補者が乱立するものとなった。これは、様々な主張が戦わされて、新生自民党がどのような政党になるかが明確になるのであれば、民主党の代表選の時に宮台氏が提言していたことと同じことが、皮肉なことに自民党の総裁選で実現することになる。しかし果たしてそのようになるかは、少しの期待とかなり大きな危惧を同時に感じるところがある。この立候補者の乱立は、単なる選挙用のパフォーマンスに過ぎないのではないかと感じるところもあるし、党内のまとまりがない・すなわち政党としての独自性がないから候補者が乱立するのだとも言えるからだ。それぞれが「族議員」といわれていた時代の一部の利益を代表しているだけではないかという危惧もある。日本の国全体のリーダーとしての見解と能力を持っている人間が果たして当選してくるのだろうか。2代も続けてその資質を疑われるような末路を迎えた自民党のリーダーにそのような資質を持った人間がまだ残っているだろうか。少しの期待を抱かせる候補者は、若手グループの代表としての山本一太氏だ。河野太郎氏の9月6日のブログのエントリー「総裁選挙」によれば「今回の総裁選挙で、答えを出さなければならない課題について、私は、三十回の会合を重ねてきた「プロジェクトJ」という勉強会の仲間で積み上げてきた主張を、そのグループの代表の山本一太参議院議員を通じて、訴えていきたいと思っています。その訴えを、国民の皆様に聞いていただき、皆様の支持を得られるならば、皆様を通じて国会議員の支持が集められるはずだと思います。今回の山本一太の主張は、* 国会議員の定数を、衆参両院とも四年以内に半減する。* 道路予算を1兆円削減し、年金、医療、介護、子育て支援、教育に重点配賦する。* 消費税を財源とする基礎年金を導入し、二階建て部分は積み上げ方式にする。* 医療保険制度を一本化し、同じ所得なら職業を問わず同じ負担にする。* アフガニスタンの安定化と再建のために、インド洋上の給油など、日本は国際的な役割を果たす。山本一太に勝算がどれぐらいあるかと問われれば、ゼロではないかもしれないが大きくはないと言わざるを得ません。しかし、大事なのは勝ち負けではなく、こうした議論を総裁選挙のテーブルの上にのせ、自民党としての方向性を決めていくことだと思います。」と語られている。河野氏は、「福田首相の辞任により、政策的に懸念されるものの一つに、道路特定財源の一般財源化の問題があります」と冒頭で語っている。この問題は、利害が大きく絡んでくるものなので、自民党内でも賛成・反対が明確に決まらない恐れがある問題だ。それを曖昧なままに過ごさせてはいけないという主張をしている。これを総裁選での争点にすれば、対立候補はそれを避けて曖昧な答えをすることが出来なくなるので、山本一太氏には、是非このことを争点にしてもらいたいと思う。河野氏は、「1人の候補者がはっきりとした主張をすることによって、候補者全員が、質問に対してぼかした答えをすることができなくなります。「道路特定財源は一般財源化するが必要な道路は造る」とはどういうことなのでしょうか。その答えで許すのではなく、もっと踏み込んだ意思を明確する議論をやらなければなりません。」というふうに語っている。総裁選の議論が、このような方向に進むなら、この総裁選は単なるパフォーマンスではなく、日本がどのような路線で進んでいくかということを示すことが出来るような有意義なものになるだろう。果たして河野氏が語っているような方向へ進むのかどうか、それが少しの期待を込められる今度の自民党総裁選だ。そして、そうなれば立候補者の乱立も意義のあるものとなるだろう。だが前々回の総裁選では、河野氏自身がこのような志を持って年金問題を争点に掲げて立候補したにもかかわらず、総裁選はそのような議論が全くないままに安倍氏の当選が気分だけで決まってしまった。まさにパフォーマンスだけで、何となく人気を盛り上げただけの総裁選で終わった。その結果として安倍氏の政権放り出しが帰結していると言っても過言ではないような気がする。前回の福田氏の総裁就任に関しても、2007年09月24日の高知新聞社説「【福田新総裁】 派閥の論理が強すぎた」には次のように書かれていた。「総裁選に入っても福田氏の主張は具体性が乏しかった。キャッチフレーズ「自立と共生」を言い違えることがあったし、年金、消費税、財政再建、都市と地方の格差是正など主要政策についても踏み込んだ発言は少なかった。単に準備不足のせいなのか、それとも他の要素が絡んでいるのか。この点は福田政治を見極める上で重要なポイントとなる。」総裁候補の主張が、前回と同じように曖昧なままであればこの立候補者の乱立は単なるパフォーマンス以上のものではないということがさらけ出されてしまうだろう。2代続けてこのような情けない結果になった首相に対して、自民党に政権担当能力がもはやないのではないかという厳しい評価もある。中日新聞の社説では「福田退陣自民総裁選びへ 野党に委ね出直しが筋」というタイトルで、「首相退陣表明を受け自民党の後継総裁選びが活発化した。「表紙」を変え局面打開をもくろむ。その前に自問すべきだ。政権担当の資格はあるのか、と。」「一年前の安倍晋三前首相の退陣も唐突だった。このときも幹事長の麻生氏が手を挙げたが、ほとんどの派閥が雪崩を打って福田氏を支援した。政策を吟味することなくポストばかりに関心を持って。」「けじめや反省はあるのか。「ポスト福田」争いに党をあげて熱中する姿からは感じ取れない。」という厳しい指摘をしている。この社説では、「まともな論戦なしに有権者の歓心を買うショーになるとしたら、ひたすら政権にしがみつくことだけを目的にした背信行為、と内外に受け取られることを覚悟してもらいたい」と付け加えている。これは我々日本人全体がまさに注意しておかなければならないことだろう。まともな論戦をしていないのに、単なるパフォーマンスに目をくらまされて、ご祝儀支持率とでも言えるような支持率のアップが見られるようなら、我々自身の政治意識の低さを深く反省しなければならないだろう。「自民党総裁選 活発な政策論争を期待する」という好意的なタイトルがついている読売新聞の社説でも、「議論すべき課題は多い」と指摘して「麻生氏はかねて、小泉内閣以来の構造改革路線の軌道修正を主張し、財政出動による地方経済の活性化などにも前向きだ。2011年度に基礎的財政収支を黒字化する財政健全化目標の先送りもあり得るとの考えを示している。 これに対し、党内には、財政規律を重視し赤字国債増発などに反対する議員や、小泉改革路線の堅持を求める中川秀直・元幹事長らのグループなどがある。 経済財政運営を巡る路線論争は決着していない。 麻生氏は今年2月、基礎年金の財源を全額税方式とし、そのために消費税率を10%に引き上げる案を雑誌に発表した。税方式の可否は別としても、安定した社会保障制度を構築するために、消費税論議は避けては通れない。 外交でも、政権交代期の米国や五輪後の中国との関係をどう調整していくのか。北朝鮮の核、拉致問題への対処能力も問われる。 海上自衛隊によるインド洋での給油活動については、国際社会の信頼を損なわないために、継続方針を明確にすべきである。 憲法や教育など、国家の基本にかかわる問題も忘れてはならない。集団的自衛権を含め、福田政権で後景に退いていたテーマも真正面から取り上げるべきだ。」と、様々な課題を挙げている。読売の主張は、どちらかというと政府与党よりの印象が強いが、その読売でもこのような課題が達成できなければ、やはり自民党の政権担当能力に疑問を提出せざるを得ないのではないかと思う。少しの期待が本当に起こるとすれば、好意的に見ているものでさえも、これだけの課題を挙げているということを自民党は真摯に受け取るべきだろうと思う。総裁候補の論戦がどのような方向に行くかに注目していたいと思う。
2008.09.08
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渡辺秀央、大江康弘両参院議員が離党届を提出し新党「改革クラブ」を結成したニュースが報じられたのは8月の終わり頃だったが、続報として議員辞職したというニュースは未だに報じられていない。これに対して、民主党の小沢一郎代表は1日の記者会見で「「比例票は党に投じられたものだ。党籍を失ったときに、その身分を失うのが論理的には当然だ」と述べ、渡辺氏らが党を除籍(除名)されれば議員辞職すべきだとの考えを示した」というニュースがあった。この「論理的には当然だ」という見解に僕は賛成する。だが当の渡辺氏は「「民主党にはお世話になったし、私も民主党国会議員を生み出す役割を果たしてきた。けじめをつけるという県連の立場も分かる」と語ったが、議員辞職については「必要性がない」と否定した」そうだ。「論理的には当然だ」と思われることに反対し、「必要性がない」という判断をしている。これは果たして正しいのだろうか。ニュースでは、これ以上の説明が報じられていないので、「必要性がない」という根拠が語られていない。これは何か根拠づけることが出来るのだろうか。渡辺氏がこの根拠を語っていれば、それを批判あるいは評価することも出来るのだが、何も語っていないときはどう判断すべきだろうか。一つには説明責任を果たしていないということで、説明していないこと自体が根拠がない恣意的な判断だと批判されても仕方がないと評価する立場がある。僕自身はそのような評価をしているのだが、議員辞職のことには触れずに、民主党が政府与党に反対する姿勢への疑問とともにこの離党を語って、かえって評価しているように見える論評もあったりする。民主党の反対の姿勢に抗議することと、比例代表選出の議員の離党とは、一方が評価されるからもう一方が許されるという関係にあるとは思えないのだが、もし渡辺氏が直接語っていない根拠が、このようなものにあるとすれば、それは論理的に考えてどう判断されるべきか、ちょっと考えてみたくなった。「【産経抄】8月30日」というコラムでは、戦後の政治史の中で「当時の日本社会党から西尾末広氏ら右派五十数人が分派して結成した」民社党が「自民党と社会党がひたすら対決するというそれまでの政治にクサビを打ち込んだ」という評価を語っている。そしてそれとの比較をして、今回の離党を評価するような論評がなされている。「野党だから反対、でいいのかと思っていた」という離党した人間の言葉を引いて、民社党との類似性を語って、民社党が評価できるのと同じ意味で評価できるという論理の展開をしている。これは、反対の姿勢だけしか見えないという、民主党に対する批判としては一つの見解として受け取れる。だが、実際には、民主党が反対している内容を具体的に考えて、その反対が反対するに値するかどうかで批判するのが本当の意味での論理的というものだろう。反対すること自体を批判するというのは、あまり説得力は感じない。このコラムが評価しているほどには僕には評価できないというのが感想だ。反対に対する批判が、具体的にどのような点での反対が間違っているかという指摘があれば、それは評価するかどうかの判断が出来るだろう。だが、反対すること自体が間違っているという批判であれば、とにかく政府与党(御上)の言うことには従っておけという主張のようにも聞こえる。コラムの主張そのものに対する批判的な気分もあるのだが、それを置いておいても問題を感じるのは、このコラムは離党した議員が比例代表選出であることには全く触れていないことだ。昔の民社党の時代はもちろん比例代表などという制度はないから、離党した議員たちはすべて自らの個人的な支持を得て当選した人間たちばかりだっただろう。だから離党すること自体には論理的な問題はないと思われる。それを今回の離党と比較して類似したものと判断するのは、前提条件が違うものを一緒くたにしているのではないだろうか。いずれにせよ、このコラムが語る評価が出来たとしても、そのことが比例代表選出議員が議員辞職をしないことの正当性の根拠を与えるものではないことを、それに言及できないということが物語っているのではないかと思う。「民主党代表選 小沢氏は責任ある政策を示せ(8月29日付・読売社説)」でも「渡辺秀央氏ら参院議員3人が28日、離党届を出した。小沢氏の党運営や政策に不満がくすぶっていることを示すものだろう。党内への目配りも求められている」と離党に関して触れられているが、ここでは小沢氏の批判が語られているだけで、離党した議員が比例代表選出であることにはやはり全く触れられていない。これでは、小沢氏の党運営が間違っているから離党する人間が出てくるのだと語っているような感じがする。つまり、離党を正当化しているような論調に聞こえる。これが、比例代表選出の議員でなければ、その離党を正当化する理由として小沢氏の党運営を持ち出してもいいだろうと思う。だが、比例代表選出の人間が離党するということは、民主党を支持して投票した人たちの意志をどうするかという基本的な問題が、離党の正当化に絡んでくる。これに言及しないということは、離党の正当化そのものが中途半端であることを意味するのではないか。議員辞職をしないのであれば、その理由を明確に論理的に語らなければならない。しかしそれはどこにも語られていない。今回の離党の議員が議員辞職をすべきという論理の方は全く当然のことだろうと思う。小沢氏の言葉にもあるように、「比例票は党に投じられたものだ」ということから論理的に演繹されて「党籍を失ったときに、その身分を失うのが論理的には当然だ」ということになるだろう。こちらが当然なのだから、それに反する見解は、論理的にはかなり難しい展開をしなければならないはずなのに、「必要性がない」という一言で片付けられている。全く論理的ではない答えだ。「民主離党の2氏は議員辞職せよ―日米民主党に見る民主主義の明暗」というニュースでは、明らかだと思う論理を詳しく説明している。本来は、その反対の意見こそがこれだけ詳しく説明されなければ全く納得できないのだが、それがなされていない。うがった見方をすれば、説明しようにも、論理的に当然のことに反対することは出来ないので、論理的に説明が出来ないのだと受け取るしかないのかもしれない。形式論理的な矛盾というのは現実には存在できないから、矛盾に当たるような見解は論理的に正当化できないというわけだ。上のニュースには次のような記述が見られる。「ところが、渡辺・大江の両氏は民主党の看板を背負って参議院議員選挙を闘い、その結果、当選した政治家である。政党政治である以上、民主党と袂を分かって離党するのであれば、当然、参議院議員をも辞めなくてはならないはずだ。それが、「筋を通す」ということである。 有権者は、1票しか投じることができない。選択のチャンスは1回しかない。しかし、政治家の側には政党を出たり入ったり、あるいは全く新しい政党を立ち上げたりと、さまざまな選択のチャンスが与えられる。いまひとつ腑に落ちない。 離党してはならないとまでは言えないが、どうしても離党するのであれば、一旦、議員であることもあわせて辞し、別の政党にせよ、無所属にせよ、また新たな看板を背負ってゼロから出直していただかないと、有権者として納得するのは難しい。議席を温存したまま、あちらこちらへ移り渡るなど、実に卑怯ではないか。 クリントン氏は、大統領候補になれなかったからと言って、所属政党(民主党)を離れたりは、決してしていない。もしも、彼女がそのような対応をすれば直ちに政界引退を意味するだろうが、それ以上に、彼女をサポートし続けてきた人たちに対する背信行為だと受け取られるからである。」この主張に対し、議員辞職せず、国会議員の身分を保ったままで離党することの正当性を語ることが出来るだろうか。それが語られていないということは、語れないのだと僕は判断するが、正当性のない議員職に何故しがみついていなければならないかということの理解も大切な気がする。彼らは議員でいなければ、離党した今はその存在価値を失うからではないかとも思える。彼らが議員であり続ければ、参議院での民主党の議席数は今より減った状態で対応がなされることになる。参議院での民主党の勢力を少しでも減らすことが出来れば、それが不正であろうとかまわずに利用するというのは、相手に勝ちさえすればいいという戦略であれば効果を上げるだろう。しかし、政治というのはそれでいいのだろうか。上の記事にあるように「卑怯」だと思われるような手を使って一つの戦いに勝ったからといって、それが政治としての勝利になるだろうか。ここに、自民党のどうしようもない衰退が露呈されてしまっていると見ることも出来るのではないだろうか。この問題に関して、マル激の中では、神保・宮台両氏ともやはり議員辞職をしないことを批判していたが、もっと問題があるということで指摘していたのは、このような論理的には当然だと思われることに反する行為が、あまり批判されていないことに対することだ。議員辞職しないことはもっと批判されなければならないと思うのだが、その批判がマスコミではほとんど出てこない。むしろ、民主党の党運営の方の批判が出てきて、議員辞職の問題はどこかに忘れ去られている。続報で目についたのは、新潟で「民主党県連はこの日の常任幹事会で、渡辺議員の動きを「自民党を利する反党行為」と位置づけることで一致。同日付で県連副代表など一切の県連の役職を解任し、議員辞職勧告をすることを決めた」というものだけだった。これ以外に議員辞職に言及したニュースが見あたらないというのは、マスコミは意図的にそのようなニュースを避けているとしか思えない。京都新聞の2008年08月30日掲載の社説「民主党離党 挙党態勢に出たほころび」では最後に「渡辺、大江両議員は比例代表で当選しており、比例代表選出議員の政党間移動の問題も再び投げかけた。 他党への移籍は公選法などで失職理由となるが、無所属や新党への移籍は可能だ。政党に投票した有権者の意思からすれば議員辞職すべきだとの意見は無視できまい。論議が必要だ。」という記述があるものの、議員辞職が当然だという論調にはなっていない。そのタイトルを見ると、むしろ論説の中心は民主党批判の方で、比例代表選出の問題は最後にちょっと言及しているという感じだ。これは、神保・宮台両氏が語っていたように、離党したときに比例代表選出の議員は自動的に議員の身分も失うことになるように法改正を行うべきだと僕も思う。法で規制していないからやってもいいのだと考えるなら、それはモラルの崩壊というものだろう。法よりも重いモラルというものが無ければ民主主義の制度そのものが有名無実化し崩壊するだろうと思う。
2008.09.04
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福田首相の辞任の理由はいろいろなレベルから考察することが出来る。その気持ちのレベルから言えば、「嫌になった」「意欲が無くなった」ということを理由に挙げることが出来るだろう。しかし、この理由で納得していたら、人間というのは気持ちしだいでどうにでも行動してしまうという前提を認めることにもなる。最終的な気持ちはこのようなものであったとしても、そのような気分に至る過程として、福田首相と同じ立場に立てば、大部分の人(日本人と言った方がいいだろうか)が同じような気持ちになるだろうなというような、客観的な理由が見つからないものだろうか。どのような出来事が意欲を失わせる作用を持ったのか、それが伺える報道を捜してみようかと思う。宮台真司氏の社会学講座にもあったように、人間の行為の選択というのはどのような予期を持っているかということがその決定に大きな意味を持つ。この予期は科学的な法則性の認識に裏付けられていることもあるが、たいていは経験や習慣から「こうなるのではないか」という予期を抱くのではないかと思う。福田首相に起こった様々な出来事の中から、もうこれではやっていけないというような予期を生み出すような要素としてどのようなものがあるのか、納得できるような理由を捜してみよう。福田首相自身の言葉では、民主党の非協力的な姿勢がもうやっていけないという予期をもたらしたように語られていた。これは日常生活の個人の自由な選択で処理されるようなものであれば、非協力的なものや邪魔を非難してもいいと思う。それでやる気が無くなったと愚痴をこぼしても仕方がないだろう。だが、一国の首相が語る言葉としては問題があるように感じる。民主党は、政治的に敵対している勢力であり、敵が協力してくれると期待するほど福田首相は甘い考えを持っていたのだろうか。もちろん大義名分があれば協力してくるだろうが、敵でいる間は少しでも相手の弱い部分を叩いてくるのは戦術としては当然だろう。むしろそれをどのようにしてダメージを少なくするかに指導者としての能力が評価される。大統領選でのヒラリー候補の攻撃に対してオバマ候補は実にうまく対処したように思う。そして、予備選が終わってもはや敵対する必要が無くなり、協力することの方にこそ大儀が移ったときには、あれだけ攻撃的だったヒラリー候補が全面協力の姿勢に転じたというのも、状況がそのようになったからだと理解できるだろう。いかなる状況の下でも、自民党に民主党が協力すべきだと福田首相が思っていたなら、指導者としての資質が疑われる。民主党が協力しなかったから意欲を失ったということを理由にするのなら、これは納得できるものではない。どこかの親父が愚痴をこぼしているレベルにまで首相という仕事のレベルを引き下げるものになる。中日新聞の社説「福田首相退陣 二代続けて投げ出しか」でも、「福田首相は一日夜の緊急記者会見で、道路財源の一般財源化や消費者庁設置の方向性を打ち出せたことなどに触れ「国民目線の改革に手をつけた」と胸を張った。 だが、こうも続けた。国民生活を考えれば、民主党が審議を引き延ばすことはあってはならない、私が首相を続ける限りどうなるか分からない、ならば新しい布陣のもとに政策の実現を図らないといけない、と。それゆえに辞任するのだという。内閣支持率の低迷も一因に挙げた。 全く理解できない。病気を辞任理由にした安倍氏とは違うと抗弁したが「投げ出し再び」と言わずに何と言えばよいのか。」と論評していて、この理由が納得できるものではないことを指摘している。愛媛新聞の社説「福田首相辞任 解散をこれ以上先送りするな」でも「それをすべて野党のせいにするのは見苦しい責任転嫁でしかない」と指摘されている。では納得できる理由としてどのようなものが探せるのか。もし福田首相のやる気がなくなった理由がこのこと以外に見つからないのであれば、それは福田首相は首相としての指導性がなかったと評価するしか無くなるだろう。もしそうであればすべてが納得できてしまうのだがどうも釈然としないものが残る。朝日新聞の社説「田首相辞任―早期解散で政治の無理正せ」でも、「安倍前首相の突然の政権放り出しから、わずか1年足らず。自民党の首相が2代続けて自ら政権を投げ出すことになる。極めて異常、無責任としか言いようがない。野党第1党に政権を引き渡せという声が出ても不思議はない。それほどの事態だ。 いま辞任すればそんな批判を浴びせられるであろうことは、首相も十分わかっていたはずだ。それなのになぜ、こんな決断を下したのか。」と疑問を提出している。福田首相としては、日本的な指導者にふさわしく、誰にも非難がいかないような配慮をしてこのような言い方になったのではないかということも考えられる。このような言い方で辞任理由を述べれば、上の社説にあるように自分自身に非難がくるだろうことは予期できたのではないだろうか。それが予期できたにしてもこういわざるを得なかった理由があるのではないかというのが、僕が他の理由を捜したい動機だ。本音を言ってしまえば、自民党はもう政権担当能力がないのだという判断につながってしまうようなことがあったのではないだろうか。だから本音を語らず、政権担当能力が無いのは福田首相という個人なのだということを見せるためにこのようなことを語ったと受け取るのは深読みのしすぎだろうか。中日新聞の社説では「公明党の「福田離れ」が響いたのか」という指摘をしている部分が見られる。これを辞任理由に挙げていた論説が他にもいくつか見られる。天木直人さんもブログで「福田首相を追い詰めたのは創価学会と米国である」というタイトルで語っている。そこには次のように書かれている。「解散・総選挙の時期からはじまって、国会会期幅の問題、新テロ特措法延長問題、暫定税率問題など、福田首相のやろうとすることをことごとく公明党は否定した。 福田では戦えないとまで言って福田首相の名誉を毀損した。」また秋田魁新聞社の社説「福田首相辞任表明 またも唐突で無責任だ」には次のように書かれている。「まだ理由が明確でない中で、あえて3つの点を指摘したい。支持率低迷が続いていること、与党内で「福田首相では次期衆院選は戦えない」との空気がかなり強まってきたこと、とりわけ連立を組む公明党との関係がぎくしゃくしたことである。」公明党との関係が悪化して、国会運営をむしろ困難にしたのは公明党の非協力の方だったというのが本音だったかもしれない。これなら、この先国会が開かれていてももうあまり成果は期待できないという予期が生まれる可能性も高まるのではないだろうか。これは、民主党が邪魔したという理由よりも納得が出来そうだ。民主党の邪魔なら、それは敵がすることであるから、権謀術数が渦巻く政治の世界において、むしろ対処する方法はいくらでもあるだろう。しかし、味方が邪魔をしたときには、それに対処するのは難しい。また、味方である公明党の邪魔を指摘して愚痴をこぼすことなど、公には出来ないだろう。自らが語ることは出来ないという点では、自分が非難されようとも民主党の非協力を理由として語ったという苦しい胸の内は理解できるし納得できる。この見方はかなり一般的でもあるようだ。徳島新聞の社説「09月02日付 福田首相退陣 政権投げ出しは無責任だ」でも、「首相は、臨時国会の召集時期や経済対策でも主導権を発揮できず、太田誠一農相の事務所費問題も表面化した。さらに、公明党が首相に見切りを付けたとの見方が強まっていたことも、退陣決断を後押ししたのだろう。 自民、公明両党の与党体制が行き詰まった結果といえる。」と指摘されている。だが、この見方が一般的であったとすると、またもう一つの疑問がわいてくる。福田首相が自分でこのように語らなかったとしても、誰もがこのように見ているなら、それはあまり効果がないことになってしまう。むしろちゃんと言わないことでますます政府与党に対する不信が募るだけだ。公明党の非協力な姿勢は、このままでは選挙が戦えないという懸念が広がっているからだとも言われている。人気のない福田首相ではなく、もっと人気のある人を首相にして選挙を有利に戦いたいという思いからくるものだと。しかし、福田首相が自らの非難を覚悟してまで展開したこの辞任会見が、みんながその真意を分かっていたとすると無駄になってしまう。政府与党としては、少しものが分かり情報をつかんでいる人だったら、天木さんのブログや社説にあるように、その真意が見え透いてしまうことでも、それを見ない多くの人にはごまかせるのではないかという計算が働いているのだろうか。今週のマル激では、ブッシュの大統領再選の時に、イラク戦争の正当性をアメリカ人の7割くらいが信じていたということをアメリカ在住の町山さんが報告していた。インテリ層のアメリカ人でブッシュを支持している人は誰もいなかったが、そのような情報を持たない、ブッシュが語ることの真意を推し量るような深読みをしない層は、ブッシュが語ることをそのまま信じたという。福田首相が語ったことをそのまま信じる日本人はどのくらいいるだろうか。また信じないにしても、人気がある人が首相になったとき、結果的に選挙で自民党の議席が減らなかったら、うまくごまかされたということになってしまうだろう。公明党の主張の正しさを決定するのは難しいとは思うが、政府与党の政治的な決定が、自民党の意向に反して公明党の主張が通り、しかもそのことが公に出来ないというところに問題を感じる。いったいこのような協力体制でまっとうな連立政権と言えるのだろうか。選挙において公明党の組織票は、自民党議員の当落を決定するほどの重要性を持っているのだろうが、そのために、公明党の主張がそのまま通ってしまうような体制になっているとしたら、その主張が公的なものではなくエゴイズムからのものであっても通ってしまう可能性が出てくる。しかも形式的には民主的な手続きを踏んだものになってしまう。民主主義を形骸化し、その決定に正当性を失わせるような今の与党体制は、国民の大部分にとって害のあるものだと思われる。民主党の信頼性を云々するよりも前に、今の与党体制そのものを一度解消する方がいいのではないかということを、福田首相の辞任劇は教えているのではないかとも感じる。もしかしたら、それが辞任の一番の理由かもしれない。
2008.09.03
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昨日、福田首相の突然の辞任発表があった。お昼のニュースでは、防災の日の大規模な訓練で指導者として活動する姿を見たばかりだったので、この突然の辞任劇とのつながりが整合的に理解できなかった。「辞任発表があった」という事実は、その記者会見などの映像で直接理解することが出来るものの、それが「何故なのか」という他の事実とのつながりが読めなかった。このつながりを見つけるには論理の助けがなければならないだろう。何が原因で辞任という決断に至ったのか。いかなる理由があれば、辞任を決意したのも無理はないというような理解が出来るのか。辞任という事実と、それに先行する他の事実との論理的関連性というのは、事実を眺めていれば自然に発生してくるものではない。Bという事実が発生したとき、それに時間的に先行するAという事実がいつも原因になり理由になるというわけではない。「AならばB」という仮言命題が成立することが前提となって、先行するAという事実が起こることがBという事実が起こる必然性をもたらすという理解がされる。論理的な理解には「AならばB」という仮言命題の理解が必要になる。前任者の安倍前首相が辞任したときは、多くの人はそれが健康上の理由からのものであると理解した。それは<健康に問題がある> ならば <激務を伴う職務には耐えられない><激務を伴う職務には耐えられない> ならば <職を辞するのもやむを得ない>というような仮言命題が成立することを暗黙のうちに了解していたと思えるからだ。この仮言命題の陰には、<健康に問題がある> ならば <判断に間違いがある可能性が高くなる>というような仮言命題の成立も前提されているのではないかと思える。いずれにしても、安倍前首相の場合にはその辞任理由がある意味では分かりやすかった。分かりやすかったために、もう一歩踏み込んだ論理展開がしにくかった面もある。もう一歩踏み込んで考えるなら、この健康問題を引き起こした原因というものをさらに論理的に追求していく必要があっただろう。それは偶然その時期に起こったものであったのか、元々安倍前首相には持病とも言えるような健康問題があったのか。それとも、首相という激務の遂行が原因で徐々に健康が損なわれていったのか。もし職務の遂行に伴う健康問題であるなら、安倍前首相の政治家としての資質が問われなければならないという論理展開も考えられるだろう。安倍前首相が抱えていた問題とそれに伴う激務は、一国の首相としてはごく普通の問題であって、首相であるからにはその程度の困難に立ち向かってそれを克服するだけの資質は持っていなければならないと言えるかもしれない。それに耐えられなかったのは資質の面で不足があったからという判断がなされるかもしれない。そうすると、そのような資質面で問題のある人物が首相になってしまうという、現在の日本の政治のシステムのあり方にも問題があるという論理展開も出来るだろう。本当に首相としての能力を持っている、首相にふさわしい人間が首相にならないということの問題をもっと自覚しなければならないのではないかと思う。さて、福田首相は、自分の辞任は安倍首相の時とは違うということを会見の席では語っているらしい。これは、辞任の原因や理由として、健康の問題が最も大きいということではないという意味だろうと理解できる。健康の問題も、辞任の引き金を引いた一因として数えられるかもしれないが、それ以上に大きな理由があるということだと思う。それではそれは何かということを考えたいと思う。どんな理由が、福田首相の辞任を最もよく説明する論理的な前提となるのか。それは一連の報道の中から見つけることが出来るだろうか。辞任会見での福田首相自身の声で語られた部分を見ると、「いま日本経済、国民生活を考えた場合、体制を整えた上で国会に臨むべきであると考えた。ここで政治空白を作ってはならない。この際、新しい布陣で政策の実現を図って参らなければならない、と判断し、本日辞任することを決意した」という言葉が見える。この表現は、辞任の理由を整合的に理解させるような仮言命題に書き換えることが出来るだろうか。何とか解釈してみると次のような主張だと考えられるだろうか。<国民生活を考える> ならば <体制を整えた上で国会に臨まなければならない><政治空白を作る> ならば <体制を整えることが出来ない><新しい布陣を作らない> ならば <体制を整えることが出来ない>この仮言命題から引き出される結論は、<政治空白を作る><新しい布陣を作らない>という前提があれば、それは体制を整えることが出来なくなり、結果的に<国民生活を考える>ということの否定になる。国民生活が損害を受けるという結論を主張しているように解釈できる。このように解釈すると、<政治空白を作る>ということと<新しい布陣を作らない>ということを避けるために自分は辞任をするのだと理由を語っているように見える。これは論理的に整合性を持ったものになるだろうか。上の3つの命題は、最初の二つは一般論的に正しいのではないかと思える。それは対偶を考えると正しいように思えるからだ。次のようになるだろうか。<体制を整えられないで国会に臨む> ならば <国民生活を無視している><体制を整える> ならば <政治空白を作らない>前件の状況は、後件の状況を引き起こす必然性を持っているように感じる。3つめの命題だけは、一般論的に成り立つものではなく、現在の特殊な状況の下で成立するものだと思われる。これは対偶をとると次のようになる。<体制を整える> ならば <新しい布陣を作ることになる>これは何を意味しているかといえば、現在の布陣では体制が整えられないという判断があることを意味している。現在の福田内閣では、懸案となっている問題に対処するような体制が取れないのだという判断を暗に語っていると理解しなければならないだろう。自分たちはだめだと判断したのは、潔いと言えば潔いのだが、発足してから間もないのにそのように判断するのは無責任ではないかという疑問を抱かれても仕方がない。もし潔くそのような判断をするのなら、もう一歩進めて、もはや自民党を中心とする与党そのものに政策遂行能力がないのだと潔く認める必要があるのではないかとも感じる。福田内閣には出来ないが、新しい与党内閣にはそれが出来るという判断はどこから出てくるのだろうか。論理的な問題としては、上に語った福田首相の命題の真偽よりも、実は次の命題の真偽の方が国民にとってはより重要だと言えるのではないだろうか。<政治空白を作らない> ならば <体制を整えることが出来る><新しい布陣を作る> ならば <体制を整えることが出来る>これは上の命題とよく似ているが、仮言命題の肯定と否定が違っている。仮言命題の場合は、元になる仮言命題が正しいとき、その対偶も必ず正しくなるが、前件と後件をそのままにして肯定と否定を取り替える「裏」(「AならばB」に対して「AでないならばBでない」という命題)は必ずしも正しくならない。「逆は必ずしも真ならず」ということわざがあるので、逆については目につきやすいし、論理的な検討を忘れずにいられるが、「裏」というのは普段はあまり考えないので見落とすことがあるかもしれない。この「裏」の命題は、一見正しいように錯覚しやすいのではないかと思う。しかし、<新しい布陣>が、やはり政治遂行能力において劣るものであれば、それは体制を整えることが出来なくなるし、結果的に国民生活に損害を与えるような失敗をする可能性も高くなるのではないかと思う。この命題の真偽は、<新しい布陣>がどれだけ高い能力を持っているかに依存している。<政治空白を作らない>ということは、解散・総選挙という手順を踏むことが、懸案になっている事柄の議論が出来ない状況を作るということを意味するのだと思うが、選挙によって国民の信を問うことなしに、<新しい布陣>の優秀さを国民が信頼できるだろうか。単に時間的につながっているというだけで<体制が整えられる>という結果を導くだろうか。福田首相が語った命題が、この時点でたとえ正しかったとしても、この「裏」に当たる命題が正しくなければ、今後の展開は期待したとおりにならないのではないかと思う。記者会見では「新しい体制を整えた上で国会に臨むべきだという考えを表明されたが、新しい体制になればどのような点でいまの事態を打開できるか。」という質問に対して福田首相は、「私が続けていくのと新しい人がやるのと間違いなく違うと考えた結果です」と答えている。これは論理的な予想を語ったものではなく、福田首相の希望あるいは期待を語ったものだ。「裏」に当たる命題が実現するかは、全く分からないということだろう。それはやってみなければ分からないけれど、とにかく期待してくれと言っているように聞こえる。「辞めること自体が空白を生むのではないか」という質問は福田首相の矛盾を突いているもののように思う。これに対し福田首相は「私が続けていって国会が順調にいけばいいが、そういうことはさせじという野党がいるかぎり、新しい政権になってもそうかもしれないが」というような答えを語っている。これは、与党の政策が正しいかどうかということは不問にしておいて、政治的な混乱を招いたのは野党のせいだという非難をしていると受け取れるだろう。これが正しいかどうかを置いておいたとしても、この状況が新しい布陣になったときに変わるものだろうか。福田首相は「いまが政治空白を作らないには一番いい時期だいう判断をした。国会の途中で何かあったなら、そのほうがより大きな影響を国民生活に与える」とも言っている。いずれにしても空白にはなるのだが、今の方が影響は少ないと言っているように聞こえる。福田首相が語る言葉からは、論理的に整合性のある理解が困難だ。この辞任劇を理解するには、仮言命題として確かにその通りだと思えるもので、しかも重要度の高いものを見つける必要があるのではないかと思う。福田首相が首相を続けていく限りで、何が問題となって、どのようなことを阻害するのか。やめなければならない最大の理由になるものは何なのか。そして、それが何故今という時期なのか。太田誠一農水相の問題で、今後の展開に注目しようと思っていた矢先のこの辞任劇は、その問題を世間からすっかり忘れさせてしまう効果を作るかもしれない。何故今この時期に辞任するのかというその何故は、もしかしたらこの問題が絡んでいるのかもしれない。マスコミがこの問題を忘れずに、太田農水相の説明責任をどこまでも追及してくれればと思うが、忘れられてしまうことになれば、結果的にこの辞任劇が太田氏の危機を救ったことになってしまうだろう。そうならないことを願う。
2008.09.02
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