真理を求めて

真理を求めて

2004.01.03
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僕は、学生の頃形式論理学を専門にしていて、その時に三浦さんの「弁証法いかに学ぶべきか」という本に出会った。形式論理学というのは、矛盾を許さない論理学なのだが、弁証法というのは矛盾を分析する論理学だった。形式論理学では、矛盾を認めてしまったら、どんな命題でも認めなければならなくなるので、論理的に考えると言うことがそもそも意味を成さなくなってしまう。だから、初めて弁証法に接したときは、僕はこれは詭弁だと思ったものだった。

三浦さんに出会う以前に弁証法の解説書をいくつか読んだが、そのいずれも納得がいかない詭弁にしか見えなかった。しかし、三浦さんの考える弁証法は、形式論理学では扱えない事柄を、弁証法という考え方で乗り越えていこうとするもので、初めて論理的に納得が出来る弁証法の解説書だった。

形式論理学というのは、その名の通りに、論理の形式を対象にして考察する論理学だ。だから、具体的に内容がかかわってくるような命題に対しては、内容を抽象し、その論理形式のみに焦点を当てて考えるように命題を作り変えなければならない。本質的に、内容を扱うことが出来ない論理学だ。そして、形式のみを考える限りでは、矛盾というものは成立しない。

しかし、存在する物と物との関係を考察したりするなど、論理の対象に存在の内容がかかわってくると、矛盾しているように見える事柄があることが分かる。たとえば、原因と結果の連鎖などを考えるときも、ある事柄の結果が、次の事柄の原因になるということがよくある。そうすると、それは結果でもあって同時に原因でもあるということになる。それは、単なる観点の違いだという考えもあるかもしれないが、事柄の内容まで考えたことで、結果に見えたり原因に見えたりするのである。結果と原因は対立するものであり、同時に成り立つと考えるのは矛盾になる。

形式論理学は、その矛盾を排除するような工夫をして内容も排除してしまうのだが、内容を取り扱えるように、矛盾に対する考え方の方を工夫したものが弁証法のように見えてきた。三浦さんは、現実に存在する矛盾を考察するのが弁証法だと語っていた。現実に存在しない、頭の中で矛盾をくっつけただけの、形式的な矛盾は弁証法の考察の対象ではなく、そのような矛盾を扱えばそれは詭弁になってしまうと語っていた。これは、僕の感覚と同じだったので、三浦さんに学ぶ価値があると思った。

現実に存在する矛盾というのは、その例を見てみると、普通の常識で考えると、そうでないはずなのに、現実には常識に反するような事柄のように見えるという、素朴な疑問を感じるところに現実の矛盾が発見できる場合が多い。後に板倉聖宣さんを知ってからは、このように常識的発想が通じなくなったときに、常識とは違う発想を教えてくれるのが弁証法だという見方を学んだ。つまり弁証法は、論理学というよりも発想法として利用した方がいいだろうということだ。これも、なるほどと思い、板倉さんも学ぶに値する人だなと思ったものだ。

弁証法は、矛盾の分析をするので、常識ではこうだけれど、でもその正反対を考えたらどうなるだろう、というような発想をする。板倉さんは、かなり早い時期に「いじめは正義から生まれる」というようなことをいっていた。当時は、いじめというのは、悪い心から生まれるというようなイメージが強く、心の教育が問題だというような方向が努力されていた。

しかし、いじめのきっかけは、いじめられる人間が全体の価値観を壊したり、一人だけ浮いているという状態から始められることが多い。これは、悪い行いをした人間を、正しい方向へ導くことであるという全体の意志が、その集団の中ではいじめを肯定してしまう意志として働いていくというメカニズムを予想させる。今では、こういう発想をする人がかなり増えてきて、いじめに対しては、むしろこのように考える方が主流になりつつあるのではないだろうか。

個人が個人をいじめるのであれば、個人の心理の問題で、心の教育の問題になるだろうが、学校で大きな問題になったいじめは個人の行為ではなく、集団の行為としてのいじめだった。だから、そこに注目して考えない限り、いくら個人の心の問題を解決するような努力をしてもいじめの解決にはならなかった。



世の中を見ていると暗い気分になるようなニュースに溢れている。どうして暗くなってしまうかというと、本来こうあるべきだと思っている考えに反する事柄が多く出てくるからだ。本来あるべきでなことが起こるというのは、世の中に矛盾が溢れているということではないかと思う。このような時代こそ、その矛盾に対しては弁証法的発想が、暗さを反対の明るさに展開してくれるものになるかもしれない。

そういえば、板倉さんが提唱した仮説実験授業をやっている人々は、学校が無秩序になり、今までのやり方での学習が成立しなくなったと、人々が嘆いているときに全く反対の受け取り方をしていた。生徒たちがようやく自分の好き嫌いを素直に表現してもいい時代が訪れたと喜んだのだ。ようやく自分たちの時代が来たと歓迎していた。仮説実験授業なら、必ず生徒たちに歓迎され、好きなものを選択して勉強するということが普通になったときに、仮説実験授業を選ぶ生徒がたくさんいるだろうと思っていたのだ。

素朴な疑問を感じたときに、弁証法的発想でそのことを分析してみたいと思う。今までの考え方では納得のいく答えが見つからないところに、全く正反対の答えを想定して考えてみたらどうだろうかと思っている。それがもし詭弁になるのなら、従来の方法での解決にまだ期待が残っているかもしれない。全く新しい発想で、新たな方向が見えてくるかもしれない。

従来のやり方で全く解決の方向が見えない問題としては、テロとの戦いに、毅然として武力で立ち向かうという方法ではないだろうか。今日のニュースでも、相変わらずイラクでは誰かが死ぬような事件が起こっている。同じことの繰り返しで、全く解決の方向が見えない。矛盾が覆っているという感じだ。

テロリストは弁護の余地のない悪であるという常識に疑問を提出することは出来ないだろうか。この常識に反することをいったら、それはテロに屈したことになるという考えがある。でも、その考えにとどまっていたら、そこから先へ進む発想は何も出来なくなる。

テロに屈するというのは、テロを口実にした権力の側の権利の剥奪に何も抗議せずに屈してしまうことが、本当はテロに屈したことになるのではないだろうか。際限のない警備のエスカレートによって、正当な容疑なしに、入国に際して指紋押捺が強制され顔写真が撮られるようになるというニュースがあった。正当な容疑があれば仕方がないが、外国人であるという理由だけで一律にそのようなものが強制されるのは権利の侵害ではないだろうか。マイケル・ムーアは、プライバシーが侵されるというのは自由が侵されることだといっていた。テロ対策のためには、これもやむを得ないのだと思ってしまうことがテロに屈することではないのだろうか。

テロに対して、毅然として戦うことは、テロを温存し、結果的にテロに屈する道を我々に開くことになっているのではないだろうか。権力の側はテロに屈していない。むしろテロを利用している。テロに屈しているのは民衆の側なのだ。テロリストはすべてが悪なのではなく、どこかに一理があるのかもしれないという発想が必要なのではないだろうか。それは、テロリストを弁護することではなく、一理があるところでは対話が成立し、暴力を使う必要をなくせると考えられるのではないだろうか。

対話の成立しないところでは、自己主張するには最終的に暴力しかなくなってしまうというのは、学校での体罰の問題や、子供に対する虐待の問題を見ていると感じるところだ。あくまで正義を貫くために暴力を用いるのか、それとも暴力の可能性を減らすために対話の可能性を求めるのか。弁証法的に発想してみたいものだと思う。





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最終更新日  2004.01.03 11:37:37
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