真理を求めて

真理を求めて

2004.02.12
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alexさんのレスにあった「ハト派」と「タカ派」について考えてみた。これはよく知られている言葉なので、共通の了解の元に対話がされていると思う人もいるかもしれないけれど、それは日常語のいわば国語の辞書的な意味で了解されているというにすぎないと思う。

このことである種の議論をしようと思ったら、辞書的な意味にとどまらず、もっと厳密な定義をして、お互いのイメージの領域においてもそれが重なるような前提を作らないとならないと思う。僕は、どちらかというと心情的には「ハト派」に共感をし、論理的には疑問を抱いているというイメージを持っている。自分を、「どちらかと言えばハト派だ」とは言えても、「ハト派の主張をしている」とは思っていない。そのイメージを今日は考えてみた。

まずは、辞書的な意味での「ハト派」と「タカ派」を調べてみた。

ハト派:力によらずに話し合いなど穏やかな方法によって問題を解決しようとする立場の人々。穏健派。

タカ派:力で問題を解決しようとする立場の人々。強硬派。

この辞書的な意味に限定して考えれば、僕はやっぱり心情的にはハト派だろうと思う。しかし、力による問題解決をすべて排除しているわけではないので、純粋なハト派ではない。警察権力が庶民を弾圧するのには反対するけれど、犯罪者に対して断固として力で取り締まるというのには反対しない。ある条件の下では力による問題解決は必要だ。何を犯罪と考えるかという点で同意できれば、警察権力の必要性も分かる。

同じように、自衛隊という軍隊についても、何が自衛かという観点で同意できれば、その必要性も理解できる。問題は、自衛ではなく、国民への弾圧の可能性があったり、侵略の可能性があったりすることへの懸念なのだ。力による解決は、あくまでも万策尽きた後の最後の手段であり、それまでは可能な限り対話という穏やかな解決を考えるべきだという点で、僕はハト派なのだと思う。

ハト派のイメージの悪さについては、ハト派は問題の本質を見ないで、問題を回避するというものがありそうな気がする。それは、力による解決が避けられない場合でも、それを受け止めることなく、話し合いによる妥協をはかるために、いつでも大幅な譲歩をするような軟弱な取引をしてしまうと言うイメージだ。宮台氏的な表現を借りると、「ノーテンキな憲法9条信奉者の護憲派」と言うことになろうか。

憲法9条さえ守っていれば平和が守られるというのは、現実が言葉に従うという幻想から抜けられない考え方だ。実際には、言葉は単なる空想である場合が多く、現実を正しく反映していなければ、その言葉には裏切られる。憲法9条は少しも変えられていないのに、現実は憲法違反の自衛隊派遣がどんどん進んでいるという状況を見ると、言葉が現実を規制する力を失っているということが感じられる。



「朝鮮の中立宣言は、実に近来の滑稽だが、駐フランス朝鮮公使は、ヨーロッパの真ん中でなおこの滑稽を繰り返し、念入りに語って曰く。「日露開戦の場合、朝鮮は厳正中立を守るつもりだから、断じて両国の会戦地たるを許さぬ。もしこれがため朝鮮の主権を侵害されるようなことがあらば、列国に愁訴(=嘆き訴える)するつもりだ」と。滑稽もここに至ると少々気の毒になる。」

板倉さんは、このことについて次のように書いている。

「「中立」を宣言しても、<自分でその中立を実現できなければ、それは滑稽なだけだ>というわけです。この戦争の時、日本軍は大軍を韓国に上陸させて、そこからロシアの大軍がいる清国東北部=満州に向かったのでした。世界の国々が弱いものいじめをしていた当時は、中立を宣言しても、それを守ることは大変なことだったのです。」

この当時の状況は、まさに言葉だけで平和を維持することは出来なかった時代だったのである。こういうときに、純粋なハト派的な方向を主張しても、非現実的と思われてしまうだろう。付け加えておくと、日露戦争というのは、直接戦争をしたのは日本とロシアだったが、戦場になったのはそのどちらの国でもない。それは植民地を巡る戦争だったからだと板倉さんは語っている。

また、ハト派のイメージの悪さは、ダーティさと結びついているようなところもある。道路族とつながっている自民党の野中さんと古賀さんは、ダーティなハト派の代表みたいな人だ。この二人は、自ら戦争を体験していることもあり、頭ではなく体と心で戦争に反対するものを持っている。

ここでちょっとだけダーティなハト派の弁護をしておくと、ハト派は、穏やかな方法で物事を解決しようとしているものをさすが、それはある種の人間的な優しさがあるからであって、それが弱者救済という方向にも感じられる。しかし、ハト派は、だいたいが持てる者として生まれてくることは少ない。自分でたたき上げて力を持って、それを背景に弱者への配慮をしていく人が多い。たたき上げる過程では、ダーティな部分へ手を染めないと、なかなか上へ上がれないという部分があるのを感じる。目的のための手段の不当性を批判しなければならないが、これはなかなか難しいことだなと感じる。

以上のように、ハト派にはイメージの悪さが重なっているので、これが気になる人はハト派に共感できないかもしれない。僕は、このイメージの悪さがあっても、なお心情的にはハト派に共感するという立場だろうか。現実主義的に、ダーティさも戦略的に位置づけられるハト派が出てくれば、僕はそのハト派には大いに共感するだろうと思う。一見ハト派を裏切るようなハト派に見えるかもしれない。

さてタカ派への批判もしておかなければならない。僕は心情的にはタカ派へ賛成が出来ないからだ。タカ派は、辞書的な意味では、力による解決を先行させると言うことになっている。僕は、この強引さがある種差別的に働くような懸念を持っている。

タカ派はクリーンなタカ派と呼ばれることが多い。それはなぜクリーンかと言えば、最初から富める者・持てる者が多いので、ダーティなことをする必要がないからだ。彼らは、力があるのは自分たちが正しいことを意味すると思っているのではないかと感じる。いわゆる勝ち組と呼ばれる人間はタカ派的になりそうな気がする。勝ち組は、自分たちが優れていて努力するから勝っているのであって、その結果を享受するのは当然だと思っている。

その一方で、負け組と呼ばれる人々を、努力が足りないのであるから、苦しい生活をしていてもそれは自業自得だというような発想でとらえる。そういう弱者は助ける必要がなく、そこからはい上がってくるだけの実力のある人間だけに援助をするというのが、タカ派の基本的な姿勢のように見える。ここにある種の差別意識を感じる。

これは、そう単純に割り切れる問題ではなかろうと思う。負け組というのが、本人の努力が足りないために生まれるのではなく、システムが必然的にそれを生み出すのだとしたら、システムを変える努力をする方が人間的だろうと思う。



タカ派の考えでは、これらの恨みが積み重なって起こってきた様々な問題も、力で押さえつけて解決を図ろうという方向がまず取られる。アメリカのネオコン的な政策がその最たるものだろう。

タカ派に対する批判の根底は、世の中を単純に見すぎているというものに対する批判だ。テロに対しては断固として戦うというような言葉にそれを感じる。断固として戦うというのは、一見かっこいいみたいに見えるが、それしか方法がないと言うことだ。全く柔軟性がなく、物事を単純な二分法で考えていく。その先にあるのは、自分の破滅か敵の破滅があるだけだ。争いをなくして共存しようという発想が見えない。

以上のタカ派に対する批判は、もっとも純粋なタカ派に対する批判だ。ハト派にしろタカ派にしろ、純粋な形のものは、やはり過ぎたるは及ばざるがごとしと言うことで、極端なものは間違いだと思う。

議論の形としては、一般論として上のことが了解できるかどうかを検討し、それを基礎にして具体的な存在であるハト派とタカ派への言及に進んでいくことが、多少は実りのある方向へ行くのではないだろうかと思っている。具体的な存在に対する議論は、必ずしも一般化された特徴がそのまま出てくるのではないから、具体的な存在をよりよく理科することが出来れば議論の価値もあるのかもしれない。それへの賛成・反対が必ずしも一致しなくても、議論をすることに価値が出てくるかもしれないと思っている。





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最終更新日  2004.02.12 09:10:50
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