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仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、民主主義を「最後の奴隷制」と語っていた。奴隷というのは意志のある主体的な存在とは認められず、その持ち主の意志に従ってどうにでもなる存在だ。民主主義における人間も、自らの意志に反して他者の意志を強制されるという一面を持っている。多数が賛成した事柄は、たとえ少数の反対者がいようとも、多数の賛成によって決定したというプロセスを元に、反対者といえどもその意志が強制される。この面を捉えて、板倉さんは民主主義を「最後の奴隷制」と呼んだのだろうと思う。民主主義は非常に価値の高いものとして多くの人に捉えられてきたし、僕もそう思っていた。科学的な真理というのは、科学としての手順を踏んで証明されたものは、賛成者が多いか少ないかにかかわらず真理であることが確信できる。しかし、科学として真理が確かめられない事柄は、最も真理に近い判断を求めるために民主的な手続きを踏むことがいいという発想は正しいように感じる。議論を尽くして求められた結論は、多くの人が賛成したものの方がより真理に近いように思えるし、それが間違えていたときも、賛成した多数者が責任をとるという形にしておけば、間違ったときの反省も出来て、以後はより真理に近い判断が出来るようになるだろうと期待できる。民主主義がすばらしいものであるというイメージがあったときに、それを「奴隷制」と呼ぶようなマイナスのイメージを提示されることは衝撃的だった。民主主義には必ずしもいい面ばかりではなく、欠点もあることを具体的に指摘され、しかもそれが納得できるようなものだった。板倉さんの指摘は、科学における真理にも、多数決的な民主主義的な判断がされた歴史があり、それが間違えていたということから導かれたもののように感じる。みんなが判断するということにふさわしくないことまでも民主的な手続きで決定することに間違いがあるという指摘だ。同じような指摘が宮台氏の『14歳からの社会学』の中にもある。宮台氏は次のように書いている。「「どんな行為が幸せにつながるか」と違い、「どんなルールがみんなを幸せにするか」を知るには、ものごとを広く長く見通す必要がある。そんなことが出来るのは特別に優れた人だけだ。あれがいいかこれがいいかと毎日一喜一憂するパンピーには無理だ--。」「どんな行為が幸せにつながるか」は自分の感覚で判断できる。結果的に自分が幸せを感じることが出来れば、それは「幸せにつながって」いるのだ。これなら誰にでも出来る。パンピーと呼ばれる一般大衆(ピープル)にも可能だ。しかし、感覚で判断するのではなく、社会全体にどのような影響があるかを考察するような「ルール」を考えるときは、自分の感覚を離れて社会全体を「広く長く見通す」必要がある。これはそのような能力がある人間にしか判断できない。誰もが同じように判断できる事柄は民主的な決定にふさわしいだろう。それが最初から多くの異論に分かれて多様であることがはっきりしているときは、一つに決定するのではなく多様性を実現できるような決定こそが民主的だと言えるだろう。誰もが同じように判断できないときは、優れた人間の判断こそが真理に近いと言えるとき、その優れた人間を「エリート」として見る観点が重要になってくる。それを宮台氏は「卓越主義的リベラリズム」と呼んでいる。宮台氏はこの立場だ。宮台氏は最初からこの立場にいたのではなく、最初はやはり民主主義を基礎とするリベラルの立場にいたようだ。それは教育改革の運動の過程でだんだんと「卓越主義的リベラリズム」の方へ傾いていったようだ。教育の改革において、いい教育を考えるとそれには二つの考え方があると宮台氏は指摘する。一つは「自分の子供が幸せになるにはどんな教育が必要か」と考える「行為功利主義」的なもので、もう一つは、「いい社会になるためにはどんな教育が必要か」という「規則功利主義」的なものだ。「行為功利主義」的な考え方は、自分の感じ方で判断できる。だからこれは誰にでも判断できるものだろう。しかし「規則功利主義」的なものは、社会をどう捉えるかで判断が違ってくる。社会のとらえ方が深い人間の方がより正しい判断が出来る。そして、この両方の考えはしばしば対立する判断を導くことがある。宮台氏が以前語っていたことで、親が教育に期待することとして、自分の子供が自分の希望通りの進路を進めるような教育を望むということがあった。しかし、人間には適性というものがある。どれほど希望が強くとも、「下手の横好き」のようなものを希望していれば、それはなかなか実現できない。永遠の自分探しというジレンマに陥る可能性もある。若いうちはいろいろな可能性を試すことは大事だが、ある程度の年になったら、自分の適性を正しく判断して社会の中での自分の存在を、卑下することなく十分使命を果たしているのだという満足感を感じながら生活することが必要だろう。ある意味では夢をあきらめるということも必要だ。実現可能な違う夢を見る必要があると言い換えた方がいいだろうか。科学の問題でいえば、板倉さんが語っていたように、夢物語のような妄想的な夢を抱くのではなく、自分に解決可能な問題を発見することが科学においては重要だという指摘に近いものだろうか。社会学者としての宮台氏は、教育に関してその機能性の方にこそ注目する。自分の子供がどうだとかという感性的な面はある意味では無視する。機能性の最も重要な部分は、子供の適性に従って、社会での適正な配置をするというものだ。自分の適性に気づかせて、それを意志に反して押しつけられたと感じさせるのではなく、自らの判断で選択したという理解の下に納得して選択させるような教育を構想していた。いい社会を作るためにはこのような教育がふさわしいだろう。「ゆとり教育」を推進したのは、宮台氏が高く評価していた寺脇研さんという文部官僚だった。このそもそもの発想は、子供自身の適性に関係なく、学習における競争に打ち勝って有名校に進学することが多くの子供と親の願いになっている現状を変えて、本当の適性を考えて正しい判断で選択するための余裕としての「ゆとり」を教育にもたらせようとするものだった。だから暗記教育に偏ったそれまでの学習の内容を変えて、総合的な判断が出来るようなものを学ぶ方向にシフトしようとしたように見える。だが結果はどうなったかといえば、余裕として与えられた時間を、さらに学習の競争に勝ち抜くために使うようなことになり、塾通いをしたりして、その時間を有効に使えるリソースを持った豊かな家庭が有利になるということになった。逆に言えばそのようなことが出来ない子供たちの学力の低下ばかりが目立つようなものになった。大学で「ゆとり世代」といえば、学力が低いことを揶揄するような言い方になっているそうだ。宮台氏のそれまでの発想は、「国がしばるのをやめてみんなに任せよう」と思ってきたらしい。しかしそれでは「うまくいかなかった」と感じたようだ。みんなが賛成した方向が必ずしも正しいとは言えなくなったという判断がここには見られる。さらに、インターネットの状況からもそのような判断が導かれたようだ。宮台氏は次のように書いている。「僕が考えを変えたのは21世紀に入った頃だ。インターネットの発達で、みんなが多様な情報を得るようになった頃だ。 テレビや新聞で社会の動きを知ったのが、ネットやケータイを利用する時間に食われるようになる。テレビや新聞は一部の企業が運営しているから、流れてくる情報がかたよるから、インターネットはいろんな人が情報を発信するから、偏りが消えるだろう--。 僕はそんなふうに予想していた。確かにいろんな人が情報を発信するようになった。そうした人たちの発信を受け取って自分からも発信するようになった。今や自分でホームページやブログを運営している人は数え切れないほどだ。でも予想通りにならなかった。」民主的に、みんなが賛成したことを正しいと判断していると、実はその判断に参加するみんなが広く薄くなったときにどうも正しい判断とかけ離れていくようだということが見えてきたのではないかと思う。どうもすべての人に、客観的で正しい判断力を要求することが無理ではないかという現象が見られてきたようだ。人気のある言説というのは、それが論理的に正しいというよりも、感情に働きかけて、強い感情を生み出すような表現を持ったものになるようだ。宮台氏の言い方だと「感情のフックに引っかける」というようなものになるだろうか。みんなの判断が正しい方向に行かないどころか、論理的に考えればあり得ない判断にいってしまうようなところが、情報があふれた現代社会では見られるようになった。これは民主政治が「衆愚政治」になってしまったのではないかと宮台氏は指摘する。ブッシュ大統領が主導したイラク戦争に驚喜したアメリカの姿は「衆愚政治」と呼ぶのにふさわしい姿だったように感じる。みんなの判断は必ずしも信用できない。そのようなときは、誰の判断が信頼するに値するものか、という信頼できる人間の見極めが重要になるだろう。一般大衆が、本当に信頼できる人間を正しく「エリート」として判断できるようになれば、民主政治の欠点を克服できるだろう。判断そのものは、複雑で難しい問題においては一般大衆には正しく考えることは出来ない。だが、誰の判断が本当に正しいものと信頼できるかということは、判断そのものを考えるよりはやさしい。それなら多くの一般大衆にも正しく判断できそうな気もする。民主政治の欠点を克服するには、「エリート」に対する正しい判断と尊敬が必要だ。宮台氏が語るように。板倉さんは、科学の教育が、真に優れた科学者が誰かというセンスを育てると語っていた。同じようなことが「エリート」に対するセンスとして育てられないものかと思う。宮台真司氏は、紛れなく「エリート」の一人であろうと思う。その「エリート」の一人である宮台氏が「エリート」の重要性を語るところに、何となく違和感を感じる人もいるかもしれないが、そのような重要性に気づくところも「エリート」たるゆえんではないかとも思う。宮台氏が「エリート」であろうという判断は、彼が東大を出た学者であるという表面的な事実だけによっているのではない。東大出身の学者などたくさんいるだろうが、宮台氏のような「エリート」性を感じる人は少ない。宮台氏の現在の行動がその「エリート」性を証明しているように僕は感じる。宮台氏が優れた判断力を持っていることはその著書を見れば分かる。そして、宮台氏はその判断力を社会に生かすだけの影響力を持ち、実際に影響力を行使している。そして、その影響は、決してエゴから出発したものではなく、学問的な真理の実現を図っているものに僕には見える。利他的な行為として映るのだ。このような資質を持ったものこそが「エリート」と呼ばれるにふさわしいだろう。誰が「エリート」であるか、それは多くの分野でそのような人がいるだろうと思われる。そのような人を正しく判断できる資質を持ちたいものだと思う。そして「エリート」の判断を信頼して、その判断に賛成するという形で民主主義の限界を乗り越えたいものだと思う。この章では最後に「意思」の訪れについて語っている。これも面白い問題として考察してみたいものだと思う。
2009.01.19
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宮台真司氏は『14歳からの社会学』の第2章で社会のルールについて語っている。社会にある種のルールが存在するのはある意味では当たり前で、そのルールにほとんどの人が従っているときは、それがルールであることさえも意識せずにいるだろう。しかし、そのルールを破る人が出てくると、それがルールとして正しいのか・有効なのかということが気になってくる。その判断はどうして考えたらいいのだろうか。ルールを疑わない人は、そんなものは常識ではないかといって済ませるかもしれない。しかしその常識が通用しないときは、いくら常識であることを主張してもルールを維持することには役立たない。また、そのルールが今の状況には合わないのではないかと思っても、ルールがある以上仕方がないというあきらめの気持ちも生まれてくる。そのような場合はなし崩し的にルールが守られなくなっていく無秩序の状況を、何か変だと思いながらも受け入れていくようになってしまうような気がする。社会のルールは、自分の感性(好き嫌いや気持ちがいいかなどという感情の働き)で判断して正当性を確立することが出来ない。これだけ感性が多様になってきた現代社会では、感性に頼った判断は合意が出来ないからだ。多くの人が合意できるような判断を求めるには、やはり論理に従った判断を求めるしかない。それが社会を理論的に捉えようとする社会学の必要性を要求する。現代社会のルールを理解するには社会学的な素養が必要になる。現在の成熟社会を生きる人間だからこそ「14歳から」社会学の素養が必要になる。宮台氏はこの章を次のようなエピソードから始めている。「今年(2008年)の2月、広島県JR芸備線の線路上に自分で踏切を作った73歳の男性が、威力業務妨害の疑いで逮捕された。畑に農作業に行くために線路を渡る必要があって、近くに踏切をつくって欲しいと10年近くもJRに要求し続けていたという。 JRは「60メートル先の踏切を使いなさい」といって受け入れてくれない。年をとった男性は、野菜を乗せた手押し車で遠回りをするのはしんどい。そこで自分で踏切を作った。近所の人たちも喜んで利用していた。けれど、ある日、とつぜん逮捕されてしまった。」このエピソードは、自分の都合で勝手に踏切を作るという「ルール違反」をした人に対して、どのような判断をするかということを考えさせてくれる。「ルール違反」をしたのだから、それに対して罰を受けるのは当然だと考えるのか。JRに対する要求の方が当然なので、その要求を満たしてくれなかったJRが悪いのであって、この「ルール違反」は仕方がないと見るのか。様々な意見の違いがあるのではないかと思う。この踏切は「近所の人たちも喜んで利用していた」というのだから、おじいさんの全くのエゴによって作られたものではないという解釈も出来る。そうであれば、いきなり逮捕されるということはひどいようにも思える。その前に何らかの話し合いがあってもいいだろう。だが、このおじいさんの場合だけを特例として認めてしまえば、全国あちこちに特例が出てきて、その判断をするのがまた難しくなる。特例を認めない方が管理はしやすい。この「ルール違反」は、個別的・具体的に考察すれば容認できそうな要素を持っているにもかかわらず、それを社会全体に押し広げて考えるとなかなか容認が難しいという対立した側面を持っている。弁証法性を持っていると言えるだろうか。このようなことを考えるときに、経験主義を超える理論的考察が必要になる。宮台氏が紹介するもう一つのエピソードを見てみよう。「今年の3月30日に開通する横浜市営地下鉄の「グリーンライン」(日吉-中山間)で「スマイルマナー向上員」が乗車することになった。お年寄りに席を譲る呼びかけなどをするのが目的で、普段地下鉄を利用している市民の中から募集するのだという。 横浜市交通局の調査によれば、「社内でマナー違反を見かけたらどうしますか?」という質問に、「いけないことだから、注意する」と答えた人は全体の16%にとどまった。なのに「いけないことだから、やめるべきだ」と答えた人は全体の9割以上もいたのだという。 つまり、車内のマナー違反はみんながいけないと思っているのに、中が出来ない。ならば、その気持ちをサポートしよう。マナー違反があったとき、「マナー向上員」が助けてくれると思ったら注意しやすくなるし、彼らがいればトラブルになることも減る--。」この場合は、9割以上の人が合意していることが社会のみんなの行為として成立していないことが見られる。踏切のおじいさんの場合は、近所の人たちはその踏切に喜んでおじいさんの行為を容認するという合意が出来ているのに、社会全体に広げた場合には合意が出来なくなるというケースだった。この地下鉄のマナーはそれとちょうど逆に、社会全体ではマナー違反を注意すべきということに合意はしているものの、その合意したことの行為は見られないものになっている。おじいさんの場合は、法律に対する「ルール違反」だったので、それに同情して共感しようとも「ルール違反」に対する罰が与えられた。しかし地下鉄のマナーは、あくまでもマナーというものであって罰を与えるほどのものではない。むしろマナー違反を自覚して、自分でそれを正していかなければならないものだろう。受け入れに対して個人の自由な判断がかかわってくる。そのようなマナーを持っていない人間に無理矢理マナーを守らせるということが難しい内容になる。そうすると社会の秩序を考えてマナー違反を注意したとしても、それが素直に受け入れられない場合が多くなってくる。隣の人とくっつくように座るのではなく、少し余裕を持って座りたいと思っている人が多いときに、ちょっと詰めて席を空けるように注意しても、それがマナーをよくすることだと受け取ってもらえないことがあるだろう。自分が座りたいからそう言っているのではないかというエゴだと受け取られたり、注意するのが趣味ではないかと思われたりする。体格のいい人が注意をすれば、自分の強さを見せびらかしたいのではないかと思われたりすると宮台氏も書いている。このようなマナー違反は、個人が個人の責任で注意するのは難しい。極端な場合は法律化して強制的に執行できるようにしてしまうのが手っ取り早い。喫煙のマナーなどは、それが守られることが少なく、しかも注意することが難しかったので法律となったのではないかと感じる。これなどは、直接的に健康被害も起こるので法律化がしやすかったとも言えるが。地下鉄のマナー程度のものは、法律化して強制するほどのものではないので、そのマナーを指摘する立場の人を作ることで、注意しやすくしたのではないかと思う。こういう措置をしなければ、合意したことの確認が難しくなっているのも、また現代社会の特徴だろう。誰もがお互いのことを仲間と感じていた時代は、個別的な特殊な事情も理解しやすかっただろうし、ちょっとした注意も、「文句を言われている」と受け取るのではなく、ありがたい助言として素直に受け入れただろう。社会の複雑化は、みんなの範囲を狭くし、お互いを仲間と感じさせなくなったので、そのような社会のルールの理解も難しくさせてしまった。このような現代社会でルールのことを考えるにはどうしたらいいのだろうか。個別的な仲間内での判断なら、臨機応変にみんな(仲間)がどう考えるかで対応してもいいだろう。だが、すべてが仲間というわけではなくなった社会全体のルールについては、ある原則を元にして理論的(論理的)にそれを考えていかなければ正しい方向が見えてこないだろう。宮台氏は、理論的な考察の方向として「行為功利主義」と「規則功利主義」という二つの考えを紹介している。これは次のように説明される。「行為功利主義」 どんな「行為」をすれば、人が幸せになるか、と考える。「規則功利主義」 どんな「規則」が、人を幸せにするか、と考える。「行為功利主義」に基づいて考えるなら、踏切を作ったおじいさんは、踏切を作ることで「幸せになる」のだから、その行為は正しいと言える。しかし、各人がエゴで踏切を作れば、そのことによって困る・つまり幸せでなくなる人が出てくるから、そのような個人の都合で踏切を作るという「規則」は良くないと考えるのが「規則功利主義」による考えと言えるだろうか。「行為功利主義」の場合は、個人の自由が重んじられるように感じる。個人が自分の考えで、自分の幸せを考えて行為することが正しいと判断されるように思えるからだ。第1章で宮台氏は、社会の中で幸せになるには「自由」と「尊厳」が大事だと語っていた。その意味では「自由」を実現させてくれる「行為功利主義」は社会の中での幸せに通じるものだ。だが、この「自由」は、他者の「自由」とぶつかるときに、社会の中でどう調整していくかという問題が生じてくる。その調整は、賢い判断が出来なければうまくいかない。つまり、「行為功利主義」は、社会の成員がそれなりに優れた判断が出来るという前提が必要になる。この判断は、社会が単純だった時代には社会の成員がみんな身につけることが期待できただろう。しかし、社会が複雑化してくると、誰もが適切な判断をするということが期待できなくなる。現在は民主主義社会だから、社会の成員の多数が判断したことが社会のルールとなることも多い。だが、その判断が間違えていることも可能性が高くなった。みんなが賛成したからといって、それは必ずしも正しいこととは限らない社会になった。このような社会においては、優れた判断が出来る人間に社会のルールの判断をゆだねて、適切な規則を作ることでみんなが幸せになる方向をとった方がいいというのが宮台氏の主張だ。これを「卓越主義的リベラリズム」と言っている。これはある意味では民主主義に反する。みんなが賛成できなくても、判断力の優れた人が主張することを実現すべきだという主張だ。僕はこの考えは、複雑化した社会においては正しいと思う。だが問題は、誰をその優れた判断をする人間だと認めるかということだ。宮台氏の言葉で言えば、そのような人間は「エリート」と呼ばれる。大衆が、誰をエリートだと判断するか。その判断が正しいものであるようにするにはどうしたらいいのか。これが「卓越主義的リベラリズム」の最重要問題だろう。仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、科学のすばらしさを体験することで、どの科学者が優れているかということのセンスも磨かれると語っていた。我々は優れた科学者と同じような業績を上げることは出来ない。それはごくわずかの本当に優れた人々のみが科学史において栄冠を得るような業績をあげるだけだ。しかし同じことが出来ないにしても、誰の業績が本当に優れているかということは、科学を学んだ人間には分かる。科学の本質を学んだ人間は、誰が科学史において「エリート」だったかが分かる。「エリート」と同じことは出来なくても、誰が真の「エリート」であるかが分かるような教育が成功すれば、宮台氏が言う「卓越主義的リベラリズム」の実現が出来るだろう。オバマ新大統領は、宮台氏が言うところの「エリート」であるような気がする。オバマ氏はエゴで動いているのではなく、利他的に社会全体のことを考えて、今までも行為してきたし、これからもそうであろうと思えるからだ。では日本の麻生総理はどうだろうか。どうもエゴによってその行為がされているように見える。とても「エリート」には見えない。最高権力者の地位に本当の「エリート」が座るときに、日本でも「卓越主義的リベラリズム」の実現がされたと言える日が来るのではないだろうか。
2009.01.15
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宮台真司氏が『14歳からの社会学』という本を書いた。この本は、14歳でも読めるように、知識と経験に乏しい人でもその内容が分かるように配慮されて書いてある。一つの社会学入門書と言っていいだろう。子供のための入門書は、例えば「14歳のための○○」というような表題になっているものもある。しかし、宮台氏の本では「ための」ではなく「からの」という表現になっている。これには深い意味があるのではないかと感じる。社会学というのは、今の大人たちも学校で習ったことがない。しかし、これまでの大人は、社会に出て働いたりすれば、それなりに社会というものがどういうものであるかを経験で知ることが出来た。学校で習わなくとも、学校を卒業した後に、社会のことは社会で経験することによって学ぶことが出来た。それが今ではたいへん難しい時代になっているのではないかと思う。今日は成人式であり、日本では二十歳を過ぎれば一応大人として認めてもらえる。それは、大人としての義務を果たさなければならないというものがいくつか発生することでもあり、大人として行使できる権利を手にすることが出来ることでもある。かつての大人たちは、この儀式を通過することで大人としての自覚を持つことも出来たが、今はそれは難しい。子供たちはどうやって大人になればいいかが分からなくなっている。社会が安定していた時代は、ある種の通過儀礼を経ることによって誰もが大人になった。しかし、複雑化し流動化した現在は、どうなれば大人になれるのかが分からなくなっている。大人になるということは、おそらく社会というものが理解できたときにそのような自覚が生まれてくるのではないかと思う。宮台氏が「14歳からの」という限定付きの社会学を語っているのは、これからの時代は、社会を理論的に捉えなければ理解が難しくなったのだということを語っているのではないかと思う。14歳からそれを意識することで、やがて二十歳になり大人になるときに、自信を持って大人だと言えるような何かがつかめるのではないかと思う。この「14歳からの」社会学は、大人にとっても役に立つものだと思う。大人は、かつての社会が安定して持続していれば、その中で大人になったものとして、社会の中枢を担うことが出来ただろう。しかし、今はその社会の安定性が失われてしまったように感じる。このような社会では、自分の経験だけでは社会のごく狭い範囲の性質しか捉え切れていない。大人が、社会のことに対して必ずしも正しい判断と指針を出せなくなってきている。経験だけでは社会のことが分からない時代になった。それを補って乗り越えるには、宮台氏が語るように、社会を理論的に捉える視点を知らなければならないのではないかと思う。社会を理論的に捉えるというのは、社会の全体像を捉える、つまり抽象的な対象である社会を捉えるということを意味する。自分の経験や感覚から得られる「社会像」に対して、それが一般的なもの、多くの人が抱いているイメージになっているかどうかを考えて、それを正しく捉えることを意味する。自分の経験や思いは特殊なもので、自分のような人間であればそう感じたり考えたりするかもしれないけれど、世の中の多くの人はそう考えてはいないかもしれない。そのような判断を教えてくれるのが社会を理論的に捉えるということになるだろう。第1章のテーマは、「自分と他人」というものになっている。副題として「「みんな仲よし」じゃ生きられない」という言葉がつけられている。かつての安定した社会を生きてきた大人たち、特に昭和30年から40年代くらいの日本を知っている大人たちは、その時代が人情に篤い時代であり、ご近所さんは「みんな仲よし」であり、ある場合には全く見知らぬ他人でさえもすぐに「仲よし」になってしまう時代であったことを知っているだろう。僕は昭和31年の生まれだが、子供の時に迷子になったことをよく覚えている。泣きながら歩いていたら、ガソリンスタンドのそばを通り過ぎたときに声をかけられた。若いトラックの運転手が、かわいそうに思ってくれたのだろう。どこに住んでいるかを聞いてくれて、僕の家のそばの学校までトラックで送ってくれた。僕は子供の頃は東京の渋谷区の恵比寿に住んでいたけれど、そのような地域でさえもこのような人情をかけてもらえる経験があった。このような時代は、「みんな仲よし」にしましょうと指導されなくても、子供たちはみんな仲良しだったし、大人たちも人情に篤かった。だが今はそんな時代ではないだろう。いつから変わってしまったのかは、経験だけでは分からない。宮台氏が教えてくれる「近代成熟期」という指標を理解して初めて、それがいつから変わってきたのかということが分かる。複雑化した現代社会は、理論的考察なしに経験や直感で捉えることは出来ない。「みんな仲よし」というのは、かつてはそれで幸せだったし、いがみ合ったり無関心であったりするよりも、仲良しで温かい思いやりのある社会の方がいいと思えるので、この目標が間違っていると考える人は少ないのではないだろうか。しかし、宮台氏は「みんな仲よし」では今の社会は生きていけないのだと指摘する。それは間違いなのだと言う。それはどうしてだろうか。それは、社会を理論的に捉えなければ、その正しさを理解することが難しいのではないだろうか。「みんな仲よし」は、ちょっと考えるといいことのように思えるけれど、もう少し深くこのことを見てみると「みんな」という概念が気になってくる。この「みんな」は、かつては社会で生きている人の大半を含むものとして日本人は意識できていた。だから、ある意味では他人であっても、何となく仲間として「みんな」の中に入れてくれていたので、それで親切にしてくれたりして「仲よし」になっていた。それが今の時代は、この「みんな」という範囲が共通の理解が無くなってしまったという。宮台氏は次のように語っている。「今の社会では「みんな」という言葉が、誰から誰までを指すのかイメージしにくくなっている。「みんな」の顔が見えにくくなっているのに、昔と同じように「みんな仲よし」と言われたって、実態とかけ離れているから、タテマエに聞こえてしまうんだ。」今の社会では価値観が多様化し、かつては「みんな」の中に入っていた人たちも、今ではもしかしたら価値観の違うものとして対立する相手になりかねない。そんな相手とも「仲よし」にしようということになったら、利害関係の面で損をすることが多くなるだろう。それでも、自分が損をしてでも相手への信頼を持つ立派な人だということで評価してもらえればいいのだが、今の時代では、損をすることは立派なことではなく馬鹿だと思われてしまうのではないだろうか。仲よくできない相手はたくさんいるのに、「みんな仲よし」にしたら自分はいつまでも損をする人間になってしまう。そのような時代は、「みんな仲よし」がタテマエのように聞こえても仕方がないだろう。「みんな」というのは、いったいどの範囲の人間を指すのか、という問いは社会に対する理論的な反省を抜きにしては出てこないのではないだろうか。経験と感覚で社会を判断していれば、「みんな」の範囲は自明のものであり、「仲間」と感じられる人が「みんな」になるだろう。そうだ、かつての日本でも「仲間」を外れてしまえば「みんな」でなくなっていたのだが、「仲間」の範囲がとても広かったために、普通の日本人はそのことに気づかないでいられたのだろう。それに気づくには、理論的な考察が必要だったのだ。宮台氏は、現代の若者たちの心情を「仲間以外は皆風景」という言葉で表現したが、自分たちの狭い範囲の仲間以外は、全く人間として感じられないとすれば、これはきわめて狭い「みんな」の範囲ということになるだろう。逆に、「みんな」は日本人だけでなく、世界に住んでいる人間が全部「みんな」だということになれば、これは非常に広い範囲の「みんな」になる。グローバル化ということの理解には、そのような理解での「みんな」という概念があるとも宮台氏は指摘する。「みんな」の範囲は日々変化している。宮台氏は、「どんなくくりを考えても、そこから出たり入ったりする人間が増えた。そこに所属するからといって、その人たちがそのまま「みんな」だとは言えない」と指摘している。「みんな仲よし」という目標は、このような時代背景の時には困難であり、間違いであると言えるだろう。「みんな仲よし」が信じられていた時代は、社会は安定していて単純だったので、社会の中で「仲よし」で生きていられれればそれなりに幸せになれた。しかしそうでない時代には、社会の中で経験に頼って生きているだけではなかなか幸せになれない。社会を理論的に考察する社会学では、幸せに生きるということも理論的に捉えることが出来る。宮台氏は、幸せに生きるための条件として「自由」と「尊厳(自尊心・自己価値)」という二つをあげている。「自由」はそれを論じようと思えば、これだけでたいへんな問題だが、宮台氏は<選択肢があること>と<選択肢を適切に選ぶ能力があること>の二つを「自由」であることの判断基準としている。そう捉えるのも理論的なとらえ方だろう。「尊厳」の方は、自分を現在のままの自分として肯定的に受け止めることが出来る何ものかとして考えられている。自分は、もちろん理想とはほど遠い存在として自分には捉えられているだろう。かなりうぬぼれの強い人間でも、自分がすばらしい人間であると手放しで認めている人はいないだろう。たいていは何かが足りない、未熟な人間として自分を捉えているのではないかと思う。しかし、未熟で能力が不足している自分であっても、自分が人間として生きているというのは、他の人間と変わりないものであり、軽蔑されるようなところがない限りは、自分は今のままでもいいのだと肯定的に認めてやれるような基礎が自分の中にあるとき、それを宮台氏は「尊厳」と呼んでいるようだ。「尊厳」というのは、社会の中で他者から承認されることによって自分の中に育てられていくという。だから「仲よくできない他者たちとどうつきあうかについて、考えていかなくちゃいけない」という指摘を宮台氏はしている。これも経験から学ぶには難しい事柄だ。だが、理論的に考えればこれは次のように簡単に解答される。宮台氏は、「自分に必要な人間とだけ仲良くすればいい。自分に必要でない人間とは、「適当につきあえば」いいだけの話だよ。」と語る。これなどは、経験からこのような教訓を得ている人は多いと思われるが、このようにあっさりと言えるのは、理論的なとらえ方をしている宮台氏ならではの一般化ではないかと思う。社会を特に意識しなくても幸せに生きられた時代には、社会での幸せを体現するロールモデルがいた。それが誰にも目標となった。しかしそれが失われた今は、宮台氏が次に語るような問題を考えることで幸せを理論的に考察する道が開けるのではないかと思う。「競争を勝ち抜いて「一流」大学や「一流」企業に入っても、会社を興して成功して金持ちになっても、自分の人生が「承認」から見放されているのであれば、いずれ君は自分が寂しく死んでいく人間であることに気づかされるだろう。それが果たして幸せな人生だろうか。」
2009.01.12
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