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真理を求めて
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2004.06.26
哲学者の真理論への批判
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真理を誤謬との統一で捕まえなければならないと主張する三浦さんは、哲学者の真理論がそうなっていないことを批判している。哲学者の語る真理は、一般論としての真理が多いので、普遍的に「すべて」の場合に通用すると考えがちなのだろう。しかし、論理的に「すべて」と言ったら、文字通り「すべて」という無限の対象を相手にすることになる。実際にはそういうことはあり得ない。真理は、いつでも具体的・特殊的な、時と所と場合(状況)にかかわって真理となっているに過ぎない。それが真理である前提を常に意識しておかなければならないのだ。
三浦さんは、まず高橋庄治氏の「人民の哲学」の一節を引用して批判している。引用部分は次のものだ。
「真理とは、物と観念との一致、原像と模像の一致したとき、その観念、その模像を真理というのです。
一口に真理といいますが、真理という言葉の中には、3つの意味が含まれております。真理は、客観的真理であり、相対的真理であり、そして同時に、絶対的真理であるのです。……真理は、個人の意見とか、個人の感想とか、あるいは空想とか、虚像というようなものと、はっきり自分を区別しております。……すべて真理は客観的真理です。真理の基準というのは、真理の客観性の基準なのです。……その意味で、真理の基準は存在ではないのです。」
哲学的な文章になれていない人は、上の文章でも難しく感じるかもしれないけれど、他の哲学的文章と比べると、上の文章はたいへんわかりやすい。だからこそ、高橋氏のこの本は、戦後まもなくベストセラーになったんだろうと思う。少なくとも、意味のとれない部分はあまりない。
分かりやすいと言うことは、我々の普通の経験にはよく合致すると言うことだ。だから、経験をそのまま教訓にしてしまうと、ここに書かれていることの誤謬には気づかない。なるほどと思ってしまう。しかし、深く考えてみると、この文章を単純に信じてしまってはいけないことに気づくだろう。
まず、言葉の定義の問題がある。哲学書が難しいのは、日常言語とは違う厳密な意味を言葉に持たせて考察の対象とするからだ。それは、間違いのない思考をするためなのだ。日常言語的な意味を受け取ると、そこに張り付いているイメージを引きずって、判断の段階で、定義していないことをこっそり持ち込むことがあるからだ。これは、自分の主張に都合のいいものなので、こっそり持ち込んだことに自分で気づくのはかなり難しい。
三浦さんの批判は、高橋氏が、「主観と客観とを「一致」させて、すべての真理を客観的真理にしてしまった」と言うところをまず指摘する。ところが、高橋氏には、主観と客観がどのように「一致」するかという定義がない。どのように「一致」したときに、その主観が真理と呼ばれるかという、判断が具体的に書かれていない。これは、経験的・常識的に受け止めるしかない。頭の中に描いたイメージという像が、外に存在しているものと一致したときに、それを真理と呼ぶのだろうか。
真理と呼ぶには、それが「一致」したということを間違いなく判断しなければならないのだが、その判断が正しいという保証はどこから得られるのだろうか。錯覚と言うことはないのだろうか。錯覚と真理とをどう区別したらいいのだろうか。
しかし、その区別の方法については言及していない。どうすれば正しく区別できるのだろうか。客観性というのは、普通は自分の意思とは関係なく存在が証明できるときに、客観性を持つと言うことになるだろうか。「思う」だけでは「存在」は得られない。自分が思うか思わないかに関係なく、その存在が証明されれば「客観性」を持ったと言えるだろう。
それでは、客観性が証明されさえすれば、そこに真理が得られるのだろうか。確かに、そこに客観的な物がある、という判断の正しさを主張することが出来るだろう。しかし、それ以外の属性に関しては、いかに客観的な物が存在しようと、その存在だけでは何も言えないのではないだろうか。存在に対して、何らかの属性があることを主張したりするときには、その「関係」を判断できなければならないのではないだろうか。
たとえば、「イラクに自衛隊がいる」と言うことは客観的に主張できる真理になるだろうが、「自衛隊が人道復興支援をしている」という、自衛隊の属性に関する判断は、存在を主張するだけでは真理であることが証明できない。それは、自衛隊とイラクの人々との関係を判断して、この主張が真理であるかを判断しなければならない。
このことを三浦さんは、「すべての真理を客観的真理にしてしまったから、真理の基準が存在すなわち客観との関係如何で決まることは考えられない」という批判をしている。そして、客観という物は、主観でしかないものを取り違えるという間違いは考えられるけれど、一度客観であると判断したものは、それはもはや主観ではあり得なくなる。そうなると、「真理は「はっきり」区別されて、移行などない」と言うことになり、三浦さんが主張するように、真理は誤謬に転化すると言うことが思考の中から抜け落ちる。
実際には、真理の基準は、誤謬との関係で決まってくるもので、存在との関係で「逸脱」というものがあった場合に、真理は誤謬に転化する。だから、「逸脱」がないかどうかの判断が真理を確定し、誤謬と区別する鍵になる。ある条件の範囲内ではそれが真理だと言うことになるのであって、条件を逸脱すれば、真理は誤謬になる。
自衛隊の「人道復興支援」というものも、まず「人道復興支援」というものの定義を明確にしなければ、その条件を確定することが出来ないだろうと思う。表面的に行われていることをあげて、これが人道復興支援だと「事実」をあげても、それは少しも「人道復興支援」が真理であることの証明にはならない。
それは、もし「人道復興支援」というものが真理であれば、現実の中にそれが現れてくる例を拾ってくることが出来る、ということを示すものであって、前提として「人道復興支援」が真理であるということを前提にして導き出すものであって、考えが逆さまなのであると僕は思う。
どのような行為が「人道復興支援」であるかという共通理解があって、そのことを実際に自衛隊が行っているという客観的事実が見つかって、ようやく「人道復興支援」が真理であることが証明されるのだと思う。始めに定義があって、その定義にふさわしい事実があることによって証明がされる。事実を拾ってきて、それを解釈してもなんの証明にもならない。
給水活動が「人道復興支援」になるかという徹底的な議論があって、それが共通理解になったときに、給水活動をしている自衛隊が「人道復興支援」をしているということが真理になる。給水活動が「人道復興支援」であるという共通理解がないのに、給水活動をしているから「人道復興支援」だというような主張をしても、その客観的事実だけから、このことが真理であるという判断は出てこない。
真理の判断というのは、客観性という単純なものではない。高橋氏の主張はわかりやすいが、ちょっと難しい問題にぶつかってしまうと、このように判断を間違える場合が出てくると思う。
真理の主張は、正しいことを主張していればそれですむと単純に思ってはいけないと僕は思う。真理は、そのままで誤謬に転化する。正しさは永遠のものではない。問題は、その正しさが、どのような条件の下で成立するかと言うことだ。真理の主張が完全になるのは、その真理が誤謬に転化する条件を理解したときに、完全な真理すなわち「絶対的真理」になるのではないかと思う。
・アメリカのイラク攻撃は不当な侵略である。
(どのような状況の下で攻撃がされ、その影響、戦後の状況などを考えたい。)
・小泉内閣の「改革」は本質的なものではなく、問題を先送りにしただけだ。
(「改革」が、どのようなねらいを持っているもので、現実にどのような効果が現れているかをよく見ていきたい。)
・多国籍軍への参加は、日本を戦争に巻き込ませる道であり、平和を守ることが出来ない。
・年金の問題は、政府与党の方法では、権益を温存し、破綻を先送りにするだけで、誰も責任を取らない方向を持っている。
その他、問題が複雑なので、まだ真理としてはっきりした考えは持てないが、問題意識を持って今後も眺めていきたい問題は次のようなものだ。
・教育の問題が、日本社会に与えている影響について。教育に間違いがあるから、信じられないような事件が起こったり、政治への無関心が蔓延したりするのだろうか。それとも、教育は、他の影響を受けているだけで、他の何かが変われば教育も劇的に変わりうるものだろうか。
・著作権法という法律は、創造をする人間の利益を守るためのものだと思ったのだが、実はそこから生まれる権益を守るために作られているのではないだろうか。アーティストの利益よりも、それを売り買いして儲ける者たちの利益を守るために機能しているのではないだろうか。かえって、アーティストの創造性を殺す作用をしていないだろうか。
・憲法というものの現実的な意義について。憲法9条を守ると言うことの意味。言葉を変えなければ守れるのか。本当に守らなければならないのは、その意志ではないか。憲法意思というものをもっと深く考えてみたい。合わせて改憲の意義についても考えたい。
・連帯することの意義・意味について考えたい。連帯することは、共感を基礎にしてつながることだと思うが、共通の利益によって連帯すると言うことが現実には多いようだ。しかし、今の時代に、果たして共通の利益などということがあるのだろうか。共通の利益で連帯するのなら、強い力を持つものは、はっきりとした共通の利益があるので、強者は連帯しやすいだろう。共通の利益ではない、何か(共感?)で連帯をすることが出来るだろうか。
・最後の奴隷制である民主主義を越えることは出来るか。国家が制定する法律は強制力を持っている。民主的な制度で制定された法律は、それにたとえ反対であっても、それに従わなければならない。これが「奴隷制」と言われる所以だ。連帯して組織を作ったときも、組織の決定に対しては、たとえ反対であっても従わなければならない場合がある。
主体性を持った民主主義というものは可能だろうか?組織の決定と違う方向に動いても、それが許容される場合というのは想定できるだろうか。組織嫌いの僕としては、これがあるから、なかなか組織に参加することを決意できないところがある。
現実というのは、常に新しい問題を生み出してくれる。今思いついただけでも上のような問題が浮かんでくるのだから、今後、頭を使うための対象に困ることはないだろう。こう言うのを娯楽に出来ると、人生には退屈すると言うことがない。今日も一日、こういうことを考えながら楽しむことにしよう。
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最終更新日 2004.06.26 10:44:30
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