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「「日米合意文書の内容判明“訓練”は全国分散」5月26日0時11分配信 日本テレビ」という記事には次のように書かれている。「アメリカ軍普天間基地(沖縄・宜野湾市)の移設問題で、日米の外務・防衛担当相が28日にも発表する合意文書の内容が日本テレビの取材で明らかになった。 合意文書では、沖縄・名護市辺野古のアメリカ軍キャンプ・シュワブ及び隣接する水域に1800メートルの滑走路を1本建設するとした上で、詳細については専門家が8月末までに詰めることとしている。 また、「辺野古沿岸部を埋め立てる現行案を前提に進められてきた環境影響評価の手続きに大幅な遅れが出ないようにする」として、14年の移設完了が大幅に遅れないようにクギを刺している。 さらに、普天間基地のヘリコプター部隊の訓練については、アメリカ軍独自及び日本との共同の形で鹿児島・徳之島を含む全国に分散させるとして、徳之島への訓練の移転も明記されている。」さて、この記事の解釈だが、昨日紹介した「沖縄県外、国外、諦めるのはまだ早い」によれば、「米側には共同文書にどうしても「辺野古」、すなわち「キャンプシュワブ沿岸部」の文言を必要とする事情がある」ということだった。だから、この前提を認める限りでは、「合意文書では、沖縄・名護市辺野古のアメリカ軍キャンプ・シュワブ及び隣接する水域に1800メートルの滑走路を1本建設するとした上で、詳細については専門家が8月末までに詰めることとしている」とするのは、特別に不思議なことではなく、むしろ論理的には当然のことだ。論理的に当然だと言うことは、それが正しいと言うことではない。論理というのは、前提を認めた場合に、結論が論理として導かれることであれば、それにどんなに反対したいことであろうとも、それが起こることを阻止できないと言うことに過ぎない。つまり、物語の前提として、アメリカとの合意を成立させるというものを選ぶなら、アメリカが入れざるを得ない「移設先として「名護市辺野古周辺」と明記」と言うことが入ってくるのは仕方のないことだと受け止めなければならないと言うことだ。だが、これを受け入れたからと言って、ここで物語が終わるわけではない。物語の終わりをここでピリオドを打つようなことをすれば、敗北感だけでいっぱいになってしまうが、この物語の続きを設定するなら、言葉を明記したくらいで、現実には辺野古移設など出来ないという物語を作ることも出来る。それが<永田町異聞>というブログが伝えていたことでもある。その続きとは、「まずは沖縄県知事の許可を必要とする。仲井真知事が地元住民の猛烈な反対を無視して許可を出すとは思えない。ジュゴンの保護を求める人々がサンフランシスコ連邦地裁に起こした訴訟で、一昨年1月、同地裁は被告の米国防省に対し、新基地建設が米国文化財保護法に違反するという判決を下している。最終判決はまだだが、原告勝利となると米国は根本的な見直しに迫られる。」という物語だ。特に必要な物語は、「地元住民の猛烈な反対」ではないかと思われる。それは、おそらく想像を上回るようなものが生まれるのではないかと思う。心ある本土の人間は、この反対に対して、最大限の支援をするべきだと思う。それが物語の続きを支えることにもなるからだ。このニュースは、物語の続きを考えなければ、鳩山政権の裏切りとアメリカへの屈服という印象しか感じられないが、物語の続きを見ることによって、まだ希望を語ることが出来る。物語が、本当のピリオドを打つまで、希望を持ち続けようと思う。物語の続きを見ることが出来れば、たかが言葉が入ることくらいは大したことではないとも思える。
2010.05.25
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<永田町異聞>というブログに「沖縄県外、国外、諦めるのはまだ早い」という興味深いエントリーがある。このエントリーの情報を見ると、鳩山さんの奇怪な行動の深い裏読みが出来る。つまり、物語として、違う読み方をすることが出来る。これは、物語としての解釈であるから、誰もがその解釈を取るとは限らないが、ある前提を置くことを認めれば、その解釈に賛成できるようになるだろう。それでは、この物語の前提になる事実はどんなものかと言えば、「いまさら、辺野古といっても、地元の理解が得られるはずはない。それは日米両政府とも承知のはずだ。しかし、米側には共同文書にどうしても「辺野古」、すなわち「キャンプシュワブ沿岸部」の文言を必要とする事情がある。要は議会対策だ。」というものだ。この前提を認めると、どのような物語が描けるかというと、<鳩山さんは、全く実現可能性のないことを、「議会対策」と言うことのために、あえて語った。それは、実現する可能性がないのを承知しているもので、実現する気もないのだが、言う必要があったので、あえて言ったのだ。>という物語だ。この物語はなかなか魅力的でもあり説得力もある。鳩山さんが、あれだけ沖縄県民の怒りを買って、しかも自らが語ったことと正反対のことを言うために沖縄へ行くというのは、普通の感覚の人間だったらまず出来ないことだ。鳩山さんが「宇宙人」だという理由でそれを納得するにしては、あまりに不合理でありすぎる。しかし、このようにアメリカとの関係で言わざるを得ないことであれば、論理的には納得できる。問題は、この鳩山さんの行動が、アメリカの圧力に屈して単にアメリカの言いなりになって行動しただけなのか、というもう一つの物語をどう考えるかと言うことだ。僕の描く物語は、アメリカに屈して言いなりになっている鳩山さんという絵ではない。どうしてそのような物語ではなくなるかと言えば、辺野古移設がほとんど実現可能性がないと言うことからだ。それは誰もが主張していることで、そんな当たり前のことが分からないということから、鳩山さんが愚かだと思われているところがある。しかし、いくら何でも、鳩山さんがそのことが分からないほど愚かだと見るのは、あまりにも見くびりすぎているのではないかと思う。逆に、ほとんど実現可能性がないからこそ鳩山さんは、あれだけ揺るぐことなく断言しているとも考えられる。実現可能性のあることならアメリカの圧力に屈して言わされているとも考えられるが、どうせ実現できないことなのだから、今はこのように語っておいて、このことでアメリカに恩を売っておけという戦略から、そう語っているという物語が描ける。このエントリーでは、「2009年2月17日に交わされたグアム協定の前文にはざっと以下の内容が明示されている」として「2014年までに第三海兵機動展開部隊約8000人とその家族約9000人が沖縄からグアムに移転することを再確認する。同部隊の沖縄からグアムへの移転は、普天間飛行場の代替施設の完成に向けての具体的な進展と、グアムの施設、インフラ整備への日本の資金貢献にかかっている。」という記述がなされている。マスコミ報道では全く見つからなかったが、これが、アメリカにとっても5月末の決着が必要だという理由だったのだ。つまり、グァム移転のために、実際に辺野古に移設できようが出来まいが、そのことを語る必要があったという物語を、このエントリーは語っている。僕はこれに説得力を感じた。「米側も、沖縄住民の激しい反対からみて、実現性に疑問を持ちながらも、とりあえず「辺野古」を文書に織り込ませ、実質的な協議は先送りにして事態の打開をはかったのではないか」という解釈も、今までの経過を説明するには十分合理的な解釈のように感じる。そして、次の解釈も見事な物語だと思う。「そもそも、もはや辺野古の海を埋め立てるのは現実的な計画ではない。まずは沖縄県知事の許可を必要とする。仲井真知事が地元住民の猛烈な反対を無視して許可を出すとは思えない。ジュゴンの保護を求める人々がサンフランシスコ連邦地裁に起こした訴訟で、一昨年1月、同地裁は被告の米国防省に対し、新基地建設が米国文化財保護法に違反するという判決を下している。最終判決はまだだが、原告勝利となると米国は根本的な見直しに迫られる。さて、問題の5月末共同声明だが、辺野古付近と書き入れても、具体的な場所や工法が示されるわけではない。実態としては、グアム移転計画の推進を優先し、普天間代替基地建設問題を先送りする文書になるといえよう。」この物語を受け入れれば、鳩山さんがいくら辺野古移設を語ろうと、それは現実には起こらない、ということになる。希望的観測ではあるけれども、現実が、もしこの物語通りに行くのなら、それは鳩山さんによる見事な逆転ホームランとなるだろう。その希望があれば、このエントリーが語るように、「あきらめるのはまだ早い」と言うことになるだろう。
2010.05.24
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宮台真司さんのツイートに、次のようなものがあった。「「頭の悪い」という言い方に反応された向きもあります。補足します。僕が「頭が悪い」というとき、最も頻用するのが「抽象性が思考ができない」という意味で、次が「文脈依存性が思考できない」という意味です。前者がパターン認識的能力で、後者が物語的能力です。」「このことについて佐伯胖教授(義理の父)が面白い見解を紹介した。パターン認識能力と物語認識能力とは脳の異なる領域を用いる。両方秀でた存在は確率論的に珍しいから貴重な存在だ。ところが日本では、両方に秀でた存在を文科系側でも理科系側でも揶揄して遠ざけがちだ。その犠牲者は例えば…省略。」「佐伯教授によれば、これは非常に日本的なことで、だから「文系/理系」という奇妙な区分があって,社会科学がサイエンスなのに文系に区分されるというおかしな話になっています。サイエンスにもパターン認識/物語認識の両方が必要で、アートにもパターン認識/物語認識の両方が必要だと僕は思います。」ここで、宮台さんは「パターン認識」と「物語認識」について詳しい解説はしていないのだが、この両者に僕はたいへん興味を持った。「パターン認識」とは、ウィキペディアに寄れば「パターン認識(ぱたーんにんしき、Pattern recognition)は自然情報処理のひとつ。 画像・音声などの雑多な情報を含むデータの中から、意味を持つ対象を選別して取り出す処理である。」と説明されている。「物語認識」については、一般的な定義は見つからなかった。宮台さんの説明に寄れば、これは「文脈依存性」というものが本質で、文脈によって物語の解釈が違ってくる認識を指すのではないかと想像する。両者を比較すると、パターンというのは、対象の間にあるある種の共通性を読み取り、その共通性に「パターン」を設定して考察するという感じがする。それは「抽象性」を読み取ることであり、「抽象性」を読み取ると言うことは、そこに論理的思考を展開すると言うことではないかと考えられる。ここで言う論理的思考とは、論理法則に従う思考という意味だ。主として形式論理の法則に従う思考であり、矛盾律や排中律がそこに入る。単につじつまが合うとか、合理性を持っているとか言う単純なものではなく、あくまでも論理法則を基礎とする。そうでなければ、合理的思考という意味では、すべての思考が合理性を持っているので区別する必要がなくなるからだ。もう一方の「物語認識」の方は、論理法則という一般性よりも、個別具体的な文脈の解釈の方に重きを置いた認識のように見える。論理法則の方は、それを共通に理解している人間なら、誰が考えても同じ結論に達すると思われるが、文脈に依存した思考の方は、合理的思考をしているにもかかわらず、その文脈の理解の方向によって全く違った結論を出す可能性がある。何を文脈の前提として読み取るかと言うことでその解釈が違ってくる。宮台さんは、この両方の能力が必要だと語っている。それは、現実を正しく捉えるには、両方の側面を正しく受け取らなければならないと言うことではないかと思う。現実を抽象し、論理的に思考する能力も必要だし、具体的な事実の中から、何が本質かという現実性を把握し、さまざまな解釈を許す現実の現象をどう捉えるかという立場を意識した認識も必要だと言うことではないかと思われる。この二つの言葉「パターン認識」と「物語認識」が僕の興味を引いたのは、一連の普天間問題について、鳩山首相の行動を理解するときに、この両方の認識が必要ではないかと思われたからだ。「パターン認識」的に言えば、鳩山首相の結論は、自民党政権時代とほとんど同じものに回帰してしまい、その違いを見つけることが難しい。文脈依存的には、期待を抱かせた分だけ、鳩山さんの方が「悪い」というような解釈も出来る。しかし、文脈依存的には、この迷走もすべて普天間問題を大きくして広く国民に知らせる結果となったと解釈することも出来る。「物語認識」的には、マイナスの評価だけではなく、プラスの評価をすることも出来る。果たしてどのような解釈が現実の本質を捉えているかというのは、もっと深い考察の結果として判断しなければならないだろうが、そのような視点を持って今一度この普天間問題を眺めてみると、マスコミで報道されているイメージとは違うものが得られるかもしれない。まだ考えがまとまっていないが、普天間問題における「パターン認識」と「物語認識」について、考察を進めていこうかと思う。
2010.05.24
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昨日は国会がかなり荒れた状態になったようで、今朝のニュースでもいくつかその関連の報道があった。「「公務員法案を可決=自・み、委員長解任案提出へ-衆院内閣委5月12日19時38分配信 時事通信」」という記事では次のように書かれている。「衆院内閣委員会は12日午後、国家公務員法改正案を採決し、民主党の賛成多数で可決した。自民、公明、共産、みんなの野党4党は審議不十分として反対した。同改正案は13日の衆院本会議で可決、参院に送付される見通し。自民、みんなの両党は、田中慶秋内閣委員長(民主)の解任決議案を共同提出する方針だ。 田中委員長は、同日の審議を終えた後、質疑終局を発議。野党理事らが委員長席に詰め寄り抗議したが、発議は可決。その後、「4月1日」としていた施行日を「公布日」に改める修正案と併せ、同改正案を可決した。 民主党の採決強行を受け、自民など野党4党の国対委員長が会談。自民党が田中委員長解任決議案の共同提出を呼び掛け、みんなの党が応じた。自民、みんな両党は、13日の本会議前に同決議案を提出する考えだ。 公務員法改正案は、各府省の幹部人事を政治主導で行うため、人事を一元管理する「内閣人事局」を内閣官房に新設するのが柱。事務次官、局長、部長を同格とし、首相官邸の判断で各府省幹部の「降任」を柔軟に行えるようにする。」僕は、この内容に少々の違和感を感じる。確かに、事実を伝えるという報道の基本は守られている。だが、その事実の選択がふさわしいものに思えない。たとえば、・「自民、公明、共産、みんなの野党4党は審議不十分として反対した。」という事実を伝えているが、この事実に対して、「反対した」という行為を評価し、「自民、公明、共産、みんなの野党4党」に賛成するかどうかの判断がつかない。この反対が、何に基づいているかという報道がここにはないからだ。文脈を見ると、採決を強行したことに対して「反対」なのかというふうに見えてしまうが、それだけが判断の要素になっているのであれば、あまりにも短絡的すぎる判断だ。だいたい、自民党は「強行採決」ばかりやってきたのに、「強行」そのものに反対しているとしたら、過去の反省が全くないことになるのではないか。本質的には、この法案が問題があるからこそ、その問題についてもっと審議すべきで、それをせずに強行に採決するから反対だ、とならなければならない。この法案の本質的な問題というものが報道されていないので、強行したということだけが何か問題であるかのように受け取れる文脈になってしまっている。これは事実の報道としては不十分ではないかと思う。この法案の問題が、広く知られているものならば、強行に採決したということを報道するだけで多くの人が問題を了解するだろうが、果たして、法案そのものの問題は今までにたくさん報道されて、多くの人の常識になっているのだろうか。「「<公務員法案>強行採決「総人件費2割減」示さず」5月12日21時42分配信 毎日新聞」というニュースを見ると、この法案の問題は、「公務員制度改革の全体像を示さないまま「首相官邸主導の幹部人事」を優先した法案に野党は、民主党が昨夏の衆院選で掲げた「国家公務員の総人件費2割削減」の道筋が示されてない、と批判を浴びせた。」と報道されている。このことをすぐ評価できる人はどれくらいいるだろうか。たとえば、「首相官邸主導の幹部人事」と「国家公務員の総人件費2割削減」は、どちらが優先されることが正しいかは、誰にでも明らかですぐに判断できることだろうか。「国家公務員の総人件費2割削減」ということが優先されるべきという判断が正しいなら、野党の反対が正当だということが結論される。だがそれは本当だろうか?「国家公務員の総人件費2割削減」ということは、民主党がそう宣言すればすぐに出来ることなのだろうか?何らかの段階を踏まなければ実現できないことなのではないだろうか?「首相官邸主導の幹部人事」を後回しにして、「国家公務員の総人件費2割削減」を先に実現できるという判断は正しいだろうか?これは、中身を理解しなければ評価は難しい。上の記事では、「鳩山政権は「天下りあっせん禁止」を打ち出したため、早期退職勧奨がなくなり退職者が減っている。例年通りの新規採用では定員オーバーとなるため、11年度の採用は半減の4600人に抑える。それでも給与の高い中高年が多く残るので人件費は逆に増大する。」という報道も見られるが、これにも違和感を感じる。この記事を書いた記者は、「早期退職勧奨がなくなり退職者が減っている」のは「「天下りあっせん禁止」を打ち出したため」だから、「天下りあっせん禁止」をやめた方がいいと主張したいのだろうか。「給与の高い中高年」に問題があるとの指摘もあるが、それはどういう問題なのか、という指摘はない。具体的に指摘しなければ問題の解決も考えられないのだが、それはこの記事を書いた記者には問題意識として存在しないのか。記事の終わりの方には、「みんなの党の渡辺喜美代表は12日の記者会見で「幹部を終わった人が『窓際幹部』になるとんでもない法案」と批判した。」と書いてあるのは、役所内でふさわしい能力を発揮できないのに、高給で居座る中高年の問題が大きいという主張だろうか。このことに関連して記事では、「最大の焦点は、出世ラインから外れても天下りできず省内に残る中高年の扱いだ。政府は「高位の専門スタッフ職」と、自主退職者に退職手当を上乗せする「希望退職制度」を創設し解決を目指す。」という記述も見られる。出世ラインから外れたら、天下りでその人間を外した方が合理的だと、主張したいのだろうか。確かに、今まではそれが合理的だと考えて「天下り」をしてきたのだろうが、それが弊害を生むことが明らかになってきたので、「天下り」をやめようということになってきたのではないだろうか。だいたい、「出世ラインから外れた」人間というのは、その専門分野では能力を発揮できないということが判断されたとも考えられるのであるから、同じような分野に天下りしても、そこで能力が発揮できるとは考えられない。結局は、仕事をせずとも高い給料を払うようなポストを作って天下ることになるのではないだろうか。そのような天下りの状況が続くことと、役所に居残って高い給料を払うこととを比べて、どちらが将来的に問題の解決の方向を向いているかを判断することが必要ではないかと思う。そのための事実の提供を報道機関はすべきではないかと思う。ある部門での能力が発揮できなかった人間は、その能力が発揮できるような部署を見つけることを援助するシステムこそが必要だろうと思う。公務員として厳しい試験をくぐり抜けてきた人間たちが、全くの無能だとは思えない。仕事の特殊性が、その人の能力に合わなかっただけのことだろう。だから、人材を生かすためにも、その人にふさわしい部署を探すことこそが必要だろうと思う。与党案と野党案は、そのような点でどのように工夫されているのか。それはどこかで報道されているのだろうか。それが報道されていなければ、一般市民にはどちらに賛成したらいいかの判断が出来ない。「国家公務員法改正案の要旨」という記事では「政府が9日、与党に示した国家公務員法改正案の要旨は次の通り。 1、幹部職員は、事務次官、長官、局長、部長またはこれらに準じるポストに就いている職員。 1、内閣官房に内閣人事局を置き、幹部職員人事の一元管理に関する事務を所掌する。内閣人事局長は、首相が指名する官房副長官を充てる。設置は4月1日。 1、首相(官房長官)は適格性審査を行い、合格した者で幹部候補者名簿を作成。任命権者(閣僚)は名簿の中から幹部職員を任用する。 1、首相または官房長官は、内閣の重要政策を実現するために必要があると判断するときは、任命権者に対し、幹部職員の任免について協議を求めることができる。任命権者は、幹部職員の任免を行う場合は、あらかじめ首相および官房長官に協議する。 1、幹部職員の公募は、首相が一元的に実施する。 1、事務次官と局長級は同一の職制上の段階に属するとみなす。他の幹部職員と比べて勤務実績が劣っているなどの要件に該当する場合、任命権者は次官・局長級から部長級への降任を行うことができる。 1、内閣府に、民間人材登用・再就職適正化センターを設置し、組織の改廃で離職を余儀なくされる職員の再就職や官民人事交流の支援などを行う。センター長は首相が指名する閣僚を充てる。センターには第三者機関として再就職等監視・適正化委員会を置き、再就職規制の違反行為について調査・勧告する。設置は4月1日。(2010/02/09-12:05)」と報道されている。この文章を読んで、この法案がすぐに評価できる人は、よほど基礎知識を持っている人だろう。これによって、公務員問題はどう変化するのか、あるいはどこが足りなくて有効性を失っているのか、ということは解説がなければ分からない。国会議員も、このことを分かりやすく説明しようとする人間が少ないように感じる。上の記事には、「12日の質疑では、公明党の高木美智代氏が改正案を「全体像がなく付け焼き刃」と切り捨てた。また、自民党の平井卓也氏が「官僚にすり寄り、労組に土下座してどうやって2割削減するのか」と聞くと、仙谷由人国家戦略担当相が「土下座せねばならない労組がどこにあるのか」と激しくやり返す場面も。改革の実現時期については「政権交代後4年間」(階猛総務政務官)と歯切れが悪かった。」という政治家の言葉のやりとりも報道されていたが、感情的な罵詈雑言のたぐいにしか聞こえない。このような言葉しか使えないのであれば、国会議員も、その人にふさわしい資質を持っていない人はリストラするか、削減して人件費を抑えた方がいいのではないかとも感じた。国会議員も自らの公務員問題として自覚して欲しいと思う。
2010.05.13
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「「パロマ有罪「公正な判決に感謝」と涙の母」5月12日3時4分配信 読売新聞」という新聞記事によると、「パロマ工業製の湯沸かし器による一酸化炭素中毒事故で、同社元社長・小林敏宏被告(72)ら2人を有罪とした11日の東京地裁判決は、事故が起きる危険性を認識しながら対策を取らなかったとして、メーカートップらの過失責任を明確に認めた。」という結果が出たらしい。この二人は「無罪を主張してきただけに」とも報道されている。この事件は、新聞でも大きく報道されたものだが、その責任をどの範囲で認定するかはたいへん難しい問題があるようだ。責任があることは確かだが、それが道義的なものなのか、刑事罰を科すようなもの、つまり犯罪行為として責任を問うものなのか、ということが誰の目にも明らかになるように説明することが難しいと僕も思う。この裁判の結果に対しては、「パロマ有罪判決」という、郷原信郎さんの電話インタビューがYoutubeにアップされている。これが的確な論評となっているように感じる。郷原さんは、この問題の事実面のみを見る限りでは、刑事責任を問うことが果たして適切だったかどうかに疑問を投げかけている。道義的には責任があったかもしれないが、刑事的責任は問えないのではないかという意見だ。むしろ、このことの刑事的責任を問うならば、その弊害が今後起こるのではないかという危惧を語っていた。新聞報道では、遺族の感情として「昨年10月の公判で、小林被告が小さな声で「不正改造はガス会社がチェックすると思っていた」と証言するのを聞き、幸子さんは「メーカーのトップが、自分の製品の責任をほかになすりつけるのはおかしい」と怒りがこみ上げたという。 幸子さんは会見で、「パロマの湯沸かし器がなかったらヒロくんは死なずに済んだと思うと悔しい」「被告には命の尊さを真剣に考えてほしい。18歳の浩幸を返してと言いたい」と訴えた。」ということが報道されている。これは、遺族の感情としてはこのように感じるのは、無理のないところとして理解されるだろう。だが、感情としてはこの通りだと共感しても、だから刑事罰だ、という判断には疑問を感じる。僕も郷原さんの指摘の方が正しいのではないかという感じがしている。郷原さんの指摘では、パロマの事故は、メーカー側の機械そのものに本質的な欠陥があって、第一義的に責任があるというものではなく、それを修理した会社の方に不正改造があって、それが原因で事故が起きたと判断されるものだといっていた。つまり、刑事的な責任を問うとすれば、メーカーではなく、修理を担当した会社の方ではないかということだ。これは頷ける指摘だ。ただ、郷原さんは、この事故が起きたときのパロマ側の対応がまずかったという、道義的責任の方も指摘している。パロマは、自らの責任がないということを主張するあまり、この事故に対して誠実に対応することが出来なかったと指摘していた。これが遺族の感情を「メーカーのトップが、自分の製品の責任をほかになすりつけるのはおかしい」「パロマの湯沸かし器がなかったらヒロくんは死なずに済んだと思うと悔しい」「被告には命の尊さを真剣に考えてほしい。18歳の浩幸を返してと言いたい」という方向に結びつけてしまったと見ている。ただ、遺族の感情というのは、報復感情もあるかもしれないが、その犠牲を社会が正しく受け止めて教訓としてくれることも望んでいるはずだ、と郷原さんは指摘している。そのためには、刑事責任を問うことは、マイナスに働く可能性もあると指摘している部分もある。それは、刑事的責任を問われるのは、トップがその事件についてどのくらい認識しているかということが問われる、ということから発生するものだ。つまり、認識していなければ、刑事責任を逃れられるということがある。監督責任の有無という告発においては、どの程度認識しているか、ということが問われるからだ。そうであれば、刑事責任を問われそうな内容はトップには伝えないという防衛が働くのではないかということが郷原さんが危惧していることだ。事件の教訓を正しく生かすには、同じような事件が今後も起こらないように、その防衛が出来るシステムが多重に働くように、危険の察知が的確に行えるようにしなければならないだろう。それが、危険を知らない方が、ある意味で得だというシステムを作ってしまえば、危険が察知される可能性が低くなる。アメリカの裁判などでは、大きな事故が起きたときに、その当事者を免責して、何が本当の原因であるかということを正直にすべて明らかにしようというようなシステムがあるらしい。刑事責任を問われるとなれば、本当のことであっても不利なことは言えないという心理が働く。それでは本当の原因が分からなくなり、適切な対策が今後取れなくなる。個人の責任を問うよりも、その重大な事故が二度と起きないようにすることの方が大事だという判断から、免責という制度があるのだと思う。刑事責任というのは、そこに明らかな犯罪性を認めることが出来なければ、基本的には問うことが出来ない、もっと積極的にいえば、問うてはいけないと考えるべきではないだろうか。パロマの事故は、そのトップに明らかな犯罪性を問うことが出来る問題なのだろうか。僕は、郷原さんが指摘するように、それは難しいのではないかと思う。ついでに付け加えておけば、一連の小沢さんの問題で報道されたこと、政治資金収支報告の期日がずれたことというのが、果たして犯罪性のあることなのかどうかということも、そこに刑事責任が問えるかどうかの判断が大きく関わってくるのではないかと思う。石川議員は、このような、単なるミスとも思えるようなことで刑事告発されているといわれている。もし、石川議員がやったといわれていることが、単純なミスであって、刑事責任を問うほどのものではないと認められれば、当然のことながら、小沢さんには監督責任などない。監督しなければならない事実そのものがなくなってしまうからだ。もし、石川議員が行ったといわれていることに犯罪性があって、それが証明されることがあるなら、その時に初めて小沢さんの監督責任が問われることになる。そのことを認識していたかどうかということだ。このような順番で考えることが論理的だと思うのだが、マスコミも、反小沢といわれる人々や、野党の自民党などは、石川議員が逮捕されたという事実、起訴されたという事実だけを取り上げて政治責任を語っている。これは逆ではないかと思う。検察がミスをした可能性が高いということも考慮に入れて、検察の操作ミス、あるいはそれを垂れ流すマスコミの無責任な報道姿勢に対する責任というものを問わなければならないのではないかと思う。
2010.05.12
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「matsudadoraemon 日米協議開始を後押しした日米関係重視の外交評議会の重鎮たちは、共和党の副大統領候補だったサラ・ペイリン女史らが「オバマ政権は歴史上最も日米関係を悪化させた」と批判していることを踏まえ、ジャパンハンドラーズの偏った情報に頼らず、大統領自ら情報収集して問題解決に乗り出すよう進言した。」「matsudadoraemon 日本ではあまり伝えられていない重要な情報が、グアム・テニアン訪問を終えて帰国した民主党の川内博史議員らの記者会見で飛び出した。テニアンを含む北マリアナ州のフェテル知事が「ホワイトハウスから呼ばれて」5月16日にワシントンを訪問すると川内氏らに語ったと。オバマ大統領が動き出した。」(松田光世:フリージャーナリスト)追記「matsudadoraemon オバマ大統領は、月刊文春チームの脆弱な取材とは全く逆の動きをとりはじめた。鳩山政権と真剣に向き合い、米国内への基地移転費用を可能な限り日本側に負担させ、必要な緊急派遣部隊は日本に残すことで、問題を解決するリーダーシップを示すことが、中間選挙にも有利に働くという計算が働いている。」「matsudadoraemon 週刊ポストが、ようやく鳩山政権の「訪沖土下座芝居」の裏側にある本当の腹案を伝えた。内容は、小生が昨年暮れと今年3月に週刊朝日で報じてきた九州の自衛隊基地を再編・日米共同使用化して緊急派遣部隊を「県外移転」するというもの。これは日米実務者協議前に作成されたポジションペーパーだ。」
2010.05.11
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普天間問題に関して、ツイッターから気になるつぶやきを拾ってお知らせしよう。「kamiura_jp 急に浮上した「日米地位協定」の改定。米軍基地周辺の環境に配慮するよう地位協定改定を目指すという。これこそが小沢流の豪腕外交だと思う。この時期の地位協定の改定など、米政府には恫喝以上の効果がある。米軍の嘉手納と普天間の飛行訓練を全国の自衛隊基地に分散することに反対するなという意味。 」(神浦 元彰:軍事ジャーナリスト)「matsudadoraemon 「ゼロベースでの協議」という鳩山提案に米側が乗った以上、日米双方で努力をして出口を探すのは、当然のこと。「おわび行脚」をしたことで、交渉当事者としてキャンベルは首の皮一枚つながったが、米側の意思決定の中枢は、ハンドラーズの本拠地である国務省・ペンタゴンからホワイトハウスに移った。」「matsudadoraemon 月刊文春のジャパンハンドラーズに偏向したオバマ政権、鳩山政権相手にせずという作り話は、月刊誌の悲しさで発売日には完全に陳腐化してしまった。4日から日本側が提案した「現行案を白紙にしたSACO合意改定交渉」を米側も受け入れ、実務者協議が始まったからだ。すでに辺野古埋め立て案は消滅。」(松田光世:フリージャーナリスト)このつぶやき通りに、普天間問題に変化が起こることを期待している。今後を見守っていきたい。
2010.05.11
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情報として大きな価値があると思うのでお知らせしたい。「外国人記者たちが語る鳩山政権」司会の葉千栄さんは、かつてマル激に出ていた信頼の置ける言論を語っていた人だ。厳しい司会で本質に迫っている。他の出演者も本質を突いた鋭い意見を出している。まだ全部を聞いていないので、論評は後でじっくり考えよう。
2010.05.10
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国際ジャーナリストの田中宇さんが、「韓国軍艦「天安」沈没の深層 2010年5月7日 田中 宇」という記事を書いている。田中さんは、記事の冒頭で「韓国の大型哨戒艦(コルベット)の「天安」が爆発・沈没した事件は、発生から1カ月以上がすぎても、沈没原因が確定していない」と書いている。このこともさることながら、このニュースそのものがあまり報道されていないことを僕は感じる。これはけっこう深刻なものではないかと思う。特に、「韓国の右派勢力は、北朝鮮の潜水艦(半潜水艇)が魚雷を撃ったと主張」しているようなので、北朝鮮に絡んだ問題として、日本でもっと報道されてもいいのではないかと感じる。このニュースをヤフーで探したら「<韓国軍艦沈没>「水流噴出」で破断? 魚雷破片を捜索4月29日21時47分配信 毎日新聞」「<韓国軍艦沈没>火薬成分を検出 船体の切断面付近から5月6日19時29分配信 毎日新聞」という二つが見つかった。この二つのニュースでも、北朝鮮の関与が証明されたということまでは書かれておらず、その疑いがある程度にとどまっているらしい。これが、あまりニュースとして大々的に取り上げない理由だろうか。田中さんは、この事件の核心を「天安艦は、ペンニョン島の南の沖合を航行するはずが、予定より岸に近づき、その結果、韓国軍に存在を知らされていない米潜水艦の存在を探知し、北朝鮮の潜水艦が潜入していると勘違いして発砲し、攻撃されたので米潜水艦も瞬時に撃ち返し、2隻とも沈没するという誤認の末の同士討ちが起きたのではないか。米潜水艦は、受信専用のパッシブソナーを使い、天安艦の接近を察知しただろう。だが、米軍が韓国軍に対しても秘密にして米潜水艦を潜航させていたのたら、米潜水艦の方から天安艦に無線連絡を入れるわけにはいかない。」というふうに見ている。つまり、北の関与ではなく、米軍と韓国軍の誤射による沈没ではないかと推論しているのだ。これは、原因としては、「韓国軍に存在を知らされていない米潜水艦の存在」によるものだと思われる。存在を知らされていないので、韓国軍の天安艦は、その潜水艦を北朝鮮のものだと勘違いして攻撃をしたのではないかと田中さんは推測している。詳しくは、田中さんの文章を読んでもらいたいと思う。もし、この事件が田中さんの推測通りだったら、その事実を米国も韓国も発表するわけにはいかないだろう。米潜水艦は秘密裏に置かれていたらしいので、それは軍事機密に関するものだろうからだ。また、秘密に置かれていた米潜水艦が原因だと韓国人が知ったら、反米感情に火をつけてしまうだろうとも思われる。韓国に秘密に潜水艦を置いていたのは次のような理由だろうと田中さんは見ている。・「ペンニョン島は、韓国で最も平壌に近い場所で、平壌まで170キロほど。米韓軍にとって、通信傍受や有事の反撃の拠点として最適だ。米軍がペンニョン島の周辺にミサイルを発射できる潜水艦を長期滞在させていれば、北朝鮮軍がソウルを攻撃してきた時に、数分で平壌にミサイルを撃ち込める。」・「米韓軍が、ペンニョン島の陸上に、北朝鮮をねらうミサイルを設置したら、北朝鮮から激しい非難を浴び、北朝鮮を同胞とみなす韓国民の世論も逆なでするので、撤去せざるを得なくなる。だが、ミサイルを積んだ米潜水艦を島の周辺に潜航させるなら、有事の際は地上のミサイル基地と同じ効果を生む上、北から察知されないし、韓国民にも何も知らせずにすむ。たとえ米原潜が核兵器を搭載していても、韓国側に知らせなければ問題にならない。」この誤爆事故自体が、北の仕業にするためにしくんだ謀略だという見方はたぶんないだろう。そこまであえて犠牲を出して北をはめる必要は今のところないと思うからだ。しかし、この事故が北のやったことだと思わせるのは謀略ではないかという感じがする。実際には北は全く関与していなかったにもかかわらず、北のせいにしてしまえば、北に対する危険な国というイメージを持ち続けることも出来るし、自らの秘密裏に行っていた軍事作戦も暴露されずにすむという計算が出来るからだ。この沈没が北のやったことではないと言うことの理由は田中さんは次のように書いている。「北側は、米韓が合同演習を口実に北上し、北の核施設に向けて本物の攻撃を仕掛けてくることを恐れていた。軍事演習しているふりをして本当の戦争を仕掛けるのは、米軍の戦術としてあり得ることだ。そんなところに北側から攻撃を仕掛けるのは、米韓に戦争の大義を与えてしまう自殺行為である。 すでに書いたように、天安艦と米潜水艦の沈没から11日後の4月7日、スティーブンス駐韓米国大使とシャープ在韓米軍司令官という、米国の高官が、ペンニョン島近くの第3ブイでの捜索活動の現場で行われたハン准尉の慰霊祭に出席している。もし3月26日、北朝鮮の潜水艦が天安艦と米潜水艦を撃沈させたのなら、それは米韓と北朝鮮は交戦したわけであり、米韓と北の間で何らかの和議がなされない限り、交戦から11日後に、まさに戦場の最前線であるペンニョン島周辺に、米国の軍司令官と大使が2人そろってのこのこやってくるのは危険すぎる行為だ(米韓と北が交戦して数日内に秘密に和議したとは考えられない)。だから、天安と米潜水艦の沈没は、北朝鮮に攻撃によるものではないだろう。」北には、この時期に韓国軍を攻撃する必要がないし、むしろそんな危険なことは避けると考えた方が合理的だというわけだ。僕も、軍事力の水準からいって、米韓両方の最先端の哨戒艦と原子力潜水艦を北の軍隊が攻撃して沈没させられるような力があるとは思えない。よほど油断しているときに奇襲攻撃でも受けなければそんなことは出来ないだろう。軍事演習中にそんなことが出来るとは思えない。田中さんは、もっと謀略的なことを疑えば、次のような疑いさえあると書いている。「天安艦の沈没後、米韓が「北から攻撃された」「反撃する」と宣言していたら、事態は本当の戦争になっていただろう。在韓米軍は撤退の方向にあり、2012年には有事指揮権が米軍から韓国軍に委譲される。韓半島の国際政治の主導役は、米国から中国に委譲されつつある。ブッシュからオバマにかけての米政権は、委譲を是認している。米国防総省内の軍産複合体系の勢力の中には、こうした多極化への流れを止めたい、逆流させたいと思っている人々がいるはずだ。 彼らは、このまま東アジアが中国の覇権下に入り、米軍が撤退していくことを看過したくない。彼らが、天安艦事件を機に、韓国と北朝鮮との戦争を誘発し、朝鮮戦争の時のように、それを米国と中国との戦争にまで発展させ、東アジアでの多極化の流れを逆流させたいと思うのは当然だ。考えすぎかもしれないが、彼らがペンニョン島での米潜水艦の潜航を韓国軍に伝えず、同士討ちを誘発したと疑うことすらできる。」同士討ちという事態が起こるかもしれないが、もしそのようなことがあったら、それも利用してしまえというような謀略は、アメリカのやり方を紹介した孫崎亨さんの『日米同盟の正体』という本を読むと、アメリカはそういうことも平気でやってくる国だと言うことを考えた方がいいのかもしれない。石波元防衛大臣はマル激の中で、アメリカを「信頼の置けるパートナー」と呼んでいたが、ナイーブにそのようには信じられないと言うことを、日本人の常識にした方がいいのではないかと思う。田中さんは、最後に「韓国民の多くはすでに、天安艦事件に関する政府の発表を信用できなくなり、何か裏があると感じている。米国では911事件の深層がなかなか事実としてみなされないが、韓国では、ペンニョン島の第3ブイの下に米潜水艦が沈んでいることが、今後いずれかの時点で「陰謀論」から「事実」に変わるかもしれない。韓国が対米従属を国策とする限り、第3ブイの秘密は隠蔽されねばならないが、国是が多極化対応(中国重視、南北共存)の方向に変われば、隠蔽が解かれるだろう。」と書いている。韓国では、すでに日本よりも民主主義についての訓練が国民全体に行き渡っているので、アメリカに対する認識も、ナイーブに自分たちを守ってくれるなどというお人好し的な信頼感ではなく、米国も、自国政府でさえも「何か裏があると感じて」まずは疑ってかかる姿勢を持てるようになっているようだ。日本国民も見習わなければならないだろう。この姿勢が、後に「隠蔽が解かれるだろう」というものに結びつき、真相が明らかになって、極東の安全保障に対する正しい認識につながって欲しいものだと思う。それは、我々にとっての脅威は、弱小国の北朝鮮ではなく、本当に恐ろしいのは謀略国家であるアメリカの謀略に巻き込まれることなのではないかという認識だ。少なくとも、真実を知らされることのない一般市民は、そのような認識でアメリカを見た方がいいだろう。
2010.05.09
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ツイッター上でも大きな話題になっていたので、おそらく知っている人が多いだろうが「元CIA顧問の大物政治学者が緊急提言「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない!日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」独占インタビュー チャルマーズ・ジョンソン 日本政策研究所(JPRI)所長」という文章がある。この表題にあるように、ジョンソン氏の主張の核心は、「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない!日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」ということだ。これは主張であるから、それに賛成する人も反対する人もいるだろう。僕は、自分の願いに近い意見としてこれに共感し、もちろん賛成したいと思う。しかし、賛成したいという思いだけでこれを支持するのであれば、どうも論理的ではないし、客観的に正しいという要素に欠ける。そこで、この主張を正しいと受け取る根拠についていろいろと考えてみたいと思う。まずは、ジョンソン氏に対する信頼の問題だが、これはその肩書きと経歴から来る信頼に問題はなさそうに思う。少なくとも、ジョンソン氏が、嘘やねつ造を元に都合のいい論理を展開する人でないことはこの経歴から信頼できる。そんな人だったら、このような実績を積むことは出来なかっただろうし、メディアで取り上げられるような人にはならなかったと思うからだ。そこで、ジョンソン氏が語る前提はほぼ事実だと仮定して、そこから論理的帰結として、「米軍に普天間基地の代替施設は必要ない!日本は結束して無条件の閉鎖を求めよ」ということが導き出されるものかを考えてみたい。ジョンソン氏の主張は、端的に言えば次のことにつきる。「実を言えば、米国には普天間飛行場は必要なく、無条件で閉鎖すべきだ。在日米軍はすでに嘉手納、岩国、横須賀など広大な基地を多く持ち、これで十分である。」「必要がない」ということが前提として認められれば、その帰結として「閉鎖すべき」ということが出てくる。いらないのであるから、なくなってもいいわけである。しかし、「必要がない」というのは、事実としての前提ではなく、これもまた一つの意見なので、いや「必要がある」と反論したい人もいるだろう。そうすると、「必要がない」という主張の正当性をいうには、「必要がある」という意見を一つ一つつぶしていかなければならない。それをジョンソン氏の文章から拾って見ると、次のようなものがある。「―普天間を閉鎖し、代替施設もつくらないとすれば海兵隊ヘリ部隊の訓練はどうするのか。 それは余った広大な敷地をもつ嘉手納基地でもできるし、あるいは米国内の施設で行うことも可能だ。少なくとも地元住民の強い反対を押し切ってまでして代替施設をつくる必要はない。」
2010.05.08
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前回の日記では、マスコミ報道による「普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校の体育館に住民約100人を招いて開かれた対話集会でも怒りの声が相次いだ」という記事が、事実としては違うと言うことを「2010年5月4日、普天間第二小学校における集会から」「2010年5月4日、鳩山由紀夫首相と稲嶺進名護市長の会談から」という岩上さんの報告と比べて考えてみた。マスコミの報道が事実として間違っていると思うのは、僕は岩上さんの報告の方が事実だと判断しているからだ。違うことを語っている報告が二つあるとき、自分ではそのことを直接確かめないことがあるにもかかわらず、どうして一方(岩上さんの報告)を事実だと判断し、もう一方(マスコミ記事)を事実ではないと判断できるのだろうか。まず一つの理由は、岩上さんとマスコミとに対する信頼感の違いだ。僕は岩上さんに対する信頼感は絶大なものがある。それは、今までの仕事を見てきて、その実績を高く評価しているからだ。それに対して、マスコミの方は、今までの報道を見る限りでは、民主党に対する悪意を随所に感じるし、ねつ造に近い報告さえあるのを感じている。そのような信頼感の違いがまずある。だが、信頼感だけで判断するのであれば、それは宗教的な思いに近いものになってしまうだろう。もっと客観的な判断根拠はないだろうか。それは見つけることが出来る。マスコミの報道が、事象のすべてを知らせているのではなく、その事象の部分を引き出して、そのイメージから「怒りの声が相次いだ」という主観的判断を付け加えているという文脈だ。「怒り」というのは客観的に断定できる事実ではない。そこに判断者が見出そうとする主観的なものだ。優れたジャーナリストである岩上さんは、自身の怒りの言葉をツイッターで綴ることはあるものの、そこに「怒り」が見られるというような、客観的に判断できないようなことを言ったりしない。岩上さんが語るのは、実際に発言者がどのような言葉で語っているかという「事実」の方だ。岩上さんは、実際の発言を出来るだけ忠実に一言一句再現するように努めて文章化している。そこに「怒り」が見られるかどうかは、読む人間に判断してもらおうと言うことだ。そして、僕はそこから「怒り」よりも、鳩山さんに対する感謝の気持ちと、切実な願いを理解して欲しいという熱意を読み取った。感謝と熱意というのも、これは僕の主観に存在するものなので、すべての人がそう感じるとは限らない。それと同じように、この現実に行われた対話を見て、そこに住民の「怒り」を見たとしても、その見方・感じ方に対して間違いだとは言わない。そう感じてしまったのなら仕方がない。感じ方に対して、間違っているとは言えないからだ。根拠になることを誤解していると言うことはあっても、感じてしまったと言うことが事実なら、その事実に対しては間違っているとは言えないわけだ。だが、この感じ方を客観報道のようにして、報道機関が知らせると言うことには問題を感じる。単に感じ方に過ぎないものであるのに、そう感じた根拠になるような対象を、事実ありのままに見られるような報道がなぜなされないのか。それなしに、感じ方だけ伝えられても、その感じ方をナイーブに信じるほど、もうこちらは素朴ではない。「怒りの声が相次いだ」と報道したければ、具体的なその声も報道すべきだろうと思う。それなしに、このような印象だけを報道すると言うことを批判したい。これは本当のジャーナリズムではないという批判だ。さて、解釈というのは、上の記事にあるように、人々の声を「怒りの声」だと判断したときの判断が「解釈」に当たるものだ。「感じた」という感情の問題には、そう感じる感情は間違いだ、とは言えないが、「解釈」に対しては間違いを指摘することも出来るのではないかと思う。ただ、その時は、事実の間違いの指摘よりも遥かに難しい指摘が必要だ。解釈の間違いというのは二つ考えられる。一つは論理に関する間違いだ。前提とする事柄からどのようにして結論が導かれるかという、論理の流れが間違っているという指摘だ。これは、感情的に結論を支持したいときは、なかなかその論理的な間違いを見抜くのは難しい。だから、反対者の意見の方が的を射ていることが多いだろう。だが指摘そのものはとても難しいので、論理の間違いを見抜くのはたいへんだ。感情的に結論だけを主張して、その根拠について何も語らないようなものは解釈ではない。単にそう思っているだけであって、感覚と呼べばいいだろうか。感覚は、錯覚もあるのであまり論評しても仕方がない。それが解釈と呼べるようなものであるなら、必ず何らかの前提から導かれているはずだから、論理的な評価をすることが可能だ。この論理的評価において、僕は解釈が出来るほどの人であれば、ほとんどの人は論理的な間違いを犯すことは少ないと思っている。論理というのは、あえてそれに反してわざと間違えない限り、どうしてもそれに従わずにはいられないほどの強制力があるものとして僕は感じている。だから、論理的に間違える人はきわめて少ないと思う。もしそれが見いだせるなら、きわめて複雑な論理構成をしようとして、その構成の仕方でどこか抜けてしまったというような間違い方になるだろう。これは、複雑であるだけに見つけることはきわめて困難だ。僕は、ほとんどの人は、感情的な感覚の吐露でない限り、それが何らかの解釈と呼べる主張である限りでは、たぶん論理的には間違わないだろうと信用している。そこで、解釈の間違いを指摘するとすれば、その前提となっている事実を間違えて捉えているという指摘が出来るだけではないかと感じている。解釈というのは、現象を見て、そこからストレートに感じるような感覚を語るものではなく、感覚では導けないような結論を、論理によって導くものだと思っている。その意味では、必ず前提となる事実を設定しているはずだから、間違えているとすれば、その事実の方だろうと思う。これが指摘できれば、解釈の間違いが正しく指摘できる。だが、これもほとんどの場合は難しいと思う。解釈することが出来るほど思考能力があれば、出発点となる事実が正しいかどうかくらい確かめてから始めるだろうと思うからだ。結局のところ、解釈の間違いを指摘することは困難だという結論になる。きっこさんは、ツイッターで、自分とは違う考えの持ち主に批判の言葉を送りつけるようなことはしない、というようなことをつぶやいていた。これは、解釈の間違いを指摘することがいかに難しいかと言うことを熟知しているからではないかと思う。解釈が間違っていると思うのは、その結論が自分とは違うことを語っているからだろうと思う。だが、その結論は、自分とは違う前提を置けば、論理的に真っ当な流れをたどって導かれるものかもしれないのだ。それは前提の選び方が違うと言うだけで、いわば「見解の相違」というものに過ぎないものかもしれない。もし、解釈の違いというものを批判することが建設的なものとなり共感を呼ぶものになるとしたら、この前提の選び方の違いを適切に指摘しているような批判がそれに値するのではないかと思う。最近見たものでは、永田町異聞というブログの「朝日が鳩山首相に求める「大きな決断」の不明瞭」というエントリーに、その優れた指摘を感じた。ここでは、朝日新聞、舟橋洋一主筆の論説が、何を前提として主張を展開しているかという、その前提の選び方を問題にして批判を展開している。そして、そのような前提を選べば、論理的には「要するに、フィージビリティーとサステイナビリティーの観点から、日米同盟には沖縄が必要だということなのか」と、このブログの筆者は読んでいるのだが、朝日の主張ではそのような結論に落ち着いていないらしい。このような主張を前面に押し出しているなら、それにたとえ反対だとしても、ある前提を選んだときの主張の一つとして、論理的な理解は出来るだろう。しかし、今こんなことを言えば、世論の大きな反対が起きることも予想される。そこで、出された結論を見ると「大きな決断」という曖昧な言葉になっている。これに対して、「とうとう「大きな決断」ということで、ぼかしてしまった」と言う批判が述べられているが、これは適切な批判ではないかと思う。このような批判であれば、納得も出来るし、勉強にもなる。解釈に対する批判も、結論をぶつけ合うような不毛なやりとりではなく、このような適切な指摘で学び合いたいものだと思う。
2010.05.07
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沖縄での鳩山さんの様子をジャーナリストの岩上安身さんが報告している。「2010年5月4日、普天間第二小学校における集会から」「2010年5月4日、鳩山由紀夫首相と稲嶺進名護市長の会談から」この二つの記事では、小学校における集会と、稲嶺名護市長との会談を、ほぼ全文報告している。あまりに長いので引用が出来ないが、ぜひその全文を読んで欲しいと思う。マスコミでの鳩山さんへの報道と、なんと違うイメージが浮かんでくるか。マスコミは、鳩山さんを伝えるのに、自分たちに都合のいいところだけを抜き取ってネガティブイメージになるようなレトリックをしている。しかし、岩上さんのように、そのすべての姿をさらしてくれるような記事を書いてくれると、そこから自分の頭で判断をすることが出来る。マスコミのニュースとしては、「「鳩山首相 沖縄“おわび”行脚 怒号「本当に総理か」 女性詰め寄る場面も」5月5日7時56分配信 産経新聞」「「普天間移設 首相「県外」断念表明、市長、住民らは反発」5月4日21時58分配信 毎日新聞」という二つを取り上げて、そこで行われているネガティブキャンペーンが、実際にはどのような姿だったのかを、岩上さんの記事で確かめてみよう。「普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校の体育館に住民約100人を招いて開かれた対話集会でも怒りの声が相次いだ。PTA会長の女性は「保護者が願うことはただ一つ、住宅地に近接する世界一危険な基地をなくしてほしい」。首相は「北東アジアを考えたときに日米の安全保障を考えざるを得ない。沖縄の皆さんに負担をお願いせざるを得ないのが今の政府の考え方。できる限り負担が過重にならないよう努力したい」と低姿勢を貫いた。 また普天間第二小学校教諭の下地律子さんは「騒音をどうにかして」など6年生10人が書いた手紙を直接手渡し“直談判”。首相が「ご負担をお願いしなければならないのは本当につらい。皆さんも本当につらいと思うが」と話すと、納得いかない様子の女性が首相に詰め寄り、制止される場面も。住民からは「しっかりしろ」「友愛政治はどこにいった」などとヤジも飛んだ。 説明会に参加した会社員、宮城靖英さん(45)は「会場にくるまで実は県外移設案があるのではと期待していたが…。絶対に納得がいかない」と話していた。」と、マスコミの記事は伝える。「怒りの声が相次いだ」という表現は正しいのかどうか、岩上さんの記事を見てみよう。岩上さんの記事では、村上ゆかり普天間第二小学校PTA会長の次の言葉が報告されている。「私は、総理に、この普天間第二2小学校に来ていただいたことに感謝申し上げます。 (中略)子ども達が安心して安全に学校生活を送れるようにしてください。それができるのは鳩山総理しかいないのです。」全文は、岩上さんの記事で確認してもらいたいが、これが怒りの声に聞こえるだろうか?また、鳩山さんの答も、肝心の部分を補って引用すると次のようになっている。「そして将来的にということになれば、私はこれは時間軸を グアムあるいはテニアンへの移設ということは十分にあり得る話しと思っておりますが、現在の国際環境の中でそれは残念ながら望めないという思いになりました。従いまして、県内ではなく県外を模索せよということであろうかと思いまして、県外への模索は今も続けているところでございます。 ただこれも、私も党首討論の中でぜひ国民のみなさん沖縄の今日までの負担を考えるときに何とか負担、国民全体で分かち合う、負担を分かち合う努力をしようじゃないかということを申し上げ、また努力もいたしている所でありますが、一方でこれは陸上の部隊との関わりの中で、距離的な制約というものもあり、あまりにも遠くにすべてを移すということは不可能であるということも判明しております。 そういう中での沖縄の皆様方に恐縮ではございますが、ご負担をまたお願いせざる終えないというのが現在の政府としての考えでございまして、ただ、そのことに関しては米との交渉の中で、地域との交渉の中で、できる限りトータルとしての沖縄の皆様方のご負担が過重にならない、できる限りやらせていけるような最善の努力を申し上げてまいりたいということも また後で多くの皆様からさらに同じ方向性からの質問をいただくことになろうかと思いますが、その分お答えしたいと思います」全文を読むと、抜粋だけのマスコミ記事とのニュアンスの違いを感じないだろうか。鳩山さんが、単に負担を押しつけることを既定事実のように語っていたのではない、というふうに読めないだろうか。普天間の人たちは、実に冷静に発言をしているように見える。その機会を作ってくれた鳩山総理に感謝の言葉を語る人もたくさんいた。これがいったい、怒りの集会とか、鳩山さんに詰め寄ってつるし上げるというような集会なんだろうか?ちなみに、この中で鳩山さんは、「日米関係が県内だと悪くなるという話。オバマ大統領にも日米同盟を大事にすることがわれわれにとって重要だから、沖縄の負担を軽減させるために、大統領としても協力してもらいたいと申し上げてきたところです。 どこまで大統領が理解しているかは、判断は付かないところですが、私の基本的な立場はその思いで、これからも申し上げたい。」と語っている。ああ、このような言葉が、「鳩山さんが、オバマ大統領の理解に対して疑問を持っている」と揚げ足を取られるところなんだろうなと感じた。全文を読めば、この「どこまで大統領が理解しているかは、判断は付かない」という言葉は、文脈をたどれば、文字通りに、「まだ確かめていない」ということを意味しているに過ぎない。「理解していないだろう」という疑いを語る言葉などではない。しかし、部分的に抜かれてしまえば、鳩山さんがそう語っているという文脈で取り出すことが出来てしまう。全体を報道することの重要性を改めて感じる。もう一つの稲嶺市長との会談を報じるニュースでは、「稲嶺市長との会談で、首相は「県外を模索してきたが、あまり遠いところに移設地を求めることはできない。辺野古の海を汚さない形での決着を模索していくことが重要だ」と述べ、キャンプ・シュワブの沿岸部(同県名護市辺野古)か沖合に「くい打ち桟橋」(QIP)方式で滑走路を建設する案を念頭に、県内移設の方針を伝えた。市長は「到底受け入れられるものではない」と拒否した。」という記述がある。このニュアンスは、岩上さんの記事を読むとどう変わるだろうか。実際の鳩山総理の言葉は次のようだったと岩上さんは報告している。「その意味で県外をさまざま模索をしてきたが、やはり陸上部隊との共同訓練、共同行動の歩調がどうしても必要だという議論が先方からなされている中で、あまり遠いところに移設地を求めることができないという事実も、交渉の中で出てきております。今日、辺野古の海を見させていただいて、改めてこの海を汚したくないという思いに駆られております。できる限り環境に配慮するのは言うまでもないが、海というものを汚さない形での決着がないか、模索するのも非常に重要だと考えています。 しばらくは県民の皆さんに、抑止力の観点からの基地に対する負担を一部お願いせざるを得ません。仲井真知事にも申し上げました。今日は名護市長が選挙の時に公約されたことを守るのは政治的に正しいことだと存じています。その想いも充分に学ぶ中で、できる限りトータルとしての沖縄の県民の負担が軽減される道はないか、交渉の中で求めていく。今日は基本的に市長の気持ちを学ばして貰う場としておじゃましました。」鳩山さんが「模索」をしていることは確かだが、それは辺野古に決着させることを「模索」しているというよりも、「海というものを汚さない形での決着」を「模索」しているというニュアンスではないだろうか。それが、今のところ辺野古以外に考えられないというのは苦渋の思いかもしれないが、「今日は基本的に市長の気持ちを学ばして貰う場としておじゃましました」ということであれば、まだ辺野古へ決定したということを伝えに来たのではない、と解釈するのは希望的観測を抱きすぎるだろうか。だが、ニュアンスとしては、マスコミ記事よりもかなりの違いを感じる。稲嶺市長の最後の言葉は次のように報告されている。「「以前に首相が申し上げたことに、辺野古案が無くなったという内容の話しもありましたが、最近マスコミではくい打ち桟橋方式だという話が出たりして、名護市民が不安の中で過ごしている状況です。 いかなる施設であってもこれ以上の基地負担は受け入れられないというのが、名護市民の切実なる思いです。また辺野古に戻るというのは、絶対にあってはならないと名護市民は強い思いでいます。首相は最後まで県外、国外を模索して導き出すよう努力してほしい」このニュアンスは、「「到底受け入れられるものではない」と拒否した」と感じられるものだろうか。これは、むしろ名護市民の願いを鳩山首相に伝えて、その線で今後も努力を続けて欲しいと頼んでいるようなニュアンスに感じる。もう辺野古案が決定したのだ、と稲嶺市長が受け取っていたら、このような言葉が出てくるだろうか。それこそ、マスコミ記事にあるように、怒りの言葉で拒否するのではないかと思う。新聞あるいはテレビのマスコミニュースというのは、事実の中から、ある種の主張に都合のいいような抜粋をして、事実の解釈をゆがめるような報道になっている。岩上さんのような本物のジャーナリストの報告を見て、自分の頭で判断するようにしなければならないだろう。
2010.05.05
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鳩山さんの沖縄訪問の結果は、県外移設は難しく、結局自民党案を修正するだけの元に戻ったような形になったので、マスコミにはいい攻撃材料を与えるようなものになってしまった。アメリカとの交渉は、マル激で我部先生が語っていたように「負け」は決まっていたものの、もっとも悪い形での「負け」になってしまったように僕には見えた。同じ「負け」になるにしても、鳩山さんの真意は「県外移設」であり、それを邪魔する勢力によってやむを得ず今は修正案を出さざるを得ない、というような形での負け方を期待していた。あるいは、我部先生がアドバイスしていたような、今のところはとりあえずごまかして、ゲームをリセットするような形で、いったん引くような負け方を期待していた。三浦つとむさんは、毛沢東の戦術を説明していたときに、「負けながら勝つ」というような弁証法を解説していた。敵の力が圧倒的に強いときは、正面からのぶつかり合いでは必ず負けてしまう。だから、正面からのぶつかり合いになりそうなときは「退却」という負けを選んで、相手を狭い戦場に引き入れて、部分的に撃破するような戦い方をするというような戦術の合理性を解説していた。最初の形としては「負け」だが、それは後の「勝ち」につながるような負け方として、弁証法性をそこに見ていた。「勝ち」とか「負け」というのは、問題の本質を捉えたものではなく、最も重要な本質を守るための戦術を語るときの比喩なのだが、昨日の鳩山さんの沖縄訪問が終わった直後の状況は、僕には「勝ち」につながる「負け」という見方が出来なかった。なぜ、これほど徹底的に負けるような状況を鳩山さんは作ってしまったのだろう、というような疑問に包まれていた。今日のマスコミのニュースを見ても、この鳩山さんの失点につけいるようなバッシングが吹きまくっているようにも感じる。「「5月決着無理なら退陣を=野党「公約違反」と一斉批判-谷垣氏」5月4日18時59分配信 時事通信」という記事では、民主党の反対勢力である自民党の谷垣氏の「『国外、最低でも県外』と県民の期待をあおってきたことからすれば、一体これは何なのか。明確な約束違反だ」という非難や、公明党の山口氏の「自らの言動で県民の期待や不安を増幅する今日の状況を招いている。県民の期待を裏切り、その気持ちをもてあそんだ結果となり、その責任は極めて重く、厳しい非難を免れない」という言葉を報道している。これらの批判に対しては、本質的には、沖縄の基地の存在や安全保障問題をどうするかの方が重要だという反論も出来そうだが、今そのようなことを言っても失敗したことのいいわけにしか聞こえないことが残念だ。「「最低でも県外」どこへ、沖縄県民に失望と怒り」という読売の記事には、「昨夏、この地で「最低でも県外に」と力強く語ってから約10か月。国外、県外への移設に期待を持たせた揚げ句、たどりついたのはやはり県内だった。おわびを繰り返す首相に、県民には激しい怒りと深い失望感が広がった。 (中略)会談の内容はテレビで速報され、あっという間に県内に広がった。「公約違反が明らかになりましたあ」。県庁前で開かれていた市民集会の司会者がハンドマイクで絶叫すると、約300人の参加者は降り出した雨のなか、首相が出て来るのを待った。だが、公用車は正面玄関を避け、裏口へ。「逃げた」と怒声が飛んだ。 「あなたは『最低でも県外』と言った。政治家の言葉は重いんですよ」。普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校で開かれた住民との対話集会では、住民と向き合う形で席に着き、辛辣(しんらつ)な言葉を浴びせられ続けた。発言者を見ながら、じっとメモをとる首相。集会が終わった後、会場にいた宜野湾市の会社員国政美恵さん(55)が県外移設を求めるメモを手渡そうとして首相に近づき、警察官が止めに入るなど一時、騒然とした。」ということが綴られており、反対勢力だけではなく、沖縄県民という、本来なら鳩山さんとともに基地の撤去を求めて闘う人々さえ鳩山さんに対して厳しい目を向けていると言うことが報道されている。その他、鳩山さんの提案はアメリカも満足していないというような「米、徳之島案「運用上受け入れられない」」という記事もある。まさに鳩山さんは八方ふさがりで叩かれ放題という感じになっている。このような状況は、鳩山さんにも、その側近にも十分予測できたと思われるのに、なぜ予想通りの行動をしてしまったのだろうか。この行動を取り上げて再び鳩山さんを「愚か」だと呼びたい人もいるだろうが、僕は鳩山さんが「愚か」だとは思えないので、どうしてもそこに整合性のある説明が欲しくなる。どうして、あえて鳩山さんはこのような行動を取ったのだろうか。その理由をいつか鳩山さん自身から語ってもらえる日が来ることを願っている。それまでは、その事情を知る人の報告がないかを注目しておこう。一説には、鳩山さんがこの問題を考えるときに頼った人の中に、アメリカ一辺倒という思考の持ち主がいたりして、アメリカの意向をまず一番に考えなければならないということが、今回の判断につながったのではないかというようなつぶやきもあった。真偽のほどは分からないけれど、岩上安身さんがインタビューをしていた孫崎亨さんのような、優れた理論家も鳩山さんのアドバイザーとしていたのに、その助言がうまく生かされなかったようにも感じる。このような状況があるとき、当の沖縄の人が、まだ希望を失わず鳩山さんにエールを送っている言葉を見つけた。客観的な状況としては、かなり絶望的だと思える感じがするのに、沖縄の人々はまだあきらめていない。65年も我慢してきたのだから、民主党政権になってから、まだ1年も経っていないのに、そう簡単にあきらめてたまるか、というような心境だろうか。沖縄の人々の強い思いは筋金入りなのではないかと思えた。KEN子さんという沖縄の人は次のようにつぶやいている。「今から宮古、帰省モード入る前に。今回の普天間問題で首相来沖の件「沖縄vs鳩山」みたいな報道に腹立つ。彼1人で決めた事じゃない。押し付けて別案検討なく謝った事すらない前政権よりマシ。でも政権交代も名護市長選も超党派県民大会も精一杯の「民意」でも変わらない事が悔しい。でも、諦めない!」沖縄の人々は、鳩山さんとそれ以前の権力者との違いをちゃんと見ている。鳩山さんが迷っているのは、問題の難しさがあるからだというのを理解している。迷わずにアメリカの言いなりになっていたような、これまでの権力者に対して「押し付けて別案検討なく謝った事すらない前政権よりマシ」という評価をしている。また、KEN子さんが紹介する辺野古通信の2010年05月05日の記事「沖縄の民は、鳩山の「迷い」を評価します。」には次のように綴られている。「鳩山批判、民主党への怒り・・・ここ数日、そんなモノばかりを沖縄に求める本土のマスメディアたちが、ハイエナのように沖縄に強請っています。米国地方紙の無知な記者が又聞きで書いたような記事と社説もあります。 (例えば『首相訪沖/広がる不信、怒る沖縄』 N経新聞 『首相沖縄訪問 もはや現行計画しかない』 S経新聞)。しかし現場では・・・「鳩山、もっと迷え!考えろ!沖縄を見ろ!」と県知事を除く、市町村首長たち、集まった市民は問い、叫び、求め続けていたように思います。沖縄の民は、鳩山の「迷い」を評価しています。もちろん、怒り、悲しみ、島ぐるみでのたたかいの決意の一日でした。これから続くさらにながい闘いを思うと気が遠くなりそうででもあります。でも、この怒りも、悲しみも、決意も沖縄の民には、馴染み深いもの。私たちは負けはしない。まして何十年も沖縄の民を利用し、蹂躙してきた中央の自・公政権とその分派がやってきたこと、やろうとしていること私たちは決して認めない。鳩山も、そして社民党も思う存分迷えばいい、それ程この国のカタチは官僚と政治屋、新自由主義者たちに壊されてしまっているのだから、また民主党の中にいる似た様な輩もスキあれば、その迷いに付け入ろうとしているのだから。鳩山さん…徹底的に迷いぬいた時にはじめて人のための決意を行うことが可能になり、「友愛」という言葉が政治の言葉として、力強く現れるではないですか。私たちは、あなたの迷いを大事と考えています。どうか迷ってください。」この中に書かれている「沖縄の民は、鳩山の「迷い」を評価しています」という言葉に共感して、最後まで鳩山さんを応援したいと思う。とにもかくにも、鳩山さんよりも期待できそうな人が、今の政治家の中にいるか、というような問題だ。そんな政治家が一人もいなければ、最後まで鳩山さんの思いに期待を持ち続けていきたいと思う。鳩山さんは、迷いながらも苦渋の結論を出した。迷っているからこそ、まだ撤回の可能性があるということに賭けるのだと思う。鳩山さんは、その苦渋を伝えに来たのだと理解すれば、この沖縄訪問も意味を持つ。増田信之さんという元婦人雑誌編集者の人も、次のようなつぶやきを語っていた。「鳩山さんにアドバイス。「私の考え方が甘く間違っていました。沖縄県民に心からお詫び申し上げます。愚かな私の考えが、基地について沖縄県民に負担を掛けているとの認識を、全国民に高める結果となりました。時間は掛かりますが、沖縄に基地がなくなるように長い目で取り組んでまいります」と言えば。」5月末までは、鳩山さんを取り巻く環境が、鳩山さんの願いに反してどのような結論を出させたいのか、ということを国民に知らせることが一つの決着だろう。だが、その決着が具体的に動き出すかどうかは5月末までには決まらないと思う。その時こそ、我部先生が語っていた、新しいゲームに入り、沖縄の人々の願いを鳩山さんが実現していくための努力を始めるときではないだろうか。今回の結果で、鳩山さんと民主党を見捨てる人が多くないことを願っている。少なくとも、鳩山さんと民主党に変わる勢力で、真っ当に迷ってくれそうな人がいない状況の中では、引き続き新しい政治を見守っていきたい。そして、沖縄の人々が、再び、基地に反対する姿勢を見せた人々を選挙で支持することを期待している。それが鳩山さんと民主党であって欲しいと思う。
2010.05.05
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今週は第5金曜日と言うことで、ビデオニュースドットコムのマル激トークオンデマンドが無料で見られる。下のアドレスをクリックしてもらうとページに飛んでいくことが出来る。マル激トーク・オン・ディマンド 第472回(2010年04月30日) 5金スペシャル 映画特集「豊かな国日本がかくも不幸せなのはなぜか ゲスト:寺脇研氏(映画評論家、京都造形芸術大学教授)」本編のテーマは、寺脇研さんを招いての映画評論だが、今回は、ニュースコメンタリーも無料で見ることが出来る。そこでは、郷原信郎弁護士を招いて、小沢さんを「起訴相当」と判断した検察審査会のことについて詳細に論じている。マスコミのニュースしか見ていない人は、これを見てぜひ何が本当のことなのかと言うことをもう一度考えて欲しいと思う。この中で宮台真司さんは、「検察のやり方にも問題はあるけれど、小沢が持っている権力の弊害も大きいのだから、それを利用して小沢の権力を減らすという方向もあるのではないか」という考えを出して、これに対してはどうなのかという問題を提起している。宮台さんは、このような論理は、論理として明らかに間違っているとは考えながらも、感情の問題としてそう考える人が多いと言うこともあるだろうと理解している。マスコミが一方的に偏向報道をするのは、この感情に訴えかけて、むしろこの感情をこそ主流にしてしまえば、自分たちのひどい報道も大衆的な支持を得るという目算があるのではないかとも思える。このことは、マスコミが報道機関ではなく、大衆迎合的な宣伝を商売とする会社に過ぎないと言うことを暴露するだけではないかと思う。しかし、この記事が大衆受けし、世論調査なるもので、小沢批判が多数を占めるような結果が出ると、これに迎合して小沢批判を強める政治家がいることは問題視しなければならないと思う。政治家は、世論に阿(おもね)て、自らの判断を曖昧にしてはいけないと思う。また、政治家は論理的な判断を第一にすべきであって、感情の問題は外に置いて、たとえ世論が感情で吹き上がっていても、その感情に反して論理的に考えるべきだと思う。それが不人気な主張であっても、人気を取るために、間違っていると思うような判断に迎合すべきではない。政治家はポピュリストになるべきではないと僕は思う。ポピュリストとして選挙に勝ったとしても、その選挙結果は、結局勝たせてもらった人々の利益のために働くだけで、国家の方向を考察するような大きな観点からの行動は出来なくなってしまう。それは、政治家としては結果的にはマイナスになるだろう。たとえ選挙に勝ったとしても。本物の政治家なら、選挙に負けそうであっても、正論で勝負すべきだと思う。そのような観点からすると、「検察審議連…閣僚に慎重論、小沢進退明言避ける」に表れている「一方、記者会見での質問が、小沢氏の進退のあり方に及ぶと、ほとんどの閣僚がコメントを避け、福島消費者相は「この問題は刑事手続きであるので、まずは検察の動きを注視したい」。 中井国家公安委員長も「本人が考えて発言すべきこと」と語り、検察審査会については多弁だった赤松農相も「自身が判断すること」と話すにとどめた。」という報道からは、世論を意識した曖昧な発言の臭いを感じる。マル激の郷原さんの話を聞いて論理的に考えれば、検察審査会の判断の方がおかしいのは明らかだ。だから、検察審査会の判断に対しては批判すべきであり、そのような判断を元にした進退の問題など、全く意味がないというべきだと思う。検察審査会の「判断」を批判することは、検察審査会という制度を批判することではない。「判断」の批判は論理的に行うことが出来るのだから、そうすべきだと僕は思う。論理的な判断のよりどころとしては、「第88回定例記者レク概要 名城大学コンプライアンス研究センター長 郷原信郎」などを読んで勉強して欲しいものだと思う。これを見れば、何が論理的に正しいのかと言うことがよく分かる。ポイントだけを抜粋しておくと、1「要するに、いろいろ書いてあるけれども、土地の取得の時期が2カ月ずれていた。土地の代金の支払いの時期が2カ月ズレていた。それだけです。それはまったく私も、予想だにしなかったことです。確かに、石川氏の起訴事実の中に、虚偽記入として支出がズレていたということも含まれていたと思います。しかし、まさか、支出の時期が、土地代金の取得時期がズレたのに伴って、代金の支払いの事実が2カ月ほどずれていた、たまたまそれが年度をまたいだということが、虚偽記入でとらえられるとはまったく思っていなかったし、それが、国会議員を起訴に値する事実だとは私には到底思えません。」2「ところが今回はそれ(4億円の不記載や、水谷建設の献金のことなど-引用者注)については全然触れていないで、客観的には確かに時期がズレているから虚偽と言えば言えるだろうという支出の時期のズレ、不動産の取得の時期のズレ、ここだけを起訴すべきだという議決です。これは、いくら何でも政治資金規正法の趣旨目的から考えて、これだけの事実で起訴すべきだと言われても、到底起訴はできないと思いますし、検察の不起訴の結論は変わらないと思います。」3「再捜査をしたところで新たな証拠が見つかる可能性はほとんどないわけです。ほとんど現時点と同じような証拠を前提にして、再度検察が判断しなければいけないわけですが。既に、検察が組織として証拠が不十分で起訴できないということを決定しているわけです。それを、今回の一回の検審の議決で覆すということはあり得ないと思います。」4「それからもう1つ、今回の検察審査会の議決書を見て問題だと思うのは、審査申し立て人が甲となっていて、匿名だということです。なぜ審査申し立て人の名前を記載しないのか。これはまったく理解できないです。これだけの大きな影響が生じる事件の審査を申し立てている人間ですから、自分の名前ぐらい出すのは当たり前だと思います。申立人本人が匿名を仮に希望したとしても、そんな希望は絶対受け入れるべきではないし、最初からそれ前提の審査申立であれば、そんなものは受け付けるべきではなかったと思います。」5「小沢氏を不起訴にした段階で、なぜ不起訴にしたのかということをしっかり説明していれば、それが報道されて、起訴できないことの正しい理由が分かっていたはずです。ところが、検察は、それまでの捜査を正当化するために、負け惜しみ的な説明をした。どっちに転ぶか分からないぐらい微妙な判断で、ぎりぎり不起訴になったんだというような説明をしました。私に言わせれば、現職の国会議員の石川氏の逮捕・起訴に重大な問題があるのであって、小沢氏の方は箸にも棒にもかからないです。そこをはっきり言わないから、結局、検審の審査員にも誤った認識を与えてしまう。なぜ言えないかというと、それは捜査が最初から無茶苦茶だからです。起訴を目指して捜査すること自体が暴走なのに、それをそうだったとは言えないので、世の中に誤解を与える。それが今回のように検察のところに戻ってくるわけです。」実に明快な論理で、これをよく読んで学べば、検察審査会の間違いも正しく指摘できるだろう。残念なことに、この郷原さんの主張はマスコミには出てこないので、この時点ではまだポピュラーなものにはなっていない。だから、マスコミがあおって宣伝する世論とは全く反対の主張になる。そのようなものだから、政治家にとっては不人気になる恐れがあって、このような主張をすることは躊躇したくなるだろうが、逆に言えば、我々の側は、このような正しい主張が出来る政治家こそが本物の政治家、特に国政に携わる人間への評価に際しては、判断をするための指標となるものになるだろう。「<前原国交相>小沢幹事長続投「参院選に影響」 辞任促す」というニュースでは、「ご自身が判断すべき問題だ」と述べ、自ら辞任すべきだとの考えを示唆したと報道されている前原国交相は、世論に阿る言動を選んだと、その政治家としてのセンスを疑ってもいいのではないかと思う。逆に、「民主、検察審見直しで圧力?…議連発足」と、読売新聞に批判されている議員たちは、郷原さんを招いての本質的な議論の展開を見る限りでは、読売の批判は的外れだと感じる。単に重箱の隅をつつくような揚げ足取りに過ぎないのだろう。民主党を攻撃したいという動機からのニュースだと僕には見える。一方では、「小沢氏「起訴相当」大きな“壁” 聴取に時間、新証拠も難しく」というようなニュースもある。この見出しだけを見ると、けっこうまともな報道なのかと思ったりもするが、これを報じているのが産経新聞だということが分かると、最終的な主張は、「とはいえ、数々の捜査記録などを「国民目線」で審査員らが精査し、全員一致で「起訴相当」とした現実は重い。 議決は現段階でも、明石歩道橋事故の過失事件と同様に「公開の場(法廷)で真実と責任の所在を明らかにすべきだ」としている。検察の処分が再び同じ結果となったとしても、検審の再審査で再び起訴相当の議決が出る可能性はある。」というものになっているので、やはり立場からのものだなということが分かる。だが、この最後の主張が「国民目線」で出したことの重さを語るだけで、客観的な証拠などに対しては、「新たな証拠収集には高い壁が立ちはだかる。再捜査は難航も予想される」としているのは、もはやまともな方法では小沢さんを追いつめることが出来ないと、暗に語っているようなものでもある。民主党の議員には、すべて郷原さんが語る論理を勉強してもらいたいと思う。そしてその上で世論に惑わされない判断をして欲しいと思う。民主党の選挙での勝利が、小泉さんのようなポピュリズム頼みだという判断をしないで欲しいと思う。それは、民主党の存在が、自民党と変わらないものだと言うことを自ら認めることに等しい。民主党は、論理的に判断して、世論をリードしていく政党として成長していって欲しい。小沢さんに対する検察審査会の「起訴相当」という議決は、それを見極めるリトマス試験紙としての役割を持っていると思う。
2010.05.02
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