2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全26件 (26件中 1-26件目)
1
小沢問題を巡る議論において、もっとも説得力を感じている郷原さんが出演するというので、28日の朝生を録画しておいた。朝生を見るのは久しぶりだったが、なかなか面白く見ることが出来た。郷原さんが語ることはやはり説得力があったし、検察の批判を語る論理の方が、小沢批判を語る論理よりも、やはり整合性があるのを感じた。論理に一貫性があるのを感じた。小沢批判を語る人々は、確かにその一面の指摘においては一理あると感じさせるものがあるものの、もっと広い視野から見ると矛盾する点がいくつか見つかるような「ためにする議論」のにおいを感じる。結論が決まっていて、その結論を引き出すような仮定を見つけ出して議論しているような感じがする。仮定のすべてを考察し、どのような仮定があろうとも、このような結論が引き出せるというような、全体性をもった整合性が感じられないのだ。特にそのような議論の運び方を感じたのは、山際澄夫氏(ジャーナリスト、元産経新聞記者)の議論だった。山際氏は小沢氏の道義的責任に絞ってそこを批判するような言葉を繰り返していたが、それ以外の面には全く言及することなく、見方が一面的すぎるように感じた。しかし、このような見方でも、繰り返し大声で語ることによって扇情的に感情を刺激するような面があると、短絡的に「小沢は悪い」という先入観を持っている人間には効果的にこの言葉が伝わる可能性もある。世論をあおるという面では、一定の効果を期待できる可能性もある。僕の尊敬する三浦つとむさんは、指導者を論じたときに、扇動家の必要性を説いていた。扇動家というのは、その語る真理は少ないものの、感情に働きかける面が強く、他者をより効果的に行動に引っ張っていく力を持っている人間のことだ。三浦さんが活躍していた頃は、マルクス主義者たちは、自分の論理の正しさに自信を持っていて、正しくありさえすれば実現するという信念に燃えていた。しかし、正しさを本当に理解するのはかなり困難なことだ。正しさを理解すれば、その理解が行動に結びつくだろうが、正しさを理解するのに困難があれば、たとえ正しいことであってもなかなか行動には結びつかない。そんなときに、正しさを行動にすぐ結びつける力として、感情に訴えると言うことが出てくる。その必要性を三浦さんは語っていた。山際氏は、理論家としては全く信用が出来ない。その批判は、「共産党議員と元産経記者が同じ論調となった「朝まで生テレビ」 青山貞一」というブログエントリーで詳しく論じられている。ここでは、朝生の同じ出演者の穀田恵二氏(日本共産党・衆議院議員、党国会対策委員長)に対しても同様の批判を展開している。右と左の二人の論客が同じ批判を浴びているのは、不思議であると同時に、さもありなんという納得するようなところもある。青山さんの批判は基本的には次のようなところにある。「穀田議員と山際氏の2名は、いずれも討論番組の趣旨を理解せず、事実認識より価値判断(またはイデオロギー)を優先し、終始、絶叫しており、まさに聞くに耐えないもので、その発言には本当にうんざりした。 周知のように、この2人が所属している(していた)組織、すなわち日本共産党と産経新聞社は、55年体制の遺物のような組織であり、思想、イデオロギーが180度異なるものの、その実、精神構造、価値観はほとんど同じである。今回の討論でもそれが今更ながらいやと言うほど分かった次第である。」イデオロギーによる支配とバイアスというのもで、その思想的立場が全く異なるにもかかわらず、行動面では同じようなものが生じてきているというのが、青山さんの見方だ。イデオロギー的なものが原因だとすれば、この二人の見方が一面的になるのも納得できる。そして、その内容にかかわらず、イデオロギーの支配と言うことで同じ結果が出るというのは、抽象論理としても納得できるものだ。山際氏に関しては、「とりわけ、山際氏は各種ネットにおいても「(山際氏が発言すると)スタジオの空気が変わって、みんなうんざりしたような表情になる」と論評されているように、予断、自分の価値判断で事実なり真実に依拠しない感情論のオンパレードであり、到底、聞くに耐えない。これは、まさに産経新聞系の論調そのものではないだろうか?」と青山さんは書いている。僕は、山際氏を知ったのは、この朝生の録画で初めてだったが、その第一印象はまさにこの通りだった。山際氏の、論理としては的外れで無茶な発言に対しては、「あきれた」というような表情を他の出演者は見せていた。軽蔑を含んだ笑いも漏れていて、山際氏が一方の側の極論をパロディ的に演じているという立ち位置がそこに見えてくる。ただ、このパロディ的な役柄というものが、極論のばかばかしさを際立たせているならいいのだが、感情をあおられて、本気で共感するような人間が出てくると、扇動家としての役割の効果が出てくる可能性もある。そのあたりのことはよく考えてみたいものだ。青山さんは、「上記2名の状況と無関係な絶叫を除けば、今回の「朝生」は、妥当な人選であり、なかなか聞き応えがあった」と最後に結んでいる。僕もそのように感じた。僕は、自分の感覚としては、郷原さんに説得力を感じ、検察批判の論理に共感している。しかし、その反論としてまともな論理が展開されているなら、それは聞くに値するものだと思うし、それを正しく批判できるなら自分の考えもより深まるだろうと思っている。郷原さんの説明のどこに説得力を感じるか、その反論に対してはどこに疑問を感じるかというものを、朝生をよく見て考えてみたいと思う。それにしても、ここで青山さんに批判されている共産党の穀田議員に関しては、僕は共産党のシンパではないのだが、共産党自体に対して少々心配になってしまうところがある。出演者のジャーナリストである大谷昭宏さんから、権力の側の視線で語るようになっていることを問題にもされていた。反権力の立場である共産党が、権力の立場で小沢問題を見ていることの整合性がどうなっているかを指摘されたものだと感じた。穀田議員をはじめとして、志位委員長のインタビューにも見られるように、共産党が小沢問題を語る口調というのは、確かに正論であると感じる。しかし、その正論は前提となる仮定がある。検察が語ることが正しいならばというものだ。これまでは、検察からむしろ弾圧される立場にいたはずの共産党が、ナイーブに検察の言うことを前提にして論理を構築していいものだろうか。権力に対してあまりにも鈍感になりすぎていないだろうか。それとも、民主党を攻撃する材料であれば、何でも使ってしまえという戦略があるのだろうか。この戦略は、将来的には共産党にとってマイナスに働くように僕は思う。どんな問題に直面しようとも、共産党は権力に対して敏感であり、まっとうな論理で批判を展開することこそが共産党の存在にとってより多くの人の共感を得られる道だろう。青山さんが指摘するように、右側の極論と一致するような事を語っていては、本来の支持者が逃げ出すのではないだろうか。山際氏が語ることは、その内容における論理としては見るところがない。しかし、煽動としての効果がどれくらいあるかは議論に値するように感じる。それに対し、穀田議員の語ることは、その内容は全くの正論であって反論することは何もないのに、それでこの問題に何かを語っているかということを考えると、全く無内容であるにも感じる。本質とは関係のない的外れの議論であるように見える。共産党は大丈夫なんだろうか、と心配になるような内容だった。
2010.01.31
コメント(0)
僕は、この一連の問題に対する見方として、元検察官の弁護士である郷原信郎さんの主張に説得力を感じて、同じような視点からこの事件を見たいと思ってずっと考えてきている。それは、この捜査のやり方があまりにも強引で無理があるという見方だ。小沢さんを追求するにしても、このやり方は不当ではないかという疑問からこの問題を考えようと思っている。郷原さんも何度も語っているのだが、この視点は小沢さんを擁護するという視点ではない。小沢さんの悪を追求することがけしからんというのではなく、その追求の仕方が正当性がなければ、たとえ悪を突き止めたとしても、その告発に不当性があれば告発なんか出来ないのではないかという主張だ。小沢さんが本当に悪いのであれば、まともな方法で追求してくれと言うことだ。もしまともな方法で追求できないなら、それは疑惑ではあっても、それ以上ではない。正義を振りかざして、疑惑のある人間を叩いてもいいと考えるのは、前近代的な封建社会から日本が抜けきっていないことを示しているのではないかと思えて、日本の近代民主主義そのものに対しても疑問を感じてしまう。日本が真の民主主義社会へと脱皮するために、この小沢問題は重要なものだと思うだけに、深く考えたいものだと思う。ライブドアのブログにも僕は同じ内容の日記をアップしているのだが、そこには「生粋の気が向いたら書く日記」というブログから次のようなトラックバックをもらった。「小沢氏の問題、だけでなく民主党の問題でもある小沢氏の問題、だけでなく民主党の問題でもある」ここで語られていることも、やはり「視点」の違いを感じる。問題にしている事柄が全く違うのだ。小沢さんが悪いことをしたかどうかという問題とは別に、まずはその捜査そのものに正当性があるかどうかを僕は問題にしたい。そこを問題にしないで、小沢さんが悪いことをしているのではないかという疑惑から、民主党はダメだと短絡的に判断するような国民が増えるのを心配している。しかし国民の大部分は、その程度のマスコミの宣伝に踊らされるほどもうナイーブではなくなっていると期待したい。小沢さんへの追求の正当性を確認した上で、小沢さんへの評価をするような賢さを、国民はこの間の政治状況を見て身につけたと信じたい。さて、この問題に対する報道への疑問はすでにいくつか語っているのだが、もっとも素朴な疑問をもう一度まとめてみたいと思う。このような素朴な疑問は、特別な知識や情報を持たなくても、毎日の報道を見ているだけで気づくのではないかと思う。どこかで、このような疑問に答えているところがあれば、それも探しておきたいと思う。1 疑惑を証明する情報として、なぜ「供述」しか出てこないのか。物的証拠がないのか。小沢氏の事件に関しては、石川容疑者がこう供述したとか、大久保容疑者がこのように言った、あるいは水谷建設元幹部が供述したことはたくさん報道される。しかし、供述以外の報道を目にしたことがない。この「供述」というものは、本人と検察しか知り得ないもので、本人がそれを流しているとは思えないので、検察がリークしているに違いないと、誰もが思っている事柄だ。供述というのが流されれば、それが検察のリークであると言うことがすぐに疑われる。もし物的証拠の情報が流された場合に、捜査段階でそのような情報が漏れるのはまずい、と考えるなら、供述情報が漏れるのもまずいのではないかとも思うのだが、今回の事件に限っては物的証拠についての報道が何もない。他の事件では、たとえばDNA鑑定などの情報が報道されることもあったように記憶している。物的証拠に関する報道が全く行われないわけでもないようにも思う。今回の事件では、物的証拠に関する報道がないのは、それがないのか、それともあっても出せないのか、いったいどちらなのか分からないが、供述の情報だけが報道されるのは、明らかに変だと感じる。ここまでは素朴に考えても出てくる疑問で、次のような疑問はある種の情報を持っていなければ出てこない。それは、マスコミが報道する供述が嘘ではないかという疑問だ。それに対しては、次のような情報がある。「連日8時間以上「嘘をつくな!」などと激しく罵倒され続けている石川議員」というブログエントリーでは、「報道機関各位読売新聞は、本日、「(略)石川知裕衆院議員が東京地検特捜部の調べに、土地購入前の2004年10月下旬頃、土地代金に充てる現金4億円を同会の同年分の政治資金収支報告書に記載しない方針を小沢氏に報告し、了承を得て いたと供述していることが、関係者の話で分かった。」と報道していますが、石川氏が上記のような供述をしたことは全くなく、上記の報道は完全な誤報です。2010/01/20石川知裕氏弁護人弁護士 安 田 好 弘同 岩 井 信」という、マスコミでは報道されない情報が載せられている。もしこの情報が広くマスコミで報道されたなら、もっと素朴な疑問を持つ人が増えることだろう。捜査の正当性を疑わせる。2 水谷建設は1億円の献金をしてどれだけの利益が上がったのだろうか水谷建設の人間からの供述の信憑性は、多くの人から疑問を出されている。僕は浅井久仁臣さんのブログで知ったのだが、郷原さんもテレビで語っていたようだ。違法献金をしたという供述が嘘か本当かというのは、それだけではなかなか判断が難しい。しかし、嘘であれば、不当な方法で小沢さんを陥れようとしているというのは明らかだ。それが本当であると言うことは、納得がいくような論理と物証で証明しなければならないだろう。だいたい裏献金をしたと供述するというのは、それが確かな証拠を捕まれて逃げられないと観念したときに、否認するのは不利だから、少しでも情状酌量してもらうために自供するというケースが論理的にはあり得るものではないだろうか。つまり、証拠固めがすんでいて、自供した方が有利だという状況でなければ供述がとれないのではないだろうか。そうであれば、供述よりも確かな物証の情報が出る方が論理的であるような気がする。供述だけというのはいかにも不自然だ。それから、テレビで誰かが語っていたが、今の時世で1億円もの献金をするだけの余裕が下請けの会社にあるだろうか、という疑問がある。この1億円の献金の見返りはいったいいくらあるというのだろうか。発注の費用の中にすでに献金が見込まれていたのだと、という考えもあるだろう。しかしそれなら、公的な記録に残っている金の出し入れを調べれば、原価に対する利益の大きさが不自然に大きいなどの現象が調査によって得られるのではないだろうか。マスコミならそれくらいの調査が出来そうな気がするのだが、そのような報道はない。この1億円の裏献金が、表に出せない金であるなら、脱税なりなんなりで作り出した金でなければならないだろう。水谷建設は、脱税でも摘発されているそうだが、その額はどのくらいあるのだろうか。1億円の献金を作り出すだけの、隠し金を作る能力が水谷建設にはあったのだろうか。そのような報道がなければ、水谷建設の人間が裏献金をしたという供述は、にわかには信じがたいと思う。このような素朴な疑問からも、僕は検察の捜査に疑問を感じざるを得ない。この疑問を感じると言うことは、決して小沢さんを擁護し、悪を見過ごすこととイコールではない。
2010.01.28
コメント(0)
一連の小沢氏の問題に関連して、小沢氏に対する批判として、小沢氏が古い自民党の体質を引きずっている政治家だということが言われる。だから、民主党にとっては小沢氏に退場してもらった方がいいので、今回の問題はむしろ民主党にとってもいいことだというようなことが言われたりする。これは半分くらい正論が混じっているものの、的外れの勘違いの論理だと僕には感じる。退場するのが小沢氏の古い体質だけであって、民主党の新しさがそのまま残るのであれば、上のような正論も一定の理解が出来るだろう。しかし、現実はそううまくいくものではない。小沢氏に古い体質が残っているのは確かだが、もし小沢氏にそれだけしかないのなら、小沢氏はまだ古い自民党に居座って権力をふるっていただろうと思う。小沢氏には、古い体質と、新しい民主党の体質とが混在していて、まだ様々な弱い部分をもっている民主党にとっては、当面必要な人材ではないかと思われる。その小沢氏に退場してもらうと、下手をすると民主党そのものの退場につながる恐れもある。それでは、今の時点で民主党が権力の座から退場したとき、それに変わる勢力がどこにいるか。それは古い自民党勢力しかいない。自民党は、河野太郎氏を総裁に選ばなかった時点で、未だに古い体質を引きずっていることを露呈している。民主党がまだ未熟で、様々な失敗を重ねていることは誰の目にも明らかだ。しかし、それは新しい出発の際に起こる失敗であって、古い利権が露呈して起こした失敗ではない。もし、民主党のために小沢氏の古い体質を一掃するのだと正論を吐くのなら、さらに組織の中に古い体質が浸透している自民党を、小沢氏以上に追求しなければ公平さを欠くだろう。小沢氏だけを攻撃することに疑問を感じるのは、その結果として古い自民党政治の復活を許すことになってはいけないと僕は思うからだ。小沢氏に不正や疑惑があるのならそれは追及すべきだろうと思う。そこを擁護するつもりはない。だが、同じように古い体質をもっている自民党も同じように厳しく追及すべきだ。小沢氏だけを攻撃することに疑問を呈するのは、表面的には小沢氏を擁護しているように見えるかもしれないが、それは日本の政治の方向を考えた場合に、もう一方の側からの正論だと僕は思う。前置きが長くなったが、自民党政治の古い体質というのは、本質的にはどのようなものなのかというのを、宮台さんの新しい著書では実に適切に語っている。そこから脱却することが民主党が提唱する新しい政治になり、古い体質の本質を温存してしまえば、表面的にどれだけ修正したように見えようとも、日本の沈没は避けられない。自民党を退場させたという有権者の選択は正しかったという確信を持つとともに、新たに選択した民主党政治を、本当に実りあるものにするために、古い自民党政治の本質を理解したいとも思う。さて、宮台さんは、古い自民党政治の本質を次の2点に集約している。・自民党が農村政党だったこと。・自民党が日米安保体制にぶら下がっていたこと。この2点が、自民党の長い政権を支えていた原因になり、今日の凋落につながったと分析している。つまり、ある時代にはこの本質が自民党の権力にとっては有効に働き、時代の変化とともに、この本質はかえって弊害となってきたと理解しているわけだ。農村政党というイメージは、農村での支持が厚く、農村を中心にした政策を展開していたと言うことでもある。これは、経済政策としては農村人口を都市部に移動させているので、農村中心の政策という指摘に違和感があるかもしれないが、経済の発展によって得た利益が大部分農村へと環流したという点で、農村中心の政策だという判断をしている。ここで宮台さんは、「農村政党」という言葉を使い、「農業政党」ではないとも語っている。それは、「農業政党」であれば、農業に対して適切な政策を行い、農業が衰退するのを防ぎ、農業の振興を促すような政策を行うことがふさわしいと思うからだ。自民党は、宮台さんの言葉に寄れば、「農村の余剰人口を都市部に移転して産業化を遂げたアガリは、農村に公共事業=土木工事を通じて再配分されました。やがて農村は農業より公共事業に依存するようになり、農村の基盤である農業が空洞化、集票装置として機能しなくなりました。」と語っている。「空洞化」という言葉はよく使われるが、基本的なイメージとしては、中身がなくなって外の形だけが残っているというものになる。土木工事でお金が落ちるようになった農村では、農村という形だけが残り、農業という中身がなくなってしまったと言うことが「空洞化」のイメージになるだろうか。これは、高度経済成長の時代であれば、いくらでも利益を農村にもたらすことが出来たので、その間だけは集票装置として有効だっただろう。自民党の権力を支えるものになっただろうと思う。だが、経済成長は永遠に続くものではない。農村を本来の農業によって支えることが出来なければ、農村は疲弊して崩壊してしまう。農村部での自民党支持が徐々に減っていくのは、利益誘導が出来なくなった時期と一致するだろう。そして、小泉内閣で農村を切り捨てることになって、農村部の支持は民主党と逆転することにもなってきた。古い自民党政治は、農村に単に金銭的な利益を戻すだけであって、農業そのものを復興させようという政策はなかった。新しい民主党は、その空洞化した農業を、国家のために必要なものとして復興させることが古い自民党政治との決別になるだろう。八ッ場ダムのような公共事業を見直し、地域再生のための産業を本気で考えることが民主党にとって新しい政治をスタートさせるキッカケになるだろう。それは難しいことで、多くの失敗を引きずることだと思うが、それでもその方向を向いていることは支持するべきだろうと思う。もう一つの「日米安保体制にぶら下がる」という本質に対しては、かつてはアメリカ一辺倒になることが日本の利益となった時代があったが、今では「対米追従と国土保全が両立しなくなっている」という宮台真司さんの指摘がその説明になっているだろう。かつては、対米追従をしていることが、アメリカから一方的に利益を引き出すことになっていた。この時代は、結果的に経済成長をもたらし、この政策が自民党の権力を支えていたと言えるだろう。しかし、宮台さんに寄れば、「日本の製造業一人勝ち」という現象が、アメリカにとっては一方的に利益をはき出すだけではなく、日本から利益を逆に取り返すという方向にシフトしたと指摘していた。それは、アメリカの年次改革要望書などに露骨に表現されていたと言うが、大部分の日本人はそれを知らなかった。対米追従が深まれば深まるほど、日本の産業は空洞化し衰退していった。小泉内閣の政策がまさにそのような年次改革要望書に沿ったもので、今の日本の疲弊につながっている。対米追従のいいわけに使われていたのは、もしもの時に安保体制に頼らなければ、日本には自国を守るだけの軍事力がないと言うことだった。しかし、これはかなりインチキな議論であることが宮台さんにも指摘されている。本当に有事になったときには、アメリカは自国の利益になる範囲内でしか日本を守るという意識はないだろうと言うことを宮台さんは指摘していた。これは外交ということを考えれば全く当たり前のことだと思うのだが、自民党の外交では、最後はアメリカを信頼しているという言葉が繰り返されていた。民主党は、対米外交に関しては「対等」というキーワードを提出している。少なくとも自民党がこれまでやってきた「追従」とは違うということは分かる。これはかなり難しいところがあるので、今はもたもたしているようにしか見えないが、基本的な方向としては、「追従」を脱却していかなければならないということを考えると、これも民主党の方向を支持すべきだろうと思う。そうでなければ日本の疲弊を防ぐことが出来ないだろう。対米外交の「対等性」を確立するためには、自国の防衛を自立させる必要があるので、重武装化が必要であり、場合によっては憲法改正も視野に入れなければならないというのが宮台さんの持論だが、僕も、条件付きの仮言命題としてそれに賛成だ。「対米外交を対等にしたいなら」という条件文を設定した場合、「重武装化をする」「そのために憲法を改正する」「アジア諸国への理解を求めるために謝罪外交をする」という諸々の主張が、正当な論理として見えてくる。一度退場させた古い自民党政治は、上のような本質をもっているが故に、その復活を許せば日本はさらに疲弊し復興することはなくなる。小沢氏だけを叩くことが、果たしてどこに利益をもたらすか、そのことを考えるとやはり、マスコミの小沢叩きには強い批判を感じざるを得ない。古い体質を復活させてはいけないのだ。新しい民主党の方向を確立して、その上で小沢氏の古い体質の批判へと向かうべきなのだと思う。
2010.01.27
コメント(0)
小沢氏の参考人聴取後の記者会見について、「ビデオニュース・ドットコムの「プレスクラブ」」で、そのノーカット版が放送されていた。そして、今度は小沢氏の定例記者会見が上のサイトで見ることが出来るようになっている。これについては、「小沢氏会見「家族名義」「現金保管」詳細語らず(読売新聞)」という記事でも報道されている。そこで定例記者会見のすべてを見た印象と、この記事から受ける印象とを比べてみようと思う。まずは記事の中の次のような記述を考えてみたい。「また、家族名義の口座から引き出した資金を自分の事務所の金庫に保管していたことについては、「政治資金と私的な資産は明確に区別している」と述べたが、どう区別していたかについても触れなかった。」ここで報道されている事柄の内容については、実際の会見では次のように答えていた。その区別は、私的な使い道と、公的な使い道とは、明確に区別していると言うような語り方だった。「私的なものは自分自身が支払い、公的な出張などは区分けして行動している」というようなことを語っていた。これを解釈すると、お金としては金庫の中に一緒に入っているけれど、それをどう使ったかという記録においては、公的な部分と私的な部分とは明確に区別されて記録されている、というふうに僕は受け取った。「どう区別していたかについて」は、一応は語っていると思うのだが、この記事を書いた記者は、そのように受け取っていなかったのだろうか。「政治資金と私的な資産」という表現にしてしまうと、これは名詞表現であり、この区別は実体としての金の区別を指すのだと言いたいのだろうか。つまり、金庫の中で、具体的な金が「政治資金」と「私的な資産」として、別々に保管されていなければ、区別がついていないと解釈していたのだろうか。実体としてのお金を区別することに倫理的な意味があるだろうか。むしろ倫理的にも正当性を判断するのは、その金がどのように使われたかという点にあるのではないだろうか。そのような意味では、使い道において区別されていれば、「政治資金」と「私的な資産」は区別されているのではないだろうか。「区別」と言うことの意味を、どのような意味でこの記事が語っているのかは重要なポイントではないかと思う。また、疑問を呈するとすれば、その使い方の具体的な面での不正がなかったかを問題にすべきではないかと思う。金そのものの区別の問題ではないのではないか。次の記述では、「言及しなかった」という言葉の意味を考えてみたい。「焦点となっている東京都世田谷区の土地購入代金の原資4億円に、小沢氏の家族名義の口座から引き出した資金が含まれていたとしていることについて、小沢氏は記者会見で、自身の病気がきっかけだったと説明したが、これが家族への贈与なのか、単なる「名義借り」だったのかについては言及しなかった。」ここで「言及しなかった」という記述をするのは、単に事実を述べているだけではなく、「言及するべきだったのに、言及しなかった」という主張が隠れているように感じる。もしそうであるなら、次の定例会見ではこのことが聞かれなければならないと思う。もし次の定例会見で誰も聞かなければ、「言及するべきだった」とは考えていなかったのかな、と感じる。果たして次の会見ではどうなるだろうか。誰かが聞くだろうか。家族への贈与と言うことになると「税金逃れ」というようなものと結びつき、「名義借り」と言うことになっても、何か胡散臭い印象は残る。だから「言及すべきだ」と考えたくなるのだろうと思う。しかし、「家族への贈与なのか、単なる名義借りなのか」と言うことは、直接の質問にはなかったように思う。だから、質問されなかったから「言及しなかった」とも言える。質問していれば言及していたかもしれない。あえて意図的に言及していないのだ、と言うためには、次回に質問しなければならないだろう。次回の定例会見に注目したいと思う。秘書にまかせていたと言うことに関しての「小沢氏の資金管理団体「陸山会」は問題の土地の代金を支払った後、4億円の定期預金を組み、これを担保に小沢氏名義で同額の融資を受けていた。小沢氏自身も融資の関係書類に署名していたが、小沢氏はこの点について「私自身としては(土地を)買うという方向性を決め、自分の資金を提供したというところまでで、(秘書が)具体的にどう事務を取り扱ったのか、どのように相手方と交渉したのか、一切報告をしろと言ってないし、信頼して任せていた」として、詳細は知らなかったと主張した。」という記事に関しては、小沢氏の発言にちょっと気になるところがあった。それは、記者会見では、すべてを丸投げにしてまかせていたのではなく、基本的な方針として、たとえば土地を購入するという点に関しては小沢氏が決定・承認したと言うことで了解していたのだが、その手続きや具体的な経過(相手との交渉)などについては、詳細についてまで指示していたのではなく、そこは秘書を信頼してまかせていたという表現になっていた。そして、このような信頼関係は、政治家と秘書については普通のことだと認識して、詳細についてまで把握はしていなかったという意味で「知らなかった」と発言していた。小沢氏がここで説明していることは、果たして普通にどの政治家も行っていることかどうかというのは、一般の人々にとっては情報がない。しかし、マスコミならその情報をつかんでいるのではないかと思う。その意味では、会見後の報道として、それが普通のことなのかどうかということを調べて記事にして欲しかったと思う。これが、もし普通のことであるならば、小沢氏が説明することに一定の理解を示すことが出来る。しかし、これが普通ではなく、小沢氏が特別にそのようなことをしていたと言うことであれば、そのことによって何か隠したいことやごまかしたいことがあるのではないかと疑われても仕方がない。小沢氏の回答を見るだけでは、それが妥当であるかどうかという判断が出来ないが、マスコミが関連する重要な情報を提供してくれれば、その回答の妥当性を一般の人も判断することが出来るようになるだろう。ジャーナリズムとしての報道機関であればそのような情報を提供して欲しいものだと思う。
2010.01.26
コメント(0)
東京地検特捜部の参考人聴取を受けていた民主党の小沢一郎幹事長の記者会見が23日に行われた。僕は、この一連の小沢氏の問題に関しては、検察の無理な捜査を批判する郷原さんの主張に説得力を感じている。だから基本的には、この参考人聴取も、隠されている事実を明らかにすると言うよりも、小沢氏が重大な犯罪をやったのではないかという疑惑のイメージを増幅するために行われたパフォーマンスに過ぎないと感じている。自分の基本的な立ち位置はこのようなものだが、この記者会見が一般の人々にどう受け取られるかというのはとても関心が深いものだ。検察やマスコミがねらうように、小沢氏の疑惑がさらに増幅されて、確たる証拠がないにもかかわらず、「小沢は悪い」というイメージが固定していくのか、それとも、検察側のパフォーマンスがあまりに行き過ぎているために、その効果が逆に効いてしまい検察やマスコミに対する信頼性が失われ、そのために小沢氏の「悪い」イメージが薄まっていくのか。果たしてどちらの結果が出るだろうかと言うことに大いなる関心がある。この記者会見は、カットなしにすべての映像が「ビデオニュース・ドットコムの「プレスクラブ」」で見ることが出来る。この映像と、新聞などのマスコミ報道を比べてみて、そのイメージを自分ではどう感じるかということを考えてみたい。「「小沢氏が記者会見「裏献金一切もらっていない」」という記事では、産経新聞であるにもかかわらず、事実のみが淡々と語られている。事実から引き出されるイメージに関しては、この報道では見られない。これはオープンにされた記者会見であり、「関係者によると」という表現が使えないので、事実のみを伝えることしかできなかったのかもしれない。神保哲生氏が言うように、記者会見がオープンになると、恣意的なイメージ操作というものはやりにくくなり、結果的に事実に関しては正しい報道がなされるようになるかもしれない。ここで語られている事実をまとめると、・小沢氏は会見に先立ち、資金管理団体「陸山会」の土地購入と資金の流れについて説明するとして文書を公表、あらためて虚偽記入への関与を否定。・資金管理団体「陸山会」の土地購入の資金とされる4億円について、「一部は建設会社からの裏献金であるやの報道がなされているが、事実無根。私は不正な裏献金など一切もらっていない」と説明した。・小沢氏は、聴取に対し「私は隠し立てすることはないので、記憶している限り、事実をそのまま包み隠さずお話を申し上げた」と述べた。・また、「与えられた職責を全うしたい」と述べ、党幹事長職を辞任しない意向を明らかにした。・水谷建設からの「裏献金」とされる金については「そのような不正の金は水谷建設はもちろん、ほかの会社からも一切受け取っていない。秘書や秘書だった者も受け取っていないと確信していると申し上げた」と話した。・事情聴取は黙秘権の告知を受けて行われたことを明らかにし「(黙秘権は)行使しておらず、すべて答えております」と述べた。2通の調書に署名したという。・説明責任については「今後さらに、国民に説明すべきことは説明していきたい」と述べた上で、「捜査にはいつでも協力すると伝えてきた。結果として今日になった。捜査には今後も協力してまいりたい」と話した。というような内容になる。これらは、ビデオニュースの映像とほぼ一致するので事実としては間違いがないだろうと思う。だが、ここで言う「事実」というのは、小沢氏が説明し話した、ということの事実という意味だ。その話した内容が「事実」つまり正しいのかという論評は一切なされていない。それがなされていないというのは、新聞・マスコミにはそれを確認する手段がないと言うことを物語っているのだろう。話された内容をそのまま伝えることは出来るのだが、その内容を確認することがマスコミには出来ないのだ。彼らは教えてもらったニュースしか書くことが出来ない。記者会見がオープンになると、彼らの書く記事を読む必要はほとんどなくなってしまう。「「小沢氏聴取…本人は会見で関与否定」という読売新聞の記事は、イメージ操作の上ではもう少しうまいやり方をしている。ここには、「小沢氏は幹事長を続投する意向を示したが、逮捕された同会の元事務担当者の石川知裕衆院議員(36)が起訴されたり、小沢氏本人の関与が濃厚となったりした場合、小沢氏の進退が政局の焦点となることは必至だ。」という記述が見られる。「~ならば」という仮言命題を使った表現は、その前提となる事実が間違っている場合、内容的には意味がなくなるのだが、結論部分のイメージは残るという効果があり、イメージ操作には有効な表現だ。ここでは「~たり、~なったりした場合」という表現で仮言命題としての効果を出している。起訴するかどうかと言うことは、宮台真司さんに寄れば、検察の意向でいくらでも出来ることであり、起訴された時点で犯罪者であることが決定したことになるわけではない、と理解するのが本来は論理的な理解だ。しかし、ほとんど100%に近い有罪率がある日本では、起訴された時点で被疑者は犯罪者扱いされる。だから、無実であるのに起訴された場合でも、イメージ操作としては、それによって「小沢氏の進退」が問題になってくる。また「関与が濃厚」であっても、それはまだ「疑惑」の段階であり、犯罪性が確定したわけではないのに、それでもイメージとしては「小沢氏の進退」を問題に出来る世の中の雰囲気を作ることが出来る。世論操作のテクニックとしては、産経新聞よりも読売新聞の方が一枚上手(うわて)だという感じがする。ただ、読売の記事にはある種の姑息さも感じる。記事の後半部分で、「一方、これまでの特捜部の調べに」という記述で、この記者会見そのものの事実とは関係のない事実をさりげなく織り込んでいる。記事が記者会見の記事であるならば、このような予断を与えるような違う事実を差し挟むのは、、ジャーナリズムとしてはインチキではないかとも感じる。石川容疑者の供述や、水谷建設元幹部の供述などは、それがもしも正しい情報なら、この記者会見と関係なく、そのことを中心に追求するべきではないだろうか。ここの部分に挿入するというのは、情報の正確さを疑わせるし、イメージを落とす効果をねらっているように感じる。さらに最後に、「特捜部は収支報告書の虚偽記入容疑について、小沢氏が石川容疑者らと事前に共謀した疑いがあるとみており、今後、今回の聴取結果を詳しく分析し、小沢氏の刑事責任追及を視野に捜査を進める方針だ。」と書いているのは、この参考人聴取でまっとうな追求が出来なかった検察のいいわけを代弁しているような気もする。小沢氏の会見を伝える記事で、なぜこのことを最後に書かなければならなかったのか。このようなことは、検察が記者会見でもしたときに記事にすべきことなのではないかと思った。ジャーナリストの浅井久仁臣さんのブログでは、「私の視点 小沢氏記者会見に見る報道の機能不全」というエントリーで、小沢氏の会見の内容ではなく、むしろ記者たちへの批判が語られていた。「記者たちも「きちんと説明するべきだ」と息巻いていた割には質問も鋭さを欠き、小沢氏の独壇場の感さえあった。あのような質問しかできない記者たちだから検察のペイスに乗せられるのだと思った国民も少なくなかっただろう。記者たちも「きちんと説明するべきだ」と息巻いていた割には質問も鋭さを欠き、小沢氏の独壇場の感さえあった。あのような質問しかできない記者たちだから検察のペイスに乗せられるのだと思った国民も少なくなかっただろう。」という指摘には頷けるものがある。浅井さんは、「私が会場にいれば」と語って、・「『銀行も(倒産などで)信頼を欠いていたから預けなかった』と言うが、80年代後半から90年代にかけてはそんな心配をする者はほとんどいなかった。そればかりか、当時の高金利を考えれば、預金しないことの方がおかしい。当時、あなたの後ろ盾であった金丸信氏が資金作りのために『ワリシン』などの金融商品に投資するなど様々な形で金融機関を利用していたことを考えれば金庫にしまっておくのは不自然ではないか」・「それらの資金を生んだ不動産取引などの報告書の提示を用意してないのか。(用意してなければ)それはどうしてなのか」・「4億円もの資金を手元に常に置いておくことの市民感覚との乖離は理解できるか。それで国民に対して説明できたと思うか」・「奥方からの資金援助はいくら位、これまでどのような形で行なわれてきたか。その報告はできるか」・「4億円を紙袋で手渡ししたと言うが、それは本当か。もしそうなら、場所はどこで、その重さはどのくらいあったか。その時、誰に何に入れて渡したか」という事柄を「追求するだろう」と書いている。僕も、このことが聞かれるなら、あの記者会見は意味が深く、一般国民にとって貴重なものとなっただろうと思う。僕は、記者会見の意味をこのように感じたのだが、多くの人は果たしてどのように感じただろうか。また、「世論調査」という茶番で、この記事の効果がどれくらいあったかをマスコミは調べるのだろうか。
2010.01.25
コメント(0)
かつて、神保・宮台両氏のマル激トークオンデマンドでは「世論調査」というもののうさんくささを確率論的な誤差の面を切り口にして批判していたことがあった。世論調査の結果として、小数点以下までの細かい数字が示されることがあるが、この範囲はほとんど誤差の範囲であって、そのあたりの細かい数字にまで言及して支持率などの世論調査を論じているような記事は、基本的な面で信用するに値しないという批判だった。世論調査というものは、それがたとえ正しく調査され計算された数字であろうとも、その評価をするに際してもう一つ重要な要素がある。それは、どのような質問がなされた結果としての数字なのかと言うことだ。世論調査というのは、質問によっては、はじめからある結果を出すための意図的なインチキとしての質問になっている場合がある。世論調査というのは、世の中の人々がどのような考えをもっているかがわかりにくい問題であるときに、その傾向を探るために行われる。それが、最初から予想できるような結果をもっといるとしたら、その世論調査は茶番と言ってもいいようなインチキだと考えられるだろう。かつてイラクが危険な状況の時に、日本人が人質になる事件があった。その時、人質解放の条件として自衛隊の撤退などが要求されていた。このとき自衛隊の撤退が正しいかどうかと言うことが世論調査をされたように記憶している。このことに対して宮台さんは異議を唱えていた。人質解放を要求される以前であれば、自衛隊を派遣していることの意義を議論する余地があったが、それを交渉条件として提示された段階で、自衛隊の撤退はあり得ないというのが宮台さんの主張だった。自衛隊の撤退という問題を、日本政府が自発的に自分で判断して行うならば、これが国益にかなうものであるかという議論をする余地がある。しかし、カッコ付きの「テロリスト」からの要求に応じて、交渉の結果として自衛隊の撤退を決めるような形になれば、それは日本の国際的立場を危うくするような結果を招き、日本は「テロ」との戦いに立ち向かうという原則を守っていないと見られてしまう。自衛隊の撤退を交渉内容にされたことによって、このことは議論することの出来ない事柄になってしまったというのが宮台さんの判断だった。この宮台さんの主張はわかりやすく説得力のあるものだった。だから、この自衛隊撤退要求に対する答えとしては、このような主張を提示すればいいのであって、これは世論調査をするようなものではない。世論調査というのは、問題の解答が複雑であって、どれが正しいとはっきり言えないような内容の時、民主的な決定を重んじるなら、どのくらいの人が多数派の意見を構成しているかを知るために行うのでなければならない。正しい主張というのが明確に分かる場合は、世論調査にかけるのではなく、正しい主張をこそ提示すべきだろう。(当時の記事としては「【小泉内閣支持率―朝日新聞社世論調査―】 「イラク人質事件で緊急世論調査 政府の対応を6割が評価 」」というものが見られる)さて今回、小沢氏の一連の政治資金規正法に関する問題で、それが民主党の支持率にどのような影響を与えたかと言うことが世論調査されている。これは、イラク人質問題の時の世論調査と同じように、本来は世論調査すべきものではないことをわざわざ調査して、ある意味ではマスコミの世論操作の結果がどの程度現れているかを確認するような、茶番劇としての世論調査になっている。小沢氏の問題の報道に関しては、優れたジャーナリストや郷原さんのような検察の専門家が指摘していることが正しいものだ。それは、世論調査にかけるまでもなく、何が問題であるのかというのを正しく指摘すればいいことだと僕は思う。「きっこのブログ」を経由して発見したものとしては、ジャーナリストの江川紹子さんが「東京地検特捜部の判断は常に正しい、のか」という一文を書いている。ここで主張されていることが、小沢氏の問題への正答だと僕は思う。もし、小沢氏の問題が民主党の支持率に影響するとしたら、この正答を知らない人が、そのセンセーショナルなあおりに惑わされて感情的に反応しているのだと受け取るべきだろう。小沢氏の問題は、その捜査のあり方がまっとうなものであるかどうかがまず問題にされなければならない。そして、その報道のあり方がまっとうなものであるかも問題にされなければならない。それが全く問題にされないままに、その本質を意識しない人々がどのような受け止め方をしているかを調査しても、そんなものがまともな「世論」になるはずがない。こんなものは「論」ではなく、単に感情的な印象がどれだけ広まっているかを示しているに過ぎないものになる。マスコミのあおり報道が、どれだけ宣伝効果があるかを計っているだけに過ぎない。ましてやこの報道が民主党の支持率にどのように関わっているかの調査などは、感情的に影響を受けた人がどれくらいいるかと言うことの調査に過ぎない。そんなものは、まっとうな支持率として受け止める必要はないのだと思う。そもそも、民主党政権が自民党政権に変わったと言うことの本質的意味を知るのはたいへん難しい。宮台さんの新著でそれは詳しく語られているが、宮台さんは、その本を「読み飛ばさないで欲しい、何度も読み返して内容を深く考えて欲しい」というようなことを語っている。民主党の評価というのは、我々が経験したことのない「政権交代」の意味をどのように理解するかにかかっている。その上で支持をするかどうかという問題が正しく論じられるのだ。今回のようなひどいずさんな捜査をするような小沢氏の問題で支持率を云々して議論するようなものではない。民主党の評価は複雑な問題であるのに、読売新聞では「「小沢幹事長元秘書逮捕」 2010年1月緊急電話全国世論調査」という世論調査の質問では、Q あなたは、鳩山内閣を、支持しますか、支持しませんか。と言う単純な質問でその支持率を出している。こんな単純な質問にすぐ答えられるような人の支持などどれだけ信用できるものだろうか。何か問題が生じれば、そのような支持などすぐにぶれてしまうだろう。本来なら、民主党政権のどのような側面が支持できて、どのような側面が支持できないかと言うことを、その複雑性に応じて判断すべきという事になるだろう。そして細かい検討を経て、総合的に、民主党を支持できるかどうかということが議論されるべきだ。それでも、今回の世論調査が、正しい報道の後にされるものであれば、その報道がどれだけ理解されたかという傾向を調べるものとして意義があるだろうが、今回のでたらめ報道の結果としての調査と言うことになれば、これは茶番と受け取るしかないだろう。マスコミは、でたらめ報道の一部としてこの世論調査を位置づけているだけなのだろうと僕は感じる。この結果は全く信じるに値しないと思う。
2010.01.23
コメント(0)
一連の小沢一郎氏の問題を巡る報道では、検察の無理筋の捜査と、それを一方的に報道するマスコミの小沢氏への攻撃の姿勢の異常さが目につく。このことは、それ自体がおかしいと感じるものだが、もっと深いところでは、民主党が政権を取ったことでいったい何が変わっているかと言うことが象徴的に現れているために起こっているのではないかとも感じる。先の総選挙では、有権者のほとんどが自民党に嫌気がさして、自民党を撤退させるために民主党に投票したのだが、意識するとしないとにかかわらず、民主党を選んだということは、それまでの日本の政治を根本から変えることになってしまったのではないだろうか。それを解説する素晴らしい本が、宮台さんと福山さんのこの共著であるように感じる。これを導き手として、民主党政権が誕生したことの意味を今一度考え、その上で再度小沢氏の一連の問題を見直してみたいと思う。宮台さんはまえがきの中で、バスの運転手と乗客を、政治家と国民にたとえて今までの日本の政治と、これからの日本の政治の違いをまず説明している。これまでの日本は、高度経済成長の中で、右肩上がりに豊かになっていった経験があった。そのような状況の時は、バスがどこへ行こうとも乗客は満足のいく場所だと感じられた。乗客は、目的地をすべて運転手に「お任せ」して全く支障がなかったという、運転手・乗客ともに幸せな時代を過ごしていた。しかしある時期からお金がなくなってきたりして、目的地へ到達するだけのガソリンがなかったり、目的地だと思ったところが、実はとんでも無く荒廃した場所へ行き着いてしまったりするような、運転手の間違いが目立つようになってきた。このままでは、乗客は自分たちが転落して見捨てられていくのを黙って我慢するしかなくなってきた。もはや「お任せ」ではすまなくなり、運転手に対して目的地を要求しなおしたり、行き方に口を出したりするように、「監視し文句を言う」必要が出てきた、というのが宮台さんの解説だった。キーワードは、「お任せ民主主義」から「参加民主主義」へと転換すると言うことになるだろうか。「お任せ民主主義」というのは、実は形式的には民主主義の形をとっているものの、本当の意味での民意が反映しているのではなく、多くの一般国民よりも優れていると考えられているエリートたちが、自分たちの判断でよかれと思う方向を選んでいたというものだった。このエリートたちの優秀さが、結果的にも現れていた時代は、「お任せ民主主義」に失敗は少なかった。だが、違う方向での優秀さが必要になった時代は、かつて優秀だったエリートたちが、結果的に正しさを示すことが出来なくなった。今の日本は、試行錯誤的に民意の公約数を集約できなければ、一部の利益を代表する人間たちの暴走によって、新たな時代に立ち向かえなくなる危機を迎えてしまった。国民の一人一人は、自分の周りの狭い世界のことしか分からず、全体を見通して日本の国をどうするかというような、かつてのエリートのような思考は出来ない。しかし、国民一人一人の利害が正しく反映されるような仕組みを作らないと、もはや誰も全体を正しく把握できる人間がいなくなった今は、誰も正しい方向を示すことが出来なくなった。個々の人間は間違っていたとしても、その集約が間違いを少なくするように変えていくことこそが、これからの日本に必要なことで、だからこそ民主党が選ばれたことに意義があると受け止めた方がいい。古い自民党では、また「お任せ民主主義」に逆戻りしてしまう。このような基本姿勢をもって、宮台さんと福山さんの提言を考えていこうと思う。具体的な考察は、もう少し読み込んでからにしようと思うが、今を考える上でこの本はかなりエキサイティングに迫るものがある。今こそ読むに値する本だろう。宮台さんと福山さんがわずか2ヶ月でこの本を急いで出したという理由がよく分かる。
2010.01.21
コメント(0)
再審によって逆転無罪となったえん罪によくあるパターンは、物的証拠が一つもないのに、共犯者とされる人間の証言だけで主犯とされたケースだ。民主主義国家の裁判であれば、本来ならこのようなずさんな証明では有罪にならないのが普通だろうと思う。しかし、日本では取り調べの段階で精神的に追いつめることによって、やってもいないことを自供するようなことが起こる。この自供を元に起訴されると、たとえ法廷でその自供を否定しても、最初に自供したということで有罪にされるケースが出てくる。そしてこれがえん罪につながることになる。他人を陥れるために証言するような人間は、本来はその人間が主犯格であるのに、誰か他の人間を主犯にすることが出来れば自分の罪が軽くなるという利益を求めて嘘の証言をする場合がある。だから、その証言がどのような利害関係を持っているかは、その証言が信じるに値するかを決める重要なポイントになる。物的証拠がなく、単なる自供や証言しかないという場合、それは、それのみで犯罪性を証明するようなものにはならないと考えるのが、論理的には正しいのではないかと思う。さて「「民主党政権は30年続く」はずだったが…1月16日22時6分配信 産経新聞」というニュースを見ると、「ところが13日になって、「30年は続く」はずの民主党に激震が走った。東京地検特捜部が陸山会や小沢氏の個人事務所、大手ゼネコン「鹿島」本社などの一斉家宅捜索に踏み切ったのだ。さらに、翌14日に自民党が開いた勉強会で、石川容疑者の元秘書で不動産会社経営の金沢敬氏が爆弾発言。小沢氏の公設第1秘書の大久保隆規容疑者が逮捕された昨年3月3日に、石川容疑者から金沢氏に電話があり、「(小沢氏から)何かまずいものがあれば隠せと言われた。準備しておいてくれ」と頼まれたというのだ。要するに小沢氏から指示で石川容疑者が西松建設事件に関する証拠隠滅を図ったと証言したわけだ。石川事務所や関係者はこの証言を否定したが、もし証言が事実なら大事件である。」という記述がある。一応は新聞記事なので、最後に「事実なら大事件である」と語って、これがまだ事実として確定してはいないということを書いてはいるが、それならこのようにセンセーショナルに、感情をあおるような書き方をすべきではないと思うのだが、まるでゴシップネタをおもしろおかしく報道する週刊誌のような書き方をしている。このような記事を書くから、産経新聞は新聞の中でも記事に対する信用度が低いのではないかと思う。事実であるかどうかを確認もせずに記事にするということにも問題があるが、ここで証言をしている金沢氏なる人物が、どのような利害関係を持っている人間なのかがここでは全く考慮されていない。この人物に関しては、様々なところに胡散臭い人物であるという情報があふれている。たとえば「青山貞一ブログ「小沢捜査~裏切り秘書<金沢敬氏>の正体??」」というエントリーに寄れば「金沢氏が石川議員の私設秘書をしていた、08年9月から09年7月までの約1年間。もともと政治に興味があり、石川から「だったら将来は参議員選挙で民主党の公認を取らせてあげます」と言われ、無給で私設秘書をすることになったという。 ところが、昨年7月、石川さんから「金沢さんの公認は無理だ」と告げられて激怒。政治のド素人がたった1年間、私設秘書をしただけで公認がもらえるはずもないが、この一件で石川議員と袂を分ち、地検に駆け込んだ、という経緯だ。 「金沢さんは、政治家になりたくて仕方がない。どうしても民主党から立候補したかったのに、かなわなくなり逆ギレした形です。」ということが記述されている。ここには、金沢氏が抱える利害関係がはっきりと見える。このような利害関係を抱えた人間の証言は、それだけで少し差し引いて受け取るべきだと考えなければならないだろう。また、この金沢氏が、人間的に信用が出来るのかどうかに疑問を提出する情報もある。「カナダde日本語「石川知裕議員の元秘書、金沢敬氏の正体」」の記述では、「ある北海道在住の女性が、立地条件にしては値段のお手頃な「ふくまる不動産」の物件に引っ越すことになったまではよかったんだけど、入居前に部屋を見るので、社長が一緒に立ち会うことになっていたのに、一時間待っても来ないので電話したら、下記のようなものすごい暴言を吐かれたそうだ。」ということが報告されている。その暴言は『だから謝っただろうが!オレはアンタと違って忙しいんだよ!クソババア!行けないったら行けないんだよっ!ババア!』『アンタみたいな面倒な客、イヤだ!もういいっ!イヤだから金返すから 契約、止めてくれ!金、返すよ!出て行ってくれ!』というものだったという。ジャーナリストの浅井久仁臣さんに寄れば、水谷建設という会社が、知っている人の間ではどれほど信用のないひどいところであるかは分かっていたという。今、金沢氏という人物に関しても、ちょっと検索して調べるとこのような情報がすぐに出てくる。このようなことを、大マスコミが知らないはずはないだろう。ところがマスコミにはこのような情報がかけらも見られない。このことの解釈は二つしか考えられない。一つは、浅井さんや上の二つのブログが流す情報が間違っているという解釈だ。そうであればマスコミがこのことを知らせないのも正当性がある。だが、上のことが間違っているということは、水谷建設や金沢氏が語ることに信頼があるということになる。そうであれば、その証言によって小沢氏をはじめとして、その関係者が法によって裁かれることになるだろう。果たして、本当に有罪に出来るかどうか、その結果を見ることが出来れば、これらの情報が間違っているかどうかが明らかになるだろう。もし、この証言だけで有罪にまで追い込めないとしたら、浅井さんたちが語っていることの方が正しくて、マスコミは意図的にこの情報を流さなかったのだと解釈できるだろう。それでは、もう一つの解釈として考えることが出来る、マスコミがわざとこの情報を流さないということの理由を考えてみよう。それは、水谷建設も金沢氏も信用のおけない人々なので、この情報は元々でたらめだったのだが、小沢氏のイメージを落とすには有効だと判断して、でたらめだと分かっていたにもかかわらずそれを出すだけのメリットがあると、マスコミが判断したのだと解釈できる。産経新聞が姑息なのは、「もし証言が事実なら大事件である」と仮言命題にしていることだ。事実なら大事件だが、事実でなければ大事件ではない、と当たり前のことを言っているだけだと開き直れるからだ。だが、この書き方で、自分が報告していることは本当はでたらめである可能性が高いのだと、語るに落ちていると僕は感じる。
2010.01.20
コメント(0)
マスコミに垂れ流されているここ数日の小沢さんの政治資金規正法違反に関するニュースに関しては、それがすべて検察が流すリークであり、それが正しいかどうかの裏もとらずにマスコミは垂れ流していると僕には思える。それを考えさせてくれる数々の情報を「浅井久仁臣 グラフィティ」「きっこのブログ」の中に見つけた。ここからいくつかの記事を引用して、それが不当な検察リークであることを考えてみたいと思う。まずは浅井久仁臣さんの「検察主導の報道にヴェテラン記者が疑問」という記事から次の文章を引用しよう。「「『小沢疑惑報道』の読み方」と題したコラムで長谷川氏は、「多くの記事を読む限り、正直言って『これはいったい、なんだ』という感じも抱いてきた」と疑念を書き、捜査当局のリークに頼り、その情報の確認作業もしないまま記事にしている可能性を危惧している。取材に当たる記者に対しての配慮をしつつも、「結果的に当局の情報操作に手を貸す結果になっているとしたら、それもまた見逃せないのだ」と警告している。」検察リークの異常な報道は、素人でも分かるくらいひどいものだと思うのだが、プロのジャーナリストが指摘していることで、この不当性をかなり確信できるのではないかと思う。また、「マスコミの暴走 胡散臭い水谷建設マスコミの暴走 胡散臭い水谷建設」という記事では、水谷建設から小沢氏へ賄賂が渡されたということが供述されたようにマスコミが報じていたがそれがかなり胡散臭いことであることを次のように指摘している。「違法献金の話にしても、証言したのが水谷建設という、いわゆる政財界では札付きの会社のものである。鵜呑みにしていいものか、マスコミは考えるべきだ。 この会社、これまで脱税など数々のお騒がせ事件を起こしてきた。それらの事件を通じて捜査当局から司法取引を迫られて協力するようになった、“信用ならない会社”と見る業界関係者が多い。 司法取引と思われる証言の最たるものは、福島県発注のダム建設を巡っての汚職疑惑だ。佐藤栄佐久知事(当時)側に土地売却について利益供与を行なったと証言をして、結果的に佐藤氏を辞任に追い込んだ。 だが、水谷建設関係者の証言は裁判で次々に崩され、今も最高裁で係争中だが、佐藤氏が逆転無罪を勝ち取る可能性が高いとされている。 佐藤氏の場合、反原発の立場を崩さず、福島に原発を造りたい政財官から“狙われた”と言われている。つまり、水谷建設は、捜査当局の差し金で佐藤氏に不利になるような偽証を行なったのではないかと言われているのだ。 そんな会社の元社長(服役中)の獄中での「1億円を(小沢氏側に)渡した」との証言をどこまで信じることが出来るものなのか。」この記事を読むと、水谷建設の供述は、検察に都合がいいように言わされている可能性がかなり高いことを予想させる。本来のジャーナリズムであれば、これは必ず裏をとらなければならないことではないかと思う。裏をとらずに、検察のリークで書いているとすれば、マスコミのひどさはここに極まれりということになる。また、この記事には「小沢氏は今日の記者会見で、4億円が自分の貯金で、検察にはその預金口座番号まで弁護士を介して教えてあると述べた。」という記述も見られる。つまり、小沢氏は、問題の4億円に対してそれがどこからの金であるかということを明確に説明しているのである。だが、このことは果たしてマスコミの記事になっているだろうか。僕は気づかなかった。浅井さんの指摘で初めて知った。「小沢一郎氏周辺に強制捜査」という記事には次のような記述が見られる。「だが、特徴的なのは、ほとんどの情報が明らかに検察のリークと思われるものだ。マスコミは、検察から流される情報を精査することなく、ほぼ垂れ流し状態で画面や紙面に反映させている。大体、小沢氏が4億円を紙袋に入れて石川秘書(当時)に渡したと報道されているが、冷静に考えればそれが「作り話」であることは容易に分かることだ。札束の重さは、1億円で約10キログラムだ。4億円なら40キロを超える。小沢氏一人で、しかも紙袋で簡単に運べる重さではない。」これはかなり説得力のある指摘だ。ちょっと考えればすぐに分かりそうなおかしさがあることをそのまま記事にしているということは、検察リークを確認するために考えることもしないで、そのまま鵜呑みにしてマスコミは記事にしているということなのだろう。きっこのブログでは「検察が石川氏逮捕のために嘘の供述をリーク」には次のような記述がある。「民主党の石川知裕衆院議員(36)が東京地検特捜部に異例の逮捕をされた問題で、産経新聞をはじめとした一部のメディアは、15日付で、石川容疑者が「これ以上は小沢先生に相談しないと話せない」と涙ながらに語ったとの報道を行なったが、この報道に対して、石川容疑者の弁護人が「そのような事実はない」と全面的に否定した。弁護人によると、石川容疑者は東京地検特捜部から打診された16日の任意聴取を快諾していたのにもかかわらず、その前日の15日夜に緊急逮捕された。弁護人は「18日から始まる国会での逮捕許諾請求の手続きを避けるための強引な逮捕だ」と批判した上で、「特捜部は検察内部で石川容疑者の逮捕の了解を得るために、任意聴取で(石川容疑者が)『これ以上は小沢先生に相談しないと話せない』と涙ながらに話した、などという嘘の供述をでっちあげた」と指摘した。つまり、本来は在宅のまま取り調べる「記載漏れ」という軽微な事件であるため、それを是が非でも逮捕するための口実として、検察が嘘の供述をでっちあげてマスコミ各社へリークしたということである。」「検察が石川議員に自白を強要」には次の記述がある。「通常は在宅のまま取り調べる「記載漏れ」という軽微な政治資金規正法違反の容疑であるのにも関わらず、東京地検特捜部に異例の逮捕、拘束をされている石川知裕衆院議員(36)の弁護人、安田好弘、岩井信両弁護士は、17日、石川議員が任意聴取の段階で検事らから「容疑を認めないと自宅に帰さない」などと、自白を強要されていたと発表した。安田弁護士らは「全面可視化が自白の強要や冤罪を防ぐのに不可欠である」として、地検、最高検、東京高検、法務省に対して、石川容疑者に対する取り調べの全過程の録音、録画(全面可視化)を求める申し入れ書を送付した。また、取り調べをしている特捜部が「石川容疑者の供述」として外部のマスコミに事実無根の内容をリークし続けている疑惑に対して、有識者の間からは東京地検の佐久間達哉特捜部長を国家公務員法違反の容疑で刑事告発する動きも起こっている。」これらの記事に対する信頼性に疑問を感じる人もいるだろうが、マスコミには載らないこのような情報もあるということは知っておいた方がいいだろうと思う。そして、ここに語られていることの方が事実であるとすれば、マスコミが垂れ流す検察リークがいかに不当なものであるかが分かるだろう。それは一般国民が保障されなければならない基本的人権を侵すものだと思う。
2010.01.18
コメント(0)
僕は本多勝一さんのファンだったこともあり、「週刊金曜日」の定期購読をしている。その最新号の「大藤理子の政治時評」というコラムに、なかなか面白い共感を感じる文章を見つけた。そこで大藤さんというジャーナリストについても、どのような人かを調べようと思って検索をしていたら、このコラムにやはり共感した猫宮しろいちさんという方が、このコラムを取り上げてブログを書いていた。「大藤理子氏による鳩山首相の考察 - 「この人のために何かしてあげたい」と思わせるのも立派なリーダーシップでは?」猫宮しろいちさんは、鳩山政権に対する応援としてこのコラムを引用しているようだ。僕は、大藤さんの人物評価が面白いと思った。鳩山さんと、その前の二人の首相の年頭の挨拶を比べて、そこから3人の人物評を引き出し、鳩山さんを最も高く評価するという論理の流れになっている。その3人の年頭の挨拶をまずは引用して比べてみよう。安倍晋三「新年あけましておめでとうございます。昨年九月、戦後生まれ初の内閣総理大臣として就任し、活力とチャンスと優しさに満ちあふれ、自律の精神を大事にする、世界に開かれた、『美しい国、日本』の実現のため、未来は開かれているとの信念の下、たじろぐことなく、改革の炎を燃やし続けてまいりました」。麻生太郎「新年あけましておめでとうございます。今年は、平成二十一年。今上陛下、御即位二十であります。国民とともに、心からお祝い申し上げたいと存じます。この二十年間、日本は、平和と繁栄を続けてまいりました。バブル崩壊、金融危機など、いくつかの困難にも見舞われましたが、国民の力によって、見事に乗り越えてきました」鳩山由紀夫「新年あけましておめでとうございます。寒さ厳しい中、みなさん、風邪など召されていませんでしょうか?受験生の皆さん、体調に気をつけて、ベストを出せるように努力してください。おじいさん、おばあさん、お正月にはお孫さんの顔を見られますか?もう電話で声を聞かれましたか?お正月も休みなく働かれている方々、一人暮らしの皆さん、それぞれの環境の中で、穏やかな新年をおむかえでしょうか。」それぞれの挨拶に対する大藤さんの評は次のようなものだ。安倍晋三「とにもかくにもまず自分。自分の実績をひけらかすだけで、国民への呼びかけすら見あたらないという見事な荒技だ。」麻生太郎「とにもかくにもまず天皇。「国民」とか「日本」がまるで自分のものであるかのような語り口。」鳩山由紀夫「偽善の香りがそこはかとなく漂うものの、この鳩山年賀状、なかなか良い線いっているのではないだろうか。受験生から一人暮らしの人まで目配りが行き届いているし、ごく普通の言葉遣いが親近感を抱かせる。印刷された年賀状に一言、手書きの言葉が添えられている感じ。ああこの人は、自分のことをちゃんと頭に思い浮かべてくれたんだなと思わせる。」引用部分がかなり長くなってしまったが、ここからは感想だ。僕も大藤さんのこの感覚に共感し同意したいと思う。自民党の二人の首相が、上から目線であるのに対して、同じように育ちのいい境遇にもかかわらず、鳩山さんは同じ目線で語っているのを感じる。これが、たとえ演技であろうとも、いや演技であれば、それは鳩山さんの政治家としての資質の高さを語っているのではないかとも思う。安倍、麻生の両氏は、演技ですら国民の目線に立つことが出来なかったのではないかと思う。ただ、この人物評価というやつは、客観的に誰もが賛成するというようなものを提出することは出来ない。感じ方というセンスの問題は、誰もが同じにはならない。だから大藤さんに共感して同意する人もいれば、全くそのようなことを感じない人もいることだろう。それは、たぶん自分がどのような立場にいる人間であるかということで決まってくるのではないかと思う。自分の立場を理解し、そこに近づいてきてくれる人は、上の3人の誰なのか。それを考えたとき、自分のセンスに合うような人物を高く評価するという結果が出てくるのだろう。だがこのセンスも、客観的に法則性を持っているものではなく、社会の流通観念にかなり左右される。特に大衆社会といわれる現代では、マスコミの宣伝がそれに大きく影響してくる。アメリカ人の大部分は、実際には民主党こそが自分たちの立場に立って発言し行動すると、正しい情報さえ与えられれば判断するだろうといわれている。しかし選挙をしてみると共和党が勝つ場合がしばしばある。自分の立場とは反対の主張に共感し、それを支持してしまうことが往々にしてある。流通観念の怖さだと思う。今の日本でも、かなりの人数の人の立場を代表しているのは自民党ではなく民主党であるのはほぼ明らかだ。だからこそ先の選挙では民主党が圧勝したという結果が出た。しかし、今回の小沢問題が生じたりすると、世論は一気に民主党批判に傾く。だが、その一方では、そろそろマスコミのでたらめぶりに気がついた人がかなり増えてきたのではないかというのも感じる。マスコミが行う世論調査は、どうせ自分たちに都合のいい結果が出るように世論を操作した上で、都合のいい質問をした結果を出しているだけではないかと思う。この世論調査が、実は本当の世論ではないということが結果的に見られるような方向をとることを期待したいと思う。最後に、大藤さんがこのコラムで主張したかったポイントを語る部分を引用しておこうと思う。これも僕は共感できることで、ここまでの前置きで、この主張には十分な説得力があるというのを感じる。「マスコミ各社の世論調査によると、鳩山政権の支持率は続落し、早くも「危険水域」などと囁かれている。「指導力がない」というのが支持率低下の一つの大きな要因というが、指導力って何?すべての方針を決定し、みんなをまとめて引っ張って進んでいくことが指導力なら、それは政治の世界においては「独裁」と紙一重であり、危ない。いつからか政治の言葉がビジネスの言葉に乗っ取られてしまった感があるが、首相と経営者を同列に論じるべきではない。「この人のために、自分が出来ることをやってあげたい」と思わせるのも立派なリーダーのあり方だし、首相に求められるのはむしろこちらではないだろうか。ひ弱でも優柔不断でも、独裁よりはまし、と私は思うのである。」
2010.01.18
コメント(0)
昨日の日記にも書いたが、石川議員が逮捕されたという報道には驚いた。これは「まさかここまであからさまにひどいことはしないだろう」と思っていただけに驚きが大きかった。これでは検察のひどさが、まだそれがよく分かっていない人にも見えてきてしまうだろうと思うと、検察にとっても戦略的にまずいのではないかと思うのに、なぜここまで稚拙で頭の悪いやり方をしたのだろうかと疑問を感じる。これも驚きの一つだ。検察と言えばエリート集団であり、ここまで論理的におかしいことをする動機というのが分からない。このことを明確に解説している文章はきっこのブログ「チャンスを棒に振る自民党」というものではないかと思った。ここに書かれていることはほとんどすべて同意できるものであり、非常に説得力があると感じた。ここでは「東京地検特捜部のホントの狙いが、事件の解決や解明なんかじゃなくて、完全に「鳩山内閣潰し」だってことが全世界に知れ渡っちゃった」とまずは指摘している。この指摘が正しいと同意できるのは、次のような説明に説得力があるからだ。「石川議員も池田氏も、これまで、東京地検特捜部の任意の事情聴取にはすべて応じて来てるし、大久保被告だって、別件で起訴されてるんだから、逃げるワケがない。それに、今回の問題は、いくら金額が大きいとは言え、所詮は単なる「虚偽記載」で、普通は逮捕なんかする事例じゃない。これまでの自民党政権時代に、自民党の総理大臣から閣僚から一般の議員に至るまで、みんなそろってやってたことだ。たとえば、フロッピー麻生の内閣の時も、アベシンゾーの内閣の時も、閣僚の9割が政治資金の「虚偽記載」はおろか、遥かに罪の重い「違法献金」までもが発覚してたヤツもいたのに、誰1人として、逮捕どころか、事情聴取すらされなかった。」今回の逮捕がまさに不当なものであることは、このことで説得されるのではないだろうか。このようにひどい手法であるのになぜ検察はあえてこのようなことをしたのか。それは、本当に犯罪性があることを証明するような証拠が何一つ出なかったと言うことを暗に語っているのではないだろうか。何かがあるのなら、それをまっとうに提出すればいいだけのことなのだが、それが出来ないので、なりふり構わず手を入れて強引に何か出させようとしているだけだと考えられるのではないだろうか。これは民主党だけの問題ではなく、我々一般の国民にも関係してくるものだと思うが、それを深刻に感じ取っている国民は少ないのではないだろうか。もしこのような検察の手法が許されてしまうなら、検察が黒だといいたい人間に対しては、マスコミを動員して世論を操作し、事実が何であるかという前に、世間では「あいつが悪い」という評価を固めてしまうことが出来るようになってしまう。(それは、実はかつて「ロス疑惑事件」や「和歌山カレー事件」で行われていたことかもしれない。)逮捕された石川議員に関する報道も、彼が何を自供したかというものしか見あたらない。他の証拠は何一つ見つからないのに、この自供報道だけが踊るのはなぜなのか。宮台真司氏がビデオニュース・ドットコムで語っていることに寄れば、自供だけに偏った証拠というのは信じるに値しないと言うことだ。僕もそう感じる。検察がどのように個人を追い込んで、やってもいないことを自供させるかというのは、えん罪事件を通じて何回も知らされているのに、それは、捜査段階の可視化がはっきりとされていないのでまだ本当には知られていない。今回のひどい捜査を見ると、可視化が必要だと言うことに気づいた人が増えてしまったのではないだろうか。検察としては、捜査手法の改革をさせたくなくて、民主党と小沢氏を攻撃していたのに、きっこのブログが語るように逆効果となっていくのではないだろうか。このようなひどい捜査に関しては小沢氏と民主党は断固として闘う事が正しいと僕は思うので、そう宣言していた民主党大会は、僕はその通りだと賛同する。そこで、その記事を引用しようと思ってヤフーを検索したのだが、昨日はすぐに見つかった、そのニュースが今日は見つからない。やっと見つけたニュースは、「小沢幹事長、党大会で検察批判「納得できない」」というものだった。「闘う」という言葉はどこへ行ってしまったのだろうか。鈴木宗男氏の「「検察が正義は大間違い」鈴木氏の批判に沸く」「鈴木宗男氏「狙われたら誰でもやられる」」というニュースで報道されている話の内容は、僕は共感を持って賛同する。特に「誰でもやられる」という点をもっと深刻に受け止めるべきだろうと思う。今回の検察のやり方は、そこまで検察の信用を失わせるに値するものだったと思う。きっこのブログでは、マスコミ批判に関してもおもしろい記述がある。1年前の騒動の時にも同じようなことが起こり、そして今回も繰り返されているという指摘だ。引用しておこう。「で、どんなふうにソックリなのかって言うと、前回も今回も、実際に逮捕される何週間も前から、連日のように、マスコミ総出で、まだ「推定無罪」の人間に対して、まるで「有罪が確定」したかのような報道を繰り返したってことだ。それも、すべて「関係者の話」っていう、あまりにもウサン臭い方法でだ。当時の日記、2009年3月5日の「「関係者」という透明人間」に詳しく書いてるけど、本来なら絶対に外部に漏れるハズがない「取調べの上での供述」とかが、次々と「関係者によると」って形で報道され続けた。それも、事実とは正反対の内容ばかりだった。過去ログを読んでもらえれば一目瞭然だけど、当時のマスコミ各社は、「関係者の話」として、「小沢一郎の秘書の大久保隆規容疑者が、西松建設側へ請求書を送りつけて献金を要求していた」ってことをいっせいに報じた。だけど、大久保被告本人は、そんな供述はしてなかった。そして、このニュースを新聞やテレビが大々的に報じまくった次の日に、東京地検特捜部は、コッソリと「請求書を送りつけていたという事実はなかった」って発表したのだ。それも、誰も気づかないほど小さな声で。」当然のことではあるが、このような指摘はマスコミには決して登場しない。マスコミが自己批判をすると言うことはたぶんあり得ないだろう。テレビの報道番組の中でも、もっともリベラルだと思われる関口宏の「サンデーモーニング」でさえも、このような本質を語る人は誰もいなかった。経済学者の金子勝氏が、推察の範囲だという断りを入れて、検察の「意図」を語ったまでが限界だった。後は、この逮捕そのものの正当性は問題にせず、逮捕された以上は説明責任があるという、マスコミの検察リークを鵜呑みにした小沢叩きをしているだけだった。これが、もっともリベラルである番組でさえ持つ、マスコミの限界というものだろう。
2010.01.17
コメント(2)
僕は、新聞をとらなくなってからかれこれ5,6年たつ。その間、ニュースは世間で広まっているものはヤフーなどを参照して、本当のことはどうなっているかというのは、神保哲生・宮台真司両氏のビデオニュース・ドットコムで情報を求めている。世間で流通しているマスコミの報道は全く信用していない。だから新聞をとっていないということで困ったことは一度もない。僕はかつては朝日新聞を購読し、その後毎日新聞をとっていた時期が長かった。朝日を購読していたのは、本多勝一さんがまだ朝日新聞社に勤務していた頃だった。本多さんの退社とともに朝日から毎日に替えた。それは、その当時で毎日がもっともリベラルな記事を書くと思ったからだった。だが、本多さんが朝日を退社した頃から、マスコミの報道の堕落がはっきりしてきたように感じた。本多さん自身は、すでに本多さんがいる頃からマスコミの堕落が始まっていたことを指摘していたが、それが誰の目にも明らかになり、マスコミ報道にはもはやジャーナリズムのかけらもなくなったというのが今の状況だろうか。そのマスコミ報道には、このところ連日小沢一郎氏関連のニュースがあふれている。僕は、この報道の最初から眉につばをつけて見ていたのだが、本当のところはどうなのか、というのはまだよく分からなかった。それが明快に分かるような報道を「ビデオニュース・ドットコム」の中の「不可解な特捜の強制捜査 郷原信郎氏インタビュー」に見つけた。さすがにビデオニュース・ドットコムだという感じだ。無料放送なのでぜひご覧になってもらいたいと思う。郷原さんの主張は全く明快だ。次のようにまとめられるだろうか。・土地購入代金4億円の借り入れについては、収支報告として記載されているので、政治資金規正法に違反する事実はない。つまり「不記載」ではない。・土地購入の原資について、小沢氏からの現金であったということが問題にされているが、これはたとえ小沢氏の現金であろうと、収支報告書に記載されているのであれば、問題はない。マスコミ報道では、これが銀行からの借り入れだと最初報道されていたことと違うことが問題にされているが、これは事実に対して違っていたとしても、どこが問題なのかが報道されていない。単なる勘違いがマスコミに出てしまっただけなのかもしれない。・問題は、小沢さんが持っていたとされる4億円がどこから入ってきた金であるかがはっきりしないところだ。これがはっきりしないので、違法なルートで入ってきたものかもしれないという「疑惑」が生じている。小沢さんが、これを説明していないことがもっとも問題であり、小沢さんに責任があるところだ。「疑惑」解消をしていないところに、政治家としての責任を果たしていない、批判すべき点がある。・もし本当に違法ルートからの入金であるのなら、ガサ入れ(逮捕に至らない捜索の段階)だけではなく、逮捕がなければならない。しかもこんな古い問題を今更ガサ入れしても証拠が挙がるはずがない。それを考えると、このガサ入れは単なるデモンストレーションで政治的な意図を強く感じる。・報道された事実関係だけを見ると、この事件は起訴すら難しい件だと考える。小沢氏に対する、政治的なイメージダウンをねらった報道にしか過ぎないように見える。この事件に対する見方は、このようにまとめてみるとすっきりすると思う。マスコミ報道では、国発注の胆沢(いさわ)ダム(岩手県奥州市)の「堤体盛立工事」で「受注の謝礼として04年10月、東京都内のホテルで5000万円渡した」というような報道もされている。これがもし本当なら収賄として逮捕・起訴があってもいいような事件になるのだが、そのような動きは全く見られない。だいたい、2004年にはまだ民主党は政権についておらず、小沢氏にどうしてそれだけの権限があったのかということの説明はどうするのだろうか。小沢一郎氏は、宮台真司さんが高く評価している政治家であり、田中康夫さんも同じように高く評価していた。その小沢さんが、このようなわかりやすい悪事をするとは、どうも僕には信じられない。その程度の小物だったのかというのが僕の疑問だ。小沢氏は、確かに疑惑があり、権力者としての側面を持っているが、それは悪の魅力の一つの現れだと思う。同じビデオニュースでは、「総務相が新聞社の放送局への出資禁止を明言」というニュースも配信されている。これを見ると、マスコミと民主党というのはかなり本質的な対立を抱えている部分があるのを感じる。マスコミにとって、民主党のイメージを落とすことが出来るネタがあれば、それがどんなにひどいネタであろうとも飛びつきたくなるという動機が働くのだろうか。一連の小沢氏に対する報道を見ると、マスコミがますますジャーナリズムとしての堕落の一途をたどっていることが明らかになってきたのではないかと思う。マスコミが力を入れれば入れるほど、その記事の反対のことが正しいと判断した方がいいのではないかと感じた。
2010.01.15
コメント(0)
次に紹介する板倉さんのカルタは、立場の違いからくるものの見方が、それを柔軟に受け止める余裕がないとどうなるかを物語るものだ。板倉さんの解説とともに紹介しよう。「争いの元に正義あり 正義の恐ろしさ 「立場によって主張が変わる」という話が出たついでに、「戦争とか喧嘩というものは、元々正義の主張のぶつかり合いから起こるものだ」ということを理解して欲しいと思って、取りあげることにしました。「正義、正義」と誰かが大声で叫ぶようになったら、それが本当に正義か」ということを考えるだけでなく、自分たちの側だけの正義をあまり主張すると悲劇が起きかねない」と考える余裕を持つことが大切でしょう。平和教育の難しいところです。正義がヒューマニズムを越えたらそれこそ悲劇です。「正義と正義が戦争を生む」と言い換えてもいいでしょう。」争いの当事者というのは、敵が悪くて自分たちは悪くないという考え方をしやすい。戦時中の日本でも「鬼畜米英」という言葉があって、戦争の相手国が、この世でもっとも悪辣な人間たちだと考えていた。しかし、これを当事者でない人間の立場から眺めると、どちらも同じで、どっちが特に悪いということは見えてこない。お互いの立場の正義というものは、その立場に立てばそう主張するのも一理あると思えるようなものになる。しかし、だからといって相手を全面的に否定できるほどの説得力はない。日本は欧米列強の植民地主義に反対し、自国が植民地にされないようにアジアの国々で団結して西欧列強に対抗すべきだと考えてアジア主義というものを提唱した。これは理念的には間違っていなかっただろうと思う。だが実際にやったことは、遅れて来た新興資本主義国として、植民地主義の恩恵にあずかろうとしたことに結果的にはなってしまった。その日本の暴力に対して正義を主張した連合国にしても、元々がアジアを植民地にして不当な利益を上げていた国が、新興国に利益をとられようとしたのを阻止するために戦争をしていたんじゃないかと、その正義を疑おうと思えば疑える。どちらも建前としては正義を主張することは出来るけれど、それは必ずしも全面的に賛成できるものではない。争いの元に正義を探そうと思えばいつでもそれが見つかる、というのがこのカルタの第一の意味だ。そしてもっと大切な意味は、その正義の元に行われている争いは、その正義の相対性に気づかないと悲惨な結果を招くという予想を語っているところだ。これが「正義の恐ろしさ」と題がつけられていることの意味だ。正義を主張する人間は、その正義に疑いを持たなければ、正しいことは実現されなければならないという使命感に駆られてそれを押しつけにかかってくる。その押しつけによってどんなに悲惨なことが起ころうとも、それが見えてこない。「正義がヒューマニズムを越えたらそれこそ悲劇です」と板倉さんは語っているが、正義よりもヒューマニズムという、現実の人間を大事にする方が重要なのだが、正義の方が大事だと思っている人間は多いのではないかと思う。その思いに歯止めがかけられないのが、正義というものの困ったところだ。板倉さんは、正義というものは社会的には多数派が賛成することであって、決して科学的な「真理」ではないとも語っていた。「真理」は、どの立場に立とうとも、人間の意志とは独立に証明が出来る「正しさ」だが、「正義」は、単に多くの人がそれに賛成しているというだけで、実は間違っているかもしれないことだ。フランス革命後の恐怖政治の恐ろしさは、正義を徹底的に推し進めようとした人々によって引き起こされた。このような国家的規模の争いほど大きなものではなくても、日常的な人々の交わりの中でも、正義(正しさ)の主張が強すぎる人は、もう少しその正義を相対化する余裕を持ってもらいたいとも思う。そうすれば無益な争いを避けられ、悲惨な結果に突き進むことが避けられるのではないかと思う。
2010.01.14
コメント(0)
牧さんの運動論カルタに触発されて、仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんが「発想法カルタ」というのを作った。これは、牧さんのように運動論という特定の分野に絞ったものではなくて、かなり一般的に、人生の中でいろいろな場面で遭遇しそうな問題への対処を語るようなことわざ的な格言を集めたカルタになっている。その中で、これは面白い・使えそうだなというものを紹介してみたいと思う。まず最初は次のものを紹介したい。板倉さんの解説とともに味わってもらえたらと思う。「【満員バス乗ってしまえば「もう押すな」】 認識の党派性 これは物理学者の武谷三男さんがよく口にされていた話です。満員バスに乗る前は、「ほら、中の方は空いているでしょ。もっと詰めてくださーい」と大声で叫んでいたおじさん・おばさんも、自分が乗れた途端に、「もう一杯だよ。そんなに押さないで!」と叫んだりすることはよく見られます。 「人々の主張はそれぞれの立場を反映しているものだ。その証拠に、立場が変わると途端に主張が変わったりする」というわけです。<認識の党派性>などというと難しいように思われますが、これはそのものズバリなので、事柄そのものはよくわかることでしょう。」これは、外から眺める立場と、その中に入って当事者として語らなければならない立場の、両方を深刻に体験・考察したことのある人ならすぐにピンとくるような言葉だろう。どのような立場になろうとも、普遍的に正しいことを語りたいと思っても、なかなか世の中は思い通りに行かないものだ。自分の希望に反して、立場上言わなければならないことがあったりする。このカルタが語ることは真実だと思えるときがある。では、その真実はどのようにして役立てることが出来るのだろうか。それは仕方のないことだからと言って、自分のいいわけを納得させるために利用するのだろうか。それはあまりにもみみっちい使い方のように見える。もっと有効な利用の仕方がないだろうか。これは、自分の一貫性のなさのいいわけに使うのではなく、このような行為をしている人の、行動の整合性を理解するための法則として利用することがいいのではないかと思う。この格言を知らない人は、やはり「仕方がない」といういいわけをしたくなると思う。だが、これを知っている人は、一面ではそれは無理のないことだと理解できる。つまりその行為の整合性を理解できるというわけだ。この場合の「整合性」とは、それが正しいという意味ではなく、論理的な反応として、論理の帰結が正しいだろうと理解できると言うことだ。心情的には、前に言っていることと違うじゃないか、とは思いたくなる。でも、そのように立場が違えば言うことが違ってくると言うのは、普通の人にはよくあるもので、その人が一本芯の通った一徹者ではなかったということが分かり、普通の人だということが分かったというふうに受け止めると、心情的な怒りの気持ちは少しは治まるかもしれない。また、その立場というのが、誰が立たされてもそのように振る舞わざるを得ないと言うことが理解できると、その人の辛い心情が想像できて、怒りよりも同情の念がわいてくるかもしれない。いろはカルタの格言は、ある種の法則性を語るものとして理解すると、その応用も範囲が広がるのではないだろうか。個人的な、自分の心情や論理を納得させるためではなく、人間一般の行動や社会というものがどういうものであるかを理解するための法則として知っているとかなり役に立つのではないかと思う。この格言などは、よく考えればなるほどと思えるものの、実際にはその場では感情的になったりするので、このような法則性は忘れがちになるのではないかと思う。その意味で、改めてこのように言葉にして記憶しておくと便利だと思う。
2010.01.13
コメント(2)
牧さんのカルタ【つ】突き当たったら曲がれという言葉を有効に使うための「突き当たった」という状況の判断のためにどうするかという事を示唆したカルタを前回は紹介した。それは、「ねばならない」という義務感に駆られて、多様な視点から物事を見ることが出来なくなり、玉砕へと向かうような状況に陥ったときに、「突き当たった」と判断せよというものだった。運動が行き詰まり、なかなか打開策が見つからないとしても、それが難しい目標を持つものであれば、うまくいかないのがある意味では当然だ。だから、うまくいかなかったとしても、それをまだ多様な視点から総合的に見ることが出来るほど、自分に冷静さと余裕が残っていれば、それは「突き当たった」事にはならない。単に問題が難しいというだけのことだ。重要なのは、「突き当たった」という判断が正しい場合であり、そのときにそれでは次に何をするかということだ。この場合も、牧さんは、次の行動を示唆するカルタを語っている。しかし、これは意外な言葉のように聞こえるかもしれない。次のようなものだ。【な】何にもせずも芸のうち【ゐ】居直ってみれば世は事もなし【や】やらぬよりやったがよいが命取りこれらの言葉は、次に何かをせよと示唆しているのではない。何もするなと語っている。つまり、壁に突き当たったときは、何かをして事態をもっと悪くしてはいけないと言うことだ。何もしないで事態が変わるのを待て、というのが牧さんの格言だ。これは、「突き当たった」という事態が、一つの固定した視点からしか事態を見ることが出来ない、硬直した行き詰まりになってしまっているので、そのような発想から導かれる方針がうまくいかないであろう事も容易に予想できる。だから、やればやるほど悪くなる、というのは冷静になって考えると、かなり論理的な帰結であるようにも見える。だが、「壁」を回避するのではなく、それを乗り越えることしか考えていない人間には、そのような論理が全く見えてこないだろう。だからこそ、そんなときは「何もするな」という指針が役に立つ。しかしこれは、牧さんが語っているように非常に難しい。牧さんは、「日本には伝統的に「みんなの方が間違っていると思っているときでも、みんなと一緒に一生懸命(その間違いを)やるのがいいことだ、そうでないといけないんだ」というような風潮があります」と語っている。間違っていると思っているときでも、何かをせずにいられないのだから、間違っていると思っていない人は、いくら行き詰まっていても何かをせずにはいられないだろう。たとえそれが玉砕につながっていようと。自分が圧倒的少数派で、何かをするには、自分が間違っていると思うことしかできないとなると、これは何もしないというのはかなりつらくなる。自分では、その運動のことを誰よりも一生懸命考えているつもりでも、何もしないということで、サボっているように見られるかもしれない。こんな時は、じっとしているのがつらい。そこでそのつらさを耐える指針も欲しくなるので、次のカルタ「居直ってみれば世は事もなし」ということになる。牧さんは次のように書いている。「あんまり辛くなったら居直って考えてみてください。「この運動をやるかやらないかで、本当に世界がひっくり返るか?ま、世の中大勢に影響ないな」と。<居直ってみれば世は事もなし>です。実際、運動だとか闘争だとかは、人間社会のある限りそのタネには事欠きません。一度や二度機会を逃したって、どうってこともありやしません。」さて、「壁」に突き当たったときは、このようにして、ひたすら何もせずに待つことが重要だと牧さんは言う。だが、それはいつまで待てばいいのか。ただ待つということは、やはり辛いことではないのか。居直ってみたとしても、そこにとどまるのでは、運動をやめてしまうということになりはしないか。結局「壁」に行き詰まって絶望して、希望を失って終わりということでは寂しい。何とか打開する道はないのだろうか。それを示唆するのは牧さんの次のカルタだ。【た】棚を吊ってボタ餅を待つ「棚からぼた餅」ということわざは、偶然手に入れた宝の幸運を語るものだが、牧さんは、それを偶然にまかせるのではなく、自分で棚を吊ってボタ餅が落ちるのを待てと語る。つまり、必ずボタ餅が落ちる棚を持っていれば、どんなに辛い毎日が続こうと、何もせずに待てるのだというのだ。牧さんの言葉はこうだ。「何にもせずに寝ているときの心構えが<棚を吊ってボタ餅を待つ>です。棚を吊るとはどういう事か?将来に備えて準備をしておくということです。たとえば「かくかくの運動方針には反対である」とか「かくかくのやり方を進めていけば手痛い目に遭うこと必定」とか、みんなに自らの意見、仮説、予言をはっきり言っておく等々のことです。 このようにしっかり棚を吊っておけば、必ず棚からボタ餅は落ちてくるんです。だから、少数派の人は、自分が正しいと思ったら、多数派(あるいは敵)が失敗するのを待っていればいいんです。間違っていれば相手は必ず失敗するんですから。そしたらその時に得たりや応と「それ見ろ、間違っていたじゃないか。俺の言っていたことが正しかったのだ」と。今度は我々の出番です。これが運動の方針転換になるのです。」棚を吊って待つためには、自分の方が正しく、主流派が間違っているという確信が必要だ。そうでなければ、それは吊っておける棚にならない。個人としては、このような指針で対処することが「壁」への対処では有効だ。これを組織としての対処ということで考えると、牧さんは、「組織の中の意見の相違を天下公知のことにしておかなければならない」と語っている。そうすると主流派が間違えたときに、正しかった少数派が吊っていた棚からボタ餅が落ちてくる。そうすると、運動は間違った行動で壊滅することなく、方針転換して新たな方向へと進むことが出来る。日本の運動では、とかく一枚岩のように一致していることが正しいとされる。その考えが主流になっているので、牧さんのような考えは少数派になるだろう。しかし、民主主義の強さは、一枚岩になってみんなで玉砕するのではなく、間違いが修正されていく可能性を残しながら、少数が正しかったとき、あるいは多数派の間違いが明らかになったときに主流派が交代するところにある。民主党が政権を取ったように。牧さんの運動論は、民主主義という概念の本当の有効性を語っているのではないかと思う。
2010.01.12
コメント(0)
牧さんの「壁」という視点は、運動が行き詰まったとき、すなわち自分の活動が何らかの原因で停滞したり失敗していると思ったときに、その停滞や失敗を転換する発想を考えるときに役に立つ。しかし、その停滞や失敗が、案外簡単なことで、ちょっと努力すればすぐに何とかなってしまうものである場合もある。そんなときは、「壁」だと思っていたのは、単に主観的にそう思っているだけで、客観的には「壁」でも何でもないということがあったりする。それが本当の「壁」であるときは、牧さんのカルタは非常に役に立つものだが、それが本当の「壁」でないときは、逆に曲がったためにうまくいかないときがあるかもしれない。相手が本当の「壁」であるかどうか、うまく判定する方法はないだろうか。それは、前回の日記の後半で触れた次のカルタを利用するのがいい方法だ。【ね】「ねばらなぬ」となったら行き止まり【め】目が据わったら、もう終わり【ま】まなじりを決してトン死する自分の意識の中に「ねばならぬ」というものが強くなってくると、それは、現実にはそうでないから何とかせ「ねばならぬ」ということになってくる。その意識が強くてもやはりうまくいかないと、そのうちに「目が据わる」ようになる。そして、いよいよ玉砕ということになって、「まなじりを決してトン死する」ということになるわけだ。こうなれば、それは主観的な意識だけでなく、客観的にも「壁」だと判断してもいいのではないかと思う。このカルタが描写する様子に共通しているのは、あまりにもクソマジメに対処しているということだろうか。これは、そもそも運動というものが、非常に大事で良いことをしているのだという意識を持って行われていることが多いからだろうか。牧さんは、「運動というのは楽しくなくちゃー……、おもしろくてやめられねえや、というくらいでなきゃ運動は進まない」と語っている。このまじめ主義は、運動を暗くし、運動を推進していくエネルギーを削ぐものとして牧さんは批判している。僕も、自分が関わってきた運動に、そのような暗く重苦しい雰囲気があるものがあっただけに、この牧さんの指摘は「全くその通りだ」と思う。でも、運動を楽しんでやっているなんていうと、それは不真面目でいい加減だといわれて、運動の中では信用を失うものらしい。牧さんも「「おもしろくなくて誰が学生運動なんかやるものか」って言ったら、たちまちものすごい反発を食らって、それまで圧倒的権威を持っていたのが、あれよあれよという間に少数派に転落してしまいました」と語っている。このまじめ主義が牧さんに批判されるのは、「壁」に突き当たったときに、クソマジメな人間はそれを回避して曲がることが出来ないからだ。ほとんどの場合は、まじめに正面から正々堂々とぶつかって玉砕することになる。そんなやり方はうまくいかないと、戦争に負けてからみんな思い知ったはずなのだが、未だに最後は信念で玉砕するという精神主義に向かってしまう。僕も、根はまじめな方だが、クソマジメにはなるまいといつも努力している。「遊び」という比喩でよく語られるが、「遊び」のないものは、余裕がなくなり、すぐに限界に達して破綻するようなものになる。比喩でよく語られるのは、車を運転するときのハンドルだ。ハンドルは、ちょっと動いてもすぐにタイヤが反応しないように、「遊び」というものが設計されている。もし「遊び」のないハンドルがあったら、それを回転させたときに、すぐタイヤも連動して動いてしまうので、安定して車が走ることが出来ず、いつもがたがたして曲がりくねって運転してしまうだろう。「遊び」のないハンドルは、いつも敏感すぎて、すぐに限界に近づいてしまい、全く安定しない。いろいろな意味で「遊び」のないものは、同じような性質を持っている。もう一つ、まじめ主義の人には難しい指針が次のカルタに語られている。【の】「のに」となったら「から」「のに」というのは、運動がうまくいかないときに必ず出てくる愚痴だと牧さんは言う。それは、「こんなに一生懸命やっているのに……」という言葉として出てくる。この「のに」を「から」と言い換えることが出来るかどうかに、「壁」を曲がるきっかけがあるという。牧さんは次のように書いている。「そうなったら、この「のに」を「から」に替えてみる。これが曲がる道を見つけるキッカケです。そうすると「こんなに一生懸命やっているから(うまくいかない)」となります。つまり、運動方針が間違っているからうまくいかないんじゃないか、というふうに考え直す思考回路が出来てくる。よろず運動では、間違った方針で事を運べば、一生懸命やればやるほど事態はますます悪くなります。」これは、たぶん思い当たる人も多いのではないかと感じるくらい、的を射た指摘だと思う。僕もちょっと前に、孫に口うるさく小言を言いながら食事をさせていたおばあさんを、ある中華料理店で見たときに、このカルタを思い出した。そのおばあさんは、孫が自分のカバンなどの荷物をどこにおいても文句を言っていた。右に置いても左に置いても、何らかの都合の悪いことがあるので、そこをいちいち指摘して孫に小言を言うわけだ。料理を食べるときも、箸の持ち方や使い方、料理をどこにおいて食べるか、手を伸ばしたときに料理にあたるんじゃないかとか、とにかく黙っているときがないくらいに小言の連続だった。かわいそうに、孫は何をやっても文句を言われるので、とても萎縮したような態度になって、何をやっても必ず失敗していた。そのときに、そのおばあさんは、「自分がこんなに教えてやっているのに、お前はちっとも良くならない」というような愚痴をこぼしていた。「のに」という認識で自分の行為をとらえているんだなあということが分かる。でも、違うんですよ、と僕は言ってやりたかった。あなたが一生懸命に小言を言うから、孫はちっとも行動がしっかりしなくなっているんですよ、と言ってやりたかった。それは「のに」ではなく、「から」なんですと。まことに方針の間違いというのは、目的と反対のものを生じさせるものだと思った。おばあさんは孫を自立したしっかりした人間にしたいはずなのに、孫はますます自分では行動を律することの出来ない人間になってしまう。でも、もしかしたら、おばあさんは無意識の中で、孫が自立しないように願っているのかもしれないなと思った。自分がいなければ、孫は何も出来ないという状態は、自分の必要性をいつも確認できるのだから、おばあさんにとってはその方が幸せなのかもしれない。でも自分では決してそうは思わないだろうなと思った。それは「構造的無知」ではないかと思うからだ。でも、「構造的無知」は、第三者からは、ちょっと観察しているとよくわかるものだなとも思う。まじめ主義に陥りやすい人は、この「のに」と「から」の言い換えという、弁証法的発想を時々使うと、新しい発見が出来るかもしれない。まじめ主義の人にはぜひお薦めの言葉だ。
2010.01.11
コメント(0)
牧さんのカルタで、最も有効に使えそうなものは次のようなものではないかと思う。【つ】突き当たったら曲がれこの「突き当たった」と表現されているものは、普通は「壁」と呼ばれているものだ。この「壁」というものは、まじめで、ある程度の力(パワー)がある人は、それを克服しようとしてがんばることが多いのではないだろうか。「壁」を乗り越えることによって自らを成長させるということもあるので、まじめな人は、特にそのように振る舞ってしまうだろう。しかし簡単に乗り越えられないからこそ「壁」と呼ばれるということもある。あるときは、深い挫折感を持って「壁」に跳ね返されるということがあるだろう。このときに、それでもあくまでも「壁」を乗り越えるためにがんばっていると、自分が理想としてきたこともすべて終わるような深い挫折につながり、「絶望」という二文字が見えてしまうことがある。牧さんは、このような深い挫折を体験した後に、このことばに出会ったようだ。これは見事な弁証法の展開でもあると感じる。「壁」というのは乗り越えないと向こう側にいけないというのは、固定された視点から「壁」を見ることになる。だが、ちょっと回ってみると、案外裏へ抜ける隙間が見つかることがある。上を飛び越えることは出来ないけれど、ちょっと回り道をして裏に抜けてしまえば、結局は反対側へ到達することが出来るのだから、結果的には同じ事になるわけだ。しかも、この方法の方が負担が少なく、余裕を感じられる分だけ失敗も少ないのではないかとも思える。世の中で本当にいい仕事をしようと思ったら、それにはいくつもの困難が伴い、全く「壁」だらけで途方に暮れることがあるだろう。そんなときに、この牧さんのことばを思い出すと、ぶつかって玉砕するのではなく、ちょっと曲がって裏へ抜ける隙間を探せというふうに、指針として役立てることが出来る。牧さんの深い挫折感は、次のことばとして書かれている。「その当時、私の心を占めていた最大の問題は、「私自身がいかに間違っていると思うとはいえ、国際的にも国内的にも正当と認められている方針を認めてともに運動するのが正しい生き方なのではないか」という気持ちと、いやそうではない、もしその中に加わって私が私の信ずるところを常に主張する自由が認められるならともかく、そうでないことがはっきりしている以上、そこに加わるということは私が私自身を侮辱することだ。私は自分が間違ったと思えないことについて、私は間違っていましたということは出来ない」という気持ちの分裂抗争でした。」主流派の考えを間違っていると思い、自分の考えは間違っていないと思っているのに、組織は自分が間違っていると思っている方針で動いている。それなら、自分の心を殺して、組織の方針をいったんは認めて、一緒に運動をすることが正しいのではないかという迷いと、自分の心情にあくまでも忠実でいようとする気持ちとの葛藤は、そのときの状況が孤独を感じさせるものであれば深い挫折となるだろう。この深い挫折の中で出会ったものが、石川淳の文章だったという。この「壁」に対する格言も、牧さんは石川淳の文章から学んだようだ。それをまとめて、牧さんが理解したような表現に直すと次のようになるようだ。牧さんのことばを引用しよう。「世の中には壁というものがある。壁というのは人間の運動の邪魔になる。で、じゃあ壁があったらどうするか。まず、ぶち当たって、壁をぶっこぬこうとする連中が出てくる。でも、ぶち当たってもぶっこぬけないから壁なんだ。ぶち当たってぶっこぬけるようなものは壁じゃない。連中はぶち当たっちゃぁ首の骨を折ってる。世の中には壁に頭をぶつけるのが好きな人間がいて、どうしてもそこに頭をぶつけないと気が済まない。それで、壁と壁派の人間が共謀して、世の中をひどく窮屈にしている。どこを向いても壁だらけ。じゃあ、そういう壁があったらどうしたらいいのか。壁があったら曲がれ、と。やけを起こして頭をぶっつけ、目を回すには及ばない。これを発明したのがドストエフスキーで、こういうのを革命という。云々……というのです。」牧さんにとっての「壁」は、自分のことばを理解してくれない多くの他者だったようだ。自分は正しいと思っているのに、その正しさにちっとも同意してくれず、こちらが力を込めて説明すればするほど相手の心が離れていく。この他者の意識こそが大きく立ちはだかる「壁」だったようだ。それでは、牧さんはどのようにしてこの「壁」を回ったのか。それは後に説明される次のようなカルタに従って行動を決めたらしい。【な】何にもせずも芸のうち【ゐ】居直ってみれば世は事もなし【や】やらぬよりやったがよいが命取りこれも短いことばなので、ちょっと説明が必要だが、詳しい説明はまた別の日記でということにして、簡単に言ってしまえば、要するに何もしないでじっと時を待つということを自分に納得させることばを見つけたということだろうと思う。孤独と焦りの中で、何もせずに待つというのはつらいことだが、待つことが「壁」を回避して曲がることだと思えれば、それにも耐えることが出来る。また、もう一つ「壁」で大事なのは、それが、曲がって回避するだけの大きな「壁」なのだという理解が正しいかどうかも的確に判断しなければならないことだ。それが実は少しも「壁」ではなく、ちょっとした努力で克服できるのに、その努力が惜しいために「壁」のように感じている場合があるかもしれないからだ。相手が本当の「壁」であるかはどう判断したらいいのか。それには次の格言を使うという。【ね】「ねばらなぬ」となったら行き止まり【め】目が据わったら、もう終わり【ま】まなじりを決してトン死するこういう状況が出てきたら、それは「壁」を乗り越えることが不可能になった限界状況だと判断するということだ。こういう状況というのが、具体的にはどういう状況なのかは、この短いことばだけではわかりにくいので、次の日記では、この判断に役立ついくつかのことばを詳しく見て、紹介していきたいと思う。「壁」に突き当たると、とかくまじめで誠実な人ほどダメージが大きく、暗く沈んでしまう。そんなときに、少しでも未来の展望が持てるように、明るい希望をつかめるように、このカルタを有効に生かしたいと思う。
2010.01.10
コメント(0)
牧さんの次のカルタは【べ】「べし」「べからず」でヤセ細りというものだ。これも、この短い言葉だけでは何を言っているか分からないが、次の牧さんの注釈を見ると、何も付け加えることがないくらい、明快に「なるほど」と思えるようなことを語っている。ちょっと引用しよう。「自分がやった運動でうまくいった運動を考えてみると、「なるほど、うまくいっているときには押しつけはないなァ」ということがよく判るものです。 つまり、少数意見の人が行動に出てこなくても、目立たないくらい運動が盛り上がっているときには、少数派の人が出てこなくても、みんな目くじら立てたりしない。運動がうまくいっているときには、言わず語らずのうちに、こういう原則は守られているんです。 しかし、うまくいかなくなったとき、無理矢理人を集めようと思ったり、無理矢理人を動かそうと思ったりするとき、多数決の原理を振りかざして「多数決で決まったんだから、××しなければならぬ」と、反対意見の人たちまで行動に追い立てるようになります。こうして運動はますますうまくいかなくなります。「××すべし」「××すべからず」なんてのが増えてきますと、運動も組織もどんどんヤセ細って活力を失ってしまいます。<「べし」「べからず」でヤセ細り>というわけです。」運動というのは、あくまでも主体的に個人が参加すべきで、そうならないような運動は勝てない。そして、そうならないような運動は、方針なり基本的な考え方のどこかが間違っているのだから、本来は、そのようなところを反省しなければならないのに、「べし」「べからず」という義務を押しつけるものだから、方針の間違いを反省することもなくなってくる。一生懸命やらないやつが悪いというわけだ。しかし、間違った方針を一生懸命やってしまうと、これはますます泥沼にはまり込み、運動はますます衰退して勝てなくなっていく。牧さんが語るように。このカルタの言葉は、運動がうまくいっているときには忘れても大丈夫だが、うまくいかなくなったときは、思い出して違う視点を持つようにした方がいいだろう。それを教えてくれる格言として重宝すべきものだと思う。この「べし」「べからず」は、日本中至る所に見られると牧さんは指摘する。そして、それはたいていは、「なぜそうしなければならないか」という問いにうまく答えられないときに、これが持ち出されることが多い。牧さんは、学校における長髪の禁止などに触れている。学校では、なぜ長髪がダメなのか。これに説得的に答えることは出来ない。長髪は生活の乱れの現れだなどという理由が言われたりするが、それが正しいとしても、それは結果を語る論理であり、「長髪だから生活が乱れる」という逆のことが正しいとは言えない。「生活が乱れているから長髪になる」というのがもし正しいとしても、論理的には、その逆が無条件に正しくなるわけではない。だが、そう勘違いして説得したくなる人は多いのではないかと思う。こういう説明に説得力がないときは、最後は、「そうなっているからそうなんだ」と言うことになる。これに迫力があれば「本気」が伝わって納得するかもしれないが、迫力がないときは、建前だけだと言うことがすぐにばれてしまうだろう。こうなると面従腹背という反応が返ってきて、運動はうまくいかなくなるだろう。「べし」「べからず」を語る人間がすべて「本気」の迫力を持っていれば、その運動は力を持つだろうが、それはたぶんほとんどないことだろうと思う。結局は、「べし」「べからず」は運動をヤセ細らせることになっていくだろう。カルタの言葉の正しさを証明するに違いない。「べし」「べからず」に迫力がなくなるのは、牧さんに寄れば、どうでもいいことでそう語るからだという。「べし」「べからず」に本気になるには、重松清さんの村内先生のように、本当に大切なことだけに「べし」「べからず」を使うべきなのだが、そうでないどうでもいいことに語るから、迫力がなくなり嘘だと思われてしまうわけだ。そこで牧さんは、次のようなカルタも作っている。【ち】小さな禁止が大きな抑圧これも、牧さん自身の言葉で、明快で痛快な解説があるので引用しよう。「人殺しや泥棒を禁止されたって、誰も抑圧なんかに感じません。「どうでもいいこと」を禁止されるから、ものすごく抑圧に感じるわけです。<小さな禁止が大きな抑圧>なのです。」仮説実験授業研究の提唱者の板倉聖宣さんも、生徒が押しつけだと感じないようなことはどんどん押しつけてしまった方がいいと語っていた。そして、少しでも押しつけだと感じられるようなら、それは決して押しつけてはならないとも語っていた。仮説実験授業の場合は、そのルールを設定した方が楽しくなると思えるようなら、そのルールは徹底して押しつけるという考えだった。それは、本質的に大切なことだからだろう。そして、どうでもいいことは一切押しつけないというのが一方では重要視されていた。押しつけを「する」「しない」という正反対のことを統一した弁証法のような感じもする。学校の長髪禁止に関して、牧さんは、「どうでもいいことだから、生徒の自由にさせるべきものです。これを禁止したりすれば、子どもたちは「こんな事さえ許されないのか」と怒るのは当たり前です。人権侵害です」と語っている。牧さんが語る次の言葉は、ちょっと過激すぎて眉をひそめる人もいるかもしれない。だが、僕は正しい主張だと思う。「だからこそ、自分では決して髪を長くしないような子が先頭に立って、長髪禁止令に反対することになったりします。こんな人権侵害をやられたら誰だって怒髪天を突くというものです。「あんな小さな事を一つ一つ禁止されて怒らないやつは人間じゃない」と僕なんぞは思います。方々で怒りの抗議行動が起こってほしいですね。それで「ああ日本の子どもは健全だ、こいつらみんな人間だ」と僕が喜び躍り上がるようにしていただきたいと思います。」牧さんがこれを語っていた時代は、校内暴力からいじめの時代へと学校がシフトしてきた頃だろうか。その頃の子どもたちの健全さが、今はかなり影を潜めているような感じもする。怒りの抗議行動という意識を持つ子供は少なくなっているのではないだろうか。むしろ、長髪を禁止して抑圧する学校と、何でもかんでも自由になってしまったので、怒りのエネルギーなどわいてこなくなってしまって、むしろ秩序そのものが失われてしまった学校とに二極分化してしまったようにも見える。小さな抑圧が大きな抑圧につながっている学校と、小さな抑圧もない代わりにルールも失われてしまった無秩序な学校とに分かれてしまったように僕には見える。ちょうどいいバランスを取り戻すことが果たして出来るだろうか。運動の未来に希望を持つためにも、バランスを取り戻す方法を見つけたいものだ。
2010.01.09
コメント(0)
牧さんが語るカルタの言葉の最初は次のものだ。【は】反対のことは せず させず言葉としては短い一言なので説明がないとわかりにくいだろう。これは、日本的多数決原理を批判したものとして、たとえ多数決によって決まった方針であっても、それに対して明確な反対を表明していた人間には、その行動を「せず」というのは押しつけてはならないということを意味し、「させず」というのは、してはならないという禁止を語るものだ。普通は、多数決で決まったことは、たとえ反対であってもやるのが義務だと思っている人が多いのではないだろうか。法律などは、元々が強制力を持っているので、たとえそれに反対であっても守らなければ罰則規定があるものもある。これは、民主主義的決定の中でも実は特殊なもので、一般的な運動体などの民主主義においては、このカルタにあるように、強制してはいけないというのが原則にならなければダメだというのが牧さんの主張だ。これは、板倉さんの科学の思想にも通じるもので、多数決というのはそれで決定したからといっても、必ずしもその判断が正しいとは限らないということから来ている。運動の方針というのは、あくまでも正しさを求めるべきであって、何が正しいか意見が分かれるときに便宜的に多数決を利用するだけなのだと理解するのが正しいというわけだ。法律は、社会の秩序を守るという目的があるため、一般的な民主的決定に対して特殊性を持っていると考えられる。それは、押しつけなければ秩序の確立が出来ないという特殊性を持っているが故に強制力を持っていると理解した方がいいだろう。自由意志で集まる一般の運動体の場合は、そこから離れるのも自由なのだから、そのような強制力を持たせる必要はない。むしろ主体的に参加する人間こそが運動の中心にいてほしいのだから、運動体の民主主義原則としては、牧さんの主張が正しいと僕も思う。法律においてもしばしば判断の間違いが見られることがある。板倉さんが研究した「生類憐れみの令」と「禁酒法」という法律は、そのひどい押しつけがかえって反対の結果を生むという失敗を生じさせた。生き物を大事にさせようとした「生類憐れみの令」のために、人々は生き物を嫌いになった。飲酒の習慣をやめさせようとした「禁酒法」のために、人々は隠れて酒を飲むようになり、そのために大金を使い生活も退廃した。間違った方針が提出されたとき、むしろ反対者というのは、運動が致命的ダメージを被らないために必要な人々なのだ。そして、正しいか間違っているかは、実践(実験)の結果を見なければ分からないときがしばしばある。そのときは人々の意見は分かれ、反対者が必ず出てくる。この反対者に、その反対が正しかったかどうかを判断させるためにも、反対のことはしてはいけないし、させてもいけないのだ。そして、反対者の見通しの方が正しかった場合は、運動を指導することは、正しかった反対者にゆだねるべきなのである。長い間政権担当をした自民党は、このような民主主義原則が不思議なことに自然に行われていた。自民党では、派閥がそれぞれの勢力を牛耳っており、中心になって権力を握っていた派閥に反対していた人々は、権力の中からは排除され、たとえ多数決で決まったことでも何もさせてもらえなかったし、何もしなくてもそれを責められることはなかった。そして、反対者が正しいことが分かったときは、権力の座が交代するということが自民党内で繰り返されてきた。システムとしては、民主主義原則がそこにあったように見える。牧さんが主張する民主主義原則に疑問を持つ人は、これが守られなかった場合にどのようにひどいことになるかを想像してみるといいかもしれない。牧さんは、日本の運動が分裂を繰り返して壊滅していくのを見て、この原則が守られない運動の末路をいくつも見てきた。このことを理論的にまとめて次のような文章を書いている。「日本の組織や運動では多数決で何かを決めると、それに反対した人間=少数派の人間に対しても、「多数決で決まったんだから」といって、事を押しつけてやらせる。そして一生懸命やらないと、「規律違反だ」などと目くじらを立てて責めたりする。中には無理矢理、先頭に立たせてやらせたりする。どうも「多数決で決まったことには、少数は行動をともにしなければならない」ということが原則のように考えられている。これは全然けしからんのじゃないか、というのが私の考えです。 そもそも多数をとったからといって、その意見なり方針なりが運動を成功させるかどうかは判りゃしない。多数をとったって、その方針が正しいかどうかは、その方針に従って運動をやってみた結果、すなわち実験の結果が出なきゃ判りゃしません。その実験をやる前には、少数意見も多数意見も両方とも等しい価値しか持っていない。ですから、その実験を--大切な実験を反対意見の人間にやらそうというのは、非常にまずいやり方です、運動論的に言って。 考えてもご覧なさい。そもそも反対意見の人が、自分の反対している行動を組織したり、先頭に立ってやったりして、事がうまく運ぶでしょう?運ぶはずがない。 だって、反対だった人間が、本気になって、自分の反対している方針で運動なんか出来ますか。本気にならずに(なれずに)やってうまくいくほど運動というものは甘かありません。」理論的に考えてみても、反対の人間に運動を担わせることは、失敗の危険が大きいことが分かる。だが、日本の運動ではそのようなことを繰り返してきた。それは精神主義が支配してきたからだと思う。合理的に物事を考えるよりも、運動の大儀にどれだけの忠誠心があるかで、運動の成果を計るようなことをしてきたのだと思う。だがこのようなことは、反対者の不満や怨みを大きくして、やがて運動は分裂していくと言うことになっていく。それでも、まだ多数決は決定するシステムとして大事だと思う人は多いだろう。その重さを考え直す牧さんの言葉を最後に引用しようと思う。「まァこんなことを言うとすぐ、「冗談じゃない、そんなことを言ったらみんな出てこなくなっちゃう」という声が聞こえてきそうです。しかし、その声に対する私の答えは簡単。大部分の人が出てこないような行動なら、そんな行動を決めた方針が間違っとる。直ちに運動方針を再検討しなさい」と言うことです。あるいは「大部分の人が参加しないような運動なら、それは運動自体が間違っとる。そんな運動おやめなさい」ということです。」多数決が、実は多数意見を反映していないことも多々ある。そんなときは、賛成の手は挙げるけれど実際の行動はしないという面従腹背が行われることになる。そんな多数決の決定しかできないような運動は、もはや運動としては死んでいるんだと認識した方がいいと言うことだ。理論的に考えても、やはり牧さんの主張は正しいのだと思う。
2010.01.07
コメント(0)
牧さんは、かなり以前に安西冬衛の「てふてふが1匹韃靼(だったん)海峡を渡って行った」という詩に、見事な解説をしてくれた人として紹介した人だ。牧さん自身は、東大の西洋史学科を卒業して、岩波映画社で科学映画を撮っていたという人で、経歴としては文系のような理系のような不思議な人だ。その牧さんの学生の頃は全学連の運動が華やかなりし頃で、ほとんど学校に行かずに運動に専念していたという。その牧さんが、自らの運動の歴史を理論的にまとめたものがこの本だ。この本は、1998年の発行になっているから、その発行年を見ると、正確には青春の日の読書に当たらないような感じもする。だが、普通の出版社から出された本は1998年だが、僕がこの牧さんの運動論を初めて読んだのは、仮説実験授業研究会主催の研究会に行って、まだワープロが出始めた時代に、手作りで印刷製本されたものを見たのが最初だった。だから、そのときの記憶を元にすれば、この本は青春の日の読書になる感じがする。牧さんの運動論の面白さは、それが仮説実験授業の考え方によく似ているところだ。運動が「実践」であり、それは板倉さんがいう意味での「実験」に通じるものになっている。三浦つとむさんが解説していたマルクス主義の、本当の意味での「実践」が牧さんの運動にはあったような気がした。牧さん以外の日本の運動は、僕には精神主義的な、まるで戦前の「勝つと思えば勝つ」というような信念に支えられているようにしか見えなかった。自分たちのやっていることは正しいのだから、その正しさが勝利するのは理論的に明らかだ、というような雰囲気を漂わせていた。そして、正しいことを正しいと思えないようなやつは、それが理解できないことが悪いというような扱いを受けた。僕は残念ながら信念では動けないような人間だったので、どれほど熱っぽく説明してくれても、「どうしてそれが正しいんですか?」というようなことを、論理的に証明してくれないと、「正しさ」の信念は僕の中には生まれなかった。僕は、正しいこと自体を疑っていた。特に納得がいかなかったのは、差別に対する反対の運動をしていた人たちが、「差別を受けたことのない人間には、差別の本当の意味が分からない」というようなことをいって、疑問を持つ者を排除しようとしていたことだ。運動というのは、自分の正しさを人に押しつけるためにするんじゃなくて、正しさを共感してもらって、理解してもらうことが目的にならないといけないんじゃないかと僕は思っていた。それが、理解してもらう努力をするのではなく、「分からないやつには分からない」と切り捨てるような考え方で運動をしていることに大きな疑問を抱いていた。その僕の疑問にすっきりと答えてくれたのが、牧さんの運動論だった。この本は、運動の理論を「いろはカルタ」ふうに短い文でまとめたものになっている。その冒頭に掲げられる言葉は、【ん】運動とは、あなたが、だれかに、はたらきかけること、 そしてみんなで何かをやることです。と書かれている。実に見事な運動の定義だと思う。運動ってのは、こうでなきゃいけないと深く頷いたものだ。運動というものをこのようにとらえると、すべての人間活動に、運動というものが関わってきて、それを正しくつかむことが役に立つと思えてくるから不思議だ。牧さんは、次のように書いている。「このリードをつけてみると、運動というものの領域のイメージが一挙に広がります。市民運動・学生運動などの社会的な大衆運動はもちろんのこと、あなたがもし学校の先生であれば、あなたが生徒に働きかけること、つまり授業はあなたと生徒の間に起こる運動ですし、もしあなたが今恋をしているなら(あるいはしようとしているなら)あなたとあなたの意中の人との間に起こる何事かも運動に他なりません。そしてあなたがすでに結婚していれば、あなたとあなたのお連れ合い、あるいはあなたとあなたたちのお子さんとの間の事共もまた運動ということになります。」牧さんの運動論は、実践というものを元にした認識論だとも思えるものだ。外界を認識するとき、それが単なる経験にとどまるなら、それはつながりのないバラバラの記憶として頭の中に残るだろう。何かがうまくいったときも、それがどうしてうまくいったのかという認識は、単なる経験の時にはつかめない。たまたまうまくいったという印象しか残らない。失敗したときも同じだ。経験からは、たまたま運が悪くて失敗したな、というようなことしか残らない。成功したときに成功の原因をつかみ、失敗したときに失敗の原因をつかみ、それをその後の活動に生かすためには、そこに法則性を見つけなければならないだろう。それは、予想を元にした「実践」という考え方を身につけなければ法則性は見えてこない。牧さんの「いろはカルタ」の短い言葉は、この法則性を実にうまく表現している。また、牧さんは、認識を作る際の急所のようなものを語っているが、この認識論的見解は実にまた本質をとらえている。急所になる概念をつかむことによって、自分が法則性を見つけたい対象の全体像が見えてくるという説明の仕方をしている。世界の全体を把握するには、世界の本質を見させてくれる中心となる概念をつかむ必要があるのだ。牧さん自身の経験では、力学を勉強していたときに「慣性の法則」が分かったときに、力学の全体像が見えてきたという。牧さん自身の言葉では次のように語られている。「それまで私はなんといっても「運動」と「静止」の間に万里の長城を築いていたわけです。私たち(の世代)は、慣性の法則を「ダルマ落とし」なんてので教わったんです。「止まったものは止まったままで、動いているものは動いたままで、これが慣性なんだ」というふうに教わったんです。だから、やはり静止と運動とは質的に違う状態なんだというアリストテレス流の考え方から抜けきらなかった。「いつでも物は全部動いている。止まっているというのは、たまたま速度が0の時に過ぎない」--あッ!慣性の法則ってのはそういうことなんだ。静止というのは速度0の状態で、速度αのときの状態と別に変わりはないんだ、ということが突如分かる。それが分かると、とたんに慣性の法則の持つ意味が分かり、力学の見通しがパーッといっぺんに良くなったという体験がございます。」「運動」と「静止」の統一的な概念がつかめたとき、その理論である力学が分かったという感じだろうか。牧さんの運動論は、とてもおもしろいので、これから何回かに分けて、この本はちょっと詳しく紹介していこうかと思う。
2010.01.07
コメント(0)
重松清さんの短編集『青い鳥』を一通り読み終えることが出来た。どれも素晴らしい作品だった。重松さんという人は、教育学部を出ているらしいのだが、直接教壇に立った経験はないらしい。それでいながら、現在の学校の抱えている問題を鋭く見抜き、その本質的解決の方向を示していると思えるところがスゴイ。それがまた本質的であるだけにきわめて難しいとも感じるのだが、たぶんこうでなければ今の学校は救われないだろうと感じる。昔の学園ドラマであれば、スーパースターのような先生が、どの子どもに対しても大きな影響力と存在感で迫ってくるような形のものが多かったのではないかと思う。その先生は、どの子にとっても「いい先生」だったように思う。だが、現在では、そのような存在はとても考えられないのではないかという感じがする。社会が複雑化し、子どもの世界もあまりに多様化してしまって、ピンポイントでその子にふさわしい人間というものを考えなければ、「いい先生」などに出会うことがないのではないかと思える。「いい先生」は、誰にとっても「いい先生」ではなく、その子にとって「いい先生」なのだというのが現在の状況ではないだろうか。重松さんの物語では、「ひとりぼっちの子ども」というのがいつでも主人公として登場する。毎回出てくる村内先生が主人公のように感じるかもしれないが、村内先生は、いわばトリックスターのような存在で、主人公の子どもの変化にきっかけを与えるような存在として登場してくるように感じる。そして村内先生は、具体的にはほとんど何もしない。大切なことだけを話すといって、そのひとりぼっちの子どもにとって大切なことが何なのかというのを、その子どもが気がつくような会話をして、そこに気づいたときに「間に合った」という不思議な言葉を残して去っていく。ひとりぼっちの子どもが、絶望の淵に沈む前に、何が大切なことなのかを気づかせることが出来たら、村内先生は「間に合った」といって、自分の仕事は終わったといっているようだ。この村内先生は、吃音がひどく、国語の授業はとても上手とは言えないものになっている。むしろひどいもので、教師としては無能だと言われるような感じだ。しかも、たった一人の「ひとりぼっちの生徒」以外には、村内先生の本気が伝わっていないような感じも受ける。村内先生は、多くの生徒にとっては、青春の一こまに通り過ぎていくような存在で、思い出すこともないような感じだ。しかし、主人公となる「ひとりぼっちの子ども」は、生涯村内先生のことを忘れずに生きていくのではないかと感じるくらい、その子にとって大きな存在になっているような気もする。何も出来ないけれど、いつでもそばにいると言うことを感じさせてくれて、「あなたはひとりぼっちじゃない」というメッセージを送り続けるという村内先生の姿に、僕は若い日に読んだ遠藤周作のイエス像を重ねてイメージしていた。イエスも、ただひたすら寄り添うことだけをしていて、それ以外は何もしない・何も出来ない存在として遠藤周作は描いていた。しかし、その寄り添い方が、人間には出来ないくらい徹底的な寄り添い方で、これが「本気」というものだろうかという感じのものだ。ここにこそイエスの奇跡があると語る遠藤周作に共感したのを思い出す。寄り添うというのは、端から見ていると簡単そうに見えるが、「お前のためを思ってそばにいるんだ」というような押しつけがましいにおいをさせてしまうと、そのような行為は、寄り添うようには見えなくなる。そばにいてほしいときにそばにいてくれる人が、本当の意味で寄り添う人だろう。遠藤周作は、寄り添うイエスには他に何も出来なかったというような描写をしていた。重松さんが描く村内先生も、寄り添う以外には全く何も出来ない先生のように見える。何かが出来る有能な先生というのは、もしかしたら寄り添うことは難しいのではないかとも感じる。有能な先生は、寄り添うよりも引っ張っていってしまうのではないだろうか。重松さんが描く「ひとりぼっちの子ども」たちは、引っ張ってもらったからといって、それでひとりぼっちでなくなるようには思えない。むしろ、大衆の中での孤独をより強く感じてしまうような感受性を持っているように見える。彼らは、本当に寄り添ってもらうことで、寄り添うことの大切さを知り、自らが他者に寄り添うことが出来るというのを学んでいくような気もする。そして、彼らが今度は寄り添う人間になることによって、ひとりぼっちという孤独を克服していくのだと、そうメッセージを送られているような気がする。僕は、自分の感受性としては、大衆の中での孤独をいつも感じているような人間だった。青年期になってもそのような思いは強かった。しかし、振り返って思い出してみると、いつも寄り添うようにそばにいてくれたのは家族であり、友達だったような気もする。決して「ひとりぼっちの子ども」ではなかったようだ。そういうふうに、誰か寄り添う人がいてくれた幸運な子ども時代を過ごした人間は、村内先生のような存在がいなくても何とか絶望せずに人生を送れるのかもしれない。しかし、重松さんの主人公たちは、村内先生に出会わなければ、人生に対する絶望の中で生きていかなければならないのではないかというのを感じる。そのような子どもたちに、やはり村内先生のような人が、「間に合った」と言えるような状況を作ってやりたいと思う。教育改革の大きなポイントがそのあたりにありそうな気がするが、寄り添うということの難しさを考えると、物語の中ではない、現実に村内先生のような先生が登場してくれるだろうか、という一抹の不安も感じる。現実の世界では、寄り添う人間は、必ずしも学校の先生でなくてもかまわないだろう。子どもにとって学校生活は、生活の大きな部分を占めているので、学校の先生にそのように寄り添うことが出来る人がいれば、それは大きな助けとなるだろう。今の学校の様子を見ていると、その期待はかなり薄い感じもするが。教師自身が、強い管理の下での孤独感を味わっていて、とても人に寄り添っているだけの余裕がないとも感じられるからだ。自分自身を振り返っても、果たして僕は周りの人間に寄り添うような行為をしてきただろうかということを考えることは大切な気がする。主体的に生きるには、自己主張をして、ある意味では周りを無視して生きることも必要なときがある。しかし、その中でも誰かに寄り添って、そばにいることで相手が喜んでくれるようなら、むしろその相手がいてくれることに感謝しなければならないのではないかと、今なら思える。寄り添わせてくれるというのは、幸福感の中でも最大級の幸福を味わわせてくれる。子供を持つことの幸福は、寄り添っていっても邪魔にされないで感謝してもらえるということかもしれない。寄り添うというのは、紙一重でお節介になり、邪魔になるような行為ではないかとも思える。物語の中の、寄り添う行為に感動するのは、人間というのはそれが幸せだということを知っているからだろうと思う。しかし、寄り添うことの難しさは、それに対して感謝を要求するような気持ちが生まれてくるのを抑えて、いかに無私の気持ちで寄り添えるかということではないかと思う。村内先生の姿からは、そのような本当の「本気」の寄り添い方が学べるような気がする。スゴイ人間観察だなあと思う。重松さんの物語はそう感じる物語だ。
2010.01.06
コメント(0)
僕が佐高さんの本を手にしたのは、図書館で本を探していたときに偶然目にとまったのが最初だった。「佐高信の斬人斬書」と題された本は、書評を綴った本の中でも異色のものだった。書評というのは、普通はお薦めの本を紹介するものだが、佐高さんは、批判的に取り上げる本に対して容赦なく欠点を挙げていた。しかもその指摘がどれも、「全くその通り」と思えるほど説得力があった。それだけに、佐高さんが褒める本は、どれも素晴らしいものに見えたものだ。特に、佐高さんは企業を舞台にした現代小説の解説に本領を発揮する人で、佐高さんが薦める企業小説を僕もいくつか手にしたものだった。城山三郎や高杉良・清水一行などの本はとてもおもしろかった。佐高さんを通じて手にした本はたくさんあった。松下竜一さんや千葉敦子さんなどは佐高さんを通じて知ったものだった。佐高さんは、高校の社会科の先生をしていた人で、挫折体験の後に教師を辞めて経済誌の編集者となり、その後執筆活動に入った人だった。その佐高さんが、「私は、教師を辞めて初めて、学校で何が教えられていないかが分かったような気がする」と語り、「何が学ばれなければならないかという思いに貫かれて」書いたものが表題にある本だ。佐高さんは、この本の冒頭で、寝小便の経験を出しながら、人間の弱さというものを語っている。坂本竜馬も寝小便をしていたことにある種の安心感を感じながら、次のように書いている。「私は、この世の中には百点満点の完全な人間はいないと思います。どんな人間にも弱点や欠点があります。ないと思っている人はそう思っていることが欠点なのです。本当に強い人間は、自分の弱点や欠点を知り、それを直すことをあきらめなかった人だと私は思います。弱点や欠点に負けなかった人、何度も何度も負けそうになっても、また起ち上がった人、「もうダメだ」と思って投げ出しても、しばらくして「いや、しかし」とまた歩き始める人が本当に強い人だと私は思うのです。」僕は、佐高さん自身が本当に強い人の一人だと感じた。世間の評価と全く正反対のことであろうとも、佐高さんは率直にその書評に表していた。それも、まだ無名の時代の処女作と言える本でそのような率直さを出していた。そのような強さを僕も持ちたいと思い、佐高さんのこの本を何度も読み返したものだ。この本は1989年に書かれているのだが、当時の子どもの様子を表しての次の言葉は的確で鋭いものだと思う。砂場で砂の山を作っていた子供が、自分の山のことは棚に上げて、他人のものを「小さい」などとけちをつけることが増えてきたと言うことを取り上げてのものだ。「このように、他人のことをけなし、自分はやらずにケチをつけて自分が優位に立つという子供が増えてきた。そういう子供は自分の不得意な場面では何もせず、ちょっと間違えると、サアーッとやめてしまう。 仲間意識が弱く、友情がないと言うことはボスがはびこると言うことで、こういう一方で、えげつない子は、どんどんえげつなく伸びていく。 ボス政治があると言うことは愚民がそろっていると言うことであり、ボスがのさばり放題と言うことはその他がいかに意気地がないかと言うことだ。 しかし、子どもの世界というのは、結局、大人の社会の忠実な縮図であり、子どもがこれだけ歪んでいると言うことは、それだけ、あるいはそれ以上に大人の社会が歪んでいるのだと言うことである。」何も付け加えることがないくらい、明確で正しい主張だと思った。これは、今でも続いている現象ではないかと感じる。大人たちの間での「連帯」という言葉も死語になりつつある。えげつない大人のボスもあちこちにいるのではないだろうか。愚民にならない努力をしたいものだ。このほか、この本で印象的な部分は「毒」と「悪」を語った部分だ。これはどちらもあまり良くないものとしてイメージされているが、現実の世の中には必ずあるものであり、しかもある種の魅力を持っているもので、それに気がつくような感性を持てと佐高さんは勧める。毒については、次のように書いている。「教師たちは現実社会の中で生きていない。現実社会は汚濁に満ちているのに、教師の社会には無菌培養のひ弱な健康さがある。一言で言えば現実社会とはバイ菌の生息する社会であり、そして、始末の悪いことに、このバイ菌には、田中角栄のように“魅力”のあるものがある。」三浦つとむさんも、弁慶の話に関連させて「悪に強気は善にも強い」と言うことを語っていた。単純な善行をするには、あまり強さはいらない。善良でありさえすればそれなりに良い行いは出来る。しかし、強い悪から人を守ったり、救ったりするような強い善は、むしろ世間的には悪人だと思われるくらいの強さを持った人間でなければ出来ないことを指して、善と悪との弁証法的統一として三浦さんは弁慶のことを語っていた。強い善が必要になるときと言うのは、人生の中でそうあることではないけれど、そのように一大勝負の時だと言うことを自覚したときは、毒や悪を知っているかと言うことが、その勝負に勝てるかどうかを左右する。無知であるが故に悪を行えないというのではなく、悪のことも知り、悪を行う能力もあるのに、悪を行わないという自己意識こそが大事だというのが佐高さんの主張だろう。こういう人間は映画のヒーローに多いのではないだろうか。単に「いい人」がみんなの尊敬を集め愛されるのではなく、悪党のすごさを持っていながらも、筋を通した善を行うところにヒーローとして喝采を浴びる姿があるのではないかと思う。その悪の魅力を語った部分も佐高さんの文章にはある。次のようなものだ。「「優等生」の教師たちはあまりに悪、あるいは悪人(の魅力)を知らなすぎるからです。「悪を知らぬ善はもろい」と言われますが、悪を知らずして善を教えられるでしょうか。 阪急電鉄相談役の清水雅は、「悪いことが出来ない人より、悪いことが出来て悪いことをしない人が成功する。実業界というものはこうしたものです」と語っていますが、あるいは鮮やかに“悪の魅力”を描いた山崎豊子の作品を読むのもいいでしょう。 山崎作品では、悪人を主人公にした『白い巨塔』や『華麗なる一族』(ともに新潮社)が、ブリリアントですが、『白い巨塔』でも、里美に惹かれているようではダメなので、財前五郎の魅力が分かって初めて、いい教師になれると言うことを、独断的に、しかし自信を持って断言しておきます。 我が師、久野収が訳したヴィルヘルム・ライヒの『階級意識とは何か』(三一新書)の言葉を借りれば、「心理学が解かなければならない根本問題は、飢えた人間がなぜ盗みを働くかではなく、かえって逆に、彼がなぜ盗みを働かないかにある」のであり、教師こそがその「根本問題」に立ち向かわなければならないのではないでしょうか。」悪の魅力に惹かれる自分に何か後ろめたさのようなものを感じていた時期もあったが、佐高さんのおかげで、悪に魅力があるのは当然のことなんだと思えたのも自分の成長だと思った。
2010.01.05
コメント(2)
僕が初めて河合さんの文章を眼にしたのは、本多勝一さんの「子どもたちの復讐」という本に載っていたインタビューでだった。本多さんの質問に答える形でのインタビューだったので、正確には河合さんの文章ではないが、その語る言葉にはミメーシスを感じ、これはスゴイ人だと思った。本多さんもインタビューの中で、「全くですね。本当にそうです。」「実に納得の行く分析です。」「本質を突いた分析で感嘆しました。」という言葉を語っていた。僕もその通りだと思ったものだ。本多さんのこのルポは、1977年の「開成高校生殺人事件」と1979年の「祖母殺し高校生自殺事件」という当時社会に衝撃を与えた二つの事件をルポしたもので、この二人の高校生の心理を理解するために、本多さんが河合さんにインタビューをしたものだった。河合さんは、このインタビューで日本社会における「母性原理」の問題を語っていた。暖かく包み込むような母親の優しさが、実はそこから抜け出して自立したい子どもにとっては地獄のような束縛を、無意識の底に植え付けるという指摘だった。これは、無意識の中に深く入り込むものなので、直接抵抗できず、歪んだ形でその抵抗が現れていく。開成高校生の場合はひどい家庭内暴力であり、祖母殺し高校生の場合は、大衆に対する深い憎しみの気持ちとして現れ、その憎しみの対象である大衆の象徴としての祖母を殺すことになる。本多さんのルポでは、この二つの家族は、普通の意味ではひどい家庭とは思えないところだ。ごく普通であり、むしろ環境的には恵まれているとさえ思われるかもしれない家庭だ。その家庭で、特に落ち度があったわけではないのに、このように子どもを追いつめる精神的な圧力があったというのが、当時の日本社会の問題として本多さんが解明したいと思ったことだ。これに見事な分析を加えたのが、ユング心理学の研究の第一人者としての河合さんだった。河合さんは、カウンセリングの専門家として臨床心理の現場でも第一人者であり、現実の患者を相手に実践をしているので、理論が空想的にならずに、常に現実的なリアリティを持ってその言葉が響いてくる。理論家でありながら、実践的にも優れていると言うことから、その理論もわかりやすいものになっているのではないかと思った。「無意識の構造」では、無意識というわかりにくいものを説明しながらも、常に現実との結びつきを確認するような説明をしており、フロイトとユングの微妙な違いも感じられておもしろかった。フロイトの無意識の理論は、性的な対象と結びつけられることが多いが、河合さんが解説するユング心理学では「コンプレックス(=心的複合体)」というものが大きな意味を持っているように感じた。僕は、それまでは「コンプレックス」というのは劣等感と同じような意味で使っていたが、「劣等感コンプレックス」というのは、「コンプレックス」の一つであって、それだけが「コンプレックス」だと言うことではないようだ。ある種の心的イメージが複雑につながり合った状態にあり、たとえば一つの言葉を聞いたとき、その言葉をきっかけとして心の中に特殊なイメージが浮かんできてしまうようなものが、「コンプレックス」を形成していると考える。それが結びついていることが「心的複合体」になっているというわけだ。このようなことは、考えてみると思い当たることがたくさんある。たとえば、「コンプレックス」を形成していない人には何でもないような言葉であるのに、「コンプレックス」がある人は、その言葉に過剰に反応して激怒したりすることがある。それは、冷静になって考えてみれば、そんなに感情的になることはおかしいということが分かるのに、感情の高ぶりを抑えられないときがある。それがどうしてなのか自分には全く分からないのだ。これは無意識の世界でつながっている「コンプレックス」だから、自分には「なぜ」が分からないのだろうと思う。僕は、映画を見ているときなどに、どうしてもある場面で映像を直視できないときがある。それは、残酷なシーンとか言うわけではなく、ある意味では平凡な場面で、目を背けることもないような場面なのだが、なぜかそれを見ることにためらいが出るシーンが時々ある。具体的にはそれがどういうものか、というのはあまり覚えていないのだが、映画を見ていると時々そういう場面に遭遇することがある。たいていは、その次に何が起こるかが予想できて、「あっ、こうなってしまう」と思った瞬間に目を背けている。たぶんそこに僕の「コンプレックス」があるのだと思うのだが、「コンプレックス」であるだけに、なかなか意識化できず、記憶にもなかなか残らない。だが、そういう経験だけは残っている。登場人物が、なにか恥ずかしい思いをするようなときだったかもしれない。無意識の世界に押し込められた、生きられなかった自分の反面としての「影」という概念もおもしろいものだと思った。また、この「影」が表に現れるときに見せる「トリックスター」と呼ばれるような存在についても、それは誰もそのような存在になりたいとは思わないにもかかわらず、誰もがその存在を求めているという不思議な魅力を備えたものになる。そして、河合さんの話では、このトリックスターというものが、物語の中で活躍する姿が児童文学においては重要なものになってくると言う。児童文学というのは、単に子どもの読み物というのではなく、成長する人間の深層心理を見せてくれるものとして、その優れた作品を河合さんは紹介していた。河合さんの紹介で読み込んでみた児童文学もたくさんあった。トリックスターのイメージでもっとも象徴的だと思うのは、「男はつらいよ」の寅さんだろうか。寅さんは、誰もそのように振る舞える人はいないと思う。もし、本当に寅さんのような人間が身近にいたら迷惑でしょうがないだろう。だが、あの映画の寅さんは、ああいう人間がいたら、なんて楽しいんだろうと思わせてくれるような存在だ。人間の深層心理は、あのようなわくわくするような出来事を望んでいるのではないかと思う。おもしろいと思うのは、ある人間集団が楽しい時を過ごすためには、誰かがトリックスターにならなければならないと言うことがあることだ。僕は、トリックスターになることの少ない、どちらかというきまじめなタイプだが、誰もトリックスターがいないときは、こんな僕でさえもがトリックスターになることがある。誰もトリックスターにふさわしい人間がいないときは、僕の中の無意識がそれに応えなければならないと思うのだろうか。違うメンバーの中に入ると、まるで性格が変わったようになることがある。これも無意識のおもしろいところではないかと思う。
2010.01.04
コメント(0)
三浦つとむさんがマルクス主義者だったと言うこともあって、若い頃の僕はマルクスやエンゲルスの本もいくつか読んでいた。マルクスはとても難しくてよく分からなかったが、エンゲルスは読みやすくてわかりやすかった。エンゲルスは、どちらかというと理科系的な人だったのではないかと思う。それで僕にもわかりやすい書き方をしてくれていたのではないかと思う。この本は、マルクス主義の考え方が生まれてきたヘーゲルの哲学との中間項としてのフォイエルバッハを評価する(優れた点を認め、足りない点を批判する)というものだった。僕はヘーゲルにも何回か挑戦したのだが、これも難しくてよく分からなかった。フォイエルバッハの本はまだ読んでいない。そのような状況であるにもかかわらず、「フォイエルバッハ論」はわかりやすかった。ヘーゲルもフォイエルバッハも知らなくても、ここに書かれていることが唯物論の見解、それもマルクスとエンゲルスの弁証法的唯物論の考えがまとまった入門書という性格からくるものとして非常にわかりやすかったのではないかと思う。これなら三浦さんが繰り返し説明していることと同じことで、それがこの本の中心となっているのでわかりやすいと感じたのだと思う。マルクス主義の弁証法もヘーゲルの弁証法から発展してきたもので、「フォイエルバッハ論」には次のような記述がある。「哲学において真理と認められるものは、ヘーゲルにおいては、一度発見されたら暗記してさえおればよいと言うような出来上がった独断的命題(ドグマ)の寄せ集めではなかった。真理は、認識そのものの過程のうちに、科学の長い歴史的発展の中に存するのである。しかも科学は、低い段階からますます高い段階へと向上してゆくが、いわゆる絶対的真理を発見して、それから先に進むことが出来ず、手をこまねいて、獲得された絶対的真理に見とれている他はないというような点には、決して到達するものではない。また哲学的認識の領域においてと同様に、他のあらゆる認識の領域においても、実践的行動の領域においても、同じことが言えるのである。歴史も認識の場合と同様に、人類の完全な理想状態のうちに決着点を見いだすことは出来ない。完全な社会とか、完全な「国家」というものは、空想の中にのみあり得るものである。その反対に、一切の相次いで現れる歴史的状態は、低いものからより高いものへと進む人類社会の果てしない発展過程の一時的段階に過ぎない。各段階は必然的なものであり、従ってそれを生み出したときと諸条件とに対しては存在の理由を持っている。けれども、その段階そのものの体内に漸次発展しつつある新しいより高度の諸条件に対しては、滅び行くものであり、また存在理由を失うものである。」最終的な絶対真理というものを求めてきた哲学に対してピリオドを打ったのがヘーゲル哲学であり、真理でさえも、時・ところ・場合という条件によって誤謬に変わりうると言う、正反対の「真理」と「誤謬」を統合した認識こそが正しいと語るものがヘーゲルの弁証法だった。それまでの哲学の集大成であるカント哲学に対しては、観念論からの反論としてはヘーゲルが完成したと、どこかでエンゲルスが語っていたように記憶している。この弁証法という部分の正しさを持っていたヘーゲル哲学に足りないものが、現実を基礎にした唯物論的な考えで、それを批判して登場したのがフォイエルバッハだ。だが、フォイエルバッハは唯物論に徹しきれないところがあったので、マルクスとエンゲルスからはその中間項と見られていたのだと思う。フォイエルバッハは、唯物論の立場から、ヘーゲルの観念論的な部分をただ切り捨ててしまっただけだとエンゲルスは批判している。ヘーゲルの体系は、単に切り捨てるだけで克服できるものではなく、弁証法的に、それを保存しつつ否定し、新たな段階へと螺旋状に発展させると言うことが必要だと言うことだ。三浦さんは、このような否定を、否定の否定と呼んでいた。形式論理では、否定の否定をするとまた元に戻ってしまうが、弁証法では、一段高い段階へと回帰するものになる。ヘーゲルは、絶対精神の運動によって現実の世界も生み出されると考えていたので、これが観念論として批判の対象になった。フォイエルバッハは、この絶対精神を捨て去ってしまったのだが、その後に残る「思惟と存在との関係」という哲学的問題に解決を与えることが出来なかった。我々は、どのようにして外界に存在する「物(物質的存在)」を頭の中に反映させて認識できるのか、という問題はカントが「物自体」というものを想定して解決した問題だった。素朴に外界が反映すると考えるだけでは、錯覚や想像の世界と現実とが区別できなくなる。この区別をつけるために外界の本当のものの世界を切り離してしまったのがカントの「物自体」だと考えられる。「物自体」が現象として認識されたとき、我々の現実が現れる。ヘーゲルは、この「物自体」の世界を絶対精神の運動として解釈し直したので、すべてが認識の問題になり、認識できないという空想の世界はなくなった。しかし、人間の認識ではない、絶対精神の認識というものは、やはり人間にはつかめないものとして残り、「思惟と存在との関係」が、存在の方をなくしてしまったために、思惟の問題に統一されたような感じになる。フォイエルバッハは、そこにまた物質的存在を引き戻して、これを唯物論の問題にしたのだが、それを明確に説得的に語ることが出来なかった。フォイエルバッハは徹底的な唯物論者ではなく、観念論的な部分が残っていたというのがエンゲルスの評価だ。だからこそフォイエルバッハは中間項だと言われるのだろう。フォイエルバッハの弱さは、宗教や心(道徳)を扱う考察になるとてきめんに表れてくると言う。それは、物質的な基礎をどこにおくかが難しいものであり、観念論的見解に陥りやすい対象だ。そこで、徹底的に唯物論的になれなかったフォイエルバッハは観念論者としての中途半端な部分を残すことになる。徹底的な唯物論者となる道は「実践」という考え方にかかっている。この「実践」が、カントの「物自体」もヘーゲルの「絶対精神」も克服させるような、人間の認識における外界の反映というものに正しい見解を与えるものになる。エンゲルスは、「プディングの味は、それを食べることによって知られる」というようなことを語っていた。「実践」という言葉は、板倉聖宣さんが語る「実験」にきわめて近い概念で、たとえばこのプディングの「実践」も、食べる前に「おいしいだろうか」とか「傷んでいないだろうか」というようなある種の予想を持って食べることによってその予想を確かめることが出来る。そして、その予想を確かめることが出来たことが、その存在が確かであるという確信を与えると考える。ただ単に、受動的に五感で対象を受け止めるのではなく、目的意識的に対象に働きかけるとき、そのようなものを「実践」と呼び、この「実践」が対象の存在を明らかにすると考えるのが、マルクス主義での「思惟と存在の問題」の解決だと、僕は三浦さんから学んだ。そのように、三浦さんから学んだことを確認できたので、このエンゲルスの本は僕にはわかりやすいと思った。
2010.01.03
コメント(0)
板倉聖宣さんは、科学史の専門家で三浦つとむさんの弟子を自認している人だ。板倉さんは、東大に在学していた頃三浦さんを招いて研究会を開催したりしていた。三浦さんが亡くなったときは弔辞を読んだ人だったと記憶している。その板倉さんは、弁証法に対して、それは科学ではなく発想法だと考えていた。三浦さんは、弁証法をいかにして科学にするかを考えていたので、この点では全く反対の考えを持っていた。僕は、三浦さんを師と仰ぐほど尊敬しているけれど、弁証法が科学であるかないかということに関しては、板倉さんが主張する発想法であるという考えを全面的に支持している。科学の概念に関しては、板倉さんの方が正しいと思っているからだ。板倉さんも言っていたが、三浦さんは、科学というものを間違いのない正しいことをいうものというようなイメージで考えていたようで、真理を語るものとしてより広い範囲のものまでも含んでしまっていた。だが科学は、限定された真理として考えた方がいいという板倉さんの科学の定義のほうが、科学というものを明確につかむのに役立つ概念だと思う。僕は、板倉さんが語る「科学」というものに全幅の信頼を置いているのだが、この「科学と方法」には、高校生向けに書かれた「科学的な考え方とは何か」という文章がある。これは、たいへんわかりやすく、しかも「科学」というものの正確な理解が出来る文章なので、ぜひ紹介したいと思う。板倉さんは、最初に科学の基本として「自分の頭で考える」ということを提出している。これは、よく分からないことに対して、権威に寄りかかって鵜呑みにしないようにという注意だが、分からないことをすべて自分の思い込みで判断しないようにということも注意している。自分の頭で考えるというのは、他人の考えを参考にしないということではない。むしろ、積極的に他人の意見を聞いて、それが信頼できるものであるかを自分で判断せよということだ。科学というのは、社会的なものであって、孤立した天才が見つけてくる真理ではないということを語っている。問題は、誰が信頼できる人間なのかをどう判断するかということだ。その中にも「科学的」というものがあるわけだ。板倉さんは、後に「仮説実験授業」というものを提出して、教育界に全く新しい波を起こすことになるのだが、板倉さんの「科学」の定義が、「仮説」を立てて「実験」に臨むということが基礎になっていることから、この授業法を思いついたようだ。「実験」について、板倉さんはこの本で「実験が実験であるためには、何よりもまず、その行為が自然(または社会)について知ろうという一つの目的意識的な行為でなければならないのです」と語っている。目的がなく、単に体が動いているだけで、結果を見ているだけという行為は「実験」をしているとは言えないということだ。目的意識的というのは、「自然にはこれこれの法則性があるのではないか、というような予想」を持って問いかけるということだ。この「予想」を持って問いかけるということこそが「実験」の本質であり、結果を解釈するだけならそれは「実験」ではなく「観察」と呼ぶ方がふさわしい。この「仮説」が100%当たるようになり、同じような条件の下ではいつでも結果が正しく予想できるなら、その「仮説」は「科学」になるというのが板倉さんの考え方だ。弁証法が科学になり得ないのは、弁証法が提出する「仮説」が、様々な解釈を許す仮説になってしまい、それが実際に起こったかどうかの解釈が決定できない場合があるからだ。弁証法が扱う対象は広すぎて、「仮説」として、その範囲を限定できない。だから、弁証法では、観察した結果をどう解釈するかという発想法として活用することの方に有効性が出てくることになる。板倉さんは、科学を学ぶ意義を次のようにも語っている。「私たちが、科学的な考え方や態度というものを身につけなければならない最大の理由--それは、自然と社会との無意識的あるいは意識的なデマ宣伝に引っかからないような人間になるためではないでしょうか。」三浦さんもそうだったが、板倉さんも戦争を体験しただけに、世の中がいかにデマに動かされてきたかを身をもって体験している。そして、それがどれほど悲惨な結果に結びついたかも思い知っている。三浦さんは、すでに戦争中から、その戦争に勝ち目がなく指導者たちがでたらめな作戦をしていると感じていた。そのような情報が何一つなく、むしろ大本営発表では、日本の勝利だけしか伝えていないのに三浦さんはそのように考えていた。どうやってデマ宣伝に引っかからずにすんだのだろうか。板倉さんはその方法を、「自由な立場に立って視野広く問題を考える」という言葉で語っている。これは、実際にはかなり難しいが、例としてあげているのは手品のトリックなどだ。何もないところから卵や鳥などが出てくる手品は、その種を見破ることはきわめて難しい。種を見破らなければ、デマに引っかかると考えると、それは避けることが出来ないものになる。しかし、広い視野で考えると「弁当箱からいくらでも卵が出てくるものなら、手品師は、卵屋になった方が儲かるはずですから」という結論が導かれるという。これなら、種は分からなくても、それが本当ではなく、どこかでインチキがあるのだということが分かる。三浦さんが戦時中に大本営発表が嘘だと分かったのも、戦争に勝利しているのに、ますます生活は厳しくなるし、国内の弾圧がひどくなるという、「本当に勝っているのなら、日本はもっと豊かになるだろう」という視野の広い考えからの結論に反していると考えたからではないだろうか。コペルニクスが地動説を唱えることが出来たのは、大昔に地動説を主張していた人たちがいたことを知り、広い視野で天体の動きを考えることが出来たからだという。問題は、広い視野というのをどう発見するかということかもしれない。「故きを温ねて新しきを知る」というのも一つの方法なのだろう。この本で最後に理論(理屈)の重要性を語る次の言葉はたいへん大きな示唆に富んでいる。それは、「理論を重んずるということは、経験事実をそのまま理論化する誤りを救うことに役立つのです」という言葉だ。怪しげなオカルト的なデマに惑わされないようにするには、理論というものがどのように出来ていくのかを知ることが役に立つ。それは次のように構築される。「合理的な考え方の特徴は、自然の中にいくつかの根本的なもの、原理のあることを前提し、すべてのものをその根本的なものや原理によって分析し説明していこうというところにあります。」僕は板倉さんによって科学の正しい概念を知り、科学に対する信頼を深めた。三浦さんは師と仰ぐ人だが、板倉さんは、もっとも尊敬する優れた学者だと思っている。
2010.01.02
コメント(0)
僕が尊敬する三浦つとむさんは、この物語を、弁証法文学の最高傑作という言葉で呼んでいた。僕がポーに関心を持ったのも、三浦さんがそれを非常に高く評価していたからだった。普通は文学史の上では、ポーは推理小説の先駆者として位置づけられているのではないだろうか。今の感覚で言えば、それはミステリーのようにも読める。しかし、僕はポーの物語を、シャーロック・ホームズやエラリー・クイーンの物語とは違うような感じで受け取っていた。それは、ある種の謎のある事件を解明するのであるから、探偵が主人公となっている推理小説のように見える。だが、ポーの物語は、ストーリー展開よりも、謎解きそのものに重点が置かれて書かれているように見える。謎解きの方法を解明しているというような感じだろうか。どのようにして、そのような推理を思いついたのかというようなことが書かれている。この物語にも次のような文章が見つけられる。「で、総監やその部下たちが、あんなにちょいちょい失敗するのは、第一に、その合致が欠けているためで、第二には、相手の知力のはかり方が悪いため、というよりも、むしろはからないためなんだ。彼らはただ自分たち自身の工夫力だけしか考えない。そして何でも隠されたものをさがすのに、自分たちの隠しそうな方法だけしか気がつかない。彼ら自身の工夫力が普通一般人の工夫力の忠実な代表であるという点までは--これは正しい。が、特殊の悪人の狡知と、彼ら自身の知恵の質が異なっている場合には、もちろん彼らはしくじってしまう。これは相手の狡知が彼らより以上の時にはいつもそうだし、その以下の場合にもたいていそうなんだ。彼らは調査をするとき決して方針を変えると言うことをしない。せいぜい、何か非常な出来事--何か素晴らしい報酬など--で励まされると、自分たちの方針は変えないで、ただ元のやり方を拡張し、また大げさにする。たとえばこのD--の場合に、行動の方針を変えるためにどんなことがなされたか?あんなふうに穴を開けたり、探針で探ったり、叩いて音を試したり、拡大鏡で事細かに調べたり、建物の表面を平方インチに区画して番号をつけたりすること--そんなことはみんな、総監が長い間の在職中に見慣れてきた、人間の工夫力に関する--一連の考えを基礎にしている探索方針の一つ、あるいはいくつかを大げさに応用したものに過ぎんじゃないか?彼は、あらゆる人間は手紙を隠すのに、--必ずしもいすの脚に錐で穴を開けないにしても--少なくとも、椅子の脚の錐穴に手紙を隠そうとするのと同じような考えから思いついた、どこかたやすく人目につかぬ穴か隅っこに--隠すものだ、と決め込んでいるじゃないか?が、そういう念の入った隅っこに隠すことは、ただ普通の場合にだけ用いられるもので、ただ平凡な知力の者が用いるだけじゃないか。なぜかと言えば、ものを隠す場合にはみな、その隠す品物をそういう念入りの方法で処置すると言うことは--まず第一に考えられることだし、推量されることなんだからね。だから、それの発見は、ちっとも探索者の明敏さいかんによるのではなくて、全然単なる注意と、忍耐と、決意とによるのだ。そして事件が重大な場合には--あるいは、警察官の目にはどうせ同じことだが、つまり報酬が多いときには--そういう特性は決して欠けるはずはない。というわけだから、もしあの盗まれた手紙が総監の調査の範囲内のどこかに隠してあったなら--言葉をかえて言えば、それの隠匿の方針が総監の方針の中にあるものだったなら--それの発見は全然疑いの余地はなかったろう、と僕の言おうとしたことは君にはもうわかったろう。それなのに、あの先生はすっかり煙に巻かれてしまった。そして彼の失敗の遠因は、あの大臣はバカである、なぜなら彼は詩人としての名声を得ているから、と推定したことにあるのだ。すべてのバカは詩人であると、こう総監は自分で思っている。そして彼はそこから、すべての詩人はバカである、と推論して、だた媒辞不周延の誤謬に陥ったのさ。」ここで語られていることは、「最上の方法」であると判断されたものも、ある条件の下・違う視点で見ると「最悪の方法」になりうるという弁証法性を語っていると読むことが出来る。三浦つとむさんはそう語っていた。この物語は、手紙を盗んだDと呼ばれる大臣が、その手紙をどこに隠しているかを突き止め、手紙を取り返すと言うことがストーリーの中心になっている。もし、このDの知力が、総監と同じ程度であれば、総監の方法で調査をすれば、その隠し場所が突き止められ事件は解決するだろう。しかし、このDは、総監の知力を遙かに上回る相手だったので、その知力に合わせて考えなければ、謎は全く解けなくなる。相手のことを考えずに、自分の方法が最上だと思って、その条件を無視して努力をするようなこの総監と同じような間違いはどこでも見つけられるだろう。まじめで頭の堅い人間には、そのような失敗が多いのではないかと思う。弁証法というのは、そのような堅い頭に柔軟性をもたらし、臨機応変に対処するにはどのような考え方をすればいいかを教える。ここでポーが語ることは、まさにその弁証法であるように感じる。最後に語られている「媒辞不周延の誤謬」というのは、「すべてのバカは詩人である」という前提から「すべての詩人はバカである」という結論を導く誤謬のことを指している。この前提になっている、「すべてのバカ」を「詩人」だと思うのも偏見の一つだと思うが、さらに、「すべての詩人」を「バカ」だといつも思っているような偏見を持っていると、「すべての詩人はバカである」というのは、実は、その人にとっての前提なしの真実のようなものだから、この推論まで正しいように思えてきてしまうのだろうと思う。もし「すべてのバカが詩人」であっても、そのバカに入らない「詩人」の存在を、論理的には排除することは出来ない。バカでない詩人が存在することが出来る。だが、そんなものがいるはずがないと思っている人間は、この推論が正しいような気がしてしまうので、ますます「詩人」の中にバカでないやつがいるなんてことが信じられなくなる。思い込みを強化する作用が間違った推論にはある。この論理的な間違いは、偏見のある人間が陥りやすいもので、弁証法とは別に気をつけておいた方がいいものだろうと思う。偏見による結論の正しさを強化するためにこの間違いに陥るだろうから。三浦さんは、漱石の小説を、漱石の文学理論が形を変えたものだとも言っていた。そういう見方からすると、ポーの小説は、ポーの哲学(弁証法理論)が形を変えたものだと言っていいのかもしれない。
2010.01.01
コメント(0)
全26件 (26件中 1-26件目)
1