真理を求めて

真理を求めて

2004.04.27
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自己責任論が世界の非常識というのは、世界がそれを嗤って(わらって)いるから非常識だというのではない。論理的には、

 世界中で嗤われている → だから自己責任論は非常識だ

というのとは逆に、

 自己責任論は非常識だ → だから世界中で嗤われている

というのが論理的には正しい。世界の民主主義国家の教養ある人たちは、論理的な判断をすることが出来る。だから、自己責任論の中にある非論理性を読みとって、そこに非常識さを見るので、それをあえて論じ立てる日本政府やラウド・マイノリティを嗤うのである。

それでは、どこが非常識なのか、論理的な矛盾を導きながら考えてみよう。

まず次の言い方の中の非常識を抽出してみよう。

「危険なところに自分で行ったのだから、自分の判断に対しては自己責任だ。何が起ころうと自分で何とかしなければならない。」

自己責任が云々され始めたのは、世の中が不況になり、ハイ・リスクでハイ・リターンな投資がもてはやされ始めた時代だったらしい。このときの自己責任というのは、ハイ・リスクという危険を承知で、自分の判断でそれを選び取ったのだから、その危険から生じる事態は自分で引き受けなければならないという自己責任だった。



ここで問題にしたいのは、両者の自己責任の正当性をもたらす「危険」の種類についてである。投資における自己責任をもたらす危険は違法なものではない。未来を正確に見通すことが出来れば避けることのできる危険である。見通すことが難しいから、その危険に遭遇する確率が高いということはあるけれども、危険にあうのは、自分の能力が足りないからだということに反対する人はいない。だからこそ自己責任を追及されても納得するのである。

しかし、誰かが犯罪的な手段を用いて危険を生じさせた場合はどうなるだろう。詐欺によってだまされて投資した場合に、その詐欺を見抜けなかったおまえが悪いのだから、損をするのは自己責任だと言って、その詐欺を放置するだろうか。詐欺を行ったものを、犯罪者として裁き、その責任を取らせようとするのではないだろうか。詐欺を行ったものにも責任を担わせ、すべてを自己責任にはしないのではないだろうか。

もしすべてを自己責任にするのであれば、それは詐欺という犯罪を放置することであり、犯罪を容認することになる。国家が犯罪を容認したら、国民の安全が脅かされるのではないか。「危険をあえて自分で選択した」ということだけで、その危険の中身を問うことなく自己責任を問うということは、このように論理的には犯罪を容認することになる。深く考えのない個人が感情的にこのような論理を使っても大した影響力はないが、国家がこの論理で「自己責任論」をまき散らせば、国家としての責任を放棄していることを宣言しているようなものだ。だから非常識であって、世界中から嗤われるのである。

人質になった5人の日本人は、未来の危険を予知できなかったという点に関して、自己責任を負うべき部分がどこかにあるかもしれない。しかし、それは事実をもっと明らかにして、一つ一つ詳しく検討した後に言えることだろう。この段階で言えることは、彼らが遭遇した危険が、彼らの責任になるべき部分が始めから明らかになっている種類のものかどうかを論じることが出来るだけである。

誘拐という行為は犯罪行為である。その犯罪に遭遇した彼らの、危険に対する責任は、その大部分を彼らが負うべき性質のものであろうか。冬山の遭難とのアナロジーで考える人もいるようだが、冬山の遭難は、誰かの犯罪的な行為で起こる事件だろうか。自分が冬山の現実を読みとれなかったという、自分の能力に関する責任が大きいから、自己責任を追及されるのではないか。もし誰かが、冬山なんて大したことはないとだまして連れて行って、その上で遭難したら、遭難した人よりも、だました人間の方の責任を大きく問わなければならないのではないか。冬山の遭難で今回の人質事件の自己責任を論じることが出来ると考えるのは、その構造を理解していないことを露呈しているだけではないか。

彼ら5人に全く責任がないというわけではないと思う。危険の予知ということでの失敗があったからこそ誘拐という事件に巻き込まれてしまったのだから。しかし、この予知の失敗というのは、彼らがすべて責任を負うような失敗ではない。予知のための情報に間違いがあれば、その情報の提供者にも責任がある。そして、もちろん犯罪の当事者である犯人の犯罪に対する責任が最も大きいはずだ。だからこそ政府は、国家としての義務として犯罪者から彼らを守らなければならなかったのだ。

日本国憲法には思想・信条の自由があり、それで差別されてはならないという条項がある。だから、人質になった彼らが、どんな考えを持っていようと、それによって国家が守るか守らないかという差別的な扱いをしてはいけないのである。国家にたてついていたから守らなくていいのだというような論理は、憲法違反なのである。このような事件で、国家が誰かを守るために動いたなら、どんな国民であろうとも守らなければならないというのが国家の義務なのである。もしも、彼らを守らなくていいのだというのなら、逆にどんな国民でも、同じように自己責任を問わなければならないのだ。

イラクでは二人の外交官が殺された。痛ましい事件だったが、彼らはティクリットという非常に危険な地域に、しかも占領軍のために働くという、これまた非常に危険な仕事をするために行っていた。この大きな危険にもかかわらず護衛がいなかった。これは、危険を軽視したミスではないのだろうか。このミスに対してどうして自己責任を問わないのだろうか。この不平等の底にある感情というのは何だろうか。

日本政府が、人質になった彼らに自己責任を問うというのは、誘拐という犯罪の責任を被害者に背負わせるということである。これは、逆に言うと、誘拐という犯罪の責任を問わずに、犯罪者を放置し、犯罪を容認することでもある。政府は、自らが「テロリスト」と呼んでいるものたちの行為を容認するのだろうか?

人質になった人々は、自衛隊派遣に反対し、自衛隊撤退を主張していたから、「テロリスト」に近く、彼らを容認しているという非難もあったが、論理的には、政府こそが「テロリスト」を容認しているのではないか。結論的には、これが一番大きな矛盾であり、これが導かれるような「自己責任論」だから世界中から嗤われるのである。

政府が何度も繰り返す「テロに屈しない」という言い方にも論理的なおかしさを感じる。今回犯人の要求に従って自衛隊を撤退したら、これは「テロに屈した」事になるだろう。問題は「要求に従って」と判断する部分を単純に受け取る事への疑問だ。スペインは、列車爆破テロをきっかけに撤退への流れが始まった。これは「テロに屈した」事になるのだろうか。そう判断するのは単純すぎると思う。テロをきっかけにして撤退したとしても、その撤退の構造がすべて同じようには見えない。明日は、このことをちょっと詳しく考えてみようかなと思っている。





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最終更新日  2004.04.27 08:41:01
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