k-nanaさん

間違ってはいけないのは、いまの日本政府が語っている「自己責任論」は、世界の非常識だと言うことです。「自己責任論」一般が間違っているというのではありません。

それが正しいか正しくないか、それは条件に寄るのですから、その条件を正しく見極めましょうというのが僕の主張です。

リンクを張ってもらって、定期的な読者になってもらえるというのは嬉しいことです。またおいでください。 (2004.04.29 15:49:14)

真理を求めて

真理を求めて

2004.04.27
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
自己責任論が世界の非常識というのは、世界がそれを嗤って(わらって)いるから非常識だというのではない。論理的には、

 世界中で嗤われている → だから自己責任論は非常識だ

というのとは逆に、

 自己責任論は非常識だ → だから世界中で嗤われている

というのが論理的には正しい。世界の民主主義国家の教養ある人たちは、論理的な判断をすることが出来る。だから、自己責任論の中にある非論理性を読みとって、そこに非常識さを見るので、それをあえて論じ立てる日本政府やラウド・マイノリティを嗤うのである。

それでは、どこが非常識なのか、論理的な矛盾を導きながら考えてみよう。

まず次の言い方の中の非常識を抽出してみよう。

「危険なところに自分で行ったのだから、自分の判断に対しては自己責任だ。何が起ころうと自分で何とかしなければならない。」

自己責任が云々され始めたのは、世の中が不況になり、ハイ・リスクでハイ・リターンな投資がもてはやされ始めた時代だったらしい。このときの自己責任というのは、ハイ・リスクという危険を承知で、自分の判断でそれを選び取ったのだから、その危険から生じる事態は自分で引き受けなければならないという自己責任だった。



ここで問題にしたいのは、両者の自己責任の正当性をもたらす「危険」の種類についてである。投資における自己責任をもたらす危険は違法なものではない。未来を正確に見通すことが出来れば避けることのできる危険である。見通すことが難しいから、その危険に遭遇する確率が高いということはあるけれども、危険にあうのは、自分の能力が足りないからだということに反対する人はいない。だからこそ自己責任を追及されても納得するのである。

しかし、誰かが犯罪的な手段を用いて危険を生じさせた場合はどうなるだろう。詐欺によってだまされて投資した場合に、その詐欺を見抜けなかったおまえが悪いのだから、損をするのは自己責任だと言って、その詐欺を放置するだろうか。詐欺を行ったものを、犯罪者として裁き、その責任を取らせようとするのではないだろうか。詐欺を行ったものにも責任を担わせ、すべてを自己責任にはしないのではないだろうか。

もしすべてを自己責任にするのであれば、それは詐欺という犯罪を放置することであり、犯罪を容認することになる。国家が犯罪を容認したら、国民の安全が脅かされるのではないか。「危険をあえて自分で選択した」ということだけで、その危険の中身を問うことなく自己責任を問うということは、このように論理的には犯罪を容認することになる。深く考えのない個人が感情的にこのような論理を使っても大した影響力はないが、国家がこの論理で「自己責任論」をまき散らせば、国家としての責任を放棄していることを宣言しているようなものだ。だから非常識であって、世界中から嗤われるのである。

人質になった5人の日本人は、未来の危険を予知できなかったという点に関して、自己責任を負うべき部分がどこかにあるかもしれない。しかし、それは事実をもっと明らかにして、一つ一つ詳しく検討した後に言えることだろう。この段階で言えることは、彼らが遭遇した危険が、彼らの責任になるべき部分が始めから明らかになっている種類のものかどうかを論じることが出来るだけである。

誘拐という行為は犯罪行為である。その犯罪に遭遇した彼らの、危険に対する責任は、その大部分を彼らが負うべき性質のものであろうか。冬山の遭難とのアナロジーで考える人もいるようだが、冬山の遭難は、誰かの犯罪的な行為で起こる事件だろうか。自分が冬山の現実を読みとれなかったという、自分の能力に関する責任が大きいから、自己責任を追及されるのではないか。もし誰かが、冬山なんて大したことはないとだまして連れて行って、その上で遭難したら、遭難した人よりも、だました人間の方の責任を大きく問わなければならないのではないか。冬山の遭難で今回の人質事件の自己責任を論じることが出来ると考えるのは、その構造を理解していないことを露呈しているだけではないか。

彼ら5人に全く責任がないというわけではないと思う。危険の予知ということでの失敗があったからこそ誘拐という事件に巻き込まれてしまったのだから。しかし、この予知の失敗というのは、彼らがすべて責任を負うような失敗ではない。予知のための情報に間違いがあれば、その情報の提供者にも責任がある。そして、もちろん犯罪の当事者である犯人の犯罪に対する責任が最も大きいはずだ。だからこそ政府は、国家としての義務として犯罪者から彼らを守らなければならなかったのだ。

日本国憲法には思想・信条の自由があり、それで差別されてはならないという条項がある。だから、人質になった彼らが、どんな考えを持っていようと、それによって国家が守るか守らないかという差別的な扱いをしてはいけないのである。国家にたてついていたから守らなくていいのだというような論理は、憲法違反なのである。このような事件で、国家が誰かを守るために動いたなら、どんな国民であろうとも守らなければならないというのが国家の義務なのである。もしも、彼らを守らなくていいのだというのなら、逆にどんな国民でも、同じように自己責任を問わなければならないのだ。

イラクでは二人の外交官が殺された。痛ましい事件だったが、彼らはティクリットという非常に危険な地域に、しかも占領軍のために働くという、これまた非常に危険な仕事をするために行っていた。この大きな危険にもかかわらず護衛がいなかった。これは、危険を軽視したミスではないのだろうか。このミスに対してどうして自己責任を問わないのだろうか。この不平等の底にある感情というのは何だろうか。

日本政府が、人質になった彼らに自己責任を問うというのは、誘拐という犯罪の責任を被害者に背負わせるということである。これは、逆に言うと、誘拐という犯罪の責任を問わずに、犯罪者を放置し、犯罪を容認することでもある。政府は、自らが「テロリスト」と呼んでいるものたちの行為を容認するのだろうか?

人質になった人々は、自衛隊派遣に反対し、自衛隊撤退を主張していたから、「テロリスト」に近く、彼らを容認しているという非難もあったが、論理的には、政府こそが「テロリスト」を容認しているのではないか。結論的には、これが一番大きな矛盾であり、これが導かれるような「自己責任論」だから世界中から嗤われるのである。

政府が何度も繰り返す「テロに屈しない」という言い方にも論理的なおかしさを感じる。今回犯人の要求に従って自衛隊を撤退したら、これは「テロに屈した」事になるだろう。問題は「要求に従って」と判断する部分を単純に受け取る事への疑問だ。スペインは、列車爆破テロをきっかけに撤退への流れが始まった。これは「テロに屈した」事になるのだろうか。そう判断するのは単純すぎると思う。テロをきっかけにして撤退したとしても、その撤退の構造がすべて同じようには見えない。明日は、このことをちょっと詳しく考えてみようかなと思っている。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2004.04.27 08:41:01
コメント(9) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


Re:「自己責任論」はどこが非常識か(04/27)  
k-nana  さん
こんにちは。

自己責任論は非常識だ → だから世界中で嗤われている

全くその通り、と思います。
というか、始めからどうにも恥ずかしい対応でした。

日記リンクさせてくださいませ。 (2004.04.28 00:08:32)

Re:「自己責任論」はどこが非常識か(04/27)  
愚痴浪人  さん
k-nanaさんの勧めで参りました。
気になる点をいくつか・・・。

>世界の民主主義国家の教養ある人たちは、論理的な判断をすることが出来る。
日本も民主主義国家ですが・・・。

>もしすべてを自己責任にするのであれば、それは詐欺という犯罪を放置することであり

日本政府は拉致テロリストを批判していないわけではありません。

>その詐欺を見抜けなかったおまえが悪いのだから、損をするのは自己責任だと言って、その詐欺を放置するだろうか。

詐欺で損害を受けたのが被害者で有るケースならそうです。しかし、日本政府は詐欺師・被害者と無関係の第三者的立場であるにも関わらず、10億円以上の損害を被っております。その公平な負担を被害者の「過失」の程度に応じて負わせるのが公平であるというのが自己責任論でありまして。
詐欺などなどの犯罪を度外視するわけではありません。
例えば、詐欺師・被害者で過失の割合が8:2ならば被害者たる三人に2割の自己負担をさせるのは公平でしょう。彼らは日本政府の救出行為の受益者であり、一般国民より過分の受益(10億なんて普通は支出してもらえません)の範囲で負担をするべきでしょう。
いわば、二重の絞り込みをした上で公平な負担をするべきだろうと思います。 (2004.04.28 21:52:04)

民主主義について  
秀0430  さん
愚痴浪人さん

書き込みをありがとうございました。質問の答は、質問の近くにあった方がいいと思い、これの答の方を先に書かせてもらいます。

>日本も民主主義国家ですが・・・。
……
僕が主張しているのは、「教養ある人たちは、論理的な判断をすることが出来る」ということなので、日本がたとえ民主主義国家であっても、教養のない人は論理的な判断が出来ないということも言えることです。つまり、いま日本で「自己責任論」をまき散らしている政治家たちは、自らの無教養を証明していると、僕は受け取っています。

日本が民主主義国家であるというのも、僕は、それは形式面でいうとそうかもしれないけれど、内容面の実質は伴っていないということを強く感じます。

政治家が無教養であるというのは、「自己責任論」は、自らの「無責任」を言い逃れするためのものであるのに、その政治家が「自己責任論」を語るという厚顔無恥な態度に僕は無教養を感じるわけです。

まとめるとわかりにくくなりますから、ご質問には一つずつ分けて答えることにしましょう。 (2004.04.29 09:44:49)

テロリストへの批判  
秀0430  さん
愚痴浪人さん

>日本政府は拉致テロリストを批判していないわけではありません。
……

「自己責任論」が犯罪者を放置し、容認するというのは、論理的な帰結として言えることであって、現実がそうだといっているわけではありません。

日本政府が語っている「自己責任論」は、不当に重い責任を被害者にかぶせるものです。実際には、被害者を犯罪者から守るというのは、国家に責任があるものだと思いますが、自分で危険を承知していたのだから、自分で何とかしろというのは、犯罪者が何をしようと国家は関知しないということに、論理的にはつながってきませんか?

現実に政府がテロリストを批判しようが、言葉では何でも言えるわけです。しかし、基本的な論理として「自己責任論」を主張するのであれば、論理としては、犯罪者を放置し容認することになるというのが僕の主張です。

むしろ、本当にテロリストを批判するのであれば、人質になった人々が、たとえ反政府的な人たちだったとしても、断固としてテロリストに対するのだと、被害者である人質の責任を云々するよりも前に、犯人としてのテロリストへの批判を強く打ち出すべきではないでしょうか。僕には、政府がテロリストを批判している言葉は抽象的な一般論にすぎないもので、何ら具体的に今回の事件に対して批判していないように見えるのですが。 (2004.04.29 09:58:14)

費用の負担について  
秀0430  さん
愚痴浪人さん

詐欺の比喩で僕が語った事柄は、犯罪によって被った被害に対しても、「自己責任論」を適用して、それは自分で何とかしなさいと放置することが論理的に正当かどうかと言う問題です。それによる現実の被害を誰が補償するかということは語っていません。それは、別の問題として論じるものでしょう。

詐欺の場合は、犯人の側に補償をさせるべきで、政府が肩代わりするものではないでしょう。もちろん、被害者が泣き寝入りするものでもないと思います。犯人に対して、その被害を補償させるように権力を発動させるのが国家の役割でしょう。

今回、人質になった人々を救うためにかかった費用を誰が負担するかという問題は、本当の意味での「自己責任論」を展開して決定すべきでしょう。被害者の本当の「自己責任」にかかわる部分に、それ相当の費用を請求するのは、被害者も納得するでしょう。

そのためには、政府の方も、どういう事にどれくらいのお金がかかったのをすべて公開すべきでしょう。それを一つ一つチェックして、本当に被害者の側に責任があるかどうかを厳しく評価すべきだと思います。 (2004.04.29 10:10:19)

Re[1]:「自己責任論」はどこが非常識か(04/27)  
秀0430  さん

Re:「自己責任論」はどこが非常識か(04/27)  
と、言う事は、○村議員の反日分子発言も
憲法違反に問われますよね?
自分たちが作った年金制度を複雑すぎるとか、
未納は犯罪では無いと言ったり、
憲法に抵触する様な発言を平気で行なっている
政府というものは、一体何なのだろう?
一つ質問です。
亡くなった書記官と大使は、自発的に行ったと言うよりも、仕事で行かざるを得なかった、とすれば、
装備や地域の責任はあるとしても、
その面での自己責任も問われると
お思いでしょうか?
3人との比較では、自ら危険を承知で行ったことと、
仕事でいかざるを得なかったことでの
責任の対比において言うとですが。 (2004.04.29 20:40:12)

Re[1]:「自己責任論」はどこが非常識か(04/27)  
秀0430  さん
喜客アキンドさん

問題の議員が、政府の政策に対して影響を与えるような位置にいて、思想・信条によって差別的扱いをすべきだということが、具体的に出来てしまうような状況にあれば、それは憲法違反になるんじゃないかと思います。憲法というのは、国家権力を縛るために国民が示した意志ですから、それに反するような動きを国家権力の方が示すのならば、やはり憲法違反でしょう。憲法違反にしないためには、憲法を改正しなければならないですが、思想・信条によって差別してもいいというようなのは、憲法「改正」になるのかどうか、と思います。非常識を嗤われるだけじゃないでしょうか。 (2004.04.30 08:38:15)

自己責任について  
秀0430  さん
喜客アキンドさん

殺された二人の外交官に対しては、「自己責任論」者の論理を使えば、自ら危険を選び取ったのだったら「自己責任」だということになります。でも、本当はいやなんだけれど、命令だから仕方なく行ったということなら「自己責任」ではないことになりますね。こういう解釈をすると、「自己責任論」のばかばかしさがいっそう際だちます。

彼らが使命感で行こうと、仕事だからということで嫌々行こうと、行ったこと自体の自己責任は、それだけでは問えません。彼らが当然つかんでいてもいいはずの情報を知らなかったり、普通の思考力を持っていれば予想できる危険を全く考えてもいなかったら、そのことに対して自己責任が生じると思います。しかし、イラクの地が、本物のエキスパートでなければ生き残れないような土地だったら、彼らを派遣した側も責任を負わなければならないでしょう。普通以上の高い能力を要求される場で、普通以上の能力を持てといわれても、これは過大な要求だと思います。

人質になった3人の自己責任に関しても、イラクで要求されていた能力というものがどの程度のものだったかを検証しないとならないと思います。政府の退避勧告は、どの程度の危険を知らせていたものでしょうか。武装グループが拘束するかもしれないから、それに備えて準備をしておけなどということが伝わるような勧告だったのでしょうか。もし、そんなことを想定もしていなかったのなら、それに対して自己責任を問うというのは、過大な要求過ぎるんじゃないかと思います。

安田さんの記者会見を見ましたが、安田さんは、事態に対して十分冷静に対処していたように感じました。安田さんは、自己責任を果たしていたと思います。彼は、自分の能力で危機を脱したというのが、記者会見を聞いていてよく分かりました。 (2004.04.30 08:42:23)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

コメント新着

真の伯父/じじい50 @ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 現行憲法も自民草案も「抑留」に対する歯…
秀0430 @ Re[1]:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) 穴沢ジョージさん お久しぶりです。コメ…
穴沢ジョージ @ Re:自民党憲法草案批判 5 憲法34条のロジック(02/03) ごぶさたです。 そもそも現行の憲法の下で…
秀0430 @ Re[1]:構造としての学校の問題(10/20) ジョンリーフッカーさん 学校に警察権力…

フリーページ

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: